2025年11月14日金曜日

断想: 社会体制は「所与」ではなく「選択」の結果ということ

政府に与えられた課題には三本の柱がある。

  1. 統治能力の維持
  2. 財政
  3. 国防
この三つだと思っている。

二番目の財政だが、財政が破綻するとき、つまり財政赤字の膨張が制御不能になるとき、国家が維持できないという点は何度も投稿している。その財政規模はその国の経済に依存するから、財政は従属変数である。故に財政需要を賄うためには、その前提としてマクロ経済を成長させなければならない。市場的要素と計画的要素をどのように混合するかという点は、年金や医療の社会保障のあり方で現代日本が混乱しているのは周知だが、それでも本来は枝葉末節の事柄(の一つ)に過ぎない。

三番目の国防だが、これも従属変数であって、国防の具体的内容はその国の外交に依存する。外交に失敗すれば国防はより困難になる。逆は逆だ。

財政と国防を満足すべきレベルで進めるのが有能な政府であるのは理の当然で、これが最初の《統治組織の能力》になるのだが、統治組織は大きく民主主義的統治と権威主義的統治に二分される。「権威主義的統治」が君主制や独裁制と言われなくなったのは、例えば共産党の一党独裁のようないわゆる「人民独裁」もありうるからだろう。

民主制、君主制と、いずれにしても財政と国防を巧みに行えば、国民は安心して暮らせるというのは、たぶん永遠の真理だと小生は思う。前にも投稿したことがあるが、先験的に、つまりそれ自体として民主主義が善いとか、君主制はよいとか、そのような議論は虚妄である。

つまり民主制と君主制という区別は、世間でよく語られているように善か悪かではなく、目的合理的な《選択》である、と。そして、どう選択するかは、その時代の環境、科学技術、価値観等々、色々な因子が働いて社会的に決まってくる。そう思っているのだナ。

政府の進める財政(金融も)政策、国防方針が、その国の経済状況、安全保障環境や外交環境といった《政治目標》の達成にどのように寄与するか?その時代、その時代で、民主的な統治組織が成功するための十分条件なり必要条件はあるし、立憲君主制的な、あるいは専制的帝政といった統治組織にもやはりそれがうまく行く条件がある。その条件を探求することが、本来は政治学に期待される問題なのであると思う。

残念ながら、経済学における「比較経済体制論」のような専門分野は政治学にはないように見える ― 政治学には門外漢の小生の勉強不足かもしれない。

高校の世界史の授業を思い出すと、歴史上の王朝国家、帝国や王国が破綻する契機として、しばしば戦争での敗北が挙げられる。対外戦争や内戦など軍事上の敗北によって国が消滅するのは、高校生にとっても実にわかりやすいが、それが外交上の失策によってもたらされたことを理解するのは、少々高級な問題意識である。まして、その前に財政事情が悪化していた事に意識を向けることが出来たのは、クラスの中でも少数であった。

そして、このような「統治上の失敗」は、いわゆる権威主義的国家でも、民主主義的国家でも、どちらでも起こりうる失敗なのである。歴史の授業に意義があるとすれば、このことを10代のうちに理解することではないだろうか?実際、現代世界においても不安定な統治状況はその国の社会体制が民主主義か権威主義かという単純な二分論とは関係なく発生している。民主主義か権威主義かによらず腐敗する政府は実際に腐敗している。

カギは、どちらの国家が統治上の失敗を起こしにくいか?この一点につきる。会社が発展していくかどうかは、常に現状を評価しながら社内体制を変革していくことが欠かせないし、プロ・スポーツのチームを編成するときには「どんな体制にすれば勝てるチームになるのか?」。有能なオーナーならこれを考えるはずだ。人間集団には《目的》があるものだ。その目的を社会全体の視点から探してみると、結局は「平和」と「豊かな暮らし」の二点に落ち着くはずである。目的を意識しない社会は漂流している。目的を意識できない政府は無責任であって無能である。これだけは言えるのではないか。

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

もちろん上でいう「選択」とは、社会的選択であって集団的選択である。故に、誰一人として自分が選択したという自覚を持つことはない。それでも特定の結果として社会が変わっていく以上、それはその時に生きている人間集団が全体として選んだという理屈にはなるのである ― ほかに議論のしようもあるが、今日は一応ここまでで。

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