2024年6月9日日曜日

先日投稿の補足: 出産・育児数に応じて基礎年金を増額すれば「家族」の代替にはなる

ついこの間までは、「コロナ」という言葉を聞かない日はなかったのが、今は「うら金作り」で一日が暮れている。政治資金規正法改正案の骨子が出て来れば、今度は「企業団体献金をなぜ禁止しないのか」と。そして、足元では「こんな情況になったのも、ジェンダーギャップが日本に残っているからだ」と。「女性が登用されていればこんな不祥事はなかった」と。今朝のワイドショー(あるいはニュース解説?)でも、メキシコに登場した初の女性大統領・クラウディア・シェインバウムがいかに期待できるかという話しでもちきりでありました・・・

それほど女性政治家に期待が持てるならば、何故マーガレット・サッチャー元・英首相を話題にしないのか?

一言も触れない。時代を変えた大政治家で、しかも女性であった。サッチャーを避けるのは奇妙だろう。そう思いました ― マ、番組編集側にとって、何か都合の悪い面があるのだろうとは伝わってくるが。

こんな風な朝で、とても快いという訳にはまいりませぬが、先日の投稿に一つ補足。

家族と生産活動とが切り離されて、純粋の消費単位になった現代の家族にとって、出産・育児は所得を割く対象であって、自分たちの所得を生む活動ではなくなった。

つまり出産・育児は、労働資源の再生という点では社会的投資であるのに、マイクロな当事者の立場からみると投資ではなく、純粋の消費となる。

経済学では私的利益と社会的利益を乖離させる《外部経済・外部不経済》が授業でも必須のテーマになっているが、出産・育児は水道や道路などの社会資本に勝る外部経済性がある。全ての家庭が面倒な出産・育児を回避すれば、1世代後の30年後には全ての国民が困窮するわけだ。故に、社会的に観れば、出産・育児ほど不可欠の社会的投資はない。

このロジックに沿えば、少子化の基本的原因は私的動機と社会的動機の乖離にあるのだから、その乖離を解消すればよい。これが問題解決につながるという理屈になる。

例えば、国民年金(=基礎年金)をその年度の税収で賄う完全賦課方式に改正したうえで、

$$B = 30 + 50 \times N_c $$

という具合に、出産・育児数($N_c$)に応じて、基礎年金額が増額されるという方式にすればよい。但し、上の式の金額単位は万円、$N_c$は成人まで育てた子供の人数、$B$は基礎年金額である。

税収で賄う年金であれば、年金の原資を生み出す国民は、親世代が生んで育てた子世代である。子供たち全体が親全体を老後に養うとすれば、上式のような決定方式が理に適っている。

仮に上式に沿って決定されるとすれば、一人の子供を育てた両親は父母それぞれが80万円、二人合計で160万円。二人の子供を育てれば父母それぞれが130万円、二人合計で260万円となる。育児数がゼロである世帯は、夫婦合計で60万円を受給する。労働資源再生に直接的には参加していないが、だから寄与もゼロとは言えないだろう。

もしも国民年金という制度がなかりせば、(被用者の厚生年金を強制貯蓄とみなせば)自分が貯めた資産、でなければ育てた子供が継承した生産活動か、もしくは仕送り金で親世代は暮らすわけである。家族と生産が不可分であった農村社会で家族が果たしてきた役割を代替するとすれば、日本社会全体を疑似家族とみなして、上のように運営するのも一法であろう — 社会主義の香りがするが個人のインセンティブに着目している点から区別される。

現代の先進国が少子化に悩んでいる根本的原因は《都市化》と《消費社会》にあると観ている。昔の農村社会には戻れない以上、プラスであった一面を取り戻すのも一つの解決策である。あと、もう一つ別の方法があるとすれば、やっぱり国家経済計画当局に重要事項決定を委ねる《真正の社会主義》でしょう・・・強権的な資産課税、経済格差の強権的な是正は、確実に少子化の歯止めになると思う ― とはいえ、少子化対策として社会主義体制に移行するのは正に「目的外使用」というものだろう。絶対にうまくは行かない。


その世帯の生活水準に応じて、基礎年金額をどう決定するか、細部の詰めが残るのは当然である。夫婦が離婚したときはどう算定するか、子が成人前に死亡した時はどうするかなど、細部の論点は残るが、いずれも<解答可能な問題>であろう。

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