2026年4月1日水曜日

断想: エビデンスねえ~~~「真理」にエビデンスは要りますかという話し

今日は細かくて詰まらない話だ。

SmartNewsは広範囲の報道情報を集めるポータルサイトとしてとても役に立つ。というのは、Yahoo! JAPANニュースはスポンサー記事が増えすぎて、その広告過剰には辟易しているのだ。

情報提供側の経営目的は広告を流すことにあり、目的は報道ではない。この理屈は分かるが、ユーザー側の目的は情報にある。ここに報道ビジネスの根本的矛盾があるのだが、自分で情報を得る手間が惜しいなら他にイイ方法があるわけではない。

で、オヤッと思ったのが次の下り:

田久保・元伊東市長の私文書偽造罪、要するに偽の卒業証書を市会議員に公然と見せた件だ。

「嘘も100回言えば真実になる」

これはナチス・ドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダの手法を評した言葉だ。

厳密にはゲッベルス自身がこの一文を発したという一次情報はないものの、彼の思想を“意訳”したものとして現代に伝わっている。

Source: SmartNews

Date: 2026-4-1

Original: テレビ静岡

最近このような文章、というかもっと広く色々な場面でこういう妙な《なお書き》を付けた説明振りを見ることが多い。

まず感じたこと。

「厳密には」というナオ書き。要るかナア、と思います。

妙にくどい。

何が言いたいのか?

自信がないなら、そもそも書くなという気にもなる。

要するに、元ナチスのゲッベルス宣伝相の発言だとあなたは推定しているのか、いないのか?いるなら、そう書いておけばいい?いないなら、ゲッベルスの名前など出さない方がいい。仮にゲッベルスがこのセリフを口にしていたという「一次情報」が得られたとしよう。音声データまで奇跡的に出てきたとしよう。だからと言って、この言葉でゲッベルスがゲッベルスの思想を語った事の証明にはならない。誰か第三者が口にしたセリフをゲッベルスが借用したにすぎないという可能性も否定できないからだ。この場合はゲッベルスが「この一文を発した」とは言えないはずだ。その第三者もまた別の人から聞いただけかもしれない。

結局、一次情報もエビデンスも得られようはずがないのである。

この辺、ビジネススクールの最終プレゼンなら、必ずツッコミが入る所だ。

多分

エビデンスは何もないのですが、これは科学の論文ではなく、単に別の本題を語る「報道」ですので、修辞として読んでください。

こういう趣旨なのだろう、と受け取りました  ―   一次情報の形でエビデンスが手元にあるわけではありませんが。

思わず連想してしまった。こんな言い方が、今という時代の定型表現なら

右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい

『新約聖書』の「マタイ伝」にこう書かれているが、これにも「なお書き」が要る。

なお、聖書のこの部分は、イエス・キリストの弟子のマタイが書いたとされているキリスト伝で、イエスがそう言ったと書かれているだけですから、厳密にいえば本当にイエスがそう言ったという音声データが一次情報として残っているわけではありません。イエスの思想をマタイが意訳したものとして現代に伝わっているわけです。

こんな理屈になる。

というか、そもそもイエス・キリストは(おそらく?)地元の言語であるアラム語で説教をしていたはずとされている。なので、最初に新約聖書が書かれたギリシア語は、それ自体が「意訳」であって、要点は「意訳」であるのか、ないのかは大したことではないという点にある。

しかし、イエス・キリストがそう語っているかが不明であるという点に、上の筆者なら非常にこだわるかもしれない。何だか「本人がそう語ったわけではない」のであれば、そう語ったとされている事の価値がウンと下がると思っているのかしら?そうとも思える。

だとすれば、イエスは日本語で説教などしたはずがないから、日本語の聖書は100%意訳で、イエスの言葉として有難がるのはおかしいという理屈になる。

だから、何だというのだろうか?

言葉とは何だろう?

言葉に価値があるのか?

言葉に含まれた意味が価値をもつのか?

バイブルは全編が伝聞である(はずだ)。行動した本人の言葉は残っていないことが多い。パウロの手紙は掲載されているが、本当にパウロ本人が手紙を書いたの?そんな疑問を持つ人は多かったに違いない。

パウロの手紙って、パウロ本人が書いたのじゃないとしたら、価値がないの?

こう問いたいところです。

日本に浸透している大乗仏教は、釈迦が活きた時代と大乗経典が編纂された時代には大きな隔たりがあって、大乗仏教は「仏教」とは言えないと指摘する学者もいるくらいだ。

厳密には、中国伝来の仏教は仏教にあらず。というか、インドに赴いた唐僧・玄奘(三蔵法師)が持ち帰った経典は、インドにおいて既にオリジナルの仏教ではなかった。厳密にはこう判断するべきだろう。

だったらそれは何なのだろう?

小生は、それでも信仰に基礎づけられているなら、それは仏教であると解釈する立場にいる。「真理」は最近の世間で言われる「エビデンス」が決めるのではなく、理性と論理から確定してくるものである。

というか、理性に反しているがエビデンスがあるので「真理」と認めざるを得ないような「真理」は語義矛盾であって、理性に反している場合は「このエビデンスは誤りである」と結論するしか人間には選択肢がない。そう思っているし、実際に自然科学の発展史を振り返ると、そんな風に発展してきたと思っている。

非合理的な真理は最初から排除されているわけだ。

そもそも存在論として、20年前の私と現在の私が同じであると断定していいのだろうか?

物質的身体は、20年前とは別の素粒子、分子、細胞から成り立っている。それでも同じ人間だと自己認識しているのは、同じ幼少時の記憶をもち、継続性を意識しているからだ(といわれる)。

しかし、20年前の自分の記憶と現在の自分の記憶と、厳密に同じ記憶であると立証されているのだろうか?

定期的にDNAデータを保存すれば、生化学的に同一身体であるかどうかは検証できる。しかし、同一の物質的身体に宿っている精神的実体、意識+潜在意識と言い換えてもいいが、20年前と現在とで同じであると、どう同定(identify)すればよいのだろうか?「一次情報」など得られようがないのではないか?

そもそも《エビデンス》とは何か?上の引用文で出て来る「一次情報」はエビデンスという集合に含まれる要素の一つとして使われているのだろう。

平成から令和になって目立つのだが、《エビデンス》がない命題は疑うべきだ、と。

思うのだが、人間の認識にエビデンスなどはないことの方が多い。そう思う。

ピタゴラスの定理が真理であると考えるエビデンスはどこにあるのか?

実際、アインシュタインは宇宙はユークリッド空間ではなく非ユークリッド空間であることを理論化した。だから、厳密には「ピタゴラスの定理」にはエビデンスがない(ことが分かった)。しかし、ユークリッド空間を仮定すればピタゴラスの定理は自動的に真である。これにエビデンスなどはない。

何かといえば「エビデンス」を求める姿勢は、科学的なフラグランスを醸し出す効果はあるが、実はよ~~~く聞いていると、相手の言い分が正しいというエビデンスがないという根拠から、それ即ち自分が正しいことの証明である、と。どうもこんなロジックを展開している。

ずっと以前にも投稿したことがあるが、

太陽が地球を回っているという天動説には経験から明らかなエビデンスがありますよね。地動説にエビデンスはありますか?ないでしょう。

こんな議論を真面目にしていた時代はあったはずだ。

滑稽である。

人類の知的進化はエビデンスの蓄積を合理的に説明できる純理性的推論による。単にエビデンスにマッチさせる理論は、往々にしてヴィジョンなき愚かな理論である。事実を説明する理論は無数に提案できるが、大半は幼稚で拙いものだ。真理をつく理論は美しさを有すると言われる。しかし、エビデンスの方から教えてくれるわけではない。真の知識はエビデンスがさきにあろうが、なかろうが、最初から真である。

なので、エビデンスは要りますかという問いは常に有効であると思っている。エビデンスの必要性は文脈によるのだ。

今日は《反証可能性》や《モデル選択》の話しをすれば十分だったかもしれないが、書きたいことを書いているうちに長くなってしまった。つまらなくて細かい話である。

2026年3月31日火曜日

断想:私には分かりません ≒ 記憶にございません

昨日、こんな記事をSmartNewsで目にした:

毎日新聞は28、29の両日、全国世論調査を実施した。高市早苗首相が、米国のイラン攻撃についての国際法上の評価を避けていることについて「支持する」が33%、「支持しない」が36%と意見が分かれた。「わからない」も29%あり、有権者に迷いも感じられる。

Source: SmartNews

Original: 毎日新聞

Date: 2026年3月30日

確かに高市首相は《アメリカ・イスラエル枢軸 vs イラン》戦争に関して、

首相は国会で「詳細な事実関係を十分把握する立場にないことから、確定的な法的評価は行っていない」と答弁した。

こんな報道がされている。

要するに、アメリカ=イスラエル枢軸のイランに対する先制攻撃が国際法に違反しているか、更に戦争犯罪に該当するかは、(事実関係がよく分からないので?)「分かりません」と答えている。

これをみて、(今となってはずいぶん昔の)《ロッキード事件》を思い出した。国会でこの問題が集中審議されたとき、証人喚問された日航、丸紅など関係企業経営陣は核心に迫る質問に対して全て

記憶にございません

と、鸚鵡のごとく繰り返していたものだ。この『記憶にございません』というセリフは、進退窮まった時に大変便利であるせいか、その後に色々な事件の重要参考人の常用する言葉にもなったわけで、こう考えると「ロッキード事件」というのは田中角栄という稀代の民衆政治家による《総理の犯罪》が追求されたにとどまらない、いわば日本社会全体のモラル感覚にも大きな傷跡を残した事件でもあったと思う。

まして、この事件の一連の展開そのものが、中国傾斜、アラブ傾斜を強める田中政権に鉄槌を下すことを目的に、アメリカ政府が計画した陰謀(?)であったと今もなお囁かれているのだから、ロッキード事件の発生と解決の仕方は戦後日本体制の不健康さを象徴する事件でもあったと、小生は勝手に思っている。

「戦後日本社会」は根本的タブーの上に成立している。それを露骨に言ってはならない。裏が腐っていても表は綺麗にしておけ、と。率直には生きられない。建て前をマナーの名のもとに強要される。守らなければマスメディアからバッシングされる。とはいえ、そんな生活感覚が時に疼くことがある。

戦後日本の特徴はこの辺にあると思っている。

「記憶にございません」と「私には分かりません」という対応は何と似ていることだろう。

それはいま聞かないで!

言葉で伝えようとしている主旨はそのまま重複していると感じるのは小生だけだろうか?

今朝、カミさんとこんな会話をした

小生: それにしてもアメリカって国は、太平洋戦争が終わってから、いったい何回戦争しているだろうね?朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン・・・他にも米軍が動いた紛争は無数にあるなあ・・・こんな好戦的な国は世界でアメリカだけだね。

カミさん: 平和な国じゃないのは確かだね。

小生: 昔あったソ連もソ連軍を使って力で抑えたことは多かったけど、のべつまくなし常に戦争をしているのはアメリカだけだよ。

カミさん: 超大国ってどこもそうなるのかなあ・・・?

小生: 19世紀の帝国主義の時代には大砲と軍艦で外交をやったのが西洋だからサ、そんなDNAがあるんだろ。反対に、中国は平和志向だ。歴史的にも中国の歴代王朝は対外侵略するより異民族から侵略される頻度のほうが多かった。とにかく国として物騒ではないな。これはアメリカと中国の行動履歴を比べてみれば誰でも分かる。日本では不思議なほど対中警戒心が強いけど、中国の方から軍を動かした紛争は、ほとんどない。どれもが「国境紛争」で、ある意味、典型的な武力衝突なんだけど、やるかやられるかという「戦争」じゃあない。大体、孫子の兵法でも上策は「戦わずして勝つ」で、「兵を動かして戦う」というのは下策とされている、そんなお国柄だからね。

カミさん: そうなの?あんまりイイ印象はないけど。 

小生: 日本は竹中半兵衛のような「策をめぐらす」というのが苦手だから、中国には苦手意識が強いんじゃないかネエ?国のサイズも違うし、謀略戦、情報戦の持久戦になると、どうしたって大国の方が小国より有利だよ。それと日本では右翼の宣伝がきいてる。ほんと、国内向けに宣伝するより相手の調査・諜報にもっとエネルギーを割くべきだと僕は思うんだけど、ネ。一部の過激派の宣伝は眉唾だと思って、いまはChatGPTとかGeminiとか、AIを誰でも使えるんだからサ、調べてもらえばいいのさ。そうすりゃ、とんでもなく間違うってことはなくなるよ。それにしても、何で日本人はAIに警戒心をもっているのかねえ。これまた七不思議だ。

カミさん: 得たいが知れないしサア、AIの指示通りに動いていたら、いつの間にか悪くなったり、戦争になったりするんじゃない?

小生: 逆だと思う。AIで戦争が起きるってことは先ずないな。いま世界で最も危険な国はアメリカさ。アメリカに睨まれたら危険極まりない。総理大臣がいつ殺害されるかわからん。天皇陛下がいつ拉致されるかも分からん。西部劇の保安官みたいなもンだ。正義の味方だと思ってるから始末が悪い。AIはモンスターじゃないよ。人間が造るものだからね。怒りや感情とは無縁だ。理性そのものだよ。それに思考には制約を課すことも出来る。怖いのはバカとハサミの方さ。

The New York Timesの最後のコラム記事でPaul Krugmanはこう書いていた。

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。指導者を信じられる時代は終わったのだ。何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ。 

この下りは以前の投稿でも引用したことがある。

有権者が選んだ人物を公の新聞紙上で《最悪》と表現できるところがアメリカ社会の良さと言えば「良さ」である。杓子定規な日本ならとてもこうは言えない(はずだ)。

最悪な人物を選挙で選ぶこともある。民主主義の失敗の一例として記憶されるのが、足元の「いま」という時代である。


ただ、最悪の人物を偶々選んでしまったのだというシンプルな理解を超える大きな危険性が、アメリカ合衆国という国には潜在している。これもまた真理であるかもしれない。

民主主義に本質的に潜んでいる危険性かもしれない。そうでないかもしれない。


古代ローマ帝国の盛期である《五賢帝時代》は、名君マルクス=アウレリウス帝の後を暗愚な息子コモドゥス帝が世襲したときに終わった。コモドゥス帝の(暴君とは必ずしもいえない)暗君ぶりと悲惨な最期は歴史が示す通り。そのあと、ローマ帝国は不安定な軍人皇帝時代に入り、ディオクレティアヌス帝が再び安定を取り戻すまでに100年を要したのである。そして、安定を取り戻したあとのローマ帝国は皇帝専制の度を強め、以前の輝きまでが戻ることはなかったのである。

世襲による君主制は選挙がないので暗君が出現すれば腐敗する。しかし、暗君、暴君による災害は、庶民までには害が及ばないこともあり、君主の贅沢は庶民には有難いことも多い。もしも君主の暴虐に多数の臣下が「耐えられない」と感じれば、「殿、ご乱心」と押し込め参らせ、嫡男に相続させることで案外早期に片付けられると、小生は勝手に評価している。これに反して、民主主義の失敗は君主制の失敗よりは低頻度であるが、いざそれが失敗すると修正しようがなく、その災害規模は未曽有の規模になりうる。

こんな風に漠然と思ったりしているのだが、どんなものでござんしょう。


高校野球は監督で決まる。企業はトップで決まる。国の盛衰は指導者で決まる。トルストイの歴史観とは違うが、一人の指導者の優劣で社会全体が決まる側面も、確かに人間社会にはある。

下手な指揮者が指揮するオーケストラを連想すればイイ。下手な指揮者は勝手に棒を振らせておき、無視を決め込んで、自主演奏する方が好い演奏になるものだ。

民主主義のロバストネスが現れるとすれば、こんな時だろう。


2026年3月25日水曜日

ホンの一言: 民主主義の変質はグローバルに進行中?

ロシア=ウクライナ戦争勃発を契機にまるで「ゾンビ」のように活動を再開したいわゆる「西側陣営」だが、どうやら政治的にも、社会的にも危機に瀕している模様だ。

それは西側社会のコアを為すはずの《民主主義(=Democracy)》という価値観、というか理念が揺らぎ始めているという兆候だ。

英誌"The Economist"が先ごろ次のような記事を掲載した。ヘッドラインは

Westerners are fleeing their countries in record numbers

欧米諸国からの脱出が記録的な規模で進んでいる

Source: The Economist

Date: Mar 22nd 2026

URL: https://www.economist.com/finance-and-economics/2026/03/22/westerners-are-fleeing-their-countries-in-record-numbers 

というものだ。

少し抜粋しておこう:

アーダーン・ニュージーランド首相といえば、2020年から21年にかけての世界的コロナ禍の時期、その進歩的な行政手腕から特に日本のマスコミでは高く評価されていた人物である。ところが:

After stepping down as New Zealand’s prime minister in 2023, Jacinda Ardern took up a role at Harvard University. Now she is based in Sydney. Ms Ardern’s decision to live abroad has struck a nerve with Kiwis, who were already worried about high levels of emigration.

記事は首相の座を降りてからシドニーに居を移し、ハーバード大学の為に仕事をしているという、こんな近況報道から始まっている。記事全体の趣旨は、いま西側先進国で激増(?)している国外移住者についてである。

Three factors explain the rise of the expat economy. First, the pandemic normalised the idea of geographical arbitrage. 

海外在住者経済の台頭には3つの要因がある。第一に、パンデミックによって地理的裁定取引という概念が一般的になった。 

日本国内では住み心地の良い適地を求めて自由に人が移動しているが、それが国境をまたぐ形で進んでいるというものだ。コロナ禍によるリモートワーク普及がこの動きの背中を押しているとも指摘されている。次は税制である。

Taxes are the second factor. 

誰しもその国でずっと暮らさないなら、付加価値税(=消費税)であれ、所得税であれ、税率は低ければ低いほどよい。また、残り時間が少なく、ブーメランの心配のない高齢者ならば、今年支払う税金を減らしたいのは自然な心理だろう。移住するかどうかで移住先の税制を考慮するのは当然だ。

日本国内でも住民税を含め地方税を個々の自治体が完全に自由に決めることが出来るとすれば、「ふるさと納税」の普及をみても、どこに住むかは税と保険料次第という状況が来るだろう。物価の高い首都圏の独り勝ちにはならないのは確実だ。例えば、農水産物(とエネルギー)を含めすべての商品の価格に「県域外出荷税」をかけるとすれば、大都市圏と地方圏のどちらが先に音をあげるか?論証するまでもなく帰結は明らかだろう。一定量の農産物をわざわざ低価格で出荷する動機は生産元の方にはない。価格カルテルが自然発生するであろう  ―   農産物貿易が完全自由化されれば、その時はまたどんな進行になるのか、色々なモデル化ができると思うが。

三番目の理由が本日投稿の主旨かもしれない。

Third, politics play a role. Many of the Americans who waltz around Hampstead dislike Mr Trump. Many of the Britons who have moved to Dubai detest “Keir Starmer’s socialist Britain”. Conservative Canadians, now living through their 11th year of centre-left Liberal rule, are looking elsewhere. All these different examples, though, are a subset of a broader process—the growing sense among Westerners of all political persuasions that politics is broken. 

第三に、政治が影響している。ハムステッドを闊歩するアメリカ人の多くはトランプ氏を嫌っている。ドバイに移住したイギリス人の多くは「キア・スターマーの社会主義イギリス」を嫌悪している。中道左派の自由党政権が11年目を迎えた保守派カナダ人は、別の場所を求めている。しかし、これら様々な例はすべて、より広範なプロセス、つまり、あらゆる政治的信条を持つ西洋人の間で政治が機能不全に陥っているという認識が高まっているというプロセスの一部に過ぎない。

政治が壊れるという現象は、何も君主制、寡頭制、独裁制、社会主義等々、政体を問わずどの国でも起こりうるということだ。

Their exit “went along with a deterioration of democracy in their home countries”, the authors find. 

 著者らは、彼らの出国は「母国の民主主義の悪化と並行して起こった」と結論づけている。

何も非民主主義的になったのではない。善い民主主義から悪い民主主義へと変質しつつあることを感じているからこそ、母国を見捨てるわけである。

実際、現世代は《民主主義》の創立世代ではなく、単なるユーザー世代である。「ユーザー」というのは、往々にして、不具合や動作異常に対してはお手上げ状態になるものだ。不平を述べることは出来ても、問題を解決できるだけの知識も経験もないものなのだ。

同じ趣旨の観方は実はIMFも持っているようで、それをF&D Magazineで書いている。

The world’s largest economy is in a precarious fiscal position, with a debt-GDP ratio poised to breach its historic post–World War II high. But unlike in 1946, there is no large peace dividend from reduced defense spending to rescue public finances. Demographic factors are pushing spending even higher through the continuing expansion of old-age entitlements, and there seems little prospect of avoiding large deficits and higher debt, even if economic conditions remain favorable.

世界最大の経済大国である米国は、財政的に不安定な状況にあり、対GDP債務比率は第二次世界大戦後最高水準に迫っている。しかし、1946年とは異なり、国防費削減による大きな平和配当は財政を立て直す助けにはならない。人口動態の変化は、民主主義の圧力を通じて、高齢者給付を拡大させ続ける。たとえ客観的には経済状況が良好であるとしても、巨額の財政赤字と債務増加を回避できる見込みはほとんどないのだ。

Source: IMF F&D Magazine

Author: Alan J. Auerbach

Date: March 2026 

URL: https://www.imf.org/en/publications/fandd/issues/2026/03/point-of-view-americas-perilous-fiscal-path-alan-auerbach

多数派の要求に正義があると前提するのが民主主義である。というより、「世論」には「正義」があると解釈しなければ、現代民主主義を運営できない。その大前提の下では、

無理を通せば道理が引っ込む

という社会状況がもたらされることになる。

これも《民主主義の失敗》への認識を示唆しているだろう。

小生思うのだが、もし幕末の時代、世論調査をすれば明治新政府は「攘夷」を推し進める以外に道はなかったはずだ。その当時、日本に民主主義がなかったことが近代日本への道を開いた。

Krugmanはトランプ政権を「反逆者」呼ばわりするに至っている。それは、イランに対して

48時間以内にホルムズ海峡を開放しなければ発電所を破壊する

という脅迫をしたあと、結局は5日間延期すると表明したいつものTACOに戻った事に関連している。

実は、最初の声明から延期方針の声明までの短い時間内において、石油の先物価格がイレギュラーな乱高下を示したというのだ。データはYahoo! Financeから採られているようなので、日本のマスコミ各社も確認可能であったはずだ。Krugmanはこう書いている。少し長いが引用しておこう:

This “sharp and isolated jump in volume” — which you can see for the oil futures market in the chart at the top of this post — was especially bizarre because there were no major news items — no major publicly available news items — to drive sudden big market transactions. The story would be baffling, except that there’s an obvious explanation: Somebody close to Trump knew what he was about to do, and exploited that inside information to make huge, instant profits.

This wasn’t the first time something like this has happened under Trump. There were large, suspicious moves in the prediction market Polymarket before previous attacks on Iran and Venezuela. But this front-running of U.S. policy was really large: the Financial Times estimates the sales of oil futures in that magic minute Monday morning at about $580 million, and that doesn’t count the purchases of stock futures.

When officers of a company or people close to them exploit confidential information for personal financial gain, that’s insider trading — which is illegal. But we have another word for situations in which people with access to confidential information regarding national security — such as plans to bomb or not to bomb another country — exploit that information for profit. That word is “treason.”

この「急激かつ孤立した取引量の急増」(この記事冒頭のチャートで原油先物市場について確認できる)は、特に不可解でした。なぜなら、突然の大規模な市場取引を引き起こすような、主要なニュース(一般に公開されている主要なニュース)が一切なかったからです。この出来事は不可解に思えますが、明白な説明があります。トランプ大統領に近い人物が、彼がこれから何をしようとしているのかを知っており、その内部情報を利用して莫大な利益を瞬時に得たのです。

トランプ政権下でこのようなことが起こったのは今回が初めてではありません。イランとベネズエラへの攻撃前にも、予測市場であるポリマーケットで大規模かつ不審な動きが見られました。しかし、今回の米国の政策先読みは、これまで以上に大規模でした。フィナンシャル・タイムズ紙は、月曜朝のあの瞬間の原油先物取引額を約5億8000万ドルと推定しており、これは株式先物取引の買い越し額は含まれていません。

企業の役員やその近しい人物が、機密情報を個人的な金銭的利益のために利用することは、インサイダー取引であり、違法行為です。しかし、国家安全保障に関する機密情報(例えば、他国を爆撃するか否かの計画など)にアクセスできる者が、その情報を利益のために悪用する状況を表す言葉は他にもあります。それは「反逆罪」です。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: Mar 24, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/treason-in-the-futures-markets 

この疑惑は、本日いま時点で、すでに日本でも報道されているから、ひょっとするとアメリカで大炎上するかもしれず、いまは大統領が抑えるとしても今秋の中間選挙で共和党が大敗すれば、大統領弾劾への動きが始まり、ト大統領に近い人たちは(最悪の場合)逮捕されるのではないかと予想しているところだ。

民主主義と資本主義は相性が良い。しかし、この二つが並立すると、どうしても公私の関係については

私 > 公

公共のために個人の権利を抑えることは不可。私権を尊重する大前提の下で公益を追求せよ、と。そんな姿勢が是認されがちである。

小生は、現時点では『公という観念は虚妄である』と考えているから、公益のためには私権を制限するのは当たり前だという価値観には与しない。公共部門は可能な限り小さくあるべきだと云うのが小生の信じる立場である。

貧困救済も福祉向上も、何も公共部門を設置しなくとも、個人間の利益と自由契約、さらに私的な協力行為(ゲーム理論で言う結託)に基づいて社会的な問題は自然に解決されるはずである。現代の「国家」は、私的な実力行使を禁ずるとともに、私的な福祉行為をも(事実上は)禁止し、余裕のある経済力は所得再分配という大義の下に徴税によって国家が吸い上げるべきだというイデオロギーを肯定している。「公」の内部が腐敗するのは私有財産を供出させる公的権力があるが為である。というより、「公」を具体化する「公的組織」はそこで活動する人間の私的利益の集合である。

これが小生の近現代社会観である。

いやしくも《公》という観念に見合うものが実在するというなら、公には公の倫理があるはずだ。公の倫理は利益動機とは異なるべきだ。また、公の為に私を制限する状況があるのも当たり前である。個人としては「公」は好きではないが、論理はこうなる(はずだ)。利益動機は私人だけにしてほしいものだ。私人に加えて、公である国家までが国益を求めるなど公私ダブルで強欲である。何も儒学を再興せよとは言わないが、「公」はもっとハイレベルであるべきだ。強欲な国は実に見苦しい。そう感じる次第。

最後は社会哲学的になってしまった。難しい。


いずれにせよ、とにかくトランプ政権は剣呑だ。どうなっても日本に火の粉が飛んでこないことを祈るばかりだ。

本ブログでも最近は民主主義の虚妄性を投稿することが増えているが、どうやら世界規模で思想の揺らぎ、理念の変質が進行中であるようだ。


2026年3月22日日曜日

断想: この世は舞台、すべて人は平等な役者仲間

最近のビッグ・イシューということなら

  • 先ごろワシントンで行われたトランプ・高市会談
  • WBC準々決勝における対ベネズエラ戦敗退
(アメリカ社会はまた違うと思うが)世間の関心度、注目度からして、この二つなンだろうと思う。

かたやトランプ大統領から『アメリカ=イスラエル陣営(=米以枢軸軍)に味方せよ』と強引に押し切られ、危ないと承知しながらも自衛隊(≒国防軍)をペルシア湾に遠征させるか?そのための特別措置法案を提出するのか?正に国運がかかってくるわけであります。かたや(たかが?)プロ野球の(さして巨額の賞金がかかっているわけでもない?)国際戦である。どちらが日本国民の命運を左右するかといえば言わずとも明白。それでも日本人の関心を広く集めたのは、ひょっとするとトランプ・高市会談の行方ではなく、日本が一時ベネズエラを逆転した試合の結果のほうであったかもしれない。

国際政治もプロ野球の国際戦もどちらも普通の日本人にとって思い通りになる対象ではない。どちらも手の届かない空中戦だ。とはいうものの、仮に高市首相がトランプ大統領の機嫌を損ね、以前のゼレンスキー・ウクライナ大統領のように見送りもされず足蹴にされるがごとくにホワイトハウスを後にするという、そんな哀れな情景がもしも放送されれば、さすがに日本人の大多数はそれをみて激怒したのではないだろうか?その度合いは、ベネズエラ戦で伊藤大海投手が逆転3ランホームランを打たれたことに対する罵詈雑言とは質の違うものではあったに違いない。

普通の日本人大衆にとっては、首相と米大統領との会談もプロ野球のWBCもサッカーのW杯も、はたまた毎年秋に公表されるノーベル賞受賞者発表も、映画のアカデミー賞受賞者発表も、すべては《同じ》なのじゃあないか、と。そうも感じているのだ、な。 詰まるところ、シェークスピアが『お気に召すまま』の登場人物に語らせているように

All the world's a stage
全てこの世は舞台
一人一人の日本人にとっては世間も浮世も自分が生きている一場の芝居のようなものである。とすれば、トランプも高市も、大谷も山本も、皆々すべて同じ舞台の上で、ほんの短い時間を自分と共に過ごす役者仲間のような存在ではないか。

物質的身体が機能を停止した後、身体を動かしていた精神的本体がどこに往くのか、それは誰もしらない。輪廻によってこの世に帰ってきているのかもしれないが、別の身体に生まれた後は前世のことは全て忘れると見える。だとすれば、余計にいま共にこの世で同じ空気を吸っている衆生一切に自分との縁を感じるのだ・・・そんなことかもしれない。

その意味では政治も暮らしも娯楽も、病気も子育ても、何もかもが同じ意識の中で平等に意識されるのだ・・・まあ、そんな風に思っています。

2026年3月18日水曜日

断想: 理性よりは情が重んじられるのは分かりますが・・・という話し

 前稿や前々稿で書いたことのポイントは次の下りに尽きるかもしれない:

《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。

何が善であり悪であるかは、時代やその国の文化的伝統ごとに違うものだ、と。こう考える限り、結局は《相対主義》に陥り、絶対不変の善悪判断などはないという結論を認めざるを得なくなる。

もしそんな立場に立てば、ロシアのウクライナ侵攻を批判する論拠は実はなく、単にロシアに味方するかウクライナに味方するかという利害得失の話になる。

アメリカとイスラエルが今回行ったイラン攻撃も善い行為なのか悪い行為なのか、絶対的真理はなく、つまりは相対主義に立って国ごとに判断すればイイことですよネ、と。こんな結論にせざるを得ない。

永遠かつ絶対に正しい国際法などは架空の空言で、果ては国の刑法ですら、いまはそう決められている決めごとに過ぎませんヨ、と。そんな虚無的な議論にもなるはずだ。

最後には、

よく言えば《武断主義》。悪くいえば《腕力の強い者が善》。こういうジャングルの掟が世を支配することになる。

これを事実として認めるべきだと。 実は、世界史、日本史を通して、理屈よりは腕力という時代が遥かに長かったのである。

これではダメだと最初に主張したのがソクラテスであったのは弟子・プラトンが数多くの作品で伝えているところだ。プラトンがそんな議論をした背景には、30年続いたペロポネソス戦争で降伏した民主国家・アテネの混迷と衆愚化した世相があった。師・ソクラテスの死刑判決はプラトンの目には衆愚を超えた「知の崩壊」が見えていたはずだ。その「知の崩壊」は要するに何か?それ以前に「知」とは何か?ここからプラトンは「哲学」を始めた。フィロソフィー、正に「知を愛するもの」である。

当時アテネ社会で一世を風靡していたソフィストの

人間は万物の尺度である。

という相対主義は、本質的に間違った世界観である、と。そして

何が善か、何が正しいかという問題には、絶対的で普遍の真理がある。

要するに

真理は実在する。

今は誰が強いか、10年後には誰が強くなりそうか?こんな有為転変で無常の問いかけには意味がない。空である。意味のない答えに基礎を置くのではなく、実在する真理に根拠を求める。こんな「理想主義」をプラトンは理路整然と展開した。哲学の誕生には敗戦で混乱するアテネ社会が必要だったとも言える。

前にも書いたが、時代と文化を超えて一定不変な心の働きは《理性》だけである。「感情」や「感覚」は、時代や文化どころか、同じ時代、同じ国の異なった個人の間で、もう異なるものである。人は色々、人生いろいろ、である。しかし、理性は色々ではなく、全ての人で同じように働き、同じ問題に同じ答えを出す。人によって幾何学の定理の真偽が異なることはなく、同じ方程式を解けば同じ答えを得る。理性だけは普遍的な心の働きなのである。

この世を超越した普遍的な善があるなら、それは理性だけが認識できるという理屈になる。普遍的な問いかけに対して真理は一つである以上、個々バラバラな感覚を用いて回答しても必ず間違いになるからだ。理性によって得られる帰結は、数学的知識と同じように、誰もがそう認めなければならないという点で、文字どおり普遍的である。

理性的議論をしていながら答えが分かれるとすれば、理性ではない感情やアドホックな価値観などが混入するからである。

なので、普遍的なモラル、倫理、善悪については、感情や価値観ではなく、理性を用いた議論をする必要があるというのは、いわゆる《合理主義者》に小生は完全に賛成する立場にいる。理性のみが、人類共通の心の働きだから、である。

一方、モラルの基礎は理性でなく感情であるとする立場もある。例えば、経済学者にして道徳哲学者でもあったアダム・スミスは『道徳感情論』を著している。

ずっと以前に投稿した孟子の四端説では

惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)

羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)

辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)

是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)

道徳の基礎に理性だけを置いているわけではない。特に最も重要視される《仁》は理性の働きとは関係がなさそうであり、どちらかといえば《情》に近いものである。

理性に基礎をおく考え方は、ギリシア人ばかりではなく、インド人を含めたアーリア民族共通の哲学であるのかもしれない。

仏理・仏道においても、前世から継承された業と現世の縁から発する様々な煩悩を滅却するためには、何よりこの世の現実を観察し、瞑想し、真如を悟るだけの智慧を持たなければならないとされている。法然と親鸞以降の日本・浄土信仰では、ひたすらに阿弥陀仏を信じて念仏を称えることが求められていて、智慧をどちらかといえば排するのであるが、本来の仏教は極めて智慧重視型の哲学に立っている所を観ないといけない。

孔子は紀元前5世紀、孟子は紀元前4世紀の人だから、まだ中国に仏教は伝わってはいなかった。中国文化は、極めて現実的で、 理性にのみ把握される抽象的概念が中心になることはなかったのである。

日本文化もまた、理性よりは一瞬ごとの直観、もののあはれを感じる感情こそ中核をなしていると小生はみている。

東洋哲学では「理性」よりは寧ろ《知・情・意》のバランスが大事だとされている(と理解している)。

まあ、大胆な割り切りではあるが、インド・ヨーロッパ的な理性重視の哲学と東洋哲学との間には、深い溝がありそうだ。

理性だけが同一不変の心の働きであると述べたが、それでも、

感情や価値観を基礎にする限り、今後の世界は《相対主義》の泥沼に迷い込んでいかざるを得ない。理屈としてそうなる。

こんな風になっていくのではないかと、いま怖れを感じているのだ、ナ。

カントが『永遠平和のために』という極めて理性的な小冊子を書いているが、どれほど机上の空論と感じようが、戦争のない世界を実現するには、理性だけを使って議論をしなければならない。

そんな仕事が出来る人だけが、重要な責任を負うべきであるというのが、小生の現代社会観である。

2026年3月13日金曜日

断想: 「侮れヌ」を遥かに超える『ソフィーの世界』の素晴らしさ

学校時代の春季休業は休暇の中で最もノンビリと出来る2週間だった。宿題も何もないわけだから楽しくないはずがない。しかも季節は早春である。何をやるにも最適の季節だ。

こんな時、読書好きな友人は(やっと)読みたい本を読めていた(はずだ)。課題図書にこだわる必要はない。

小生もそんな風に春季休業を過ごせば余程ましな学校時代を送れたと思うが、いま思い出してもロクな事はしなかった。怠け者であった。大体、課題図書を真面目に読んだことなどなく、ずっと後年になってから読んでみて「後悔先に立たず」と感じたのは「後の祭り」というものだ。

『ソクラテスの弁明』は中高時代の課題図書の常連だ ― 多分、いまでもそうなのだと思う。唯円の『歎異抄』もそうだろう。この二冊に西田幾多郎の『善の研究』を併せて読めば、この世界を《生きる》ことの本質が見えてくる・・・というのは比較的最近に投稿したことがある。

今日は更に『ソフィーの世界』を追加しておきたい。

『ソフィーの世界』が世界的なベストセラーになって邦訳本が日本で発売されたのは1995年6月だった(ということな)ので30年以上も前になる。その頃、小生はもう小役人から足を洗い北海道に移ってきていた。仕事も教育の現場であったからこの本の評判は耳にしていたが、「いまさら少女向けの哲学書なンて読めるか」という、そんな気分でうっちゃっておいたのだ、ナ。

ところが、つい先日になって『ソフィーの世界』の漫画ヴァージョンがKindle Unlimitedにあったので、目を通してみる気になった。それで感じたのが

先入観や偏見は後悔の母である

という古来の経験則である。

それで日本語訳できちんと最初から読んでみようと思ったわけだ。

小生は《古代》という時代が非常に好きである。神話時代の後、宗教が定着する中世の前という中間に位置し、最後には古代文明が完成の域に達してから崩壊する。特に、西洋にあっては民主国家アテネの発展と没落、アレクサンドロスという専制君主によるヘレニズム社会の形成とグローバル化。ヘレニズム後のローマ帝国への統合と古代文明の完成。貨幣経済の浸透と社会的分業の発展。そして最終的には蛮族の移民増加と帝国のゲルマン化。キリスト教の浸透と皇帝の権威の相対化。無秩序化と通貨の瓦解、都市文明の崩壊、人口減少、分散的な農業社会、生活水準の低下と人口減少の負のループ・・・

古代という時代は、(特に西洋にあっては)小さなスケールで最初から最後まで閉じた歴史を示している、とそう思っているのだ。

それで、『ソフィーの世界』でも特に上巻が面白いと感じた。

今日は例によって、記憶に値する個所と個人的なコメントを覚書にしておきたい。

まずアウグスティヌスから。

神が世界をつくる前、神の考えのなかにはイデアがあった、とアウグスティヌスは考えたんだ。永遠のイデアを神のものにすることによって、プラトンが想定した永遠のイデアを救ったんだ」  「あったまいい!」

まあ、全体がこんな文体で進んでいく。想定読者層は、やはり中高生あたりなのだろう。

 悪をどう見るかでも、アウグスティヌスは新プラトン学派を踏まえている。悪があるというのは、善なる神がそこにいない、ということだ、とアウグスティヌスは考えた。プロティノスと同じだね。悪は独立して存在するものではなくて、なんでもない何かだ。なぜなら、神の創造物は善に決まっているからだ。悪は人間の不従順から発生する、とアウグスティヌスは考えた。

この本文に対してこんなコメントを付けている。

悪とは善の不在である。カントの倫理観、フィヒテの考え、シェリングの宇宙観にも通じるかも。仏理的な悪は、その人が前世から継承してきた業が煩悩として現勢化した心の働きで、この世界に具象化されたその人の本質を成すものだ。悪は善の不在ではなく、確かにこの世界に実在する(と小生は理解している)。善悪の理解が西洋と仏教世界ではかなり違うようだ。

三番目は 

 「アウグスティヌスは歴史を哲学と関連づけたヨーロッパの最初の哲学者だ、ということも憶えておいてほしいな。善と悪の闘いという発想はちっとも目新しくない。アウグスティヌスの新しさは、この闘いが歴史をつうじてつづくとしたことだ。この点では、アウグスティヌスにはプラトンの考え方はあんまり感じられない。アウグスティヌスは、旧約聖書の直線的な歴史観にしっかりと立脚している。アウグスティヌスは、神は全歴史を使って神の国をうちたてようとしている、と考えていた。

これに対するコメント:

正にヘーゲル!

ヘーゲルの「世界精神の弁証法的発展」とアウグスティヌスの「神の国を打ち立てるための闘い」とどこが違うか?

こんなメモをつけている。

経済学者ケインズは、『思想というのは、新しいようにみえて、実は過去の誰かの思想を衣替えして再登場させているものだ』と、こんな趣旨の文章を(どこかで)書き残しているが正にこれを思い出した。

次に、トーマス=アクィナス。この大神学者にして大哲学者の名は世界史の教科書にも登場するので知っている人は多いはずだ。が、小生の記憶ではどんな学問的成果を成し遂げた人物なのか、最後までよく分からなかった記憶がある。ただ、ヨーロッパの中世神学はプラトンではなくアリストテレスの哲学を基礎にしていた(と書かれていた)ことだけは覚えている。

まず

「トマス・アクィナスは、ぼくたちが哲学とか理性とか呼んでいるものと、キリストの啓示とか信仰と呼んでいるもののあいだにどうにもならない矛盾があるとは考えなかった。キリスト教が言うことと哲学が言うことは、しばしば重なりあう。ぼくたちは理性の助けによって、聖書に書いてあるのと同じ真理を究明できるんだ」

20世紀の数学者にして哲学者でもあったバートランド=ラッセルは、人類が獲得する《知の成果》は三つのカテゴリーに分類されるとして、最下辺に観察データから実証される「科学」、中間に科学を基礎づける先験的総合命題の集まりである哲学と数学、論理学。最上辺に理性だけでは真偽が確定せず、直観と信仰(更に神秘的経験、つまり啓示?)から獲得される宗教的真理。この三つの階層に区分されるとした   ―   宗教的真理が「真理」であるとすることに現代日本人は疑問を抱くかもしれないが、人類以外の動物は宗教とは無縁である。知性を備えた人類のみ神や浄土を考える。つまり数学とは違った別種の超越的世界も人間の知性の働きであるのは同じである。

最近の小生の立場はこんな風なので、上の引用文は正に友を得たように感じて「その通り!」と同感したわけだ。

(キリスト教の)教義と哲学的理性はしばしば重なり合う。同様に、数学的理性と物理化学的現象とそれを観察したデータは重なり合うものだ。

こんなコメントを付けている。

次に

トマスによれば、神は聖書と理性をとおして人間たちの前にみずからを啓示する。だから信仰の神学と自然の神学があることになる。道徳の分野でも同じことだ。聖書は、ぼくたちは神の意志にそって生きるべきだ、という。でも神はまたぼくたちに良心もあたえて、自然の原則にしたがって善悪を区別できるようにした。だから、道徳生活にも二つの道があることになる。ぼくたちはたとえ聖書を読まなくても、ほかの人を苦しめてはいけない、ということを知っている。自分がそうしてもらいたいようにほかの人にもしてあげるべきだ、と知っている。

これはカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』との関係そのものではないか。「良心」の声は常にささやかである。良心の声が聞こえない時、つまり善が不在であるとき、人は悪を為すのであるという倫理観は、西洋の伝統でもあるのだろう。

トマスは、植物や動物から人間へ、人間から天使へ、天使から神へと高まっていく存在の段階がある、と考えた。人間は動物と同じように、感覚器官をそなえた肉体をもっているけれど、人間にはまた、よくよく考える理性もある。

人の特性は「考える器官」である「大脳」を物質的器官として持っている所にある。その大脳の中で進行する生化学的反応プロセスを、どうすれば数学的思考、更には自由意志や目的設定に翻訳することが出来るのか?

この問いに回答できる日が来るとは、小生、どうしても想像できない。いま足元で発展中の「AI」は、神経回路網を模造的に構築して、回路網に発生する電気信号を人間の言葉と論理に対応づけるソフトウェアのことである。つまり「人工知能」とは人間が造った「知能」であるが、実在するのはソフトウェアという成果物、というよりそんなソフトウェアを生み出し得た人間の《知識》。知識こそが実在する抽象的な本体であるというのは何度も投稿したとおりだ。

「知識」は非物質的実在であるから空間の中に観察可能な対象としては存在しない。空間に属しないが、やはり現実に実在する何者かであることに変わりはない。そう言うしかないであろう。

最後に

 「・・・神は今、わたしたちのことも見ている?」  「そうだよ、きっとぼくたちのことも見ている。でも『今』じゃない。神にとって時間は、ぼくたちの時間のようには存在しない。ぼくたちの『今』は神の『今』ではない。ぼくたちにとって数週間が過ぎることは、神にとっても数週間が過ぎることを意味しない」

「神」を美術作品によって表現することは不適切であるし、そもそも不可能であるというのは、ユダヤ(セム語文化圏)の伝統に近いキリスト教東方正教派、イスラム教では現代でも守られている立場だ。

「神」や「浄土」という宗教的概念は、感覚を超えて理性だけで理解されうる存在で、いわば「四次元の時空間宇宙」や「多次元の超ひも宇宙」のような対象であるはずなのだ。日常的な勤行で目にする仏画やイコンは、神や浄土の似せ絵ではなく単なる「記号」であって、例えば微分記号や積分記号のようなもので、それが何を意味しているかを理解して初めて意味をなす。この辺のことも最近の何度かの投稿で書いた。

ただ、法然上人が『一枚起請文』でいう
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候そうらわず。
この下りは日本仏教の革命的精華だと思っていて、小生のような典型的な「凡夫」にも心の平安を得ることが可能な道を開いてくれたという点で、これまた普遍的宗教だと思っているのだ。


それにしても『ソフィーの世界』でも時々登場するノルウェーの、ソフィーは15歳だから中学校になるのか、その授業風景や宿題の内容には感動を通り越して、日本の小中学校との隔絶ぶりに愕然とするほどだ。
覚えさせるよりは自分で考える習慣を身につけさせる。

日本の学校教育とのあまりの違いに驚くほどだ。 

義務教育の使命は、出来るだけ多くの国民に《自分で考える》ことの重要さを伝えることにある。これが正真正銘のオーソドックスな路線というべきだろう。

同じ知識を共有し、同じ常識を共有することを目標とするのも確かに一つの行き方だ。国民的一体感を実現しやすいという利点もある。

しかし、世界の中で相対的に貧困化しながら国民的一体感を維持する義務教育には、そもそも大した価値はないのではないか? 

国民が相対的に貧困化しても、日本文化と天皇制を守り続けるためには一体感が必要なのだ

(そんなことはないと思うが)日本国の中枢はこんな風に考えているのだろうか?

「国家」というのは、国民がともに豊かになるなら統一的な学習を強要しても理屈は通るが、現代という時代はもはやそうではない。

自分で考えることが自分を救うことにもなるという時代、義務教育で教えるべき知識を「国」が定める方式は、もう正当性を失っているというべきだろう。

2026年3月9日月曜日

断想: 道理は君命や民意に優越する

 トランプ大統領が「イスラエルに唆されて?」対イラン軍事攻撃に踏み切った動機は(ほゞほゞ確実に?)今秋に予定されている中間選挙であるという巷の憶測は、小生もたぶんそうなのだろうナアと思っている。

何度も投稿してきたことだが

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

世界中で地域紛争の種を探しては、これに介入し、自分の政治的地位を自国内で高めて選挙を有利にしたいというタイプの行為は、国際平和のためにも《それ自体が戦争犯罪》として認定してほしいものだ。 

この意味では、プーチンもゼレンスキーもトランプも、更にはロシア=ウクライナ戦争勃発時のジョンソン英・元首相も、もちろんイスラエルのネタニヤフ現首相も、一人残らず戦争犯罪を犯しつつあると観る立場に小生はいる。


《普通選挙》は自国が民主主義国であると主張するための最重要な必要条件として理解されている。確かにこれは近代以降の世界の常識だ。しかしながら、この認識は市民革命から参政権拡大、民主主義の浸透という政治的プロセスと、資本主義経済の持続的成長という経済的プロセスが、相互にシンクロして進んできたという最近200年間の経験から得られた《社会科学的仮説》に過ぎない。

(何度も投稿してきたことだが)実際には、古代ギリシア世界においては民主的なアテネが腐敗、没落し、その後にギリシア語を使う広大なヘレニズム文化圏を築いたのは専制的なアレクサンドロス大王とそれを継承したヘレニズム国家であった。ヘレニズム世界の中で東西の文化は溶け合い、自由で広域的な貿易が発展し、かつてない豊かな社会が実現した。また古代ローマがいわゆる《Pax Romana》(=ローマの平和)を実現したのは、民主的な共和制ローマではなく帝政に移行した後のローマ帝国である。ローマ帝国の歴史的評価は周知のとおりだ。

多くの国民に豊かで自由な暮らしを提供できる国家は、政治体制が非民主主義的であるとしても、国家の中身は十分に《民主的》であると、小生には思える時がある。


民主主義国において

民意に勝る意志はない。民意こそ正義である。

と自惚れる姿勢は、専制君主国において

王の意志こそが神聖であって、これに勝る正義はない。

と自惚れる王の姿勢と瓜二つである。

どちらも

道理を無視して愚かな人間(たち?)の意志を神聖視する

という根本的誤りを犯している。

世論調査は「暮らしと経済」が最も切実な要求であることを(ほぼ常に)示している。この当たり前の事実を徹底して理解しているマスメディア企業は驚くほど少ないようだ。

愚人が権力を行使するほど怖いことはない。


《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。


2026年3月4日水曜日

ホンの一言: トランプ大統領の深層心理を読み切れるネタニヤフ首相は面目躍如・・・

 数日前にsubstack.comから届いたKrugmanの投稿にはこんな下りがあった:

But because America wasn’t suffering a Germany 1932 or Russia 1998-type crisis, it was impossible for Trump to deliver rapid economic improvement – that is, it would have been impossible even if he were competent (which he isn’t). So his efforts to consolidate power aren’t succeeding the way he and his fellow authoritarians expected.

しかし、アメリカは1932年のドイツや1998年のロシアのような危機に見舞われていなかったため、トランプが急速な経済改善を実現することは不可能だった。つまり、たとえ彼が有能であったとしても(実際にはそうではないが)、不可能だったのだ。そのため、権力統合に向けた彼の努力は、彼自身や彼の仲間の権威主義者たちが期待したような成果を上げていない。

On Wednesday the historian Tim Snyder, who is an expert on the grim history of Central and Eastern Europe, published a post titled Fascist Failure about the Trump administration’s lagging attempt to bring fascism to America. For now, I will be more cautious and say that American fascism is faltering rather than failing. But the power grab is clearly not going according to plan. Why?

水曜日、中央・東ヨーロッパの悲惨な歴史の専門家である歴史家ティム・スナイダー氏は、「ファシストの失敗」と題した記事を掲載し、トランプ政権によるアメリカへのファシズム導入の試みが遅れていることを批判した。今のところは、より慎重に、アメリカのファシズムは失敗というよりはむしろ弱体化していると言うことにする。しかし、権力掌握は明らかに計画通りには進んでいない。なぜだろう?

First and foremost, the determination and courage of ordinary Americans — in utter contrast with the craven surrender of much of the elite — has been crucial. But there are also structural factors that have helped the resistance.

まず第一に、一般のアメリカ人の決意と勇気が決定的な役割を果たした。エリート層の卑怯な屈服とは全く対照的である。しかし、抵抗を支えた構造的な要因もいくつかある。

Snyder emphasizes the lack of a good enemy against whom Trump can mobilize the nation. It’s a fair point. 

スナイダー氏は、トランプ氏が国民を動員できるような強力な敵がいないと強調している。それは正当な指摘だ。

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-economics-of-faltering-fascism

Author: Paul Krugman

Date: Feb 27, 2026 

不法移民の摘発を担当してきたICE(移民・税関捜査局)の失態。エプスタイン問題の深刻化。インフレ高止まりに雇用悪化と経済状態も悪い。何より中国との関税戦争に敗退したことが大きい。それに相互関税の違憲判決。この秋には中間選挙もある。あと2年余りもト大統領が仕事を続けられるイメージがわいて来ない。修羅場だ。さぞ焦っていたに違いない。

どうやらトランプ大統領は《国民を動員できるような強力な敵 》を見つけたようだ。

イランがいい。

敵がいないなら作ればいい・・・そんなト大統領の心理を読んだイスラエルのネタニヤフ首相の政治勘には動物的なものがある。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発した頃に投稿したときはこんなことを書いた:

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これを思い出した。アメリカのトランプ大統領も同じであったようだ。 

専制君主は、選挙がないので国民の人気向上を目的にカネのかかる戦争など、そもそもする動機がないという理屈がある  ―  その代わり、プライドやら領土欲やらで勝手に戦争をしたりするので、どちらも良し悪しである。しかし、賢臣に支えられた君主制ほど安定した統治はないというのは、プラトンが『国家』で展開した議論に通じるものがある。


2026年3月1日日曜日

断想: 「天皇制」と「民主主義」はそもそも矛盾しているわけで・・・

 高市総理の経済政策や外交政策にはとうてい賛同できないが、対皇室姿勢だけは共感できるという点は、最近何度か投稿してきた。

巷では

「愛子天皇」を「世論」が望んでいるにもかかわらず、男系男子を皇位継承者として優先する姿勢は、高市首相は本当に保守派なのか?愛国者なのか?

こんな批判が結構出てきている。

マア、人は色々だから・・・とは思います。


ずいぶん以前から投稿してきたが(たとえばこれ

そもそも天皇制と民主主義とは両立するはずがない。

このロジックを否定できる論理は、屁理屈はともかくとして、ないと思う。

戦後日本においては、全ての日本人は平等にして、自由かつ基本的人権を有している。その中で、皇族は極めて例外的な位置を占めている。これこそ先ずは矛盾というものだろう。


皇位は《世襲》によって継承される。《世論》によって次期天皇が決まるわけではないし、もし世論によって次期天皇を決めるのが適切なら、皇族を対象とする《人気投票》を実施すればよいという理屈になる。

自分に人気があるのかないのか、新たな天皇が知っておくのは悪いことではないが、(国民にとっても?)『知らぬが花』というものがある。人気があるのもあだ花、人気がないのも寧ろ滋味があってよろしいという見方もあるだろう。

天皇は《国家元首》とは規定されていないが、国際的には日本国の元首として受け止められている(ようだ)。マア、戦後日本では「象徴」とされているが、やはり実質的には「元首」なのであろう。

世論によって元首を決めたいという立場に立つなら、対象を皇族に限定せず、最初から《大統領制》を主張するほうが、よほど民主的であり、論理的にもスッキリする。そうすれば、当の皇族の方々も肩の荷をおろして、安堵されるであろう。日本第一の「名門」として、自由に家系をつないで行かれるのがよいと思うし、そもそも「皇室典範」なる法律は作るべきではなく「皇族会議」で私的に決めればよいはずのことであった。

もし日本国でいずれ将来「大統領選挙」が行われるとして、そこで「男がイイ」とか、「女にするべきだ」とか、政治家としての能力をそっちのけにして、性別ばかりを語る人物がいれば、多分、知的水準(痴的水準?)を問われるに違いない。


大体、「皇族」とは「皇統」という概念をベースに定義される「特定かつ例外的な人物集団」を指す。その「皇統」の定義は、全歴史をみれば色々な学説もあるようだが、文書に残る日本史に限れば、「皇統」の定義は完全に確定済みと言ってよいはずだ。いま昭和敗戦後に西洋から輸入された理念に基づいて「皇統」を定義しなおすなら、同じ「天皇制」でも別の「令和天皇制」と呼ぶべき新たな制度になる理屈だろう。たかが、と言っては語弊があるが、今さら「伝統・天皇制」を廃止して、「新・天皇制」をこの国に樹立する意義があるのか?そんな意義はゼロだと思うが、極めて重要だと本気で考える御仁はどの位いるのだろう?いたずらに、無駄な対立を招くだけの愚行であると思うが・・・。

「天皇制」は平等を原理とする民主主義社会には、最初から馴染まない要素であるとしか言いようがない。明治維新以前の日本においては、中国を模範とした「律令」の規定とは別に日本独特の「令外官」が置かれており、関白などのポストもいわば「例外的な官職」であった。結果としてうまく行ったので置いた。いわば功利主義的な措置であって法理からは外れているわけだ。その意味では、戦後日本における天皇は理念とは相いれない「令外の地位」であると、小生は思ってきた。何もそれで問題はないはずだ。

戦後日本の民主主義において、憲法に天皇を定めるのは、最初から無理な相談であったと小生は理解している。

大体、「象徴」とは何ですか?国家元首とするわけにはいかなかったのか?

そういう事であります。


戦後日本体制の中の非民主主義的な要素として、《総家元》というか、日本の伝統文化として受け入れるしか天皇制を維持する根拠はない。

《西洋的な民主主義の失敗》がこの日本で余りにも明白になったとき、日本が戻るべき原点として天皇制を守ることには、一定の意義があるかもしれない。言えることはその位だろう。

大体、室町時代中期以降、「天皇(=ミカド、お上」の権威はほゞほゞ100パーセント崩壊していた。江戸時代においても幕末まではほゞほゞ同じ事情であった(はずだ)。

「皇室」を議論することで日本社会に混乱が生じるなど、文字通り『しっぽが胴体をふる』ようなものである。愚かだ。


とはいえ、日本国において天皇家は古代から続き神道、神社とも神話的つながりが深く、極めて宗教的な性格も併せ持っている。それ故に、近代西洋の民主主義の観点から合理化しようとしても土台無理な話しである。

成文憲法の存在しないイギリスを手本とするのが理想だが、例外規定を認め憲法を骨抜きにするか、そうでなければスウェーデン王室のように一切の「国事行為」を行わず、純粋に儀礼的な存在として規定しなおし、その代わりに一定の私的自由を保証し、伝統のままに家系を維持するのが戦後日本がとりうる唯一の道だろう。

【加筆修正:2026-03-03】

2026年2月21日土曜日

断想: 駐留米軍から「日本の司法」は信頼されているのだろうか?

 先日の衆院選関連の余波だろう:

2月に行われた衆院選で、選挙運動の報酬として運動員に現金を支払った疑いで、国民民主党から立候補していた候補者らが警視庁に逮捕されました。

Source:YAHOO! JAPANニュース

Original:FNNプライムオンライン

Date:2/21(土) 7:45配信

一体いくら払ったのかと読んでみると、

大学生5人に現金あわせて27万円を支払った疑いが持たれています

と・・・マア、27万円でも公職選挙法違反であり、別の表現をするなら《不正選挙》があったということになる。

しかしながら、この国民民主党の公認候補は落選しているのだ。

落ちた人には厳しいネエ・・・当選した国会議員には甘いけど

こんな感想です。

これから取り調べが行われて、送検され、検察が起訴するかどうかは分からないが、たった(?)27万円で公判を開くか?

マア、検察にとってはめんどくさいだけだろうから、起訴猶予とか、不起訴になるのではないかネエと思います。

日本では刑事捜査は、欧州大陸法を継受していることから、キャリア検察官が主導、指揮することになっている。起訴・不起訴の判断も担当検察官の専任であるというのが建前だ。そして、日本では裁判所による予審は廃止されたので、いったん起訴された被告人は刑事裁判において99.8~99.9%は有罪判決が下される。

つまり、よく言えば

日本の刑事裁判は(実質的に)検察官が支えている。検事がもつ秋霜烈日の精神こそ日本の正義を実現しているのだ。

こんな言い方になるし、実際にマスコミも(検察、更には官邸が怖いのか?)そう観ているようだ。

一方、悪く言えば

日本の刑事裁判担当の判事は(量刑はともかくほゞほゞ)検事の言いなりに判決文を書いている。

換言すると、刑事事件の裁判は検事による取り調べであらかた決着はついているわけだ。にも拘わらず、検事による「公判前の実質的予審?」において 弁護士の同席は認められていない。

極論すると、弁護士不在で検察庁内で「実質的裁判」が行われ、公判では検事の主張がほゞほゞ通っているのだから、

日本の司法は非民主的である

こんな理屈にならざるをえない。

たとえば沖縄県で事件を起こした米兵を日本の裁判の被告人とすることに米軍当局が、というかアメリカにいる容疑者家族というべきか、かなり消極的である理由の一つは、明らかに日本の司法に対する不信感があるからだと推察され、もしも可能なら幕末から明治時代初期のように米人容疑者に対しては《領事裁判権》、つまりアメリカ大使館内に設けられるアメリカ式の法廷で有罪・無罪の判断を行いたい。これがアメリカの本音ではないかと憶測する次第。

当の日本人が

世界に冠たる公正な日本の司法

こんな夜郎自大的な自己肯定を持ち続けている現状は信じがたいところがある。

「但し」を付け加える必要がある。裁判所の「予審」は司法の独立性を守るかという問いである。欧州大陸諸国では検察官が刑事事件の捜査を主導するが、捜査段階における検事の主導性に対して、予審判事の吟味が司法の中立性を担保する。「予審判事」の司法権限は不可侵で国家元首ですら怖れる存在である(と聞いている)。

しかしながら日本には日本の事情があった。戦前の「帝人事件」は検察による「誤起訴」、というより「でっち上げ」の典型例としてよく参照されるのだが、戦前であるから裁判所による「予審」は行われていたのである。

検察から起訴された刑事事案は、日本の司法がお手本にしたフランス、ドイツの制度に則して考えると、すべて裁判所の予審判事によって、証拠の客観性、十分性などが精査される。なので、警察・検察の捜査結果がそのまま司法の結果につながるという可能性は理屈上ないわけである。

ところが「帝人事件」では、裁判所による予審が機能しなかった。事件はまったくの「でっち上げ」であることが、本審である「公判」において明らかになったのだから、

日本の予審はなぜ機能しなかったのか?

こんな疑問が沸き起こったのは当然だ。それがひいては戦後の刑事訴訟法改正にまで尾を引いてしまった。裁判所の予審が機能しなかった理由をChatGPTに質問してみたが、その一部を引用しておこう。

なぜ予審は機能しなかったのか?

歴史研究では、いくつかの説明があります。

① 当時の予審は「強いチェック機能」を必ずしも持っていなかった

形式的審査に近かった

検察資料への依存が強かった

② 世論圧力

「大疑獄」報道

政治情勢の緊迫

③ 供述依存構造

自白・供述中心の立証

結果として、

予審段階では排除されず、公判で全面無罪

という流れになりました。

戦後になって裁判所の予審制度は廃止され(検察審査会の強化があったにせよ)現在に至るが、概ね日本の刑事司法は検事主導の戦前の香りを色濃く残しているというべきだろう。その検事は、内閣の指揮のもとにある。その内閣は国会の統制下にあり、国会は(実質的に)自民党の支配下にある。

この構造あって、この司法あり、現在の政界の実情があるわけだ。

憲法改正といえば「9条」ばかりに目を向けているが、憲法9条に「自衛隊」という語句を明記しようが現行のまま放置しようが、現実はほとんど変わらないだろう。

それに対して、司法の在り方を(高市首相お好みの)根本から変革すれば、国際社会が日本の民主主義に寄せる信頼感は飛躍的に高まるに違いない。たとえ(ないことを望むが)米兵が関係する刑事事件が発生したとしてもアメリカ政府は日本の司法を信頼して捜査、裁判に(喜んで?)米兵を委ねるであろう、というより容疑者本人もまた日本の司法の公正さを信頼して、自国の法廷と同じ度合いで自らの罪と向き合うに違いない。

昭和時代とは比較にならないほど豊かで便利な生活を現代日本社会は実現している。にもかかわらず、何とも言えない閉塞感があるのは、単に低成長や格差拡大、社会保障不安などの経済要因だけがもたらしているわけではない(と思う)。

経済も経済だが、それより

強きは救い、弱きを罰する。トップには甘く、下には厳しい。中枢には「目こぼし」があり、現場や末端には秋霜烈日。そんな社会のどこに《正義》や《公正》があるのか?

こんな社会心理が意外と重いのではないか。与党の重鎮は真っ黒である。野党議員は失業を怖れて保身を願うだけ。司法もまた上のとおり。閉塞感の根底には怒りあり。こんな現代社会観をいまもっているわけだ。

司法の強さ、ここでいう司法とは裁判所のことだが、それは社会の健全性の象徴である。

そう思うのだ、ナ。


高市旋風は《与党内アウトサイダー》ゆえに吹いたのであろう。ポピュリズムはポピュリズムだろうが、道義のある社会には決してポピュリズムの風は吹かないものだ。ということは

ポピュリズムの風が吹くのは、それだけ社会から道義が失われているからだ。

こんなロジックになる。ポピュリズムを批判するのは《一見、専門家風》だが、なぜそうなるかを洞察しなければなるまい。

いま思い出しているのは、ずっと昔に投稿したナポレオンの名句だ。

Man muss stark sein, um gut sein zu können 

人が善であるためには強くなければならない

弱い人間に《道義》を期待するものではない、というより期待しても「背に腹はかえられません」というだろう。とはいえ「弱者の気持ちに寄り添う」、これだけをやっていると、社会から善悪のけじめ、道義がなくなるというものだ。

どんな状況であっても、太陽だけではない、北風もまた必要なのである。

そう感じている次第。

今日はこの辺で。

【加筆修正:2026-02-24】


2026年2月15日日曜日

ホンの一言: 「トランプ劇場」こそ今一番面白いのでは・・・リアルで怖いですが

 「エプスタイン・スキャンダル」は、日本では「対岸の火事」とみているのか、ほとんど報道されることはない。が、エプスタイン文書をめぐって世界の著名人、というか多くの「セレブ達」が疑惑の対象になって名誉を失ったり、現実に失脚している、そしてまだまだ尾を引きそうな現状をみれば、日本ローカルなモリカケ・スキャンダルとはスケールが違う。いままた足元ではスターマー首相率いる英国・労働党政権が崩壊の瀬戸際に立たされている。そうかと思うと、アメリカ議会では司法長官が逆切れした様子が報道されて、例のKrugmann博士は絶好の話題とばかりに論じている。

この件、日本でも報道はされている:

 【ワシントン共同】米下院司法委員会で11日、少女らの性的人身売買罪で起訴され自殺した富豪エプスタイン氏に関する開示文書を巡り、議員らとボンディ司法長官が激しい応酬を繰り広げた。議員らは、有力者の名前を黒塗りにする一方で被害者の情報をさらしたと批判。ボンディ氏は、議員らが文書公開をトランプ大統領の攻撃材料に利用しているとして「偽善者」と罵倒した。

Source:News.jp

Original:共同

Date:2026-02-12

エプスタイン文書の公開をめぐっては今後もずっと尾を引きそうで国際政治の時限爆弾となる状況は変わらないだろう。

Krugmanはこんな風に書いている。

Attorney General Pam Bondi’s meltdown on Wednesday while being questioned the House Judiciary Committee was exceptional, even by this administration’s rock-bottom standards. Has any high-level official ever before shrieked at a member of Congress, “You don’t tell me anything, you washed-up, loser lawyer”?

Yet what truly amazed me was her demand that Democrats stop talking about Jeffrey Epstein because the Dow was above 50,000. This plumbed new depths of moral bankruptcy, effectively saying: “How dare you complain about child rape when the stock market is up?”

Source:substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-maga-bubble-is-imploding

Date: 2026-02-13

"Attorney General"は日本では「検事総長」と訳されることが多いが「司法長官」のことである。その人物が議会の答弁の最中に「キレて」、クルーグマン博士は

これまで、国会議員に向かって「何も言わないで!この落ちこぼれの弁護士が!!」と叫んだ連邦政府の高官がいただろうか?

と呆れているのだから、書いた側もスカッとしたに違いない。マ、少なくとも日本の法務大臣がこんな態度を国会で示せば、即日罷免となるのは間違いないところだ。

更に、クルーグマン博士は書く:

しかし、私が本当に驚いたのは、「株価のダウ平均だって50000ドルを超えたのよ。もう民主党はジェフリー・エプスタインについて話すのをやめてちょうだい!」と彼女が要求したことだ。トランプ政権を支える政治家のモラルは新たな底に向かって落下中だ。実際、「株価も上がっているというのに、まだ児童レイプが何とかかんとか、もう止めて!」と言っているようなものではないか。

いやあ、面白いです。

《トランプ劇場》は日本ローカルの《小泉劇場》を遥かに上回るスペクタクルになっている。

ずっと以前に投稿したが、アメリカ大統領のThe Worst Oneは第一次世界大戦後に就任したハーディング大統領と評価はほぼ決まっていたようなのだが、政権ともどもトランプ大統領が記録を更新することは間違いなさそうである。

そういえば高市総理も

「裏金議員」なんて呼び方、もう止めてちょうだい

と、そんなお願いをメディアにしているそうだが、真偽はどうなのだろう?NHK辺りは「不記載」議員などと呼び方を変えているように思うのだが・・・

 

 

2026年2月13日金曜日

断想: トップと部下の「世界共通の規範」というのは?

日本海海戦の作戦立案は先任参謀である秋山真之によるものだったという話しは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を待つまでもなく、松山で生まれた小生は幼少時から何度も聞かされていた。実際、海水浴場のある松山市・梅津寺には秋山兄弟の銅像がある。

とはいえ、

この見事な作戦は〇〇参謀の立案であった

こんな風に立案者が有名になるのは、例外的でなければならず、作戦を採用するのも、実行するのも、トップである司令官の責任であるはずだ。

だから、勝てば作戦を採用した司令官の功績であって、負ければ作戦を採用した司令官の責任である。こう考えるのが組織の論理であるはずだ。

日本海海戦で勝った司令官は東郷平八郎で勝利をもたらした提督として参謀・秋山を遥かに超える評価を得ている。これが本当の姿で、むしろ参謀・秋山の天才ぶりが『坂の上の雲』の中で叙述されていることも、実は参謀としては望ましい姿ではないと思う。参謀とは世間に知られてはならない黒子であるべきで、だからこそ参謀は思い切った立案をすることができる。

参謀やスタッフには結果責任はない

これが小生の理解である。


ところが昭和時代になると、勝てば参謀本部の作戦課長の功績、負ければ現地の司令官の責任という風潮になったようだ。本来は勝っても、負けてもトップの責任だ。参謀以下の部下に対してはトップが感謝の気持ちをもてば十分であって、部下の名前まで歴史に残るのは、おかしな話しだというのが小生の感覚だ。


これから高市政権が進める経済政策、外交政策も、うまく行っても、まずく行っても、その功績や責任は高市総理と担当大臣にある。

有力な参謀であるスタッフやアドバイザー、秘書官や側近官僚を探し出しては「隠れた権力者」などとおだて上げるのは、日本のマスコミの悪い癖である。

「現代の柳沢吉保」、「官邸のラスプーチン」などと持ち上げては叩き落すのがメディアの習慣になれば、失敗したスタッフをスケープゴートにして結果責任から逃げるのもトップの習慣となる。そうして

逃げるトップのために身命をかける部下など一人もいませんよ

こんな状態が論理的な帰結としてもたらされる。愚かだ。これが世界共通の行動規範だと思う。

2026年2月11日水曜日

ホンの一言: 衆院選の結果の「あと解釈」があふれているようで

 衆院選の自民圧勝を受けて、ネットなど巷では

自民圧勝、中道大敗の理由には三つあり

といった風の解説記事があふれている。

全て《あと解釈》(=hindsight)である。


何しろ「結果」が「事実」としてもう可視化されている。

〇〇が原因となって△△の結果がもたらされるであろう

といえば事前の予想である。これは勇気のいる知的努力である。リスクも負担している。

これに対し、「あと解釈」というのは、判明済みの結果から逆に考えて

 〇〇が原因となって△△の結果がもたらされた

というものだ。


可視化された結果から逆に原因を考えるという点では統計分析の《ベイズモデル》に似ている様だが、偽物である。

ベイズ分析とは、確認済みの結果をもたらしうる全ての原因を列挙してから、

△△という結果がもたらされた原因は〇〇であった可能性が高い

という議論をする。この可能性を「事後確率」という。つまり事後確率を計算するには、それぞれの原因から確認済の結果がもたらされる「事前確率」が分かっていなければならない。事前の予想ができる人のみベイズ的な事後分析が出来るのである。


なので、事前には黙っていたのに、結果が分かった事後になってから、原因はこうだったという記事は一切信用しないことにしている。

2026年2月9日月曜日

ホンの一言: 高市さん圧勝は「北京の北風戦略」の失敗とも言えるかも

衆院選も直前予想のとおり、というかそれ以上の《自民圧勝》となり、今日あたりは何だか大相撲の千秋楽が終わったあとのような感覚だ。

「事前予想のとおり」というのは「ああ、やっぱりネ」という勝敗なので、意外感というか、サプライズはなかったのだが。

色々な方面からコメントが寄せられている由。トランプ大統領、メローニ伊首相、李大統領は早々に祝いのメッセージをアップしたらしい。

石破前首相も何やらコメントしたようだ。これに対して、ネットでは

 始まったばかりだから期待値に決まってるだろ。まだ実績あるわけないだろ

こんなものまであったので、思わず笑ってしまいました。

総理大臣をこれからやる人、実績なくともイイの?

その辺の大学が教員を公募するときにも業績、論文抜き刷りは必須だ。専門誌なら何でもよいわけではなく、査読付きという条件も付加される。

職務を担うのに十分な能力があることを、自己宣伝ではなく、実績で証明するのは、公職に就くものの義務である。


ただ、高市首相が総理たるにふさわしい資質をお持ちであることは十分に示された。それは決断力である。

トップに専門的な知識、技術はそれほど必要でないと思う。その代わりに、一流の人材を見出し、抜擢し、活かす人物眼もまた決断力と同じ程度に不可欠だ。

この辺り、大学の学長に求められる資質にも通じるし、企業、官庁など、あらゆる組織に通じる条件ではないか。

高市首相の周りには、今後、一流・二流・三流以下、ごみ芥のような人物まで近づいては売り込むことだろう。

実績がなければ、期待値は(実は)計算できず、リスクだけが大きい。実績は期待値を計算可能にするとともに、リスクを減じる。安定感が出るのだ。

何の実績もない新人を主役に抜擢するのが冒険である理屈は誰でもわかる。実際、無名の新人が主役をつとめる冒険作は往々にして失敗する。

一国の総理大臣に実績がないことを、国民は(本当は)不安に感じなければならないはずだ。


小生思うのだが、

今回の高市総理大勝をもたらした最大の要因は北京政府がとった「北風戦略」である。

就任早々のちょっとした失言を「もっけの幸い」とばかりに、高市政権打倒をもくろんだのだろう、北京政府が居丈高になって対日経済制裁を打ってきたのは、逆に日本人、特に若年層の怒りに火をつけるもので、日本人有権者に

がんばれ高市! 負けるな高市!

という感情を高める結果になった。首相が断固として発言を撤回しない姿勢も奏功した。確かにこれは首相の資質を証明する何よりの「実績」だ。昨年の総裁選で小泉進次郎氏が当選し首相であったと仮定して、同じような姿勢をとれたかどうか、いささか不安が残るのは小生だけではないかもしれない。


もちろん、だからと言って、対中外交悪化のリスクは(北京政府が戦略を変更しない限り)これから顕在化する可能性が高いわけで、現実に日本人がそのマイナスを感じ始めたとき、それでも高市政権を支持し続けるかどうかは別の話し。ほゞほゞすべての現代日本人は、自己利益を動機として意思決定しているはずで、損だと見切ったときは高市批判に転じるはずである。外交リスクと併せて、経済リスクも依然として残っている客観状況に変わりはないのである。

政治家に《精神主義》は禁物で、激を飛ばすのはせいぜい3回で賞味期限は切れる。


北京政府は、いかにも器が違うという鷹揚な態度を示し、

素人のようなことを日本の首相が言うのは困る

まあ、揶揄する程度に抑えておけば、おそらく解散の大義もなく、政治勘の悪さ、失言癖ばかりが悪目立ちするという展開になった可能性がある。

「北風戦略」より「太陽戦略」を北京政府は採るべきであった。そう思う次第。

囲碁でもそうだが、相手の無理な打ち込みは正面から受けて立たず、やんわりと包囲、対応する方が相手の無理筋がだんだんと明らかになるものである。

2026年2月7日土曜日

断想:「良妻賢母」が再び語られる・・・「復古調の令和時代」になる?

国政選挙の前は色々な論点が集中的に世間で取り上げられるので、ブログ投稿も自然に増えてしまう。明日で集中投稿週間もひとまず終わりそうだ。

本日は、昨日の続稿ということで。

こんな下りを昨日は書いた:

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

・・・

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

本当に高市自民党が圧勝するのか、いまだに100パーセント信用する気にはならないのだが、これほどまで事前調査の結果がそろっている以上、そうなのだろうと予想してしまう。もし反対の結果が出れば、それこそ『ビックリ仰天、開いた口がふさがらぬ』ということでござんしょう。

まあ、多分、高市自民党は圧勝するのだと、そんな気分に小生もなっている。

となると、日本でも《保守反動》の政治が色濃く出て来るはずで、前稿では代表的な例をあげたわけだ。

実は、もっとディープな方向転換が日本で(突然、まっしぐらに)進み始めるのではないか・・・とも想像(?)しているので覚書きとして書いておきたい。

但し、ひょっとすると、高市自民党は小幅の勝利、というか「辛勝」にとどまるかもしれない。そうなれば、これから書く想像は空振りである。

それは《専業主婦再評価》の議論から始まり、最後には《良妻賢母の勧め》に至る、ある意味で《復古的家庭像》の盛り上がりである。

振り返れば、戦後日本の高度成長を支えた「人口ボーナス」が消え去り、それとは反対の「人口オーナス」が見通される1980年頃から《男女雇用均等化》への歩みは始まっていた。実際、「男女雇用均等法」が施行されたのは1986年4月である。

小生が経済学を勉強していた頃は、女性労働力は「核労働力」ではなく「縁辺労働力」として位置づけられ、従って主たる問題は「男女賃金格差」の分析であった。それが想定を超える少子化の進行で男性労働力の減少が予想されることから、女性労働力への期待が高まってきた。人手不足になれば臨時的に働くのではなく、常時、労働資源として女性には働いてほしい、そんな風に企業経営者の目が向いてきたわけである。

つまり、「男女雇用均等化」への動きは、男性労働力人口の減少に危機感を強めた経済界が、女性の労働市場参入を促した結果だろうと推測している。外国出身の移民に頼らない労働力確保の方策として、家庭にいた日本人女性に財界が着目し、政府も後押しをした。これが現実に進んだ経済プロセスであり、それを駆動したロジックは男性賃金の上昇に歯止めをかけたい企業経営の論理で、決して《男女間の不平等是正》に価値を置くリベラル思想などではなかったと小生は理解している。

ご都合主義はいつでも高邁な理念を装束としてまとわされるものなのである。

ところが専業主婦モデルが崩壊し半分以上の世帯が共稼ぎ世帯になるに伴って、予想以上に少子化が進んだ。経済界も政府も男女合計の労働者数が減少していくことに危機感を覚えた。人手不足の深刻化は、AI、自動化など資本集約度の上昇で(本来は)対応できる問題で、賃金上昇圧力は生産性の上昇で解決するべきだ。しかし、自動化のための投資資金の捻出に苦しむ企業が多い。安価な外国人労働力に目を向けているのは、企業経営の論理に従えば当然である。

共稼ぎ世帯の増加と少子化の急速な進行の間に因果関係があるかどうかは、なかなか検証が難しいが、何の関連もないとは断言できないと小生も思ってはいる。

少子化の解決(?)に向けては、例えば年金支給モデルの改変などで対応できるのではないかと、素朴な方式を投稿したこともあった。が、人手不足と少子化を同時に解決するには道は一つである。

現場は外国人にお願いするので、日本人女性は家庭を守って、子を産み、育てる仕事に従事して下さい・・・

と、

実際、専業主婦モデルの時代には、男性世帯主に家族の皆さんを扶養できるだけの報酬を支払っていました。今は男女協業の中でそれが出来なくなりましたが、元の賃金モデルに戻していくことにします。女性の方は、もう外で働く必要はありません・・・ありがとうございました。家庭にお戻り頂いても結構でございます。本当に有難うございました。日本国として感謝いたします。

と、いずれ政府の中枢で検討される経済社会モデルの中で、上のような「基本方針の大転換」が浮上してくるのではないか?

実に《ご都合主義》である。が、ご都合主義ではなく高邁な理想に基づいて日本国を統治した政府など、これまでの歴史を通してあっただろうか?

何だか、笑い話のようだが、ありえぬ事ではないと想像(というより空想?)している。

ここまでくると、保守反動の時代を超えて、「復古の潮流」と呼ぶべきであろう。ただ外国人の急増が進む中での21世紀型の「復古日本」であるのが違う。


・・・もちろん少子化現象をもたらしている要因は、共稼ぎ世帯の増加に限ったことではない。ひょっとすると、夫婦二人とも仕事で多忙であるという事と子を育てないという意思決定の間には何の関連もないのかもしれない。忙しくても子をもつ親は多い。経済的に豊かで時間に余裕のある専業主婦でも子は一人か、つくらないという家庭も多い。一概には言えない。しかし、今よりはずっと貧しく、大半の女性が専業主婦として家事労働に勤しんでいた時代、一人っ子は少なく、3人兄弟は普通であったのだ。少子化は現代の《都市化》と《多消費社会》の下で進んできた。「福祉国家」の理念が浸透し法制化されたことも少子化には関係しているだろう。真の要因を求めるとすれば、「共稼ぎ」の増加ではなくこちらの方向だろうというのは、これまでの投稿でも書いている。以上、つけたしまで   ―  実証作業は面倒だからもうやらないが。

年金など福祉国家の根幹に対する信頼性が低下しているいま、少子化が進んでいるのは、(仮説としては)論理矛盾で、反証でもあるが、本日はこの辺でやめておこう。

【加筆修正:2026-02-09】



2026年2月6日金曜日

ホンの一言: リベラルから保守反動への世界的潮流?

今週末の衆院選ではどうやら高市首相率いる自民党が圧勝しそうな塩梅だ。中道改革連合が発足した当初は期待をもたせられたが、やはり「お疲れ気味」の老人が二人で語りかけるスタイルでは有権者をひきつけない。

いま巷では高市首相圧勝のあとは自民党単独政権の《爆走》が始まるであろうと予想する向きが増えている。

積極的財政政策推進と円安・インフレ加速、それに高金利到来。対中関係の一層の悪化と対日経済制裁の拡大。皇室典範の改正で男系天皇制死守。憲法改正で自衛隊明記、更には「国防軍への改称」か?まさか徴兵制再開への道を開くなどもありうるか?

公約には含まれなかったが、医療・年金など公的保険のスリム化、労働市場の流動化促進と金銭解雇解禁。農業経営の合理化、等々。ここまでやってくれれば日本経済には勢いが戻るだろう。急に精力がつきすぎて頓死するかもしれないが。

ま、滞っていた日本社会が俄かに走り始めることだけは高い確率で予想できる。とにかく《決断力》のある首相であることが実証されたわけだ。

やはり過激派なのであるナア、と思う。決して全て反対だと思っているわけではない。先日にも投稿したが、経済・外交政策だけは目を覆いたくなるのだ。

振り返ると、イタリアの右翼過激派のメローニ首相、ドイツ政界で勢力を急拡大中のAFD(Alternative für Deutschland:ドイツのための選択肢)を率いる極右政治家アリス・ワイデル博士は二人とも女性である。更に、フランスの「国民戦線」だったか「国民連合」だったかの代表をしているマリーヌ・ルペンもパリ大学卒の弁護士ながら過激派ぶりは筋金が通っているようだ。但し、ルペン女史に関しては、これを脅威とするマクロン大統領の指示かどうか不明だが、検察が公金横領事件容疑で検挙し、一審が有罪となったので2027年の大統領選挙への出馬は禁じられたよし。裁判は控訴審が進行中である。

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

とすれば、今後、イギリスでも再びサッチャー的な女性政治家が出現する可能性はあるし、ドイツもAFD政権がいよいよ現実化するかもしれない。

日本の高市政権(が多分実現するだろうが)、これも世界の中で理解した方がよいのかもしれない。

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

2026年2月5日木曜日

断想: 政治家など、なぜなりたいと思うのでしょう?

国政(とは限らないが)選挙が近づくと、いつも不思議に感じることがある。それは

議員ってそんなになりたいものなンですか?

実に素朴である。

ずっと以前にこんな投稿をしたことがある。さわりの部分を引用しておこう:

どんな人が「政治家」などという割の合わない仕事につこうとするのだろう?

(中略)

マンション管理組合の理事長をするくらいですら、管理費の使途が適正であったかどうか、常住座臥疑惑の眼差しでみられるというものだ。針のむしろに自発的に座ろうと言う人はなぜそうしようと思ったのだろう。

上の投稿でも書いているが、アメリカはずいぶん事情が違う。

オバマ氏:「8年間のホワイトハウスでの生活を終え、妻と私は皆さんと同じ民間人に戻ります」 大統領を退任したオバマ氏の民間人としての気になる今後についてですが、実は年金生活に入ります。CNNによりますと、1年間の年金額は20万7800ドル、約2400万円になる見通しで、これまでの大統領としての報酬は年間約4600万円ということで、その半分ほどが今後一生涯、支給されていくということです。さらには、シークレットサービスによる身辺警護や事務所の経費、旅費などは「手当」として税金から賄われることになっています。実は、アメリカの大統領というのは、現役時代ではなくて「辞めてから稼ぐ」と言われていて、・・・

なにしろアメリカ合衆国の大統領だ。ヒラの国会議員とはわけが違う。実際、アメリカの上院議員であっても、退職後の待遇はそれほど良いとはいえない   ―  AIに聞けばすぐに教えてくれる。 確かに経済的な待遇、つまり「儲かる」のであれば、どんな人でも(一度は?)なりたがるはずだ。

今回は前回の逆風選挙で落選した元・安部派議員が大量に立候補しているらしい。

議員に戻りたくって仕方ないんだろうネエ・・・

そう思います。ということは、落選してから国会議員より面白くて、やりがいのある仕事は一つもなかったんだナア、ということが分かります。「議員」なんて、そんなに面白い仕事ではないはずなンだが・・・

大体、一介の国会議員など給料は確かに省庁の事務次官より厚遇されているが、商社や銀行の取締役の方がずっと高給のはずである。それに経営能力を買われれば、80歳まではどこかの企業の経営陣に入れるだろう。民間の有識者として言いたいことを言う機会も与えられよう。「議員」より「事業」のほうが中身はずっと濃いと思うがナア・・・

だから、よけいに不思議なのだ。

国会議員なんて、なぜなりたいのか?

まして総理大臣になりたい人はどんな感性、思想をおもちなのか?総理大臣とて超高給ではない。せいぜい年収4千万円程である。例えば三井物産や三菱商事に入って、50歳前後に上級管理職になれば年収は4千万円程度にはなるそうだ。もちろん誰もが「上級管理職」になれるわけではない。しかし、総合商社の「上級管理職」と日本の総理大臣と、どちらがなるのが難しいですか?「上級管理職」ではなく経営陣、つまり「取締役」になれれば、年収は2億円から3億円に増える。社長や会長になれば、5億円のオーダーになる。総理大臣の年収など、グローバル企業の「社員」程度の額なのだ。外国の企業で昇進すればもっと巨額の報酬になるだろう。

そればかりではない。個人的に知っているわけではないが、「解散」くらいなら天皇の名を借りることで出来るだろうが、その他の政策は周りの先輩、後輩たちから賛同してもらわなければ何一つできないのだ。

気を使うことおびただしい。あの安倍晋三首相、田中角栄首相ですら、願いがすべてかなったわけではなかった。

人それぞれ、人は色々

ではあるが、いつも不思議に思う。一体、それほどまで

日本国が好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、すべてを犠牲にしてもイイ

そんな人が現実にいるのが不思議でたまらない。もし本当にいるなら文字通り「国の宝」である   ―  「宝」は往々にして床の間に黙って鎮座してもらった方がイイのでありますが。

 

 

 

2026年2月3日火曜日

断想: 善意にあふれながら、思考が停止している様な意見もあるようで

国政選挙があると世間が騒がしくなるので投稿の話題が増える。特に今回は、解散そのものの違憲疑惑も憲法学者からそれなりに指摘されているようで、問題意識を刺激される。2月の投稿は前半に集中、後半はお休みになりそうだ。

こんなネット記事をみかけた:

 給付と負担の公平性の観点から、高齢者医療の財源の一部を高齢者自身に負担してもらう発想だが、現役世代の「高齢者が優遇されている」(既得権益層である)という反感やねたみに拍車を掛けるもので、「今の利益を守ろうとする既得権者」対「未来を担う子ども・若者」という対立構造を暗に呼び込んでいるところがある。いわばシルバー民主主義との闘争である。

 そもそも日本の65歳以上の高齢者の相対的貧困率は約20%(5人に1人)に達しており、OECD諸国の中でも高い水準にある。特に女性単身世帯の貧困率は4割とかなり深刻な状況になっている。このように「反既得権益型」のポピュリズムの困難は、対立構造そのものが推進力となる面があることから、いたずらに分断をあおる可能性がある。国民同士のパイの奪い合いを推し進めかねないのだ。

Source:YAHOO!JAPANニュース

Original:東洋経済ONLINE

Date:2/3(火) 6:16配信

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/7d16a38773e1cdca5d92e0615966d63419a85db0?page=3

消費税よりは社会保険料の引き下げがより重要だと主張する政党もあるが賛成だ。そして、社会保険料引き下げが高齢者の医療費自己負担率引き上げにつながるであろうというのもロジカルで賛成だ。医療費が家計を圧迫して、特に低所得者の暮らしが苦しくなるのであれば、保険の高額療養費制度を拡充することで対応する方がロジックが明快だ。

この話題については最近も投稿したことがある。

要するに

年齢によらず医療保険の取り扱いは一律とするほうが透明である。

こういうことだと思うのだ、ナ。

齢をとると多病になる。多病になって最後には治らず寿命を終えるのが人生というものだ。寿命の長短は不平等だが、この不平等は人の努力でどうかなるものではない。しかし、人の努力で平等にできるものがあれば、すべての人は不平等より平等を好むはずだ。

高額療養費制度の利用者は高齢者が多く、若年者は少ないはずだ。それでも保険制度の下で形式的平等を実現しておく方が小生の感性にはあう。

今は若くて保険料負担に苦しむが高齢になれば自己負担率が低くなり便益を享受できるので『人生全体を通して平等は実現されている』というのが、既存制度を守る側の理屈だろうが、国の制度は実に「有為転変」、将来は財政が破綻して政府の公約など消失しているかもしれない。国家の破産は1997年の《アジア危機》、2009年の《ギリシア危機》をみた日本人は(潜在意識であっても)よく分かっている。日本が(再び)破産する可能性は日本人はもう肌で感じているのである。何より国の制度に入るかどうかで《選択の自由》がない。多くの日本人は国が決めることを強制されるという非条理への怒りを感じている・・・とも思えるのだ、ナ。

実質的平等は・・・などと言わず、まずは形式的平等をすべての時点において実現しておくべきである。

こんな風に思います。

ただ、上の引用した部分には「変な個所」もある。

日本の65歳以上の高齢者の相対的貧困率は約20%(5人に1人)に達しており、OECD諸国の中でも高い水準にある。特に女性単身世帯の貧困率は4割とかなり深刻な状況になっている。

この部分である。

実はカミさんが定期的にランチしている友人の一人は、数年前に夫君を亡くし、いまは非課税・女性単身者世帯なのである。定義によれば日本社会の中の《相対的貧困者》に該当する。

しかし、その友人のご両親は町の中心部で事業を展開して、いまもご健在であるので、両親の介護をしながら豊かな生活を送っている。

それに、これはよく指摘されることだが、女性単身者の日常生活は(持ち家か賃貸かにもよるが)せいぜい年収150万円(毎月12万5千円)もあれば十分のはずで、月々この程度の収入ならば3000万円の金融資産を毎年5%で回せば入るのである。3000万円なら現役中の貯蓄に退職金を加えればそれほど達成困難な金額ではない。更に、65歳を超えれば基礎年金も入るのだ。

要するに、

「相対的貧困」という尺度は現実の貧困をとらえる基準としては弱すぎる。

こういうことである。

少なくとも

所得ではなく(その人の)消費金額について中央値の1/2未満を相対的貧困とする

など、着目点の改善を望む次第だ。消費には持ち家帰属サービスも加算するべきだ。当該年だけではなく複数年にわたる継続性にも目を向けるべきであろう。

単身女性単身者には貧困世帯が多いので、医療費の自己負担率を引き上げるのは困難であるという指摘は、数学の定期試験で問題をみるなり

この問題、解くのが難しいから、解くのはやめヨっかな

こんな思考の停止、努力の放棄にかなり近い発想ではないかと感じている。

上に引用した記事がそうだというのではないが、ネット記事やコメントを読んでいると、「正気か?」、「勉強したことがあるン?」と思わず口に出そうな異常かつ無知な書き込みが多い、というより異常増殖している感覚がある。以前はこれ程ではなかったと思う(自信はないが)。

最近になって囲碁の「みんなの碁」や「囲碁シル」の愛用者になって技術革新の恩恵を実感しているのだが、囲碁にせよ、将棋にせよ、ネット対局では各人の棋力を知っておくのが必須だ。そのため、どのアプリでも《レーティング(Rate/Rating)対局》がシステム化されていて、勝敗の実績によって昇段・降段される。相手の力量が明示されていなければ対局を受ければいいのかどうかも判断できない  ―  過小に申告して楽しむ実力者も横行しているが、それは予定された状態ではなく、是正しうるノイズである。

で、思うのはネット記事やコメントを投稿する人にもレーティングを適用してほしいのだ、ナ。個人データとして何か有用な情報を登録してもよいし、オンラインで多数者から付与される「信頼ポイント」であっても可(かもしれない)。何も全員に義務付ける必要はない。"No Rating"という格付けがあってもよいのは当然だ。入試センターの共通試験で15科目平均97点をとれるAIなら、その人の既往投稿やコメントの内容を5段階評価する作業など簡単にできるだろう。

形は何でもイイが、書いている人がどのレベルの人か、それが分かればコメントに対するコメントも書きやすいし、コメントを書かれた側にとっても有益な情報になると思うがいかに。

2026年2月2日月曜日

ホンの一言: 帯に短し、たすきに長し。理想の政治家などいませんヨ

 TVでも、(一部の例外を除き)新聞でも、はたまたネットを見ても、《高市政策》は日本を破滅に導くという見方であふれている。そうかと思うと、閣僚経験もあり元・東大教授でもある某氏は、仮にこのまま《高市解散》が成功に終わるとすれば『この民にして、この総理大臣あり』と、マア、有権者を突き放すような投稿をしている。

小生は、これまで複数の関連投稿をしてきたが、対皇室スタンスだけは《高市理念》を共有している自分がいる。しかし、《高市経済》と《高市外交》は世間の識者が言うとおりだと思っている。更に《高市軍拡》が現実のものになるとすれば「狂気の沙汰」だと思われる一方、

徴兵制は憲法の禁ずる苦役には該当せず

という首相発言がいつあってもおかしくないと想像しているし、小生も同意見だ   ―  米・最高裁判例でもこれ自体は肯定されている。また原発の積極的活用を強調しても理解できるし、核武装への道を探ろうという見解を(どこか外国で)述べたとしても、それも一つの選択肢であると思うのが、小生の立ち位置だ。

右翼は嫌いだ。とはいえ、一部の政治哲学には共感する。否定しているのは経済政策である、というより経済音痴ぶりに唖然としている。昭和前期を連想させるような国家主義的言動には嫌悪を感じる。そんな要約になるのだろう。


一方、中道連合の親中外交には賛成である。現代中国には見るべき文化はないとしても、歴史的に多くの文化を創造してきた漢民族には尊敬の気持ちをもっている。漢文も漢詩も陶芸も好きであるし、最近は書道の美もよく分かるようになった。現時点の経済的相互依存関係をみても日中対立には何のメリットもない。

現に共同利益を受けておきながら、何のメリットもないのに空疎な敵愾心を煽り関係を壊すような言動は、ただ阿呆にのみ出来ることである。

現代中国に見るべき創造や文化が何一つ(?)ないのは、ひとえに共産党が信奉するマルクス的唯物史観がもたらす弊害であると観ている。

その他のリベラル派の政策には賛成できない。高市経済は日本経済を破綻させるだろう。が、規制や再エネ支援を偏愛し自由経済を忌避するリベラル派の経済政策も日本をずっと停滞させ続けるであろう。

何もかも兼ね備えた理想的政治家など30年に1人でも出現すれば御の字である。

結局、こういう事かもしれない。


それにしても不思議なのは、(一部を例外に)多くのマスコミ、ネット記事でこれほど評価されない高市首相が、なぜか週末の選挙では大勝しそうだという(今の)予想である。

評価されず、けなされてばかりの政治家が、なぜ選挙で勝ちそうなのか?

七不思議であります。

2026年2月1日日曜日

断想: 政治の浄化には「司法改革」が特効薬だろう

あと1週間で投票日を迎える今回の衆議院選挙は、予算審議もしないまま解散してから異常なほどの短期決戦であり、加えて真冬かつ受験シーズンの投票日でもあることから、もう「見たことがない」という様相を呈している。結果予想も人や機関によってマチマチ、バラバラで、誰も分からないということだけが分かる。

今になって高市首相のマイナス材料を相次いで週刊文春が報道している。世評では「高市首相の逃げ切り濃厚」という見方が強いようだが、仮に選挙に勝っても、あとが泥沼だろう。それでもやりたいっていうのは、よっぽど政治が好きなんだネエ、と感嘆します。

それはともかく、高市さんや萩生田さんも常連だったという旧統一教会とのつきあい。政治献金やら裏金やら、世間の関心は薄れてきたという報道なのだが、「裏金問題にはもう関心がない。それより消費税を減税してくれ」と。もしそんな有権者が大半を占めているようなら、戦後日本の民主主義も終末期に入ったという言うべきでありましょう。

但し、政治とカネ問題を解決する特効薬はある。それは厳格な経理、規制をかけるのではない。規制には必ず抜け道があるもので実効性には期待できないのだ。

それよりは《刑事司法》を民主化するだけで贈収賄、汚職はもちろん冤罪もまた大幅に改善される。小生はそう予想する。

日本の統治システムの弱点は、戦前・戦後を通して、《司法の弱さ》にあり

これが小生の(特に戦後の)日本社会観だ。

日本の法体系は英米法ではなく大陸法の系統で刑事事件捜査とその後の法廷事務は検察官が主導するというやり方だ。それでも、ドイツやフランスの成熟した司法に比べると日本の後進性は明白である。

試みに、何かと日本がお手本にしてきたドイツの刑事捜査、刑事司法をChatGPTに聞いてみたので要点の部分を抜粋しておこう(全体はここ):

ドイツ手続の特徴を一言でまとめると

  1. 検察主導
  2. 裁判官による捜査段階からの強い人権統制
  3. 公判中心主義・口頭主義
  4. 有罪前提ではなく「客観的真実発見」重視

ドイツは前稿でも触れたが《起訴法定主義》で検察官の裁量は混じらない。原則として、すべての刑事事案が起訴され裁判になる。

ドイツの起訴法定主義とは、

検察は、犯罪の嫌疑が十分に認められる場合、原則として起訴しなければならない

という原則です。

明文根拠:ドイツ刑事訴訟法(StPO)§152(2)

補強規定:StPO §170(1)


この原則は、

「起訴してもしなくても検察の裁量」

という制度(=起訴便宜主義)を原則として否定します。

日本の刑事事件の有罪率が99.9%であることは世界でも有名だ。これは警察が検察に送検する事案のうち実際に起訴されるのは3割から4割であるためだ。強烈な事前スクリーニングを裁判とは別に検察官の独自裁量でかけているわけだ。

本当は、無罪が見込まれる場合でも検察は容疑者を公判にかけて「無罪判決」を得させるべきなのである。それが容疑者の人権を守ることにもつながる。

そうしない一つの理由は、無罪判決が担当検察官の敗北として評価されるからであろう。

予審制の下では内閣と議会から独立する予審判事が本審(=公判)を開くかどうかを判断する。ドイツもフランスも予審制である。日本にも昔は予審があったが、戦後になって司法省が解体され裁判所が独立したのを機に廃止され、それからは検察官が実質的には予審判事の役割を(司法府ではないにもかかわらず)代行している   ―  見ようによっては、裁判官人事の権限を失うのとバーターで、予審制を廃止し裁判所の捜査機能をなくしたと観られないこともない。検察官は「準司法」と称しているが「法相指揮権」があるように内閣の統制下にある。

 

日本では検察庁が不起訴の詳細な理由を公表することはない。不起訴は「無罪」と実質的には同じ結果となるが、裁判による「無罪判決」とは全く異なる。かつ取り調べに弁護士が同席することはない。裁判とは違うのである。「一事不再理」の大原則も適用されず、不起訴であっても、検察の裁量で再び取り調べの対象となりうる。逆に、検察の裁量で起訴しないと決めれば、裁判の被告人になることはない   ―  「検察審査会」は最近になってようやく実現した司法の民主化の成果である。

検察官の裁量が排除され、無罪の可能性を含んだうえで事件はすべて公判に回されるのであれば、政治家が不正を行うハードルは極めて高くなるはずだ。また、公判裁判をとおして有権者が民主主義社会を運営できるだけの「常識」をもつことにもつながると思う。

日本の政界の浄化は《司法の浄化》が特効薬になると考える次第。覚書まで。

2026年1月29日木曜日

断想: 中国の刑事司法は怖い ≒ 日本の刑事司法は怖いという一面

再審法改正に向けて作業が続けられているが中々収束しない様子だ。そもそも「改正」の名に値する刑訴法改正になりうるのか、検察側の抵抗もあって予断を許さないとも伝えられている。


思うのだが、欧米先進国(?)と肩を並べて民主主義国に恥じない司法であるというには、四つの選択肢しかないと小生は思っている。順にあげよう。

  1. ドイツ風の起訴法定主義
  2. フランス的な予審制
  3. イギリス的な法曹一元と私人訴追制
  4. アメリカ流の検事公選制

思うのだが、いったん犯罪容疑者になった場合、身の潔白を晴らすには《裁判》によって無罪判決を勝ち取るのが最良かつ最終的である。


古代ギリシアでは市民が訴追し、市民が弁護し、市民が判決を下した。いわば「みんなで弁論をして、みんなで判決する」という民主的司法が制度として実現されていたわけで、このあたり、文明の出発時点でそもそも東洋と西洋は気風が大いに異なっていた。

日本国内のマスコミは、何かというと警察による「逮捕」を有罪の証明とみなし、検事による「不起訴」を無罪の証明のように語る。が、これほど大きな間違いは反社会的であるとすら思っていて、人権侵害の最たる報道姿勢である。

検察の不起訴は、実質的には無罪と等しいのだが、裁判によらずして無罪とするのは筋が違う。無罪が確定したわけではないので、いつまでも同じ容疑で世間からバッシングされる温床になる。日本の法務省にはお飾りのように人権擁護局があるので、こうした酷い状況が発生しないようコミットする義務があると思うがいかに。


検察による不起訴は無罪の証明ではない。そもそも検察庁は司法ではない。行政官庁の下にある行政庁である。なので、検察官は行政官として刑事事件の捜査で警察を指揮し、公訴事務を担当し、(原則として)すべての事案について司法の法廷の場で決着させる。これがドイツ流の起訴法定主義で実にドイツ的な首尾一貫さを感じる。

フランスでは予審判事が置かれていて強力な捜査権限をもっている。起訴された刑事犯を予審判事が中立的な立場で吟味し、裁判の厳密性を保証しようとするフランス的なやり方だ。ドイツも予審制はあるので「大陸法系」とまとめてもよいのだが、フランスは起訴法定ではなく起訴便宜主義をとっているので分けた。

小生が最も共感を感じるのはイギリスの司法である。ネットにはこう書いてある:

イギリスの法曹一元制は、熟練した法廷弁護士(バリスタ)が裁判官に任命される制度であり、14世紀からの伝統を持つ。事務弁護士(ソリシタ)と法廷弁護士の二層制(職務分担)を基礎とし、10〜15年以上の経験を持つ者が上級裁判所裁判官に選ばれる。これにより実務経験に基づく多様性と専門性が確保されている。 

またイギリスの検察官は事務職である:

イギリス(特にイングランドおよびウェールズ)の検察官は、主にCPS(刑事訴追局:Crown Prosecution Service)に所属し、警察が捜査した事件の公判を担う。日本の検察官と異なり、原則として捜査権を持たず、起訴後の訴追打ち切り権限や起訴状作成を行う。実務上、法廷弁護士(バリスタ)が訴追代理を務める。 

職業裁判官、職業検察官を任用せず、法曹資格のある専門家が判事役、検事役、弁護士役を務めるのは、フレキシブルでアングロサクソン的な行き方だ。

最後のアメリカ風の検事公選制は、大半の刑事事件を担当する地方検事のことで、連邦検事は任用制で公務員である。選挙によるのでアメリカの検事は、広い裁量権を与えられていて、必然的に起訴便宜主義をとっている。


検察官がキャリア公務員(=官僚)であるかどうかと、起訴を法定とするか裁量とするかは、ハッキリとした相関はないようだ。


検察官が警察の捜査に対して一般的指示権をもつのは、大陸法の系統で法を構成している国に多いのだが、ドイツでは起訴法定主義をとっていて、起訴・不起訴に検事の裁量は混じらない。フランスは検察から独立した予審判事が検察・警察と独立して捜査・証拠収集を行い、公判へ送るかどうかを判断する。司法は行政から独立している。


今回の刑事訴訟法改正で、日本の刑事司法が恥ずかしくないものになる可能性はほとんどない。

数年前にカルロス・ゴーン日産社長が微罪(?)で拘束され、その後レバノンに逃亡するという事件が起こったが、同氏は『日本には民主的な司法が存在しない』と話していたという。何もゴーン氏の味方をするつもりはないが、

日本には民主的な司法がない

と怖れた心理は、中国で拘束された日本人が

中国には民主的な司法がない

と恐怖する心理とどことなく大同小異に見えて仕方がない。

何事によらず落ち目で、本卦還りの三つ子のような感がする日本国であるが、せめて司法の民主化だけは粛々と進めなければなるまい。そうでなければ、優秀な外国人が働く場所としては怖くて、怖くて、検討対象にはとうてい入れてもらえないであろう。


今日のようなトピックはあまりとり上げたことがない。本日は頭出しということにしよう。何回か話題にするかもしれない。


2026年1月26日月曜日

ホンの一言: 「オールドメディア」というより「ゾンビメディア」だネエと感じること

つねづね不思議に感じているのは、これほど「専門家のご意見」を好む(オールド)メディアで、生身の専門家には意見を問うが、急速に発展中のAIを利用する場面はまったく目にしないことだ。

いま「大手政党?」のほぼ全てが「食料品に対する消費税ゼロ」を公約にかかげている現状に経済専門家はほゞほゞ例外なく反対を表明している。だけではなく、日本の財政破綻の懸念から国債相場と円の対ドルレートが暴落している。


ちなみに「長期金利急騰」と表現して「国債相場暴落」の語句を避けているのは、幼稚なイメージ操作であって、政権に対する忖度だろうと小生は観ている・・・マ、これは細かい話だ。


先週末になって、日米政府の協調介入がまとまったか詳細は不明だが、急速な円安修正が進んだが、今日の月曜になると円高進行が国内景気に冷水を浴びせるのではないかという心配から日本の株価が暴落した。

何だか、あちらを立てるとこちらが立たずで、「高市路線」は最初から方向違いであることを示唆しているのは明白なのだが、当のご本人が国民の審判を求めるなどと堂々と語っているので、状況は何も変わっていない。


大体、日本国民が思う方向で日本社会が変われるなら、バブル崩壊も失われた30年もなかったはずである。停滞の理由は、合理的な政策を一部国民の強硬な反対から進められなかった点にある。

この辺を淡々と事実のままに報道すればいいのに、取材力が落ちたか、そんな話題には故意に触れないつもりなのか分からないが、「オールドメディア」が触れない重要な話題は最近になって特に増えていると感じる。


消費税ゼロについても突っ込みが不足している。こんな時、これまでの行動パターンならすぐに国際比較をするはずである。

消費税≒欧州型付加価値税(VAT)である。そこでChatGPTに

欧州諸国の多くは食料品に対する付加価値税率を低くしていませんか?

と聞いてみた。その回答をポイントだけだが以下に示す。

多くの欧州(特にEU加盟国)では、「食料品に対する軽減税率」を導入しており、標準VATより低い税率で課税している国が多い。

そもそもEUでは付加価値税率は最低でも(=標準税率)15%以上と決められている。その中で食料品に対する税率はフランスでは5.5%、ドイツでは半分の7%である。EU域外になったイギリスでは食料品はゼロ税率。

イギリスではトラス政権の大盤振る舞いとポンド崩壊が記憶に新しいが、それでも食料品に対するVAT税率は(基本的に)ゼロとしている。それでもって経済は、マアマア、安定している。

こんな事実は、ギャラを払って経済専門家にご意見を求めなくとも、安い課金で一発でPCが教えてくれる。

食料品に対する消費税率ゼロは(小生はゼロ税率は反対だが)決して突飛な政策ではなく、むしろ望ましい政策である。・・・コメをはじめとする輸入食料品に対する関税率を(一定期間だけ?)下げることも検討するべきであるが。どうすれば可能かだって?初めてのことならいざ知らず、実際やっている「欧米先進国」があるのだから、お手本はあるだろうにネエ・・・分からんか!と言いたいところだ。


なぜ真っ当な議論をメディアは進めようとしないのか?

いま問われているのは

大砲を増やすか、バターを増やすか

選ばなければならないのは、伝説的な経済学テキストであるPaul Samuelsonの"Economics"で有名になった経済学の最重要課題であるこの問題なのである。

要するに、軍事拡大を進めれば生活支援まではカネがない。生活支援を手厚くすれば軍事費にはカネがない。両方は不可能だ。この選択なのである。

政治家には選択の権利がないから選挙で問うのである。

この基本認識を語っている「経済専門家」は一人もいない。直面している《選択のフレーム》に落とし込む作業くらいはしてあげれば良いのではないか?ChatGPTなら政治家の発言記録を情報にして直ぐにやってくれますゼ。出演している「経済専門家?」、おそらく大方は「無免許運転」なのであろうと推察している。


ドラマもダメ。スポーツ中継もNetflixなどの配信にとられる、映画も復活気味。報道もこんな惨状。残るのはお笑い芸人が集まるワイドショーだけとあっては、もう《オールドメディア》という呼称さえ非現実的だ。《ゾンビメディア》の方が似つかわしく思う。


2026年1月22日木曜日

断想: 何かを信じたいとき問題は「三択」になる

 「高市解散」は極めて世評が悪いが、それでも一部の(熱狂的右翼の?)支持層を基礎に今でも高い支持率を誇っている様だ。

国債増発まで選択肢に入れて、積極的な財政出動、軍事拡大路線を進み、中国と戦おうという高市首相ご本人の統治スタイルが若者たちには受けているのだろうと観ている。

しかしながら、それによって金融市場、特に国債市場では先行き財政破綻懸念から国債相場暴落、長期金利急騰が続いている。

今日あたりは日銀の国債買い入れ増額方針が効いたのだろうか、相場暴落は一休みしているが、もしもこれが総理‐財務省による要請なり、プレッシャによるものであったなら、インフレ下の国債買い入れ増加イコール貨幣供給増加であるから、必然的に物価を上げる方向に作用する。

純経済学的に考えれば、「高市路線」は詰んでいるのであり、

ここは一歩後退。守りを固め、時機を待ってから反撃するべきです。

と。総理に諫言するべきタイミングなのだろうが、そうすれば「ぶれた」と批判され、そのまま失脚するのが怖いのだろうと勝手に憶測している。

ただ、どれほど一歩後退しようが、高市総理という政治家は《国家主義者》である事実は永遠に変わるまい。

思うのだが、人は何かを信じて生きるものである。成人するまでは親、もしくは身近な保護者を信じるものである。

やがて人は独立して、自分で考えて自分の人生を歩み始める。そうなってからも、親のいうとおりという御仁もいるが、大方は何かを信じて生きているものだ。

それは友情であったり、家族であったり、人間関係であったりする。他の人間によって自分は生かされていると思えば、《社会》を信じる。社会に恩返しをしたいという心境になるものだ。逆に、社会に居場所を得られないと感覚すれば、社会に敵意をもち、時に暴発する。社会は一定の確率で、この種の不適応者を生むもので、そんな人物に対して社会は責任を感じるべきだと考えている。

社会を信じる人は、社会を支える現実の力として《国家》を求めるのも必然的な結果である。国家主義者が10人いれば10人とも社会的価値の重要性を説きたがるものだ。

日本国の尊厳を主張する保守的若者は、内面においては日本社会を守りたい、そこに生きている家族や友人、知人たちを守りたい。こんな心情があるのだろうが、この辺の国民心理(?)は、太平洋戦争に大敗した以降も日本人の心情としては、何も揺らいではいないはずである。

これとは正反対の極にいるのは《科学》を信じるというリベラル的思考である。最もラディカルであるのは、マルクス的な科学的社会主義であって、一切の人間存在は物理学的な素粒子に還元される。人間は、要するに高分子炭素化合物なのであるから、精神的な概念や価値は単なる主観的錯誤、幻想であって、実在するものではない。社会にも実体はなく、国家にも実体はない。実在するのは、生きている生物、その中の人類という種であるから、重要なのは「食うこと」、「住むこと」、「寝ること」である。そのための「生産活動」である。こんな思考になるので、国家のためにという議論は意味がなくなる。

小生は、経済学とデータ解析で食ってきたので、唯物史観的な世界観にはずっと親近感をもっていた。が、数年前から疑問を感じ始め、いまでは完全に転向した次第は本ブログにも投稿してきた。

とはいえ、この≪科学主義≫というか「合理的リベラル思想」というべきか、こうした立場の良いところは、極めて普遍的である点である。

もしも日本政府が完全リベラルな世界観をもって統治をおこなうならば、あらゆる非科学的な偏見や先入観を排して、民族、国籍、日本人、性別、出自などを問わず、人はみな平等とみなして、全員が「食って」、「寝て」、「暮らす」ことを最高の統治目標とするはずだ。

これがいまの日本人にとって悪いはずがない。

とはいうものの、

人はパンのみにて生くるにあらず

である。『新約聖書』の中のイエスの言葉として有名だが、実は『旧約聖書』でも

それは主である神が、あなたに、人はパンだけでなく主である神の口から出る全ての言葉によって生きているということを知らせるためであった

こんな一文がある(Wikipedia)。

人間は、食べるもので自分の身体を養うが、物質的身体は「魂」や「知性」の入れ物であって、人間存在の本質は身体ではなく、精神である。

「精神」すなわち「言葉」である。個々の人間存在は、身体ではなく、言葉を使って、考えることによって実在する真理を認識している。

どうしてもそうとしか考えられない段階がやってくる。

「国家」でも「科学」でもないが、信じるに足る対象。それが「哲学」であったり「論理学」であったり、「数学」であったりするわけだが、理性を超えたところに「宗教」がある、というのがロジックである。

社会で生きていく上で、となると第3の選択肢は「哲学」ないし「信仰」という言葉になる。

物質的身体を動かしている非物質的な実在を漢字では「精神」と書いたり「魂」とか「霊」とか「法身」と書いて理解しているが、その理解はちょうど数学者が「無限集合の濃度」や複素関数の微分可能性を理解したり、はたまたヘーゲル的な「世界精神」を理解するのと、ほゞほゞ同じ種類の知的行為である。

そんな意味合いで、観察可能な科学的真理を認めつつも、観察不能で非物質的な実在も、理解可能な範囲、議論可能な対象として信じるのが第三の立場になる。

但し、宗教や信仰は観察可能なデータで(原理的に)検証されえないため、学理としても信仰対象としても宗教対立を招きやすいのが欠点である。

とはいえ、知的行為が人類共通の行為であるという意味で、この立場も普遍的であって、特に共通の信仰の下では日本人と外国人の差別はもちろん、男女差別、人種差別等々、一切の差別を否定するところが2番目の「科学主義」、「唯物主義」と共通している   ―  キリスト教やイスラム教の女性観は十分な知識をもっていない。法の前の平等という多分に作為的な平等観ではなく、もっと原理的に「神の前に」あるいは「仏の前で」、「阿弥陀如来の前で」人間はすべて平等であるとみなされる。

思うのだが、この第三の立場の利点は、精神的価値と知的活動を肯定し、文化を積極的に支援することが統治上の原理になることだ。

平等施一切 同発菩提心

という句は、小生が毎朝読経している総回向文にある。「平等」という言葉は(物理ではなく)仏理に由来しているのを意外に思う人も多いかもしれない。

イノベーションは、人間の精神的活動が人間を支えるものと認識し、学問的自由を保障するところから生まれる。

だから21世紀の統治原理としては、この第三の立場しかあり得ないというのが、小生の勝手な個人的見解だ。

宗教と政治の関係性については、相当以前に一度投稿したことがある。そこで

民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。

こんなことを書いた。そもそも広い意味での「宗教感情」が日本人に広くもたれているのは、正月の初詣で、お盆の精霊流しなどの行事をみれば明白である   ―   日本固有の神道における平等観は勉強したことがない。

そんな意味では例えばリベラル派経済学者として著名なKrugmanが次のように発信しているのは、見解の自由、意見の自由、表現の自由を保障する在り方として羨ましく思っている。

I had never heard the term “sundowning” before it happened to my own father, yet it’s a fairly common syndrome. In his last few months my father remained lucid and rational — remained himself — during daylight hours. Once the sun went down he deteriorated, becoming confused, paranoid and aggressive.

It’s terrible to watch sundowning in someone you love. But that’s a personal tragedy – not a national or global one. It’s an entirely different matter when the president of the United States is sundowning — a president surrounded by malign sycophants who tell him whatever he wants to hear and indulge his every whim, no matter how destructive.

 

「サンダウニング」という言葉は、父が実際に経験するまで聞いたことがありませんでしたが、実はかなり一般的な症候群です。父は最期の数ヶ月、日中は正気で理性的な、つまり本来の自分らしさを保っていました。しかし、日が沈むと容態は悪化し、混乱し、偏執的になり、攻撃的になりました。

愛する人がサンダウニングに陥るのを見るのは辛いものです。しかし、これは個人的な悲劇であり、国家や世界規模の悲劇ではありません。アメリカ合衆国大統領がサンダウニングに陥るとなると、全く別の話です。大統領の周りには、どんなに破壊的なことであろうと、聞きたいことを何でも言い、どんな気まぐれでも甘やかす、悪意のある追従者たちがいます。 

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/its-sundowning-in-america

Date: Jan 20, 2026

Author: Paul Krugman 

自国の現職・大統領を「病気」だと言っているに等しく、こんな発信が自由にできるなど、日本国の現状と比べて、その寛大さは比較を絶している。


少し前までは、日本社会は自由で大らかで、品がなくハラスメントは横行していたかもしれないが、面白く生きられる社会であった(と記憶している)。

あらゆる人が、あらゆる人に「寄り添う」とき、「国家主義」は単なる「もたれあいの社会」を作るだけである。できあがる社会は動きのとれない、非寛容な管理社会だ。もたれあい・・・かつて「酷電」と呼ばれた朝の通勤電車は文字通りの「もたれあい空間」であった。立ったまま寝ても周囲の人にもたれて倒れずにすんだ。しかし、そんな残酷な空間からは誰しも逃れたいと一人残らず思っていたのである。社会を「酷電」にして支えあうなどは知恵と創造力の欠如を象徴している。まさに「貧すれば鈍す」だ。国家主義が堕落するとこうなる。

人が人に具体的な何かを期待し、求め始め、それが自己愛と結びつくことで、人は限りなく堕落すると確信している。人が人を救えると考えるのは科学主義者であろうが、科学主義の世界に精神の自由が尊重される空間はないはずだ。


現代日本社会の若者世代に高市的統治スタイルが善いとされているのなら、今後、日本が歩んでいく道は、かなりな程度「国家主義的」で「管理国家的」な色あいを強めることになるのだろう。

弱者を救済するのは「国家」の責任であると思えば思うほど国家は権力を堂々と行使する。

やはり日本は、「国家総動員」という社会体制を一度は選択した国民なのだナアと思う。そして同じ入り口から入れば同じ出口から出て瓦解するであろう・・・そんな事態は本当に一度だけ、"Das gibt's nur einmal"であってほしいものだ。

今回の投稿は覚書だ。ちょっと舌足らずだったかな?ま、もっと書き込むのは別の機会に。

2026年1月19日月曜日

断想: 大正と令和、明治と昭和。反発と憧憬が同居する関係性か?

カミさんと愚息の話になってこんな会話をした:

小生: それにしても最近の若い世代って、繊細であるのと同時に鈍感、傷つきやすいのに人を傷つけていることには鈍感。何だか分かりにくいところがあるよナ。うちの〇〇もそんなところが濃厚にあるだろ?

カミさん: △△さんとこの娘さん夫婦もそんな風みたいだよ。大人になっていないのかなあ・・・

小生: 幼稚だって世間では言うけどネ。若い人たち、よく「昭和」は古いってボロカスに言うじゃない。だけど同時に「昭和レトロ」なんて、昭和時代の当たり前の日常に結構魅かれるらしいんだよね。ずっと前にさ、ゼミ生の◆◆君がいたろ?彼なんて、将来は自分の窯で陶芸をやりたいなんて言うんだ。作務衣を来てね。マ、なんとなく形から入るところがあったけど、そんなに古い和風がいいと思うのかねと不思議に思ったよ。

カミさん: 惹きつけられながら、ご本人にあうと反発するって、若い人は昔からそうだったよ。

小生: 平成もそんなところがあったけど、昭和への反発は令和になってから高まるばかりだなあ。昭和に反発するなら昭和文化も排斥するのが道理なんだが・・・そういえば、大正時代の風潮は『明治はもういい』というもンだったんだ。明治の家父長的な家庭を否定して、食事の食べ方まで変わっていったのが大正時代なんだよね。「大正デモクラシー」って偉大な明治への反発から始まったものだって俺は思っているよ。だからだね、大正の民主主義はヒ弱くて、昭和の保守化が来ると呆気なく消えてしまったのは、偉大な明治への反発心が支えていただけってところがある。

カミさん: 食べ方まで変わったの?

小生: お祖父さんから聞いたんだけど、明治の世帯主、戸主って呼んだはずだけど、食事は時代劇に出て来る「箱膳」でさ、それも一家の家長が奥さんから給仕されながらまず先に食べるのが普通だったそうだよ。

カミさん: 私が小さかった頃はもう丸形のお膳だったけどね。

小生: だんだんそれが広まったのが大正時代から昭和。一家団欒なんて言葉は明治にはなかったのさ。家族がそろって食べるときも黙々と箸を動かしていたそうだ。別々の膳を前においてね。

カミさん: 昭和時代の暮らしなんて今の若い人は想像できないかもね。

小生: 俺が小さい頃はサ、結構「停電」があってネ。おふくろが「今日は夕方まで停電なのよ」って言ってたものサ。だけど、ちっとも焦ってなかったよ。その頃は、冷蔵庫は氷式。暖房は木炭の火鉢。風呂を沸かすのは薪。料理は都市ガスじゃなくてプロパンガスを使うことが多かったけど、焼き魚は七輪でこれまた木炭。電気は夜の照明だけさ。テレビ、ラジオは電気だったけどね。別に必須ってわけじゃない。今は、何もかも、自動車まで「電気を使おう」だからネエ。社会が脆くなるはずよ。

カミさん:北海道のブラックアウトには吃驚したものネ。 

小生: 一事が万事さ。便利さの裏には潜在的な不便が隠れているンだな。江戸時代の暮らしが時代劇で分かっているなら、昭和時代だって頭では分かるさ。だけど、生々しい感覚としては全然分からんだろうね。ま、一口に言うと

親、子を知らず

子、親を知らず

って、ドラマの「琅琊榜(ろうやぼう)」にあったよね。育ってきた生活のスタイルが違うんだから、感覚もまったく別、感じ方も別、親と子であっても、分かりあえる部分は何パーセントしかないと思うよ。言葉ではコミュニケーションできてるけどね。


何だか淋しい話をしたものだ。

しかし、いま会話を思い出しても、令和の優しさはいずれ難題を乗り越える国家主義の時代がやってくると「ひ弱な令和」と揶揄されて、否定されてしまうのではないかと心配になる。ちょうど明治への反発から生まれた大正文化の理想が《あだ花》であったように。


そうそう、では「平成」という時代は?

平成は昭和が最後に残したバブルのつけを苦闘の末に解決した時代だ。苦闘の30年の間に、すっかり背が丸まって下を向く癖がついてしまった。その意味で、平成は文字の定義通りの《ポスト昭和時代》であったと勝手に総括している。

2026年1月16日金曜日

ホンの一言: いわゆる「7条解散」だが高市解散はさすがに明らかな違憲になるのでは?

国政選挙で選ばれた衆議院議員の身分を奪う「解散」を行うには相当厳しい条件が課せられている。原則は憲法第69条で次の通り定められている:

内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

自治体の首長が議会で不信任された場合と主旨は似ており、要するに不信任案が可決された場合には、議会の解散を以て民意を問うことができるという規定だ。

これが憲法上の趣旨であることは自明であろう。


ところが、第7条には「天皇の国事行為」として

天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

という規定があり、その3項には

衆議院を解散すること。

という一文が含まれている。

国会で内閣不信任案が可決されたわけでもないのに総理大臣が衆議院を解散できているのは、内閣の助言によって天皇が衆議院を解散しているのであって、故に解散の正当性はこの第7条の規定にあるというのが、議論としては通ってきている。

しかし、本当に《7条解散》は合憲なのかというのは、常に問題として議論が続いている。

天皇の解散詔書があれば総理大臣はいつでも自由に解散できるのか?総理大臣には解散権を与えられているのか?

素直に読めば、総理大臣が何の外的条件もなく「解散権」を自らの権限として有しているのではなく、天皇が国事行為として解散を行う、それには内閣の助言がいるのであるから、天皇に「解散権」があることになる。

こういう理屈になるのではないか?本当に天皇に「解散権」があるのだろうか?憲法の条文はこういう主旨なのか?


思うのだが、法学者から憲法上の疑問が提起されるような「際どい政治」をするべきではない、というのが小生の感覚だ。

憲法上の本則ともいえる《69条解散》は、実は戦後政治史において頻繁に起きているわけではない。記憶に残っているのは昭和55年の大平内閣による「ハプニング解散」、それから平成5年の宮沢内閣による「嘘つき解散」の2件である。解散のほとんどは7条解散であるから、もしも7条解散が違憲であると判断されれば、これまでの解散はほとんどが違憲であったという理屈になり、戦後日本の国内政治は違憲の上に成り立っていたという帰結になる。とてもじゃないが、7条解散は違憲であるという結論は、今さら(革命でもない限り)公式には出せるものではない。


それでも小生は

7条解散は憲法違反である

そう思っている。専門外で細かいロジックは書かない。理由はただ一つ

7条解散は、(自民党の)自己都合による天皇の国事行為権の乱用で、従って「天皇の政治利用」に当たる。

普通に考えればこうなるのではないかと思っている。「総理の専権事項」など憲法のどこを探してもそんな規定はない。

天皇の名を借りて衆議院を自己都合で解散している以上、「天皇の政治利用」に該当する。

そう感じますがネエ・・・戦前なら大騒ぎだ。「詔勅を防壁となし」と非難され退陣した桂太郎の前例を挙げる人がいないのは可笑しな話だ。何より民主化された戦後日本で大騒ぎにならないこと自体、小生には七不思議であります。大体、国会の予算審議日程をカン無視するにも程合いってものがある。そう思いませんか?支持・不支持は別として・・・

大体、総理大臣がいつでも好きな時に衆議院を解散できるなら、そもそも第69条の条文を敢えて入れる必要はない。不信任されようがされなかろうが、自由に解散できるのだから。第69条があるのは、この場合には議員の任期に関わりなく衆議院を解散できるという限定的な規定であると解釈しないと理屈が通らない。第7条の主旨は、天皇に解散権があるのではなく、解散詔書を以って衆議院の解散日とするという手続き。そう読むのが中学生でも分かる普通の読み方ですゼ。

それに小生が暮らしている北海道の2月。投票当日が猛吹雪であったらどうする?別に国会が暗礁に乗り上げたわけでもないのに、実に配慮のない政治手法でついて行けるものではない。

今回だけは《中道改革連合》に走るか……フランスの「共和国連合」を連想するナア(今は「国民連合」?)。「連合」というのは、その昔の「連合軍」が潜在意識にあるのでしょうネエ(違うかな?)

もうこれを限りに自民党とは「お見限り」とするか?長かったが縁の切れ目かもしれない。本当は中道右派にシンパシーを感じていて、立民のリベラル左派の思想とは波長が合わないのだが、右翼よりはよい。

【加筆修正:2026−02-04】


2026年1月15日木曜日

ホンの一言: 日米の良識派、いまだ健在なりということか?

通常国会冒頭でにわかな衆議院解散という方向になった。隊列を組む前のバラバラ状態のまま大将自ら突撃の号令をかけたような塩梅にみえる。敵にも味方にも不満が鬱積しているそうだ。多分、後ろから火が迫ってきていて、首相自身が「清水の舞台から飛び降りる覚悟」で決めたのだろうと勝手に想像している。

ちまたにはこんな見解もある:

 私は、昨年の高市発言以来、中国政府関係者から話を聞いてきたが、いずれも、レアアースの輸出規制はやりたくないと話していた。影響が甚大で、日本との関係を修復不能なまでに悪化させる恐れがあるからだという。

 しかし、結果的に、中国はこの可能性がある切り札を出してきた。それは、中国が高市首相とのディールを諦めたということではないのか。日本側が本気で謝罪して撤回しなければ、どこまでもいく。そんな決意が見えてくる。

 こうなってしまった以上、もはや、高市首相が日中関係を改善するというストーリーはなくなったと言って良いだろう。

… …

仮に1月23日招集の通常国会冒頭の解散がなくても、2026年度予算成立後、通常国会閉会前後、そして、秋の自民党役員人事と内閣改造などを機に、高市首相が衆議院の解散総選挙を断行する可能性は高いと見られる。その時こそ、国民はここで述べたとおり、日本が強権暴力主義の米国への従属から逃れ、再び平和と繁栄の道に戻るために正しい選択をしなければならない。

Source:YAHOO!JAPANニュース

Original:AERA DIGITAL

Date: 2026-01-13

Author:古賀茂明

筆者は経産省出身のリベラル派として周知の人物である。上の見解もいわゆる《中道リベラル》の典型的な考え方とみる。

これとは別。アメリカの話だが、リベラル派経済学者として著名なKrugmanがsubstack.com上でこんな発信をしている。タイトルは"One Year of Trumponomics"になっている。この一年間のトランプ政治を経済の面から論評したもので、一国を代表する政治家に対してこういう評価を自由に発信できることは、日本の経済学者もうらやましい限りだろうと推測している。

四方八方からトランプ政策を吟味しているが、どれもデータの裏付けを示しながら議論している。ただここでは、結論だけを引用しておこう:

To conclude, Trumponomics 2025 is a story of how Trump worsened the economy that he inherited from Biden through big promises and policy choices that failed to understand how the economy actually works. The uncertainty created by Trump’s constantly changing tariff policy during 2025 appears likely to continue, as he delivers a stream of unworkable, half-baked ideas. While the stock market may be doing well, the rest of America isn’t. And it may very well get worse before it gets better.

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/one-year-of-trumponomics 

下線を引いた部分だけを和訳すると

株式市場は好調かもしれないが、それだけだ。他はそうではない。そして、状況は良くなる前に悪化する可能性が十分にある。

奇妙なほどにトランプ政治と(1年に満たないが)日本の高市政治は似ている   ―  米株は足元で何だか冴えないが、東京市場は金利先高観の逆風をついて絶好調と、まこと奇っ怪な状況ではあるが。

ただ違うのは、今回、高市首相は(ほとんど?)誰とも相談せず任期の半分も経過していないのに衆議院解散を断行しようとしている点だ   ―   アメリカの大統領は議会を解散する権限は与えられていない。

アメリカのKrugman、日本の古賀茂明。学界と官界と。背景は違うものの、リベラル派と呼ぶより《良識派》と呼びたい階層は予想以上に広がるかもしれない。実際、アメリカではトランプ政治を支持する人々は(当たり前だと思うが)急速に減少しつつある。

先日も投稿したが日本外交の「敗北の方程式」が作動するときが近づいているかもしれない。

現内閣がとっている対皇室スタンスだけには共感するが、あとは上の良識派の観方に賛成したい自分がいる。


 


2026年1月12日月曜日

ホンの一言: ダメダメ世論の典型か?

 ネットは日本の世論が形成される主たる場になってきているのだが、例えばこんな記事もある:

高市首相の「台湾有事」発言を受け、中国による不可視の制裁「限日令」が牙をむき始めた。かつて韓国に産業構造の変化を迫った「限韓令」の悪夢が日本にも迫っているのだ。


【写真】今年1月で国内のすべてのパンダが中国に返還される


一方、この圧力を中国依存から抜け出す好機ととらえる声もある。迫りくる「限日令」――生き残りをかけて日本が選ぶべき道とは?

対中関係を悪化させた高市発言の結果を与えられた状態と前提して、「では、日本はどうすれば生き残れるのだろうか?」を議論しようとしている。

典型的なダメダメ世論だネエ

と思いました。


太平洋戦争開戦の前、対中関係の悪化が対米関係の悪化を招き、戦争の予感が世に広がり始めた。そんな中、対米関係が悪化したのは仕方がない、これを前提にして、日本が生き残る道を考えようではないかと思考を進めたのが、当時の日本政府、特に陸海軍であった。《理論音痴・戦略音痴》、その結果である《行き当たりばったり》は、古来、日本人の悪癖の最たるものだと思う。戦略音痴の根本的原因は《目的音痴》、つまり自分が目指している目的の無自覚性にある。

自然に淡々と生きることを善しとする日本人にとって、〇〇を目指して生きる生き方は縁遠いのである。

目的の無自覚性は、日常生活から仕事の進め方など、色々な側面で顔を出す。

独・伊と枢軸国を形成した果ての対米戦争は実に愚かであった。「誤りは二度と繰り返しません」という誓いがまだ色褪せないのに、また同じことを日本社会は繰り返している。

状況を与えられたものとせず、状況を改善することを目的とするべきだ

小生はいつでもこう考えるようにしてきた。

高市首相一人が引責辞任するのが即効性という点では一番でありましょう   ―   対皇室スタンスだけは共感を感じているので残念ではありますが。


《ダメダメ世論》は、その作用をみると、反社会的であるとすら思うのだが、一部の世論をシステマティックに排除するやり方は、これまた民主主義の自殺的行為になる。

《情報リテラシー》が現代社会では不可欠だと言われるが、いまほど日本人の平均的な情報リテラシーのレベルが問われている時代はないかもしれない。

2026年1月10日土曜日

断想: 「現場重視」の迷妄から覚めたいまは……

夢をみた。小生はよく夢をみる。夢を見ている途中で目覚めることが多いので、夢で話していたことをよく覚えてもいる   ―   何分か時間がたつと、鮮明に覚えていたはずの夢の内容を、不思議なことにまったく思い出せなくなるので、メモに書いておくことも夢投稿が増える理由かもしれない。

こんなことをカミさんと話していた:

小生: 裁判官っていう職業は仕事が楽しくてやるもンじゃあないよね?

カミさん: だけど仕事は楽しんでやらないと長続きしないのじゃないの?

小生: それはそうだ。だけど僕の祖父が判事だったンだけど、ずいぶん齢をとってから『法廷で 死刑を宣し 勲〇等』っていう俳句というか川柳を詠んだらしくてネ、祖母から聞いたことがあるンだな。

カミさん: お祖父さん、民事が多かったンじゃないの?

小生: 刑事裁判も偶にはやったンだろうね。いかに犯罪者とはいえ、懲役とか、まして死刑を判決で言い渡すなんて、そんな仕事が楽しいわけないよ。

下の愚息が、10年以上も前になるが、法律専門家の道を歩き始めたので、これと同じ話を既に投稿したような気もするのだが、ちょっと出てこない。こんな時は、やはりブログよりは紙媒体のノートの方が便利である。キーワードが特定できる時は検索機能が効率的だが、極度にあいまいな時は、かえって不便なのである。Googleでも《あいまい検索》ができるといいのだが、Geminiがこれほど進化した現時点でも、このブログであいまい検索は出来ない。

それはともかく、楽しんでやるべきではない職業は、世間には多い。

判事がそうであったと同じ理由で、検事も楽しんでやるべき仕事ではあるまい。なるほど法律を犯している悪人を裁判にかけて求刑をする仕事は、公益にもかない、やりがいはあるのだろうが、人を処罰する行為を一生の仕事にしたくはない、というのが小生の主観である。マ、個人的な主観に過ぎないので、一般化はできないだろうが。

もちろん楽しくなくとも、充実感や達成感や、何らかのプラスの感情は仕事に付随しているとは思う。


よく考えると「軍人(≒自衛官?)」という職業もそうかもしれない。

戦前期・日本のエリートであった陸海軍の軍人は、例えば陸軍省や参謀本部でデスクワークを行う人物の方が、最前線で部隊を指揮する現場の将校よりは、はるかに《格上》であったということだ。

日本の「庶民」は「現場重視」や「たたきあげ」が大好きで、国防という重要な職務においても、デスクワークを担当する参謀が現地司令部の行動を指示するその上下関係に嫌悪の感情をもっていたと、これまた聞いた事がある。

現場が「表舞台」、参謀は「裏方」。現場のことは現場に任せて、弾の飛んでこない後ろからあれこれと指図するな、というわけだ。マア、その感情は今でもとても分かる。

似たような話は、製造業の民間企業にもあって、工場の現場より本社の経営企画室やらが肩で風を切って歩くような会社はダメだと、エンジニアであった父からよくそういう話は聞いていたような記憶がある。

それで小生もずっと、物事は現場が大事。デスクワークを得意とする高級参謀が威張るような組織は腐っている、と。そんな風に社会をみていた時代、というより年齢上の期間があった。

しかし、いま現在はまったく正反対の思いを持っている。

話は陸軍に戻るが、最前線で兵を指揮する仕事というのは、いかに敵兵とはいえ(もしそうなれば)戦場で人を殺すことを仕事にするということだ。それが国益を守ることである。しかしどう考えても、現場で人を殺す仕事が、戦術・戦略を考える頭脳労働より高等(?)であるはずがない。

有能な戦略家は、戦わずして勝つ道筋に組織全体を導いていくにはどんな選択をすればよいかを常に考えるものだ。戦術家も有能であれば、味方の犠牲が少なく、短期のうちに勝敗を決するやり方を考案する。血みどろの戦いが展開されるのは、戦略や戦術を考えるセクションが無能であるためだ。だからといって、現場で戦っている人間こそ戦略家や戦術家を超える高い価値を有しているとは思われない。そんな風に観るようになった。

一部の現場を犠牲にして、多くの現場を救い、全体的な安定に導くのが中枢機能のミッションである。

ある事業所にその事業所の改革はできず、裁判所の裁量で裁判所の改革はできず、国会議員の裁量で行うべき国会の改革はできない。

これがロジックではないか?


ずっと以前、『現場の経済学』などとタイトルをつけて何回かのシリーズを書いたことがある。小役人をしていると、まさに「現場」こそ組織の核心だと思っていたのだろう。

慙愧に堪えない迷妄であった。

経済的混乱を救うのは「現場」ではない。学理に通じた有能な人物が「中枢」に配置されて、置かれている状況に応じて効果的な経済戦略を見出すとき、社会全体も救われるのだと、いまは理解している。


インドのカースト制は強固な身分制である。西洋にも東洋にも永らく身分という社会慣習が世を支配していた。現在では、すべての人、故にすべての職業も平等だと信じられているが、これは近代民主主義のイデオロギーがもたらした社会意識上の大変革である。

しかしながら、やはり職業や仕事には《職業上の貴賤》がある(のではないか?)。職業と言っては語弊がある。同じ組織、同じ社会でも、生業というか、日々の仕事というか、何をやって報酬をもらっているかという点で、行動には貴賤がある(のではないか?)。

なので、超長期のあいだ続いた伝統社会の貴賤思想には、近代市民革命でも払拭できないような、人間社会を見通す深い叡智が隠されていた、と。いまではそんな風に思えるときがある。

少なくとも言えることは

その仕事の貴賤は、いわゆる「市場価格」の高低とは、まったく別の問題である。

プラトンも職業上の貴賤を『国家』の中で論じていたが、何だか最近はずっと持ち続けていた固定観念が、溶解していくような気持になることがある。 

【加筆修正:2026-01-12】

2026年1月6日火曜日

断想: 「改革、改革!」の前に目的を確認するのが第一歩でしょう

 「改革」とか「総決算」という言葉は日本人の大好きな言葉だ。1982年から始まった中曽根内閣のスローガンは「戦後政治の総決算」であったし、20世紀が終わる間際に橋本内閣が目指したのは(残念ながら達成できたのはごく一部であったが)行政・財政・金融・経済・社会保障・教育にわたる「六大改革」であった。中央官庁が再編成されたのもその一環だ。その後も小泉内閣の「郵政改革」があり、安部内閣のアベノミクスと経済再生へと改革志向は続く。アベノミクスも「異次元」を売りにしていたので、それまでの政策の「ちゃぶ台返し」と言っていい。

とにかく、日本人は服を着替えるように「心機一転」するのが大好きである。

外国は、たとえば大統領選や国王の世代交代で自然な「変革」が事実として進行するのだが、日本はそうでないというのが、本質的原因なのか?

なぜ同じことを何度も繰り返すのだろうと常々不可思議に感じているのだ、な。大体、変えること自体が善いという理屈はない。大正デモクラシーの潮流を変えて国家総動員に変えた結末は誰もが知っている。真珠湾を攻撃して対米開戦の火ぶたを切った時になぜ多くの日本人は喝采の声をあげたのだろう。スカッとしたということか?前途を悲観する人は内外事情に通じる極々少数の人たちだけであったと聞いている。

なぜ「改革」やら「心機一転」をこれほど好むのだろう。ChatGPTにニュアンスが近い表現を聞いてみると

I decided to start afresh after the failure.

He promised to turn over a new leaf this year.

I went for a walk to clear my mind.

色々と複数の言い回しがある。最初の"start afresh"は失敗のあとのリセットに近く、これが「心機一転」のニュアンスに近いかもしれない。二番目はひょっとすると坂本龍馬の『夜が明けるゼヨ~~~』の乗りか…。最後の"clear my mind"は何かに執着している心を一回解きほぐすといったニュアンスだ。ちょっとこれは日本人の好きな「改革」とは違うかもしれない。

最も不可思議なのは、変えること自体を主張するときに、現行方式のそもそもの目的は何であったのかという、当初の目的の再確認を誰も言い出さない点である。

だってそうでしょう。

初心忘るべからず

という。一度目指した目的を中途で放棄することは最終的失敗への道である。そんな根気のない国民は何をやっても所詮は失敗します。

何かをやり始めたのは《目的》があったからだ。その目的を確認せずして、うまく行っていない/うまく行っている、そんな評価が出来る理屈はないのである。


その目的は今でも有効で、これまで通りの目的を今後も追及していくのか?うまく行っていないのであれば、その原因は何か?改革にはこんな議論が自然に出て来るはずだ。これが日本では出てこない。いわゆる「暗黙知」を前提するにも程合いってものがあるでしょう。

目的の確認があって初めて社会科学的分析に入れる。・・・当たり前のことを更に書いても仕方がないが、いわゆる《PDCA》。Plan‐Do‐Check‐ActionのPDCAだが、実のところ"A"をAnalysis-Actionの二つにしたいとずっと思ってきた。が、それはともかく、最初はプラン"P"から始まっている。がしかし、プランには目的があったはずだ。目的は"Goal"でも"Object"でもよい。だから私的にはObject-Plan‐Do‐Check‐Analysis-ActionのOPDCAAだと話してきた。チェック(C)と分析(A)の前と後に二つの行動フェーズ、つまりDoとActionがある。この二番目のアクションが日本人の好きな「改革」に当たっていると小生は思っている。

つまり日本人の好きな「改革」とは「軌道修正」のニュアンスに近いのかもしれない。

しかし、チェック(C)と分析(A)が目的の再設定につながることも理屈としてはあるし、それこそが大事だと小生は思っている。

端的にいうと、改革は目的の再設定を必ず伴うというべきだ。目的は変えないということの再確認でもよい。

ところが目的の議論が一切ない。日本人なら日本国の《国是》くらいはわかっているという大前提があるのだろうか?そんな姿勢で日本国の国際化などは不可能でしょう。

目的の確認なき"PDCA"はあり得ないのだ。

目的確認なき改革はプランなき行動につながる。

よい例がエネルギー計画だ。《再エネ重視》もいつの間にかなし崩しになってきた。そもそも原発から再エネへと方向転換をしたのも原発事故があったからである。小生は何も再エネ主義者ではないが、福一原発事故の後遺症がいまだ残っているのに再エネ見直しをするのは『初心にこだわるべからず。何事も臨機応変!』を見事に実践しているわけだ。一事が万事ですナア、と思っている。


改革、改革とみな連呼している。

鎌倉時代、室町時代の「徳政令」は「徳政」ではなく、要するにただの「借金棒引き」でありました。徳政とは真逆の失政である。分析なき改革、目的の再設定なき改革は、ロジックなき統治で必ず失敗するということである。

だから幼稚に見えて仕方がありませぬ。

2026年1月4日日曜日

ホンの一言: トランプ政権の決行を認めるのが理屈でしょう

 元日投稿は、浮世離れした話題から入り、ドロドロした現世の世相の感想を追加してまとめた。本日はその続稿ということで。

ネットをみていると、早速

高市早苗首相は、米国によるベネズエラへの軍事攻撃を受け、トランプ大統領の決断を支持するかどうか難しい対応を迫られる。国際法違反の疑いもある一方で、非難すれば同盟関係がきしむ恐れがあるためだ。立場表明にあたり、G7各国の対応を見極める方針だ。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original:  KYODO

Date:  1/3(土) 19:34配信

アメリカがベネズエラ大統領を連行・拘束したというのだから、世界はビックリ仰天というところだ。

こんな事が許されるのか??

そりゃあ、そうです。これが許されるなら中国の台湾統一は理の当然として容認されるべきであるし、ロシアのウクライナ攻撃も反ロシアを露わにする隣国を制裁するための決起であるから認められて当然という結論になる。最近4年間の西側陣営の国際外交はすべて誤りであったと認めなければならない、という結論になる。


現実として20世紀の理想はほゞほゞ破綻した。理想は本来は普遍的なものであるはずだが、いま現実世界に普遍的な理想などはない、というか、なくなった。

親ロシアに立位置を(小幅?)修正して、まずはロシア=ウクライナ間に平和をもたらそうとするトランプ的解決には小生も共感を覚える。というより、賛成だ。この考え方からベネズエラ制裁に行動を起こしたとみるのは極めて自然である。


昨年末にノーベル平和賞を受賞したベネズエラの政治家・マリア=コリーナ=マチャド=パリスカは、米政府の決起を歓迎しているよし。実際

2025年、ノーベル平和賞を受賞したベネズエラの野党指導者、マリア・コリナ・マチャド氏は、アメリカ・トランプ政権による軍事攻撃で、マドゥロ大統領夫妻が拘束されたことを受けて初めて声明を発表し、「ベネズエラは自由になる!」と喜びをあらわにしました。

こんな風なネット記事がある。

平和賞を授けたノルウェーもマチャド氏に同調して米政権の決行を歓迎するのが筋であろう。


平和が毀損されるそもそもの原因は、地理的に、あるいは経済的に、極めてローカルなものであることがほとんどである。

紛争が拡大して戦争になったり、大戦になったりするのは、当事国が行動を起こすことなく、ただ仲間を増やす、つまり軍事同盟を結ぶからである。この理屈は古代ギリシア、古代中国の昔から変わっていない。

ローカルな紛争はローカルな範囲に限定して、決してグローバルな規模に拡大させるべきではない。前にも投稿したことがあったが、21世紀の平和維持の原則は、理想ではなく極めて現実的なものでなければなるまい。

なので

高市政権は早々にトランプ政権の行動を認めるべきだ

というのが、小生の(現時点の)世界観であります。

2026年1月1日木曜日

元日一想:人間の身体は化学的にはありふれた素材で………

人間の身体の60%程は水分、つまり$\text{H}_2\text{O}$だから元素ベースでは酸素と水素に還元される。更にいうと、人体の95%超はいわゆる"CHONS"、即ち炭素(C)、水素(H)、酸素(O)、窒素(N)、硫黄(S)から構成され、残りの4%余はカルシウム、マグネシウム、リン、鉄などのミネラルであるから、人体は地上に豊富にある、とてもありふれた元素から出来ている。もう少しマクロ化して化合物ベースで議論をすれば、人体にとって重要な部分はタンパク質でできており、そのタンパク質はベンゼン環を中心としたアミノ酸から構成される。「亀の甲」と呼ばれるベンゼン環は炭素原子に水素が結合した極めて単純な化合物である。その組み合わせで各種のアミノ酸に分かれる。必要なアミノ酸の生成と結合に必要な設計図が遺伝情報であり、DNAという形で保存されている。専門が違うので記憶が大分うすくなったが、こうした概要は、今では高校でも教えられている生物学の常識になっている。

※ あとで確認したが、ベンゼン環を含まないアミノ酸の方がずっと多かった。忘れたことに気づかなんだ。が、構成する元素は上に書いたとおりだ。

ずっと昔、最初にこのことを授業で聴いたときは「へぇ~~~っ」と感じたことだけ覚えている。もしその時、

先生、質問ですが、要するに炭素と水素が中心になって、それに酸素とか、窒素、硫黄が特別なパターンで結合すると、人体が出来上がって、その物質が言葉をしゃべったり、考えたり、数学や物理を勉強したりするようになる。そういうことなんですね?

小生は昔から極めて偏屈で、人を困らせる人間であったから、

答えに詰まる質問をするんじゃない!
こう一喝されたと想像する。と同時に
ただな、生物学の大前提にあるのは生物は生物からのみ生まれる。無生物から生物が自然発生することはない。このことは念頭に置いた方がいいな。
このくらいの示唆は語ってくれたのじゃあないかとも思う。まったく学校というのは、受け身ではなく、何でも質問する方が良いのだと、つくづくと後悔する次第だ。

科学的な説明というのは、どうしても物質的現象を因果関係という観点から説明するので、唯物論になってしまう。小生がそんな唯物論から転向したことは何度も投稿してきた。高分子化合物である人間の大脳は、人類に与えられた《考える器官》である。動いたり、動かしたりする器官である手足と同様、大脳を使うにも上手下手の個人差がある。生まれつき器用な人がいるように、生まれつき頭の回転が速い人もいる。しかし、元素が組み合わせのしようによっては物質がおのれの欲するように意志をもったり、行きたいところに自由に動いたり、はたまた理想を語ったりすると考えるのは、あまりにも荒唐無稽で、神話と同程度に信じがたい物語である。

単に刺激と反応の因果関係を検証するだけなら化学反応プロセスを追求すればすむはずだ。しかし、自由意志や理想に導かれる目的合理性は、刺激と反応に似た化学モデルにはおさまるまい。この点は既に何度も触れたことだ。

大脳は思考のために欠かせない器官だ。しかし、考えるための器官である大脳を活用している主体が実在するはずだ。それが人間を考える生物たらしめている本質である。人はそれを(漢語に限っても)「精神」とか「心」、「魂」、「霊魂」、「識」などと呼んできた。

というより、今では《生命と非生命》、《物質と非物質》を超えてしまって、すべては《エネルギー》であると認識するのが、現代物理学がイメージしている宇宙の風景であるようだ。だからこれまでの投稿のように、物と精神、物質と非物質という語り方はもう古いのだ。では、「エネルギー」とは、結局のところ、何なのか?・・・そりゃ分かりっこない。ただ《働いている》のだと思う。エネルギーが実空間において実在する在り方を問うのが、これからの物理学の問題なのだろうと勝手に想像しているところだ。

話はまったく変わる。

元日に上のようなことについて考えるなど、どこか滑稽味があると自覚しているのだが、日中関係の悪化もどこか滑稽味があって、当事者が真面目になれば真面目になるほど、可笑しみが醸し出されてくる。

本質的に歴史劇というより、コメディである。

しっかり自分の地を守ったと思ったら、どこもかしこも断点だらけでサア、一瞬の見落としをつかれて、あとはアタリ、アタリの連発。地はボロボロ。ひどい目にあったヨ・・・

と。どこかの碁会所で普通に耳にするおしゃべりを連想してしまうのだ、な。

ザル碁の典型だネエ・・・日本の(中国も?)外交と同じか・・・

こんなところかもしれません。中国に言わせれば 

クドクドとまだ台湾に口を出すか。そっちがその気なら、こちらも琉球までさかのぼって、沖縄の領有権に口を出してやろうじゃないか。

こんなところかもしれません。台湾が中国の領土でないと言うなら、沖縄だって怪しいもンだ、というわけだ。

ま、いい加減に手を打ったらと思う人が多いはずなのだが、祭りと同じで声の大きいグループに乗せられてしまうのが、人間集団の常だ。大多数の日本人は、一部の声の大きな人たちの巻き添えになる定め(?)なのである。

では声の大きな人たちは、声の大きさ以外に何かの才能をもっているのか?

古代ギリシアと異なり現代の民主主義では、(原則、未成年を除く)全ての人が参政権をもっており、そこには何の参加規制もなく、能力審査もない。

民主主義社会を支えているのは、実は無責任な凡人集団であることを思い出すと、とても怖い気がするのは小生だけだろうか?

【加筆修正:2026-01-02】