よく「人生を変えた一冊」などというタイトルで何人もの「有識者」が寄稿したりする特集がある。若い時分にはそんな「一冊」が小生にはないことに引け目を感じたりすることもあって、意識して「素晴らしい文学作品」に巡り会おうと「努力」した時期もあったが、長い時間が経ったいま思い返してみれば馬鹿々々しいことをしたものだと思う ― 純粋な徒労こそが打算とは区別される真の努力であるという考え方もあるが。
ただ人生を変えたというより寄り添ってくれた作品はあって、一つは三好達治全集であり、もう一つは高村光太郎の詩集である。高村光太郎の詩というと、国語の教科書に『道程』が載っていることが多いので、知らない人は少ないはずだ。が、教科書に載っている『道程』は元々の「道程」の最後の一節を抜き取ったもので元来は長詩として公表されたことを知る人は案外少ないかもしれず、小生が本当に好んでいるのは元来の『長詩 道程』の方である。こちらは青空文庫にあるので読むのは簡単である。
この作品の書き出し10行だけで、やりたいことをやりたい様にやってきただけの人生を過ごしてきた小生には癒しになった。
どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自墮落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦惱にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戰慄に値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命 の道と信ずるだらう
人生を変えた一冊ではないが、自分を救ってくれた一作品であるかもしれず、作家は既に亡くなっているのだが、こんな作品を遺してくれたことに小生は心から感謝している。
★
その高村光太郎は中々一筋縄でいかない人物であったことも多くの人は知らないかもしれない。
妻・智恵子との純愛は『智恵子抄』で明らかなのだが、青春時代の自堕落ぶりも上の『長詩 道程』に書かれてある通りだ。
ところが、Wikipediaで高村のエピソードを読むと、
ニューヨーク留学以前はユージン・サンドウが世に広めた「サンドウ式体操」で肉体を鍛えた。ニューヨーク留学時に通学した芸術学校のクラスメイトが頻繁に光太郎の作品に悪戯をした。これに光太郎は立腹したが、レスリング経験のある主犯格の男と教室を舞台に高村は柔道、相手の男はボクシングのスタイルで試合をすることとなった。光太郎はサンドウ式体操で鍛えた腕力で相手の男を締め上げ、それ以降クラスメイトからの悪戯はなくなった。晩年「作品への悪戯がなくなり幸いであった」と懐述している。
中々の武闘派でもあった人柄が偲ばれるわけだが、このエピソードからいま生きる人は何を受け止めればよいのだろう。
イジメられるのは弱いからである。強くなれば人生を変えることが出来る。強くなるには修行をして自分を鍛えなければならない。
前にも投稿したが、ゲーテが言ったように『知恵は静寂の中で、力は激流の中で』、ナポレオンと同じく(とはいえ、ドイツ語の教科書に掲載されていたのでオリジナルだったはずのフランス語ではないが)
Man muss stark sein, um gut sein zu können
人が善であるためには強くなければならない
である。卑怯で陋劣な攻撃は本人(たち)の弱さ(の自覚?)に由来するのである、というロジックになる。強き者は善を志し、弱き者は図らずも悪を選び悪行を為す。だから『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』という弱者救済、他力思想の本質が『歎異抄』で出て来るのか……イヤイヤ、話しが逸れてしまった。
マ、こんな見方が合理性とヒューマニズムを盲目的に信仰する現代の理念と衝突することは承知しているが、要するにこういうことではないかとも思うわけで、「人間性」というのは古代から中世、近世、近代、現代に至るまで実は全体として同じである。だからこそ、今生きる人も古典を読んで感動するのである。小生はこう考える立場にいる。同じ人間性に基づきながら、特に近代において人間の善性を信頼するヒューマニズムが影響力を増してきたのは、外的な刺激要因があったからだ。それが、自然科学の発展と生活水準の向上であるのは否定し難く、これによって多数の人々が啓蒙の意義を評価し、合理性、平等、民主主義を求め始めたのが近代である。ただ、ここには過剰な理想主義が隠れていたのかもしれない。<ポスト・モダン>の21世紀を迎えたいま、理想は夢でしかなかった。人間性は同じであり、普遍的で、かつ劣悪なものである。そう感じる時がある……イヤイヤ、普段思っていることがあるせいか、又々話が逸れた。
ともかく、その高村も太平洋戦争中は戦意高揚のための努力を文人・芸術家の立場から大いに払ったのだが、戦後はその反省、贖罪感から岩手の山小屋で自炊生活を独り何年もおくったことは有名である。上の『長詩 道程』は、老いを迎えたその頃になって書かれた詩作品ではなく、大正3年、まだ27歳の時であった。つまり青春時代が終わろうとしている中で自らの「道程」を省みた思いがこめられているわけだ。高村という人は山坂の多い面倒な人生を歩んだ人物であったことが伝わって来るではないか。
【加筆】2023-07-03
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