2019年5月1日水曜日

令和を迎えて

今日のTVは、終日、令和歓迎特番で占められるようだ。

新聞も概ね同じ調子だが、予想通り、『皇室の**の儀式は違憲の疑いがある』、『皇室の▲▲という伝統は憲法に違反している』、あるいは『三種の神器の継承は皇位継承には関係がない、憲法にはそもそも規定されていない』等々、古代から続いてきた天皇制の伝統と戦後の日本国憲法の規定との矛盾がますます明瞭に意識されてきている兆候もある。

大体、世襲による天皇制と民主主義に則した日本国憲法が矛盾するのは当たり前であって、この点については本ブログでもつい先日投稿した。

小生の基本的見方は本日の皇位継承儀式の中継を観てもまったく変わらない。

継承されてきたものだから、その時代の憲法とは関係なく、我々は継承するという割り切り方をするしか議論のしようはないだろう。 天皇制とはそういうものだと思う。 
憲法と矛盾が残るというので、天皇制を廃止すれば、むしろ残った憲法よりも廃止された天皇制を日本人は懐かしむに違いない。そう割り切ったうえで、矛盾を抱える度量をもって継承していくのが知恵というものだろう。

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 たとえ民主主義に則した憲法と矛盾するとしても、日本国民がそうしてほしいと願えば、天皇制の伝統は事実として続くであろう。選挙でえらばれる政治家も国民の多数が望む方向を是とする理屈だ。そもそもは、これが言葉の定義どおりの「民主主義」であるだろう。

民主主義を説く専門家が考えている言葉の上の民主主義と現実に動いている民主主義とが矛盾する…、これは正にパラドックスになるのではないか?

民主主義の法理を専門とする学者が話す民主主義と、国民が現実に選択する民主主義と。いずれが「真の民主主義」に該当するか、議論する必要もなく、結論は明らかだろう。

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民主主義とはデモクラシーを日本語に訳した名詞だ。周知のようにデモクラシーとは"Democracy"、語源的にはギリシア語の"δημοκρατία"から発する概念である。その意味は「多数者(大衆)による支配」になる。ラテン文字で表せば"demos+kratos"となることはWikipediaで解説されているところだ。

「民主主義」という言葉が日本社会、というより全ての社会において、何がしかのプラスの価値をもつとすれば、それは現実に働いているデモクラシーの力に着目しての話になるはずだ。書かれた憲法の語句を解釈して現実の社会が民主主義的であるか否かを論じるという姿勢は、学問的ではあるが、まるで犬のシッポが胴体をふるような話である。「民主主義」という言葉は、憲法の法理を研究する専門家の占有物ではない。

歴史を通して継承されてきた「ありのままの天皇制」を(国民が選ぶ修正をほどこすにせよ)大多数の日本人が許容するなら、結果として、それは「民主的選択」であると思う。憲法の規定と矛盾するなら、矛盾しないよう合理的に一貫する学説を展開しなければならないのは学問の側であると思うのだ。

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以上、民主主義とはこういうものじゃあないかという小生の観方を述べた。

であるが故に、民主主義的なシステムに任せることができない社会的課題もあると小生は思う。全ての経済問題に市場システムが最適であるとは言えないのと同様に、社会政治問題を解決するのに民主主義的アプローチが常に最適であるとはどうしても思えない。

ここまで書いてきて、その昔、勤務先のトップが『たとえ経済専門家がベストだと勧める政策があったとしても、国民がそれを理解せず、拒否すればその政策を実行することはできない。それが民主主義だ』と語っていたのを思い出す。そのトップの胸の内を「忖度」できるだけの洞察力はまだ青臭い小生にはありようもなかったが……。

「民主主義」という言葉を崇拝するべきではない。それは社会のマネジメントの一つの方法である。先日もそんな考えを簡単ながら投稿した。が、その掘り下げはまた別の機会にしたい。

今日は、前半と後半でまったく支離滅裂だ。それは小生の思考が迷走していることを反映している。いつか整理することができるのだろうか。できれば整然とさせたいものだ。

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