本日投稿の主題は《無抵抗平和主義》についてであって、問題意識としては森嶋通夫氏がずいぶん以前にとりあげた論点の現代的意義ということになる。
日本の江戸・旧幕時代の紛争処理原則は《喧嘩両成敗》であったのは誰でも知っているはずだ。その原則が「松の大廊下事件」では採られなかったことで、浅野家旧家臣の怒りをよび、一方の当事者である吉良上野介を殺害するに至ったが、それは「殺害」ではなく「義挙」であると正当化する論拠としてこの「喧嘩両成敗の原則」が使われたのだった。即ち『忠臣蔵』であるが、これを武士道としてかえって称賛したのは幕閣による事後的欺瞞であって、実質は将軍綱吉が採った「是は是、非は非」という儒教的論理に基づく裁決に対する暴力的抗議行動であった。
現代社会の司法では「喧嘩両成敗」の論理は採られていない。民事裁判は例えば事故処理では当事者の「責任割合」で結論を出すが、それは金銭的補償額を責任割合に応じて連続的に算定できるという点も与っているだろう。それに対して、刑事裁判は刑罰を課すか課さないかという判断から始まる。そもそも被害者と加害者の二項対立構造の下で有罪か無罪かを判決するという二択論理になっている点が本質的に異なる。刑事事件では、喧嘩両成敗ではなく、どちらがどの程度まで悪いか、という法理によって裁くわけである ― 「情状」という調整的要素が最後に考慮されるにしても、「互いに悪いことは悪いヨネ」という論理は採らない。
この刑事裁判的ロジックを現代社会に生きる我々は当然のこととして使うことが多い。が、この思考方式が唯一の方法ではないことを知っておくのは意義がないとは言えないだろう。
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紛争発生時において、必ず片方が悪く、片方は善いという思考が共有されてしまうと、敗者の側には無限責任が生じ、勝者の側は損害賠償請求権の行使によって損失をゼロに出来るという理屈になる。誰もがそう考え、そう予想する社会になる。
だから、いったん紛争当事者になってしまうと、勝つことが最優先すべき目的になる。
「生産要素」ならぬ「戦争要素」なるものがあるなら、勝つためには紛争の勝敗に寄与する《戦争要素(=Factor of War)》を敵よりも多く投入すればよい理屈になる。多くのアウトプットを得るには《生産要素(Factor of Production)》を多く投入しなければならないという論理と同じである。
そして、戦争要素とは、一つにはマンパワー、一つにはマネーだというのは、労働と資本が生産要素であるという論理と相似の関係にある。経済の労働と資本は、戦争では兵と装備になる。どちらもマネーがいるが、軍事予算で勝敗が決まりがちであるのは企業規模で競争優位が決まる傾向があるのと似ている。
確かに、軍事予算と戦費調達力は戦争の結果が決まるうえで重要だ。しかし同時に、企業の経営資源としてステーク・ホルダー全体が重要であるのと同じ意味で、戦争でも同盟国や支援国などネットワークの広がりもまた戦争要素の一つである。
つまり運命をともにする仲間としての《連帯》である。
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いま進行中の《ロシア‐ウクライナ紛争》(ロシア‐ウクライナ戦争ではない)でウクライナが対外発信に注力しているのは、軍事力、戦費調達力においては劣勢なウクライナが「世界との連帯」という戦争要素を蓄積するためである。
これも一つの戦い方である。同じ戦略は、満州事変から日中戦争を通して中国国民党が日本に対して用いたことがある。1930年代から日本は軍事力行使による直接効果を重用したのに対して、中国側は対米外交に力を注ぎ、国際世論と連帯する努力に多くの資源を注いだ。国際世論を通して日本の意思決定に影響を及ぼそうとするリデル=ハート流の間接的アプローチである。これも日中戦争で二国がどう戦ったかを表す実相であった。
大事なことは、この一週間でロシア、ウクライナ間で実際に戦闘が現に行われているという事実である。無抵抗な国を攻撃側が一方的に侵略しているわけではない。現に両国は戦っている。つまりロシア、ウクライナ双方とも《戦争状態》にある。事実として「戦争をしている」という点がポイントである。
こう理解しているのだ、な。
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戦争をすれば「勝利」か、「敗北」かのどちらかしかない。刑事裁判のロジックだ。敗北は全てを失うことを意味するが故に、可能な限り戦争要素の投入を増やそうとする。
思うのだが、紛争当事者がこのような《勝敗のロジック》を前提にすれば、本質的には地域的で小規模な争いが、「連帯」という名の下で紛争関係区域が拡大するリスクがある。紛争の直接当事者が「連帯」を広げようとする動機があるからだ。そうした危険がグローバルに拡大するリスクがある。
これに対して、もしも全ての紛争に対して、喧嘩両成敗のロジックを適用すれば、一方の紛争当事国と連帯し、自らも紛争当事者になるという行為自体によって、確実にペナルティが課される結果になる。ここから
江戸・旧幕時代の「喧嘩両成敗」のロジックは「紛争局地化」の論理である
そう思いついた次第。
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但し、この論理は紛争当事者両側に対して確実にペナルティを課すことが出来る「絶対的権威者」が存在しなければならない。江戸時代ではそれが幕府(=公儀)であり、将軍であったわけだ。日本で求められていた存在は何よりも「紛争裁定者」としての「将軍」である。そうした絶対的司法機関がない状態では、例え紛争当事者になるとしても、その行為自体によって罰されることはないと予想する。だから、自己利益拡大の動機に沿うならば、紛争当事国の一方に連帯して、加担するという選択肢が生まれる。勝つか負けるかという二項対立的な処理フレームの下では、どちらの紛争当事者も自分が勝利をおさめようと無際限の戦争要素を投入しようと努力する。そうして、紛争の規模はグローバルに拡大するのである。
第3次世界大戦の危険を怖れるロジックはここにある。
こういうロジックもあると思いついた次第。
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「ロシア‐ウクライナ戦争」と世間では言われるようなっているが、実際にはまだ「戦争」ではない。どちらも「宣戦布告」をしていないからだ。故に、ロシアにとっても、ウクライナにとっても現在の武力紛争は「戦争」ではない。ちょうど日中戦争が「日華事変」であったように単なる「事変」である。
もしも正式(?)の「戦争」であれば、敵国を支援する者は自動的に「敵国」となる―但し、自動的に敵対行為をした第三国に「宣戦」を布告するというわけではない。
かつては《戦時中立の原則》があった。日中戦争が「戦争」ではなく、その当時の両国が「事変」と呼んでいた理由は、これを「戦争」と認めれば、アメリカは自動的に「中立」を余儀なくされ、戦争当事国である日本、中国双方への利益供与が不可能になる、例えば石油輸出などが行えなくなる、このような《戦時中立の原則》をアメリカ政府が採っていたためである。
現在、旧・西側諸国はウクライナへの武器供与など軍事支援を続けている。これを紛争当事国であるロシア側からみれば「敵対行為」に該当する。従って「敵国」となる。この法理は現在もなお有効なのではないか、と。この辺り、どの程度検討されているのだろうか?そんな疑問を感じている。加えて、「経済制裁」は、それ自体として武力行使なき戦争行為である、というのが20世紀を通して当該分野で議論されてきたと小生は記憶している。いま、経済制裁がロシアに対して行われ、ウクライナには軍事支援が続けられている。特定の国々によって、である。このような行為は、一方の当事国であるロシアが「戦争における敵対行為」であると解釈するとしても、それは論理として認められてしまうのではないか。事実としては「戦争状態」がそこにはあるのだから。
但し、そのロシア自身がウクライナと「戦争」をしているとは言っていないのであるから、旧・西側諸国の支援行為も戦争に参加しているわけではない、と。だから旧・西側はロシアの敵国ではない、と。こういう説明の仕方もある。しかし、実践レベルにおいて、こんな理屈が機能するかどうか、極めて微妙だと思う。
実際には、ロシア軍側に多数(?)の《戦死者》が発生し、ウクライナ側の「戦意」は高く、ロシア兵を戦場において殺害している。事実としては「戦争状態」にあると認定するのが道理ではないか。とすれば、既にウクライナ側に立って支援しているのであるから、旧・西側諸国はロシアの「敵国」である、というロジックをロシア側が主張するとして、どう反論できるのだろう?広義の意味の「戦争」だとロシアが解釈すれば「戦争行為」に及ぶ権利があると考えるかもしれない。そんな権利がロシアにはないと、ロシアもそれは分かっていると、そう旧・西側が予想するとしても、相手も同じように考えるという保証はないはずだ。
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故に
第3次世界大戦への恐怖というここ数日の世界的不安には確かに論理的根拠がある。
この辺の議論は国際法の専門家の領分だろう。
当事国がどうアナウンスしているかは置いておくとして、現に「戦争状態」になっている以上、無抵抗のウクライナをロシアが軍事力を行使して占領、支配しようとしていると認識するのは一面的である。実際、ウ側は旺盛な戦意を示し、第3国から軍事支援を受け、かつ国際世論への働きかけを行い、第3国との「連帯」を拡大しようとしている。これらの行為はロシアの攻撃に対する反撃であり、(広義のというより正しく)「戦争行為」であると解釈されるのではないか。
こういう論点もあると思っていて、現時点では世界唯一の平和維持機関である国連が、今日の標題についてどう考えるのか、そこを知りたいと思うのだ、な。
いまのところ国連は平和維持機関として役に立ってはいない。旧・西側は広義の意味で戦争に参加しつつある。(広い意味の)当事国として「勝つ」か「負ける」かという目標を自らに課しつつある。平和維持のための仲裁は諦めたようだ。仲裁を期待できるとすればせいぜいが中国の北京政府くらいだ。しかしその北京政府ですら実は利害関係者なのである。かつて存在した「国際連盟」と同じ情況である。
いま役に立ってはおらず、仮に今後も役に立つ見込みがないのであれば、一体なぜ高額のコストをかけて国連のような国際機関を敢えて運営していく必要があるのだろうか?なくともよいのではないか?国連が提供している経済的な、あるいは教育・啓蒙的なサービスは個別の国際団体が担当していけるのではないか?あっても無用の長物であるなら、国連本体はなくとも困らないのではないか?近い将来、この問題意識が改めて世界に浸透するのではないかと思われる。
国連は「不戦」を原則とし「宣戦布告」と「戦争」を否定しているが、それでも戦争が勃発する確率をゼロにはできない。政治と紛争とはコインの裏表の関係にある。政治がある限り紛争はあるし、紛争があれば必ず政治が必要になる。つまり《戦争のルール》が要る。平和維持のための原理・原則が必要である。物騒な例えだが「果たし合い」が公認されていれば防止できる「殺人事件」がある。理屈は共通している。ルールが実効性をもつためには罰則が必要だ。国家主権は本来「交戦権」を含むが戦争を選択したこと自体によって予想するべきペナルティが核心的論点だ。このペナルティは《無抵抗平和主義》を一貫させる時にのみ免除される。この種の問題を議論できないなら、国連は究極的には無用の長物と化していくだろう。
ま、色々と調べてみるか・・・
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