2024年12月5日木曜日

断想: これは乱暴すぎる読書指導かも? 『善の研究』と『歎異抄』

小生はPayPayユーザーで、Softbankユーザーでもあるので、どうしてもYahoo!ショッピングを利用することも多く、自然と"Yahoo! JAPAN"は頻繁に訪れるサイトになる。

となると、「Yahoo! JAPANニュース」がニュース情報源の一つにもなるのだが、実はYahooニュースでは、既存のマスメディア企業(=オールドメディア)が発信するニュースが大半を占めている。個別に検索をかければ、マイナーな発信を見出すことが出来るが、それは面倒な手間である。

そこで「Googleニュース」に移って転載元をみると、やはり「Yahoo!ニュース」が多い。だから同じニュースをみる。Googleでは、日経やReuterなど発信元を「お気に入り」で指定できるので、Yahooよりはマシだ。が、みるニュースが既存のオールドメディア主体であることに変わりはない。"Rakuten Infoseek News"や"Smart News"など他のニュースサイトも似たような状況だ。

最近の選挙結果から刺激されたのだろう、《ネット vs オールドメディア》という対立図式が、まだなお世間の話題になっているが、こんな対立図式はありません。

インターネットの主なニュースサイトは、その大半がオールドメディアの転載で占められている

この事実に触れる解説を見聞することは(オールドメディアでは)ほとんどない。

だから、個人を含めたあらゆる発信者から情報を集めるには、YoutubeやSNSというチャネルしかない ― もちろんチャネルは複数あるのだが。実はそこでも新聞社やTV局などオールドメディアは情報発信している。ただ、非常に多数の情報発信者の中に、埋没しているだけなのである。

メディア企業の発信する情報と、他の様々な企業、団体、個人ゝが発信する情報とが、文字通りに平等に比較され、取捨選択されて、受け取られているのであるが、この拡大された情報空間自体が悪いものだとはとうてい思われない。

この拡大された情報空間が、社会的進歩でなければ、「社会的進歩」とは何を指しているとお考えか?……、逆に聞きたい、というのが小生のごく最近の疑問の一つであります。

進歩に一時的混乱はつきものである。新しい技術は上手に活用するしか道はない。


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それはともかく、本日の標題。

最近になって(恥ずかしながら)西田幾多郎の『善の研究』を初めて読んでいるのだが、なぜもっと早く読まなかったかと後悔している。

要するに、日本の哲学者を軽く見ていたのだろうナア、と反省している。


思うに、高校生(中学生にも?)の必読図書によくプラトンの『ソクラテスの弁明』が指定されているが、『善の研究』と『ソクラテスの弁明』を併読すれば、(併読できる)高校生には他には得られない充実感が感じ取れるだろう。更に、唯円の『歎異抄』を読むと深い人間理解につながると感じる。少なくともドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を読むために長い時間をかけるよりは、日本人にはおススメではないか。そう思う次第。

こんな読書プランを誰かが示唆してくれていれば、また違った人生を歩んだことだろうナアと、恨みたい気持ちすらあるのだ、な。

よく夏目漱石の『こころ』が読書リストにあるが、『こころ』だけを読んでも漱石の頭の中が伝わるわけではない。あの作品の中で何を言いたいのか、洞察できる高校生はまずいないと、(自分自身のその当時の感想を思い出すにつけても)個人的には感じている。

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西田幾多郎が『善の研究』の中で言っていることは

世界は、いかにしてこうであるかという実在の真理(=真実在)を理解することと、なぜこのような目的をもって、このような行為をするべきなのかという善の本質は、二つとも自己自身という同じ存在の意識現象にあることで、文字通り表裏一体の関係にある。故に、自己の本性に沿って、自己の完成という理想に向けて、意志的な努力をする行為は、善そのものであると同時に、それは世界の真理へと向かう努力と同じでもある。それだけではなく、そのような行為は美しいのだ。

(今のところ)こんな概括をもって理解しているところだ。たとえば、中核を占める第3篇『善』の中で、こんな風に述べている。

至誠の善なるのは、これより生ずる結果のために善なるのでない、それ自身において善なるのである。・・・

真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。・・・

これに関して、章末の解説ではこんなことが書かれている:

 「各自の客観的世界は各自の人格の反影」であり、「各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系そのもの」である、と西田はいっている。それだから、各自の真摯な要求は客観的世界の理想とつねに一致したものでなければならない。そして、この点から見て、善なる行為は必ず愛であるといえる。

分かりやすく言い換えると、どんな人もその人の意識において自分という存在があるわけだ。その人にとっての理想の世界がある。理想を思うとき、現実との矛盾を感じ、人は心の中に内面的欲求を感じる。その欲求を満たすことが幸福につながると思う。その幸福を求めて、人は意志をもち、行動するのだというのが、西田幾多郎の行為論だ。つまり「理想」に向かって、自分を偽ることなく、誠実に行動するのが「善」である、と。その理想は、その人が共同体意識を持っている以上、世界にとっても理想なのだ、故に善である。こういうロジックだ(と理解した)。

世界を理想に近づけることが行動の動機であるとすれば、それは自己愛というより、他者愛であって、善は愛に通じるというわけだ。なので、例えば英国流の「功利主義」のように、たとえ利己主義による行為であっても、結果が社会の幸福につながるなら、それは「善」なのだという、利己主義肯定論にはネガティブである。そもそも動機が、没理想的な私利私欲の追求であるなら、結果としてそれが他者を喜ばすことになるとしても、それは他者の幸福ではなく、利益をもたらしたわけで、その利益がどのような目的に使われるか分からないだろう、だから動機が悪であれば、(一見)望ましい結果が得られたとしても、それは善ではない。

功利主義的価値観の否定である、な。

これまでの投稿でも書いたが、小生は功利主義にかなり共感を覚えていた。しかし、う~~~む、中々、説得的であるナアと。そう感じた。 

要するに、現代風の言葉で言い直すと

正しい世界観をもとうと知識を重ねながら、自分にとっての理想は何かと考え、その理想に向かって、自分の個性を花開かせようと、固い意志をもって誠実に努力を続ける。そんな生き方は世の中全体にとっても絶対に「善い」と言えるのじゃないかナア。それに、そんな人は「善い人」であるだけじゃなく、そういう生き方こそ「美しい」。そう思わない?

ま、こんな言い方になるかもしれない。

善という「価値」と、真理という「知識」とを、表裏一体的に理解しているところは、かなりプラトンの道徳観に近い。実際、プラトンは

悪を為すものは、大事なことが分かっていない。要するに、知識が足らないのだ。

こんな人間観と重なる部分は確かにあるようだ。


ただ、思うのだが、善の本質は「理想的な自己に向けての意志的な努力」であるとするなら、ほとんどの人間はハナから出来ない相談でしょう、ということだ。西田が言う「自己の完成に向けての努力」とはいかなる努力なのか、自己の本性とは何なのか、それすら分からないのが《煩悩具足の凡夫》である。

凡夫は善を為せないのか?だとすれば悪人である。そんな悪人も「他力」という超越的観点から救済が約束されている、というのが浄土系仏教の人間観である。即ち、親鸞の悪人正機説がその典型だが、一般に浄土系信仰では

いかなる悪人も含めて、すべての凡夫は、称名念仏によって救済が約束されている。そのままで良いのだ。阿弥陀仏国では、現世の善人も悪人も平等である。

こんな世界観をもつ。

なので、意識の高い系(?)高校生なら、西田幾多郎『善の研究』と唯円『歎異抄』を併せて読了すると、その後何年かの激しい葛藤のすえ、深い人間観、社会観に達することが出来るのは確実である ― 少々、過激で乱暴な「読書指導」ではありますが。

【加筆修正:2024-12-06】

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