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2025年4月4日金曜日

ホンノ一言: モーニングショーが語る「労働生産性と実質賃金」の怪?

情報を伝える時には常に制限がある。

新聞には紙面の制約があり、書籍も予定ページ数がある。学会発表には時間制限がある。論文にも(内容に応じた)ページ数の目安がある。そしてTV報道にも時間制約がある。本質的かつ要点を押さえ切った説明をするのは、そもそも難しいことである。

これと関係する話しかどうかは分からないが・・・

二三日前だったか、カミさんが視ているモーニングショーで珍しく経済が話題になっていた。聞いていると、

  • 日本の労働生産性は主要先進国とほぼ同じペースで上昇してきた。
  • ところが国内の雇用者の実質賃金はほぼ横ばいを続けており、ここが主要先進国と異なる。
  • この結果として、企業の内部留保が積みあがっている。

要するに、企業は雇用者に支払うべき余裕資金をため込んでいるので、今後は賃金を上げていくのが当然である、と。こういう主張であったわけだ。

聞いていて、思わず「ン?」と疑問を感じた。それは

労働生産性が上がって、実質賃金が変わっていないなら、ロジカルな帰結として労働分配率は下がっているはずである。

労働分配率についてよく参照されるのは、財務省『法人企業統計』であるが、ここではSNAベースの統計でみてみよう。具体的には、統合勘定表の雇用者報酬と営業余剰・混合所得の合計で雇用者報酬を割った値を労働分配率とした。「混合所得」は雇用者報酬的要素が混在している個人企業の営業余剰を指している。



図を見ると、法人企業統計ベースの労働分配率とは異なり、(少なくとも)下がってはいない。というか、この数年の労働分配率は(理屈とは反対に)上がっている。


ちなみに、日本全体のマクロの労働分配率は、SNAベースでみるのが最も正しいと、小生は考えている ― 何度か投稿したように、景気判断指標としては「四半期別GDP統計速報(QE)」の重要性は低下しているとみているが、SNAは相互整合的な加工統計の体系であるが故に、信頼性は高いと考えている。そのSNA統計と法人企業統計とが、互いに相反した動きを示すのは、以前からよく観られる現象である。

労働分配率を\thetaとすると \theta = \frac{wL}{pQ} という式で(素朴な形では)定義される。但し、wは名目賃金、Lは就業者数、pは物価水準、Qは実質付加価値、つまり実質GDPである ― 実際には、市場価格表示のGDPと要素費用表示の国民所得には概念差があるが、本質的ではないので、ここでは省略する。

上式から明らかなように、実質賃金w/pがほぼ横ばいで、労働生産性の逆数L/Qが下がっているなら、左辺の分配率\thetaは下がらなければならない。ところが逆に上がっているわけである。故に、先日のテレビの解説は、図の作成方法には触れられていなかったが、どこかが可笑しいという結論になる。

一見、おかしいと思われる説明に筋を通すなら、以下のようにするしかない。即ち、賃金を人数としての就業者ではなく労働サービス量に対して支払われる金額だと考えて、下のように式を書き直す。 \theta = \frac{w'AL}{pQ} 但し、上式のw'は労働サービス単位の賃金率、Aは人数を労働サービス量に変換するためのファクターである。

この式を見ながら、TVの解説と(実は)上がっている労働分配率との整合性をとろうとすれば、以下のような議論ができる。

人ベース賃金と同様、労働サービス単位賃金率を実質化した値w'/pもほぼ横ばいと前提する。この場合、人ベース労働生産性の逆数L/Qは低下しているので、因子w'/p \times L/Qは下がるが、因子Aが上がっているので、結果として左辺の労働分配率が上がる。この経路でないとすれば、労働サービス単位で測った実質賃金率は上昇していると考えるしかない。

この他に報道された説明と労働分配率のデータを整合的に説明することはできない、というのがロジックだ。

因子Aは人数を労働サービス量に変換するための係数である。これが上がるということは、労働能率が上がっている。例えば、単純労働から知的労働への置き換えが進んでいる。あるいは、より高度の労働サービスを提供する職種が増えたり、産業構造がそういう方向へ変化している。こういう背景があるという推察ができそうだ。

もう一つ、最低賃金引き上げもまた、賃金率を底上げし、Aの上昇と同じ結果をもたらすが、それが物価上昇と相殺されていれば中立的である。

いずれにしても、一定人数の就業者により高いファクターAが掛けられることによって、結果として労働分配率は上がって来た。こう考える以外にはないのではないか。逆の面から言えば、人数ベースのL/Qは低下したが(=労働生産性は上がっている)が、労働サービス量のベースで言えばAL/Qは上がっている(=労働サービスベースの労働生産性は下がっている)、と。こういう角度からデータを見るしかないのではないか。

労働分配率\thetaとは、生産に投入される労働サービスに何パーセントの付加価値が分配されるかという値なのであるから、分子は人数ではなく、労働サービス量にしなければならない。しかしながら、テレビの情報番組でこんな細かい点は到底語れるものではない。だからスキップしたのだろうが、企業は支払うべき賃金を支払わず、内部留保をため込んでいるという説明は不正確だ。確かに企業は儲けているが、それは海外事業で儲けているのであり、国内事業では儲けていない。だからこそ、国内事業の決算であるマクロ統計では労働分配率が上がり、利益分配率が下がっているのである。

企業が海外で儲けた利益を、海外で再投資するのではなく、国内の就業者に還元するべきであるという主張は、確かにありうる意見ではあるが、それは企業の所有者である株主がとるべき判断であって、国内雇用者の報酬引き上げに充当するべきであると言えるかどうかは、人それぞれであろう。

2025年4月3日木曜日

断想: 自動車と人間と……物質と精神に関する私観?

3月末から4月初にかけて東京まで往復した。

船橋にある両親の墓に参ったあと、母が療養で入院するまで暮らしていた取手市の戸頭団地に回り、まだ七分咲きの桜を観た。それから守谷乗り換え・つくばエクスプレスで新御徒町まで戻って、ついでに上野の山の桜風景でも撮ってスマホの待ち受け画面にするかと考えていたのだが、とにかく寒く(後できくと41年ぶりの低温であったとか)、花見はせずコンビニでサンドイッチを買って、ホテルに帰ることにしたのは、つくづく根性がなくってきたナアと感じた次第。


墓参の帰り、近くのバス停まで歩く途中、自動車の解体工場がある。バラバラに切断されたボンネットの破片が山積みされている。


それを横目にみて、歩きながら、考えた:

自動車は、燃料を消費して熱エネルギーを生成し、熱エネルギーを運動エネルギーに変換して走る。人間の身体も同じである。そう言えば、《人間機械論》という唯物思想があって、西欧の啓蒙時代にかけて、一時流行したそうな。その意味では、人間と自動車は同じことをやっている物理的存在である。

しかし、根本的に違う所がある。自動車が走るのは、自ら走るのではなく、人間の意志が自動車の外側にまずあって、その意志のとおりに自動車が動かされているわけだ。人間の身体もこの点では同じだ。無意識活動も生存への意志と広く解釈すれば、その人の意志がまずあって、意志の通りに身体の各部分が動かされている。ところが、その意志は人間の身体の内部にあるのが、自動車とは違う。

意志は物質である身体とは区別された非物質の精神の働きである。仮にそう考えず、人間の身体に精神は宿るのだと考えると、物質が精神をもつというロジックになる。物質が意志をもつという理屈にもなる。 

しかし、物質が意志を持つと考えるのは流石に可笑しい(と感じます)。自動運転もママならないのに、自動車が意志をもちうるか?自動車が精神をもちうるか?持つとすれば、それは自動車本体とは区別された《AI》である。今のところ、自動車は精神をもたず、意志を持たない。だから外側から人間の意志によって動いている。物理的存在である自動車が意志をもつことは将来もないだろう。

 

物質である身体と非物質の精神とは、正に《不二》にして《一如》、一体のものであると考えることも可能だ。これも一つの世界観である。金剛界と胎蔵界は本来一つであるとみた空海の「両部不二」もこれに近いかもしれない。 

この立場にたつとすると、動物も植物も、生命あるものはすべて、意志(=生存への意志)をもつと考えるべきだ。「生存本能」と呼ぶが、「生存」と「世代継承」という特定の目的を実現するために物質を動かせるのであれば、それは「意志」の働きである、と言ってイイだろう。

老衰と死は、物質的身体の衰えから、精神が意志の通りに身体を動かせなくなる生理学的現象である。つまり、死の時点で精神は身体を失う。

身体を失った後、精神が存在するとしても、物理的実体ではないため、実空間においては観察不能である。 

 

もしも物理的な存在である身体の死が、同時に精神の死であるのであれば、物質の内部に精神があったことになる。言い換えると、物質が意志を持ちえるというロジックになる。

 

ひょっとすると、こう考えてもよいのかもしれない。しかし、こう考えると、生命体を超えてあらゆる存在は内部に精神をもち、意志をもつ、と考えてもよいことになりそうだ。意志があれば目的がある。故に、宇宙全体はある目的に向かって合理的に動いているという宇宙観になる。が、(というより、とすれば)、その目的を与えた存在は何か?この問いかけから逃げられない。目的の背後には意志が存在するからだ。

やはり物質と精神には本質的な違いがある。こう考える方が(今の)小生には納得できる。とすれば、物質的存在である身体の死は、精神の死を意味しない。では、身体的な死の時点で、精神はどんな状態に移行するのか?

宗教、哲学(ひょっとすると更に科学も?)とが重複する領域がここにある。

・・・

こんな事を思案しながらバス停で待っていたから、待ち時間で退屈することはなかった。