2025年4月29日火曜日

断想: グローバル化は紀元前の昔からずっと「不安の時代」をつくってきた・・・

《グローバル化》というと足元では逆回転気味の風が世界で吹いているが、これまでの世界史で起きたグローバル化現象を思い起こすと、一度始まったグローバル化はそうそう簡単に止まったりはしないものだ。

西洋史を勉強していると、共和制ローマの拡大と古代ローマ帝国の成立が、ヨーロッパ、北アフリカ、中近東をカバーするグローバル化の現れであったことが、自ずから伝わってくる。

しかしながら、ローマ帝国成立を遡ること300年の以前、アレクサンダーの東方遠征で形成された広大なヘレニズム世界は、ローマ帝国ほどには注目されていないが、これこそ空前のグローバル化であったと、小生は(勝手に)理解している。

ヘレニズム世界は、ギリシアからエジプト、中近東・イラン、北インドまでを含む広大な空間を覆う拡大したギリシア語圏でありながら、領域内には多種多様な民族と言語が自由に混じり合っていたという意味で、言葉の定義通りの《第一次グローバル化》の時代であったと思っている。

このギリシア語優位のヘレニズム文化圏は、B.C.300年頃から形成され始め、アラブでイスラム教が勃興しインドに到達するまでの概ね1000年間は、国家の変遷、盛衰はあったにせよ文化的遺風は残り、この地域で暮らす人々にとっては当たり前のグローバル経済圏であり続けた。多種の民族、多様な宗教が、広大な地域間で相互に浸透し、万人平等のコスモポリタニズムが日常感覚となったヘレニズムの文化的遺産は、ローマ帝国500年間が残したものにおさおさ劣るものではない。

ギリシア勢力の拠点であった北インドのガンダーラ、カシミールといった地域が、現在では荒廃し、時に国際紛争の舞台にもなり戦火に見舞われているという事実を思うと、実に慨嘆に堪えない思いもするわけだ。

いわゆる《大乗仏教思想》が仏教の革新勢力として台頭し、(おそらく多様な文化の坩堝であった北インド地方で)『法華経』や『無量寿経』、『華厳経』などの大乗仏典がサンスクリット語で盛んに編纂されたのは、まだヘレニズムの遺風が残り、その後のインド・グプタ朝の文化が爛熟期を迎えた1世紀から4世紀頃までのことだと伝わっている ― この300年ないし400年という時間もまた十分に永い時間だ。文化の形成と進展は100年を単位として観察するべき事がよく分かる。

大乗仏教とギリシア思想との関係、紀元ゼロ年に始まるキリスト教の東進との関係などは、また機会を改めて記したい。三島由紀夫の『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』では、西洋思想とインド思想、大乗仏教思想について掘り下げた研究の跡が述べられている。三島という人は、おそるべき人である。

大乗仏教が起こったのは、仏教を革新する新たな宗教思想が求められていたからだと思われる。即ち、個人的な悟りと成仏から広く衆生を救う利他行への転換である。そこには、伝統的な「小乗仏教」(=多数の部派仏教)では包みきれない混乱と不安の高まりがあったに違いない。不安は、その当時は先進的であった旧・ヘレニズム世界で、バラバラに粒子化しつつあった人々に共有されていた心理であったのだろう。

キリスト教の宗教改革もそうだが、全ての革新は、革新されるべき問題への回答として、為されるものである。大乗仏教の台頭も情況は同じであったろう。


ここでは最近になって目を引いた記述をメモしておきたい。

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』は、非常な大部でありながら、読んで面白く、読み直して有益で、かつ内容も信頼がおける本として、小生の愛読書の一つである、というのはこれまでにも投稿した通りである。

最初の「古代哲学」篇の第25章のサブタイトルが『ヘレニズム世界』である。

その最後の部分でラッセルはこんなことを述べている:

この一般的な混乱は、知的脆弱化ということ以上に、道徳的頽廃をもたらすことは必至であった。長期間にわたる不安の時代は、少数者が高度の聖徳をもつこととは両立しはするが、まっとうな市民というものの散文的な日常の諸徳には、有害な作用を及ぼすものである。

……徳というものの根源が、まったく地上的な思慮分別以外には何もない、というような人間は、もしそのような世界におかれれば、冒険家となるであろうし、勇気をもたなければ、臆病な日和見主義者として無名の生活を求めるであろう。

この時代に属したメナンドロスは次のようにいっている。

生まれつき悪漢ではないのだが、不運にあい

仕方なくそうなった人間どもの

たくさんの例をわたしは知った。

これは紀元前3世紀の道徳的性格を要約している。もっとも、二、三の例外的な人物はいる。(しかし)これらの少数のひとの間でさえ、恐怖が希望にとって代わり、人生の目的は何らかの善を達成するよりは、不運を脱却することだったのである。

上の引用文中のメナンドロスは、仏教の古典でもある『ミリンダ王の問い」の中で、仏僧ナーガセーナと討論したミリンダ王のギリシア名である。

メナンドロスがいう「仕方なくそうなった人間ども」の中には、親鸞が『歎異抄』の中で語った

なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはん に、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあ らず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべ し

このような凡夫も含まれているはずで、親鸞のこの科白と上のメナンドロスの科白には、互いに響きあうものがあるのは、誰でも感じることが出来るだろう。そういえば、親鸞が生きた鎌倉時代初期から中期にかけての時代もまた政治を超えた文化全般の混乱期であった。

グローバル化は、経済がグローバル化し、国境を超える大量の移民が日常化し、既存の社会で伝統的な価値観や理念が崩れ、全体としては文化的混乱に支配されるものである。

そんな混乱と不安の時代では、善を積極的に求めるよりは、というより「善が善であることへの疑い」が高まるが故に、凡夫はただ風をよんで、日和見的に、生きている間の損得のみを考える、そんな人生を強いられる、と。そういうことを言っている。

正に、現代のグローバル化でも同じようなことが起こっている。そう云えるであろう。


不安と混乱にみちた時代においては、人々を癒す哲学と信仰、というか堅い精神的基盤、つまり今様にいうと《疑いなく善であるロールモデル》が必要だ(と思います)。

混乱と不安の時代とは、そのまま迷いの時代でもある。生き方に迷い、何が善いのか悪いのかに迷い、主観的な正義感に迷うのである。迷いは、無明であり、闇である。つまり光がいる。仏教ではそれは智慧だと云っているが、要するにそういうものがいる。


混乱に迷うと、「法」に頼るのが人間の性だ。がしかし、法律の条文を「犯罪容疑者」に適用しても社会はチットモ善くはならない(と思います)。混乱は混乱のままである(と思います)。というより、法律はただ犯罪者をつくるだけであってはならない(と思います)。そんな法律は、仮になくとも、案外、世の中は真っ暗にはならないと、小生は確信している。

むしろ法律を善くすることがもっと重要である。悪者は悪い法律がつくり出していると言っても、これまた世間の真相の一面だろう(と思っている)。


科学技術の発展が、つまるところ、多くの人の不安や負担を差し引いても、人類を幸福にして来たのは事実だと思うが、世界のグローバル化もまた人類の幸福増進のためには、通らなければならない関門の一つだと思う。問題は、それに耐えきれない人が非常に多いということだ。「耐えられない」というそのこと自体を責めるべきではないはずだ。

いわゆるマスメディアで繰り広げている雑談は、日にゝ劣悪さの度合いを増している、と。そう感じるのだ、な。メディア業界に従事する人たちの仕事、生活もあるのだろうが、プラスとマイナスが混じりあい、事業の継続には不安がある。これまた現代的不安の一つということで・・・

【加筆修正:2025-04-30】


2025年4月25日金曜日

断想: 昔の名作の著者も性格は人それぞれということで

日本の随筆で古典と言えば、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』で概ね決まっているようだ。学校の古文の授業でも、まだこの辺の説明は変わっていないのではないだろうか。

小生は『徒然草』をずっとベッドの横において就眠薬の代わりに一段か二段、パラパラと読むのを習慣にしていた時期がある。ところが、あるとき何かがきっかけで『方丈記』の全体を読み通してから、俄かに著者の鴨長明に親近感を感じ、以後ずっとこの作品の大ファンになった。残念ながら残る一つの『枕草子』は、波長が合わず本でもKindleでも買うに至っていない。

兼好法師 ― かつては吉田兼好と覚えていたが、手元にある岩波文庫版の巻末にある解説では、「吉田兼好」という江戸期に捏造された俗称は否定されるべきであるというのが、現在の学界の定説である、と。こう述べられていて、理屈としては『俗名「卜部兼好」の遁世者としての呼称であることが知られる」と記したうえで、文中では単に「兼好」としている。これに対して、鴨長明は兼好より100年程前の人であるが、朝廷の人事の対象になっていたせいか、名はハッキリしているようだ。

違うのは生きた時代や環境だけではなく、性格もまったく違っていたものと憶測される。例えばそれは『方丈記』と『徒然草』の末尾を読むだけで、二人の人柄の違いが伝わってくる。

方丈記の最後は

静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから、心に問ひていはく、世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人ひじりにて、心は濁りに染めり。住みかはすなはち、浄名居士じょうみょうこじのあとをけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特しゅりはんどくが行にだにおよばず。もし、これ貧賤の報のみづからなやますか。はたまた、妄心のいたりて狂せるか。その時、心、さらにこたふる事なし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏ふしょうあみだぶつ、阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。 于時ときに、建暦の二年、弥生のつごもりころ、桑門そうもん蓮胤れんいん外山とやまの庵にして、これをしるす。

こんな文章で終わっている。これに対して、『徒然草』の最後は

八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何いかなるものにかそうろふらん」といふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へそうらひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」といふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。 「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

何だか神様のお札にご利益があるのかどうか調べるため、実際に小便をかけてみて、果たして神罰が下るかどうか二、三日待って検証してみたという逸話が伝わる福沢諭吉を連想させるお人柄である。

これに対して、鴨長明は法華信仰や念仏に帰依しながらも、しっくりと来ず、煩悩を自覚しながら、それでも口先で南無阿弥陀仏を唱えるような、実に不徹底で、グジグジした性格であるようだ。実際、『方丈記』という作品の相当部分は、自分が暮らす家のしつらえ、不平・不満、京の都を襲った天災や火事などのレポートであり、不平・不満に加えて、不安もまためんめんと語っているのである。 

 文句ばかり言いながら、心の中では何かを信じたい、それでも疑わしくて形ばかりの御念仏を口にする。現代日本人につながるようなダメなところに実に親近感を覚えるのである。

いわば、しょせんは「俗人」、「俗物」、「凡夫」どうしの仲間意識であります。

これに対して、『徒然草』の兼好は、理性的であり、かつまた理性に徹しうる強い魂をもっていたことが分かる。こちらは親近感というよりは、尊敬の気持ちの対象というべきか。

2025年4月24日木曜日

一言メモ: 「高額療養費制度見直し」は保険原則からみると逆だと思うが

年間収入にもよるが一定の限度額を超える医療費は、公的医療保険で全額負担するという現行の《高額療養費制度》は、非常に多くの患者家族の生計を支える基礎になっている。

だからこそ、高額療養費制度の上限額を引き上げるという政府案は、世間で大きな騒動になったわけだ。

ネットにもこんな記事がある:

政府は保険料抑制のため、高額療養費制度の見直しなどを打ち出していましたが、物価高の影響もあり改革は凍結中です。歳出改革による圧縮も計画されていますが、実行が遅れればさらなる負担増は避けられません。制度の持続性と公正な負担のあり方について、一刻も早い見直しと具体策の実行が求められています。

Source: アゴラ AGORA 言論プラットフォーム

Date: 2025.04.24 06:15

URL: https://agora-web.jp/archives/250423202921.html

何だか、公的医療保険の「高額療養費制度」の見直しは不可欠である、と。こんな世論が形成されるような雰囲気なのだ。

実は、小生、個人的にだが、公的医療保険には前々から不思議に思っている点がある。それは

一定限度以内なら患者が3割負担(=保険は7割)。限度を超える高額医療なら保険が10割負担。

高齢者は本人負担が2割あるいは1割だが、高額療養費制度とは、要するにこういうことだ。

今まで当然と思っていたが、《保険》という原理から考えると、おかしな事をやっているナアと、(実は)思うようになった。

このような運営なら、高額医療認定の上限を引き上げると

高額医療の認定が減る

当たり前の理屈だ。

しかし、そもそも《保険》というのは、一定以上のリスクが現実に発生した場合に保険金が支払われるものだ。これが原理・原則で、だからこそリスクをカバーできる。そのリスクカバ―として保険料を払っている。

実際、自動車保険の車両保険では、一定金額までは修理費の全額が自己負担になっていることが多いので、「保険」というサービスは誰でも体感として理解できていると思う。

最も真剣かつ深刻に保険金でカバーしたい状態になったその時、保険金の支払い要件が厳しくなるというのは、保険サービスの低下に等しい。

先の政府案で(理由は憶測できるものの)鼻白む箇所は、高額医療上限額を引き上げるということだけで、その他の保険金支払(=医療費の保険負担率)については(どうやら)変更なしとしていた点である。

保険原理に忠実に従うなら、

医療費が一定金額を超えるまでは自己負担。医療費が一定金額を超えるときは、保険を申請して(自動的に、でもよい)医療費が保険で支払われる。

非常に素朴に保険原理に従うなら、こうでなければならないと思うのだ、な。

要するに、

軽症の治療なら全額を自己負担。重症かつ高額の治療なら保険を申請

こういうことで、これなら医療保険も自動車保険ほか様々な保険と同じ運営になる。

ところが公的医療保険の場合、たとえ軽症だろうと、そもそも医師の治療が不要な疾患であっても、病院に行けば(ほぼ)全ての医療で保険が適用されて保険金がおりる ― 7割支給ではあるが。結構な割合だ。保険にしては大盤振る舞いだと思うがいかに?

まるで、一寸した傷の修理であっても、車両保険がおりるようなものだ。

これでは車両保険が赤字になり、結果として、自動車保険料が引き上げられる原因になる。


そもそも《医療サービス》は、社会政策が普及した近代国家以前の時代においては、典型的な「贅沢品」であった。現代世界でも高コストを要する高額サービスである事情は変わらない。贅沢品であるサービスの消費機会を全国民に平等に提供するという理念は、確かに理想だが、ほかに例えるなら、一流レストランで美味なる料理を楽しむためのクーポンを、毎年一定枚数、全国民に配布する政策に似た側面がある。巨額の財源が要る。格差感覚は緩和されるかもしれないが、どこか馬鹿々々しさを感じる(はずだ)。

政府の施策の理念は誰もが贅沢できるという事ではない。そんなことは不可能である。

民間の保険ビジネスではなく、《公的医療保険》が達成するべき目的は何かと問われれば、(比較的若い年齢で)治療困難な病気・障害に見舞われ、勤労困難となるために家計が崩塊するというリスクをカバーすることであろう。確かに、国家の労働資源が毀損するリスクは公的にカバーする理由になりうる。

国民の誰もが同じサービスを消費できるようにするという目的は、語句の定義から考えれば「社会主義」に該当する。社会主義を選ぶなら、それに応じた税制・法制が必要で、基礎産業を国営としたり、ある種の必需財は専売制にするなどして、十分な歳入を確保することも必要になろう。しかし、いま日本人は社会主義を希望しているとは思えない。

 

国家が国民のためにカバーするべきリスクとはどんなリスクであるのか?

この問いかけをよく考えて、存立可能な医療保険に改編することが必要だと思うのだ、な。

保険収支を改善したいなら、まずは年齢によらず、本人の負担割合は一律に3割とする。次に、例えば年間5万円とか、一定金額までは医療費本人負担を10割とする。

この辺から始めてはいかがか?検討課題にすら挙がらないのは、こう考える人は、少ないのかな?


2025年4月22日火曜日

ホンノ一言: 預言者・クルーグマンの面目躍如というところか

トランプ大統領が<金利引き下げ>に慎重なパウエルFRB議長を解任することを検討中と(どこかの)SNSに投稿したという。

これをきっかけにして、将来不安の高まりからNY市場の株価が暴落。米国債相場も急落(=長期利回り上昇)更にドル安も進行するなど、トラス英首相の「40日天下」で起きた記憶はまだ新しいが、先進国では滅多にない《金融トリプル安》が再び起きてしまった。

経済学者のKrugmanは、

Last week was a scary time in U.S. financial markets, and the danger may not be over.

I’m not talking about stocks, whose fluctuations often tell us nothing at all. What had me and others rattled were developments in bond and currency markets. Interest rates on long-term government debt rose sharply even as the perceived risk of a recession, which normally pushes rates down, rose. And the dollar went down against other currencies even though interest rates went up.

Source:  substack.com

Author: Paul Krugman

Date: Apr 13, 2025

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/a-financial-crisis-primer-part-i 

こんな風に"scary time"(恐怖の時間)だと振り返った10日前の金融的惨事が再び出来したわけである。上記引用の短文の最後は

I don’t think the Trump tariff regime will cause that severe an economic earthquake in America. But last week we were definitely feeling tremors, and it’s far from clear that this saga is over.

こう結んでいるわけで、

物語がこれで終わったとはとても言えない。

こんな状況認識を示している。

そもそもKrugmanは、昨年冬にThe New York Timesに寄せた最後の寄稿で、

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.

こう締めくくっている。この箇所は本ブログでも一度引用させてもらったので、その投稿で訳した和文を、かなりの意訳だが、もう一度下に書いておきたい:

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。指導者を信じられる時代は終わったのだ。何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ。

 

確かに民主党のハリス候補も酷い人物であったそうだが、ト大統領の無軌道振りも行きつくところまで行きつきそうな塩梅だ。

古代ローマ帝国の「五賢帝時代」は、マルクス・アウレリウス帝で終わり、その後は短命・無能の皇帝が次々に登場する「軍人皇帝時代」になったことは、今でも研究テーマになっているらしいが、そんな「100年の不安」を連想しそうだ。

マア、もって半年・・・1年?

来年の中間選挙で共和党が大敗してレームダック化する運命なのだろうか? 

それはそれで善い兆しかもしれないし、更なる不安定化への一里塚かもしれない。



2025年4月20日日曜日

断想: 仏教の「空」が現代世界で関心を集めるのは不思議なことで・・・

最近、(日本でも)仏教が話題になることが段々と増えている。それは、多分、アメリカ・ヨーロッパで仏教への関心がトレンドとして上がってきている。これを日本でも(何となく)感じているせいなのかな、と。つまりは、欧米の流行をこれも追っかけているということか、と。何だか冷めた思いで観る気持ちでもあります。

それはともかく・・・

どの宗派でも、仏教で最も理解がしづらいのは《空》という観念ではなかろうか?

言葉で言うのは簡単だ。分かったような事を語るのも簡単だ。しかし、《空》という観念を真に理解している人がいれば、言葉の定義に従えば、その人は菩薩の中でも最高位にあることになるという理屈だ。

小生も(当然ながら)よく分からない。

ただ、いま『無量寿経』の好きな部分である往覲偈おうごんげを滞りなく読誦できるように勉強しているところなのだが、岩波文庫『浄土三部経』の註にこんな下りを見つけた。原文の『浄慧知本空』の中の「本空」に対する註である:

(本空とは)本性は空であるということ。一切の現象は本来空のものであり、因縁によって生じたものであるという道理。

最後の「道理」は、むしろ「世界観」、「宇宙観」という方が今流の表現だろう。それと「因縁」というのは、仏理上の用語で「因+縁」によって全ての現象の生起が決定されるということだ。「因」は、思い切ってシンプルに意訳すれば、永遠に遡った「ベクトル自己回帰過程」、それも和分されていて非定常な過程における過去の全ての実現値を指すと、勝手にイメージしている。「縁」は、現時点において作用するランダムな外的要因だと、これまた勝手に理解している。言い換えると、繰り返し転生する輪廻の中の「過去の生」から決まっていた「業」が、まったくの偶然的要因をきっかけにして、そもそもその人が持っていた「業」が現実の結果となって帰結する、と。

マ、ギリシア悲劇の名作である『オイディプス王』を連想させるような世界観であるわけだ。

このページの欄外に手書きのメモが書かれている:

空。一切は(過去の)因と(現在の)縁による。これは徹底的な因果論。因果論を徹底すれば、意志は無意味になる。意志が無意味になるから、善を求める目的論的行為も無意味になる。というより、我という実在も実はなく、我だと自覚している意識は幻のような実体のない感覚にすぎない。無我が真理である。

「空」から「無我」が当然の理屈として出てくる。ロジックとしてはこんなロジックになるのか、と。

こう書くと、とても突飛なようであるが、極端な原子論に立って、しかもすべての現象は素粒子の運動によって決まると考える還元主義に立てば、上のような思考になる。科学的な唯物論と仏教的な空の思想は、案外、似ているのだと小生は勝手に理解している。

その科学主義が好きなのが今の世間というものだが、よく聞いていると因果論的予測よりは実現したい目的が先にある目的合理性を主張することが多い。そんな話の方を世間は好むのだと思うが、このような主観的願望は、まったく意味がない。すべては空である。仏教はこう考える(はずだ)から、現代日本、というより現代世界で仏教への関心が高まっているのは、とても不思議な気がする。


今日は、仏智とか、大悲とか、ここからが宗教であり、信仰だという境界は省略した。ただ、仏教の基本が<空>の観念であるのは事実だから、メモしておく次第。

2025年4月18日金曜日

ホンノ一言: 食料品価格の高騰は必ず政変(ときに革命まで)を招くものだ

(不作をきっかけにした)食料品価格の高騰は、古くはフランス革命の直接的原因でもあり、新しくは1918年(大正7年)に米価高騰に抗議する米騒動が日本全国に拡大して、国民の側で普通選挙への願望が高まる一方、統治機構側では民意への警戒感が強まるなど、その後日本社会が不安定化していく歴史への一里塚になった。

ことほどさように食料品価格は一国の政治情況を一変させてしまう程の衝撃エネルギーを持つ。

これが臨界点まで行くと、何人かの政治家の努力で社会を安定させるのは不可能になるということを歴史は教えてくれている。


ネットにはこんな記事がある:

 財務省が4月15日、財務相の諮問機関に対し、政府が輸入する「ミニマムアクセス米」を活用してコメの価格を引き下げる案を発表すると、早くも農業関係者からは反対の声が上がっている。

 一方、「輸入米の関税をゼロにして、安いコメをスーパーで売ってほしい」と訴える国民も少なくない。税金と社会保障費の負担に苦しむ国民の切実な声だと言えるが、その悲鳴に農水省が耳を傾けることは今のところないようだ。

Source:Yahoo! JAPANニュース

Date:2025年4月18日

Original:Daily新調

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/fe3933263a9773265d9960442625c5f8887eab3d?page=4


この中で「その悲鳴に農水省が耳を傾けることは今のところないようだ」とあるのは、全くの誤りだ。

高いコメ価格は誰よりも、農家、農協(=JA)が望んでいる。農家が望んでいるのであれば、その希望に応じるのが、自民党がとる定石だ。今夏の参院選に負けないためには必要不可欠ともいえる。

アメリカのトランプ政権は日本の農産物関税を下げろと言うはずだ。もしそれを飲めば、確かに日本国内のコメ価格は下がるに違いない。何しろ、日本は韓国と比べても2倍以上高いコメを買わされている。アメリカと比べると日本のコメ価格は5倍になる ― 実際、<アメリカ 米価>をキーワードにGoole検索してみたまえ。この位の情報は、日本人なら容易にアクセス出来ているはずだ。

しかし、自民党は米価を下げて地方の票を失いたくはない(はずだ)。政治的にこれほど重要なイシューを農水省の官僚が意のままに決められるはずがない。

つまり米価は、夏の参院選に向けての《政治マター》になっているとみて(まず)間違いない。


ということは、米価高騰は既存の農家を守る与党が政治的にもたらした結果であると政権を攻撃する機会が野党にはあるという事だ。

そして、もし米価がこのまま高値にとどまるなら、石破政権は参院選でほぼ確実に負ける。そもそも農業関係者は全有権者の中でマイナーなのだ。岩盤とはいえ、サイズが小さい。

但し、農家票は捨てて、大都市中心の消費者票をとるという覚悟が野党には必要だ。実際、野党はそうするかもしれない。

(再び)ということは、初夏を目途にコメ価格を下げて、メジャーな消費者票を取りに行こうという思惑が、政権側にはある(はずだ)。

(三度目の)ということは、自民党は国民の生活を犠牲にしてコメ価格を政争の具としてもてあそんでいる、と。野党にはやはり政権攻撃の好機がある。

どうやら、コメが上がり始めた昨年の初秋、というより真夏に気象庁が不用意に出した南海トラフ地震発生の注意喚起のドタバタ以降、その波及効果が今年になってからも続き、ついには《熱い政治の季節》を招き寄せるという結末になってしまったようだ・・・

げにや恐ろしきは、故意ではなく、何気なく口にする過失の一言。パワハラもセクハラもそうであります。善意であれば、なおさら始末が悪い。

やはり食料品価格は、時の政権にとっては最大の勘所であり、鬼門なのである。


2025年4月16日水曜日

断想: ある世界観を世代継承するというのは……

『徒然草』よりは『方丈記』の方が(小生には)面白い。

内容の半分以上は、京の都を襲っていた数多くの災害と被災者の様子に関する災害レポートと何度も引っ越しを繰り返して住んできた自宅の住宅レポートと総括してもイイほどだが、著者が(当時としては後期高齢者に該当する)還暦を迎えて己が人生を回顧したいわば「自分史」であるせいか、全体の調べが一貫しているのだ。

無常観とよく言われるが、実際には現世の無常、来世の永遠を信じている当時の知的階層の世界観も反映していて、かといって確信があるわけでもない著者の心理的揺れが表れていて、非常に興味深い。

縦横3メートル四方、高さが2メートル弱の「方丈」、つまりは「小屋」は解体が容易なプレハブ式であったようで、そこをいおりと称して、今の京都市伏見区日野の辺りで晩年を送ったわけである。最終章から一部を引用すると、

北に寄せて障子をへだてて、阿弥陀あみだの絵像を安置し、そばに普賢ふげんをかき、前に法花経ほけきょうを置けり。・・・西南に竹のつりだなをかまへて、黒き皮籠かわご三合を置けり。すなはち、和歌、管弦、往生要集ごときの抄物しょうもつを入れたり。

こんな風に室内の様子が書かれてある。法花経ほけきょうというのは、今は法華経と書いている。普賢菩薩は法華経で欠かせない主たる登場人物である。あらゆる経典の中で法華経は比叡山・延暦寺の天台宗で最も尊重されていたということもあって、日本では「経典の王」と言えるだろう。一方、源信の『往生要集』だが、本でも読もうかというインテリなら誰でも手元に置いていた必読書であったことが窺える。源信とくれば阿弥陀如来と浄土信仰だ。それで法華経とは筋違いの「阿弥陀の絵像」をかかげていたのだろう。

鴨長明が『方丈記』を書いたのは、鎌倉時代初期の1212年(建暦二年)。『往生要集』が世に出たのは摂関政治の盛期である985年(寛和元年)頃だ。200年前の平安時代に書かれた本が、その後もベストセラーとなって、鎌倉時代でも広く読まれていたのは、文語体としての日本語にそれだけの安定性があって、書き言葉が時代を越えた通用力を有していたからである。

修正(2025-04-19):「そう言えば」と、ふと気になって『往生要集』の原文をあたってみると、やはり漢文であった。源信は延暦寺の僧であったから当然でもある。鴨長明は和訳を読んだはずがない。漢文で読んだはずだ。漢文を読みこなせる基礎知識が当時の知的階層の常識であったのは、現代日本において英文を読みこなす知識が当然であるのと似ている。安定性があった日本語文語というより、ここは共通知識としての漢文読解力を強調するべきだった。西洋では(近代になってもある時代までは)ラテン語が同じ役割を担っていた。

この点、明治以降の言文一致がもたらしたメリットとデメリットが窺えるかもしれない。ちなみに、『方丈記』が書かれた建暦二年は専修念仏を旨とする浄土系宗派の開祖・法然が亡くなった年でもある。この辺り、何だか同時代性が感じられて、臨場感を覚えるのだ、な。

加筆(2025-04-19):法然の主著『選択本願念仏宗』の原文は和文である。御遺訓として読まれている『一枚起請文』も和文だ。道元の『正法眼蔵』も日本語で書かれている。鎌倉時代以降、文学にとどまらず、思想や教理も日本語で伝える著述が増えたのは、日本人の知識を底上げした主たる要因であったのではないだろうか?ただ、その日本語は文語であり、文語としての日本語は時代を越えて(かなり)安定していた。これが主旨だった。

いずれにしても

親族や友人と別れ、財産や地位と別れ、己が身体と別れ、心とも別れ、伴うのは善悪の業ばかりなり。
こんな「死にゆく者の四つの別れ」のことは、長い仏教受容の歴史の中で、鴨長明も既に熟知していたに違いない。最後の「伴うのは善悪の業ばかりなり」は「伴うは後悔の涙のみ」と話される時もある。

そういえば、亡くなった小生の祖父が口癖のように云っていたのは

人間、起きて半畳、寝て一畳。生まれながらに無一文。
ということだった。祖父は夏目漱石の愛読者だったのでそのせいかもしれない。言葉は違うが、同じ世界観を世代継承できていることを、今ほど有難いと思った日々はない。

 

あらゆる文明は、ヨコでつながって出来るものだが、よく見ると時を超えてタテにもつながっているものだ。人間関係という横の絆は大事だが、縦の絆が切れていれば、その社会で文明は引き継げないし、そもそも新しいものも創造できないはずだ。技術も価値観も文明の一つの部分である。

2025年4月13日日曜日

池田晶子『2001年哲学の旅』のある箇所について

 『2001年哲学の旅』の著者である池田晶子のことは、比較的最近に投稿したことがある。そこでは大峯顕の著書について感想を記しておくのが主だった。

この『2001年哲学の旅』は、ジブリ風の装丁の割には中々読み応えのある実質があって、特に就寝前に何度も読み返すには最適な本である。

昨晩もギリシア哲学者・藤澤令夫との対談の箇所をパラパラ読んでいると、以下の下りがあってオヤッと思った:

私自身はやっぱり、哲学としては、ソクラテスやプラトンの「精神」原理と多数の人々の「生き延び」の原理が拮抗する中で、「生き延び」の原理が原子論の世界観によって武装し始めたもとのところに戻って、考え直さなくてはいけないと思う。

ただ東洋の知恵に乗りかえるというだけでは、世界の見方や宇宙の見方とつながらないンですよね。科学的な宇宙観を射程におさめたプラトン的なコスモロジーというところにつながらない。

人間の生き方と世界のあり方というのが同じ「精神」原理で把握できるという、一種の体系みたいなものを構築しておかないといけない。

藤澤の発言である。


この「コスモロジー」という言葉で連想したのは、何と中国中世にアップデートされた儒学体系、つまり「朱子学」であった。朱子学は、理気二元論を基礎に宇宙という物質的存在のあり方と人間の価値的世界を統合したという点で、一貫したコスモロジーを成していた。近代科学がまだ十分に発展しない段階で、知的階層を魅惑したのはもっともであるのだ、な。ちょうど19世紀後半から(多分今でも)マルクスの『資本論』が一部の人たちを魅了しているのと同じ理屈だろう。

カントも自然科学を基礎づける『純粋理性批判』だけでは満足せず、人々の意志を方向付ける『実践理性批判』、因果論ではなく目的論的認識を基礎づける『判断力批判』の三批判書までを書き終わって一つの体系にした。

空海が云った(という)金剛界(=物質界)と胎蔵界(=精神界)とは両部不二であるとの言も、主旨としては結構近いのだろう。

現代文明に欠けている核心の部分が、精神的基盤を提供しない《科学主義》の弱点にあるのは、ほぼ確実であると小生は考えるようになった。

実際、客観的物質が先にあって、その物質的存在は全て素粒子に還元されるという素朴な「科学主義」ほど、有害な思い込みはない。

人は意志をもって生きているのを、ただ生命ある物質が「生きている」と認識するのが、どこか可笑しいのは、少し頭を使えば誰でも分かることだろう。科学的に「生きている」と認識しているのは「身体」である。身体こそ全てであると機械論的に認識するのは、一つの立場としてありうるが、科学の側にも多くの意見がある。明らかに偏っているはずの社会的合意(?)を、無批判に前提して、一定の価値判断を伝えているメディア業界もまた有害な機関であるのかもしれず、現代文明の病理的症状の一つかもしれない。


そういえば、最初に引用した箇所の上段にはこんな下りがあった:

「精神」原理に対する「生き延び」の原理というのがあります。ソクラテスがそれを見つけたのですが、「ただ生きること」と「よく生きること」との対比とも重なります。

プラトンの『ソクラテスの弁明』は、多分いまでも中高生のための推薦図書になっていると思うが、

ことを行うにあたって、それが正しい行いになるか、不正の行いとなるか、すぐれた人のなすことであるか、悪しき人のなすことであるかという、ただこれだけのことを考えるのではなく、生きるか死ぬかの危険も勘定に入れなければならないというのだとしたら、君のいうことは感心できないヨ。

ソクラテスを裁く法廷で裁判員を前にこんな意見を陳述している。 藤澤令夫の師匠である田中美知太郎が訳した『世界の名著6 プラトンI』からの引用だが、主語と述語の順を逆にするという編集を加えさせてもらった。

現代流にいえば、

それが正しいか、不正かという時に、生死のリスクなど考えるな

という意見に等しい。

これは『葉隠』も同じことを言っているわけで、三島由紀夫の『葉隠入門』を何度か引用している:

「我人、生くる方が好きなり。多分すきな方に理が付くべし」、生きている人間にいつも理屈がつくのである。そして生きている人間は、自分が生きているということのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。(95頁)

現代人なら「過激すぎる」と感じるのは確実だ。

「生き延びる」、「生き延びたい」という意志は、現代社会においては、最高度に正当化され、理論武装され、合理化されているという事実を、上の引用箇所は意見として云っているわけである。


しかし、思うのだが・・・

上のような意見は確かに理想論である。凡人はリスクを恐れる。リスクを回避するのは合理的であるとして許される。しかし、それは古代ギリシア人が重んじた四徳(=勇気・自制・正義・智恵)の中の勇気の欠如を示すものであって、恥ずべき行いであるという共通認識があったのだと想像している。少なくとも、正邪善悪より、真っ先に命の危険を怖れるのは優れた人物ならしない。それを、(開き直って)危険を避けようとする行動は合理的で、合理的であるが故に他人から責められる筋合いはない、と考える素朴なヒューマニズムで、社会は大丈夫かと感じることは多い。

現代社会のように

人の考え方は人それぞれですから・・・これも多様化を重んじる世界の流れなンだろうと思います、etc. etc.

という風に(何でも)相対化して、誤魔化していれば、社会は劣化するばかりだろう。

ま、とにかく『2001年哲学の旅』という本が、案外売れたという事実そのものが、未来にかけての一つの救いに思われたのであった。

才なく知なく徳もない凡夫でさえもが、現在のメディア業界の語る内容を信頼しなくなったという観察が本当なら、これもまた「ムベなるかな」という所だろう。


2025年4月7日月曜日

「トランプ関税」が愚策であるのは明白だが・・・

関税率引き上げは、貿易戦争を招き、結果として世界経済全体の成長を押さえるので、愚策中の愚策であるというのが、正統派経済学の定理である。

その意味で、今回の「トランプ関税」は、計算上の根拠のお粗末さには目をつぶるとしても、基本的に「愚策中の愚策」であるのは明白で、これがいわゆる《敗着》となって、2年後の米国・中間選挙で与党・共和党が大敗北する直接的要因になるかもしれない。

しかし、多分、この点は分かってやっているのだろうナアとは憶測している。

ひるがえって、この日本で大きな政策を決める時には、まず閣議で全閣僚の合意をとらなければならず、閣僚の意志には官僚の意見が反映されるものだ。そして、日本の「関税三法」を法改正するとすれば、与党の政調を通す必要がある。マア、日本国の首相にはト大統領のような振る舞いは、法的に、少なくとも組織として出来ないのだ。一言で言えば、それほどの権限は有していない。よく「指示」と言っているが、実際には「お願い」であろう(と勝手に憶測している)。

戦後世界では正統派経済学の論理によって経済政策が行われてきたので、自由貿易が理想であることを正面から否定する指導者は出現しなかった。

今回の「トランプ関税」は、グローバリゼーションへの反動とナショナリズムの復権とみれば、そう観えるのかもしれない。が、新しいアメリカが向かうのは、結局のところ、グローバル経済の成長を捨てて、アメリカを中心とした《経済ブロックの成長》を追求する方向に向かわざるを得ない、と。そんな風に観ている。

10年後に国際機関《WTO》(=世界貿易機関)がまだ存在しているかどうか分からない。

20世紀初めの第一次世界大戦より前にあった《帝国主義+デカダンス》に似た時代がまたやって来るのではないか、と。そんな感覚もあるのだ、な。

ある行動が愚策であるかどうかは、その時点で正統派である理論(及び価値観)に基づいて下される判断だ。正統派ではなく異端派によれば、愚策が上策になることは多い。この種の例は、歴史上、無数にある。

いわゆる《パラダイム・シフト》は、俗にいえば「ちゃぶ台返し」なのである。世界は、結果が全てといえば、そうなのだ。

トランプ大統領自ら、「経済革命」だと主張しているが、本当に「革命」になるのかどうか、今の時点では分からない。しかし、アメリカ国内にそんな「現状否定」を望む勢力があるというのは、前から分かっていた。

世界を動かしているのは『我はかく思惟する』という理性ではなく、『我はかく欲する』という欲望と意志である。これは誰もが知っている事実であろう。

英誌"The Economist"は、まだ確定的な評価はしていない。

... Investors have lowered their expectations for American corporate earnings this year by 1.5%—the same as for earnings in Europe. This is consistent with academic evidence published before Mr Trump took office, which concluded that American tariffs would cause as much or more economic pain outside America as within.

The good news is that the global economy faces Mr Trump’s tariff onslaught from a position of relative strength. A composite measure of global growth in March, derived from surveys of purchasing managers, rose from its February reading, and indicated particular strength in the services sector, which is so far unaffected by tariffs.  ...

America’s starting-point is even stronger. On April 4th statisticians revealed that the economy added 228,000 jobs last month, well above expectations. Old news, it is true. Yet real-time data tell a similar story. A weekly index produced by the Dallas branch of the Federal Reserve suggests that the economy is growing by over 2% a year. Goldman’s activity indicator shows America outperforming other rich countries. Although Mr Trump has committed one of the worst policy blunders of all time, he was lucky enough to inherit a strong economy. How much pain can it take? 

Source: The Economist

Date: Apr 6th 2025

URL: https://www.economist.com/finance-and-economics/2025/04/06/will-trumps-trade-war-cause-a-global-recession

Google翻訳で下線部だけを和文にすると、

トランプ氏は史上最悪の政策失策を犯したが、幸運にも強い経済を引き継いだ。どれほどの痛みに耐えられるだろうか?

その行為が「失策」であるかどうかは、目指している「目的」に依存する。多分、ト大統領が目指しているのは、正統的な《西側世界》がこれまで合意してきた伝統的目的とは異なるのだろう。伝統的目的を前提すれば、ト大統領がとった関税戦略は愚策なのである。

しかし、トランプ関税が愚策であるかどうかは、ト大統領が新たに目指し始めた目的を実現する上で合理的であるのかどうかで、アメリカ人が判定するべきことだ。

ト大統領が目指している《非伝統的目的》の実現に協力できる余地は、おそらく日本にもある(かもしれない)。それが日本の国益にプラスであるなら、協力すればイイ。日本の国益を毀損するのであれば、戦後日本の外交戦略を根本から見直す作業が必要になるだろう。


2025年4月6日日曜日

一筆メモ: 北京政府にとって最良の「台湾問題」解決とはいかなるものだろうか?

トランプ政権になってから日米安保体制の根本的見直しが迫られている(かのような)報道が目立つようになった。

仮に日本国内から米軍基地がなくなるなら、それ自体は好い事ではないかと小生などは感じるのだが、「それは不安です」と考える人たちが世間には多いのだろう。

日本が国防上の危機に(万が一)陥るなら、日本人が最前線に立って戦わなければならないのは自明のことである。国内に駐留する米軍が最前線に立って、日本のためにアメリカが戦うなどあるはずがないことは、当の日本人だって分かり切っているはずだ。人間は条文のとおりには行動しない。納得がなければ規約は死文化しているのである。理屈に拘っているのはメディアだけであろう。政治家もそれくらいは承知しているはずだ。

ただ、危機感をむやみに煽るメディアを取りあえず無視するとして、普通に考えれば、北京政府が台北政府と一線を交えるのは、中国にとって上策ではないのではないか。

仮に一戦を交えてしまえば、その後の治安維持に苦労するのは明らかだからだ。

第二次大戦後の独仏和解と現在のEUに至る道筋は北京政府も研究しているはずだ。

まずは第二次大戦後の「国共内戦」の和解を明文化し、エネルギー協力から自由経済圏、人とカネの移動の自由へと歩み始めれば、平和的な《中華連邦国家》の結成が不可能だとは、(小生には)思われない。

この小さな日本国でも「南北朝時代」という時代区分がかつてはあり、足利尊氏の1337年から足利義満の1392年までの55年間、二人の天皇が在位し、争乱が続いた。権威や権力は、一度分裂してしまえば、再統合は大変な難事業で、高度の政治的な技術が要されるのだ。外国の勢力が介入するべきではないと言っても、それで以て「反・民主主義的」であると非難される筋合いはないと思う。

というか、最終的に東北部からチベットに至るまでの現在の中国領土は、いずれ連邦国家に移行するのではないかと(勝手に)予想している。

そもそも北京政府が、20世紀前半の日本の「侵略」を今もなお「歴史問題」だと非難しているのは、わが身の蛮行を知らない歴史的無知の証拠である。漢民族固有の領土は、現在の中国領土よりよほど小さいもので、清王朝・乾隆帝の盛期の果実を継承しているという言い分こそ、クリミア半島を含めたウクライナ領有権を主張するロシア的感覚と同じである。

北京政府が(十分に)賢明なら、北京政府にとっての台湾問題も自然と解決されるのではないか。アメリカも動けないはずである。そうなれば、日本にとっても好い結果ではないかと感じるがいかに?

2025年4月4日金曜日

ホンノ一言: モーニングショーが語る「労働生産性と実質賃金」の怪?

情報を伝える時には常に制限がある。

新聞には紙面の制約があり、書籍も予定ページ数がある。学会発表には時間制限がある。論文にも(内容に応じた)ページ数の目安がある。そしてTV報道にも時間制約がある。本質的かつ要点を押さえ切った説明をするのは、そもそも難しいことである。

これと関係する話しかどうかは分からないが・・・

二三日前だったか、カミさんが視ているモーニングショーで珍しく経済が話題になっていた。聞いていると、

  • 日本の労働生産性は主要先進国とほぼ同じペースで上昇してきた。
  • ところが国内の雇用者の実質賃金はほぼ横ばいを続けており、ここが主要先進国と異なる。
  • この結果として、企業の内部留保が積みあがっている。

要するに、企業は雇用者に支払うべき余裕資金をため込んでいるので、今後は賃金を上げていくのが当然である、と。こういう主張であったわけだ。

聞いていて、思わず「ン?」と疑問を感じた。それは

労働生産性が上がって、実質賃金が変わっていないなら、ロジカルな帰結として労働分配率は下がっているはずである。

労働分配率についてよく参照されるのは、財務省『法人企業統計』であるが、ここではSNAベースの統計でみてみよう。具体的には、統合勘定表の雇用者報酬と営業余剰・混合所得の合計で雇用者報酬を割った値を労働分配率とした。「混合所得」は雇用者報酬的要素が混在している個人企業の営業余剰を指している。



図を見ると、法人企業統計ベースの労働分配率とは異なり、(少なくとも)下がってはいない。というか、この数年の労働分配率は(理屈とは反対に)上がっている。


ちなみに、日本全体のマクロの労働分配率は、SNAベースでみるのが最も正しいと、小生は考えている ― 何度か投稿したように、景気判断指標としては「四半期別GDP統計速報(QE)」の重要性は低下しているとみているが、SNAは相互整合的な加工統計の体系であるが故に、信頼性は高いと考えている。そのSNA統計と法人企業統計とが、互いに相反した動きを示すのは、以前からよく観られる現象である。

労働分配率を$\theta$とすると $$ \theta = \frac{wL}{pQ} $$ という式で(素朴な形では)定義される。但し、$w$は名目賃金、$L$は就業者数、$p$は物価水準、$Q$は実質付加価値、つまり実質GDPである ― 実際には、市場価格表示のGDPと要素費用表示の国民所得には概念差があるが、本質的ではないので、ここでは省略する。

上式から明らかなように、実質賃金$w/p$がほぼ横ばいで、労働生産性の逆数$L/Q$が下がっているなら、左辺の分配率$\theta$は下がらなければならない。ところが逆に上がっているわけである。故に、先日のテレビの解説は、図の作成方法には触れられていなかったが、どこかが可笑しいという結論になる。

一見、おかしいと思われる説明に筋を通すなら、以下のようにするしかない。即ち、賃金を人数としての就業者ではなく労働サービス量に対して支払われる金額だと考えて、下のように式を書き直す。 $$ \theta = \frac{w'AL}{pQ} $$ 但し、上式の$w'$は労働サービス単位の賃金率、$A$は人数を労働サービス量に変換するためのファクターである。

この式を見ながら、TVの解説と(実は)上がっている労働分配率との整合性をとろうとすれば、以下のような議論ができる。

人ベース賃金と同様、労働サービス単位賃金率を実質化した値$w'/p$もほぼ横ばいと前提する。この場合、人ベース労働生産性の逆数$L/Q$は低下しているので、因子$w'/p \times L/Q$は下がるが、因子$A$が上がっているので、結果として左辺の労働分配率が上がる。この経路でないとすれば、労働サービス単位で測った実質賃金率は上昇していると考えるしかない。

この他に報道された説明と労働分配率のデータを整合的に説明することはできない、というのがロジックだ。

因子$A$は人数を労働サービス量に変換するための係数である。これが上がるということは、労働能率が上がっている。例えば、単純労働から知的労働への置き換えが進んでいる。あるいは、より高度の労働サービスを提供する職種が増えたり、産業構造がそういう方向へ変化している。こういう背景があるという推察ができそうだ。

もう一つ、最低賃金引き上げもまた、賃金率を底上げし、$A$の上昇と同じ結果をもたらすが、それが物価上昇と相殺されていれば中立的である。

いずれにしても、一定人数の就業者により高いファクター$A$が掛けられることによって、結果として労働分配率は上がって来た。こう考える以外にはないのではないか。逆の面から言えば、人数ベースの$L/Q$は低下したが(=労働生産性は上がっている)が、労働サービス量のベースで言えば$AL/Q$は上がっている(=労働サービスベースの労働生産性は下がっている)、と。こういう角度からデータを見るしかないのではないか。

労働分配率$\theta$とは、生産に投入される労働サービスに何パーセントの付加価値が分配されるかという値なのであるから、分子は人数ではなく、労働サービス量にしなければならない。しかしながら、テレビの情報番組でこんな細かい点は到底語れるものではない。だからスキップしたのだろうが、企業は支払うべき賃金を支払わず、内部留保をため込んでいるという説明は不正確だ。確かに企業は儲けているが、それは海外事業で儲けているのであり、国内事業では儲けていない。だからこそ、国内事業の総決算である日本のマクロ統計では労働分配率が上がり、利益分配率が下がっているのである。

企業が海外で儲けた利益を、海外で再投資するのではなく、国内の就業者に還元するべきであるという主張は、確かにありうる意見ではあるが、それは企業の所有者である株主がなすべき判断であって、国内雇用者の報酬引き上げに充当するべきであると言えるかどうかは、人それぞれであろう。

そもそも不採算・低採算部門をリストラする権利は、私企業の側にあるのであって、それによって発生する失業者を吸収するため、開業規制を撤廃して新たな成長分野を育てる責務は政府の側にあることを忘れてはならない。

【加筆修正:2025-04-05】

2025年4月3日木曜日

断想: 自動車と人間と……物質と精神に関する私観?

3月末から4月初にかけて東京まで往復した。

船橋にある両親の墓に参ったあと、母が療養で入院するまで暮らしていた取手市の戸頭団地に回り、まだ七分咲きの桜を観た。それから守谷乗り換え・つくばエクスプレスで新御徒町まで戻って、ついでに上野の山の桜風景でも撮ってスマホの待ち受け画面にするかと考えていたのだが、とにかく寒く(後できくと41年ぶりの低温であったとか)、花見はせずコンビニでサンドイッチを買って、ホテルに帰ることにしたのは、つくづく根性がなくってきたナアと感じた次第。


墓参の帰り、近くのバス停まで歩く途中、自動車の解体工場がある。バラバラに切断されたボンネットの破片が山積みされている。


それを横目にみて、歩きながら、考えた:

自動車は、燃料を消費して熱エネルギーを生成し、熱エネルギーを運動エネルギーに変換して走る。人間の身体も同じである。そう言えば、《人間機械論》という唯物思想があって、西欧の啓蒙時代にかけて、一時流行したそうな。その意味では、人間と自動車は同じことをやっている物理的存在である。

しかし、根本的に違う所がある。自動車が走るのは、自ら走るのではなく、人間の意志が自動車の外側にまずあって、その意志のとおりに自動車が動かされているわけだ。人間の身体もこの点では同じだ。無意識活動も生存への意志と広く解釈すれば、その人の意志がまずあって、意志の通りに身体の各部分が動かされている。ところが、その意志は人間の身体の内部にあるのが、自動車とは違う。

意志は物質である身体とは区別された非物質の精神の働きである。仮にそう考えず、人間の身体に精神は宿るのだと考えると、物質が精神をもつというロジックになる。物質が意志をもつという理屈にもなる。 

しかし、物質が意志を持つと考えるのは流石に可笑しい(と感じます)。自動運転もママならないのに、自動車が意志をもちうるか?自動車が精神をもちうるか?持つとすれば、それは自動車本体とは区別された《AI》である。今のところ、自動車は精神をもたず、意志を持たない。だから外側から人間の意志によって動いている。物理的存在である自動車が意志をもつことは将来もないだろう。

 

物質である身体と非物質の精神とは、正に《不二》にして《一如》、一体のものであると考えることも可能だ。これも一つの世界観である。金剛界と胎蔵界は本来一つであるとみた空海の「両部不二」もこれに近いかもしれない。 

この立場にたつとすると、動物も植物も、生命あるものはすべて、意志(=生存への意志)をもつと考えるべきだ。「生存本能」と呼ぶが、「生存」と「世代継承」という特定の目的を実現するために物質を動かせるのであれば、それは「意志」の働きである、と言ってイイだろう。

老衰と死は、物質的身体の衰えから、精神が意志の通りに身体を動かせなくなる生理学的現象である。つまり、死の時点で精神は身体を失う。

身体を失った後、精神が存在するとしても、物理的実体ではないため、実空間においては観察不能である。 

 

もしも物理的な存在である身体の死が、同時に精神の死であるのであれば、物質の内部に精神があったことになる。言い換えると、物質が意志を持ちえるというロジックになる。

 

ひょっとすると、こう考えてもよいのかもしれない。しかし、こう考えると、生命体を超えてあらゆる存在は内部に精神をもち、意志をもつ、と考えてもよいことになりそうだ。意志があれば目的がある。故に、宇宙全体はある目的に向かって合理的に動いているという宇宙観になる。が、(というより、とすれば)、その目的を与えた存在は何か?この問いかけから逃げられない。目的の背後には意志が存在するからだ。

やはり物質と精神には本質的な違いがある。こう考える方が(今の)小生には納得できる。とすれば、物質的存在である身体の死は、精神の死を意味しない。では、身体的な死の時点で、精神はどんな状態に移行するのか?

宗教、哲学(ひょっとすると更に科学も?)とが重複する領域がここにある。

・・・

こんな事を思案しながらバス停で待っていたから、待ち時間で退屈することはなかった。