2023年1月29日日曜日

ホンノ一言: 新聞記事には知的な中身があってほしいものです

 Wall Street Journalに面白い寄稿がある。一部を抜粋すると:

バイデン政権の軍事投資に対するアプローチも、中国に複雑なシグナルを送っている。今年度、国防費は増加したが、それは議会の圧力によるものだ。当初提案されたバイデン国防予算ではかなりの削減が予定されていた。このことから中国は、米国が米中間の競争を、少なくとも短期的には軍事的なものではなく、経済的・政治的なものと考えていると結論づけるだろう。つまり、米軍の規模を積極的に制限し、グリーンエネルギーに関する実現性に乏しい計画や無駄遣いに満ちあふれた広範囲におよぶ産業計画に資金を投入することの合理的な説明として、それしか考えられないということだ。

 そうした不手際があったにもかかわらず、バイデン氏の外交政策チームが同盟国との関係維持という地道な作業に着手したことは評価に値する。

Source:WSJ、2023 年 1 月 27 日 15:42 JST 

Author:Seth Cropsey

WSJは経済新聞ではあるが、時にハイ・クウォリティのインテリジェンスが展開されているのは、他の米紙と共通している ― なにもスッパ抜きじみた新事実を暴露しているわけではなく、純粋の知性が光っているという意味だ。

日本国内の大手新聞は、特に「社説」は文字数が少ないせいもあるが、論調がまるで善悪について説教する道徳の先生のようだ。確かに道徳的説教に頭脳は不要だ。

執筆する側の負担も考慮されてか、寄稿であっても長さが十分ではなく、舌足らずになっている。たまに十分な長さの寄稿があるかと思えば、新聞の読者層の教養・知識に配慮しない過剰に学術的な内容であったりする。

これでは若い人たちは読もうという気になれないだろう。分かり切ったことだ。その態度を批判する方がどうかしている。小生も近年の新聞記事が面白いと感じることはなくなった。販売部数が落ちるのも当然か、と。

日本だけではなく世界中の社会運動のコアは感覚の鋭敏な「学生」である。その学生が新聞は読むに値しないと見切りをつけつつある。ネット投稿は新聞の代替物にはなれないと小生は(今は)思うようになった。玉石混交の「玉」はなるほど玉だが、「石」の石である度合いがひどすぎる、加えて石が余りに多い。ネットから得られる情報の<時間当たり期待値>は低い。

本来ならSNSの場において甲論乙駁の論争が視える化され、知識の民主主義的定着が実現されるものと個人的には期待していたが、なぜそれがうまく行かないのか、実は原因がよく分からない。

近い過去から現在までのトレンドを延長して、このまま知的基盤が崩壊していけば、次世代の日本人の知的教養も崩壊して、江戸時代のような「町人」になり果ててしまうのではないかと、そぞろ心配になる。

上の社説は最後にこう結んでいる:

・・・第2次世界大戦前、米国は国防産業基盤を刷新するのに6年かかった。バイデン政権がルーズベルト・ビンソン型の国防拡張政策を行おうとしている兆候はない。バイデン政権が行っている投資は、造船能力を拡大するものでも、ミサイルの備蓄を高水準に維持するものでもない。

バイデン政権が単に惑わされているだけという危険性もある。台湾の防衛に関する軍事的な基礎要因を見誤っているため、短期的には中国を抑止できないという可能性がある。しかし、より危険なのは、米中間の競争は主に経済的・技術的なものであるという見方だ。これでは、台湾に戦う意欲を与えられない。台湾の半導体を必要としなくなった米国は、2024年や2026年ではないかもしれないが、次の民主党政権下で旧友を見捨てることになりかねない。

 優れた軍事力を持たずに経済的な対抗関係を築いたりするといった絵空事を、米国の政策が促進しないようにすることが、連邦議会の責任だ。

何だか日本のリベラル派がみると『とんでもない妄言だ、目にしたくもない!』と激昂するような意見だ。しかし、これも一つの意見で、表現の自由の下に守られなければならない。守るというのは「掲載」し「発表」の場を提供することで実現されるものだ。

もともとWSJは共和党シンパであるが、上のような論調は寧ろ民主党的な香りがする。実際に、バイデン政権は第二次大戦前の「ルーズベルト・ビンソン型の国防拡張政策」 を忘れたかと言いたいようだ。

カール・ヴィンソンは戦前期のアメリカ下院議員で、1920年代の海軍軍縮時代の中にあって、海軍建艦計画の必要性を指摘し、ついに1934年に《ヴィンソン・トランメル法》が成立、その後、第二次ヴィンソン案、第三次ヴィンソン案によってアメリカ海軍の充実に大いに貢献した、そんな人物で民主党に所属していた(Wikipediaによる)。

WSJのような記事が国内紙にどんどん掲載され、TVでも激論の場が「討論会」としてリアルタイムで放送されれば、社会の雰囲気は変わっていくに違いない。実際、大正デモクラシーを支えた基盤は明治以来の「演説会」にあったのだから、通信手段の発達した現代日本で開催できないはずはないのだ。

結局はヤル気の有無になる、という結論で。

2023年1月28日土曜日

ホンノ一言: これって「利益誘導」になるかネエ・・・

昨日投稿に関連して一点だけ補足:

話題沸騰中の三浦さんだが、国際政治学者としての学識・実績は専門も違うのでよく承知していない。

が、政府の有識者会議である《成長戦略会議》の場で大いに太陽光発電の有意義さを強調していた(とのことだ)が、それは夫君が経営する企業への《利益誘導》に該当するのではないか、と・・・こんな非難が結構出て来ているらしいからビックリだ。

本稿ではこれ以外の情報を加味しない。とすると、現代日本社会の閉塞性は否定しがたい。

みんなヨッポド《利益機会》に飢えているのだナア

そう思います。こんな感覚が蔓延するのは、新たな利益機会を<ナンタラ保護>という名目で政策的に制限している政府に大いなる責任がある。

マ、それはともかく、

小生はへそ曲がりだもので、異論を述べたくなるのだが、

こんなことを言い出したら、自分の意見を述べることにも要らぬ気づかいを要求されるってものでしょう

そう感じますネエ・・・(だから会議では煙たがられるのだろうネエ・・・)

そもそも起業家は成長分野に投資をするものだ。成長分野については一家言ある。だから起業している。成長分野に投資しない経営者はダメな経営者である。

成長ポテンシャルがどの方向にあるのかを審議するために「成長戦略会議」を編成したのだろう。その場に現場の人間か、現場に近い人間を呼ぶのは当たり前であって、まさかゾンビ企業の経営者を委員に任命しても時間の無駄である。

その選ばれた委員は、成長分野は何であるかが分かっている。意見を求められれば、自分には分かっていることを主張するのは当たり前である。

意見を口で言うから会社が成長するのではない。そもそもそんな仕掛けがあると疑う心理そのものが利益機会に飢えている人間像を示唆している。事実はその反対で、実際に会社を成長させるから、その分野には成長性があると発言し、聴いている人も納得するのだ。経験もないのに口先で信じさせるなど、みんなそれ程のバカじゃありませんゼ・・・

賛否の立場はまったく別として、客観的な因果関係はこう理解するべきだ。小生にはどうしてもそう思われますがネエ・・・


自らの事業展開に基づく意見を述べる時に『それはあなたの事業に都合がよいから、そんな事を言うのでしょう』と批判される。だとすれば、会議では何を言えばいいのだろう。一般論を述べておけばお役御免という意味か?税金を使った会議として馬鹿々々しくはないか。一般論なら関係学会と政府共催でコンファレンスでも開けばよいではないか。

頭の中で考える学問的意見を世間の潮流に沿って述べるだけの有識者は「井戸端会議」にこそふさわしく、戦略策定には何の価値もない人ではないかと小生は思うが、違うだろうか?


ま、今回のケースでは上の『実際に会社を成長させるから』という部分が真実ではなく、『詐欺でカネを集めて成長させていた』という疑惑なのだから、もしも事実ならビジネスの話しではなく、犯罪の話しだ。もしそうなら三浦さん云々の件は菅前首相の任命責任ともなろうし、逆に話し全体から一段と権力闘争の香が漂ってくる。


2023年1月27日金曜日

ホンノ一言: エネルギー戦略絡みの権力闘争の犠牲者か、これは・・・

大変「下世話」な話題だが、最近TVワイドショーで盛んに出演している国際政治学者の三浦さんのことである。夫君がエネルギーファンドを経営しており(小生は不勉強で知らなかったが)、他企業から預かった投資資金を"in my pocket"したという̚咎で東京地検特捜部の手入れを受けたとのこと。そのあおりで、ご本人のTV出演も降板のやむなきに至るのではないか、と。世間ではそんな噂でもちきりである。

まったく、実に「下世話な話」で江戸・旧幕時代にも似たような横領事件、そのあおりで連れ合いや連れ合いの実家の面子も丸つぶれというのは、数限りなくあったに違いない。

ただ、現下の電力ガス料金高騰、エネルギー危機、原発再稼働への動き等々、周辺・環境の激変期に摘発されたこの事件。三浦さんご本人も菅前首相の抜擢で《成長戦略会議》の委員に就任するなど、文字通り《時代の風》が順風になって売り出し中であっただけに、この摘発劇、背後に誰がいるのか?

疑惑が濃い霧となって渦巻いております。

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マ、小生自身は再エネ拡大には、一定の限界があると思うし、あるべきだという立場にいる。

三浦さんが話していた<休耕田活用>にも反対だ。休耕田は、日本国内の余剰資本が農業分野に参入し難くしている諸々の規制がもたらしている問題だとみるべきだ。農業を抑制して、太陽光パネルを設置する方向には反対で、むしろ農業分野の成長を重視する立場だ。食の安全、水資源保護、森林等の植生保護、海洋資源保護、こういった自然環境保護は今後の日本にとって極めて重要だ。そもそも再エネ電力は土地集約的、自然資源集約的であるが、高峻な山岳地の多い日本には適していない。故に、水力発電、太陽光発電、地熱発電、風力発電には一定の制約が課されるべきだ。むしろ(現時点では)安い資本要素を集約的に活用するエネルギー生成戦略を選ぶべきである。

再エネ拡大は将来のエネルギーミックスの柱の一つとしては不可欠だと思っているし、実際、インフラ投資法人は利回りの高さもあって投資対象の柱であるが、守りたいものは守りたい。そういうことだ。

だから、必然的に《原発重視路線》を選ぶことになる。

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そもそも「福一原発事故」は、東京電力と言う企業が老朽化した外国(GE)製の原子炉を「呑気に」稼働させ続けた甘い経営から発生したものと考えている ― それが刑事責任を伴うほどのものであったかどうかは司法に委ねるべきだが。実際、2011年の東日本大地震において福島第二、女川など他の原発施設で大事故は起こっていない。原発技術は草創期に建設された福島第一原発から進歩していた。要するに、旧い機械であった。それでも、事故の根本原因は設計の不備ではなく、津波対策が疎かであった点にある。その津波対策が今後将来にかけて不十分となる可能性はもう低い。あとはテロ対策か?しかし、テロならば、(例えば)新宿高層ビル、霞が関ビルを標的にする方がインパクトが大きいだろう……、というか、こんな議論をするのであれば、戦争になったらアソコが危ない、ココが危ないと叫ぶ御仁で溢れるであろう。マ、警備・治安と外交を疎かにしないことだ。極めて大雑把ではあるが、一言で言えば

古くて枯れた技術です。手を抜かなければ大丈夫です。

大筋の理屈はこうなるのではないか。

それはともかく、

これまでにも述べたように、小生は《科学技術の進歩》を信頼したい立場にいる。なので、大都市圏の人口集中地区の建築物に太陽光パネル設置を義務付け、エネルギーの地産地消を目指す位のことは認めてもよいと思うが、居住空間の至る所で太陽光パネルが目に入るのは目障りである。いま暮らしている宅の近くを散策する時に望まれる海越しの暑寒別もふと目に入る太陽光パネル群のせいで台無しになっている。頻繁に買い物に出かけるCostcoの隣地に巨大な風車が回っている風景も、よく言えば「シュールで未来的」であるが、決して美しいとは感じない。遠くから見えるのでドライブの目印にはなるが、目障りでしかない。

野放図な再エネ拡大には嫌悪の感情しか持っていない。

2023年1月25日水曜日

ホンノ一言: 景気後退は何とか避けられると言われているが…

米国のバイデン政権が主力戦車"Abrams"をウクライナに供与する方針だということだ。それもドイツが独製の"Leopard 2"を供与するための条件だったという報道だ。

そうかもしれんナア、とも思われる。読んでいくと、米は30台、独は14台を供与するらしい。ポーランドなども手持ちのLeopard2を供与するらしいが、その位の台数で出来る作戦には限界があるとも感じる。どう受け取っておけばよいのだろう。

こんなことも書かれている:

The White House declined to comment on the deliberations or say when the first Abrams might be delivered, but some U.S. officials said it might take 12 months.

Germany’s defense minister, Boris Pistorius, told German television last week that German and U.S. tanks don’t need to be provided at the same time, leaving an opening for the U.S. to provide the Abrams at a later point.

最初のAbramsが渡されるまで、ひょっとすると12か月かかるかもしれない、と。

マ、何と申しましょうか……だネエ。

 

こんな感じで、何かバイデン政権、それらしい政治はやっているのカヨ、という疑問もありWSJを読んでいると景気の話があった。

Two of the world’s largest economies moved in opposite directions at the start of the year, with U.S. businesses reporting further declines in activity in January while the eurozone saw a modest pickup.

The divergence suggests that while the U.S. economy continues to lose momentum, Europe’s could be stabilizing, at least for now. The pace of contraction in U.S. firms slowed in January, according to new business surveys released Tuesday, a possible signal that the economy could be bottoming out, thanks to slowing inflation and resilient demand.

Combined, the surveys point to a global economy that looks likely to slow this year but could avoid recession.

Source:Wall Street Journal,  Updated Jan. 24, 2023 12:27 pm ET

Author:David Harrison and Paul HannonFollow

要するに、1月になって米企業は落ち込みが目立つが、ヨーロッパは少し持ち直している。

総合すると、世界経済は減速はするものの景気後退には陥らない(かもしれない)。そういう楽観的見通しが少し出てきたらしい。

先日は、対インフレに強硬な姿勢を保ってきたSummersが以下のツイッターを出していた。

If you think about it, the good news was inflation running in the sixes, that's still inconceivably high. Looking at some of these trends, one has to think the @federalreserve's job feels much closer to being done in terms of disinflation.

OECDの景気先行指標であるLeading Economic Indicators (LEI)は12月分しか得られていないが、これをみると今後半年以内に主要先進国はそろって景気後退に陥るリスクが明瞭に示されている。

Source:https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

ただ、この期に及んでもサービス価格の上昇率が高すぎるという理由で利上げを継続するべきだという超強硬派がFRB部内にはいるという。

このサービス価格上昇については、KrugmanがNYT紙上で数字上の綾でしかないと何度も強調している。

バイデン政権が取り組んでいる政治課題、何だかぼやけていて、何がしたいのかよく分からなくなっているのだが、世界経済の安定化と多くの人々の暮らし向きには目を配ってほしいものだ。


日本の首都圏周辺で連続発生している強盗事件。これも就業機会が豊富にあり、給料がそれなりに上昇する社会で、この3年間のコロナ対応も若年層に過大な負担を担わせるものではなく、もっと冷静な政策を選んでいれば、不公平感も抑えられ、かなりの部分、予防できていた可能性がある。犯罪防止の定石の一つは貧困撲滅である。世界が成長を続ける中で、いくら高齢化が進んでいるとはいえ、日本だけが停滞、というより地盤沈下するという情況は日本政府の政策ミスが原因であると言わざるを得ない。

しっかりしてほしいと思うのは、別に今の岸田政権に限ったことではないが、日本政府も同じだ。


 


2023年1月22日日曜日

断想: 大正という時代の近しさ、親しみはどこから来るのか?

「昭和レトロブーム」が云々されて久しいが、戦後昭和はともかく、「国民総動員」を目指した戦前昭和期ほど現在の日本とかけ離れた世相はない。あの時代に郷愁を覚える日本人はほぼいないと思っている。むしろ大正時代との親和性に注目するべきだと思っている。というより「大正ロマン時代」という言葉もある。

知れば知るほど、大正時代に生きた日本人の価値観や望んでいた夢に、いま生きている多くの日本人は共感を感じるのじゃあないか、と思っている。

明治時代に日本は近代化に成功したが大正期に入って、というより日露戦争後(=戦前期におけるいわゆる「戦後」と呼ばれる時代)、日本社会は急速に変容していった。

その社会的激変は、第一次世界大戦の直後に日本を襲った3大ショック、というより4大ショックがひき起こしたものである。

まず第一次世界大戦がまだ終わる前であったが、1918年(大正7年)7月以降全国で《米騒動》が続発した。背景には大戦中に急速に上昇した物価、特に米価によって実質賃金が低下、生活困窮世帯が激増したことが挙げられる。第一次大戦は「成金」と「生活困窮者」の両方を増やしたのである。参加総数は70万人以上、数万人が検挙され、7700余人が起訴された。時の寺内正毅内閣はこの全国的騒乱で総辞職し、政友会の原敬内閣が初の「政党内閣」を組閣した。実に「米騒動」は明治とは異なる大正という時代を象徴する大事件であり、「普通選挙制」への道を開く契機にもなったという意味ではエポック・メイキングな騒乱であった。

次に、1919年(大正8年)6月28日にベルサイユ条約が調印され、平和が到来した直後、株価が大暴落し《戦後恐慌》に陥った。戦時中のインフレで痛めつけられていた家計は、戦後の倒産激増、失業率上昇に一層苦しむことになった。日本最初の「メーデー」が展開されたのもこの年である。また、この年は《スペイン風邪》の世界的大流行が日本にも波及し、患者が激増したピークに当たる。スペイン風邪流行は翌年の1920年には一応終息するが、日本国内の死亡者は1918年夏から1921年夏までの3年間で合計約39万人を数え莫大な犠牲者を出した。

スペイン風邪が終息して少し落ち着きが戻って来たのが1922年であるが、前年のワシントン条約による海軍軍縮から国内造船業は大打撃を蒙っている。

翌年の1923年(大正12年)9月1日には関東大震災があり巨額の社会インフラと民間企業の生産設備が失われるに至った。

戦後恐慌、スペイン風邪、関東大震災という3大ショックに襲われた日本人は、第一次大戦中のインフレで高止まりした物価の引き下げ論も現れたりする中、非常な生活苦にあえぐ状況に陥り、それもあって総じてデフレ基調のダラダラした<慢性不況>の泥沼に置かれる状況に立ち至った。第一次世界大戦の<特需景気>で日本の経済界は盛況に沸いたが、正に『好事魔多し』、日本経済は突然に暗転したわけだ。

大正と言う時代は、最初に「護憲運動」によって桂太郎内閣が打倒されるという「大正政変」で始まり「普通選挙制導入」で幕を閉じた。正に《大正デモクラシー》である。そんな時代の後に、国民総動員体制への移行と軍国主義に彩られる昭和という時代がどういう理由でやってきたのか。当時生きていた日本人の感情をリアリティとともに共感するのは難しい。

関東大震災のあと、政府・日銀は「支払い猶予令」や「震災手形割引損失補償令」を公布するなどして、経営不安に陥った民間企業を支援する政策を徹底した。患部を手術して除去する外科的治療ではなく、痛みを緩和する政策を選んだと言える。

この方針は、既に生活困窮世帯の増加から全国的な社会不安が高まっていた世相を考えると、やむを得ない措置であったが、結果としてこの経営支援政策が「大戦後」の世界経済再構築の流れの中で淘汰されるべき《ゾンビ企業》を多数温存してしまうことになったのは、日本の不運であった。金本位制の下の固定相場制を柱とする国際金融体制が再スタートする中で、日本だけは割高な物価が継続しているため、大戦前の円レートでは国際金本位制に復帰できず、円安と通貨不安が慢性化した。日本国債を保有しようと考える投資家に期待するべくもなく、世界経済から脱落する懸念が高まった。それを解決するには高止まりした国内物価を下げ、非効率な企業を清算し、世界大戦前の為替レートで競争できるだけの体力を回復させる政策が要求された。が、政府にはそれが実行できない。こんな袋小路的な国内状況に落ち込んでしまったのが、大正から昭和にかけての時代である。

このような割高な物価水準、慢性不況、厳しい労働市場、生活苦の持続、国際資本市場からの疎外……、これらの経済問題を<一挙解決>する切り札が、浜口雄幸民政党内閣によって1930年(昭和5年)1月から実施された《金解禁》である。大戦前旧レートで国内物価、世界物価とをサヤ寄せさせ経済を正常化するという「超デフレ政策」である。別の言葉で言えば「ついてこれない企業は潰れて有能な社員を解放せよ」という政策であり、過激な《産業再編成》が狙いであった。

マ、この辺のことは前にも書いたことがあるので繰り返さなくともよいだろう。

こう書くと、2020年代の日本社会は1920年代の大正から昭和初期にかけての時代と非常に歴史のフェーズが似ているような気がする。

100年前の日本では「普通選挙制度」が望まれるなど、民主主義の徹底が時代の課題であった。今も、ヤッパリ、そうである。同じである。

明治以来の地方の地主層を支持基盤とする政友会に対して、大都市圏の新興経営者層や知識人層に支持が厚い憲政会(後の民政党)とが争ったが、どちらも社会的には恵まれた人間集団であるにとどまっていた。帝国議会の議員先生は庶民の生活感覚がどうしても分からなかったのだ。

民主主義であるにもかかわらず当選した議員たちが庶民の生活の実態に無知である。この点が戦前期・日本の民主主義の限界である。ただ、こんな大正期・日本の東京にどことなく近しい郷愁を感じる向きがある。そして、今もまた「世襲政治家と庶民感覚との乖離」が指摘されたりする。実に似ているではないか。郷愁を感じるのも当然である。

だからなのだろうか、NHKが大正期・東京を舞台にして江戸川乱歩を主役にしたドラマを始めた。中々、面白い。

そして今、あたかも日本共産党の元職員にして現党員が委員長公選を求め始めた。

頭でっかちのエリートにはウンザリだと言いたいのだろうか。

面白い。

いくら学問や研究をしても、問題の所在に無知なら、問題を解決できるはずがない。



2023年1月21日土曜日

断想: 漱石の『則天去私』から「日本人にとっての悪」を考える話し

前にも書いたことがあるが、漱石の最高傑作は『明暗』だと思っている。未完であるが、どの部分をとっても素晴らしい出来栄えだ……、とはいえ、好きな作家は誰かと聞かれれば「三好達治と永井荷風」と応えて来たし、個人的に審美感に共感できる最高の天才は「谷崎潤一郎と三島由紀夫」の二人で、これはずっと変わらない。

しかし、夏目漱石の作品への親しみは少年期からずっと続いている。これはこれで自分にとってかけがえのない財産だと思っている。親しい友人を一人失っても、漱石全集があれば淋しさに堪えられるかもしれない。

その漱石が晩年に到達した《則天去私》も大変好きで、その中身を伝える言葉

明暗不二、善悪一如

も、小生にとっては自分自身の一部に化しているほどだ。仏教の

善悪不二、邪正一如

と即応している言葉であるし、この思想と

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

という親鸞の他力思想はほとんど同じであると理解しているのだ。

それで、漱石と善悪一如について資料を探してみようとしたのだが、早速この論文に目がいった。日本人は「悪」というものをどう考えているのかについて著名な民俗学者・柳田国男がどう考察したかが主題である。読んでみたが、とても面白い。鍵になるのは、これも明治の自然主義を代表する作家・田山花袋の作品『重右衛門の最後』をどう受けとるか、である。どちらも「死」と「善悪」を扱っているが、森鴎外の『高瀬舟』とも異なった問題を読者に投げかけている。

最近、マスコミの報道ぶりを見ていると色々な分野の専門家が登場する。専門家と言ってもその人の専門分野をコメントするとは限らず、MCから振られた問いかけに何かを言う。それで専門家の意見としている。そんな塩梅だ。

まあ、それを問題視してもメディア企業にとっては「それも視聴者獲得のための戦略です」という、ただそれだけの理由であるのは分かっているから、とやかく問題視する意味はない。

ただその専門家が ― 日本あるいは海外で標準的な高等教育を受けた人物だと思われるが ― 事ごとに『これ自体は許されませんから・・・』とか『悪いことは悪いわけですから』、『被害者が批判されるのはどうかと…加害者はあちらですから』とか、他にも様々な言いようはあるが、こんな風な物言いをすることが多い。

それが、最近、小生にとっては耳障りなのだ、な。


大体、「悪い」とは何か?

時に「法的には問題はないのですけどネ……」と断りながら、「悪い」と断じたりする。法律が善悪を決めるのではないらしい。では一体、誰が、どのように「悪い」と決めるのかといえば、要するにその御仁ご自身なのである。あるいは「世間が悪いと言っている」という情況をハナから大前提に置いている。

実に、耳障りなのだ。


一般的な文化の違いとして、欧米流の思考は実にロジカルである。善悪という判断基準がある以上、善である部分集合と悪である部分集合との共通集合は"Φ"(=空集合)である。つまり、善である行為の集合と、悪である行為の集合とを併せれば、ありとあらゆるどんな行為も投網にかけるように倫理的判断ができる。かつ、善でもあり悪でもある行為は存在しない、共通部分は空集合である、こんな大前提を置いて議論するのが欧米流の明晰な議論というものだ。実にロジカルである。

そんな欧米流の思考を駆使して、かつそれが日本においても有効であると信じている御仁は、田山花袋の『重右衛門の最期』を読んでみるべきだ。

明暗不二、善悪一如

漱石が到達した晩年の心境は仏教でいう

善悪不二、邪正一如

であるのだが、それは人が善人を求めるその行為が自動的に悪人をつくっている。人間社会のそんな側面を指摘してもいるわけだ。とすれば、存在自体が悪である悪人は存在せず、社会がその人を悪人とするから悪人であるに過ぎない。人間社会はそんな「善人」と「悪人」を必ず作ってしまうのだ。こういう理屈になる。「悪人」とは何という哀れな存在であることか……、それが「業」というものだ、と考えるのが日本文化の底流を流れる仏教思想である。仏教思想は《もののあはれ》と《無常観》という日本的感性の基盤になっている。

自然の中に善悪はなく、人間がそういうラベルを付与する人為的結果が善悪という識別である。そして、その識別の仕方は時代を通して変化していく。いま「悪」だとされることも、10年後には「善」だと言われる可能性も大いにある。そんな頼りない議論が<善と悪>である。マア、こう書くと、欧米では到底レポートとして評価されないわ、な。

現実に西洋と東洋の文化は、コアの部分で相当に違う。これは日本人自身がよくわかっているはずだ。だから、欧米で主流の政策対応を日本に導入しても日本人はそれに心理的に抵抗して実行困難に陥ることがよくある。例えば、コロナ禍の中のロックダウン、成長政策としての競争促進、労働市場自由化、ソーシャル・セキュリティ・ナンバー(≒マイナンバーカード制度)等々、それから純粋な社会主義、欧米流の市民革命、中国流の易姓革命もあるか……ともかく欧米ではうまく行くが日本では消化不良になった政策は、これまでも数多く挙げられる。その原因を「日本政府の信頼性に問題があるのです」とお茶を濁す語り方が多いのだが、見当違いだ。政府の信頼性が原因ではないと思っている。そもそもが日本人は何かといえば「国が対応するべきです」とすぐ口にする。信じてもいない国に頼るはずがない。うまく行かない理由はそうではなく、欧米とは考え方が違う、日本人の思考の方式が欧米とは違う。だから欧米発の政策を全面的には選べないのである。小生はそう思っている。

やはり《和魂洋才》。日本人に馴染む政策のみを輸入して日本化して実行しているのが、歴史を通して日本がやってきた国内政治である。

とはいえ、日本の企業、メディア、官公庁、学校などオフィシャルな機関は、国際標準になっている欧米流のロジックで構築されている。テレビに出演するような人たちは、公的な規範に従うことを要請されているに違いない。が、現実の日本社会はまた違っている。これでは多くの日本人は政府やメディアのいう事に共感を感じるはずがない。感性や考え方が違うのだ。

こんな社会の《二重構造》は、日本にも韓国にも、あるいは中国にもインドにも、その社会の深部に残っているに違いない。





2023年1月20日金曜日

昨日の続き:少子化対策費であれば消費税増税もありうる

消費税増税で防衛費(=国防費)増額をまかなうのは無理筋だというのが昨日投稿の主旨だった。

では、足元でTVワイドショーがお好みの話題、「少子化対策」に充てるのであればどうか?増税で少子化対策をするのは是か非か?

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防衛費に充てるのは、昨日投稿を待たず、日本の防衛産業の現状を考えれば<論外>だと言わざるを得ない。

大衆課税によって国内所得を吸い上げて、消費を抑え、吸い上げたカネの大部分でアメリカの軍需産業の売り上げ増に貢献して何になるのか?何をすき好んで日本がアメリカを経済支援する必要があるのだろう?マア、こういうことだ。

国防は日本人にとっての<資産>になるのであるから、これは資本財をアメリカから輸入するのと同じである。1万ドルのカネをアメリカに渡し、1万ドルの機械をアメリカから輸入し、その機械がカネ以上に日本人にとって有意義なら差引プラスになる。マア、そんな理屈もあることはある。

しかし、ミサイルや戦闘機は日本人の生活水準向上に何も寄与しない。日本が<安全>になったと喜ぶ日本人はいるかもしれないが、逆に近隣諸国の国民は日本に対して脅威を感じるというマイナス効果を生むだろう。これでは世界的にもネットの効果はゼロである。

故に、大衆課税によって防衛費増額をまかなう、とりわけアメリカから軍需品輸入を増やすという方向は、愚かの極み、バカもいい加減にしろというレベルになる。

*~*~*

しかし、子育て支援は防衛費と異なる。

消費税増税で吸い上げたカネを、そのまま国内子育て家計に支給する。マクロ的には差引ゼロである。国内の家計所得が全体として減るわけではない。

より多く消費する家計の資金を子育てをする(おそらく)若年世帯に移転するという理屈である。より多く消費する家計は若年世帯では(おそらく)ないだろうから、一種の<世代間支援政策>であると言える余地はある。

しかしネエ・・・

より多く消費する世帯には大学生を抱える世帯も含まれよう。家族に病人が出て家計が逼迫している世帯も含まれる。《医療費》、《教育費》を確定申告で(しっかりと)控除できる十分な措置が必要だ―幼少時の塾やお稽古ごとの経費を教育控除の対象とするかは大いに論議の余地があるが。

もし望ましい所得控除、税額控除制度が整備されるなら、消費税増税によって子育て支援を充実するのは大いにありうると小生は思っている。

・・・ちなみに(本日のテーマとは関係がないが)火災保険、地震保険などの損害保険はともかく、公的社会保険料に加えて、任意で契約する医療保険料、個人年金保険料まで控除する措置は不必要だと実感している。民間保険料控除を縮小する一方で、実際に支出した医療費の控除を拡大し、さらに教育費控除を設ける方が時代にはマッチしている。世相に即応して制度の点検は常に行うべきではないだろうか。

以上、昨日の補足まで。

2023年1月19日木曜日

一言メモ:どうやら防衛費増額を大衆課税増税でまかなうのは無理なようだ

 昨日投稿から結論できそうなことは以下の点だ。

  1. 家計の現状から消費税増税で防衛費増額をまかなうのは無理筋だ―これは昨日投稿で述べた。
  2. 大衆課税が無理筋なら、後は企業課税、アッパー・ミドル層以上をターゲットにした増税があるのみだ。
  3. 企業課税増税は、DX投資低迷、グリーン投資低迷、生産性低迷、成長停滞に悩む現状の下では、愚策である。
  4. 残るのは、アッパー・ミドル層以上をターゲットにした増税のみである。
ずいぶん昔になるが、労働経済学者として、また経済格差拡大に関心を高めたことでも有名な橘木俊詔氏は《累進消費税》を提唱していた。

しかし、家計の現状をみると消費税に手を入れるのは当面は難しい。

とすれば、選択可能な政策として残るのは累進消費税ではなく《資産運用益に対する累進課税》しかない。

戦後日本で安定した保守基盤になってきた階層は日本全国にアッパー乃至アッパー・ミドル層として分布しているが、そうした階層に属する人々の大半はいま赤字法人の経営者であって、事業所得というチャネルではもはや税を負担していない。

事業所得は有効な税源としては(ちょうど大正期以降、それまでの税の柱であった地租を諦めたのと同じように)もう諦めるべき状況で、資産運用所得にターゲットを定めるのが合理的だ。毎年確定申告される配当・分配金・利子・賃貸料など財産所得に対して増税すればよい。特に分配の不平等が著しい金融資産の運用益に対しては、現行の一律分離課税20%ではなく、累進的な分離税率を適用するべきだ。譲渡益に対してもそうする方が望ましいが、株式譲渡益は景気に応じて変動が激しく、安定した財源にはならない。地代に対して増税すると借主に転嫁されるとも思われるが、(簡単のため)土地供給量を一定とすれば税負担は地主に帰着し、地主の所得が税額だけ減少するという理屈になる。

利子・配当所得への累進分離課税は、英米も既に実施している(参考資料)。

それでも不足するなら、財産課税、相続課税しか残された選択肢はないであろう — マア、自民党政権には実行困難ではあるし、アメリカもここまで過激な政策は望まないだろうと思う。

2023年1月18日水曜日

メモ: エンゲル係数の上昇は生活水準の低下の表れである

食費が消費支出合計に占める割合、つまり《エンゲル係数》は(専門的な観点からはバイアスの混在が指摘されているが)概ねその家庭の生活水準を測る指標として広く利用されている。

小生の幼少期はまだ日本のエンゲル係数が欧米先進国よりも高く、「追いつき、追い越せ」とばかりに、ニュースで取り上げられる頻度も高かったものだ。


時間があったので『家計調査』(総務省)から「2人以上世帯」のエンゲル係数を確かめてみた。

以下がその図である。

青い線は食費に「外食」を含めた計数。赤い線は「外食」を除いた食費で算出したエンゲル係数である。当然ながら、外食を含めた計数の方が上側に来る。

エンゲル係数が低ければ生活にはゆとりがあり暮らしは楽、高ければ高いほど余裕はなくなり暮らしは苦しくなる ― もちろん一部には収入の半分を食費にあてるようなグルメもいる。図はあくまでも日本全国の平均的な2人世帯の経済状況である。

これをみると、外食を除くエンゲル係数は2000年以降ずっと20パーセントを下回る高さで概ね横ばいを続けていた。

それが、2015年前後を境にエンゲル係数は上昇基調を辿り、コロナ禍で急上昇したあと次第に低下しているものの、なお20パーセントを超える水準にとどまっている。

2014年4月から消費税率が5%から8%に引き上げられたが、それがエンゲル係数の上昇に関係していると思われる。全ての品目で一斉に同率だけ価格が上がるので、割り算の商として定まるエンゲル係数には無関係とも思われるが、実質所得の低下によって食費の割合が結果として上がるのは十分予想できる。

しかし、2019年10月の消費税率引き上げは食品に対して軽減税率が課されているので、その他品目の消費を含む消費合計を分母とするエンゲル係数には、寧ろ低下要因として働くはずである。ところが、エンゲル係数はそれでもなお高い水準にある。

これを見ると、この近年、日本国内の平均的な生活水準は低下してきたと言え、(時にワイドショーで報道される)生活困窮世帯が増えているという(漠然とした?)体感とも符合している。

個人的な直感だが
日本経済は思っているより危ない状態になっているのではないか
経済専門家によっては、エンゲル係数は色々な要因で高くなることもあるので、直ちに日本人の生活水準が下がっているとは結論できない、と。そう語る向きもいるはずだ。が、実際に生活の苦しさを感じる人が国内で増加している可能性も高い。そう考えるとすると上図は整合的である。

防衛費増額を消費税を含む増税でまかなうのは、財政規律を考えれば、避けられないと考えていた。が、上の図をみる限り、消費税率引上げは家計の現状から無理筋ではないかと感じる。

試みにデータを集めたところ、「やはり・・・」と思わせる図であったのでメモしておく。


2023年1月16日月曜日

断想: 「世論」は大事だが、「世論」で決めて行って大丈夫ですか?

遠く明治維新の幕開けを画する「五箇条の御誓文」にもあるように

広く会議をおこし、万機公論に決すべし

というのは、《民主主義》の柱で、日本史の教科書にも必ず登場する重要事項だ。つまり《世論》が非常に重要であるというのは、現代社会の原則であって、このこと自体に反対する人は日本には少ないはずである。

故に、ということだろうか・・・

日本では複数のマスコミ大手企業が定期的に内閣支持率を公表している。かと思えば、日本の防衛費増額、その財源としての増税についても世論調査を実施しているし、ついには国民民主党という一つの野党が自民党と連立して与党の一角を占めるのは是か非か。純粋に党利党略の問題といえるこんな案件についても世論調査を行っている。

これほど多くの世論調査が実施され、それが全国ニュースになるという国は(先進国、発展途上国両方を含めて)、小生は知らない。「ギャラップ調査」など世論調査発祥の国であるアメリカにおいても、世論調査結果がThe New York TimesやWall Street Journalのトップを飾るという紙面は、あまり見たことはなく、まして『FRBが進めている金利引き上げを今後も続けることに賛成ですか、反対ですか?」といったアンケート結果は見たことがない。

日本のマスメディア各社は、何故これ程まで経営資源を費やして世論調査を繰り返すのだろう?

一つは、「世論」そのものに尊重するべき重要性があると考えているからだろう。

「民主主義」の一つのツールとして、現在の世論を確認するべきだという原理・原則論は確かにある。いわゆる"Vox Populi  Vox Dei"、朝日新聞社のコラム欄『天声人語』と意訳されているこの名句が、社会哲学として尊重されるべきだというこの一点に反対する人は少ない。

ただ、どうなのだろうナア?

小生はへそ曲がりだ。当たり前の命題にはいつも反対したくなるのだ。


それほど「多数者の意見」というものを尊重するべきなのだろうか?


まず自然科学の分野だ。何度か投稿しているが、自然科学の偉大な発見、偉大な理論は、登場する前後において社会的騒動を引き起こしたことが多い。ガリレオなどは自説を撤回するよう圧力をかけられたし、ニュートンの古典力学体系もイギリスからフランスにわたった後、大陸欧州で信頼を勝ち取っていくまでには長い時間を要した。ニュートンは17世紀のイギリス人だが、"Newtonian System"がフランスで信頼に値する自然哲学として認められるには、18世紀の啓蒙哲学者(ともいえる)ヴォルテールの登場を待たねばならなかった。それまでにとても長い時間がかかっている。多数のフランス人にとってニュートンの世界観は我慢ならなかったのだろう。

自然科学の世界で「世論調査」などは何の役にも立たないというのは理解しやすい。では経済分野ならどうだろう。企業の経営戦略や政府の経済政策に「世論」、というか「多数者の意見」は大事な要素なのだろうか?

まず一つ言えると思うのは、人間集団の行為が決まってくる過程において、結果として多数者の意志や願望が大きな要素として働くのは、時代や体制を問わず、むしろ当たり前の事実である。世界史を概観するだけで多くの革命が起きている。これほど壮大な話をせずとも、代表取締役社長一人の意志がどうであっても、株主総会で反対されれば株式会社の経営方針を社長の意のままにするのは不可能である。非上場会社であっても極々少数者の独創的な発想に社内の多数者が唯々諾々と着いて行くという情況は非現実的である。まあ、「もって3年」であろう。

おそらく、ここ日本において、この30年間という長い間、確かに政府は政府なりの方針を示し政策も実施してきたが、国内世論に真っ向から反した政策を実施してきたわけではなく、そんなことは日本政府に不可能である。個々の企業においても、やってきた経営は大多数の日本人が《そうあってほしい》というプランを実施してきたに過ぎない。雇用(及び再雇用)を優先させたいが故に賃金アップは二の次になったのである。日本の大企業が余裕資金を有望分野に投資することもなく、配当に還元するわけでも、賃金アップに分配することもしないからといって、それが取締役会や株主総会で非難され継続不能になることはなかった。マスメディアもまた日本の国内企業が十分な余裕資金を留保し、《何かあった場合の対応》を可能にするための《戦略的余裕資金》とする経営戦略を容認する姿勢を保ってきた。

要するに、経済分野においても、長い期間、政府や企業がとってきた戦略は《世論》のお墨付きなのである。小生はそう思ってきた。

確かに賃金アップは望ましい。今は賃金アップで日本人の頭は一杯だ。しかし、韓国の文在寅政権が果敢な最低賃金引上げ政策に打って出たとき、その過激さが経済的には不合理であるとして、冷笑していたのは日本の世論ではなかっただろうか ― 経済戦略としては相応の意義づけが可能であったにもかかわらず、だ。

このように、経営分野、経済分野においても、日本では多数者の意志が十分に反映されてきており、決して「世論」に抗して経済政策や経営戦略が実行されてきたわけではない。そして、その結果として、停滞が著しい足元の日本経済が帰結している。そう思っているのだ、な。

その程度の《世論》なる存在が、こと外交政策、防衛政策については実に賢明かつ的確な判断を示すだろうか?

経営分野、経済分野で示されてきたレベルを観察すれば、政治分野においても《国内世論》が下しうる判断能力など、(言い方は悪いが)たかが知れたものである。こう達観するのが公平な見方である。

だから、小生は相当以前になるが、

Vox Populi, Vox Diaboli

(人々の声は悪魔の声)

こんな見方も可能であると投稿したことがある。


《世論》に反して「正しい方策」を提案する少数の人々は常に存在する。《一流の人物》は二流、三流の人物よりも遥かに少ない。故に、愚論は多く、正論は少ない。このことも投稿したことがある。

こんな当たり前のことは、ずっと昔から、人類は承知していたはずである。承知しているはずの社会の実相に目を向けられないのは、イデオロギーで盲目になっているからだ。

世論はなるほど大切である。しかし、すべての重要な問題について常に《世論》は何かと報道するメディアの姿勢は、正論をしりぞけ愚論を優先させるという意味で、文字通りの《愚策》を選ばせる確率が高い。

民主主義は大切にしなければならない。しかしながら《杓子定規》に祭り上げるのは愚かである。そういうことだ。

寧ろ、集団的意思決定は世論、つまり多数者の意見ではなく、少数の《一流の提案》から《一流の人物》が最適解を選ぶ、そんな形でなされるべきである。結果としてより高い国益を求めるなら、これが理屈だろうと思うのだ、な。

つまり、目標が《結果としての最大多数者の幸福》に置かれているなら、その社会は民主主義である。天皇や皇室の安泰ではなく、日本人全体の幸福を追求するならば、それは民主主義なのだ。これが小生の最近の立場である。


ワールドカップで勝利するには、才能あるプレーヤーを集めることが大事だが、それが出来る監督、つまりトップが何よりも大事になる。こんな理屈は誰もが知っている事であり、現場の人間だけで問題が解決できるなら、野球やサッカーで監督は要らないという理屈になる。

《組織的対応》は何によらず「問題解決」で決定的に重要な要素(の一つ)である。


2023年1月14日土曜日

断想: センター試験・・・生産性の低い努力に支えられているのかもしれない

今日、明日と入試センター試験がある。

約10年の小役人生活のあと、大学で30年程度を過ごしたせいか、<センター試験>が来るたびに、今でも早朝から夕刻まで続く試験監督に汗を流す、というか肉体を酷使した頃の記憶がよみがえる。

~*~*~

最初に経験したのは大阪にいた時分で、その頃は学生相手の授業担当とは縁のない付置研に勤務していた。それでも着任2年目だったか、3年目だったか、試験監督をしろと言われた。大阪の都心にある府立高校が試験会場だったので、前日に場所と自宅までの時間を確認したうえで、その日は早めに宅を出たものだ。

その頃は、いわゆる<台本>、つまり監督官が口頭で話す台詞も多くはなく、『監督要領』という名の冊子もそれほど分厚いものではなく、久しぶりの試験監督と言う仕事がただ懐かしく、窓の外の風景をみて時間を過ごしていても、大して退屈ではなかった。何だか自分の高校時代が思い出されたりしたのもまだ覚えている。いや、やっぱり若かったんだネエ……、と今は思う。

北海道の大学に転任してからも毎年いま時分がくるとセンター試験がやってきた。最初の新鮮さは次第に薄れていったが、それでも一室に3人の監督官がいれば、交代で30分位は試験室を出て自分の研究室に戻り休憩をとることが出来た。珈琲を喫してまた試験室に戻ると、次の人が「それじゃあ、お願いします…」と目で挨拶をして部屋を出ていったものだ。懐かしいネエ・・・

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どこかの大学だったか、試験時間を30秒だったか、1分だったか、はかり間違えたことがあった。それが契機になって、主任監督官、タイムキーパーといった風に「監督職務」を分担する体制になった。試験室ごとに交替で休憩をとる行為も厳禁になった。

ある年は『監督官が試験室内を巡回する靴音がうるさい。集中できない』といったクレームが受験生からあり、監督要領には「室内巡回は必要最小限とし、靴音がしないよう十分留意すること」という注意書きが付記されるようになった。と同時に、「不正行為には十分注意し、疑わしい行為が確認された場合は、複数の監督官が注視のうえ、不正行為が確認されたときはカードに指示を記載してから当該受験生に提示のうえ室外に誘導する事」、細かい文章は忘却したが、まあ、そんな主旨の指示が加わることになった。

英語のリスニングが試験科目になってからは人数が足りないので事務官まで試験監督を担当するようになった。

大阪で最初に手にした監督要領と比べると、最後の頃にはページ数が2倍近くまで分厚くなっていた。

覚えている中で最後に追加されたのは、北朝鮮がミサイルを発射したときの対応だ。《J-ALERT》が試験時間中に発せられた場合に、各試験室で正規の試験時間をどう平等に確保するかは、入試センターにとっても難問であったに違いない。いざアラートが発された時に、「基本的対応方針」をその場で受験生に向かって速やかに伝達する台詞を読み上げるという職務も主任監督官が担うことになった — 幸にそんな危機管理に直面することはなかったが。

以上、「たとえば」で例を挙げたが、いずれも日本における《業務改善努力》の好例であったことは間違いない。似たような対応が日本中で展開されていたのだと思う。

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おそらく、というか想像するしかないが、太平洋戦争でも帝国陸軍の参謀本部や大本営は数多くの作戦を企画しては、最前線の部隊を指揮する司令官にとるべき行動を指令したはずである。それらの<作戦>は精密かつ巧緻を極めたもので、寡兵をもって大兵を撃つという高度に理論的な内容を持っていたのだと想像する。ただ、その指令や指示は、現場の実情とは距離のある、理屈倒れのようなものも多かったのだろうナア・・・そう思ったりもするのだ、な。

何しろ日本という国の上層部には試験の秀才が集まる傾向がある。ペーパーワークにかけては特殊な才能がある人達だ。ビューロクラシーというのは文書主義であるから、まあ、当たり前でもあるのだ。

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ずっと以前に《頑張る現場とダメな上》という投稿をしたことがある。いつのことだったかと思って<頑張る現場>でブログ内検索をかけると、結構複数の投稿がかかってくるので、この問題意識はずっと底流にあったのだなあということが分かる。

そういえばこんな雑談をセンター試験当日の昼食時にしたことがある―確か、昼食時の休憩時間は45分間ではなかったか:

同僚:このセンター試験の監督、一番いやだナア、1年の中で。

小生:みな同じじゃないですか?やりがいがあると思っている人はいないでしょう。

同僚:毎年、分厚くなるね、このマニュアル(=監督要領)。

小生:「こうせよ」と指示していれば、何かあっても現場のミス。本部には責任がありませんからネ。

同僚:まあ、そんなところなんだろうネエ ^^;;

小生:役所ってところはそんな所ですよ ^^;;

同僚:「責任」かあ、僕たちはそんな「責任」を考えながら仕事をするなんてことないけどネエ・・・

「責任」というのは、「仕事」と一体のもので、意識的に逃げるものではない。仕事と責任は一体不可分だ。仕事をすれば自動的に責任が生ずる。責任から逃げるのは、仕事をした自覚がないからだ。「無関係性の主張」なのである、と。マア、理屈はこうなる。だから、上が無関係性を主張して責任を回避するのは、仕事をしているのは下で、上にいる我々は仕事をしていないという主張にもなるわけで、実に奇妙なのだ ― ホント、日本社会で言われる「責任」は「天運」といった単語にも似て意味不明なところがある。

マ、それはともかく・・・

絶対に間違いがないように膨大な指示を下しつつ、実は日本国全体のマクロの結果としては、一人当たりの実質所得が増えず、企業の生産性も上がらず、グローバル競争から落ちこぼれつつある日本……、「落ちこぼれつつある」というのは、海外で売れている人気商品が日本に輸入されると、日本人にとっては何だか高額すぎる、そんな感覚を覚える頻度が増えていることからも分かる。そのうち明治の御代に流行った《舶来品》という単語も再び日常的に使われることだろう。

どうやら《生産性の低い努力》に30年間付き合わされ続けて来たのではないか、そんな思いもする今日である。

一利を興すは一害を除くに如かず

この名言はずっと昔の投稿でも引用したことがある好きな言葉だが、入試センター試験の今昔を思い返すと、この名言、ちょっと間違っているかもしれないと思う。

2023年1月7日土曜日

断想: 「変わらない日本人というもの」はずっと昔から意識されていたわけか

以前は元日に「家族そろって初詣」というのが習慣であったが、昨年も今年も今日七日の「どんど焼き」に松飾を持っていくのと併せて本殿に初詣するという方式になった。楽である。それでも朝食後に寒い境内で行列したせいか腹を下してしまった。やはり「松の内」というのでまだまだ参拝客は多い。

日本人は「無宗教」というがどうしてどうして……、無宗教と無神論とは明らかに違うという実例がここにある。


そういえば……、先日、小林秀雄が戦前の日中戦争期に書いた評論を引用したので思い出した一節がある。先日の引用箇所とそれほど離れた場所ではない。例によって、仮名づかいや鍵括弧を適当に変えたり、付けくわえている。

なるほど「自由主義」とか「マルクス主義」とかいう思想は、西欧の思想であるが、そういう主義なり思想なりを、今日これを省みれば、僕らはなんと日本人らしい受け取り方で受け取って来たか。主義を理解することは容易だが、理解の仕方がいかにも自分らしい、日本人らしいと思い至るには時間が要るのだ。総じて習い覚えた主義とか思想とかいうものには、人間を根底から変える力などないものだが、その根底のところにある変わらぬ日本人というものの姿を、僕らは今日捕らえあぐんでいる。

(中略)

自分という人間が変わったと信じていると、案外変わっていない自分を見つける機会に出会う経験は、僕らの日常生活によくある事だが、文化の伝承もまた微妙に行われる。

Source: 小林秀雄『戦争について』所載「満州の印象」(昭和14年)より引用 

とても戦前期に書かれた文章とは思えない……、21世紀になった現代においても、そう思う人は少なくないのではないか。


戦後になって「戦争放棄」を定めた新憲法を公布し、これまでその原則を厳格に守ってきたが、つい先日、それを「抜本的に」方向転換したところである。それもとても自然に。日本人は「これも仕方ないよね」と、どことなく割り切っている雰囲気が漂っている。

小生は、(我ながら)日本人の非論理性には呆れ、驚くばかりなのだが、小林秀雄が上で言っている《根底のところにある変わらぬ日本人というもの》が、いま足元で表面に現れているのだと解釈すれば、これまでの歴史の中で何度も繰り返されてきた一種の《転換》が、今まさに進みつつあるのだ、と。そんな風にも思われるわけだ。

ただ、よほど深く交流して、日本人の特性を深く理解してくれている近隣国ならよいが、通常の他国であれば、変わりつつある日本人に困惑したり、警戒感を強めたりするのではないかと心配になったりする。


小林秀雄は、「根底のところにある変わらぬ日本人」について何だか余裕ありげに記しているが、この余裕は明治維新から70年も経った昭和初期に生きていたから得られたものであるはずだ。

明治維新直前の慶応3年に誕生し、明治初期から中期にかけて成長した夏目漱石にはとてもこんな余裕はなく、変わらぬ日本人と「役に立つ人間になるため」修得しなければならない西欧式の思考との矛盾や葛藤、軋轢に、強過ぎるストレスを感じ、さいなまれたのも、同時代の日本の青年世代には共通の傾向であった。「文明開化」の被害者世代と言えるかもしれない。

そんな同種のストレスをいま現在の日本人もやはり感じているのかもしれない。ただ、今の日本は「民主主義」であるから、政府が強引に「欧化政策」を推進するのは不可能であり、日本国民が強く拒絶するのであれば、いかにそれが日本国にとって必要な政策であっても、実行は不可能である。


マスメディアに登場する「専門家」は、アメリカ・ヨーロッパ発の言葉と価値観に沿って話をしているが、実は視聴している普通の日本人の感性は案外昔のままの日本人に近い。それでギスギスする。こんな因果関係があるとすれば、ずっと昔から続いている日本的現象なのである。しかし、メディアも民間企業であるから、そんなギスギス感は出せるはずはなく、普通の日本人が受け止められる範囲内で、欧米風の議論を語ってもらっている。

日本のマスメディア事情はこんな風に達観している。


2023年1月5日木曜日

年頭の感想: 賃金引き上げのお願い? 何だか、前に聞いたような気がするが

今年最初の投稿も少し情けない話だ。

というのは《賃金引上げ》である。

いま、政府は躍起になって今春の《賃金引き上げのお願い》をしている。

確かに、日本経済が永年のデフレから脱却して、賃金上昇→物価上昇→年金引上げ→消費需要増加→経済成長→ディマンドプル型インフレ持続、とマアこんなバラ色の夢を描くのも無理はない。これまでの丸々1世代というもの、正に正反対の負のループに陥っていたのが日本経済だから、とにかくこの苦境から脱したいと思うのは無理のない願いであるに違いない。

しかし、行政トップである内閣総理大臣までも「賃金引き上げのお願い」を口にするのは、何だか異様である。


というのは、賃金引上げが「日本病」の治療に(真に)必要なのであれば、公定の最低賃金引き上げを政治的にコミットする旨、総理か厚労相か、政府の責任者が、ハッキリ明言するのがベストのやり方であるからだ。

たとえば

政府といたしましては、今後、インフレ率をカバーする程度の最低賃金引き上げを続けてまいる方針で御座います。

一言こういえば賃金は確実に上がるのだ。 

この当たり前の事実を誰も口にしない。ここが足元の日本の政治、日本の社会、日本の学界、日本のメディア業界に見られる最も異常なところだ。


もちろんその理由は明らかだ。

最低賃金引き上げに堪えられない中小企業が続出するからである。前にも投稿したが、以下の様なことを書いている:

いま、戦後日本を支えてきた産業基盤、というか企業群の多くは日本国内で利益機会を失いつつある。実際、こんなデータがある。偽装か事実かは議論があるにせよ、現状は既に周知のことである。

国税庁が2021年3月26日に公表した「国税庁統計法人税表」(2019年度)によると、赤字法人(欠損法人)は181万2,332社だった。 全国の普通法人276万7,336社のうち、赤字法人率は65.4%(前年度66.1%)で、前年度から0.7ポイント改善した。

Source:東京商工リサーチ

利益も出ていないのに賃金を上げられるはずがない。お願いされても駄目なのだ。経済のロジックに沿って議論をすれば、そんなゾンビ化した中小企業は退場し、職を失った雇用者は適切な職業訓練(=リスキリング)を公費で受けて、人出不足の産業分野に再雇用されるプロセスを通じて、先ず成長分野に労働資源がシフトしていく。こうなって初めて問題解決への道筋が見えるわけだ ― もちろん人出不足を単に解消するだけではダメで、人出不足が常にあるようにビジネスチャンスを日本国内に創出し続けるのが政府の責任だ。そのためには規制分野に手を入れなければならない。「お願い」するのが政治家の職務ではないのだ、な。「身を切れ」というのはこの辺のことである。

マア、要するに、この《市場からの退出》、つまり倒産、廃業が増えるのが怖いのだろう。

政府が賃金引き上げをお願いしても、「無い袖は振れない」と開き直る企業が出てくるだろう。

お願いに応じない企業に対して行政上対応できる手段はない。

結果として、甚だしく《不公平》な状況が生まれるだろう。賃金引き上げをしない企業経営者も雇用を守ってくれていることに変わりはないという理屈をマスコミが口にし始めるに違ない。目に見えるようである。

法令で強制しないことによる実質的な不公平、不公正が拡大する。予想されるが故に決して「想定外の状況」ではない。

ここまで書いてきて、何だかデジャブ感を覚える。

コロナ禍の中のマスク装着である。《欧米先進国》のような、法令によるかよらないかはともかく、《マスク装着の義務化》を日本社会は嫌った。もちろん行動の自由を保障した憲法に違反するのではないかという問題はあるわけで、コロナ禍終盤において、アメリカでも違憲判決が出されたものである。が、(価値観を日本と共有する欧米先進国の)政府と議会は、原則どおり<法令等規則>に従って政治を行うという《法治主義》から逸脱することが少なかった。

日本では《緊急事態》を政府が宣言し、(こんなお願いをするのも緊急だからとばかりに)、「マスク装着」や「ワクチン接種」のお願いを繰り返したり、飲食店に対して「営業時間短縮」のお願いを何度も反復したり、であった。病院に対しても「コロナ病床増加」をお願いするやり方をとった。

こんな風に、政府が国民に「お願い」をして、コロナ禍に対応したかと思えば、今度は賃金引き上げを「お願い」しているわけだ。そういえば、公共交通機関でも何と頻繁に利用者に「お願い」して安全を確保していることだろう。これが日本という国の《お国柄》なのだ、と言われれば「そうだネ」とうなずく自分がいたりする。

しかし、お願いベースの管理形態というのは、上層部は責任を免れ、被統治者には自由があるようだが、不公平、不公正の温床になるのである。


こんな体たらくではそのうち

脱税は犯罪です。税はきちんと納めましょう。

こんな《納税のお願い》をやり始めるのではないか、と。

こんなお願いを繰り返しながら、実はサラリーマンに対しては「この方が便利でしょうから」とばかり、毎月なに食わぬ顔をして、国税、地方税と社会保険料を天引きする。

こんな政府であれば、いつの間にか

防衛費協力金として2パーセントを所得税率に付加いたします。これは「臨時的な協力金」でありまして、所得税をなすものではございません。勤労者の方は勤務先で事務処理を行いますので特に手続きは必要ございません。

こんな政策がにわかに決まって、新年度から始まる。NHKは「新年度から変更される制度」というタイトルでそのまま報道する……いや、マア、大いにありうる事態だ。

黙ってやっていることとお願いしていることが奇妙に食い違っている日本の政治。

(愚かな?)日本国民は変わりゆく世の中で毎日の暮らしに懸命で、妙に納得、というか変化に気が付くこともなく、忙しく過ごしている……、何だか怖いナア、昭和恐慌から満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦前期の世の中も、「激動」と言うよりこんな感じで「いつの間にか」だったのかナア……そう思うこの年明けでございます。