3月下旬から4月上旬と言えば、全国的なスケールの《大移動》が行われる。
親元を離れて上京するとか、入社式を控えて地方圏から大都市圏に引っ越すとか、あるいは社内の人事異動とか、それぞれの悲喜こもごもや運送業者の人出不足問題は別にして、色々なことを考えさせられるのも、いま頃の季節である。
「高度成長期」の定義ですら、人によって違う。が、小生は個人的には、「神武景気」のスタートから「いざなぎ景気」終焉までの期間を「高度成長」だと理解している。とすれば、1954年(昭和29年)12月から1970年(昭和45年)7月までが「高度成長期」であったことになる。
戦後日本にとっては正に「黄金時代」ともいえる時代を通して、日本人は農村地域から大都市・工業地帯へと移動していった。歴史上かつてない程の《大移動》だった。
データは省略しても可だと思うが、その大移動を支えた経済的動機は明瞭で、農村より大都市・工業地帯の方が給料がイイ、収入が増える。実に単純な動機だった。農村地域には、過剰な人が暮らしており、潜在的失業者があった一方で、この時代に勃興した「京浜、阪神、中京、北九州」といった《4大工業地帯》や大都市の第3次産業部門では、人手不足で「イイ仕事」が多数あったわけである。
そして今もなお、首都圏が人を引き付ける力は残っている。だからこそ、東京一極集中が懸念されているのだ。
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高度成長期には、労働資源が地方から大都市に移動することで、地方の経済にはマイナスの作用が働いたが、人を受け入れる大都市ではプラスの作用があった。しかし、マイナスよりはプラスの方がずっと大きかった。だからこそ、日本全体で所得が増え、高い経済成長率を維持できたのである。
人の移動はこうでなければならない。小さなマイナスを大きなプラスでカバーするわけだ。
しかしながら、今もなお続く「東京一極集中」の下で、日本人の所得はほとんど増えていない。一世代丸ごとと言ってもよい程の長期間、日本人の実質所得は停滞ないし低成長を続けていて、これを日本人は《失われた30年》などと呼んでいる。
地方から東京へ人が移動して、地方ではマイナス、東京にはプラス。ところが合計すればプラスマイナス・ゼロというわけだ。東京に人が集まる効果は地方の衰退で帳消しになっている。というより、地方では過剰な流出で過疎化が進み、東京では過剰な流入で過密化が進むので、実質的には日本社会は悪化していると言うべきだろう。
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その理由は明らかで、首都圏の経済活動、中でも主要部分であるマネジメント、サービス部門の生産性が低いからである。低いだけでなく、向上もしていない。
日本を代表する大企業のマネジメント能力の低さは、今回の「日産自動車」や「セブン&アイ」のドタバタ劇を見ると、容易に了解されるはずだ。あれは氷山の一角である。
日本の立法府・国会の低生産性は、その法案作成・立法の実績をみれば歴然としている ― 昨年来の兵庫県議会を知るにつけても、日本の「議会」の生産性に関する実証的な国際比較をみたいという思いがつのる。そもそもコロナ禍の3年を通して、日本社会のいわゆる「上層部」の低生産性が目の当たりにされた記憶はまだ鮮やかなはずだ。
日本の言論界、マスメディアと呼んでもいいかもしれないが、もはや「言論」と云えるような代物ではなく、
やっていることは《言論テロ》であろう
と、遠くからみていると、そう感じるのだ、な。
サービス業も(モノではなくサービスの特性上)人口集中地域で展開しやすい。しかし、純粋な意味で付加価値を生み出しているサービス活動がどの程度あるのだろう。生産性がどれほど上がってきているのだろう。例えば、医療や介護は専門職一人当たりの業務効率は上がっているのだろうか?教育産業の生産性はどうなのか?リモート教育、リモート診療が最近でこそ広がってきたものの、大体は同じ業務スタイルのままではないかと、近くの病院で診察を請う時などはそう思う。理容・美容も同じだ。
というより、職業資格で従事者数が規制される活動は別として、エンターテインメントも含めたサービス一般。昭和20年代の農村と状況は似ているのではないか、と。いま潜在的失業者が滞留しているのは、地方の農村ではなく、大都市である。そう観ているが、違うかな?
それにしては「人手不足」だ・・・と?。
いわゆる「人手不足」は、雇用政策、社会保障政策が適切さを欠き、結果として潜在失業者をロックインして、自由な移動を阻害している厚労省による《疑似的人手不足》だ。小生はそう思っているのだが、違うかな?
大体、「人手不足」は、省力化投資を怠って来た企業経営者側のマネジメント能力の欠如を示すものでしょう。
マア、挙げだすとキリがありません・・・
高度成長期とは異なり、いくら人が地方から大都市に移動しようが、日本全体の合計でみれば、まったく生活水準が上がってこない、収入がチットモ増えてこない。これには、都市と地方の(名目ではなく実質的な)生産性格差が、(マージナルな意味で)ほぼ消失済みであるという実態的な理由がある。そう思うわけです。
大都市の魅力は、もはや根拠をなくし、単に見栄であったり刺激を感ずるという主観になってしまっている。
まとめると、
大都市圏への人の移動は、日本社会にとって、もはやプラスの結果をもたらさない。少なくとも、現時点の国内大都市の経済実態はひどいものだ。とすれば、経済的なチャンスが存在するとすれば、過疎な地方だと考えるのがロジックだ。
ただ、江戸期に自然形成されたような《地方間経済ネットワーク》、ひょっとすると《広域国際間地域経済ネットワーク》かもしれないが、それを再構築するには、情報発信が不可欠だ。情報産業の生産性を上げる必要が絶対にある。
日本は《日本語空間》であって、空間として狭小だ。故に、「知的サービス市場」では「英語空間」、「中国語空間」に中々かなわない。
とすれば、地方ごとに「差別化・深堀り」の経済運営を支える情報拠点を人為的に組織化する必要がある。
どこが「組織化」するって?
「官庁」に決まっているでしょう。新設してもイイくらいだ・・・と、今は書いておきましょう。
先ずはメディアの「東京一極集中」を廃することから始めてはいかが?
首都圏には大手新聞社、大手TV局、大手出版社、大手広告企業などが過剰に集中している。
これを地方ごとに分立させる ― 具体的システムのありかたは、また別の話題にはなるが。新聞・TV・出版産業を保護対象から外すだけで、現在の産業組織は一変するはずだ。あとは競争メカニズムが最も自然なあり方をもたらしてくれるだろう。但し、統治機構によるメディア・コントロールは難しくなる。が、これまた別の話題だ。そもそもメディアが東京に集中するなど、スパイ網じゃあるまいし、そんな産業組織で価値ある情報を日本の津々浦々に伝えられるはずがない。
求めている情報は地域ごとに異なるのだ。情報価値の地域差は極めて大きい。中央集権的配信システムでは非効率で不満が鬱積する。
北海道で暮らしていると、道外の細々とした報道は不要である。東京で制作したドラマやバラエティはマスに販売するカップ麺のような味わいで、地元の感性と外れることが多い。地域に価値を提供しないものは廃止し、空いた時間スペースで地域ごとの需要に応えればよい。
「構造改革」が望まれる。
メディア市場を含め、日本経済はいま大都市圏と地方圏で、生産性・資源配分という面で、捻じれ状態になっていると観ている。
高度成長期とは逆のモメントを働かせる時機が来ている。
ただ、高度成長は民間主導で実現したが、現在の停滞は統治機構の権力が資源配分に介入する形で生まれている ― 本質から逃げる日本のメディア産業の罪でもあるのだが。これを是正するのは、現在の政党、国会議員達の能力では極めて困難かもしれない。
日本が落ちたトラップは、実は「高齢化社会」ではないと確信している。高齢化社会でも成長へのモメンタムが生まれるのは十分可能だ。出来るはずのことが出来ていないのだ。その理由は、日本人の大半が無意識に望んでいる《社会主義的社会》にある。つまり《中央集権への根拠なき信頼》がまだ心の奥にあるのだ。実に驚きに値する。社会主義は必ず停滞する。いくら停滞しても、それがイイのだと考える。だから閉塞感を感じるのだ。
そんな現代日本観をもっている。
【加筆修正:2025-03-16、03-18】
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