2020年12月29日火曜日

一言メモ: 旧友から近著が贈られてきた日の覚え書き

 旧友の一人から近著が届いた。市場と社会を歴史的に概観し考察している。旧友その人はその中で国際関係論的視点から1章を書いている。


市場と社会……、小生もいま歴史は曲がり角を曲がりつつある時代なのだという感覚は共有しているつもりだ。

ただし、(何度も書いているが)小生は偏屈で、人の意見には逆らいたくなる性癖の持ち主だ。

人の行く 裏に道あり 花の山

リスクと予想、それに投資は小生のライフワークだと心得ている。偏った見方、異論、反論は大好きだ。

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多くの人は、絶対王政が支配する旧体制((アンシャン・レジーム)を打倒した市民革命、それによって確立された民主主義社会。このような教科書的な視覚から近代社会の発展を考えているのではないだろうか。現代社会は多大の犠牲を払って獲得したなにか価値ある社会なのだ、と。そういういわば「フランス革命史観」とでも言える歴史観に多くの人は立っているのではないかと思っている。

でも、どうなのだろうなあ、と。小生はずっと前から想っている。

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小生が(高校以来と言ってもいいが)ずっと興味を持ち続けているのは、古代社会の勃興、発展、成熟、衰頽、崩壊という過程である。そのプロセスはもう終わっていて、かつそれほど構造が輻輳しているわけでもない。何度も勉強して鏡とするには格好ではないかと思うことが多い。人間の本質はそれほど変わってはいないものだ。

一先ず「中国」は外しておく。

そうすると、論点は(さしあたって)ローマという古代国家の発展と衰退という問題に集約される。そして、そのローマだが、長い歴史の中で一つの都市国家からイタリア半島を支配する国家へ、更には地中海世界全域にまで版図を広げる中で、人口、経済はそれと並行して発展を遂げていった。一方、発展を続けるローマ社会を統治する政体は、建国から200年ほど続いた王政が王の追放を以て共和制へ移り、その共和政も500年続いたあと深刻化する国内不安を解決できず帝政へと変わり、その帝政は初期の元首制(プリンキパートゥス:Principatus)から専制君主制(ドミナートゥス:Dominatus)へと大きく変容していったのである。100年を単位とするような緩やかな変容ではあったのだが、最初と最後を比べると同じ古代ローマでも別の国家、別の社会に変わっていたことが今日ではよく分かっている。

政治的不安定に苦しむ共和政末期のローマで独裁官となったカエサルを敵視する共和主義者の主張と、いま価値観を異にする中国の台頭を懸念する自由主義国家群の言い分と、何と似ていることだろう。「元老院」という議会が重要事項を決定し、「執政官」という民選大統領が行政を運営していた共和国ローマは、独裁者への反発と暗殺、内乱を経て、任期のない「元首」が強大な権限を行使する国に生まれ変わった。元老院がこのような政体変容を承認したのである。これが帝政ローマである。「ローマの平和(Pax Romana)」とは、共和政から帝政へ政治体制が変わった後、ローマ帝国がもたらした安定した社会をさす言葉である。

仏人・モンテスキューは、『ローマ人盛衰原因論』の中で、内戦の終息、Pax Romanaの到来にもかかわらず、それを帝政という政治体制がもたらした恩恵とは考えず、帝政への移行こそローマ滅亡の遠因であったと論断している。フランス革命の政治哲学的基礎を提供したモンテスキューならではの見方でもあるし、現代社会の思想的基盤としての共和主義に立てばそんな歴史観にもなるということだ。

小生は、ローマの軍事的・経済的発展を支えた政治基盤としての共和政が空前の超大国に発展したローマ社会の中でなぜ円滑に機能しなくなったのか。なぜ帝政への政体変容が必要であったのか。この問題がずっと気になっていた。いまそれほど話題に取り上げられることが多くないのは、実に不思議に思っている。

そして文明が爛熟し、生活水準が最も高くなった(と考えられている)紀元4世紀以降に、文明的にははるかに劣位にあった異民族の攻勢に耐え切れず、軍事的に圧迫され、社会が崩壊するに至った顛末はこの上なく劇的に感じるのだ。このプロセスに小生はロマンを感じ、仕事の多忙にもかかわらず現役引退後に読もうとギボンの"The History of the Decline and Fall of the Roman Empire"を全巻買ってしまったのも上に述べた理由からだった — まだ書棚に鎮座したままではあるが。

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こんな関心が根っこにあるものだから、古代社会が崩壊したあとに登場した中世の分権的封建社会が中央集権的な絶対王政に発展、変容していったプロセスもまた、地理上の発見と貿易拡大の中で進んだ富の蓄積がひき起こした政治権力の統合と集中化だったと、そんな風に観たくもあるわけである。つまり「中近世」という一つのサイクルとして理解したいというのが小生が気に入っている視点である。

そして、農業から工業へとリーディング産業が交代し、産業資本家というブルジョアジーが中世以来の地主階層である貴族の社会を侵食することで姿を現した資本主義社会は、「中近世」という一つのサイクルが一巡した次のサイクルの始まりとして観たくもあるわけだ。資本主義社会の本質的分権性、無政府的傾向を是とすれば、伝統的貴族が身分秩序を構成する絶対王政社会とは正反対の理念と価値観もまた是となるわけである。競争に基づく市場メカニズムに任せよと主張した古典派経済学はこの新しい時代を理念的に支える「スコラ哲学」としての役割を果たしたとも言えそうだ。ケインズ革命はカトリックに抗った宗教改革にもたとえられるかもしれない。

とすると、近代(モダン)からポストモダンという超近代の時代にかけて進むのが、これまでの歴史的サイクルと同じく、政治権力の統合と集中であるとしても、何もおかしくはないと小生は思っている ― 現実にそんな社会変動をこの目で分かる形で目撃するという可能性はほとんどゼロであるが。民主主義がよいとか、市民社会には普遍的価値があるとか、そんな共和主義的政治哲学とは別に、新しい産業と経済の発展に必要であるのなら、「伝統的価値」などというものは躊躇なく修正して、その時代の新しい社会に適合した政体を人々が認め、選び、受け入れていくであろうと。そう考えるわけである。現にこれまで歴史を通して人間はそうやって生きてきたのである。

その意味では、小生は人間の小さな頭脳の中にしか存在しない「主義」や「価値観」というのは現実の経済活動という広大なリアリティ、というより現実に生きている多数の人間の生という岩盤のようなリアリティに完全に従属する「上部構造」であると考えているわけで、この点だけは(何度も本ブログに書いているように)マルクス主義者なのである。

2020年12月27日日曜日

コロナ禍の1年……どんな記憶になるのだろう?

 コロナ、コロナの1年で終わるが、この1年、たとえば20年後にはどんな記憶になって残っているのだろう?

言えることは、100年前の「スペイン風邪」だが、日本国内で40万人の死者を出しているにもかかわらず、現代日本人の記憶には当時の悲惨さはほとんど記憶に残っていないということだ。むしろ、その直後の「関東大震災」、さらには「太平洋戦争と空襲・原爆・敗戦」が時代を画する大惨事として記憶されている。

「震災後」や「戦後」という言い方はされてきたが、「スペイン風邪大流行の後」という言葉を小説でも評論でも見たことはない。

だから「コロナ禍」というこの1年の言葉が、いつまで日本人の記憶に残るかと言えば、それは誰にも分からないというしかないだろう。

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ただ、実態として政府の機構や行政システムを変革させる契機になるのではないか。そんな気はする。

このブログのタイトル欄に初めて「コロナ」という言葉が登場したのは2月27日の投稿だ。そこではこんなことを書いている:

どうやら(一部の)医療関係者にとっては上のような認識は間違っているようだ。

こんな投稿もある。:

モーニングショーで軽傷者を早く見つけて重症化を防ぐとテレビで述べていた医師がいましたが、早期診断してもしなくても新型コロナウイルス患者の転機は変わりませんし、早期に見つければ重症化させない方法なんて実験的投薬含めてまだ確立されていません。

URL:https://blogos.com/article/438799/

投稿者は早期治療に意味はないと考えている。まあ、ウイルスを直接的に攻撃する薬剤はないわけだから、それはそうなのだろう。インフルエンザなら(発症後一定の時間内であれば)検査をしたり、特効薬を投与したりと、医師がすることはあるが、新型コロナによる風邪には出来ることがないということなのだろう。出来ることはないのだから、自宅で安静にして休んでいなさいという判断は理に適っている。

重くなったら来てください、と言うのもネエ……、という気持ちも残るのだが。

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確かにこの1年、コロナ感染対策の戦略方針という面で政府は迷走に迷走を重ねたのだが、その迷走の主たる原因として医療専門家の側の不定見(=(無定見+不見識)÷2)があったという指摘もありうるわけである。

3月14日にはこんな予測投稿もしている:

そこで個人的な予想を覚え書として書いておきたい ― そういえば、東日本大震災直後も、その時点で予想できたことを書いておいたのだが、半分以上はまだ実現していない(参考はこれ)。なので、以下に書くことの半分も実現されないかもしれない。

  1. 社会の基盤である生産活動は(基本的に)再開されるはずである。発症し感染が疑われる場合は検査を行い陽性の場合は自宅待機とするのはインフルエンザと同様に対応する。こんな方式になると予想する。
  2. 但し、クラスター形成の確率が非常に高くなる活動、つまり下図の3条件を満たす活動は時限的に、例えば1年間程度は禁止もしくは自粛要請されたり、あるいは入場時の体温チェックが義務付けられるのではないか ― 具体的にどの分野、施設で何が求められるかは、ちょうど「軽減税率」対象品目を指定するのと似ていて、恣意性が混じるのは仕方がないが。もしその間に喪失所得が発生するなら、幾ばくかの所得補償が失業保険と併用しながら別に立案されるだろう。
  3. 感染者が自宅で発生した時の「自宅待機」のあり方が最も重要になる。例えば『新型コロナウイルス感染者の自宅待機に関する行動指針』が感染者本人、家族への「お願い」として国内全世帯に郵送配布されるのではないか。日本人は公的な方針に従うことが好きである。全世帯配布は『年金お知らせ便』と同じである。
  4. マスク、アルコール消毒スプレー・ジェル、うがい薬などの適切な使用法なども「お願い」の中で記述されるはずである。
  5. 『接客に際する行動指針』、『勤務に際する行動指針』も必要かもしれない。
  6. 当面1か月、3か月、1年、ワクチン製造の目途がたつまでの2年程度までに分けて、<緩慢な感染拡大>と<死亡数の極小化>を担保するための戦略見通しがメディアを通して伝えられるだろう。
  7. その間の経済対策などは当然上の戦略と併せて示されるはずである。


大体、3月下旬から4月、遅れれば今年のゴールデン・ウィークにかけて、こんな風に物事は進行すると観る。

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どうやら「生産活動の再開」、「陽性患者の原則自宅待機」の見通しは見込み違いになった — GOOTキャンペーンが実行されたのは予想通りであったが。「行動方針」というか「お願い」は詳細を説明した印刷物ではなく、TVを通して「3密回避」という言葉で伝えられたが、何事もショート・メッセージを好む現役世代の感覚が支配的になったからだろう。それから「ワクチン製造の目途が立つまでの2年程度」と予想した下り。これは現実には嬉しい誤算があったわけであり、1年もたたないうちに日本でもワクチン接種が始まるかもしれない状況であるのは誰もが安堵しているのではないだろうか。

当時の見通しの方が理に適っていると今更ながら感じる箇所は

クラスター形成の確率が非常に高くなる活動、つまり下図の3条件を満たす活動は時限的に、例えば1年間程度は禁止もしくは自粛要請されたり、あるいは入場時の体温チェックが義務付けられるのではないか ― 具体的にどの分野、施設で何が求められるかは、ちょうど「軽減税率」対象品目を指定するのと似ていて、恣意性が混じるのは仕方がないが。もしその間に喪失所得が発生するなら、幾ばくかの所得補償が失業保険と併用しながら別に立案されるだろう。

というところだ。

感染リスクの高い行動、活動を指定して、感染を抑制するという施策はやはり(特にその後のGOTOキャンペーンを展開するにあたっては)必須であったのではないだろうか? 必要な法改正は粛々とすすめる姿勢をとるべきではなかったか?実に「後悔先に立たず」である。

世界の「コロナ禍」の中で、行政府のトップが交代どころか、もしも菅・現内閣もまた「座礁」という羽目になれば、安倍前首相についで二人目の首相辞任という他には例のない体たらくになるのだが、仮にそうなれば世界の尺度では「かすり傷程度」で政治が不安定化する先進国という不名誉な事例になるということで、改めて日本国の国家的脆弱性が露見してしまうわけだ。ま、これも考えようによっては、第二次世界大戦後の連合軍の基本方針である「日本を無害化する」という戦略が見事に成功しているとも言えるわけで、「日本はあんなものか」、「アジアの平和にはよかったヨネ」というメッセージになるので、そうそう悪いことばかりでもないということか。


今年の投稿もずいぶん数が増えた。毎月大体12回か13回、1年で150回程度を目安にしているのだが、この2、3年はかなり多い。それだけ後になって読み返したくなると思われる話題が多かったということなのだろう。中でも「コロナ」というのは、この数年間でも強烈な記憶として残る、「東日本大震災」がこのブログを再開するきっかけであったのだが、それと同じレベルかもしれない。今はそう感じているということか……、それはともかく、今日あたりが今年最後の投稿になるかもしれない。というか、そう望みたい。


2020年12月25日金曜日

一言メモ: 民主主義社会の政治家にはどんな責任があるのだろうか?

 民主主義社会における政治家はどのような結果責任を負うものなのだろうか?


小泉政権に対しては『新自由主義的な政策を盲目的に進めたことが今日の格差拡大をもたらした』という批判がいまもなお根強く見られるし、安倍政権の概ね8年間に対しても「現在の政治不信」をもたらした責任があると非難する向きが多い。

問題の内容と現状に対する批判は分かるのだが、ただどうなのだろうなあ、とは思う。


例えば、君主制の下で国王から任命された宰相が失政をおかして社会が混乱したとする。そうした場合、確かに失政を繰り返した宰相に混乱の原因があるのだが、それは宰相の行政能力が不十分であったということである。能力の不足はその人の責任ではないであろう。その宰相を選んだ国王にこそ主たる責任があるだろうと誰もが考えるのではないか。もちろん能力が足りなかった宰相が法を犯していればその罪を免れ得ないのは言うまでもない。が、誠実と有能とは別物である。国王は能力を求めるなら有能な人物を、安心を求めるなら誠実な人物を宰相に任命しなければならない。その責任は君主制の下では主権者たる君主が負う。

第一次世界大戦にドイツ帝国は敗北したが、東部戦線の総司令官であったヒンデンブルグはワイマール体制下で大統領に就任した。ヒンデンブルグの下で参謀長を勤め、その後参謀本部次長に異動し「ルーデンドルフ独裁」を築き、1918年にはドイツ軍最後の「春季攻勢」を仕掛けたエーリッヒ・ルーデンドルフはドイツ敗戦後に一時スウェーデンに亡命はしたが、すぐにドイツに帰国し、盛んな政治活動を展開した。責任を負ったのは皇帝であったカイザー・ヴィルヘルム2世であって、プロシア以来のホーエンツォレルン王朝は消滅したのである。

現場で指揮をし戦った軍人が敗戦後も政治活動を続けることが国民に受け入れられ、他方皇帝は亡命し、王朝は崩壊したというこの歴史的な展開は、戦争開始時の主権がどこにあったかという点を考えれば、実に理屈が通っている結末だと思う。

では、民主主義社会においては、政治的変動の結果に誰が責任をもっているのか?それは主権をもつ「国民」自身であるという理屈になる。政治家による「失政」も、その社会がそもそも民主主義で国民が政治家を選んでいるのなら、失政による混乱もまた「身から出たさび」であるわけで、発展するにせよ、停滞するにせよ、いずれも国民が引き受けるべき結果である、というのが当たり前のロジックだと思われる。「君主制であれば……」と、問いかけを一般化すれば思考実験が出来る。

「民主主義」とはそういうことではないだろうか。

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小泉政権に格差拡大社会の政治責任があるとは、小生は考えていない。おそらく将来の経済史の教科書においては「2000年代以降の日本の経済格差拡大」の色々な背景や原因がグローバルな観点から説明されるものと予想しているが、その原因として「当時の内閣の経済政策」が挙げられるとは想像できない。政治家が政治の場で解決するべき問題に向き合うとき、そもそも政策の選択肢は限られ、その中で選ぶべき最善の政策は人的能力、社会制度等を与件とすれば、自由度などはなく、特定の一つに決まることが常態だろうと思われるからだ。同じような視点で、菅直人内閣に福一原発事故の責任があるとも考えない。更に言うと、この8年間で新たな経済成長分野が育たず、規制緩和も進まず、全世代型社会保障システムは不完全なままであり、公衆衛生体制も実は脆弱で感染急拡大という緊急時に対応できなかった等々というような問題であるが、これらが安倍内閣の責任であるとは考えていない。まして菅現内閣の責任であるという見方には反対だ。どの内閣もある問題は(その時点に良しと思われる方法で)処理し、他の問題は(解決が困難と思われたが故に)未解決のままに残し、一定の期間、日本社会のマネジメントを担当したという事実が歴史に記録されるだけである。ま、歴史観と言えるほどではないが、そう考えているのだ、な。


民主主義社会であれば、良い意味であれ、悪い意味であれ、《結果として》結局は国民の多数派のホンネが政治となって現れるものである。

具体的に言えば、財界、業界、支持基盤、さらにマスコミと世論の圧力 — これ自体、社会が民主主義的である証拠だが―に影響されながら、内閣や首相、閣僚がいかに《自分の思うとおりに法律を制定し、権力を行使して、政策を実行することができないか》。この点はもうビフォー・コロナでもない、アフター・コロナでもない、まさにイン・コロナの現状をみれば、100パーセント完全に明らかになっている。

「責任」とは「自由」と裏腹の概念である。他に主権があり、それに制約され、思う通りの政治ができない以上、政治家には政治現象の結果責任はない。

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もし民主主義社会の政治家に何らかの結果責任があるとすれば、君主制の下で任命された政治家であれば可能であるが、民主制の下で選ばれた政治家には不可能な行為を意図的にしたことが立証された時であろう。

とすれば、「桜の花見」の金銭的補填に関して、国会に虚偽の陳述を続けたことが証拠づけられたいまは、安倍前首相は政治家として結果責任を負わなければならない。

国家予算に比べれば金額として実に些末で、枝葉末節と言える範囲のことではあるが、金額は少額であっても意図的な粉飾決算や脱税が発覚し、証拠づけられたなら、その時点で経営トップが結果責任をとるのと同じである。

法治国家であればそんな理屈になる。

2020年12月19日土曜日

ホンノ一言: 結局、「原因と結果の認識は素人には難しい」、ということか

北海道では新型コロナ感染者が減少に向かっている。

カミさんはこれを見て、『やっぱり外出を自粛するとか、GOTOを止めるとかすると、感染者は減るもんだね』と喜んでいる。

『旭川の巨大クラスターが段々と終息に向かってるからネ、新規感染者の人数が減るのは当たり前さ。何もGOTOを止めたから減ってきたわけじゃないヨ。クラスター問題が解決されてきたからだよ。クラスター爆発があったらまた増えるヨ』と応えておく。

カミさんは『そうなのかなあ・・・』と不満顔である。理屈では勝てないとみたのだろう。

『病院と高齢者施設で発生した旭川のクラスター。これほどの規模になったのはGOTOトラベルが原因でした』と語る人はさすがにいない。今回のやりとりは、明らかに小生の側に正当なロジックがある。そう思った次第。

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院内クラスター、施設内クラスター、学校クラスター、飲食店クラスター等々、を抑えられていない。巨大感染クラスターが生まれるか、生まれないかという違いが、組織の△△長の管理運営能力と関係ないとすれば驚きだ。公衆衛生行政と関係ないとすればビックリだ。クラスターはランダムに発生する現象だと言うのは無理だろう。誰がみても管理運営の責任があると思う。

要するに

集団感染を防げ

この鉄則を貫くために何をやってきたか?

「マスク、手洗い、三密回避」、である。まあ、人が自宅にこもっていれば確かに抑えられるだろうが・・・。何だか「頭の悪いやり方」のようにも正直なところ感じられる。が、よい知恵が浮かばないなら仕方がないか、と。そんなところだ。

先日のワイドショーによくTVに登場する「馴染みの医療専門家」が出ていて、視聴者からの質問『インフルエンザは減っているのに、なぜコロナは減らないんでしょう?』があった。これに対して、専門家が曰く『それは新型コロナの感染力が強い、ということです』。

小生が小学生だった頃、どこかであった五輪の女子100メートル走で圧勝した米国選手がいた。弟が『なんであんなに速いのかな?』と聞くのに対して『長い足をはやく回転させられるんだよ』と小生は応えたものだ。父はその横で大笑いだ。この話しを思い出した。

日本では、<科学的アプローチ>ではなく、<政治的アプローチ>でコロナ対策をやっている。そんな感覚なのだ、な。科学よりは民主主義、法律よりは民主主義、感染拡大防止にはまずは相談とお願いと・・・戦後日本の弱点が21世紀になって表面化してきた感じだねえ、と。明治日本の弱点が、1930年代になって顕在化してきたのと同じでなければいいが。

日本人の《教条主義》は今も昔も変わらない。世界に遍く知られているけれど、一点にこだわって融通がきかない。こう思われる今日この頃である。

どこも行政トップの支持率は下がっている。日本も例外ではない。安倍首相もコロナ対策の真っ最中に退陣した。継承した菅首相も評価が下がっている。しかし、日本の現状は欧米と比べればずっと良い。それでも国民の不安は高く、政府に対する評価は低い。おそらくアジアの中で比較しているのだろう。確かにアジア内で日本の成績は良くない。しかし、中国やベトナム、韓国などをみても分かるが、アジア内他国は政府の行政権限が日本よりは遥かに強く、個人情報やGPS追跡も使用できたりする。オーストラリアのような外出禁止令/抗議デモ/警察が逮捕、といった情景は日本では発生しえない。日本人はそのような強い行政権限に否定的である。同じことをすれば日本の成績も上がるだろう。それはしない。であれば、アジア内で日本の感染状況がパッとしないのは当たり前だ。なぜ日本人は現状に納得しないのだろう。その理由がよく分からない。ま、ワクチンが届けば機嫌も治るだろう。案外、メディアの報道ぶりがフィクションで、日本人のリアリティはそんな程度なのかもしれない。



2020年12月17日木曜日

一言メモ: 何かといえば「首相のメッセージ」を求める世相には幼稚さを感じる

 政府が展開する政策には「メッセージ」が込められなければならない、と。そのメッセージを正しく、強く伝えるのが政治家の重要な役割だと・・・。

いつの間にか、日本の政治家は政府から国民へのメッセージ係、つまり《メッセンジャー》であると。そんな風に理解されるようになったようで、こんな世相には小生、正直驚いている。

『トップである菅首相から強いメッセージを発するべきだと思います』などと、TVのコメンテーターが画面の向こうから発言している。何だか『お父さんからもチャンと言ってもらう方がいいわね』と子供の悪戯に手を焼いていた昭和の奥さんたちの話しっぷりを連想してしまう。お父さんが帰宅するなり「お前たちはそこに立っとれ!」などという昭和の家庭の典型的風景などはもう絶対にないと信じ切っている平和がそこにはあるのだが、小生は、ひとつ前の世代であるせいか、『政府というのは権力、だから怖い』という感覚が染みついている。それがいまは「首相からきちんとメッセージを出すべきです」か・・・。一国の総理大臣もまた、この何十年かで「怖い存在」から、厳罰など決して加えたりしない「優しいお父さん」になったということだ。

それにしては日本はまだ死刑制度にこだわって続けているんだけどネエ・・・ま、これも世相である。こんな感想が一つ。

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ずっと昔、ある経済官庁で仕事をしていた時分、その頃に盛んだったマクロ計量モデルは、金利の上げ下げ、財政支出の増減、税率等々の政策変数を通じて、GDP成長率、インフレ率、国際収支など主要なマクロ経済変数にどのような効果を及ぼしうるかについて、色々なシミュレーションを行うのに不可欠なツールであった。複数のケースに分けて計算された将来予測の経路は政策判断においても重要な参考資料であった(と敢えて言っておこう)。

そのマクロ計量経済モデルだが、基本にあるのはいわば社会経済の「力学観」とでもいうか、一定のメカニズムで動いているシステムとして社会をイメージする。そんな「哲学」(というほどでもないが)に基づいていた。ま、経済学は物理学を連想しながら発展してきた社会科学でもあるので、多数の変量を色々な方程式で関係づけるわけである。例えば「消費関数」や「投資関数」など需要サイドの行動方程式があるし、「生産関数」や「労働供給関数」といった供給側の関数が入ることもある。

なので、「政治家の発信するメッセージが大事ですよね」と言われると、それはもう「はあ~っ?」という反応になるのは当たり前であって

メッセージ? そんな政策変数はねえなあ。それ、どうやって数値化するんだよ! バカバカしい。

などと、一蹴されるわけである。

これまさに「官僚主導」の典型である。改めるべし。いまは「政治主導」なのであると言われると、ただただ「そうでありました、まことに申し訳ござらぬ」と反省するしかない。

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反省はするのだが、ただ現場の官僚のホンネは、今でもあまり変わっていないかもしれんなあと、そう憶測することもある。とにかく、今ほどホンネと建て前とが大きく乖離した時代はないと感じているのだ、な。だから気を使うことばかり増えている。

『大体、役者や芸人じゃああるまいし、TV映りがいいとか悪いとか、口先上手であるかどうかなど、政治家の言葉がそんなに大事かネエ・・・そんな枝葉末節のことで政策の効果が大きく変わるはずないだろ!』という思いは確かに今の小生の胸の内にもある。いわゆるヒューマン・ファクターは重要ではない。プロ・スポーツ試合の勝敗にしろ、コンサートの出来不出来にしろ、確かに選手同士の不和とか、相性とか、不機嫌とか、その日の言葉使いとか、監督がミーティングで何を言ったかとか、いろいろあるかもしれないけれど、決定的なのは練習と技量でしょ。要するに、口先で何を言うかより、黙々と練習をして、諦めずに挑むという行動が大切なのだ。そう考えてきたわけだ。

それを「首相のメッセージを」とはネエ・・・それこそオルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で批判した「行き過ぎた民主主義」というものだろう。こんな風にも考えたりするわけだ。

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しかし、1980年から88年まで米・大統領をつとめたレーガンは「役者に大統領はつとまらないと言われたが、むしろ大統領がつとまるのは役者である」と語ったそうだ ― オリジナルの発言が見つからないのだが。

政治家でなくとも、アメリカのFRB議長を永年勤めたグリーンスパン氏。グ氏の真骨頂は「市場との対話」であった。何をどう説明するか、グ議長が何を言うか。金融市場関係者はグ氏の片言隻句に注意をしていたものだ。

なぜトップの発言が注目されるようになったかと言えば、政策は単に政策変数を物理的に調整するだけで終わるのではなく、国民の《予想》や《期待》に影響を与えることによって、結果に結びつくものである。こんな《予想・期待形成》の役割が政策実行の現場で非常に重要視されてきたことが背景にある。

確かに総司令官が最前線でビビってばかりいれば、戦う前に未来に希望をなくしてしまう兵が続出するだろう。トップは明るい、ポジティブな人物でなければ務まらないという常識には、《予想・期待》が人間集団の行動に大きな影響を与えるのだという科学的知見の裏付けがある。そう考えると、「トップである首相から強いメッセージを」というのは分からないわけでもない。

とはいえ、日本人は何も総理大臣の発言ばかりをきいて行動を決めているわけではない。首相の発言は多数の情報の中の一つ、それも相当距離のある、遠い人の言葉に過ぎない。そもそも首相のメッセージと言っても、大多数の日本人はTV局が作っている番組の中で切り取られた形で知るわけである。首相の声をその場で聴くわけではない。それに、いくら総理大臣が「会食は避けて」と言っても、諸般の事情、周囲の状況から「ま、大丈夫か、やらないわけにはいかんもんね」と思う人が日本で多ければ、結果として首相のメッセージは空振りに終わるのだ。

そもそも法律の運用なら仕方がないが、首相の言葉一つで日本人の行動が大きく変わるなど、考えただけでも恐ろしい。

デマゴーグを最も嫌う小生の希望的観測かもしれないが、現代社会において、首相の発言やましてワイドショーのコメンテーターの話しっぷりがそれ自体として社会的効果を有するのかという点については、小生、かなり疑問だ。やはり、例えば「GOTOを止める」とか、「営業時間短縮を要請する」とか、具体的な行政行動によって効果が出る。弱い行動では弱い効果しか出ず、強い行動をすれば強い効果が出る。であるから、メッセージだけを強く言っても、行動が弱ければ、口先だけで国民の行動を変えられるはずはない。小生はこんなロジックを信じる立場にいる。

口先の言葉は、やはり口先であって、それ自体としては大して重要なことではない。古い世代としてはどうしてもそう思われるのだ、な。TV業界や新聞業界は、首相のメッセージがあったほうが商売ネタになるので、そりゃあ求めるはずだが、それはGOTOを求める観光業の都合とまったく同じロジックの話しで、メディア産業の経営上の都合である。

消費者である私たちは、人様に知られたくない観光業の楽屋裏、人様に知られたくないメディア産業の楽屋裏、人様に知られたくない医療業界の楽屋裏などなど、口先の言葉の裏側をよく読みぬいて、自分の行動を決めることが大事だ。どの産業も自分のことが第一である。どの産業も、誰もが《ミー・ファースト(Me First)》の時代であることを忘れてはならない。

2020年12月14日月曜日

一言メモ: 「実行困難」な政策が前提となる「停止困難」な政策があったわけか……めんどくさいネエ

悲劇も視ようによって喜劇になる。倍速にすればそうなるそうだ。

今まさにそうなってきている世相だ。日本人は「コロナ感染」を毎日毎日あらゆる方向から早口で話してはその日の結論を出している。東証の株価と同じだ。毎日、毎日、不確定要因が発生して、話の行方が定まらない。「見通しがつかない」のは当たり前だ。これ、やっぱり「喜劇」であると、(失礼ながら)そう感じている ― こんな性格だから組織の中で働いていた頃はさぞかし嫌な奴だったろうと思う。申し訳ないと同時に冷や汗が流れる。

100年前の日本でもスペイン風邪が大流行した。大正7年(1918年)から大正10年(1921年)にかけて日本国内の死者は約40万人にのぼった。大正7年5月の夏場所では高熱で全休する力士が続出したそうである。が、その当時も現在のような「経済か、自粛か」などと大論争をしたのだろうか? まったくのNOであった。というより、ウイルスの遺伝子解析技術がなかった。それがアメリカ由来の新型ウイルスであると分かるはずもなかった。だから「スペイン風邪」になった。

それよりは第一次世界大戦中に暴騰した「米価」が大問題だった。大正7年に全国に拡大した「米騒動」は実は歴史に残るほどの大規模な民衆暴動であった。「スペイン風邪」の猛威よりは「毎日の暮らし」のほうが日本人にとっては遥かに重大事であったのだ。日本史の教科書をみれば何が重大であったかは明白である。

この事は、何が社会的真理であるのかについて、大事な示唆を含んでいると思う。

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昨晩も福島・いわきで暮らす弟と久しぶりに話したのだが、『もうTVは観ないことにしたんだ、ラジオを聴いてるんだ。新聞も馬鹿々々しくなってきててネエ』というものだから、『おれはもうこの3月で新聞は止めたよ』と応えた。そうすると、『TVを視てると、ホント、バカになっちゃうよね』と問いかける。『TV局で番組をつくっている人間が、観ている俺たちはバカだと思っているか、番組をつくっている人間たちがバカであるかのどっちかだな』と言ってあいづちを打つと大笑いだ。

実際、TVや新聞の報道(というより「意見」)を聴いていると、不思議な頭脳回路をもっているようであり、どうもGOTOトラベルは「経済」と「感染」の二つの目的をもつ、両ニラミで進めている、というのだ。

そんな理屈はないでしょう、と。GOTOトラベルは経済にはいいが、感染には悪いに決まっている。

こんな簡単な理屈がマスコミの人間には分からないのか?つくづくと、そう思う。

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旅行をすれば補助金を出す、飲食店にいけば補助金を出す。そんな政策が感染防止に役立つなどという理屈はまったくないのだ、な。

感染防止の観点にたてば悪いに決まっている。

「ポリシー・ミックス」という基本的な言葉も知らず、政策のことを論じるのは能力不足だろう。

GOTOキャンペーンは、観光業を救済するための「緊急経済対策」である ― 観光業を下支えするという政策がいま適切かどうかという問題は以前に投稿したように別にあるが。故に、GOTOキャンペーンを進めるなら、その副作用を抑えるための「感染防止対策」として何をするのか?マスコミはここを攻めないといけなかった。

感染防止対策が弱ければ経済対策も強くは出られない。感染防止対策を強く進めれば経済対策も思い切って出来る。経済活動はヒトとヒトとの触れ合いを増やすので感染症対策にマイナスであるのは最初から分かっている事だ。

実に単純な理屈である。

にもかかわらず、感染防止のために経済対策であるGOTOキャンペーンを止めてくれと、そればかりを主張するのは、感染防止を強化する政策を本当はやりたくない。そんなホンネがあるからだ。

実に簡単なロジックである。

***

「お願い」ではなく「命令」ができる強い感染防止対策をとるなら、区域、人物、機関を特定した指導・命令を行うことになる。が、これらはすべて非民主主義的だ。だから「実行困難」。とは言っても、経営破綻、生活破綻の激増を避けようとすれば経済対策が必要だ。だから「停止困難」。そこでTVも新聞も議論はいつも「堂々巡り」になる。実際に「堂々巡り」を演出してきたわけである。

堂々巡りは仕方がないが、それを公共の電波を使っているTVや再販価格で保護された新聞が、核心に迫ることなく、ホンネの議論から逃げて、毎日堂々と堂々巡りを単純反復するのは実に見苦しい。

聞きたくないことをズバリと指摘するのがマスメディアの役割だ。それを言わないのはプロデューサーなりデスクなりが、「ここから先は言わないで、書かないで」と一線を引いているのだろう。メディア各社も忖度して太平洋戦争直前のような八方美人を貫いている。忖度する先が、「政府」であるか、「世論」であるか、使い分けている楽屋裏はとっくに露見している。

あと何年もこんな感じでやって行くのは無理だろう。

喜劇を演じて恥としないマスメディアは、有害無益とまではいかないが、無能であるくらいの言葉は浴びせられても仕方がないだろう。

***

ただ、政府が「緊急事態宣言」を出すなら、12月上旬といういま出すのがベストだ、と。ワイドショーのコメンテーターが主張しているこの判断は小生も賛成だ。

GOTOを止めても、若い人たちが街を歩けば感染は広がろう。病院、高齢者施設のクラスター発生が止まるロジックはない。

感染者が増え続けるとする。来年1月中旬には大学入試センター試験がある。センター試験の直前になって緊急事態宣言を出すのは「実行困難」であると小生は感じる。かといって、センター試験を強行すると、一段と感染が拡大する可能性が高い。

ま、そうなると国内は大混乱となり、菅・現内閣は瓦解への一直線を歩む。

このくらいのことは、いま「見通せる」のではないだろうか。

2020年12月13日日曜日

一言メモ: 民主主義の健全さとメディア産業の経営と

 市場経済が国民の厚生という視点から最適な資源配分を達成できるかどうかには、経済学では周知の事ながら、大事な必要条件がある。

中でも大事な条件は、どの経済主体も市場価格を与件として行動すること。そして、どの経済主体も市場支配力をもたないことである。この段階で、現実は市場経済の理想とは隔絶している。

そして、同じ程度に重要な要件は《情報・知識》である。消費者(にとどまらずBtoBの購買者全般を含む)が、買おうとしている財貨・サービス、そして競合品の価格、品質、信頼性などについても完全な情報・知識をもっていることである。

これらを考えると、理想型どおりの市場経済が現実にはどこにも存在しないのは、当たり前なのだ。

★ ★ ★

分権型の民主主義社会が健全に機能することにも必要条件が幾つかある。必要条件を満たさなければ、名目だけ民主主義であっても、そのプラスの側面は現実のものにはならない。

複数政党制と普通選挙が不可欠の要件であることは誰もが知っているが、これに加えて、正確な情報が低価格で提供され、国民が情報の意味を理解できる十分な知識をもっていることも大事だ。

だからこそ、民主主義社会の発展とメディア企業の健全な成長とが強く関連してきたわけである。

その「メディア産業」が実は非常に重要なのだ。日本の近代化の歩みを振り返っても、文明開化から自由民権運動が盛んになる明治10年代に日本の新聞産業は勃興した。

日本のマスメディア産業の原点とも言える時代、新しい事業でもある「新聞」は江戸以来の「瓦版」とは全く異質であった。慶応義塾の福沢諭吉は高級紙『時事新報』の発行を始めた。明治15年3月の事だ。当時の福沢は日本国内で内外の事情、学問の諸分野に通じた最高レベルのジェネラリスト的知性であったろう。また明治21年に陸羯南が創刊し主筆を兼ねた『日本』は正岡子規との縁で有名だが、その記事内容は現在に置きなおせば、多分「岩波新書」のレベルに匹敵するほどの高水準だった。

記事として書く文章には書く人の学識、経験がにじみ出る。端的に言えば、新聞は(出版社側の品質管理努力が厳しいということで挙げているだけだが)たとえば「岩波新書」を出版できるほどの知識水準をもった人物が記事を書くことで、はじめて「新聞」としての機能を果たすことが可能になる。そう思うようになった。というより、そういう高度の学識に裏打ちされた人物でなければ、社会に影響を与えてはならない。そうではない人物が「口先」で社会的影響力を発揮してしまうときの「悲劇」(というべきだろうか)は歴史が実証するところである。学識に基づいて語るのでなければ、山勘か欲望、そうでなければ愉快を求めて語っているに違いないわけである。これが「マス・メディア」というものを論じるときの基本的視点だろうと思うのだ、な。

現在の新聞社に雇用されている新聞記者(≒ジャーナリスト?)のマンパワー・レベルと新聞草創期の執筆者とは、その学識、実績、経験の広汎さにおいて、比較にならないのではないだろうか?

小生は、今年の3月一杯で購読していた新聞を止めてしまった。毎月の購読料4千円は記事内容に比べて引き合わない。この感覚は日本国内のほとんどの新聞にも当てはまる。紙面の半分が、明治の福沢諭吉や陸羯南、あるいは後の時代の徳富蘇峰や石橋湛山などと同レベルの記者によって執筆され、どの記事が誰によって書かれているかがキチンと署名され、記事を書いた人物の略歴、学位、実績、著書が公開されている、そんな新聞であれば、小生は毎月購読料が2万円であっても読みたいと思うだろう。ページ数は減ってもかまわない。

理由は実に単純で<欲しい情報>だからである。

そもそも株式欄などはYahoo!Japanが無料で利用できる現在、不要であり、紙の無駄である ― 新聞の株価欄で株価をみている人はいまどの位残っているのだろう?

★ ★ ★

人はいつでも知的な刺激をうけたいと願うものだ。現在の新聞メディアが発行する新聞にはワクワクするような知性も着想も情報も哲学もない。このくらいなら自分にも分かっている。あるといえば、細々としたディーテイルであるが、保存しておきたいと思う程ではない。無料のインターネットで十分だ。そんな「情報」ばかりである。だから4千円でも高い。

新聞の販売部数の減少トレンドが止まらないのは、インターネットに読者を奪われているからではない。

ネットをみれば十分な内容の記事しか新聞にはない

これが主要因である。予約をしてまで買うはずはないのである。だから読者が離れる。ネットでは読めないハイレベルの記事を載せればよい。ネットにはハイレベルの情報はない。ハイレベルの情報が無料で提供されるはずはないのだ。そんな記事が新聞にあれば読者は戻ってくる。理屈は誠に単純である。

民間TV局に至っては、プロ野球中継、ドラマ、バラエティのどれも昔のインパクトを失い、それもあって「貧すれば鈍す」であろうか、今ではインターネットを追いかけて「政治談議」で視聴者をつなぎとめている始末だ。が、これもあと何年も続けられるものじゃあない。「専門家」も「コメンテーター」も底が割れてきている。楽屋裏が見えてきている。

マスメディア産業も電波行政や再販価格制の規制と保護を外し、グローバル資本の参入を認め、競争の波に洗われるべき時代が近づいているような気がする。

堀江さんは<報道規制>を主張しているらしいが、言い出せる人は永田町にも霞ヶ関にもいない。ここは<消費者本位>、<規制緩和>の名の下に、メディア産業を世界に開放するほうが効果的であろう。最後に残るのは、老舗、名匠のような「高級紙」だろう。「言葉の壁」が「日本の知性」を日本人のために残してくれるはずだ。

それが日本の民主主義を守る近道だろう。



2020年12月10日木曜日

一行メモ: 「ベッドは多い、医療スタッフは少ないがまあこんなもの」という見方の落とし穴

 先日の投稿でも、日本は他の先進国に比べて病床数は世界に冠たるものがあるが、医療スタッフの人数が少ないという点に触れた。

2017年時点の数字だが、病床数は人口千人当たり13.1であり、これは米国、英国のそれぞれ2.8、2.5はおろか、ドイツの8.0をも遥かに上回ってダントツの1位である。これに反して、人口千人当たりの医師数は2.4人であり、ドイツの4.3人に比べると半分強といったところだ。英国は2.8人で日本と同レベルだが、病床数がずっと少ないので、医師1人がケアするべき病床数は日本よりずっと少ない。負荷率が低いわけだ。

問題の核心は

日本では1人の医療スタッフがケアするべきベッド数が他の先進国に比べてはるかに多い。つまり、個々のスタッフの高度な技量ゆえの「少数精鋭主義」。これが日本の医療業界の大きな特徴だ。加えて、国民皆保険制度の下で一律のきめ細かなサービスを尽くすことが義務にもなっている。

先日の投稿でも述べたが、「少数精鋭主義」は長期の消耗戦には耐えられない。これ正に組織戦略論の基本である。医師に求めるレベルを緩和し量を確保するべきだ。ワクチン開発が遅れていれば、日本は国家的危機に陥ったに違いない。

一言でいえば《油断》である。堺屋太一の名作『油断』があったが、日本はまた油断をしたのである。なぜだか分からないが、日本人の弱点は「油断」をすることが多いという国民性にある。多分、「海」と「言葉の壁」に守られてクローズドな社会であったからだろう。

2020年12月9日水曜日

一言メモ: 攻守双方が大事なのは対コロナの戦いでも同じ

 確かにGOTO何トカと新型コロナの感染急拡大との因果関係については、「そりゃ、関係あるだろう」という山勘はあるものの、統計的なエビデンスが極めて弱く、不審な点も多く、本当に関係していたのかどうか、分からないのが現状である。

たとえばGOTOトラベルを利用して来道した旅行客から、具体的にどのような経路をたどって道内各地に、たとえば旭川市にまでウイルスが拡散していったのかが分からない。少なくとも、今回の旭川市の巨大クラスターはどう考えてもGOTOトラベルが原因ではなく、医療施設内のマネジメントが原因だろう、と。そう考えるのが自然だと思うのだ、な。であれば、GOTOを止めるにしても、気がついていない感染防止スキルの問題があるのであれば、クラスターの発生を止めることはできない。またいずれ近いうちにどこかで何かの接触で同じ規模の感染爆発現象は起こりうる。そんな理屈になる。

『10月以降、GOTOキャンペーンによって新型コロナ感染者が急増した、特に東京、大阪、北海道で』という「ものの見方」は、マスコミは飛びつくだろうが、本当にこの仮説が真理であるなら、むしろ幸いだ。感染抑止の有力な手立てがあるということなのだから。

***

小生自身は、『経済対策を止めてください』とお願いするばかりではなく、感染防止のスキルアップをはかることが医療専門家が取り組むべき重要な研究課題であろうと思っている。

とにかく直接的に旅行に関係する人々により多くの感染者が発生している状況ではなく、大クラスターの多くは、病院、高齢者施設、学校といった集住組織(及び飲食店)で発生している。

感染は旅行ではなく「飲食でのおしゃべり、回し飲み」、「ライブ・合唱」、「大声イベント」といったハイリスク行動への参加が決め手になったはずである。しかし、これらの「行動記録」は(多分)さっぱり残っていないのだろう。ここにも未デジタル化社会である日本のウィークポイントがある。

民主主義国・日本のウィークポイントである。

だからこそ、その枠内で問題解決能力の底上げを目指して、まず「デジタル化」を進めようとしている菅内閣の着眼点は実に本筋をついている。そう思うのだ、な。

***

とはいえ、プロ野球でも試合に勝たなければ来シーズンへの継続はない。夏の甲子園なら一度負ければそれで終わりだ。立派な戦略も、いまの勝負に負ければ夢のまた夢なのである。

その勝負は、攻守のバランスが大事だ。

まず守って、失点を少なくして、そして攻める。

小生の郷里である愛媛県では、高校野球なら何と言っても「松山商業」が人気だ。松商野球の神髄はとにかく守るのである。守って、守って、僅かのチャンスをものにして僅差で勝つという野球である。

あそこまで徹底するとなると、好きゝだが、政治も経営も、道理は同じだろう。守りを固めてから攻めるのが専門分野を問わず勝負の理ではないだろうか?


残念ながら、日本の医療は前にも投稿したが「少数精鋭主義」で多くの犠牲には耐えられないのだ。状況の急変に即応して柔軟かつ縦横に医療資源をシフトする機動性にも欠けている。制度上のバックアップもない。

そんな現状の中で、犠牲を省みず強引に攻めるという戦術では自滅するだろう。

ワクチンへの期待があるかもしれない。しかし、ワクチンという「援軍」が到着して、効果が出てくるまでには(おそらく)半年以上の時間がある。

その間に自滅しては元も子もない。

守備を鍛え直してから、再度、未来へ向けた攻勢をとるのが適切ではないか?守備の乱れから逆転負けを喫した高校野球の監督なら必ずそう発想するはずだ。同様に、現政権も「立て直し」に目を向け始めるものと予想する。その際、「守備を鍛え直す」とでも言えることに着手しなければ、同じ失敗をこれから以降も何度となく繰り返すだろう。

2020年12月8日火曜日

ホンノ一言: パンデミックが未来の方向を変えるとすれば

 医療崩壊目前の北海道・旭川市に自衛隊看護師が派遣された。自衛隊のイメージはまた良くなることだろう。

ずいぶん以前の投稿でこんなことを書いている:

それにしても、最近はやけに自衛隊優遇が目立つ。僻んでいるわけではないが、そのうち防衛大学付属高等学校、その下には「防大付属小、中学校」まで創立されるのではないか。そしていつの間にか全国の県庁所在地には「防大付属」が設置されるなどということになるのではないか。おそらく防大付属高は全額国費、無料であり、逆に給与が支給され、付属小、中学校も一般公立校より安くなるのではないか。最後に、教育機関である防大・大学院とは別に「国家安全保障研究センター」なるものが共同研究機関として設立されれば、その時は戦後日本の在り方は決定的に変わることになる。そんな風にも想像される今日この頃である、な。

 既に、防衛大学付属とは言えないものの、3年制の陸上自衛隊高等工科学校が横須賀市にあって1学年300人の計1000人弱の若者が自衛隊員として勉学・訓練に励んでいる。卒業後は最前線の現場で個々の自衛官を指揮する下士官となる。

これを普通高校と同程度の定員にしたうえで1県1高設置を進め、東京、大阪、札幌、仙台等8都市(程度の中核都市)に幹部候補生養成機関として防大付属高を設置すれば、自衛隊の人的基盤は飛躍的に整うことだろう。

これに有期任用の自衛官募集人員の増員と予備・後備制を併せてバックアップすれば、単に国防政策というだけではなく、日本の人的資源のスキル向上、生産性向上にもつながり、労働需給を下支えすることにもなる。これ自体が成長政策、雇用政策にもなりうる。

現代の国際環境、日本国内の経済環境、AI・ロボットなど技術革新と労働需要の2極化・非正規化、それによる経済格差拡大、教育格差拡大、国公立大学の低くはない授業料と貧弱な奨学金制度等々、諸般の事情を考えれば、国防の基礎の拡充は日本にとって一石二鳥にも三鳥にもなる戦略であるのかもしれない。

もちろん予算措置が必要であるし、財源確保のための増税も要る。とはいえ、目的が明瞭な増税は理解を得やすい — まあ、率直なところこんな方向へ進むとしても、10年から20年はかかると思うが。

国民1人当たりの公務員数は日本は他の先進国と比べて少数である(資料はたとえばこれ)。足元では「エッセンシャル・ワーカー」という言葉が流行しているが、景気・不景気とは関係なく、安定して社会基盤を支える職業従事者が余裕のある人数で存在することは、今回のようなリスクに対応するうえで望ましいことだろう。

アフター・コロナという新しい時代で、よくも悪くも「民間」や「財界」がリードしてきた戦後日本という社会が進むべき方向は、国民の感覚として、大きく曲がっていく可能性がある。ま、今回のパンデミックがキッカケになるかもしれないということだ。

2020年12月6日日曜日

ホンノ一言: 「コロナ対策」にかける政府の真剣度は?

2,3日前の投稿

 そもそも「ビッグデータ」の時代に、政府の「何トカ分科会」。そのメンバーに経済学者は入っているが、データ操作、モデル構築技術に長けたデータ・サイエンティストが入っていない(と思う)。

こんなことを書いたが、春から夏にかけては若手データサイエンティスト集団であるALBERTが、厚労省内のクラスター対策班に作業協力していたそうだ。接触率分析で空間データを駆使したそうだ。これはビッグデータだ。今でも、継続的に感染対策に参加しているのだろうか。是非そうであってほしいと思う。

それはともかく・・・

有料PCR検査が次第に立ち上がりつつある。それだけ検査に対する人々の要望が強い。需要があるビジネスである、ということだ。

カミさんとも話をしているが、素朴な疑問:

新規入院者が感染源になって院内クラスターになる事例が北海道ではまだ起きている。看護師、介護福祉士など職員がひき起こすクラスターもある ― GOTO何トカよりこちらの方が怖い。

小生: 新規入院患者にはPCR検査を必ずやってもらうって、まだやっていないのかな?

カミさん: 義務じゃないからネ。

小生: 医療関係者と高齢者施設関係者は定期的なPCR検査を一斉にするってサ、前に首相か厚労大臣かが言ってなかったっけ?

カミさん: ウン、私も覚えているけどサ、でも△△クン(四国の大学病院に勤務している甥っ子)、まだPCR検査は1回も受けてないって。検査するように言われたこともないみたいだよ。

小生: そうなの? △△クン、呼吸器内科だろ?それでやってないの?

カミさん: ホント、どこもグダグダだね・・・

政府も自治体も何トカ分科会も、新型コロナ感染を本気で抑え込もうと、全力を尽くしているとは、どうしても思えないのだ、な。

医療の最前線が崩壊の瀬戸際にあるという点は、TVの映像のとおりだろうが、医療界全体として本当に危機に陥っているのかといえば、それも疑問だ。欧米と比較すると日本の感染者数はゼロが一つも二つも少ない。重症患者も日本はヨーロッパの概ね10分の1ですんでいるのだ。

これでは《医療崩壊》も高視聴率をねらったTV局編集のニュースネタであるに過ぎない。そんな受け取り方も否定できないわけだ。

堀江さんが《報道規制》を口にするのにもどこか共感できる所以である。と同時に、司令部が疲弊するよりも先に現場が壊滅していくという日本の傾向。ずっと前に投稿したとおりだ。

そもそも政府や自治体がやっているはずの事をまだやっていない。これはまだ《本気でない》ことの表れだろう。

2020年12月5日土曜日

ホンノ感想: 辛坊治郎「ウェークアップ!ぷらす」に吃驚したこと

 土曜の朝は辛坊治郎氏の『ウェークアップ!ぷらす』を観るのが習慣だ。辛坊氏、思い込みが強すぎることが余りにも多いが、その感性は波長が合うのでずっと見続けている。

本日も例によって「新型コロナとGOTO」であった。国交大臣がリモートで出演していたが、国交大臣に向かって「いまコロナ感染者が急増していますが、それについてどう思いますか?」と。これを聞くなら感染状況と感染対策を所管している厚労大臣の方だろうと思ったりしたが、まあ、無関係の閣僚でもないので、これもありだろう。

思わずのけぞったのは、最後に高齢のコメンテーターが『それにしても、国会って役に立っているんでしょうか?』とつぶやいたことだ。

いやはや、これほど露骨な《野党批判》をTV画面で堂々とやるとはネエ……。

***

人によっては、「国会全体を批判したんでしょ?」と言うかもしれないが、それは現実とは合っていない。大前提として、現在の政府は差し当たって役に立っていると認めざるを得ないからだ。

携帯料金の引き下げに目途をつけたことが一つ。それから、何かと批判の多い「GOTOトラベル」だが、これは危機にある観光関連業界(ホテル・旅館、航空、鉄道、観光バス等々)を救済するための緊急経済対策である。その目的は概ね達成されつつあったのだから政策は成功している。デジタル庁も然り。無駄な押印手続きの廃止も然りだ。アメリカの反応を心配すれば当分は無理だろうと思われていた「RCEP(Regional Comprehensive Economic Partnership):東アジア地域包括的経済連携」も(何と!)首相就任早々の時点で署名に踏み切った。安倍前首相には出来なかったことだ。首相就任以来僅か2か月で得た戦果としては上々であるという判断に反対する人は、実績によらず自民党政権に絶対的に反対する極左勢力のみであろう。

ただ一つ、新型コロナの感染対策には失敗した。経済政策を推進する大前提である《感染抑え込み》が出来ていないからだ ― それでも欧米に比べればゼロの数が一つ、二つ少ないのだが、現実に医療が危機的状況に陥っている以上、感染抑え込みには失敗したと言わざるを得ない。

ほかに、些末な問題として「学術会議6名任命拒否」もある。が、これは本質的には共産党支持勢力と政権がどう対峙するかという問題であって、学問の自由などとは無縁の話しだ。

総じてみれば、小生は

現在の政府は十分役に立つことをしてくれている

そう観る立場にいる。

政府が役に立つことをしてくれていると前提できるなら、政府を支える与党もまた役に立つ存在である。であれば、『国会は役に立っていないですよね』とつぶやくのであれば、

野党は役に立たない存在ですよね

という意味になるのは当然の理屈だ。それをTVで堂々と言うのだから恐れ入る。

そういう主旨ではないと言うなら、「政府のしていることは役に立っていない」と判断しているというロジックであり、現状に基づけば「私は共産党にシンパシーを感じている」という主旨になる。

自己責任で自由に放送局を開設して報道できるなら、自社の政治的立場を主張しても何の問題もないが、日本では放送免許の許認可権を政府が有している。つまり規制産業であって、保護されており、保護している国民には色々な人がいる以上、公共性をもたなければならない。一党に偏してはいけない。これが基本原則である。それをネエ・・・と吃驚したわけだ。

***

もっと吃驚した、という以上に唖然、愕然、慄然の「三つのゼン」を今朝もまた覚えたのは、同じく出演していた医師のコメントだ。

GOTOトラベルがマイナスに働いたエビデンスはないわけですけど、プラスに働いたエビデンスもないわけですネ・・・

これには驚きのあまり、手に持っていた珈琲カップを落としそうになった。なぜ辛坊氏は

先生、ただですネ、GOTOトラベルは感染対策ではなくて、観光ビジネス救済を目的にやったものなんです。感染防止にプラスになるとは最初から思っていなかったと思いますが・・・

なぜ、MCとして一言注意しなかったのかネエと。この辺に同氏の限界があるのだろうか。まったくネエ、「GOTOでヒトが動けば、感染にはマイナスに決まっとるだろう!」、「そのマイナスの証拠がないって言っとるんだ!」と、そうTVに向かって声を上げたものだから、カミさんも驚いて小生の顔をマジマジと見ることになった。

この間に実行した感染対策は

マスク着用、手洗い、3密回避

これだけである。

いやいや、厚労省の伝統的作戦(?)と言っても良いのだろうか、《クラスター追跡作戦》もあった。「発症者」、もとい現在では「陽性者」であるが、を確認して、その「濃厚接触者」を追跡して検査する作戦だ。いわば「後手の先」を行く作戦思想だ。襲来するウイルスを受けて立つ戦略だ。確かに立派な作戦思想であるが、新型コロナは無症状者の感染力が非常に高い。一人の陽性者が確認されれば、その背後に100人(くらい?中国では)の無症状感染者がいる可能性がある。ここは「後手の先」というか「専守防衛」ではなくて、「敵基地攻撃能力」をもたないと負けるのじゃないか?「先手必勝」が勝利への道ではないか?先手必勝で感染者を発見・隔離・保護する作戦思想に変更して、それに必要な検査能力、人的資源を動員する方向へと向かうべきではないか?そうでなければ勝てないのではないか?経済対策も実行困難になりジリ貧ではないか?小生は、別に感染症の専門家ではないが、「勝負の力学」は分野を問わずウイルスが相手でも共通しているところがあるような気がしている。

何トカ分科会の尾見会長が「いみじくも」語っているように、実際に感染者が急増している状況の中、「もはや個人の努力を超えている」わけである。つまり、政府は個人々々にも努力をしてもらいながら作戦を実行してきたが失敗したということである。何かが足りなかったので失敗したという理屈になる。そして、足りなかった点は個人々々の側にはない。そういう意味である。実に立派な人物である。かつ論理が透徹している。小生もその通りだと思う。

この

感染抑え込みのために政府がしてきたことは失敗に終わった

という点をマスメディアは掘り下げなければならないわけである。いやしくも「情報番組」と名乗る放送をするならば、「何故?何故?」という問いかけを畳みかけていかなければならない。政府や医療関係者は最前線で戦っている。同じように、TV局側も努力をしなければなるまい。個人々々は既に十分に努力をしているのだから。


ま、たとえ「情報番組」としては極めて劣悪であるとしても、面白ければそれで視聴率は上がるのであって、番組制作目的は概ね達成しているのである。たとえ誤ったメッセージを番組が伝えるという副作用があるにしても、視聴者が多いということはスポンサーの要望には応えられている。来週以降もやっぱり「ウェークアップ!ぷらす」を視ようと思っている。役に立っているという点では「GOTOトラベル」と同じなのだ。

2020年12月4日金曜日

ホンノ一言: GOTOとコロナ感染に関する2,3の疑問

今年は年の初めから終わりまで「コロナ」がキーワード だった。年末にはこの1年のコロナ関連投稿をまとめてリストにしておくと便利そうだ。


GOTOトラベルと新型コロナの拡大に何かの関連はあったのだろう。それは同感だ。とはいえ単なる<山勘>でもあって、正否は定かではない。


「GOTOトラベル」は観光関連産業(旅館・ホテル、航空、鉄道、観光バス等々)を救済するための緊急経済対策である。とすれば、実は、分からない点も幾つかあるのだ、な。例えば・・・

  1. 北海道では確かに感染者が急増した。最初は寒冷な季節が到来したせいだと思っていたが、今ではGOTOトラベルが原因だと語る人が多い。であれば、旅館・ホテルの従業員がもっと多く感染していてもいいのではないか。ところが、複数発生しているクラスターは病院や高齢者施設、そして学校が多い。観光ビジネスとどう関連しているのか分からない。
  2. 9月から10月にかけてススキノ界隈の不衛生振りが何度かとりあげられた。これらは宿泊業ではなく観光ビジネスとは直接に関係していない ― 観光客が集中してウイルス感染があったと人は言うだろう。だとすれば旅館・ホテル側でウイルス感染がもっと表面化している方が納得できる。
  3. GOTOトラベルを利用して全国には多数の旅行者が訪れた。中でも秋という季節もあって「京都」には大勢が集まったはずだ。しかし、京都の感染者数は(少なくはないが)訪問観光客数に比例する程ではない。なぜだか分からない。
  4. 人気の高い旅行先である全国の温泉と温泉宿がある。そこにも多くの観光客が訪れた。しかし、温泉宿で大クラスターが発生した例はあまり聞かない。少なくとも全国の観光拠点で感染クラスターが多発している状況ではないようだ。大勢の観光客がウイルスを持ち込んで感染が拡大したのであれば、全国の「観光拠点」でもっとクラスターが発生していておかしくはない。
「旅館・ホテルの従業員」、「京都」、「全国の観光拠点」で予想できるほどの感染者が出ていないと思うのだが、ただそれをデータを集めて今から検証するのは、ちょっとしんどいネエ・・・、誰かやっているだろうか?というか、厚労省が分析するべきだろうという気もする。というより、そもそも「ビッグデータ」の時代に、政府の「何トカ分科会」。そのメンバーに経済学者は入っているが、データ操作、モデル構築技術に長けたデータ・サイエンティストが入っていない(と思う)。これでは感染対策の最前線において実効性のあるファクト・ファインディングができないだろう。結果を出そうとする際に、純粋理論や理念・信念は役には立たない。プロ・スポーツでもデータ・サイエンティストをチームに同行させる時代なのだ。

話しがそれた・・・

さらにつけ加えると、小生が調べた事ではないが、若手データサイエンティストであるO氏が「航空旅客数の増加と新型コロナ感染者数の変化に関する因果性検定」を行っている。羽田発で新千歳、福岡、那覇着に限ったデータに基づくもので限定的な分析ではあるが、旅客数と感染者数には因果関係が検出されていない。

また、先日のTVワイドショーでは福岡県の知事であったか、県庁関係者であったか、福岡県を訪れる観光客数の動きと感染者数の増加のデータを対比してみると、とても関連性があるようには思われないということをグラフを使って説明していた。

***

GOTOトラベルは、それ自体が主因というより、「気の緩み」を招いたという点で感染拡大をもたらしたということなのだろう。そんな気がしているのだ、な。

だとすると、ハイリスクの行動とは何か?ハイリスクの行動を避けることの効果をどう評価するか?感染確率が極めて高い「リスキーな行動」といえば「飲食でのおしゃべり、回し飲み」、「カラオケ」、「ライブなど大声イベント」が既に挙げられている。国内感染者も既に十分な数に達しているわけであるし、この辺を分析すれば行動パターン別の「リスク・クラス」、「リスク・ランキング」のような表にまとめられるのではないか?差し当たっては、ハイリスク行動の監視と抑え込みをシステマティックに実行する。これが緊急の課題ということになるのではないだろうか。

いずれにしても、非論理的な憶測とか印象を「情報」 ― 憶測や印象は情報ではない ― と称して、そのままTV画面や紙面からたれ流してみても、受け取る側は不安になるばかりで、問題自体は解決されず、社会全体の結果は最悪になるのではないだろうか?




2020年12月2日水曜日

一言メモ: まさに「二股の分かれ道」にさしかかった「経済か自粛か」という問題と今後の予想

 ネットにはこんな事も書かれている:

西村康稔氏がコロナの感染拡大が続けば就活に影響すると若者に呼びかけた件

堀江貴文氏は1日にTwitterで「マスコミを何とかする方が先決」と指摘した

コロナ騒ぎを拡大させているとして、報道規制などを先にすべきだと訴えた

小生も昨今のマスコミ(特に民放TV)については、同じような感覚をもっているので、上のような「強権的報道規制論」を目にしても、それほどの違和感はもう感じなくなった。それほど、このところTVから流れてくる「情報番組」には酷いものがある。

とはいえ、報道規制が日本で可能ならば、その前に「適切な感染対策」がとっくの昔に実行されているはずである。報道規制よりは感染対策のほうがずっと実行しやすいという理屈だ。

まったく「ブレーキとアクセルを同時に踏むのは分からない」などと……。"Operation Twist"の政策概念もご存じない。「話にならないネエ」と感じつつ、珈琲を飲みながらワイドショーを視るのも、健康に悪いネエと思う今日この頃である。

こんな風だから今朝もカミさんと言い合いをした。TVも罪作りだ。

カミさん: GOTO、なんでストップしないのかなあ?人の命をなんと思ってるんだろう。これ以上、感染者が増えたらどうするんだろうね。経済、経済ってサ、そればかり言って、なんにもヤル気がないんだから!(と怒っている)

小生:  経済か人の命かっていうけど、経済っていうのは日本人1億人の暮らしの事なんだよ。分かってる?

カミさん: それはそうかもしれないけど、人の命がもっと大事でしょ。

小生: 「そうかもしれないけど」じゃなくて「そうなんだ」。政府はホンネなんて言わないと思うけど、『日本人1億人の暮らしの安定と、何千人のコロナ患者が助からないかもしれないという心配と、どちらが重いと思っているんだ』、多分、これを一番言いたいんじゃないのかネエ。「経済」っていうのは政府の究極的な目的なんだよ。

カミさん: じゃあ、どうするの?増えるよ、感染者。死ぬ人だって増えるよ。

小生: テレビでも言ってるだろ?『日本では私権を制限することはできませんよね、色々な事ができませんよね、そんな中で感染を抑えるには強いメッセージを出して、自粛を徹底するしか、効果的な方策はないんですよって』。でもね、国民全員に我慢をさせるのは残酷なんだよ。何千人を救うために、そこまで1億人がみんな堪えなければならないのかっていうのは、政治家なら誰でも考えるんだよ。医者はコロナ重症者ばかりを言うけど、生活が破綻して誰にも言わずに死を選ぶ人は医者にはかからないのさ。医者は自分の患者はすくいたいけど、自殺する人の心配はしないからな。

まったく、TVの下らない井戸端会議で夫婦仲まで悪くなるというものだ。

つまりは日本では新型コロナによる死者が1桁も2桁も少ないのである。これが今の現実の本質である。死者が10万人を超えるようなら政府は動くであろう。しかし、もしそんな状況になる場合、日本政府は「自粛の徹底」という政策は選ばないと小生は思う。

日本政府の第1目標は《経済》である。この点はまったくブレていないと小生は観ている。みているし、小生の立場は「これが正しいと考える」という立場だ。まさにクリントン大統領が現職のGeorge H. W. Bushを打倒しようと1992年の大統領選挙に立候補した時、発した有名な1句:

It's the economy, stupid!

経済なんだ、この愚か者が!

この問題意識が政治家がもつべき感性である、小生もそう思う。

★ ★ ★

個人的な予想だが、大阪で《歴然とした医療崩壊》が発生すれば、まずは強権的感染抑え込み対策の必要性を知事から要請させ、政府はそれにGOサインを出す。私権制限を含む徹底した感染防止対策の法制化へ舵を切る。それによって国民の不安を鎮静化させるとともに、「休業命令」に伴う所得補償、「家賃等支払い猶予令」など諸般の法制化、より強力な経済対策に着手するであろう。

特定店舗に対する休業命令、区域、自治体を対象としたロックダウン命令、公権に基づく社会的PCR検査による陽性者あぶり出しと隔離・保護、GPS装着を義務付けた追跡も視野に入ってくるだろう。

全国知事会、全国市長会、全国町村会など自治体側が続々と政府方針を支持する声明を出せば動きは加速する。財界、連合が支持すれば勝負は決まる。野党は対案を作れるはずもなく反対はできないと考えるだろう。

結局、日本もまた中国型の問題解決に近い方策をとる。小生はそう観ているところだ。なぜなら、感染防止と経済活動とを両立させ、国民の不安を鎮静化させながら国民の生活を守るには、これが最も確実な政策であるからだ。確実であるのは、中国の現状をみても既に明らかである。

日本は、西ヨーロッパの英仏ほどには個人主義の伝統がなく、自由と人権の意識が強くはない。逆に言えば、自由の裏側にある自立と責任の感覚も弱い。行政権限を強化することによる感染抑え込みと強力な経済政策とのポリシーミックスを日本人は「歓迎」とまではいかないだろうが、「容認」するのではないかと小生は観ているのだ。「私権の制限」というそのこと自体に強く反発するというその意識が支えになって、長期間の自粛生活を耐え抜くほどには、日本人の人権意識、自由願望は強くはないと観ている。日本社会の強い同調圧力と自粛警察の活動などを観察していると、その社会的圧力を制度化することは、大部分の日本人は直ちに受け入れるのではないかと、そう予測する。

政府が待っているのは、《きっかけと潮どき》であろう。北海道で感染爆発が発生すれば道知事が菅首相に「徹底的感染抑え込みへの道」を要請していただろうし、大阪がそうなれば維新の会の府知事がその必要性を伝えるだろう。

結局のところ、日本人は一部の感染者、一部の地域住民の自由を制限する代わりに、大多数の国民の自由を得たいと望み、その方向で選択をする、それが民主主義だと日本人は考える。小生はそう思う。もし(有難いことに)そうならないとすれば、現実の感染状況がそこまでは偶然の要因で悪化しない、あるいは悪化する前にワクチンが普及する、そんな事情が出てくる場合だろう。

大きな船はゆっくりと曲がる。これからの3か月は新型コロナ・パンデミックの前と後の時代を区切る、いわば日本社会の歴史を区切る「分岐点」になるかもしれない。マスコミが愛する単語を使えば「その可能性がある」、そう書いておこう。

2020年12月1日火曜日

素朴な疑問: いまは「平時」ではない、これ間違ってますか?

 ワクチン接種が視野に入ってきたせいか、テレビ局の話題も「ワクチンは接種するほうがよいか、待つ方がよいか?」という正にワイドショー好みの話しに移ってきた。来年の春が過ぎるころには、日本にもファイザーやモデルナ、アストラゼネカのワクチンが届いて、優先順に接種が始まるだろう。ところが、その頃にはその頃で

A: 重篤な副反応は出てはいないようです。

B: 出てないことは、これからも出ないことの証明ではないですよね、「1千万人に3人出る」わけではないかもしれないけれど、「1億人に3人出る」かもしれませんから。生死にかかわる問題かもしれません。ワクチン接種をしなければ生きられたのに、接種したことが原因になって命を落とせば大惨事です。

A: おっしゃることは分かります。でも、それじゃあ日本では当分ワクチンは打てないってことになりませんか?

こんなやりとりがどこかの番組でかわされるような気がする。

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世間の議論は本筋を外してばかりいるので理解困難なことが多い。

この点は最近何回か投稿した。まとめておいて今後の便としたい。

11月25日投稿

11月23日投稿

11月21日投稿

11月19日投稿


「GOTOトラベル」は、文字通り「GOTOトラブル」になってしまったようで、いまでは来年の黄金週間まで全面ストップするのがよいという話も出て来ているから驚きだ。

この発想が小生の思考回路にはそもそも入って来ないのだ、な。「おかしいなあ」と感じてしまう。

そもそも「GOTOキャンペーン」は平時なら実行しないであろう「緊急経済対策」だ。ターゲットとなる業種を限定して資金を集中投下するという政策は、1990代のバブル崩壊期に経営が不安定化した金融部門に公的資金を集中投下して以来の事であろう。その時も問題発生から資金投下の意思決定までの遅れが問題を深刻化させ、そのため国民の負担を増やしてしまった。今回、公的資金注入のような反発が広がらなかったのは、観光関連企業に直接的に資金を注入するのではなく、旅行をする費用を補助するという手法をとったからであって、国民も広くその公的資金の恩恵に与れたからにほかならない。簡単にいえば、国民にとっても有難かったのである。

経済対策は必要性があって実施されるものである。そして、GOTOキャンペーンには確かに効果があった。それは経済データから明らかだ。もし実行しなければ今年度上半期を越せない企業がもっと増えていたに違いない。

感染者増加はGOTOキャンペーンの《副作用》である。その副作用は確認されるより前に予想されていたことである。故に、政府としては経済対策の副作用を抑える感染対策を並行実施するべきであった。こんな理屈になる。

「平時」には実行されないタイプの経済対策を「緊急」に実行するなら、感染拡大という副作用を抑えるために「平時」には実施しない感染対策を「緊急」に実行するべきであったろう。これが基本的な理屈だ。

そのような強力な感染防止対策が「緊急」に実施されていただろうか? 寡聞にして聞いたことがない。TVからも新聞からも、一切、報道はされていなかった。

政府は360度、あらゆる問題に目を向けながら、政策を進めなければならない。

GOTOキャンペーンは「経済対策」として結果を出した。政策は成功したのである。

その副作用を抑えきれずに再び経済活動自粛へと向かう流れになったのは政府の失敗である。

どこで失敗したのか?

失敗をしたのは経済対策ではない。その副作用を抑えられなかった感染対策である。

経済対策は副作用を怖れずに断行されたが、感染対策はより厳しい措置をとることの副作用を怖れ、一歩踏み込んだ感染対策を実行できずにいるのだ。

これでは両輪がそろわず結果は出ない。

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効果的な感染対策を公衆衛生当局が立案できない状態が続くとする。

そんな状況が続く限り、経済対策を立案しても実行は困難になるだろう。マクロでみれば「経済活動」の拡大はヒトとヒトとの接触を増やすものであるから、効果的な感染対策で手当てしなければ感染者は必ず増えるだろうからだ。

経済活動は人々の暮らしそのものであるから、たとえ感染者がゼロになるとしても、経済が底を割って崩壊すれば日本の社会そのものが崩壊するのである。

経済よりも人の命が大事です!?

テレビ画面からこんな見栄をきるコメンテーターが登場するたびに小生はその呑気な無責任ぶりに失笑する、とともに、暗然、愕然、慄然の「三つのゼン」を感じてしまうのだ、な。

『30日以内にゼロベースに戻ってより強力かつ効率的な感染抑え込み戦略を立案せよ。それができない場合には更迭する』と、まあこんなやりとりが政府の最上層部であったかどうかは全く知らない。が、あってもよい状況になってきた感じはする。