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2025年3月28日金曜日

断想: 東京が失った国宝級文化遺産は多い

最近は、メシの種としてきた統計分析より、このところの投稿にも反映しているが「形而上学的話題」に何だか関心が移って来たので、このブログも《統計》、《経済》でなく、《趣味》に偏ってきた感じがする — 「趣味」というより意識としては「余業」だが。

とはいえ、観察不能な抽象的な対象について何かを考えながら書いていくのは、結構疲れる作業である。考えなくとも、感覚的に鮮やかなものに触れたい。

理屈につかれるというか、そんな気分の時は、「エッセー」に限ると思う。司馬遼太郎の『街道をゆく』などは、抽象的な話題は全く含まれておらず、その点では最適だ。

これが通俗的に感じる時は、小生は永井荷風の文章を読むのが好きである。

目の前の情景を文章で表現したり、その時々に変化する心持ちを、心のままに淡々と表現していくには、日本語は実に「使える言語」だと思う。鴨長明の『方丈記』を英訳すると、単なる災害レポートのようになるような気がするし、清少納言の『枕草子』を英語(と限ったわけではないが印欧系言語)に翻訳すると、面白さが半減するような気がする  —  ウェイリーの"The Pillow Book of Sei Shonagon"は残念ながらまだ読んだことはないが。


今日は、岩波文庫『荷風随筆集(上)』所収の「霊廟」のページをパラパラとめくってみた。この霊廟というのは、東京芝の増上寺にある徳川家霊廟の事である。今は、戦災と戦後の困窮で境内もずいぶん狭小になって、「霊廟」も「徳川将軍家墓所」という情けない名称になってしまったが、荷風が生きた時代は、倒幕後の明治・大正であっても、それでもまだ「霊廟」という名前で通用していたのである。


翌日、自分は昨夜降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番はずれなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣りする二代将軍の霊廟を参拝したのである。この事はすでに『冷笑』と題する小説中紅雨こううという人物を借りて自分はつぶさにこれを記述したことがある。

自分はおごそかなる唐獅子の壁画に添うて、幾個いくことなく並べられた古い経机を見ると共に、金襴きんらん袈裟けさをかがやかす僧侶の列をありありと目に浮かべる。拝殿の畳の上に据え置かれた太鼓と鐘と鼓とからは宗教的音楽の重々しく響き出るのを聞き得るようにも思う。また振り返って階段の下なる敷石を隔てて網目のように透彫すきぼりしてある朱塗りの玉垣と整列した柱の形を望めば、ここに居並んだ諸国の大名の威儀ある服装と、秀麗なる貴族的容貌とを想像する。そして自分は比較する気もなく、不体裁なる洋服を着た貴族院議員が日比谷の議場に集合する光景に思い至らねばならぬ。


上に引用した文中、「日比谷の議場」というのは「国会議事堂」のことである。永井荷風がこの作品を執筆したのは明治44年で、一方現在、永田町にある国会議事堂の竣工式が行われたのは昭和11年(1936年)11月7日で時の広田弘毅内閣の時である。議事堂建設予定地は既に明治20年に伊藤博文内閣の閣議で現在地に決定されていたのだが、戦争や関東大震災など色々な事情で工事が遅れ、この間はいま経済産業省が建っている敷地に仮議事堂が建てられ、そこで毎年の帝国議会は開かれていた。だから、いわゆる「大正政変」でデモに繰り出した群衆が国会を取り囲み、時の桂太郎内閣が総辞職するに至ったのは、日比谷(というより今の霞ヶ関1丁目になるが)にあった(小ぶりの)仮議事堂で起きた事件である。荷風が上の「霊廟」を執筆したのは、大正デモクラシーが現前するよりももっと前の時代にあたる。

ただ、近代日本を嫌悪した永井荷風であったが、旧・増上寺を見ることが出来たのは、いまの増上寺の惨状と比べればまだしも幸いであった。荷風は、 


すでに半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山とうえいざん大伽藍だいがらんを灰燼となしてしまった。それ以来、新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代わり、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして、一刻一刻、時間の進むごとにわれらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。


と結んでいる。軍部も右翼も左翼も大嫌いな文化人・永井荷風ですら、こんな感情をもっていた。これは戦後・日本でなく戦前・日本に生きた日本人が全体として共有していた感情であったのだろう  ―  そうでなければ負けると分かっているアメリカと戦争する勇気など出なかったに違いない。

上の「東叡山とうえいざん大伽藍だいがらんを灰燼に」というのは、上野・寛永寺のことであり、明治維新後に長州人・大村益次郎が作戦指揮して、寛永寺に立てこもる彰義隊を砲撃をもって討滅した「上野戦争」をさしている。寛永寺にあった徳川家霊廟もまた豪壮華麗な建築芸術であった(はずだ)―もとより写真などが残っているとは思えぬが。


昭和の事を語るなら昭和の風景を体感として共有しなければ何を語ってもそれは現代人の空想だ。明治44年の世間を語りたいなら、永田町に国会議事堂はなく、芝には増上寺が(ほぼ)元の形のままで建ち、首都高速道路も高層ビルなどもない風景を眼前に思い浮かべながら喋る必要がある。

実は、永井荷風がみた増上寺も江戸・旧幕の増上寺と同じではなかった(はずだ)。明治政府が強行した神道国教化が廃仏毀釈運動を招き、増上寺の大殿も放火の被害に遭った。それでも、嵐が過ぎ去った明治44年当時のままで残っていれば、文字通りの国宝群であったろう。更に、寛永寺が明治政府軍の砲撃を免れ、幕末の混乱のさなかに火災で相次いで焼亡した江戸城・本丸御殿、二の丸御殿もまた現存していれば、どうであったろう。東京が伝える日本文化の価値はいまとは比較を絶して不朽のものであったに違いない。
産業はその気になれば興せる。実際、戦後日本の高度成長はその好例である。豊かさも再現可能である。しかし、一度失った文化遺産は二度と造りなおせない。コピーはコピーでしかない。取り戻すことはできない。と同時に、自らのアイデンティティもまた文化遺産と共に消えるのだ。

勝海舟による「江戸城無血開城」は、結局のところ、

やった甲斐がなかった

こんな結果で終わったのが、近代から現代に至る日本の歴史になった。

戦後日本に生きている日本人は、多くの遺産が失われた日本に生きている。

荷風が言いたいのは、多分、こんな事だろう。 


この週末、芝と上野の桜を見に行く予定だ。


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