2025年3月9日日曜日

前稿の補足: なぜ「浄土」を目指すのが善いか?「好いことがあるから」ではない

昨秋に小生が属する浄土系宗派の相伝を受けた後、平日には朝の勤行で読経をし、日曜はカミさんと拝礼をしてから写経をすることが新たな習慣になった。

勤行は、遠く遡れば『昼夜六時』、つまり晨朝(早朝)、日中、日没、初夜、中夜、 後夜の六回、行うべき行なのだが、現代に生きる凡夫なる小生は朝一発で勘弁してもらっている。

それでも、読経後は気分が晴々として、なかなか、良いものである。朝の散歩もイイが、発声しながら一念集中していると、無念無想にも近くなり、心身の健康維持にもよいのじゃないかと、今はヨカッタと思っている次第。


前稿の補足:

毎日の読経では、「往生安楽国」とか、「応当発願 生彼国土」とか、色々と出てくるが、(浄土系宗派では)「安楽国」も「彼国」(=彼岸にある国)も浄土に数多存在する国の内の阿弥陀仏国を指す言葉で、その国名が「極楽」なのである。

このような超越的世界概念の実在性について前稿では数学との類推から覚え書きを保存したのだが、存在論としては理解可能というものの、なぜそこに往くのが善いのかという点で、こんな風に書いた:

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

こんな風なまとめ方をした。

その後、上の点を考えたが、解答は一つだ:

阿弥陀仏国に往こうと願う意志は、この世に生きている内に行い得るあらゆる「善行」を超える、最高の善意志であるに決まっているからだ。 

こう考える以外に答えはない。

存在論として理解可能で、倫理として「そこへ往くべきだ」となるなら、あとは「そこへ往こう」と志すだけになる。残る問題は、日本仏教で発展した《称名念仏》という法然以来の他力宗派が強調する「念仏」が、なぜ有効なのか。残る問題はこれだけになる。

当然ながら、これについては色々な研究の積み重ねがあるようだ。


それはともかく、上の答えは(自分や社会にとって)良い結果がもたらされるかどうかで、その行為が善いかどうかを決めるのではない。善を目指す意志そのものに善の源をみる立場だ。これは英米流の功利主義よりカント以降のドイツ観念論に近い。日本の西田幾多郎が『善の研究』で展開した善の観念もそうである。西田の功利主義批判は既に投稿した中で触れている。

この関連で言うと、仏教の「阿弥陀仏国」はプラトンの「善のイデア」とほぼ同じものを指しているとも思われる ― かなりアバウトではありますが。そういえば、プラトンの『国家』の最終章には『エルの物語』があるが、あれは仏教でいう輪廻転生のギリシア版ともいえる生命観、世界観である。

プラトンは、人の幸福は善であることであり、善とは善のイデアにどれほど近いかであると、こう考えていたが、善のイデアに憧れる意志と阿弥陀仏国に往きたいと願う意志とは、小生にはほとんど無差別にみえる。

ギリシア思想は、紀元前三世紀からゼロ年頃まで続いたヘレニズム時代に、東方へ拡散し、特にパキスタン、北インド、アフガニスタン辺りのガンダーラ地方ではギリシア文明の影響が顕著にみられる。この地域は、仏教が発祥・発展し大乗仏典が編纂された地域とも重なっている。仏典編纂とヘレニズム文化は時代的にも重なっている。当時の北インド地方では、サンスクリット語、ギリシア語、中国語その他が混在して使われていて、文字通りに国際化された社会があったに違いない。インドで生まれた仏教思想とギリシア思想との関係は、掘り下げて勉強すると面白いテーマだと思う。

毎日の日常勤行式の中の『四弘誓』には

法門無尽誓願知

という一句があるが、正に真理を知ろうとする動機によって、最高の善に近付くという、共通の発想が色々な文脈の下で重なっている。そんな気がする。

以上、前稿の補足まで。

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