2022年9月28日水曜日

ホンノ一言: 価値観を共有するのは確かに極めて困難だ

昨日、安倍晋三元首相の「国葬儀」が岸田文雄内閣によって武道館で催された。概ね4千人が内外から参列し、2万人を超える人たちから献花があったと伝えられている。一方で、主催者声明では1万人から2万人程度の国葬反対デモが都内で行われたよし。

こんな風に日本社会が「分断」されている中で

国葬への賛否で社会が二極化されていることをみれば、一つの価値観を国民が共有するのは困難である時代になった。そういうことではないか・・・

まあ、こんな趣旨のコメントをする専門家(?)が多いようだ。

まったく同感。賛成である。

いま、「ロシア=ウクライナ戦争」で旧・西側諸国は、《自由・資本主義・法の支配》だったか、もっと増やして《自由・民主主義・基本的人権・法の支配・市場経済》であったか、要するに「普遍的価値」という価値観を共有すると常に語っている。

国葬をめぐって賛否が二極分化する足元の日本社会をありのままに認めるとすれば、「普遍的価値」かどうかはともかく、特定の価値観を国民全てで共有するのは、もはや困難である。こう結論づけるのがロジカルだ。

人の価値観はバラバラであるという現実を認めた上で、結果としてバランスのとれた平和な社会状況を実現するのが(世界の)政治家の役割である。少なくとも17世紀序盤の宗教戦争を克服してウェストファリア体制を構築したヨーロッパはこのことを心底から理解しているはずではないか。

バランスとは《譲歩のバランス》であり、《妥協のバランス》になるのは、やむを得ない。

価値観で平和は実現できない。まあ、こういう帰結になるのではないか。小生はこう観ている。

2022年9月26日月曜日

ホンノ一言: 「勉強」と「常識」と・・・改めて必要性が感じられるのだが

安倍元首相という強い政治的影響力のある政治家が銃撃によって暗殺されるという事件が今の日本社会に与えた衝撃は大きい。その背景に「旧統一教会」というずっと以前から警戒感や異和感を持たれていた宗教教団がいることが犯人の供述から判明したものだから、この2か月余りの期間、日本社会ではずっと「宗教と政治」、「宗教と社会」を主題にした議論が繰り広げられてきた。いずれも戦後日本社会にとっては憲法とも関連する基本的な問題である。

更に、暗殺された安倍元首相を閣議決定によって国葬に付することが決まってからは、その適法性、是非などをめぐって、これまた社会的激論の最中にある。

世論調査によれば国葬に反対する回答者の割合が過半数を優に超えている。憶測だが、この「反対」は「賛成できない」という意味での反対ではないだろうか。賛成はできないのだが、かと言って現時点で国葬中止を決めて、内外に通知するという措置は<恥の上塗り>と言うもので、中止には反対である・・・と。このような

国葬の決定には反対だが、今に至っては挙行せざるを得ない

という意見の人は、案外、多いのではないかと予想している。

このように、「国葬」をきっかけにして、「主権」や「国権」、「国と社会」、「国会と内閣」等々、中学校や高校で学ぶ公民の授業に遡るような問題が、今どんどんと提起されているのが現状だ。多くの日本人は公民や、昔は「政治・経済」という授業であったはずだが、勉強した事柄はほとんど忘れているはずだ。だから、今回のような問題に対して、賛否を聞かれても

激論になっている以上、それを無理押しするのは適切ではない

と・・・、マア、悪く言えば日本的な<事なかれ主義>を願う日本人は多いのだと思う。

しかし、これまでにも時代の変わり目は何度もあったように

時代の変化は世間の常識には忖度してくれない

変化する時代に本筋の解を見出しうるかどうかは、変化の本質を洞察する智慧にかかるわけだが、その洞察力の土台には知識があり、それには学問が要る。つまり、勉強をどれだけしてきたか。この点が決定的であって、そんな人材が社会の草の根レベルにどれだけの数でいるか。結局はその社会の教育レベルに帰着されてしまう話しだと思っている。

明治維新という明らかな「革命」がアジアの片隅で成功した背景として、当時の日本社会に普及していた学問と教育を挙げる人は既に多数派である。島崎藤村『夜明け前』には、幕末という時代の庶民に広く浸透していた勉強好きな気質が、明の部分、暗の部分、双方を含めてよく描かれている。

面白い記事が毎日新聞にある。メールで通知されてきた。有料読者でないので一部だけだが、こんな文章で始まっている:

現在の日本の代表民主制は、一般国民より上位の存在としての権力者を持つものではなく、あくまで行政権を担う代理人、いわば国民のための「管理人」として首相を選んでいる。仮に首相にどんな功績があっても、一般国民を超越した上位の存在を悼むかのような形式で国葬を実施するのは、代表民主制という政治体制についての誤解を国民に広める危険がある。それが今回の論争の一番の問題点だ。安倍晋三元首相の葬儀は、国葬とは別のやり方で実施すべきだろう。

 吉田茂元首相の国葬の時も、法的な措置ができなかったり、相当な反対があったりした。国民主権を前提にした国葬を実施するのは現行憲法では難しいためだ。

 諸外国の対応はさまざまだ。米国の大統領は、政治権力も持つが、国民統合の象徴のような性格もあり、そういう人を国葬にするのは考え方としてありうる。フランスではシャンソン歌手や芸術家など、国の文化の発展に貢献した人を国葬にするケースもある。日本の場合、かつての天皇主権のもとでの国葬との連続性を意識せざるを得ないのがポイントだ。

Source:毎日新聞「政治プレミア」 、2022年9月22日

Author:杉田敦・法政大学教授

大多数の日本人の政治感覚、社会感覚はこんなところではないかと予想する。実際、本ブログでも以前にこんな感想を投稿している:

簡単にいえば、

これが岸田首相の政治のやり方である

異論を出すなら反主流派、賛同するなら主流派。そういうことだと思う。マ、言葉の意味だけから考えれば、「国葬」の意志決定ができるのは国家元首以外にはないはずだ、とも思われるのだが、そこはコロナ対応でも明らかになったように、法的筋論には緩い日本ならではの<融通がきく>という長所でもあるわけで。全ての性質についてアリストテレスが<中庸の徳>として強調したように、ルーズでイイ加減であるという短所の裏面にはフレキシブルであるという長所がある。

国葬決定は法的筋論の観点からは非常に「イイ加減」であった。しかし、思うにコロナ対応でも、学校不祥事への対応においても、「運用」においてはイイ加減であると同時に、「適用」においては非常に杓子定規だ。だから、形式的には合法だが、空気に流されて実質的には失敗する事態が多く発生する。その意味では、岸田首相が「まあ行けるだろう」と、イイ加減な判断でしくじったのは、案外、日本人が犯しがちな失敗の一例ではないかとも思ったりする。

やはり岸田首相は今回の「国葬決定」でしくじったのだと思う。進めようによっては日本国民は納得していたと思っている。そんな融通の利くところが日本社会の長所だと(小生はずっと昔から)思っている。ところが岸田首相は失敗した。それ以上でも以下でもない。例えば、入試で失敗する、書類の記入を間違える、というのと似ている。(多分)緻密さが欠けているためじゃあないかという印象だ。

一番上に引用した毎日新聞の記事であるが、「国葬」を論じる評論であるにもかかわらず、「国家元首」という言葉が(読んだ範囲に限ってではあるが)登場していない。

確かに記事にあるように、戦前の日本は天皇に統治大権がある建付けであって、天皇は勅令を発することが可能だった — 緊急時においては法に代わる緊急勅令もありえた。しかし、だからと言って、戦前期の日本が民主主義ではなかったと断言する法学者はいないはずである ― もしいればその人は特定のドグマに支配されているのだろう。戦前の憲法下、天皇は内閣の大臣の意見を尊重しなければならなかった。内閣を抑えて天皇の意志を通すことは憲法上できなかった — だからこそ対米戦争も起きてしまった。予算には議会の承認が必要だった。普通選挙も戦前期に導入された。天皇は首相を自分の裁量で任命できたが、議会の勢力分布を無視して、首相が行政を進めることは不可能だった。日中戦争、太平洋戦争という失敗は、戦前の日本が非民主主義国であったからではない。山縣有朋が早くも西南戦争後の明治11年に起きた「竹橋事件」で将来を懸念したように陸軍の制御に失敗したからだ。陸軍の暴走は民主主義であっても起こりうる失敗である。民主主義だから大丈夫であるという論拠はない。

ま、それはともかく。

非民主主義的な戦前期・日本では国葬が法的に可能だったが、戦後は民主主義に移行し、それに伴って勅令「国葬令」も廃止されたので、国葬を法的に根拠づけるのは法理として不可能である、というのは非論理的である。民主主義国であっても「国葬」が可能であるのは世界をみても自明である。

にもかかわらず、「国葬」をめぐって、現在のような混迷に陥っているのは、「国権」や「国家元首」について、日本人も日本政府も、自覚が形成されていないからだろう。「国の意志」とは何かが分からなくなっているのだ。まったく、・・・これでは自衛戦争一つ出来ない理屈だ。大体、自分が勤務している会社の意志が何かが分からない会社員がいたとすれば、会社員としてはどこかが抜けているとバカにされても仕方がない。会社の意志が不明確なら契約一つできないわけだ。

国家元首は、英語で言えば

Monarch(=君主)であるか、President(=大統領)であるかのいずれかだ

日本は議院内閣制で共和制ではない。故に、首相は国家元首ではない。首相は天皇によって任命され、天皇を任命する人はいない。である以上、日本の国家元首は天皇であるというのは、事実から明らかだ。

国会は国権の最高機関であると明記されているのは、国会の意志は(内閣の助言によるにせよ)天皇の意志を超えるという意味で、これは『君臨すれども統治せず』という英国の体制と同じ主旨である。具体的に言えば、その時代その時代で自衛権を国権として認めるにせよ、認めないにせよ、天皇が軍を統帥するにせよ、しないにせよ、天皇の権限より議会の意志が優越するという規定であって、ここに戦前期の失敗に対する痛切な反省が込められている。そう読むのが自然でありんしょう、とずっと昔から考えているが、なぜか賛成する友人は少ない・・・。不思議だ。

つまり国事行為を行う以上、天皇も国権の一つを担うわけで、天皇国家機関説と同じ流れにある。小生は、(法律は専門外ながら)これが常識だと理解している。

天皇が行う国事行為は憲法第7条に列挙されていて、その十号に

儀式を行うこと

がある。内閣府が所管している云々は事務的な管轄であるに過ぎないと思われる。

その儀式に「国葬」を含めるという拡大解釈は、自民党政権なら18番の大得意だろう。なぜそれを思いつかなかったのか、小生には分からない。多分、岸田さんは安倍さんとは発想が違うのだろう。

もちろん国会が最高機関である以上、国会が反対する国葬は実行不可能である。が、議会多数派が内閣を構成している以上、国会が内閣の意向に反対するはずはないわけだ。ただ、反対される可能性はないのではあるが、理屈としてはある。ロジックだけの綾ではあるが、微妙なところだ。だからこそ、国会の判断はどうか岸田内閣は協議するべきであった、というのが小生の観方だ。ここを省略した。首相はモノグサであったヨネ、この一言になるのではないか。

2022年9月25日日曜日

一言コメント: 「彼らはマインドコントロールされています」と発言する専門家は?

旧統一教会の信者とされる人たちがTV画面に登場することが増えてきた。

教会を退会した元信者が協会に対して否定的な意見を述べているのに対して、現信者は教会に対して肯定的である。

元信者と現信者と。この対比は実に自然、かつロジカルであって、このような違いは当然予想されることだ。

その現信者の肯定的意見に対して、コメンテーターの役回りを演じる専門家(?)は

彼らはマインドコントロールされていますから

と、そんな批評を述べるのが、一般視聴者向けのTVメディアの常である。

最初は、フムフムと聞いていたが、段々と気になって来た。

そう話している専門家が何かのドグマにマインドコントロールされてはいないという根拠は何なのか?

「されてはいない」という論理的な説明を一度彼らから聞いてみたいと思う。

あなたはマインドコントロールされていないのですか?どうそれを証明しますか?

そう聞いてみたいと思う。

他人の影響を受けず、自分一人で、自分の理想や信念、思想を形成した人が、この世に一人でもいるのだろうか?

2022年9月23日金曜日

ホンノ一言: 「旧統一教会騒動」の正しい見方?

安倍元首相狙撃事件の主犯の供述から俄かに「旧統一教会バッシング」が始まった。メディア主導の教会バッシングが始まってから大体2か月が経った。

ここに来てマスコミの議論は段々と冷静になってきたようだ。

TVのワイドショー辺りでも、最近の語り振りは「違法行為はあくまでも違法だ」、「宗教法人格の下での優遇税制を認め続けるのか」、「韓国に所在する本部の見解は」、「反日的教義は認められぬ」、概ねこれらの点に議論が集約されてきた感がある。

3番目の韓国所在と4番目の教義内容は、それ自体を問題視して日本が非難してみても、国際常識からみれば、多分容認されないところだろう。フランスやスペインにいるカトリック信者の総本山はヴァチカンでイタリアのローマにある。フランス政府がカトリック総本山のローマ教皇庁を(何かの理由で)批判すれば国際的大事件だ。フランス人信者は教皇庁を批判する自国の大統領の方を批判するかもしれない。宗教と政治は永遠のライバルなのである。時に手を組み、時に敵対して争う。歴史を少しでも勉強すれば参考例はあまた見つかる。

1番目の違法性、2番目の優遇税制は日本国内の判断に任されている事である。ワイドショーでもこの2点に話題が絞られつつあるのはとても良いことだ。

最初から本質的な点がどこにあるかは分かっていただろうにネエ・・・と、今更ながら特にTVメディアの気付きの鈍さには落胆しているのだが。

~*~*~

ただ思うのだが、もしも安倍元首相狙撃事件がなく、いまも健在にその存在ぶりを発揮していれば、この2月間のような旧統一教会バッシングは起きていなかったはずである。

~*~*~

旧統一教会の違法性がクローズアップされ、消費者契約上の処分、財務経理上のカネの流れの調査までが行われ、長期的には(多分)宗教法人格が取り消されるだろうという見通しさえ出てきたというそんな現状は、ひとえに安倍元首相が突然の理由により不在になってしまった正にこの事実から始まっていることだ。

そんな展開の中で、現在の自民党総裁である岸田首相は自党と旧統一教会との縁を絶つと明言した。驚くべき英断(??)だ。

(多分)しつこいマスコミのことだ。旧統一教会の次は、〇〇教団、△△会などその他宗教団体と自民党との縁と絆を調べ始めるであろう。宗教団体と自民党との「シガラミ」が明らかになる度に、それら宗教団体と縁をもたない多数の日本人は自民党という政党に対して、胡散臭いという感情を強めていくに違いない。そして自民党は政治的パワーを弱めていくに違いない。

~*~*~

どうも一連の展開を北海道の小さな港町から観ていると、(直接的には)宗教団体を叩くことを通して、(間接的効果としては)自民党という政治家集団の力が弱まり、法務・警察にいる司法官僚の力が増しつつある。それが日本の法治主義なのではないか?そんな印象がほのかに伝わって来るのだ、な。

政治家を信頼する「政治主導」の旗は様々な経験を経てボロボロになり、いま大きな曲がり角を曲がりつつあるのかもしれない。

そう感じたりしている。

<陰謀史観>を小生は信じるものではないが、マスメディアは誰かの意図によって利用されているのではないかと感じることさえある。


ホント、日本のマスメディアの知的レベルは大丈夫なのか?一部の自称専門家は日本にもフランス流の「反セクト法」が必要だと言い始めている。歴史も国情も違う日本で「反セクト法」なんて、戦前期の「治安維持法」ソックリですぜ。もし成立させることに成功すれば、公安調査庁を手足にもっている法務当局辺りは涙を流して喜びますぜ。何だか心配なんですがネエ、どこまで分かってやってるんでござんしょう?そんな疑問もある。

マア、分かってやっているなら、それはそれで「どうぞ、どうぞ」と言いたいところではある。確かに、自民党と言う政治家集団は戦後日本経済を支えてきた伝統的組織、既得権益集団の利益を余りに尊重し寄り添い過ぎている。新たな支持基盤を発見し、基盤化しようという努力をしていない。だから古い基盤にとって損になることは出来ずにいる。シガラミのない外国は活用できている経済発展の機会を日本は活用できないでいるのはそのためだ。寧ろそれが「国民」にとってイイのだという世論が形成されるように影響力を使っている。ここに日本の「失われた30年」の根本的原因がある。ここをブッ壊わさないと前には進めない。自民党を一度(いや、改めてか?)ブッ壊す必要がある・・・

こんな大きな問題を解決するために、マスメディアが一肌脱いでいる、というのなら実に悦ばしいことである。



2022年9月22日木曜日

断想: 生命と非生命、唯物論で決まったわけじゃないか……逆もある

若い時分には抽象的議論を好まなかったが、齢をとってから哲学の面白さが分かると言うのは、年齢進行に伴う知的活動の変化パターンを考えると、どうやら自然であるそうだ。

数学は若者の学問、医学は経験とデータ蓄積がものを言う中高年の学問とは聞いていたが、考えてみると数学は何日(何か月?)も一点に集中する持続力と腕力的計算力がものを言う側面もある。それでなくとも老眼になると計算は億劫になる。その数学においても、晩年に心を病むまで抽象的思考に没入したカント―ル辺りは、抽象的思考が年齢とともに深化する一例であるのかもしれない。

***

かなり前になるか、こんな投稿をしたことがある。

新実在論は、形而上学、構築主義と並列してマルクス・ガブリエルは述べているのだが、それによると、例えば


自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・


出所:マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)

最近流行の新実在論に関してだった。

というか、ずっと昔に投稿したとおり、小生は自分が唯物論者だと思ってきた。実際に投稿もしている。ところが最近になってこんな観方もあると気が付いた。

***

よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。


ただ、逆の考え方もありうることに最近になって気が付いた。確かに空海が唯物論者といえば可笑しいことこの上ない。

上で述べた事は要するにこういうことだ。精神活動も含め全ての生命現象はいずれ誕生するだろうと最初からモノの世界に可能性として潜在していた、という意味では精神と物質と言っても両方とも物理化学的現象の部分的現れである。モノの世界から単細胞生物が自然に発生し、それが多細胞生物に自然に進化し、更に多種の動植物が分岐し複雑化してきた。そして現時点においては、その最終段階として知的生物としての人類がある。そうなるべくしてそうなった性質が、最初から物質の属性として存在していたということだ。が、これを逆向きに考えると、そんな進化プロセスが実現する可能性が最初からあったことになる。つまり、人類という知的精神を備えた生物がこの世界に登場する可能性がそもそも最初の時点においてモノの世界にはモノの特性として潜在していたという理屈になる。

こう考えると、人間がもっている知性の働き、たとえば<論理>という推論の道具、<美>や<善>といった価値概念も、様々の抽象概念も、それが人間知性によって抱かれる前から可能性として存在していたという理屈になるのではないか。

となると、長い進化の歴史も、モノの属性が順々に現れてきたと理解するよりは、最初から存在していた抽象的概念が可能性から現実へと具象化される過程そのものであった、と。そう理解してもよいというロジックになる。そもそも不可能な事は不可能であり、可能なものはいつかは現実の事になる。こうなると、正にヘーゲルである。

というか、《神》という概念ですら、その概念に対応する何かが最初から《モノ自体》の中に潜在しており、いま地球上に現れた人類がそんな概念をもつに至っているのは、知るべくして知った、と。決して根拠のないことではない、とすら言えそうだ。

後ろ向きに究極的原因にまで遡ろうと考えてモノが有する物性物理的特性としてこの世界を見るのも一つの観方だ。そうではなく無限の未来に目を向けて最初から存在していた抽象的イデア(≒概念)が、モノの世界に反映され、この世に具象化されてきたのが、世界誕生以来の歴史全体。これもまた一つの世界観になる。前者は因果論的世界観であるし、後者は目的論的世界観になるか。

どちらが正しいかは識別のしようがない。そもそもが反証不可能な形而上学である。


マ、確かに若い時分はこんな言葉遊びをするよりは、手計算を丸一日も続ける方が何か面白い結果が得られそうな気がしたものだ。しかし、大事な結論は、自分個人にとっての大事か、世界にとっての大事か、程度の差があるにせよ、手を動かす腕力仕事よりは、抽象的な思考から出てくるものなのかもしれない。現代の数学から<集合>や<空間>といった抽象概念を取り去れば、何も残らないと言っても、言い過ぎではないだろう。


2022年9月15日木曜日

一言メモ: 「ロシア=ウクライナ戦争」、意外な展開になってきたのかも

第一次世界大戦は戦争当時国が事前に予想した戦争シナリオは何一つ当たらなかった戦争として有名である。そもそも戦争が起こるかどうかさえ疑問とされていた位であったと伝えられている。第二次世界大戦は偶発的な要素は少なかった。当時のドイツ得意の"Blitzkrieg"は想定を超えるスピードであったかもしれないが、強硬な戦意に対する懸念は十分共有されていたようだ。(日本には)突然と思われた独ソ戦もヒトラー政権の野望がそもそも反共にあったことを考えるといつかは始まっていた。日中戦争が日米戦争、対連合軍との戦争に拡大したことも、当時の中国国民党の基本戦略が成功したとも言えるわけだ。それでもフィリピンに駐留していた米軍が早々に撤退するという事態は予想されていなかったと聞く。

今回のロシア=ウクライナ戦争は、事前に戦争勃発の危険が指摘されていた点を思い出すと、第一次世界大戦のような「何から何まで予想外」といった状況とは違うようだ。ただ、本年2月24日以来、色々な人が様々のコメントを表明したが、やはり7ヶ月程も経ってからウ軍が「ハリコフ奪還」に成功するなどという展開は、誰も予想していなかったかもしれない。

小生、2月24日当日にはカミさんとこんな話をしていた:

カミさん: 戦争になるの?

小生: アメリカは「プーチンは戦争を選んだ」って煽っているけど、昔のような戦争にはならないヨ。ウクライナがそもそも内部分裂して割れているみたいだし。それにプーチンさん、軍人出身じゃないんだよね、スパイ出身だよ。正面から戦車を送り込んで首都キエフを占領するなんて発想はしないんじゃないかなあ・・・

カミさん: そうなの?

小生: それよかウクライナ政府中枢部に内通者をつくってサ、いまのゼレンスキー大統領をどうかするんじゃないかと予想しているけど・・・

カミさん: どうかするって、怖いなあ・・・

なんで戦車を一列縦隊(渋滞?)で進撃させるなんてアホなことをしたのだろう?

これは今でもわからない疑問だ。 

この頃にはこんなことも書いていた。やはり戦争にかけては素人だ。

いまウ国内で義勇軍(?)への志願者が非常に増えていると報道されている。人口が4千万人を超えるウクライナで反露感情が高まっているとすれば、ロシアによる今後のウクライナ運営、いやモトイ、ウクライナ経営がうまく行くのかどうか・・・。

自国に対する「怨念」をつくり出すのはマズイのでは。ロシア側にとっても結構なリスクがある。

「戦争」としては「3日間戦争」、「7日戦争」に分類されるのだろうが、今後、長期間にわたってウクライナ傀儡政権、更にはロシア政府に対する爆弾テロ、自爆テロが頻発していく情勢になれば、かつてイギリス政府の悩みの種であったIRA(=アイルランド共和国軍)を思い起こさせるものになるだろう。

ゼ政権打倒の後のウクライナ経営には苦労すると予想はしていても、まさか戦闘でロシアが苦戦するとは全く想像だにしていなかったことが分かる。

この後、こんな風に続けている:

 武田信玄ではないが

人は城 人は石垣 人は堀

    情けは味方 仇は敵なり

《自他共栄》をはかるのが統治の根本であり、外交でも同じだろうと思うが、どうだろう。ロシアという国家と良好な関係を維持することで自国が繁栄すると。そう思わせていないところが、ロシア外交の問題点である。

・・・ 「勝ちすぎ」は失策だ。「一人勝ち」は最大の悪手である。

まさか、「勝ちすぎ」は失策だ、と注意するべき対象がウクライナになるかもしれない、という状況は誰が想像できていただろう。 

少し以前に

(一方的な)停戦宣言をした上で、

(クリミア半島ほか占領地域を含めロシアが主張する)「ロシア領土」を攻撃する軍部隊に対しては侵略とみなして核による反撃もある。侵略を命令する中枢部への核攻撃も検討対象に含まれる。

こんなことを書いたが、もし実際にこんな声明が(出せる政治的体力をプ大統領がまだ持っているとして)出された場合、 ウクライナや旧・西側はどう対応するのだろうネエ。

いまはこれが気にかかる点だ。プ大統領は20年の実績を見る限り多分「2流政治家」なのだろう。対してアメリカのバ大統領は就任以来の発言、行動を観察する限り、明らかに「3流政治家」に見える。2流と3流の棋士が将棋を指せばどんな展開になるかは予想がつく。世界にとって楽観可能な情勢とは断じて言えないわけだ。鍵は中国の習近平だが、内部の権力闘争はともかく、政治能力は1流なのか、2流なのか、それ未満なのか、分からない。国際情勢の不確定要因はここにもある。

2022年9月12日月曜日

前回投稿の補足: 「女性宮家」って、どうするの?

結構気になっている論点に「皇位継承」があって、ずっと感じているのは、そもそもこういう問題を平民ばかりになってしまった敗戦後の日本社会で、真っ当に議論をして、一つの結論を得るというのは可能なのか、と。とはいえ、本ブログでもこの話題については何度か投稿していて、実際、<皇位>とか<宮家>で検索してみると、案外な数がかかってくる。関係ないといえば関係ないのだが、かと言って、日本人でこの種の話題に全く無関心という人もやはり少ないのではないかと思っているのだ。

それで前回投稿でもこんな下りを書いている:

元JOC会長で元宮家の竹田氏まで捜査が及べば元宮家の皇族復帰も難しくなり、皇位継承問題はニッチもサッチもいかず、となると女系継承を認めるしかなくなり、今度は夫となる人選に関連して不祥事が続出、という展開になるのは必至のはず。

女性宮家を開いた内親王に生まれた子は女系の子になるわけだ。今は女系子孫には皇位継承権がない。

ただ、野次馬的疑問に感じるのは、

女性宮家の配偶者になる民間人の男性は新たに皇族になるのだろうか?

というものだ。 

~*~*~*~

内親王が民間人男性と結婚すれば二人とも民間人となる。であれば、例え内親王が独身のときに宮家を作っても民間人男性と結婚をすれば二人とも民間人となって皇籍を離れる。そう考えるのが、従来の方式である。

しかし、女性宮家という考え方はこうではないのだろう。結婚をしても内親王は皇籍を失わないのだろう。ならば、男性は民間人のままか、新たに皇族となるのか?

やはり男性も皇族になるのだろうナア・・・実際、エリザベス2世の夫君フィリップ殿下は「殿下」という称号からも分かるように「王族」である―但し、「王(=King)」ではなく、「公(=Duke)」が授与された。男性が皇族にならなければ、民間人のままの男性と皇族である内親王に生まれる子は、民間人なのか、皇族なのか、という問いが生まれる。

「女性宮家」が発案されている位だから、子は皇族なのだろう。とすれば、男性も皇族になるのだろうと予想される。仮に男性が民間人のままであれば「姓」は元のままである。とすれば、子も父の姓を名乗ることが法理的には可能になるのではないか、と思われる。姓を名乗れば皇族にはならないだろう。状況は複雑化する。やはり内親王と結婚する民間人男性は皇族になるのだろう。

今でも皇族男性が民間人女性と結婚すれば二人とも皇族になる。皇族女性が民間人男性と結婚する場合でも二人とも皇族とするのが道理の通る議論だと思う。

~*~*~

では、不吉な話だが、目出度く子が生まれた後に、内親王が先に亡くなったと仮定する。その場合、残された夫は皇族の身分を維持するのだろうか?

やはり皇族のままなのだろう。子は皇族である(とする)。父だけが皇族の身分を失うというのは考えにくい。民間人に戻れば正月の一般参賀に立つことも出来なくなる。子が立って、父が立てなくなる、というのは人倫に反するような気がする。

~*~*~

では(と更に仮定をおくが)、その民間出身の皇族男性が民間人女性と再婚するとする。その場合、この民間人女性はどうなるのだろう?皇族になるのだろうか?

もし皇族になるのだとすると、皇室とは血縁がないにもかかわらず、夫婦とも皇族であるというケースになる。流石に、これは許されないだろう。最も道理に合いそうな規則は、再婚した時点で男性は元の民間人に戻るという方式だ。しかし、民間人に復帰するのであれば、元の姓に復し、もはや皇族ではない以上、宮家住居には住めない理屈だ。出ていかなければならない。しかし、いかなる法理によって一人の人間から居住権を奪うことができるのだろう?

~*~*~

・・・今までしては来なかったことを新たに始めるとすれば、これを円滑に実行できるような新たな法律を整えておかなければならない、ということだ。

前例や慣習もないところで、100パーセント、あらゆる可能性を予測して、個別に条文に書き込むわけだ。この作業は法律専門家にとっても中々の難問だろう。

これはこれで大変そうだ。

本日は下らない疑問をメモしておくだけの投稿ということで。

2022年9月10日土曜日

一言メモ: 最近の世相に思う狂歌二首

最近の世相を映しているかな、と感じる狂歌を二首。


信教の自由は認めるべきだと口では言いつつ、旧統一教会信者達を社会から排除するべしという世間の言い分はこうか?

信仰を 責むるにあらず 信仰の

   中身が しと 責むるなりけり

『宗教や信仰がダメだと言ってるんじゃないんだ。 お前の信仰の中身が悪いと言ってるんだ。分かるな?』と若い息子に説教する父親のようなものか。


国葬の件に関して:

国葬を 決めし後にぞ 是非を問う

    決めずば決めぬの 是非問いてけむ

国葬が決まってから段々と「なぜ国葬なのか」とその是非を問う論調が高まってきた。それは旧統一教会問題の拡大によるものだとメディアは説明する。内閣・自民党合同葬にしておけば、何も騒ぎなどは起きなかったろうとも言われる。しかし、「国葬を」という強い要望が多分あったのだろう。しないならしないで、是非を問う騒ぎは起きていただろう。

~*~*~

2022-09-11加筆部分:

どちらも<劇場的報道演出?>には好適な材料であるので世間は盛り上がっている。但し、どちらに転んでも<日中対立>などとはレベルが違う。<国益>がかかっている大問題とは違う。 むしろ話しやすい軽目のテーマだろう。だから大騒動の割に国家崩壊の危機感は薄い。ここがエネルギー危機の最中にあるドイツの状況とは違う。マア、言うなら、サッカーW杯か、野球のWBCに近い感じでテンパッテイル。正直、そんな風な印象を受けてますがネエ。その裏側で、真に重要な課題を担当セクションが真面目に弛みなく検討してくれているなら、それはそれでイイ。こんな見方をしておけば大丈夫でござんすか。

インフレ、景気、為替レートなど経済状況も今後は悪化の方向。五輪汚職もフランス検察とIOC(?)に対して後手に回った分、追い込まれてしまっている。元JOC会長で元宮家の竹田氏まで捜査が及べば元宮家の皇族復帰も難しくなり、皇位継承問題はニッチもサッチもいかず、となると女系継承を認めるしかなくなり、今度は夫となる人選に関連して不祥事が続出、という展開になるのは必至のはず。そういえば、感染症対策。これも政府の低レベルが露呈された分野であった。情報漏洩を怖がるせいかデジタル化も遅れている・・・そもそも、ロシア=ウクライナ戦争が長期化する見込みの中で、日本のエネルギー政策はどんな方向をとるのか。ドイツも既存原発の停止は先延ばししましたぜ。大転換の兆候でしょう。今度もまたドイツにトコトン着いて行くおつもりで?もうドイツだけですぜ。

イヤハヤ、どの設問も結構難問で実力がなければ解けないだろう。危ういネエ・・・

やはり長期政権の後は短命内閣が続くという日本政治の業がいままた出て来ているのかもしれない。非常に大事な時期にネエ・・・何だか普通選挙が始まった大正14年から昭和7年5月15日に犬養首相が暗殺され政党政治が終焉した7年間を連想する。この重要な時期、日本は突然の金融恐慌で銀行取付け騒動が全国で発生、その2年後にはアメリカ初の世界大恐慌、そんな中で日本は金解禁というデフレ政策に打って出る、経済危機が深刻化する中で最後には陸軍が暴走して昭和6年9月18日に満州事変が勃発、外交危機にも陥った。マア、次から次に新規難題が続出したのが、普通選挙開始後の7年間だ。「政党政治はもう駄目だ」という社会不安の高まりが、武断主義・軍国主義・挙国一致(=国民総動員)を育てることにもなった。与野党対立を否定した軍国主義下の普通選挙をその当時の日本人は「あるべき姿」として評価していたのである。

実に危ないネエ・・・

2022年9月9日金曜日

ホンノ一言: 原理原則とトップの仕事

祖父から聞いた話だが、戦前期には判決文も毛筆で書いていたそうであるし、ある時期までは文体も候文であったという。そう言えば、昭和初期の大阪上本町の旧家を舞台にした谷崎潤一郎『細雪』が(ずっと前に)映画化されているが、手紙を出すにも巻紙を手に持って毛筆で書いていたものだ。江戸時代と同じスタイルだ。日本文化の伝統といえば<伝統>であったはずだが、そんな毛筆文化も候文も現世代には別の国の生活様式のように感じるはずだ。何年か前(と言ってももう昔と言うべき程の前だが)、中国出身の同僚を拙宅に招いたことがある。そのとき手土産にもらった品が一本の毛筆であった記憶がある。せっかくの毛筆であったのだが、非文明的な小生はそれを使うこともなく、どこかに失せてしまった状態であるのは実に慚愧の念に堪えないところだ。

イギリスの女王・エリザベス二世が亡くなったというニュースで持ち切りだ。英紙は、TelegraphもGuardianも一面ぶち抜きで女王の遺影をのせ、当然ながら日本でいえば天皇崩御と同じ扱いにしている。明治の人が英出身の友人に手紙を出すなら

故国女王陛下崩御の報に接し小生も又惆悵哀傷の心情を大兄に伝えたく存候・・・

こんな書き出しで墨色も鮮やかに多分出すのだろうナアと想像したりする — 英人に日本語候文は奇妙であるが、何分、想像の世界だ。読めずとも書道的美術として残るだろう。

これで何だか安倍元首相の「国葬」の影が薄れてしまうかもナアと考えたりもする。

昨日は(遅ればせながら)国会に岸田総理が出席して国葬の意義や根拠を説明していたが、発案や事務執行は政府が行うにしても、「国葬」と称するなら(最低限でも)衆参の議長や最高裁長官などが賛同するなどして、形は整えておくべきだったネエ、と。それが<用意周到>というものではないか。

用意周到の正反対は<軽率>である。実に大事な問題で答えを間違えてしまったネエ。首相は軽率だった。成績で言えば<不可>かもしれない。単位を落とした。そう感じる人はいま非常に多いのだと思う。

「国葬」という儀式を選択すること自体には小生は賛成である。が、保守派に近い麻生副総裁(更にもっと上からも?)から熱心な申し入れがあったと伝えられている。そんな風に時の流れに流されるような弱さが垣間見えるようでは、やはり総理大臣を務めるには不適格だ。北海道の小さな港町から観ていても「危ない」と思いますぜ。理念をもたず原理原則に無理解なトップというのはあらゆる組織にとって最も危険であるというのが経験則である。

もう決めた事をやるしかない。覆水、盆に返らず。もってあと1年位ではないかと予想する ― こと政治情勢については小生の予測は外れっぱなしだが。


2022年9月7日水曜日

ホンノ一言: 「問題発生」へ迫る最初の第1歩の方向が間違っているのか?

加筆:2022-09-08

経済問題に限らず感染問題でもそうだが、日本政府は、というより日本企業、いやもっと一般に日本社会全体と言うべきかもしれないが、発生した問題の解決に向けて行動を起こすスピードが海外に比べるとかなり遅いという事実は、もう多くの人が感じているのではないかと思う。そのため分野を問わず旧来のシステムが残存していて、それが必要な《構造改善》を益々困難なものにしている。マア、頭ではもう多くの人が分かっているのじゃあないかと思っている。

日本経済の成長復活には「構造改革」が必要だと、口先ではメディアも唱え、政治家も与野党を問わずアピールしているが、株価に例えると「長期横ばい基調」にあって、実はほとんど何も結果を出せていない。こんな状態に対して、日本国民の方から危機感の高まりが不安になって表出しているとも感じられるのが、足元の状況ではないか。

ただマア、こんなことは、もう無数の人がネットでも書いているので、限りなく月並みな内容である。

~*~*~

結局、《問題》が確認されるときの第1歩、というか最初の発想が日本はまずいのではないか、と。いや、いや、これも結局は月並みな指摘だなあと思う。

例えば、Wall Street Journalにこんな記事がある。アメリカの雇用はコロナ前の水準を回復しているが、労働生産性が低下している事実とその原因に関する記事である:

企業はこの1年間、欠員を埋めることに全力を注いできた。企業は賃金を上げたり、実務経験などの採用要件を下げたり、人手不足を解消するためにその場ですぐ採用する体制を整えたりしてきた。

 こうした努力の結果、米国経済はコロナ感染拡大初期に失われた2200万人の雇用を回復した。

 だが従業員の経験の浅さや、ベテラン従業員がこれまで以上に新入社員の教育に時間を割く必要が出ていることなどを背景に、ここ数四半期の労働生産性が低下していると、経営者やエコノミストは指摘する。

URL:https://jp.wsj.com/articles/service-is-slow-luggage-is-awol-companies-struggle-with-an-influx-of-new-hires-11662427252

Source: WSJ、2022 年 9 月 6 日 10:22 JST

要は、コロナ禍の最中、企業経営者は社員の首を切り過ぎた、解雇された社員は別の分野に転職した者も多いので、コロナ感染を解決した後、人数を揃えても技量が低下してしまった、と。こういう実に単純な因果関係であるわけだ。

GDP、つまり一国の付加価値合計は「雇用者数×労働生産性」に等しいので、人数がコロナ以前に戻っても、労働生産性が低下すればGDPは元には復帰しない。つまり国民所得も元には戻らないという結果になる。そのしわ寄せは、需要の停滞ともなるので、アメリカの経済成長はその分抑えられたものになる。こんな予測が簡単に出てくる。

~*~*~

ただ、WSJの記事の論調からすぐに分かるのは、問題をネガティブにとらえていないことだ。問題の確認を<非難>や<批判>には結びつけていない。まして、問題発生は誰の責任であるかなど、一言も触れていない。

問題をどう解決するかで、知恵を出す必要がある。

一言で言えば、これに尽きている。

そもそも、ある問題が社会レベルにまで拡大した、つまり局所的な問題が社会に共通する全体の問題に拡大した段階で、その<責任者>を探すことにはほぼ意味がないと思っている。問題が社会化する要因なり背景は社会全体の方にあり、社会は少数の政治家ではなく、国民全体が共同で作っているものである。だから、社会の在り方には特定の個人に責任はないとしか言えないからだ。

《責任》というのは《意志》と裏腹にある。故に、責任を論じるなら、特定の人間に与えられていた自由な意思決定の機会と結び付けて語る必要がある。社会的問題に特定個人の責任を問うても意味がない。法と制度を論じるしか解決のしようがないわけだ。

~*~*~

WSJの記事だが、最後は

コロナ下の最初の2年間は、学生や病院スタッフ、患者を守るために病院内で研修を行うことができなかったため、マネキンを使った指導が行われていたという。

 「彼らの専門性のレベルに合わせなければならない」とザンガーレ氏は言う。「現在の労働市場には大きな流動性があり、人々は職業を変え、新しいことに挑戦し、医療分野から去る人もいれば、逆に入ってくる人もいる」

 就職前に実際の業務訓練を経験していないことや、親身なサポートが少ないことが、新人看護師の離職率が高くなる一因になっているとザンガーレ氏は指摘。アレゲニーでは、新人看護師の1年以内の離職率は、コロナ前の19%から36%に上昇したという。

こんな風にまとめている。どうしても、アメリカ社会の健全な積極性、将来志向性、ずばり言えば《ポジティブ思考》をここには見てしまうのだ。 

少なくとも、コロナ禍で進められてきた《過剰な雇用調整》を厳しく指摘して、この間の企業経営者の《無能》を非難したり、とるべき《責任》を追及したり、そうした愚策がアメリカ社会に対していかに負の作用をもたらしてきたか等々、議論をフレームアップするなどの論調は全くゼロである。

本日、言いたいことはこれでオシマイ。あと、思いついたことを気ままに書き足そう。


~*~*~


言い方は悪いが、メディア産業は大災害や大事故、大問題が確認されるときに、売り上げが増加する。

極端なケースだが、もしもいま世界で懸念されているようなロシアによる核兵器使用が(万が一)現実のものとなれば、その万が一のケースは日本のマスコミにとっても空前の稼ぎ場となろう。多数の人の目や耳を需要しているスポンサー企業が報道に対してより高額の料金を支払うからである。これがメディア・ビジネスの基本論理だ。それでも、万が一のケースが発生した時、マスメディアが提供する「情報」を待つ人は多いはずだ。

問題は、出来るだけ多数の人にコンテンツを提供しようとするマスメディアはどんな中身をパッケージングして提供するだろうかという企業行動のロジックである。もし「非難」することが習慣化し、その種の行動に中毒化した社会であれば、非難するべき対象を情報として伝えることはメディア・ビジネスにとってのビジネス機会になるであろう。

~*~*~

やはり、電波に乗せて他者を非難するというコンテンツが、これほど多くの人に需要されている社会は不健全であると感じる。

経済発展は、基本的に将来志向で健全な社会でのみ実現できる成果である。小生はずっとこう理解している。そもそも

問題を起こしたこと自体で関係者をネガティブに非難することによってその問題が解決に至ることはない。

これは自信をもって言える。故に

「非難ビジネス」の社会的生産性はメディア企業の個別生産性に比べると非常に低い。

こう感じるのだ、な。ひょっとすると、社会的には負の作用を与えているのではないかとさえ思う時がある。

そもそも、同じ日本人と日本人が築いてきた会社なり組織を厳しく非難するというのは、平和を前提しての行為であり、戦時においても同じように非難し、排除していけばよいかと言えば、そんなことはなく、国にとっては決してプラスにならないというのは単純なロジックではないかと思う。


またまた過去を回顧するようだが、この当たり前の常識は大正世代、昭和一桁辺りの父の世代の人々はシッカリ理解していたような印象がある。

最近では死語となったが「亭主関白」であり、家族には横暴であり、よく言えば「向上心」、悪く言えば「欲深」で、身なりに構わず「弊衣破帽」、清潔感にも欠けるのだが、とにかく与えられた課題に結果を出すことには上手であったように思う。

世代平均をとれば生まれながらの頭脳水準にはそれほどの違いがあるはずはないにもかかわらず、問題解決に際して感じられた手際の違いは、結局のところ、父の世代は戦争と平和の二つ両方を自らの経験をもって理解していた。この他には、小生、理由を何一つ思いつかない。敵と相対して大胆かつ細心、味方をみるときも用意周到。やはり確かな《実力》というのは平和なご時世だけを経験して育まれるのではない。

知は静寂の中で、力は激流の中で

ゲーテのこの言葉は前にも引用したことがあるが、正にその通りだと思い返している。


どうも今日は、テレビを観ればキャスターが暗い顔で暗いニュースばかりを語っている、新聞は暗い記事ばかりを小さい文字で書き連ねて購読料をとろうとする、ネットはこれまた人の悪口ばかり、こんな世相にポジティブに明るくなれるはずはなく、月並みな事をまた書いてしまった。マンネリだなあ・・・まあ、これも数年もたてば、こんな時期もあったネエと思い出すヨスガになるというもので。


2022年9月6日火曜日

ホンノ一言: もう欧州のエネルギー危機は表面化している

ドイツが天然ガス調達に苦労しているかと思えば、フランスも原発施設に不可欠の冷却水が枯渇して電力不足に陥りそうだ、と。

それで独仏間でガス、電力を融通しあおうという方向が伝えられている。この冬をどう乗り切れるかは、ロシア=ウクライナ戦争に向けて旧・西側がどの程度まで支援・団結できるかを決するメイン・ファクターというわけだ。

マア、独仏は大いに協力すればヨウゴザンス。だけどネということだが、墺紙"Die Presse"にはこんな記事もある:

Der Kosovo kann seinen Energiebedarf nicht mehr decken und schaltet deshalb drei Mal pro Tag den Strom für zwei Stunden aus.

Source:Die Presse, 31.08.2022 um 07:16

どうもコソボでは既にエネルギー危機が顕在化していて、毎日3度2時間の電力ダウンがある、と。

コソボは旧ユーゴスラビアの1地域であったが、コソボ紛争の結果として独立を果たした。ロシアやセルビアはまだ承認していない。NATOにも加盟していないし、EUにも入っていない小国である ― 通貨"EURO"は使用しているようだ。

ドイツ、フランスですら危ない外交を進めているせいでこの冬を乗り切れるかどうかの瀬戸際だ。コソボ辺りの貧困な小国はどうなるか分からない。構ってられるか、と。どうもそういうことらしい。ホンにマア、今の国際的覇権闘争は歴史の彼方に消え去ったように一度は思われた《帝国主義》にソックリでござんすナア・・・口では<価値>を唱えているが腹の中は<損得>しかないのがホンネじゃあないんですかい?

志の低い3流政治家たちが互いに角を突き合わせれば、こうなっちまう、ということでござんしょう。アッ、このことは前の投稿でも書いたか・・・

2022年9月2日金曜日

断想: ドイツの危機 vs 日本の危機?

ずっと以前は、梅棹忠夫『知的生産の技術』に刺激されて「京大式カード」を愛用していたが、何年か前にカードからは足を洗い、今はEvernoteユーザーである。保存しているカード数はそろそろ1万枚になるが、何事によらず高速検索をしては有難みを実感している。

何日か前にも、こんなクリップを保存した。

ドイツの首都ベルリンで21日、政府機関が市民に一般公開され、首相官邸の庭で記念撮影を求めてショルツ首相の両隣に立った女性2人が突然、上着を脱いで上半身裸になり、ロシア産ガス輸入禁止を訴える一幕があった。2人はすぐに警備担当者らに取り押さえられた。

女性らは上半身に「今こそガス禁輸を」と書き、驚いた表情を見せるショルツ氏の横で禁輸を求めて叫んだ。

ロシアのウクライナ侵攻後、ロシア産天然ガスへの依存度が高いドイツは禁輸に否定的だった。欧州連合(EU)は石油禁輸では原則合意した。

ドイツは6月からロシア側にガスの輸送量を大幅に削減され、需要が高まる冬場のガス不足が懸念されている。(共同)

 Source:  THE SANKEI NEWS, 2022/8/22 13:19

強固なドイツ社会もいま社会的ヒステリー状況にある。「泣きっ面にハチ」というか、ポーランド政府は第二次世界大戦中にドイツがポーランドに与えた戦災に対して損害賠償請求する、という報道だ。いくらの請求額になるか具体的金額は不明確だが、ダイレクトに積算するとマア100兆円とか何百兆円の桁数にはなるのではないか。ドイツは降伏とその後の戦後処理については終了しているという、まあ日本とも共通している外交姿勢をとっているから賠償請求には応じないだろう。これもロシア=ウクライナ戦争でドイツが戦後空前の国家的危機にあるから起きてきた事象である。ドイツが(ロシアと親密な関係を保ち?)強力であればポーランド政府も請求など出せるはずがないからだ。

さて、上の引用記事に対して、こんなコメントを自分で付け加えているので、コピペしておこう:

同時期の日本とドイツの世相を比較するのは結構興味深い。日本がいま統一教会で国民的ヒステリーに陥っているとすれば、ドイツは天然ガス供給削減とそれがもたらすエネルギー危機がダイレクトに社会的ヒステリーを触発しているようだ。どちらの国も落ち着きを失っている。 
ところが、よく実相を吟味すると、ドイツの危機は真性の国家的危機であるのに対して、日本の危機は安倍元首相暗殺事件の主犯の供述に基づいたマスコミの一斉攻撃が演出しつつある、かなり劇場的要素を含む関心の広まり、集中とも言え、その意味では東京ディズニーランドのパレードに似ている面もある。そう感じるのは小生だけだろうか?ドイツの危機はリアルな危機、日本の危機はどこかフィクシャスで虚構性が混ざっている。小生、何度も断っているように、偏屈なへそ曲がりなもので、どうしても心の中でそう感じてしまうのだなあ・・・。 
ドイツは国家という家が火事で焼亡するかもしれないという危機、日本は燃えやすいカンナ屑に火がついてペラペラと宙を舞っているような危機。同じ危機でもそんな違いを感じる。

ヨーロッパの干ばつやスペインで降ったという雹はテレビの話題にするが、国土面積の3分の1が冠水したという惨状のパキスタン水害は5分程度紹介するだけで終わり。国連による救助をはじめ国際的支援が始まっているというのに、日本は自国の豪雨で手一杯だ。ドイツの《泣きっ面にハチ》は他山の石ではない。国力が低下すれば、四方八方から問題が発生し、対応できるゆとりがなくなっていくものだ。

フィクションのような危機を大真面目に議論して、真に重要な問題を放置する愚を敢えてするとすれば

こぼるる涙は、喜劇か、悲劇か、いずれを見てであろうかのう

と、まるで人形浄瑠璃のような世界にも見えてくる。 

2022年9月1日木曜日

ホンノ一言: 憲法学者にあるまじき発言?

加筆:2022-09-02

旧・統一教会問題の再浮上がきっかけになって「宗教」、「宗教と政治」、「宗教と社会」等々、信仰に関連して大騒動を演じている日本社会であるが、こうした問題には不慣れなためか、アッと驚く議論を主張する専門家(?)もいるようだ。

先日は某(自称?)憲法学者が

憲法で定める信教の自由は無制限のものではない

と、こんな意見をネットに書いているのを見かけた。

なるほど憲法が保障する<自由>は無制限ではなく、人を殺したり、人の財産を強奪する自由などは憲法が認めるはずがない。これらは<犯罪>である。犯罪であると同時に、あらゆる「犯罪」はあらかじめ「法律」で定めておく必要がある。社会、というより国はその立法義務がある。故に、自由と不自由との線引きは

原則自由、例外不自由

その例外をあらかじめ法律で明記しておき、これらは自由ではないと定めておく。これが「近現代社会」の基本的建付けである。

であるとすると、『信教の自由は無制限のものではない』という憲法学者の意見だが、一体なにを言いたいのかネエ、と。ホントに憲法の専門家?そう思った次第。

もし当人が教壇に立っているなら

学問の自由には制限はありますか?思想の自由は制限されるべきものですか?

そう質問しているところだ。信仰も同列に扱うべき内心の問題であろう。

まるで、その当時ご法度の「地動説」を公言したためローマ教皇から「撤回」を強要されたガリレオ・ガリレイ事件を地で行くような意見だと感じたわけ。

心の内のあり方に<制限>があるという憲法学者がいることを初めて知ったが、正にビックリ仰天。時代は変わるものだ。小生が学生であった時代なら、受講者から抗議が殺到して<自己批判>を要求されているに違いない。


ただ、マア、この憲法学の先生(?)、「誤解です」と宣う可能性はあるネエ・・・以下、こういう主旨かもしれないという前提で加筆しておこう:

但し、宗教そのものではなく、宗教を名目とした取引を考えているなら、その種の自由はおのずと制限されることがある。こういう意味なら、むしろ当たり前のことだ。いくら教団が求めるからといっても銃刀などの武器を届けることなく大量に準備したり、ドラッグを売買するなどは違法であり刑罰の対象となる。法の前では平等なのである。旧・統一教会の活動を問題視する場合も同じだ。法律上、認められるはずもない活動は、そもそも最初から認められる道理がない。それを認めてきたのであれば、行政の怠慢というべきだろう。日本という国が真の意味で法治主義であるかどうかが問われている。これが今回の問題の本質である。