前々稿の最後にこんなことを書いた:
だから社会を救済する道を歩むのに「学問は不要」というのは、日本仏教のとても面白い所だと思う。マ、まだまだ、一知半解の域は出ませんが……、覚え書きという事で。
いま色々と突いているのは、小生の単なる知的好奇心からである。
仏教思想だけではない。何でも日本が海外文化を輸入すると《日本化》される。 オリジナルの海外文化を本物とする視線からみると、日本に来て歪みが生じたことになるのだろうが、必ずしもそうではないと、最近になって思うようになった。
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毎日の読経では『日常勤行式』の折本を使っているのだが、表側のメインは『無量寿経』の「四誓偈」あるいは『仏説阿弥陀経』を読誦する。そこでは、前々稿でも話題にしたように智恵と学理の修得が大前提になっている。ところが、折本の裏側に入ると法然の『一枚起請文』が柱となって、「一文不知の愚鈍の身」となることが求められる。しかし、最後になって和文から漢文に戻ると、再び「四弘誓」で学理の追求が求められるわけだ。
単純にいって、これは矛盾ではないかと、(現時点では)感じる。ベクトルが違うのだ。
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日本に来ると、精緻な仏理を理解するべきところで、逆に一文不知の愚鈍さが要請される。禅には禅の哲理があるのだが、日本に来るととにかく「不立文字」が強調される。カントやヘーゲルが一大体系を構築して、人間理性の限界や無限の成長を精緻に考察した一方で、日本で誕生した本格的な哲学である西田哲学(及び京都学派)では、
モーツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。
という一文が『善の研究』にあったりする。
そして
実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである
このように極めて、主観的で、直観的、正に客観と主観が一体化するような心境こそ「最高の境地」であると。《道》というべきか、《悟達》というか、こんなレベルに憧れる日本人は(今でも)結構多いのではないだろうか?
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概括的な印象論でしかないが、日本では面倒で、学問的な議論は、嫌がられることが多い。いわゆる「神学論争」はヨソでやってくれ、というわけだ。
《真理》は、ソクラテスやプラトンが行った「対話」や「論争」ではなく、ただ心の直視によって、認識しうるものである。そして、真理は一つである。
こんな《真理観》(?)に共感する日本人が多いのではないだろうか?
もしこんな印象が的をついているなら、この傾向が原・日本語の言語としての貧困さから生じたものであるか、大半の日本人の感性に由来するものなのか、これこそ日本的精神であるのか、小生には明らかでない。
海外で生まれた思想や哲学が、日本に来ると極端に振れて、よく言えばシンプル、悪く言えば原始的になるのは、真理は一つ、真理は清らかで、誰にとっても明らかで、疑いの余地がないものである、と。どうもそうであるらしいのだ、な。
だからこそ、本来は煩悩を断ち、(物理ではなく)仏理を徹底的に理解し、仏国土の存在を深く信じ、そこへ往くことを願うことが求められているにも関わらず、善人・悪人を問わず誰でも「信じて」、「願えば」、それでイイのだ、と。オリジナルの浄土信仰ではありえない程にラディカルな救済思想が日本では誕生した。
それは、
これが真理である以上、他の考え方は排するべきである。正しい行動はシンプルでなければならない。
と。
何だか、日本人の割り切り方の特徴が、宗教面にも反映しているのじゃあないか。そんな風にも考える今日この頃です。
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