2019年3月1日金曜日

これは幼稚化現象なのか?それともマナー確立への一歩なのか?

 先日の投稿の中でこんなことを書いている:

言葉の事を書いてきたが、そういえば『大事なのは言葉です』という言葉も昔はなかった。誰もそんなことは言わなかった。 
CMにもあったくらいだ。「男は黙ってサッポロビール」、そんな時代だ。 
明治生まれの祖父が一番好きだった言葉は「巧言令色スクナイカナ仁」。要するに、言葉上手な人間は信用できない。「剛毅朴訥仁に近し」。ボキャ貧で、マスコミ受けしない人物こそ、徳があつく、力量もあるもので、いざという時に信頼できる人物である。物事を任せるに足る。これはもう経験則であろう。 
大事な事は「知行合一」。口先の言葉に価値はなく、汗をかく行動が価値を創る。この点では古典派経済学の労働価値説は本筋に沿っている。小生はそう思っているのだ、な。「知価革命」などというが、知価の知は苦心の末の賜物であり、いま思いついた言葉とは無縁である。 
口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(マタイによる福音書、第15章、11) 
人物評価の根本も小生の若い時代と今とでは一変してしまったねえ。
★ ★ ★

以下の「報道」(?)を目にして思わず上の投稿を思い出した。
「女性ドライバーの皆様へ質問です。やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?」――。そんなメッセージをトヨタ自動車が1日、公式のツイッターで投稿したところ、批判が殺到。トヨタは投稿を取り消し、謝罪した。
 トヨタはツイッターの投票機能を使って、「とても苦手」や「すこし苦手」など回答を募っていた。このメッセージに対し、SNS上では「やっぱりって何? 女性蔑視?」、「普通の運転で男女差ってあるのでしょうか」、「免許取得以来無事故無違反の私でも、車の会社からやっぱり運転下手って思われてるのかと思うと悲しい」、「私の周りには事故を起こした人もいないし、みんな毎日バリバリ運転しています」といった批判的な意見が広がった。

(出所)朝日新聞、2019年3月1日

『やっぱり、車の運転って苦手ですか?』という表現が適切であったかどうか、ということだ。

特に『やっぱり』という副詞にクレームをつけているということのようだ。

ま、『ものいえば唇寒し』などとうそぶくのは月並みだろう。

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 トヨタの担当者はシンプルに『やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?』とズバリいう言葉にした方が、ずっと訴求力があったと今頃は後悔していることだろう。

つまり余計なものは「やっぱり」ではなく、「女性ドライバーの皆様へ質問です」という前の句である。

推測するしかないのだが、AI(人工知能)を使った先端的な安全制御機能や自動運転機能により高い関心を持っているのは、男性よりもむしろ女性客の方であるという現場の感覚があったのかもしれない。

自動車ではないが、例えばカメラでマニュアル撮影を好むのは男性の方が多いと聞いたことがある(今でもそうであると思う)。同様に、車の世界でもマニュアル操作はずいぶん減ったが、それでもまだギアシフトをガチャガチャやりながら、クラッチメダルを踏んで運転するドライバーはいる。小生の同僚の中にも二人を知っているが、二人とも男性である。

ただ、小生こうも思うのだが、カメラや自動車を面倒くさいマニュアルで操作する男性は、機械が好きだからというのも理由だろうが、もう一つ「人と違ったことをしたい」という動機もあるかもしれない。ときにトンデモナイ行動をするのは、女児よりも男児に多いというのは、これはもう子育てをした経験のある人なら納得するのではないだろうか。

亡くなったエンジニアの父は「女性はメカニズムというのが苦手だからなあ……」と時々こぼすように話していたことを思い出す。

カメラにせよ、自動車にせよ、その他の電気機械や工作機械にせよ、その好みや傾向には男女間性差が歴然とあるように小生も感じる ― 実際、うちのカミさんも<機械音痴>というといい顔はしないが、苦手である。

なので、本当はこの件は実証的な科学的検証に訴えると、面白い法則が得られるかもしれず、その面白い発見が新しいマーケティングにつながっていき、ひいては誰にとってもより良い製品開発に結び付いていく可能性があるように思う。

言葉の片言一句にまで神経質にこだわるのは、あまり生産的な態度ではないというのが、第一印象である。「やっぱり」おおらかな社会の方が結果として着実に進歩すると思うのだ、な。

★ ★ ★

しかし、問題は科学的検証のための問題提起ではなく、単なる言葉遣いの紛争になってしまったようだ。

「ああ言われた」とか「そんな言い方はないでしょう」という言い回しもあるので、日常生活の上で言葉は大事だ。「ものも言いよう」という格言もある。

確かにマナーは平穏に暮らしていくためには不可欠な約束事である。

しかし、やはり小生は言葉の問題はレベルの低い事柄だと考えている。社会の進歩や問題を解決するのは、言葉ではなく行為である。

「どんな風に言ったか」は振り返ってみると、大した事ではないということが分かるものだ。大した事でもないのに執着する人は器が小さいからだと感じられてならない。


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