2017年11月29日水曜日

「ハラスメント」、この現代を象徴する言葉

人生は短いとよくいう。しかし、時間が長い、短いという感覚は人生の平均的な長さから決まっているにすぎない。小生は人生は十分に長いと思う。『徒然草』第7段の有名な下りに以下のような文章がある。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。 
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(出所)http://roudokus.com/tsurezure/007.html

小生思うのだが、いま小中高校で上の文章を授業でとりあげれば、高齢者に対するハラスメントになるのではないかと憶測する。

人生50年の時代の40歳は、人生80年時代の65歳以上、まあ年金支給開始年齢以降の老人を指すと言ってよい。

現代の感覚に置き換えて最後の段落を読めば、『年金をもらう年齢にもなれば、風采を恥じる感性も失い、世間にしゃしゃり出ることばかりを考えるようになる。何かと言えば子供や孫のことばかりを心配し、自分の子孫が繁栄することばかりを願い、自分の目でそれをみれるまで長生きしたいと願う。ただただ貪るように、欲深く生きたいという気持ちが強くなり勝る。だから、もののあわれに感じる優雅な心とは無縁になっていくのだ。何とあさましいことか』と、大体はこんなところだ。

言えますか? 古文の授業で原文をこの通り解説できる教師がいまどのくらいいるだろうか。高齢者への「ハラスメント」に該当すると言われそうではないか。

◇ ◇ ◇

日本国憲法では私刑、いわゆるリンチは厳に禁止されている。第31条にはこう書かれている。
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

リンチが禁止されている以上、リンチに近似した「いじめ」。ハラスメントも禁止されるという法理は極めて自然である。

実際、30年ほど前からだろうか、世に普及したセクハラという言葉以降、今ではパワハラ、アカハラなど多種多様なハラスメントが認められるようになった。

しかし、法的にハラスメントを概念定義し、その防止や救済、処罰にあたる基本的な考え方を規定する「ハラスメント防止基本法」のような法律は、小生の勉強不足かもしれないが、まだ制定されてはいない(と思う)。

ドメスティック・バイオレンスがあるのであれば、ドメスティック・ハラスメントもあるべきであるし、デート・バイオレンスに至る前のデート・ハラスメントもそうだ。

ゴミ出しハラスメントもありうるし、井戸端ハラスメントもありうる。ペット・ハラスメント、香水ハラスメント、ファッション・ハラスメント、音楽ハラスメントもそのうち出てくるだろう。

しかし、嫌なことを全てハラスメントと認定し、社会的に抑制していこうとすれば、あたかも現実社会を無菌化するような努力にも似てくる。表現の自由、思想信条の自由との調和も必要になってくる。

だから、法的な限界(=社会として約束する範囲)を引いておく必要があると思うのだ。

◇ ◇ ◇

ただ「ハラスメント」という用語は本当に現代特有のニュアンスを帯びていると感じる―ということは、逆に30年後になお「ハラスメント」という言葉が使われているかどうかは分からない。そうも思えるのだ、な。

たとえば「侵略」という言葉がある。現代の日本社会で「侵略」という言葉は極めてネガティブな印象を与える。日本はアジアを侵略したと中国・韓国が言いつのれば、それは反日キャンペーンであると思って日本人はきくだろう。

しかし、幼少時の個人的な思い出話になるのだが、小生が幼い時の夕食時、性格もあって好きなおかずを後に残しておくことが多かった。それをみた亡くなった父は『どれ、侵略、侵略・・・』と言いながら、小生の皿からその意図的に残してあった好きなおかずを取っていったものである。『あっ、お父さんとっていった、返してよ!』と言っても、『アッハッハッハ、侵略されちゃったなあ』と。母も笑って父子のやりとりをみている。

いま、そんな会話が交わされることはあるだろうか。まず、考えられないと思うねえ。

父が好きでよく歌っていた歌は武田節だ。歌いだしはこうだ。

〽 甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

歌のモデルは戦国大名の名門・武田である。真ん中で詩吟が入る。武田の旗印である風林火山である。古代中国の軍略家・孫子からとっている。

疾如風(ときことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

 亡くなった父にとって他を侵略する行為は、積極果敢な前向きの行動であって、やましい気持ちなどは微塵もない。父というより、戦前に教育を受けた青年たちはそんな共有された理念と価値観をもっていたことが、今になって分かるような気がするのだな。

なので、自分の幼い子供に『どりゃ、侵略、侵略・・・』などと言いながら、家庭内教育をしていたのだろう。

こんな感覚は現代日本からは完全に消失している。ということは、いまから3、40年もたてばまた再生されるかもしれない、そういうことでもある。

もう一つ、これは現代日本にも理解されそうな例がある。福沢諭吉が安政5年(1858年)の日米修好通商条約批准書交換のために訪米する万延元年遣米使節一行に随行し咸臨丸でアメリカに渡った。福沢はアメリカの経済が自由市場を基本にして成り立っていることをつぶさに見聞してきた。帰国後、Competitionを「競争」と訳したところが、幕府の役人は「争うとは穏当ではない文字じゃ」と削除を求めたそうだ。幕府は「和を以て尊しとなす」を理念としていた。なので、「競争市場」などという理念が正しいとは当時の幕府官僚にはまったく思えなかったのだ。

現代日本の感覚は、むしろ「争い」を否定して、「和」を尊重する江戸幕府の役人に共感するのかもしれない。福沢渡米から158年も経過した後、日本国民の感覚は一周りして元に戻ってきた。そういうことかとも思う。

世間の感覚は移ろいやすく、決して定かではないのである。


◇ ◇ ◇


合理性とは、これは真理であると思われる大前提から出発し、あとはロジカルな議論を通して結論を得ることで確保される。法律的論議では規定された法規が真理であると前提される。法が現実から遊離しているという可能性は法律的論議では展開不能である。経済学でも理論構成は同じ性質を共有している。消費者、企業の最適化行動を前提しないのであれば、どんな結論も出てくる。つまり、出したい結論を出せる。学問ではなくなる、というわけだ。

その「何を前提するか」だが、それは合理的議論からは出てこない。その時代の社会が「これは当然正しいよね」という感覚で前提するしかない。あとは合理的だ。故に、理にかなった考え方をするはずの国民がなぜ無茶な集団的行動をしたのか。後になって理解できないことが出てきたりするが、それは同時代の感覚を現実として共有できていないためである。

もちろん「一連の事実」を「明らかな前提」において「故に、・・」という議論の仕方もありうる。しかし、その事実をもたらした根因とメカニズムを理解しないまま、事実はこうだから云々という議論は大半が間違っている。なので、このパターンは(さしあたり)論外とする。

「ハラスメント」をあくまでも撲滅しようとする現代日本社会の、というより世界の潮流は(多分)正しい方向を向いた努力なのだろう。

しかし、ハラスメントを禁止しようという思考は<合理的>なのかどうか。それを証明するのは難しいと思う。むしろ<当然禁止するべきだよね>という世間の感覚に近い。そう思うことがある。とすれば、ハラスメントに関する議論には個人的な思い込みも混じっているだろうと思う。であれば、30年後の世界がどんな見方をとっているかは分からない。最近現れた言葉や概念は、近いうちに消えてしまうかもしれないからだ。

故に、余計にハラスメントの防止と処罰に関しては基本法を明確に制定しておくべきだと思うのだ、な。

◇ ◇ ◇

北朝鮮が盛んにミサイルを発射するのは<国家的ハラスメント>なのだろうか。それとも大国アメリカの国防感覚が発露していることから続けられる北朝鮮に対する<いじめ>に応じた<反撃>にすぎないのか。

ハラスメントとは「相手に不快な思いをさせること」で成立する。では「不快」とは何か。注射の痛みは「不快」ではないのか。耳鼻科の措置は「不快」ではないのか。現実に治療中に患者が不快を感じてしまった場合、それをどう認識するのか。ここが明確に定義されなければ、上の定義は同義反復(トートロジー)であろう。

「ハラスメント」は極めて現代的である言葉だ。それが現代を超えて、普遍的な通用力を持つかどうか、なお明確にするべき余地は大きい。

◇ ◇ ◇

横綱・日馬富士が引退を決意したとの報道だ。

あれは文字通りの「リンチ」であるという感想を小生はもった。指導には当たらないという点は前の投稿でも書いたので省略する。

【この件に関する感想 11月30日加筆】

暴力根絶は現代日本社会の合意である(と言えるだろう)。今回はこれに抵触した。

本場所・巡業の会場に自ら足を運ぶ熱心なファンは横綱の取り組みをもっと観たかったようである。もし相撲に深い関心をもつ人々だけによる裁決で結論を出すならば横綱は引退しなかったはずだ(と予想する)。つまり、横綱引退に導いた主たる力は、少数の委員、というより普段はあまり相撲に関心を持たない多数の人たちが暴力というものに対して感じる非難感情である。

類似のケースは他にもある。

野球にはもともと無関心であってもプロ野球界で不祥事があれば非難の感情を抱き処罰を求める。相撲にはもともと無関心であっても暴力事件があれば暴力否定の感情から処罰を求める。更に、美術にはもともと無関心であっても、美術界に不祥事があれば旧来の慣行が理解できないとして関係者の処罰を求める。音楽界についても同じ。文学界についても同じ。学界についても同じだろう。

このようにして関係者による分権的統治は否定され、集中的・集権的に物事を決める方向へと事態は進む。権限委譲、分散処理、地方分権が重要な社会的課題になっているにもかかわらず、単一的・集権的・機械的結論を社会は喜ぶ。実質的審議ではなく、形式的審議を分かりやすいという理由で好む。

関係のない大多数の人々がどう考えるかで集権的に物事を決めるという潮流は、「第三者の意見」を重視する近年のファッションでもある。これを直接民主主義といえば(小生は濫用であると感じるが)それなりに理にかなっていると言えるのかもしれない。

しかし、その第三者を日本人だけに限るなら理にかなわない(と思う)。国際化した活動をマネージする主体は国籍にとらわれるべきではないだろう。日本人が<これは正しいよね>と前提することを海外の人々も<そうだよね>と同意するかどうかは分からない。前提が変われば議論の全体もまた変わる。大相撲が真に日本人のための「国技」であるなら文化慣習の異なる外国人は参加するべきではない。外国人の参加を認めるなら、日本人だけの価値観や感覚で管理するべきではあるまい。

この問題は海外進出する日本企業、のみならず外国人を採用する日本企業すべての問題でもある。

まあ今は当事者・日本人を含め、色々な変化期にあるのだろう。

2017年11月26日日曜日

断想: 2017年もそろそろ終わりだ

この冬はまだ11月だというのに戸外はもう真っ白である。いつもなら紅葉に初雪が降り積もって二つの季節が重なり合うころだというのに。

申酉騒ぐの酉年ももう一月余りでおしまいだ。長らく続けてきた「仕事」もそろそろ店じまいにして、あとは自分自身のために身につけてきたもの、勉強してきたことを楽しみたいものである。

そもそも勉強も読書も自分のために始めたことだ。人のためではなかった。

とりが空をとぶように自分はじぶんの心のなかをとぶ
ミジンコが水のなかをうごきまわるようにじぶんは夢のなかをさまよう 
あのひとがまだ生きているなら自分も生きていてよかった
あのひとがもう生きていないなら自分はなぜ生きているのだろう 
この星がずっとあるなら自分の子のそのまた子のそのまた子も・・・ずっとありたい
この星がいつか消えるなら自分もいまから無とやらになっているだろうか

「人のために」とか、「社会のために」とか、「世の中のために」とか、これらは青春時代のスローガンにふさわしい言葉だ。

齢をとってくると目に見えないものは信じない。「戦争」と「戦い」との違い、「平和」と「事件」との違いは、理論好きな人たちに任せよう。




2017年11月24日金曜日

大相撲は改革されなければならないのか?

「相撲」というキーワードで本ブログを検索すると結構出てくる。

今月21日の投稿の以前にもこんなに相撲を話題にしていたのかと。意識はしなかったが、小生も相撲ファンの一人なのかもしれない。

八百長防止」というそのズバリで書いたこともあった。2011年5月11日だからもう6年以上も前のことだ。そこではこんなことも書いてある。
大体、掛け値なし本気のガチンコ勝負を15日連続でやれば、怪我をする確率が高い。特に技量が向上途中にある若手の普通クラスの力士はそうだろう。そして若手の向上途中にある力士ほど怪我をおそれるはずだ。怪我をしても次の本場所は年6場所制では2ヶ月先にやってくる。骨折でもすれば1ヶ月は稽古が出来ない。そろそろと再始動しているうちにもう本場所だ。その間に巡業などをやって勝負勘を取り戻しておけばいいが、それは無理だろう。そこでまた無理をして怪我をするかもしれない。そんな状態で15日またやる。
怪我をおそれずシナリオなしのガチンコ勝負を毎日ずっとやれというからには一定の条件が必要だ。
亡くなった父が夕食の折などよく相撲を話題にしていた。戦前は年2場所で13日制だったというのはよく話していた。

ただ、(今になってからやっとだが)Wikipediaで調べて見ると、父が相撲のラジオ中継を聴いていた昭和初めの頃は角界変動期にあたっていたらしく、昭和2年(1927年)に東京と大阪に別れていた団体が統合され大日本相撲協会が発足後、本場所は年4回でスタートしたところが、昭和7年(1932年)に待遇改善を求めて多人数の力士が脱退したため、年2回の開催となったようである。その後、名横綱・双葉山の活躍が契機となり、昭和12年から13日制となり、14年には15日制になった。父はその変わり目の頃のことを覚えていたのだろう。

戦後になってから先ず1場所13日制で再開された。昭和24年(1949年)1月場所である。同年5月場所で15日制に戻り、以後15日制が定着した。昭和25年(1950年)から27年までは年3場所の興行だった。年6場所制になったのは昭和33年(1958年)7月の名古屋場所からのことである。これ以降、年6場所・15日制が定着して今日に至っている。昭和40年(1965年)からは部屋別総当たり制も採用されることになった(以前は出羽一門、二所一門など一門同士は対戦せず大部屋に所属する力士は有利だった)。

最近の力士は重量化したこと、(さらに稽古量が減っているせいでもあるのか?)怪我をしやすい。年6場所・15日制は長期的に持続困難ではないか。

場所数を減らして、放映権、チケット料金を値上げするほうが、理にかなった方向だと思うこともある。

■  ■  ■


 こんなことも書いてある。2015年2月13日の投稿だ。初場所なら1月で、2月に書いたというのは解せないが、何か思い出すようなことがあったのだろう。

確かに横綱白鵬は双葉山が口にした「木鶏」の境地にはなかったようである。が、けれども荘子はモンゴルの人が嫌う漢民族の人であるから、こんなエピソードは不適切かもしれない。だから、相撲に詳しい人も知ってはいたが、語らなかった。その可能性もあるやに感じられる。
ちなみに、事実の推移は親父が言ったようではなく、双葉山は東の支度部屋に戻るなり『ああっクソ!』とうめいたそうである。「木鶏」は一晩寝てから出た言葉であるそうだ。どちらが本当の話しなのか知らないが、うちのカミさんは「こちらのほうが分かる」と言っている。

2015年初場所の白鵬と稀勢の里戦で物言いがつき、取り直しになった一件で、白鵬が行司を批判した態度が横綱らしくない、と。そんな報道で一杯になったのだな。それで書いたようだ。

文中、双葉山が「ああっ、クソ」とうめいたのは、安芸ノ海に負けて70連勝を阻止され支度部屋に戻った時のことだ(と聞いている)。

いくら横綱でも悔しい気持ちになることは当然あるに違いない。判定に納得できないことも人間だからあるだろう。双葉山ですらも伝説どおりではなかったということだ。どうやらそんな感想をメモしておきたかったようである。

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小生自身の少年時代の記憶に関する投稿もあった。忘れていたなあ。2013年1月20日に書いている。

昭和の大横綱・大鵬が死去したというので地元の道新は一面トップをさいている。小生も訃報を聞いた時にはそれなりのショックと一つの時代が終わったような感覚を感じたから、一人の関取の死をトップで報道しようとする姿勢も何となくわかるのだな。
少年時代にはよく相撲中継をみた。10日目頃から大関たちとあたるようになる。栃光、栃ノ海、北葉山、佐田の山ときて千秋楽には柏戸とあたる。そんな記憶がある。戸田との取り組みはまだ覚えている。見ていた側からは負けたとしか見えなかった。亡くなった父が一緒に見ていたかどうかは覚えていない。そこでこの一戦があった昭和44年の三月場所開催期間万年カレンダーをみてみると、大鵬が戸田に負けた二日目は、3月10日月曜日だったことがわかる。してみると、父は仕事があったはずであり、当時はもう本社勤務だったはずだ。急いで帰宅しても取り組み時間には間に合わない。やはりリアルタイムでは、父は大鵬・戸田戦を観てはいなかったはずだ。NHKのニュースででも観たのだろうか。父も「負けたなあ」と話していたように覚えている。それが誤審であったと後できいて、思春期だった小生にはいかにそれが酷い話しであるのか、ピンと来なかった。「本当は勝っていたんだよ」と言われても、そうかやっぱり勝っていたのかと安心したものの、理解はできないものである。まして45連勝でとぎれたんだと説明されても、それはおかしいとしか考えられない。「世間のルール」というものを年若の者はよく知らないのだ。
小生にとって「大横綱」と言えば、大鵬をさす ー 好きな力士は北の湖であったのだが。

両人とももうこの世にはいない。

大相撲が日本から消え去るという可能性は今のところ考えられない。とはいえ、時代に合わせてシステムを変えていく努力は明治、というか江戸時代からずっと一貫して続けられてきた。

現在の興行体制は、ある時期の激変期を経てから後、それからは落ち着いて安定的に継続されてきた。それだけのことである、とも言える。

稽古ならいざ知らず、飲み会の二次会で殴って制裁するのは憲法でも禁止されている「私刑」であり、もう漫画の世界でのみありうるというのが日本人の共通の感覚だろう。

「変えてばかりいるのも問題だ」という人もいるらしいが、問題発見・問題解決への議論と計画など、真剣に続けていく必要があるわけだ。改善/改革への努力を怠ってはならない。これはもう10年前の惨状を思い出すまでもなく、自明のことである。

その努力の成果を、出来れば毎年1回、日本相撲協会『相撲白書』にまとめて公表してほしいものだ。もし刊行されれば小生は絶対に買う。執筆陣は外部協力者に委託すればよい。いまなら相撲ファンの厚みもあり、応じる人も多いだろう。

年間取り組みベスト10もやってほしいものだ。ベストスリーの取り組みは改めて表彰してほしい。そうすれば<相撲とはいかにあるべきか>が具体的に周知されるだろう。ワースト10もやるべきかもしれない。<悪い取り組みはこういうものだ>と、汚名・醜名が残るのを力士は何よりも恥じる。教育的効果は絶大だろう。

名力士を育てた親方は<名伯楽>として表彰するべきだろう。相撲界の宝は良い師匠である。

◇ ◇ ◇

以下は付け足し:

関取にも色々なタイプがいる。才能も目標もマチマチだろう。しかし、人口でいえば横綱よりはせいぜいが幕内、前頭までという人が多数派だ。

横綱まで上り詰めた人は平凡な関取OBの願望は分かるまい。と同時に、平凡な関取で相撲人生を終えた人は横綱に昇進するまでの稽古、鍛錬の苦しさは想像できないだろう。横綱が抱いている理想もわかるまい。凡人にとって相撲は生活の術であり、それ以上のものではない。

しょっちゅう書いているように、為すべきことを為すのは天才だが、受け入れるかどうかを判断するのは凡人だ。多数の凡人がついてこれなければ、天才は為すべきことができない。

天才が実際に活動できるのは「危機の時代」であるのは、そのためだ。順調にいっている間は、凡人が世の中を支配する。





2017年11月21日火曜日

国技「大相撲」の暴行騒動をきく本筋は

小生の上の愚息は幼いころから熱心な相撲ファンである。四股を踏む小学生時代の愚息を撮影した写真も数多く残っていて、それらを見ると歳月というもののたつ速さを実感する。最近まで使ってきたiPhoneからSONYのXperiaに機種更新したのだが、仕事帰りの車中でワンセグが見れるようなったと喜んでいる。相撲中継なら電車の中でも音声なしの画像だけでわかると話している(Bluetoothイヤホンを買えばいいように思うのだが)。

その大相撲界。いま九州場所の開催中であるにもかかわらず、話題はもっぱら貴ノ岩関に対する横綱・日馬富士関の暴行及び傷害(?)事件でもちきりである。

これは無礼な態度を叱責する躾だという人もいれば、パワハラだという若い人もおり、いずれ関係者の何人かは処分されるだろうが、その筋(=日本相撲協会、警察・検察?)は処分の仕方に大変苦慮することだろう。

× × ×

ここでは覚え書きとして:

一般人に対する力士の暴行事件ではない。角界の不祥事である。組織内部の統制という観点に加えて、やはり顧客志向という観点も大事だろうと思われる。もちろん社会的常識や大多数の納得感は欠かせない。

10年ほど前にも相次いで発生した不祥事があった。特に2006年から2011年まで毎年のように不祥事が連続的に発生した「角界暗黒時代」はまだ記憶に鮮明である。

その中には、横綱・朝青龍の暴行と引退もあったし(2010年)、大麻使用事件(2008年)もあった。大麻事件では当時の北の湖理事長が引責辞任をしている。その前の2007年には時津風部屋の若い弟子が稽古中に暴行されて死亡するという事件があった。

毎年のように発生するトラブルにファンは徐々に離れていたが、大打撃になったのはやはり「野球賭博事件」に大量の力士が関係していたことが明らかになり、幾つかの相撲部屋が家宅捜索をうけた事件であろう。2010年5月のことであり、直後の名古屋場所では初めてNHK中継放送が中止され、天皇杯、内閣総理大臣杯授与も行われなかった。これが大相撲を愛する堅いファン層を大いに侵食した。

そして翌年2011年の3月、大阪場所が中止に追い込まれた。野球賭博事件の根が角界にも深く広がっており、取り調べをうけた力士の中には相撲も賭けの対象にしていたと供述したものがいた。更に、八百長を認めた力士も現れてしまった。

この「相撲八百長事件」が致命的な打撃となり、相撲ファンは当時の大相撲に心底から幻滅したと言える。

今回の騒動でほぼ10年前の泥沼を思い起こす人も多いだろう。やはり、相撲の本筋は体を張った闘技ということであり、勝負の厳正さは相撲の命ということだ。単なるエンターテインメントではない。勝負にシナリオなどあってはならないわけである。しかも、相撲は日本の「国技」ということにもなっている。

この本筋にそうところに相撲ファンのコアがある。なすべき稽古もこの大原則から導かれる。そう思うのだな。

今回の騒動をどう裁くか。過去の事件の教訓を生かしてほしいものである。守るべき価値は守り、直すべきところを直してほしいものだ。

× × ×

相撲は格闘技であり、立ち合い様の張り手は当たり前のようにある。本割で張られる以上、稽古で慣れておかねば話になるまい。この点は、野球やサッカーとはまったく違う世界だ。

とはいえ、『殴ればわかる』、『殴られて悟る』という考え方では、指導の効果が出ないと小生は思っている。

小生自身も二人の愚息が成長している途上で、体罰に訴えたことがないわけではない。

殴ってしかるなら、なぜ殴るかが殴られる側にもハッキリと理解できる状況が不可欠だと思っている。

言葉で語るのが最善だ。しかし、言葉が上手な人が必ずしも善い指導者でもないことはだれでも知っている。言葉で語る話しに加えて、表情や動作、全てが表現手段である。師弟 ― のみならず親子、年上と年下等々 ― の間の信頼感は結構複雑なものだ。叩かれてその瞬間に何かが理解できる、理解できてそこでまた頬ずりをされる、抱きしめられる、そんな表現の仕方も確かにあるだろうし、特に格闘技の稽古では言葉外のコミュニケーションもありうると小生は思う。

× × ×

いま読んでいる本は相撲とはまったく関係のない『日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか』(板谷敏彦)である。その中にある下りなのだが、
表面上の軍律が厳しいのは士気が低いことの裏返し
という指摘がある。第一次世界大戦時のイタリア軍は『軍律は厳しく、無理な命令であっても突撃を躊躇するとどうなるのか、見せしめのための罪なき銃殺が部隊内で頻繁に行われ』ていたと説明されている。しかし、軍律厳しいはずのイタリア軍の現実の戦いぶりはまったく酷いもので、ドイツ軍、オーストリア軍に押し込まれ、食料は不十分で、かつ給与は低く、休暇もわずかであり、そのため1個連隊全体が反乱を起こすこともあったという。

暴力による指導や折檻をできる限り避ける方がよいのは、しばしば指導者の堕落を招きやすいからである。というより、指導者の力量不足や組織全体の堕落を暴力が象徴しているからである。

低品質の指導者はしばしば暴力や体罰、重罰・極刑に頼りがちであるという事実は、上の(第一次大戦時の)イタリア軍の惨状からも推し量れる。

× × ×

話しを戻す。

叱られた側が納得していない限り、殴打による指導・折檻が効果をあげていない、伝えるべきことが伝わっていない。これだけは明確な事実と言える。とすれば、今回の横綱・日馬富士の行為は、指導ではなく暴行である、と。いかに善意志によるものであったにしても、暴行だと認定されても仕方のない面は確かにある。

それにしても、(一部では批判の向きもあったと読んだことがあるが)北の湖前理事長が急逝した折に、今後の角界・親方衆を誰がまとめていけるのかと。そう心配する関係者が多かったようである。事実はその通りになってきた。そんな感じもするネエ・・・。

やや奇矯な人柄ではあるらしいが貴乃花親方が日頃提案していること自体は正論だと思う。組織内部の戦力として包容できる器がないとすれば大きな損失だ。しかし、そんな方向には向かっていかないだろう。

逆風に対して知恵なき内向きの姿勢が強まるだろう。先行きは暗い。

2017年11月19日日曜日

「▲▲砲」が自然発生し繁茂しつつあるようだ

「文春砲」という言葉が日常化したかと思えば、今度はネット上のニュース、というか意見公表の共有空間ともいえるアゴラをたとえて「アゴラ砲」という語が使われるようになっている。

確かにアゴラという場は実に面白く、モノトーンで退屈な大手新聞社の紙面とは全然比較にならない。アゴラは意見を公表している著者が明らかであるが、新聞は誰がこんなことを言っているのか分からない。取材記者の意見か、編集局長の意見か、社長の意見か分からない。

「意見」というと大手マスメディア企業は「報道」を担っているのだと主張するだろうが、「何をどのように報道するか」という選択にそもそも主体的な意見が含まれている。事実をどう見るかはそれ自体が意見である。

前から言っているが、個人には参政権があり政治を語る権利があるが、法人には参政権がなく、会社として政治を語る権利はない ― マア、「語る権利もない」と言い切ると言い過ぎになるかもしれないが。

もう情報伝達のためのツールという視点において、新聞とインターネットの勝負は明確についてしまっている、と。小生は断言したい。

■ ■ ■

たとえば、『公約違反の政治家を債務不履行で訴えられるか?』という問題提起があったりする。

こんな問題は、大手新聞もTVも真面目にとり上げられないに違いない。せいぜい、バラエティ番組でお笑いも混ぜて誰かが発言してポカッと叩かれる。そんな風に流すのがせいぜいである。つまり既成のマスメディアは、大手であるが故にあまりにも記事内容に自主規制、社会的規制を加えざるを得なくなっており、それが故に記事を読んでもまったく面白くない。かといって、内容にバイアス(=偏向、偏り)がなく、バランスよく世間の考え方を紹介してくれているかといえば、決してそうではなく、結局は自社の哲学や理念に賛同してくれる優良顧客層に買ってもらうために新聞を売っている、更には全国地域地域にある既存の新聞販売店を守るためには売れる新聞をつくる必要があるのだ・・・まあ、ブッチャケ、そんな成り立ちがあからさまになっている。それなら敢えて読む必要もない、と。もっとズバリ本質をついた同じ立場の意見はアゴラにある。勝負はついた。上ではそう書いたわけだ。

■ ■ ■

ただ、公約違反の政治家を債務不履行では訴えられないだろう。なぜかといえば、政治家の公約は、支持基盤に対する約束であるにすぎず、反対派との調整を行う以前の段階であることは明らかなので、公約が実現されるかどうかは未定。つまり「公約とは予定」、「予定は未定」。それが選挙の時の「公約」というものだからだ。

もし一定の公約を掲げた政党が選挙で勝利を得たとすれば、国会でも多数派になる以上、公約を実現できるだろう。確かにそれが理屈ではあるが、無理に通せば「数の力で押し切った」と批判されるだろう。少数派も国民には違いなく、すべての政策は全体の利益になるものでなければならない。それが基本原則になっているからだ。損をする(=だから反対する)側に一定の保障を与え、少数派がそれで納得しない限り、多数派の「公約」は実現不可能である。そんな調整をしているうちに、多数派が次の選挙で負けたりすると、すべてリセットされる。

■ ■ ■

公約なんてそんなものと言えば「下らねえ」と感じたりもする。

いまでも「軍事政権」はそこかしこにある。日本も国際環境によってはそんな全体主義国家に逆戻りする可能性がないとはいえない。命令できるなら公約は必ず実行できる。命令に服従しなければ「非国民」と判定すればよい。日本にもそんな時代があった。しかし、命令できる政府なら一度政権につけば、それ以後、公約などはしないだろう。トップと何人かの側近で政治をするだろう。

選挙にせよ、政治にせよ、民主主義にせよ、これらを前提すれば「公約」はこんなものだろう。「民主主義」とは「温かい家庭」と同じようなもので、口にするのは簡単だが、実践するとなると色々な問題が発生する。

とはいえ、こんな風に自分の頭で考えて見たくなるのは、問題提起が面白いからである。社会のことを理解するには、自分の頭で考えたいと感じることが大事で、「こんな事実がありますよ」というだけではもう不十分ではないか。まして、「これはこう見るのがよい」と上から目線で「教えてやる」といったスタンスで記事を書いて見ても、もう読者はついて来ないのではないかと思ったりする。

2017年11月18日土曜日

「政治ドラマ」、「政治俳優」、「政治女優」の時代なのか?

選挙に勝った<立役者>だというので小泉進次郎議員がブレーク中である。そうかと思うと、こんな記事も出始めた。

報道陣から代表辞任の思いを問われ、「日本と、そして東京が良くなることなら、なーんでもしたい」と意気軒昂だったがこの人の心変わりは速い。知事の任期を全うするかどうかも分からない。

(出所)産経ニュース、2017年11月18日配信

言うまでもなく小池百合子都知事の近況である。

政治が現実そのものであるという実感を喪失して、どこかで上演されているドラマに近いような感覚で聞くようになると、必要なのはワクワクさせるようなストーリーと、ストーリーの中で演技をする俳優と女優である。

前に投稿したように、元キャスターである小池百合子はマスコミがうんだ最上級の政治女優であった。 しかし、同女史はプロデューサーであるマスコミが期待する言動から外れて、勝手なことを発言し始めたので、役を降ろされた。あとは失墜の行く末が待つだけである。転落した大女優もまたマスコミ好みの主題なのである。

小泉進次郎も政治俳優の道を歩むつもりなら転落が近いだろう。

安倍総理はマスコミの脚本を演じるつもりはハナからないようだ。今の日本社会ではそれが正解だ。

予想だが、小池百合子女史は近い将来に「平成無責任女」と呼ばれるようになるのではないだろうか。マスコミがそう名付けるのではないか。かつてマスコミは植木等を「昭和の無責任男」と呼んで、一大ヒットを飛ばしたものである。平成無責任女・小池百合子を完成させるのは都知事辞任(→海外の大学客員教授就任?)劇をおいて他にない。

政治ドラマを考えているマスコミはその方向でいまシナリオを検討中だろう。いま、小生、そんな想像をしている。もしそうならば、先ごろから本ブログでも何度か投稿している「小池女史=嘘つき魔女」よりももっとタチが悪い悪ふざけであると思ったりする。

なぜそんな悪ふざけをするのか? 視聴率が上がるからである。販売部数が増えるからである。儲かるからである。ただそれだけだと小生は思ってみている。

実に、<国民の国民による国民のための政治>が<少数の私企業>の損得計算に利活用され、影響され、時に支配されている。憲法で保障された表現の自由には当てはまらない問題のはずである。表現の自由とは思想や信条、信教に関する個人の権利のはずである。私企業の利益とは関係のない、もっと基本的な概念のはずだ。しかし、誰も何も言い出せない。

情けない状況になってきた。

2017年11月16日木曜日

裁量的な行政 vs 恣意的な反対

この春から紛糾してきた加計学園獣医学部の新設が大学設置審で認可され来春には開校の運びとなった。

これで事態は収束に向かって間もなく一件落着かと思われたが、ドッコイドッコイと言いたいのか、野党はまだなお徹底追及する構えを見せている。土俵際で倒れながらも、背中に砂が付くまでは「まだ負けてない」と、そんなスタイルであるな。

野党の頑張り自体は尊敬に値するものだ。野党が無気力になれば、民主主義そのものが腐敗してしまう。とはいえ(公平な第三者で構成されると想定するべき)審議会の結論自体を認めない、その結論に沿った行政府の事務執行にまで国会が異論を挟むようになると、行政が停滞する。さらには立法府が行政府の事務にそこまで介入できる権限があるのかという問題も出てくるだろう。

行政権は行政府にある。明確に法律に反している、あるいは立法趣旨に反している時は、立法府は行政府の行為を変更するべきだ ー 行政組織、行政法分野には、小生、素人だが、多分、間違っていない。違法の場合は国会が取り上げる以前に即刻判断がつくはずだが、関連法制の趣旨に照らして不適切であるならば、不適切であると判断するプロセスが国会の場で必要だ。多分、そのプロセスも多数派である与党に影響されるだろう。それが選挙というものではないか。委員会の質問の場で政府の不適切を指摘することも当然ながら可だ。しかし、不適切の有無は法に沿って指摘するべきであり、「なんとなく感じが悪い」などという修辞や誇張は野党の信頼性を落とすだけだろう。

★ ★ ★

どうやら野党は獣医学部新設に関わる石破4条件に反していると。この線から攻勢をかけてくるという報道だ。

そもそも石破4条件というのは、2015年当時に地方創生担当相であった石破茂議員がまとめ平成27年6月30日に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」(本文第2部・第3部)の121ページに記載されている、以下の一文であるらしい。

現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化 し、ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、かつ、既存の大学・学部 では対応が困難な場合には、近年の獣医師の需要の動向も考慮 しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。

上の文中の『本年度内に検討を行う』というのは、平成27(2015)年度中という意味である。「かくかくしかじかを考慮しつつ、本年度内に検討を行う」という文言は「来年度以降には一切の検討を行わない」ということを意味しない。もし「未来永劫」ずっと行政府の判断を縛るものにするなら閣議決定ではなく立法化しておくのが適切であった。そうすれば立法府が行政府を縛ることができる。

実際、当時の責任者であった石破氏は次のように語っている。

 「学部の新設条件は大変苦慮しましたが、練りに練って、誰がどのような形でも現実的には参入は困難という文言にしました…」。平成27年9月9日。地方創生担当相の石破茂は衆院議員会館の自室で静かにこう語った。


当面は獣医学部に参入できないようにしておこうという「行政判断」として上のような文章表現にしたということは明らかである。これ即ち「既得権益の保護」であり、現政権だけではなく、経済理論にも、近年の世界の経済政策の潮流にも反している ー この1,2年の保護主義には合致しているが。

集団的自衛権ですら閣議決定を変更して、それまでの「非」を「是」とした。いわんや一大学の一学部においてをや、だ。こんな些末な事柄など閣議決定をいつでも変更できるだろう。

というか、石破4条件なるものは元の文書を素直に読む限り「当面の方針」である。

「石破4条件」を盾にして正面から論争するとしても野党に勝ち目はないのではないだろうか。

確かに安倍政権は裁量的に色々な事を変更している。それが是か非かという問題はある。しかし、論理は曲がりなりにも構築している。野党の反対にはそれがない。このままでは恣意的な反対だと言わざるを得ない。そうなるのではないか。

★ ★ ★

 まあ、小生もこの件については専門的にあらゆる記録を調べてはいない。ひょっとすると、▲▲が●●でこんな発言をしている、こんな資料が隠れてました等々、というような動かぬ証拠があるのかもしれない。

だが、しかし、政治とか経済のプロセスはその因果関係が多面的で複雑だから分かりにくいが、紙一枚で大きな政治的決定が為されることはない。紙一枚はリアルな諸事情の結果である。紙一枚がその後の進展を決めるわけではなく、その紙一枚を書かせた諸事情が決定していくのである。紙一枚の一言一句に執着して是非を議論しても重箱の隅をつつくだけの神学論争になるだけである。

『よお〜く調べてみたら、こんなことがわかりました』、『いやあよく分かったねえ』と。研究では確かにこんな局面もある。連想するのだが、ビッグデータの世界では、1千万件のレコードを分析して初めて分かってきたことがある。そんなニュースが時々ある。それほど重要な傾向があるなら、なぜ今まで気がつかなかったんですか。重要な傾向なら誰でも経験で気が付いているのではないですか、と。そう聞きたくなるではないか。

ビッグデータ分析にも創造性のある分析とつまらない分析がある。ビッグデータなら良いとは限らない。問題追及にも、真に社会を進歩させる追求と重箱の隅をつつくだけの追及がある。問題がある(ありそうだ)から追及する、それだけではダメなのだ。

細かな細部をつついて初めて分かることが、実は決定的に重要な主因であったなどということは経済分析、経営分析、あるいは政治分析においてほとんどない。基本的なことは粗々のモデルで大体分かるものだーもちろん一定の視点/パラダイムは大前提としてある。たった一つの細かな証拠が結論を左右するほどに決定的であったりする刑事事件とはここが違う。社会現象の分析と刑事捜査とは本質的に異なるものである。国会議員は、政治・経済・社会の理解者としての役割が主であって、刑事事件捜査の担当者としての感覚を持つ必要はない。

だから余り細かな事ごとを調べて、加計学園問題を理解しようなどという気にはなれないのだ。


2017年11月15日水曜日

「小池劇場」の終幕?

小池都知事が希望の党の代表を辞任して小池劇場の幕はおりた、とワイドショーにまた話題を提供している。

希望の党の立ち上げから50日。今夏の都議選で都民ファーストが圧勝してから100日余。昨年の夏、都知事選に自民党から抜け駆け立候補してから1年余。

先日の投稿では、小池劇場なる出し物、昨夏の都知事選で幕があいたと述べた。それは長大な喜劇であったと書いた。ジャンヌ・ダルクという悲劇のヒロインかと思いきや、ジャンヌ・ダルクが舞台の真ん中でスッテンコロリンと転んでしまう、実は公衆の大笑いをとる傑作ドタバタ喜劇であるとした。

ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロでさえも表現し切れない、現世のアヤがみてとれると。そんなことも書いた。

やっぱりそうであったか・・・今はそんな感想である、ナ。

そういえば、この秋に盛んに投稿したように、小池女史、勝負服も緑から黒に変更した様子だ。誰かがアドバイスしたのだろうか。

結局、マスコミに使い捨てられようとしている政治女優の一人である実態があらわになってきたということか。

栄枯盛衰。

人間も会社も、時にバブルがみるみる膨らむようなブームにわくことがある。しかし、長期的にはその人間の識見・力量、会社の経営陣の実力、その会社がもっている経営資源を反映するような結果に落ち着いて、全体の状況は定まるものだ。

人生には、政治人生、学者人生、医師人生等々、いろいろな人生があるが、人生を全うするだけでも立派な人生である。中途で▲▲生命を失うといった例は歴史上でも数え切れない。

大きな事を成し遂げるのは、その人の巡り合わせで大勢の人が集まるからであって、上昇したいというような「希望」があって出来るものではない。そもそもの志と時運がマッチすることが大事だ。

こんなことを考える機会を提供してくれた顛末であった。

2017年11月14日火曜日

家族 vs 福祉国家

最近は高齢者福祉から育児支援・教育支援になんとなく世間の注目が集まっているが、TVのワイドショーでもとり上げられているように、問題の規模や深刻さは高齢者問題をどうするかの方が段違いに大きい。これはもう放映される情景をみれば、誰でもが直感的に明らかだと思うのだな。

孤独死しかり、住居難しかり、生活苦しかり、病気になって病院に行けないという運動困難しかりだ。あらゆる人生苦が凝集されている社会問題が高齢者問題である。

★ ★ ★

どんな人間社会においても高齢者や幼少年をどう養うかはずっと問題であり続けた、これは当たり前の事実だ。

そして、その解決の主体になってきたのは、ずっと家族・親戚・同族であったことも事実である。「国」や「社会」は家族内、親戚内の問題について深くは入り込まないのが不文律であった。なぜなら「社会」という存在は実際にはないのであって、その実態は他の家族であるに過ぎないからだ。自分たちの家族内で発生した問題は、原則として家族内で解決するのが当たり前だというのが日本人の倫理だったと言える。そんな倫理がある以上、国は家族内の問題は家族に一任するのが、面倒でなく費用もかからず楽であったのだ。

その倫理・慣習を突き崩した根本的原因は、明治以降の兵役の義務と戦前期・日本の軍国主義によるいわゆる「根こそぎ召集」である。

家族や同族の生き残りのためならば生命を捧げることすら厭わなかった日本人の生活に、「国家」のために命を捧げよと求めてきた政府は明治政府が初めてである。そんな政府は1945年に(幸いなことに)消滅したが、家族や同族の上に国家や社会を置くという価値観はまだなお色濃く日本社会に残っている。

★ ★ ★

自民党の改憲案では家族の重要性を謳っているようだが、実際に最近とられてきた制度改正はずっと昔の尊属殺人重罰規定の廃止、個人ベースの国民年金制度、離婚時の年金分割、配偶者控除見直しの開始などなど、あくまでも個人個人に区分した生活保障が基本的な潮流になっており、家族をむしろ個々人に解体する方向を指している。

人生を通した生活保障は元来が家族や同族が行ってきたのであって、そうでなければそもそも「家族」や「結婚」、「親子」や「親族」などは単なる束縛であり、存在価値がないものではないかと思う。いやいや、現実に家族や同族といった観念は日本社会において面倒で不必要なしがらみとして捨て去られようとしているのかもしれない。この2、30年は日本社会の激変期であるのかもしれない。

それならそれでも構わないのだろう。ずっと昔は「世間」と言ったり、「浮世」と言ったりしたものだが、どう変わっていくか予測はできないのが社会である。それでもなお、老いた男性には別れた妻がおり、3人の子供がいるにも関わらず、誰一人として保証人がなく、老齢でいつ死ぬかわからないという理由で、住む家に困り、自分の死が早く訪れることを望むなどという状態は、哀れな国であるとしか思われない。

たとえば市役所や地域社会が何かの措置を講じ、国もそんな高齢者の社会支援をバックアップするというのは、かつての軍人恩給制度とどこか似ている感覚がある。問題がそれで解決されるなら、それでもいいのだろう。

しかし小生は、ずっと以前にも投稿したが、マーガレット・サッチャー元英首相が言った"There is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families."、この社会哲学の信奉者だ。マア、単なる好みなのかもしれない。しかし、社会とは「他の家族」のことだ。社会が支援するというのは、他の人たちの財布から出してもらうということである。なぜ血の繋がった自分たちでまず助け合わないのかという疑問は、誰も口にしないだろうが、社会福祉にはいつも潜在しているウィークポイントだろう。この話題では、小生、社会の役割軽視、家族の役割重視、親族間の相互扶助尊重。疑いなく右翼である。

軍国主義や全体主義が持続可能ではなかったように、国民全体を一家族のように擬制するような社会福祉もまた持続可能ではないと思われる。

社会的な失敗は、ほとんどの場合『人間は夢を抱く』、『人間は互いに協力する』というヒトという動物固有(だと思うが)の二つの性質からもたらされるものだ。

2017年11月11日土曜日

「日本の家電メーカーは世界に冠たる・・・」と豪語していた時代

東芝がテレビのREGZAブランド、パソコンのDynabookブランドを完全に放棄することを検討しているようだ。

歳月匆々、転た凄然というのはこの事である。

◇ ◇ ◇

小生が北海道の地方都市に移住してきたのは1990年代の初め、バブル景気は崩壊したものの、それから後に「失われた15年」という長い時間が必要とされていたとは想像もしていなかった頃だった。単なる株価の大幅調整、地価の水準調整。その程度に考えていた。

ただ日本の花形産業がそれまでの「鉄は国家なり」から軽薄短小の電機産業にシフトしていく方向は必然とみられていた。中でも日本が絶対的な強みを持つと思われていたのは、家電製品全般、半導体、精密機械だった。自動車は確かに強力だったが、まだまだアメリカのビッグ3が覇権を握っていて、トヨタやホンダ、日産はあくまでも世界市場への挑戦者という立場でしかなかった。

その電機産業は既にアジア全域にサプライチェーンを構築中であり、製品の信頼性、コスト優位性などすべてを含めて、絶対的な競争優位性を信じて疑わないという鼻息だったことを鮮明に記憶している。「生産のモジュール化がカギなんですよ」と何度聞いたろうか。

・・・まるで、ミュージカル『キャッツ』でグリザベラが歌うバラード「メモリー」の世界である。
Memory
All alone in the moonlight
I can smile happy your days (I can dream of the old days)
Life was beautiful then
I remember the time I knew what happiness was
Let the memory live again
メモリー 月明りの中
美しく去った過ぎし日を思う
忘れない その幸せの日々
思い出よ 還れ
今朝、カミさんが『大分寒くなってきたよね、そろそろ毛布もいるけど、ダイソンのヒーター、羽がついてない扇風機みたいなものがあるでしょ?あれもネ、いろんなヴァージョンがあるみたい。扇風機にもヒーターにもなって、静かみたいヨ』と眠いのに話しかけてきた。薄く目を開けると、もうiPad Air2を指でタッチしながら何やら調べている様子だ。

◇ ◇ ◇

アップルはアメリカ企業だ。ダイソンはイギリス企業だ。

日本の電機産業は世界に冠たる競争優位性を築いていたのではなかったのか。文字通り『過ぎし日を思う』朝のひと時であったのだ。

小生がまだ大阪で研究をしていたころ、主に使っていたのはNECのデスクトップPC98であった。DOSマシンである。ただ、その頃アップルのMacintoshが急成長しつつあって、やがて小生も研究費でSE/30を購入した。その後、Quadraまでアップルを使った後、ようやく追いついてきたWindowsに移行して、その後PCはずっとMicrosoftを愛用している。ただ、趣味の世界ではやはりアップルを使い続け、ウォークマンを二度ほど買い換えたあとは、iPodに移り、その後はiPhone2、iPhone4sと買い換えてから、いまのGoogle Nexusにたどり着いた。いやあ、SONYのオンライン・ミュージック・ストア・・・何と言ったっけなあ・・・使いにくかったねえ。それだけは覚えている。

小生が若かった頃にはなかったものが、今では広く使われていて、ライフスタイルは昔と一変してしまった。そんな新しい生活を支えているものは第一にスマホ、タブレットというよりインターネット。PCもタッチペンが鉛筆や万年筆なみになってきてデジタルノートがとれるようになった。買い物はAmazonだ。この冬にはEchoが日本にも登場する。毎日の家事では掃除・洗濯・料理がある。そのうち、掃除はダイソンのコードレス・クリーナーに買い替えてしまった。料理といえば炊飯器だが、それはまだ日本製だ。しかし、ホームベーカリーはフランスのTfal、やかんはTfalのケトル、コーヒーサーバーはネスカフェのバリスタ。まだ現役続行中であるのは、東芝製の洗濯機であるが、東芝は既に白物家電事業を中国に売却した。

こうみると、世界に冠たるはずの日本電機産業は中国や韓国の低価格商品に駆逐されて敗退したわけではないことがわかる。もちろん半導体が韓国勢に後れをとったことは事実だ。しかし、1990年代初めの時期、過剰設備を解決しようとして生産能力をスリム化した日本勢の戦略が韓国勢の拡大戦略を誘発したことも否定できまい。戦略的代替関係が支配している設備投資ゲームにおいて、日本の出方をモニターしているライバルの存在を意識することなく、何らコミットメントを発することなく、スリム化戦略を進めたのは油断というしかない。

世界を変えるような創造的な新製品はアメリカやイギリス勢に後れをとり、コスト優位性があるはずの既存製品では戦略ミスを犯した。戦略ミスは経営能力の問題だ。

競争優位を築いた先駆者が退いたあと、実際に手足を動かし、汗を流して動き回った後続世代が経営の舵取りを担うようになった。おそらく自分たちこそが世界市場の覇権を築いたという感覚を持っていたのだろう。それは錯覚だった。勝つか負けるかは、個々の兵士、個々の営業レベルで決まるのではなく、もっと上位レベルの戦略的判断を担う人たちの能力で決まるものである。一定の方向付けを与えられて個々の問題を解決できたからといって、世界規模になったメガ企業をどう発展させていくかという高度の問題は身に過ぎた問題であった。

◇ ◇ ◇

戦争はやってみないと分からないところがある。もっと危ういのは、負ける可能性を認識できず、必ず勝てると信じてしまう人物群が指導的なポジションを占めていることだ。まあ、最後にかつ人間というのは有能な人物ではなく、勝てると信じている人間であると、ナポレオンは言っているそうだが。そのナポレオンも敗れて人生を終えた。

黄金時代の日本の電機産業は、確かに韓国や中国の低価格戦術に被害を被った。しかし、アメリカ勢にも、ヨーロッパ勢にも創造性や魅力という点で敗退したのである。

決して安物にシェアを奪われただけではない。「世界に冠たる・・・」は、ヘボの勘違いであったに過ぎない。

「価値観や哲学、統制ある行動パターンとか、すべて間違いだったとは思えないんですよネ」と言っているようでは、電気産業だけではなく全産業において危ないと小生は思って見ている。

2017年11月10日金曜日

大国になれば「大国の論理」が出てくるのは自然である

訪中しているトランプ大統領に対して中国は「太平洋二分論」を繰り返しているとの報道だ。やはりそうか、という人も多かろう。

1930年代から40年代にかけて、大日本帝国の基本戦略は「大東亜共栄圏」というものだった。その狙いは、広域アジア圏からイギリス、フランス、オランダ、それからアメリカなど欧米の勢力を「排除」(=植民地を解放)し、独立したアジア世界を構築しようと。立派に言えばこのような戦略を実行していた。中国が「大国の論理」を振りかざしているなら、戦前期・日本も同じようなホラを吹いていたわけだ。

近年、中国が特にアメリカを相手にするときに主張する「二大国」、「太平洋二分論」は、かつて大日本帝国が主唱していた戦略とさほど違いはない。アジアのことにアメリカは口を出すな、と言っているわけだから。

なので、中国が主唱している「太平洋二分論」は、急成長を遂げつつある国なら必ず口にする発想に過ぎず、そういうものだと見るのが自然だ。が、その国が「大国」を目指している。この点は、やはり見逃せない事実であり、既存勢力との対立から地域を不安定化させる要因たりうる。古代ギリシアのペロポネソス戦争以来、覇権の交代が進む時代には、安定ではなく不安定が支配する(ツキディデスの罠)。

本当に現代の中国はペロポネソス戦争を見る目で見なければならないような存在なのだろうか?

◇ ◇ ◇

旧勢力の側にたって整理してみよう。

客観的にいうと、急成長する国家が危険な存在になるのは、以下の場合であろうと思う。

  1. 生産力が急速に発展し、債務国から債権国に移行し、発言力が高まった。
  2. その裏面で、マーケット、というより顧客や影響力を奪われた既存勢力があり、対立的な状況が生まれている。
  3. 新興国は、まだ文化的優越性を持たず、ヒトの流入、カネの流入が安定的に期待できない。
  4. 新興国がマクロ経済的な問題(=需要不足、失業増加等の混迷)に直面し、経済取引や経済政策以外の手段(政治外交的圧力、軍事など)で問題を解決したいと願う誘因をもっている。

アジア圏における戦前期・日本のポジションを上の1から4までの観点からみてみる。大日本帝国については上の1は事実だった。3も当てはまっていた。4も第一次世界大戦後の1920年代から30年代を通して確かにそう言えた。2はどうだったろうか。日本の国際的競争力はそれほどのレベルではなかったはずだが、第一次世界大戦の勃発から日本が欧米企業の顧客を奪取した状況が先にあった。大戦中に日本国内では設備投資ブームが発生した  ー  それが終戦後は過剰設備となったのだが。4の苦境は、大戦終了後の反動であった。やはり2も該当していた。大日本帝国については1から4までが全て当てはまっていた。

現在の中国だが対外純資産はすでに巨額に上っているので1は該当する。2も当てはまるだろう。日本は中国に、というより電気製品で韓国にという方が適切な部分があるが、その韓国が中国に顧客を奪われているとすれば、やはり2は当てはまると言ってもよいかもしれない。しかし、日本が生産拠点を中国に移している面もあるので単純に当てはまるとも言えない。3については、ヒトは集まっていない。が、カネは集まっている。実際、上海市場は好調、中国には大富豪がどんどん誕生している。しかし、中国の生活(Chinese Way of Life)、中国の文化(Chinese Culture)が世界に魅力を感じさせている状況ではない。ヒトは中国に憧れはしないだろう。3は半分程度は当てはまるというところか。4は微妙である、というより当てはまっていない。中国経済はバブルと言われるようになって久しいが、バブルは5年も10年も続きはしない。バブルというよりは高度成長時代というべきだった。が、成長率は必ずキンクする。中成長路線へのスムーズな移行ができるかどうかが今の問題である。成長している限り、国営企業の不良部門は必ず整理できる。

中国は対外純資産はプラスに転じたとはいえ、所得収支はまだマイナスであり、外国に支払う利子や配当の方が大きい。対外直接投資残高をみると、世界で10位前後であり、他を引き離すアメリカに次ぐ2位から9位までの諸国と同程度の横並びである。上の項目の2も該当するかどうか分からない。しかし、対立に至りそうな勢い、というか芽はある。この位は言っても可かもしれない(言えると考える人が、中国脅威論を述べているのだろう)。

中国に確実に当てはまるのは上の1。1だけである。他は全て微妙、もしくはハッキリと当てはまっていない。

こうみると、中国の「大国志向」は自国の問題解決のために採用される「拡大戦略」というよりも、経済成長がもたらす自然な結果であるとも言え、「志向する」というより「事実としてそうなる」、どちらかと言えば19世紀のアメリカ合衆国の成長とあい通じるものがあると思われる。

第一次世界大戦中のアメリカと北朝鮮危機の下での中国と、両国はいかに似たポジションをアジアにおいて占めていることだろうか。北朝鮮という厄介物がなければ、旧勢力(日本)の側が新勢力(中国)に対してもつ嫉妬がアジアにおける決定的な不安定要因になっていたかもしれない。「北朝鮮のおかげ」という一部政治家の発言は、案外、的を射ているかもしれないのだ ー そんな深い意味はないと思うが。

◇ ◇ ◇

ペロポネソス戦争のように旧勢力(コリント、スパルタなど)の側から新勢力(アテネなど)に戦争をしかけるということがなければ、新勢力である中国の側から軍事的抗争をしかけるという事態は予想しづらいものがある。ツキディデスの『戦史』に叙述されているように、ペロポネソス戦争を引き起こした根因として、旧来の商業国家コリントが新興の海軍国アテネに対して感じる嫉妬があったことは現代にも通じる歴史である。軍事強国スパルタはアテネと戦う積極的理由はそれほどなかったにも関わらず、軽武装国家コリントがアテネと対抗するために利用され、戦争に巻き込まれたと見るのがやはり正しいのだろう。

要するに、成長する中国自体が危険な存在であるとは小生には思われない。なぜなら、世界GDPが増加することは経済状況としてプラスに決まっており、まして世界の経済的不平等を解消するのに寄与するのであれば、倫理的にも善いことだ。これが道理だろう。というのが、現在の状況ではないだろうか。

そう。確かに古代ギリシアにおいて、ペロポネソス戦争勃発時においてアテネは未だ新興勢力であった。ギリシア世界の文化的中心ではなかった。ギリシア悲劇が花を咲かせるのはペリクレス時代というより、ペリクレス没後の戦時、敗戦直前までの暗い時代であった。プラトンがアカデメイアを開学したのは敗戦後の混乱しつつあるアテネである。政治的勢力としてアテネは没落途上にあった。政治的に没落したアテネにあって、文化的には花が開いた。後世に残る文化とはそんなものであろう。

まあ現状をみると、現代中国という地に非常に魅力的な文化が花開き、世界中の人を魅了するのは、まだしばらく遠い将来のことである。そうとも言えるようである。むしろ中国がそのような場になるように他国が対応していくことが、世界規模の幸福の増進になるだろう。これだけは言えそうである。

最終的に世界中の人たちが従うのは、優れた文化にであって、戦争の勝者にではない。アメリカの台頭によって欧州は地盤沈下したが、それが世界にとって不幸であったと論じる人はどこにもいないだろう。それと同じである。

覇権闘争にカネをつぎ込むことの損は日本も十分にわきまえておくのが賢明である。日本国が提供できる魅力を毀損するだけである。

『北朝鮮のおかげで政権のやりたいことができる』などという政治哲学では、文字通り「お先真っ暗」、成るようにしかならない。「一寸先は闇」という政治しか期待できない。これまた今の時点で言えそうなことである。

2017年11月6日月曜日

罪の公訴時効 vs 知的財産権の効力

近いうちに映画が公開されるので評判のミステリー小説『検察側の罪人』(雫井脩介:文春文庫)を読んだ。ミステリーとは言うものの、プロットは半分辺りで明らかになってしまうので、あとは相当程度ヒューマンドラマ的な味わいになっている。

内容の批評はさておき、一言だけ覚え書きを。

公訴時効によって罪を逃れた犯罪者が本来受けるべき罰を与えるに、いかなる罰が最も厳しく、苛酷であるか? それはやってもいない犯罪で立件し、刑に処することである。つまり、冤罪の苦痛は何ものよりも耐え難く悲痛である。もしも罰するなら冤罪より苛酷な「刑罰」はない。無茶な論理ではあるが、こんな着想が作品のベースにある。

殺人罪の時効がまだ15年であった時代が発端になっている。しかしながら、殺人罪の公訴時効は2010年4月27日に「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」によって既に廃止されている。

20歳の時に犯した重罪は、たとえ90歳の老人になって罪が発覚しても、刑罰から逃れることはできない。国民(=公益を代表する立場に立つ検察)は、70年の時間の長さの中でどんな生活が営まれて来たのか、それは別問題として70年前の罪の責任を追及できるようになった。もしこんな状況が最初からあれば、上記作品の主人公(?)である野上検事は無理な冤罪工作をせずともすんだわけだ。

ここでちょっと思うのは、知的財産権の存続期限である。各種権利を整理すると
特許権: 出願から20年間
実用新案権: 出願から10年間
意匠権: 設定登録から20年間
商標権: 設定登録から10年間
著作権: 著作者の死後50年間(法人著作は公表後50年間) 
になっている。すべて有限期間である。

知的財産権の中には、社会生活を一変させるほどに決定的だった技術革新も含まれている。しかし、そんな特許技術も存続期間は20年間であり、その後は誰でもその技術を模倣して、利益を追求できるわけである。

社会全体に巨大なプラスの価値を提供した人物であってもその功績、というか報償を受ける権利は20年間で消失し、反対に犯罪という反社会的な行為を犯した場合には(特に重大な犯罪の場合であるが)無期限にその責任を追及されるというのは、表現は難しいが直観的にバランスがとれていないように感じる瞬間があった。

確かに公訴時効は、15年とおいても、25年とおいても、理不尽なことが生じうる。だから無期限に社会的責任は続くものとした。しかし、であれば、たとえば新素材や特効薬を見出した特許が20年間で消失するというのは、「世間というのは忘れっぽく、恩知らずである」と発見者は感じるかもしれない。技術が古くなり使われなくなれば、自然に消え去っていくということだが、使われているなら使用料は無期限に支払ってほしいと考えるかもしれない。豊かになれた功労者の恩を<社会としては>忘れてもよいなら、半世紀も昔の犯罪も<社会としては>忘れるとしても、それも在りうる考え方ではないか。そんな問いかけがあってもよいような気がした。

恩は忘れても恨みは忘れぬ、というのは理が通らない。そう問うても可だ。

まあ、ずっと歌い継がれたり、読み継がれたりする音楽や文学作品は、作者の生前はずっと、死後までも権利が守られているわけだから、犯した罪の責任も当人の死まで及ぶと考えても、整合しないとまでは言わないが。

◇ ◇ ◇

それにしても、小生、クリスティの『検察側の証人』は何度も読み返していて、同じ作者によるもっと高名な『ねずみとり』よりずっと愛着があるのだ。『検察側の罪人』というタイトルには、意味不明で思わず「ン~~ン!!」と唸ったのだが、読んでみると「なるほどね」と納得はするものの、一寸底が浅いなあという印象だ。

2017年11月4日土曜日

現代社会を象徴する迷宮: 年金制度

60歳を超えてからも国民年金には任意加入をして<継続>してきたと思い込んでいた。ところが、先日届いた基礎年金支給額の証明書をみると<満額>ではない。吃驚して色々と調べてみると、国民年金の任意加入手続きは居住する市役所で行うことになっている。ずっと以前、60歳になったときに勤務する大学内で年金関係手続をしたのだが、そのとき『年金関係はこのまま継続しますか』と、そう聞かれたのを記憶している。『ええ、継続でお願いします』と、そう答えたのだった。にも関わらず、だ。「国民年金への任意加入手続きは今回の手続きには含まれておりません」とか、「任意加入は市役所のほうで行ってください」とか、一言あってもよかったのではないか、と。そんな憤りを感じたのだが後の祭りと思うことにしていた。

それが少し以前のことだ。

カミさんがもう少しで60歳を迎える。これまでは小生の給与で国民年金保険料を払っていることになっていた。いわゆる専業主婦の「3号被保険者」である。小生はカミさんが60歳を超えても給与をもらう。カミさんは、しかし、60歳を迎える。「保険料支払ったことにしてくれるのかなあ?」、そういう疑問で、年金機構に電話をかけてみたのだな。

カミさん: やっぱりネ、払わなくても払ったことにしてくれるサービスは60歳で終わるんだって。その後、任意加入したいなら市役所に直接いって、手続きしてくれっていうことだよ。 
小生: やっぱりそうか・・・とにかく60歳で切れるんだな。給与はもらい続けるけど、それまでは払ったことにしてくれる、誕生日の後は払ったことにはしてくれない。自分で払いなさいと、そういうことか。なんか可笑しいけどねえ。 
カミさん: サービスだって言ってたよ(笑)。してくれるのはサービスだって・・・でね、その手続きはまだ出来ないそうよ。誕生日の前日から手続きが可能ですからって(笑)。そういう<規則>なんだって。あっ、それからネ、旦那さんが勤務し続ける場合は60歳からあと、国民年金への任意加入は認められないことになってるって。だから、大学の事務の人のせいじゃないんだヨ、定年が63歳だからさ、仕事を続けるでしょ、だから国民年金には入れなかったって事。 国民年金は入れないけど、厚生年金には入っているはずだから、そちらが増えてるでしょって、言ってたヨ。国民年金は、平均で1年63万円くらいなんだって。満額支給の人って、あんまりいないみたい。
小生: じゃあ『年金はこのままで行きますか?』というのは一体なにを聞いたのかなあ・・・ 
カミさん: でもおかしいよねえ、60歳からあと、▲▲タンは給料はそのままもらっていても保険料は払わないことになった。でもワタシの保険料は払ってなくても払ったことにしてくれていた。 
小生: これは分からないヨ。知らないうちに未納になったり、払っているつもりがいつの間にか払えなくなっていたり、一体全体、こんな制度は誰が作ったのかねえ・・・??
すべて制度は「そうなっているんですから」と思って、個人個人の行動の大前提として受け入れれば、大前提自体の合理性を問題視する必然性はない。そうなっているものとして、後の合理性を確保すれば、それで最適化されるからだ。

しかし、現在の年金制度、ずっと昔にフレデリック・フォーサイスの『悪魔の選択』を耽読したものだが、まさに今の年金制度は「悪魔の制度」であるような感じがする。

複雑にして精緻、精緻にして理解不能。しかし、機能している。

一体、だれがこのような制度を構築したのであろうか。

2017年11月3日金曜日

モリカケ・ロングラン・・・まさかないとは思うが

大学設置審議会で加計学園獣医学部(今治市)の新設が認可される方向となった。これでこの春から世を騒がせてきた加計学園騒動も一区切りがつくだろう。審議会の新設認可が出る前と後とでは問題の性質がかなり異なってくるのは明白だからだーというより、問題そのものが実存していたのかどうかすら相当曖昧な状態に置かれている。だからこそ、世間は納得していないとも言えるのだろうが、正に、問題はないということの証明は至難であるという一例になってしまった。

その「まだ問題はあるのか」という点だが、世間には、設置審議会の審議内容自体に疑問符をつける人もいる。あるいは、大上段に振りかぶって『大学設置審議会の加計学園の獣医学部設置認可は、問題が無かった事を意味しない』といった論調もある。

一般的には、大学設置審議会の認可には問題がある可能性が常にある。もちろん厳しい認可要件を設ければ、設置される大学に問題が潜在している確率を低く出来る。しかし、中央官庁が大学新設に厳しい要件を課すことが適切かどうかという問題も片方にはある。と言って、要件を緩くすると、日本国内の審査基準が国際基準より甘いのではないかというバイアスが生じる。いわゆる統計分析でいうアルファ・ベータ問題だ。審査を担当する委員も神の目を備えているわけではない。一般論を述べても、だから加計学園獣医学部について何かの具体的な問題点があると指摘することにはならない。一般論は一般論である。

森友はどうか。こちらは会計検査院の審査によりごみ撤去費用が過大に見積もられていたという結論が出てくる方向だ。値引きが過大であったということでもある。

しかし、この問題は詰めれば詰めるほど事務手続き上の瑕疵の有無の問題となり、直接の責任は近畿財務局、せいぜいは財務省理財局長まで監督責任が及ぶかどうかではあるまいか。ましてもっと上の事務次官、さらに上の麻生財務大臣にまで国有財産処分の不手際の責任が及ぶとか、行政府の最高責任者である総理大臣に責任が及ぶという風には、正直言って、ちょっと「同意しかねますなあ」と言わざるを得ない。

そんなことを言えば、小生が暮らしている北海道の地方都市の一隅で行われた国有地払い下げ、その後の宅地造成においても、何か東京の首相官邸の力が行使され、不正が行われていた可能性がある。そんな見方もとれるということになる。

まあ、とれるのだよということだろうが、そもそも力を行使する側において動機がないのではないか ― 森友経由でカネが政治家にわたるなどという裏の贈収賄の構造でもあるならまた別だが、しかし、話しは政治家がカネをもらったのではなく、寄付をしたというのが問題になっているくらいで真逆である。

ま、森友事件で問題があったとすれば、首相夫人が名誉園長をしていた。この一点だけではないだろうか。やはり、公の場で何か一言、夫人の釈明があってもいいような気もしないでもないが、『軽率なことでございました』というだけになるのは確実であるし、だから首相を辞めさせるという風にはならないのではないか。

ま、マスメディア大手はどれほどの扱いをしたいと予定しているかは不明だが、春先とはかなり違ってくるのではないだろうか。