2020年11月29日日曜日

ホンノ一言: これが「邪推」でなければ幸いだ

 テレビ局や新聞社、週刊誌の編集局は、何が日本社会にとって最善であるかなどと考えながら番組を作ってはいない。記事を書いてはいない。

視聴率向上のためである。売り上げ収入の為である。つまり利益のためである。

故に、マスメディアの胸中にある本当のホンネは、世間に荒波がいつも立っていてほしい。できれば誘拐事件が発生してほしい、爆破事件があってほしい、今の時代ありえないと思われている「内乱」が起こってほしい……。まさか、ネ。

午睡でみる夢は大体は悪い夢である。うなされる。

目覚めてから「しかし……」と思う。

日本で、というのは流石に願わないだろうが、アメリカで「第二の内乱」とでも思われる武力紛争が突如として勃発したら・・・。それは日本のテレビ局にとっては「夢のような大事件」であろう、と。毎日特集を組むワイドショーの視聴率は50%を超えるだろう。これを願望しないはずがない、と。

スポンサーは、自社商品のプロモーションを依頼する。広告企業、メディア各社は依頼者の利益に沿って行動をする。なにも反社会的ではない。なにも悪くはない。しかし結果としては反社会的な行動をしてしまうことがあるという意味で脆弱性がある。弁護士をしばる倫理基準、マスメディアをしばる倫理基準、公認会計士をしばる倫理基準……、幾つもの倫理があるのだろうが、結果として社会を時に破滅に導きうるのも、やはり倫理であるのかもしれない。非合理な開戦を決意した昭和16年当時の関係者にもまた各自それぞれの倫理はあったに違いない。誰にでもその職業の「倫理」はある、その地位の「倫理」はある、つまりそんな「倫理」がその人の「正義」を決め、誰でも「正しいこと」をしたいと常に願っているものだ。

こんな風なことを考えた。

断想: ブラームスとベートーヴェンで気がついたこと

 日本国民4千万人の『GOTOフィーバー』も新型コロナ感染者の急増をもたらした「主因」であるとの疑いをうけ、そうなるとTV各局も飛びつくわけで、「検証」も「エビデンス」もないままに、とりあえず見直し、ということになった。この間の騒動振りは、「新型」だから正体が視えないという事情は分からないでもないが、誠に非合理かつ無様で、みっともなかったと思う。今になって「本当にGOTOトラベルが感染者急増の主たる要因だったのか?それはおかしい』という指摘が色々な所から出て来ているようだ。これまたバブル現象のあとによく見られる "aftermath"、 "hangover"というものだろう。

ともかく12月中旬頃にならなければ、今回の「一時見直し」で社会状況はどうなっているか?シミュレーションも見通しもまったくない、正に急な方針転換だったので、分からない。

感染対策。いまの陣容、いまの戦略でいいの?

そう思う人はこれから急増するかもしれない。

新型コロナの感染急増と感染対策の参謀チームに不信を感じる人の急増と、どちらが速く増えるかだネエ・・・おおっと、ワクチンもあった。ワクチンの普及が速いか?この三つの競争だわね。

上の三つの競争でどれが勝つか?賭けようかという人も、今後、非常に増えてくるかもしれない。この混乱の果てに、来年夏に東京五輪が予定されている。

戦前期1940年には日本側の都合で東京五輪を辞退した。

つくづく「東京」って都市はオリンピックとは相性が良くないんだネエと、そう思う。

★ ★ ★

近ごろ、この1年のモーツアルト偏向から少し離れてブラームスをまた聴くようになった。といっても、シンフォニーの4番だけを何度も聴いている。

村上春樹と小澤征爾の対談が『小澤征爾さんと音楽について話をする』という本になっている。その中にこんな下りがあるのでメモっておこう。119ページである。

村上: しかし耳で聴く音の印象は、ベートーヴェンとブラームスとではずいぶん違っていますよね。

小沢: 違いますねえ。(しばし間がある)……あのね、ベートーヴェンもね、9番で違ってくるんです。9番にいくまでは、そのオーケストレーションにはずいぶん制限があったんです。

村上: 僕の印象からすると、ブラームスの場合、楽器編成にそんなに変わりがなくとも、ベートーヴェンの音に比べて、音と音の間にもうひとつ音が入ってくるような、一段階濃密になっているような感じがあるんです。だからベートーヴェンの方がそのぶん、より音楽のストラクチャーが見えやすいというか……

小沢: もちろんそうです。ベートーヴェンの方が、管楽器と弦楽器との対話なんかが見えやすくなっているんです。ブラームスの場合になると、それを混ぜて音色を作っていく、ということです。

話しはブラームスの第1番なのだが、こんな会話をしているのをずっと覚えていた。

少し前に、初雪が降って冬の風景になった。それで何となく、ブラームスの4番を聴く気分になったのだな。そうしたところ、これまで気がつかなかった程の芳醇な響きの重層的な構造が伝わってきて、「これはすごい」と見直した。それまでブラームスの4番といえば、甘ったるい憂愁がブツブツと語られているような晩年の心情ばかりを感じてしまって、それよりは第1番の毅然とした、それでいてベートーヴェンとは明らかに違う曲想を佳しとしていたのだ。確かにブラームスのシンフォニーは音がもう一つ入っている。

モーツアルトの39番より上だと感じた。とはいえ、40番よりは下。41番の完璧さにはかなわない。順序付けるとすれば、こんなことを考えているが、改めて気がつくのは音楽が琴線に触れるとき、必ずしも「美しい」から感動するわけではないということだ。音楽が単なる音の構築物であることを超えて、そこに血が通っている、作った人の心が表現されていて、それが自分の心に触れてくる、そんな感覚なのだな。

数学者・藤原正彦が述べていたが、人は美しい風景をみてもそれだけでは感動はしない、その風景をみて誰かを想ってはじめて感動するのである、というのが本筋をついているのだろう。多くの場合、誰かを想うとき、その誰かの涙や喜悦を想うのである。人は人の涙をみて初めて心が動かされる。

やはりそんなものかと思った。

美しいだけではダメなのだ。真理であるということだけでもダメだ。善いということだけでもダメなのだ。では「ダメでない」というのは、どういうことなのか?それはまた改めて書こう。

2020年11月25日水曜日

少数精鋭の医療資源で新型コロナの大軍を迎え撃つ日本の苦境

 複数政党の党争が激しい時、制度改革で対立が激化している時、今回のコロナ禍のような「外患」に襲われた時、そして最悪のケースだが外国と戦争をしている時、etc.、誠に有難くはない社会状況は人生と同じで何年ごとに必ずやってくるものである。そして、個人個人の人格や性質は困っている時にこそ露わになるように、その国の国民性や理念とホンネ、長所と短所など、全ては悪い時代にさしかかったときにこそ目に見えて現れてくるものである。

今年の4月20日時点といえば、『暑くなればコロナも一段落するだろう』などという希望的観測があった頃である。その日の投稿にこんなことを書いている。少し長いが引用しておきたい:

ウイルスとの戦いである公衆衛生は国際関係における安全保障と同レベルの重要性をもつ国家戦略の核心的部分だ。その戦いの序盤で医療の最前線は崩壊を起こしかけており、「医療崩壊を避ける」という第一段階の主目的は達成できなかったようだ。

立て直せるか?

(中略)

その頃、医療関係者が話していたことは

無症状、軽症の人にPCR検査をかけて陽性だからって、やることはないんですよ。ワクチンも特効薬もなくて、医者に出来ることはないんです。だから検査に意味はないんです。意味のないPCR検査は絶対するべきでなく、命を救うために意味のある対象に的を絞って検査するのが効率的なんです。

大体、こんな意見だったと記憶している。同じころ、WHOのテドロス事務局長が

Test! Test! Test!

と声明を発した際も、同氏の中国寄りの姿勢に反発していたせいだろうか、日本国内で評判が悪く、「意味のない検査拡大は医療崩壊を招くので絶対反対です」といった意見が世間にはあふれた。ふと後ろをみると「水浸し」になっている情況はこうした風潮から実現したのかもしれない。

検査対象を絞り、検査資源を節約使用しても、医療崩壊は現に起こっている。故に、戦略は失敗である。それは感染者を見逃していたことの必然的結果だ。検査拡大・感染者囲い込み戦略が定石であった。日本で検査対象を絞ったのは、日本国内の検査資源が乏しかったからである。まさにこの点こそ問題の核心であり、日本の弱みであったことをリアルタイムで誰が語っていただろうか。

当時は、限られた検査資源を可能な限り有効に効率使用していこうという戦略であった。そうした「効率検査原理主義」が極論されて『意味のないPCR検査はするべきではないんです』という意見もあったのだろう。

その後も、公衆衛生当局の基本戦略は「クラスターを追跡する」という線で一貫していたようだ。「濃厚接触者」に的をしぼって無駄な検査をしない。これが大事だ、というわけだ。何だか財布の中を心配しながら、買い物をするような健気な昭和の主婦たちを連想してしまう。

日本では、一人の検査陽性者が出たから周辺地域の100万人を一斉検査し、100人余の無症状感染者を発見し隔離するという、そんな中国風「物量作戦」で問題解決をするという行き方はとれないし、またそんな意思もないようである。もしやれば、たまたま見つかった感染者の背後には時に100倍の保菌者がいることも分かるだろうに、と思うのだが。

★ ★ ★

日本の医療分野もまた「少数精鋭主義」であったようで、ベッド数はあるといえばあるが、相対的に医師が少なく、マンパワーが限られているという制約がある。その弱点から戦略を発想すれば、大軍を相手にする事態は絶対に避ける。そんな戦略のみが実行可能になる。こういう発想は分野を問わず、日本人共通の性向ではないだろうか。

だから、襲来してくるウイルス量、つまり新規感染者数が想定を超えると医療の最前線がすぐに崩壊する。日本では河川には高い堤防を築いているが、医療分野の堤防はそれほど分厚く、余裕をもって人的資源を育成してきたわけではない — 大陸ではなく島国国家という事情がある。今もまた医療現場の崩壊が心配されるので、『感染者をこれ以上は増やさないでほしい』という要請が出てきた。これが足元の状況だ。

引用した投稿でも

量は質に代替される。高度の技は消耗戦における勝利をもたらさない。高度の技を修得する人間の数は限定的であるので犠牲に耐えられないからだ。これは組織論の基本的な命題だ。

と書いている。日本的なこの状況が短期間で変わるはずもないのだ。

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4月の時点では『二兎を追うべきではない』と書いている。

補給が破綻し、長時間の戦いの中で最前線から消耗し、枝葉が枯れるように順に壊滅していくのは、典型的に日本的な敗北の風景である。言うまでもなく、湖北省以外(後で浙江省も追加されたと記憶しているが)の中国本土から観光客を延々と受け入れ続けたことも、今回の対ウイルス防衛のための戦略としては、まったくの愚策であった。これは政府の戦略目標が対ウイルス防衛だけではなかったことを意味している。

そこでもう一つの教訓:

二兎を追う者は一兎をも得ず

こういうことではないだろうか。

今でも「経済と感染抑止の二兎を追うべきではない』と言えるだろうか?

思うのだが、4月時点から単純に緊急事態状況を延長していれば、おそらく、9月末が近づいた時点でもっと大量の企業が倒産していたであろう。「緊急事態宣言」も実は極めて短期の緊急回避であって、持続可能な体制を整えたわけではない。

ここで言えることは、確かに2月から3月、4月にかけては二兎を追うべきではなかった。感染抑止に集中していれば状況はずいぶん改善されていたはずだ、ということだ。しかし、時間が経過した今はそうではない。最も脆弱なセクターの経済的困窮が明瞭になったとき、それを放置するべきではないことは、当然だ。1990年代に銀行経営の健全性を取り戻すのに必要な不良債権問題の解決に真剣に取り組むことを嫌がり、その優柔不断がついには金融危機を招いた記憶を想えば、それが当然の判断であったことはすぐに分かるはずだ。

足元ではいま感染者が再び増加している。その中で、経済対策の中の柱の一つを見直すことになった。

経済対策の一時停止が感染防止政策になる

というロジックである。経済を犠牲にして感染拡大を防ぐ。二兎は負わないということだ。しかし、やるならもっと早い時点でやるべきであったワナ、と思う。年末が近い、いまやるの、と。

★ ★ ★

まあ、背水の陣である。「背水の陣」とは言っても、EUのように政府が潤沢な資金を市場から調達して、いつでも複数のチャンネルから資金支援をする覚悟が本当にあるかどうかは分からない。補正予算だなどと言っているが、これも何だか財布を心配しながらの様子がアリアリだ。いまからもう「財政再建」の必要性を強調したりする人がいる。

待ち受ける問題を先に先にと指摘したがるのは一概に売名行為とばかりは言えまい。日本人は完璧主義なのだ。但し、問題点を列挙することには熱中するのだが、しかしその割には肝心の問題解決が苦手な傾向がある。列挙する問題が多すぎるのである。重点志向が苦手である。選択と集中をおろそかにする。全ての問題に向き合おうとする。戦略的優位を築くための長期戦が特に苦手な遠因もここにある。日本人は長くとも1年程度で勝敗がつく短期殲滅戦が好きである。であれば、好機を逃さず機会主義に徹して短期的利益を積み重ねる一点突破を重視すればよい。しかし、短期戦の積み重ねでは積み残しの問題が残る。周囲はモヤモヤ感を感じたりする。要するに、自分が解決するべき《課題設定・目標設定》が苦手なのだろう。今回の「英断」もいかなる課題を解決するための「意思決定」なのか、関係者の間で合意されているようには思えない。明らかに「緊急」なのだ。

つまりは、緊急に背水の陣を布くという決定だ。

背水の陣を急いで布くと言ったってネエ・・・背水の陣っていうのは別動隊がしっかり動く大作戦でしょ?連携作戦だ。大きなプランでがんすヨ。そんな急いでやるもんなんですかい?

シミュレーションも見通しもない。だから、どうなるかは予断を許さない。そう予想しておいたほうがよい。

★ ★ ★

『経済対策を中止することが感染対策になるのは本当か?プラスとマイナスを合計して社会状況は改善されるのは本当か?』という疑問はまさに泉のようにわいてくる。おそらくデータ分析もシミュレーションも見通しも何もない上での決定なのだろう。要するに、これも一種の「緊急事態」なのだ。緊急事態のつもりが、ケリをつけるタイミングを失い、ズルズルと泥沼に陥ってしまった経験はこれまでにも何度かありませんでしたか?

もしそんな風になるなら、これもまた日本人の国民性はあまり変わっていない証だろうと感じる。

しかし、特にマンパワーの面で医療資源が脆弱なのであれば、欧米の何分の1というこの程度の感染者増加によっても、医療現場が逼迫し、経済対策の足が引っ張られる可能性が出てくることは予想しておくべきであった。

マンパワーが不足しているなら、補充可能な物的資源(設備、機器、素材等々)は十分に手当てして医療分野の戦力拡充を行っておくべきであった。この位は、政府(及び都道府県、市町村)に反省を迫ってもバチは当たらないだろう。

日本の政治家は民意や世論調査ばかりを怖れるからダメだ、いっそのこと組織マネジメントに長けた超一流の「民間企業経営者」に全体の指揮をとってもらったらどうかと思うこともある。(アメリカは当てにならないので)中国政府から《新型コロナウイルス感染防止対策顧問》を派遣してもらうよう「緊急要請」するのはどうだろう。今回来日した日中外相会談では「新型コロナ感染にかかわる情報交換、協力」も合意の中に含まれているらしいから。

2020年11月23日月曜日

一言メモ: 「GOTO」見直しのあきれ果てたロジック

政府が旗を振ってきた「GOTOトラベル」、「GOTOイート」の両方とも、新型コロナの感染拡大を抑制するため「見直し」をすることに決まった。

TVのワイドショーなども歓迎しているから、小生心から驚き入っている次第だ、というと又々小生の偏屈振りが際立ってしまいそうだ。

GOTO見直しは、全然、理屈が通っていない。

何故なら、GOTOトラベルもGOTOイートも経済対策として実行しているものであり、「経済政策」である。

経済政策を停止することを以て、感染防止対策としたわけである。

経済対策はしなくてもいいんですか?感染防止対策は何をするんですか?経済対策を停止することが感染防止になるということですが、効果はどれだけ期待できるんですか?プラスとマイナスを合計して、本当に状況は改善されるんですか?

疑問はつきない。非常に非論理的な政策選択をしたものだ。

『やるな、やるな』の大合唱に押されて、政府は「経済もコロナも手をしばられて策なし」という状態になった。「こりゃあ、菅さん、文字どおりの雪隠詰めじゃのう、あとは運を天に任せるか」とつぶやくご老人がいてもおかしくはない。『感染がどうなるかは神のみぞ知る』と分科会会長もおっしゃっている位だからネエ、と小生はいま思っている。

理屈で言えば、政府は経済政策と併せて強力な感染防止政策をも実行するべきであったのだ。


★ ★ ★

新型コロナの「脅威」が明らかになってきたとき、日本のマスメディアでは『イタリアのようにはならない、日本の病床数は世界に冠たるレベルにある。イタリアのように財政再建のために病院を削減するという愚かなこともしていない、云々』などと、日本礼賛論をエラク展開していたものだ。

ところが、昨年時点の資料だが、以下の様なデータがある。

まず病床数。

次に、医師の数。

URL: https://www.jmari.med.or.jp/download/RE077.pdf

急性感染症向けの病床数でもないし、医師も感染対応ができる診療科の医師ではない。それでも、日本では病床数には余裕があるかもしれないが、医師が足りないという状況があるのではないか?そんな問いかけは全くの素人でもできるわけである。

足元で、医師会の会長が『ベッドだけあっても駄目なんです。重症になれば人数を割かれますから医療崩壊が起こりうるんです』と、そう訴えているのも日本の医療の実態があるのだと推測される。

欧米で発生している新型コロナ感染者数はゼロが一つも二つも多い。それでも医療関係者は総動員体制で何とかしのいでいる。日本は患者が増えたと言っても、欧米の何分の1かである。それでも医療崩壊が近いという危機感が高まっている。

日本の組織はどこでも官民問わずマンパワーの余裕がないのである。この「余裕がない」というのは実に日本的な状況である。医療分野もまたそうであったわけだ。

実態がそうなのであれば『日本はイタリアのようにはならない』などと豪語はせず、感染者数を極力抑えるということを感染対策の第1目標として、そのために最も効果的な公衆衛生政策を実行しなければならない。そんなロジックになるはずだ。

ところが、この期に及んで、『感染者数増加を抑える』ためにどのような衛生政策を実行するのかがまったく公表されていない。誠におそまつだ。『クラスター対策でやってきた』ということなのだろうが、それでも感染を制御できていないし、現実に新記録を更新中だ。感染対策強化の方針は一切でてはいない。

すぐ経済対策を止めてください。それが公衆衛生政策になりますから。以上。

と本気で考えているなら、日本の厚生労働省には「作戦立案能力」がない、つまり無能である証しだろう。

公衆衛生政策担当の「参謀」(が誰であるかも不明だが)を変えた方がよいと思う。

2020年11月22日日曜日

世界景気はボトムアウトしたのではないか

 新型コロナウイルスで世界経済は文字通り「滅茶苦茶」と語る人々が、特にメディア業界には目立って多く、「経済崩壊の下の株価高騰は理屈に合わず、いずれクラッシュする」と、そんな風な語り口が耳には入るのだが、小生には「それはちょっと少し違うんじゃないのかネエ」と思われる。

例えば、世界景気の先行指標として有用な銅価格だが、LMEの取引価格(3カ月先物)を確認すると、以下のようになっている。


足元では既に2018年初夏の頃の高値に戻っている。その後の下落を経て今回の底値は本年の春から夏にかけての時期につけている。確かに新型コロナのパンデミックによる暴落がグラフからは明瞭に認められるが、その後の回復は極めて順調である。

もちろん個々の商品ごとに細かな変動の違いはあるが、アルミも鉄鉱石も概ね同じである。石油価格は低迷しているが、これは「脱炭素化」の大きな潮流が背景になっている。

もともと日本経済は2018年10月が「景気の山」であったと公式に認定されている。別に公式認定を待たずとも、毎月内閣府が公表する「景気動向指数」を観ていれば2018年の年末近く、あるいは2019年の初頭にかけて景気はピークアウトしていたことは周知の事実であった。ならば、平均的な景気後退期間は1年半程度であるから、予測としては本年2020年の初夏にかけて景気のボトムアウトが確認されるのではないかと考えられていたわけだ。日本経済は世界経済の中で動いているから、日本のデータで予測した方向性は世界経済を見通すうえでもそれなりの有効性をもつ。

そういえば、中国が元建ての銅先物取引市場を開設する計画だという。それが実現して、その取引市場が成長するという事態になれば、アジアでは市況商品を元建てで取引するようになるので、日本も中国経済圏に入って(米側視点にたてば、取り込まれて?)いくことになろう。

いま「自粛をするか、経済をとるか」で不毛、かつ迷惑な激論が連日TV画面で展開されている。これをみると、小生は昔の「一億総白痴化」という言葉を思い出してしまう。政治までもそんな混とんとした「言論カオス」に埋没してしまう。TVも新聞も週刊誌も、日本のメディア業界がサプライしている情報は、世界のリアリティとはほとんど関係のない内容になっている。

Yellow Journalismならいざ知らず、(大国ではない小国であるのに)トップレベルのメディア各社の大半までもが(どこもかしこも)今のようなレベルのメディア事業をしていて「恥ずかしい」と思わないのは、やはり大多数が《日本語だけ》で書いたり読んだり視たりしている、メディア企業と視聴者・読者とのそんな関係性がある、一言でいえば日本のメディア市場が閉鎖的である、だからじゃないか ― マア、TV&ネットと新聞とでレベル差があるのはまだ事実だが。その意味では、《ハングルだけ》で書いたり読んだり視たりしている韓国のメディア企業と韓国内顧客層を結ぶ関係性と経営環境としてはどこか似ている……

「気を悪くしないで下さいヨ、でもそんな気がするんですけどねネエ……」ということで今日はメモしておこう。


2020年11月21日土曜日

当たり前の一言: 一般に「感染症対策」で結果を出すにはどうすればよい?

 新型コロナウイルスに限らず感染症の拡大防止で結果を出すためには、公衆衛生の観点から最も効率的である手段をとるのが最善だ。ただ、これを断行するのは実は難しい話なのだ。感染する人は何も法的な意味で悪いことをしたわけではない。人権は尊重されるのが民主主義社会の根本だ。しかし、感染者を先手必勝で発見し、社会から全て隔離/追跡可能にすることが、感染の抑え込みには最も効率的なのである。

中国はそれが出来たが、民主主義に価値を置く日米欧などはそれが出来ずにいる。中国には出来ることも、日本はやる必要がないのだ、出来ないのだという話をずっとしている。

しかし、感染が拡大しつつある中で、全員が自粛をすることにより、社会の最も弱い人たちには堪えがたい苦痛を強制する。ある人は自ら死を選ぶ。その犠牲も「民主主義」を守るためだという理屈は、小生はもはや理屈ではなく、不作為の罪であるように見える。

「感染症対策」という問題解決は、選挙によって選ばれ民意をおそれる政治家ではなく、選挙とは無縁の官僚組織に委ねて粛々と進めるのが、国民には最善であると感じるようになってきた。任期を区切って政治家ではない職業専門家に権限を付与し(つまりは官僚の一員となるが)、身分を保証したうえで、感染対策の指揮権限を委ねるのが「感染防止」という課題の解決には最適であろう。人権尊重という別の目標には別の政策をもって割り当てるのが本筋だ。

確かに中国政府は権威主義的で、中国には複数政党も普通選挙もないが、それでも感染防止政策に国民の不満が高じている傾向は全体としては観察できないようである。『それ自体が問題だ』と語るよりは、『それは素晴らしい』と思う方が、自然な見方であろう。もう経験的事実として認めるべきではないだろうか?

今回は、ワクチン開発が成功しそうなのでそうはならないと思うが、「自粛」か「経済」かという不毛の迷走をあと1年も続ければ、『我々はどこか間違ったことをしているのじゃあないか?』と、誰もが疑問を口にするようになるだろう。

「民主主義」というのは、ソーシャル・マネジメントのツールであって、それ自体に普遍的価値があるとは小生には思われない。腐敗する社会は体制はどうであれ腐敗する。問題解決能力の有無は政治体制とは関係がない。この点はずっと前に投稿している。感染症対策という問題は、民主主義社会には苦手分野なのである。ミルグロム=ロバーツの『組織の経済学』の冒頭でも叙述されているように、分権的な市場メカニズムにも苦手な問題があり、それらは中央集権的な組織的意思決定に解決をゆだねる方がよい。このロジックと同じである。それを今回経験できたことは何かの参考になるだろう。

2020年11月19日木曜日

一言メモ: 「経済」か、「自粛」かといつまで迷っているのだろう?

 感染が拡大すれば「自粛」へと傾き、感染が落ち着けば「経済」へ傾く。『バランスが本当に難しいです』と、いつまで迷っているフリをするのだろう?

カミさんとはこんな話をした:

小生: 「経済」なんて、どうしてこんな抽象的な言葉でお茶を濁すんだろうね。「みんなの仕事の数」って言えばいいんだよ。

カミさん: 仕事の数って?

小生: 「経済を抑える」というのは、要するに仕事を抑える、客を減らす、注文を抑える、要するに、みんなの仕事の量を減らすってことだよ。仕事から外される人を増やすってことなんだよ。

カミさん: 確かにねえ、でもそうしないとコロナの感染は減らないんじゃない。

小生: 歌舞伎町でもススキノでもそうなんだけどサ、いくら注意しても言うことを聞かないホントに心配な店は、もう最前線の担当者には頭に入ってるんだよ。そんな店をターゲットにして、夜中にマスクをせずに盛り上がっているその最中に、突然踏み込んでサ、『これから緊急衛生検査を始めます。この部屋を出ないでください』ってね、店の経営者には『衛生検査令状です』とか、もしこんな行動がお上に許されればね、これは感染予防には正に一罰百戒ってものになるさ。ススキノが感染拡大の核になるって状態は、絶対確実に止められる。これは間違いないよ。

カミさん:「令状」って、そんなのないでしょ?

小生: そこさ、問題の本質は!できないんだよ、今の法律では。憲法上できないってことはないと思うんだけどね、みんなが助かるんだからさ。踏み込まれた店以外の店は、一生懸命にガイドラインを守ってるんだから、何のお咎めもないんだしね。でも、これが出来ないのさ。

カミさん: 決めればいいんじゃないの?

小生: それが、この程度の感染じゃあ、できないのさ。イタリアとか、ニューヨークの状態になれば、日本人も目が覚めるんだろうけど、知事は選挙があるから『そこまでやる前にみんな頑張ってくださいヨ』としり込みするだろうし、国は国で所詮は札幌という一都市、新宿という一区域のことだしね、『知事や市長に頑張ってもらおう』ってことになるんだよ。

もちろんススキノや歌舞伎町はシンボリックな地名である。本当に「心配な店」もあれば、「心配な客」もいる。「心配な人たち」、「心配なイベント」、「心配な旅行者」、「心配な病院」、「心配な高齢者施設」、「心配な会社」など、いろいろある。衛生管理の不備についての「内部通報」を奨励してもよい。これらはまだ面的に広がっている状況には至らず、点として存在し、かなりの部分は最前線の担当者は気がついている(はずの)ものである。もう点ではなく、一部地域では面であるとする認識もあると思うが、であれば猶更のこと「衛生指導」、「衛生検査」の法制化、組織化は感染抑止に大いに貢献するであろう — お上の権限を強化する一種の「焼け太り」ではあろうが、そうせずして効果的な方策があるなら、そちらを選べばよい。

要するに、新型コロナ(だけではなく今後予想される感染症)について、その感染拡大を防止する「切り札」は、日本にはまだある。だから、日本としてまだまだ勝負できるわけであり、この点は安心してもよいと思っている。たとえ、「切り札」が「最後の手段」であるとしても、「お手上げ」よりは余程マシであろう。 

数日前の投稿

 感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。

と書いた。 

感染拡大防止という目的を追求するには、民主主義の確保にとって最適である政策を実行するのではなく、副作用を怖れずに感染防止という目的に最も効率的な政策を実行するべきである。

とも書いた。

いま「感染抑止」と「人権擁護」という複数の目的がある。一般に、複数の目的を同時に追求する場合、複数の政策が必要となるので、各政策と各目標の割り当て方が主たる問題になる、というのが経済学者ティンバーゲン=マンデルが提起した問題である。各政策は単一目的の下で実行するべきである。これが結論だ。即ち、「公衆衛生政策」は「感染防止」という単一目的を達成するうえで最も効率的な手段を選ぶべきだ。「人権擁護」も加えた複数の目標を「公衆衛生」によって同時に追い求めるべきではない。「人権擁護」は「公衆衛生」とは別の独立した政策によって担保するべきである。これが基本的なロジックになる ― 但し、この基本的なロジックは「すべて政策はいずれをみても民主主義的で、人権尊重に適うものでなければ、違憲である」とする法律家の論理とは衝突するかもしれない。

こんなことを書くのは、『 みんなで我慢をしましょうと言うのは、耳に心地よいスローガンではあるが、つまりは感染拡大現象とは何の関係もない人々をも巻き込む「(意図せざる)連帯責任論」になっている』。この発想には情け容赦がない。そう思われるからである。



2020年11月17日火曜日

ホンノ一言: 現代中国の「王安石」になるか?

 中国・北宋の改革政治家といえば、何と言っても「王安石」である。

経済的繁栄を謳歌した北宋王朝であったが、11世紀末葉にもなると経済格差と支配階層への富の集中が進み(経済発展が進むと必ず格差は拡大するものだが)、社会が不安定化した。王安石が様々の新法を実施して歪の解消を目指すことを皇帝・神宗から委ねられたのは、皇帝もまた問題を認めていたからだ。時に1069年。

しかし、トップダウンの急進的な改革に対して強固な支配層であった官僚階層は猛烈な反・王安石批判を展開した。王安石は孤立し偶々発生した大旱魃が引き金になって政権の座を失うことになった。1074年のことである。執政の座にある事、5年。

その後、宰相に復帰することもあったが気力衰えた王安石は1076年職を辞し引退することになった。しかし王安石が始めた改革政治は時代の要求にも合致しており、皇帝・神宗が在位中は一貫して進められ、その多くは目的を達することになったとWikipediaには解説されている。ところが、皇帝・神宗が退位した後は、新法派(≒リベラル派)と旧法派(≒保守派)の対立が激化し、その派閥抗争が北宋王朝そのものの衰退を招いたとも言われている。

***

現代中国における習近平についてはこんな報道もある:

中国は2035年までに経済規模を2倍に拡大するとの目標を示してから、最も価値ある自国企業の一部に対し徹底した監督に乗り出した。フィンテック企業アント・グループによる350億ドル(約3兆6600億円)規模の新規株式公開(IPO)は突如中止となり、その直後にはテクノロジー時代の寵児(ちょうじ)となっていたテンセント・ホールディングス(騰訊)やアリババグループの抑え込みに向けた独占禁止規定の強化が公表された。

出所:Bloomberg2020年11月17日15:50配信

中国が直面する最大の課題は何より《格差解消》であって、共産党が主導する中国にあって格差解消の重要性は日本をはるかに超える理屈である。共産主義とは資本主義のデメリットを解決するための経済体制であるのだから。

経済的に成功を収めた財閥を抑え込めば共産党原理主義には適う。が、必ず反発が生じる。一般に、経済的リアリティと政治的理想が正面衝突をすれば敗北するのは政治的理想の方である。理想が敗北するだけではなく、国内社会の分断、対立を激化させるという負の作用も長引くものである。

習近平が格差解消に失敗すれば、共産党は習路線を否定し、政治的敗北を認めるしか道がなくなる。が、その後も弱体化した共産党政権の内部で長く激しい派閥抗争が続くだろう。この道を辿りたくなければ、そもそも資本主義導入によって共産党の終末を免れえた経緯を振り返り、潔く民主化へ舵を切り、複数政党制と普通選挙を認めるしか道はない。

長く激しい派閥抗争か、あるいは民主化と普通選挙の導入へと舵を切り、党の名誉と国の繁栄を得ることの引き換えに共産党の緩やかな風化と衰頽を受け入れるか。

中国共産党をまつ未来は決して明るいものではない。


2020年11月14日土曜日

閉塞感と無力感の責任は野党にあり

 貧弱な野党しか存在せず、その結果、日本人には政策の選択肢がないという点にこそ、政治に参加できない日本人の不幸がある。

眼前の問題に対して現政権が実行しつつある政策以外にどのようなアプローチがあるのか、それが<提案されない/されてない>という状況がずっと続いている。

政府の政策が「ベスト」であるとは誰も思っていないのに……。期待を裏切り続けているこの現実に、マスメディアはもっと真剣に怒らなければならない理屈なのだが、政府を批判するという面では仲間同士であるせいか、とにかく評価が甘いのである。大甘である。

世論調査で内閣支持率がなかなか下がらず、支持する理由として『ほかに適当な人がいない』というのは、与党内の他の政治家というより、野党に向けた絶望を表すものだと小生は思っている。

ところが、

(野党を代表する?)立憲民主党の枝野代表は、政党別支持率が4%程度であるにも拘わらず、『政権を渡してほしい』と公の場で盛んに発言しているそうだから可笑しくてたまらない。与党のうち自民党の支持率が25%強、公明党が3%弱であるにもかかわらず、だ。それでもなお「政権を渡しなさい」と堂々と求める姿勢は、日本人特有の「恥の心理」とは無縁の、我が信条に忠実な「良心的政治家」であるとさえ思わせてくれるから、ホント不思議である。

とはいえ、国民に広く支持されていないにもかかわらず「政権」を要求するというのは、民主主義に反しているのではないか?支持されるような活動を先にするべきではないか?『少数派が権力を奪おうと考えること自体が、共産党風で革命志向的であり、国民の支持を軽んじる非民主的な態度ではないか』と、厳しく非難されてもおかしくない。小生はそう思っているのだが、不思議なことにとやかく言う人はいないようである。可笑しいネエ…と思っているところだ。

ここ日本では野党の評価が大甘である。これでは鍛えられない。現状で満足する。真剣に活動しない野党は消してしまう位の真剣な気持ちをこめて、マス・メディアには頑張ってほしいものだ。

***

日本人の政治的不幸を少しでも解消したいなら、野党は努力をして「シャドウ・キャビネット」くらいは公表するべきだろう。そして、問題ごとに与党が推進しつつある政策に対して、常に対案を公表して政府に論争を挑むべきである。そうすれば、日本人は常に問題解決のために複数の選択肢があることが分かり、閉塞感が軽減されるのだ。

戦前期の首相・若槻礼次郎の自伝『古風庵回顧録』を読むと、晩年になってからの1930年代、次第に横暴を募らせる陸軍に振り回される苦悩がヴィヴィッドに叙述されている。しかし、戦前期の軍部も第一次世界大戦後の平和第一主義の時代、世界的に軍縮が進む中で、職業軍人は本当に肩身がせまい思いをしたことが伝えられている。その陸軍が、政争に明け暮れる政友会と民政党の既存政党をよそに、第3極として日本人に認められる分岐点となったのは、昭和9年(1934年)に公表された『国防の本義と其強化の提唱』、通称『陸パン』であろうと観ている。確かに、戦前期日本の政党政治は二大政党とはいえ、いずれも有産階層に基盤をもっており、真に日本人全体の願望に応える意欲はなかったとはいえる。党争の果ての金融恐慌、金解禁と昭和恐慌など、失政が甚だしかったとはいえる。しかし、最終的に戦前期の政党政治が崩壊して、日本人が軍部主導政治を受け入れたのは、「政党政治」の現実に対する失望に加えて、軍縮で雌伏してきた陸軍が日本人の心情に訴える声を発し始めたからである。結局、日本人は軍部を選んだのだ。

その職にありながら為すべき事を怠る者は淘汰され、為すべき事を為す者が実権を握る

この原理・原則は、時代を超えて普遍的であり、常に現実となって現れるものだと、小生は思っている。軍国主義云々の議論だけでは一面的である。

はるか昔の「大衆団交」を模倣したような「対官庁・野党合同ヒアリング」などはパワハラにも見えるし、見苦しい。カビが生えたような団体交渉を思い出す。キッパリ止めて、国会による政策立案研究に必要な「国政調査ヒアリング」に切り替えるべきだろう。世代交代をして全体をリフォームするべきだ。そうすれば、官僚の中にも共感するグループが形成され生きた好循環が始まるだろう。

スキャンダルで内閣支持率を落とす戦術は、日本人に未来の提案をするものではなく、むしろ不安と絶望感を深める作用がある。政府の不祥事を非難する戦術を採用するためには、政府の支持率を低下させた後に自らが替わって進めようとする政策案をあらかじめ公表しておくことが大前提だろう。それをせずに、ネガティブ・キャンペーンを展開するから、政治不信が深まるという結果になるのだ。

まさか「政府から認めてほしい、政府に賛成してほしい」などと願ってはおるまい。敵対するなら、やりたいことが違うという理屈なのであるから、どこでどう敵対しているのか、内容を示すのが第一歩だ。

分からんかネエ、この理屈・・・高校生でも分かるゾ、と思ったりする今日この頃だ。

行き場のない閉塞感、現実を受け入れるしかない無力感は、さぼっている野党に責任があると小生は思っている。

2020年11月12日木曜日

コロナ禍の中で日本人はどこまでも「連帯責任」を好むのか

コロナ感染者が又々増加中である。ここ北海道の激増振りは瞬間的に東京を上回ったほどだ。

感染拡大の源は、実は分かっている。

東京でも、初夏の頃、感染者が非常に増えた。その時の感染源は新宿であった。「東京問題」とはつまりは「新宿問題」だった。しかし、現場で問題の本質がわかっていても、解決に向けた政策が実行され始めるまでには、非常に時間がかかった。この時間的ロスによる負の効果が大きかったことは、もう誰も覚えてはいないようだ。

『負けても引きずらない」、「ポジティブ思考」で行こう、と…大したものだと思う。

★ ★ ★

北海道のコロナ問題とは、詰まるところ「札幌問題」であり、札幌問題はつまるところ「すすきの問題」である。この事は、誰でも胸の中では十分に分かっている事実である。

===11/14加筆===

と思っていたら、14日現在で道内他所に飛び火して、札幌市外の新規感染者が4割に達してしまった。火事はボヤのうちに消せ、を地で行く失敗だ。とはいえ、まだ道内の点で発生していて、面状に拡大している様相ではない。

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GOTOトラベルが原因だという人がいる。しかし、GOTOキャンペーンを展開しているそのこと自体が原因となって、新規感染者数が増えているのであれば、西日本も含め、全国で感染者数が増えていなければならない。人と人との接触が増えているのは、何も東京、大阪、北海道に限ったことではない。

感染抑止を実行するための「ターゲット」は現場では分かっている(はずだ)。

現時点の札幌市内の感染発生状況に基づけば、「すすきの地区」の「接待を伴う飲食店」、「カラオケ店」。限定された区域の2形態だけを対象にして一斉検査を行い、従業員から陽性者が出ればその店は2週間営業停止にする。その程度のことであっても大きな感染抑止効果が期待されると小生は勝手に思っている。小生が暮らす港町でも昼間のカラオケからクラスターが発生して、死亡者まで出たことがある。このショックが大きかったのか、以後カラオケ店から感染クラスターは発生していない。怖くなって行かなくなったからだと思われる。店側も衛生管理を徹底したのだと思われる。

問題の本質は、店の経営姿勢である。昼間のカラオケ店の実態も(その場にいたわけではないが)そうであったと聞いている。「不可」と評価しなければならない個別店舗が一部にある。これは、交通事故とまったく同じロジックであって、劣悪店舗を現実にはゼロに出来ないわけである。衛生意識が非常に劣悪な店に好んでいく客にももちろん批判される点はある。が、店の側が感染防止に十分な注意を払えば、そうそう容易く大量に感染者は出ないことはこれまでの経験から分かってきたことだ。それが出来ていない。無頓着なのだ。どの店が出来ていないか。危ないか。現場の人間であれば、もう具体的に「あの店、この店は危ない」と指をさして示せるのではないかと推測している。

いくら国道5号線で事故が多発する区域があっても、その区域の走行を自粛せよと知事が発言すれば、文字通りの「愚行」になる。事故を誘発する危険な走行をしている自動車は少数である。その種のドライバーをターゲットにすればよい。警察のパトロールを増やせばよい。それだけで慎重になるのである。

犠牲者が出て初めて危険な交差点に信号が設置される。「煽り運転」で犠牲者が出て初めて危険な運転を刑罰の対象とする。行政というのは、手を変え品を変えながら、いつでも同じ行動パターンをとるものなのだ。戦前期の反省があってだろうが、、日本では官公庁が「予防」という目的で公権力を行使することに対して、国民は、というよりリベラル系のメディアは極めて警戒的である。特に特定個々人に対して<差別的に>(営業の)自由を予防的に制限することは、たとえ「公益」のためとはいえ、「治安維持」という暗い時代の言葉をも連想させるものであるが故に、許せないという雰囲気が厳然とある。

そんな社会的心理が手伝ってなのか・・・

TVのワイドショーをカミさんと観ていると、まったく方向が違うことを話している。

A氏: 感染を抑えるにはやはり人と人との接触を抑えていく、これしかないわけですヨ。

B氏: GOTOトラベルはその接触を増やしますよね?

A氏: 政策的に増やしています。なので、感染が増えてきた今、GOTOを一時休止するのは当たり前であって、これ以上待つのはおかしいと思います。

GOTOトラベルに参加している宿泊施設が原因となって、感染が拡大したという事例は生じていない。少し数字は古いが、7月22日から9月15日までの利用者数は1700万人弱、金額では700億円強が支援されたという報道がある。そんな中で、先ず北海道が、次いで東京と大阪で感染者が増え始めた。毎日200人から300人程度の新規感染が確認されるようになった。

GOTOトラベルが原因なのだろうか?GOTOトラベルを感染抑止のターゲットにすれば効果が期待できるのだろうか?

確かに、人の移動が増え、接触機会は増えた。しかし、新規感染者数とGOTOキャンペーン政策に直接的な因果関係がないことは、時系列データの数字、相関をみても推測できることだ。

影響があったとすれば、GOTOトラベル利用の浸透から日本人全体の<心理>と<行動>が変わった。それによって、コロナ感染を加速させるような行動をとる人が一部で増えている。そんな一面が無視できないわけであって、GOTOキャンペーンは間接的な経路で感染拡大をもたらしている。そんな見方は確かにありうる。間接的な経路で人々の行動を変えているとすれば、大本のGOTOキャンペーンを一時停止して、人々の行動を元の自粛モードに戻し、それによって感染を抑止する。確かにこんなロジックは「感染抑止政策」としてありうると小生も思う。

しかし、この方法は戦争中の「じゅうたん爆撃」と同種の発想である。極めて「残虐」である。小生はそう感じる。

ちなみに付言すると、逆説的であるが「民主主義」は時に「残虐」な選択をする。なんであれ教条主義的に一つの価値にこだわれば、思考が硬くなり、バランスを失い、同情心には欠けてくるものだ。民主主義の暴走である。


★ ★ ★

感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。

ターゲットの確定は、店舗・区域・自治体など様々なレベルがありうる。

しかしながら、ターゲットをどのように決めるにしても、ターゲットを決めること自体によってその政策は国民に対して<差別的>に働く。その意味で、ターゲットにされる側の基本的人権を侵害することにもなるという理屈はありうる。

しかし、公益拡大のため<差別的>に作用する政策が不適切ということであれば、便益平等の公共サービスの財源にするために累進的な所得税を課することもまた本当はおかしいという理屈になる。

公益のため一部の人たちに我慢を強いるのは人権を侵害する。「だから、みんなで我慢しようヨ」という考え方は、要するに「一蓮托生」のロジックであり、公益を名目として国民に「連帯責任」を求める思想と同じであろう。

小生はこのような考え方には反対する立場に立っている。

★ ★ ★

経済活動全般を抑えれば、一部の人に負担がしわ寄せされ、生活不安から自死を選ぶ人が出てくる。これが事実であることは、既にこの夏以降、確認されてきている。

感染者数が目に見えて増え始めれば、多数の国民は感染を抑えたいと求める。多数の国民の願望に「寄り添う」といえばよいのか、どのマスメディアも自粛志向の政策転換を主張する。それによって多数の国民の視野には入らない一部の人々に負担がしわ寄せされるのである。

「みんなで我慢をする」という社会的行動は、実は一部の人に耐えがたい負担を負わせるという結果をもたらしている。そして、その事を日本のマスメディアは、嫌がっているのかどうか分からないが、あまり語っていない。

「みんなで我慢をしましょう」と言うのは、耳に心地よいスローガンではあるが、つまりは感染拡大現象とは何の関係もない人々をも巻き込む「(意図せざる)連帯責任論」になっている、と。こう断定されても仕方がないだろう。

★ ★ ★

感染拡大防止には効果的な政策とそうではない政策がある。

政策の選択は、あくまでも行政の効率性の基準から行われるべきであろう。

「感染拡大防止」を目的とするなら、最も効率的な政策がある。ターゲットを決めるべきである。もし「民主主義の確保」をも同時に目的にするなら、同じ政策に二兎を追わせるべきではない。トレードオフになるかもしれないからだ。

同時に追求する目的が幾つかあるのなら、政策手段もまた目的と同じ個数だけなければならない。これは経済政策理論では誰もが知っている「ティンバーゲンの定理」である。

感染拡大防止という目的を追求するには、民主主義の確保にとって最適である政策を実行するのではなく、副作用を怖れずに感染防止という目的に最も効率的な政策を実行するべきである。民主主義の毀損が問題になるなら、もう一つの政策で手当てしなければならない。これも経済理論の基本である「マンデルの定理」から言えることである。

TV局で(新聞社もそうだが)報道番組の基本編成を担当しているプロデューサーは、(実は)何の学問的基礎もない「無学・無教養」な人たちであるという印象を小生はいつ頃からか持っている。そのTVのワイドショーでは、政策の是非についてコメンテーターが雑談することが多いのだが、余りに「定石」を知らない、大学初年級の基礎知識を知らないことに呆れることがママある。政策をめぐるこうした社会的ノイズもまた、日本の経済社会のパフォーマンスを大いに停滞させるという作用をしているのじゃあないか、と。そんな風にも感じているのだ、な。



2020年11月11日水曜日

一言メモ: 「世界の潮流」は学問世界ではどうでもよいことだ

 特に人文系、社会系の専門家に多く見られるのだが、

〇〇の問題については、▲▲のように考えるのが世界の潮流

というパターンで、「〇〇については▲▲と結論するべきである」と見解を述べる人が多い。

小生がまだ若かった頃は、理論経済学者が『大事な事は紙と鉛筆(そして頭脳と想像力?)で分かる」と豪語していた時代であって、理論こそが学問の本流としてリスペクトされていた。そんな時代に、敢えてその理論が現実に合致しているかどうかをデータに基づいて検証しようとする計量経済学は文字通りの「傍流」であった。そもそもの出発点から「主流派嫌い」であった小生の感覚では、『いまは▲▲と考えるのが世界の潮流」と語るような思考パターンが好きであるはずがないのだ、な。

そればかりではなく、『これこれが世界の潮流」と語ること自体、その学問分野は「科学」ではない証拠であると考えている。

***

コペルニクスは、天動説が「世界の潮流」であった時代に、実は地動説がデータを簡明に説明できることに気がついた。気がつきはしたが、それを出版することはしなかった。ところがガリレオ・ガリレイは公開の場で地動説を支持したことから、ローマ教会に反することになり、「世界の潮流」からみれば「異端児」として処遇されることになった。

20世紀になってロシアのレーニンは「世界の潮流」が資本主義である時代に、経済後進国であるロシアで社会主義経済の実験をした。それも社会主義が最先端の思想であり「これからの世界の潮流」であると考えていたからだ。・・・その失敗は74年後に表面化してソビエト連邦は瓦解した。

何が「潮流」であるかということと、何が現実を説明する正しい理論であるかということとは、まったく別の問題である。

データを説明できる仮説は複数あるが、データを説明できない理論は嘘に決まっている。これだけは言える。「潮流」であるかどうかは、どうでもよいことだ。

だから、『こう考えるのが現在の世界の潮流です』と、堂々と語る人物は学問とは縁のない人。よく言えば、思想家、宗教家、政治家ということになるだろうが、要するに自らが信じている価値をただ主張している人である。ま、主張すること自体は自由であるから、現代はよい時代なのだ ― 主張だけで止めるべきであって、政治行動をして、特定の価値感を公衆に押し付ければ非民主主義的な抑圧になるので、要注意人物でもある。

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。それが「社会の潮流」である。分かりやすくいえば「世間の受け止め方」である。従順な人は「社会の潮流」に従うだろうし、反骨心あふれる人は「誰かの信念」に共感して、「これからの潮流」を主張しようとする。それだけのことである。真理を探究する科学者ではない。

なぜ「▲▲と考えるのが世界の潮流です」という表現を好む人がいるのだろうか?その理由は、(特に日本では??)「民主主義は善いことだ」という価値観が広く浸透しているからだと思われる。学問世界では現実と合致した理論であるのか否かだけが重要なのであるが、「民主主義」という価値観をコッソリとしのばせることで、「潮流=支持者が多い」つまり民主主義的観点に立っても「▲▲と考えるのが正しい」と。そう言いたい。そんな思考法だと、小生は勝手に解釈している。科学とも、広く学問とも、まったく縁のない議論であるのは勿論だ。

民主主義が、客観的かつ科学的な意味合いから、本当に支持される考え方なのかどうか?これについてはずっと以前に投稿したことがある。が、このトピックはまた改めて。


2020年11月10日火曜日

ホンノ一言: 茶番のやりとり、茶番の報道

 こんな報道があったのには、小生、失笑してしまった。

 菅義偉首相は10日の衆院本会議で、日本学術会議の会員任命拒否問題を巡り、学術会議と政府の間で2017年に行われた人事の事前調整は適法との考えを強調した。

出所: Yahoo!Japanニュース、11月19:10配信

元ニュース: 共同通信

報道が・・・ということではない。内容である。総理大臣が国会で「学術会議の人事の事前調整は適法」と答弁したことを、ご丁寧に「ニュース」だと言って報道していることが可笑しかったのだ。

これは当たり前である。ニュースには値しない。渋谷の犬がワンと吠えてもニュースじゃあない。犬がカア、カアと吠えて初めてニュースになる。

この任命案を首相にあげた事務方の官房副長官を国会に招致せよと野党は主張している。であれば、事前調整が適法であると判断した(はずの)内閣法制局長官も国会招致を求めるのが筋だ。法制局長官に「適法と考えているのか?」と聞けばいい。「適法でございます」と回答されるのは確実だから、その次の質問をどうするかがカギになる。

つまり茶番である。質問も低レベル。報道も低レベル。本質を避けて時間つぶしをしている。

こんなところにも、時間つぶしにも似た「低生産性サービス業」の実態がうかがわれる。まさに象徴的だ。日本経済の全要素生産性(TFP)上昇率が低迷しているのもムベなるかな、である。


こんなことをしている間に、任命拒否にあった6名の学者が週刊誌ネタにされそうな勢いだ。日本社会の既存組織では、内部経済がプラス方向に成長しないので、外部不経済のマイナスばかりが目立ってきている。暮らしづらくなるわけだ。


それにしても、本当に政治と関係をもつとロクなことはない。その「イイ見本」になってきた。

菅首相は「政治で国は動いている」と感じ政治家になったと聞いたことがある。もしそうなら、国会審議で国が動いているわけではない。これもまた確かなことだ。あれは「政治」の現場ではない。時間をかけて視聴しても意味はほとんどあるまい ― ま、こんなことは周知の事実であるのだろうが。

2020年11月6日金曜日

「日本学術会議」の独立性について

 日本学術会議の6名任命拒否をめぐる論争がまだ終息していない。特に、同会議の「独立性」で判断が分かれているようだ。

「独立」といえば、小生は公正取引委員会と会計検査院を連想する。どちらも独立性が非常に高い機関である。

公正取引委員会については同委員会のホームページでこう解説されている:

公正取引委員会は,独占禁止法を運用するために設置された機関で,独占禁止法の補完法である下請法の運用も行っています。

 国の行政機関には,○○省や◎◎庁と呼ばれるもののほかに,一般に「行政委員会」と呼ばれる合議制の機関があります。公正取引委員会は,この行政委員会に当たり,委員長と4名の委員で構成されており,他から指揮監督を受けることなく独立して職務を行うことに特色があります。

 また,国の行政組織上は内閣府の外局として位置づけられています。

また、人事についてはWikipediaに以下のような説明がある:

 公正取引委員会は、独禁法等の違反事件の調査や審決を行う準司法的な機能、および規則制定権の準立法的な機能を有している。内閣総理大臣の所轄に属するとされているものの、委員長及び4名の委員が「独立」(独占禁止法28条)して職権を行使する独立行政委員会である。委員長及び委員の任命には衆参両議院の同意を必要とする。委員長は認証官とされ、その任免は天皇により認証される。

 他方、会計検査院は強度の独立性を担保されている。同じくWikipediaから:

会計検査院は、日本国憲法第90条第2項、会計検査院法第1条の規定により、内閣に対し独立の地位を有する[4]。さらに会計検査院の検査権限は内閣及びその所轄下にある各機関のみならず、国会(衆議院、参議院)、最高裁判所をも含むすべての国家機関に対して当然に及ぶなど、一般の行政機関とは際立って異なる性格を有している[4]。また、憲法にその設置が規定(第90条)されているため、その改廃には憲法改正を要する点も他の行政機関と異なる。

人事についても

 会計検査院の意思決定は、検査官会議で行われ、これを構成する3人の検査官は国会の同意を経て、内閣が任命する。また、検査官の任免は、天皇が認証する(認証官)。会計検査院長は、検査官のうちから互選した者を内閣が任命する。

★ ★ ★

機関としての「独立性」が担保されるべきであるという点だが、真に内閣から制度的に独立するべきであると考えて設置されたのだとすれば、内閣による人事にとどまらず、国会の同意なり何なり、内閣とは別の機関も関係する人事にするのが理屈だろう。

公正取引委員会委員の任命には国会の同意が必要であり、また本人の意に反して罷免することができる要件が明文で規定されている。内閣の自由な裁量で任命したり、罷免したりすることはできないことが規定からも明らかである。逆の視点からみると、確かに独禁法28条で「独立してその職権を行う」を規定されているが、それでも委員の人事については内閣が任命することになっており、かつ国会の同意が要る。その国会の同意が得られなければ、事後的にその委員は罷免されなければならないと定められている(31条の6)。その機関の独立性は必ずしも内部人事がそのままの形で実現されることを約束するものではない。

「内閣総理大臣の所轄に属する」と独禁法第27条では規定されているが、それにも拘わらず、第28条から第32条までにおいて、独立性・任命・身分・身分保障などを規定しているのは、「内閣総理大臣の所轄であるにもかかわらず」という意味合いの下で解釈するべきだろう。仮に、身分の保障等について特段の規定がなく、単に「内閣総理大臣の所轄に属する」と規定しているだけであれば、それは一般的な意味で「所轄する」という文言を解釈するほうが素直である。

他方、会計検査院の根拠である「会計検査院法」では、そもそも第1条で『会計検査院は、内閣に対し独立の地位を有する』と定められている。内閣に対する「独立性」をこれ以上明確に示す根拠はない。

会計検査院院長は、『 会計検査院の長は、検査官のうちから互選した者について、内閣においてこれを命ずる』と規定されている。検査官は国会の同意を経て内閣が任命することは上述のとおりだ。「推薦に基づく任命」ではなく、互選によって任命されている。「互選」と「推薦」はどう違うのかというのは、それこそ内閣法制局の所轄だろう ― ここまで独立性を担保しても、それもなお会計検査院は政府の影響下にあると時に揶揄されたりするのだが、それはまた別の話題である。

世間でよく引き合いに出される例になっているのは、天皇が総理大臣を任命している点だ。「任命」するからと書かれていても「拒否」はできないだろうという議論だ。しかし、素人でもこの議論がおかしいことはすぐに分かる。天皇による任命に先立って国会が議決によって(1名を)指名することになっており、同時に国会は国権の最高機関であると規定されているので、天皇が任命拒否できるロジックはないのだ。

★ ★ ★

要するに、政府の裁量によって任免ができないケースがあるのであれば、そのことが手続きと共に条文で明記されている。行政権を有するにも拘わらず人事という面で政府を束縛する以上、明記されるのが当然でもあり、これは立法意思を明示することでもある。

日本学術会議は、確かに第3条で『日本学術会議は、独立して左の職務を行う、云々』と規定されているが、《何に対して独立して》同条文の各項の職務を行うのか明らかではない。「内閣から独立して」と読めないことはないが、しかし、第1条で『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする』と明記しているので、第3条の「独立」が内閣総理大臣からの「独立」であると解釈するのは、牽強付会に過ぎるのではないかと小生には思われる。設置法には独立性の規定はあるが、しかし身分の保障や内部推薦の担保について特段の規定はない。推薦から任命に至るまでの規定がない。であれば、やはり普通の意味で内閣総理大臣の「所轄」の下にある。こんな理屈になるのではないか。「推薦に基づく」というのは、「推薦に基づかず」して政府の裁量で任命することは不可である。そう読むのが素直なように思える。

結局、今回の任命で欠員が出来てしまったが、それは学術会議の側の候補者リストと政府の意向の共通集合として、任命が決まったということであって、学術会議の意向にも、政府の意向にも沿った任命となったわけである。別の方法をとるとすれば、例えば政府の意向と学術会議の意向の和集合として定員が満たされるまで優先順に任命していく手法もあってよい。現行の方式は学術会議の内部推薦に基づく方式である。学術会議の意向は十分に尊重されていると小生は思うのだが、なぜ学術会議(というか日本共産党?)が不満であるのか。そこがよく分からないのだ。

★ ★ ★

小生は、小役人をやっていたとはいえ法律には素人であり、せいぜいが学内教務上の学則をいじっていた程度である。とはいえ、素人が少し調べてみても、日本学術会議の「独立性」は法律の条文に沿って素直に読むなら、かなり限定的に解釈しなければならないことがわかる。

まあ、おそらくは会員が各学界の権威や出身大学の意向、その他諸々のしがらみから拘束を受けることなく学術会議の使命を達成せよ、と。そんな意味での「独立性」だろうと小生には読み取れる。

★ ★ ★

以上みたとおり、これは国会でつついてみても細かな話であり、法解釈の問題であるとしても判定は自ずから明らかではないかと感じる。

内閣法制局が法解釈を変更していないというのは本当だろう。「条文上は明らかに拒否ができる文言になっているが、政府は推薦を拒否する意志はもちません」、「政府の任命はあくまでも形式的なものにする所存です」等々と、その時の総理大臣(中曽根首相)が前段を(故意に?)省いて答弁したものと思われる。

ま、「詐欺」といえば詐欺に近いが、これもまた「政治」というものだろう。

そういえば現在の野党も既に「政治」をしている。

行政判断に不満があれば司法の場で黒白を明らかにするのが筋道だ。政府の個別人事の理由を政府が公開の場では明かさないとしても間違っていない。政府は野党の許可をとって行政判断を行う義務はない。論争を仕掛けているのは野党である。政府は論争には応じていない。が、論争をしたい側が止めなければ論争は続く。しかし野党の言うとおり、法解釈の正当性が論点なのだから、行政訴訟に委ねるのが本筋だ。それを国会で論じ政治案件にしている。そうしているのは明らかに野党の方である。なぜなら来年には衆院選があるからだ。

何日か前の投稿でも書いたが、野党もまた「政治」をしているわけだ。その野党は、そもそも最初にこれを「政治」にしたのは与党の方だと言うだろう。

売られた喧嘩は買わせてもらう

そんなところか。与党も野党も同じ。要するに、政治家が「政治」をしている。ただそれだけの事である。「そんなに面白いのかネエ」と、小生などは思ったりするが、面白くてたまらないのだろう。

・・・ただ、仮に司法判断の場に移った場合、政治的な意味合いであるにせよ、推薦された候補の任命を拒否するなら一本理屈の通った根拠は要る。「危ない」という程度の理由で任命を拒否したのであれば、その結果として欠員が出来ているわけでもあり、あまりに運用が恣意的であると見なされ「決定は合理性に欠ける」、と。そんな判決が出る可能性は大いにあるとみている。ただ推薦通りに任命せよという判決にはならないとみる。

以上、覚え書きまで。

===

加筆を繰り返し、この辺でざっと一段落した感じがする。「一言メモ」はもう外してもよさそうだ。


 

2020年11月5日木曜日

大統領選挙の「1票の重み」を指摘する人がいるが……

 アメリカの大統領選挙は日本でもワイドショーの人気トピックである。日本にも多少の関係があるので、一種の「高みの見物」的な興味がある。もしもこれが日本国の運命を決めるほどの重要性をもっているなら、どのTV局も朝から晩までこればかりで一色になっているはずで、まあまあ丁度ホドホドに重要である話題、それがアメリカの大統領選挙であったのだろう。大阪都構想よりは日本全体に関係があるわけだし・・ということだ。

頻繁に聞くのは大統領選挙の仕組みについてである。特に、各州の選挙人を総取りするという間接選挙の成り立ちは、自民党総裁選挙を除けば、日本では馴染みがない。この方式のため、全米の得票率とは別の勝敗になることがある。前回のドナルド・トランプ対ヒラリー・クリントンのケースがそうだった。得票数ではクリントン候補が勝ったが、獲得した選挙人数ではトランプ候補が勝利したわけだ。

これについて『国民の得票数では勝ったのに、それでも選挙では負ける、これはおかしいということになっていくのではないでしょうか?」、「1票の重みに違いがあるんですよ」等々、この辺でアメリカの大統領選挙制度は民主的ではないという批判を語るTVコメンテーターが多いようだ。

日本人が『アメリカの大統領選挙制度は「民主的」ではない』と語ること自体が、どことなく漫画チックなのであるが、それも「一票の重みは完全平等であるのが真の民主主義」であるという大前提から選挙を考えているからだ。

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いわゆる「1票の重み」についてはずっと以前に投稿したことがある。

小生は、その国の選挙で1票の重みに違いがあるとしても、当たり前だと考える立場に立っている。

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大統領選挙は、人口が多い州には多くの選挙人が割り当てられているので、1票の重みへの斟酌は(十分ではないという理屈にはなるだろうが)されている。上院議員選挙になると、各州一律に2名であるから、1票の重みの平等はまったく考慮されてはいない。合衆国憲法に「各州平等」の規定があるのだ。

確かに、1票の重みという点では不平等だ。しかし、アメリカは(日本もそうだが)東海岸、西海岸などの大都市圏への人口集中度がかなり高い。人口比がそのまま投票の重みになるなら、人口希薄な地方は小さな政治的発言力しか持てないのが当たり前だという理屈になる。しかしながら、(これも最高裁判決を批判した以前の投稿で書いたのだが)地方では土地集約的な農業・牧畜が主たる産業である。広い農地、牧場には家畜はいるがヒトは住んでいない。『人口が少ないので政治的発言力はその分削減しますから……』と、そう結論を出すのは『大事な事は大都市の住民で方向を決めますから』という意味になる。

想像だが、人口比に準じて上院議員定数が割り当てられるなら、例えばロッキー山脈東麓の人口希薄な諸州(ネバダ州、ユタ州、ワイオミング州等々)は、政治的発言力が大幅に低下するので、アメリカ合衆国から離脱することを目指すかもしれない。人口希薄な地方圏は、大都市主導の国家から独立して、自分たちの政府を設立したいと考えるかもしれない。独立して自らの利害を自らの意志で守るほうが良いと考える住民は地方にはかなり存在するであろう。独立すれば1対1の対等になるからだ。これでは現行制度と同じになる — 日本国内にも同じ理屈で物事を考える人々は、小生が暮らす北海道をはじめとして、潜在的にかなりいると想像している。

念のために付言すると、各選挙区で有権者数と議員定数が比例するように選挙区の区割りを決めればよいのだというのは、小手先業であって本質的解決にならない。この手法もまた、各選挙区の職業比率に着目すれば、第2次、第3次産業に従事する人々の意向がより強く反映されるのは当然であるという価値観に立つことになるからだ。「価値観」であって、「理屈」ではない。

利害を異にする大都市圏から農業地帯である地方圏が離脱、独立する……そうした状態は、どちらが得をするのだろう。少なくとも「アメリカ合衆国」全体の国益にとってそれはプラスではないと思うのだ、な。

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1票の重みを完全に平等にしないのは、決して《国家の怠慢》ではなく、国の統一や国の利益を考えた《国家戦略》である。小生はそう考えている。同じロジックは、日本国内の「1票の重み」をどう考えるかという論点にも当てはまる。地方が余りに得をして、大都市圏の経済的不利益が余りに大きいという感情が高まれば、今度は大都市圏の側から地方圏の切り離しを願うようになるだろう。逆に、大都市圏ばかりが得をして、地方圏が割を食っているという感情があるなら、1票の重みの完全平等などは目指すべきではない。国益を考えればそれが合理的だ。そんな風に「選挙」という意思決定方法については考えている。

陳腐なようだが、選挙もまた意思決定方式の中の一つであり、目的は《国益の向上》と《利益配分のバランス》である。故に、地域間の「一票の重みの格差」は正に政治問題であって、憲法や法律に関する問題でもないし、倫理や理念に関する問題でもない。

今日の投稿の結論はこんなところで。

2020年11月4日水曜日

ホンノ一言: 『守れ、守れ』をあと何年言い続けるのだろう?

『守れ、守れ』と声をあげる方が負けて、『倒せ、倒せ』という側が勝つのは浮世のならいである。

 行政手続きにおける押印廃止方針は、もはや「〇〇廃止運動」のような観を呈している。ご時勢といえばご時勢だが、こんな世間になるとは前もっては予測しがたいものだ。

が、マア公平かつ客観的にいえば、署名ならいざ知らず、署名押印の押印は無駄であろうという例は無数にある。これ自体は誰もが認める事実だろう。ずっと昔、小生の上司が『今朝は新聞を読み終えた印に判を押してきたよ』、『エッ、ホントですか?』と、そんな戯れのような話をしたものだ。よろず押印をもって公的手続きの基本に位置づけている国家といえば、(調べてみたわけではないが)日本の他にどこがあるだろう?

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ところが旗を振っている河野行政改革担当相に対して猛反発している地域もある。印鑑が地元の名産になっている山梨県などは代表格である。河野大臣がネットで何かを言えば、知事自らが『嫌悪感を催す』などと語っているくらいだ。

どうも4年前のアメリカにトランプ大統領が登場してからというもの、政治家の言葉が口汚くなり、自己利益を臆面もなく主張することや感情を抑制できないことなど、本来は恥ずかしいことを、なんと政治家までが恥ずかしいと思わなくなってきた傾向がある。

政治家が庶民の真ん中に居て神輿に乗っているようでは、単に担がれているだけの存在である。誰でもよい理屈だ。「神輿は軽くてバカがいい」と言った重鎮政治家もいた。真ん中でみこしに乗るのではなく、庶民の前に出て将来を見通すくらいのことはする義務があるだろう。とすれば、庶民が下品になり(大半の庶民は下品になっていないと感じるが)、感情を抑えなくなっても(庶民の多くは感情を抑え礼儀を守っていると感じているが)、政治家がそれを真似してはいかんだろうと思うのだが、カンナ屑のようにペラペラとその時々の風にあおられる御仁が政治や行政をやっていたりするのが今のご時世である。

山梨県の人たちの地場産業を守るために日本国の制度をどうするかを決めるというのは、ちょっとついていけんナア、と。そう感じるのは、小生だけではないような気がする。

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どこもかしこも『守れ、守れ』の掛け声ばかりだ。一体、いつまで守ればいいのだろう?何もかも守らなければならないのだろうか?そんなに守るのが大事なら、新生児の名前で「守」とか「護」が多いはずだろう。しかしよく目にするのは「翔」や「大」の字で、日本人の多くが何かを守るのに必死であるという雰囲気ではない。むしろ大きく飛躍をしたいという心情が子供の名前にも表れている。

「これが育ってきた、あれも育てたい」と、そんな風な声がたまには出て来てもバチは当たらんだろう。

このくらいは、バッサリと言ってほしいネエ。たとえ"Politically Wrong"であるとしても。「言っちゃえ、〇さん」と煽りたいところだ。


2020年11月3日火曜日

一言メモ: 科学リテラシーと前後則因果の誤謬(post hoc ergo propter hoc)

 こんな記事がある:

日本工学アカデミーは緊急提言を2017年と2019年に出している。わが国工学と科学技術力凋落への危機感から書かれた提言は、共に科学技術政策担当大臣に手交された。

「情報時代を先導する量子コンピュータ研究開発戦略」「2030年の超スマート社会に向けた次世代計算機技術開発戦略」「新たな働き方、生き方、社会の在り方の実現に向けた提言 テレイグジスタンスの社会実装へ」「医療の高度化と医療制度のサステイナビリティの両立に向けて」と、他の提言も具体的で将来を見据えたものである。

出所:アゴラ-言論プラットフォーム『日本学術会議は日本工学アカデミーに学べ』

URL: http://agora-web.jp/archives/2048777.html 

上の提言をみて、「このアカデミーの提言は政府の基本方針とほとんど同じだから、この機関は政府から独立してはいないようだ」と、そんな批判をする人もいるかもしれない。

政府の方針に沿って、民間機関が将来の方針を決めているのであれば、やはりこの国は政府主導で動いていると、そう観るのが「正しい」ということにもなるのだろう。

しかし、そう簡単ではないと思う。

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いわゆる「前後則因果の誤謬(post hoc ergo propter hoc)」を連想してしまう。

稲妻が光った後に雷鳴が轟くが、だからと言って稲妻が雷の原因であるわけではない。本当は二つ同時に発生している。雷鳴が稲妻の後から聞こえるのは観察者までの距離による。後で観察されたからと言って、先に見たことの結果であるとは限らない。ただ「そう見える」だけである。

政府が政策方針を検討するとき、関係各界の意見を聴くものだ。政府の方針が公表されると、それに併せて財界や企業も同じ方針で具体的な計画を発表する。だからと言って、民間企業が政府に合わせているとは言えない。政府主導で物事が進められているとは限らない。ただ、そう見えてしまう。

これもやはり"Post Hoc Ergo Propter Hoc"の誤謬の一例だろう。

「民間が政府から独立していない」のではなく、「政府が民間から独立していない」のだとすれば、むしろ良いことだろう。

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観察された事実や現象をどう説明するかは、現象の背後で働いているメカニズムを洞察し、立証しておくことが不可欠である。

同じ現象に対して、異なった複数の説明の仕方を列挙し、どれが真相に当てはまっているかを検証するのが科学的方法の核心である。

統計学の授業では事件捜査を例に引いて話したことが何度かある。

捜査の段階では複数の容疑者が現れるものだ。その容疑者は「推定無罪の前提」に立てば、最初は全員がシロである。シロがクロになるのは集められた物的証拠から「彼はシロではありえない」と結論されるからである。ということは、シロの可能性を否定する十分な証拠がなければ、シロの前提を覆すことはできない。故に「疑わしきは罰せず」なのである。容疑者が真にクロであるときに、証拠をもってそれを立証する能力を統計学では「検出力」という。誤ってシロの容疑者をクロと判断するのは「第1種の過誤」、クロであるにも関わらずシロであると判定して立件に至らないとすれば「第2種の過誤」になる。これらは統計学の基本中の基本である。

往々にしてやりがちな非科学的議論がある。

それは直観的にクロであると結論したい何かがある。そこでクロの想定を支持する証拠を一生懸命に集める。そして「これだけの証拠がある。だからクロである」と結論を出す。これは典型的なデータ・クッキングである。シロの前提に立ったときに、同じ証拠がどの位の確率で得られるのか、その点の評価をしなければならない。

「実証的」と言いながら、実は一方的な、偏った「検証」をしている例は余りにも多いと感じている。結局は、「科学リテラシー」の問題である。