東洋にも二項対立的な思考パターンはある。たとえば
是非之心、智之端也
という孟子の名句にあるように、是非を知るのは知の初めである。世界には正しい事と間違った事があると考えるのは、現代世界で今もやっていることだ。
その他にも、理非曲直とか真偽とか善悪とか、人間世界の全体を単純に2分類するとらえ方は数学にも似ていて誰にも分かりやすい長所がある。そして、この単純2分類が認識論にまで影響すると、<物質と精神>などになり、物質は生成消滅するが精神、つまり魂は永遠不滅であるとか、マア、そんな哲学が生まれたりする。
前にも投稿したが、小生も若い頃から西洋的思考に慣らされてきた。デカルトよろしく、精神と物質、カントよろしく自然法則と倫理法則などと考えていた。しかし、今では前の投稿にも書いたが、
よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。
精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。
前の投稿は、唯物論のようでもあるし、逆に考えると唯心論のようでもある、と。要するに、西洋的な二項対立思考では見えなくなる面がある。そういうことだ。
こう考えると、日本人は、明治維新以降、ずいぶん西洋文化にかぶれてしまった。大体「唯物論」とか「唯心論」、「唯識論」などという考え方自体が、西洋的であって、ほとんど全ては明治以降の学問の立場から得られてきた知識である。
我々の思考パターンから、西洋の借り物を一切消去して、元々の日本人の自然認識、社会認識、人間認識に立ち戻って考えると、どんなとらえ方になるのか?
これまた有効な問題提起じゃなかろうかと考えると、正に夏目漱石が晩年に至って辿り着いた心境であるし、と同時に、江戸時代の国学者・本居宣長は《
最近になって<宗教>が話題になることが多いが、西洋的な自然科学的思考に頭から足まで染まってしか世界を見れなくなると、宗教とか、信仰という人間行動を的確に理解できないはずだ。
中国の儒学には《温故知新》という名句がある。『論語』が原典だ。高校の漢文の初歩に登場する。中国伝来の外来文化ではあるが、『古きをたずねて新しきを知る』、小生はこの言葉が大変好きである。継承されてきた文化は、それが誕生した当時の人間のあり方、社会の在り方をリアルに共有しない限り、分からないものである。それを単純に「古い」などと結論付けている間は、人間社会が前に向いて進んでいくはずがない。それがロジックだと思う。《古い vs 新しい》という単純2分類で考えている人は自宅のリフォームすら上手に出来ないだろう。
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