2023年12月31日日曜日

断想: たかが会計、されど会計ということに尽きるはずだが

本年最後の投稿。

あまり明るい話題ではない。2023年という年は、コロナ禍は一段落し、株価も上がり盛況だったが、何だか意気が上がらない。変な一年であった。日本社会の基本構造に大規模欠陥箇所が確認され、その改造コストが無視できないレベルになると見通されているということか。

その一つ。

政治資金パーティによる裏金作りは、自民党安倍派ばかりではなく、他派閥でも横行していたというのでTVワイドショーでも年の瀬の大型ネタとして重宝されている。

世間の受けがよい意見であるが、小生にはピンと来ず、疑問に思う点を一つ。


ある中小都市の元市長が

キックバックが幾ら以上なら起訴し、それ未満なら起訴しないというのは可笑しいです。不正には変わらないのですから、捜査を徹底し、金額の多寡にかかわらず全員を起訴するべきです。

こう述べたところ、

その通り!もともと私はそう思っていました。不正は不正。額の多少じゃありません。

某レギュラー・コメンテーターが全面的に賛成です、と。

小生、ひっくり返りそうになりました。


同じ理屈を一貫させると

三人以上殺すと死刑になる、と。判例からそんな話があります。しかしネ、これは可笑しい。一人だろうと三人だろうと、殺人は殺人です。三人殺したから死刑なら、一人殺害の場合でも死刑にするのが順当です。一人ならイイという理屈は法律のどこにも書いていません。

こんな意見を述べなけりゃ理屈が通らない。問題が違うという御仁もいるかもしれないが、ロジックは同じだ。

更に、

意に反して人が殺されている事実に故意と過失に違いはありません。少なくとも遺族にとっては同じです。死んだ家族は戻らないんです。危険な速度で走行して、その結果、事故を起こし、人が死んだなら、殺人犯と同じです。死刑です。

そんな主張を展開することになりかねないのではないか?世の中、ひっくり返りますワナ。


そんな主張は誰もしない。刑罰の適用には色々な情状というのがあると誰もが承知しているからだ。一つ一つの不正や犯罪は、一人一人の人間と同じで、人が違えばみな違うものだ。要するに

一律にはいかない。

だから大陸欧州なら予審判事が起訴するかどうかを吟味し、英米なら大陪審か予備審問を行う。日本は予審がないので検察がそれをやっているわけだ。 

起訴法定主義なら予審で裁判の必要を吟味し、起訴便宜主義なら検察が起訴を検討し、起訴すれば裁判になる。刑事訴訟について国際比較でもすれば済む話しだ。今の法制度の検察を批判しても筋違いだと分からないとすれば、それ自体が不可思議。何か別の狙いがあるのだろう。


裁判にかける前に先ず事件を吟味するのは当たり前のことで、誰でも知っている事である。視聴者の方が賢いですゼ。

何度も投稿したが(例えばこれ)、まったくいつになっても、日本というお国は、

頑張る下とダメな上

そんなお国柄だ。

いま日本社会は、TV画面の中の三流専門家(?)を賢い庶民が面白がって視ている。そんな図式になっている……TV画面の向こうに一流の人物はまずいない。一流の人物はTV局の上層部の意向に従わないからだろう。これが邪推でないことを祈る。


まず先に、死刑とは何か、刑罰に死刑を設けるというのは何故か、要するにこういう問題を最初に考えないといけない ― ちなみに、小生は何度も投稿しているように、厳格な死刑廃止論者である。

政治資金も同じことだ。表か裏か、金額が〇〇超であるか否かではなく、政治資金とは何か、どう会計されるべき資金か?ここから固めておけば、後の議論が続く。そもそも、権力の座にいれば、贈収賄に巻き込まれがちで、意図することなく脱税を犯してしまうものなのだ。真の不正も混じるだろう。

会計を厳格にしておくのは、政治を守り、同時に政治にたずさわる「権力者」を守るためである。

全く同じだとは言わないが、国立大学教授が民間企業から研究費を受け入れ、それを黙っていれば、例え私的流用がなくとも「脱税」に認定される(はずだ)。必ず「奨学寄附金」として(企業側の手続きと相応して)学内手続きを済ませておく必要がある。研究資金というからには、当然、使途には制約がある。それでも、色々な事情があるのだろう、潜りで副業をしたり、潜りで金銭、資機材を受け入れたりする不祥事は大学内で発生しうる。

政治活動にも通じる話ではないか。機密費は機密費として認められているからそう計上しておけばいい。

目の前の問題が解答不能な難問に感じる原因は、ほとんどの場合、基礎をしっかり固めていないことにある。



2023年12月30日土曜日

覚え書: 三流の経営者が「選択と集中」を行ってきた悲劇ということか

ずっと以前、何年も前になるが、ある旧友と研究費の配分について議論したことがある。

旧友は、日本国内の研究費の配分は悪平等で、非戦略的、実に知恵のない方法で決められている。これでは研究成果に結びつくはずがない。大半の研究予算はドブに捨てられている。もっと《選択と集中》を徹底しなければならない。

こんな事を友人は主張したのだが、それに対して小生は

そもそも研究は砂漠で水脈を探すようなもので、あらかじめ水脈がありそうな区域が分かっているわけではない。分かっているなら、それは研究ではなく、ビジネスだ。所在不明の水脈を探すときに「選択と集中」などが有効とは思えない。

こんな反論をした記憶がある。

その後、同じテーマで論争をすることはなかったが、今でも小生は

純粋の研究費は、一様分布に沿って配分しても可である

そう考えている。 

もちろん結果の見込みがついているなら必要経費を割り振ってもよい。但し、こうした段階にある研究はもはやスタートアップを間近に控えたもので、アカデミックな研究というよりTechnology Licensing Organization(技術移転機関)に委ねるべき活動だ。

よく批判されているが、日本の大学間研究費分布は極端な少数集中型になっている。例えば、下の図を参照されたい。




URL: https://www.f.waseda.jp/atacke/kakenQA.htm

あからさまに言えば、日本においては東大、京大、東北大、阪大、名大に研究費の大半が集中して投下されている。

もちろん、東大、京大に研究予算が配分されても、その研究費を使える研究者が東大、京大所属の人だけに限定されるわけではない。研究チームに含まれる人は、学外の人材であっても研究には参加する。とはいえ、何を研究するか、どのような人材を研究チームに含めるかは、研究費を配分された大学に所属する人物が決定している(はずである)。

極端に言えば、日本におけるアカデミックな研究活動は東大・京大が主導していると言っても言い過ぎではないかもしれない。


上の図は、見ようによっては研究費総額に日米で大きな差があるため、日本においてはトップ層未満の大学に配分される研究予算が絶対的に乏しいのだ、と。大学間配分に問題があるのではなく、研究費総額が貧困であることが日本の学術分野の主たる問題である。そう考えることもできそうでもある。


しかし、個人的な感想だが、仮に日本で学術研究費総額が飛躍的にアップされるとしても、その時はその時で、研究費はやはりごく少数の大学に集中的に投下されるのではないか。即ち、上の図の赤い線がただ上方に平行移動するだけの結果になるのではないか。そんな風に観ているのだ。

かつて旧友が嘆いたような悪平等は日本の研究予算配分に認められない。むしろ事実は真逆なのである。

これは文科省(及び国内学術界?)が、研究活動においても「選択と集中」に徹しているということなのだろうか?それはメリハリのある、適切な方法なのだろうか?

上で書いた小生の発想に基づけば、純粋の研究にはなるべく一様に予算を散布し、見通しのついた研究は選択と集中で、ということになるロジックだが、そういうことか?

問いかけに全て回答しつくすのは難しいが、ビジネス分野に限っては手掛かりがある。

先日、読んでいたブログでこんな記事を見つけた。テーマは『日本の労働生産性はなぜ低いのか?』という問題である。

考えてみれば、初等中等段階の学力では先進国の中でも遜色のない日本人が、成長するに伴い劣化し、社会人になってからは低い労働生産性しか発揮できていないという現象は、不思議ではないか?

そんな問題意識から出発している。

この記事はこうまとめている:

公表されたリポートは、繰り返しになりますが、日本の人材の潜在的な優秀性を明らかにするものであり、企業部門において日本の労働力・人的資源を活かしきれていない実情を浮き彫りにしています。特に、イノベーション活動はひどい状況です。これは、いわゆる「選択と集中」の失敗によるものといわざるを得ません。選択先を失敗したわけではありません。逆に、イノベーションのためのは広くリソースを配分する必要があるのですが、成功しそうなところだけに集中的にリソースを配分しようとして失敗しているわけです。言葉を変えれば、「当たる宝くじを買う」ことを狙っているわけで、私には極めて非現実的な戦略に見えます。幅広い対象に向かって実施している教育と真逆の方向を志向するイノベーション戦略の転換も必要です。

上でいう「公表されたリポート」とは、日本生産性本部が本12月に公表した『生産性評価要因の国際比較』のことである。

日本の企業、つまり生産現場において、元々は能力のある労働資源を活用できていない。そんな実態を指摘している ― もっと前に指摘できなかったかネエ……。有効なイノベーションがほとんど実現できていない。これは、要するに《選択と集中》の失敗によるものだ。

こんな風に考察している。

そこから得られる一つの帰結は

凡人が行う選択と集中などが成果を生むはずがない。 

選択と集中は一流の人材が行ってこそ結果が出る。三流の人物が下手に選択し、集中を行うと、最悪の結果につながるものだ。

日本の企業経営では、往々にして人柄のよい人がトップ層を形成する。そんな人々が「選択と集中」を行うのは、実に危険な選択なのである。そして、それが「危険な選択」であることが分かってこなかったことこそ、この20年ないし30年間の日本の失敗である。

似たような論題は以前にも投稿したことがあるが、マ、(今更とも言えそうだが)当たり前すぎる事実だ。そう思われるのだ、な。



2023年12月26日火曜日

ホンノ一言: メディア報道にも「第三者による品質評価」が必要では

 少し前の投稿

2023年という年は《人権元年》と呼ばれるようになるかもしれない

と、こんな事を書いている。

実際、そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。というのは、年の瀬になってから、自民党安倍派による政治資金パーティ裏金作りが露見して、そうかと思えばダイハツによる不正検査が暴露されたりと、人権というよりガバナンスの問題が次々に浮上したからだ。

であるので、

2023年という年は《人権元年》、もしくは《メディア崩塊の始まり》

ひょっとすると、こう予想しておく方が適切かもしれない。

政治資金裏金作りは、一介の大学教授が刑事告発する前に、大手メディア企業がスクープしておくべき事柄だった。油断というより、サラリーマン化してヤル気がなくなっているのだろう。

結局、日本国内のマスコミは、報道するべき事柄は報道せず、大した事ではない不祥事をネタにして無防備の個人を追い詰め、社会的制裁を加えて人権を侵害することを生業とするようになった ― 許認可に基づく寡占を公認されているTVメディアを想定して書いているのだが。

『味噌もクソも』という表現があるが、味噌・クソ混ぜこぜなら、まだ許せる。しかし大半はクソだという状態になれば、敢えてオカミ公認のビジネスにする必要もないだろう。これで信頼が崩壊しないなら、日本社会がどうかしている。

大雑把な筋道を書く。

(NHKを除く)地上波TVメディアとその他のメディアが担う報道機能には大きな違いがある。

TV以外の報道メディアの受益者は、情報の受取者であって、故に情報の信頼性に疑問符を感じれば、受け取り側が対価を支払わず、その情報を利用しないという選択肢をもつ。それが市場規律となって(最小限の?)報道品質を守らせる。

それに対して、TV企業が提供する(報道・情報を含めた)番組の受益者は、実はスポンサー企業であって、提供される情報の受取者ではない。TV企業が放送する報道番組は、スポンサー企業のプロモーションが目的であって、視聴者はプロモーションのターゲットとして認識されている。視聴率が参照されるのは、視聴者の満足を測定するためではなく、プロモーションが機能しているかどうかを測るのが目的だ。

そして、視聴率を上げるには、(以前にも投稿したことがあるが)歪みのある能力分布を前提すれば、平均未満の階層をターゲットにすれば母集団の過半数に対して遡及することができる。TV企業が放送する情報番組が、社会全体の平均に対して幼稚と思われる水準に近付くのは、必然的かつ合理的な帰結である。

メディア報道に対して視聴者側から批判の声が高まらないのはロジカルである。

もちろん、「こんな仮説とロジックが当てはまるのではないか」という推測である。

自民党も党改革に向けた検討会議を設けるようである。また「検討」かと呆れるというのが感想だが、問題意識をもっているだけまだマシであろう。日本国内のマスコミ界は、信頼崩塊の中にいるにもかかわらず、体質改善に向けて何のアクションも起こしていない。

例えば、大学では授業担当教官ごとに《自己評価》を行うとともに、受益者たる学生による《他者評価》を毎年行っている。何年に一度は《外部評価》も受けている。他教官による《相互評価》、《相互参観》もある。これらがどれだけ教育の品質向上に役立っているかを確言するのは難しいが、実証的分析には値するであろう。何にせよ活動と成果を結びつけるには客観的検証が不可欠だ。PDCAサイクルの狙いもここにある。

だとすれば、マスコミの報道品質について、《第三者による報道品質評価》をネット上で実施すれば良いのではないだろうか?対象は、メディア企業を評価単位としてもよいし、個々の報道番組、情報番組を評価対象にしてもよいだろう。

運営は、メディア業界と利害関係のない独立した消費者、企業、学界から選任し、消費者団体、教育界、財界、労働界などが寄付をして非営利団体を創設すればよい。

日本の経済活動の中で、民間企業は取引先や同業他社による厳しい目にさらされている。他方、政党や政治家は有権者の目を逃れがちであるし、官僚は政治家と国民をだますことが可能だ。同様に、メディアが提供する情報は、ドラマやバラエティなどとは異なり、現実社会をとりあげながら、自社都合に合うように内容を恣意的に編集する動機をもつ。

実際、オープンな場であるネット上の論調とメディア上の論調とが大きく乖離している話題は数多い。学界の専門家が疑問とする解説や報道も数多いようだ。

メディア報道にも《第三者による品質評価》を定期的に行うシステムが必要だ。

第三者による報道評価と人権擁護団体が連携して活動できれば、日本社会の風通しもずいぶん良くなるだろう。

2023年12月23日土曜日

覚え書: 運送にも人が足らないのに、国防に人が足りるわけないのでは

 最近の投稿で、

日本に足らないのは人手だけではない。電力(≒エネルギー)もまた恒常的に不足している。

こんな事をメモしている。世間では「足りない、足りない」とばかり話している様子なので、人だけではないということを言いたかったわけだ。

そうそう、足りないといえば、日本政府もまたカネ不足である。が、まあこちらは日本国としては資金余剰(=経常収支黒字)、つまりは貯蓄超過(=投資不足)であるので、それほどは心配は必要ない。

本日は、米紙のNYTが、先頃、至極ご尤もな指摘をしていたので、転載しておきたい。

Japan has committed to raising military spending to 2 percent of gross domestic product, or by about 60 percent, over the next five years, which would give it the third-largest defense budget in the world. It is rapidly acquiring Tomahawk missiles and has spent about $30 million on ballistic missile defense systems.

But as the population rapidly ages and shrinks — nearly a third of Japanese people are over 65, and births fell to a record low last year — experts worry that the military simply won’t be able to staff traditional fleets and squadrons.

The army, navy and air force have failed to reach recruitment targets for years, and the number of active personnel — about 247,000 — is nearly 10 percent lower than it was in 1990.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 13, 2023

Author: Motoko Rich and Hikari Hida

URL: https://www.nytimes.com/2023/12/13/world/asia/japan-military.html

防衛予算(=国防費)を対GDP比で2パーセント水準まで拡大しようという、誰もが知っている話しである。

その財源をどうするかというので、いま岸田内閣は苦悩しているのであるが、上のNYT記事は、仮に財源が増税か何かで(その何かはないはずだが)見つかったとしても、もう日本には「使える人」がおらんでしょう、と。

高齢化と少子化に歯止めがかからず、国のために動く人は減り、国から面倒をみてもらおうと願う人ばかりが増えている。これが戦後約80年が過ぎた今の日本国である。

国防ばかりは移民に頼るわけにはいくまい。

国防予算拡大が絵に描いた餅にならないよう願う。

軍事と外交、経済のリバランスをもう一度よく考えた方がよいだろう。経済は《経国済民》、経済をしっかりと固め、次に外交へ、最後に軍事をどう用いるかを考えるのが自然な順序というものだろう ― 戦力不保持という憲法上の、というか法理的な問題解決は脇に置くとして。

2023年12月21日木曜日

覚え書: 自分がリベラルか、保守派か、どうでもいい事ではないのだろうか?

リベラルな意見を持つよりも先に『自分はリベラル派なのか?』とか、保守的な社会観を自分はもっていると自己認識する以前に『自分は保守派に属するのか?』といったような《帰属に関する懐疑》を自分で抱いては、《自分の居場所》について悩んでいる人が、この日本では意外と多いのかもしれない。

というのは、こんな記事がネットにはあるのだ、な。失礼の段は御寛恕賜るとして、一部を引用させてもらおう:

ちなみにリベラルの反対語は保守ではなく、権威主義です。今週、バイデン大統領がメキシコとの国境の壁の建設を再開させました。ついに公約を覆した理由は「想定以上の国境破りに手を焼いたから」とされます。この場合は不法越境者に穏便な態度を取ったことで「我も、我も」とアメリカ大陸のはるか南から何千キロも北上して藁をもつかもうとする難民に奇妙な期待感を提示したのです。結局、バイデン氏はギブアップして権威的に壁を作らざるを得なかったわけです。

対中国の外交姿勢はアメリカも日本もリベラルっぽいところと権威的なところの折衷です。日本の権威的な姿勢はアメリカに同調という名の服従型で同盟国内のリベラルとも言えなくはないでしょう。個人的に思うのはリベラルに走り過ぎるとグリップが効かなくなるのです。永遠に人の欲望を聞き続けなくてはなりません。アメリカの自動車業界のストライキもまだひと月はやるでしょう。その後も様々な産業で好き勝手な主張が出てくるはずです。組合が強いのはリベラル主流だともいえます。その点、日本は歴史的には結構、権威主義的な国です。

Source:あごら AGORA 言論プラットホーム

Author: 岡本裕明

URL:https://agora-web.jp/archives/231006215052.html


書かれてある内容は小生もまったくその通りだと思うが、なぜリベラルとか権威主義とか、そもそも社会に様々ある意見をクラスタリングした結果としてのグループ名が、これほど真剣に議論されるのだろうか?

個人個人のマチマチ、バラバラの意見の分布がまずあって、その後に主張や価値観の類似性に着目してグルーピングする。そうしたら、たまたま英単語の中の"Liberal"や"Conservative"というネーミングが偶々マッチする。そんなクラスター(=グループ)があります。それだけの意味しかないのではないか?

まして、自分が社会全体の中のどのクラスターに所属するかなど

あっしにゃあ、関わりのねえことでござんす

と、社会学者か政治学者か知らないが、そんな括り方には我関せずと、オトボケの姿勢を終始一貫保つとしても、何ら罪ではないのである。なのに単なるネーミングだけのグループ名を

なぜ気にする?

自分はリベラルであるのか、コンサバであるのか、自分の意見よりも先に自分の帰属先を気にする心理が小生には七不思議なのだ、な。まず先に企業なる存在がある就職活動じゃあないのだ。自分はどう感じ、どんな風に考えているか。自分の考えがまず先にある。それがリアリティである。各自、自由勝手のはずである。その自己自身というリアリティが、統計的仮構に過ぎないグループのいずれに属するかになぜこだわるのだろう?


経済学者のGregory Mankiwというと世界的ベストセラーとなった教科書の著者として有名だが、氏のブログに面白い投稿がある。

This graph from David Leonhardt's column is illuminating. Now I understand why those of us who are fiscally conservative and socially liberal have trouble finding political candidates to fully represent our views. There are too few of us!

"This graph"というのは下の図である。


財政については保守的、社会的にはリベラルであるような人々が余りに少ない、というのがMankiwの所感である。

実際、弱者救済を政府の責任と考えるリベラル派は「大きな政府」、つまり高い税負担率と高額の福祉給付を主張して、初めて論理が一貫する。Mankiwはそうではないというのだから、確かに極めて珍しいタイプの経済学者である。例外的カテゴリーに属しているので、彼が属するクラスター名は無いというべきだろう。

ま、これ以上のことは同氏の所論を直接に読み込んで知るべきだ。少なくとも、自分の意見が先にあって、自分の帰属先は後から分かる。自分が少数派に属する事もその時になって分かる。自分が属するクラスター名などは付いていない。だとすれば、Mankiwと同じで、名誉なことだろう。

実に健康だと思う。

料理にはフランス料理もあれば、和食もある、中華料理もある。フランス料理にはフランス料理のメニューとレシピがある。和食もそうだ。中華もそうだ。しかし、自分で美味だと思って作った料理がフランス料理になるのか、はたまた和食になるか、中華になるか、そんな質問を自分に投げかけても意味はない。フランス風中華料理であるかもしれないし、日本風フランス料理であるかもしれない。同じことである。

 


2023年12月20日水曜日

覚え書: 先行き不透明でも、いま伝えるべき事実があれば伝えるべきだろう

 植田日銀総裁が今後の経済見通しに関して

当然のことながらこういう状態になったらどこをどういうふうに変えていくか政策について常日頃からいろいろ考えている。ただ、先行きの不確実性がまだ極めて高い状況で、物価目標の持続的安定的な達成が必ずしも見通せない状況なので、出口でどういう対応をしていくかということについて確度の高い、こういう姿になるというものを示すことが現在は困難であるということかと思う。そこが見通せる状況になれば適宜、発信していきたいと思う

19日の記者会見で、このような見解を述べたそうだ。 

金融面での超緩和政策を転換するとして、どんな形で進めていくか、今の段階で具体的イメージを語りにくい、と。

まったくその通りだ。


それより、米経済はソフトランディングに成功する確率が上がっている一方で、ヨーロッパ経済、日本経済はどうかと、全体に先行き不透明感が晴れないのは、コロナ禍三年の間のセンチメントとほぼ同じであるのは、むしろ驚くべきことである。そして、ロシア=ウクライナ、イスラエル=ハマスでは戦争状態になり、この他にもいつ戦争状態になってもおかしくないという地域がある(と言われている)。極めて不透明である。


試みに日本とアメリカの経済見通しをOECDのLeading Economic Indicator(LEI)でみると、


URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

アメリカ経済の先行き見通しが強気になっているのが指数にも表れている。日本は何だか冴えないが、少なくとも今後3カ月から半年先にかけて下向きの懸念があるとは言えない。

これに対して、ヨーロッパ経済はどうかといえば、


ドイツ、フランスといったEURO圏は暗い。一方、イギリスは様相が違う。この数カ月で随分とセンチメントが改善されてきた ― ちょっと不思議ではある。イギリス経済については厳しい見方が大半を占めていた。それなのに、ということだ。

実際、
イギリスの国立経済社会研究所(NIESR)は、同国が今後5年にわたる「失われた経済成長」を迎え、貧しい人ほど影響を受けると警告した。

Source: BBC NEWS JAPAN

Date: 2023年8月9日

こんなBBC報道もある。同じ報道で
イギリスの国内総生産(GDP)が、パンデミック前の2019年の水準まで戻るのは2024年下半期だと、NIESRはみている。

また、弱く「ぎくしゃくとした成長」が5年間続くことで、国内の経済格差が拡大するとした。

たとえば、ロンドンの実質賃金は来年末には2019年と比べて7%高くなる見込みだが、ウェスト・ミッドランズなどでは5%低くなるという。

しかし賃上げにもかかわらず、高いインフレ率によって物価は上昇。生活費の高騰はイギリス全土の家計を圧迫している。
こんな風にも伝えている。イギリスの先行指数の回復が著しいのは、経済状態がどん底に陥っても、そこにはそこで、低迷や回復があるということか。

それはそれとして、英経済について指摘されている
国内の経済格差が拡大する

この点だが、イギリスも日本も事情は同じだ。 

本ブログの投稿でもとりあげたが、年間収入別に食費が総消費に占める割合(=エンゲル係数)をみると、最低所得層は足元で驚くほどの高さに上がっている。日本では消費税率引き上げが大きく影響したのだが、同じ図を描けば、イギリスも同じような形になるのではないかと想像する。最近の経済的ショックの衝撃(=> 生活の苦しさ)は、特に低所得層において大きなダメージになっているのである。株価の暴落とはワケが違うのだ。

その意味では、岸田内閣による「低所得層」への定額給付金支給は否定するべきではない。着眼点は評価すべきだ。

ネットをみていると、批判者たる自分自身が好きでたまらず、つまり自己愛が強くて、更にそのうえ世間受けも狙っているのかどうか、そこは不明なのであるが、例えば

低所得層はホボゝ高齢者ですからネ、金融資産を持っていて、毎月の所得は低くとも生活はそれほど苦しくはないんですヨ、カネもってますから。それより現役層が苦しいんじゃないでしょうか?中間層ですよ、助けるべきは。

こんな「意見?」を開陳している御仁もいる。しかし、多額の金融資産を保有し、消費支出を切り詰める必要がなければ、やりくりも苦しくないわけで、エンゲル係数が上がるはずもない。データは事実を淡々と伝えているだけである。明らかな事実は、要するに、明らかなのである。

大体

低所得層とは高齢者ですって、そんなデータがどこにありますか?カネをもってる高齢者がどの位いるとお思いで?

普通なら誰でも聞きたくなりますゼ。


《見たくない事実はみたくない》というメンタリティが日本人の間で共有されているとしても、伝えるべき事実は伝えるべきだ。そうしなければ適切な政策対応につながっていかない。ジャニーズ性犯罪も宝塚パワハラ体質もここから生まれた。上のBBC報道は、データが示す事実は最小限にとどめているが、インフレの中の格差拡大という問題に目を向けているだけ、マシである。







2023年12月14日木曜日

覚え書き: 賃上げを補助金で支えるっていうのもネエ、呆れて口がふさがりません

来年以降に経済成長をつなげるためには、足元のインフレに賃上げが追いつくかどうかである、と。これが最重要なポイントである、と。メディアは、ここに来て、力説している。何だか目標が出来てウキウキとしている様だ。ま、数字で確認できる話しなので、分かりやすいですワナ。

しかし、こんな単純なことは、デフレで失われた30年の間も分かり切っていたことで、本ブログでも10年以上も前の投稿で賃金ベースアップの重要性を指摘している。

ただ安倍政権発足前の2012年の当時は、ベースアップを求める連合(=労働側)とベースアップは論外とする経団連(=経営側)で意見が対立しており、そうなると日本人は何となく企業経営が不安定になるのは本末転倒だと思うようで、思えばこの辺から日本人の経済政策談義は正常な軌道からドンドンと離れていった。いま思い返すとそう思うのだ、な。結構、日本社会のデフレ体質は根が深かったわけである。

それがいま、やっと

ベースアップ、これ大事ですよね

と、目が覚めたように力んでいるのだから、なるほどこんなレベルでは経済も停滞するはずだ ― 東日本大震災後のエネルギー・ネックもまた日本人のメンタルから派生している大きな制約になっているが。

一口に言うと、日本社会は複数の大きな勘違いから集団的に目覚められなかった。誰がそうさせたのか。結局は、日本の専門家集団がいま一つなのだという解釈になるしかなさそうだが、要するに真の問題に正面から正対してこなかった。

その意識がいま変わりつつあるのは、とても良いことだ。

ただ、来春以降、大企業は積極的賃上げに動きそうだが、中小企業がどの程度ついて行けるかが問題だ、と。これまた正しい視線だ。

しかし、政府は賃上げが難しい中小企業には、賃上げによる人件費コスト増を税で一部補填しようと。そんな案が検討されている(とも聞く)。

これが本当なら、賃上げ困難な中小企業には補助金を支給する、ということだ。

呆れて開いた口がふさがらない話だ。

日本政府の補助金行政は世界でも悪名高いが、それでも従来の補助金は潜在的な成長産業、あるいは安全保障と密接に関連する産業部門に投入されていた。その意味では、(独断と偏見が無視できないとしても)戦略的産業政策であったわけだ。例えば、AI(人工知能)、先端半導体企業を支えるための補助金がそうである。

賃上げ支援は真逆である。賃上げ困難な企業は、即ち過当競争に陥っており、賃上げを販売価格引き上げによって吸収するのが難しいが故に、賃上げが難しいという企業が大半だろう。

賃上げが難しく、相対的に低賃金になってしまう業種は、人が集まるのと反対に人が離職し、資本コストを抑えるために設備廃棄をし、供給能力縮小へ向かうのが《市場メカニズム》というものである。

こうすることで、人は衰退産業から成長産業へ移動できるわけで、人出不足の日本では特に必要なメカニズムである。

市場に逆らって賃上げ困難な中小企業を税で支えようという人の頭脳構造はどうなっているのか?

またまた当然のことを言っている顔をして

弱者に寄り添うことは政治の根本です

などと高言するのだろうナア・・・そう想像すると暗澹としてくる。

もしそうなると、これまでもそうだったが《社会主義的気分の夕暮れ》の中で日本は薄ボンヤリと衰えていくしかない。淋しいネエ……。

かわいい子には旅をさせよ

少し前の東芝のように泣いて馬謖を斬るのは経営失敗がもたらした結果であるが、斬るべき馬謖に孔明が寄り添っていれば国が滅んだに違いない。寄り添う事だけが愛ではない。



2023年12月12日火曜日

ホンノ一言: 「無党派」の人々が増えることの意味は何だろうか

政治資金パーティ券売り上げのキックバックで裏金を作っていたというので自民党の政党支持率が急落しているとの事。特に、最大派閥である安倍派がひどいという報道だ。

通常の先進国なら与党で不祥事があって支持率を落とせば、対抗勢力である野党の支持率が上がるものだ。ところが、ここ日本では野党が弱体で、自民党がこれほどの失策を犯しても野党には有権者の支持が集まって来ない・・・その結果、いわゆる「無党派」が急増している。

今回の「パー券キックバック」の露見以前ではあるが、本年9月に行われたNHKの世論調査では

各党の支持率は、「自民党」が34.1%、「立憲民主党」が4.0%、「日本維新の会」が5.8%、「公明党」が2.2%、「共産党」が2.3%、「国民民主党」が1.9%、「れいわ新選組」が0.9%、「社民党」が0.4%、「政治家女子48党」が0.2%、「参政党」が1.0%、「特に支持している政党はない」が42.8%でした。

「自民党」の支持率は、先月から横ばいの34.1%で岸田内閣の発足後では、最も低い水準となっています。

一方、「特に支持している政党はない」、いわゆる無党派層の割合は、岸田内閣発足後、初めて40%を超え42.8%に上っています。

また、「立憲民主党」の支持率は4.0%で、「日本維新の会」の5.8%が上回りました。

こんな概要になっている。

前から言われていたことだが、最も多くの有権者は支持政党を持たず「無党派」に属し、足元では4割を超えてきている。

この無党派をどう解釈するかで真剣な議論が行われることは少ない。

政治不信を何とかしなければいけませんね

こんな意見の引き合いに参照されるくらいだ。

が、一口に言えば、仮に日本でクーデターが発生し、「反乱軍」が《令和維新》を唱えるとすれば、反政府側に真っ先に支持の声を上げるのは、おそらくこの「無党派層」であると想像する。

「無党派層」は現行憲法に基づく既存の政治勢力にとっては危険な「揮発性燃料」だと思うべきだ。

特定の事象が起こった際、全員が発火するとは限らないが、現在の政治から疎外されているという感情は非常に危険である。代弁者を求めているのである。

未来社会のソーシャル・フィクションを書くなら、世論調査の無党派層の動きは絶対に素材に使うネ、と。そんな風に考えているのだ。

(またまた仮にだが)無党派層が100%に達する極限の社会状況では、ほぼ確実に反乱軍が決起し、憲法停止はほぼ確実に成功する ― もちろん在日米軍とのコミュニケーションは不可欠だろうが、こんな極限の政治状況が到来すれば、米政府も反乱軍に肩入れする可能性がある。こんな風に想像しているのだ。

無党派層が100%でなくとも5割超の過半数にまで拡大する場合、先進国では久しく見られない《革命》が成功する確率が非常に高くなる。ひょっとすると、こちらの方が現実的な見通しかもしれない。

ま、アメリカでも世論調査をすると、無党派層が案外多いそうだから、上に書いたことは「杞憂」というものかもしれない。

世論調査は、民主主義社会の運営には無益であるかもしれず、政策選択の意思決定においては有害であるとすら言える、と。実は、小生は内心ではこう考えているが(例えば、これこれの投稿を参照)、それでも世論調査が伝えてくれる事はある。 

2023年12月11日月曜日

覚え書き: 大谷選手移籍をめぐる盛り上がりをみて

日本人プロスポーツ選手が世界トップクラスの年俸を達成するというのは日本人にも励みになる話しだ。もちろんエンゼルスからドジャースへの移籍が決まったMLBの大谷翔平選手のことだ。

Winter Meetingが開催されてから日本国内のマスコミの「ハシャギ振り」は異常とも思われた。どのチームに移籍するだろうかということで、多くのOB、野球通(≒専門家?)が日替わりでTV画面に登場しては、マチマチ、バラバラの予想を語り、その予想には確かな根拠があるのだ、と。その根拠を語ってもらうのが視聴率獲得の定石であった事は理解できる。

ところが、ドジャース移籍が決まった後、今度は大谷選手がドジャースを選んだ「三つの決定的理由」、「五つの決定的理由」などと話し始めた。ところが「決定的理由」とは言っても、大谷選手自らが語っているわけではなく、本人の声はまだ伝わって来てはいない。

ということは、メディア各社が勝手に「ドジャースを選んだ決定的理由」と言っているだけの話しだ。

小生、へそ曲がりだものだから、

ドジャースを選んだ決定的理由があったなら、なぜ移籍先はドジャース以外にはないと、一貫して話さなかったのか?いまになって「決定的理由」があるなどと言うのは矛盾しているでしょう?

そう思いますネエ・・・。

そもそも、分からなかったんでしょ?分からないのに情報が出て来ないって、アメリカの記者たちも不満だって。そう伝わってましたゼ。分からなかったのが、今回決まって、やっと明らかになった。スッキリした。しかし、まだ本人の声は聞こえてこないんでしょ?じゃあ、選択の理由なんて今も分からないってことじゃないですか?

そう言いたくなっちまいます。


駄目だと言っているわけではない。

けど、何と言いましょうかネエ・・・


マア、日本社会の(と限った話でもないだろうが)傾向として以前から漠然とだが感じるのだが

率直さが足りない。Honestyが足りない。正直じゃない。

礼儀は正しいが、今ひとつ率直じゃなく、体裁を気にして他人行儀で、不正直だ。日本人の国際的イメージはこんな風な線で一致しているような気がするのだが、マスコミにもそんな日本人の国民性が反映されているような感覚を覚えるのは、小生だけだろうか?

Billy JoelのHonestyは小生の大好きな曲だ。そこでも

Honesty is such a lonely word.

Everyone is so untrue.

何度もそう歌っている。だから日本社会だけの話ではない。が、それでも正直であることを心から願望している。そんな思いが溢れている。日本にも『素直になろうよ』という歌はある。嘘を嫌う感情は万国共通なのだ。

しかし、率直を愛し、正直を評価する側面は、西洋社会ほど個人主義が根付いていない分、日本社会では弱いものになっている可能性はある。

社会が個人を縛る感覚が強い分、個人による正直や率直が社会的バッシングを招いてしまう。それを社会の側が止められない。社会が上だ。個人が下だ。あるでしょう?こんな一面が。その分、日本社会の集団行動としては、Honestyが裏に隠れ、率直な真意のありかが見え難くなってしまうのである。

特に最近はひどい。プラスの面ではなく、マイナスの面が顕在化している。こんな感覚です。


それにしても、思いつくことを漫談風に続けるのだが・・・

昭和の香りを色濃く残したシニア層が社会の最前線から引退し、昭和末期から平成生まれの現役層が日本社会の中核を占めつつある。

ところが日本社会は昭和の名残を捨てて自由闊達になるかと思いきや、その反対で近年ますます社会的な同調圧力が強まり、それでいながら反対運動もなく、抗議の声も上がらない。むしろ率直な個人の表現は「水を差すもの」と非難されて抑えられる。「個性的」な人物がその言動で大炎上する例が目立って増えてきた。

この世相をどうみればいいのか?小生にとっては「七不思議」である。


少なくとも団塊の世代までは、彼らはその青春時代において極めて自己主張が強く、反権力的で、世間の大勢と常識を侮蔑し、高校から大学にかけては校舎を壊しまくり、就職してからは、時に暴走ともいえる営業を続け、先輩世代を振り回したものである。

団塊の世代、即ち《暴走の世代》と小生は思っている。日大闘争を契機に頭角を現した田中・日大前理事長などは(団塊の世代の少し上だが)極めて「昭和的」である。

彼らの同年齢の頃と比較すると平成世代は(異論はあるだろうが、実は)非暴力的である。それは良いのだが、平成世代の人々は政治や社会というものに斜に構える雰囲気がある。世間の大勢には順応し、強者には従う。そんな所がある。そうかと思えば、目立ち過ぎる個性的な人物に集団的バッシングを加えるところもある ― あくまで印象論だが、昭和世代の暴力行為は、権力闘争的で、血腥く、爆発的である。そんな破壊的暴力行為は世代交代の中で下火になった。

昭和世代に対して平成世代はどう総括されるのだろうか?

ま、大谷翔平選手は記憶に残るだろう。彼はスポーツ界に現れた一人の天才である。では、平成世代は集団としてどんな気風(=エートス)を持っているのか?そんな問いを発したいのだ、な。


ひょっとしたら、日本社会の停滞には人的な原因があって、実は若手現役世代の精神的老化も現象として認め得るのではないか?小生の愚息の世代は、偏屈な小生と比べても、非活動的で非野心的である。クラーク博士の"Boys, be ambitious!"と真逆の方向に歩いているようにも観える。本当は十分な資金を形成した後は出家でもしたいのじゃあないか。そんな気風(=エートス)が染み通っているのじゃあないか、21世紀中盤にかけての日本人は?だとすれば、衰退するイギリスで半世紀も前にうまれたBeatlesの"Let it be"と同じ気分である。

ひょっとして、メディアはメディアで、各社とも若手が過渡に社の方針に順応しているのではないか?いわゆる「武闘派」も「理論派」もいなくなった。どの業界も似たようなものではないか?現在の社内事情は知らないが、そんな推測がないわけではない。


ま、最後は《嫌な奴》になってしまったが、これまたHonestyの発露ということで。


2023年12月8日金曜日

断想: 千年前の近代的小説を読む

古文の授業では必ず『源氏物語』(の断片)が教科書に登場する。そこでは「もののあわれは日本文化の粋と言えるでしょう」とか、「世界最古の長編小説」だなどと説明されるのであるが、実際に全編を通して読む人は極めて少ない。文庫本で5冊だ。瀬戸内寂聴の訳本なら全10巻になる。ディケンズの小説並みの長さである。

原文で読み通した人は、多分、小生の知り合いの中には一人もいない(と思っている)。というか、紫式部が書いた平安期・宮中の日本語は、同じ日常を送っていて分かる人には何を指しているか、その暗喩が分かるという女房言葉で、現代日本人にはもはや本当の意味では理解できない言葉になっている、というのが事実認識としては正しい。

ただ『日本人なら人生で一度は源氏物語を最初から最後まで読むべきだ」という人がいたので、谷崎潤一郎訳と瀬戸内寂聴訳の現代日本語版とKindle Unlimitedで提供されている原文を読み合わせながら、全編を読み通したのが今年の夏だった。

一言で言うなら

なるほど、日本人なら一度は読む方がよい

確かにそう言える。

例えば、夏目漱石の『明暗』は『源氏物語』があればなくてもいいかもしれない。志賀直哉の『暗夜行路』もなくてもいい、と言えるかもしれない。三島由紀夫の『豊饒の海―春の雪』も敢えて読まなくともよいだろう。

この位は言って差し支えはないと感じたから、やはりもっと早く読むべきであった、ということか。


『蛍』の帖にこんな下りがある。谷崎訳で引用すると:

・・・随分世の中には話し上手がいるものですね。大方こんな物語は、嘘を巧くつき馴れている人の口から出るのだと思いますが、そうでもないのでしょうかしら・・・わたくしなどは一途に本当のことと思うばかりでございます。

これは無風流な悪口を言ってしまいました。いや、ほんとうは、神代からあった出来事を記しておいたものなのでしょう。日本紀などはただ片端を述べているので、実はこれらの物語にこそ、詳しいことが道理正しく書いてあるのでしょうね。

一体物語というものは、・・・ありのままに写すのではありませんが、いいことでも悪いことでも、世間にある人の有様で、見るにも見飽きず、聞いてもそのままにしておけない、後の世までも伝えさせたいことのふしぶしを、・・・書き留めておいたのが始まりなのですね。・・・それらを一途に根なしごとだと言いきってしまうのも、事実と違うことになります。

まさに現代社会にも通じる

歴史から事実が分かるか、小説から事実が分かるか

という問題を、千年前の女流作家が考えて、意見を述べている。

いや驚きです。


確かに、歴史そのものは史料から確認された《事実》だけから構成されている。その事実の意味するところを歴史を専門とする学者は研究したり、議論をしている。一方、歴史を舞台にした歴史小説、つまり物語はフィクションである。故に、歴史が事実であり、小説は嘘である、というのがロジカルな結論であるが、本当にそう言えるのか、という意見である。

《人間性》というのは、結局、変わらないものであると考えるのであれば、

こんな時、こんな状況に置かれれば、人はこんな物言いをして、こんな行動をする

そういう認識で、語り伝えたいことがあるとすれば、その語り伝えられた非歴史的な作品こそ、むしろ断片的な事実だけを並べた歴史よりは、人間社会の道理を正しく描写しているのだという認識は、まったくの嘘というわけではない。


不倫もあれば、失恋もある、マザー・コンプレックスもある。三角関係、五角関係もある。コミュニケーション・ギャップもある。裏切りもある。格差社会の悲劇もある。意識の流れを表現している点では、マルセル・プルーストの近代小説『失われた時を求めて』にも似ているところがある。

千年前の小説と侮るのは間違いだ。違うのは生活習慣だけである。


それにしても千年という時間の長さは感覚的にピンと来ない。徳川家康が関ヶ原に勝った1600年の更に600年前。源頼朝が鎌倉幕府を開く更に200年前である。2023年の200年前は1823年。まだ黒船は来航せず、日本人は徳川幕府の下で文化文政時代の町人文化を栄えさせて浮かれ騒いでいた。200年ですらとても長い時間である。



2023年12月5日火曜日

ホンノ一言: 自衛隊の法的根拠を百年議論することの意味は何だろう?

この夏に大ヒットしたドラマ『Vivant』で自衛隊別班なる存在が派手に活動していた。誰もが知っている秘密の非公式組織だと、英国のMI6もずっとそうだったと……、そうだったんですか、というわけだ。

存在していない組織ならフィクションである。フィクションでよいなら日本が海外派兵したり、核武装してもドラマの中ならよいはずだ。本当に存在していると思うならその違法性に目をつぶって脚本化するのはどうかと思う。不見識だ。「さすがにTBSだネエ」と思わないでもない。


その自衛隊についてであるが、2023年という本年になって、まだなおこんな意見が述べられている。

日本の自衛隊とは、どんな存在なのか。ジャーナリストの池上彰さんは「『自衛隊の存在は憲法違反ではないか』と問われた裁判で、最高裁は合憲とも違憲とも判断しなかった。その後、自衛隊はあいまいな位置づけのまま、世界有数の軍隊並みの組織として成長し、国際社会で活躍の場を広げている」という――。

Source: PRESIDENT Online

Date: 2023-09-03

URL:https://president.jp/articles/-/73353?page=1

一昔前には多かった意見であるが、2023年という今、このような意見に珍奇さを感じ、「ハアッ?」と言いたくなる人が、あまり多くはないところが、戦後日本の珍奇なところであると思う。


戦後が始まってから既に78年。1954年の自衛隊創設から69年。もう親子2世代、というより祖父・親・当人の3世代という長い時間が過ぎた。それでも『自衛隊はあいまいな位置づけのまま』などという表現がオープンな言論の場で表明されている。

戦後ももうすぐ80年ですゼ。それでも結論が出ない。数学の難問じゃない。日本国の憲法と合致するかどうかという単純な問題だ。それが解けないでいる……。


もし日本人がバカの集団ではないなら、ここから言える結論はただ一つである。

日本人は法的正統性が曖昧でも現実の必要性があれば必要な組織や活動を受け入れる。そんな風に考える国民である。

だからこそ、法的に曖昧な正統性しかもたない国内軍事組織を、さして不安もなく、そのまま受け入れる。こう結論するしかないではないか。つまり、日本人の心の中では自衛隊は(西洋的な意味合いで)既に「合憲」なのである。現実に受け入れているのだから。自衛隊に関して憲法を改正する必要性はないという考え方にも一理ある。


即ち、自衛隊という存在は理屈が通るか通らないかという学理上の問題でしかない。

自衛隊は、日本人のホンネでは、大方、ロジックの整理がついているのである。

必要な時機が到来すれば、事後的にどうにでもなる。官僚と法学者が作文をすればイイだけのことだ。ホンネではそう思っている。こんな理解の他に理解の仕方があるのだろうか?


日本という国は、憲法と法律に基づく法治主義国とは言えないところが残っている。少なくとも日本人のメンタリティにはそんな傾向がある。多分、<自分たちが作った憲法と法律>という民主主義国なら不可欠のメンタリティが日本人には希薄なのだろうと思う。

 

2023年12月3日日曜日

断想: 世代対立……、政治の失敗。と同時に(またまた)メディアの失敗でもあるのかも

中国共産党が最近強調している政治理念の中に《共同富裕社会》というのがある。

そもそも共産主義理念は、資本主義の私益追及原理を否定して、社会的平等を実現することにより、従属的立場を強いられてきた人民を解放するというものだから、富裕層を解体し、資産再分配を目指すという路線は実に当たり前の方針であって、現代日本社会を支配する常識の視点から、中国はメチャクチャな事をやっていると批判するのは、《主義》というものが分かっていない証拠である。

今は遠い昔になったが文化大革命中のスローガンに《老中青三結合》というのもあった。老年層、中年層、青年層からバランスよく指導陣に抜擢して政治を運営するというものだ。

中国は憲法において(封建主義と)資本主義を否定すると規定しているから、原理として分権よりは集権、分断よりは結合(=共同)を目指すのが、至極当たり前である。更に、中国は(歴史を通して)「指導者」がハッキリしている社会であるから、こうした《裁量的な抜擢》という人事が出来る ― 日本でも出来ないわけではないが。

かたや最近の日本の「世論」なのだが、日本人の一般的感覚として資本主義の理念には肯定的なのだろうか、否定的なのだろうか?

「自己責任」という言葉に対する反発や、規制緩和・自由化などいわゆる「新自由主義」的政策へのアレルギーをみると、日本人は福祉国家を目指してほしいと願っているようだ。新・自由主義とは、資本主義の基盤である市場競争と民間重視に忠実であろうという「原理・資本主義」とも言えるような理念だから、資本主義をそもそも肯定する人は新自由主義を頭から否定はしないものである。だから小生は、日本人はホンネのところでは「資本主義」があまり好きではないのだと考えている。この点は、現代日本人と明治維新直後の文明開化期に育った日本人とで、同じ国の国民かと思えるほどに違っている。そう感じるのだ。

ところが、高福祉・高負担という福祉国家を目指そうとするとき、「何と」というべきか、「やはり」というべきか、《増税拒否》の世論が噴出する。

自由を重視する「小さな政府」も社会的な負担と給付を実現する「大きな政府」のどちらにもアレルギーを感じているように見える。

そこから導かれる結論はただ一つで

現状維持、つまり今までどおり。変える必要はない。

こんな《現状保守主義》が、(結果としては)日本人が、全体としては、選んでいる路線である。こう考えざるを得ない。

しかるに、多くの数値的シミュレーションから明らかなように

現状を維持するのは不可能である

こうした現状があって、日本人の大多数が願っている路線は放棄せざるを得ない。最も強く願望する選択肢は選択できないという厳しい現実に直面している。基本的ロジックはこうだろうと思っているのだ、な。


まるで平和を願いながら、戦争を選ばざるを得ないという状況にも似ている。

小さい政府路線は拒否する。高福祉・高負担という福祉国家理念も拒否する。現状の持続は不可能である。

だから、日本人はいま《閉塞感》を感じているのである。

その現代日本社会の足元で増えている《世論》だが、この1,2年で目立ってきたのが

世代対立を煽る感情的意見

こんな風に今の世相を観ている。

世代対立から導かれる路線は、「世代的分権」、つまり「世代ごとの自助原理」である。近代を支えてきた《自助の原理 》がここでも出てくるわけだ。自分の始末は自分でつける。自分たちの始末は自分たちでつけるという考え方である。理念としては資本主義社会の哲学に近い。しかし、これは、上にも述べた通り、「本当は資本主義を嫌っているのではないか」と疑われる日本人のメンタリティとは矛盾した理念だと感じるのだ。

このような世代ごとの分権主義というか、世代自助の感情は、かつての文化大革命期・中国の運動スローガンであった「老中青三結合」とは真逆である。文化大革命の発端となった毛沢東の復権願望を考慮すると、「老中青三結合」は実に都合の良い原理であったわけだが、そもそも中国社会の旧慣・伝統が老人支配を善しとする側面をもっていたとも思われる。しかし、現代日本社会が今更ながら「老・壮・青の協同社会」を唱えても、世間の風潮とは余りに乖離している気がする。

ここにも日本社会の閉塞感が目に見えるようだ。

日本社会は中国とは違う。と同時に、西洋社会とも本質的違いがある。


シルバー民主主義の視点に立てば負担率上昇・給付額維持という路線を放棄するはずはない。が、負担率上昇を受け入れるには「自助の原理」とは異なる「老中青三結合」の理念に沿うことが不可欠だ。そんな結合の理念に沿う政策は必ずあるはずなのだ ― もちろん可能な範囲の中の最良という意味だが。

要は、経済的には出来るはずの世代間協同政策が政治的に出来ずにいるということが問題の本質であるに違いない。


そんな中で、世代対立の感情が形成されるとすれば、それは現代日本の民主主義の原理とは矛盾している。統合の感情とは正反対の分断への感情が形成されているのは、政治的には望ましい方針が国民感情によって否定されているということだから、これは《政治の失敗》であるわけだ。と同時に、何を読者・視聴者に伝えるべきかという選択の失敗、つまり日本社会の公益を毀損しているという点では、《メディアの失敗》と言えるかもしれない。


民主主義・政治的選択・国民感情が互いに矛盾しているというのは、いま日本が大きな問題に直面しているということだ。が、問題を解決できる政治的指導者を欠いている。第一次大戦に敗北したあとのドイツ・ワイマール体制の不安定な政情を連想するとすれば不吉だが、

敗戦後に成立した理想主義的な政治体制

という点で、戦後日本とワイマール・ドイツは似ている。

何だか不吉な連想である。

実際、岸田内閣の迷走ぶりをみていると多くの人は不安に駆られるだろう。かなり前の投稿で書いているが、

要するに、子育て支援のコストを社会保険料でまかなう方向は最後には潰れると予想される。

(中略)

その無理を覚悟してもなお踏み切ることが必要である、というこの一点が最後に残った政治的ステップだ。この辺については少し前に投稿した。さもなくば、コロナ感染拡大後の給付金で所得制限を付けるか付けないかで迷走した時と同じ、岸田首相の決断力不足が(またも)視える化されるというものだろう。

迷走しているテーマは上の投稿とは異なるが、迷走しがちな内閣は、時間が経過すれば、予測通りに迷走するということなのか。 


【加筆修正】2023-12-04、12-05





2023年11月30日木曜日

覚え書き: 日本的な「報道の自由」の情けない現実を知った一年であった

本年も残すところ後一月になった。顧みると今年一年程<人権>という単語を使った一年も珍しい。人権は、現代日本社会でずっと空気のような存在感をもってきたが、もし空気がなくなるとすればという恐怖心を感じさせたのが、本年という年であったのかもしれない。

11月の最後はまったくの覚え書きということで人権保護に関する海外の制度についてメモしておきたい。

というのは、こんな記事をネットで見つけたのだ。

同質性が極めて高い島国の日本は戦前戦中に秘密警察(思想警察)の歴史があるだけに、「表現の自由」に基づく「報道の自由」や国民の「知る権利」は最大限に保障されるべきです。中国やロシア、北朝鮮と日本の最大の違いは「報道の自由」が認められているか否かです。

報道による二次被害やメディアスクラム(集団的過熱取材)への対応は英国のような独立報道基準機構(IPSO)を設けたり、警察や行政、民間団体によるリエゾンオフィサー(メディアと遺族の間に入る家族連絡担当者)を養成したりするのが良いと思います。

英国の民間団体「被害者支援(VICTIM SUPPORT)」はサイトで「報道被害への対処法」を詳しく紹介しています。メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

日本でもメディアによる人権侵害が甚だしい場合は侵害差し止めの仮処分を起こして、訴訟費用も含めてメディア側に請求し、判例を積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。

Source:ニューズウィーク日本版

Date:2019年09月18日(水)18時30分

URL: https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2019/09/post-62.php

前稿でも述べたが、マスメディアという民間企業の自由がいかに日本の民主主義に必要だと言っても、だから個人の人権を侵害してもよいことにはならない。人権は常に守られるのが原理原則である。

同じ記事は以下のように続いている:

インターネットやソーシャルメディアの普及で報道機関とメディアの境界が曖昧(あいまい)になってきました。「報道の自由」が認められるのは、伝えることに「公共の利益」がある場合に限られます。

公共の利益に沿うと判定する作業は、自社利益を追求しているメディアではなく、第三者でなければならない。

ドイツについても紹介されている:

ドイツ・プレス評議会のガイドラインはかなり詳しく被害者保護について定めています。

「事故や自然災害が発生した場合、報道機関は被害者と危険にさらされている被災者に対する緊急支援が『知る権利』に優先することに留意しなければならない」

「被害者は身元に関して特別に守られる権利を持っています。一般的に被害者の身元に関して知ることは事故の発生、災害や犯罪の状況を理解するのに役に立ちません」

「被害者や家族、親族、権限を与えられたその他の人の同意がある場合か、被害者が公人である場合にのみ、被害者の名前と写真を報道することが許されます」

ルールはもっとあるが「後略」としておく。ともかく報道の「知る権利」が制限されるケースが具体的に列挙されている。 

やはり日本社会でも 上のイギリスが既に採用しているように

メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

過度な取材の対象となった個人による人権擁護の申請に応じてメディア企業に取材の禁止を命令できる余地を設けておくことは日本の民主主義にとって何もマイナスにはならないだろう。

イギリス社会より日本社会の方がより民主主義的であるというザレ言を口にする人はいないはずだ。また、人権擁護のために取材制限を行えるイギリスの方が「報道の自由」が制限されていると主張する人もいないはずだ。

実際、報道の自由ランキングにおいて、日本は2023年に多少上昇したと言っても世界で68位。台湾の35位、韓国の47位よりずっと下である。ましてイギリスの26位とは比べるべくもない。

日本のメディア企業が言う「報道の自由」は、弱者である一人ゝの個人に対して行使される自由に過ぎない。

相手が、日本政府や警察・検察・最高裁、ジャニーズ事務所、旧・統一教会になると、決して報道の自由が行使されることはなかった。

本年一年で明らかになった事実は

個人は最も弱く、マスコミは個人より強く、日本国や(スポンサー)企業はそれよりも更に強い権力をもつ

日本社会を支配しているそんな《力の序列》である。人権侵害が蔓延するのは、序列で認められている力が社会的権威にもなって働き、個人が素のままでは決して尊重されないという序列観が日本人で共有されているからだろう。

確かにすべての個人は平等であるが、個人を超える権威が日本社会には多々ある。個人の人権は実のところ序列が上位にある権威に立ち向かう程には尊重されない……日本社会は歴史を通してずっとそんな階層構造であったのかもしれない。

国や政府、会社や団体など全ての組織は生きている人間が考えて創った擬制的存在で、自然に存在するものではない。その擬制的存在が制度として継承され、定着し、権威になるに伴い、生きているリアリティである一人一人の個人を下位に置き、支配し始める。生きている人間は変えることすらできなくなる。

いずれこの日本では、AI(=人工知能)までも権威性を帯び、日本人を支配し始めるだろう。バカといえばバカとも思えるが、独立を嫌う日本人には確かにそんな情けない所がある。

哀しく厳しい現実である。


2023年11月25日土曜日

ホンノ一言: 「政教分離」をいま心配するとはネエ

先日亡くなった池田大作・創価学会会長に弔意を示し弔問したことが政教分離という憲法規定に違反するのではないかとの指摘がネットを騒がせているそうだ。例えば、こんな具合だ:

「池田大作氏のご逝去の報に接し、深い悲しみにたえません。池田氏は、国内外で平和、文化、教育の推進などに尽力し、重要な役割を果たされ、歴史に大きな足跡を残されました」(岸田総理のXから)

 追悼文の最後には「内閣総理大臣 岸田文雄」と記名し、翌19日には、「自民党総裁」として、創価学会の本部を弔問に訪れた。これに対し、政教分離の原則に反するのではないかと批判の声が殺到。松野官房長官は「公明党の創立者である池田大作氏に対して、個人としての哀悼の意を表するため、弔意を示したものと承知をしている」(総理官邸・20日)と述べた。

 SNSでも「内閣総理大臣の記名はだめでしょう」「弔問は選挙のため?政権に公明党がいること自体が疑問」「これがダメなら伊勢神宮参拝も亡くなったローマ法王への弔意もNGでは?」などの声が上がり、議論になっている。

 果たして、岸田総理の弔意と弔問は憲法の政教分離に反するものなのか。23日の『ABEMA Prime』では、宗教学や宗教社会学の専門家を招き、政治と宗教の距離感について考えた。

Source: Yahoo! Japan ニュース

Original: ABEMA TIMES

Date:  11/24(金) 15:41配信

フランスは厳格な政教分離を原則としている一方で、ドイツのコール、メルケル政権はキリスト教民主社会同盟が与党であった。アメリカ合衆国の新大統領はバイブルに手を置いて就任式で宣誓を行う。そして、イギリスは……、もう、いいだろう。

世俗権力と宗教権力を分離したうえで、世俗権力が政権を運営するという「政教分離」は近代国家の基本骨格になっているのだが、国ごとの具体的な現状にはバラツキが見られる。


ただ、今の日本国でこんな話題は、どうなのだろう?

現代日本で岸田首相の行為が「政教分離」に違反していないかどうか? この問題提起だが、今の日本で国会・行政府・裁判所の三権に匹敵するような宗教権力が存在するのだろうか?あると言うなら、それはどこなのか?

宗教とは精神的に人々を支配することで政治権力となりうる。「創価学会」、「公明党」が日本人を精神的に支配できる(かもしれない)宗教勢力だと、真剣に心配するべき状況があるのだろうか?

それはちょっと違うと思います。

というより、現代日本ほど無宗教の、いや既存宗教組織が無力化した時代はかつてなかった。日本人の精神構造は大勢として余りに、よく言うなら「科学信仰」、悪く言えば「唯物論的」になってきている。宗教勢力警戒観とは真逆だ。そう思われるのだな。

大体、普通の日本人で、創価学会会長はともかく、天台宗座主や浄土真宗の法主、浄土宗門跡が誰か知ってますか?日本最大の信者数を擁する宗教はどこなのか、知っていますか?

そういうことだ。

現在の先進各国における対立構造は、世俗権力 vs 宗教勢力ではなく、むしろ票集めのプロである職業政治家(?) vs アカデミア・ジャーナリズム(=知的エリート層?)の対立が主になってきていると思う。何だかThomas Pekketyを連想させる表現だが、(今のところ)これが本筋だと観ている。

Pikketyの"Brahmin Left vs Merchant Right"(2018)で展開されている視点に沿って日本の政治を議論するなら、以下のような展望につながるかもしれないので、今回の覚え書きとしたい。


TV画面に数々登場してくる「専門家たち」の発言を多数の日本人は素朴に信じている兆候がある。宗教勢力が退潮する中で日本人の「信仰」、いや「精神的な信頼」の対象になってきているのは、自然科学と社会科学を含めた学識上の一流の人物達である。政治家の発言には疑いと反感(?)の眼差しを向ける一方で、一流の研究者・専門家の発言には理解できるにせよ、できないにせよ、聞き入れる耳を持とうとしている様子がうかがえる。

宗教は人々に信じてもらうからこそ権力をもちうる。科学も同じである ― もちろん政治も同じである。しかし、いま日本人の心情において、信じられているのは宗教界の発言ではなく、科学の側からの発信ではないだろうか?

確かに池田大作は創価学会会員に精神的影響力を行使してきた(と観られる)。信じられていたからである。それを以て「政治的影響力」だと批判するのは、普通の職業政治家の羨望と嫉妬だろうと観てきた。小生とは関係のない話しで、客観的に心配するべき状況ではないと思ってきた。

他方、コロナ禍の中の対応はまだ記憶に新しいが、足元では国際関係論の専門家がロシア=ウクライナ戦争の本質を語ったり、イスラエル対パレスチナの歴史的対立について語る場面が多い。一流の専門家が解説すればするほど世間的には喜ばれている、これはアカデミアの側からの発信である ― 個人的には、あの藤原定家が日記『明月記』に記したという

紅旗征戎吾が事に非ず

( 大義名分をもった戦争であろうと所詮野蛮なことで、芸術を職業とする身の自分には関係のないことである)

という姿勢が好きで、学問的研究は(芸術的活動もそうだが)世間とはあまり係わりを持たないのが本筋ではないかと思っている。たとえ自分自身の研究であっても、そこから得られる助言を世間に正しく伝える仕事は、(どんな事でも正しく伝えるのは難しいことだが)極めて言葉使いが難しい。かつ、一度始めれば文字通り「雑用」に追われ、途中で停めるのは困難だ。本来の仕事に集中できる時間こそ不可欠の生産要素であるにもかかわらず。

いま日本国内で、どんな仕事に従事している、どのように評価されている人物が信頼されているのか、事実が語っているというものではないか。


もちろん《社会の中の科学》、《社会の中のアカデミズム》に異を唱える気持ちはまったくないし、アカデミズムとジャーナリズムの一体化が悪いと思っているわけではない。寧ろ喜ぶべき方向なのだろう。

しかし、標題のように「政教分離」を心配する気持ちがあるのなら、よくよく考えるべきだと思う。

宗教を支える信徒たちは概ね悩みの深い一般大衆が主である。それに対して、科学に携わる人を支えるのは科学を理解し、論理を日常ツールとする人たち、いわば<エリート>たちであろう。

つまり、政治家 vs 宗教勢力という対立図式の下では<上層 vs 下層>の対立が基軸になることが多い(と思われるのだ)が、政治家 vs 知的エリート層という図式では、結局はエリート層内部の見解上の相違に帰する面がある ― 政界上層部もその支持基盤はマネーを支配する階層だから。

最近はこんな風に観ているわけで、日本の未来政治は<世襲の政界貴族 vs 知的エリート>の対立が政策を動かしていく。そう思ったりしているのだ。この秋、日銀総裁に東大の植田和男教授が就任したが、このような抜擢は一過性のサプライズ人事ではなく、今後の日本では次第に増えていく。そのうち、アドホックな(任期付き?)高級官僚任用も自在にできる方向で公務員制度が次第に改変されていくだろう。もしかすると、これは明治維新直後の政府人事のあり方に近づくのかもしれない。

仮にそうなったとして、中央省庁、公的機関の上層ポストに国際的評価の高い知的エリートが抜擢される動きを、日本人は忌避し、非難するだろうか? むしろ旧態依然とした年功人事、政治家に対する忖度だけが上手な叩き上げの官僚よりは余程評判がよい人事だと受けとめるに違いない。政と官との関係性も再定義され、日本政治の基本骨格がやがて「見える化」されるだろう。

であるので、エリート層内部の見解上の対立が今後の日本政治を動かす基本構造になる可能性が高いかもしれず、中下層の人々の毎日の苦悩を代表するような政治勢力は影響力のない周辺部に追いやられ何の権力もなくなるかもしれない。

将来のいつの時期にか、こんな状況がやって来るなら、日本社会は21世紀前半を通して、《権力の偏在化》が進行したと後になって歴史的に認識されるだろう。

つまり、言いたいことは

政治 vs 宗教の対立は現代日本の政治構造としては良い面もある。宗教組織が一定の政治的影響力をもつことは日本社会の改善に望ましい面もある。

実はそう思っている。

しかしながら、現実はそうでなくなりつつある。そんな印象をもっている。


さて、それはともかくとして、


ネット上で発言される意見や批判はほぼ全てが匿名だ。なるほど匿名アカウントでSNSにアクセスする権利はあってもよいし、便利でもある。しかし、こと政治に関することはチャンと顔と名前を出して意見を言うべきだ。

匿名の意見表明は《怪文書》と同じ扱いでイイと小生は思う。怪文書が影響を与えるような社会は民主主義の衣をかぶった暗黒社会である。誰がこんな事を言っているのか分からない社会は、気色が悪い。そう感じるのですがネエ……。

この点だけは、あわれ逮捕されるに至ったが、ガーシー被告は筋を通していたと思う。

実は、本日は、これが一番言いたかった事である。

※ なお、本ブログは外観は匿名だが、実はそうではない。念のため。


【加筆修正】イタリック部分

2023-11-26


2023年11月24日金曜日

感想: 養老孟司氏の「生きるとはどういうことか」について

養老孟司氏は『バカの壁』の筆者として著名である。「壁シリーズ?」の全巻を読んだわけではないが、読んだ巻から伝わってくるのは、知性と忖度は違うということだ。

「忖度」とは自己の言動に対する相手側の(世間の?)反応を予期したうえで自己の、あるいは共同の利益を増やすという、いわば「打算的行為」であるのに対して、「知性」はある話題について自分はどう考えるのかという「認識」を形成するのに役立つものだ。

知性とは知るための性。虚偽と真実とを見極める人間本来の力である。虚偽に基づく意思決定をすれば必ず迷路に陥る。真実を直視して行動を決めなければ生き続けることはできない。その意味で忖度 ― 実は、正確には阿諛、追従と言うべきだが ― は悪い行為なのである。正に孟子の昔から

是非之心、智之端也

是非の心は、智のはじめなり 

二千年以上の昔から分かっていたわけだ。

もちろん養老氏が、世間の反発や反応にはまったく目を向けない超俗的な人柄ではなくて、実は「こうすれば売れる」というもっと俗っぽいキャラクターなのだという穿った見方も不可能ではない。が、文章を読んだり、TV画面から伝わってくる印象と総合すると、やはり信用できる人じゃあないか、と感じている。

その養老氏が標題のような話題について書いているので読んでみた。

例によって、Evernoteに保存した全文で下線を引いた部分を引用する形で要約としておきたい。

人はなぜ生きるか。こう訊かれると、すぐにいいたくなる。そりゃ、人によって違うでしょうが。

べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く。そう書いたところで、信じる教義を訊かれることはない。でも仮に訊かれたとしたら、「欲を去れ」だという。そう聞きましたという。如是我聞である。

「世界はイヤなところだと思え」。そう書いていたのは関川夏央氏である。こういう点では、私もそう思う。いまでは世界は人間でできているというしかない。その人間の悪いところを無限に拡大するようなことは、勘弁してほしいと思う。でもそうはいかないといいつつ、欲望は無限に増大するように見える。やっぱりお釈迦様は偉い。

 現代人は「仕方がない」が苦手である。何事も思うようになると、なんとなく思っている風情である。コロナに関する議論をテレビで聞いていると、しみじみそう思う。ああすればよかったじゃないか、こうすればいいだろう。ほとんどの人が沈む夕日を扇で招き上げたという平清盛みたいになっている。「ああすれば、こうなる」というのは、いわゆるシミュレーションで、ヒトの意識がもっとも得意とする能力である。それがAIの発達を生んだ。これは右に述べてきたような私の人生観と合わない。

……面倒くさいなあ、AIに考えてもらいたい、と思ったりする。やっぱり話はいまではAIに尽きるのである。

宗教は衰退しているといわれるが、AIが宗教に変わったという意見もある。未来をもっぱらAIに託すからであろう。AIは碁将棋に勝つだけではない。なんにでも勝つのである。

 自殺が多いのは、人生指南のニーズが高いであろうことを示唆している。日本でいうなら、コンビニより多いとされるお寺の前途は洋々である。若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない。

 Source: 文春オンライン

Date: 2023-11-19

Author: 養老孟司

URL: https://bunshun.jp/articles/-/66991


思わず

ハイ、いまの発言に一票を投じます

そう言いたくなった。

現代人は「仕方がない」が苦手である。

何度も本ブログに投稿しているが、この点に最も強く同感する。

ずっと以前、旧友と盛んに議論をまだしていた年代であったが、

お前が言っていることは、そもそもこの社会は人間の知恵でより良い方向に持っていけるということだろ?「設計主義」って奴だ。しかし、そんなことは不可能なんだヨ。社会を思うように変えられる人物がどこにいる?どこにもいない。日本の総理大臣でやりたいことを成し遂げた総理がいたかい?ナポレオンはヨーロッパ社会を思い通りに変えたか?負けただろ、最後には?社会は変えるものじゃなくて、変わっていくものなんだヨ。

何度言ったかしれない。だから旧友との議論はいつも水掛け論で終わったものである。

社会が変わるのは「仕方がない」し、悪い方に変わっても、仕方がないものなのだ。生きる時代のめぐり合わせが悪いと思うしかない。「仕方がない」。イスラム教徒ならインシャラーと言うだろう。「神が望むなら」という意味だ。

人事を尽くして、天命を待つ

最後にはこう認識するしかない。いくら自然科学が進歩しても、社会科学が進歩しても、宇宙を思うがままに制御するなど決してできない。

一定の時間が経過すれば、太陽は膨張するし、地球は消失する。その後で太陽自体も小さな白色矮星かなにかに退行するのである。これは天文学的に正確な予測である。もちろん、その前に人類は進化上の必然性から消滅しているに違いないと思われるが……

人は、結局、何かを信じたいのである。人が、信じているもの、それ即ち「信仰」であり、「宗教」である。こう定義づけても間違いではないかもしれない。

この流れで議論すれば、現代日本人の多くが信じている宗教は「科学」という宗教である。「数学」という宗教である。もちろん具体的教義(=理論)については理解が及ばず、無知である。

神が救ってくれるという思いは、科学は人を救うという思いと、質的にどこが違うだろう?

しかし、少し前の投稿で述べたが、科学に可能な事は主として「生活水準の向上」であって、人間を救うことではない。生きるうえでの不安を取り去ることは科学にはできない。おそらく永遠にできないと確信している。

その科学に、AI(=人工知能)が加わった。AIのサジェスチョン。古代ギリシア人が信じたデルフォイ(Delphi)の神託とどこが違うだろうか?

これで人類は「安心」というものを得られるか・・・?

まあ、養老氏は

お寺の前途は洋々である

と考えているようだが、生身の住職の代わりに<AI住職>が声明を流したり、読経をしたり、深い問題について説法をしたりするようになるかもしれない。その意味では、お寺の未来は明るい。

しかし、そもそも神や阿弥陀如来という超越的存在を信じないのであれば、AIを搭載したお寺に行って説法を聴いても、その人の不安は救済されないであろう。

科学を信仰する人にとって自分の生を救ってくれるのは医学以外にはない理屈だ。そのようなタイプの人は、寺院や教会ではなく、病院やホスピスを訪ねるべきであろう。

神や阿弥陀如来ではなく、科学を信仰する限り、生きることへの不安は決してなくならない。そんな理屈になるのではないか。

養老氏は、

現代人は「仕方がない」が苦手である。

と指摘しているが、「仕方がない」と認識できる民族、国民は地球上に数多いる(はずだ)。日本人の中にも、そう認識できる人は多数いる(はずだ)。しかし、過半数の日本人は、いま確かに

仕方がないで済ませてはいけない

と、考えているのかもしれない。

小生は、

人間に可能なのは努力である。しかし結果は天命によるものだ。人事を尽くして天命を待つ。仕方がないと認識するべき余地は多い。

そう認識している。

ヒトは努力する限り、迷うものだ。

なるほどゲーテは本筋をついている。どんなに努力をしても、仕方がないでは済まされない余地は残る。だから真理を求めて常に迷う。迷いが努力を生む。故に進歩するのである。つまり、努力は人間の行為、進歩は神の贈り物。神が何を贈るかは人間にとっては「仕方がない」ものである。

「欲しいものが得られない」、「努力をするにはもう疲れすぎた」、日本人の不幸や閉塞感を生んでいる根因はこんな思いにあるのかもしれない。しかし、これまた「仕方がない」と考えるしかないのではないか。

そもそもの話し、どこまで努力をするか、それは個人ゝが決めることで、幸福追求の自由という個人ゝの人権に属することだ。社会的に望ましいとか、望ましくないとか、こんな議論自体が全体主義的なのである。

2023年11月21日火曜日

ホンノ一言: 「第三者委員会」という問題解決法が流行っているようだが

最近日本で流行している言葉の一つに《第三者委員会》がある。宝塚歌劇団でも「第三者委員会」に組織改善のあり方検討を委嘱したいとのことだ。何か不祥事を引き起こしたり、解決困難な問題に悩んでいる場合に、内部の委員会ではなく、純粋の他者による調査委員会に解決策を委ねようという方法は、問題解決に向けた最近の<定石>になりつつあるようだ。

まあネエ……とは思います。

組織運営には平時もあれば非常時もある。何であれ問題解決に十分な能力をもっている人物が組織運営の中枢にいない、だから外部の人間に考えてもらう、これ自体が可笑しいじゃないか…そういう日頃の感想であります。問題が紛糾して当事者間で合意や和解に至らない場合は、日本は法治主義であるから、司法の場で法律に則した解決を得る。これが標準的な進め方である。

司法ではなく、第三者委員会に結論を出してもらう。この方がコスパがいいのか?得をしている人間がいるのか?Why?、そんな疑問は随分前からあるのだな。

内部の人間による調査、外部の人間による調査。問題発生時の調査ではないが、評価に関して、ずっと気になっている論点もある。


小生は役所と大学で仕事をしてきたので、双方の評価システムが余りに異なっていることに困惑したことがある。

役所では基本的に自己の評価は上司が行う。下部セクションの評価は上部の中枢が行い、人事配置でその評価が反映される。そんな組織で深刻な問題が発生したとき、組織外の専門家に解決策を検討してもらおうというのは、自然な延長線上にある選択だと思う。

だから、役所を辞めて大学に戻るまでは、

評価とは外の人間がやることだ ― 仕事も自分で決めるのではなく、上から降ってくるものだ

そう思い込んできた。

他方、大学では学生を評価するのは教師の側である。つまり個々の教師の授業が評価されることはない。大雑把に言えば、大学教師は職務を規定した公募を通して任用されるという意味では、《ジョブ型雇用》に近い形になっている ― 同じとは言えない。そういう建付けである。

だから、学生による授業評価が行われるようになったのは、外部の人達の想像を超える思い切った決断だったわけだ。しかし、いざ実施してみると、授業評価結果の公開は、学生側だけではなく、教師側にとっても有用であることが分かった。なるほどアメリカの大学で学生による授業評価が先に定着しているのは当然だと思ったものだ。

学生による授業評価と併せて、教師による自己評価もまた同じころに導入された。始めてみると、学生による授業評価と同じように、自己評価もまたWebLogのような自己モニタリング記録として実に有用であることが分かった。

どちらも現場での評価活動である。


話しは別になるが、《外部評価》を導入する大学が増えている。小生が勤務した大学でも、何年かに一度は外部評価対象になり、評価委員が来訪する前後は「電話待機」を要請されたものである。

思うのだが、この《外部評価》というのは、実際の役に立つことがあるのだろうか?正直なところ、そう感じることがしばしばあった。確かに、本省が予算配分を行う時に、こうした外部評価結果があれば有益だろう。本省が財務省に予算要求する際にも役立つはずである。その位の事は直ちに分かる。しかしながら、外部評価結果が被評価大学のパフォーマンスを改善するモメンタムになるのは、いかなるチャネルを通してそうなるのか?そんな疑問は当然にあったわけだ。

正直なところ、小生が担当する統計関係科目の授業設計をどうこうするという意味で外部評価結果が役に立ったことはない。仮に、ヒアリングの場で統計関係科目の授業内容に立ち入って、「現在の授業内容よりは……という内容の方が教育効果があるのでないか」と質問されたならば、「その提案には十分なエビデンスがありませんし、現在の授業内容は学生に十分評価されています」と、マアそんな風にヤンワリと回答し、提案をそのまま受け入れることは拒んだと思う。

もちろんその外部評価委員が、小生と専門分野が同じ統計領域で、質問のレベルが明らかにhigh qualityであるなら、それは小生にも直ちに分かるので、ヒアリングの場は実に知的に充実した丁々発止のやりとりとなったろう。その会話は授業内容の改善に大いに寄与したはずである。しかし、そんなことは一度もなかったのだ、な。

つまり、言いたいことは、

外部評価をするなら、外部評価をする人たちの能力評価は、誰がするのか?外部評価委員の能力評価をする人の能力評価をする人は誰か?……

こんな無限ループをなぜ一般の人たちは心配しないのだろう、という疑問がある。

そして、外部評価委員会に言えることは、第三者調査委員会にも言えることだろう。


小生は統計分析の現場で育ったせいか、現場の問題解決に専門外の外部の人間が首を突っ込んで、責任を負うことなく提案をすることには抵抗感がある。

内部の人間には内部であるが故のバイアスがあるし、外部の人間は現場を知らないという弱みがある。これは普遍的に当てはまることで、オールマイティの問題解決法はないというのが真実である。有能な外部人材であれば、委嘱された問題点に一般的に導出できる結論が当てはまるかどうかという点を正しく洞察できるだろう。故に、第三者調査委員会が機能するかどうかは、外部調査委員、特に委員長の能力に帰することで、こう考えると、外部であれ、内部であれ、

結局は、有能なヒトなら問題を解決できる。無能なヒトは問題を解決できず、状況は悪化する。

こんな当たり前の結論になるわけで、太平洋戦争中に大本営から作戦指導などと称して中枢部から参謀が出張って来ては現場の作戦指導を混乱に陥れた史実を思い起こせば、みな知っていることである。

教室や学級をそのままにしてクラス替えで人を入れ替えても、授業でやっていることが同じであれば、学校としては何も改革されていない。改革とは人が毎日する仕事そのものを変えることなのである。仕事そのものを変えながら同じ理念を追求し続ける……、易しいことでないのは当たり前だ。外部の人材なら解を見出すだろうと期待する理由は何なのだろうか?

最近聞くことの多い《第三者委員会》も、それが信頼できるというロジックは内部調査ではなく、外部調査の方がより信頼できるというものだ。調査であれ、評価であれ、委員たちがやる仕事は似ている。

司法ではなく、外部人材から構成される第三者委員会を選ぶというのは、何故か?法廷の場であらゆる証拠を吟味し、関係する全ての証人から正確な証言を得て、厳正な判決を得るのは嫌なのだろうか?


AならAという組織があって大きな問題が発生する時、Aという組織をBという組織に改革してでも組織を存続させる。これが目的なら外部の人材に構造改革案を提案してもらうという選択肢がある。しかし、Aという組織に所属する人物には、それはそれで創業の理念、伝えるべき価値があるかもしれず、AをBに改革する意志はないかもしれない。

組織改革を担当する人物は、組織内に所属し、人生をかけて努力できる人物でなければなるまい。人生をかける程の意志を持たない人物は他社に転じる方を選ぶ。組織改革に失敗すれば、その組織は消滅する。こんな自浄機能を社会がもっていれば、それはそれで良いはずだ。わざわざ第三者委員会という場に外部の人的リソースを割いて、問題が発生した組織の存続について「考えて差し上げる必要性」はないのではないか?

ただでさえ、日本は消失するべき組織がゾンビ組織となって存続しがちであるという問題がつとに指摘されているのだ。問題を引き起こして市場から退場する事例はもっとあってもよいと考えるべきだろう。


組織の問題とその解決、組織の改革と存続への努力、努力の成否、組織存続の可否まで、全てを含めて、組織の経営はその組織の経営者に全ての責任がある。外部の人間が責任を負うことはないし、責任があると考える筋合いでもない。

【加筆修正】2023-11-22

2023年11月20日月曜日

断想:人権侵害をうながす気風はそもそも日本人本来の感性とは違うのかも

本年1年間を通して非常に目立ったのは数々の人権侵害事件が相次いで発覚したことだろう。何年か後に、2023年という年を振り返る時、今年という年が日本における《人権尊重元年》と呼ばれるようになるかもしれない。

というのは、例えばジャニーズ創業者社長による大規模な性加害行為があるし、最近になって世間の注目を集めている宝塚歌劇団内部の人権無視体質もある。スポーツ界の有名選手が結婚したところマスコミの<取材禍>に遭い、ごくごく短期間で離婚を決意せざるを得ないという顛末になったというのも人権問題の一つではあるだろう。

極めて社会部的な話題だが、以前から感じていた問題現象がまた反復されているとも感じるので日頃の感想をメモしておきたい。

世界では、人権>国家であり、人権>組織であり、人権>社会であって、(個人の)人権の尊厳が最優先で重視されるべきだ、そんな価値観が支持を集めつつある。小生はこれが単なる希望的観測であるのを怖れる。

かたや、日本では数々の過労死事件や人権侵害事件が次々に発生しているにも関わらず、まだなお

人権<会社であり、人権<社会である

これが日本社会の基本だと。そんな思考が支配的だと感じることが多い。つまり、基本的にみて、日本社会は「全体主義」的であると思うのだな、いまだに。

なるほど個人が組織に従属するという情況の下で相次いで悲劇が発生するごとに

人権>会社

であると、マスコミや世間では大いに声が出るわけだ。

しかしながら、本心から、原理原則として個人ゝの人権を尊重するわけではないことは、実際の社会の動き方をみていると直ぐに分かる。人権を尊重するというのは、社会の要望よりも優先して、当事者個人の個人的な状況と意志をより尊重するという基本原則を指して言う言葉である。そんな理念に帰着する言葉だ。

こんな原理に戻って見直すと、日本においては、「人権」も「民主主義」も単なる言葉として使われているに過ぎない所がある。


たとえば「報道の自由」という言葉の前ではプライバシーは忘れられてしまう。そもそもプライバシーが不特定多数者に露出されるのは、(犯罪行為の通報を除けば)人権侵害であろう。メディア企業は「報道の自由」を「民主主義の基盤」だと主張して、それが何よりも尊い価値であると主張している。しかし、メディアという民間企業の自由がいくら民主主義にとって重要であるからといって、企業が個人の人権を侵害してもよいという理屈にはならない。企業だけではない。個人が他の個人のプライバシーを侵害するのも不当である。

企業には企業理念があると言っても、だからと言って、過重労働を正当化する理由にはできない。いくら国家には正義があると言っても、戦争で敵国の非戦闘員を「多数殺害」してもよいという「戦術上の必要」を主張すれば、それは戦争犯罪者の言い分である。

自らの命を守るのは、普遍的に人がもつ基本的な人権である、と。そう考えられつつあるのは、現代社会も捨てたものではないと観ているのだ。

自ら守ることが出来るという普遍的な権利の対象は「命」だけではない。「人間としての尊厳」も対象の一つであるし、「幸福を追求する自由」、「(正当な理由なく)幸福が侵されない権利」もそうであろう。この辺りの考察と定着を改めて徹底するべき所が戦後日本社会には(ずいぶん)残っていると感じることは多い。

何ごとであれ、個人の人権を制限するには、真にその措置がやむを得ないと確認され、人権制限が認められる状況を列挙した上で、正当な法的手続きによらなければなるまい。手続きなき人権侵害は、全て(原理として)不当であり、犯罪であり、人権侵害を犯した当事者は(何らかの名目を与えた)刑罰の対象となる。

今後の世界でこんな風な価値観が有力になってほしいと小生は期待している。そうすれば、戦争という国家の行為も(理屈の上では)規制できる論拠になろう。

それに先立って、日本国内でも法務省・人権擁護局と全国に14000人もいる(はずの)人権擁護委員の権限を強化するべき時機が到来したと観るべきなのだろう ― そもそもの話し、検察庁と人権擁護局が同じ法務省に同居しているのは奇妙な気がしないでもないが。ともかく、国内行政で解決できる問題は多々あるはずだ。

でもナア……、日本はヤッパリ遅れるのだろう、と思う。日本社会で本質的に価値観が転換するには長い期間がかかるかもしれない。

日本社会では、しばしば個人による人権の主張は利己主義に基づく行為として見られる所がある ― 決してそうではなく、いわば「株主代表訴訟」と似た働きをするのだが。そして

利己主義は悪である

そう断定する価値観には今なお一定の信奉者がいる。

自己利益ではなく、社会への貢献を志すべきだ

こんな「ド正論」が日本では今なお支配的である。


誰でも自由に行動することを通して、結果としては社会に貢献しているものである。

しかし、日本社会では、そもそも最初の動機が利己的であることを恥じる風潮が強い。強すぎるのだ。故に、自己犠牲と社会貢献を求める意識が支配的になる。余りに支配的であるのだ。そのことに当の日本人自身が辟易として、困惑し、閉塞感に落ち込むというのは、実にまったく滑稽を通り越して、

面白うて やがて悲しき 鵜飼かな

で頑張る鵜さながら、人に求められるがままに懸命になって働く鵜の哀しさと、日本人の閉塞感とは、どことなく相通じるものがあると感じるのだが、どうだろう?

この明治以降の近代日本社会の伝統とも言えるような日本人の気風(=エートス)が、自らに降りかかる人権侵害を自ら訴えることを後ろめたく感じさせ、一人一人の日本人に自分の人権を守ろうとする決意を難しくさせている。そう思う今日この頃であります。

宝塚音楽学校と歌劇団を今までの姿を保ちながら構造改革を進めることがおそらく困難を極めるだろうと同じように、《日本社会の理念転換》もまた困難を極めるに違いない。


しかし、凡そ150年間にわたって継承してきた日本人の気風(=エートス)は、古典・古文をひもとけば分かるように、ずっと昔から受け継いできた感覚や習慣、常識とはまったく異なるものである。まず間違いないと思っているのだが、現代日本人の間で共有される気風は明治以降の近代日本政府が努力をして意図的に形成したものである。そもそも最初から日本人がもっていた気風や美意識がどんなものであったのかを知る上でも、現代の学校制度における教科カリキュラムの中に《古文》が置かれている意義がある。そう考えるべきなのだろう。

こう考えると、「古文」という教科科目が配置されているのは、決して役に立っていないわけではなく、大いに意義がある教育努力である、と。そうも思われるのだ、な。

今日は、人権侵害から学校教育にまで話が広がってしまった。この先はいずれまた、ということで。

2023年11月19日日曜日

ホンノ一言: 7~9月期の実質GDP前期比をどう見る?

 2,3日前に7~9月期の実質GDP前期比がマイナスになったというので、年初以来の回復基調が終わったとか、一時的な落ち込みであるとか、(例によって)色々な人が色々なことを言っている。要するに、専門家も一致した見通しは持ち合わせていないということで、この点だけは日本もアメリカも事情は同じである。

実際、日経に掲載されていた図をみると


Source:日本経済新聞
Date:2023年11月15日 
URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA140PT0U3A111C2000000/



マイナス2.1パーセントいう成長率は「年率」であるから、この3か月間の増減率のまま1年が経過すると年間成長率は▲2.1%に達するという意味である。

それにしても、この図はあまり良い作図ではない。開始時点において成長率年率が20%を超えているのは、コロナ禍期の大幅落ち込みの直後の反動である。その前の期とならせば、概ねゼロ近辺の成長率趨勢を続けている、というのが実質GDP前期比の姿だ。


このグラフから景気循環の見通しに役立つ情報を取り出すのは、よほどの経済専門家にとっても至難の業だろう。

ということは、今回の実質GDP前期比についてマクロ的観点から解説を加えている多くのエコノミストは他の情報と総合させて語っているわけである。その「参照している他の情報」を全面的に明らかにしないのは、個々のエコノミストの「商売上の秘密」というものだと思われ、この辺の行動パターンは以前の「官庁エコノミスト」のほうが良心的であったような印象をもっている。

予想するに、口には出さないが、内閣府の景気動向指数はフォローしているに違いないのである。最近、エコノミストによる経済解説の場でこの経済データが言及されることがほとんどなくなっているのは、不思議に感じられる程で、多分、数多の民間エコノミストは「早わかりアンチョコ指標」を見ているような印象を持たれるのが嫌なのかナア、と邪推しているところだ。



URL:https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

上の図は景気動向指数の先行指数と一致指数を描いている。直近月は9月である。

すぐ分かるように、先行指数は2022年初から急低下したが最近になって下げ止まっている。一方、生産・販売の現状を示す一致指数は7~9月期にかけてなお上昇トレンドを続けている(ように見える)。

もちろん景気動向指数の算定の基礎になる統計データは全て季調済である。7~9月期にかけて一致指数がなお上昇トレンドを保っているという点が実質GDPと違っているが、前にも書いたように、小生は実質GDPの季調済前期比は動きがおかしいと(以前から)感じている。「7~9月期のマイナス成長」は眉唾とまでは言わないが、数字のマジックではないかと受け止めている。

とはいうものの、楽観するべきではない。1985年以降の40年弱にわたる景気変動を通して、先行指数が上昇基調から低下基調へとレジーム転換してから何か月かの遅れの後、一致指数は必ず低下に転じていることを図は示している ― そのラグ月数は景気循環サイクルごとにマチマチではあるが。

なので、先行指数が低下してきた以上、いずれ日本経済は多少の景気後退に陥る可能性が高いと思っている。ただ、先行指数の低下に足止めがかかっていることから、景気後退に陥るとしても、その度合いは軽微である。そう予測しているところだ。


2023年11月14日火曜日

ホンノ一言:女性が労働市場に参入して一人当たりGDPが増えたと言ってもネエ……

今日届いたIMFのメールマガジンではアベノミクスの政策効果をプラスに評価している。特に、

Japan has one of the oldest populations globally, with its working-age population shrinking since the late 1990s. Despite that, Japan achieved impressive per capita gross domestic product growth, trailing only the United States, from 2012 to 2019 during “Abenomics”—the combination of monetary stimulus, fiscal flexibility, and structural reform advocated by Prime Minister Shinzō Abe.

労働力人口が減少する中で、マクロの経済成長はともかく、一人当たりGDPの成長率が下図のようにアメリカに次いで第2位という結果を残しているのは、高く評価されるというニュアンスだ。


この要因は、IMFも指摘しているように
A major contributor to per capita growth was the rising number of women entering the labor force. The female labor-force participation rate in Japan rose to 74 percent in 2022 from 63 percent in 2012.

つまり女性労働力である。

非市場家庭内サービスを担当していた専業主婦が、労働市場に参入し、サラリーをもらって働くようになれば、それまではゼロであった付加価値がプラスになるので、人口で割った一人当たりGDPが成長するのは当然の理屈であって、IMFの分析担当者が言う通りだ。


しかし、<国内総生産=GDP>という概念を考えるとき、主婦(と限ったわけではない)が担っている非市場性の<家庭内労働>も本来は帰属評価をして「国内総生産(=GDP)」に加算するべきなのである。

類似した例として、持家に居住している人は家賃を住宅市場で支払っているわけではない。が、現行のGDP推計においては、持ち家という住宅資産もまた住宅賃貸サービスを生産しており、持家居住者はその営業余剰を所得として受け取り、それをそのまま消費支出として支払っているという「帰属処理」をしている。

持家サービスについて帰属処理をするなら、もっと重要な主婦労働も(本来は)帰属処理をするべきだ、というのが当然の理屈になる。

実際、内閣府・経済社会総合研究所では、主婦労働を帰属評価した<広義のGDP>を試算したことがある ― 一回限りの試算で、定期的に推計するまでには至らなかったようだが(資料はこれ)。


つまり言いたいことは、専業主婦が労働市場に参入し市場性サービスを提供することにより確かに現行概念のGDPは増加した。しかし、労働市場で働く分、非市場性の家庭内労働時間は減っている。もし、平均的に期待される賃金で家庭内労働を評価するとすれば、労働市場で働くプラスと家庭内労働が減るというマイナスが相殺されて、広義のGDPは増えていない。そんな理屈になる。

加えて、家庭を離れ労働市場に移り、家庭からはその時間だけ不在となることによって、それまでは常に家庭にいてくれた母親が不在になるという淋しさを子供が感じるかもしれない。子供に絵本を読んであげる時間も、キッチンで料理を一緒に楽しみあう時間も、子供が読んだ本について母と感想を語り合う時間も削られるであろう。これを満足度の低下と考えれば、社会全体の幸福度はむしろ低下しているのではないかという疑念が生じる。

Non-market ActivityとMarket Activityとの間のこうした選択変容は、全世代を含めた満足度の変化に加えて、家庭内の人的資本育成を通じてマクロの潜在成長力にさえ影響が及んでいるかもしれない。


小生は旧い世代に属するので、IMFのように女性労働力が労働市場に参入したおかげで、日本の一人当たりGDPはアメリカに次いで高い成長率を示したと、そんな数字をもろ手を上げて喜ぶという気持ちにはとうていなれない。

日本社会の現実はとても楽観的解釈が出来るものとは違う。アベノミクス8年間の深層には多くの問題が隠れていた。その時は、労働市場の好転や旺盛な株式市場に幻惑されたが、今ではこんな風に思っているのだ、な。 




2023年11月13日月曜日

ホンノ一言:岸田政権も空っぽのようで意外と真っ当なようで……

<日本病>をキーワードにして本ブログ内検索をかけると、これまでの投稿が数多くかかってくる。

大体は同じことを書いている。

例えば

このブログでも<日本化>、<日本病>については複数回、投稿したことがある。実際、これらをキーワードにしてブログ内検索をかけると、『こんなことも書いていたか・・・』と思うような投稿が出て来て、むしろ(我ながら)新鮮に感じる。

先日の投稿では以下のようなことを述べていた:

要するに、日本国内で積極的なビジネス展開が出来ていない、これが根本的原因であって、まさに民間にこそ《低迷日本》の主因があるのだが、その主因を解決できないでいる日本政府にも大いに責任がある。

・・・日本が取り組むべき課題はもう分かりきっている。一流の外国人政策顧問を招いても、世界的に評価されている真っ当な日本人専門家に問いただしても、まず同じことを提案するはずである。ところがこんな提案をすると日本人の神経を逆なでする。政治家は国民におもねるばかりで、なお悪いことにそんな姿勢を「国民に寄り添う」と美化している。「日本病」の核心がここにあるのは間違いない。

「経済成長」というこの当たり前の目的を達成するには、当たり前のことを実行しなければならないのだが、(どうしたことか、小生には不思議でならないのだが)日本人自らがこの「経済成長」という目標に心理的抵抗感を感じているように見えるのだ。社会心理的な不調のようでもある。

2021年12月14日の投稿だ。

要するに、日本経済が成長できるビジネス機会を日本人自らの意思決定で抑圧している。つまり、日本経済の低迷は自らが選んだ結果である、と。「日本病」というのは言い得て妙で、これを「日本人病」と言い換えても誤りではない。

端的に言うと

市場と民間を信頼せず、社会主義ないし社会主義的である国ほど、健全な経済成長が阻害される

ソ連や東ドイツ、北朝鮮の例を引くまでもなく、ま、そんな主旨の投稿を反復してきた。

~*~*~

岸田内閣は記録的な低支持率にあえいでいるが、その割にはやっていることは真っ当なのかもしれない。少なくとも、マスコミや世評の上では好評だったアベノミクスよりは、成長促進に向けた正しい診断に近付いている可能性がある。

ひょっとすると、政治家としては低評価で、首相自身が自らの意思を強く持たない空気のような存在であるというそのことが、かえって政策理論的には正しい決定につながる要因になるのかもしれない。そんな皮肉な期待をも高めるのだ、な。

「政治主導」という現下の体制の下では、かえって空気のような人が「主導」してくれる方が、良い結果につながるというのは、いかにも日本的であるような気もする。大体、江戸時代の征夷大将軍も建て前は上様であったが、実際にはそんな空気のような存在であったではないか。日本はそんな政治体制が適しているのかもしれない。

~*~*~

本日の日経にこんな記事が載っている。

政府は海外運用会社を招く「運用開国」に乗り出した。家計金融資産2100兆円が外に出ていくばかりでは日本の成長に寄与しない。国内に投資機会をどう生むかが最大の課題だ。

10月6日、首相官邸。米運用会社ブラックロックの呼びかけで中東の政府系ファンドや欧米年金など世界の機関投資家・運用会社の代表約20人が集まった。保有・運用額は計3300兆円に上る。関係者は海外勢が来日した目的を「『具体的な投資案件を見せてくれ』ということだ」と語る。

日本国内の投資案件を海外投資家にも披露しようという意志を首相官邸が持つだけでも素晴らしい事ではないか。

まあ、日本の家計が日本には見切りをつけて保有しているキャッシュを海外投資にシフトしているという最近の流れの中で、その海外からカネが日本に入ってくるというのは、理屈としては考えにくいわけだ。しかし、海外から日本に投資してほしい、と。首相官邸自らがこうした営みを続けていけば、問題の根本は日本に投資したくとも投資案件がないのだ、と。チャンスそのものがないのだ、と。チャンスが無いはずはないのだが、現実にはないのだ、と。その<真実>に政治家がいずれ気が付く。認めざるを得なくなる。自民党政治の間違いにいずれ気が付く。そんな(一抹の?)期待が持てるではないか。

もちろん上に引用した記事の末尾は

日本企業はバブル崩壊以降、設備投資や研究開発を抑えて借入金返済を優先してきた。日銀の資金循環統計によると民間企業部門(金融除く)は戦後、資金不足だったが、1998年から資金余剰の局面に転じた。海外マネーが注目する今こそ、日本が積極投資に打って出る好機となる。

GXだけでなく、省人化や農業など日本経済の課題は多い。投資機会をどれだけ増やせるか。運用立国実現のハードルは高い。

Source: 日本経済新聞

Date: 2023年11月13日 4:00

URL:  https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18AZX0Y3A011C2000000/

「運用立国へのハードルは高い」と疑惑の目で首相官邸の努力をみている。

来てくれと言うなら、『こんなチャンスが日本にあるってこと、知らなかったでしょ』と言えるような美味しい話がなければならない。しかし、そんな美味い話はないことを日本人は知っている ― それとも、日本人には縁のない美味しいチャンスを海外投資家には提供しようという心づもりなのか……。何のために……?

マ、それはともかく、日本人投資家に愛国心がないのではなく、外国人からも『こりゃあ日本に投資機会はないわ』と、こんな引導を自民党上層部に出してくれるだけでも、明るい気分になれるというものであろう。 

2023年11月11日土曜日

断想: 日本人が「個人主義」を(真に?)理解できたかもしれない時代はあった?

最近の投稿で頻繁に登場する語句の中で「個人主義」、「民主主義」、「信仰」、「モノ」は中でも頻出単語であるだろう。

個人主義と民主主義との関連性は意外に大きなテーマだが、個人主義がヨーロッパの香りのする理念であることを述べるのは割と簡単だ。

例えば、リルケという詩人、というより芸術家がいるが、彼の名句の中に

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

というのがある。

リルケは無神論者でも無宗教でもなかったから、「孤独」と言っても「宇宙における真正の孤独」ではなく、神と自己自身が一対一で対話できる状況を指していると考える方が正しい(はずだ)。

ただ、上と同じ言葉を例えば日本国内のワイドショーに出てくる某コメンテーターが口にしたと考えてみたまえ。世間は「孤独」を肯定する発言に非難轟々、そのコメンテーターは大炎上するのが必至である。

しかし、個人主義とは最初からそういうものであり、社会の前にまず先に「自己自身」が存在する。つまり孤独な自己から自分の人生が始まるという認識を受け入れなければ、理屈として、個人主義にはならない。

だからこそ、個人主義を基調とする社会では「同調圧力」は否定するべき悪習であって、決して容認するべきではないという姿勢をとりうる。ロジックはこうなる(はずだ)。

フランスが政教分離を徹底するのは、無神論や無宗教を基本とするからではなく、むしろその正反対で、過去においてカトリック教会が余りにも強大であり、現在も宗教勢力が決して軽視できない存在であること、加えてイスラム教徒移民が無視できない数となり、宗教的対立が社会的不安定につながる可能性を懸念しているからである。即ち、宗教や信仰という面に対して、フランス政治は非常に"sensitive"であって、この種の話題に敏感な感受性をもっている。ここを見なければなるまい。

そこまで警戒しても、時にイスラム狂信者によるテロ事件が何度も発生しているのがフランスの国情だ。発生はしても、それは何故かという理由を体感として理解できる素地がフランス社会には備わっている、というか継承できている。表現の自由と信仰の尊厳の両立について心の底から悩めるだけの感性を継承できている。というか、そういう感性を持たざるを得ない。そう観えるのだ、な。

ここが同じ政教分離でも現代日本社会の情況とはかなり違っている(ように観える)。

日本社会は、上にも触れたように「孤独」という言葉を機械的に解釈することしかできず、内実を含めた意味ある言葉としてもはや聞くことができない状態に、つまり宗教的なことに関する感覚や直観が非常に「退化」した社会になってしまった。そう観ているのだ、な。

戦後日本は政教分離に非常に神経質になっているが、フランスと異なるのは戦前期・日本の国家神道を崇拝する極右勢力を警戒するということであって、極左勢力を警戒する狙いはない。しかしながら、日本人の精神生活に実際に神道信仰が戦前期に根付いていたかといえばそんな事実はなかった、と。亡くなった父はそう断言していた。要するに、戦前期・日本に「信仰」と言えるような精神生活は社会全体を見渡せばホボなかったのではないかと、小生は想像している。それどころか、戦後早々の政治状況を考慮すると、自然を尊重する「信仰」とは正反対の人智万能の「科学的社会主義」を信じる傾向が強かったのではないか?そう思うくらいだ。

旧制高校生の間で昭和天皇は『天ちゃん』の呼び名で通っており、それはどうやら父の学年だけではなく、カミさんの父の学年でもそうであったようであり、ということは全国の若い者の間で「天皇崇拝」とか、「八百万の神々」などを信仰するという心理は、戦前期の日本人の間で微々たるものであった。そんなお寒い状況があったからこそ、日本政府は余計にシャカリキとなり様々な行事を国家として運営していたのである。

父の昔話を小生はそんなものかと聞いていたわけだ。

明治・大正・昭和と近代日本に生きた日本人の精神生活から、いつの間にか信仰とか宗教というものは、実のところ無視できるほどのマイナーな存在になってしまった — 残っていたとしても、江戸以前の宗教文化とは質的に全く異なるものになった。その穴を埋めたのはヨーロッパ起源の科学と哲学の二つだ。そして、科学、哲学の二つとも自然だけではなく、社会をも考察対象とするようになっていた。西洋とは異なり、日本においては、信仰は古い土着の思想、科学は外来の新しい思想だ。

外来の新しいものは土着の古いものよりは優れたものとして信頼されるのが日本のお国柄である。いくらライフスタイルや日常ツールで日本と西洋が同じ外観を示すとしても、精神構造は違っている。ずいぶん以前から、そんな風に思うようになった。

かつて、といっても500年も昔だが、浄土真宗門徒による一向一揆が盛んなりし時代であれば、

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

という上の言葉の意味を正しく理解できていた可能性がある ― 他力本願の浄土信仰と、来世の幸福を重んじるキリスト教福音主義とは微妙に違うとは感じているが。

ということは、数百年も昔の日本人の方がヨーロッパ人のいう「個人主義」という観念を、より近く自分自身の精神生活に則して、正確に共感できる感性を身につけていた。

昨今、どうもそう感じられるのだ、な。

科学的社会主義への共感と、個人主義とは、実は水と油である

小生はそう考えている。社会的同調圧力を制度化すれば、それはそのまま社会主義になって当たり前であるから。日本人のマルクス好きは、まだ戦前期と似ているのではないだろうか。

今日はとりとめない断想になってしまった。これも前稿の補足ということで。


2023年11月9日木曜日

断想:時の流れを超越するのはモノや理念ではなく人間心理である

1968年と言えば、55年前だから、《今は昔》といえる程の以前かもしれない。その年に刊行された『源氏物語の世界』(新潮選書、Kindle版)を読んだのだが(不勉強もあって初読である)、55年も前の世代はもうこんな風に考えていたのか、という感想だ。その感性は現在の現役世代は元より、小生の世代より余程進んでいる。

そんな風に感じました。中村真一郎である。若い頃は入試問題にも頻出していた作家である ― そういえば、東野圭吾も村上春樹も流石に齢を感じる昨今、真剣に文学をやっている作家は日本に残っているのだろうか?自然科学は無論だが、経済学や政治学、国際関係論だけじゃあ、文明は栄えませんゼ……

例えば

この『蜻蛉日記』は、したがって一人の女性の苦悩の歴史を書き綴ったものである。――ただし、「日記」といっても今日のように、毎日、書き続けた日録ではなく、その結婚生活の終わりに近付いた頃に、思い出として書かれたもの、つまりメモワール、回想録と言うべきである。

……この日記は、「反小説」のレアリスムの傑作だということになる。……風俗習慣の相違にもかかわらず、人間心理は不思議に普遍的なものである。人はその事実に改めて感動しないわけにはいかないだろう。

こんな下りを読むと、日本文学史をよく知らない人であれば、「ハテ、蜻蛉日記なんていうベストセラーが最近出たかなあ?」と思うに違いない。実際、『蜻蛉日記』というタイトルを『▲▲』と伏字にすれば、上のような評価は明治時代の一人の無名の女性が書いた日記を評価する文章としても通用するはずだ。実は、この『蜻蛉日記』は紫式部よりも更に一世代も前に生きた藤原道綱の母によって千年以上も前に書かれた日記である。

55年も前の世代の人の感受性に<先進性>を感じとれると同時に、千年以上前の平安時代に生きた女流作家の現代性にも驚かされる人がいるかもしれない。


更に、読み進めていくと、

王朝末期はデカダンスの時代である。そして明治以来の近代日本はデカダンスの時代を持つだけの、不健全な余裕がなかったから、王朝末期の文明とその所産とが、積極的に評価されたことは一度もない。…明治・大正・昭和の三代は、生活倫理のうえでかなりきびしい時代だった。…近代日本の道徳の理想が、いかに偏狭なまでに厳格であったかは、「恋愛」というものに対する世論の反応を見るだけで充分である。恋愛は最も個人的な行為であり、個人の本能の流露であり、個人の幸福を人生最高の価値とするものである。

 「常々思うのだが」と言うとまるでドラマのようだが、多くの若い人が成人式を迎える時、あるいは社会人として巣立つ春、ワイドショーの取材記者からマイクを向けられた時に、ほぼ例外なく「人の役に立つ人間になりたいと思います」とか、「多くの人を喜ばせてあげられる人になりたいです」とか、要するに非常に<利他主義的抱負>を口にする人がほとんであることに、小生はホントに呆れ果てているのだ。

確かに、令和という現代は、明治・大正・昭和という近代日本の精神を直系として継承した時代である。

そう感じます。

確かに、人の役に立ちたいという利他的価値観は大切だ。しかし、利他的精神は自己犠牲を尊い行動であると評価する価値観の上に立っている。

普通に考えれば「家族を大切にして幸福を築いていきたいと思います」と、こんな風に自然な願望をマイクを通してTV画面で語る若い人が半数以上はいるはずだが、何故いないのだろう?

こんな疑問が萌してからもう何年たつだろう?


日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。

人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。

利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。

フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。

個人の人権を尊重するフランスのお国柄が伝わって来るではないか。平安時代の上流貴族社会もまた自由恋愛至上主義が骨の髄から肯定されていた時代だった。そのことを同じ時代に生きた作家による古典から知ることが出来る。現代日本が継承しているのは、平安時代の後に支配者となった武家の倫理である。「殿」の観念、「家」の観念、上意下達と男尊女卑の厳格な道徳観である。死をもって償う贖罪観が現代日本の死刑制度維持に反映していないと言えるのだろうか。平安時代を通して日本で死刑は執行されていない。

武家とは侍、サムライ、つまりは「さぶらう人」。誰かに仕えるという精神を持するのが武士である。現代日本人が継承するべき精神は、武士ではなく、武士以前の日本人が持っていた自由な精神であるのかもしれない。


ただ、そのフランスもジャニーズの創業者社長の男色行為は児童虐待、即ち「犯罪」であると非難しているそうだから、人権と犯罪概念のバランスも時代によって刻々と変化するものと考えるべきであって、それこそこの世は無常、常なきモノと言うべきなのだろう。

人の道徳や価値観は時代によって変わる。しかし、人間の感情や心理は変わらない。それだけは真理だと言えそうだ。

【加筆修正】2023-11-10

2023年11月3日金曜日

ホンノ一言: 「反ユダヤ思想」という力にも作用・反作用の関係が当てはまるのではないか

 「イスラエル=ハマス戦争」という呼称は、国家対国家の戦闘行為を指す「戦争」とは(どこかが)違っているようで、どこか違和感を感じるが、ともかく現実に戦争的現象、というか戦時特有の残虐行為が進められていることは確かだ。

「ハマス」は殺人者集団、というかテロリズムを信奉するガザ市内の政治結社である。その政治結社が自国民に対して大規模な武装攻撃をした。となると、イスラエル国内の「内乱」にも見えてしまうが、しかし、ガザ市はパレスチナ人が暮らす「自治区」だ。つまりはイ政府にとっては「外国」に近い存在だ。それでイ政府は今回の軍事行動を「戦争」であると宣言した。

しかし、戦争なら敵軍を支援する第三国があってもイスラエルの内政に干渉しているとは言えまい。中国も新疆ウイグル自治区を抱えているが、そこで「暴動」と「殺人」が発生すれば、中国軍はウズベク人を敵として戦争を宣言し、戦時にのみ許される行動がとれるのか?いや、いや、北京政府は『これは戦争ではない。中国の内政である』と主張するはずだ。マ、細かな理屈は専門外のことでよく分からない。

いずれにせよ、戦争には戦争目的がある。イスラエル政府の戦争目的とは何か?敵の降伏か?領土(=ガザ市?)の併合か?敵の軍事力の消滅か?イ政府の戦争目的がいま一つ明らかでない印象がある。究極的目的は「戦闘行為の終了」、つまり「平和」であるのに決まっているはずだが……


それはともかく、


この「戦争」が始まって以来、世界中で《反ユダヤ主義的事件》が激増しているそうだ。例えばWall Street Journalでも

 欧州連合(EU)の専門機関、欧州基本権機関(FRA)の2019年の報告書によると、欧州在住ユダヤ人の89%が、過去5年間に自国で反ユダヤの傾向が強まったと回答している。それが原因で欧州を離れることを考えているとの回答は40%近くに達した。

 ユダヤ系市民権団体の名誉毀損防止連盟(ADL)によると、米国でも反ユダヤ事件は徐々に増えている。2013年は751件だったが、2022年には3697件に達したという。

Source: Wall Street Journal

Date: 2023 年 11 月 3 日 06:03 JST

Author: Bojan Pancevski, Matthew Dalton, David Luhnow and Karolina Jeznach

URL:  https://jp.wsj.com/articles/wave-of-antisemitism-has-european-jews-wondering-if-they-will-ever-be-safe-fe5a4463


小生は歴史が専門でもないし、仮に歴史専攻であっても欧州の反ユダヤ思想を軽々に議論できないこと位は知っている。

ただ、どんな自然現象も社会現象も力学的解釈ができるものだし、社会現象については心理学的見方も可能だと思うことが多い。自然についても、社会についても、ある力が作用する時は、反作用という力を考えなければ均衡というノーマルな状態を考えることができない。

思うのだが、「反ユダヤ思想」という思想が社会的な力なり、エネルギーとして根強くあり続けたのであれば、「汎ユダヤ思想」という反対の思想も逆向きの力として存在し、欧州社会で作用してきたのではないか。

これは古典力学の単なる類推だが、反ユダヤ思想と汎ユダヤ思想は同じ社会的現実の表と裏の関係にある。そう思うのだが、違うのか?

少なくとも「反ユダヤ思想」という一方向の思想が、それのみで独立した思想として非常に永い期間に渡って継承され続けるという情況は、理解しづらい。理屈として奇妙ではないか。マア、『分かってないんだよネエ』と言われれば、それまでだが……


いい例えではないが、高気圧があるから低気圧もありうる。台風という低気圧があるから暴風雨が発生するのは事実だが、低気圧をなくしたいなら高気圧をなくさなければならない。低気圧と高気圧は、共に存在するか、両者ともに消えるかのどちらかである。一方だけが存在することはない。

両方とも消失させるには、相互混入と均質化のほかにとり得る道はない。


人間の言葉では「▲▲思想」とか「〇〇主義」とか色々な表現に分かれるが、実態として存在する「戦闘状態」という現実は一つであって、二つあるわけではない。なので、現実を説明する言葉は一つに収束するのが自然だ。それがそうならないのは、現実を超越した《独善》に当事者の精神が支配されているからだという理屈になり、その意味で関係者は《盲目》になっている。

18世紀の《啓蒙主義》は英語でいえば"enlightenment"で目を開くという意味だ。この思想が近代世界の発展をもたらしたのは明らかである。

あらゆる独断と独善を排するという姿勢を当事国以外の世界が保つことがいま最も重要なのだろう。

【加筆】2023-11-04

2023年11月1日水曜日

ホンノ一言: アマチュア議員による素人行政で日本経済は何とかなるのだろうか?

岸田首相が今国会の所信表明演説で《経済、経済、経済》という風に「経済」という単語を連呼したそうな。

確かに、日本人全般が政府の政策のどんな分野に最も高い関心を持っているかと言えば、ほとんどの時点で、「暮らし」や「経済」であるのは一貫した事実だ。外交でも、安全保障でもない、普通の日本人が最も強く願望している政策が「暮らし」に関係するものであるというのは、ほぼ自明のことであろう。

その自明のことに、ほとんどのマスメディアは、気が付いていないのかもしれない。視聴者は外交や軍事にもソリャア関心はあるでしょう。エンターテインメントも求めるものだ。しかし、メディア産業に期待しているのは「暮らし」の役に立つ情報だ。この辺でズレを感じるようになって久しい。メディア産業の企業行動が変容した背景としては、永年の<停滞慣れ>、<横ばい慣れ>、<現状維持を良しとする気風>、マア、この辺りを挙げてもよいかもしれない。要するに、経済面でニュースがなかったのだろう ― そんな事はなかったのだが。

そこへ、コロナ後のインフレがやってきた。

インフレ+賃金上昇+高金利

という普通の成長経済への移行が停滞・日本でも間近に迫って来た。


ところが、折しも現時点の日本は空前の人出不足である。成長しようにも労働力の限界が表面化するのは時間の問題である。これまで非正規労働力の源泉として日本経済を支えてきた女性もこれ以上は難しいほどにまで就業率は高まっている。賃金は、政府が旗を振る前から上がっていくであろう。


この人出不足に対応するためにも自動化、AI化など資本設備の高度化が叫ばれている。今は、そんな筋道で議論されているようで、マスコミもここまでは理解してそんな話を何度もしている。


しかし、現時点の日本経済で足らないのは人手、つまり労働資源だけではない。



URL:https://www.ene100.jp/zumen/1-2-7

上図は日本の電力使用実績の推移である。

よく「失われた30年」と言われるが、失われたはずの30年の間も東日本大震災までは日本の電力使用は拡大していた。停滞基調が明らかになるのは、図から明らかなように、東日本大震災の《福一原発事故》の後である。福一事故のあと、日本の電力使用は一貫して横ばい、ないし弱含みである。

福一原発事故のあと、ずっと電力使用が横ばいを続けているのは、需要が伸びていないためというよりは、発電能力が制約されているからであるのは精緻なデータ分析で立証するまでもないであろう。

失われた30年を問題とするのはもう古い。「震災後の停滞」と言うべきだ。

日本経済の成長にとっていま足らないのは<人手=労働力>だけではない。<電力≒エネルギー>も足らないのだ。 

これでは日本全体のアウトプットを増やしようがない。成長を持続させるのは無理だ。

こんな理屈になる。 


「震災後の停滞」と言うと、アベノミクスを否定するような見方になるが、本質的にはそう認識するのが正しいと小生は考えている。

こんな風に思います。



電気が足らない状況で設備投資をして、デジタル化、自動化を進め、人出不足を補えと云われても、そもそも利益は増えず、ビジネスにならないのではないか?

頻繁に「節電要請」をされるなんて、ご勘弁だ。

それよりエネルギー制約がなく電気料金が安価な外国に生産活動拠点を置く方がよいに決まっている。

いま日本が注目されているのは、ビジネス要因ではなく、地政学的な安全保障上の要因で注目されているだけであろう。めっきが剥がれるのは時間の問題だ。やるべきことをやらなければならないわけだ。

もう時間がないのである。そう思えませんか?


今日はエネルギーだけの話しだが、後もまた推して知るべし。研究、大学、初中等教育、リカレント教育などの人材育成から始まり、育児支援、家庭支援、生活支援、社会保障、税制、果ては農林水産業、食糧安全保障、etc. etc. etc. ...。つまるところ、頑張っているのは目立つ所だけで、総合経済ヴィジョンなる冊子を発行している機関も人も学会も寡聞にして知らない。

日本国内のどの政党も、政策立案マシンと呼ぶに値するような組織とは根本的に違う。票は集めても、政策形成に資する人的リソースが集まるメカニズムがない。お寒い限りなのだ、な。

日本の政党は、「ハマス」のような政治結社ではなく、要するに「全国的な選挙互助会」、いや「日本選挙互助会連盟」と言うべきかもしれない。明らかに政治結社ではない。

その意味では、日本の政党は組織として強くはなく「弱い組織」である。財閥系老舗のメガ企業がどこも"coherence"(=一貫性、凝集性)に欠く、クラゲのような多足生物に似ているのは、日本的組織としては共通しているのかもしれない。


いま経済運営のプロフェッショナルは政府内にはいないのだろう。総合的な経済運営プランを所管するセクションもかつては存在したが、いまはない(と言っても可であろう)。専門家が政府部内におらずとも、《市場経済》を基軸として、原則自由にビジネスが展開されるなら、それこそ「安価な経済マネジメント」を行っているわけで、《小さい政府》のメリットを享受できる。しかしながら、日本では多種多様な規制で成長産業への参入ができず、(供給責任という名目から)退出さえも自由にできないお国柄だ。であれば、賢い行政を行うためのプロフェッショナルに任せるべきだ。

規制過剰な行政モデルの下で「政治主導」などと言いだせば、
バスに乗ったら乗客主導で走らせるべきだ
そんなバカな結果になる。「民主主義」って、そんな意味じゃあありませんゼ。危なくって仕方がない。下手は上手に任せる方がよい。

素人より玄人の方が上手なことは確かにある ― もちろん専門家と言われても全く信用できないような分野もあるが。

所詮は、欧米直輸入の「民主主義」が自らの血肉として身についていない日本人の弱みということか。

そう思われてなりませぬ。


専門知識のない国会議員が行政府を方向付ける《素人行政》がこの先も続いていくのかと思うと、ちょっと暗澹としてくる気持ちでございます。

マンション管理のイロハも知らない素人役員の寄合で自主管理するなんて小生が暮らしているマンションだけにしてほしいものだ。

【加筆修正】2023-11-05、11-06


2023年10月29日日曜日

覚え書: 東京某日日誌

東京へ墓参を兼ねて三泊四日で往復してきた。宿泊は、ここ近年は上野界隈が気に入っている。というか、学生時代に東日暮里に下宿していたから、上野、根岸、日暮里・谷中といえば小生の縄張り内でもある。

ただ両親の墓は船橋にある。八千代、柏に近い所だ。アンデルセン公演へ曲がる十字路、県民の森入口からすぐの所にある。行けば休憩を含めて小半刻は過ごす。

天気が余りに好かったので、母が晩年に過ごしていた取手市の戸頭団地を再訪してみた。関東鉄道の駅から出ると、国道の下をくぐるようなトンネルがある。それをみると、記憶は大分曖昧になったが、確かにこの道を毎日急ぎ足で歩いて駅に入り、1時間半もかけて役所に登庁し、日がな一日雑用に追われて、深夜になってまた駅を出て、この道を歩いて家に向かっていたよナア…と。母は起きて待っていたことが多い。寝ていればよかったのに……。その頃の生活の感情だけが胸に蘇るような感覚だ。




その頃、食堂「ガシュラット」という店名だったかどうか、忘却してしまったが、本を買ったついでに、この場所にある店で何度かラーメンを食べたような記憶がある ― 本屋の方はなくなっているようだ。それにしても、ほとんど誰も歩いていない。シャッターを下ろしたままの店も多い。

店に入って餃子ライスを頼んだが、相客はすべて高齢の女性、お婆ちゃん達である。どの人も軽めの麺類をすすっている。小生が母と一緒にここで暮らしていた時分から住んでいるのだろうか?その当時幼かった子供たちは概ね独立して町を出ていき、この界隈の住人全体が高齢化しているのだろう。自分はこうした町の変化を共に経験しては来ず、今は通りすがりの旅行客に過ぎない。

帰りは取手駅には戻らず、守谷から「つくばエクスプレス」に乗って新御徒町駅で降りた。流山辺りでは子供連れの若いお母さんが何人も乗ってきて活気があった。

上野に戻り時間があったので寛永寺の清水観音堂で御朱印をもらった。


弁天堂にも寄ろうと思ったが観光客で黒山の人だかりだ。根本中堂まで歩いて行こうかとも思ったが、腹の調子が悪く、そのままホテルに帰った。




2023年10月23日月曜日

断想: 秋冷えて徒然に思うこと。科学が全てじゃないでしょうに。

明日から三泊四日で東京往復。両親の墓の植木の片側が近年の酷夏で枯死してしまい、そこに墓誌を建てることにした。工事は終わっているのでその確認だ。もう片側の植木はまだ健在ではある(そうだ)が、写真をみると何だか緑葉と茶葉を混ぜ合わせたような姿になっていて痛々しい。いずれ自然石などに置き換えなければならないかもしれない。

いま暮らしている北海道の港町は冬がもうそこまで来ている。少し前までは記録的な酷暑でみなウンザリしているのを思えばまさに、歳月怱々として過ぐ、だ。

岬回りの経路でショッピングモールまで歩いて行くと海の色に緑が混じり、雪を思わせる雲が低く垂れている。浜辺も海水浴客の賑わいはとおに無くなり、海の家の煙突からは何か調理でもしているのか一筋の煙がたち上るばかりである。

秋冷えて 炊ぐ煙や 苫のいえ

波音の つづれつづれに 雪もよい

雪虫の はかなく飛んで くも低し


今朝は早くに月参りで住職が来て読経をして帰った。来年、五重相伝が寺であるので参加を予約しておく。


最近、いつだったか何かのワイドショーで『位牌には何も宿ってないんです。木で作ったタダのモノなんですね』と、TV局お好みのテーマになった終活、墓じまいに関連した話しをしていた時だったのだろう、こんなことを言っているコメンテーターがいた。

当たり前のことを仰々しく、と。そんな感じでありンした。

『私には単に木で作ったモノにしか見えないですけど』とでも言えばイイものを、と。


まあ、小生も統計学でメシを食ってきたから、測定不能な対象は、元来は苦手であってもおかしくない。しかし、データでとらえ切れない事柄が多いこと位はわきまえているつもりだ。そもそも「企業理念」とか、「普遍的価値」など、見ることもできないし、数字にすることもできない。イメージだけの存在である。そんなことは誰でも知っているわけだ。


英国の数学者・哲学者であったバートランド・ラッセルが『西洋哲学史』という大著を書いている。ラッセルの書く本は大著が多いのだが、隅から隅まで読み通す人はそうそうはいないはずだ。小生も上の本を全部読み通したわけではないが、明瞭に記憶に残っている一節はある。

人間の知識には三つの階層があり、一つは科学によって得る知識。二つ目は科学ではないが理性の働きによって得る知識。三つめは理性とは別の直観によって得られる宗教的知識。この三つである。

こんな風に人間の知すべてを分類しているわけだ。

具体的に言い換えると、科学的知識は実験や観察など経験的事実に基づいて構成される。データによって反証不能な仮説は科学的仮説とは言えない。故に「神は存在する」という仮説(?)は科学の対象ではない。

科学とは違って、哲学は必ずしも経験的事実から出発はしない。その代わりに、自明である大前提、例えば「公理」から出発して論理的に様々な結論を得ることが多い。その意味では、数学は科学ではなく哲学の一種だ。倫理学も善悪などの価値を扱うが、プラトンの『ゴルギアス』にしろ、カントの『道徳形而上学原論』にせよ、議論はあくまでもロジカルである。経験を超越する概念をあつかう形而上学になると初学者には敷居が高くなるのも哲学の特徴だ。

哲学と宗教は似ているようで全く違う。哲学は《懐疑》から出発する。懐疑から議論を初めて結論を得るにはロジックが要る。そこが宗教とは異なる。宗教にとっての出発点は「神の存在」や「浄土という世界」を疑うことなく信じるという行為である。哲学者はすべてを疑うが、宗教者はある存在については疑わずに信じる。それが《信仰》という行為である。

深く信じることが宗教であるから、「**主義」もまた宗教と同じような色彩を帯びる。狂信的**主義者と狂信的▲▲教信徒は非常に類似した行動をするものだ。

魂という存在、その魂の行方、あるいは宇宙を支配している輪廻という思想に経験的根拠はない。それは事実であるとも、事実でないとも言えず反証不能である。もちろん疑うことによって哲学を展開することは可能である。デカルトやパスカルはそんな宗教哲学を展開したが、両者の議論はまったく異なる。それは観察事実に基づく科学ではないからだ。それでも宗教という知の世界があるのは精神的安定、つまり心の救済を感じる人が多いからに他ならない。

言い換えると、科学によって人間の精神的安定が得られるとは限らない。科学は、むしろ、私たちの生活水準向上に資する知識である。


さてト・・・位牌の話しに戻ろうか。

信仰に基づいて位牌というモノをみるとき、その人は観察可能なモノを目で確認しているだけではない。位牌の向こう側、つまり目に見える《此岸》という此の世界と目には見えないが超越的に存在しているはずの《彼岸》の世界と、その二つの世界の境界にある《扉》をみていると言うのが正しい理解であろう。

いま「扉」と比喩的表現を使ったが、広く使われている言葉は「偶像」である。信徒が偶像をみるとき木で出来た美術作品をみるのではなく、その奥にある存在を感得する……、まあ150キロのストレートをバットでどう飛ばすかなど、打てるようになるまで自分で試みるより他に方法はない。哲学と違い、宗教や信仰は本を読んで「分かった」というものではないわけだ。

即ち、同じ位牌を見る時も、信仰に基づいてみる人と、信仰なく科学的見地から見るヒトと、二人とも外見としては「視覚情報」を受けとるという同じ行為をしているのだが、その視覚情報をどのように処理し、悟性によって何を認識しているかにおいて、同じ行動をしているわけではない。

小生はもともと唯物論を支持するものだが、生命現象や生物の記憶、理性、理論などが現に存在していることを考えると、既に投稿したように唯物論と唯心論は同じコインの両面なのじゃないかと思うようになったわけで、であるからこそ単なる木で出来たモノに潜在している超越的存在をイメージするとしても、そんな認識には意味があると考えているわけだ。

長くなったが、

信仰という前提がなければ、位牌も仏像も、十字架も、鰯の頭も、豚にかけた真珠も、どれも物理的存在という点では共通している

と、一先ずの結論を出しておいてもよいだろう。


それにしても、人類の知的財産の全てが経験から得られる科学的知識ではないこと位は、中学や高校でも数学や音楽、美術などの学科があるわけだから、当然、分かっていると思うのだが、どうもそうではなく、大事なのは科学だけであると考えて

位牌は木で出来たモノで、そこには何もないんです

と。他の観点があると思わないのかネエ?そう思います。ショパンの夜想曲を聴いて、美しいとなぜ感じるのか?美しいと感じる人と、感じない人がいるのは何故なのか?どこが違うのか?<美>という存在は詰まるところ何なのか?それは一つなのか?複数、存在するのか?

科学的アプローチの他にも、色々な考察方法があるわけである。

何故もっと深く考えることをしないのかネエ、と。そう思いました、という覚え書きということで。


2023年10月20日金曜日

一言メモ: ヒトの公判がそれほど面白いですかネエ、という話し

今日は下世話な批判ということで。


「猿之助一家心中事件」の公判が今日あるというのでTV各局は「待ってました!」とばかりワイドショーの話題にしている。

複数のTV局の異なるワイドショーで全てとり上げているので、一体、今日中に同じ話を何回聞くことになるのだろう?これは《公共の電波の無駄使い》ではないか、電波の重複使用ではないかと。公共性のある報道価値のある事柄なのかと。そう思っちまいます。

小生: ヨソの家族の一家心中事件だよ。心中でまだ生きていた人を救急搬送して治療して生き残った一人を、今度は有罪にして、刑務所に入れるか、入れないかという、その裁判をやっている。わざわざそんな事をやって、今日はそれをTV各局がエンターテインメントにするかねえ?俺にはこれこそ《人権侵害》としか見えないけどネ。

カミさん: ニュースなんだから報道でしょ?

小生: 事実のあらましなら、もうみんな知ってるヨ。大体、視聴者はそれほどデバ亀じゃあないヨ。これで猿之助に執行猶予がつかず実刑になったら、それこそ又「待ってましたア!」とばかりに熱をあげてTV画面で解説するのだろうネエ……目に見えるナア。もしそうなれば、これまた《人権侵害》じゃないかネ。日本のマスコミならいかにもやりそうだろ?

カミさん: 何だか人の不幸を待ってるみたいに言ってるヨ。テレビ局の人だって一生懸命仕事をしてるんだから。

小生: マ、それはそうだな。でも仕事の仕方が間違っているんだヨ。

この件については、発生直後の世間の反応をみた感想を投稿した。

有名人が心中をしたり自殺をするとワイドショーはそれで盛り上がる。いま荒れているパレスチナ・ガザ地区の病院にロケット弾(の破片?)が着弾して多数の犠牲者が出ると、「待ってました!」とばかりに重大ニュースにする — ま、重大ニュースであること自体は認めるが、それでも何度も反復して残酷な録画を再生して視聴者に見せるMCはやはり鈍感なのだろう。

ヤレ、ヤレ……多くの被害が発生していたにも関わらず、ジャニーズや旧・統一教会には口をつぐんでおいて、ヒトの心中や生き残った家族の公判は「待ってマシタ」とばかりに放送するのか、と。

これが今日一日の感想であります。


伝えるべき話には違いないが、新型のコロナウイルスが確認されるのとはワケが違う。どうもヒトの不幸をネタにしている印象がある。

不幸を伝えるのも時には必要だが、先に投稿もしているが、メディアというのは「役に立つ情報」を提供してナンボだと思う。社会の役に立つからこそ許認可権に守られているのだと思う。

とくに何の役に立つわけでもないのに、社会の多数が求めているからという根拠で特定個人の不幸を話題にして多数派勢力のエンターテインメントに供するのは、学校内、会社内でも見られる《イジメの構図》とそっくりだ。日本国民と一人の個人とが対立すると、日本では個人が「吹けば飛ぶような存在」となり、戦前期・軍国日本と同じ「社会に生かされている人間」、「鴻毛より軽きもの」として扱われがちである。

日本社会の底層では数々の《人権侵害》が蔓延していると小生はみているが、その根本的原因は「社会」から議論を始める日本人の思考回路にある。社会でなければ、町や会社、家族など共同体でもよい。個人ではない集団や組織である。<法人>という方がピンと来るかもしれない。日本では、この法人を個人に優越させて考える傾向が非常に強い。法人を個人より優越させて考える習慣があると人権侵害が多々発生するだろう。

みんなはこうしている

というシンプルな理屈が日本社会を強く支配している。

ちなみに、一人一人の日本人には強い束縛力を発揮する日本社会であるが、「黒船」ならぬ欧米先進国から来た外国人に対しては猫のように大人しくなる傾向は、常々情けなく感じているところだ。

ある人は、「法律で決まっているから仕方がない」と上から目線で語ったりする場面があるが、こんな諦念主義が大いに問題だ。法がおかしいと判断すれば変えればよいという理屈ではないか。法律が人権の上にあると考えるのは間違いだ。当たり前だが、この当たり前のことが日本社会ではしばしば否定されたりする。これが《人間軽視》であるのか、《管理の都合》であるのか、《日本的精神》であるのか、発生の起源は小生にはよく分からない。

人権とは前にも書いたが「個人の人権」だ。根底には個人主義の価値観がある。平等とは全ての個人の間の平等を指す。個人とは法人の逆でリアルに存在する人間である。法人は実体ではなく、リアルに存在するのは個人である。法人には「基本的法人権?」とか「法人の尊厳?」などという概念はない。あるべきでもない。

社会や共同体に先立って個人があると考える個人主義は、極めて西洋の香りのする思想で、現代においても日本人には苦手科目だ。社会の同調圧力にさらされながら日本で生きる日本人なら誰もがそんな感覚をもっているはずだ。

個人主義が苦手なその日本のマスコミ企業で働いている記者はほぼ全て日本人であり、個人主義の考え方が苦手である。その振る舞いが、欧米先進国のメディア企業と異なっていても、思考のあり方が違っていると考えれば当たり前の現象だ。


日本のマスメディアの振る舞いに対しては、どうしても冷淡な眼差しになってしまう。ま、「黒船」よろしく英国・BBCの報道があって以来、本年春から夏にかけて進んだ《マスメディアの信用崩塊》は思うに全治10年。(そもそも信用というのがあったと仮定しての上であるが)「信用」を取り戻すには、少なくとも10年程度の時間と誠実でたゆまぬ努力を必要とする。

日本国内の「ジャーナリズム産業」の構造は、その間に激動の時代を迎えるだろう。そんな風に予想している。

良質のジャーナリズムなき社会は、全てを「日誌」に記録する義務を負わず、情報を社内で共有しようとしない組織と同じである。国内企業で実力不足なら、外資の参入を仰ぐしかないという理屈だ。国籍を問わず取材記者として活用すれば日本国内のマスコミ企業にとってショック療法になろう ― 狭小な日本語空間で採算がとれるかどうかはまた別の難問だが。

これまた、国内産業合理化のための《黒船待望論》である。

【加筆修正】2023/10/21、10/23


2023年10月18日水曜日

ホンノ一言: アメリカの実質金利高をどう見るかという点

 前稿では

アメリカの実質長期金利は既に大幅に上がっている。インフレ率はそうそう急には2パーセント線には戻りそうにありませんゼ。

どうするおつもりで?考えがおありと観えますが、というところである。

こんな風に、金利高止まりを懸念するスタンスで投稿したが、同じWall Street Journalに載った記事はそれよりは強気の受け止め方を反映する内容になっている。例によって、Evernoteに保存した元記事にアンダーラインを引いた箇所だけを抜粋する形で要約に代えたい。

記事はエコノミスト65名に対するアンケート結果をまとめたものである。

In the latest quarterly survey by The Wall Street Journal, business and academic economists lowered the probability of a recession within the next year, from 54% on average in July to a more optimistic 48%. That is the first time they have put the probability below 50% since the middle of last year.

The median probability was 50%, in effect a coin flip.

 Source: Wall Street Journal

Date: Updated Oct. 15, 2023 12:04 am ET

Author: Harriet Torry and Anthony DeBarros

URL: https://www.wsj.com/economy/a-recession-is-no-longer-the-consensus-3ad0c3a3

1年以内に景気後退が起きる確率の中位数は50%である。半分以上のエコノミストは景気後退は起きないと予想している、という結果だ。 

Fueling the optimism are three key factors: inflation continuing to decline, a Federal Reserve that is done raising interest rates, and a robust labor market and economic growth that have outperformed expectations.

この楽観論の根拠は三つある。インフレ率が終息しつつあること、インフレ抑制という仕事をやり終えた(と判断しているはずの)FRBという存在、予想を超えて根強い景況と雇用動向、この三つである。

※ ただ、この三点とも現状描写あるいは感想であって、「だから今後もこうなる」という根拠とは言い難い ― これは単なる私見であるが。

 An overwhelming 82% of economists said the Fed’s current interest-rate target range of 5.25% to 5.5% is restrictive enough to bring inflation back to the Fed’s 2% goal over the next two or three years.

これはその通り。現行の金利水準はインフレ率を(2,3年かかるにしても)2パーセント・ラインにまで抑え込むのに十分な高さであると、小生も思う ― 実際、時間はかかるだろうが、そうなりつつある。

Economists expect inflation as measured by the consumer-price index, which was 3.7% in September, to tick down to 2.4% by the end of next year and 2.2% by the end of 2025.

前年比で測ったインフレ率だが、来年末までに2.4パーセント、再来年の2025年の末までに2.2パーセントまで低下するだろうと予測されている。 インフレ率ターゲット<ジャスト2パーセント>に執着するデジタル思考に陥れば危機は避けがたいが、真っ当に考えればインフレは必ず沈静する。

Economists give Fed Chair Jerome Powell relatively good grades for his handling of monetary policy. Nearly half gave him a solid B, while 20% gave him an A, and 20% a C. 

パウエルFRB議長に対する評価は、半数は<評価B>、4分の1は<評価A>、残りの4分の1が<評価C>を回答している。ま、こんなところだろうと思わず納得。 

Some 81% of economists also said the recent run-up in bond yields to their highest levels since 2007 increased the probability of a recession, though not by enough to offset other factors making such a downturn less likely.

長期国債利回り(と実質長期金利の急上昇)は景気後退の確率を確かに高めるものだが、上に挙げたプラス要因の作用を相殺する程のものではない。つまり、現在の金利高止まりは景気後退を予測させるほどのものではない。

※ 私見だが、強気の根拠は「今はこうだ」という現状判断、実質金利上昇は「確実に作用するファクター」というロジック。将来見通しがこれほど強気でいいのかという感想はある。


翻って、このレベルの(記者によって互いに矛盾するような)景気動向分析が日本の経済紙「日本経済新聞」に載ることは少ない。この点は期待を裏切っている。ただ、いわゆる「役に立つ情報」が同紙に多く掲載されている点は認める。 だから価格分の価値はある。

その他の新聞メディアは、「役に立つ情報」というよりは「いま話題の情報」を主に伝えている。ズバリ、面白いがあまり役に立たない。小生が毎日視聴するニュース番組がいつの間にかテレ東の「WBS」になり、NHKとその他民放のニュース番組から離れたのも同じ理由だ。

ジャニーズもそうだろうし、旧・統一教会もそうなのだろうが、日本のマスコミ企業は視聴者の役に立つ情報を提供する「報道」と視聴者を楽しませる「教養・娯楽」という異質のコンテンツを、(自覚することなく)混在させ、鍋料理のようにして一体のものとして提供していた。ここがメディア事業としては未成熟であったのだろう。その分、各分野ごとの業務規律・経営規律が弱かったのだと思う。のんびりと寛げる島国・日本(というより日本語空間)と容赦のない相互批判に常時おかれている欧米各国との違いがここにもあるのかもしれない。



2023年10月15日日曜日

ホンノ一言: 経済学は目標数値に厳格にこだわるほどの精密科学ではないだろうに

先日投稿したのはアメリカのインフレ率が終息しつつあるということだった。



確かに今回のインフレは落ち着いてきてはいるが、その割には粘着質(Sticky)であって、青いラインで示している目標値<2パーセント>まで戻りそうで戻らない ― 少し以前だとトレンド値は戻っていたのだが、その後また離れてしまっているのだ。将来予測をしても、そうそう早期には2パーセント線には戻りそうでない。

対前月比の年率換算値でみて大体2.3パーセントというのが現時点の基調である。ということは、足元の物価上昇ペースが今後1年間続くときに、1年後の前年比が2.3パーセントになるということである。

目標値は2パーセントである。

なぜ2.3パーセントではいけないのか?

2.3パーセントではダメで、景気後退のリスクがあっても引き締めを続け、2パーセントになればインフレリスクが解消すると、なぜ言えるのか?

世は「白か黒か」の二択で考えるデジタル文化に染め上げられて来ているが、自然は連続でアナログに変化する。リアリティはデジタルでなくアナログだ(というか、そう考える方がシンプルだ)。人間の政策だけはデジタルにするなど、あまりにも単細胞の発想だろう。デジタルでは必ず誤差が発生するのだ。

そもそも経済指標が伝えるリアリティの精度はコンマ1桁には達していない。

先日のWSJにはこんな下りがあった:

 議事要旨によると、高官らは、物価の安定と雇用の最大化というFRBの目標を達成する上でのリスクを「より両面的」とみていた。

 高官らはまた、利下げに転じる前に、どれくらいの期間金利を現在の水準に、もしくはそれに近い水準に維持する必要があるのかを検討し始めた。何人かの高官は、金利判断や対外発信の重点を「『政策金利をどれだけ引き上げるか』から『政策金利を景気抑制的な水準でどれだけ長く維持するか』へと移すべきだ」と述べた。

 さらに、インフレ率が目標の2%に戻ると確信できるまで、金利によって景気を「当面」抑制する必要があるとの意見で出席者全員が一致した。

 少数の高官は「実質」FF金利を注視していると示唆した。名目金利が一定なら、インフレ率が下がるにつれて実質FF金利は上昇する可能性がある。

Source: Wall Street Journal
Date: 2023 年 10 月 12 日 10:59 JST
Author: Nick Timiraos
URL: https://jp.wsj.com/articles/fed-minutes-show-officials-divided-on-future-rate-rise-7e3245ce

アメリカの実質長期金利は既に大幅に上がっている。インフレ率はそうそう急には2パーセント線には戻りそうにありませんゼ。

どうするおつもりで?考えがおありと観えますが、というところである。


2023年10月11日水曜日

断想: 高齢者と若者との本質的違いと共有可能なもの

 今日はまったくの断想。


徳川四天王に入る本多平八郎忠勝は戦場で負傷することは生涯ただの一度もなかったが、晩年になって不図したはずみで小刀で指を切ったことがあったそうだ。

わしもそろそろ身の納め時のようじゃな

と言って恬淡としていたが、間もなく極楽往生したそうな。そんな人であったと司馬遼太郎は(見ていたわけではないので、多分、フィクションであろうが)その人柄を描いている。


若い頃は生きてきた時間よりはこれから生きる時間の方が(期待値としては)長いので、自然と将来を語ることの方が多い。

齢をとると、生きてきた時間の方が残っている時間よりは長いので、将来を語るよりは過去の記憶を語る方が中身は多い。若者が将来の抱負を語り、年寄りが思い出話をするのは、自然の摂理なのである。

人間は抗しがたい敵に対して恐怖心をもつのが自然である。目に見える普通の敵に対しては、何とか工夫の余地があるが、<死神>に立ち向かえる作戦はない。心構えがあるのみだ。本多平八郎は、戦場において怯むことがなく、死を間近に迎えても自然な佇まいを保った。周囲の人は、自分には真似のできない真の勇者の振る舞いを見る想いであったろう。

時代を問わず、人を問わず、人は人の振る舞いをみて尊敬したりも、軽蔑したりもするのである。そして真に勇気ある人に対しては誰もが尊敬の気持ちを抱いてしまう。

地位が高いから尊敬するのではない。実績があるからでも、年上だからでもない。人が人を尊敬できるには、勇気の他に、仁、知という徳目があることは、少し前の世代なら誰もが常識として知っていた(はずだ)。


小生が若い時分の高齢者層と現在の高齢者層を比べると、明瞭な違いがある。それは、かつての高齢者層は戦争を体験し、従って自分(や家族、親族、友人、知人)の死を濃厚に意識する毎日を経験してきた点である。更に、自分の命を上回る価値があると教えられてきた世代でもあった。その当時の高齢者が共有してきた<気分≒エートス>は、現在の高齢者層には継承されていない。

現在の高齢者は、個人差は大きいが、前向きの人が多い。社会もメディアも前向きの生活を送る高齢者を称賛することが多い。しかし、上に述べたように高齢であることは、死を間近に控えているということである。高齢者が前を向くときには、道理として必ず自らの死を意識しなければならない。

こんな当たり前のことは、とっくの昔に分かっていたことで、だからこそ出家を志したり、信仰を深めたり、巡礼に出発するという人が多くいたわけで、明治以前の日本文学には生の意識と死の意識とがバランスよく混じりあっている。

高齢者が将来を考えるとき、自らの死を抜きにして将来プランだけに集中するのは可笑しいし(一体何歳マデ生キルツモリカ)、また現世で生きる残された時間をすっ飛ばして死だけを意識するのも変な話しであろう(明日早速死ヌオツモリデ)。

自然の摂理なら風が吹いたり雨が降るのと同じである。


前にも投稿したことがあるが、ヒューマニズムに基づいて価値を議論する時、科学に基づいて問題解決をしようとするとき、目に見えるこの世界に存在する事、生き続ける事が大前提となる ― 死後の事柄について議論するのは科学が宗教に勝った(?)現代世界では大方無意味であると認識されている、と言ってよいだろう。

しかし、このような前提に立つ限り、前にも同じ主旨で何度か投稿したように

合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。

つまり、死ぬより生きる方がイイに決まっているという結論しか出て来なくなる。もちろん、これはこれで否定するつもりはないが、これでは人生をかけて求める至高の価値という目的はあり得ないという理屈になる。故に

元気でいることが、一番大事なんだヨ

というコメントしか言えないというロジックになる。

これも至極もっともな合理的コメントなのだが、高齢者が若者にこのようなコメントをする時、死を間近に控えているにもかかわらず、死を怖れる人の臆病を見透かされるような思いに駆られたりはしないだろうか。実は勇気に欠けた人間であることをヒタ隠しにして生きてきた自分に恥ずかしさを感じたりすることはないのだろうか。


高齢者が生きる将来は時間と共になくなっていくのが道理である。であれば、なくなっていく将来を仰山に語ることはやめ、過去を語り、併せて現在を語ればよい。イヤ、現在を語るというより、現在に安住して、淡々として生きるという佇まいだけはなくしたくない。

最後まで持っていたいものは、理性も大事だが、勇気だけは持っていたいものだ。

2023年10月10日火曜日

覚え書き: アメリカ経済、日本経済。分からないことが増えてきたようで

アメリカのインフレは事実においては終息しつつあるが、「十分終息したとは言えない」という判断もまた共有されつつあるようだ。

それで、FRBによる高金利据え置きが現実的になってきて、となると景気後退はやはり避けがたいのではないか、と。

少し前は、中国経済の先行きで議論が盛んであったが、今はアメリカ経済の景気だよね、という風に世間(というかマスメディア)の関心は実に移ろいやすい。

まずアメリカのインフレ率だが、7月時点で本ブログに投稿したときは

全品目を含むCPIの前月比上昇率の年率換算値でインフレ率を測ると、基調としては既に2パーセントを割り込んでいる

少なくとも成分分解した後のトレンド値としては「インフレは十分終息した」と指摘していた。

ところが、8月実績値までを含めて計算し直すと、以下のような図が得られる。



インフレ率はトレンドでみてもターゲットである2パーセント・ラインを上回っている。

どうやら事後的な結果としては、その時に同時にアップしたARIMAモデルによる将来予測の方が的をついていたようである。その将来予測を8月までの実績値を追加して計算し直すと、



今秋から来秋までの1年間を通して、インフレ率の対前月比は《インフレ率年率 ≦ 2%》という目標を充たしそうになく、必然的に前年比でみても2%ラインに戻ることはないという見通しになる。

これではKrugmanが"Are High Interest Rates the New Normal?"というタイトルで寄稿するのも尤もなことである。

What’s causing this interest rate spike? You might be tempted to see rising rates as a sign that investors are worried about inflation. But that’s not the story. We can infer market expectations of inflation from breakeven rates, the spread between interest rates on ordinary bonds and on bonds indexed for changes in consumer prices; these rates show that the market believes that inflation is under control ...

What we’re seeing instead is a sharp rise in real interest rates — interest rates minus expected inflation ...

 

現在高止まりしている長期金利は、期待インフレ率の高まりではなく、実質金利が高いからだ、と。これは文字通りビックリ仰天な話だ。

ところが、実質金利がなぜ上がるのか、いや上がりうるのか、というのはクルーグマンにもよく分からないと上のコラム記事で正直に述べている。

実質金利が足元で本当に上がっていて、資本収益率が従来と同じであれば、景気後退は理の当然としてやってくる。それでも「景気後退は本当にやってくるのか?」という議論を余裕ありげに繰り広げている。それだけ現在の経済状況の腰は強い ― グロース株の株価は金利上昇で自動的に急落しても仕方がないが。上のコラム記事でクルーグマンも言及しているが、本当にアメリカの自然利子率はコロナ禍前より上がっているのか?そうとしか思えない。だとすると、

アメリカ経済、すごいですネエ・・・

と言いたくもなるわけだ。

分からないことが多すぎる。

まったく、コロナやインフルエンザに感染したときに診療をまかせる医者が、この程度の診察力しか有していないことを望みたい。

さて、日本経済だが、以前に年間収入クラス別のエンゲル係数の動向を投稿したことがあった。

これをアップデートすると、



やはり2014年4月、2019年10月の二度に渡る消費税率引き上げの影響がエンゲル係数という<やりくりの指標>にも反映している、と観るべきだろうような形の図になっている。

2019年10月の税率引き上げ後は、そのすぐ後のコロナ禍3年、その後の諸物価上昇も跛行性があるのでエンゲル係数の解釈は難しい。エンゲル係数はまず上昇したあと、次にレベル調整するように低下し、足元で再び上昇して今に至っている。

2014年4月の税率引き上げの影響はやはり顕著だったのだナア 。これだけ価格が一斉に上昇すれば当たり前か……

と思われる。税率引き上げ前後の駆け込み、買い控えは一時的ノイズであるからトレンドには残らない。

それから

2019年10月の税率引き上げの後、エンゲル係数が上がるのは分かるが、なぜこんな動きをしているのか?

これがどうもよく分からない。

日本の消費者物価上昇を帰属家賃を除くCPI総合の対前月比年率換算値でみると、下図のようになっている:



日本のインフレはトレンド値がまだ4パーセント程度に高止まりしている点が心配なところだ。

が、実は2014年4月時点の物価上昇と比べて、2019年10月の税率引き上げ時の物価上昇はそれほどでもない。

2019年10月の税率引き上げ時には、食品などで軽減税率が適用され税率8%のままであったり、幼児教育無償化が実施されるなど、インフレ抑制策も並行実施されていたのである。だから総合でみて、2019年10月引き上げ時の物価上昇は大したものではなかった。

それでも2019年10月の税率引き上げの後、全ての年間収入階層でエンゲル係数が顕著に上昇している。その動きは2014年4月の税率引き上げ時とそれほど変わらない。

ひょっとすると、軽減税率適用となった食品の価格とその他商品価格の相対価格が変化したことの影響かもしれない。ちょうど税率引き上げと前後して景気がピークアウトしたため実質所得の低下が無視できない要因として働いた。家計のやりくりがきつくなり、食費の割合が上がったということかもしれない。理屈としてはそうなる。しかし、これほど大きく動くのだろうか?

よく分からない。


ただ

足元で家計のやりくりは極めてきつくなっている

これだけは事実として言えそうである。

アメリカでは企業の資金繰りがきつく、日本では家計のやりくりがきつくなりつつある。そう達観していいのかもしれない。