先日の投稿でも
浄土に往くことを願うこと(=願生彼国)は、ギリシア哲学でいう「善のイデア」を見る(=知る)ことへの憧れと変わらない
と、そんなことを書いた。つまり、最高の(=状況や関係性に依存しない絶対的な)善をこの世界で実行したいなら、まずは最初に願うべき事がある、と。そんな「命題?」である。
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ところで「善」というと西田幾多郎の『善の研究』の(遅まきながらの)読後感を本ブログに投稿したことがある。
その時は英米流の「功利主義的価値観」は(断固として)廃するという西田哲学の立場に触れていた記憶がある。
それと関連するのだが、
一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。
こういう問題があるということは西田も意識していた。言い換えると
動機が善だからと言って、結果が善いとは言えないだろう。
動機は善だとは言えないとしても、結果が善になることもあるだろう。
こんな問いかけは、当然意識するでしょう、ということだ。
先日の投稿で書いたのは、上の二番目の問いかけに関する西田の回答だった。実は、一番目の問いかけも結構重要だ。
善かれと思ってしたことが・・・
という後悔は世間には多いだろう。
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これについては西田はこんな風に回答している:
個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。
真に心の中で願う社会的欲求というのは、社会の中に事実として存在する欲求なのであるから、それを欲求として意識するのは自分という一個人であっても、その願いは社会の欲求であると信じて、(断固として)行動を起こすべきである、と………
戦後になって《西田哲学》あるいは西田がリードした《京都学派》の戦争責任が(一部で?)問われる事態になったのも「ムベなるかな」と小生は思う。
これについては、Kindleのメモでこんな風なコメントを書いておいた:
このような社会観は、エリートの暴走を肯定することにもなろう。《至誠》という言葉は、煩悩を具足した一般公衆には使ってはならないとも思われる。「善」なる行動には深い知識の裏付けが必要である。だからこそ、仏教の四弘誓には『法門無尽誓願知 無上菩提誓願証』という一句がある。
いま読み直すと、
煩悩具足の凡夫に「至誠」が本当に可能なのか?凡夫の善意志に基づけば「善行為」になりうるのか?というか、「凡夫」は本当に真の「善意志」をもちうるのか? もてるなら、既に「凡夫」ではないだろう。
むしろ、善意志であろうが、利己的行為だろうが、結果が善いかどうかで善悪を判断する功利主義的価値観の方が、実用上は有効ではないか?
こう付け加えたいところでもある。
上でいう《四弘誓》というのは、浄土系宗派の日常勤行式に含まれるだけではなく、大乗仏教全体の目的として広く了解されている次のような四句である:
衆生無辺誓願度
煩悩無辺誓願断
法門無尽誓願知
無上菩提誓願証
但し、上の四句は小生が属する宗派の文言で、主旨は同じでも宗派ごとに異なった字句が使われている。
仏教でいう最高の善とは、上の最終句にある「菩提」、即ち「覚り」を指す。それには無限の学識を学び尽くす必要があるというのが第三句である。もちろん自分自身の「煩悩」は断つことが前提だ(第二句)、それでこそ社会(=衆生)を救済するという「善」を為すことが出来る、と。
西田幾多郎には悪いが、現実の社会をみる見方としては、仏教的社会観のほうが真実ではなかろうかと思う次第。
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ただ、面白いのは、仏教オリジナルとしては上のような人間観、学問観、社会観を採っているはずなのだが、法然はその『一枚起請文』の中で
唐土我朝にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
と、まず最初に確言していて、学問と浄土往生とは関係がないとしている。念仏を声に出して称える事だけが必要だとしている。ここが日本仏教の最もラディカルなところで、神秘的な箇所でもある。悪意に見ると呪文を唱える魔術のようだと感じる人もいるかもしれない。実際、他力宗派にも「一念」で十分と考える一念義と何回も称えなければダメだとする「多念義」の対立があったが、一念だけ称えればよいとする一念義は念仏を呪文のように使う秘術に似ているという批判があったそうである。絶対他力の親鸞もこの系譜にある。
確かに、個人が浄土に往生することは個人にとっての善であって、社会とは関係がない事なのだが、浄土系仏教では浄土に往生した後、次は娑婆(=この世界)に戻り衆生(=社会)を救うというのが、基本的筋道である。これを「往相」、「還相」と呼んでいる。なので、個人的善ではあるのだが、「還相」までを考えると、社会的善を希求してもいるのが仏教思想である。
だから社会を救済する道を歩むのに「学問は不要」というのは、日本仏教のとても面白い所だと思う。マ、まだまだ、一知半解の域は出ませんが……、覚え書きという事で。
いま色々と突いているのは、小生の単なる知的好奇心からである。
【加筆修正:2025-03-19】
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