日本の新聞には見切りをつけて、ここ近年はThe New York TimesのWEB版を購読していたのだが、NYTに定期的に寄稿するコラムニストをしていたPaul Krugmanが、どうやらコラムニストを辞めるようだ。
最後の寄稿はこんな書き出しだ:
This is my final column for The New York Times, where I began publishing my opinions in January 2000. I’m retiring from The Times, not the world, so I’ll still be expressing my views in other places. But this does seem like a good occasion to reflect on what has changed over these past 25 years.
Source: The New York Times
Date: Dec. 9, 2024
Author: Paul Krugman
URL: https://www.nytimes.com/2024/12/09/opinion/elites-euro-social-media.html
経済問題の理論的解明と提案には余人にはない鋭さを感じる一方、その価値観や政治的理念には辟易したり抵抗感を覚えることが多かった。そんな複雑な読後感が多かったが、そもそもKrugmanの書くコラムがなければ、NYTを購読することはなかった。
それが今後はなくなるわけだから、はりあいがないわけで、関心がなくなった。早速ながら購読を停止した。
購読料金はNYTの毎月約400円から2000円少々に上がるが、それでも日本経済新聞の4000円余りよりは余程イイ、そう思って英誌The Economistを2年まとめてサブスクライブしたところだ。
Krugmanの寄稿の最後はこんな感じだ:
We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.
Google翻訳ではこんな邦文になる:
かつて私たちが持っていたような指導者への信頼、つまり権力を持つ人々は一般的に真実を語り、何をしているかわかっているという信念を、私たちは二度と取り戻せないかもしれない。また、そうすべきでもない。しかし、今まさに出現しつつあるカキストクラシー、つまり最悪の人々による支配に立ち向かえば、私たちは最終的により良い世界への道を見つけるかもしれない。
単なる言葉の表現だが、機械翻訳はやはり淡白になる。
かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。
これでもいい訳ではないが、せめてこの位の感情をこめれば訣別の辞としては相応しい。
ただ次の"Nor should we"(=「またそうすべきでもない」)の箇所は、もう一つ言いたいことが伝わらない。多分、
指導者を信じられる時代は終わったのだ
「信じてはいけない」。こう言いたいのだろう。
何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ
まあ、この位、国民から選ばれた次期大統領を真っ向から否定し、明確に自己の政治的立場を述べれば、どんな読者であっても「偽善」を感じることはない。何しろAmazonのベゾフ氏、Metaのザッカーバーグ氏、OpenAIのアルトマン氏などBigTechの大物たちが巨額の寄付を行い、トランプ氏の軍門に下っている。いまこうして批判すれば何らかの不利益が予想されこそすれ、クルーグマン氏の得になることはほとんどなく、これが偽善である理屈はない。従来と同じ政治的主張をただ貫いているだけである。ただ、今回は最終稿となった点が違う。
多分、ジャーナリズムの(真面目な)読者が(本当に)求めているのは率直な意見だ。
真っ当なジャーナリズムが、真剣に相手にするべき顧客ターゲットは真っ当な読者であるべきなのだろう ― ここでもまた小生は能力分布という言葉を連想するが。
ジャーナリズムによらず、学問を含めた知的活動に少しでも関係する人にとって率直であることは不可欠な資質である。礼儀も不必要だし、マナーも要らない。優しさも有害無益だ。自分の言葉でただ「誠」を語ればよい。全ての知的活動において小生はこの一言に尽きると思うのだ、な。
亡くなった父が好きだった言葉は
己、信じて直ければ、敵百万人ありとても、我ゆかん
という言葉だった。
それには雑念、邪念を消して、純粋でなければならない
と。これが口癖だった。
しかし、息子であった小生の目からは
だから、困難な新規事業をやり遂げる責任感に押しつぶされて負けたのじゃないか。家族がどれだけ苦労したか分からない。
こんな風に思われるばかりで、父の好きだった上の言葉は最も嫌いな言葉だった。
意外にも最近になって、父が言いたかったこと、というか父の世代が信じていた理念の正当性を見直したくなる自分がいる。
上に引用したKrugmanの最後の寄稿は、法廷を去るソクラテスの姿を描いたプラトン作『ソクラテスの弁明』の最後の情景を、何だか思い出させるものがある。
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