2021年11月29日月曜日

ホンノ一言: 権威主義・中国に暮らす国民の意識は?

最近とみに権威主義・中国に対する反感が日本でも高まっている模様である ― 本当に日本で反中意識が高まっているのかどうか、自民党の政治家やマスメディアの論調、ネット上の運動家達の声とは厳密に区別する必要があるとは思っている。

確かに新疆ウイグル自治区でどんな統治が行われているのか、チベットではどうなのか、という問題は、具体的な証拠が十分ではないにしても、ある。ひょっとすると英米がイラク戦争を始める前の"Weapons for Mass Destruction"と似た主張であるかもしれないが、それでも香港で行われたデモ抑圧は世界がよく知るところになった。ただ、それでも(と再び接続するが)香港と近接した深圳や広東で同じ現象が全然と言ってもよい程に伝播していない。これもまた目を向けておくべき事実であるとは思っている。

「同じ現象が中国国内で拡大しないのは、IT技術を活用して北京政府が国民を監視しているからだ」と語る専門家も多いのだが、マア、要するに、北京政府に対する不満が中国国民の間で高まってはいないのかどうか、現時点の論点はこれしかないわけであって、地元の国民が大勢としてこれでも良い、概ね満足していると考えているのであれば、そんな統治の在り方を、外国が非難したり、まして気に入らないから打倒しようなどという企ては、極めて悪質で侵略的であって、これこそ19世紀の欧米がとっていた帝国主義とどこがどう違うのか、というそんな感覚もある。

その中国国民が北京政府に寄せる意識だが、下のデータが参考になるかもしれない。

Source: https://www.nber.org/system/files/working_papers/w23119/w23119.pdf

この表は『21世紀の資本』で高名になった、フランスの経済学者Thomas Pikettyも共著者の一人に入っているNBER Working Paper "GLOBAL INEQUALITY DYNAMICS: NEW FINDINGS FROM WID.WORLD"から引用している。

表をみると、

経済開放後の35年ほどの期間における中国国民の所得の推移を所得階層別の成長率でみると、確かにトップ10%層(現在の富裕層)は累計で10倍以上にまで所得を増やしている。その下の40%(中流階層)も8倍近く増えている。それに加えて、貧困層を含む半分以下の所得階層もまたこの間に所得は4倍程に増えている。1世代の間に所得が4倍に増えたのであれば、まず不満は高まらないはずだ。そして幸運に恵まれれば13倍にまでリッチになることも夢ではない、そんなロールモデルも出現した。日本にもかつてあった「高度成長時代」を35年間も続けてきた北京の中央政府に「打倒してやろう」と考える中国国民がいるだろうか、と。いないのが自然だろう、と。小生はこれがポイントだと思っている。

これに対して、アメリカでは同じ期間のTOP10成長率が累計で2倍ほどにとどまっている。注目するべきは半分以下のボトム50%層の所得がマイナスとなっている点であり、アメリカでは”Lower - Lower Middle"という所得階層が<相対的にも、絶対的にも>没落したわけである。アメリカの政治が不安定化している背景は正にここにあるわけで、同じ現象がいま日本でも進行しつつあるとすれば、日本の国内政治の基盤は経済的要因によって浸食されつつあると観るべきだろう。

この同じ期間にフランスは、すべての所得階層で安定した成長を実現している。日本のマスメディアや学界は、日頃はあまりフランスという民主主義国家の政策に注意を払っていないが、一体どんな統治をしているのか、日本人ももう少し海外事情に関心を高めた方が善いと思うし、フランスばかりではなく、広く海外への関心を呼び起こすようなそんな問題意識をマスコミもまた企画段階で持つべきであると、ますます感じているところだ。また、また最後は「ベキ論」になってしまったが、今日はホンノ一言ということで。


2021年11月25日木曜日

覚え書: SNSの場で誤った見解を「淘汰」するという件

いまさら「イノヴェーション」、「創造的破壊」と書いても、もう使い古された言葉になったせいか、 珍奇好みのTV局でも滅多に使われなくなった感がある ― というか、イノベーションならいいのだろうが、それを日本語に訳した「**破壊」という字面が、どうも日本人には受けない、と。そういうことじゃあないのかな、とは観ているのだ。ありのままの言葉の意味なのだが。

日本人という「国民」にとっての「最高善」とは、いまもって

和を以て、貴しとなす

聖徳太子が1400年以上も前に「憲法十七条」で唱えたこの一句ではないかと、小生は邪推しているのだ、な。Wikipediaには次のような第1条の解説がある:

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。

最近の日本の世相も、世論では「構造改革」などと声をあげているが、何だかんだ言っても、結局、ここに回帰している感がある。なので「競争」も「破壊」もホンネでは大嫌いである。今日の標題にある「淘汰」という二文字も嫌悪することハンパではないと(経験的に)感じている。

さて、

ずいぶん前の投稿でこんな事を書いたことがある:

・・・、個人による投稿は、明らかに犯罪行為を扇動するという反社会的意図に基づくものでない限り — これさえも民主化運動を支えるインフラにもなることを想えば慎重に判断するべきだが ― すべての投稿を原則自由にするのが本筋だ。間違った思想や見解は、SNSという場で淘汰していく。その淘汰のプロセスを視える化するというのもSNSという仕組みの一つの目的である ― 「淘汰」に手間取るならば、それが社会の現実を視える化したということでもあり、これまた直視するべき真実であろう。

ところが、こんな意見を公開の場に書くと、

何でも投稿してイイってことになると、軍国主義や徴兵令復活とか、そんなことを主張する人間が野放しになる。こんな投稿は禁止するべきだし、世間の目に触れればタタイテおかなければ、日本はどうなるか分かりませんヨ・・・ 炎上しても放っておけということですか?

こういう反応が十分想像されると思うのだ ― 少なくとも小生はそうなると面倒だナアと思う。

こんな論争は「論争」ではなく、所詮は「水掛け論」といえば水掛け論であるし、「堂々巡り」と言えば堂々巡りのレベルのヤリトリなのだが、近年の日本国内のメディア、ネットに現れる世情をみていると、日本人(と限ったわけでもないが)は「激論」、「論争」がホントに不得意で、普段は控えめであるのに、いざ自己の理念を主張し始めると「相互理解」などには一片の意も払わず、最後は手段を選ばず「一線を越えて」でも論敵を攻撃して勝とうとする、そんな「炎上状態」にたやすく移ってしまう例が余りに多い、ということだ。特に、日本のネット世界は同じYahoo!という場で日本とアメリカを比較しても、暴言や口撃が多数公開されていると感じているのだが、この辺り、何か共通の事実認識は形成されているのだろうか。

何か「独創的」な意見をネットで公表する人物が現れるとする。

そんな意見は多数の人々にとっては「想定外」で「非常識」の見方であるが故に、人々は驚き、その驚きの感情が世間では歓呼の嵐となるか、怒りと反発となって現れるか、それは誰にも分からないわけである。

それは何も単に「意見」にとどまらず、「新商品」、「新サービス」でも同じであって、つまり、イノベーションの成否は本来はランダムで予測不能、その中の成功例が記憶に残り、歴史になるわけで、残りはただ忘れられていくのが世の常ということだ。つまり、あるアイデアがあるとき、「反発する人が多数いるのではないか」と予想する場合には、様子を見たいという動機も生ずるので、頻繁に発生する炎上現象の背後には、巻き添えを嫌うリスク回避的な社会が形成される可能性が高い。これは「突出」をきらう保守的な世相がもたらす明らかな負の副作用である。

こんなことは、無数の人が指摘している事柄で、なにも「新奇性」はない。

しかし、「であれば」ということだが、「開き直り」かもしれないが、こうも思っているのだ、な。

「軍備拡張」、「徴兵令復活」・・・どんどんSNSの場で提案すればよい。「株式投資はリスクがあるという意味ではギャンブルだ」、「ギャンブルのどこが悪い」、その代わりに「配当・譲渡益に対する一律20%の分離課税は廃止」、「資産運用益に対する累進課税導入」・・・遠慮なく社会に発信すればよいと思う。というか、発信状況が実に貧弱である点にこそ、現代日本社会の最大の弱点が現れている。そう思うことが増えてきた。

先に提案した人物を非難するのは積極的であっても、先に提案することには慎重である。積極的であれば、提案にも批判にも積極的であり、消極的な人物は提案にも批判にも消極的である理屈だ。しかし、日本社会では提案をするときと、批判をするときとで、姿勢を変える傾向が増えている。その場、その場で態度を変えることが増えているのじゃあないか。これ即ち《機会主義》、《オポチュニスト》なのであって、よくいえば「賢い」、「戦略的」と言えるが、要するに「小賢しくて」、人物が小さいことの証拠である。気をつけなければいけない。剣呑、剣呑・・・

日本国も余りに「都会化」しすぎた、ついに「田舎」がなくなり、「都会的」であることの長所も短所も、ようやく目に見えるほどになった。こういうことじゃないかな、と思っている。


ついでに、

民放TV局のワイドショーが顰蹙をかっているのは、割り当てられた公共の電波を独占的に利用して、自らの意見・見解を一方的に放送しているからである。TV局はネットと一部融合しつつあるが、TV局は(許認可を得ているという意味では)「独占」が認められた営業体である点がネット参加者とは異型なのである。しかも、それを「企業」として展開している、という点で、実に不公平であり、戦後社会なら容認されたが現代日本社会では道理に合わないと意識される対象となりかかっている ― そう感じさせるような営業行動を自ら採っているところがあり、どこか”arrogant”である。

"Arrogant"かと思うと、どこかが"Servile"であって、なんだかよくは分からないが、一定の鋳型にはめられた発言をしている。特に、「報道番組」や「情報番組」をTV画面で視ていると、どこか自制をしている。こんな風に感じることが増えたが、ずっと以前はこうではなかった印象がある(この辺は何度か投稿済みである)。「報道」は「報道」、「解説」は「解説」、「娯楽」は「娯楽」と区分されていて、報道では事実、解説では意見、娯楽はフィクションと、制作目的の違いが明らかに意識されていた。

新聞も政治部記者が書く記事は「政治」欄に、経済は「経済」欄に、社会部ものは「三面」に編集されて掲載されている。TV番組も、「報道」、「解説」、「娯楽(エンターテインメント)」というカテゴリーを明示して、番組表を公表しておけばよいのではないだろうか。そのうえで、余計な「鋳型」などは蹴っ飛ばして主張するべき事は主張すればよい。それくらいは放送法に触れないだろう、と・・・

いや、いや・・・また、また余計なことを書き足してしまった。本日投稿の主旨は、標題のとおりだ。

2021年11月24日水曜日

断想: 相続税に関する矛盾の自覚

検索欄に《相続税》と入れてブログ内検索をかけると、意外に多くの投稿が網にかかってくる。これらを概観して分かるのは、小生がかなり強烈な「相続税100パーセント」論者であることだ ― 配偶者への遺贈分は100%と異なる例外措置があってもよいが。

例えば、昭和40年代後半に急拡大した日本の「社会保障」の結果として各世代の生涯収支に生じたアンバランスだが、恩恵を享受した旧世代が100%相続税でもって後世代からの借りを清算するのが道理であろうと、何度か書いていたりする。

さはさりながら、

相続税と直接の関連はないのだが

才ある息子は世に用いられるが故に遠く旅立ち

才なき息子は世に無用の人であるが故に親元にとどまり孝を為す

こんな文句を実感したりしているのも事実である。

実際、下の愚息夫婦は首都圏で充実した(?)職業生活を送っている。他方、上の愚息はもう10年ほども同一の職場ではあるが非正規就業者として、貧ではないもののギリギリの暮らしを続けている。人並みの教育投資は行ったので現状は概ね本人の選択だ。しかし、家計収支均等のためには宅に定期的に届く(例えば)株主優待券を譲ってやるなどが必要だ。100パーセントの相続税の下では、上の愚息は最終的に親の支援を失うことになる。

この予想が小生にとって悲しく感じるのは「情」のためである。自分で作った資産をどう処分するかは資産をつくった本人に権利があるはずだと考えたのは新自由主義者ハイエクであった。「兄弟で差が出ないように」と考える時、小生は相続税に関して新自由主義の立場に近くなる。

新自由主義は、政府権力の介入を嫌悪し、独立と自由を尊ぶ。これは必ずしも「強者の論理」と決めつけることもできない。社会主義は理想を追求するための強い公権力を受け入れる。公地公民はその究極的姿である。これまた「弱者の論理」であるとは限らないわけだ。故に、両者は対立している。

親の貧困が子の貧困を招く不平等は社会的不正義の最たるものの一つだ。この認識は道理だと思うし解決が必要だ。それはそうなのだが、何度も書いているように《社会》や《国家》は人間が設計した擬制的なものである。これに対して、血縁集団は生物的な単位として自然の中に実存する。擬制である「社会」を実存する「家族」より優先するのは文字通り不自然である。こう考える時、実は《情》によって考えている。

自分自身の相続に関する限りは新自由主義的な情により、他人の資産については道理に従って相続税100%を支持する。理から離れるのはバカの証拠だ。情を無視するのは人デナシだ。二つが混在するのは矛盾である。だとすると、世論がバカであったり、冷酷になったり、矛盾に満ちているのは当たり前である。


2021年11月22日月曜日

断想: 「老い」については誰も分かっていない、というのが真相だろう

「年齢による知識増大」というと経験主義ということになるか。が、言いたいことはそうではない。「知識」というと汎化可能情報のようでもあるが、そうではなくあくまでも個々人限りの主観的な理解ではあるが、たしかに「分かる」という意味では「知識」には違いないもののことだ。そんな知識は確かにあると思う。

それは例えば「60歳になったときの自分は30歳の時には全く分からなかった」、「それが実際に60歳になってみて初めて分かった」、「60歳の母が考えていたことが初めてピンときた」というような知識のことだ。もともと分からないのは周囲の他人の思惑なのだが、実は自分の事さえも分からないのが人間だと思っている。小生の場合はもっと迂闊で、30年前どころか10年前の自分でさえ今日の自分の価値観や、やりたいこと、考えていることなど、事前には何も想像できなかった。

現役世代が現役世代の目で引退世代について考えても、制度や形式はともかくとして、本質的には無理解のままであろう。

多くの人が賛成する(かもしれない)ことは、

老人は若い人を理解できなくとも邪魔はしないことだ

若い世代は、前の世代がそうであったように、現在の経済環境、生活環境の下で理にかなった最適化行動をとっている。その選択を正当化する理念や哲学を選ぶはずである。それは前の世代の選択とは異なるのが当たり前である。

理解できないのは、本当に理解できないわけではない。自分たちも前の世代に反抗して新しいやり方を押し通してきたのである。老人は若い時分の記憶があるので、若い頃にどんなことを願望したり、考えたりするかは、結構分かっている。いつの時代にも色々な人間はいたのだから。

反対に、

若い人は老人を理解できない。老人を理解できるのは老人のみである。

こちらの方が正しい。 若いうちはまだ齢を重ねていないのだから、真の意味で「老い」を理解できる理屈はない。

子は親が自分を理解していないという。これは十分に正確ではない。親は「子供」については理解している。子供であった時の感情を親は記憶しているものだ。幼い頃の心理構造は人類が人類である限り、そう大きくは変わらないはずだ ― でなければ、そもそも発達心理学などという学問分野が成立しなくなる。ただ<子供≠我が子>という一般対個別の話しがあるだけだ。反対に、子が親をどの程度理解しているかといえば、十分に成長するまでは理解できるはずがない。理解できていると思うのは、共感したり、想像できる、ということに過ぎない。

夏目漱石は49歳で亡くなった。だから、70歳になったときの自らの心境は想像するだけであった。その想像は想像でしかない。実際、『道草』には漱石の分身である主人公・健三の養父・島田がずいぶん齢をとった姿で出てくる。が、この作品を読んだ人なら感じると思うが、島田という人間を漱石はリアルに描写してはいない。ただ憐れをさそうばかりである。島田の先妻・御常も同じだ。漱石が描く老齢者が明確なイメージをもって記憶に残らないのは、書いた漱石が40代であり、老齢者の心がよくは分からなかったからだろう ― そもそも40代の人に年老いたときの心境が分かるはずはないのである。

バルザック『ゴリオ爺さん』もほぼ同じである。この作品はバルザック36歳の年に公表されている。読めばすぐに分かることだが、若いラスティニャックや怪人物ヴォートランがそこにいるかのような存在感をもって伝わってくる一方で、肝心のペール・ゴリオの人となりは齢をとった人物という以外、人間としての中身、充実感は希薄で、つくりが薄口である。これは「老い」という現象を若いバルザックが想像して書いているためである。よく分からないことにリアリティを与えることは天才であっても難しい。

村上春樹の作品に存在の厚みをもった老齢者は一人も登場していない(と思っている)。Kazuo Ishiguroの『日の名残り』にも『浮世の画家』にも初老の男性(と、昔の恋人である初老の女性)が出てくるが、いずれも「齢をとったらこんなことをするのだろうなあ・・・」と、比較的若い作家が老いた時の自分に想像される行動を語っているわけである。しかし、実際に人がそんな年齢になったときに若い時に想像していたような行動をとるかといえば、実際にはそんな気はもうなくなっている・・・。こんな確認を何度経験してきただろう。

「老い」という現象、「老人」という存在の実相がそのまま表現された文学作品は、実際に老齢になった作家でなければ書けないものである。が、しかし、実際に老齢になってから力作を書き続けた作家は稀である。永井荷風は死ぬ前日まで日記を書き続けたが、あくまでも日記であって、それも毎日毎日くりかえして

晴。正午大黒屋食事。

この短い言葉だけを単純にくりかえす日記であった。時に「晴」が「陰」になり、「大黒屋」と書く少し前までは「浅草」と書いていたが、傾向としては同じである。このことから、老人の心を読み取るというのは、直観としては様々読めるわけだが、無理というものである。


今日は核心を避けて、周囲を回りながら、書けることをまとめておいた。


書いた後、明日は月参りだから、お供えの花と菓子がいるので買い物に行くとカミさんが言うので、荷物持ちで一緒に外出した。途中、昨日まであった道の真ん中の穴が補修されているのに気が付いた。

カミさん: 綺麗になったね。大きな穴だったから・・・

小生: きのうまであった道の穴はどこにいったんだろう? それをみていた僕はどこにいったんだろう? 僕はいま穴が埋められたあとをみている。あのときの僕はどこにいったんだろう? って、こんな文句の詩があったなあ・・・誰のだったか忘れたけど。

カミさん: ふ~~ん

何だか感じる所があった様子だった。若い頃にはピンと来なかったのではないかネエ、そんな風に思った。




2021年11月18日木曜日

ホンノ一言: 18歳未満児童への給付金と960万円制約の件

18歳以下児童に対する給付に年収制限を付ける件だが、世帯主の年収ではなく、世帯合計年収を基準に制約を設けるべしという指摘、というか批判が増えている。

確かに正論だ。


しかし、世帯合計収入を確認するにはちょっとした計算作業が要るはずだ。

必要なデータはそろっている。税務データが基本になる。年末調整と確定申告、その他一定金額以上の金銭取引が市町村には届けられているはずだ。

ただ、年末調整や確定申告データは個人ベースである。世帯構成は住民登録基本台帳データを参照しなければならない。世帯ベースの年収を得るには税務データと住民登録基本台帳データとマージしたうえで各世帯員の収入金額を合計して世帯収入を得るという作業になる。マージのためのキーはマイナンバーを使用するしかない。税務データでは、その世帯に18歳以下の児童がいるかどうかも分からない―いやっ・・「配偶者や親族に関する事項」を申告するから分かる事は分かりますな。それに配偶者特別控除との関連で年末調整には配偶者の年間収入を記入欄も(確か)あったわな。これを参照するってことかネエ・・・。何だか雑だと思うのだが。

税務データと住民登録基本台帳データは所管も違うし別々のデータベースで管理されているかもしれないが、それでも簡単なSQLコードでマージ作業は容易であるはずだ。ただ、本当にマージできるデータベースになっているのだろうか?地方の小さな市町村役場に必要なスキルをもった職員がいるのだろうか?マイナンバーはカード発行の有無にかかわらず全国民に付与されているのでデータベースにアクセスさえできれば、マージのためのキーとして使える。が、この作業にマイナンバーを使用しても可なのだろうか?マイナンバーの目的外使用には当たらないのだろうか?同じような問題は昨年の定額給付金でも発生していた記憶がある。


細かい点で問題が出て来て、ヤッサモッサしながら、時間ばかりが過ぎるというのでは、また再び内閣支持率が暴落すること必至だ。どんな隠れた問題があるのか、官僚ですら分からない状況になっているとすれば、もう日本の行政システムはブラックボックスそのものだ。


全国の1741市町村すべてで作業が完了するのが、来年の夏ごろになったというのでは、給付金の意味がないだろう。

理想からは遠く文句はあっても、確実に給付できる仕組みがあるなら、それを使うしかないのかもしれない。

安全第一。ここは手堅く確実に、ということだろう。


・・・年収制限をつけるとしても9割はカバーされるという。ほぼ全員である。敢えて年収制限を付けて、その制限の仕方がおかしいというので批判されるなら、いっそ「ばらまき批判」を覚悟して一律に給付してもよかったのではないか・・・そう思われます。

***

と、ここまで書いて来た段階でカミさんがこんなことを言った:

カミさん: なにかサア、世帯主と配偶者の高いほうの収入が960万円以下にするって方法にもできるんだって。そうすれば、条件は厳しくなるよネ。やっぱりご主人と奥さんの両方の収入を市町村は知ってるんだよ。なら、合計も出せるんじゃない?

小生: ふ~ん、児童手当の申請時に世帯員の収入はすべて書かせてるのかなあ・・・?でも、すべての市町村でそのように聞いているかどうかは分からんなあ。

まあ、児童手当の申請時に収入を聞いているのかもしれないが、そのとき何か証明になるような書類、例えば源泉徴収票とか確定申告書の写しなどを添付しているのだろうか?

分からぬ。ホント、分からないことだらけだネエ、ということでカミさんとの話はひとまず終わった。


2021年11月16日火曜日

ホンノ一言: COP26だが、これが正論だと思える

 Wall Street Journal(日本語版)も伝えているように、

英グラスゴーで開かれていた第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)は、ほとんど成果のないまま13日に閉幕した。

最終盤ぎりぎりのタイミングになって、インド(と中国)の異論が入り、石炭火力の「段階的廃止」ですら「段階的削減」にトーンダウンされたのだから、「ほとんど成果なし」と評されるのは当たり前で、ジョンソン英首相のように「石炭火力廃止へ第一歩を踏み出した」と表現するのは、ほとんどフェイクであると思う。 

とはいえ、小生にはWSJ紙の以下の認識がリアリティをより正確に理解した正論だと思われる。

気候対策のエリートたちは、経済のより多くの分野を自分たちの政治的コントロール下に誘導することによってのみ、気候変動による災害は回避可能だと人々に信じさせようとしている。そして、「グリーンのネバーランド(おとぎ話の世界)」に向けて飛び出すにあたり、人々はエネルギー費用の上昇とエネルギー不足というコストを支払うことになる。この選択肢が率直に提示されれば、欧米の有権者は必ず「ノー」と言うだろう。

 だからこそ、欧米の気候対策推進派は資金配分と化石燃料生産者の圧迫のために金融規制という密かな強制措置を使いたがるのだ。これは一部に弊害をもたらすだけで、世界の気温に影響を及ぼすことは全くないだろう。

 さらに言えば、グラスゴーの会議で起きた他のことも影響を及ぼすことはないだろう。重要なのは、新たな技術の研究、気候変動の不確実な影響への対応策の採用、そして不確実な未来にうまく対応するために世界がより豊かに成長するかどうかである。

Source: Wall Street Journal,  By The Editorial Board ,2021 年 11 月 15 日 13:34 JST

URL: https://jp.wsj.com/articles/glasgows-climate-of-unreality-11636948774?mod=hp_opin_pos_2


環境問題、気候問題は既に科学の次元を超えてしまっている。産業構造を政治的権力を通して転換させようとする勢力とその勢力に敵対する勢力との覇権闘争になっている。

外観は政策論争、中身は覇権闘争であるという点では、現在の気候問題、環境問題は、19世紀初めのイギリスで「穀物法」をめぐる一大論争となった「自由貿易 vs 保護貿易」論争を連想させる。

当時のイギリスでは、自由貿易論が保護貿易論を押さえ、社会の覇権は大地主から工場経営者へとシフトしていき、19世紀のPax Britanicaを築くうえでの分岐点ともなったのだが、そもそも経済理論に忠実に考えれば、産業構造の転換、資源配分の最適化は、国際会議や国会の議決など政治権力の介入によってではなく、市場メカニズムと価格が果たす役割を基本にして進める方が得策である、というのが一般的な結論である。それは昔も今も(基本的には)同じである。

***

具体的に「市場の失敗」が確認されていないなら、市場の失敗よりは「政府の失敗」をより恐れるべきであろう。政府の失敗というより「政治の失敗」と書く方がもっと適切だ。有害な開業規制や許認可、価格統制がないかどうか? 更に、市場の機能を阻害する独占的支配力、寡占企業による優越的地位の濫用がないかどうか? 独占禁止行政は適切に展開されているか? これらの検証の方が目的達成にはずっと近道である。要するに、公的に認められた《既得権益》が将来性豊かな経済活動の障害になっていないかどうか、ここを先に検証することの重要性が非常に高い、ということだ。

というより、

《既得権益》が将来性豊かな経済活動の障害になっていないかどうか

というこの点の判断自体が多分野の専門家の意見が対立する中では難しい。故に、まずは自由な参入・撤退を保証したうえで、発生する問題の解決に政治は専念する方がよい。つまり、既得権益を守っている規制を撤廃することの重要性は、いつの時代でも意義のあることで、まず第一に(というか、むしろ、常に)検討しなければならないことだ。 環境とエネルギー分野でもこの原則を通すほうがよい。

エネルギー市場に関連した現在の「気候変動論争」は、19世紀の「穀物法論争」のような「自由vs規制」の戦いというより、「従来の規制vs新しい規制」の戦いといえる。規制をどうするかの戦い、つまり既得権益層をひっくり返して新たな既得権益を狙う勢力が挑戦しているわけであって、その新勢力の根拠が気候変動予測理論という構造になっている。科学が政治にリンクしている点は、まさに原水爆を開発した物理学の進展の歴史とウリ二つではないか。

「気候変動枠組み条約」というのはこの辺が極めてウサン臭い、といえるわけだ。

***

さて、

市場が失敗するケースというのは、一般理論として、もう整理され切っていることで判断は容易である。それより、ずっと昔に導入された規制、その規制に基づく既得権益が、いまでも公益に沿っているのか否かのほうが、よほど難しい判断なのである。だから、一定期間が過ぎれば、規制は自動的に撤廃される、すべての規制を時限的なものにする、こんなサンセット方式こそ本当は望ましい。

9電力会社(沖縄を含めれば10電力会社)の地域独占も見直さなければならないし、電力価格の設定も見直さなければなるまい。もちろん原発経営の在り方も見直しが必要だ。再エネ電力の固定価格買い取り制度も当然ながら見直さなければならない。《規制》は必ず見直すというルールにしておけば既得権益の拡大も予防できるわけだ。

《気候変動とエネルギー》の将来構想などは、やるべきことをやったその後の議論であろう。


どれほど人々の理念や価値観に合致するように見えても、「計画経済」は必ず非効率の温床となり、最初に目指していた目的を達成するうえにおいてすら、「市場経済」に劣後することは、すでにソ連の壮大な失敗から学んだ教訓だろう。というより、一般的命題が確認済みであるとみるのが正しい。単なる言葉は「踊る言葉」に過ぎず、舞台俳優にふさわしい芸事であるわけで、言葉が力をもつためには現実に問題を解決できるだけの中身をもっていなければならない。

$\textrm{CO}_2$排出については、The New York Times紙の以下の記事も参考になる―ほかにも同紙には関連記事が多く掲載されている。

● Who Has The Most Historical Responsibility for Climate Change?


2021年11月14日日曜日

覚え書き: 日本のエネルギー計画、ホントどうするのだろうね?

日本経済新聞WEB版では英誌The Economistからメインイシューを抜粋して日本語訳で掲載しているのだが、最近、気になったものを覚え書きまでに残しておきたい。少し長いが抜粋で引用する:

単一通貨ユーロ、国境審査なしで欧州連合(EU)域内を行き来できるシェンゲン協定、EUの"国歌"となったベートーベンの「歓喜の歌」、バターの山を生んだEUの農業政策、EU創設を定めたマーストリヒト条約。これらが登場する前から欧州を結びつけてきたのは原子力だ。

EUではフランスを中心に原発を推進する動きが復活、ドイツもその流れは変えられそうにないという(フランス西部シボーで稼働する原発)=ロイター

コニャックの営業マンから政治家に転身し、EU創設の父となったジャン・モネは「原子力の平和利用は欧州統合の原動力になるだろう」と書き記した。欧州統合は、何よりもまず原子力を推進するためのプロジェクトだった。

1957年、欧州6カ国はEUの前身、欧州経済共同体(EEC)を設立するためのローマ条約に調印した。同時にこの条約によって、あまり知られていない各国の原子力発電セクターを監督する組織「欧州原子力共同体(ユーラトム)」も創設した。当時、共通市場という構想はまだ漠然としていたが、原子力エネルギーが持つ可能性は明らかだった。

(中略)

EUが原発を「環境に優しい」とすれば補助金の対象に

EUでは今、天然ガスの火力発電を巡っても原発と似た議論が起きている。ガスの火力発電を支持する向きは、CO2を発生させても石炭火力よりクリーンだと主張する。だが原発は賛成でもガスの火力発電には反対という加盟国もあれば、その逆の国も、両方に反対する国も、両方を必要とする国もある。

本来、原発とガスの火力発電は別問題だ。だが各国政府と最終承認を下す欧州議会の議員らの頭の中では、この2つは深く結びついている。様々なグループの利害が複雑に絡み合うため、到達する妥協案は誰にとっても満足のいくものにはならないだろう。

原発を巡る政治や天然ガスを巡る政治が絡み合う以上、政策はその影響を受ける。同じように激しい論争を巻き起こしている歳出を巡る規制改革に関する議論をみるといい。現状では、日常的な支出については厳格なルールを維持する一方で、低炭素社会への移行を目的とした支出については、各国に柔軟な対応を認めるという妥協案に至る可能性が高い。

その場合、EUとして民間部門の原発を環境に優しいと位置づけると、原発への補助金等の財政出動も認めざるをえなくなる。そうなるとドイツの有権者は、ライン川を挟んだ隣国フランスが自分たちが危険だと考える原発に多額の資金を投じるのを傍観するしかなくなる可能性がある。

EUのあらゆる機関は政治と無関係ではいられない。原発がクリーンか否かを最初に判断する欧州委員会は建前上、専門家としての立場から問題に答える公務員集団だ。だが、委員たちは現実には原発が極めて政治的テーマであることを知っている。

そのため彼らは、ドイツで強硬な反原発である緑の党を含む新連立政権が発足する前に解答を出しておいた方がよいとも認識している。メルケル首相が退任する前に何らかの妥協案をみつけられれば、それは彼女のさらなる功績となるし、連立政権の一翼を担うことになる緑の党も、前政権が決めた既成事実だからもはや自分たちは何もできないと責任を負わなくてよくなる。選択肢の中から最もひどくないものを選ぶのが官僚であり政治家だ。中世の政治思想家でフィレンツェ共和国の公務員でもあったマキャベリもそうだった。

今後EUは原発を一体となって推進

原子力政策は、問題がエネルギー確保だろうが環境保護、または経済であろうがEUが運命共同体であることを再認識させる。最もクリーンなエネルギーしか使っていないと胸を張る加盟国も、域内エネルギー市場の統合が進めば、議論を呼ぶエネルギーに依存せざるを得ない国から恩恵を受けることになる。

EUという巨大組織はますます均質化し、独自路線を歩みたい加盟国にとって、その余地は減りつつある。集団で下した決定である以上、加盟国はそれに縛られる。

モネは「加盟各国がバラバラに原子力政策を追求すれば混乱を招くことになる」と書いた。EUの原子力政策は反対する国があっても一体となって進めていくことになるということだ。

Source:日本経済新聞、2021年11月2日 0:00

Original: The Economist Newspaper Limited. October 30, 2021 All rights reserved.

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB310JX0R31C21A0000000/


コロナ禍に対する対応でも、EUはジグザグ状態を続けるにしても政府は本気で政策を実行し、反対する住民は本気で反対デモを展開した。どちらも当事者としての自分自身の意志を行動に表していた。

日本では、政府も国民もマスメディアも、簡単にいえば<言いっぱなし>、<口先>だけの側面が結構あった模様で、この「模様」という言葉が日本社会を理解する結構大事なキーワードでもあるようで、全体としては真面目な日本人が、この一年余り、自分に出来る理にかなった行動を自らとっていた、と。それで、結果としては、望ましい状況にいま到達している。どうもそんな印象なのである。砂粒のような一人一人の日本人のローカルな合理性が集積されて、日本社会の最適性を実現した、とまあこんな風に理解しているのだ、な。この辺が、どこかヨーロッパともアメリカ、というか中国とも韓国ともロシア等々とも違っている。

自分から言うのも変だが

ほんと、日本という国は不思議な意思決定をする国だ

私的合理性と集団合理性とが矛盾しない状況下では、ほんとうに日本人の<強み>というのが十全に発揮される。


ただ、《原発をどうする》という極めて根源的なイシューについては、何となくの「国民の風」では現状維持が続くばかりである。

ほんと、どうするつもりなんだろうね?

そう感じられる課題の一つが、日本のエネルギー計画だろう。

そもそも日本全体で電力が足らないと心配している状況で、カーボンフリーとか、ガソリンを積んだHVでもPHVでもなく、電気だけで走るEVを増やしていくなど、大体が無理な相談だろうと思うが、議論する時間は残されているのだろうか?

ドイツは綺麗ごとを言っているが、いざとなればフランスから原発エネルギーを安価に輸入する裏口ルートを確保したうえで言っているわけである。日本で同じことをやるなら、中国を含めた東アジアで例えば「エネルギー取引機構」(?)なる仕掛けを構築し、そのためのインフラも整備しなければ、日本の国内産業は心配で仕方がないと予想されるが、そんな方向が水面下で進んでいるなど、まったく聞いたことがない。産業が破綻すれば、日本人は大量に失業するはずで、その日の飯にも困るわけである。

先の見えない不透明な社会状況を生き抜くことにかけては大陸欧州は実にタフである。歴史を通して豊富な経験がある。政府が集団合理性の観点にたって個人の自由を押さえることも辞さない覚悟がある。それでもヨーロッパは民主主義なのである。反対に、日本の民主主義は輸入文化である。なので、建て前や形式にこだわる。手本にできるだけ忠実であろうと欲するのは、日本人が基礎理論に厳格だからというより、自信がないためである。不透明なワインディングロードを霧の中で走るような時代では、個々人の私的合理性と社会全体の集団合理性が矛盾する状態が多々発生する。そんなとき、日本は諸外国の行動を目で見て付いていく風な意思決定しかできなくなる。これではいわゆる「負け組」になるのは必然であろう。

ほんと、どうなるのだろうね?

日本人は、いつ本気になるのだろうね? 

こんな思いにかられる今日この頃であります。

2021年11月12日金曜日

ホンノ一言: デジタル化とマイナンバーカードを一緒くたにしちゃあダメでしょう

日本人が新しい物事に対していかなる警戒感をもつかは、既に多くの人が見たり聞いたりしているところだろう。いま流行の「デジタル化」、「マイナンバーカードとマイナポイント」についてもそうである。

今朝もうちのカミさんが贔屓にしているワイドショーを朝食をとりながら視たのだが、テーマはそのマイナンバーカード、さらにはデジタル化自体が善いのか悪いのか、ということだった。そして、その旧弊な発想と感覚に唖然とさせられたのは、常と変わらない、同じ調子であったのだ、な。出演者はみんな小生よりは若いはずだけどネエ・・・何ゆえにこれほどに慎重なのであろうと感じ入ること、しきり也。

小生: これってサ、運転免許をとりたいって言い出した息子に向かってさ、『そりゃあ、車が運転できれば便利だろうよ。しかしナ、運転している限り事故を起こす可能性はある、少なくとも確率はゼロじゃない、《最悪の場合》は、お前、死ぬことだってありうるんだぞ。親に先立って子が死ぬのは最大の不孝という。そんな覚悟はあるんだろうな!・・・』ってさ、こんなことを言う父親がいれば、誰だって呆れかえるんじゃないのかね?

カミさん: それは極端だよ。マイナンバーカードをもてば、個人情報が洩れるんじゃないかって話をしているんだから。

小生: 漏れることを心配するなら、マイナンバーカードじゃなくて、一人一人に番号をつけるナンバー制度そのものが危ないって、そう反対しないとダメだよ。大体、こないだも配偶者が公的年金をもらい始めましたかって照会が来たんだけどさ、そんなことは当の政府が知っているはずだヨ。それを俺に聞くか、お前が分かってるだろ、まあ、そういうことだよ。

ヤレヤレ・・・、

最悪の場合を考えて、政策は考えられるべきなんですよ

最近、何度も耳にするこの言葉を、単純かつ機械的に理解している人たちの何と多い事だろう。「最悪の場合」を考えるべきなら、地球に巨大隕石が落下する時の巨大津波、落下はしないまでも空中で爆発して熱核爆弾に匹敵する炎熱地獄が現出するというリスクに備えておくべきである・・・そんな理屈になるだろう。


マイナンバーは個人ごとに付与されるという意味で、極めて個人主義的な制度発想である。何ごとも個人が基本単位となる欧米ではシックリくる行政インフラだが、ここ日本ではまだまだ家族単位、世帯単位で納税、保険料納付、等々、色々な行政手続きが世帯単位で進められている所が多く残されている。それが自然だと日本人の大半が受け入れている。だから、世帯主は行政の非効率に苛立って、マイナンバーがあるんだからこんな書類記入なんか押し付けて来るなよ、鬱陶しい・・・と、こんな風な気持ちになっているとしても、その他の世帯員はマイナンバーカードって使わないよネエ、などと嘯いているわけだ。『使うよ!もしe-Taxがないと、それこそ面倒なんだよ』と強調しても、ある人の雑用にもたれかかっている世帯員はその面倒がピンと来ないのである。ここを個人単位の行政に変えていく必要があるとは感じている。

小生: このTV番組もそうなんだけどね。マイナンバーとマイナンバーカードを一緒くたにして話しているけどサ、デジタル化とマイナンバーカードはまったく別の話しだよ。完全デジタル化にカードなんて物は要らないんだよ。カードなんてものがあるから失くしたらどうしようって心配なのサ。カードなんて作らず、マイナンバーサービスを受けたい人はスマホにアプリをインストールすればいい、こんな方式でもいいんだヨ。アプリがなければ、保険証は保険証、免許証は免許証、銀行は銀行に行って、保険会社は保険会社でそれぞれ書類を取り寄せて、記入して、返送すれば手続き出来るようにすればいいんだよ。ヒトの手をわずらわせる分、コストがかかるから手続き費用は割高になるだろうけど、カネを払えば古いシステムが利用できるようにすればいい。これで安心できる人にとっては安心料ってわけだナ。一方、マイナンバー・アプリを利用してサービスサイトに指紋認証か、顔認証でログインすれば、何でも一発で済む。人は介在しないからランニングコストはほぼゼロ。投資コストは株主が負担。だから一般ユーザーは手続き無料。これがイイって考える人も多いはずだよ。となれば、そう出来るインフラをつくればいい。国際環境を考えるとそんなインフラを稼働させるべき時代になってきた。ガラパゴスはいかん。多分、日本ではそうなるのじゃないかなあとは思ってるんだ。何でも、日本は古いものが残るお国柄だからネ。「二重構造」の文化は日本社会の特徴でもあるんだヨ。

つまりは番組編集を担当するプロデューサーの感性、知的レベル、社会観に帰することなのだろう — いわゆる「社会常識」は、職業柄、十分なのだろうが。

 

デジタル化は急務である。世界で出来ていることが日本で出来ないことの方が大問題である。それを問題にしてTV、新聞で主題にしなければマスメディアの怠慢だろう。しかし、マイナンバーカードは、ちょうど副反応が怖いワクチン接種と同じで、不便でもいいから安心をしたい、そう願う人がいれば『利用しない権利』もまた受け入れる社会のほうが器が大きいというものだ。

2021年11月8日月曜日

ホンノ一言の断想: 「憲法改正」が望ましいのは勿論だが、もはや実行困難だろう

総選挙で護憲派リベラルが退潮した流れで予想すれば、今後は憲法改正論議が本格的に盛んになってきそうである。コロナ禍、というかパンデミックにおける緊急事態対応のこともあるから猶更だ。

しかし、実際には憲法改正案を国会で発議することすら、もやは集約は困難であると感じるし、ましてやその発議を経て国民投票にかけるとしても、それで日本人全体で了解されるような憲法改正を行うということは、それまでに必要な国内政治的エネルギーの巨大さを想像すると、ここ日本においてはもはや不可能に近いのではないかと感じる。

そもそも何十年も前に起案した成文憲法の文言などは、長い時間がたてば現実に即応しなくなることは当たり前であって、個別的に非現実的になった条項から適当な時期に改正を加えるというのは当たり前の立法努力である。憲法を時代の荒波の中で鍛える作業を怠るような立法府はそれだけで立法府失格だと思われる。なるほど民定憲法で主権は国民にある。だからと言って、国民(の中の誰なのか分からないが)自らが現行憲法の第△△条は現実とマッチしなくなったと判断し、具体的な修正案について世論を自発的に形成する状況というのは、本当にこんな社会状況がやって来るのかどうか怪しいし、それが善いこととも(小生には)思えない ― マ、本当にこんなことが起こりうるなら、日本人の自己革新能力も大したものだが。現実的には、国民の代表である立法府において、憲法と現実との乖離について常に注意を払い、必要なら議論を実行へと進めるのが、望ましい方法だろう。

実際、欧米では第2次大戦後に限っても頻繁に憲法改正が行われてきた。国会図書館が2014年に編集したある資料によれば以下のようになっている:

1945 年の第二次世界大戦終結から 2014 年 3 月に至るまで、アメリカは 6 回、カナダは 1867 年憲法法が 17 回、1982 年憲法法が 2 回、フランスは 27 回(新憲法制定を含む。)、ドイツは 59 回、イタリアは 15 回、オーストラリアは 5回、中国は 9 回(新憲法制定を含む。)、韓国は 9 回(新憲法制定を含む。)の憲法改正をそれぞれ行った。 

諸外国では適宜行われてきた改憲が日本では一度も行われて来なかったわけである。この違いは結構本質的な何かを伝えているのだと思う。 

***

日本で憲法を改正することが実際に出来るのか?頭を冷やしてよく熟考して見れば誰でもすぐに分かることだ。

日本では、財政経済上の政策ツールに過ぎない「消費税率」一つをとっても、上げる議論をスタートさせてから実際に上げるまでに数年はかかるお国柄である。一度上げた税率を経済状況の変化に対応して下げるという決定も、状況によっては十分高い確率でありうるはずなのだが、これが日本では極めて難しい。いまコロナ禍による混乱が終盤にさしかかっているが、これまでにも消費税率を下げるということが真剣に検討されてきたかといえば、おそらく検討などはされなかったのではないか。それは一度下げれば、再び上げるのが、日本では極めて困難なためである。

憲法改正は、単なる消費税率変更をはるかに上回る本質的な変更である。これだけでも改憲が実行困難であることは分かる。

***

しかし、何かの国際環境上の激変、経済状況上の激変、国民意識の大きな変化などが契機となって、いよいよ憲法を改正しようという機運になってきたとする。

しかし、それでも現行憲法のどの部分を修正するのか?

多分、憲法9条や緊急事態対応ばかりではすまない。最近の進展をみれば、第1章の天皇の地位についても何らかの文言変更が望ましいという議論があるかもしれない。そもそも第1章に天皇を規定していること自体、その前身である大日本帝国憲法の余光であることは確実で、事後的な結果はどうであれ日本は《国体護持》を最小限の大前提としてポツダム宣言を受け入れたのである。

ほかにも地方自治、基本的人権の具体的表現、第25条の生存権をどう表現するか、財政均衡と納税の義務との関係などまで含めれば、改憲にあたって要検討箇所は余りにも多い。多いというより、増え過ぎた感がある。「改憲」という作業に乗る話しなのだろうか?

***

これらを一挙に憲法改正案として発議し、国民投票にかけるのは、個人的な山勘に過ぎないが、国内政治的にはきわめてまずいと思われる。

どんな改憲に際しても論点を明確にするべきだと思う。

かといって、問題点は増え過ぎた。これを何段階にも分けて、憲法改正案を逐次進めるという方式は、憲法の権威を考えると、とるべき道ではないだろう。

どうなっていくか、先の読めない憲法というのは、もやは憲法の名に値しないだろう。


つまり、もうこの日本において日本国憲法を改正するというのは、作業としては行えるし、議論もできるのだが、実際行うとなれば余りにも問題が膨らみすぎ、改憲案を結論として得るのは不可能に近くなっていると小生は思う。

要するに、日本はこれまでに行うべき憲法の修正を(どういう理由でか)国民感情として避けてきたが故に、もやは修正を行うことが極めて困難な状態に陥ってしまった。修正をしたくとも、どことどこを、どんな順序で、どんな風に修正すればよいのかが、整理できない。そんな状態に進んでいるのではないか、と。

政治学的にこれと似た状態に陥った国がかつてあったかどうかは知らないが、こういうことじゃないかと現状を理解している。こうした意味でも、日本が歩んだ《戦後76年》という歴史は《ほかに選択肢のない一本道》であった。「であった」というよりは、日本人全体が「一本道であると思い込んで歩いて来た」、長くもない戦後史をいまこんな風にみているところだ。

「一本道であると思い込んでいた」という点では、アメリカを相手に開戦した太平洋戦争直前の時点における日本人も、やはりそうであったのではないだろうかと思ったりする昨今である。

2021年11月4日木曜日

断想: 韓流ドラマから「違い」の理解について考える

日本でも「医療ドラマ」といえば高視聴率が期待できるテーマだ。『ドクターX』や『医龍』、Dr.コトー診療所』、『JIN-仁-』は傑作だと思うし、小生は視ていないが『コードブルー』も品質はかなり高いのだろう。それに『白い巨塔』は医療モノを超える古典として言葉自体が常套句になってしまった。

いま、カミさんがいきつけの美容師サンに教わったというので、韓流ドラマ『浪漫ドクター キム・サブ』を観ている。既にシリーズ1を見終わって、シリーズ2の中盤にさしかかっているところだ。


確かに面白い。そして、その面白さはやはり韓流ドラマに共通した面白さである。具体的にいえば、味付けが濃厚である。つまり「濃い味」で、かつ極端だ。日本の作品は韓流に比べると、ある意味「薄味」である。薄味好みの映画好きの日本人がみると、韓国の作品は「ムツコイ」と感じるかもしれない。その違いは、料理の世界と共通した違いかもしれない。

ドラマは言葉と映像が素材であるが、味付けが濃いと感じる一つのポイントとしては、言葉使い(といっても字幕を通した印象なのだが)がある。ハッキリ言えるのは、韓流の作品は人間同士の会話が率直である。というより、言い方がきつい。つかう言葉がストレートである度合いはアメリカ映画以上かもしれない。日本人のシナリオライターなら、ずっと間接的で、婉曲かつ繊細、時に「腹芸」も織り込んで会話を進めるだろう。だから、日本流の物言いを好む人が韓流の作品をみると、登場人物がいつも喧嘩をしていると感じるだろう。言葉ばかりではない。その人その人の違いはあるが、概して韓流ドラマの登場人物は表情の変化が豊かである。それに対して、日本のドラマ作品では、むしろ抑えた表情で心を伝える場面に視る人は共感することが多い — ただし、この辺はごく最近では日韓の違いが小さくなっているかもしれない。また、韓流では舌打ちをする頻度も多いが、日本の作品ではその種のボディ・ランゲッジは好まれないようだ。声をあげて相手を罵倒するシーンは韓流ならではだが、日本人なら逆に声をおさえて怒りを表現するのではないか。さらに映像、というかドラマを絵として観た場合も、韓流の作品は動きが激しくダイナミックであるのに対して、日本の作品は動きを最小限に排した静的で構図に凝った絵作りが多いように感じる。他にも違いをあげることは楽しい作業に違いない。

これらを総合した結果として、韓流ファンは『日本の作品よりコクも迫力もある』と感じるのだろうし、アンチ韓流は『品がないし、全体のつくりがドギツイ』と辟易するのだろう。

このような感覚の違いは、よく言えば美的感覚の違いにもつながるものだが、身の回りでいえば味覚の違い、香りの好みの違いに似ている違いである。


日本人の感覚で韓国に向かって、

こんな言われ方はないし、一方的で感情的、言い放題で言いがかりというものだし、そもそも怒鳴られるほどのことか

などと怒るべきではないし、反対に韓国人から日本に向かって

考えている事と話す言葉がいつも食い違うし、そもそも何を言いたいか分からんし、というかチャンと言わないし、何かをいつも隠している感じがする

などと悪感情を持つとすれば、それは感性の違いのなせる印象にすぎない。


日本国内でも、関東と関西の違い、県民性の違いは歴然としてある(と言われている)。小生も元々の育ちは関西、というか関西文化圏の四国であるが、東国・伊豆に転居したときは、食べなれた魚がない、サンマは口に合わん、味付けが違う、醤油がから過ぎる、味噌が辛過ぎる、言葉が早口で乱暴だ等々、両親が何度も何度も話していたことを覚えている。育った地域による県民性の違いは、どちらが正しいかを議論しても、否定には否定で応じるだけのことであって、まったく不毛に終わる。

個性の違いは、当然、あるものだ

と思って、あとは現実のあり方に順応していくことだけが、とりうる途だろう。これが《理解する》という行為だ。

問題解決の前には必ず「理解」があり、戦争の前段階には必ず「無理解」がある。感性も大事だが、世間を円満に運営するには理解力がはるかに重要だ。


この「理解力」が、日本国内でも最近は衰えてきた、というか「善いこと」として評価されづらくなってきている。同じ日本人が他の日本人のことを理解しようという熱意、というか誠意が、どの程度まであるのだろうか、と。そう疑うことが近年とみに増えてきた。

理解なんてことを強要されず、自由であるのが、すなわち多様化である

こんな風に<理解>されるとしたら、「個人の尊重」などという綺麗ごとにはならず、むしろ予想されるのは「見解の相違」が「断絶」となり、さらには「対立・闘争・解体」となり、弱肉強食の「自然状態」に社会が原点回帰していくのは、まず間違いないところだと思っている。

市場ディシプリンにせよ、競争メカニズムにせよ、市場価格へのリスペクトにせよ、原理主義的に上から下へ自由主義を押し付ける前に、なぜそのシステムがよいのかという点について、参加者、つまり国民がよく理解しておくことは不可欠の大前提である。ごく平均的な視聴者を想定しているTV番組やメディア報道の伝え振りをみているとそう感じる。

2021年11月2日火曜日

ホンノ一言: 日本の「お家芸」である「周回遅れ」は日本のリベラル勢力も同じだろう

選挙はやってみないと分からない。故に、政界の一寸先は闇ということなのだろう ― 一寸先が闇であるのは、政界ばかりではなく、ビジネスもそうであるし、日常生活もそうだし、そもそも人生自体が一寸先は闇なのだが。

自民党は議席を減らしたにもかかわらず、負けではなかったと安堵している様子である。逆に、立憲民主党は共産党と連携した野党一本化が功を奏して、自民党の現職幹事長を小選挙区で降すほどの成果をあげたにも拘わらず、敗北感に襲われているようだ。小選挙区では手ごたえがあったが、比例代表で大きく議席を奪われ、結果として党全体の勢力が減ってしまったからである。要するに、比例代表投票で「立憲民主党」と書く有権者が減ってしまったということだ。

そればかりではない。立憲民主党の議席が全体として減る中で、共産党の支援を受けて当選した小選挙区選出議員が党内で増えるという結果になった。共産党の支援によって当選したこれらの議員達は、今後も共産党の支援を受けるのが望ましいと考えるはずだ。いま立憲民主党内では、今回の敗北を招いた枝野代表の責任を問う声が高まっていると報道され、さらに共産党との共闘路線も見直されるのではないかと伝えられている。しかしながら、そんな簡単な話で終わるとは思えない。

短く要約すると、小選挙区で成果をあげたのは共産党のお陰、比例代表では立憲民主党の勢力が大きく後退した。これが同党の現状だ。

小選挙区選出議員の<格付け>が比例代表選出議員よりも高く評価されるという<政界の常識>が効力をもっているのだとする。であれば、共産党の支援は今後も必要であると主張する同党内の党内世論は、これまでとは違って相当強くなると想像される。この事実は重い。立憲民主党は後戻りができない意思決定を既にしてしまったと言うべきだ。まさに一期一会。素人の縁台将棋じゃあるまいし「ちょと待った」はないのだ。立憲民主党は共産党の色合いにもう染まり始めているというべきだろう。出来てしまった縁を自由自在に切ったり、また繋いだりできる道理はない。

立憲民主党の路線闘争、というより迷走は結構長引くのではないかと予想する。来夏の参院選までに路線転換を円満に完了するのは極めて難しいのではないか。


こうした逆境は、発想を転換せよというメッセージだと小生は考えることにしている。

災い転じて、福となす

こんな諺もあるではないか。


立憲民主党内の紛糾と共産党との共闘路線再検討の流れは、日本共産党という政党にとっては《最後のチャンス》になるだろう。

もし日本共産党が党創設以来の《綱領》を見直し、21世紀の現代的状況に即応した「社会民主主義政党」として党自身を再構築するという方針を明らかにし、党名もまた新たな理念にふさわしい新しい名称に改名すると公表すれば、その強固な組織力が強みとなり、日本のリベラル勢力が結集するための核になるのは間違いないところだ。

歴史あるフランス共産党は既に党内改革を終え、今は多様な理念を包含する左翼政党の一つに姿を変えている。同じく、老舗・共産党であるイタリア共産党は貴族出身のベルリングエル書記長の頃、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄するなどの党改革を行うなど柔軟路線に転換し、特に冷戦終了後に一度解党したものの、その後また復活し、現在では「イタリア共産主義党」として、やはり左翼勢力の一つとして活動し続けている。

《市場の失敗》もあれば、《政府の失敗》もある。市場原理が行き過ぎれば公共の理念が求められる。反対に、公共の理念が過剰になって余りにも非効率がひどくなれば市場メカニズムが必要になるのだ。どちらの観点が欠けても、現実の社会経済はうまく運営できない。一方に固執するのは、価値観などというご立派なものではなく、単に頑固で頭が悪い証拠である。

リベラル勢力結集を果たすうえで、《周回遅れ》であるのはやはり日本であるのかもしれない。環境の変化に抵抗して進化を拒絶し、自己革新に臆病な日本人の国民性がそこに窺われるのは仕方がないとしても、「理念を守る」つもりが、実は「単に遅れている」という事の証拠であることは多い。これをそろそろ認めることが出来れば、日本の《政治》にもかつての活力が戻ってくるチャンスがある。