2022年7月31日日曜日

コロナ第7波: 政府は一体どうするつもりなンでしょうネ?

加筆:2022-08-01、2022‐08‐03

2019年末近くに登場したCovid-19ウイルスを知らない人は世界にもう一人もいない程の馴染みになった。文字通りの《馴染み》である。

「馴染み」から「順応」、「順応」から「共存」へは生存のためには決まりきったルーティンだ。この理屈に抵抗してみても矛盾が表面化するだけだ。これが本来のロジックなのだろう。

インフルエンザもそんな軌跡をたどって今では馴染みの感染症になった。つまり、勘所は「慣れた」という感覚をいつ持てるのだろう、という点だけだ。


小生の学生時代を思い出そうとしても、毎年のインフルエンザ流行についてはスッカリ忘れてしまっている。ただ、大雑把な目安で1シーズンに1千万人が罹患して、1万人が死亡する、大体そんな目安だったと記憶している。

それを確認しようとネットを検索してみると(ここが情報化社会の利点だ)、以下の図が得られた。


URL:https://honkawa2.sakura.ne.jp/1955.html

インフルエンザを死因とする死亡者数データは確定した数値が得られ難く、毎年の超過死亡数から推定するしかないわけで、その推定方法によって結果は異なるものだ。それでも、マア、上の図を見ながら感じる所をメモっておきたい。

まずインフル死亡者数1万人というのは大仰で、高度成長時代であっても多い時に7~8千人というオーダーである。その後は大きく低下したが、2000年に入って以降、死亡者数は再び増え始め、最近年は3千人程度で推移していた。

ずっと以前にはなかった特効薬が現在はあるとはいうものの、例えば『タミフル』が本当に特効薬という名に値するかどうか、色々意見はあるようだ。実際、死亡者数は最近になって増加してきているが、これは多分、高齢化の進行によるものだろう。

いずれにしても、日本人の10人に1人はシーズンが来るとインフルエンザに罹って不思議ではなかった。小生も学生だった頃にはインフルで病院に行ったものだが、投与されるのは解熱剤と雑菌に感染しないための抗生物質だけだった — それでも大いに安心したものだ。マア、後知恵だが薬の効能としては、寧ろ『麻黄湯』、『銀翹散』などの漢方薬で十分だというのが、薬学的な説明なのだろうが、それでも余病を併発しやすいアレルギー体質である小生としては予防的な抗生物質には信頼を置いていたものだ。現在は、抗ウイルス作用のある『板藍茶(=板藍根)』を日常的に愛飲しているので、この10年程は風邪にもインフルエンザにも罹ったことがない。

要するに、特効薬がなくても、やれることはあるし、投与できる薬はある。


いまコロナ第7波というので世間は浮足立っている。

例えば<インフルエンザ>でブログ内検索をかけると、例えばこんな投稿がかかってくる:

確かに2019年末に確認され世界に拡散した新型コロナウイルスによる混乱は、程度の見方に違いがあるにせよ「ブラックスワン」、ある意味で「アノマリー」とも言える異常変動であった。それが、既に地球上に拡散し、定着し、今後の新型コロナ感染はウイルス側の変異と人類側の免疫適応とのバランスがとれた定常的な進化プロセスに収束していくだろう、という予測である。

日本人の感性であれば上の引用のうち

集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

という「言葉」には、それなりの社会的反発があるだろうし、世間の反発を怖れる日本国内のマスコミは、決してこんな表現はしない、もっとマイルドな文章で「一部の識者にはこんな見方をする向きもある」などという言い方をするはずだ。日本は何事も人の心を忖度する「ものも言いよう」のお国柄である。

とはいえ、小生は『アメリカ人ならこんな考え方をするだろうネエ』とも思った。


上に引用したのは、Wall Street Journalの2021 年 12 月 24 日付け記事に感想を述べたものだ。

中国のように<ゼロ・コロナ>の基本戦略を当初方針通りにどこまでも徹底するか、西洋のように<コロナとの共存>に舵を切るか。その中間の道を選んできた日本は、今に至ってから「さてどうしたものか?」と、道に迷っているようだ。情けないナア・・・

社会的合意に到達できないでいる日本の悩みは深い、というところか。

実は、《社会的合意》を文字通りに実現しようとすれば、言うは易く、行うは難し、である。

民主主義社会で実現可能であるのは《相対的多数の合意》に過ぎない。それを社会的合意として擬制できるのは、あらかじめ整備された法に基づいて議決するという《手続き》によるからである。

たとえ共産党支持者であり、共産党が国会で反対した法案であるにもかかわらず、いったん可決された法律には日本国民として従う義務があるのは、そのためである。

戦前期・日本のように総理大臣の任命と国会の多数党とが必ずしも連動しなくともよい制度の下では、内閣が求める法律や予算案を可決できず、政治的な不安定性を解消できない事態もあったわけだが、現在は議院内閣制である。内閣は多数党が編成する。故に、必要なことは国会で議決できる理屈だ。

にも拘わらず、日本全体として何か漂流している感覚が蔓延しているとすれば、国会が意思決定するに至らない。与党が多数党としての統治責任を果たそうとしていない。その理由を推しはかると、政権与党が相対的多数としての意思を貫こうとすれば、その議会運営振りに国民が反発して、次の選挙で敗北するかもしれない、と。そんな心配が先立って、多数党が少数党に遠慮する。そんな憶測もあったりするわけだ。だとすれば、一見筋が通っているように見えるが、まったく滑稽で奇妙な話であろう。

多数党が、議会で多数を占めている事実に基づいて、政党の目的を達成しようと努力しないのであれば、そもそも議会を中心にした民主主義が機能するはずはない。

行政、立法を含めて、「政治」への責任は、最終的には、時の政権与党が集団として負う。野党に責任はない。

世間では国会が紛糾して審議が遅れるとき、野党の対応を批判する御仁が多くいたりするが、反対だ。政策の企画、審議、実施は与党に完全な責任がある。野党には全く責任がない。野党が行うべき仕事は政策の評価だ。でなければ、「政権交代とは一体なんですか?」と聞きたいくらいだ。

これが今日の結論のようなものだが、7月最後の投稿だ。もう少し思いついたことをメモっておこう。

少なくない人たちは

投票率が50%か、60%である状態で多数を占めても、その結果は真の多数とは言えない

と、こんなコメントを加えることだろう。極端な物言いだと「投票率50%で半数の支持を得ても、全体の中では25%の支持を得たに過ぎない」と。ホントにネエ・・・阿呆じゃないか、と。未投票の半数は全員が不支持に回ると思い込んでオル。統計学(に限ったわけではないが)の知識から自由な御仁は(文字通り)自由自在に屁理屈を展開できるものだ。古代社会を支配した迷信と同じだ。

出口調査の結果と最終結果との間に大きな差は生じない。逆に言えば、何分の一かの票を集計するだけで全体の結果は概ね分かるということだ。極端な事をいえば、投票者を有権者という母集団からランダムに抽出して投票率をせいぜい1%に抑えても、結果の信頼度はそれほど大きく揺らぐものではない。投票率がたとえ90%を超えるとしても、政党別当選者数は実際の投票率で得られた結果と大きくは違わないことを確認するだけだろう。選挙の投票率が低いという問題は、世論とかけ離れた結果になることではなく、民主主義の土台である参政権行使への意志が弱まってきているということにある。

投票率の低下はむしろ今日の議会運営が招いた最終的な結果だという見方もある。選挙において多数を占めても少数野党への過剰な配慮を常に求められる。多数党の目指す政策を(なぜか?)実現できない。であれば、選挙結果とは関係なく、社会全体の最大公約数的な政策だけが進められる。どの党が勝とうが、多数を占めようが、選挙の前後でほぼ何も変更されない。となれば、投票しても結果は同じだ。だから、しない。確かに一つのロジックだ。もちろん別の見方もある。与党の政策には反対だが、野党が弱すぎる。だから最初から投票しようとはせず、諦める。投票率が上がれば野党の得票率は上がっていたはずだ。本当は与党の議席数はもっと少ないはずだ。こんな主張もあるかも。これもロジックだ。何だか白紙委任状を出して総会を欠席しておきながら総会決議にクレームをつけるマンション居住者に似ている面もある。まだ問題はあるという指摘もあるだろうがキリがないので止める。

なにが真相であるか分からない。

ともかく、こんな風では政策方針を変えるツールであるはずの選挙制度は機能しない。世界のどの国においても、選挙は戦いの場である。それは勝った側が目指す政策を実現できるからだ。こういう情況になれば、日本の投票率も必ず上がるはずである。

というより、たった1日の選挙の結果に基づいて、勝った側の政党が負けた側の反対を押さえて自党の政治目標を追求する状況を許してよいのか?日本人の心の奥底にはこんなホンネが見え隠れしていると感じるのは、小生だけだろうか?だとすると、ホンネのところでは、日本人は「選挙不信」、「与党不信」、「反・多数派支配」の感情を隠しもっている ・・・。まさかネ、とは思う。が、人様の気持ちだから、分かりかねるところがある。マ、そんなところだ。

議会の為すべき職務は、必要な法を立法する。法改正が必要な法はサッサと改正する。当たり前のことだ。行政府に「うまくやってくれ」では法治主義に反する。

議会の与党は、自党の代表者である総理と内閣に圧力を行使するべきなのである。仮に、内閣が自党とは異なる官僚組織の主張に従っているとみられる場合は、政党が中央官庁の意志を押さえ込まなければならない。民主主義の本質は、そうすることが制度上できる、という点にある。これ以外に民主主義の強みが何かあるのだろうか?

《政治主導》というのはこういうことだろう。国内のマスメディアも、内閣の無策を非難するよりは、議会の怠慢を非難する方が本筋だろう。調べてみればいい。G7諸国の国会の中では、日本の国会は最も仕事をしていない立法府になっているはずだ。人的資質のレベルが平均的に低いのだろう。候補者選定の党内手続きに問題があるに違いない。マスメディアは、A議員やB議員など個別議員に露見した金銭スキャンダルや、もっと下らない失言の類を、芸能ゴシップよろしく指弾するよりは、日本の<政党>というものに対して、もっと強い関心をもたなければならない。そう思うのだ、な。マ、マスメディア社内にも人材の多様性があるはずなので、解剖医のように政党内部に切り込んでいくような蛮勇(?)をもったメディア企業が日本にあるのかどうか、小生にはそこまでは分からないが。


ヤレヤレ、今日はコロナから政治主導とその泥船的様相に内容が飛躍した。まとまりのない投稿になってしまった。




2022年7月26日火曜日

ホンノ一言: 国内大手メディア企業のジャーナリズム失格が伝わってくる言葉の一例

加筆:2022-07-27


小生にとって《現代日本メディア企業批判》は何だか話題が枯れた時のキラー・トピックになってきた感がある。今日もそんな話題で・・・


日本国内の(ちゃんとした?)大手マスメディア企業は、もうずっと以前から《報道精神》、というか《ジャーナリスト・スピリット》というか、まあアメリカで言えばピュリッツァー賞にも値するような報道を長時間(かつリスクの伴う)取材に基づいて敢然と行う、こんな意志などはとっくに捨てているという事実は、国内メディアなどはもうどうでもよいと見切りをつけた小生にもハッキリ感じられてくる今日この頃である。

新聞、出版物というより政府から事業認可を受けている大手電波メディアに当てはまるのだが、最近もまた報道現場の基本姿勢がよく表れる言葉を耳にする:

いまの法制度では・・・とならざるを得ないわけです。

いや、マア、腹が立って仕方がない。

何を言いたいのか、と。

問題意識があるならば、「今の法制度がこれで良いかどうか考えるべき時です」と。率直にそう伝えればいい。いまの法制度の問題点を具体的に指摘すればよい。国会の怠慢を批判すればよい。New York TimesやGuardianのようなリベラルの証になるだろう。反対に、今の法制度を良しとするなら、「法の裁きとして受け止めるべきでしょう」と。ズバリ、そう伝えればよい。これならFox Newsのような保守系として筋が通る。


何だか21世紀になった頃から接客現場、営業現場で流行り始めた

取りあえず・・・させて頂きますネ

という言い回しと同じ価値観が共有されているではないか ― フランクに『・・・しておきます』と言えば済むことだ、と感じるのが世代ギャップなのだろう。学校のクラスで宿題をやってきたかどうかを聞かれた生徒が『宿題、させて頂くつもりでしたが、忙しさの余り休ませていただきました』なんて言えばギャグとしてもブラック過ぎる。シンプルに『テレビをみたのでやって来ませんでした』と言わなければ意味が通じない。但し、こんな価値観というか、感性が共有されている空間は日本という狭く限られた範囲ではある。イヤ、かなり昔、ある時代劇で『アヤツ、殺しますか』と言う所を『アヤツ、死なせますか』と言ったセリフには笑ったものだ。まさかふざけ半分のコミカルな台詞が大真面目にビジネス現場で使われるようになるとはネエ・・・


マ、ともかく、メディアは、伝えるべき事実を取捨選択している段階で既に暗黙のうちに一定の価値観を主張している。にも拘らず、報道する言葉の表現においては、自社の立場を曖昧にしておくというのは、あまりに不誠実だ。

こんな鳥だか獣だか分からない 蝙蝠 こうもり だか ぬえ のような報道姿勢は、不愉快というよりも、気持ちが悪くって仕方がない。

こんな気色の悪い報道姿勢は(それほど事情に精通しているわけではないが)欧米、というか海外では稀なのじゃないだろうか ― そもそも自社の立場を曖昧にするという戦術で損にこそなれ得にはならないだろう。


経営の勘所は《選択と集中》とよく言われるが、これは商品メニュー、つまり製品戦略について言っているのではない。潜在顧客の全てに売ろうとするのではなく、自社製品を高く評価する顧客層を選んで集中せよ、ということだ。裏からいえば、その他の顧客は切り捨てよ、ということである。「視聴者はすべて神様です」などと考えているようでは、早晩、日本の民間放送業界は絶滅するであろう。全国民向けのNHKが存在すれば十分だ。

視聴率をメイン・インディケーターに置く限り、『選択と集中』などはスポンサーの手前、夢であることは分かっているが・・・というか、スポンサーを選び、コンテンツを絞るということか・・・やはり、広告媒体ビジネスである地上デジタルとショッピング・エクスペリエンスを提供するデパートと、基本的にはオワコン化しつつあるのだろう。

日本国内の大手マスメディア企業が、(ごく一部を除いて)軽んじられ、見限られつつある流れは、今後ますます加速するのではないかと予想している。

2022年7月24日日曜日

断想: 演繹的論理と帰納的論理が対立する時は

加筆:2022-07-24、2022-07-25


 疑いを入れぬ大前提から出発して、

これが正しいならば、こう結論できる。であれば、・・・

と思考を進めるのが演繹的論理だ。数学や論理学はその典型であるし、アリストテレスが唯一の信頼できる思考形式として挙げた<三段論法>もそうである。アリストテレスの論理学は、中世のキリスト教神学を支えた基盤である。

人間はすべて死ぬ。ソクラテスは人間だ。故に、ソクラテスは死ぬ。

例えば、こんな議論は三段論法の一つの例になるが、その他にも色々な型がある。アリストテレスは、全ての真である命題は最終的に三段論法に帰着すると述べている(そうだ)が、ラッセルはこれは間違いであると指摘している。

もし観察される事実が大前提から結論される状態と違うなら、それは<あるべき状態>へ向かう過程にあるからだ、と説明されるわけで、最終的には、ありとあらゆるものは<あるべき状態(=自然な状態)>へと向かいそこで静止する。こんな世界観になる。

大前提から出発する演繹的論理で世界を観察するなら、肝心要の大前提(=公理)に何がしかの価値観が織り込まれるのは、自然なことである。たとえばその価値観が<善>であったりする。故に、演繹的論理で議論する時は、議論がどことなく倫理的になる。ソクラテス、プラトン以来の古代ギリシア哲学が全体として『世界は善に向かっている』という風な<目的論的な>論調になるのは、全体系が演繹的であるためである。


これに対する帰納的論理は演繹的論理とは逆である。より多くの観察事実をより簡潔に、より正しく、説明できる前提を経験的に推測するという議論をする。文字通り演繹的議論とは逆の議論になる。例えば近代科学の一大成果である「ケプラーの法則」や「ニュートン力学」は、何の大前提も置かれないまま、ただ観察された天文データを正確に、簡潔に説明できる力学モデルを<発見>したに過ぎない。このように、帰納的議論によって自然現象や社会現象を理解しようとすれば、全体としては目的論的にはならず、<機械論的>になる。マルクス流の「必然的なプロレタリアート革命」は社会の矛盾を解決する過程から生まれる経済発展段階から導かれる結論である。演繹的議論と異なるのは、何らかの価値観が大前提とはならない点であり、データ分析に倫理的要素が混入しない。


マルクス(というよりエンゲルス)自身が「科学的社会主義」と自身のアプローチを特徴づけているように、マルクス経済学においては資本主義から社会主義への移行はソーシャル・メカニズムの必然的結果である。『それが善い』とか、『資本主義は本質的に不正義だから社会主義社会の到来は当然の帰結である』という議論の仕方は、最も非マルクス的な思考なのである。同じように、不平等よりは平等の方が正しく、善であるのに決まっているから、世界は平等に向かって進んでいくはずであるし、それが正しいのだ、というか進んでいかなければならない、と。こんな議論は、プラトンやアリストテレスのような古代ギリシアの哲学者が考えるだろう思考であって、近代社会をもたらした科学的発想とは逆転した議論である。マ、簡単に言えば《非科学的》である。


1980年代初め以降、所得分配の不平等化が進んできたのは、世界共通の現象である。

それは何故か?

と、議論するのが科学であり、例えば

新自由主義による政策が多くの国で実施されたからである

こうした事実が共通して認められるなら、次に

なぜ新自由主義的な政策が実施されたのか?

と、どこまでも結果から原因にさかのぼる。ここに帰納的議論の特徴がある。観察される結果の原因を観察可能な特定因子に求める。そこには一切の価値観もイデオロギーも混在しない。故に形而上学にはならない。科学の基礎に帰納的論理があるのはこういう意味である。最終的に「所得分配過程を支配する長期的変動法則」のような規則性が「発見」されるなら、社会科学としては大きな成果になるわけだ。演繹的に議論するとこうはならない。


少なくとも、足元で世界的スローガンになっている《共有された価値観》から出発して、

この価値観から出発するなら、世界はこうなるはずであり、寧ろこうならなければならない

と議論するのは、2400年ほども昔のペロポネソス戦争を始めたアテネ市民の論理と大差はない。更に、北方の蛮族であったマケドニア王国の王であるアレクサンドロスに征服される直前のアテネ国家の価値観外交を連想してしまう ― どちらにおいても、アテネの価値観は現実には有効でなかった。アテネの民主主義は政治的パワーとしては機能せず、現実には敗北を重ね、政治的には没落した。

が、結果としてはアレクサンドロス死後の広大なヘレニズム世界において、アテネは政治ではなく文化によって諸国民を魅惑するという想定外のポジションにつくことができた。アテネの民主主義が後世代から評価されたのではなく、特に哲学という文化的精華に人々が魅惑され、アテネは存続した。いわばアテネにとって結果オーライであった。そして、そのアテネで勉学した哲学者だが、プラトンは全体主義、アリストテレスは君主制の支持者である。ギリシア文化を吸収した古代ローマも共和制末期の混乱から帝政へと移行し、それ以後のローマ帝国は時代を経るごとにより一層皇帝独裁の度合いを高めた。それが歴史の歩みである。

小生が古代社会の興亡に興味を感じるのは、初期状態から終末期までが完結した一つの時代を構成しているからだ。そこから伝わってくる印象は、世界はなにか善い時代に向かって歩んでいるという目的論的歴史観は観察事実とは違うということだ。


ペロポネソス戦争は、経済的利害の対立も背景にあったが、やはり民主主義と非民主主義の戦いでもあった。価値観の対立がひき起こした戦争であったのはそうだと思う。それより50年前にあったペルシア戦争では全ギリシア国家が団結して敵国・ペルシアと戦ったが、それを支えたのは<民族>という価値観だった。確かに価値観は、戦争をさえひき起こす程の影響力をもつが、価値観は要するに価値観でしかなく、人間がイメージする価値の通りに世界が動いてくれる因果関係はない。それはアテネの失敗からも分かることである。大体、第二次大戦で民主主義的な連合軍が勝利したのは、民主主義であったからではなく、民主主義的なアメリカの工業力が世界で隔絶しており、加えて自給自足を超えるほどの資源と農業生産力に恵まれていたからである。そしてアメリカが民主主義であった理由は、英国の植民地からスタートしたことと、国土が広大で中央集権的な政府が形成されていなかったなど、主に歴史的な偶然によると観るのが自然だろう。

歴史的な偶然を歴史的な必然と錯覚すると災難をもたらすものだ。

自然にせよ、社会にせよ、因果関係によってメカニックに理解するときに、迷っている私たちは適切な行動を選べるというのが本筋のロジックであって、価値観に基づいて予測をしたり、そんな予測に基づいて行動プランを立てるとすれば、それはとても愚かである。

どうしてもそう思いますがネエ・・・同じ主旨のことは何度も投稿しているが。

2022年7月22日金曜日

天動説 vs 地動説の戦いは形を変えていまもある

中世の暗闇から脱出できたのは(自然)科学の誕生のお陰であるのは誰もが知っている。その中でも《天動説 vs 地動説》の激論は小生のお気に入りで、このブログでも何度か話題にしている。マスメディアと絡ませればどんな世相になるか想像できるというものだ。残念ながらコペルニクスやガリレオが生きた時代に拡声器のようなマスコミはなかった。

今日においては、全ての運動は相対的なものだから天動説と地動説とで本質的な中身の違いなどありようもなく、要は地動説に基づいてデータを解釈する方が、遥かに簡単である。そういうことに落ち着いているのだが、地動説が信仰を揺るがすトンデモナイ邪説であった時代は、たしかに現実にあったのだ。

愚かで、何の足しにもならない争いを最終的に消失させるのは、ただ人間の知識の蓄積だけが為しえることだ。逆に言えば、争いの種になる知識は本当の知識ではない。単なる思い込みである。こう考えるのが理屈というものだろう。


マスメディアというのは、誰かに聴いてほしい、読んでほしいというのが唯一の動機であって、何が真理であるとか、何が重要であるとか、正しい認識を形成するという目的とは最初から無縁なのだというのは、一貫して書いて来た点だ。たとえばずっと以前の投稿だが

しかし、まあ、ジャーナリズムというのはこんなものなのだろう。

いま天動説と地動説とが論争したとして、天動説を唱える学者が何百年ぶりかで現れたとする。

記者: 科学的には地動説が確立されているわけですが、敢えていま天動説が正しいと主張されるのは何故ですか?

学者: 月面に人間が着陸する時代になりましたが、地球は動いて見えましたか? 地球は一定不変の位置に止まっていて、月が動いているように見えませんでしたか?

記者: やはり地球は止まっていると、動いているのは太陽や月の方だと・・・

学者: 明らかな事実だと考えています。

記者: 中世ヨーロッパで激論になった天動説と地動説の対立ですが、どうやらまだ決着はついていないようです。どんな結論になるのでしょうか!?歴史的論争の行方が気になります。

こんな「報道」のあとに

政府高官は「地動説が唯一の真理であるとは言えない」、本日の記者会見でそう発言しました。

こんな話題をワイドショーで放送すれば、事の詳細を知らない世間では『理科の教科書に書いてあったことは間違いだったんだ』などと言って、大騒ぎをすることだろう。科学オンチからイデオロギー主導社会へはほんの一歩である。これが歴史上何度もあった文明の退化である。怖い、怖い……。


情報化社会であるはずのネット社会でも同じことが(やっぱり)起きている:


URL: https://news.livedoor.com/article/detail/22543205/
Source: livedoor NEWS, 2022年7月21日 21時0分

人間社会って、いつまでたっても変わらないんだネエ

これが感想。


もちろんトンチ科学クイズのようなものでエンターテインメントであるのは分かっている。が、思わず「エッ、そうなの?」と言う人も多いかも ― 一辺の長さが1の正方形に内接する円の円周と正方形の外周の長さを考えれば、直ぐにおかしいと分かる。

数学では一度証明された定理と矛盾した命題はすべて偽に決まっているが(でなければ「数学」にならない)、これが政治経済の話しになると、分からない。

二つある仮説のうち一方を「正しい」、他方を「邪説」にしたいと思う人間心理は、永遠に変わらないだろう。どちらも真ではありえないと疑う「懐疑主義」に徹するのは、これはこれで疲れるものである。

2022年7月19日火曜日

ホンノ一言: 上げても問題あり、下げても問題あり、では専門家とは言えません

 日本経済新聞と言えば経済専門紙だ。こんな記事がある:

世界の債券価値が急減している。今年1~6月の減少額は17兆ドル(約2300兆円)と、6カ月の期間では遡れる1990年以降で最大となった。各国の金融引き締めで債券利回りが急上昇し、利回りと反対に動く価格は急落した。債券市場が収縮し、債務に依存してきた世界経済が曲がり角に差し掛かっている。下落が続けば、国債を多く持つ金融機関の経営リスクも高まる。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB07B490X00C22A7000000/
Source:日本経済新聞、2022年7月19日 1:30 (2022年7月19日 5:07更新)

周知のように、債券の市場価格は、ザックリと言えば $$ 市場価格 \,=\, \frac{利息}{金利} $$

で決まる。

しかし、カミさんに『金利が上がれば自動的に債券価格は下がるンだよ。債券価格が下がりゃあ、株から債券にカネが流れるからネ、株価も下がる。これはもうネ、自動的にそうなるンだよ』と話しても、どうにも腑に落ちない様子だ。経済が分かるか分からないかは、金利と債券価格、株価の連動性が体感として分かっているかどうかで判別できるのが、面白い所だ。

上の式は、ひょっとすると

$$ 市場価格 \times 金利 \,=\, 利息 $$

と書く方が分かりやすいかもしれない。

毎年得られる利息は満期まで固定されているから右辺は一定だ。となると、左辺の金利が中央銀行の市場金利操作によって上げられれば、市場価格は下がらなければ両辺がバランスしない。市場価格が下がることによって、定額の利息と利回りとのバランスがとれるわけだ。

なので、アメリカのFRBが金利引き上げを行えば、債券価格は自動的に下がるし、株価下落にも波及する結果になる。

ということは、上げるのと反対で低金利政策をとれば、債券価格は上がり、株価も上がる結果になる。株価が上がれば株を多く保有している富裕層の資産価値が上昇し、資産分配の格差拡大をもたらす。債券価格も上がるので銀行も困らない。これは金利を下げることの自動的結果である。だから、それを格差拡大だと非難するのは的外れだと、「世間の非難」を批判したのはクルーグマンだった。実際、低金利にすることで金利収入は低下するので、資産分配ではなく、所得分配において格差は縮小する方向へ向かうはずだ。今は、金利を引き上げている。だから債券、株価は下がっている。しかし、金利収入は増えるのである。住宅ローン債務者の金利負担も増える。資産分配格差は改善されている理屈だが、経済状況としてどちらが善いか、判断はそれほど難しくはない。有資産階層でなければ金利は高いより低い方を喜ぶ理屈だ。

上の日経記事は、金利が上昇し債券価格が低下することで、債券を保有している金融機関にキャピタルロスが発生することを心配するものだ -- 日本国内では金利引き上げ路線はまだ選ばれていないのだが。しかし、金利が上がれば債券一般、株価一般を新規購入する資産家の投資利回りは上がる。新規投資を考えている人にとっては金利上昇期は投資のチャンスである。しかし、このチャンスは投資するべき元本を持っている資産家にとってのチャンスである。反対に事業を展開している企業にとっては金利負担は重しとなる。従業員にとっても決して嬉しくはないはずだ。とはいえ、金利が上がれば金融資産の評価額は低下する。資産家の資産額が低下するので資産分配格差は縮小する。株価上昇は格差拡大の象徴だと非難していた人は喜ばなければならない理屈だ。

金利を下げて株価が上昇すると「富裕層優遇」だと言って格差拡大を非難し、金利を上げれば上げればで、その自動的結果を「問題あり」と批判する。一体どちらがイイんですか、と。つまるところ、その時点の経済状況によって、適切な政策目標が決まる。目標が決まって、上げるか、下げるかが決まる。今はインフレ心理の定着を抑制する。それによってインフレ継続を防止する。だから金利を上げているわけだ。上げれば必然的にこうなるという結果を心配してみても仕方がないだろう。

2022年7月17日日曜日

ホンノ一言: 「殉職」による2階級特進を連想しました

安倍元首相の「国葬」について、結構、異論がある様子で、こんな状況では海外から弔問に来日する方々も日本国内の一方の勢力に加担するようで何だか気が引ける、もしこんな居心地の悪さを感じさせてしまうとすれば、どこか葬式当日に衆人環視の中で家庭内不和を露呈する遺族のようでもあって、実に決まりが悪いというものだ。

国葬だろうと、国民葬だろうと、内閣・自民党合同葬だろうと、小生にはどうでもよい。『あっしには関わりないことでござんす』と思うが、ほとんどの人にとっても、事情は同じじゃあないか。盛んに発言している人は、要するに、野党議員か何かで反安倍関係者であるか、でなければ暇で、時間がタップリあって、何かの思い込みがあり、発信しないではおられないのだろう、と。そんな風に憶測しているのだが、だから悪いってことではありませヌ。職務は職務で、信条は信条で、忠実に為さればよろしい。幕末、尊皇攘夷に燃えた志士たちも、その時はその時で、マジで「攘夷」と叫んでいた。もし長生きしていれば、めでたく倒幕を成し遂げたあと、正反対の方向に国が進んでいく非条理な現実を見ざるを得なかった。非命に斃れた人こそ夢の中で死ぬことが出来た。その意味では寧ろ幸福であったかもしれませヌ。

大村益次郎が上野の山に立て籠る彰義隊を掃討するため砲撃を加える様子をよそに、ウェーランド(Francis Wayland)の『経済入門(The Elements of Political Economy)』をテキストに授業を止めなかった福沢諭吉は、確かに一つの見識ではあった。

為すべき事を為すという選択にも、その人の感性、志は反映されるものだ

ま、そんなところだろう。


「安倍首相」でブログ内検索をかけると、長期間にわたって内閣を率いたからか、夥しい投稿がかかってくる。その中でも、まだ第2次政権初期の頃であったが、その頃の投稿で記した感想はずっと絵画の下塗りのように主観的な印象を彩り続けた。


明治維新以来の歴代の国葬、国民葬で送られた人たちをWikipediaでみると、元首相はやはり「国葬」というより、「国家、もしくは国家機関が関与した葬儀」であるほうが、ピッタリと来るように感じる。ではあるが、元首相は選挙遊説中に凶弾に斃れたいわば「殉職」に該当する。のであれば、二階級特進があっても、おかしな処遇ではない。理解は出来る。そんな人も多いのではないだろうか。

まあ、そうであっても、現職総理として「殉職」した原敬、浜口雄幸、犬養毅といった人たちは「国葬」でも、「国民葬」でも送られていない。どの人も、在任期間は長いとは言えないが、信念のある歴史に残る名宰相であった。殉職ではないものの「大正政変」で志半ばで急逝した戦前の大宰相・桂太郎ですら、国葬・国民葬いずれでもない。更にあげれば、普通選挙導入を決断した憲政会内閣の総理・加藤高明は総理在職中に病死したが、やはり国葬・国民葬から外れている。原敬と加藤高明の二人を外せば、近代日本のデモクラシーは語れないはずだ。それでも外れている。やはり与野党対立が激しかったという時代背景が見送り方にも影響するのであろうか。

とすれば、今のように元首相をどう見送るかで、異論・反論が出始めているのも、これはこれで自然な成り行きである。

色々と感想を書いたが、結局、どれほど大勢の人が別れを惜しんで集まるか。単なる「国葬」であるか、「国民葬」であるか、何であるかは、形式ではなく、結果としての実質で決まる。これに尽きるのだろう。

ただ冷静に事の進展を観ていれば十分ではないだろうか。よほどの政治好きでなければ利害得失には縁のない話だ。面白い資料がネットにある。

簡単にいえば、

これが岸田首相の政治のやり方である

異論を出すなら反主流派、賛同するなら主流派。そういうことだと思う。マ、言葉の意味だけから考えれば、「国葬」の意志決定ができるのは国家元首以外にはないはずだ、とも思われるのだが、そこはコロナ対応でも明らかになったように、法的筋論には緩い日本ならではの<融通がきく>という長所でもあるわけで。全ての性質についてアリストテレスが<中庸の徳>として強調したように、ルーズでイイ加減であるという短所の裏面にはフレキシブルであるという長所がある。



2022年7月14日木曜日

ホンノ一言: 不良債権と福一原発事故、10年ほどが経って一つの節目を迎えたか

長期間ブログを書き続けていると、ずっと以前に書いたことを撤回せざるを得なくなる場合も出てくる。先日もそんな例が一つ出たが、また一つ撤回することになった。

日経でも報道しているが、東電株主代表訴訟で地裁判決が出た:

東京電力福島第1原子力発電所事故の株主代表訴訟で、東京地裁判決は13日、東電旧経営陣に13兆円余りの賠償を命じた。原発事故の責任追及を巡る様々な民事裁判が起きる中、国の責任を否定し、東電側に全責任を負わせる司法判断が確立しつつある。巨額の賠償命令は全額の支払いが現実的に困難といえ、事業者が責任を負う原子力損害賠償法(原賠法)のあり方に議論が及ぶ可能性もある。

Source: 日本経済新聞、2022年7月13日 21:41 (2022年7月14日 5:21更新)

経営者がいったん経営判断を誤れば、損賠賠償額は少し以前の何10億円から遂に何兆円というオーダーに増えてしまったわけだ。

まだ一審であるからどう確定するかは不透明だ。が、どうやら今回の判決を書いた裁判官は司法界の中でも一流の人材であるようでもあり、判決文のレベルを考慮すると今後の控訴審(そして上告審)で一審判決が根本的に覆る可能性は低いのではないか。国民一般の視線を考慮しても、裁判所は一審判決を基本とするのではないか。そんな予想を勝手にしているところだ。

ずっと以前になるが、こんな投稿をしたことがある:

福島第一原発事故とバブル処理と、どちらが大きな問題であるか。意味のない問いかけだが、どちらも日常の経営活動で恒常的に発生するマネジメントの範囲には入らない。どんな大事件にもあることだが、ちょっとしたチョンボや思い込みが重大な結果を招いてしまった、そんな側面も共通しているようだ。どちらも特異かつ例外的なスケールをもつ。経済史年表にも記載されることは間違いない大事件である。

それにしては、原発事故とその後の東電処理は外から見ていると「甘々の処分」でお茶を濁している、というイメージを拭きれない。

 確かにバブル期からバブル崩壊期にかけての金融機関の経営判断はその不健全ぶりを責めるに値するものがあった。そして、厳しい責任追及の中で自ら命を絶つ最高経営責任者もあった。上の投稿は、「それに比べて・・・」という主旨だった。

上の投稿で書いた内容は、今回の東電判決が出たいま、撤回しなければならなくなった。ずいぶん時間がかかったものだと言う人も多かろうが、不良債権の時も実際に不動産バブルに踊り巨額の不健全融資を続けていた1980年代後半から法の裁きを受ける90年代末まで時間的には足掛け10年がかかっている。

そろそろ福一原発事故も《裁きのとき》がやって来たということなのだろう。そう思いながらニュースを聴いていた。

2022年7月13日水曜日

断想: 「自業自得」という理屈を言うと、いずれ自分を害することになりますヨ

元首相の背後に「統一教会」という(ずっと以前から)極めて著名な宗教団体があることが分かり、国内のメディア業界は記者クラブ所属であれ、その他の自由取材を旨とする会社であれ、俄かに力こぶが入って来た模様。マスコミはこの種の話題が大好きである。

いま世間に多い意見は

統一教会に家庭を破壊された犯人の心情と、その恨みを元首相にぶつけて殺害するという行動とは、分けて考えて置かなければならない

まあ、良識論というか、理性派というか、比較的こう考える人が目立つようだ。

そういえば、戦前の昭和7年に起こった5.15事件で犬養毅総理を殺害した海軍将校・三上卓中尉には多くの日本人から助命嘆願、減刑嘆願が寄せられたのだが、そこでもまた

現職首相を殺害したという行動と、国の事を心底から憂慮するという愛国の心情とは、分けて考えておくべきである

こんな理解の仕方が当時の日本人には多かったものと見える ― 今回の安倍元首相の暗殺事件をみる目線と方向性が真逆なような気がしないでもないが。方向性は逆であるが、日本人というのは、「あれから90年経っても変わらないもんだネエ」と。やはり「思考の国民性」というのがあるのだろうかと感じる次第。

こんな理解の仕方が増えてくると、親の死に目に会えないからと車をとばし、運悪く過失によって人を轢いてしまった気の毒な青年に対して

人を轢いたという行為と、親を心配して病院にかけつけようとする親孝行の心情とは分けてみておく必要がある

そんな理解の仕方にもつながっていくに違いない。

昨日の投稿でも書いたが、なぜそのような結果がもたらされたかという因果関係論と、そう行動した目的は何であったのかという目的合理論とは、同じ出来事を理解する異なった別々の観点であって、矛盾した理解の仕方が両方から出てくるとしても、何もおかしくはない。

殺されて当然という一部の過激な議論は、犯人はそうせざるを得ない環境、というか情況に置かれていたのであって、自分自身が思う安倍元首相との関係性の下で、そう行動することを寧ろ心理的には強いられていた。つまり事件は半ば必然的に発生したのである、と。そういう風なことを言いたいのであろうと思う。が、そう考えるのであれば、それが世界観なのであるから、今度は自分自身が何者かによって殺害されるという「悲運」に至っても、それはあくまでも「悲運」なのであって、犯人はそうせざるを得ないから半ば必然的にそうするのである。自分の身に悲運が降りかかる場合でも、こういう議論をしなければならないことになる。他人に降りかかる事件は自ら引き受けるべき運命、自分に降りかかる事件は許されない犯罪、・・・こんな勝手な世界観と言うのは理屈としてはないわけである。

厳格な因果論に立てば、法律で裁くということ自体、道理に合わなくなる。法的裁きの根底には、行動の背後に主体的な動機と目的を認め、それが善であるか悪であるかという倫理的判断を加えるという、そうした裁く側の論理がなければならない。

例えば、(いかなる状況下でも)自分は人を殺害しない、と。自分に対して自分の意志が特定行為を禁ずる。全国民がこう意思決定をして、実行すれば、過失を例外として殺人事件は一件も発生しない理屈だ。戦争も発生しない。と同時に、個人の自由意志も守られている理屈だ。『歎異抄』13条の親鸞のように

わがこころのよくて殺さぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人を殺すこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

人生を縁と業から理解する世界観はそれはそれで異様なほどの説得力をもつ。しかしながら、『決して人を殺さじ』という自分自身の良心の要求を受け入れ、それを義務として従うという倫理もまた人間であるための条件である、というのは歴史、というより自然史の歩みの中で、人類が獲得した知識の一つだと思っている。その意味でも

知は力なり

である。知は科学技術のみを生むわけではない。今回の暗殺犯が幼少期から置かれてきた境遇には(報道を通した伝聞に過ぎないものの)同情を禁じ得ないが、バランスのとれた真っ当な知識を吸収する機会を与えられなかったことにも非常な悲哀を感じる。



2022年7月11日月曜日

断想: 人生を考えることは「運命」について考える事でもある

因果関係によって物事を理解しようとすれば、人生を自由意志の結果というより何かの原因の結果、あらかじめ決まっていた運命として、受け止めようとするものだ。因果関係ではなく、目的論的に物事をみたいなら、行動や出来事を運命としてではなく、何を目指しているのかという、そもそもの目的から理解しようとするものだ。因果はめぐると考えれば、人生は半ば必然となる。善行も悪行も宿命的な業である。そこでは悲運や幸運が語られる。源義経が歩んだ悲運の人生は避けられるものであったのかという疑問には運命論が隠れている。他方、目的や動機からその人をみれば善か悪かという倫理に立つことになる。夏目漱石の小説に登場する主人公が暗いトーンで描写されているのは倫理観が余りに厳しいからである。『正義は勝つ』という勧善懲悪史観を支えているのは因果論ではなく目的論であるし、勝った側こそ善なのだという歴史観もそう考えざるを得ないからそうなるわけだ。

小生は何度も書いているように

人生は思うようには行かない。思うように行かないから、次の行動も初めの動機からは違ったものになる。最後には目的も諦めることが多い。

という立場に近い — もちろん100パーセントではないが。つまり、小生の人生観は

かくすれば かくなるものと 知りながら ・・・

という感覚に近い。『なせばなる』というのはタマタマ幸運に恵まれた人だけが持ちうる感想だろうと思う。小生が世間の出来事に対して厳しい倫理を適用したくないのは、それだけ因果論的に物事を観るからだろう。

選挙というのは、近代民主主義社会の中では、内乱、革命といった武力行使の代替ツールである、と言われる。だから、国政選挙の翌日に

戦いすんで、日が暮れて

と言う人もがいても、それこそ正直な気持ちなのだろうと思う。立候補をする人、立候補する人を応援する人、応援する人を応援する人といった当事者よりは、無縁で無関心な人の方が数の上ではずっと多いだろうが、それでも「選挙」なる仕掛けがなければ、力の強い集団が武力によって社会全体を支配することになるのは、自明の結果である。

うちのカミさんはそれほど政治事情、経済事情に強いわけではないが、最近は株式投資もボツボツとかじり始めたので、昨日の参院選にまんざら興味がないわけでもないようだ。

小生: 小沢一郎ってすごく有名だったんだよね。

カミさん: その位、知ってるよ!岩手県だった?

小生: そうそう。1990年代から2000年代にかけては「小沢政局」なんて言葉もあった位でネ、そりゃあ政界の台風の目だった人なんだな。その小沢さんも去年の衆院選では小選挙区で落ちてネ、ああ「小沢時代も完全に終わったナア」って感じたんだけれど、今度の参院選で側近の議員が二人も落選したよ。

カミさん: そうなの?

小生: 新潟の森さんと岩手の木戸口さんだけどね、まあ、森さんの物言いは好きじゃなかったけど、使命感はあったに違いないよ。木戸口さんはと言えば、まさに岩手の地元。そこで落選するんだからネエ・・・没落ぶりが余りに明瞭で、諸行無常、盛者必衰の理そのものだなあ・・・。長生きするのも悲しいヨネ。

カミさん: しょうがないよ、寿命というのがあるし、ずっと続けるのは無理だから。

小生: 安倍さん、確かに無念だろうけど、功成り名を遂げて、まだまだ影響力をもっている内に、今度は死して名を残す。文字通り<伝説>になるわけだ。どちらが恵まれているかネエ・・・。

政治と言う舞台は、いわゆる権威主義国家とは違って、民主主義国家では政治家個々人が辿る人生、運命を、かなり透明化して、視える化するものだ。少なくとも、民間企業の経営主導権を争うパワーゲームに比べれば、密室性が少ない(という建て前だ)。

偶然性の背後に運命という必然性を観ることが出来るのも、古代の戦場と現代の選挙で、どこか共通しているところかもしれない。

夏草や 兵どもが 夢の跡

戦争は多くの叙事詩を生む。古代ギリシアが戦った「トロイア戦争」が『イリアス』を生んだように日本の源平合戦は『平家物語』を生んだ。第二次大戦は映画"The Longest Day"を生んだし、ベトナム戦争はハルバースタムの"The Best and The Brightest"を生んだ。どれも広義の叙事詩である。武力の行使を否定する現代社会では、選挙で激しく戦う個々の候補者の行動が、現代的叙事詩の素材を提供するはずだ。そこには汗と涙、打算と名誉、応酬と陰謀などあらゆる要素がある。

誰か物語を書いてくれないだろうか・・・


地方にある小都市の、もの寂びたとある通りに面して、旧い建物があって、入り口の横には

〇〇年〇〇月から●●年●●月まで連続△期衆議院議員を勤め□□の実現に尽力した▲▲氏の選挙事務所は〇〇年〇〇月から□□年□□月までこの建物の◇◇階にありました

そんなプレートが埋め込まれている。実際、その階に上がっていくと、『▲▲先生記念会』という看板がかかっていて、入ると書簡や生前愛用していた万年筆やメガネ、洋服などが、現役当時のスタッフ一同の写真とともに陳列、展示されている。歴史好きな人の人気スポットになっている・・・。議員の職が世襲されているとすれば、多少生臭いがこんな風な情景を想像するのは面白い。 

誰の、どんな仕事なら、歴史的メモリアルとして後世に遺したいと思うものだろうか?

2022年7月9日土曜日

ホンノ一言: 批判者による誉め言葉が公平な評価、ということか

一晩明けても、案の定、昨日の安倍元首相狙撃事件でマスコミはもち切りだ。

在職中は安倍首相の信条、政治的志向に対し一貫して冷淡であり続けた米紙The New York Timesがトップで昨日の事件を報道している。抜粋して引用しておこう:

WASHINGTON — In his record-breaking run as prime minister, Shinzo Abe never achieved his goal of revising Japan’s Constitution to transform his country into what the Japanese call a “normal nation,” able to employ its military to back up its national interests like any other.

Nor did he restore Japan’s technological edge and economic prowess to the fearsome levels of the late 1980s and early 1990s, when Japan was regarded as China is today — as the world’s No. 2 economy that, with organization and cunning and central planning, could soon be No. 1.

But his assassination in the city of Nara on Friday was a reminder that he managed, nonetheless, to become perhaps the most transformational politician in Japan’s post-World War II history, ...

URL: https://www.nytimes.com/2022/07/08/us/politics/shinzo-abe-influence.html

Source:NYT、July 8, 2022, 7:40 p.m. ET

同紙らしく皮肉な物言いではあるが、それでも戦後日本政治史において最も「変革性に秀でた政治家」(=the most transformational politician)であったと指摘をしている所は、この辺が客観的かつ公平で最大公約数的な見方ということなのだろう ― 保守政治家であって、かつ「革新的」(≒transformational)であるというのは、日本政治が戦後ずっと引きずっている逆説的な側面だが。特に「憲法改正」という自身の目標はついに達成できず、また「今日の中国のように輝いていた昔の日本経済の姿を取り戻す」ことも叶わなかった。こう指摘しているのも元首相が取り組んだ仕事のまとめ方としては簡潔、実に的確である。

やはり

人を評価するには敵対していた人物の意見を聴くのが最も公平である

そんな感想である。


その後の下り

“We didn’t know what we were going to get when Abe came to office with this hard nationalist reputation,” said Richard Samuels, the director of the Center for International Studies at M.I.T. and the author of books on Japan’s military and intelligence capabilities. “What we got was a pragmatic realist who understood the limits of Japan’s power, and who knew it wasn’t going to be able to balance China’s rise on its own. So he designed a new system.”

この部分は、最高の誉め言葉であるに違いない。


最後段で述べている

But his influence, scholars say, will be lasting. “What Abe did was transform the national security state in Japan,” said Michael J. Green, a former senior official in the George W. Bush administration who dealt with Mr. Abe often. Mr. Green’s book “Line of Advantage: Japan’s Grand Strategy in the Era of Abe Shinzo” argues that it was Mr. Abe who helped push the West to counter China’s increasingly aggressive actions in Asia.

旧・西側陣営を巻き込んだバランス・オブ・パワー構築を対中外交戦略の基本にするという発想 は、中国側からみれば

日本: 米中の敵国 → アメリカの賢い犬

にも見えるわけで、元首相は中国にとっては「癪に障る親米派、対中強硬派」であったに違いない。


人口減少が止まらず沈みゆく元・経済大国にして、今もなお現状維持を望む世論が強いとなれば、明治日本が採った『一身独立して、一国独立する』という福沢諭吉的な<独立自尊>ではなく、世界のスーパーパワーの中でもよりマシな勢力との絆を強める<同盟路線>に舵を切るとしても、政治的にはそれが日本の安全保障を図るうえで唯一の選択肢であると言えるだろう。実際、ウクライナ戦争を眼前にみてNATO加盟に舵を切ったフィンランド、スウェーデンもほぼ同じ目的をもって行動しているわけであるし、ずっと昔の20世紀初め、相対的に地盤沈下していた大英帝国が、大国ロシアと対抗するため、伝統的な光栄ある孤立を捨て、極東の小国・日本を同盟国として選んだのも、今日の日本と概ね同じ動機によるものであったかもしれない。その辺の事情を明治日本は理解した上で

自存自衛 → イギリスの賢い犬

という役回りを自ら日本のために演じたのであるかもしれない。日本の安全保障のために曲芸的な国際外交を懸命に進めていた。 今も昔も変わらない一面である。


一つ付け足しなのだが、そもそも(県民性を云々するのはジェンダー・フリーまでが守るべき価値として確立されつつある現代では御法度なのだろうが)、山口県の人は周辺地域との関係性の中に身を置く感性が発達している印象をもっている。この辺の志向は、例えば東北地方と比較すると、結構大きな個性の違いとして、多くの人に認識可能なのではないかナア、とずっと感じている。山口だけではなく、(出向して暮らしたこともある)岡山県の人や、広島県人も似たような傾向がある。少なくとも小生の元々の田舎である愛媛県中予地方の人の気性と岡山県の人の肌合いは随分違うものだと、暮らしていて実感したものである。元首相が、産業育成や公衆衛生といった国内行政ではなく、国際外交で成果を重ねたのは、いかにも山口県選出の政治家のようで、納得感があるのだ ― もちろん数学の命題のように例外なく常にそうだという意味ではない。

2022年7月8日金曜日

メモ: 真の「論敵」に恵まれなかったのが元首相の不運だったか

つい先日、こんな文章を投稿した:

よく分からないが、真に重要な問題を正直に議論しようという人がいない、するべき人が逃げている。ビリー・ジョエルではないが欠けているのは"Honesty"だろう。それも仕方がないと国民の多くが諦めている、そんな今の状況が最大の問題だと言えば確かに最大の問題だ。

経済理論としては「勘違い」ではあったが、暗殺をも怖れず「金解禁」を断行し経済正常化を実現しようとした昭和初期の首相・浜口雄幸と蔵相・井上準之助の『男子の本懐』がまるで別の国の出来事のように感じる。

今日、参院選を明後日に控え奈良・西大寺駅前で遊説中であった安倍晋三元首相が元海上自衛官に暗殺されるという予想もしない事件が発生したいま、こんなことが「まるで別の国の出来事」と書いたのは完全な誤りであることを悟った。撤回だ。

日本の政治は大きな曲がり角を曲がっていくに違いない。社会も無関係であるはずがない。

上の文章から事後的に言える結論は、元首相は「真に重要な問題を正直に議論しようという人」であった、ということか。ただ、外から観察していて感じるのだが、政敵には困らなかったものの、どの政敵も論争のしがいのある真の「論敵」たりえなかったのが、元首相の不幸であったかもしれない。合掌。


2022年7月6日水曜日

断想: 課題解決のための議論なら日本人も盛んにやっている、しかし・・・

日本の社会では重要な問題について正直ベースの議論を避ける傾向がある・・・という点が最も重要な問題だというのは、本ブログでも同じ主旨の投稿を数えきれないほどしてきた。

これは「まったく、議論をしない」という意味ではない。好例があったので具体的に補筆しておきたい。


メディアでも論壇(という世界はもう現代日本社会からは消失したと小生は思っているが)でも、政府内でも、問題発生の序盤から中盤にかけては盛んに議論をし、激論にもなるが、解決がみえてきた終盤から解決直後にかけての総括段階の議論が急激にレベルダウンするのである。この点が日本的問題解決パターンを特徴づける最大の弱点だと思っている。

序盤から中盤にかけて意見・反論・異論が雲のように湧きおこって来るのは、結末が見通せず、誰が何を言ったかは解決時点ではもう誰も覚えていないからであり、活発な討論は裏返して言えば無責任に徹することができるからだと、小生は思っているのだが、これは余りな皮肉だろうか?

これに対して、終盤以降の総括段階で急に議論が慎重になるのは、誰が間違っており、誰が正しかったかという区分が、余りに明瞭に視える化されるので、全員の和を保つには本質的な総括は曖昧なままにしておくほうがプラスだと。そんな思考が日本では優勢になるのだ、と。ザックリと言えば、済んだことで感情をささくれ立たせるのは止めようという退廃がそこには隠れているのだと、そう言えば、余りに無情だろうか?

その一つの例に《コロナ禍への対応》の総括があると思う。そろそろ記録や事実が整理できる終盤であろう。


2020年のコロナ禍立ち上がりの序盤、日本で主流を占めていた意見は《ゼロ・コロナ戦略》であり、そのためにこそ何より「水際防止体制」が重要だと、そういう議論を何度耳にしたか分からない。そんな思考の流れの中で

検査自体には意味はないんです

医療専門家からこんな発言を聞くことも多かった。

考えてみれば、水際防止重点主義の裏返しが、国内PCR検査の不徹底であったのだろうと思われるが、水際防止は長くて一月程度も成功すれば御の字であったはずだ。国内で感染が拡大した時の対応こそが最重要な課題であるのは自明であった。ところが国内での感染拡大を前提した対策は、議論百出、百家争鳴の状態で、立法府、行政府、学界、医療界、財界、メディア等々、結局のところ組織的な対応と言える施策は特になかった印象をもっている。とはいえ、感染序盤の下で今後の対応をめぐる議論が盛んに行われていたことは事実である。

特に

経済対策を優先するか、それとも感染対策を優先するか?

で日本人は大いに議論をした。その頃、いわば日本のお手本であったのが、一つには台湾、もう一つにはニュージーランドであったのは、当時のTVワイドショーを一度でも観た人はよく記憶しているだろう。中国は・・・といえば、中国式の感染対策が<有効>であることは分かるが、日本では体制上の制約から(残念ながら?)実行できない、という辺りが日本人大多数に共通した感想だったに違いない。

ところでBloombergがこんなサイトを現在まで逐次アップデートしながら公開を続けている:

The Covid Resilience Ranking

The Best and Worst Places to Be as World Enters Next Covid Phase

Published:  Last updated: 
最新の結果は下のように要約している:
 A consistently strong performer in the Covid era, South Korea moves into first place in June, followed by the United Arab Emirates and Ireland. No. 1 for three months in a row, Norway drops to fourth place, with Saudi Arabia rounding out the top five. 

URL: https://www.bloomberg.com/graphics/covid-resilience-ranking/

第1位は、(何だかんだ言っても?)韓国である。 全体のランキング表は元のサイトに移動して表示させることが出来るが、中国は第51位。中国より下位にある国は、台湾とロシアの2国のみである。 

ちなみに評価の高かったニュージーランドは第35位。日本は第30位となっており、日本はニュージーランドよりはパフォーマンスが良いという評価になっている(どちらも中より下で誉められたランクではないが)。 

この事実を総括的に振り返った番組なり記事は、日本のメディアでは(いまのところ)皆無である ― 小生の不勉強で見落としているのかもしれないが。 

コロナ禍はもう過去の問題なのだろうか?決して過ぎた事ではない。2009年の新型インフルエンザが決して過ぎた事ではなかったように、新型コロナも過ぎた問題ではない。今でも問題として存在している。だから、しつこく議論を続け、話題にとりあげ、考察を深めて、総括までもっていかなければダメなわけである。


上のデータに気がついたのは、英紙TelegraphにJeremy Warnerが寄稿した記事"We must not follow China into a never-ending lockdown nightmare"に言及があったからだ。

 For Xi, who is up for election for an unprecedented third term as party chairman later this year, zero-Covid has been made synonymous with his own success or failure as a leader, and is therefore a totemic policy that cannot be challenged. This might make him more vulnerable to opposition; the policy has come at shocking economic and social cost. But it has also had the effect of suppressing criticism and preventing discussion of alternative strategies. 
Yet there is no such restriction on external appraisal. From being the standout number one in the Bloomberg Covid resilience rankings — which seek to assess how well countries are dealing with the pandemic — China has sunk all the way down to 51. Only Taiwan, which has similarly applied a zero-Covid strategy, and Russia, are deemed to be doing worse.

 Source:The Telegraph, 5 July 2022 2:27pm 

問題解決に向けて日本人は何も議論をしないわけではない。なるほど公の場で議論を堂々と展開するべき責任のある政治家は為すべき仕事を満足にしていないかもしれない。しかし、世間では多くの場で、ネットやメディア上で、多くの意見が提出されていることは事実だ。

ところが、PDCAサイクルの中で日本人が強いのは、最初のPの段階だけであって、実行するDの段階ではPの成果を十分にくみ取らない、Pの成果に基づく意識が乏しいので実行後に成果をチェックするCの段階には不熱心かつ消極的であり、故に改善された次の行動につなげるAの段階に進まない。結果として、PDCAではなく、ある人のPとD、成果が不十分だから別の人のPダッシュからDダッシュ、それもダメだからPツーダッシュを試みてDツーダッシュを得る。つまりチェックとアクションがない。ヘーゲル流にいえば、テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼという矛盾から認識を深める弁証法的な発展の論理を、どういう訳だか、嫌う。自明の公理から綺麗なロジックで引き出される単純な論法を愛する、というより偏愛する。やってみて生じる問題点を情報ではなく失敗と受け止めてしまう。問題発生で可能になるはずの認識の深まりとそれに基づく改善を何故だか嫌がる・・・  要するに 最も重要な総括段階の議論を避けるところが目立つ。ダメなら最初に戻って、という行き方を好む。

そんな印象があるのだ、な。人によっては
日本的問題解決とは、要するに、行き当たりバッタリ
と酷評したりもするのは、だからだと思う。よく言えば、チャンスを生かす、悪く言えば近視眼的で機会主義的というのは、ずっと昔から海外から寄せられている日本的行動批判ではあるわけで、マ、何となく納得する自分がいたりもするわけである。

研究で最も重要なのは、計画と実験、結果の観察と公表、討論、そして総括という流れの中の《総括》である。個々人のベースでは不可欠な総括作業を怠ることがないにも拘わらず、それが組織の中で必須ではなくなった状態では、なぜ嫌がるのか。その原因は最初に書いた通りではないかと憶測しているのだが、日本社会の不思議なところだと思っている。

2022年7月2日土曜日

電力不足?: 「東電」という会社は元のように復活可能なのだろうか?

 今年は東京電力が実質国有化されてから10年目になる。節目となる時機だという主旨だろうか、今年初の日経ではこんな風に書かれている:

東京電力が実質国有化されて2022年で10年になる。11年の福島第1原子力発電所の事故をきっかけに、持ち株会社制の導入、他社と火力発電事業統合など経営改革を進めてきた。今なお福島の復興は道半ばで、収益改善は原発再稼働頼みという体質を変えられていない。成長戦略を描き実行できなければ、次の10年も停滞しかねない。

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC204RZ0Q1A221C2000000/

Source:日本経済新聞、 2022年1月3日 4:00

小生の印象でしかないが、仮に東電が所有する新潟県柏崎原発 — 福島原発は第一、第二とも廃炉が確定済みである ― が再稼働するにしても、東京電力という企業に対して日本人の信頼が戻ることは、ちょっと無理ではないだろうか。稼働中であっても、些細な理由で停止命令が出る事態が多分頻繁に生じるのではないかと予想している。真っ当な経営にはならないのではないか。

つまり

東京電力が原発施設を運営するのは、ほとんど「不可能」とは言えないまでも、国民の大多数が抱く強い拒絶感を政治家は無視できないのではないか?

内閣支持率、与党支持率が急低下する政策は、いかにそれが理に適っているとしても、実行は無理なのである。それが民主主義社会だということは本ブログでも何度も投稿済みだ。 

良薬は口に苦し、良言は耳に痛し

この格言は民主主義社会には応用できない。例え良言であっても、国民が反発すれば「間違っていた」と謝罪を求められるのが現実である。 

なので、東電という会社が元のように復活することはない。電力会社としては《死に体》であると言っても過言ではない。そう思って観ている・・・一面的に過ぎるのかもしれないが。


どうしても首都圏、というより日本国内の電力供給安定のために、原発施設を再稼働するのであれば、東京電力とは別の責任主体が存在しなければならないのではないかと感じる。

というか、東京電力は現在も無配である。マア、公的資金が注入されているので仕方がないが、それでも株価は北海道電力とほぼ同水準、というより本日現在で北海道電力の株価より高く、500円から600円程度を目安として変動している。東日本大震災前に比べれば、随分下がったが(北電はともかく)公的資金も返済できない東電にしては(?)むしろ意外なほど安定している。

北電は(原発を停止しているとはいえ)配当利回りが4%台である。高利回りだと言える。電力株は一時代昔なら退職サラリーマンの絶好の投資先であったのだ。繰り返すが、東電は無配である。持っていても仕方がない。値上がり期待だけが保有する動機である。国有化されたのは「潰れる寸前」であったからだ。そんな東京電力が北海道電力と同水準の株価をキープしている。この事実に戦後日本の資本主義がもっている限りないイカガワシサ、と言うか「汚らしさ」が象徴されているように感じるのは小生だけだろうか?


悪いことは言わないから(?)、『日本原子力発電公社』を設立すればいい。先ずは新潟・柏崎原発を国有財産にして経営分離させ公共企業体として電力供給に当たればいい。売電収入は財政再建にも寄与するだろう。民営化と公共企業体とのバランスはいま逆方向に振れ始めている。年金保険は赤字体質になり民営化で効率化する方がよいが、エネルギーは安定した利益が見込める分野だ。安定した利益が見込めるからと言って、民営であるべきだという結論に必ずしもならない。これも認めるべきだという現実がここにある。そういうことではないか。民主主義社会は理屈通りにはならない。やはり《現実》を観なければならないということだ。

同じことはずっと昔にも投稿したことがある ― 予測が小生の生業なものだから、何でも予想の対象にするのは半ば趣味なのだ(例えば、この投稿では長期予測の棚卸をしている)。


最近、どこかで読んだのだが(ポール・ナース『What is Life?』だと後で分かったので引用部分も直しておいた)

数学は完璧を目指す学問。物理学は最適化を目指す学問。生物学は、進化があるため、満足できる答えを目指す学問だ。(ステップ5『情報としての生命』から)

満足できる答えとは「何とかやっていけるやり方をみつける」という意味である。最大効率、最短経路が実現されるわけではない。故に、生物は複雑化の一途をたどる。非合理、かつ非効率にもなる。

生物の集団である社会も同じなのだろう。現実の社会は、最適化から発想する物理学的センスでは本質を把握できない。生存のための工夫の積み重ねが現実の社会をつくると理解するべきなのだろう。最近流行の用語を使えば《自己組織化》ということだ。一度破壊してゼロからやり直すほうが効率的なのだろうが、そうするには余りに調整コストが巨大になる。

出来ないことは出来ない。ならぬものはならぬと同じことです。

やはり現実を直視して実行可能な選択肢から最善の方法を選ぶべきということか。