NHKハイビジョンで再放送されている『大岡越前』(リメーク版)。町奉行が出座するお白州の場の正面に額がかけられており、そこには「守道有天知」の5文字が墨書されている。
ずっと昔に加藤剛主演のオリジナル版が放送されていた時には小生も好んで観ていたが、その時には奥にかかっている額を考えてみるなどはしなかった。
ネットでこの句の解釈を調べてみると、どうやら『道を守れば、天の知るあり』ということで、要するに「行うべき事を行い、あるべき人としてあれば、天の知るところとなる」。そういう解釈が主流であるらしい。いわば「守るべき道がまず先にあり、それを守れば、天もそれを知ってよい事(?)がある」と言ったところだ。思うのだが、この解釈は倫理の実践に関する功利主義的な立場ではあるまいか。ちょうど『情けは人のためならず』という格言と似ているような気がする。
TV画面の中で上の語句に改めて気がついた時、小生は「道を守らんとするは天の知ること有るべし」という意味であると考えた。
「何か大事なことを守りたい」と、そう考えるなら、現実を直視して、世界が進んでいく方向を洞察することが不可欠である。それが天意であり、「天意」即ち「歩くべき道」になる。つまり、何が正しい道であるか、その区別は人間が下すのではなく、天意が下すことである。天意はこの世界の表層から本質を観る努力さえすれば人間にも洞察できるので、まずは自己の独善を捨てて、天意を洞察できる者だけが正しい道を進みうる。ま、要するにこう考えたわけだ。
つまり功利主義ではなく、超越主義に、小生自身は実証主義とすら思うのだが、そんな部類に属する解釈である。道を志せば天もこれを知る、ではなくて、道を歩みたいなら天に
裁かれる罪人にとっては功利主義の方が有難いであろうし、この5文字を背に負って裁く町奉行の立場にたてば、日ごろ拳拳服膺するべき心構えがこの句であるのかもしれない。
時代が時代なら古典をどう解釈するかで派閥が形成されているはずで、小生もまたいずれかの派閥に共感をして属していたに違いない。そして激烈な権力闘争を繰り広げていただろう。権謀術策も敢えてしていたかもしれない。それはそれなりに面白い人生であったかもしれない。
人間の世界はどこであれ、いつであれ、同じようなところがある。
ただ、調べてみると上の「守道有天知」の文字。ドラマ「大岡越前」の何番目かのシリーズから導入されたともWikipediaでは紹介されており、一貫性はないらしい(リアルタイムでは全く無関心だったが)。とすれば、歴史的事実とはまた違っているのかもしれない。
ま、本日は標題がすべてだ。歴史考証はまたにしよう。
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そういえば、儒学には「格物致知」という名句もある。元々は孔子以前の中国の古典『礼記』の一節からとられた語句だが、この意味解釈は学派によって区々様々に分かれたことでも有名だ。
近世に至って最も有力な解釈は朱熹(=朱子学の祖)によるもので、『格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めたため、後に格物や格致という言葉は今でいう博物学を意味するようになった』との説明がWikipediaにはある。
福沢諭吉は儒学をこき下ろしていたが、元来、儒学には現実を客観的に観察して知に至ろうとする健全な経験主義も含まれていた。実際、江戸期の荻生徂徠や新井白石の仕事は、頑迷な「〇〇イズム」とは無縁である。
上の「守道有天知」もこの流れの中にあるのかと思われたので、メモっておく次第だ。
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