2023年9月29日金曜日

夢と散策の覚え書き

 夢でこんなお喋りをしていた:

小生: 職業病だな……

友人: 何が?

小生: 医者というのは、何かっていうと人を《病気》にしたがるよな。

友人: それを言うなら、経済学者は何かっていうと、単なる違いを《格差》にしたがる人種だよ。

小生: こないだこんなことを言われたヨ。薬を飲み始めると、早く病気を治したい、なるべく早く薬から卒業したい。そう思いませんか?ってサ。誰でもそう思いますヨって応えると、でもネ、齢をとると中々治らないんです、最後には症状が治らなくなって寿命を迎えるんですネ、だからお薬から卒業するのは無理なんです。サプリだと思ってのんで下さい。そうやって人類は平均寿命を延ばしてきたんですヨ、ってな。おれ、思わず感心したよ。

友人: アハハハ、うまいことを言うお医者さんだナア。そのうち、経済格差を問題にすると、格差が広がると早く格差を小さくしたい、格差があるのは善い社会ではない。そう思いませんか?ってサ。すると、こんな経済学者が出て来るヨ。社会がある程度まで発展してきますとネ、格差はもうなくならないんです。格差があるのは自然な事なんですヨ。だから格差をなくすのではなくて、格差があるのは自然だと思って、自分に出来ることをして、自分なりの幸せを築いていくのが善い人生というものですよって……。な?

経済学から入った小生は、『それはちょっと違う話しだよ』と言いかけたところで、目が覚めた。

この夏は、北の港町で暮らしている小生にも耐えがたいものがあった。来年は窓を断熱ガラスに替えて、いつでもエアコンを入れられるようにしておくか。

そんなことを考えながら、流石に涼しくなった近郊を散策していると、秋の花がいつの間にか開いていた。

吹く風に 暑さ忘れて 萩のはな

夕風に 小菊の咲ける ここかしこ


格差を嘆くより、人生の幸福に関心を集中するほうが賢いというのは分かる。幸福であるために避けなければならないのは、先ずは<嫉妬>であるというのは、多くの先人が語っている。しかし、<後悔>もまた避けなければならないのである。そして、後悔を避けるのは、極めて難しい課題だ。かつ、解決不能でもある。

あの時、何故ああ言ってあげられなかったのだろう?

あの時、あの一言を言いさえしなければ……

あの時、何故あそこに行けなかったのだろう?

先日の投稿

善人であっても意図することなく悪を為すのが現世に生きる人間という存在である。故に人間はすべて罪人である。

こんなことを、何度目になるか分からないが、また書いている。が、 だからと言って人間はすべて幸福にはなれない、とは結論できない。「なれる」と考えなければ無意味だ。

ということは、幸福な人が幸福であることの合理的理由がない。

自然にある心の状態の一つが「幸福」と呼ばれるものなのだろう。そこには善悪とか、罪とか罰とか、人間の俗っぽい理知や理屈は入り込まない。善人と悪人に分けられると議論しているのは人間だけの理屈であって、本質論的に言えば、そもそも人はすべて悪であると思わざるを得ないからだ。故に、人は自助努力では真に幸福にはなれない。

なので、幸福は、文字通り、神の祝福、阿弥陀仏の慈悲であるのだろう。

どうやら「宗教哲学」として議論するなら、そんな理屈になっているようだ……


マ、こんなところで1時間程度の散策になって拙宅に戻った。

2023年9月27日水曜日

徒然: 首相の政治と芸能スキャンダルの重みを比べると

岸田首相が自ら経済対策の五本柱について説明したが、どのニュース解説でも一回だけ軽くなでた感じで伝えた後は、その効果や必要性、財源や意義について掘り下げたりはせず聞き流してしまったようだ。

これが二昔も三昔であれば、総理大臣自らTVカメラの前で総合経済対策を説明するとなれば、世間の注目を一身に集めて、どのテレビ局も特集番組をつくって放送したことだろう。


大体、戦前期・日本であれば、国家のために国民は何が出来るかが中心であって、時には命を差し出すことさえ求められたわけである。差し出す犠牲があって、もらう権利が生じる。こう考えると、(経験はしていないが)戦前期は国民が国に差し出してばかりいたような印象がある。

戦後はゼロから復興を始めた。だから国が国民の生活のために何か対策してくれるなど、それだけで時代の変化を感じただろう。政府が何かをするとすれば、道路やダムなどの社会資本を造ったり、外部不経済のある活動を統制したり規制するのがホボゝ常識であった。カネをくれるなど、戦前期の日本を知っている人からみると、

その有難さには 涙こぼれる

であったのではないか。勤労奉仕も戦争も兵役もなく、カネまでもらえるのか、と。

それが今では政府が国民のためにやってくれるのが当たり前になったようだ。

しかし理屈で言えば、100のカネを集めて、100の政策を行うのが政府という公的存在だ。本来は、奪われることもなく、もらうこともないはずだ。今はもらうことが当然だと感じる社会心理が浸透している。この有難みを感じない状態が永く続くとは思えない。その内、日本政府と日本国民との関係性も元の自然な状態に戻るのではないかと予想している。


元より岸田首相の総合経済対策はスケールの大きな話だ。その割には胸に響かない。一方、ジャニーズ問題は、それ自体としては、小さな話である。ところが、ネットでは毎日色々な意見が投稿されている。ソーシャル・リアリティ、というか現実の日本社会の断面がそのまま映し出されている事件であるから、ジャニーズのファンであれ、無関心層であれ、明確な意見をもつのだと思う。

岸田首相の政見談話から伝わってくるリアリティと、ジャニーズ事件から窺われるリアリティと、こんなリアリティの違いが日本人の反応の度合いの違いとなって現れているということなのだろう。


それにしても、CMを打ち切ったり、番組から降板したりするスポンサー企業にジャニーズ・ファンが「不買運動」を展開するかもしれないと述べる御仁もいたりするから吃驚だ。

もしやれば中国とは違って日本では《威力業務妨害罪》か《偽計業務妨害罪》にあたる可能性が高い。社長による《強制わいせつ罪》のあとはファン層による《営業妨害罪》となれば、会社と関係者全体が「反社会的組織」に公式認定されてしまう展開になるやもしれませぬ。世間の常識からかけ離れている点では旧・統一教会とドチコチだ。もしもそんな仕儀となれば

世も末でござる

井原西鶴の浮世草子そのままの世界が令和の日本に再現されるかのような感覚だ。


思ったりするのだが、

もしジャニーズを創業したジャニーさんと姉のメリーさんが生きた人生を映画化すればどんな作品になるだろう。

確かに犯した犯罪は世間の話題になっており、吐き気を覚える程のホラー映画になる一面はある。しかし、創造的アーティスト、プロデューサーとして天才的活動を続けたことも一面の事実ではないか……、と考える日本人は多いと思う。

親族・関係者の承諾は当然必要になるだろうが、善悪両面を兼ね備えたジャニー・メリーの姉弟の人生を映像化して後世に遺せば、これまた令和の日本社会に可能な一つのケジメの付け方になるのじゃあないか。そんな気もするのだ、な。万が一、BBCのお膝元の英国やアメリカのハリウッドが映画化するなど、そんな仕儀になれば日本の恥の上塗りになるのじゃないか……、作品名は好意的なら"Entertainment"か"Producer"、悪意があれば"Predator"(=ケダモノ)。イギリスが実写映画化するなら、やっぱり後者の方だろうナア、と。そんな心配もしたりしているので御座ります。

日本浪漫風の意見はここに書いた。法的ロジックはこうなるのではないかというのはここに書いた。20世紀後半から21世紀初めにかけての日本社会の実相を象徴する《事件》として、人間の善と悪を日本人はこう考えていたと分かるような、何かの記憶を具体的に残してほしいものだ。

2023年9月24日日曜日

ホンノ一言: ウクライナ戦争とクリミア半島

ロシア=ウクライナ戦争は長期化するとの見通しが出てくる中、ロシアもウクライナも《戦争経済》をいかにして運営するかで頭を悩ましていると伝えられている。

黒海経由の小麦輸出を封じられたウクライナは陸路でヨーロッパに輸出をしているものの、ポーランド、ハンガリーなどは自国農家を守るためにウクライナ産小麦に禁輸措置を講じている。それをゼレンスキー大統領が国連総会で非難し、その発言にポーランドが反発している。ウクライナも経済運営で瀬戸際であるはずだ。

ロシアの戦争経済については、少し前に投稿した。軍需品生産に資源を集中しながら国民に耐乏生活を強要しないためには消費財輸入を拡大するしかないという理屈になり、中国がそれに応じているという現状がデータからは確認できるわけだ。


経済的苦境もあるためか、いま足元では、ウクライナによるクリミア半島攻撃が激しくなっている。ウクライナのクリミア半島へのこだわりは相当なものである。黒海ルートを開放するのが直接的目的ではあるのだろうが、もっと本質的なところではロシアにクリミア半島領有を諦めさせたいのかもしれない。そしてロシア海軍の代わりにウクライナ海軍を置きたいのかもしれない。そうすれば、ウクライナはトルコと協調して中東、東地中海全域に影響を与えうる地域大国になれるポテンシャルを持っている。


しかし、クリミア半島領有については前にも投稿したことがあるが、ロシアが諦める確率は低い。例えば、<クリミア半島>でブログ内検索をかけた結果を見よ。ロシアによるクリミア半島領有については、それなりの正統性"legitimacy"があると考えるのは、決して少数派ではないと思っている。

であるので、ウクライナによる攻撃がクリミア半島領有に執着しているからだとロシアに映れば、ロシアにはウクライナによる「侵略」と映るはずで、国防の意味からも「核兵器使用」を正当化する動機を形成させるだろう。仮にロシアがそう考えるとして、

それはおかしいでしょう。先に手を出したのはあなたですゼ、それは侵略じゃあないんですかい?

これが常識なのであるが、そもそも戦争当事国に常識を問うたところで通るものではございませぬ。 限定戦争から全面戦争に移行する契機は、どんな小さなことでもよいのである。


もしもロシアがクリミア半島攻撃を続けるウクライナに対して(ある種のシグナルが出された後にはなるだろうが)核兵器を(限定的にか警告的にか)使用する場合、ゼレンスキー・ウ大統領はロシアに対する核報復をアメリカ政府に要求する確率が高い。

アメリカ政府に要求することは西欧全体を含むNATOに要求することと同じであるから、その要求は拒否されるはずである。

しかし、既に多大な犠牲をウ国内で払った現状の下ではゼレンスキー大統領も妥協する余地が乏しい。故に、クリミア半島攻撃を続行する動機をもつ。NATOが核報復を拒否した状況の下で、ウクライナが「侵略行為」を続ければ、ロシアはウクライナに本格的な核攻撃を行う誘因が形成されるだろう。


戦争には戦争のロジックがある。

上のようになる前に停戦を促すべきだろう。

一般的な意味で侵略行為を抑止することは大事だ。しかし、何をもって「侵略」と判定するかに世界共通の定義は確立されてはいないし、文言上の定義があるとしても一方の側に「それは侵略だ」と解釈されれば、それは侵略として作用してしまうのだ。

大体、一口に侵略と言っても、「安全保障上の侵略」、「軍事侵略」、「経済的侵略」、「思想的侵略」、「文化的侵略」と、多くの次元がある。そして、全ての侵略は否定されるべきだという理念はない。つまり、ある種の侵略は容認されている。しかし、他国によるいかなる侵略も許さないと考える国家も多いであろう。何をもって「侵略」と解釈されるかは、ケース・バイ・ケースで不確定であるのが現実だ。

侵略抑止という高尚な目的には賛同するが、予測される"disaster"を回避する責任も政治家にはある。

2023年9月20日水曜日

一言メモ: 日本社会が特異であり「国際感覚」が欠如している証拠なのか?

先日も投稿したジャニーズ事案だが、日本国内のメガ企業がジャニーズ事務所との取引を停止する動きが続いている状況の中で、「所属タレントの出演機会を奪う行為はイイのか、悪いのか?」といった議論が巻き起こりつつある。

まったくピントのぼけた話しだ。それは「後の話し」であろう。

本件そのものは、別に日本経済に関わるほどの大問題でもないわけであるし、どちらかと言えば小さな問題だ。とはいえ、眺めていると日本社会独特の傾向も窺われ、これ自体が別の問題を提起しているようにも感じるのだ、な。

まず最初に確認するべき第一の要点だと思うのは、ジャニーズ創業者による「性加害行為」であるが、(メディア情報を聞く限りでは)これは《強制わいせつ罪》にあたり、刑法が適用されるべき《刑事犯罪》であるという点だ。国内メディアはここを<ぼかして>報道している印象を受ける ― 何となく、ではあるが。

2017年の刑法・刑事訴訟法改正によって、「強制わいせつ罪」は従来の親告罪から非親告罪に変更されている。また、非親告罪であるという変更は遡及適用されることにもなっている(例えばこれを参照) ― なお直近の刑法改正によって「強制わいせつ罪」は「不同意わいせつ罪」、「不同意性交等罪」になり一層厳格化されている(たとえばこれ)。

なので、例え被害者の会が刑事告訴をせずとも時効期間内の行為については捜査機関が刑事事件として立件するべき事案である。暴行障害や殺人と法的には同じ扱いである。民事訴訟で「慰謝料」を求めるなどという水準とは全く別である。

遡及適用される時効期間が相当に長い点を考慮すると、ジャニーズ創業者には、おそらく、時効が満了していない犯罪行為も調べればあると推測される。だから、検察・警察が関係者への事情聴取にいまだ着手していないのは、こちらの方が寧ろ不可思議である。ジャニーズ事務所から依頼された第三者調査委員会「外部専門家による再発防止特別チーム」の座長が前検事総長のH氏であったにもかかわらず、だ。

それをしないのは、おそらく、同社が被害者に対する「賠償」方針について検討を進め、併せて経営改革を模索している状況である点を配慮しているからではないか、と憶測したりしている。

いずれにせよ、創業者ジャニー喜多川元社長が社内で繰り返した一連の行為は(少なくとも)<被疑者死亡のまま書類送検>という結果をもって終わるべき刑事事件(それも相当大規模の)である。この点をきちんと分かっておく必要があるのではないだろうか。


そもそも「ジャニーズ強制わいせつ事件」については、20年も前に最高裁判決で事実として確認されており、今年の春に英国・BBCが、長期間に渡って「見逃されてきた犯罪」と多数の「被害者」を報道し、国連人権理事会が調査を行い「犯罪性」を認定する所まで終わっている。この刑事事件全体の真相解明は(事後になってしまってはいるが)日本国としてやるべき課題になっていると言うべきだろう。もはや「隠蔽」はできない。部外者でもこの位は簡単に分かる。メディア各社に分からないはずがない。

このまま事態が自然に進むに任せて

いやあ、元社長本人も亡くなってますしネ、今さら捜査をしても仕方がないでしょう

まさかこんな風に、日本の捜査当局、司法当局が、存在したはずの犯罪行為について、真相を明らかにすることもなく、これまでと一貫して不作為を貫けば、日本国の対外イメージはどうなるだろう?こちらの方が心配である。日本は西側諸国と共有する価値観の中に法治主義を含めているなどと、恥ずかしくて言えなくなる(はずだ)。法の厳正とジャニーズ事務所を比べれば、その重みは正に「月とすっぽん」ではないか。 

これらは非常に話題性に富む話しでマスコミ受けするはずだ。

こうした場合、従来の他の不祥事であれば日本国内のマスコミは

法的にはどうなるのでしょうか?

会社としての法的責任は?

社長個人の犯罪というより、経営幹部全体、というより企業による犯罪と言うべきでは? 

親族が経営に関与し続けることの目的は何か? 

などと、あらゆる点について連日のように放送・報道しているはずである。しかるに、ジャニーズ創業者を刑事犯として正しく認識し、そう報道しているテレビ報道は皆無である。

一体、どうなっているのでござんしょう?

不思議である。

被疑者が既に死亡しているからこそ、積極的に取材をして、今からでも遅くはない、正しい報道をし、報道機関としての恥をそそぐべき局面ではないか。もしいまナアナアで済ませれば、「日本の報道機関は報道機関として力量不足、その資格がない」という烙印をBBCか、CNNか、その他の米紙、英紙、仏紙辺りから、そんな烙印をダメ押しされてしまうのではないだろうか。万一にもそんな仕儀になれば、文字通り「恥の上塗り」ではないか — その方が日本政府には好都合かもしれないが、日本人としては何だか恥ずかしい。


ちなみに、テレビでは過去の被害者に対するジャニーズ事務所の《補償》を話題にしている。が、これも言葉の誤使用である。

少しネットを調べれば、あるいは大学で基礎的な法学を勉強していれば、《補償と賠償》の違いについて

よく両者は混同されますが、「補償」が適法な行為によって生じた損害について損害を填補するものであるのに対し「賠償」は違法な行為によって生じた損害を填補するものです。 つまり原因となる行為に違法性があるかないかによります。

この位の初歩的知識は持っているべきである。被害者は「犯罪」による被害者であるから、受け取るのは補償ではなく、(損害)賠償である(たとえばここを参照)。

先日、本ブログでも

どうやら創業者による性加害行為による被害者は数百人というオーダーに上るようである。おそらくもっと多いのだろう。これらの被害者の全てが把握できるかといえば、被害者本人が名乗り出ない可能性もある。ここが非常に不透明である。なので、被害を名乗り出た人たちに対してのみ損害賠償をするとしても、公平性が担保されない可能性が高い。問題点はいつまでも残り、傷が化膿するように企業イメージを毀損し続けるであろう。

こんな投稿をした。 

テレビでは「補償」と言っているので「変だナア」と思っていたところだ。


今回の事案は創業者社長が社内で長期間にわたり同種の犯罪行為を反復して実行したという大規模性にも特徴がある。

何十年という長期間、社内で「社長による強制わいせつ罪」が反復して行われ、それを周囲の人々が知っていながら敢えて放置したということから、そこには「常習的犯行の継続」を隠蔽しようとする<意図の存在>、<共犯者の有無>、<社内全体の共犯性の認定>も関係してくるわけで、これも線引き、というか要確認点である。

思うに、犯罪継続期間の長さ、被害者が驚くほどの多数である事、エンタメ市場における優越的地位を利用した周到なマスコミ対策などを考慮すると、今回の件は「社長個人の犯罪」ではなく「社長と側近たちが企てた企業犯罪」と観るべきではないか、と。主観的には、そんな風にも感じられてしまうのだ、な。

言い換えると、コンテンツを編成する国内TV各局は、「警察公認の反社会的組織」との交わりを一切断ち切りたいがため、「非公認の反社会的企業」とは親しくした。そして日本国内のメディア各社はそんな実質的には反社会的な企業経営の中に取り込まれた。最後には(BBCがこの春に放送しジャニーズ社が事実を認めるまでは)身動きがとれなくなった。本件の図式はこんな風に総括するのが適切でないかとすら思われるわけだ。


故に、これらを考えれば、

タレントには罪はない

等々の議論をいま繰り広げるのは、まったくノー天気な話ではないか。

もしもこうではなく、

すべてのタレントには罪はまったくない」と言うのは正しいか?

という問いかけであるなら、まだ分かる。

ではあるが、あった事実の犯罪性、反復性、規模、国際感覚などを考慮すれば、いま繰り広げるべき話は

この犯罪行為をなぜ長期間放置したのか? 

日本社会の感覚に何が欠けていたのか?

こういった問題意識に焦点が合っていないところに、日本社会の特異性がある。その特異性を海外に向けて(改めて?)宣伝するようなことは止めた方がよい。

「罪のないタレント」は然るべき別の組織とやり方で救済するべきだが、まずいま為すべき事は《見逃してきた犯罪》を裁くということだ。BBCによる報道でも、日本のメディア業界内部で《著名な社長による犯罪》が長期にわたり報道されないまま放置され、結果的に犯罪者が法廷で裁かれないままに「畳の上で」人生を全うした。日本人はこれを《痛恨の失策》と認識してはいないのか?、これが批判されている最大のポイントであったはずだ。

敢えて政府側の手落ちを挙げるとすれば、最高裁判決でジャニー社長の強制わいせつ行為が認定された段階で、それでも同氏が社長に居座り続けたジャニーズ事務所という会社を、なぜ法務省人権擁護局は監視下に置かなかったのか?なぜ警察は内偵を怠ったのか? 最高裁判決に対してジャニーズ社が示した不誠実な姿勢に対して、司法の不作為はなぜこれほど長く続いたのか? それが日本社会の低層で「人権侵害」が蔓延する背景になっているのではないか?日本社会はなぜそんな社会であり続けているのか?

一体、

《人権》とは具体的にどういう意味なのか?

あなたは幼稚園児でも分かるように説明できますか?

議論するべき点は多い。

目に見えない地雷は、いつかの時点で、爆発して関係のない人を傷つける

今となっては後知恵であるが、正に『後悔、先に立たず』と言えるだろう。

【加筆・修正】2023-09-23、09-24、09-26

2023年9月18日月曜日

ホンノ一言:アメリカ経済と中国経済と。それぞれに関する理解の合致。

今年初めにはアメリカ経済について多くの経済学者が景気後退を予測した。ところが、いま景気後退を伴わずしてインフレが終息しつつある。それは何故か?

この問いかけに未だ専門家の間で合意はないようだ。

ただ、徐々に問題は絞られてきている様子だ。


例によってKrugmanがNYTに寄稿しているが、

One of the two optimistic stories goes under the unlovely name of the “nonlinear Phillips curve.” 

これが一つの診断。即ち、失業率とインフレ率の間に一本の右下がりの回帰直線があるのではなく、原点に凸の非線形の「フィリップス曲線」が存在している、と。そんな見方だ。故に、インフレ率が非常に高い状態の下では、そのインフレ率を下げるために必要な失業率上昇はそれほど大きなものではない。そんなロジックになる。

う~ん、まあ、分かりますケド。ただ、1980年代の経済状況を振り返ると、この説明はちょっと違うような気もしますケド。とまあ、こんな感想も覚えるわけだ。コロナ禍3年の間に、いったんレイオフした労働力はまた必要になったからといって直ぐには戻ってくれないという、そんな予想が形成されて、企業側にも労働力退蔵(=Labor Hoarding )の動機が強まった。だから少々の金融引き締めがあるからといって、レイオフはしない。失業率が上がらないのは、だから、ではないか。そうも考えられないか。やはり労働市場における「行動変容」というのがあったのではないだろうか?とすると、元々存在する一本の関係、というよりは構造変化としてとらえる方が適切だ。

Krugman自身はフィリップス曲線、つまり労働市場の特性というより、コロナ禍から正常状態に戻るまでの"Disruption"、いわゆるサプライチェインの混乱によって価格が上昇し、今はサプライチェンが正常化しつつあるのでインフレは終息しつつある。そんな診断だ。

The other optimistic story has, I believe, a better name, although I would say that, since I think I coined it myself: long transitory, a play on long Covid. This is the argument that as late as early 2023 inflation was still elevated because of lingering supply disruptions from the pandemic, but that inflation is coming down now because the economy is finally normalizing.

 Source: The New York Times

Date: Sept. 11, 2023

Author: Paul Krugman

URL: https://www.nytimes.com/2023/09/11/opinion/inflation-unemployment-phillips-recession.html

つまり「異常から正常への移行」であったと観る。故に、問題は解決されたという診断になる。

ただ、どうなのだろう?景気後退を伴うことなくこのままアメリカ経済が回復していくとして、企業側の労働退蔵傾向が高いままであれば、労働市場の流動性が阻害され、人出不足になった分野から賃金上昇の波が広がるのではないか。単に正常化の遅れによって現状がもたらされたと観るのは一面的ではないか。

そうも思われるので、小生は「なぜ景気後退を伴うことなくインフレ率が終息したか」という論争は「どっちもどっち」のような気がする。

が、まあ、一部に政治的ないしイデオロギー的な異論は(わずかに?)残っているにせよ、経済診断としては大方のエコノミストは合意している。そう言えるかもしれない ― あくまで一部の異論を除けばだけどネ、というニュアンスだが。


アメリカの経済診断に比べると、中国経済の見方については「進歩派」から「保守派」までアメリカの論壇はかなりの合意が形成されつつあるようだ。先日、進歩派の代表格であるKrugmanの見方を話題にしたが、たとえば保守派の論壇であるWall Street Journalにはこんな記事が載った:

Yet in other ways, China’s problems will be harder to tackle than Japan’s.  

Its population is aging faster; it began to decline in 2022. In Japan, that didn’t happen until 2008, nearly two decades after its bubble burst. 

...

Then there is the problem of debt. Once off-balance-sheet borrowing by local governments is factored in, total public debt in China reached 95% of GDP in 2022, compared with 62% of GDP in Japan in 1991, according to J.P. Morgan. That limits authorities’ ability to pursue fiscal stimulus.  

External pressures also appear to be tougher for China. Japan faced a lot of heat from its trading partners, but as a military ally of the U.S., it never risked a “new Cold War”—as some analysts now describe the U.S.-China relationship. Efforts by the U.S. and its allies to block China’s access to advanced technologies and reduce reliance on Chinese supply chains have sparked a plunge in foreign direct investment into China this year, which could significantly slow growth in the long run.

Many analysts worry Beijing is underestimating the risk of long-term stagnation—and doing too little to avoid it. Moderate cuts to key interest rates, lowering down payment ratios for apartments and recent vocal support for the private sector have done little to revive sentiment so far. Economists including Xiaoqin Pi from Bank of America argue that more coordinated easing in fiscal, monetary and property policies will be needed to put China’s growth back on track.

But President Xi Jinping is ideologically opposed to increasing government support for households and consumers, which he derides as “welfarism.”

 Source: Wall Street Journal

Date: Updated Sept. 17, 2023 12:02 am ET

Author: Stella Yifan Xie

URL: https://www.wsj.com/world/asia/is-chinas-economic-predicament-as-bad-as-japans-it-could-be-worse-aa962d0d?mod=hp_lead_pos4

1990年代の日本が直面した問題に比べると中国がいま置かれている状況は更に悪い。これから構造転換に取り組むべき時に、正にその時に、人口減少、国債累増、対米外交の困難という三つの難問と同時並行的に取り組まなければならない。加えて、消費を軸にした国民福祉向上へと舵を切るべき時に、トップの習近平は福祉国家の理念に背を向けている。

中国が建て前とする社会主義・共産主義は、労働者が搾取される資本主義に対するアンチテーゼとして存在意義があるにもかかわらず、国民の福祉向上を目的とする政策には消極的であるのは、自ら社会主義的理念を否定しているという理屈になる。

かつてあったソ連が構築した社会主義国家は、なるほど経済計算が出来ないという「ミーゼスの難問」を解決できず、予測通りに破綻した。が、その動機や理念は極めて真面目であった。真剣に社会主義経済を運営しようとして破綻した。それに比べて中国共産党が推進する中国流の社会主義経済は、たとえようもなく不真面目だ。かつて共産主義の理想を掲げた社会主義国家群における劣等生である。もちろん、自由を尊重する資本主義国家の中でも劣等生である。そもそも動機が邪であるからだろう。誰のための社会主義、誰のための共産主義であるのか、正に語るに落ちる、というのが中国の現状だと観ている。

中国国民の不幸は続くと予想する。

2023年9月16日土曜日

断想: 「女流作家」。価値観は確かに変わりつつあるという実感か?

カミさんが『ミステリーと言う勿れ』の原作漫画を読みたいと言うので1巻から12巻までをマトメ借りしてきたのが数日前。大方読み終えたところだ。

原作ファンの中には同作のTVドラマに違和感を感じる向きもあったそうだ。

なるほどネエ……、原作のイメージを一部改変している点はあるネエ。ストーリーや台詞はほとんど同じだが。これは、ひょっとしてキャスティングされた女優さんや俳優さんの年間スケジュールが合わない所があって、やむを得ずウェートを置く役どころを変えたのか、と。そんな印象もある。


原作を読んで直ぐに感じたのは、

いかにも女性読者向けに女流作家が書いた作品だネエ

というものだ。もちろんネガティブな意味ではない。多くの読者を獲得するというのは、多くの人に受け入れられているからだ。つまり新しくて「今日的」なのである。

今日的であるというのは、創造的でイノバティブということでもあるが、よく思い返すと、今に至っていかにも女流作家的な作品がますます多く、一層広く社会に受け入れられているのは、ずっと以前から予想されていたような気もするのだ、な。

日本文学の最高の代表作とも言われる『源氏物語』を主に谷崎訳で読んでいる。谷崎訳は原文と照合しても、ほぼ正確に平安期の日本語を現代日本語に置きなおしているのが分かる。かつ現代日本語としての文学的レベルも高い。主語がないのも原文に近い。思うのだが、『源氏物語』という小説は、確かに大河小説ではあるが、ディケンズやモームとも異質であるし、バルザックの『人間喜劇』とも全く違う世界を描いている。それはマア、当たり前ではある。平安期・日本の貴族社会に近代的個人主義などありようもなかったから。

個人主義的価値観など全くなかったはずの世界で描かれる大作であれば、ほぼ必然的に事実の展開と英雄や民草の行動記録、つまり《叙事詩》としての大作になるというのがロジックだ。例えば、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』。日本文学をみても、平安時代が過ぎて鎌倉時代になって以降に現れた『平家物語』や『太平記』。これらは『源氏物語』とは別の意味で日本文学を代表する作品で、文学的香気にも溢れているが、書かれている事柄は出来事の記録であって、故に《叙事詩》である。これに対して、『源氏物語』はかつてあった時代を回想するという形をとっていながら、決して叙事詩ではない。

そういえば、平安文学の特徴の一つとして女流作家の日記がある。「土佐日記」は紀貫之が女性の振りをして書いた作品だが、「更級日記」や「蜻蛉日記」は正真正銘の女性による日記である。他にも「和泉式部日記」や「紫式部日記」もある。今日に伝わっていない作品を含めれば多数の日記作品が読まれていたに違いなく、作者の多くは女性であったと推測される。その日記だが個人としての《自意識》が先になければ日記の体を為すまい。女性がその意識をもっていたのは、日本の歴史でも平安時代の興味深いところである。


『源氏物語』は古典中の古典と言われているが、その作品世界は、極端に単純に例えてしまうと

人物A:あんな聞き方をされたから、こう答えたワ。そしたら、こう言われるのヨ。私、言ってやったワ。

人物B:何て?

人物A:「◎◎」って…

人物B:ワ~オ、よく言ったわネエ。

人物A :言っちゃったワヨ、あの人、言わなきゃ分かんないんだからサ。

人物B:そしたら何て?

人物A:何だか、何も言わなくなってサア、黙って窓の外を見てるの。あたし、萎えちゃってネ…そのままそおっと帰ろうとしたのヨ。そしたら、これこれの和歌を歌うの。歌うってか、ささやくようにネ、独り言だったのかなあ、それともあたしに聴かせたかったのかしら?

人物B:どんな歌?私にも聞かせてヨ。

清少納言の『枕草子』にも相通じるおしゃべりがそこにはある。数えきれない人数の登場人物の性格や内心の動きが言葉のやりとりの中に表現されている。似ていると言えば、近代イギリスの女流作家ジェイン・オースティンに非常に似ている。

これは決して「性差別」ではなく統計的認識として書いているのだが、女流作家の傾向として、おしゃべり好きである点を挙げてもよいと思っているのだ、な。


『源氏物語』もやはり女流文学的であって、そこで描かれている「事実」、というか出来事、イベントという意味だが、実は大した事実はない。確かに須磨に流亡した時に襲われた水害が描かれていて、谷崎潤一郎の『細雪』の第2巻など『源氏物語』の『須磨』を連想させるのだが、それとても大した話しではない。殺人事件があるわけでもなく、謀反や陰謀があるわけでもない。主人公が失脚しても獄に幽閉されるでなく、追手が矢で攻めてくるわけでもない。そもそも平安時代という時代は日本で死刑が執行されなかった時代なのだ。事件や出来事ではなく作品には言葉があふれている。言葉を語るからには語る人の心理がある。

語られる言葉には、当然、誠とウソが混じる。言葉は全てそうだ。作者・紫式部は語られる言葉を書きながら、語る人間の心理を書いている。言葉にはウソと誠が混じるが、その言葉を語る人間の心にウソはない。その時、そう思って、そう語るのが人である。例えウソであってもウソを語る人の心は真実としてある。これも人間観といえば、なるほど一つの人間観である。

人間のホンネを確かめたいなら行動をみればよいのである。しかし、行動をしない人に誠があるのかどうか?誠とは何なのか?道徳を守るということなのか?と、こんな疑問があった時代もあったかもしれない。意志と行動と組織の三つが薄弱化した「浄土」のような社会になり果てても、人間はおしゃべりを続けるわけであり、言葉がある限り人間はいつも人間的である。

正邪善悪は男性が決めるものだ(と概括してもよいだろう)。女流作家は、正邪善悪という道徳規範に縛られる気持ちが薄いのではないかと実は小生は思っているのだが、見ようによってはそれは寧ろ好ましくて、自然なことではないかと考えている。


現代に至るまでの千年の時間、忘却もされないで読み継がれてきたのは、教科書的な「もののあはれ」などではないはずだ。そもそも平安時代の日本人の美的感覚など現代日本人が共有できるはずがない。共感できるのは、人がこの世で生きる《生》が普遍的だからだろう。社会は変化するが、一人一人に分解してみれば、人間は時代や国を超えて同じように感じ、同じように考えるものだ。故に、習俗・習慣がまるで違う異境のような古代日本社会における恋愛や不倫であっても現代人にとって理解可能なのだ。


その意味で、『源氏物語』はリアリズムにつながる面を持っている。リアリズムは千年ほども前に現れた文学作品にしては珍しいのかもしれないが、しかし西洋の『新約聖書』に描かれている人間心理もまたそれに劣らず迫真的である。そればかりでなく、バイブルは事実の進行もまたドラマティックで、一編の悲劇を見事に構成している。ただバイブルには、日本人好みの人間の業や前世からの宿縁といった仏教的想念が欠けている ― ま、当たり前であるが。それもあって、現世否定的でありながら、享楽的、(平安時代にあってさえも)反倫理的でありつつ自らの宿業におののく人間の心理を描写している所に、当時の貴族社会に生きた読者は非常なディープさを感じたのだろうと。こんな風に想像しているのだ、な。

前にも、こんな投稿をしたことがある:

「ああ言われた」とか「そんな言い方はないでしょう」という言い回しもあるので、日常生活の上で言葉は大事だ。「ものも言いよう」という格言もある。

確かにマナーは平穏に暮らしていくためには不可欠な約束事である。

しかし、やはり小生は言葉の問題はレベルの低い事柄だと考えている。社会の進歩や問題を解決するのは、言葉ではなく行為である。

「どんな風に言ったか」は振り返ってみると、大した事ではないということが分かるものだ。大した事でもないのに執着する人は器が小さいからだと感じられてならない。

男性キャスターが「大事なのは言葉です」と語った場面を揶揄した投稿もある。小生は男性であるためか、おしゃべりや雑談に大した意味はないと思ってこれまではやって来た。

しかし、今は

確かに言葉は大事だ

そう思うことが増えてきた。

もし21世紀の日本で女流文学の黄金時代が到来すれば、文化的にとても豊かな時代になるかもしれない。そして、多分、森鴎外や夏目漱石、永井荷風、島崎藤村、谷崎潤一郎、三島由紀夫といった面々が創作した文学作品とは、質的に違った作品が生み出されるような気もする。


2023年9月11日月曜日

断想: 男色と混浴。西洋と日本の文化的関係も考慮するべきなのか?

今日は同じ事を視るにも色々な切り口があるという趣旨でメモしておきたい。


日本は歴史的に<混浴>の国であった。式亭三馬が『浮世風呂』で描いている銭湯も混浴である。江戸幕府は公娼ではない私娼の巣窟になるので時々禁止令を出したが、混浴の習慣は明治まで続いた。明治維新で西洋列強の習慣が輸入されて来るに至り、明治政府は混浴を野蛮で恥ずかしい習慣として徹底的に取り締まり、ついにその撲滅に成功したのである。そして、「覗き見(=窃視の罪)」という犯罪概念が日本人の社会心理に深く刻み込まれた。故に、男性(女性)が女性(男性)のヌードを隠れてみるのは、更に他のありうるケースにおいても、覗き見は犯罪であり、まして盗撮などは憎むべき罪悪であることを、今では誰もが承知している。

とはいうものの、それは現在だから言えることで、明治の初め、混浴禁止に猛反発する女性達がいたことも資料に見る通りだ。禁止の徹底に対して平均的な日本人が感じた当惑や困惑、反発と怒りは、今日の日本人も何となく想像できるのではないだろうか。

それまでは大目に見られていた習慣的な行動が、『今後は一切禁止する』と上から命令されるとき人々は何を感じるだろう。そして、その根拠は『西洋にそんな習慣はない』というのだから、明治の文明開化に生きた日本人はかなり屈辱的な思いをしたと憶測もできる。

俺たちは三流民族というわけか

こんな風な怒りが鬱積したとしても自然である。何しろその数年前までは尊皇攘夷で外国人排斥に血眼であったのが日本なのである。

「本当はいけないのだけれど、長年の習慣で大目にみていた事」というのがある。混浴とは違うもう一つが《男色》である。習慣というより、<風俗>とも<習俗>とも言えるが、ここでは習慣と呼んでおこう。

豊臣秀吉は基本的に女性を相手に選んだそうだが、織田信長も徳川家康も少年を相手に性愛を満たしたことは確認されていることである。江戸幕府の三代将軍・徳川家光も少年を愛するあまり女性に関心を持たないことに春日局は心配を募らせたということも歴史好きには周知の事である。


さて、最近の騒動の種になっているジャニーズ事務所だが、創業者社長が自社の少年たちを相手に自分の性欲を毎夜(?)発散していると、ずっと昔、最初に耳にした人たちは、

こんな愛欲をもち続ける経営者がまだ残っていたのか

という感覚で聞いたかもしれず、発覚した20世紀後半から21世紀までの間、特に男性中心の報道業界では、おそらく大雑把にいえば

ホントかよ。好き者というか、傾奇者というか、今時なんて人だ…

と。そんな「豪傑ぶりに」呆れる感覚があったかもしれないが、極悪非道を断罪するという思考には至らなかったのではないか。小生はそんな憶測をたくましくしている。

何故なら、日本的性道徳において、男色は(少数派でありこそすれ)自然な性愛の一つで犯罪ではなかったわけだから ― ここがカトリック聖職者による児童虐待とは異なる。そして、そんな行為はパブリックな性格とは真逆の私的に秘められた内緒ごとでもあったからだ。

つまり、倫理や道徳は万国共通の理性に基づくのではなく、その国民が継承してきた感覚、感情によって決まる。要するに、多分に文化的側面がある ― だと言っても、尊重するべきだという意味ではない。

この言い方が抽象的に過ぎるのであれば、

日本人が最も嫌悪する悪行は何か?少年を愛する行為か?女性に対するストーカーか?そうではない。日本人が最も嫌うのは(凶悪犯は別にして)公職にある人による汚職(と、最近は不倫も?)である。

ではないか?いかに歴史的偉業を成し遂げた大政治家であっても、金銭を不正に受け取った事実が露見した段階で(裁判の判決を待つより先に)日本では「一発退場」となるのだ ― たとえ「不正な金銭授受」の金額が軽自動車1台相当の150万円程度であってもダメなものは駄目、レッドカードは覆らない(はずである)。日本で公職にある人には、プラスに着目する加点主義でも、プラス・マイナス両方をみる合計点主義でもなく、マイナスを数える減点主義で人物評価を行う。こうした思考パターン、というか日本的感性もまた日本文化の一つの側面をなすのである。

こんな自問自答に対する回答が日本的道徳観をつくっている。そして、やはりここには日本的国民性というものがあると。その感覚が日本における「重大犯罪」を概念させている。そう思っているのだ、な ― もちろん、この日本的重大犯罪の概念について個人的な私見というのはある。

ところが、明治になって風呂に男女が一緒に入るのは(その当時の)西洋からみれば極めて野蛮な習慣であったのとまるで相似形のように、令和の現在、今度は会社の社長が社内の少年たちを相手に性愛行為を繰り返すのは極めて野蛮で恥ずべき行為だ、と。残酷だ、と。社長は加害者で少年たちは被害者である、と。BBCが憤慨の報道を今年の春にしたわけである。

日本は先進国ではなかったのか

そういう図式のようにも感じられるのだ、な。

LGBTは愛の多様性をさす言葉だ。しかし、今回の件は支配者による強姦に等しい。煎じ詰めると、そういう非難である。ここには個人主義の発達した西欧の精神が溢れている。そもそも「人権」という概念は「共同体」に先立って存在するべき「個人の人権」なのであってヨーロッパ的精神の所産である。

明治維新から150年余が経つが日本人はこの個人主義を体得するのがいまなお苦手である。

日本人は、報道業界も含めてジャニーズ社内で起きていることを(うすうす?)知っていたはずだ。何しろ週刊文春による名誉棄損で争った際の最高裁判決で事実の認定はされていたのだから。ところが、今年の春になってBBCは「それは許されない犯罪だ」と。「児童虐待だ」と。そんな主旨で報道されるに至った。これに接した(日本の報道業界を含めた)日本人に当惑、困惑の心理が萌したとすれば、小生もまたその気持ちを共有できる部分がある、率直なところ。


確かに善くはないけれど、それほどの重大犯罪ですか?殺人や汚職じゃあないンですよ。ずっと前の時代の事を今の感覚で裁いてイイんですか?等々、「被害者」が言いたいことはあるが、「加害者」の方も言いたいことはあるかもしれない、というわけだ。

これまた現実の一つの切り口ではないかと感じる。

英米やフランスがそんなに憤慨しているというなら、正直ピンとは来ないですが、従いますヨ。エエ、ジャニーズの創業者は悪い人間です。放置した会社は悪い会社です、ハイ。ああ、東京五輪の汚職、あれもスイマセンでした。関係者はもう処断しました。言いたいことはありますけどネ。エエ、ジャニーズには退場してもらいましょう。しかし、私たちもある程度は分かってたんですよネエ…そんなに重罪とは感じなかったンですけど。マ、今はそれを恥ずかしいと思ってます。でもネ、外国のメディアがなんでここまでするんです?これほど本気になって何故怒るんですか?日本のためだと言うんですか?日本に圧力をかけるのがそんなに面白いですか?

つまり、ジャニーズの件については、色々な観点から言いたいことのある人が多数いると思われる。 

(核兵器ももっている)超大国・中国なら、

それぞれの国にはそれぞれの国の歴史があり、文化、習慣がある。守るべき倫理があり、容認される行為もある。一夫一婦制の国もあれば、一夫多妻制の国もある。自分の国と違った習慣だからといって、他国の習慣を非難するのは傲慢というものである。

北京の報道官はこんな風にBBCの非難を上から目線で却下するかもしれない ― そして(自国の法律事務所でなく)外国の報道機関に「被害」を訴えた自国民を「非国民」として軟禁するかもしれない。

が、哀しいかナ、日本は超大国ではない。故に、自分たちは完全にピンと理解はできないとしても、BBCが非難するのであれば、

ジャニーズは社長の犯罪を放置した悪い会社だ。その悪い会社を永年報道してこなかったメディア企業は不作為の罪を犯した。心から反省し罪を償うつもりだ。

こんな結論にするしか日本には選択肢がない。そして、この結論と矛盾しないように、後の事を逆算的に決めていくということである……


親鸞が『歎異抄』で言うように、善人と悪人がいるのではない。善人であっても意図することなく悪を為すのが現世に生きる人間という存在である。故に人間はすべて罪人である。社会も又しかり。意図することなく罪は犯される。他力本願の仏教がこんな社会観をもっているのに対し、キリスト教社会にはパスカルも信じたジャンセニズムがある。あらゆる人の善意を疑い、その罪業を責めるなら、自らの罪もまた見つめるべきであろう。ジャニーズという一企業とBBCをみるとき、不図、こんな事を連想してしまった。


いずれにせよ、資源と市場を世界に依存しグローバル経済の中で生きていくしか道はないのが日本という国の宿命といえる。自分では割り切れなくとも世界の、というより「欧米先進国」の感覚でビジネスをするしか選択肢はないのである。

【加筆】2023-09-15、09-29


2023年9月9日土曜日

覚え書き: 破滅的トラブルに見舞われた企業が再生する定石はあるのか?

今日の標題は大きなテーマである。書けば一冊の本になる。その本には多くの成功例と失敗例がケーススタディとして含まれ、そこから抽出できる何らかの一般原則が述べられていくに違いない。

バブル景気にのって無理な事業拡大を進めたカネボウやダイエーは失敗例である。ウェスチングハウスという巨大買収が裏目に出た東芝も失敗例だ。百貨店事業を軟着陸させた(ように見える)東急グループとクラッシュ寸前の西武グループの違いは、百貨店事業を中に置くか外に置くかという両者の資本戦略を論じるのが本筋だろう。1990年代末から2000年代初めにかけて浮いた銀行と沈んだ銀行を分けたのは、当然のことだが、バブル期の融資戦略とその後の不良債権処理における経営判断の優劣に帰着する話しだ。

そしていまエンターテインメント・ビジネスの雄であるジャニーズ事務所が消滅瀬戸際の危機に立ち至っている。その原因や経緯をここで改めて書くのは不必要だろう。

今日の本題をとりあげるとき、ジャニーズの再生戦略は成功例に入るのだろうか?それとも失敗例に入るのだろうか?

記者会見を視たわけではないが、大筋をネットでみると、何だか新体制は『もって3年、おそらく2年、あるいは1年もたないかも』と、そんな予想を立てているのだ、な。

とにかく、具体的なことは何も決まっていない。

こんな方向で進めていきたいナア……一所懸命やりますから、皆さん、見守ってください

要するに、こういうことだった、と思う。

基本戦略が何一つ語られなかったのである。一つ挙げるとすれば《加害の認知と謝罪の意志》を明らかにしたというその一点のみである。今後の会社としての方針は何一つ決まっていないのであろう。

ビジネススクールで授業を担当したとはいうものの、小生は経営学の専門家ではないので、一般理論につうじているわけではない。

とはいえ、破滅的トラブルに見舞われた企業が採る方策は

事業全体のうち、クロの部分を切って(=償却計上する|身を切る)、白の部分を残す。結果として資金不足に陥れば、出資者を外部に求め「身売り」して事業体として生き残る。

これが共通原則であった(はずだ)と理解している。


ジャニーズも民間企業であるから、今後将来にかけて事業を続けて行ける部分と、トラブル処理をする部分とを分ける必要があるのではないか?どう分けるかは、色々な考え方があるだろうが。


どうやら創業者による性加害行為による被害者は数百人というオーダーに上るようである。おそらくもっと多いのだろう。これらの被害者の全てが把握できるかといえば、被害者本人が名乗り出ない可能性もある。ここが非常に不透明である。なので、被害を名乗り出た人たちに対してのみ損害賠償をするとしても、公平性が担保されない可能性が高い。問題点はいつまでも残り、傷が化膿するように企業イメージを毀損し続けるであろう。

《救済事業》をどう進めるか、この枠組み構築だけでも解くべき難問が多い。

そして、これまでのブランド・イメージが決定的に毀損されたいま、今後の事業継続にどのような組織編成で取り組むのか?悪い部分と切り離すはずの善い部分は、本当に善い企業なのか?こんな疑惑から解放されることが不可欠である。《再生事業》もまたその組織がとるべき形を決めなければならない。

トラブル処理と事業再生は事業としては別の事業なのであるから、別の会社にするべきであると思う。同じ経営陣が両方の事業に取り組むというのは、時に利益相反の状態を招き、(多分)不可能である。最悪の場合、またまた《被害の隠蔽》に走り、それが暴露されるというリスクがある。

最初に組織戦略をきちんと決定しておくのが企業の再生には不可欠である。

その辺の事柄が、発端となったBBCの報道から相当の時間が経過しているにも関わらず、まだ何も見えていない。これはジャニーズ事務所の(旧経営陣も含め)現経営陣の能力の限界を示している。企業は人で決まる。

人は城 人は石垣 人は堀

    情けは味方 仇は敵なり

極めて有名なこの武田信玄の処世訓が、残念ながらジャニーズという会社にプラス面、マイナス面の両方ともに見事に当てはまってしまったということだ……

故に、人的側面からジャニーズ事務所の将来は楽観できないのである。


まあ、経営学の専門家ではないが、この位は見当がつく。

記者会見では弁護士が同席していた。が、前に日大トラブルに関して投稿したことがあるが、法曹の理屈と経営の理屈は異質である。法曹のロジックで企業を再生するのは「畑違い」の典型である。真剣に再生を願うなら経営専門家を雇うべきだろう。



2023年9月8日金曜日

ホンノ一言: 「ジャニーズ」には「獣」のイメージが出来てしまったようで・・・

ドラマ『ミステリーというなかれ』が再放送されているので録画している ― 第1回と第2回を見逃していたので非常に有難いのだ。ところが今日(7日)の午後、第12回が放送される予定であったところが録画されていなかったので何か機械的な不具合が起こったのかと思った。理由は、ジャニーズ事務所の記者会見があったからで、テレ東を除く全民放がそれを中継した。

記者会見を視る程の関心は持っていないが、今回の火付け役となったBBCの報道は読んだ。要所を引用しておこう:

The boss of Japan's biggest pop talent agency has resigned after finally admitting the sexual abuse committed by its late founder, Johnny Kitagawa.

... ...

Rumours and some media reports of his abuse had been known for years, but no concrete action was taken. For decades, most mainstream Japanese media also did not cover the allegations, prompting accusations of an industry cover-up.

Source: BBC

Date: 2023-09-07

Reporter: Shaimaa Khalil, Tokyo correspondent

URL: https://www.bbc.com/news/world-asia-66737052

上の文中の"most mainstream Japanese media also did not cover the allegations, prompting accusations of an industry cover-up."は、「業界ぐるみの隠蔽(an industry cover-up)」と断じているのだから、日本国内のメディア大手には耳の痛い指摘で、おそらく『またそれを言うのか!』といった心境かもしれない。

ただ、本文の"sexual abuse"は日本語で「性加害」というニュアンスに近いとは思うのだが、実は上の記事のヘッドラインはもっと強烈で"predator's abuse"と表現している。

昨晩のニュース解説では「性の捕食者」などと和訳していたが、これも生温い訳し方だと思う。マイケル・クライトンの小説『ジュラシック・パーク』を読んだ人ならば記憶していると思うが、終盤になって確かハモンド博士(だったと思う)が小型恐竜ラプトルに捕食されてしまう場面は衝撃的だ。あのラプトルは代表的な"Predator"である。今は恐竜は絶滅しているので、Predatorは「捕食者」よりは「獣(けもの)」とでも言う方がピンと来るはずだ。『弱い獲物を食らう』、英語ではそんなニュアンスだ。

だから今回のジャニーズで起きた長期間の不逞行為は、「獣(ケモノ)のような児童虐待」というか、マア、それほどの強烈なニュアンスでもって英語世界では報道されているわけで、海外のほとんどの人は英語による報道で情報を得ている点がキーポイントだと思う。

記者会見は視なかったが、夜のニュース解説はみた。

「蛮行」という名詞があるが、これを「鬼畜の所業」と言えば更に暗い。これと同じ言葉を東山新社長だったか、記者会見で口にしていた。

それもあってか、

ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏による性加害問題を受け、損害保険大手の「東京海上日動火災保険」はジャニーズ事務所との広告契約を更新しないことを決めました。また、現在の広告契約についても解除を検討しています。

Source:Youtube、9月7日

Original:TBS NEWS DIG Powered by JNN 

早速、企業側がジャニーズ事案に素早く対応していることが分かる。

メガ企業は世界でビジネスを展開しているので、日本語空間ではなく、英語空間でビジネス判断の適否を判断する(ことを迫られる)。この後、日本航空も同様の判断をしたというニュースが流れたが、追随する大企業がまだ続く可能性が高い。

必要な最重要な感覚は《国際感覚》なのだろう。今後の進展も日本的感覚ではなく世界の(というより英米の?)感覚が主導する形で進むに違いない。そもそも今回の事案は、今年の春にBBCが報道したことから日本社会が公式に認知するに至ったものである。

芸能界、TV業界は、スポンサーの支持なくしてビジネスを展開することは不可能だ。今後、日本武道館や東京ドームを貸し切りにする程の大規模な企画をするなどは、施設側の国際的イメージ戦略もあって、難しくなるかもしれない。スポンサーがつかない可能性もある。

一体何を収益源としてエンターテインメント・ビジネスを展開していくのだろう。

英国・BBCは今後将来ともフォローするに違いなく、国内メディアを「手なづければ」何とかなるとも思えない。前途は極めて厳しい。

それより今回の事案で信頼が失墜したのは当事者のジャニーズ事務所もそうだが、むしろ日本の(週刊文春を除く?)大手メディアだろう。打撃の大きさは測り知れない。

既にBBCは日本語でもニュース配信を行っている。これを公共の電波に乗せて国内放送も行い売上収入を増やす動機は当然もっているだろう。CSやAmazon Primeなら既に日本で視聴できる。ここで更に、TPPに加入したイギリスがもしも日本国内でBBCによる地デジ放送を認可するよう求めてくるとすれば、日本政府はどんな反応をするのだろう?

もしそうなれば、多分、中央省庁の記者クラブにもBBCが入ってくる。BBCが入れば、ロイターやアメリカのCNNも入れろというだろう。ジャニーズ事案に対する国内メディアの永年の行動振りを見ると、メディアが実践するべきジャーナリズムとかけ離れているのは明白である。となれば、「メディア=ジャーナリズム」という前提の下で運営されてきた日本独特の<記者クラブ制>もそろそろ公益にはそわなくなったと言うべきなのだろう。日本国内の大手メディアは自らのミッションを達成できる力量をもっていない。これが証明されてしまったのは余りにも大きな打撃だ。

実際、最近目に余るのだが、「報道官」を配置していない各省庁の《報道官モドキ》の役回りを各メディアの報道記者が演じる風景を見ていると

公益 ≠ 政府の利益

この出発点を何度も強調したくなる。 

いま日本社会を真っ当なあり方に戻すことが出来るモメンタムは、外国メディアが日本国内で活動することかもしれない。

BBCやロイターやCNNはどんな意味で報道機関なのか?

誰のための報道機関なのか? 

ジャーナリズムがもたらす公益があるなら、それは何なのか?

ジャーナリズムを目指しながらイエロー・ジャーナリズムを実践していることはないか? 

これらにどう回答するかは、アスリートに対する「フェアプレーとは何か」という問いかけにも似て、全ての報道機関に常に突き付けられている課題である。

2023年9月7日木曜日

覚え書き: 旧・統一教会を解散させて見えなくすると安心しますか、という話し

本ブログの投稿数からも推察されるように、小生の関心分野に<宗教>がある。経済や統計と同程度に関心がある。21世紀は「宗教の時代」になる可能性があると同僚と語ったことも書いたことがある。具体的には、寺院経営、霊園経営、学校・幼稚園経営などの「宗教ビジネス」、平安時代の日本を舞台にした源氏物語にも登場するような住吉参詣や御八講といった個々人の<信仰>などが問題意識としてはあるわけだ。

だから昨年夏の安倍元首相暗殺事件のあと「旧・統一教会」の問題がにわかにクローズアップされた時にも、その時々で思ったことを何回か投稿してきた。

信仰を 責むるにあらず 信仰の

   中身が悪しと 責むるなりけり

こんな狂歌を投稿したこともある。まったく、今の中国社会でやっている「福一核汚染水放出非難」もそうだが、同じように日本社会も変な方向へ走り出すことは稀な事ではない。アメリカでもずっと前にはマッカーシー議員が旗を振った「赤狩り」が社会で蔓延したし、近くはイラクのサダム・フセイン大統領が"Weapons for Mass Destruction"、つまり「大量破壊兵器」を隠し持っているというのでアメリカ主導の有志国連合軍が先制攻撃をかけた。後から精査すると、これもヌレギヌであった。 

大衆の狂乱をストップできるのは賢明な「君主」、ないしは「元老院」のような貴族階級の意志のみである、というのは常に当てはまる認識であるかもしれない。

マ、極めて非民主主義的な認識である……

Diamond Onlineにこんな書きだしの記事が載っている:

…日本全国にある宗教団体である。

 近い将来、宗教団体に入信していた人が「だまされた」と訴えるだけで、これまで払った献金を過去にさかのぼって、簡単に取り戻せるような法整備がなされるかもしれない。今の「過払い金返還請求」のように、弁護士事務所で簡単な打ち合わせをして、事務員がマニュアルに沿って事務手続きをするだけで、献金やお布施が戻ってくる――。

 もしこんな未来になったら、弁護士業界はウハウハだ…

何を根拠にそんな予想をするのかというと、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への解散請求がいよいよ秒読みになってきたからだ。

結論部分はこうなっている:

  旧統一教会の解散請求をして、宗教法人格をはく奪したところで、税制上の優遇を受けられなくなるだけで、信者の多くは「じゃあカトリックに改宗するか」なんてことにはならない。活動が地下に潜るだけなので、被害者救済も難しくなるなどデメリットも多い。… …

 弁護士業界は再び「過払い献金バブル」到来でうれしいかもしれないが、多くの宗教団体は経営難に追いやられるので、自主的に解散するところも出てくるだろう。しかし、神や仏に救い求める人たちは必ず存在するので、「新たな受け皿」として、「ヤミ宗教」が横行するかもしれない。宗教法人格を持たないので、行政や自治体のチェックも働かない。高額献金も霊感商法もやりたい放題だし、マルチ商法などとかけ合わせることも可能だ。

 暴力団を使用者責任で規制したら、盃を受けない半グレが増えて結果、警察が把握しにくい「かたぎを利用した地下ビジネス」が広まったのと同じ構図が、宗教界でも起きるかもしれない。

Source: DIAMOND online

Date: 2023.9.7 5:30

Author: 窪田順生

URL: https://diamond.jp/articles/-/328792

「弁護士」、というより「法曹専門職」を愚弄するにも程があるという反論は予想できるが、現実問題として事態がこのように進展していく確率は高いのではないか、と。小生の予想とも共通する部分があるので覚え書きにしておく次第。

日本社会は、ともすれば

玄関前のゴミを物置や家の裏側に移動して一先ず安心する

何だかダチョウのような「お気楽さ」、というか「呑気さ」、というか言うに言われぬ「無責任さ」があるとずっと感じてきたのだが、これも本当のダチョウには大変失礼な話かもしれない。

宗教トラブルがあれば、指導する権限を政府に与えるのではなく、とりあえずその宗教団体を解散させて消してしまえば、報道されることもなくなって、日本社会は安心する。これでイイんですかというのは、大変、理に適った話だ。

Black Marketがあるのはどこの先進国も同じであるが、これが巨大化すると”Underground Economy"が例えばイタリアのようにGDPの20%前後にも達することがある(ここを参照)。こんな状況になれば、政府の経済見通しも意味がなくなるわけである。「地下経済」、つまりundergroundであるから(普通の?)マスコミの取材は困難であるし、報道されることもない。表面的には「安心社会」であるが、社会の表層と低層が食い違っているという「非条理の意識」は逆に高まることになろう。

でもまあ、日本の歴史を振り返ると、二元政府的であった鎌倉時代もそもそも変な社会であったし、江戸幕府も理屈を考えると正統性という点で疑問があった。だから倒れるべき時にはサッサと倒れた。こんな認識もあるから、非条理だからと言ってそんな社会になるはずはない、という議論にはならない。

マ、個人的にはある程度の厚みをもった「裏社会」がある方が、善人、悪人、全ての人に居場所を与え、より多くの人により多くの幸福を約束できると考えている。『清濁併せ飲む』という格言は決して色あせてはいないのだ。なので、非公式の宗教団体や互助組織が報道されないまま、モニターされないままに、数多く生まれ、カネの地下水脈が広がる事態は、政府による一律の公的福祉を補完し、むしろ助かる人が増えるのではないかと予想している ― 税源が侵食され、脱税の温床になるので政府は絶対に認めるはずのない見方だろうが。

2023年9月5日火曜日

断想: 循環的視点、たとえば20年周期で振り返ると整理できることがある

よく「10年ひと昔」と言われるが、それよりは20年ごとに時代を区切ると大きな流れが見えてくると以前から想ったりしている。

ただ、20年というタイム・ユニットを体感するには、20代や30代では記憶の量がまだ絶対的に足りない。目の前の課題に対応するのに一杯だと思われる。もう少し長時間の経験と経験全体を振り返る歴史感覚が要るのだと思う。


たとえば経済面に限ると、1980年から2000年という時代には<金融工学>という言葉が使われ始め、90年代から2000年代初めにかけて、一世を風靡するところまで発達した。その前の1960年から80年までの20年は<生産管理>という言葉がキーワードであったと思う。更に、その前は<マスプロダクション>、つまり規格化と大量生産、大量販売がメジャーな理念だった。そして、この時代のマスプロダクションと1960年以降の生産管理を分けるのは、コンピューター(=電子計算機)の登場ではなかったか、と。そんな風にまとめているのだ。ちなみにIBMのベストセラー"System/360"が登場したのは1964年である。

こう考えると、1990年代以降のインターネットの普及、拡大は、コンピューター技術が中央集権モデルから分散管理モデルに移ったことと相応しているし、それが2020年代のいま、再びクラウドサーバーという形で分散管理から中央管理へと戻ってきている。そんな風にも思っているわけだ。即ち、1960年から現在まで、世界の工学はコンピューターが行う仕事、つまり《情報処理》をテーマに進化していて、それまでの伝統的主流派である《機械と電気》が幅をきかせる時代とは流れが変わってしまった。これに伴って、産業のコメも昔の《鉄と石油・石炭》から今は《半導体》になった。

そのインターネットが拡大することで2000年から2020年までは色々な<e-ビジネス>が登場し、成長し、市場の寡占化が進行した(と問題視されてもいる)。

そして2020年から40年までをどう見通すかといえば、それは<AI:人工知能>がキーワードであるのは、もはや明らかだろう。


実は、「ロボット」でブログ内検索をかけると多数の投稿がかかってくるように、小生は21世紀前半は<ロボットの時代>になるだろうと予測していた。たとえば、4年前の投稿では

最近再びブレークしている人工知能(AI)とロボット技術、VR(仮想現実)の進化を極限まで追求すると、製造現場、サービス現場のほぼ全ての面で人手は不要になってしまう。つまり、付加価値のほとんどが資本所得として分配され、労働所得はほぼゼロになるという状態に最後は行き着く。

まさに「こうなるのではないか」といま心配されているのだが、人手をかけずして必要な財貨・サービスを生産できるのは、俗にいえば「技術の勝利」でもあるわけで、本来は人間が自由に自分のしたいことをできる時代がやってくる。その技術的基盤ができる。そうも考えられないだろうか。

ただ、上のような極限の状況では、現在の市場経済の下では労働需要がほぼゼロとなり、労働分配率もそうなる。ということは、資本所得に対する課税によって必要な所得を国民に再分配しなければならないという理屈になる。これは資本主義の体制とは異なる社会だ。

こんなエクストリームな経済社会について想像をたくましくしたこともある。 

が、どうやらバカなロボットよりは、賢いAIを人々は先に要望していると見える。

20年という周期は、景気循環論の中では、偶々だがクズネッツ循環に相当する。これが3サイクル経過すると一つのコンドラチェフ循環になる。コンドラチェフ循環はテクノロジー循環と言われている。

そう言えば、コンピューター時代が本格的に幕開けする1960年から数えると大体60年が経過した。その前の60年(=1900年から1960年まで)は、人間の手足になってくれる機械技術が発達した。エネルギー革命はその中の一コマである。これに対して、コンピューターは人間の頭脳を手伝ってくれる技術だ。計算や文書作成など人間がやりたい仕事をコンピューターに命じて手伝わせるわけだ。いま新しい潮流になりつつある高度のAI・人工知能は人間の頭脳を「助ける」というより「その代わり」になってくれる技術である。人間が命じるというより人間が機械に相談して機械に考えてもらう技術である。

「人間が命じて手伝わせる」から「人間の代わりになってもらう」。何だかコンドラチェフ循環が1サイクル回った感覚がする。

こんな循環的視点から振り返ると、1868年の明治維新から1913年の大正政変までは官僚専制国家・日本が成功した約40年。次は、1913年から戦争をはさみ1951年の「サンフランシスコ平和条約」(=戦後日本体制の国際的認知)までの約40年。この間、天皇制の下で何とか平等で民主的な日本を実現しようと苦しんだ。それから、1951年から高度成長、経済大国・日本を経てバブル景気が崩壊した1990年までの約40年がある。奇跡的な再生とその終焉の物語りである。そして、1990年に40年をプラスすると2030年になる。

いま過ぎ去りつつある最後の40年は、護送船団方式や不良債権、デフレマインド、国債累増など前時代の後始末ばかりで失われてしまった30年とその後の構造改革に苦闘した10年と。2030年までに残されている時間はもう永くはないが、願わくばこんな風に進んでほしいと思っている。

どうも近代以降の日本の発展、変動には60年という周期ではなく、20年周期を2サイクル含む40年で一つの節目が来ているような印象だ。

2023年9月2日土曜日

一言メモ: 中国経済の見方は専門家で共有されているようで

中国がニュース種になることが増えてきた。もちろん福一原発処理水の海洋放出に対するイタズラ電話攻勢と言った細かい話ではない。中国経済の行方に関する話である。

最近もThe New York TimesとWall Street Journalで中国経済の解説が載っていた。


NYTの方はKrugmanのコラム記事だ。氏は日本経済の行方にも高い関心を持っているようだが、中国経済がこれに絡むと、面白くて仕方がない研究テーマになるものと観える。

例えば最近の記事ではこんな事を書いている。記事のタイトルはそのものズバリ"Why Is China in So Much Trouble?"である:

The narrative about China has changed with stunning speed, from unstoppable juggernaut to pitiful, helpless giant. How did that happen?

My sense is that much writing about China puts too much weight on recent events and policy. Yes, Xi Jinping is an erratic leader. But China’s economic problems have been building for a long time. And while Xi’s failure to address these problems adequately no doubt reflects his personal limitations, it also reflects some deep ideological biases within China’s ruling party. 

問題解決のためにトップの習近平が適切な方策を採らないのは指導者としての資質上の限界を示しているのは当然として、もう一つ共産党のイデオロギー自体が持っているバイアスが中国の現状をもたらしているという面もある、と。そう観ているようだ。

... the speed of China’s convergence was extraordinary.

Since the late 2000s, however, China seems to have lost a lot of its dynamism. The International Monetary Fund estimates that total factor productivity — a measure of the efficiency with which resources are used — has grown only half as fast since 2008 as it did in the decade before.

中国の高度成長をもたらした全要素生産性(Total Factor Productivity)の上昇率は、実はリーマン危機以降、それまでの半分に鈍化してしまっていた。中国経済のダイナミズムが失われた主因はこれである。加えて、少子・高齢化という人口要因がオーナス効果を与え始めている。

However, slower growth needn’t translate into economic crisis. As I’ve pointed out, even Japan, often held up as the ultimate cautionary tale, has done fairly decently since its slowdown in the early 1990s. Why do things look so ominous in China?

とはいえ、成長率の鈍化が直ちに経済危機につながるわけではない。ここでもまた、Krugmanは現在の中国に比べて1990年代以降の日本の経済運営を<相対的に>高く評価している(かのようである)。これは稿を変えて何度も述べている。

At a fundamental level, China is suffering from the paradox of thrift, which says that an economy can suffer if consumers try to save too much. 

要約すれば、中国の貯蓄過剰というに尽きる。

マクロ経済の停滞はサプライサイドかディマンドサイドかのいずれかの側に原因がある。人口要因はマイナス要因として避けがたい供給側のファクターだ。が、Krugmanは家計の貯蓄過剰に今の停滞の根本的原因があると指摘している。過少投資というより過剰貯蓄である。多分、この見方はほぼ大半の経済学者が同じ見解を持っているに違いない。

家計の過剰貯蓄をもたらしている要因については色々な見解がある。少子化は子に頼れないことから老後不安を強め貯蓄を増やす。年金や医療保険など公的福祉の薄さは予備的動機を刺激して家計の貯蓄志向を一層高める。その他にも中国社会には多くの背景があるだろう。

貯蓄過剰体質の国が高度成長を実現しようとすれば内需不足から輸出志向になるのは当然だ。日本もかつてはそうであった。しかし、この路線は海外の雇用機会を奪うため反発をもたらす。だから輸出主導型成長には限界がある。国内に十分な投資機会のない中国で不動産投資と不動産バブルが進行したのはその帰結である、と。

何だかまるで1980年代の日本経済の解説を聞くようではないか。

だから、《中国の日本化》という言葉が最近よく使われているのであるが、これは現在の中国経済の先行き不安を指しているのではない。日本が歩んだ道とほぼ同じ道を歩んできた中国だから、バブルが崩壊した後も日本と同じ道を歩むだろうという予測なのである。

The obvious answer is to boost consumer spending. Get state-owned enterprises to share more of their profits with workers. Strengthen the safety net. And in the short run, the government could just give people money — sending out checks, the way America has done.

So why isn’t this happening? Several reports suggest that there are ideological reasons China won’t do the obvious. 

Source: The New York Times

Date: Aug. 31, 2023, 7:00 p.m. ET

Author: Paul Krugman

URL:  https://www.nytimes.com/2023/08/31/opinion/china-xi-jinping-policy-thrift.html

バブルが破裂すると金融不安が高まるので、先ずは公的資金を金融システムに注入することが必要だ。そうして家計の将来不安を軽減する方策を採って国内経済を消費主導型の経済体質へと転換する。これしか成長を維持する道はない。ところが、中国の共産党指導層はこの当たり前の結論を認めたがらない。ほかに正解があると思い込んでいる。

この意味で、中国政府は<非合理的>な政策選択をしようとしている。

1990年代早々、日本政府は不良債権を増やした金融機関に公的資金を注入しようとしたが、マスメディアと国民全般が拒絶反応を示し、それが出来なかった。公的資金注入なき「総合経済対策」を繰り返しながら何年も泥沼の道を歩み、ついに1997年から98年にかけて金融パニックを起こし、やっと公的資金注入の正しさに目覚めた。そして金融機関の不良債権処理に全力を注ぐことにした。が、期待成長率の低下とデフレマインドは日本人の心理に深く織り込まれ、元の経済成長経路に戻るにはもう遅すぎたのである。

失われた30年に迷い込む最初の段階において、日本政府は合理的であったが日本国民は非合理的だった。だから民主主義国・日本は失敗した。中国はその反対で、強い権限をもつ北京政府は何でもできるはずであるのに、政府が合理的政策を採らないでいる。非合理的である。それはイデオロギーのためである。マ、この辺り、小生の主観もある。


以上のようなKrugmanとほぼ同様の事をWall Street Journalも書いている。解説の書き出しはこんな風である:

 【香港】中国の経済政策を動かすのは今やイデオロギーとなった。約50年前に西側に門戸を開いて以降、その傾向は最も強まっており、指導部は混迷する経済に活を入れるための有効な手を打てずにいる。

 エコノミストや投資家らは、国内総生産(GDP)を押し上げるもっと大胆な取り組みを中国政府に求めている。特に個人消費の喚起策を、必要なら新型コロナウイルス下で米国が導入した現金給付を実施すべきだという。

 中国が米国に近い消費者主導型の経済への移行を加速させれば、成長が長期的に持続可能となる、とエコノミストらは指摘する。

 だが最高指導者である習近平国家主席は、欧米流の消費主導による経済成長に対し、哲学的で根深い反対論を抱いている。政府の意思決定をよく知る複数の関係者はそう話す。習氏はそのような成長は浪費が多く、中国を世界有数の産業・技術大国に育てるという自身の目標とは相いれないと考えているという。

Source: Wall Street Journal

Date:  2023 年 8 月 31 日 08:31 JST  

Author: Lingling Wei and Stella Yifan Xie

URL: https://jp.wsj.com/articles/communist-party-priorities-complicate-plans-to-revive-chinas-economy-4ca3209b

あとは大体同じ主旨なのでここに書く必要はない。

最後に

 香港大学の陳志武教授(金融学)によると、中国の政策立案者たちは長年、国有企業に資源を振り向ける方が、国民への現金配布よりも迅速かつ確実に成長を生み出せると考えてきた。消費者は国有企業よりも気まぐれで制御が難しく、たとえ現金を受け取っても支出を増やすかどうか定かでない、というのが彼らの見方だという。

 また中国当局者は国際機関の担当者に対し、文化大革命の時代に習氏自身が乗り越えた数々の苦難――当時は洞窟で暮らしていた――が、緊縮から繁栄が生まれるという思想の形成に役立ったと話していた。

 「中国からのメッセージは、欧米流の社会的支援は怠惰を助長するだけ、ということだ」。国際機関の会合でのやり取りを知る関係者はこう語った。

こう書いている。

何だか戦前期・日本の軍国主義を思わせるところがある。いや日本の「総動員精神」と異なり、国民に信を置かない点は、儒教の伝統と同じ『子曰、民可使由之、不可使知之(子曰わく、民はこれに由らしむべし。 これを知らしむべからず)』を想わせる。

あるいは、センチメントとしては北京の共産党政府は今もなお<戦争>を戦っている感覚なのかもしれない。 <前衛たる共産党の使命感>と言えばそれまでだが、それにしても共産主義というのは厄介な思想である。<善意の押し売り>と言えばそれまでだが、軍をもっている権力に抗うのも極めて難しい。