2017年12月31日日曜日

「民主主義」も一つの過ぎ行く時代なのだろう

共和制ローマが小さな都市国家から地中海沿岸全域に領土を拡大し、広大な多言語・多民族国家へ拡大した段階で、ローマは共和制から帝政へ変化した。ラテン語は地中海世界でグローバル化した。「ローマ帝国」がローマの誕生以来ずっとあったわけではない。むしろ「帝国」が存在した時間は短いのである。

ローマが登場するより以前、古代ギリシア世界は元来は小さな都市国家の集まりだった。民主的なアテネは集まりの中の一つに過ぎなかった。スパルタには王がいたが、専制的な権力はもっていなかった。ギリシア世界は多数の都市が相互に平等な立場でつくる連邦世界だった。ところが巨大なペルシア帝国に勝利し、エーゲ海、地中海の覇権を握るようになると内部対立が激化し、ペロポネソス戦争が勃発した。民主政治は衆愚政治へと堕落した。結局、ギリシア世界は北辺にあるマケドニアによって軍事的に統合された。アレクサンドロスが王として統率したギリシアは宿敵ペルシアを打倒して、宏大なヘレニズム世界を作った。ギリシア人とギリシア語は東地中海世界でグローバル化した。

戦前期・日本が軍部独裁へ舵を切ったのは、第一次世界大戦後の激変する世界の中で日本が「植民地帝国」を志向し始めたとき、解決するべき外交問題、国内問題に直面したときだった。

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周期的に到来する<激動期>にあっては、しばしば民主的体制が放棄される。権力が少数の(一人の)人間に集中化される。しかも、その政治体制の変革は国民の自発的意思によることがある。その理由は、その時期に解決するべきであった問題の解決に効率的であったからだ(と思う)。

解決するべき問題を社会が抱えているとき、民主主義体制が最も理性的かつ合理的にその問題を解決できる保証は必ずしもない。この点は既に論理的に証明されている(アローの不可能性定理)。しかし、一人の人間が一貫して意思決定するなら、(ある意味で)合理的な解決を期待できる余地が生まれる。

上の問題について復習したいと思っているのだが、時間がとれるかどうかわからない。Deep Learningと伝統的な時系列分析との本質的な違いも洗い直しておきたいし。

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人間の社会は常に解決するべき問題をかかえている。社会は常に問題解決を迫られている。

というより「生きる」という行為は「問題を解決する」という行為と同じである。衣・食・住をどうするか。このことが既に問題解決の一つだ。

問題を解決するにはコストがかかる。故に、<コスト最小化原理>に従って社会は意思決定をするはずだ。これを環境適応のための集合知であると見れば、人間社会も自然史の一部であると考えればいいことになる。もし人間社会のありかたが民主主義社会から君主専制社会に変容するとしても、これまた合理的な理由に根拠づけられているはずだ。善悪ではない。正しいとか、間違っているとかではない。

社会が変容していくプロセスに正邪、善悪という倫理的な価値を適用するのは適切ではない。社会の変容に関する研究では観察と分析と予測だけが意味をもつ。

先入観は禁物である。信念は単なる思い込みであることが多い。人間個人個人に当てはめる価値観を、ヒトは社会に対しても当てはめるという誤りをおかすことが多い(本当は掘り下げて述べておくべき所だが今日は省略)。

2017年12月29日金曜日

一言メモ: 劇場型世の中のまま大晦日になったか・・・

申酉騒ぐの格言が株式市場にはあるが、今年はその格言通り、実に騒がしい世の中だった。そんな今年の世の中で最後を飾る大騒動が角界を騒がせている事件である。とうとう全面解決は年明け後。本当に解決できるのだろうかと。そう思わせる不透明感を残したまま、とうとう明後日が大晦日になった。

年の瀬である。

年の瀬や 力士雪駄の 音とおく

今日もカミさんとワイドショーを見ながら話したものだ。

小生: 第一幕、第二幕があったね。貴ノ岩に対する日馬富士の暴行傷害。次が貴乃花親方の処分問題。被害者がなぜ処分されるのかっていう人も多いけどサ、一言で言うならアレだね、『八角理事長と貴乃花親方の喧嘩』だよ。
カミさん: そうねえ、貴乃花親方は役員として何もしてないのは事実だしね。上が怒るのは当たり前ね。怒る気持ち私もよくわかるよ。自分ならああはしないっていう気持ち。警察に届けた時に、一言でいいから『こうしましたから』って相撲協会に電話すればよかったのに。 
小生: 暴行があったと分かって、まず警察に被害届を出して、協会には電話で一報する。それから巡業部長の職権で現場にいた白鵬や鶴竜たちを呼び出して、事情を聞いていたら責任者として満点だったサ。もしその時に白鵬たちが嘘をついていたら、今頃はそろって出場停止になっていたかもしれないよ。日馬富士だけが一人引退するという形にもならなかったかもしれない。事件が「実質、集団リンチ」だと感じたんだったら、理事の辞表を理事長に出してサ、まあ受理はされなかっただろうけど、『これからは親方として行動します、事件を解明します』って、そう言ってサ、徹底的にやる。これは清々しいよ。もしそうしていれば、貴乃花親方をいま処分するなんて、絶対にできない。その方が良かったのじゃないかねえ。
カミさん: なんでそうしなかったのかなあ? 
小生: そりゃあ八角理事長が嫌いだからさ。全然信用してないんじゃない。馬が合わないってやつサ。『あいつの部下にはならない』、そんな気持ちは僕にもわかるんだよね。でもサ、相撲協会を運営する<責任>を負った二人の役員どうしが喧嘩しちゃってる。そんな図式だよ。東芝もそうだったしね、会長と社長がいがみ合ったり、喧嘩したりサ。シャープもそう。内紛を起こすと何かトラブルが起こるものさ。珍しくもないよ。八角理事長が何かいっても貴乃花親方は言うことを聞かない。理事長の指導力ゼロだよね。貴乃花親方もこちらはこちらで役員の責任をまったく自覚していない。果たそうともしない。前頭とか三役とか、その辺出身の親方衆が人数的には多いんだけどさ、前の北の湖理事長が亡くなった時に、これから誰がまとめられるんだろうって、すごく不安がっていたそうだよ。実際、心配のとおりになってきたわけよ・・・。情けないねえ。大黒柱なんだからさ、よく相談して、協力して、相撲を発展させていかなきゃならんのに。何だろうね。大黒柱の二人がサ、話しもロクスッポしないで、喧嘩して。もういい加減にしてくれやってサ、そんな気持ちじゃない? 周りの親方衆は。 
カミさん: そうだろうねえ。 
小生: 第二幕の決着は、ズバリ、<喧嘩両成敗>。これがベストだよ。そのあとは、まったく色がついていない人達が中心になってフレッシュな体制で運営すればいい。長期的根本的に一挙解決なんて無理。意固地になってる八角さんと貴乃花さんには、誰かもっと上の人が「もういい! 二人とも出て行きなさい!!」とね、この一喝で一件落着にすればいいさ。 中途半端にファンの心情とか、これまでの貢献とか、まさか世論なんて言う人はいないだろうけどサ、そんなことを言っていると、禍根を残すネ。
カミさん: だれが言えるの、そんなセリフ? 
小生: そうだなあ・・・まあ・・文化庁、いや違う違う、スポーツ庁長官あたり? それとも評議員会の議長、池坊さんかね(笑)。 
カミさん: 言えないヨ
今回の事件は、あれもある、これもあると話を広げるような大問題ではない。

相撲界とは、ソモソモからして、ああいう世界なのである。それは長期的、計画的にだんだん改善していけばよい。流石に21世紀の日本社会からは余りにずれているところもあるから。どうしてもああいう体質が嫌いな人は本場所にも巡業にも行かないはずだ。TV中継も翌朝の新聞記事も見ないはずだ。かたや熱心なファンもいる。だからこそ相撲は江戸時代からずっと続いてきた。そんなファンは相撲のことを詳しく知っている。「人情相撲」と「八百長」の微妙な違いも感覚的に鋭敏に分かるというものだ。「シバキ」や「シゴキ」と「暴行」との区別だって分かる。ファンをバカにしちゃあいけない。相撲協会も自分たちを支えているファンをバカにするはずはないのである。いくら相撲に無関心であっても相撲が好きだというファン気質を否定できる立場にはいないでしょう。世間の常識って奴を「伝統芸能?」とも言える世界に杓子定規に当てはめたりしたらどうなりますか? 相撲どころか、歌舞伎だって能だって男女雇用均等法に違反するっていうものでござんしょう。仏教の主要宗派の座主はなぜ男性ばかりなんでござんしょう? おかしいじゃありませんか。 そういえば、キリスト教のローマ法王だって男性ばかりでござんしょう。 民主主義の発祥の地、イギリスだってカンタベリー大主教は男性ばかりだ(そのはず)。すべてこれ「伝統の重み」、そうとしか言えませんヤネ。「こうなっている、それが何か?」、それで終わりってもんです。いま生きている人たちの「世間の常識」はオールマイティではないのだ。もっと重みのある「伝統」って奴がある。

それでも、あまりに普通の人たちを絶句させるような慣習は ― 本当に絶句しているのか、ほんとはある程度理解しているのか不明だが ― 、「非常識」だと言われてしまうわけで、そういわれてしまうと、マア仕方がない、居場所がなくなる。それでは困るでしょう、と。問題の根幹はここにある。相撲界とは何しろチョンマゲを結う世界なのだ・・・『鎌倉物語』の魔界ほどではないが、娑婆と一緒くたにすると、それでも相撲の魅力は守られますか?これが真の意味での大問題だと思うのだが、いかに。

以上、長々と述べ来ったが、しかしこのことと、飲み屋で発生した暴行傷害事件の審判。役員の責務を自覚せず理事長に喧嘩をふっかける理事の処分。その理事をどうすることもできない理事長の進退。この三つは独立して処理できる、というより国技を守る公益法人として処理すべき問題だ。

小生の個人的感想:
Get out,  you, and you!  You, get out!! Get out here!!! gehhht ou~~t!!!!
こんなところか。

相撲という「国技」を今後も一層国際化していくことの是非はまた別の機会に。

2017年12月28日木曜日

慰安婦問題再燃は韓国政府の意思であるということの意味は何か?

先日投稿したとおり、いま従軍慰安婦問題を単に日韓関係から考えても本質が見えなくなっている。先日はこう書いている。
韓国という国は、中国が対日優位を構築するために間接的アプローチをとるとき<役に立つ駒の一つ>になりつつある、というよりなったと思ってみている。韓国の最適反応戦略は(中国からみると)極めて分かりやすいから。
明治以来、日本は朝鮮半島を国防上の最前線と見なしてきたが、いま現代において中国からみても朝鮮半島は地政学的にも、歴史的にも、自国防衛上の最前線としてみていることは自明だろう。
韓国の外交行動は中国の戦略的意図の反映であるとみる視点が大事だ。韓国もそのことを理解しているはずだが、ナッシュ均衡を崩すための勇気あるコミットメントを政府が行うには常に政治基盤が不安定である。
朴槿恵前政権との間に成立した「日韓合意」の検証結果とそれに対する所感が文在寅大統領から発表された。「政府間合意によって従軍慰安婦問題が解決されるものではない」という風な見方は当然予想されるものだった。まあ、聞き様によっては(というより、直ちに)本件に関する外交的努力そのものを否定するものになった。

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さて、

設問1: 今回の判断が韓国にとってプラスになると韓国政府は考えているのか?
設問2: 今回の判断が韓国にとってプラスになると韓国政府は考えていると韓国国民は考えているのか?
設問3: 今回の判断が韓国にとってプラスになると韓国政府は考えていると韓国国民は考えていると韓国政府は考えているのか?
・・・以下、無限に続く。

すでに、韓国は韓国政府と韓国国民との間で展開されている展開型ゲームのプレーヤーになってしまっている。これが一つの見方かもしれない。いや、韓国国民も幾つかの対立するセグメントに分割して分析するべきかもしれない。

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上の設問は日本政府や日本国民にとっても解くに値する面白い問題であるかもしれない。

しかし、解いたところで問題そのものがエンプティで内容空虚な戦略ゲームであることは確かだ。むしろ、中韓関係においては中国がリーダー、韓国がフォロワーであるのは明々白々たる事実であると認めるべきだろう。

だとすれば、従軍慰安婦問題に関する韓国の対日外交ゲームにおいて最大化されつつある利得は、韓国の国益というより中国の国益であるとみるべきで、中国の戦略に反応する韓国の行動が中国にとっては予測可能であるが故に、中国は中国の国益が最大化されるような韓国の対日外交を韓国が自ら選ぶように中国は対韓外交を展開している。そう見ると状況の変化がよく理解できるのではないだろうか。

要するに、韓国は中国の駒として利活用されている。今回の韓国の判断は中国の対韓外交の中で予想しておくべき一つのステップと見るのが合理的ではないか。

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韓国は韓国で韓国の国益を最大化しようと努力しているはずだが、その努力を先読みして、中国にとって最も利益にかなうような韓国の行動を導くような戦略を中国がとっている。そう言ってもよい。

なので、韓国の今回の判断に対して日本が予想されるような反応をとれば、それがまた中国側の国益に寄与することになろう。

中国側の国益ということは、日本にとっては戦略的損失に近く、アメリカにとっても現在の日米韓の枠組みを前提すれば戦略的損失かもしれない。

歴史問題に関連して日本の対決的姿勢は韓国が想定している反応であり、韓国(及び中国)が最も緻密な外交戦術を構築している領域だろう。相手の予想する行動はとらないのが紛争で優位を得るための王道である

「相手が予想する行動はとらない」。どのような戦略的ゲームであっても優位を形成するための王道である。

2017年12月25日月曜日

自治体首長の不祥事を繰り返さない特効薬?

福井県の「あらわ市」というのは不勉強にして知らなかった。その町の市長が誠に恥ずべき破廉恥行為をしたというので騒動が起きているようだ。

その「あらわ市」だが、福井県のどこにあるのかと思って調べると、「なんだ、芦原温泉か」、と。「芦原の名前を残した方がよかったのじゃないか。どこと合併した?金津?「金津」とのバランスをとった名前かな・・・。どうも「民主主義」っていうのも問題だねえ・・・」と。誰もが知っている有名な名前なら残せばいいじゃないかと思ったりしたのだ、な。

それにしても、この市長がTV画面に出てくると情けなく思うのは地元有権者が一番であるに違いない。

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思うのだが、いっそのこと戦前期のように「官選知事」、「官選首長」に戻したらどうだろうか。

戦前期には内務省が人選し中央の官僚を知事として都道府県に派遣していた。都道府県は国の出先機関であったというのはこの側面を指しての事だろう。戦後になって地方自治の観点から地元で選挙を行うようになったのだ。

但し、「官選知事」と言えばいかにも中央集権のように感じられるが、市町村長の方は地元の議会が決めていた(市長は市議会の推薦に基づき内務省が任命)。戦前であっても実質的には自治の側面があったわけである。

さて今日、地方自治の理念はともかく、現実には出来る人がいなくなりつつある。知事であれ、市町村長であれ、国に首長の派遣を要請する選択肢を設けておいてはどうかというのが、本節の主旨である(実際には知事職の場合これに近い状況がすでにあるという指摘もあるが)。

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もともと江戸時代には地方分権の幕藩体制をとっていた。その日本が、明治維新で中央集権体制へ移行した。が、各地方の指導層がすべて東京へ移住したわけではない。元士族、地主層・酒屋など豪商層は地元に居住し、その後の保守政党の支持基盤になっていった。統合を維持するには中央から官僚を派遣し、首長として中央の意思を体現させる必要性があった事情もよくわかる。

それが、戦後になって地方自治の原則が確立された。と同時に農地解放が徹底的に行われた。地方自治が確立されてからは次第に地方が空洞化し、中央集権であった戦前期には各地方に分厚い指導層がいた。皮肉なものである。

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最近は県庁の試験に合格しても辞退率が高いそうだ。小生の地元である北海道では道庁の辞退率が60%に達したという。どこに流れるかといえば、国家公務員もそうだが、それよりは市役所に流れるそうである。近年、市役所、町村役場は人気職場なのである。優秀でやる気のある若年層が市町村に集まりつつある。

これをどう考える?

市町村は行政の最前線である。そもそも住民の収入状況は税務署よりも市町村のほうが細部まで把握しているのだ。情報は昔から市町村にあった。人が情報に追いついてきているのだ。

都道府県庁は何をやるところなのか。

「地元」は市町村であると割り切り、都道府県は戦前期のように「国」の地方機関として割り切る。地元と中央を繋ぐ要として機能させる。案外、この方が効率化されるのではないだろうか。

だとすれば、地方分権を進めるプロセスで節約できるところは多々ある。最近、そんな風に感じることが多い。

市町村に人材は集まりつつあるのだ。地方自治を徹底する上で困らないはずだ。

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地方の首長のレベルダウンは、地方行政の衰退、地方自治の衰退、国力の衰退につながる。

しかし、市町村にやる気のある若年層が集まりつつあるなら、たとえ市長がバカでも捨てたものではない。なまじ「政治主導」とか「トップダウン」などと言わなければよいのだ。

そのためにも「選挙による人選」は再考する余地がある。この点は前にも一度投稿したことがある。

2017年12月23日土曜日

日本的=非論理的ということなら情けないネエ

春先の森友騒動、加計学園騒動でも顕著に感じたのだが、「それは●●だったのではないかと思う」という関係者の発言に対して、「そこが世間の常識とはかけ離れている」という無関係者の非難が声高に殺到する。そんなことが多いように思う。

今回の角界騒動もまったく同じである。

政治を話題にしても、相撲を話題にしても、日本で繰り広げられる議論というのは、最後には論理的関係性にはまったく目を向けずに、「違和感を感じる」とか、「怒りを感じる」という文字通りの情緒論へ落ちてしまうのが、不思議でしようがない。

「感じる」というのは感覚、つまり情緒であり、普通の人は最初に感じた後はすぐに冷めてしまい、やがて頭(=理性)を使って「なぜこうなったのか」と考えるようになるものだ。だから、不思議なのだ。「●●には違和感をもつ」などとこの時期になっても語る。要するに、これまで無関心だったのであろう。

いや、そもそもそういう国民性なのだと、これが<日本的情緒主義>なのであると、こんな風な言葉で総括しなければならないのだとすれば、本当に情けないと感じる。

前にも投稿したが、感情はその一瞬間の動機だ。爆発すればすぐに落ち着く。せめて理性的な、でなければ特定の理念から出発した筋を通した意見を読んでみたいものだ。

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力士に対する研修会で理事長が語ったというその話し方が非難されている。

何気ないちょっとした気持ちでやった暴力が、ここまで組織を揺るがすような羽目になってしまうと。本人たち個人個人の自覚を持って行動するようにと促しました。

(出所)LIVEDOOR NEWS, 2017-12-22配信

これに対して、「だから非常識だ」等々の非難が殺到している(という様子だそうだ)。

かと思うと、

タレントの松本人志にも喧々轟々たる非難が寄せられているという。
「相撲の世界で、土俵以外のところで一切暴力がダメっていうのは正直ムリがあると思うんですよ」―。
2017年12月3日放送の「ワイドナショー」(フジテレビ系)で、ダウンタウンの松本人志さん(54)が元横綱・日馬富士の「暴力」を肯定するような発言をしたことが、波紋を呼んでいる。
(出所)J-Castニュース、2017-12-03配信

 要約すれば、前者は横綱が殴打事件を起こしてしまったのは、「それほどの大事ではない」という感覚でやってしまった。理事長はそう言いたかったのであろう。つまり、稽古の場の延長という意識ということだろうか、つまりそこに角界の「暴力体質」もあるわけであり、力士という普通の日本人とは違う人間集団の感覚がそこから窺われる。まあ、そういう風に受け取ればいいわけで、『暴力肯定はけしからん』どころか、問題解決への一つの方向を示す役に立つ言葉ではないかと小生は受け取った。この辺に解決に至る道がある。問題の根っこがある。そういうことだ。『暴力による躾も必要です』というロジックを理事長はまったく主張していないのは自明である。

タレント・松本による後者の発言はまた割り切った立場だと思う。しかし、言葉は言葉として、「このような言葉は、どのような前提から出てきうるものであるか?」、「それならば、何が言えるか?」という思考を頭を使ってするべきだろう。本割でかちあげ、張り手がある以上、力士たるもの稽古の場ではもちろんのこと、<行住座臥>、常に修行をしている、稽古をしている、そんな感覚を求めるとしても、相撲とは無関係の普通の人が「それはダメだ」と激怒するようなことだろうか。

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そもそも叩くのが一切ダメだというなら、禅宗の警策でビシッと叩かれても時には怪我をするらしい。叩かなくともいいではないか。肩をポンとたたくだけで十分だろう。現代日本人ならこんな提案に賛成する可能性が大である。

というか、いわゆる<荒業>という厳しい修行は本当に必要なのか?火渡りとか、釜入りがなぜ必要なのか?「必要であることを科学的に説明せよ」などと言い出せば、仏教という宗教自体が成り立たなくなるのではないか。伝統文化を単に破壊しているだけではないのか。そう思う。このように一つの時代、現代に生きている<自分たち世代>だけの価値観に基づいてすべての文化的遺産の是非善悪を単純に割り切る態度は傲慢というものであろう。そう思うネエ。世界の潮流であるマルチ・カルチュラリズム(Multi-Culturalism)に反しているのではないかと。そうも思うのだ、な。

物事を議論する時には、確かに「どう感じるか」が大事である。しかし、論理も重要である。論理は国を問わず、時代を問わず普遍的説得力をもつ。が、論理のみが重要であるわけでもない。継承された文化には引き継いでいくに値するものが多く含まれている。先立つ世代への敬意や共感も欠かせないのではないか。現世代が、現世代の価値観のみにたって、引き継いだものを解体する権利はない。これまた一つの観点でありうるだろう。

何かを共有するためには、共有しようとするものを、成り立ちから歴史を含めてよく知らなければならない。目で見て、長い時間をかけて触れなければならない。

そうでなければ、要するに素人であり、「お客さん」である。あまり口を出すべきではないだろう。

このあたり、小生は超の字がつく保守主義者であり、しかもヘソ曲がりなのだ。

相撲の本場所にカネを払って足を運ぶことも、テレビ中継を毎日観ることもしない現代日本では普通の人々が、その時の情緒の赴くままに語る言葉はなにか考慮する価値があるのか、と。あまり役に立たないのではないか、と。そう思うネエ。この階層は、本音では無関心である故に、相撲協会の存続や利益にとって何かしてくれるなどとは期待できない階層であろうし、貴乃花部屋にとっても意義がない階層であろう。また、相撲という伝統行事(?)の発展にとっても、あてにはできず、貢献も協力も期待できない階層である。なので、影響力を行使する階層では本来はありえない。これがロジックだろう。

要するに、「何のしがらみもない」人たちであるわけで、言わば「お客さん」、というより「縁のない人たち」である。かような方々が語り合う井戸端会議が盛り上がるとしても、これまたビット・バブルと同じような種類の「井戸端バブル」と命名するのが適切な社会現象かもしれない、と。どうも斜に構えて、そう感じてしまうのだな。

角界は、角界を支えている人々の意見と、本音では相撲はどうなってもいいと思っている人々の意見を、よく聞き分けて「腰を割って」結論を出してほしいものである。



2017年12月22日金曜日

ビットコイン相場の小さな破裂(?)と最近のTV放送

ビットコインの相場急騰については最近になって2回投稿した。

その舌の(筆の)根も乾かないうちに以下のような記事がBloombergに出た。
仮想通貨ビットコインは22日に一時15%下落し、今月の日中最高値からの下げは30%を超えた。

  ビットコインは1万3048ドルまで下落した後、香港時間午後0時7分(日本時間同1時7分)時点で1万4079.05ドルに戻した。ビットコインは最高値1万9511ドルから下落しているものの、年初来ではまだ1300%余り値上がりした水準にある。

  オアンダのアジア太平洋担当トレーディング責任者、スティーブン・インネス氏は、投資家が「現実を直視」していると指摘。「問題の核心にあったのは、供給が限られる中で熱狂的な需要があったことだが、ここにきて経験の浅い投資家が高値で貧乏くじを引く事態につながっている」と述べた。
(出所)Bloomberg, 2017-12-22配信

既に今月の高値に対して3分の1下落したわけか・・・。300万円ほど買っていれば100万円損が出たことになる。

現在の資本市場、国際商品市況の流れをみれば、そうそう急に下落率が90%を超えて、高値比でたった1割の価値にまで低下するという可能性はあまりないように思われる。下がった時点で「いまが買い時」と判断する投資家(投機家?)が少なからずいるように思う。

しかし、小生は株式市場にはずっと関心を持ち続けているが、債券はおろか、外為、ビットコインにも全く興味がわかない。

なので、ビットコイン相場がこのままジェットコースターのように奈落の底へ沈んだとしても、「こんなこともあるんだねえ・・・」と、それなりに納得すると思う。株価では企業が実態として存在するので、(絶対にとは言わないが)あまりないことだ。

最も罪深いのは、日本のテレビ局である。今まで無関心のままで来て、相場が加熱し騰がりきった状況になってから、日本国内の民放、さらにはNHKまでもが、ビットコインの騰がりっぷりを放送するようになった。中には『いま買わないのは嘘だと思います!』などと登場人物に言わせてもいる。投機を煽るようなことを公共の電波を使って堂々とやっている。

半年前ならまだ罪は軽かった。乗せられた人もそれなりに利益を出せたであろうからだ。正にピークをつけようかというその時に「ビットコインのブームはいつまで続くのでしょうか」とは、それはないだろう。実に無責任である。もっと勉強して、早めに番組化するか、乗り遅れたのならもうとり上げないことだ。

最近のテレビ局の番組編集は余りと言えばあまりの不勉強ぶりが露呈して― というより不勉強な人たちが顔を知ってもらうための場になっている? ―、むしろ営業を停止するほうが社会のためであると思わせる時がある。審査を厳格化し、場合によっては改善命令を出せるようにしておき、必要なら一定期間営業を停止させる方向で放送法を改善するべきではないかと思ったりする。

まったく憤慨にたえない。




2017年12月21日木曜日

ビット・バブルの崩壊まで1年から1年半が目途だろうか

相撲界の騒動もチョット・バブル気味である。

最初の暴行事件から事件は拡大し、とうとうモンゴル力士の存在意義、相撲界の異質性など、今後将来にかけて相撲はどうなるのだろうかというレベルにまで議論が広まってきてしまった。

しかし、そもそも論から考えてみようではないか。

裸にフンドシを、いやいやマワシなるものをつけて、頭にはチョンマゲを結って、四方を青龍、朱雀、白虎、玄武を象徴する房で飾った土俵にたって、四股を踏み、柏手をうつ。そうしてから立ち合って闘技を行う相撲というものは、現代日本で総称している「スポーツ」に該当するのだろうか?

相撲はスポーツなのだろうか?小生、個人的には疑問なしとしない。むしろスポーツ庁管轄でなく、神社本庁が管轄するべきではないか。そうでないなら、伝統芸能の一環と認めて、文化庁が所管するのが適切ではないか、と。そんな風に思われたりするのだ。

勝負が相撲の本質と考えるならスポーツになるが、姿・所作・作法が相撲だとみるならスポーツではない。小生思うに、相撲から所作や作法をとってしまえば、レスリングになるのではないか。一つだけ言えることは、相撲は二つのボーダーラインにあって、純粋のスポーツだというなら本質を外すことになるだろう。

マア、とはいえ、ともかくも国家公認の興行事業であるとすれば、今回のようにあからさまな暴力傷害事件が発生すれば、該当者は処罰されるのが当然だろう。

◇ ◇ ◇

さて、今回、本当に力士同士の暴力事件が発生してしまった。その理由は、色々と言われているが、要するに「礼儀がなっていない」、「そこまでするのはやりすぎじゃないか」。ありふれたことである。

相撲は日本古来の闘技である。力士の精神 ― 武士道といってもよいだろうか ― にそって考えればどうなるのだろう?

もし、相撲の力士が日本古来の大和魂を象徴する存在であるなら、武士道の伝統に沿って「喧嘩両成敗」で暴力事件にかかわった双方を罰するのが適切だ。そう考えるのが本筋ではないかという意見もありうる。

しかし、今回のケースでは片方は手を出していない。身をかばっている。それなら「まことに殊勝である」とし、手を加えた者のみを処罰する。このほうが近代的であるかもしれない。吉良上野介は江戸城・松の大廊下で浅野内匠頭に切りつけられた。吉良上野介もなぜ切り付けられたのか、(小説ではなく事実としては)分からなかったそうだが、自分は抵抗しなかった。多分、殿中儀式の作法を指導していた若い大名からいきなり「遺恨あり」と切り付けられただけなのだろう。アンラッキーな人である。悪いのは手を出した浅野である。やられた吉良は悪くない。が、この判断は正に浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた科をもって切腹を命じた将軍・徳川綱吉と同じである。

将軍綱吉は非常に近代的であったことがこの点からも分かる。しかしあまりに近代的であった。「喧嘩両成敗」は武士の習いであると討ち入りを果たした赤穂義士を当時の庶民は拍手喝さいしたのである。片手落ちの処断は日本人の好むところではないようなのだ、な。こんな心情は、相撲に無関心な一般的な日本人ならいざしらず、相撲ファンはひょっとすると気持ちとして持っているかもしれない。

やられた貴ノ岩関。高校の恩師、知人の前で殴られたのがたまらなく『恥ずかしかった』と、そう語っているそうだが、この気持ちが小生にはもっともよく分かる。日馬富士ファンから貴ノ岩がどう見られるか。今後の様子が目に見えるようである。

思わず忠臣蔵の話にしてしまったが、浅野内匠頭=日馬富士、吉良上野介=貴ノ岩とすると年齢が合わないし、役回りも逆だ。今回のケースは、吉良上野介が「なっておらんぞ」と浅野内匠頭を厳しく叱責、殴りつけたところ、(歴史とは逆に)内匠頭は殊勝にも手を出さずジッと我慢をしていた。その事が露見したため、吉良上野介のみが幕府から厳罰を下され所領没収となる。そんな図式だ。だから、遺恨を含むとすれば吉良家の側である。

まあ、世論をきくのが民主的であるのであれば、それが駄目だと主張するつもりはないが、普段は相撲に何も関心をもっていない人たちが持っている<世間の感覚>や<ビジネスマンの常識>に沿って、形式的議論と論理的な結論で幕を閉じるとすれば、失われるものは結構多いのではないかと思っている。

◇ ◇ ◇

世間話が長くなった。本題は、わずかだ。

金利の長短スプレッドは典型的な景気先行指標である。アメリカの金融市場から確認すると現時点で以下のようになっている。

(出所)FED St.Louis, FRED

現在は、まだ長短金利がフラット化しつつある景気拡大段階にあり、リスクが意識される景況からはほど遠い。

世界景気がシンクロしている中では日本経済も米景気とそれほど違いはない。そんな中でビットコインの相場が急騰している。既にバブルであることは確実である。問題は、バブルの持続期間いかん、この点だ。

2008年9月にリーマン危機が勃発したが、その前年2007年7月にはパリバ・ショックが発生していた。アメリカのサブプライムローンがいつ爆発してもおかしくない不良債権であるという意識は浸透していた。実体経済は2007年10月から12月にかけてピークアウトしていたことはその後の経済指標から明らかになっている。

パリバショックからベアスターンズ、そしてリーマンと危機の意識が芽生え、実際に爆発するまでに優に1年は経過している。金融の脆弱性の高まりの中でアメリカ議会や財務省、金融当局が必ずしも最善の判断を下しえなかったことも無視できない。

金融上の混乱の背後には、混乱を招いた欲深い人たちに対する世間の冷淡な視線と、そんな世間の感情に配慮せざるを得ない政府の姿勢、この二つの組み合わせがほぼ常に存在している。

世界景気は来年も上昇すると予想できるし、ビットコインをいま買い入れる人たちですらも利益を出すことができると思われる。資産を20倍に増やす人も出てくるだろう。しかし、そのことが世間の嫉妬や反発、非難の感情を醸し出す。そんな世間の感情に(又もや)マスメディアが悪ノリする。最初の偶発的なビットコインの相場下落で大きな損失を被ったときに、あらゆる民放のワイドショーが「これは自己責任でしょう」などと言い立て、それが<世論>というものを形成してしまうと、再び日本経済は不必要なマクロ経済的混乱に陥る可能性が高い。

思い起こせば、1980年代のバブル景気も、賢明な政策を展開していれば、あれほど酷く崩壊することはなく、失われた20年にはならずともすんだ確率が高い。今ではそう考えられている(とそろそろ総括してもよいだろう)。上がった地価を(少々)叩いてもいい、株でもうけた人は(少々)たたいてもいい。そんな世間の感情が時にどれほど酷い経済的惨事を引き起こすか。記憶するに値すると思う。『二度とあやまちは犯しません』、そう言ってもいいくらいだ。

願わくば、ビット・バブルが最初に少しはじけたとき、その時には政府は<非民主的>に<世論は無視して>、そのうえで<賢明な>政策をとってほしいものである。

・・・

普段は経済問題のことを考えたことのない人たちが、にわかに興味をもち投機で失敗した人は自己責任であると言い立てても、そのような世論が経済をマネージするのに役に立つことはほとんどない。これが経験則であるのだから。

ウ~ム、相撲のことから経済の話をしたが、なんとなく論旨が似てきたようだ。不思議だ。


2017年12月17日日曜日

英国・大陸欧州: BREXITは第2段階へ・・・について

私事に渡るが、今日は亡くなった小生の両親の結婚記念日である。生前、二人は自分たちの結婚記念日を祝うという習慣はもたなかったが、それでも知識として覚えているのは、多分、母からきいたのだろう。

さて、

視線の長い中国もそうだが、概して西欧、ロシア、アメリカなど外国は物事を考えるときの時間軸が相当に長い。
[ブリュッセル 15日 ロイター] - 欧州連合(EU)首脳は15日、英国のEU離脱(ブレグジット)を巡る交渉について、移行期間や将来の通商関係を協議する「第2段階」に入ることを正式に承認した。
(中略) 
伝統的に英国と親密な関係を続けてきたオランダのルッテ首相は「英国の金融部門はEU離脱によってかなり不利な立場に置かれる」と指摘。離脱によって失われる利益をメイ首相は有権者に説明する責任があると述べた。
(出所)ロイター、 2017年12月17日配信

ロンドンの金融中枢機能が衰退すればポンド相場は超長期的に下落トレンドをたどるだろう。それは英国内製造業にとっては追い風となり、英金融業にとってはマイナス、大陸欧州の金融機関にとっては福音となる。つまり大陸欧州の製造業にはプラスとはならない。

19世紀から以降、英国は最初は製造業で産業革命をとげ、その後は世界の金融センターとして国富を形成した。

21世紀も中盤の入り口にさしかかり、英国は「昨年の災いを転じて将来の福となす」戦術をとっている、つまり英国は永年の国家戦略を徐々に主体的に改めつつあるのかもしれない。

人工知能(AI)、仮想通貨の登場がきっかけになり、今後将来、最も経営リスクを負っているのは典型的には金融業だろう。日本国内の銀行が「失われた20年」から脱出したのもつかの間、再び「構造不況業種」であると形容されるようになっている。

ヒトの生活の実質的部分はモノ作り産業が決める。というより、知能が決める。もはやカネではない。雇用吸収力も、最悪の場合すべてが人工知能(AI)に任されてしまうかもしれない金融業に比べれば、まだモノ作り産業に未来があるだろう。知能が情報をメカニズムとして管理する時代がくれば、その拠点が世界の産業センターになるだろう。

永年のドル箱であった金融業を熨斗をつけて大陸に下げ渡し、その代わりにモノ作り産業の復活に向けての追い風を掠め取るという意図を隠しているのだとすれば、その昔、ゲーテが英国を評した言葉通りのことをまたイギリスは国家ぐるみでやっていることになる。

2017年12月15日金曜日

ビットコイン: 「根拠なき熱狂」が「愚かな熱狂」になるのでは?

先日、大学の同窓会(らしきもの)が小生が暮らす町の一隅であった。どの参加者も大学に縁があり、社会科学を専攻している人である。となれば、談論風発する中で必ず話題になるのはカネの話である。

英株が課税上有利なこと、米株や仏株に比べて英株は投資する側から見ると、実にありがたく、売買しやすいということを話した。

『ビットコインはどうですか?』、『今はダメ、ダメ!!』という話もした。大体、上がっているから買おうなどというのは、買う側の論理として最初から破綻しているのだ、な。ま、小生だってこの点では手ひどく失敗をしたことがあるのだが。

こんな報道がある。
麻薬ディーラーでも脱税者でもない、そこにいるのはミセス・ワタナベだ。ドイツ証券は14日のリポートで、仮想通貨ビットコインの急騰の裏に日本の個人投資家の存在があると指摘した。

  村木正雄氏らドイツ証のアナリストは、個人投資家がレバレッジを効かせた外国為替証拠金取引から仮想通貨取引にシフトしているとの見方を示した。同証によると、日本は世界の外国為替証拠金取引の約5割を占める。日本経済新聞によれば、10-11月は世界のビットコイン取引の4割が円建てだった。
 ビットコインの価格は年初から16倍余り急騰しているため、値下がりが始まれば、個人投資家主導の熱狂は好ましくない結末を迎える可能性があるともドイツ証は指摘。日中のボラティリティーが大きいため、証拠金を超える損失が発生するリスクが一般的な外為取引よりも高いと説明している。また、仮想通貨を巡る投機は無視できない規模に拡大しているため、バブルが破裂した場合の市場への潜在的打撃や、そうした懸念が規制や金融政策に与える影響をより深く調べるとした。

(出所)Bloomberg, 2017-12-15, 9:02配信

ニューズウィーク誌、その他の媒体でも、この何日かこの話題がとり上げられている。
(前略)
金融庁の関係者は「急激に上昇したかと思えば急落があったり、値動きが激しく価格を注視している。仮想通貨取引所には顧客に対してビットコインの値動きが荒く、思わぬ損失を被るリスクがあることなど情報提供を徹底するよう求めている」と話す。 
チャート的には、1970年代後半の金価格の急上昇に似てきた。欧州中央銀行(ECB)のコンスタンシオ副総裁は9月、「ビットコインはチューリップのようなものだ」と言及。17世紀にオランダで発生したチューリップ球根バブルを引き合いに出している。 
ビットコインの「適正価格」は、まだ誰にもわからない。今の相場がバブルかどうかは後になってみないと確かめられないだろう。ただ、これほど短期間で急騰した例も歴史的に珍しい。将来性はさておき、個人を含め市場参加者は、急落リスクと日々向き合うことになりそうだ。
(出所)ニューズウィーク日本版、2014年12月14日

価格チャートを見るまでもなく、ビットコインの相場は明白にバブルの観をなしている。暴落は時間の問題である。いまビットコインを買うなど、地雷原の中に足を踏み入れるのと同じだ。

にもかかわらず、日本のミセスワタナベ(=外国為替で稼ごうとする日本の個人投資家層) はまだ買いこんでいるのか? 売り逃げをしないといかん状況であるのに。

やはり『このケースは違う』という心理がバブル形成要因として作用しているのだろう。

暴落で評価が5分の1になっても、カネが有り余っている大富裕層なら放っておくだろう。そもそも大暴落を演じている事にすら気が付かないかもしれない。それならば何も問題はない。ビットコインという投資対象(投機対象?)は、(今後どの程度評価されるかは不透明だが)新種の経済的機能を世界で果たす可能性がある。なので、暴落しても遠い将来にはまた戻る。心配ご無用! 小生もそう予測(?)しているのだ。

本来、投資とはそんなものではないだろうか。相場を追っても予測などできないのが相場であり、投資とは中身にカネをかけることを言うはずだ。追ってはならない相場を追うのは単なる投機だ。つまりギャンブルである。だから、100パーセント余ったカネでビットコインを買っているはずだ。それならば、そういうわけだから何も問題はない。

しかし、毎日何度も相場を見ずにはおられない普通の人は、資産が5分の1に減ってしまうという暴落自体が我慢できないのではないだろうか。それで、(自称)「損切り」をするつもりで売ってしまったりする。その後、確定申告で損失を所得に算入できないか、何とかならないかと、またまた時間をかけて調べたりする。そのことで頭が一杯になる。

が、失ったものは戻らないのだ。カネをなくすとはそういうものだ。

どうせ余ったカネなのだから、放って置けばよいのに、何かあれば何とかしようと一生懸命になる。手間暇かけるのが大事だと思う日本人のそこがウィークポイントである。

2017年12月14日木曜日

揺れる相撲界: イナゲな理事?

角界を揺るがせている横綱・日馬富士の暴行引退事件。その後、突然に江戸勧進相撲発祥の場所である深川八幡(富岡八幡)で稀に見る惨劇が発生し、まるで相撲界の上に黒雲が広がっているような雲行きだ。

カミさんとも世間話に格好の話題なのでひっきりなしに話している。

この話題になるたびにいつも出る話し。

貴乃花親方。上層部と一戦交えるなら、まずは最初に理事職の辞表をたたきつけてから思う存分戦うのが男子たるものではないか。本気で対決するなら、いったん身を引いてから決然、旗上げするべきである。会社の経営陣を告発するなら、まずは会社に辞表をたたきつけ自由の身となってから戦うべきだ。同じである。月額100万円を超える役職手当をもらいながら、組織運営を妨害する行動をとるのは美しくない。ハッキリ言えば<ワガママ>、一言で言えば<裏切り>、よく言うとしてもせいぜいが<暴発>か<独善>あたりにしかなるまい。

***

マツコ・デラックスは同親方を評して『いいにしろ、悪いにしろ、変わった人ネ』と言ったそうだ。

小生の田舎である四国・松山の人間なら同じ意味で『あの人もイナげなお人じゃなあ』と感嘆するところだ。

小生が形容するなら『非常識な人だねえ』となる。

***

小生、個人的にはモンゴル出身、モンゴル国籍のままで相撲部屋を経営してもいいのではないかと思っているが、このタイミングではもう無理じゃないかと予想する。今回の事件は、いい方向に向かいつつあった角界を10年程度は混乱させるのではないか。必要もない反モンゴル感情を世間に醸し出すのではないか。もしそうなら本当の相撲ファンはガッカリするだろう。

大体いつもそうであるが、本当は無関心の人たちがにわかに興味を感じて騒動に参入し、多数派を占める無関心層が納得するような結論がただ<民主的>であるという理由で採択される。<世論>に耳を傾けたと評価される。もしそうでなければ世論を無視していると憤激する。当事者・関係者は方向転換する。結論ありきである。おそらく今回もそうなるのじゃあないか。集まった無関心層は(それである程度は)満足して別の話題へ関心を移していく。採択された結論のその後の進展には何の責任もないと割り切っている。この辺の事情は、衆参議院の選挙、都知事選挙、その他の選挙、日本の政治も同じだろうと思う。

2017年12月13日水曜日

「戦後」のノリを超えつつある「新聞社」の態度

戦後、日本はずっと戦前期・日本がとった行動を反省する姿勢をとってきた(と言えるだろう)。亡くなった父は朝日新聞を好まなかった。それでもハッキリ言えば産経新聞を「新聞」として相手にはしていなかった(ように覚えている)。当時から、小生はよく知らなかったが産経新聞は右寄りだった(はずだ)。

新聞社にも会社としての主張はあるわけで、政治的にも思想的にもあらゆる社会問題について自由に問題をみる視点を選んでよいと小生は思う。

戦後日本では日本国憲法が理念として共有されているのだから、それを否定するような言説をとるべきではない、と。そう語る人もいることはいるが、そんなことを言い出せば、「長いものには巻かれろ」と言うのとどこが違うのか、そう思ったりもする。

おかしいことはおかしいと言わなければならない。そう思っている。

◇ ◇ ◇

しかしネエ・・・、新聞社が学問の分野にまで踏み込んできて、報道の域を超えて、研究したい人、思想をパブリッシュしている人の名前を挙げて『これはイカンのじゃないか』と言いたげな記事を配信し始めるとなれば、流石に「これは新聞社としてのノリを超えているゾ」と、そう思う。

 「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。 
 ここには次のような情報が掲載されている。 
 「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。
 外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。
 この場で外村は平成27年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された長崎市の端島(通称・軍艦島)を含む「明治日本の産業革命遺産」について論じた。
 「ごく一部の新聞、産経新聞だが、(軍艦島で)楽しく暮らしていた。朝鮮人とも仲良くしていた(と報じた)。個人の思い出は尊重するが、朝鮮人は差別を感じていた。強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」。
 研究会は徴用工問題に取り組んでいる「強制動員真相究明ネットワーク」などが主催した。同ネットワークは11月末、韓国の市民団体「民族問題研究所」とともに「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」というガイドブックを作成した。産業革命遺産の登録申請は従来の文化庁主導と違って「官邸主導ですすめたという点が特徴」としたうえで、こう指摘した。
 「誇らしい歴史だけを記憶するという、反省のない歴史認識は、再び日本を戦争ができる国にするためのプロジェクトと連動しています。『明治日本の産業革命遺産』の物語もこの一環とみられます」 
 文科省関係者によると、科研費の審査は3人一組で行い、総合点で上位の申請が選ばれる。「自然科学分野と違い、歴史学はどうしても思想的な偏りがある」とこの関係者はもらす。
(後略)
(出所)産経ニュース、2017年12月13日、7時16分配信

確かに歴史学の研究には、ある一連の事実を研究者自身がどう見るかという視点が混在する。というより、その視点自体が、その研究者が行った研究の結果として得られたものかもしれない。あるいは、ひょっとすると、その研究を始めた動機や契機に何かの主義や価値観、思想が初めから混在していたのかもしれない。

しかし、特定の思想や主義が混じりこんだ研究であっても学問としては全く問題はない。むしろ社会思想や宗教、哲学などを主題にしてアカデミックな研究を自由に制限なく進め、そこで明らかになった結論は自由にパブリッシュされるべきである。もちろん、自由に放任すれば、その時代の潮流に沿って、時にはある一方向にバイアスがかかり、特定の方向に則した結論が多く出てくる。そんなこともあるには違いない。

しかし『このような研究は社会的意義が乏しい』などと言い出せば、言っている人はずっと昔の「スターリン主義」に賛同していることになるだろう。

どのような問題についても、多様な学問的成果が蓄積される。日本国内の研究の蓄積がデータベースとして蓄積され、誰もがそれを参照できるようになれば、研究が更に効率的になり、内容が深まる。そもそもアカデミックな研究は筆記試験や資格試験ではない。<正解>などは存在しないし、正解を求める姿勢も不適切だ。

<正解>などは最初から存在しないのだと考えているからこそ、たとえある問題について外国から指摘されても、先入観を排し知的な観点にたって、有効なコメントや反論を国内から発することができる。また、そんな論争は本来(ある意味で)知的で楽しいものなのである。反論や批判は、本来は愉快な論争に結びつくものである。批判が不愉快に思うとすれば、自分が正しいと思い込んでいるからだ。これは学問とも研究とも縁遠い姿勢である。研究の事を語るべきではない。

◇ ◇ ◇


外国から何かの倫理上、歴史上、思想上の攻撃を受けたときに、日本政府による何かの対応を期待してもまったくダメである。学問上の事柄について政府に何かを期待するなど典型的な愚論である。閣僚や官僚は(議員もよほどの専門家ならまた別だろうが)、原則として、担当する実務以外には無知無学である。

自社の理念から気に入らない結論を掲載しているからという理由で、アカデミックな研究を非難するのは、あまり聞いたことがない。

「天皇機関説批判」や「国体明徴運動」、「人民戦線事件」や「平賀粛学」を思い起こすまでもなく、戦前期・日本のマスコミ大手が数え切れないほどの酷い失敗をしているので、もうそんな愚かな「主張」を国内のマスコミ大手が掲載するはずはないと思っていたが、どうやら『もはや戦後ではない』らしい。自分で経験したわけではないことは、最初から知らないことと同じなのだろう。自分の両親からも、身近の年長者はもちろん、上司、先輩など「先達」と呼ばれる人の経験から学ぼうとしない自称「最先端」の人間集団がいる。どこにでもいる。マスコミ界にもいるということだ。

こんなことを考えさせる掲載記事が日本国内の新聞には増えてきた印象だ。

2017年12月10日日曜日

日本人の税負担感は日本的なのか?

来年度税制改正では個人に対する増税が相次ぐという報道が盛んである。

タバコ税は紙巻き、加熱両方で税率の公平を確保するため、特に加熱式たばこの価格上昇が大きくなる模様だ。日本を出国する人、日本を訪れる外国人には国際観光旅客税が導入される。一人千円で航空券発券時に徴収するらしい。更に、森林環境税はこれまた一人千円だが、こちらは個人住民税に上乗せして徴収する。

観光税のほうは出入国管理の強化などに充て、森林税は林道や森林管理に使う。そう説明されているが、100%使途を限った目的税であるのかどうか、ハッキリとはしない。

ハッキリしないとはいえ、どの税目も100億円から500億円という程度の増収で消費税率2%アップと比べれば桁が違う。

増税といっても桁が違うためなのかどうか、マスメディアは全くその是非を論評していない。まあ、反対しにくいという情緒もあるのだろう。

***

欧州では付加価値税率20%は当たり前であり、スウェーデン、ノルウェー、デンマークのような25%の国もある(資料はMOF作成のこれ)。しかし、税率の高い国の国民の幸福度は低いというデータがあるわけではなく、国連が発表している幸福度ランキングではノルウェー、デンマークが1、2位を占めている。付加価値税率の高い国の幸福度が高くなっている。

概して欧州の税制は付加価値税が主たる一般財源になっている。取引のたびに課税されるので税から逃げられないが、食品等には軽減税率が採用されている。税制としては単純である。ただ、徴収された歳入が何に使われるのかとなると、目的税とは違って、使途は見えにくい。それでも幸福なのだから、政府をよほど信頼しているか、政府が信頼できないならばそれは小さい政府で民間部門が充実しているか、このいずれかという理屈だ。ノルウェーやデンマークの政府は大きな政府であり、後者の可能性は当てはまらない。ということは、国民が政府を信頼していることになる。色々な媒体から実際にそのとおりであるという印象がある。幸福度ランキングの順位はやや下がるが、スウェーデンも似たような事情だろう。

日本では小さな目的税は通りやすいが、大きな消費税は大問題になる。痛税感があるためだが、たかだか消費税率10%で負担感に耐えられないというのは奇妙である。

どちらかと言えば、日本国民は自己主張が激しくなく、政府の指示には嫌々ながらも従う傾向がある。一度決まった事柄、規則はよく守る。欧州では25%の付加価値税率があるのに・・・である。

***

・・・政府予算に国民の税収が占める割合は概ね3分の2、長期債務の対GDP比率は168%であるから、政府の行政においては、国債購入という形で資金を提供している有産階級(?)が相当貢献しているという実情がある。つまり、現在の日本政府は、「国民が」という原則は認められるものの、一部の「有産階級」が少なからず費用を負担して貢献している(というか、して来た)。

貢献あるところに権利あり

このメカニズムは時代を問わず機能してきた。

江戸時代において、借金まみれになった藩は主君である殿よりも資金を提供した上方商人に頭を下げなければならなかった。よく似ている。

カネを負担しなくとも「いざという危機」においては軍役について奉仕するのであれば、資金を提供している階級の影響力は限定的だ。が、負担する何物もないのであれば、影響力どころか、発言してもネグられる。不満が爆発して時々暴れるが、せいぜいが同情される、社会問題として指摘される、それだけになる。

負担なければ権利なし

このメカニズムも歴史を通してずっと一貫して働いてきた。カネも力も負担しない階級は福沢諭吉が『学問のすすめ』第三編でそう呼んだ「客分=お客さん」にならざるを得ない。頼りは日本国憲法あるばかり、だ。そんな状況になる。

「お客さん」に組織運営の負担を求めても、嫌がるだけであろう。

要するに、みんなで負担してみんなで相談してみんなで幸福になるか。誰かが負担して指導層になり、他の人々は面倒をみてもらう、その代わりに危ないこと、大事なことには参画しない。ジッシツ、選べるのはどちらかである。そんな浮世の現実が改めて確認できるわけである。

日本は、まだ後者の国家形態に移行したとは思われぬが、このまま放っていくと、実質的にそう成り行く可能性はある。もしそうなら明治維新前の古い日本に戻ることになる。

***

年金保険料は使途が明確だから支払う。医療保険料は自分にも必要だ。だから支払う。森林税は使途が明確であり、金額も年間千円だから、まあ、認める。観光税も目的がハッキリしているし、現に自分も旅行しているので、支払う。

しかし、一般財源は何に使うかハッキリしないので、消費税も所得税も払いたくない。「痛税感」とはこういうものだろう。

日本人の幸福度ランキングは世界で51位、OECDでは最下位である。米英独仏は10〜30位前後、シンガポール、タイも同程度だから、日本の51位というのは先進国の中では際立って低い。

その根底には
政府が信頼されていない。
真の意味で信頼していない政府から増税されようとしている。 
という、そんな現実がある(かもしれない)。

つまりは、国民の願望に沿った政治が(本当は)行われていないという現実があるのではないか。

その背景には、「自分たちが支えている政府である」という精神的一体感を持っていない。そんな事情があるかもしれない。であれば、少額でもいいから(例えば)人頭税を導入して納税者感覚をすべての人に持ってもらうのが政府との一体感の形成には有効かもしれない。たとえば格差拡大への怒りが政治的エネルギーの高まりとなるには<負担の平等>に裏付けられた倫理的な正当性が要るだろう。この方向のずっと向こうには、いうまでもない、<軍役の義務=徴兵制>という名の負担の平等がある。

戦前期・日本で華族や富裕層、地主層が最終的に政治的影響力を失ったのは、兵役の義務を全うする兵士達は庶民にとっては非官僚的な人間集団であって、その兵士達を統率する軍部に対して庶民は既存の指導層とは別の親近感・清涼感を感じた。この点はよく指摘されていることである。古代ギリシア、共和制ローマとも共通しているが、いざとなれば自分達自らが国を守るという制度は、福沢諭吉も大いに評価した国の形なのである。

しかし、多分、話は逆なのだろう。そもそも現在の政府サービス自体に共感をもてない、こちらが先なのだろう。政府がまったく信頼できない、だから使途がハッキリしない税は支払いたくない。そんな因果関係かもしれない。だとすれば、人頭税などとんでもない話である — この場合、信頼されていないのは政府ばかりでなく、予算を議決する国会もまた信頼されていないということだ。

まあ、いずれにせよ確かに現在の日本国の費用負担状況を見ると、国民が支えている国であるとは言えないヨネ。これが現実だ。

更にまた、その根底をみると、日米関係の現実につきあたる(かもしれない)。自分たちで自国の将来を決められない。結局、ここに戻るのではないかネエ・・と。与党だけではなく、野党もまた、基本的には現行レジームのまま政権につきたいと。「そうではないんですかい?」と言いたい人も多いはずだ。

国民の幸福度は、その国の経済力で決まるわけではなく、自国の将来を国民がどの程度まで主体的に決められているか。いわば、その国の政治水準。経済水準とは別の政治水準もまた国民の幸福度の重要な決定要因であると。改めてそう思えてくる。





2017年12月7日木曜日

断想: NHK受信料合憲判決から

NHKという会社(?)は奇妙な存在であるということは以前にも投稿したことがある。もう5年以上も前のことだ。

放送受信料を強制的に徴収しているが、それは決して租税・公課ではない、つまり対価なのだというところから問題は発生する。

この件について最高裁まで上告されていた事案について昨日判決が出た。

結論は『放送受信料は合憲であり、支払い義務はNHKとの受信契約発効、つまりテレビ設置日に遡る』というものだ。

要するに、契約自由の原則という観点から考えれば、テレビを設置するという行為とNHKの電波から使用価値を受益するという行為は同一の行為ではない以上、NHKの電波を受信するかどうかについては自由意志に基づく交渉の段階がなければならないというロジックが一方の側にある。それに対して、NHKは公共の利益を守るために設立された事業者であり、民間企業ではない。民主的に選ばれた国会で議決された放送法で受信料支払い義務が規定されている以上、テレビ設置者には受信料支払い義務があるのだ、と。最高裁では後者の法理を採択したわけだ。

まあ、道理に沿った判決だと納得できる。契約は自由であるという原理原則の例外としてNHKという事業者は存在していることが改めて確認されたわけである ― とはいえ、ドラマやエンターテインメント性の高いバラエティも、全て公共性を本当にもっているのか?甚だ疑問であると感じられる番組は多いとは思うが。

■ ■ ■

判決で気になる部分もある。それは(当のNHKの報道から引用させてもらうのだが)次の部分である。

放送は、憲法21条が規定する表現の自由の保障の下で、国民の知る権利を実質的に充足し、健全な民主主義の発達に寄与するものとして、国民に広く普及されるべきものである。放送法が、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」などとする原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的として制定されたのは、上記のような放送の意義を反映したものにほかならない。

(出所)NHK NEWS WEB, 2017-12-07配信

マスコミがよく使用する「知る権利」については、小生は先日も以下のように述べている。

なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

 最高裁判決が「知る権利」の根拠として挙げている憲法上の根拠は第21条である。これは表現の自由に関する規定である。文言は以下のようだ。

第二十一条 
①集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
新聞社は結社の自由で守られ、記事の表現は表現の自由で守られ、検閲によって報道が制限されることはない、という意味で日本国内のマスメディアが上の規定を印籠のごとくかざしているのはよく知られていることだ。

■ ■ ■

ただ思うのだが、昨日の最高裁判決でいう「知る権利」 ― 知る権利を21条で直接的に概念規定しているわけではないのだが ― と、先日も小生が投稿したようなマスコミのマスコミによるマスコミのための「知る権利」とは、まったく本質が違っている。内容が違う。

「知る」というのは「真相を知る」ことである。真実であるかどうか分からないことまで、時にはウソかもしれないと思いつつ、更には真っ赤なウソと知りつつ、自由に表現できるのは、国民に知る権利があるからだというのは屁理屈だろう。まあ、ここまでいうと言い過ぎかもしれない。が、「知る権利」というのは極めて限定的に解釈したほうが適切であるように思われるのだ、な。

別の角度からも吟味しよう。

■ ■ ■

基本的人権が日本国憲法のコアとなる規定であることは学界でも合意の広さという点からも最も共有されている理念である(と、小生は承知している)。

第十一条 
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
非常に強い規定であることは文言にも表れている。もし報道機関が主張する「知る権利」と、どの個人にもせよ基本的人権として持っている自由とが衝突するなら、当然、基本的人権を優先するべきである。そんな結論になるはずだ。なので、一度、「知る権利」と「基本的人権」が矛盾する事案について誰かがマスメディアを提訴し、法廷で黒白をつけてほしい。小生にはそんな願望がある。

■ ■ ■

個人については個人情報保護法が「知る権利」に対する盾になっている。政府については「特定の秘密の保護に関する法律」が平成25年12月13日に制定された。

21条にいう表現の自由とは民主的に選ばれた国会で議決された法律の範囲内で「知る権利」につながるものである。そういうことでもある。

契約自由の原則は大事である。しかし、現に民主的に選ばれた国会で放送法なる制限規定が議決された以上、契約自由の原則もその範囲内で認められる。故に、NHK受信料支払いの義務は契約自由の原則と矛盾しない・・・同じロジックであるようだ。

・・・マア、こんなに簡単に原理原則を制限する法律を合憲であると認めていいのかという問題提起はありうると、個人的には思ったりもするが、論理は論理だ。

確かに論理的である。論理的であるというのは、感情や思い込みが混じらず、普遍性をもつということなので、認めざるを得ないわけだ。

ただ一つのことは言える。国民が個人として持っている基本的人権は、いかなる場合であっても、現行憲法下では国会と言えども侵すことはできない。そう明記している ― もちろん自由に行動して、他人の権利をおかせば処罰されるわけで、それは当たり前。

いずれにせよ、小生が理解する「知る権利」とマスコミが常に主張する「知る権利」と、二つの接点について考えるチャンスになったのは事実である。


2017年12月6日水曜日

猛省: ニコ生を侮っていました

3月にこんなことを書いている。これも今年のことだったのかと日の経つ速さをつくづくと感じる:
TVとはあまり縁のない例えば法務委員会では「共謀罪法案」の扱いが検討されている。厚生労働委員会では「保育所問題」や「育児休業」が審議されている。TV中継される予算委員会以外の委員会では、総じて真剣な審議が行われている。そのことをTVはまったく見ようとしていない。 
以前に、日本陸上の特に男子長距離界の弱体化が進んだことと箱根駅伝の視聴率の上昇トレンドとの間には、有意な因果関係を統計的に検出できるのではないかと書いたことがある。 
同じように、予算委員会に偏重したTV中継と無責任な毎年度の予算編成との間には統計的に有意な関係が認められるのではないか、と。 
そんな憶測をしている。 
こう書いてくると、「TV中継」なるものが日本国民に何らかの価値を提供しているとは全く思われない。あえて言えば、TV局の番組編成局に所属する無学・無教養なプロデューサーの「見識」などは排して、多くの常任委員会・特別委員会をローテーション方式で機械的に中継していく方が国民への情報提供としては一層適切であり、国会全体の活動状況を正しく伝えることが可能で、また個人個人の国会への関心を刺激することにもつながるだろうし、そのためのルール作りを国会との間で取り決めるのが優先事項であると思うようになった。
 来年2月に開催される情報処理学会では人工知能(AI)や機械学習で最近よく名前を目にする人たちが講演するので、これはぜひ行かねばと思ったのだが、ネットから開催案内を読むと「ニコ生」でも中継するとある。

ニコ生? それは当然知っている。しかし全く利用していない。その意義をネグってきた。「そうか、こんなものも中継しているのか」と今更ながら見直して登録した次第。

中継中の生放送をみると本日現在で衆議院・外務委員会や厚生労働委員会、国土交通委員会、あるいは第53回原子力規制委員会などがライブ中継されている。

ここまで社会に浸透しているとはまったく知らなんだ。

時代に遅れていることを自覚しなかったというのは恐いねえ・・・猛省。

とはいえ、思っていた以上にTVが劣化しているという事実が一層明らかになってきた。これも事実だ、な。

2017年12月5日火曜日

慰安婦像増設戦術に対しては「抱き着き戦術」のみが有効ではないか?

韓国にとって従軍慰安婦像設置は今や日本に対する有効なソフトパワーアップ戦術になっている。

先日、サンフランシスコ市にくだんの像が寄贈される問題をめぐって大阪市は姉妹都市関係を解消すると通告し日本国内でも議論になった。

これを中国系市長と韓国系住民団体による連係プレーとみる向きもあるが、むしろ中国にとっての韓国が今や国家丸ごと日本に対する中国の倫理的優位性を国際社会において築くための戦略的ツールと化しつつある。こちらのほうがより重要だと思われる。

韓国という国は、中国が対日優位を構築するために間接的アプローチをとるとき<役に立つ駒の一つ>になりつつある、というよりなったと思ってみている。韓国の最適反応戦略は(中国からみると)極めて分かりやすいから。

明治以来、日本は朝鮮半島を国防上の最前線と見なしてきたが、いま現代において中国からみても朝鮮半島は地政学的にも、歴史的にも、自国防衛上の最前線としてみていることは自明だろう。

韓国の外交行動は中国の戦略的意図の反映であるとみる視点が大事だ。韓国もそのことを理解しているはずだが、ナッシュ均衡を崩すための勇気あるコミットメントを政府が行うには常に政治基盤が不安定である。

◇ ◇ ◇

アメリカはどのような思考に基づいて第二次世界大戦後の対アジア外交を展開したのだろう。小生も勉強不十分でそれほど当該分野の知識はない。が、アメリカにとって戦後の東アジア情勢は予想外であったろうと推測する。中国共産党政権の誕生、朝鮮戦争の勃発、朝鮮半島の南北分裂まですべてアメリカにとっては想定内、計画通りの進行であったとはいくら米政府も強弁しないだろう。

そのアメリカはいままた「日韓従軍慰安婦問題」がここまで引きずられてくるとは思っていなかったと思われる。

◇ ◇ ◇

この問題があるゴタゴタした経緯をへて認知されて以来、現在までかなりの時間が経過したが、このような場合、韓国にとって最も嫌な日本の出方は<偽善>だろう。

世界の女性共通の現代的問題と日本もまた認識し、国際的に主導的に活動し、従軍慰安婦像の設置には反対せず、むしろ全ての女性の視点から悔恨の意を表明し、設置賛同の志を金銭的にも寄付するとすれば、韓国としてはその寄付を拒否するかもしれない。受け入れれば日本の偽善は成功するし、拒否されれば拒否されることが日本にとってプラスとなるだろう。

ましていま現在、日韓合意に反する行動を韓国側がとろうとしている点それだけでも、日本は1,2点をとっている戦況である。

歴史問題に関連して日本の対決的姿勢は韓国が想定している反応であり、韓国(及び中国)が最も緻密な外交戦術を構築している領域だろう。相手の予想する行動はとらないのが紛争で優位を得るための王道である。

同じ敗戦国のドイツも歴史問題については対決戦術はとっていないはずだ。




2017年12月4日月曜日

12月2日への補足: 問題解決の際の「日本的」な傾向

ある問題が発生し解決を迫られるとき、それぞれの国民性が反映される。その国民性は数多くの要因が結構複雑に絡み合って決まっている。

日本人の場合は、たとえば「島国」で大陸とは海で隔てられていたので長い歴史を通して独自の文化、理念ができあがっている ー 「邪を正す」という発想より寧ろ「和を以って尊しとなす」のはその一例かもしれない。前の投稿では、加えて日本語の特質という点をあげた。

前の投稿から少し考えを足したのでメモしておこう。

次のような日本文がある。

こんな日は、読書だ。

これを英語で表現するとどう訳す? たとえば

In such a day I like to read books. あるいは
In such a day one likes to read a book. 

上の二つはかなりニュアンスが違うが、これなら、まあ、学校的には丸がつくだろう。それでも原文とは意味が違っている。

そもそも元の日本文は「こんな日は」である。「こんな日には」ではない。だから"In such a day"ではまずいのではないか。「こんな日は読書だ」と、「こんな日には読書だ」とは、確かにニュアンスが違う。しかし、このようなことを言い出せば「こんな日は」を英語にすることができない。

かと言って、「日」を主語にして(日本語でも一見すると「こんな日」が主語であるようでもあるから)、

Such a day is a chance for reading.

こうすると余りにも分析的になる。大体、元の日本文とはまったく意味の違う文になってしまっている。『こんな日は、読書だ』と『こんな日は読書をするいい機会だ』というのは、意味は同じかもしれないが、情緒が全然違う。

大体、『こんな日は、読書だ』、『こんな日は読書だ』、『こんな日は、読書です』、『こんなひは、読書だよ』、『このようなひは、読書だよ』、『こんなひは、どくしょだ』、『こんなひは、ドクショだ』、まだあるかもしれないが、すべて文に込められている情緒が違うし、違う以上は異なった英文で訳さなければ(本当は)正確な訳文にはならない。

日本語による表現は、言葉で書かれていない「言外の」情緒を伝えようとするところに深い意味がある。その情緒を理解しなければ、聞いたことにならないし、読んだことにならない。英語でいう「ニュアンス」とは使われる言葉の選択を指しているので、いま言っていることとはかなり違っている。

大体、日本語による文学作品の代表例である『源氏物語』。ほとんど主語がないのだな。谷崎潤一郎の『源氏物語』は小生にとって長期的な読書リストの一つであり、いま少しずつ読んでいるところだ。谷崎は、紫式部の原文の雰囲気を忠実に出すために、現代日本語訳でも極力主語を省き、それが誰の動作であるかは敬語を用いているか、それとも前後の文脈から読み手に憶測させる表現をとっている。「源氏物語」が外国語に翻訳されているのはまったく驚異であると小生は思っている。

◆  ◆  ◆

前の投稿では、日本人が日本語で何かの問題を分析する時、自然に言葉の特性が国民性のような傾向になって現れてくるような気がする、と。そう書いたのは以上の趣旨であった。

特定の問題をもたらしているメカニズムをまずどう理解しているのか。そのメカニズムは何かの目的を達成するために設計されたはずだが、何が目的で、いま何か問題を抱えているのか。その問題が解決されていないために、現在の問題点が結果として現れているのではないか。本質的な問題を解決するための筋道は何か。本質的な問題を解決すれば、眼前の問題点も解消されるのではないか、と。

本質的なところで問題が発生しているとすれば、多くの場合、ヒト(Man)か、設備・道具(Machine)か、素原材料(Material)か、方法(Method)かのいずれかに存在するという「4M理論」などは、問題解決のためのツールとして製造業現場で受け入れられた<QC>(=品質改善)に由来するベーシックな視方である。QCでは整理された問題に対して「重点志向の原理」に沿って、大きな三つの問題点から先に解決しようとする。2割の問題が障害全体の8割を説明するという「パレートの法則」が根本にある。決して、すべての問題点を洗い出してから、整理し、解決への戦略を検討してから後、実行へ着手するという方式はとらない。これもまた実践的(というか非常にアメリカン)な方法論だろう。

いずれにせよ、問題解決にはまず観察、理論、診断のステップが必要である。こんなロジカルな構成をもたせて議論すれば(本当は)効率的である。しかし、日本語を使った議論では、中々、ロジカルな議論にならない。「この問題は何を意味するのか」、「意味されたことは他のどんな事と関連するのか」、とまあこのように連想ゲームのように話しが纏綿と関連しあいながら、進んでいくことが多い。

日本国内で「国会審議」とか、「ジャーナリズム」と呼ばれている「言論の場」は、諸々の事実の断片が次々に出てくるままに、事態が次々に成り行くさまをそのままに語り、問いかけ、嘆き、書き下ろしているだけである。

小生は日本的ジャーナリズムの元祖は鎌倉時代という歴史の変わり目のそのまた末期の世相を実見した吉田兼好の『徒然草』であると思っている ー その『徒然草』が小生が枕元に置いてある本の一冊であるのは、実は日本的ジャーナリズムが嫌いではないことの証拠でもあるのだが。

これが前の投稿の趣旨である。

2017年12月3日日曜日

失言防止のための特効薬?

小生の弟はいわき市在住だ。時々彼の地を訪れることがある。中通りをとおる東北自動車道の白河IC近くには『これよりみちのく』の標識があると聞くが、浜通りの勿来駅には「吹く風を勿来の関と思へども道もせにちる山桜かな」と詠んだ源義家の碑が建っている。みちのくとはいえ、北海道に比べれば福島県浜通りは大変暖かである。

■ ■ ■

「もらってる賠償金、結構、大きいんだよね。大変なことは分かっているんだけどネ、でもね、大変なことはこの辺の人も同じなんだよネ。家、壊れた人も多いし。それでも働かなくちゃやっていけないんだけどサ、何もしないでカネもらってサ。感じわる〜って、雰囲気、確かにあるんだよネ」。そんな事を言ってたなあ・・・。と、思っていると、今朝のワイドショーの一コマでも同じ言葉を見かけた。ああ、事情は変わってないんだなあと思った次第。

■ ■ ■

先日投稿したのはハラスメントについてだったが、いわゆる「失言」、「放言」。社会的に影響力のある政治家やいわゆる「保守派」が口にする言葉が、あまりにも乱暴で、弱者に対するいたわりの気持ちを欠くようになっている。これは何故だろうという疑問がテーマになっていた。

まあ、確かに乱暴な言葉づかいは最近増えている。小生も、ずっと前、もう10年ほども前になるだろうか、北海道に移住してきてからだ。高速バスの車中でのんびりと週刊誌を広げて読んでいると、隣席に座っている初老の男性が小声で『殺すぞ』とささやく。「エッ?誰に言っているの?」と思いながら、隣をみると、小生の方を険しい目でじっと睨んでいる。「俺に言ったのか? 気でも狂ってるのか、こいつは?」と思いつつ睨み返して、雑誌を閉じ、相手がいつ手を出してきても応戦できるように心構えをした・・・、ま、何もなかったが。やがてその男性は降車する時に小生を睨みながら降りていった。「一体、なんなんだ、あいつは」と思ったものだ。形容できないほど不愉快だった。首都圏の殺人的な満員電車の中でもあんなきつい言葉は使われてはなかった。足を踏んだり踏まれたり、体ごともたれかかったり、もたれかかられたり、倒したり倒されたりであったが、それでもみんな黙々と乗っていた。

小生は気がつかなったが、週刊誌を広げて読んでいたので、多分その男性の眼前を塞ぐようになっていたのだろうなあ、と思いついたのは、しばらく経ってからのことだ。かの男性はそのことに腹がたったのかもしれない。そういえば、その男性は座る時に「失礼します」と、随分へり下って着席してきたものだ。自分は礼を尽くしているのに、目の前に雑誌のページを広げて、シカトして読み続けるとは何事か、殺してやろうか、と。で、爆発したのだろう。

そこまで乱暴な言葉を直接的に投げつけられたことはなかったので、世の中が変わりつつある事を実感した。そのときは霞ヶ関周辺の地下鉄ですでにサリン事件が発生していた。世間は変わりつつある、とにかくそんな気持ちになった。

■ ■ ■

こんな世の中だから特に政治家たるもの、礼を守って発言すればいいと思うのだが、言葉というのは<料理の味付け>にもにて、一度辛口に振れ出すと、辛味・嫌味をスパイスのように混ぜなければ、逆に大人しすぎる、上品ぶっている、と。そんなマイナス評価にもなってしまうのがジレンマになる。その辺の事情も感覚としてよく分かるのだな。

だから<失言防止特効薬>が必要だ。失言防止というより、失言による災難予防策というほうがよいか。

アフリカをさして「なんであんな黒いのが好きなのか」ではなくて、

なんであんな黒いのが好きなのか・・・ト、思ウ人ハイマセンカ?コレ問題デスヨネ。
何もしないで賠償金でノウノウと暮らしている・・・ト、思ウ人ハイマセンカ?コレ問題デスヨネ。

代名詞「これ」は何をさすのか?どうとでも解釈できる日本語の曖昧さ、非論理性がここにもある。ま、悪意に解釈されれば「それはゲスの勘ぐり」だと言い返せるでしょう。

世の中全体の言葉の好みが辛口になってくると、語るのも辛口、批判も辛口になる。ちょっとした失言、言葉が滑ったにすぎない場合も「政治家失格」、「死ね」などという極端な評価になる。「死ね」と言われて、本当に死んだりすると「言った奴は殺人犯」などとなって<炎上>する。

「死ね」って思ウ人ハイマセンカ?コレ問題デスヨネ。

<辛口時代>には特効薬をもっておいたほうがいい。「気狂いのような時代」には身を守る手段がないといけない、と思う人はいませんか? これ問題ですよね。

2017年12月2日土曜日

日馬富士事件にみる日本人の傾向(というより通弊)

日本人の心根には仏教思想が染み付いているということはよく指摘される。中でも奈良以来の華厳宗の根本思想は空海の真言密教にも継承され、日本古来の多神教とも相性がいいので、現代の日本人の心性にもその反映が認められる。これは司馬遼太郎の『空海の風景』を読めば、フムフムと了解されるところだろう。

一口に言えば、一粒の塵にも仏性は宿る、という思想のことである。その根本に輪廻思想があるのは明白だ。

以前にも投稿したことがある。

地の表にある一塊の土だっても、かつては輝く日の面、星の額であったろう。袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。

(出所)青空文庫『ルバイヤート』

■ ■ ■

日馬富士の暴行事件とその後の引退をめぐっては、色々な議論が広まり、そこから何がしかのメッセージをくみとろうという日本人の意識がよく伝わってくる(たとえばこれ)。

日本対モンゴルの外交事情と絡ませるのも面白いが、小生はやはり問題に直面した時の日本人の変わらぬ傾向(≒国民性?)を見てとりたくなるのだ。

一言で言うなら、
一個の事実の断片に全ての森羅万象の反映をみようとする
そんな傾向である。

要するに、一つの事実から「ああでもあろう、こうでもあろう、だからそうなのだろう」と、ありとあらゆる可能性を連想ゲームのように展開し、「想像の翼」を広げていく思考の傾向である。

こんな時、日本語の非構造的で、順接・逆説を混ぜながら、曖昧に次から次へと文章を続けていくことができる文法特性が、思考のツールとして非常に適している。とにかく昔の日本語には句読点すらなかったのだから。これと同じことは英語では絶対に無理である。ドイツ語も時に文章がやたらと長くなるが、それは関係代名詞をたたみかけることが多く、もしその論理関係を文脈から把握できなければ、文章全体の意味はまったく分からなくなるはずだ。日本語は(ま、慣れているせいでもあるが)読み進めれば、読むほどに積み重なるように内容が伝わってくるのだ、な(逆に、論理的な日本文は読みづらい)。

日本語は、たゆたう陰影のように纏綿とした情緒の流れをそのまま連想ゲームのように継なげていくのに実に適した言語だと思う。

故に(と言い切っていいのか分からないが)、日本人が日本語で特定の事件や不祥事を語ると、あれもこれもが何となく関係している、すべての事柄が何となく関連している、そんな情緒が浸み出すように醸し出されてくる。

「あれもこれも」という心情が「もう、やりきれない」という諦めに転化していくのは時間の問題である。なので、日本人は煉瓦を積み上げるような執拗かつ論理的な作業はいやがり、どちらかと言えば恬淡として、諦めがいい。反面、想像力をいっぱいにつかった、独自の着想にいたることもママある。

良いところ、悪いところ、両方があると思うのだが、日馬富士の暴行と引退を語る時もそうであるし、森友騒動、加計学園問題を議論するときも、言っていることは「こうなんじゃないんですか? ああなんじゃないんですか?」というパターンであり、驚くほど似ているのだ、な。話題は政治と相撲興行の不祥事で性格は違うが、しかし話が盛り上がる時のパターンは似ている。月並みだがこれが「日本的である」ということなのだろうか。「なぜなら(because)」とか、「この二つは両立しませんよね(contradictory)」とか、「どんな結論が導かれる(can derive)でしょうか」というような論理的な語り口は稀である。

結局、「やりきれないねえ」と言って、頭をふり、肩をゆすり、そっぽを向いて「もういいんじゃない」と言いすてる結果になるとすれば、いつもの日本人の通弊であるように感じるのだ。

2017年12月1日金曜日

PC時代にそれでもサミュエル・ウルマンか?

サミュエル・ウルマンの詩は日本でも一世を風靡したものだ − もう随分と昔になったが。


青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く  
疑惑と共に老ゆる 
人は自信と共に若く 
恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 
失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
(出所)http://home.h03.itscom.net/abe0005/ikoi/seishunn/seishunn.htm

ウルマンは1840年に生まれ1924年に死んでいる。84歳だった。

確かに、『年を重ねただけで人は老いない』のかもしれない。が、年を重ねるだけで必然的に老いる側面もある。そう言わざるを得ない時代が来たと感じる。

一世を風靡したウルマンの「青春」には一つ不思議な点がある。老眼について言及していない。視力の衰えに触れていない。アレルギーの発症について言及していない。病気についてとりあげていない。仏教でも四苦と言って生・老・病・死をあげているのに。よほど健康で病気とは無縁で肉体的に強靭だった人なのかと思ったりする。なら幸運な人である。

「青春」はウルマンが70代になって書いた作品だという。ノートPCもなく、書くといえば紙の上に大きな字を書けば、あとは出版社が活字にしてくれる時代だったから、それでよかったろう。

◆  ◆  ◆


長寿社会で人生80年の時代が来ても50歳を過ぎれば視力が衰える。60代になれば細かな字が読めなくなる。最近は、データ分析で実習授業を行なっている時、学生が使っているノートPCの画面が読めなくなってきた。彼らは12インチの画面にサイズの小さなフォントを使って、それを読んでいる。ウルマンの時代にはこんな苦悶はなかったはずだ。苦悶は老齢を意識させる。

アニメ界の巨人・宮崎駿も現役引退宣言をしたとき『もう目が見えないんですよ』と身体的能力の衰えを理由に挙げていた。信念や自信だけから『何事かかなわざらんや』というのは無茶であろう。

◆  ◆  ◆

第二次大戦時に連合軍の総司令官だったダグラス・マッカーサーは1880年の生まれだから1945年当時は65歳になっていた。

今なら年金支給開始年齢になってから占領地行政の責任者になったわけだ。激務であったろうと推察する。

それより、60歳を過ぎて、赴任していたフィリピンから追い落とされ、豪州まで退却して日本への反攻作戦を指揮したというのだから、肉体的にも実にタフであったと感嘆する思いだ。少なくとも食べるものに注文はつけない人だったのだろう。とすれば、気持ちの若い人であったに違いない。

いまの小生なら絶対無理だネ。朝方早く目が覚めてしまうわりには起きだすのは8時を過ぎてからだ。朝は美味しい珈琲と消化のいいオートミールのミルク粥。ザウワークラウトとソーセージが欲しい時もある。夜は糖質制限中。肉料理を所望だ。仕事は原則的に午前中。午後からは仕事から離れて、今のうちに読んでおきたい本を開いたり、やっておきたいデータ解析をやる。データ解析をやるときは老眼鏡では画面が見づらいので、最近流行のハヅキルーペ(メガネ型ルーペ)をつかう。午後は午睡をしたい。夜は必ずミストシャワーで疲れをとる ー 若い自分はこの程度の毎日で疲れるはずもなかったが。

小生の場合、人生80年というより、やはり60歳定年が適切だと痛感する。人間ドックなどは受けず、10年余りを過ごす。そして80歳にはならない頃を目安に、ボロボロになってしまう前に世を去る。

これがイイね。こんなライフサイクルが年金財政的にも迷惑をかけず、精神能力的にも身体能力的にもちょうど良いのではないか。

まして90歳、100歳となると、いくらウルマンでも『人は自信とともに若く』とは言わないのではないかネエ。前回投稿の『徒然草』の下りの英訳を読んでもらう方がいいのではないか。そう思ったりする。