2020年1月30日木曜日

一言メモ: 「死刑」をめぐる誠実な議論とは

日本仏教会が「死刑廃止」を統一的意見として表明することにしたとの報道だ。

「不殺生」を教える仏教の教理からすれば当たり前であり、実に誠実な結論である。

ここで一つの疑問:

刑務所に収監されている受刑囚の基本的人権が話題になることがある。リベラル派と呼ばれる人たちは人権保護に対する強い意識をもっている。

受刑囚の人権を重視する立場にたてば、そもそも被告人の人権を重んじる立場に立っているわけでもあるので、被告人の命を奪う刑罰である死刑は国家権力による殺人、つまり究極の人権侵害である理屈だ。故に、受刑囚の人権を重視するなら死刑に反対しなければならない。有期刑を課される被告人の人権を重視しながら、同時に死刑を宣告される被告人の人権は「仕方がない」と割り切る思考回路は、(専門外である)小生には理解不能である。

ところが、リベラルと呼ばれるメディア、言論人から「死刑廃止」が主張されることはあまりない、というより不勉強のためか聞いた記憶がない。まったく一貫していないと小生は思う。

安倍内閣の「桜を見る会」を非難する時間的余裕があるなら、「死刑」という刑罰が世界において占めるポジション、死刑存続をなお認め続ける日本の世論の特異性を正面からとりあげ、ワイドショー辺りでまずは「死刑の是非」について話してみるのが誠実の証しと言えるのではないだろうか。とりあげる好機である公判には困らないはずだ。

2020年1月27日月曜日

覚え書: (又々)社会と幸福の関係について

初稿で長々と書いてアップしたが、読み返してみるとどうもまだ話が整理されていない。なので、どうしても書いておきたい要点だけにしぼって余計な部分を削除して覚え書にした。

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自由な結婚や家族の形成、発展が認められない奴隷を別にすれば、やはり人は「家族」という血縁に基づきながら共同で幸福を追求してきた。家族で幸福や不幸をともにするという意識が日常生活の基盤にあった。歴史的事実としてはそう概括しておこう。

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戦後日本では基本的人権が尊重されるようになった。親族・血族の意識は薄まり、数人の核家族が独立して幸福を求めるようになった。

いまは男女共同参画の時代である。国がそう言っている。「家庭」の中の夫、妻、子供は、一人一人が独立して日本国の平等な一員として処遇されるようになった。

そして、多様性が認められる社会の中で「多様な家族」のあり方が認められようとしている。戦後日本の「核家族」がどう変容していくのか、小生には分からない。

が、人が幸福を求める基盤は「家族」であるという意識がまだ残っているからこそ、上のような新しい方向が出てきているのだろう。

しかし、「社会」の中で「家族」が担うべき機能については意見の違いが大きい。この点については前にも投稿したことがある。

実際、小生だけかもしれないが、幸福のために家族が助け合うのではなく日本国が日本人の幸福に責任があると認識される時代がいつの間にか来てしまった……、そんな風に感じることも増えてきたのだ。

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話題は変わるが、夏目漱石は『三四郎』の中で「いくら日露戦争に勝って一等国になっても駄目ですね」と広田先生に云わせている。「まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない』と云わせている。『然しこれからは日本も段々発展するでせう』と反問する三四郎に、先生は『亡びるね』と応えさせている。作品が書かれたのは明治41年9月。昭和20年に明治日本が敗亡する37年前である。

社会や国はそれ自体として「幸福」を感じることは決してない。感じ取る器官もなく、能力がないのだ。

国や社会は実存するリアルな存在ですらもない。それらは「法制度」に過ぎないか、制度に基づき意識の中で抽象化された言葉に過ぎない。故に、国や社会は幸福とは別の目的を戦略的に設定するのである。というより、人の幸福以外の目的を設定するために社会や国が造られた。こう言ってもよい。このことは何度も書いてきた。

故に、自分自身の幸福の実現を社会や国や政府に任せるという選択は論理的にはありえない。社会や国に対してそういう非条理な姿勢で向き合い疑うことを知らない国民は亡びる、と。小生は上の漱石の考えをそう読みとっている。

ちなみに上で述べたことから、社会主義や福祉国家に対する根源的な疑いを小生は抱くようになったのだが、それはまた別の機会に。

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人はなぜ子を作るのだろう。

色々な見方がある。が、ここで社会的意義や倫理的価値を持ち出すのは、説明されるべき人間が人間的価値を用いて自らを語ることになり、これでは本末転倒である。自然史の中で人間の行動は説明されなければならない。

とすれば、「人が子を作るのは自分(たち)のためである」という見方になるのは自明だろう。

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子をつくらなくとも社会が自分自身の幸福を保障してくれるのであれば、そもそも自分のために子をつくる必要は必ずしもないという理屈になる。

「人の幸福に社会が責任をもつ」という議論から「あなたは子供をつくらなくともよい」という議論が出てくるのはロジカルだ。「法の前の平等」を根拠に「全ての日本人は子供をつくらなくともよい」という議論が展開されても、小生はまったく驚かない。

しかし、幸福のために「家族」がほしいという意識はまだ残っている。

本当は、二つの意識は両立しないのである。もし両立しない意識が浸透していくとすれば非合理だ。その非合理は、(よく分からないが)何か非合理な政策が日本人の意識に影響を与えている可能性がある。

2020年1月26日日曜日

バルザック…リアリズム200年に関連して

藤原書店から刊行されているバルザックの新訳が中々いいというので『人間喜劇セレクション』第1巻の『ペール・ゴリオ』を買って読んでみた。鹿島茂訳である。出版されたのは相当前になる。書店にはあまり並んでいないので知らなんだ。既刊本の多くは『ゴリオ爺さん』というタイトルをつけている。

バルザック一流の会話部分は仏原文の雰囲気をよく伝えている喋り口だと感じた。

ボーセアン夫人は逃げ出し、ゴリオ爺さんは死にかけてる。気高い魂はこの世では長く生きられないんだ。偉大な感情の持ち主が、卑俗で、皮相的なこの社会と折り合いをつけることができるんだろうか?

ここは、初読の際には気にも留めず、今回初めて読む印象だ。

改めて分かることは、「理性」も「意欲」も「志」も大事だが、人が生きる上で大事な要素は「感情」であると、200年も前に生きたバルザックも分かっていたことだ。第二に昔も今も「社会」というのは卑俗で、皮相的であるという事実だ。この200年間、人間の社会はなにも進歩はせず、変化もせず、卑俗で皮相的であることは同じであるということだ。

自然科学の進歩、科学技術の発展、電報や電話の登場、インターネットとEメールの登場、SNSの登場、etc. etc. と、技術文明は飛躍的に進歩したが、その進歩が人間生活をどの程度進化させたかとなると、人間がやってきたことは同じである。シュンペーターが着目したイノベーションは社会の皮相性や卑俗性に新しいツールを与えてきた、ただそれだけのことであった。この事実が分かるではないか。

これが一つ。

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作品本体も面白いが、巻末の解説や座談会がまた面白い。

N: ネ。一生見られないわけヨ。ほとんどが。世の中をありのままで見ることから、いろんなことが始まるという感覚こそ、私は大人というものだと思うんです。人間に対していたずらに変な夢やファンタジーを追ったりするのは、チャイルディッシュ(≒幼稚)。
K: ヴォートランなんて、これはおおいに日本で人気が出てほしいと思っている。日本の「やおい」ですか、ああいうホモセクシュアル漫画の伝統があるんだから、これからはヴォートラン・ファンの女の子が出てくるんじゃないかって期待しているんですが、ただ冷静に考えると、「やおい」とヴォートランは全然違う。
(中略)
N: だって多くの女の子たちは世の中をありのままに見るというところから生まれたキャラクターよりも、見たくないというところから生まれたキャラクターのほうが好きなわけだから。

実に、リアリズムに徹した会話が繰り広げられていて、二人の話し手が共有しているこの「大人の感覚」はバルザックにも負けていない。バルザックに馬鹿にされない。いまもバルザックを典型的フランス文学として愛する現代フランス人にも馬鹿にされずにすむ……、そう感じた次第。

ただ…、この「物事をありのままにみる」というリアリズム。日本語で「写実主義」、「現実主義」と訳してしまうと、固有の臭いがついてしまうが、この実践が実は本当に難しい。

「現実主義者」といえば、物事を割り切って目的が利益であれば、利益のためにはどんな非人間的な手段もあえて選ぶ、そんな人間像になるが、こんな人間がもしいれば、その人はリアリストではなくて、単なる冷酷なエゴイストに過ぎない。

この世で成功するには、例外なく「リアリスト」でなければならない。小生は言葉の定義からそう結論している。なぜなら人間社会の中で何かを為すには、それが志であれ、理想であれ、世間で働いている現実の力を使うしか成し遂げられる方法がないからである。

物事をありのままに見られず、自分が観たいようにしか世の中を見られない人は、要するに「幼稚」であり、「チャイルディッシュ」である。故に、成功するためには人は「大人」にならなければならない。フランス人は、大人の会話ができない「未熟」な人間をバカにする。バルザックを好む所以である。

こんなリアリスト志向の趣味は、フランス物だけではなく、イギリス小説からも感じ取ることができる ― ドイツ物、ロシア物はまた雰囲気が違っていて、だからこそ日本人の間でも好き嫌いが分かれるのだろうが。

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それにしても、若いころの読書って、「一体どこをどう読んでいたんだ」と言いたくなるほどに浅い読書であったことを、今になって痛感する。その昔、感動した箇所だけは記憶しているが、なぜ感動したかがもう分からない。

「読解力」の不十分さは、半世紀も前から進行中ではないのだろうか?だとすると、入試センター試験の出題方式を変えるくらいでは「焼け石に水」だろう。もっと根源的な要因が働いているのだろう。


2020年1月23日木曜日

一言メモ: 成績評価・人物評価の「基本3方式」

成績評価には(理屈上)三つの方式がある。人物評価も同じである。

それは

  1. 減点主義
  2. 加点主義
  3. 総合主義


この三つである。

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前の投稿でも「減点主義」というキーワードを使ったが、これは誰もが知っている方式である。

日本の名門企業、例えば都市銀行などでは採られていた方法で、要するに採用時には横一線である初期値からスタートして、何か失敗するたびに減点していく評価法である。失敗をすれば減点されるので、取締役になれるかどうかは「傷が少ない方が勝つ」。つまり減点主義となる。

引退した「団塊の世代」が送ってきた人生は、この「減点主義」が常識であった時代ではなかったろうか。減点主義に慣れている人は、「習イ、性ニナッテイル」のか人の失敗に対して大変厳しい。一度失敗すると、実績によるその後のプラスはないので「あの人はもう終わったネ」などと感想を述べたりするものだ。

減点主義の下で次期社長に選ばれる人は、失敗をしていない人、誰も文句を言わない人、履歴に傷がない人。どれほど実績があってもヴァルネラブルな人はトップになれない。そんな人選になるのは必然である。

「加点主義」というのは、多くの人にとって馴染みがないと思うが、減点主義とは正反対である。

起業家は、何度失敗しても最後に勝てば成功するのだから、文字通りの加点主義で経営者評価がされている。

そのほかにも例えば、筆記試験は「加点主義」である。

初期値をゼロ点として、設問に正解すればプラスの配点が与えられる。出来て当たり前の基礎的質問にどれほど頓珍漢な誤答をしても、マイナス評価されることはない。実績を出すごとにプラスに加点されて、最終結果が決まる。だから加点主義になる。

筆記試験はシンプルな加点主義であるが、実は小生、担当していた「統計学」の期末試験で『今回の試験では単純な加点主義はとりません。たとえばデータの散布度を伝える特性値は何かという問題で、三つの選択肢が「平均値」、「分散」、「中央値」であったとして、「中央値」を選ぶ人は単なるゼロ点にはしません。マイナス5点の減点にします』、そんな話をしたことがある。とんでもない間違いをして大幅減点をされてしまうと、どこかで難問を解いても(そもそも基本が理解できていない人が難問に正解するということはないのだが)、プラスマイナス0点にしかならない。

普通の試験なら、正解ならプラス、間違いならそれがどれほどバカな間違いでもゼロ点である。総合主義評価法では、許容できない理解不足を評価ゼロで据え置くのではなく、減点する。その意味で、小生は「今度の試験では加点主義ではなく、総合主義で評価します」、そう話したわけである。

・・・結局、聴いていた学生達があまりに情けなさそうな表情を浮かべたので、総合主義で成績評価することは中止した。

しかし、正解ならプラス、白紙なら何も書いていない状態なのでゼロ点、滅茶苦茶な内容の解答を書けばマイナス。小生は、評価である以上、総合主義が本道であると、今でも確信している。

来年度の共通入試から思考力に重点を置いた問題になるそうだが、論理に重きを置くのであれば、総合主義で評価しなければ評価にならないだろう。あるキーワードが入っていればプラス、理解不能な奇妙な論述があっても減点なしというのでは、実質的には空欄穴埋め式と違いがないということになる。

2020年1月21日火曜日

一言メモ: 「ああ言われた、こう話された」は所詮レベルの低い話しではないか

国会が開会して総理の施政方針演説が(なんと)TVのワイドショーのトピックになっている。『昔はなかったネエ、こんなことは』というと、御隠居扱いされそうであるが、施政方針演説、財政演説、外交演説、経済演説など、すべて政治家の演説は、「たかが演説、されど演説」と言っておけば誉め言葉であり、ざっくばらんにいえば自己評価と自己賞賛そのものに決まっている。『私には責められる間違いが少なくとも三つはあります・・・・・・、心からお詫び申し上げます』などと言う政治家がもしいれば、余程悪質な政治家であるとへそ曲がりの小生は警戒してしまう。

さて、小生が関心を刺激されたのは、経済に関してである:

  1. 税収が増えており、公債発行金額は減少傾向にある。
  2. 最低賃金が上昇している。中小企業で賃上げが浸透している。

この二点であった。

安倍内閣の一枚看板である「アベノミクス」は限界が露呈されつつあると指摘する人が増えているが、かと言って問題解決に向けた優れた提案を批判している人達がしているわけでもないと小生はみている。昔の銀行人事ではないが、マイナス点の個数に着目する減点主義では駄目だ。安倍内閣発足後の6年(ではなかった、7年)を合計して、上の二つが達成されているというのは、率直に言って大きなプラス評価ポイントだ。日常的にマクロ経済データを満遍なくフォローする業務からは解放されたので、最近は見落としているところもあるので、上の二つは小生にとって「思いがけぬファクト」であった。

ま、データと言うのは自己にとって都合の良い部分だけを示すものである。この事情は、批判する側も批判を受ける側も変わらない。故に、専門家の検証と経済の現場である経済界の評価が何より重要なのだが、今のところ上の二点について「これは誤りである」という指摘があるとも聞いていない。

ベーシックに考えると、国内経済以外にも外交、安全保障など内閣の責務は多々あるのだが、安倍政治の実績は<秀>ではなくとも<良>もしくは<優>でさえあるかもしれず、十分に及第点を超えていると判断せざるを得ない。小生はそう思う。

★ ★ ★

マスメディアは批判的である。

その批判も、「都合の良いデータだけを示している」、「こんな事実もある」という風な面倒な手数を必要とする実質的な批判ではなく、「なぜこの話をしない、なぜあの話しをしない」という語り口に対する批判である。

これでは、いかにもジャーナリスト風の文体、ボキャブラリーを採用しているとしても、本質は「感じ悪いヨネ」という世間の井戸端会議の域を出ていない。

ずっと以前に投稿したが、小生はどんな話をするかというのは、所詮は低レベルの話であると元々考えている人間だ。

産業連関分析の創始者W. Leontieffが言った言葉として小生の師が愛用したのは次の1行だ。
Only result comes.
(意訳)要するに「結果」だ → 「結果だけを見ているのだ」の方がベターか
"Result"というのは「結果」と訳されるが、つまりは言葉ではない、社会の現実を指している。日本社会のリアリティを変える力があるのは、誰それの口から出ている言葉ではない。現実に力をもっている人間集団の行動である。この点だけは、小生は昔から確信している。

だから、「ジャーナリスト」は社会の中で意図をもって行動している人物の行動履歴を取材し裏付けを集めるべきであって、誰それの口から出る発言などを非難していては全くの「手抜き」、本筋から外れるだけではないか、と。これが感想だ。

それにしても、いつものパターンであるが、言葉に対して言葉だけの批判を展開するマスコミ業界というのは、本当に現在の日本社会に対してリアルな影響力を持ち続けられると期待してよいのだろうか・・・小生、ますます疑問ありと感じつつある。学生の期末レポートにも、言葉だけが踊る「手抜きレポート」と、時間と労力をかけた「本当のレポート」とが混在している。この二つの違いは意外と直ぐに判別できるものだ。言葉で実質をリカバーすることは不可能である。プロモーションでコンテンツをリカバーすることは不可能だというのも同じ主旨である。

検証分析する時間がないままにとりあえず出さないといけないのであれば、「専門家による解説」など付加価値部分は断念して、事実だけを正確に淡々と報道する昔のスタイルにセットバックするのが最善ではないか、と。踊る言葉で辟易されるよりは、よほど信頼されるようになるはずだ。
巧言令色 すくな いかな仁
剛毅朴訥、仁にちかし
いつの時代でも変わらぬ真実である。

2020年1月20日月曜日

一言メモ: 「競技」と「装備」について

ビジネスの発展と成長に技術革新は不可欠である。技術革新は「創造的破壊」と言われるように、古いやり方を陳腐化してしまう。古いものが消え去り、新しいものが世界に広まっていくことができるのは、技術進歩の成果を認めているからだ。

ところが、

陸上競技界ではいわゆる「厚底シューズ」を禁止するか容認するかで紛糾しているようである。

厚底シューズがなぜ厚底になるかかと言えば、ソールの部分に「カーボンプレート」を挿入しているからである。そのプレートには弾性があるので、走行中に撓むことによって、走者に推進力をサポートする機能をもつ。最近のマラソンや日本国内の駅伝で記録更新が相次いでいるが、その背景には厚底シューズの普及がある。そこで、不公平ではないか、陸上競技の本旨・ルールから逸脱している、と。そんな理由で世界陸連は専門家に調査を依頼したというのである。

***

棒高跳びではそれまでの竹を素材としたポールからグラスファイバー製のポールに切り替わったが、あれからもう何年たっただろうか。やはり一騒動あったことを記憶している。

競泳でも英国企業・Speedo製の水着を着用可とするか禁止するかで議論が紛糾した。競泳では新記録を出しやすい同社の水着は使用禁止とした。

陸上競技のマラソンでは厚底シューズをどうするのだろうか?

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日本国内では「使用を認めるべきだ」という意見が多いようだ。そもそも厚底シューズは米企業・Nike社の商品だが、3万円程度で誰もが購入できるもので、別に不公平な状況になっているわけではない、走者の足を保護する機能もある、そもそも技術進歩の成果を取り入れていくことのどこが問題なのか、等々。まあ、色々な角度から容認論が展開されている。

小生も厚底シューズを認めていいのではないかと考える。理由の一つとして、現時点で使用禁止にすると、マラソンの代表選手選考の過程で意図せぬ不公平が生じるという点もある。

棒高跳びの例もそうだが、あらゆる技術進歩と陸上競技とを切り離そうとすれば、そもそもトラック競技の全種目で選手はハダシで走るほうが原則に適う理屈になる。スパイクの付いたシューズ自体、走者に推進力を与えているではないかという指摘がある。

***

ただ、技術進歩の成果である新商品を認めていくと、選手の実力で勝ったのか、装備の力で勝ったのかが、段々と不分明になるのも事実だろう。

既に厚底シューズでは、日本のアシックスとミズノからプレートを挿入した競合商品が開発され、これから試用を開始すると報道されている。

プレートを挿入するという発想は日本人技術者は出来なかったかもしれないが、方向が定まってからの改善となると日本企業は得意である。

これからは、シューズのソール部分にどんなプレートを埋め込むか。その技術開発競争が選手の勝敗に決定的な影響を与えることになるだろう。現在は「カーボン・プレート」だが、それが最適の素材なのかどうか、開発陣は徹底的に検証するであろう。

***

更に、予想されるのは、マラソンで「推進補助プレート」が実質的に認められるのであれば、他にも例えば「走り幅跳び」や「走り高跳び」、「三段跳び」など跳躍系の競技においても補助プレートを認めるべきであるという議論が始まるのではないだろうか。

一部の競技で補助プレートを容認すれば、他分野の競技で禁止する論拠がなくなってしまう。おそらく容認せざるをえなくなる。そして、走り幅跳びはヒョッとすると「9メートル」の時代が遠からずやってくる。走高跳でも「2メートル50センチ」を跳ばないと優勝できない。そんな時代がやってきそうである。

確かに夢があって小生も興奮するが、しかし、所詮はシューズの製造技術が可能にする記録であって、選手の実力ではない。選手の実力はハダシで走ったり、ハダシで跳んでもらえば一目瞭然だ。

結局、私たちが観たいのは、装備の力を借りてもいいから人がどこまで記録を伸ばせられるのか、それとも装備抜きの正真正銘の選手の力を私たちは測りたいのか、どちらなのか?この二つの選択に帰するのである。

どちらでも別に世界が変わるわけではない。

が、視聴率が上がるのは多分前者のほう。つまり装備の力を借りてもいいから、人間はどこまで記録を伸ばせるのか。中継放送を視る側にとっても、流す側にとっても、需要があるのはこちらのほうではないかと、小生には思われるのだ、な。

2020年1月18日土曜日

一言メモ:昔の「男尊女卑」の意識に関連して

少し前の投稿のテーマは「『いまは女性が生きづらい』という表現に関連して」というものだった。

そこで次の下りを書いた:

しかし、母は戦時中や戦争直後の時代は辛かったとはあまり話しをすることなく、それよりは「女は三界に家無しなのヨ」とよく小生には話していた。
息子に何度も話すのだから、よほど情けない思いをしていたのだと推測される。「三界」とは、人生を幼い時代、壮年時代、老年時代の三つに切り分けた三つの時代という意味であったようであり、女性は幼いときは親に、大人になれば夫に従い、老いては子に従う。それが定めである、と。要するに、女性は自分では生きてはいけない、と。そういうことであったらしい。
これだけを聞くと酷いネエと思う。
小生とカミさんが生きた時代では上のような妻のイメージ、夫婦のイメージは過去のものだった。

小生はさる専門職大学院で非常勤の授業を担当しているが、夜間にある授業が終わってバスで帰宅するとカミさんが車で迎えに来ている ― というより、小生がカミさんに迎えを頼むのである。LINEで。

バスを降りて車に乗って最初に言う言葉は、当然のこと「ありがとネ」である。しかし、記憶している父と母であれば、父は母に礼などはしなかったと、やはり想像してしまう。「待ったか?」、「ううん」といったやり取りは交わされるだろうが、何かを頼んで「ありがとう」という雰囲気ではなかった記憶がある。

これが「妻は夫に従うものである」という習慣であると言うなら、そうだったのだろうなあ、と今でも思う。子供心にも父に横暴を感じたことは一度や二度ではない。家族で遊園地などに遊びに出かけても、父は一人で先に行ってしまう。迷った父と再会すると、父の方が逆に「勝手にうろつくんじゃない!」と怒ったりする。まるで落語のようであるが、どこの家庭でも父親というのは、大なり小なり、そんな人間像であったのではないかと思う。もちろん都会風、田舎風など、地域差、学歴差、家庭差はあったのだろうが。

***

昔風の父親が家庭の中でとった横暴な態度は、しかし日本古来の習慣でもなかったような気が最近はするのだ。

明治以降の戦前期日本では、全ての男子に対して兵役の義務が課されていたことが、やはり日本人すべての意識下にあったのではないかと今は思っている。

リアルタイムで実感することは出来ようはずもないが、現実に何度も戦争を繰り返し、実際に青年たちが召集され、その何パーセントかは戦死をして戻っては来ないという社会の現実を目で見れば、『男は外で仕事をして、女は家を守る』という日常感覚が心身に染みついてもそれは当たり前の事であったろうと想像する。「仕事」の中には兵役も含まれていたのである。男には国のために命をかける義務があるが、女には義務はない。そういう国の現実があるのであれば、平時においても男性は女性に対してモラル的優越感を持ったであろう。故に、戦前期の旧い日本社会では、たとえ母のいうとおり『女、三界に家無し』と世間では言っていても、「女は生きづらい」とは思わなかった。こんな事情があったのではないかと想像している。

ま、想像するだけであるが・・・。

***

何事によらず、ある人間集団が他の集団に対して優越感を抱くとすれば、その土台にはモラル上の優越意識がなければならず、モラル上の優越意識をもてるのは双方がその関係を理解するような現実があるが故である。上に書いたことも、「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」という一般的な原理が働いていた一つの例であったかもしれない。

もちろん戦後日本では状況がまったく変化してしまった。

男性が女性に優越感を抱くとして、その根拠を小生は思いつかない。あるとすれば、個々の家庭の事情のためだろう。根拠がない以上、今から30年もたてば「男尊女卑」などという意識も感覚も日本社会からは雲散霧消しているだろうと予想する —— いや、今とは逆に『男は国のために何もしないのに、女は未来のために子供を産めと言われる』という潜在的怒りが噴出して、女性の方がモラル的優越感を持つに至るかもしれない。「女尊男卑」である。

というより、そもそも他者に対して「優越感」を抱くことのできる人間集団は現代日本にはいない。いわゆる「セレブ」は、「成功した人々」であって、「より多くの義務を"Our Duty"として引き受ける人々」ではない。

貴賤の違い、尊卑の差などというものは、それ自体がタブーとなり、意識されることもなくなった。利益よりは徳目を重視する社会階層は消失したし、求められてもいない。いたとしても鬱陶しがられて「何様!」と罵られるだけであろう。現代社会では。

成功した民主主義社会がいまここにある、ということか。

2020年1月14日火曜日

先日投稿への補足: 宿命と自由意志との関係

先日の投稿では以下の事を述べた:

しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。

犯罪を犯す人も社会の産物である、という見方にうなずける人は多いと思う。しかし同時に、多くの人は犯罪を犯したりはしない。多くの人が法を守る中で少数の人だけが犯罪を犯す。それ自体、現に犯罪を犯した人の責任である、と。だから犯罪を犯した人は、その人物のみが、処罰されなければならない。こう考える人は多いのではないか。

***

話しは変わるが、福沢諭吉が『文明論の概略』の中で統計的な社会法則に着目した記述をしている。その時代の日本の知性の遥か上を行っているところだ。

要するに、詐欺も窃盗も殺人も毎月、毎年、ほぼ一定の頻度で発生する ― 一定でなければ非定常の状態であって、それには何らかの社会的原因がある。その国の治安状況を反映して、犯罪ごとの平均的な水準には国ごとの違いがあるが、発生率としては非常に安定している。統計的な社会法則の安定性に着目して、例えば社会科学としての「経済学」の有用性にも目を向けている。福沢が非常に先進的であったところだ。

その国ごとのリアルな社会状況を反映して犯罪の発生確率がパラメーターとして決まっている。その確率が実際の犯罪発生頻度となって現れてくるのは統計的な「大数の法則」そのものである。ま、こんなロジックである。

つまり犯罪もまた、社会現象。個人個人の自由意志による行動というよりも、その社会の属性として犯罪をみる観点である。

誰が犯罪を犯すとか、どんな違法な行為をするかという具体的なことは分からない。ミクロ的には人の数だけ色々な人生がある。未来は個人個人の自由意志によって決まる。予測はできない。しかし、社会をマクロ的に観れば、その社会の現実を反映して、社会的な属性が犯罪の発生頻度となって現れてくる。実に社会科学的なアプローチではないか。

複数の社会を比較分析すれば、犯罪の発生頻度を低下させるためにはどんな社会を構築すればよいのか、というプラグマティックな議論も可能になってくる。社会政策を実施せず、ただ人の自由意志に訴えかけて違法行為をとらないように働きかけても、効果は期待できないということも分かる。モラルに社会的効果を期待してもダメなのだ。そんな観点である。

***


大部分の人間が犯罪を犯さないのに、その人が犯罪を犯すのであれば、責任はその人個人にあるという考え方は、(意外な比較かもしれないが)学校の教師であれば誰でも一度は考える<相対評価>と大変似ている一面をもつ。

というのは、人間集団が何かをすればパフォーマンスの悪いセグメントが一定の割合で必ず出てくる。相対評価とは、たとえば5段階評価をして最下層のセグメントは落第なり、再履修なり、何らかのペナルティを与えるという方法である。

相対評価であるから、一定の割合で必ずペナルティを課される集団が発生する。パフォーマンスが劣っているセグメントを成績評価で低く評価するのは当然のロジックでもある。一定の基準を満たさなければ学習努力が不足しているという理由で単位が認められないとしても当たり前であると皆考える。相対評価の下ではペナルティを課される学生がほぼ一定割合発生する。要するに、相対評価を採用する学校とはそういう仕組みなのであって、最下層の履修者は全体法則に従って一定の割合で発生することになる。

学校は履修成果を競う機関である(という見方も一理ある)。競争を強いることで個々の学生は勉学を強いられるので多くの学生が高いレベルに到達するようになる(という考え方がある)。学校においては必ず一定割合の学生が落第するという事実が重要なのである。

しかし、社会は学校ではない。全ての人にとって社会とはただ生きていく場に過ぎない。評価をするとすれば、相対評価ではなく、絶対評価をしなければなるまい。他の人よりもパフォーマンスが悪いというそれだけの理由で処罰するというのでは誰もが納得できないはずだ。もし処罰するなら、なぜ処罰するのか。その根拠に客観的かつ普遍的な合理性があり、かつそれが「正しい」という理由がいる。

***

その「絶対的理由」について多くを語れるほど小生は考えが整理できていない。というより、考えても分かる自信がない。『なぜ自分はこんな処分を受けなければならないのか』、『なぜ自分は死ななければならないのか』、『生まれ変われるなら自分は貝になりたい』、そう思う人物は銀幕の中だけの存在であってほしい。そう願うだけである。

考えが整理できているわけではないが、一定の発生率で「犯罪」が起きる社会状況の下で、その犯罪は犯罪を犯す人物の自由意志に基づくものであるからその人物が責任を負うべき行為であると認識し、毎年一定の頻度で人に刑罰を課すとすれば、こういう状況は、まるで学校教育の中の相対評価と同じであると感じる。それを本日はメモしておきたかった。

現に落第する学生の存在が他の学生を勉学に駆り立てるのである。現に処罰される被告人の存在が他の人間に法を守らせるのである。これがソーシャル・マネジメントそのものでなければ一体何であるのだろう?

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犯罪者を処罰する手続きにおいては、「正義」からの逸脱といった価値判断ではなく、社会を管理する、要するに「統治」のためのツールがそこで活用されている。それ以上でも以下でもないと、そう思うのだ、な。統計的に安定して発生する年間の犯罪に対して刑罰がルーティンとして決められている。だから、小生、相対評価をとる学校内の状態と極めて酷似していると感じたわけだ。

小生が担当した統計関係科目では毎学期ほぼコンスタントに15パーセント程度の履修者には不可をつけていた。別の授業科目では不可率が10パーセントであることもあるし、30パーセント程度の高率に上がることもある。が、授業科目、担当教員ごとに毎期の不可率はかなり安定しているのである。及第生と落第生を「善い学生」、「悪い学生」などとは認識しない。なぜなら、集団全体の成績分布はほぼ統計的に安定的であり、同じ授業を履修しても個々の学生が示す成果は色々様々であるという当たり前の事実がそこにはあるだけだ。及落の区分は学生側にあるのではなく、成績をつける教員の側にある。成績を決める教員が学生に何を求めるかによって、及落の線引きが決まるからである。

学校で及落を確定するのはヒトの行為であり、学校という社会制度はそういう仕組みをとっているということだ。同様に、社会で刑罰を課するのはヒトの行為であり、社会が定める法律によって決まることである。識別される人間集団はただ色々様々に異なり、多様に分布しているに過ぎない。善と悪に色分けされてはいない。良と不良に分かれているわけでもない。分布の中の一部分をヒトがとらえて何と呼ぶか。それだけの事である。まさに
裁くは人、許すは神
この諺は最初思うよりはずっと深い真理を含んでいる。

このように観ると、「成績不可」と「刑法犯」と、この二つが驚くほど類似したロジックを共有していることが分かるような気になってくるではないか。両方ともに、毎年恒常的に発生するべくして発生している。発生するべくして発生するというからには、何かのメカニズムを表現する統計モデルによって説明されるはずである。統計モデルで説明されるということは、自由意志とは関係がなく必然性がそこにはあることになる。犯罪は人間の自由意志によるという認識では駄目だという結論になる。

ま、こういう理屈もあるわけだ。

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「一罰百戒」。まさに文字通りの意味で法律は執行されている。本当は『一分の刑罰、九九分の戒めとなる』と言うべきだろう。ま、これなら100段階の相対評価になるが、民主主義社会でも、君主制社会でも、人間社会なら同じことである。

小生は、刑罰を課される一定比率の被告人が「悪い」から、その責任をとって処罰されるのだという考え方は、加害者‐被害者の関係の下ではそんな感情があるだろうが、他の人間を含む社会全体がそんな事実認識を持つとすれば、実に無責任な、モラルに鈍感な社会であると思うのだ。

だってそうでんしょう。他人が悪いって言ってる人は、自分は悪くないって言いたいわけでござんしょ? あっしみたいな人間、恥ずかしくってさ、言えねえヨ。大体、悪い人間ってえのは憐れなもんじゃあないんですかい?誰だって「あの人はいい人だ」って本当は言われてみたいと、思うもんですよ。「ありがとう」って云われて、「なにが有難うだ、テメエ」なんて、そんなことは言わねえもんですぜ。悪い道に落ちるってえのは、まあ、運命というしかねえが、自分でなくてよかった。アッシは運のよさに感謝してるんでさあ。この浮世で、畳の上で死ねるってことだけで、幸せものですぜ。

他人を責めるなら自分も責めるべきである。善人と悪人という区分は存在しない。夏目漱石が『こころ』の中で先生に云わせているとおりである。人はみな違う、人生はみな違う、信じられないことをする人間が出てくることがある、世間では色々な事が起きる、そんな事実があるだけだ。今後将来も人の世の中はこんな風だろう。人間社会が善人と悪人に分けられるなら、サルも善いサルと悪いサルに分けられるはずだ。ハチも善いハチと悪いハチに分けられるだろう。実にバカバカしい限りだ。バカバカしくないと考えるなら、まるでナチスのような思想だ。善悪二つに分けて考えたがるのは人間だけである。ただ毎年一定比率の人間がその人物が所属する社会によって処罰されるという事実が人間集団の特性としてあるだけである。

刑罰を課される人生を歩むのは確かに運が悪い。課されない人は幸せだ。その意味では自由意志と対立する宿命論もまた事の本質をついている・・・


今回は色々と書いた・・・マ、そういうことである、と語る観点も確かにあるであろう。

2020年1月13日月曜日

断想: すべて権力は腐敗する、民主主義国家であっても

全ての権力は腐敗する。独裁権力も腐敗する。民主主義的な権力が腐敗すると退廃となる。

権力の腐敗を防止するためには政権交代が有効なシステムだと考えられてきた。しかし民主主義社会で権力を握っているのは有権者だ。

政権交代が行われるにしても、権力の保有者が同じであれば何がどう変わるのだろう?

君主制国家では君主の代替わりによって変革がある。上からの変革だ。国民はただ従う。しかし民主主義国家では政権を変えるのも継続させるのも同じ国民である。同じ国民が同じ権力を持ち続ける。

民主主義社会の退廃を防止する民主的な手立てはない。

2020年1月10日金曜日

一言メモ: 「リスク管理」の一例

不確実性のあるところ「リスク」が存在する。

この「不確実性」というのは、今後将来において生起する可能性のある事象が複数あるということだ。そして、それぞれの事象が生起する確率が判明している場合には、いわゆる「リスク」があり、確率さえも未知である場合には一般的な意味での「不確実性 (Uncertainty)」があると言われている。

先日、発生してしまった「カルロス=ゴーン国外逃亡事件」を端緒として今後予想される結末は複数ある。であるので、この件については「リスク管理」が必要である。リスクを評価する方法はこれまた複数あるが、まずは「ばらつき」を「範囲(レンジ)」でとらえておくのが取りあえずのリスク評価にはなろう。

要するに、相手側ではなく当方にとって最善である結末と、当方にとって最悪となる結末を予想しておくことだ。この二つのケースの違いがどの程度の国益上の違いをもたらすか。これが(一つの)リスク指標である。経営にせよ、投資にせよ、政治にせよ、はたまた大学受験にせよ、この位はやっておくべきだろう。


日本側にとって、今後最善のケースはいずれかの国が日本に協力しゴーン氏が送還され公判が開始されるという可能性だろう。

では、最悪のケースとは何か?

太平洋戦争で日米が戦ったミッドウェー海戦において最悪のケースは、言うまでもなく「日本大敗」という可能性であったはずだ。最悪のケースが実現したときの最適戦略が確定していれば、そのとき日本側にも「戦略」があったことになる。

今回のゴーン氏逃亡事件で最悪の結果とは何か?


ゴーン氏は日本の検察が起訴し、今後の裁判が予定されていた。

しかし、検察による取り調べの手法は、必ずしも関係国の法の下では適法ではないという事実がある ― 既に何度も指摘されている「弁護士立会権」はその一つだ。

日本で発生した事案であるから日本に裁判権があると認められているのは平等な外交関係があるからだ。ズバリ言えば、日本が先進国として認められているからである。

しかし、外交はすべて政治である。独立した国家主権が相対する外交が政治でないとすれば他に何があるのだろう。

その国の法では容認できない手法で自国民が他国で公訴されている場合、他国の法による裁判をそのまま受け入れるかどうかは、その国の政治外交上の判断に帰する事柄である。容認できなければ自国民の送還を外交ルートで要請する。裁判を予定している側は、領事裁判権があるなら別だが、要請に応じる義務はない。しかし要請に応じなければ外交上の難題を抱える。

日本にとって最悪の結果とは、例えばフランス、もしくは今回逃亡しなかったグレッグ―ケリー被告人が国籍をもつアメリカの政府が、自国民保護の観点から送還を要請するという結末だろう(レバノンは既に要請していたと報道されている)。要請に応じれば日本は裁判権を放棄する。拒否すれば外交上の大きな損失が発生する。これ以上に日本から見て不利な結末は(理屈上)ない ― もちろん外交上の紛糾は要請するフランスないしアメリカにとっても損失である。その損失を上回る国益が先方にあると判断すれば要請するという理屈である。

国際世論、特に米仏の世論の行方がやはりポイントであるかもしれない。いずれにせよ、そもそも最初から日本の意志だけで100パーセント決定できる事柄ではなかった。会社経営上の事案で外国人経営者が容疑者に含まれる場合、外交的な側面が必然的に混在してしまう。最初から分かっていたことである。


これまた「リスク管理」だ。

要するに、リスクが存在する原因になっている日本側の弱点(の一つ)として、特に批判に対してヴァルネラブルである司法制度がある。

『△△だから私は逃げた』に対して、『逃げたこと自体が犯罪である』と反論するとしても、「△△」の部分が真であり、「逃げる」という行動に結びつく因果関係が世界で共感されてしまえば、日本の反論は反論にはならないロジックである。故に、現状はヴァルネラブルである。

リスクは、単位期間ごとに反復される意思決定によって、大きくも小さくもなる。

ボールをどこの国が持っているか定かではないが(ボールは複数個あるかもしれないが)、日本が選ぶ選択肢によって日本の利益は変わるだろう。


2020年1月9日木曜日

一言メモ: 目の前のやりとりが理解できない間抜けな応答の一例

マスメディア関係者は人のやりとりの中身を理解するプロのはずである。ところが・・・

日本時間で昨晩、レバノンに国外逃亡した日産元会長・カルロス=ゴーン氏がマスメディア各社に会見をするというので某TV局のレポーターがわざわざ海外出張費をかけて現地まで出張っていったところ、招待をしていないというので入室を拒絶され、逆に海外記者から取材されたというのだ、な。

それに対して

ゴーン被告は無罪と潔白と主張するんであれば、なぜ海外に逃げたのか。なぜ日本で堂々と裁判を受けて無罪を勝ち取らないのか


こんな見解を述べておいたということだ。このような意見を持っている人は日本人にも案外多いのかもしれない。

しかし、小生は偏屈さでは人後に落ちないので、『ホント、間抜けな応答だねえ』と感じた次第。

だってネエ、そうでんしょう。ゴーンさんは日本の司法はアンフェアだって、そう言ってるんでしょ?これは冤罪だって、最初っから推定有罪で見られてるって、アッシはそう聞きましたが、違うんですかい?堂々と裁判を受けちまって、そのまま有罪にされちまって、 刑務所に入るってサ、そりゃああっしだって怖いねえ。たまたまゴーンさん、大金持ちだからさ、カネ使って逃げたんでしょ。日本人だってカネがあったら逃げたいって思う人はいるんじゃないんですかい?だからさ、潔白だって主張しても日本の法廷では無駄だってネ、一体なんでそう思ったかって。そのワケをさ、ゴーンさんの口から聞きたいんだって、だからベイルートまで来たんだって、このくらいは言いなよってね……。エッ、そんなことをゴーンに聴くなんて無駄だ、ゴーンは悪い被告人だ、あいつの言う事なんて信用できないって? はあ~、な~るほどネエ…そこなんじゃあござんせんか?逃げるしかないって決めたのは。

ま、世界には他人を何百人も殺害して「英雄」になった司令官もいる。その司令官を殺害しろと軍に命令して国益を守ろうとしている大統領もいる。英断か、愚策かは、結果をみて判断するしかない。カルロス=ゴーンの一件は人の生き死にとは関係のない、まあ「微罪」 ― 利益を争う企業という山賊の内紛 ― のようにも思うのだが、それはそれとしてどうカタをつけるかを考える段階に来たということだろう。

逃げられた事実を認めたうえで、出来ることをやっていくしかない。未来志向である。これを「元の原状に戻すべし」などと言って原理・原則論に執着すると、日本‐レバノン、日本‐フランス関係が段々とおかしくなるだろう。これまたバカバカしい事である ― そもそも今回の「日産お家騒動」の全体が間抜けなドタバタ喜劇であったのが、正真正銘の事実であるかもしれない。

法はソーシャル・マネジメントのツールである。日本の現行法が世界に向けて「正しい」ことを主張しても不毛である。目的は国の利益、法はそのためのツールである。利益を守り増やすことなら出来ることが多々あるはずだ。

駐レバノン日本大使がレバノンのアウン大統領に面会して「事実究明への協力」を確約してもらったと報道されていたが、併せてゴーン氏の口から政府関係者の実名が出ないよう依頼することも忘れてはいなかったのではないか。ODAの継続についても話したかもしれない。もしそうなら、これもまた、今から出来ることの一つではある。

それにしても…、

奇襲のようなゴーン逮捕劇。まるで真珠湾奇襲のようで手際の良さには吃驚したが、華やかだった割には日本の利益という点では「持ち出し」に近かったのではないか、少なくともいまの現状。「作戦失敗」と言わざるを得ないのではないだろうか。泥沼的広報合戦に引き込まれそうだ。肝心の日産はイメージ悪化で業績は伸びず、株価下落が甚だしい。社内は混乱している。全治何年の難題を抱え込んだのだろう。下手な手術で術後の傷口が化膿したようなものだ。

戦術的には見事だったが、戦略としては下策であった。誰かが詰め腹を切るタイミングはそう遠くはないと小生はみている。

2020年1月8日水曜日

断想: 昔も今も「変わらない」ところ、「進んだ」ところ

最近になってから鴎外の意外な面白さに目覚めて全作品を通読している最中だ。

中期の短編、いわゆる五条秀麿ものの一編『藤棚』(明治45年6月)に次のような下りがある:

話しは又一転して、近ごろ多く出る、道徳を看板に懸けた新聞や小冊子の事になった・・・(中略)書く人は誠実に世の為、人の為と思って書いても、大抵自分々々の狭い見解から、無遠慮に他を排して、どうかすると信教の自由などと云ふものの無かった時代に後戻をしたように、自分の迷信までを人に強いようとする。

この述懐を鴎外が公表したのは明治45年、つまり西暦1912年だから100年以上も昔のことである。しかし、上のような感想はまさに2020年の今現在の日本社会にもそのまま当てはまりそうである。

鴎外が生きた100年以上の昔から日本の社会は、というか人間社会全般といってもよさそうだが、まったく進歩していない。

ある側面で社会が進歩しないとすれば理由は一つしかない。それが「人間性」そのものに由来しているからだ。競争心や物欲、恐怖、嫉妬、羨望は時代と国を超える人の普遍的な感情である。抑えようとしても抑えることは難しい。

科学技術や文明がどれほど進歩しても、人間性そのものは昔と変わらない。実際、古代ギリシアの悲劇『オイディプス』や『アガメムノン』、あるいはツキディデスの『戦史』を読む現代人は、そのドラマに感動もするし、深い教訓を得たりするわけである。

***

芥川龍之介の『侏儒の言葉』には多くの警句がある。その中に「自由意志と宿命と」という一節がある。言葉は月並みだが、とった行為への責任や処罰の必要性に直結するので、中世からルネサンスにかけての時代以降、ずっと哲学的には大問題であった事柄だ。

兎に角宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云ふ意味も失はれるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいづれに従はうとするのか?

ヨーロッパ中世はキリスト教信仰の上にたった社会だった。とすれば、信仰に生き、神の示す道を歩むのが人生であり、神に服従する限りは何があったとしてもそれは神の意志である理屈となる。貧しさも神の定めた道であり、富貴もまた神が許した境遇となる。人が計画的に意図する犯罪というものがある道理はなく、もしあれば悪魔に魅入られた人間の所業でなければならず、その者は処罰するのではなく抹殺してしかるべき存在である。そういう世界観であったはずだ。

このブログでも、束縛や隷従の下に置かれた人間は罪を犯しえないという話を書いたことがある。自由意志に基づく行動とは、要するに選択であって、その選択をしたことに対しては結果に責任を負うべきである。それが個人主義の根本原理だと。そんなことを書いた投稿は何度かある(たとえばこれ)。

現代社会の法体系は、個人主義の哲学に立脚して構築されている。人はすべて良心をもつ。独立した個人は良心に基づき常に合理的な判断と行動を選ばなければならない。その責任をもっている。不当な行為を選べば、その人は法的な処罰の対象となる。それが責任というものだ。そう考えて裁判が、特に刑事裁判が開かれている。

しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。

現代社会ほど信仰や、神への怖れ、幸運を祈る心情が居場所をなくした時代はかつてなかっただろう。宿命という概念は法律上は存在しない。芥川龍之介が指摘した大問題は現代日本では解決済みというわけだ。

***

・・・そういえば、戦時徴用工やかつての従軍慰安婦。日本政府は「解決済み」だと言っていたナア。大体、「解決済み」というのは、例えば数学の試験問題に正解を出した時に使う言葉であるのであって、解決済みにできる問題などはほとんどない。社会問題に客観的な正解を出せる学問分野は一つもないはずだ。というか、自然科学においても大体は「正解に近い」、「いい所まできている」という感覚に近く、解決済みという言い方はあまりしないはずである。

ま、「変わらないネエ」という点では変わっていないところだ。

昔と今とで変わった所があるとすれば、社会全体が幼稚化してしまったせいか、問題の本質とか、人生そのものとか、実質のある重い話題への関心がなくなってきた点だろうか。それより、エンターテインメント志向の話題が誰も傷つけない優しいトピックになってきている。

ま、世相というのは変わるものだと感じることも多い。


2020年1月5日日曜日

感想: ゴーン氏逃亡と「主権侵害」についての不思議

被告人・カルロス=ゴーン氏のレバノン逃亡劇について議論が沸騰している。

保釈条件に違反して逃亡したこと自体は日本の法律の下では許されない。また、正規の出国手続きを採らず密出国した点も非難に値する。

ただ、小生が最も不思議に感じている事は、関係官庁である法務省や検察庁、更には一定の条件の下に保釈を許可した裁判所に勤務している官僚が『これは日本の国家主権を侵害している』と憤慨するならまだ分かるが、一切関係のない純粋の民間人までもが『主権が侵害された』などと官僚と一緒になってゴーン氏を非難している事である。更には、受け入れたレバノン政府、またまた更にはゴーン氏にかなり同情的な海外メディアにも激昂している様子なのだから、小生、不思議で仕方がない。

日本の公務員が怒るのならまだ分かる。今回の逃走劇は日本の行政機関にとっては恥でもあるし、精励している仕事を土足で踏みつけられたようなものだからだ。しかし、公務員でもない民間の人が何故憤るのだろう?・・・この辺の心理が小生には分からない。逃げた被告人が「外国人」だから許せないのだろうか?それとも「金持ち」だから許せないのだろうか?あるいは、現代日本人は法律に従うことがいつでも常に「正しい」と本気で考えているのだろうか?

こういう表現は左翼的で普段はあまり使わないが、「国家権力」が「一個人」に愚弄されたとき、多くの市民は喝采はあげないまでも、ある種のカタルシスを感じて「スカッとしたなあ」と語るものだ。スカッとしたと言わないまでも『逃亡されるような酷いことをしたのか?』などと、「お尋ね者」を白眼視しつつも指名手配をする「お上」の方をも詮索したりするものである。そうなって当たり前ではないか。これまた左翼的で普段はこんな言い方はしないが「権力を笠に着て、勝ち組で御座いますなどとヌクヌクと暮らしている」役人輩の裏を見事にかいたわけだ。これが庶民にとって痛快でないはずがない。と、小生には思われるので、余計に現在の状況が不思議なのだ。

日本の現代社会のこんな様子では、アニメ『ルパン三世』なら喜んで観るのだろうが、現実にアルセーヌ・ルパンが出現して高価な宝石や名画を相次いで富裕層から盗み取っていけば、日本では単なる犯罪者。それこそ「反社会的人物」としてただただ糾弾されるだけの存在にしかなりえないであろう。盗賊・鼠小僧次郎吉に拍手喝采した江戸の町人のほうがまだ自然な人間味をもっていたと感じるのは小生だけだろうか。

現代の日本社会は、どこか底が浅く、奥行きのない貧しさを抱えている。人々の心も余裕と潤いを無くし杓子定規になって荒んでいる。誰もがたった一つの視点から狭い視野でしか世間をみない。融通もなく機知もなく寛容もない。どうもそんな気がするのだ、な。

小生は『悪いものはただただ悪く、善いことは善いのだ』という思想ほど人を不幸にするものはないと考えている。これは最近の分だけでなく、以前から何度か投稿している。

2020年1月3日金曜日

断想: 元日早々これは「ジェネレーション・ギャップ」か、「セクシュアル・ハラスメント」か?

上のような標題と下のような書き出しで《嫁》という人について思う所を投稿したことがある。

しかし、数年も経つと感覚も認識も変わるものだ。

だから、旧投稿はEvernoteに移すことにして、投稿時点で要点だと思っていた箇所だけを残すことにした。

===

正月だと言うので下の愚息が妻を連れて拙宅に帰省している。

愚息にとっては「実家」になるが、現行の民法では「家」という実体は廃止されており、もはや「嫁」という言葉を裏付けていた実質はなくなりつつある。愚息夫婦は独立した核家族、というか若夫婦のみの世帯である。だから、厳密には「帰省」などと呼ぶべきではなく、親子の関係であってもやはり「訪問」である。単なる訪問とは区分したいということなら、せいぜいが「センチメンタル・ジャーニー」にでも属することであろう。

いったん独立した家族は、もはや家族とはいえず、いわば「気のおけない他人」くらいの気持ちで交流を続けたいものである。

あと何十年もたてば、「家」の感覚は完全に雲散霧消し、「親族」の観念すら風化して
血縁ってなに?
そんな感覚が日常化するのかもしれない。

「親族」などという盲腸のような観念が消失し、「相続」などという古代以来の因襲が「相続税100%」によって解体される、そんな時代がいつかはやってくるだろうが、小生の感覚ではそれもそれほど淋しい事ではない。

【改編】2022-11-14




2020年1月1日水曜日

「ゴーン裁判」という予行演習はなくなる見通しとなったが・・・

年も改まろうとする年の瀬、日産元会長・カルロス=ゴーン氏が日本から脱出してレバノンに入国したとの情報に日本のみならず世界が驚愕した。

それもそうだろうと思う。大体、パスポートも持っていないはずの大の男が(大の女もいるにはいるが)一人、出国審査で引っかかることもなく秘密裏に出国できるなどは技術的に不可能である、ということは考えてみればすぐに分かることだ。つまり、協力者がいる、荷物検査を免れる外交上の配慮がどこかで加えられた等々、正に小生の好きなサマセット・モームの小説を地で行くような展開があったのだろう。

***

ま、ゴーン裁判は前に投稿したように、この種の国際的事案に関する日本政府の予行演習であったと小生は思っている。

その予行演習が始まらないうちに、まんまと逃亡されてしまったわけである。

これまた法務省、裁判所、弁護士、etc.にとっては「勉強」であったろう。予定していた「予行演習」は報道で伝えられているレバノン政府の姿勢をみれば、多分、無期延期になるだろうが、これもまた「勉強」であったことは間違いない。

失敗は成功の母である。

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そもそも全ての国において同じ司法制度があり、同じ裁判制度があるのであれば、特定の国の司法を選好したり忌避したりする理由はないわけだ。わざわざ危険を犯して日本を脱出し、レバノンに向かおうと決断したのは、危険を犯すだけのメリットがあったとゴーン氏側が考えたからである。

そのメリットとは何か?

ゴーン氏にはゴーン氏の正義がある。日本の司法には日本の司法の正義がある。どちらの正義が正しいか決着をつけることは論理的には不可能である。

法は、ソーシャル・マネジメントのツールであり、その法が「正しい」ということを意味しない。日本では日本の法律がローカル・ルールであり、外国には別のルールがある。

それ以上でも以下でもない。法律もルールもない、正義や善や真理もない、自然のむき出しの現実の世界がそこにあるだけだ。

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多分、泥仕合になるのだろう。

が、世界という舞台で法の正義を主張しあうのは日本にとっては最悪の展開であるかもしれない。こんな風になる予定も想定もなかったからだ。

求めて「予行演習」とするにはカルロス・ゴーンという人物は難物であり過ぎたかもしれない。関係国がフランス、レバノン、ブラジルで丁度手ごろ。演習には最適。舞台効果もあって華やかだ。検察側に名誉欲が出たかもしれない。ではあるが、もしゴーン氏がコスモポリタンではなく生粋のアメリカ人でフォードの前副社長、アイビーリーグ出身の超エリートであったならば、日本の検察は米国人の感情を忖度して、別の手法を選んで慎重に詰めていたのではないだろうか。日産内部の日本人取締役たちの扱い方とバランスをとったに違いないと、そう小生には思われるのだ、な。

油断したのはゴーン氏であったのは外観であり、実は日本政府の方だったのだろう。

韓国の徴用工裁判もそうだが、「ゴーン被告逃亡」をどう解決するかという問題は、日本‐レバノン、及び日本‐フランスの関係においても出口のない難問になるかもしれない。彼が地中海沿岸の「自宅」で天寿を全うするまで日本は耐え抜くしかないのだろうか。

この問題を解決できる人物は極めて頭のよい人である。