2023年10月29日日曜日

覚え書: 東京某日日誌

東京へ墓参を兼ねて三泊四日で往復してきた。宿泊は、ここ近年は上野界隈が気に入っている。というか、学生時代に東日暮里に下宿していたから、上野、根岸、日暮里・谷中といえば小生の縄張り内でもある。

ただ両親の墓は船橋にある。八千代、柏に近い所だ。アンデルセン公演へ曲がる十字路、県民の森入口からすぐの所にある。行けば休憩を含めて小半刻は過ごす。

天気が余りに好かったので、母が晩年に過ごしていた取手市の戸頭団地を再訪してみた。関東鉄道の駅から出ると、国道の下をくぐるようなトンネルがある。それをみると、記憶は大分曖昧になったが、確かにこの道を毎日急ぎ足で歩いて駅に入り、1時間半もかけて役所に登庁し、日がな一日雑用に追われて、深夜になってまた駅を出て、この道を歩いて家に向かっていたよナア…と。母は起きて待っていたことが多い。寝ていればよかったのに……。その頃の生活の感情だけが胸に蘇るような感覚だ。




その頃、食堂「ガシュラット」という店名だったかどうか、忘却してしまったが、本を買ったついでに、この場所にある店で何度かラーメンを食べたような記憶がある ― 本屋の方はなくなっているようだ。それにしても、ほとんど誰も歩いていない。シャッターを下ろしたままの店も多い。

店に入って餃子ライスを頼んだが、相客はすべて高齢の女性、お婆ちゃん達である。どの人も軽めの麺類をすすっている。小生が母と一緒にここで暮らしていた時分から住んでいるのだろうか?その当時幼かった子供たちは概ね独立して町を出ていき、この界隈の住人全体が高齢化しているのだろう。自分はこうした町の変化を共に経験しては来ず、今は通りすがりの旅行客に過ぎない。

帰りは取手駅には戻らず、守谷から「つくばエクスプレス」に乗って新御徒町駅で降りた。流山辺りでは子供連れの若いお母さんが何人も乗ってきて活気があった。

上野に戻り時間があったので寛永寺の清水観音堂で御朱印をもらった。


弁天堂にも寄ろうと思ったが観光客で黒山の人だかりだ。根本中堂まで歩いて行こうかとも思ったが、腹の調子が悪く、そのままホテルに帰った。




2023年10月23日月曜日

断想: 秋冷えて徒然に思うこと。科学が全てじゃないでしょうに。

明日から三泊四日で東京往復。両親の墓の植木の片側が近年の酷夏で枯死してしまい、そこに墓誌を建てることにした。工事は終わっているのでその確認だ。もう片側の植木はまだ健在ではある(そうだ)が、写真をみると何だか緑葉と茶葉を混ぜ合わせたような姿になっていて痛々しい。いずれ自然石などに置き換えなければならないかもしれない。

いま暮らしている北海道の港町は冬がもうそこまで来ている。少し前までは記録的な酷暑でみなウンザリしているのを思えばまさに、歳月怱々として過ぐ、だ。

岬回りの経路でショッピングモールまで歩いて行くと海の色に緑が混じり、雪を思わせる雲が低く垂れている。浜辺も海水浴客の賑わいはとおに無くなり、海の家の煙突からは何か調理でもしているのか一筋の煙がたち上るばかりである。

秋冷えて 炊ぐ煙や 苫のいえ

波音の つづれつづれに 雪もよい

雪虫の はかなく飛んで くも低し


今朝は早くに月参りで住職が来て読経をして帰った。来年、五重相伝が寺であるので参加を予約しておく。


最近、いつだったか何かのワイドショーで『位牌には何も宿ってないんです。木で作ったタダのモノなんですね』と、TV局お好みのテーマになった終活、墓じまいに関連した話しをしていた時だったのだろう、こんなことを言っているコメンテーターがいた。

当たり前のことを仰々しく、と。そんな感じでありンした。

『私には単に木で作ったモノにしか見えないですけど』とでも言えばイイものを、と。


まあ、小生も統計学でメシを食ってきたから、測定不能な対象は、元来は苦手であってもおかしくない。しかし、データでとらえ切れない事柄が多いこと位はわきまえているつもりだ。そもそも「企業理念」とか、「普遍的価値」など、見ることもできないし、数字にすることもできない。イメージだけの存在である。そんなことは誰でも知っているわけだ。


英国の数学者・哲学者であったバートランド・ラッセルが『西洋哲学史』という大著を書いている。ラッセルの書く本は大著が多いのだが、隅から隅まで読み通す人はそうそうはいないはずだ。小生も上の本を全部読み通したわけではないが、明瞭に記憶に残っている一節はある。

人間の知識には三つの階層があり、一つは科学によって得る知識。二つ目は科学ではないが理性の働きによって得る知識。三つめは理性とは別の直観によって得られる宗教的知識。この三つである。

こんな風に人間の知すべてを分類しているわけだ。

具体的に言い換えると、科学的知識は実験や観察など経験的事実に基づいて構成される。データによって反証不能な仮説は科学的仮説とは言えない。故に「神は存在する」という仮説(?)は科学の対象ではない。

科学とは違って、哲学は必ずしも経験的事実から出発はしない。その代わりに、自明である大前提、例えば「公理」から出発して論理的に様々な結論を得ることが多い。その意味では、数学は科学ではなく哲学の一種だ。倫理学も善悪などの価値を扱うが、プラトンの『ゴルギアス』にしろ、カントの『道徳形而上学原論』にせよ、議論はあくまでもロジカルである。経験を超越する概念をあつかう形而上学になると初学者には敷居が高くなるのも哲学の特徴だ。

哲学と宗教は似ているようで全く違う。哲学は《懐疑》から出発する。懐疑から議論を初めて結論を得るにはロジックが要る。そこが宗教とは異なる。宗教にとっての出発点は「神の存在」や「浄土という世界」を疑うことなく信じるという行為である。哲学者はすべてを疑うが、宗教者はある存在については疑わずに信じる。それが《信仰》という行為である。

深く信じることが宗教であるから、「**主義」もまた宗教と同じような色彩を帯びる。狂信的**主義者と狂信的▲▲教信徒は非常に類似した行動をするものだ。

魂という存在、その魂の行方、あるいは宇宙を支配している輪廻という思想に経験的根拠はない。それは事実であるとも、事実でないとも言えず反証不能である。もちろん疑うことによって哲学を展開することは可能である。デカルトやパスカルはそんな宗教哲学を展開したが、両者の議論はまったく異なる。それは観察事実に基づく科学ではないからだ。それでも宗教という知の世界があるのは精神的安定、つまり心の救済を感じる人が多いからに他ならない。

言い換えると、科学によって人間の精神的安定が得られるとは限らない。科学は、むしろ、私たちの生活水準向上に資する知識である。


さてト・・・位牌の話しに戻ろうか。

信仰に基づいて位牌というモノをみるとき、その人は観察可能なモノを目で確認しているだけではない。位牌の向こう側、つまり目に見える《此岸》という此の世界と目には見えないが超越的に存在しているはずの《彼岸》の世界と、その二つの世界の境界にある《扉》をみていると言うのが正しい理解であろう。

いま「扉」と比喩的表現を使ったが、広く使われている言葉は「偶像」である。信徒が偶像をみるとき木で出来た美術作品をみるのではなく、その奥にある存在を感得する……、まあ150キロのストレートをバットでどう飛ばすかなど、打てるようになるまで自分で試みるより他に方法はない。哲学と違い、宗教や信仰は本を読んで「分かった」というものではないわけだ。

即ち、同じ位牌を見る時も、信仰に基づいてみる人と、信仰なく科学的見地から見るヒトと、二人とも外見としては「視覚情報」を受けとるという同じ行為をしているのだが、その視覚情報をどのように処理し、悟性によって何を認識しているかにおいて、同じ行動をしているわけではない。

小生はもともと唯物論を支持するものだが、生命現象や生物の記憶、理性、理論などが現に存在していることを考えると、既に投稿したように唯物論と唯心論は同じコインの両面なのじゃないかと思うようになったわけで、であるからこそ単なる木で出来たモノに潜在している超越的存在をイメージするとしても、そんな認識には意味があると考えているわけだ。

長くなったが、

信仰という前提がなければ、位牌も仏像も、十字架も、鰯の頭も、豚にかけた真珠も、どれも物理的存在という点では共通している

と、一先ずの結論を出しておいてもよいだろう。


それにしても、人類の知的財産の全てが経験から得られる科学的知識ではないこと位は、中学や高校でも数学や音楽、美術などの学科があるわけだから、当然、分かっていると思うのだが、どうもそうではなく、大事なのは科学だけであると考えて

位牌は木で出来たモノで、そこには何もないんです

と。他の観点があると思わないのかネエ?そう思います。ショパンの夜想曲を聴いて、美しいとなぜ感じるのか?美しいと感じる人と、感じない人がいるのは何故なのか?どこが違うのか?<美>という存在は詰まるところ何なのか?それは一つなのか?複数、存在するのか?

科学的アプローチの他にも、色々な考察方法があるわけである。

何故もっと深く考えることをしないのかネエ、と。そう思いました、という覚え書きということで。


2023年10月20日金曜日

一言メモ: ヒトの公判がそれほど面白いですかネエ、という話し

今日は下世話な批判ということで。


「猿之助一家心中事件」の公判が今日あるというのでTV各局は「待ってました!」とばかりワイドショーの話題にしている。

複数のTV局の異なるワイドショーで全てとり上げているので、一体、今日中に同じ話を何回聞くことになるのだろう?これは《公共の電波の無駄使い》ではないか、電波の重複使用ではないかと。公共性のある報道価値のある事柄なのかと。そう思っちまいます。

小生: ヨソの家族の一家心中事件だよ。心中でまだ生きていた人を救急搬送して治療して生き残った一人を、今度は有罪にして、刑務所に入れるか、入れないかという、その裁判をやっている。わざわざそんな事をやって、今日はそれをTV各局がエンターテインメントにするかねえ?俺にはこれこそ《人権侵害》としか見えないけどネ。

カミさん: ニュースなんだから報道でしょ?

小生: 事実のあらましなら、もうみんな知ってるヨ。大体、視聴者はそれほどデバ亀じゃあないヨ。これで猿之助に執行猶予がつかず実刑になったら、それこそ又「待ってましたア!」とばかりに熱をあげてTV画面で解説するのだろうネエ……目に見えるナア。もしそうなれば、これまた《人権侵害》じゃないかネ。日本のマスコミならいかにもやりそうだろ?

カミさん: 何だか人の不幸を待ってるみたいに言ってるヨ。テレビ局の人だって一生懸命仕事をしてるんだから。

小生: マ、それはそうだな。でも仕事の仕方が間違っているんだヨ。

この件については、発生直後の世間の反応をみた感想を投稿した。

有名人が心中をしたり自殺をするとワイドショーはそれで盛り上がる。いま荒れているパレスチナ・ガザ地区の病院にロケット弾(の破片?)が着弾して多数の犠牲者が出ると、「待ってました!」とばかりに重大ニュースにする — ま、重大ニュースであること自体は認めるが、それでも何度も反復して残酷な録画を再生して視聴者に見せるMCはやはり鈍感なのだろう。

ヤレ、ヤレ……多くの被害が発生していたにも関わらず、ジャニーズや旧・統一教会には口をつぐんでおいて、ヒトの心中や生き残った家族の公判は「待ってマシタ」とばかりに放送するのか、と。

これが今日一日の感想であります。


伝えるべき話には違いないが、新型のコロナウイルスが確認されるのとはワケが違う。どうもヒトの不幸をネタにしている印象がある。

不幸を伝えるのも時には必要だが、先に投稿もしているが、メディアというのは「役に立つ情報」を提供してナンボだと思う。社会の役に立つからこそ許認可権に守られているのだと思う。

とくに何の役に立つわけでもないのに、社会の多数が求めているからという根拠で特定個人の不幸を話題にして多数派勢力のエンターテインメントに供するのは、学校内、会社内でも見られる《イジメの構図》とそっくりだ。日本国民と一人の個人とが対立すると、日本では個人が「吹けば飛ぶような存在」となり、戦前期・軍国日本と同じ「社会に生かされている人間」、「鴻毛より軽きもの」として扱われがちである。

日本社会の底層では数々の《人権侵害》が蔓延していると小生はみているが、その根本的原因は「社会」から議論を始める日本人の思考回路にある。社会でなければ、町や会社、家族など共同体でもよい。個人ではない集団や組織である。<法人>という方がピンと来るかもしれない。日本では、この法人を個人に優越させて考える傾向が非常に強い。法人を個人より優越させて考える習慣があると人権侵害が多々発生するだろう。

みんなはこうしている

というシンプルな理屈が日本社会を強く支配している。

ちなみに、一人一人の日本人には強い束縛力を発揮する日本社会であるが、「黒船」ならぬ欧米先進国から来た外国人に対しては猫のように大人しくなる傾向は、常々情けなく感じているところだ。

ある人は、「法律で決まっているから仕方がない」と上から目線で語ったりする場面があるが、こんな諦念主義が大いに問題だ。法がおかしいと判断すれば変えればよいという理屈ではないか。法律が人権の上にあると考えるのは間違いだ。当たり前だが、この当たり前のことが日本社会ではしばしば否定されたりする。これが《人間軽視》であるのか、《管理の都合》であるのか、《日本的精神》であるのか、発生の起源は小生にはよく分からない。

人権とは前にも書いたが「個人の人権」だ。根底には個人主義の価値観がある。平等とは全ての個人の間の平等を指す。個人とは法人の逆でリアルに存在する人間である。法人は実体ではなく、リアルに存在するのは個人である。法人には「基本的法人権?」とか「法人の尊厳?」などという概念はない。あるべきでもない。

社会や共同体に先立って個人があると考える個人主義は、極めて西洋の香りのする思想で、現代においても日本人には苦手科目だ。社会の同調圧力にさらされながら日本で生きる日本人なら誰もがそんな感覚をもっているはずだ。

個人主義が苦手なその日本のマスコミ企業で働いている記者はほぼ全て日本人であり、個人主義の考え方が苦手である。その振る舞いが、欧米先進国のメディア企業と異なっていても、思考のあり方が違っていると考えれば当たり前の現象だ。


日本のマスメディアの振る舞いに対しては、どうしても冷淡な眼差しになってしまう。ま、「黒船」よろしく英国・BBCの報道があって以来、本年春から夏にかけて進んだ《マスメディアの信用崩塊》は思うに全治10年。(そもそも信用というのがあったと仮定しての上であるが)「信用」を取り戻すには、少なくとも10年程度の時間と誠実でたゆまぬ努力を必要とする。

日本国内の「ジャーナリズム産業」の構造は、その間に激動の時代を迎えるだろう。そんな風に予想している。

良質のジャーナリズムなき社会は、全てを「日誌」に記録する義務を負わず、情報を社内で共有しようとしない組織と同じである。国内企業で実力不足なら、外資の参入を仰ぐしかないという理屈だ。国籍を問わず取材記者として活用すれば日本国内のマスコミ企業にとってショック療法になろう ― 狭小な日本語空間で採算がとれるかどうかはまた別の難問だが。

これまた、国内産業合理化のための《黒船待望論》である。

【加筆修正】2023/10/21、10/23


2023年10月18日水曜日

ホンノ一言: アメリカの実質金利高をどう見るかという点

 前稿では

アメリカの実質長期金利は既に大幅に上がっている。インフレ率はそうそう急には2パーセント線には戻りそうにありませんゼ。

どうするおつもりで?考えがおありと観えますが、というところである。

こんな風に、金利高止まりを懸念するスタンスで投稿したが、同じWall Street Journalに載った記事はそれよりは強気の受け止め方を反映する内容になっている。例によって、Evernoteに保存した元記事にアンダーラインを引いた箇所だけを抜粋する形で要約に代えたい。

記事はエコノミスト65名に対するアンケート結果をまとめたものである。

In the latest quarterly survey by The Wall Street Journal, business and academic economists lowered the probability of a recession within the next year, from 54% on average in July to a more optimistic 48%. That is the first time they have put the probability below 50% since the middle of last year.

The median probability was 50%, in effect a coin flip.

 Source: Wall Street Journal

Date: Updated Oct. 15, 2023 12:04 am ET

Author: Harriet Torry and Anthony DeBarros

URL: https://www.wsj.com/economy/a-recession-is-no-longer-the-consensus-3ad0c3a3

1年以内に景気後退が起きる確率の中位数は50%である。半分以上のエコノミストは景気後退は起きないと予想している、という結果だ。 

Fueling the optimism are three key factors: inflation continuing to decline, a Federal Reserve that is done raising interest rates, and a robust labor market and economic growth that have outperformed expectations.

この楽観論の根拠は三つある。インフレ率が終息しつつあること、インフレ抑制という仕事をやり終えた(と判断しているはずの)FRBという存在、予想を超えて根強い景況と雇用動向、この三つである。

※ ただ、この三点とも現状描写あるいは感想であって、「だから今後もこうなる」という根拠とは言い難い ― これは単なる私見であるが。

 An overwhelming 82% of economists said the Fed’s current interest-rate target range of 5.25% to 5.5% is restrictive enough to bring inflation back to the Fed’s 2% goal over the next two or three years.

これはその通り。現行の金利水準はインフレ率を(2,3年かかるにしても)2パーセント・ラインにまで抑え込むのに十分な高さであると、小生も思う ― 実際、時間はかかるだろうが、そうなりつつある。

Economists expect inflation as measured by the consumer-price index, which was 3.7% in September, to tick down to 2.4% by the end of next year and 2.2% by the end of 2025.

前年比で測ったインフレ率だが、来年末までに2.4パーセント、再来年の2025年の末までに2.2パーセントまで低下するだろうと予測されている。 インフレ率ターゲット<ジャスト2パーセント>に執着するデジタル思考に陥れば危機は避けがたいが、真っ当に考えればインフレは必ず沈静する。

Economists give Fed Chair Jerome Powell relatively good grades for his handling of monetary policy. Nearly half gave him a solid B, while 20% gave him an A, and 20% a C. 

パウエルFRB議長に対する評価は、半数は<評価B>、4分の1は<評価A>、残りの4分の1が<評価C>を回答している。ま、こんなところだろうと思わず納得。 

Some 81% of economists also said the recent run-up in bond yields to their highest levels since 2007 increased the probability of a recession, though not by enough to offset other factors making such a downturn less likely.

長期国債利回り(と実質長期金利の急上昇)は景気後退の確率を確かに高めるものだが、上に挙げたプラス要因の作用を相殺する程のものではない。つまり、現在の金利高止まりは景気後退を予測させるほどのものではない。

※ 私見だが、強気の根拠は「今はこうだ」という現状判断、実質金利上昇は「確実に作用するファクター」というロジック。将来見通しがこれほど強気でいいのかという感想はある。


翻って、このレベルの(記者によって互いに矛盾するような)景気動向分析が日本の経済紙「日本経済新聞」に載ることは少ない。この点は期待を裏切っている。ただ、いわゆる「役に立つ情報」が同紙に多く掲載されている点は認める。 だから価格分の価値はある。

その他の新聞メディアは、「役に立つ情報」というよりは「いま話題の情報」を主に伝えている。ズバリ、面白いがあまり役に立たない。小生が毎日視聴するニュース番組がいつの間にかテレ東の「WBS」になり、NHKとその他民放のニュース番組から離れたのも同じ理由だ。

ジャニーズもそうだろうし、旧・統一教会もそうなのだろうが、日本のマスコミ企業は視聴者の役に立つ情報を提供する「報道」と視聴者を楽しませる「教養・娯楽」という異質のコンテンツを、(自覚することなく)混在させ、鍋料理のようにして一体のものとして提供していた。ここがメディア事業としては未成熟であったのだろう。その分、各分野ごとの業務規律・経営規律が弱かったのだと思う。のんびりと寛げる島国・日本(というより日本語空間)と容赦のない相互批判に常時おかれている欧米各国との違いがここにもあるのかもしれない。



2023年10月15日日曜日

ホンノ一言: 経済学は目標数値に厳格にこだわるほどの精密科学ではないだろうに

先日投稿したのはアメリカのインフレ率が終息しつつあるということだった。



確かに今回のインフレは落ち着いてきてはいるが、その割には粘着質(Sticky)であって、青いラインで示している目標値<2パーセント>まで戻りそうで戻らない ― 少し以前だとトレンド値は戻っていたのだが、その後また離れてしまっているのだ。将来予測をしても、そうそう早期には2パーセント線には戻りそうでない。

対前月比の年率換算値でみて大体2.3パーセントというのが現時点の基調である。ということは、足元の物価上昇ペースが今後1年間続くときに、1年後の前年比が2.3パーセントになるということである。

目標値は2パーセントである。

なぜ2.3パーセントではいけないのか?

2.3パーセントではダメで、景気後退のリスクがあっても引き締めを続け、2パーセントになればインフレリスクが解消すると、なぜ言えるのか?

世は「白か黒か」の二択で考えるデジタル文化に染め上げられて来ているが、自然は連続でアナログに変化する。リアリティはデジタルでなくアナログだ(というか、そう考える方がシンプルだ)。人間の政策だけはデジタルにするなど、あまりにも単細胞の発想だろう。デジタルでは必ず誤差が発生するのだ。

そもそも経済指標が伝えるリアリティの精度はコンマ1桁には達していない。

先日のWSJにはこんな下りがあった:

 議事要旨によると、高官らは、物価の安定と雇用の最大化というFRBの目標を達成する上でのリスクを「より両面的」とみていた。

 高官らはまた、利下げに転じる前に、どれくらいの期間金利を現在の水準に、もしくはそれに近い水準に維持する必要があるのかを検討し始めた。何人かの高官は、金利判断や対外発信の重点を「『政策金利をどれだけ引き上げるか』から『政策金利を景気抑制的な水準でどれだけ長く維持するか』へと移すべきだ」と述べた。

 さらに、インフレ率が目標の2%に戻ると確信できるまで、金利によって景気を「当面」抑制する必要があるとの意見で出席者全員が一致した。

 少数の高官は「実質」FF金利を注視していると示唆した。名目金利が一定なら、インフレ率が下がるにつれて実質FF金利は上昇する可能性がある。

Source: Wall Street Journal
Date: 2023 年 10 月 12 日 10:59 JST
Author: Nick Timiraos
URL: https://jp.wsj.com/articles/fed-minutes-show-officials-divided-on-future-rate-rise-7e3245ce

アメリカの実質長期金利は既に大幅に上がっている。インフレ率はそうそう急には2パーセント線には戻りそうにありませんゼ。

どうするおつもりで?考えがおありと観えますが、というところである。


2023年10月11日水曜日

断想: 高齢者と若者との本質的違いと共有可能なもの

 今日はまったくの断想。


徳川四天王に入る本多平八郎忠勝は戦場で負傷することは生涯ただの一度もなかったが、晩年になって不図したはずみで小刀で指を切ったことがあったそうだ。

わしもそろそろ身の納め時のようじゃな

と言って恬淡としていたが、間もなく極楽往生したそうな。そんな人であったと司馬遼太郎は(見ていたわけではないので、多分、フィクションであろうが)その人柄を描いている。


若い頃は生きてきた時間よりはこれから生きる時間の方が(期待値としては)長いので、自然と将来を語ることの方が多い。

齢をとると、生きてきた時間の方が残っている時間よりは長いので、将来を語るよりは過去の記憶を語る方が中身は多い。若者が将来の抱負を語り、年寄りが思い出話をするのは、自然の摂理なのである。

人間は抗しがたい敵に対して恐怖心をもつのが自然である。目に見える普通の敵に対しては、何とか工夫の余地があるが、<死神>に立ち向かえる作戦はない。心構えがあるのみだ。本多平八郎は、戦場において怯むことがなく、死を間近に迎えても自然な佇まいを保った。周囲の人は、自分には真似のできない真の勇者の振る舞いを見る想いであったろう。

時代を問わず、人を問わず、人は人の振る舞いをみて尊敬したりも、軽蔑したりもするのである。そして真に勇気ある人に対しては誰もが尊敬の気持ちを抱いてしまう。

地位が高いから尊敬するのではない。実績があるからでも、年上だからでもない。人が人を尊敬できるには、勇気の他に、仁、知という徳目があることは、少し前の世代なら誰もが常識として知っていた(はずだ)。


小生が若い時分の高齢者層と現在の高齢者層を比べると、明瞭な違いがある。それは、かつての高齢者層は戦争を体験し、従って自分(や家族、親族、友人、知人)の死を濃厚に意識する毎日を経験してきた点である。更に、自分の命を上回る価値があると教えられてきた世代でもあった。その当時の高齢者が共有してきた<気分≒エートス>は、現在の高齢者層には継承されていない。

現在の高齢者は、個人差は大きいが、前向きの人が多い。社会もメディアも前向きの生活を送る高齢者を称賛することが多い。しかし、上に述べたように高齢であることは、死を間近に控えているということである。高齢者が前を向くときには、道理として必ず自らの死を意識しなければならない。

こんな当たり前のことは、とっくの昔に分かっていたことで、だからこそ出家を志したり、信仰を深めたり、巡礼に出発するという人が多くいたわけで、明治以前の日本文学には生の意識と死の意識とがバランスよく混じりあっている。

高齢者が将来を考えるとき、自らの死を抜きにして将来プランだけに集中するのは可笑しいし(一体何歳マデ生キルツモリカ)、また現世で生きる残された時間をすっ飛ばして死だけを意識するのも変な話しであろう(明日早速死ヌオツモリデ)。

自然の摂理なら風が吹いたり雨が降るのと同じである。


前にも投稿したことがあるが、ヒューマニズムに基づいて価値を議論する時、科学に基づいて問題解決をしようとするとき、目に見えるこの世界に存在する事、生き続ける事が大前提となる ― 死後の事柄について議論するのは科学が宗教に勝った(?)現代世界では大方無意味であると認識されている、と言ってよいだろう。

しかし、このような前提に立つ限り、前にも同じ主旨で何度か投稿したように

合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。

つまり、死ぬより生きる方がイイに決まっているという結論しか出て来なくなる。もちろん、これはこれで否定するつもりはないが、これでは人生をかけて求める至高の価値という目的はあり得ないという理屈になる。故に

元気でいることが、一番大事なんだヨ

というコメントしか言えないというロジックになる。

これも至極もっともな合理的コメントなのだが、高齢者が若者にこのようなコメントをする時、死を間近に控えているにもかかわらず、死を怖れる人の臆病を見透かされるような思いに駆られたりはしないだろうか。実は勇気に欠けた人間であることをヒタ隠しにして生きてきた自分に恥ずかしさを感じたりすることはないのだろうか。


高齢者が生きる将来は時間と共になくなっていくのが道理である。であれば、なくなっていく将来を仰山に語ることはやめ、過去を語り、併せて現在を語ればよい。イヤ、現在を語るというより、現在に安住して、淡々として生きるという佇まいだけはなくしたくない。

最後まで持っていたいものは、理性も大事だが、勇気だけは持っていたいものだ。

2023年10月10日火曜日

覚え書き: アメリカ経済、日本経済。分からないことが増えてきたようで

アメリカのインフレは事実においては終息しつつあるが、「十分終息したとは言えない」という判断もまた共有されつつあるようだ。

それで、FRBによる高金利据え置きが現実的になってきて、となると景気後退はやはり避けがたいのではないか、と。

少し前は、中国経済の先行きで議論が盛んであったが、今はアメリカ経済の景気だよね、という風に世間(というかマスメディア)の関心は実に移ろいやすい。

まずアメリカのインフレ率だが、7月時点で本ブログに投稿したときは

全品目を含むCPIの前月比上昇率の年率換算値でインフレ率を測ると、基調としては既に2パーセントを割り込んでいる

少なくとも成分分解した後のトレンド値としては「インフレは十分終息した」と指摘していた。

ところが、8月実績値までを含めて計算し直すと、以下のような図が得られる。



インフレ率はトレンドでみてもターゲットである2パーセント・ラインを上回っている。

どうやら事後的な結果としては、その時に同時にアップしたARIMAモデルによる将来予測の方が的をついていたようである。その将来予測を8月までの実績値を追加して計算し直すと、



今秋から来秋までの1年間を通して、インフレ率の対前月比は《インフレ率年率 ≦ 2%》という目標を充たしそうになく、必然的に前年比でみても2%ラインに戻ることはないという見通しになる。

これではKrugmanが"Are High Interest Rates the New Normal?"というタイトルで寄稿するのも尤もなことである。

What’s causing this interest rate spike? You might be tempted to see rising rates as a sign that investors are worried about inflation. But that’s not the story. We can infer market expectations of inflation from breakeven rates, the spread between interest rates on ordinary bonds and on bonds indexed for changes in consumer prices; these rates show that the market believes that inflation is under control ...

What we’re seeing instead is a sharp rise in real interest rates — interest rates minus expected inflation ...

 

現在高止まりしている長期金利は、期待インフレ率の高まりではなく、実質金利が高いからだ、と。これは文字通りビックリ仰天な話だ。

ところが、実質金利がなぜ上がるのか、いや上がりうるのか、というのはクルーグマンにもよく分からないと上のコラム記事で正直に述べている。

実質金利が足元で本当に上がっていて、資本収益率が従来と同じであれば、景気後退は理の当然としてやってくる。それでも「景気後退は本当にやってくるのか?」という議論を余裕ありげに繰り広げている。それだけ現在の経済状況の腰は強い ― グロース株の株価は金利上昇で自動的に急落しても仕方がないが。上のコラム記事でクルーグマンも言及しているが、本当にアメリカの自然利子率はコロナ禍前より上がっているのか?そうとしか思えない。だとすると、

アメリカ経済、すごいですネエ・・・

と言いたくもなるわけだ。

分からないことが多すぎる。

まったく、コロナやインフルエンザに感染したときに診療をまかせる医者が、この程度の診察力しか有していないことを望みたい。

さて、日本経済だが、以前に年間収入クラス別のエンゲル係数の動向を投稿したことがあった。

これをアップデートすると、



やはり2014年4月、2019年10月の二度に渡る消費税率引き上げの影響がエンゲル係数という<やりくりの指標>にも反映している、と観るべきだろうような形の図になっている。

2019年10月の税率引き上げ後は、そのすぐ後のコロナ禍3年、その後の諸物価上昇も跛行性があるのでエンゲル係数の解釈は難しい。エンゲル係数はまず上昇したあと、次にレベル調整するように低下し、足元で再び上昇して今に至っている。

2014年4月の税率引き上げの影響はやはり顕著だったのだナア 。これだけ価格が一斉に上昇すれば当たり前か……

と思われる。税率引き上げ前後の駆け込み、買い控えは一時的ノイズであるからトレンドには残らない。

それから

2019年10月の税率引き上げの後、エンゲル係数が上がるのは分かるが、なぜこんな動きをしているのか?

これがどうもよく分からない。

日本の消費者物価上昇を帰属家賃を除くCPI総合の対前月比年率換算値でみると、下図のようになっている:



日本のインフレはトレンド値がまだ4パーセント程度に高止まりしている点が心配なところだ。

が、実は2014年4月時点の物価上昇と比べて、2019年10月の税率引き上げ時の物価上昇はそれほどでもない。

2019年10月の税率引き上げ時には、食品などで軽減税率が適用され税率8%のままであったり、幼児教育無償化が実施されるなど、インフレ抑制策も並行実施されていたのである。だから総合でみて、2019年10月引き上げ時の物価上昇は大したものではなかった。

それでも2019年10月の税率引き上げの後、全ての年間収入階層でエンゲル係数が顕著に上昇している。その動きは2014年4月の税率引き上げ時とそれほど変わらない。

ひょっとすると、軽減税率適用となった食品の価格とその他商品価格の相対価格が変化したことの影響かもしれない。ちょうど税率引き上げと前後して景気がピークアウトしたため実質所得の低下が無視できない要因として働いた。家計のやりくりがきつくなり、食費の割合が上がったということかもしれない。理屈としてはそうなる。しかし、これほど大きく動くのだろうか?

よく分からない。


ただ

足元で家計のやりくりは極めてきつくなっている

これだけは事実として言えそうである。

アメリカでは企業の資金繰りがきつく、日本では家計のやりくりがきつくなりつつある。そう達観していいのかもしれない。


2023年10月6日金曜日

メモ: 意味のない情報を強調しても無意味であるデータ例

本日の投稿は報道と統計学とが混じりあう一つの部分かもしれない。

 

毎日の報道を視聴していると、

この動きを新たに強調しても意味はないのではないか?

この情報には何のメッセージも含まれていないのではないか?

報道従事者が仕事をしているというアリバイ作りではないか?

こんな風に思わざるを得ない時が多々ある。


統計畑でメシを食っている人なら周知のデータ例が下図である。





上段の"series"は、何かの銘柄の株価推移だと思っても可であるが、左目盛りをみれば分かるように、これは実データではなく、シミュ―レーションで発生させた人工データである。

この動きをみると、一見して循環性があるように見える。直近の数時点においては下降線をたどり、その後に僅かな回復を見せていることに、そして足元ではその回復に陰りの兆しが表れていることに、深い意味があるように見える。

しかし、こういう印象はまったくの錯覚なのである。

データの前期差をとってみたのが下段の"change"である。実は、この"change"は標準正規分布から1000個発生させた乱数列を時系列にしたものである。

同じ確率分布から発生しているという点で"change"は定常時系列であるが、それ以外に毎時点のデータには何の意味もなく、最近何時点かで下がったからと言って将来予測に有益な情報は一切含まれない ― 「含まれない」というより毎時点、毎時点「今後もこのままで行くだろう」と予測できるだけである。実際はずっと変化し続けているにも関わらず、どう変化するかが分からない。

つまり上段の"series"は1000個の正規乱数の累積和として定義される《ランダムウォーク》であって、100パーセント不規則に変動している、データ丸ごとが《ノイズ》、シグナル対ノイズ比がゼロである、というわけだ。

故に、上段の"series"について
このところ低下しています。

どうやら底打ちしたようです。 

新たに発表されたデータは〇〇時点振りに低下に転じました
という風な報道には、一切意味がない。「だから何?」というわけだ。前期と比べて上がるのも偶然、下がるのも偶然。偶然を「もっともらしく」説明するのは間違った理解につながる。伝えようとする善意によって間違った理解を形成し、それが政策の誤りにつながるとすれば、最初の報道の罪というものだろう。


つまり本日の投稿で言いたいことは

ノイズをフォローして逐一報道するメディア活動はそれ自体がノイズである。

大事なことは、まったくの偶然による変化と何かの要因が働いている変化とを区別できる見識である、という点だ。願わくば、その要因が何かを洞察できる知的学力があってほしい、ということだ。


マスメディアという活動には有益な情報が提供されていて初めて社会的意義がある。というか、それがメディアという産業のミッションである。

伝えるべき情報を伝えているか、恣意的に選択していないか?
伝えても意味のない情報を伝えて社会の安定性を損なっていないか?

 

これらの検証は常日頃からしなければなるまい。製造業で広く採用されている《品質管理》は提供している製品の品質を検証する自己努力に他ならない。学界であれば、査読誌におけるレフェリー制が該当するし、学校であれば毎年度定期的に実施している自己評価や学生による授業評価がそれにあたると言えるだろう。

最近のマスコミの振る舞いをみていると、自らが情報産業に従事しているという感覚が欠如しているように観える。




2023年10月4日水曜日

断想: 「正義の暴走」というのはありうるのか?、答えはシンプルに出るのではないか

最近、色々な場面で《正義の暴走》というのが心配されたり、嫌悪されたりすることが増えている。これもまた《世論》が形成されるプロセスの中で起こることなのだろう。

しかし、「正義の暴走」というのは違うと思う。これも言葉の誤使用だ。


社会の根底に《正義》という働きが本当の意味で働いているのであれば、それこそが「真の正義」というものだろう。

真の正義は暴走して人々を傷つけることはない。暴走するのは正義を語っている人間たちである。

そう考えることにしているのだ、な。

なので

暴走をして、嫌悪されている人達に正義はない。

という理屈になる。


本当に「正義」というものが社会で作用しているなら、それはどんな形であるべきか、いわば「正義が満たすべき必要条件」を考察すれば、上のような結論は出てくるはずである。

故に「正義の暴走」というときに起きていることは

ある人々は「正義」という言葉を口にしながらルールや礼儀に反する行動を重ね大いに「ヒンシュク」をかっている。

こう言えば過不足なく事実を伝えられる。自分から「正義」を叫ぶような人は、世間は怪しいと思うでしょう?危険人物かもしれない、と。よくある事である。何より、多くの人たちのヒンシュクを避け、多数を包み込む合意を目指すのが《民主主義》の本質というものだ。


要するに、日本語の作文力に帰する話だと思う。哲学的な問題にはあたらない。


正邪善悪についての私見はすでに何度も本ブログに投稿している。

2023年10月1日日曜日

下世話な要約: ジャニーズ事務所の再生戦略をめぐるアジェンダ

「ジャニーズ事務所・性スキャンダル」は大揉めに揉めて当たり前の刑事事件である。その中で、企業としてのジャニーズ事務所をどのような戦略で再生していけばよいのか?

処罰するべき点は処罰しなければならない「企業犯罪」だと小生には思われる ― 創業者は既に亡くなっているが会社は存在している ― が、こんなディザスタラスなトラブルに見舞われた時の再生戦略には、いわば定石があるということは既に投稿している。一部を引用すると:

・・・、破滅的トラブルに見舞われた企業が採る方策は

事業全体のうち、クロの部分を切って(=償却計上する|身を切る)、白の部分を残す。結果として資金不足に陥れば、出資者を外部に求め「身売り」して事業体として生き残る。

これが共通原則であった(はずだ)と理解している。

ジャニーズも民間企業であるから、今後将来にかけて事業を続けて行ける部分と、トラブル処理をする部分とを分ける必要があるのではないか?どう分けるかは、色々な考え方があるだろうが。

今日現在の巷の噂では、大体、上のような方向でブラックとホワイトを分ける方針が明日の記者会見で表明される模様になっている。

つまり、「罪のない」タレントは新会社に移り、「賠償事務」を担当するブラックな会社と別経営にする。そして(ここからが)具体論であるが、新会社にはオーナー親族であるジュリー代表取締役は一切経営にタッチせず、また出資もせず、そして新社長には東山現社長が就く、と。


まあ、そんな素晴らしいプランが実行できるなら何よりだ。


ただ、こんなプランが例えばビジネスクールの授業《ビジネスプラン》でプレゼンする人がいたとして、当然、以下の質問はオーディエンスから出てくるだろう。それにどう回答するかだ。

  1. 新会社には現オーナーは出資しないということだが、そうなると外部のどこかが出資するということになる。それはどこか?決まっているのか?これから出資元を探すということか?
  2. もし外部の出資者が現れるとすれば、新会社の社長は出資者が決める筋合いであるから、東山氏がそのまま社長に座るという可能性は低いのではないか?
  3. 新会社設立までに、大枠、どのようなタイム・スケジュールでいるのか?
  4. 新会社が出来る場合に、現在のジャニーズ・ファンクラブも共に新会社の所有に移転されるのか?そうすると、ファンクラブの会費収入も新会社に移るが、そうなると残った旧会社にとっては大きな減収となる。
  5. 更に、著作権収入はどちらの会社に移るのか?
  6. 新会社はどのような資産を継承して設立されるのかという具体論がなければ、今回のプランの実行可能性には疑問符がつき、ビジネスプランとしては中身が伴っていないと評価せざるを得ない。
さらに
  1. もしも経営リソースを新会社に移してしまうと、旧会社は収入源を失い、そうなると旧会社のオーナーが保有している資産が主たる財源になる理屈だ。そもそも被害者への賠償義務があるとして、それは誰の義務と考えているか?会社の法的責任をどう考えているか?旧会社が債務超過か業績不振の状態に陥って倒産すれば被害者への賠償はどうなるのか?
  2. 旧会社の収入源が新会社に移転すれば現オーナーの所得はマイナスにならないか?現オーナーは私有財産を処分してでも賠償を行うという考えなのか?
  3. 新会社設立当初の経営リソースが不十分であると、新会社の収益は楽観できないのではないか?収支見通しはあるのか?人件費節減のため移転後に職員の解雇、タレントとの契約解除がありうるのではないか?
  4. 新会社設立時におけるバランスシートの概略をお示し頂きたい。基本方針はまとまっているのか?

ちょっと考えるだけでも、上のような論点が出てくるわけで、ここまでまとまって初めて新会社設立構想には説得力が出てくる。

まあ、個人的憶測ではあるのだが、会社分割でジュリー・オーナー代表取締役が保有する株式を旧会社・新会社に分割し、その上で新会社株式を外部の第三者が買い取る、と。そういう狙いかもしれず、もしそうなら新会社の大株主はジュリー・オーナーから、例えば民放テレビ局、新聞社、映画会社などに変わるかもしれず、あるいは新会社に移るタレントが共同で結成する(?)持株会が一部出資するかもしれない。そうすれば外部の安定株主が定まる。ジュリー・オーナーは株式をキャッシュに変え、それを賠償の財源にするかどうかが残る問題だ。もしこんな風に移行作業を進めうる人がいま社内にいるとすれば、ジャ社も捨てたものではない。が、しかし、会社資産のどこまでを新会社に移すかで新旧二社は利害が対立するので結構複雑な駆け引きとなるだろう。まとまるかどうかだネエ……というところだ。


それと同時に、旧会社が進めるべき賠償方針について語る必要がある。こちらは被害者全容の把握と個々の被害者に対する賠償の中身が主論点になる。こちらについても、大枠としてのタイム・スケジュールとフェーズ分けが求められるだろう。賠償事務には、何より《水平的公平性》と《垂直的公平性》が求められ、その業務完結には長い歳月が要されるだろう。そして円満な完結なくして、新会社の経営が企業モラルの意味から正常状態に復することはないのである……たとえ、新会社は賠償義務から免責されるという一札の下で株式買い取りに応じるとしても。

大変な作業量だ。ボロボロになったジャニーズ事務所の現スタッフでやれるのだろうか?


いずれにせよ、前回記者会見からたった時間を考慮すると細部を詰め切った上での会見とはとても想像できない。


とはいえ、口にした以上は実行する義務が生じる。また、そうするしかない、とも言える。

これからジャニーズ事務所・経営陣が歩く道は、想像を絶してドロドロした修羅場になるのは必至である。プランが確実に実行されるまでは《ジャニーズ忌避》の流れは勢いが増すばかりだろう。所詮は

親の因果が子に報い

ではあるのだが、それは(かつての)傍観者として負うべき《罪》であった、ということなのだろうか? 

【加筆修正】2023-10-02-10:27


【追記】2023-10-02:15:26

テレ東を除いてTVは全てジャニーズ記者会見を中継したので、否が応でも目に入るし、耳にも入る。

新会社は企業分割ではなく新規開設であるようだ。かつ、ジャニーズ社から継承する経営リソースはなく、ジュリー・代表取締役による出資もない。であるにも関わらず、ジャニーズ社が保有している著作権、肖像権、ファンクラブとの繋がりなど無形資産は、(出来る限り?)新会社に移転(というより、譲渡?)してもらいたいという希望もあると発言していた(当然だ)。外部からの出資は予定されてはおらず、何人かのタレント(と職員?)が資金を出し合って「持ち株会」でも結成するのかどうか、とりあえず資本金5千万円か1億円程度でスタートするのだろう。後は、全てジュリー・オーナーと今後相談して決めるということなのだろう。

ズバリ

オーナーと相談するとして、果たして新会社はやっていけるのだろうか?

社員数は?そもそもマネジャー・クラスへの給料の支払い能力は?

様々な疑問が残ります。学生のビジネスプランなら評価<良>かもしれないが、プロが発表するプランとしては評価は<可>。残念ながら落第ギリギリの出来栄えにしか見えない。<不可>と評価する先生もいるに違いない。

不安が先立ちますナア……という印象で、とりあえず今回が一つの節目か。


ま、具体的な中身は何も決まっていない。構想だけだ。

これから追々実行、確認されていくということなのだろう。が、一歩一歩というペースでタレント諸兄の生活は成り立つのだろうか?

耐えられない人から五月雨式に退所、契約解除する人材が続き、会社としての体力が衰えていくのではないかと予想する。これまた

日の下に新しきことなし。親亀こければ、子亀もこける

古言はいつでも世間の本質をついている、という一例か。