2020年10月31日土曜日

一言メモ: 「表現の自由」、「言論の自由」が隠すパラドックス

イスラム・テロには屈しないと決意しているフランスに対して、イスラム諸国はフランス商品不買運動で応じているようである。

「表現の自由」を断固として守ると力説するマクロン大統領の強気の姿勢に対して、カナダのトルドー首相は『表現の自由には一定の制限がかかる』と発言した。アングロサクソン文化圏はやはり経験主義的であり、フランス的思考は大陸合理主義の系譜だからかどことなく観念論的である。フランスが日和見的に妥協することはどうもなさそうだ。

以前の投稿でこんな事を書いている:

言葉をビジネスツールにしている業界は「表現の自由」を連呼しているが、それは一般ビジネス界が「営業の自由」を主張するのと同じである。井戸端会議に精をだす奥さん達にすら100パーセントの「表現の自由」はないのが現実だ。どれほど営業の自由を主張しても、例えば金融業や学校経営、病院経営等々に営業の自由はない。すべて「自由」はそれ自体としてではなく、もたらす結果によって正当化されている。功利主義から判断されている。

その意味では「表現の自由」はより高い目的を達成するための方法である。有効だと信じてきた方法であっても、拙い使われ方が目立ち、望ましい結果とは遠ざかっているという判断がなされれば、方法の有効性そのものを再評価するのは当然の成り行きだろう。

これは明らかにカナダ首相の立場に近い。小生はかなりエクストリームで偏屈であることを自覚しているが、こればかりは平均的日本人も同じ見方ではないかと思っている。

***

好きな作家を全集で買うと各巻に「月報」などという名前の別冊が付いてくる。古本で購入してもこの月報がついている全巻セットはそれなりの価格がする。

昭和39年刊行の永井荷風全集第10巻の月報には寺田透が寄稿していて、中にこんな1節がある:

言葉は真実をかくすためにあるのだと言ったといふタレイランのことは今考慮の外におくにしても、人は書き語りはじめるや否や現実そのものではない一つの別の、フィクショナルな世界の造り手となる。あくまでそれは造り手となるのであって、その住人とか生活者になるのではなく、言語表現の場で、「私」、「非私」を問ふのがそもそも無駄なことなのだ。

「淡々と客観的に事実を叙述する」などという活動は仮面であって常に欺瞞になるということになるが、マア、この位の理解が一番賢明であるのだろう。現状をみても。 

報道や言論も同じ対象に入る。背後には必ず具体的な人間がいる。そしてジャーナリストが書く文章はジャーナリストが生きているリアリティとは独立した、ジャーナリスト自身が造った世界を表現している。上の下りはそんなことを言おうとしている。

「報道」に従事している人は語りたいことを語れる「自由」を欲している。しかし、その願望は、決して理念とか価値観のような高度なものではなく、むしろ「言論ビジネス」を思い通りに展開したいという営利動機を隠しているのではないかと、そう勘繰られるところが、いかにもウィークポイントになっているわけだ。だとすれば、所詮はマネーであるという「表現の自由」の楽屋裏を見せるような、ありのままの素な意見はむしろ言いだしにくい。同業者に迷惑をかけるので憚られる。これではかえって「表現の不自由」というものだ。

表現の自由を公共の場で力説することが、実は「表現の不自由」を目的とする行動になっている。意図的、戦略的にそうしているわけではないにしても。

これまた普遍的価値の共有が内に隠しているパラドックスの一例だろう。

2020年10月29日木曜日

メモ: 「施政方針演説」と「代表質問」は戦前の遺風で旧式だと思う

訳の分からない屁理屈というのは無数にあるものだ。人事について『任命拒否には理由の明示が要る』という指摘があるかと思えば、『説明できることと説明できないことがある』という発言もある。こんな状況では、複数候補がいる組閣時において任命から漏れた有力議員から自分を外した理由を示せという抗議がそのうち公然と出てくるだろう。確かに、情報公開請求が制度化されているのだが、現実の意思決定が幾つかの説明変数から完全かつ機械的に決まっているケースはない。常に「その他要因」が作用して選択や行動には揺らぎが混じるものだ。それが現実である。そもそもの一般原則は『あらかじめ定められた機械的識別を単純反復するという意思決定方式は最低である』というものだ。情報公開制度で期待されているのは、「決められている通りに決定されたかどうか」を確認するのではなく、意思決定システムから余りに乖離した決定には、不合理な(時には不正な)影響があった可能性があるのでその検出を可能にするという点にある。統計的に言えば「異常の検出」が目的である。そしてどこから先が「異常」であるかという臨界点は、緩くみる立場もあるし、厳しくみる立場もある。あらかじめファウルラインが目に見えるように引かれているわけではない。故に、敢えて判断をしたいなら、その権限がある機関、スポーツの試合であれば審判が、国であれば司法に任せるしかない理屈だ。


それはともかく・・・


国会が開会されると冒頭で首相による「所信表明演説」(=施政方針演説)があり、それに対して与野党を含めた各政党から代表質問が行われる。その後、各委員会に審議の場が移り、具体的で詳細な論点をめぐって論争が展開される。

例えば《帝国議会・国会内の総理大臣演説》をみると、第1回帝国議会で行われた山縣有朋首相による施政方針演説の原稿を読むことが出来る。明治23年12月6日。第3代第1次山縣内閣による施政方針である。その以前、第2代の黒田清隆内閣、初代の伊藤博文内閣では「施政方針演説」ではなく、「地方長官に対する訓示」という形をとっていた。第3代の山縣内閣以降、議会の冒頭か良い節目に、首相が衆議院において「施政方針演説」を行う習慣が定着したことが見て取れる。

この慣行は現代まで継承されているようだが、戦前期は元老あるいは内大臣の推薦に基づき天皇が首相を任命し組閣を命じていた。戦後は国会の指名に基づき天皇が首相を任命する。国会は憲法で国権の最高機関と規定されているので、同じく憲法で規定されている天皇の位にある者は国会の指名を拒否することはできない理屈である。

戦前期のように天皇が国会とは関係なく任命する首相であれば、施政方針をまず国会で演説し、各政党が代表質問を行うという形式は非常に理に適っていたと考えられる。

しかし、現在は国会の多数派が首相を選んでいるわけだ。何を施政方針とするかは最初から分かっている話だろう。戦前から伝わる古めかしい形式はもう陳腐化していると感じるのは小生だけだろうか?

首相が与党を代表して施政方針を演説するのであれば、野党も「施政に関する対立案」を演説する方がずっとダイナミックである。そうすれば、国の方向について現行案と対立案の二つがオープンに示され、国民には非常に分かりやすくなる。もし必要なら野党統一案だけではなく、第3極としての意味合いから「施政に関する別案」を示す機会を設けてもよいかもしれない。

どちらにせよ、野党もまた「施政に関する構想」を公開することを義務付けることによって、政党としての責任感、政策案を練り上げる努力を促す効果が期待できる。更に、無責任な放言や欺瞞を抑制する効果もあろう。

与党の演説に与党議員が質問するのは下らないし、野党議員が批判的な質問をすれば十分だ。また、野党の対立案に対しては与党議員が反対質問をすればよい。

泡沫野党は出る幕がなくなるだろうが、それは国会審議を活性化するうえで善いことであると思うがどうだろう。野党を結集させるインセンティブを与える制度改革にもなる。

2020年10月26日月曜日

断想: 戦後日本の建前とホンネのギャップはもう限界ではないか

 先日、議論には建前があるが、政治が建前に束縛されると機能しなくなる、と。そんな風なことを書いた。

臨時国会が始まり菅新首相による初の所信表明演説があった。それに対して、野党を代表する立場だからか、立憲民主党の枝野代表が演説には中身がないと批判を加えていた。

この図式は、ずっと昔の自民党vs社会党の対立構造を想い起こさせたりして、小生には大変馴染みがあるものだが、何がなしどこか空虚感が漂う気分を抑えることができない。

今日は「ホンネと建前」という古くて新しいテーマについて投稿しておきたい。

★ ★ ★

自民党はもはや公明党の支援なくして国政選挙を戦うことができないと言われる。立憲民主党もまた共産党の人的支援なくして選挙戦は戦えない、と。

その公明党の基盤は言うまでもなく宗教団体である創価学会である。自民党vs立憲民主党の対立とはいうが、生の現実をみると上層部の政党の活動を縁の下で支えている創価学会員や共産党員、その家族たちの存在なくして、日本の政治は成り立たなくなってきている。

その意味では、自民党も立憲民主党もある意味で「公家化」しているようだ。議員として生き残るためには末端の創価学会員や共産党員の心情を忖度しなければ身動きがとれなくなりつつある。頭や口ではない。動いてくれる人の数である。その動いてくれる人たちは、ホンネでは自民党という組織も立憲民主党という組織も実はどうなってもいい。これが今の日本のホンネともいえる現実かもしれない。自民党にせよ、立憲民主党にせよ、地元と東京をつなぐ人間関係のためのインフラ。ただそれだけの存在かもしれない。組織自体にロイヤリティを感じる多数の人間がいるわけではない、と。どうもそう感じられてしまうのだ、な。

戦前期日本では陸軍幼年学校が全国にあり、その上の陸軍士官学校、陸軍大学と一貫した人材養成システムが完備されていた。陸軍を退職したあとは在郷軍人会に所属した。正に草の根組織として日本全体に根を張っていた。陸軍で生きた人物が(極端なまでに)組織への帰属意識が強かった理由はこうしたハードな制度基盤にある。これほどハードな制度インフラがあったため戦前期の日本では陸軍が政府から独立して暴走することがが可能になった。

一方、反対例になるかどうか怪しいが平安時代の権力者であった藤原家は違った方法をとった。その力の源泉はといえば全国に所有する土地にあった。しかし、それらの土地は藤原家が費用を負担して開拓した土地ではない。地方の開拓地主が土地所有権を藤原家に寄進(=譲渡)して中央の権威と人間関係を取り結び、所有権を藤原家に譲渡する見返りに、租税免除と給田(=手当)の支給、さらに土地管理権も認められることが多かった。藤原家に年貢は納めるが、これは外部勢力との紛争に際したとき藤原氏が所有する土地であることと自分が庄司(=管理者)である事実を証明してくれることへのFEE(=手数料)であった。要するに、中央の権力者である藤原家は自らが直接的に人間集団を家臣として支配し、軍事力を保有していたわけではなかったが、皇室の外戚として高い官位を独占する一族であることから人間関係を取り結びたいと願う人間集団が地方に多くいた。朝廷(=政府)にいて法を運用することができた。ここが決定的である。統治システムとしては、建前としての権力と実質的な勢力とがずれていたシステムであり、だから小生は「荘園」という平安期の統治システムを最初に教えられた時、その本質が理解できるまでに時間を要した記憶がある。

どうも日本では同型の統治メカニズムが繰り返し現れるような気もするのだ。近年の「政党」とその力を支える基盤との関係もどこか平安時代の公家と武士のような関係を連想させるところがある。逆に言うと、戦前期の陸軍のような強固な組織は認めない。そんな傾向も戦後日本には濃厚にある。

政府周辺に強固な組織を置くことは忌避される一方で、系列を基軸とする大企業組織は極めて強固に機能した。が、それも「経済のグローバル化」、「働き方改革」、「中国の台頭」等々を通じて、次第に解体されようとしている。小生が、現時点の戦後日本がどこか建前的であり、ホンネとずれて来ているように感じるのは、こんな流れが背景にあるのかもしれない。

いま大河ドラマでは室町幕府最後の将軍・足利義昭が登場しているが、そのはるか以前から幕府は有力な守護大名の支援なくしては日本国内を統治できなくなっていた。それでも幕府が消滅しなかったのは、将軍家が戦国大名たちの権威付けの役に立ったからである。徳川幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で横死してから250年以上続いた幕府が瓦解するまで僅かに7年である。幕府の国内統治は「建前」になっていたという事実がよく分かる。

※ 【10月28日】本節、「繰り返し現れる同型の統治システム」に思い至ったものだから書き足しを繰り返し、ゴタツキ感が出た。「建前とホンネとの乖離」という言葉でいいのか?別の機会にまた展開したい。

★ ★ ★

戦後日本の建前とリアリティがここ近年ほど乖離してきている時代はなかったのではないだろうか。

日本国憲法では政治と宗教とは分離されているはずだ。にも拘わらず、創価学会という宗教団体が公明党を通して政治とのつながりを深めている。与野党の重鎮政治家が宗教団体のトップや幹部と会談してもおかしいと思う人がいない。そもそも宗教と政治が分離できないことは海外をみても明らかだ。ドイツの与党は「キリスト教民主・社会同盟」である。アメリカ大統領選挙ではカトリックがどちらの候補者を支持するかが注目されている。これもホンネでは認めなくてはならない事実だろう。

日本国憲法では私有財産が保護されている。にも拘わらず、(天皇制はともかくとして)産業国有化を核心とする(はずの)共産党が立派に日本の国政で活動している。

共産党が「護憲的」であると錯覚するのは、保守政党であるはずの自民党が憲法改正を提唱するからである。ロジックでいえば真の意味での改憲派は共産党である。ホンネを語らず、建前を語り続け、欺瞞を貫いているのは与党ではなく共産党であると小生は観ている。これも今日の標題の一例だ。欺瞞を続ければ必ず堕落するのは中国共産党ばかりではない。日本共産党も同じである。

★ ★ ★

アカデミックな世界でも建前とホンネが捻じれてきている。「憲法学者」と呼ばれる人達は、専門外の人間にとっては、ある意味で驚くべき頭脳構造をもっていると。そう感じるようになった。

下の愚息は法律の仕事をしているのだが、日常使っているのは刑法や民法、商法、その他諸々の法律だろう。民法や商法は憲法を前提として編纂、制定されている。だから、その分野の専門家が現行憲法の理念を重視するのは当たり前である。憲法を大前提としながら、しかし、専門の民法や商法については常に問題点を探り、改善の方向性を考え、実際何度も社会の変化に合わせて法改正されてきた。専門家というのはそういうものである。

一方、憲法学者はそうではないようだ。民法の専門家が民法の改善に努力し、刑法の専門家が刑法の改善を考えるのと同様に、憲法の専門家であれば憲法を超える統治の基本を為す観点から現行憲法の改善の方向に頭を使う、そんな理屈になるのだが、そこが違う。日本国内の憲法専門家は、現行憲法が既に最高の到達点に達しており、一切の変更は憲法を改悪するものであると、どうもそう考えているように見えてしまうのだ、な。実際、現行憲法は施行後70年を超えてまだ一度も修正されていない。

『現行憲法が理想の憲法そのものである』と、その分野の専門家であるはずの憲法学者が考えてしまっているところに、戦後日本社会の奇妙な安定と停滞が持続する根本的な原因があると思うようになったが、どうだろう。そう言えば、戦前期日本にあっても憲法学者は専門家として無力であり、実質的な仕事を為さなかった。戦前期日本の崩壊の責任の一部は当時の憲法学者達にあると小生は思っている。

企業にとっても理念は大切である。しかし、その理念は活動を通して表現されるべきものである。活動をすれば必ず問題が発生する。事業においては、常にPDCAというサイクルの中で問題が提起され、問題は解決されなければならない。そんな毎日の努力の中で理念は守られ、守られると同時に堅固に骨太になるのである。国も企業もこの点では同じである。学説によって憲法は守られるのではない。守るのは日本人である、というのが基本だ。

『いまのあり方が最高なのです』と主張してやまない人は、問題に目を向けず、解決を考えない、その意味ではDogmatism(独断主義)そのものであると、そう言われても仕方がないだろう。自由な思考を意味するリベラリズムとは正反対の立場だ。「リベラルです」と自称する人々が実は心のホンネでは「最高のものを守るのだ」という保守主義者である。これほどのパラドックスがあるだろうか。日本のリベラルは真の意味でリベラルではない。実は原理主義者であり保守派である。ここにも普通の日本人をとりまく哀しい現実がある。

これまた戦後日本社会の建前とホンネとの乖離の一例である。

※ 【10月29日】本節のポイントはマアマア本筋をついていると思う。

2020年10月23日金曜日

一言メモ: 当たり前の成り行きになってきた「野党合同ヒアリング」

 日本学術会議の6名任用拒否問題について日本共産党、立憲民主党ほかが参加する野党合同ヒアリングが開催されている中、与党がその実情を検証すると言い始めているそうだ。

「野党合同ヒアリング」で対座する官庁側職員と大勢の野党議員達をTV画面を通してみると、もう50年ほどの昔になったが大学全共闘による「大衆団交」が思い起こされるような雰囲気だ。野党議員のスピリット、というかエートス(=精神的態度)が如何なるものかが自ずから浮かび上がってくるわけで、正に『三つ子の魂百まで』なのであるが、それが今は国会議員の公的な権力に裏打ちされた活動になっている所が違う。若い学生達が数を頼みに大学を管理する総長や学部長に処分を怖れずに肉薄する、そういう図式とは正反対の展開になっているのだ、な。権力関係としては。長い時間が経ったのだと改めて感じるのは小生だけではあるまい。

「野党合同ヒアリング」について検証するというこの成り行きは当然だ、と。以前にはこんな投稿をしている。要点はこの部分か:

「野党合同ヒアリング」は法的に正当な手続きを経て実行されている行為なのだろうか?

「野党合同ヒアリング」はいずれかの委員会で採決されて実施されているのだろうか?

裁決されていないならば、議院の意思ではなく、国政調査権の行使には該当しないのではないか?

 出席する行政府の官僚には税金から俸給が支払われている。官僚の出席には機会費用としてコストが生じている。正当な法的根拠のない税金の支出は認められない理屈だ。

「野党合同ヒアリング」については分からないことが多い。

まったく「野党合同ヒアリング」は分からないことが多い。野党は官僚ではなく、政務3役の誰かが出席してほしいと要求しているともいう。であれば、これは政治家が担当するべき職務であることになる。もしそうなら、これは「政治」である。民主党政権下では政府委員廃止が論議され、国会の場で官僚が答弁するのは本当は不適切であるという認識が為されている。この認識が本筋であると小生も思う。

官僚が出席すれば、政権にいる与党政治家を擁護する意見を述べることを心理的には強要されるわけであって、事務的・技術的な業務にあたる官僚に担当させるのは適切ではあるまい。省庁の政務3役が部下の官僚に押し付けているのか?万が一、そうなのであればパワハラにも該当するかもしれない。体調不良に陥った職員がパワハラ被害で提訴すればどうなるのだろう?よく分からない、と同時に多くの問題を隠しているような気配がするのが「野党合同ヒアリング」である。 

「政治主導」は現実には「政治家主導」であるに過ぎないが、時にはこれが堕落して「政治家上位・官僚依存」にもなりうるわけで、「台本付き演技型官僚主導」が「バカ殿気まま型官僚主導」に変化しているだけのケースもあるだろう。「バカ殿連」を子守する人手が増しコストを払っている分、行政の実働部隊の効率性が低下し、低生産性体質になってしまっているのかもしれない。


政党、政治家どうしの論争、闘争は正に「政治」であり、国会の中で展開する筋合いだ。技術的な質問は国会の事務局を通して文書で行えば済む話だ。官僚は、要するに「白鳥は白い」という当たり前の事実だけが回答可能なのであって、法を逸脱することは禁止されている。官僚本人を呼ぼうが呼ぶまいが、(本来)回答が変わるはずはない理屈である。敢えて担当職員を査問する理由が生じれば、衆参いずれかの議院の公式手続きに基づくべきだろう。ま、キリがない、筋を通す理屈は幾つでも出てくるわけだ……

にもかかわらず担当職員を呼んで答弁を求める。有効であるはずはないのに。理屈に合わぬ。野党の戦術の狙いがどこにあるか、まあ、想像はつくが、適法かどうかは疑問だ。本当に「野党合同ヒアリング」には分からないことが多い。

2020年10月20日火曜日

ホンノ一言: 日本が行った「戦争」の分類

日本の近現代に対する歴史的興味がここ最近高まっているようだ。特に昭和戦前期をどう考えるかという問題は、ここにきて、関心の深さも広さも一段とレベルアップしたように感じることがある ― もちろんその裏側では数多くの歴史学者の努力があったわけだ。

東条英機という人物のありのままの姿をもう一度確認しようという著作も増えてきた。本当によいことだと思う。

それにしても「戦争」ほど極限的な国家行為はあるだろうか?

経済が社会を動かすことは誰もが知っている。それと同じ程度に、「戦争」の研究をすることは、その国、その国の国民を深く理解するうえで欠かせないテーマであると思う。

日本人がもっている根源的な理念や国民的なホンネは戦時においてこそ表面化し、露わに見えて来るものだ。日本人が絶対に譲れないと思っていることや何を心から信じているかも戦争を決意して臨むときにこそ分かる。勝利した時の態度、敗れた時の態度にもその国の個性が現れる。生死がかかるときにその人の人格が露わになることと同じだ。どんな「戦争」をするか?戦争の仕方をみてその国について分かる事は多い。

小生は経済史の専門家でも、経済学説史の専門家でもなく、まして歴史学となると完全な門外漢だ。それでも

  • 日本が一定の戦略の下で開始し終結させた戦争は、日清、日露戦争と満州事変の3回のみである。
  • 日中戦争(日華事変)は「戦争とは認めずそのまま停止不能になってしまった戦争」、真珠湾奇襲以後の太平洋戦争は「戦争したくはなかったがやってしまった戦争」、つまりマネジメント・ミスによる戦争である ― 要するにマネジメント・システムが壊れていたという単純な事実がわかる。これを前提として当時の事を検証する方がよいということも分かる。
  • その他、戦前期の日本の軍事行動は多くあるが、第一次世界大戦時の山東出兵、シベリア出兵など、どれも好機に乗ずるという意味では機会主義的かつ場当たり的な軍事行動だった — 現場は懸命に働いたが、得たものが少なく失ったものが多い。小生の田舎の方言でいう「キョロマ」がやることは全てがそんなものだ。

この程度のことは《仮説》として検証したいものだ。2番目と3番目のカテゴリーに属する戦争を止めるメカニズムを欠いていた所に戦前期日本の統治機構の大きな欠陥があった。このことと、その時代、その時代の経済的背景、社会的背景との相互関係を調べてみるのは、非常に面白そうだ。

ま、陳腐な問題意識だと思うが、メモしておきたい。

2020年10月18日日曜日

断想: 「価値観多様化」の行く末は?

 「多様化」の時代である。

「価値観多様化」が正しいという価値観も語られるようになった。

であれば、価値観多様化は認めない価値観もあるという理屈になる。そもそも「多様化」は一定限度まで容認可能だが、限界を超えた多様化は否定したいという価値観もありうるだろう。

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現在の社会では、内心の自由は保障されており、故に思想の自由もある。

しかし、価値観を言葉で表現して社会に訴えるという表現の自由は、そうして訴えた結果として社会を変えたいという欲求を併せ持っていることが多い。そもそも価値観をもつということは社会に自分の価値観を広めていきたい、影響を与えていきたいという行動につながることが多い。

とすれば、思想の自由は表現の自由を経由して行動の自由へと拡大することになる。「自由」は欲張りなのだ。そして、行動の自由は言うまでもなく認められてはおらず、どこかで「社会の規範」と正面衝突する。これもまた「自由の主張」がもたらす結果の一例である。

・・・上で「自由は欲張り」と書いた。そう、「欲張り」は資本主義経済で成功するための最大のキーファクターである。18世紀の市民社会到来のあと、自由資本主義の繁栄、自由と民主主義、イヤイヤ、自由・平等・博愛がオリジナルであった、資本主義経済と価値の共有と、この二つの次元は「欲張り」という悪徳ともいえる資質を仲立ちにして表裏一体の関係にある。この点は、いま現代社会に暮らす人々は理解した方がよいのかもしれない。世の中、決して綺麗ごとではないのである。大体、人間社会の本質が綺麗であるはずがない。

話しを戻そう。

いずれにせよ、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフがはまった「全てが許された知性」という罠のような存在はどこにもない。ヒトは誰でもどこかで制限された自由しかもたないのだ。

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もし価値観多様化が正しいと言うなら、「多様化」は間違いだという価値観に基づいて行動し始める集団もやがて誕生してくるだろう。

「価値観多様化」という価値観は非常にヴァルネラブル(Vulnerable)なのである。

価値観多様化を本当に認める社会にしたいなら、「ある種類の価値観は否定する」という価値観に立たなければならない。

結局、どの価値観は正しく、どの価値観は誤りかという不毛の神学論争に引きずり込まれる結果になる。「価値観」について議論することの不毛はそこで明らかになる。

「科学」が定着した社会はより早く不毛の議論を止めることが出来るだろう。観念はそもそも人間が創った人工的な言葉で、言葉以前のありのままの自然だけが意味のある存在である。

2020年10月17日土曜日

議論には建前があるが、政治が建前にしばられては機能しないというギャップ

日本学術会議騒動は当分の間は続くのであろうなあ、という予想が広まりつつある。

つまり、ある意味の「政治闘争」が進行しつつあるとみておいたほうがよさそうだ。一体、どことどこの闘争か?そもそもアカデミックな学術界と発足後1カ月の菅政権とが全面闘争するのだろうか?これは偶発か?にしても、「闘争するべき関係にあった」というのは非現実的な認識だ。それもあって何回か前の投稿では国鉄の「順法闘争」華やかなりし頃の思い出を書いて「デジャブ感」と標題をつけたわけである。やはりあの当時も結局は社会的力学によって問題が解決された。話し合いで問題解決できたのではなかった。

TVのワイドショーでは『この6名の方がなぜ任命拒否されたのかという理由はまだ政府から説明されておりません」と、おそらくフリをしているのだろうが、分かっていないかのような同じセリフを反復している。が、もうこの段階では国民の多くはウスウス、というよりマルっと分かってきているはずである。しかし、それをマスメディアは口にしない。なぜなら日本には建前があるからだ。

今日もカミさんと話をした:

カミさん: ほんとに拒否された人たち、なんでだろうね?

小生: そんなの決まってるヨ。

カミさん: 政府に反対したから?

小生: というより、共産党系の大物だからだよ。シンパも入っているみたいだけど、影響力のあるポストはもう与えないっていうメッセージじゃないかな。

カミさん: そうなの?

小生: 政府に反対しているのに任命された人もいるからネ。小者ならいいんだろう。そもそもこの件を大々的に問題視したのは共産党機関紙の『赤旗』だからネエ。

カミさん: ふう~~ん

小生: まあ見ててごらんヨ。(自らは中道だと言っているが)創価学会も応援している保守と共産党が応援する革新がガチンコでぶつかる力勝負が始まるかもしれないヨ。いま日本の隅々まで根を張って人を動員できるほどの組織的な勢力は(警察、税務署を除けば)宗教団体と共産党しかないからね。菅政権がどのくらい意識しているかは分からんけど。でも、安倍首相の頃から政府はかなり本気で共産党系の勢力を一掃しようと内心で決めていたんじゃないかなあ……。コロナの中で五輪を控えて過敏になっている時期でもあるし。口では「そうです」なんてとても言えないけどね。

カミさん: だって思想の自由があるでしょ。ひょっとすると大ごとだね。

小生: それは変わらないよ。思想は自由さ。やるかもしれないのは、政府の要職からは外していくってことで、何だかこれからそうなりそうな気配だなあ。マア、左と右は反対だけど、日本と韓国はそれほどは違わないってことかもネ。

これも政治のうちと言えば、確かにそうなのかもしれず、より大事なテーマは『なぜそんな時代になってきたか』だろう。「安倍政権があ・・・」ではない。「なぜ安倍政権が機能しえたのか」を議論しないといけない。日本社会の傾向は21世紀の入り口、ちょうど20年前と比べると、その変化は歴然としている。この社会的変化には背景、遠因、近因があるはずだ。

★ ★ ★

社会主義は現実には機能しない。これは歴史的に立証されてきた事実だ。ソ連の惨憺たる失敗や不平等拡大を何とも思わない中国共産党の(呆れた?)現状をみても明らかである。社会主義に夢はない。共産党に希望はない。にも拘わらず、イデオロギーとしての社会主義はなお残存している。今回のアメリカ大統領選挙戦でもその影というか、亜流が観察できたわけである。

多くの人は色々な社会問題を解決してほしいと願っている。だからと言って、大学進学率が50パーセントを超えるような社会で、経済的自由を享受している普通の人々を相手にして、左翼が右翼を打倒すれば一切が解決するなどという「革命史観」を語っても、普通の人は「なんのこっちゃ」としか反応しない。それが20世紀初めと100年後の現代との違いである。左翼は左翼でマルクスをもう一度読み直してリニューアルをするべきだと感じる。

こんなトレンドの中で共産党機関紙『赤旗』が今回の6名任命拒否をスクープして一大攻勢をかけてきたわけだが、これは来年の衆議院選挙を見据えたうえでの長期選挙戦の仕掛けではないかとも思われる ― でなければ部数減少に悩む『赤旗』のマーケティングである。やはり今回の騒動は共産党が仕掛けた「ロングスパート」であるかもしれず、だとすればその他野党は国会という前線で共産党の駒として使われるだけ、簡単に言えば、共産党に振り回されているのが哀れな現状かもしれない。共産党の応援なくして選挙を戦えないと言われる以上、それも仕方がない。これが実態かもしれない。

小生はこんな図式で(内心では面白がりながら)観ている。が、サテ、仕掛けた共産党が前面に出てきたとき、世間はどう動くだろうか。何しろこのご時世、共産党ですら増税には反対を唱え、筋からいえば主張するべき「大きな政府」と「福祉国家」はもうサッパリ諦めてしまったようである。そんな(堕落した?)極左勢力に魅力を感じる人がどの位いるだろう。「前衛」と自称する共産党ですら理論的政策論を捨て去ってしまったこの現状にこそ日本の有権者の悲哀がある。党創建の理念を忘れ今はただ時流に乗って権力のみを欲しているのではないか。まさかネ。と、そんな風に思っているのだ、な。


マ、任命拒否された6名の学者たちに政治意識はないのかもしれない。やはり学者の本分は政治闘争ではなく、真理の探究にある。学説の彫琢と立証が最優先でなければならない。これだけは確かである。ひょっとすると、朝鮮王朝初期に大義名分と節義に殉じた「死六臣」を想い起こさせるような歴史的存在として記憶される可能性もある。

政府などは相手にせず、政府のいかなる栄典、叙勲も辞退した福翁や漱石の心意気こそ実はイッチャン格好イイのである。任命してくれないことを悲憤慷慨するなど、どちらかと言えば醜態だと感じるのは小生だけだろうか。「血涙相和して数行下る」などという愁嘆場は見苦しい。やっぱり「死六臣」はちょっと無理かも・・・



2020年10月15日木曜日

「差別」について: 合理的議論を抑圧する二つの力は何か

 「差別」という言葉に過敏な世相である。「多様化」ならイイらしい。

同調圧力が高く、異分子を排除する傾向が強い状況の下で、最も激しい差別化が生じるという認識がある。だから「多様化」なのだ、と。違っているから損をするという状況は間違いだと、そんな発想になる。


小生が若い頃は、「意識統一」とか、「擦り合わせ」という用語が盛んに使われていたが、もはや隔世の感がある。いまビジネス現場の中間管理職 — この中間管理職というポジション自体が疑問視されているようだが ―で、「この四半期の目標について意識統一をしておこう」などと口にすれば、多分、猛烈な反発が若い社員から生じて炎上する次第になるのだろう。ただマア、「意識統一」ではなく「共有する」という言葉ならイイそうだから、であれば単なる流行語の変遷であるのかもしれない。

これほど「多様化」が叫ばれるのだから、もう「軍国主義」や「全体主義」が横行する時代は二度とやって来ないと思われる。


しかし・・・小生は偏屈であると同時に心配性でもあるのでメモしておきたい。

確かに「多様化」が進む社会は暮らしやすい。生きやすい。しかし、人を抑圧する力は社会の中に必ず生まれるし、存在する。その力が怖いという事情は永遠に変わらないだろう。それに関するメモだ。


実は、経営戦略のキーワードに「差別化」という言葉がある。ずいぶんイメージが悪くなったので、授業現場の担当者は苦労しているかもしれない。

いわゆる「差別反対」の差別はdiscriminationであり、「製品差別化」の差別はdifferentiationである。意味も用語も違うのだが、英語の辞書では確かにdifferentiationの所にdiscriminationという説明があったりする。ややこしい。

では経営学の製品差別化には人を差別する、排除するという意味合いが全くないのかといえば、実はあったりする。

というのは、製品差別化戦略とはコモディティ化を回避する経営戦略であり、他の製品と差別化されるが故に、そのブランドでは独占する。高い価格を設定することが出来る点に狙いがある。もっと低価格を設定すれば販売量を増やせるにもかかわらず高価格に設定する選択肢があるのは差別化されているからだ。高価格の方が結果としてマージンが増え、合計としての企業利益が増えることがあるのは簡単な数字例でも示せるほどだ。ただ、高価格が設定されると低価格を期待している顧客層は排除されてしまう。誰もがほしいブランド品はもっと低価格で本当は販売できるのである。しかし企業はそうはしない。だから欲しくても買えない人たちが出てくる。これは《正義》なのかという問いを発する人物はいつの時代にもいるであろう。これを《プライスアウト》と呼ぶ。経営者は自社の利益のため敢えて高い価格を設定して一部の潜在顧客を切り捨てるわけである。きつい言い方をすればこんな表現になる。「選択と集中」とも言えるし、「深堀り」とも言えるだろうが、要は「切り捨て」である。

イメージはずいぶん悪くなった。しかし、この製品差別化戦略はブランディング戦略であるともいえ、非常に合理性がある企業行動であって、世界のビジネススクールでは経営戦略の核心になっている。確かに合理的戦略であるのだが、《差別は悪、排除は悪》と、ここまで社会現象を倫理的にみる目線が流行してしまうと、合理的議論を職業にしている人は内心非常に困惑しているに違いない。


古来、合理的議論を妨害する力には二種類ある。それは地上の権力と天上の権力である。つまり、独裁的権力者あるいは理屈を超えた宗教感情である、な。

独裁的権力者は具体的にある人物の形をとる必要はない。理に適った考え方を抑圧する力を行使しようと考える人物(あるいは人物集団)は全て独裁的である。また、宗教感情といっても必ずしも教会や寺院に出入りする気持ちを指すわけではない。無批判に「これは悪い」という抑えがたい正義の感情にかられて他者を攻撃する人は、それはもう自覚することなくして、聖戦(イスラム教徒がいうジハド)に赴く戦士そのものなのである。

なにしろ中世のヨーロッパ・キリスト教社会では『同胞から利子をとることは悪である』とされていたのだから大変だった。有利子の金銭貸借という合理的経済サービスは、だからユダヤ教徒たちが金融業に従事することで提供されていた。ヨーロッパの反ユダヤ感情を形成した要因の一つは愛を説くキリスト教の教えである。


ずいぶん以前、今は京都に帰って行った同僚がいた。I氏と呼んでおこう。I氏は経済学者というより歴史学者であると小生は思っていたが、そのI氏と二人である夜小料理屋で長い時間を過ごしたことがある。その時、『20世紀は戦争の世紀でしたが、21世紀は宗教がカギになる100年になると思いませんか?』と聞いたことがある。そのとき、I氏は「そうかもしれんね」と応える程度であったが、独裁者と宗教感情と、21世紀を闇の世紀にするかもしれない要素は既に姿を現し始めている。そんな気配も感じるのだ、な。


人類の敵はすべて最初は自らを味方のような姿にかえて現れるものだ、という名句をどこかでみたことがある。剣呑、剣呑。

愛や正義感が最初の優しい姿をかなぐりすて、醜悪なる「反・合理主義」に化して、人類に多大の害悪を与えることがないことを祈る。

2020年10月13日火曜日

一言メモ: 非正規社員の賞与・退職金不支給に合理性はあるのか

 新型コロナ感染拡大で全国の学校、特に大学の理工系学部で徴収される施設充実費に疑問が寄せられるようになったのだが、それに対して大学側は『施設充実費は当該学期中の施設使用に対する使用料として徴収するものではなく、長期的な施設拡充計画に充当するため一定金額を均一に負担していただくためにお願いしているものである。故に、コロナウイルス感染予防のためキャンパスを閉鎖し、授業を遠隔化する場合においても施設充実費納入の必要性は変わらない』と、大体このような説明を行ったそうである。

対面授業が中止されて実験も実習も行われないにも拘わらず、施設充実費を請求される保護者の立場にたってみれば、まことに釈然としないが、理屈はその通りであろうと小生にも思われる。

そして、このロジックと、本日の最高裁判決で示された『非正規従業員に対する賞与、退職金不支給が不合理な格差にはあたらない』という判断と、何となく通底しているように感じられるのは小生だけだろうか。

★ ★ ★

なるほど毎日毎日の日常業務に正規社員と非正規社員とで違いはないケースは多い。しかし、観察可能な業務の外形をもって「正規社員と非正規社員が同一業務に従事している」と結論するのは正しくはない。

何を担当しているかという職務範囲は、日常的に現に行われている業務内容を観察するだけではなく、あらゆる可能性の下で担当することが予想される全ての業務と責任を考慮に含むべきである。

ルーティンワークへの従事だけではなく、緊急時への対応、トラブル発生時の責任、期待されている超過勤務、期待されているスキルの向上等々、たとえ日常的に従事している業務内容に違いが観察されなくとも、可能性のある色々な状況の下で要求されるであろう業務負荷の期待値に違いがあるとすれば、「同一労働」とは言えずあらかじめ支給する給与などに差を設けるとしても、理にかなった格差たりうる。

むしろ、経験と能力が十分で、より高い業務責任と給与を希望する意欲のある非正規従業員に正規化の道を積極的に開くことが一層重要であって、こちらのほうを政策論としては強調するべきだろう。そして、この方向を前に進めるには正規社員を過剰に保護している制度を改める、つまり解雇規制を緩和することが必要だ。正規社員は不安だろうが、そうした方が雇用側、被雇用側双方にとってフェアで納得できる社内環境を実現できるはずだ。現在でも正規社員として入社する若者世代の3分の1程度は短期間のうちに辞めていく。辞めるより非正規従業員に移行すれば働きたいように自由に働けるチャンスがある。成長して気が変われば同じ会社の正規職に戻るか、別の会社の正規職を探せばよい。自分の人生である。多様な人生航路をその人その人が選択できるように支える政策がより生き易い世の中をつくることにもなるだろう。

「働き方改革」の最終的目標は、残業時間を減らしたり、休暇をとりやすくしたり、テレワーク等の多様な勤務形態を導入するという外形的なことより(これらも無意味ではないが)、理に適うことからもたらされる「納得感」を広げることが必須の要素であるはずだ ― もちろん給与はもらう側にとっては多いに越したことはなく、払う側にとっては少ないに越したことはない。技能レベルごとの需要供給の関係で給与の相場が決まってくるメカニズムそのものは受け入れるしかない理屈ではあろうが、それでも理屈に合わない慣行は日本の職場に余りにも多いはずである。

2020年10月11日日曜日

動学的不整合: ここにもいる「利口バカ」

 日本学術会議の会員を推薦制に変更する以前の状態、つまり各学会ごとの公選に基づいて学術会議会員を決定していた状態は、総理大臣が公務員を任命するという権限を冒していたが故に、違憲状態であったのか、と。こんな質問が出されたようだ。内閣法制局はそれに対してシドロモドロであったそうである。

う~ん、こんな質問が国会の委員会で出れば、やはりどう回答すればいいか分からんだろうネエ、と。担当者には同情したいところだ。

理屈で言えば《違憲状態》であったと言うしかないだろう。『ただ当時の人々はこの決め方は違憲であるとは考えなかった』というしか解釈のしようがないだろう。というか、問題の本質は『なぜ超憲法的な行政組織が日本政府の足元に設置されていたのか』という問いかけにある。

★ ★ ★

それにしても、誰かは存ぜぬが、頭はイイがこんな思考回路でしか物事を考えないから肝心のアウトプットがさっぱり出てこないのだろうなあ(もし実績があるならば失礼の段をお詫びします)と、そう思ったりしている。

そもそも『動学的不整合』という状態はしばしば発生することである。

個人も政府も何年かにわたる見通しの下で『現時点ではこのように意思決定しておくのが最適である』と、そのような行動原理で一定の制約下でとるべき行動を決めるものである。いわゆる《動学的最適化》である。

そして、そのとおりに行動をして、事態が推移し、過去においては将来のある時点に到達するとする。その時点にたって、残りの期間にとるべき行動について意思決定を行うとする。当然、最初の計画どおりの行動を続けていけばよい、そう考えるのが筋であろう。しかし、その時点になってから残りの期間を対象に行動計画を決めるとすると、必ずしも当初の計画を続けるのがベストであるとは限らない。

こうなるのであったら、最初にあのような行動をとるのでなかった。ここに後悔が生じる。・・・誰にとっても人生とはそんなものであろう。まして多人数が暮らす社会なら一層そうであり、政治もまた同じである。だから歴史は面白くもあり難しいのだ。過去のことを問題にするなら、現在の視点と過去の視点を併せ持って複眼的に議論をしなければ、ロクな思考にならないのだ。

時間を通して、一貫したロジックが適用されるべきであると思い込むのは非常に危険である。エネルギー源として日本も原子力を選ぼうと意思決定をしたのはその時点においては合理的であり最適であった。過去において最適であったその原子力をいまは廃止しようと考えるとしても決して間違いではないのだ。たとえ福一原発事故がなかったとしても、だ。

意思決定は現在から将来にかけて行うものであって、『過去においてはこんな理屈であったのだから、同じ理屈でこれからも行くのが正しい』と、意地悪ではなく、本気でこんな議論をする御仁がいるとすれば、小生の田舎の方言でいうなら(文字通り)完全なる《利口バカ》である。

いや上の御仁の言っていることは逆であった。『これは違憲だからという理由でやり方を変えるなら、あの頃やっていたことも違憲だったということですよね』という論法だ。まったくネエ、ならば『いまの憲法は平和主義を是としている。軍事活動は違憲である。とすれば、戦前期は違憲であった。間違った政治をしていた。この認識は正しいですか?誤りですか?』というのはどうだろう。どう答えますか?答えにくいでしょう。困るでしょう。こんな阿保な発言をする人はまさかおるまいが、ヒトは誰でもどんな屁理屈であってもひねり出すものである。三流の法廷ミステリーのような話しは小説の中だけにとどめてほしいものだ。


2020年10月10日土曜日

ホンノ一言の追加: 「学術会議騒動」の今後の進行を予測する

 前回の「ホンノ一言」を補足したい。


標題だが、まずは格下の『独立行政法人に移行する』という線で片を付けようと政府は考えるのではないかと予想する。国立大学はすべて国立大学法人に移行し、「文部教官」は「文部教員」に呼び名が変わっている。学術会議も同じであっておかしくはない。業務内容にも大幅変更が加えられると予想する。


それに対して、学術会議側に剛直の士がいれば、これを機会に民間の独立団体として再生しようという提案が出るだろう。もしそんな人がいれば…だが。


しかし、純民間団体になれば、政府の科学研究費配分に影響力を行使することが困難になる可能性がある。特に多額の予算を必要とする実験系自然科学者は純民間団体への移行に不安を感じるかもしれない。あるいは学術会議があってこそ潤沢な研究費がある意味で保障されていた研究テーマがあるのかもしれない。もしあれば、純民間団体への移行には反対する動機をもつだろう。


文章を書いたり計算をしたり出来ればそれで学問ができる分野とどうしてもカネが要る分野と、水と油のような二つの学問分野の利害が対立し、分裂する可能性もある。現在でも数学者はカネに無頓着でラディカルな人が多いように感じるが、物理学者は理念よりは経験重視で(特に実験系の人は)カネの為なら長いものに巻かれるのも仕方がないと割り切る傾向がある ― という人もおり、これは教授会の席上で小生が感じてきた大雑把な印象とも合っている。印象ということでいえば、理念を重視する憲法学や経済学の純粋理論で仕事をしている方には反権力で筋を通す(=融通がきかない)人をしばしば見るのだが、データやコンピューター資源を必要とする実証系の人は人文、社会科学分野であっても、わりと(?)交渉上手である ― これまた教授会でずっと受けてきた印象である。


本当は、科学即ち学問ではなく、リベラルアーツも含めた総合的な学識がその国の文化水準を決定する、小生もそう考えているのだが、現在の政府は「実学重視」、というより「実学偏重」の兆候を示し始めている。


明治初期の実学重視が儒学否定と表裏一体であったのと同様、いま技術開発で世界に後れをとりつつある日本が、人文軽視・科学重視という路線を徹底するとしても小生は驚かない。政府の危機感はおそらく広く経済界の危機感とも重なり合っているのである。その危機感は、一部、自然科学分野の研究者でも共有されているように感じる。


こんな風に今後の進展を予想しては(正直)楽しんでいるのであるが、いずれにしても極めて厳格な審査の上はじめて入会が認められる「日本学士院」の存在には、今回は手が付けられないのだろうと思う。文字通りの「沈黙せるアカデミア」になっている現状の是非もあるし、戦前以来の伝統である「官学の拠点」という香りを良しとするかもあるのだが。



2020年10月9日金曜日

ホンノ一言: 順法闘争と日本学術会議のデジャブ感

 政府vs日本学術会議の紛争も収束までにはまだ暫くかかりそうである。

たかが200名少々の会員のそのまた半数を交替する人事に過ぎないが、背後には国内のリベラル派・社会主義者・共産主義者が反権力集団のマスとして存在しているのが大学界、言論界である。

あたかも織田軍団vs石山本願寺の戦闘を観るようでもある ― 任命拒否された6名の方々、関係者として解決に努力している方々はまるで修羅場をくぐっているようであろうし、実にお気の毒だと思うのであるが。

例えは悪いのだが、小生が中学か高校に在学している時だと記憶しているのだが、当時の国鉄の《順法闘争》で《スト権スト》が呼号され、交通ゼネストが計画されたことがある。その頃は、余りにも度々「順法闘争」が行われ、前後関係を忘れたところもあるが、首都圏の交通が麻痺状態に陥る中で埼玉県上尾駅では怒った利用客が集団で打ち壊しをするなど暴動事件が発生したこともある。「スト権スト」による混乱は1週間程度続いただろうか。労働組合トップと運輸大臣(海部俊樹氏だったと記憶しているが)とがTV討論したこともあったかと思う。社会は騒然となった。公共の社会インフラを私物化して、首都圏住民の不便を人質にとるという戦術に政府は激怒した。おそらく政府内で国労・動労が支配する国鉄という組織を解体しようという方針が現実的なものとして意識されたのはこの時ではなかったかと、今にして思うのだ、な。そして、中曽根政権になってから周到な準備を経て、国鉄、電電公社、専売公社の3公社は民営化された。特に国鉄は地域別JRに分割されバラバラになった。単体では採算性が不安視された北海道も「JR北海道」として独立した。民営化後に採用された組合員は北海道では半数もいなかった。日本学術会議会員が各学会による公選制から政府による任命制に移行したのも中曽根政権の時であったはずだ。任命制への移行に関する当時の中曽根首相の答弁がいま法解釈の根拠として注目されているのは皮肉なことである。

が、それも巨視的に達観すれば、仕方がないことなのかもしれない。一連の行為は一連の結果として結局は収束するものである。『誰が何を意図して…』という問いかけは歴史全体の中ではノイズのようなものだ。たとえナポレオンであっても、レーニンであっても、意図のとおりに物事が進行したことなどないだろう。それが正に歴史ではないだろうか。

学説は内心の自由であり、それは保証されているが、それを発言、行動として社会関係の下で主張すれば、必然的に何かの社会的力が反作用として生まれてくる。それも予想の範囲に含めて、行動計画を練り上げる姿勢が道を啓く人には不可欠ということだ。

確かに政府の「やり口」には「情け無用」という側面があるのは小生も同感だが、日本学術会議の将来は決して明るいものではないと予想する。何と言っても、同会議は政府機関であって、独立した民間の団体ではないからだ。子会社が親会社と正面から対立衝突して子会社の言い分がとおり、親会社の体制が覆るとすれば、それは「正しい者が勝つ」という状態ではなく、「ガバナンスが出来ていない」という状態である。21世紀の今日、「革命史観」に現実妥当性はない。

2020年10月8日木曜日

一言メモ: 「官邸の人事介入」がなぜいかがわしく感じられるのか?

 「官邸の人事介入」という言葉がよく使われる。

小生が小役人をしていた頃は、こんな言葉はなかった。なぜなら、各省庁の事務次官以下の人事はその省庁の大臣に任命権があり、総理大臣であっても省庁内部の官僚人事について直接に人事権を行使することはできなかったからだ。

史上有名な「ロッキード裁判」において当時の総理大臣である田中角栄が運輸省の業務を指揮する「職務権限」があったかどうかが争われたが、人事権もまたほぼ同様の図式であった。総理大臣が、自ら評価する官僚を事務次官に登用したいと考えても、直接にその事務次官を任命する権限はなかった。権限はなかったのだが、閣僚に対する任免権を通して、間接的に官僚の人事に介入することは可能であった。実際、以前の体制においても例えば田中派に近い大蔵官僚と福田派に近い大蔵官僚が事務次官の座をめぐって熾烈な代理戦争をしたことがある。

これが「政治」というものであるが、この政治を「いかがわしい」と感じるなら、現時点の制度の下でも総理大臣なり、官房長官なりが、官僚人事を左右するという状態を「やっぱり、いかがわしい」と感じてしまう。そんな感情が今でも残っているかもしれない。

要するに、官僚人事に政治が介入することは、本当に「いかがわしい」かどうかなのだが、だとすると、この感情自体が時代遅れである。

やはり官僚は学力試験を通して採用された専門的職業人の集団である。職業利益を共有している人間集団が、国民の利益を最優先として行動できるかという点では一定の限界がある。「政治主導」は「政治家主導」にすぎないが、それでも日本の戦後政治を一段レベルアップした一里塚であったと小生も思う。

***

ただ、内閣人事局が内閣官房に設置され、内閣官房長官の下で機能している今日、各省庁の長である大臣の人事権限と、内閣人事局が行使する人事権限と、どう関係しているのかがよく分からない。分かりやすく整理されていない。

たとえば、法務省の官僚である検察官の人事は、法務大臣が行使する人事権限に基づいて行われているのか、内閣人事局を差配する官房長官なり、その上司である総理大臣の意向によって決まっているのか、どうもそこが分からない。分からないから「いかがわしい」。不当な「介入」があったのではないか。法に違反する行為があったのではないか?権限には責任が伴うが、責任をを負うことなくコッソリと囁くことで影響力を行使する「偉い人」が奥にいるのではないか?エッ、ほんとに?そんなこと、許されるの?「許される!」、「エッ?」

とマア、こんな感覚が広く世間ににじみ出して来ている。汚れのような感覚を覚える。腐臭がする。そういうことなのか?

とすれば、やはりこれも政権トップについていた人達の文字通りの「不徳の致すところ」であったのだろう。日本人が潔癖であることは歴史を通して多くの文献に記されているくらいだ。

***

もう「もたない」状態に追い込まれているのが内閣人事局の現在の位置づけであろうと思われる。

修正しなければ、高級官僚の人事の季節がやって来るたびに「官邸の介入」が取りざたされるだろう。その度に、マスメディアがワイドショーのネタにする。だから内閣支持率が気になる。こんな状態では日本の政治には最初からペナルティを課されるようなものであり機能不全になる確率が上がるだけだ。とはいえ、「娯楽性の追求を目的として政治的テーマで番組編成をすることを禁ずる」などと主張するのは論外だ。結局、損をするのは日本人全体である。

どんな風に治していくのだろうか?

そもそも「内閣人事局」という行政組織が総理大臣の足元である内閣官房に配置されている事実自体が、中選挙区から小選挙区への選挙制度改革と表裏一体の関係にあると小生は思っている。中選挙区制度では自民党内で有力な派閥が複数割拠するのが自然な状態であった。時には「党高政低」と揶揄される状態で、時の総裁、総理大臣が内閣人事局を通して高級官僚を一元管理するなど、できる理屈があったはずがない。それが小選挙区になって一変した。設置された内閣人事局が骨抜きにされることも、廃止されることもなく、ずっと機能してきたのは、「総理一強」と言われる状況が到来したからであって、それ以外に理由はない。逆に言えば、「総理一強」の状態が消失すれば、内閣人事局が機能する基盤は失われる。小泉政権時に強力に機能した「経済財政諮問会議」のポジションとどこか似ているように感じるのは小生だけだろうか。

日本の政治は — 会社でも役所でも学校でも全ての業務運営について言えるような気もするが ―「属人的」に決まっていることが多く、人が変わればやり方も変わる。システムも変わる。こういうことかもしれんネエと思って興味津々でいるところだ。

ほとんどの問題はヒトの問題か、モノの問題か、設備の問題か、でなければ方法の問題である。ヒトを変えても同じ問題が続くなら、それはヒト以外に原因がある。人事はモノや設備の問題ではない。とすれば、方法の問題だ。つまり組織の問題、手続きの問題である。品質管理(QC)で「四つのM」として知られているフレームワークはもはや常識の範囲だろう。

2020年10月7日水曜日

前回の補足: マスメディアは一般論より視聴率を優先するのか?

 総理大臣による学術会議の任命拒否騒動。案の定、尾を引いていきそうな気配になってきた。

尾を引くとすれば、それは野党が政府攻撃の材料にするからでもあるが、もっと本質的な理由もあるからだと考えなければならない。大体、解決に手間取り、長引く問題には、構造的な原因がある。

そもそも学術会議の行動履歴、内部構造などに関して、世間が周知するよりは根の深い問題が潜在しているからではないか?単なる言葉のやりとり、その場の物言いで事態が深刻化するというのはあり得ないものである。また、もし単なる言葉のやりとりで険悪化するのであれば、携帯か何かで話をすれば済んでしまう話である。根の深い原因があるとすれば、何があるのだろうか?

こう考えなければならない。そして、こう考える方が本当は遥かに「面白い」はずなのだ。

***

政府と学術会議とをめぐっては、歴史的かつ微妙な関係性がある。それだけではなく、学問世界における勢力分布、ヘゲモニー、科学研究費の配分への影響力行使までを含めれば、問題は今回の学術会議騒動をはるかに超える、深い問題につながっていくのは誰もが想像できるわけだ。

大体、前々会長は次期会員推薦名簿のドラフトを首相官邸、内閣府と擦り合わせていたにも関わらず、前会長は擦り合わせ不必要との判断から推薦名簿を直球勝負のごとくぶつけたわけである。前会長は9月末で会長を退任し、新会長は10月に就任し、まったくお気の毒なことである。前々会長は東大、前会長は京大、今月に就任した現会長は東大である。

平成になってから、もう何人もの学者が学術会議の会長に就任したが、前会長を除けば全員が東大から出ている。

フ~ム、なにか見えてくるような・・・と想像するのは下世話な井戸端会議である。

***

TV主導のマスメディアは、

一般的な問題はありましょうが、これはマア別問題でして、まずは今回なぜこの6名の方々が任命拒否されたのか?どこが問題だったのでしょう?この話題が先だと思うんです。

こんなシツラエでワイドショーを作っている。

こんな話を続ければ、そのうちこの6名についてあらゆる憶測記事が書かれ、ひどい表現をすればそれこそ身ぐるみ剥ぎ取られるような記事が週刊誌に掲載される。目に見えるようである。そして、当人たちには何の責任もないにもかかわらず、研究者としても傷つくのである。

本質的には今回の6名に何の責任もないと、小生は6名のうち一部分しか熟知していないが、それだけで「本人たちには何の責任もない」と確信できるのだが、任命拒否という政治的騒動に巻き込まれた。結果としてTV業界のプロデューサーは視聴率向上の格好の素材が得られた。番組編成現場は喜びを禁じ得ないはずである。

解決するには、今回の問題を一般的な観点から見直し、問題発生のメカニズムを把握することが第一である。しかし、関係のない視聴者の「下世話な」関心を刺激するには、拒否された6名が一体どんな人物であるのか、何をやらかした人物なのか、こちらに焦点を絞る方が「面白い」のだ。「面白い」、残念ながらただそれだけなのであろう。

***

マスメディアは、伝えるべき重要な情報を選んでいるのではなく、視聴率が上がる情報を選んでいる。伝えるべき情報とは社会の問題解決をはかるために周知させた方がよい情報である。それに対して、視聴率が上がる情報とは多人数が面白いと感じる情報だ。この二つは同じではない点に営利を目的とするマスメディア産業の限界がある。

「不十分な情報」は自由な市場が失敗する幾つかの理由の一つ、というのは経済学のイロハである。情報番組が想定する視聴者とは、当たり前だが「情報の不十分な人々」である。故に、事情をよく知らない、情報の受け手である視聴者が求めるものを提供していては、社会的に望ましい状態にはならないわけである。ところが、スポンサー企業は、最大多数の視聴者の関心を刺激してほしいと願うのだ。ここに、スポンサーがメディア企業を金銭面で支えるというビジネスモデルの社会的欠陥がある。

もはや報道ではない。能力も実績もある得難い人材を多人数のエンターテインメントのために消費する活動になっている。小生にはそう見える。

2020年10月4日日曜日

一言メモ: 「日本学術会議?」辺りの反応でいいのでは

 本日投稿の趣旨は標題に尽きる。

「日本学士院」の会員となれば年金が支給されるので有難く存ずるが、学術会議の方は正直関心外であった。会員は内部推薦で任期が6年であるなどという事情は、(恥ずかしながら)初めて知ったわけである。

「国立アカデミー」といえば、「日本学士院」のことであると今の今までそう思ってきた。「日本学術会議?」が率直な気持ちである。

***

日本学士院のほうは、古くは福沢諭吉ほか文明開化の指導者が開設した「明六社」に淵源を有しており、そもそもは政府から独立したアカデミーであった。その学士院が、いつの間にか功成り名遂げた「斯界の大家」が老後を送る機関になり果ててきた歴史には、なにか物寂しい心持ちを抱いてきた。

現時点の会員を一覧すると、なるほど「大御所」と認められる大先生の名前が並んでいる。ただ、小生は三田の経済学部で計量経済学を学んで研究生活を始めたので、この分野から選出された学士院会員がほとんどいないのは、些か淋しい思いがする。とはいえ、学士院のような国立アカデミーになれば、あらゆる自然科学、社会科学、人文分野を網羅した全ての学問分野の名誉職ともなるので、新興の学問分野はどうしても少数になるのであろう、その意味では、学問世界においても勢力分布がものをいう、政治的要素はゼロではない、そういうことであろうと思う。

さて、今回は「日本学術会議」の方で内部推薦の一部が却下され、総理大臣の正式任命が得られなかったというものだ。当然ながら、反・保守陣営(=リベラル派?共産主義者?)は猛反発している。小生も最初の印象は「?」というものであった。しかし、「学問の自由の侵害」、「独裁者である菅総理の本質」等々という急速にボルテージのあがる批判をみるに至ると、思わず失笑がもれたりもするのだ、な。

小生の若い時分を振り返ると(これ自体が老化現象を象徴する表現だが)、「沖縄デー」の夜の騒然とした新宿駅前、あさま山荘銃撃戦、北海道庁爆破事件等々の騒乱が思い出され、ここ最近に見られるこの程度の政府批判はマアどうでもよく、穏やかで素直な若い人、体制順応的な4、50代という概括的イメージは変わらないネエと感じたりもする。変わらない日常の情景の中では、政府批判が大いに盛り上がっている、そこが面白い。「突然炎のごとく」という往年の名画があったが、どこまで燃え広がるかこの炎、というわけだ。

***

しかしネエ、大体、政府が育成する「国立アカデミー」などはこんなものではないだろうか?

そもそも、政府に直言することをはばからない硬骨の学者は在野にあってこそ輝きを増すというものだ。

韓国の『反日種族主義』は日韓両国で結構売れ行きを伸ばしたが、著者である李栄薫、金洛年、金容三、朱益鐘、鄭安基、李宇衍の各氏は、まさか自分たちが国立アカデミー(翰林院と呼ぶべきか)の会員に推薦され、現政権から任命してもらえるとは、いくら何でも考えてはいないだろう。名誉どころか、著者たちは国内から非難中傷の標的となったり、名誉棄損で提訴されたりと、韓国内で大変な難儀を蒙っている。しかし、これらの事実をもって韓国では「研究の自由」がないとは小生には思えない。逆に、立腹した公衆が著者たちに抗議をする「表現の自由」を尊重するべきだろうと思う。「研究の自由」とは、あらかじめ政府から法的に、金銭面で、かつ心理面で保護してもらい享受するものではなく、自らがさきに行動し結果として貫いていくものではないだろうか。

19世紀終盤のパリでモネ、ルノワール、ピサロなど新進の画家が「印象派」を立ち上げたが、この「印象派」という呼称は自ら名乗ったわけではなかった。当時、フランス美術界を支配していた「芸術アカデミー」(Académie des Beaux-Arts:アカデミー・ド・ボザール)が主催する展覧会「サロン・ド・パリ」に何度も落選し続けたことに腹を立てた画家達が「審査の偏り」を非難し、公式のサロンに対抗して「落選展」を開催した。それが「第1回印象派展」にまで発展した。「印象派」という呼称はモネの作品「印象・日の出」に由来している。新進の印象派の画家たちが新しいフランス美術を創造し、その後の発展の導火線ともなり、現在ではフランスの宝となっているのは、周知のとおりである。

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政府機関でもある国立アカデミー内部で「親政府派」と「反政府派」の派閥対立が激化すれば、政府がそれを喜ばないのは当たり前である。政府機関内部で反政府的活動が目立つようになれば政府中枢が怒りを覚えるのは当たり前であろう。「国立アカデミー」が次第に親政府的になっていくのは組織の宿命である。

現行憲法がある限り学問の自由は制度として保障されている。理念に基づいた政府批判を主張する場合、主張する場として「日本学術会議」は適切な場ではあるまい。特定の価値判断に立つことなく科学的かつ客観的な指針を示すことが組織の使命であろうと思われる。憲法も一つの理念だ。であれば護憲もまた一つの理念である。たとえ「護憲」であれ特定の理念を是とする主張は価値の主張であり、科学的研究にはあたらないと小生には思える ― 何しろデータ分析でメシをくってきた身であるので。自らが正しいと信じる理念、つまり特定の思想を展開するのであれば政府とは距離を置き適切な場を自ら設立するのが本筋だろう。政府から独立した新組織の方に実績も能力もある研究者が集結する可能性は大いにあるのではないかと小生は思う。学問なり、研究なり、知的活動とは本来そういうものではないか。

マア、「日本科学会議」ではなく、「日本学術会議」であるので倫理、法律、歴史、文学等々、価値判断を本質的に含んでいる学問分野が含まれている。故に、組織丸ごとどこか「ごった煮文化鍋」になっている印象もあるのだが、これも一つのありようなのだろう。が、少なくとも「科学アカデミー」、「社会文化アカデミー」、「芸術アカデミー」、つまり《真・善・美》という知の普遍的価値に応じた組織編成に移行するのが自然であるような気もする。そして政府は、日本経済の現状からしておそらく「科学アカデミー」の意見を聴きたいのだろうと思われる。それならそれで、法改正をするなりして、政策を進めていけばよい。それも民主主義であろう。

要するに、今回の騒動は《運営の不備》に原因がある。これだけは言えるようだ。というか、行政面で発生する問題の多くは、ヒトやモノの問題ではなく、方法の問題、組織構成の問題であると思っている。

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すべて政府お抱えの組織は政府の色に染まるものである。政府の枠内に言動を制約されるものである。だから福沢諭吉は一切の名誉・栄典は固辞した。夏目漱石も文部省による文学博士授与を辞退した。ジョン・レノンも授与された勲章を王室に返納したのであった。

当初の「明六社」が、政府お抱えの「帝国学士院」となり、学士院院長のポストがほぼ常に東大出身者で独占されるに至った学士院の歴史を振り返れば、現在の日本学術会議が置かれた状況も「さもあろう」というもので、正直なところ「怪しからん」などと憤慨する気持ちにはならない。

「怪しからん」というなら、何から何までみな怪しからんだろう。

今回のことは、そんなものである、と言っておけばよいのではないか。


2020年10月3日土曜日

『なにも悪くはない、愚かなのだ』という見方

新型コロナ感染拡大で日本中が政府ともどもオロオロと狼狽しているときに『韓国に感染拡大の防止策を教えてもらえばいいのでは』とか、『韓国にPCR検査支援を依頼すれば』などと言うと、嫌な顔をされたりする。

定額給付金支給で露見した日本のデジタル化の遅れ。遅れを取り戻すには、細かい反論をシノゴノ述べず、『韓国の真似をすればいいのでは』などと言うと、酷くバッシングをされて、「ここにもいるヨ」などとささやかれたりする。

こんな傾向が近年の日本社会で非常に拡大している感覚を実はもっている。


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すべて日本社会の「見栄」であって、「虚栄」であると思う。

こう言うと、倫理的な問題指摘だと解釈して、「べつに見栄は悪くないと思います」、「虚栄のどこが悪いんですか」と、そんなパターンの反論が余りにも多く、一般的に観察されるようになった。なにも「善いか悪いか」という倫理の話しをしているわけじゃあないのに…。これもまた「倫理意識過剰」の現代を象徴しているのだろう。なにしろ「国家公務員倫理規定」などが公的に定められている時代である。何かを議論すると、それがそのまま倫理の話しにされてしまう時代だ。

それほど「善いか、悪いか」が気になるのだろうか?大事な事なのだろうか?

広い世間では「アナログ志向って悪いことなんですか」、「マイナンバーカード普及率が低いのは悪いことなんですか」、「現金を信じることは悪いことなんでしょうか」と、こんな機械的表現がまるでルーティンのように多くの人の口の端にのぼっているのだろう。だとすれば、これまた最近のボキャ貧現象を象徴する話法ではある。


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何度か投稿しているが、そもそも善と悪との線引きなど不可能だと小生は思っている。善と悪は人間社会が創り出した言葉であり分類のための符号である。自然には存在しない。「〇〇は悪いんですか」という問いかけは、「神様はいるんでしょうか」という質問にも似て、客観的な実在世界を観察して実証しようがない問題である。カントはそれでも実践理性を位置づけて倫理もまた客観的実在であると議論したが、小生はそこは怪しいと思っている。

ヒトが物の世界の中で生きている限り、ヒトの内心はヒトが創った世界で「真実」とは違う。人がつかう「言葉」は、その言葉を使う人々の間に興奮を一時的にもたらすことは可能かもしれないが、ウソだと分かれば無に帰する。力をもつのは「真実」だけである。サルが言葉を使うならその言葉はサルの間でのみ意味をもつ。サルの言葉が力を持つならそれは言葉の中に「真実」が含まれるときだけである。だから、小生は『政治で大事なのは言葉でなく権力である』と考える立場にいる。

話しが戻るが、『〇〇は悪いことなんですか』という問いかけに対する回答は、『別に悪くはないサ、いいか悪いかはどうでもいい。ただ愚かである』。頑固であっても悪くはない。知らなくとも悪くはない、弱くても悪くはない、遅くても悪くはない、貧困でも金持ちでも悪くはない、ウソは悪いと人は言うが誰でも嘘はついているだろう。他力本願の阿弥陀信仰の世界では、人はすべてそもそも悪い存在であるという真実の認識から話が始まる。

悪くはない。ただゝ「愚か」なのだ。そう言えることは世の中に多い。


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『なぜ私たちが愚かで間抜けだと?どういうことですか?』。善悪ではなく真偽を考える真っ当な議論はここからスタートする。しかし、こんなやり取りをマスメディアでお目にかかったことは一度もない。同じ日本人から言われれば立腹して「そうかよ!」と言うことを、外国人に指摘されれば真面目に考える。小生も当てはまる。狭量な日本人の特性がここにもある。諦めにも情けなさにも似た感覚で小生はそう思うことが多い。


Die Wahrheit ist das Leben des Forschens. (真実は研究の命である)

ずっと昔、経済学者・大内兵衛の『経済学50年』を読んだことがあった。師の高野岩三郎から著者に贈られた色紙の写真が掲載されていた。その言葉を引用したのだが、不思議に今まで忘れずに来た。

研究の生命は学説や論文を発表することではない。「真理」が命である。問題指摘も提案も大事である。他にも大事な事は色々ある。しかし、真理を伝えたい、なぜそれが真理であるのか、厳しい実証を愛する心の余裕がなければ、どんな言葉も空っぽであると言わざるを得ない。

研究だけではなく、日常生活でも大事な事ではないだろうか。真実は残酷であることもあるが、真実を知ったうえでの行動だけが結果に結びつく。この理屈だけは時代を超えて変わらない。


2020年10月1日木曜日

断想: 思想の自由と表現の自由は全くの別物だ

こんなことを考えた。


キリスト教では「口から出るものが人を汚す」とされている。

7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、

8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。

11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。

出所:『新約聖書、マタイによる福音書』第15章 


儒教では『巧言令色すくないかな仁』と教えられている。

孔子、巧言令色を仁に鮮しと為し、剛毅木訥を仁に近しと為し、克己復礼を仁と為す。

表面を飾るは敬ならず、故に礼ならず、己を忘れて外面に馳す者、いづくんぞ己に克つを得んや。

出所:『東洋・西洋の古典書籍』


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真実を語ることが現代ほど正当に評価されず、ウソを語る自由が現代ほど守られている時代は、歴史上ほとんどなかったのかもしれない。


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行動の完全な自由は認められていない。当たり前だ。一部の行動は犯罪となり刑罰の対象になる。他方、思想の自由は内心の自由である。思想の自由を冒すことは人格の尊厳を犯すことになる。従って、いかなる理由であれ内心の自由に立ち入ることは不可である。では表現の自由はどうか。表現とは内心の発露と社会関係との境界線上の行為である。小生は、表現とは外部に向けられた行動に該当すると考えているので、行動の自由が制限されるなら表現もまた制限されることがあってもよい。そう考える立場にいる。

現にメディア企業は100パーセントの表現の自由を主張せず、一部の表現を自粛している。表現の完全な自由は現実にはない。

ある自由を認めるかどうかは、それがもたらす結果に基づいて判断する。つまり功利主義の観点から是非が決められている。現にそうなっている。判断する主体が異なれば判断の内容も変わる。政治だと言えばその通りだ。結局、その社会で認められる自由の範囲は政治によって決まるという命題が出てくる。政治が多元的なら自由の範囲も多元的になる。であれば、その社会の外側にいる者が外側の判断によって内側の是非を論じても仕方がない。そこには「対称律」が当てはまる。お互い様である。そんな「系」も得られそうだ。