2026年4月1日水曜日

断想: エビデンスねえ~~~「真理」にエビデンスは要りますかという話し

今日は細かくて詰まらない話だ。

SmartNewsは広範囲の報道情報を集めるポータルサイトとしてとても役に立つ。というのは、Yahoo! JAPANニュースはスポンサー記事が増えすぎて、その広告過剰には辟易しているのだ。

情報提供側の経営目的は広告を流すことにあり、目的は報道ではない。この理屈は分かるが、ユーザー側の目的は情報にある。ここに報道ビジネスの根本的矛盾があるのだが、自分で情報を得る手間が惜しいなら他にイイ方法があるわけではない。

で、オヤッと思ったのが次の下り:

田久保・元伊東市長の私文書偽造罪、要するに偽の卒業証書を市会議員に公然と見せた件だ。

「嘘も100回言えば真実になる」

これはナチス・ドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダの手法を評した言葉だ。

厳密にはゲッベルス自身がこの一文を発したという一次情報はないものの、彼の思想を“意訳”したものとして現代に伝わっている。

Source: SmartNews

Date: 2026-4-1

Original: テレビ静岡

最近このような文章、というかもっと広く色々な場面でこういう妙な《なお書き》を付けた説明振りを見ることが多い。

まず感じたこと。

「厳密には」というナオ書き。要るかナア、と思います。

妙にくどい。

何が言いたいのか?

自信がないなら、そもそも書くなという気にもなる。

要するに、元ナチスのゲッベルス宣伝相の発言だとあなたは推定しているのか、いないのか?いるなら、そう書いておけばいい?いないなら、ゲッベルスの名前など出さない方がいい。

ビジネススクールの最終プレゼンなら、必ずツッコミが入る所だ。

多分

エビデンスは何もないのですが、これは科学の論文ではなく、単に別の本題を語る「報道」ですので、修辞として読んでください。

こういう趣旨なのだろう、と受け取りました  ―   一次情報の形でエビデンスが手元にあるわけではありませんが。

思わず連想してしまった。こんな言い方が、今という時代の定型表現なら

右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい

『新約聖書』の「マタイ伝」にこう書かれているが、これにも「なお書き」が要る。

なお、聖書のこの部分は、イエス・キリストの弟子のマタイが書いたとされているキリスト伝で、イエスがそう言ったと書かれているだけですから、厳密にいえば本当にイエスがそう言ったという音声データが一次情報として残っているわけではありません。イエスの思想をマタイが意訳したものとして現代に伝わっているわけです。

こんな理屈になる。

というか、そもそもイエス・キリストは(おそらく?)地元の言語であるアラム語で説教をしていたはずとされている。なので、最初に新約聖書が書かれたギリシア語は、それ自体が「意訳」であって、要点は「意訳」であるのか、ないのかは大したことではないという点にある。

しかし、イエス・キリストがそう語っているかが不明であるという点に、上の筆者なら非常にこだわるかもしれない。何だか「本人がそう語ったわけではない」のであれば、そう語ったとされている事の価値がウンと下がると思っているのかしら?そうとも思える。

だとすれば、イエスは日本語で説教などしたはずがないから、日本語の聖書は100%意訳で、イエスの言葉として有難がるのはおかしいという理屈になる。

だから、何だというのだろうか?

言葉とは何だろう?

言葉に価値があるのか?

言葉に含まれた意味が価値をもつのか?

バイブルは全編が伝聞である(はずだ)。行動した本人の言葉は残っていないことが多い。パウロの手紙は掲載されているが、本当にパウロ本人が手紙を書いたの?そんな疑問を持つ人は多かったに違いない。

パウロの手紙って、パウロ本人が書いたのじゃないとしたら、価値がないの?

こう問いたいところです。

日本に浸透している大乗仏教は、釈迦が活きた時代と大乗経典が編纂された時代には大きな隔たりがあって、大乗仏教は「仏教」とは言えないと指摘する学者もいるくらいだ。

厳密には、中国伝来の仏教は仏教にあらず。というか、インドに赴いた唐僧・玄奘(三蔵法師)が持ち帰った経典は、インドにおいて既にオリジナルの仏教ではなかった。厳密にはこう判断するべきだろう。

だったらそれは何なのだろう?

小生は、それでも信仰に基礎づけられているなら、それは仏教であると解釈する立場にいる。「真理」は最近の世間で言われる「エビデンス」が決めるのではなく、理性と論理から確定してくるものである。

というか、理性に反しているがエビデンスがあるので「真理」と認めざるを得ないような「真理」は語義矛盾であって、理性に反している場合は「このエビデンスは誤りである」と結論するしか人間には選択肢がない。そう思っているし、実際に自然科学の発展史を振り返ると、そんな風に発展してきたと思っている。

非合理的な真理は最初から排除されているわけだ。

そもそも存在論として、20年前の私と現在の私が同じであると断定していいのだろうか?

物質的身体は、20年前とは別の素粒子、分子、細胞から成り立っている。それでも同じ人間だと自己認識しているのは、同じ幼少時の記憶をもち、継続性を意識しているからだ(といわれる)。

しかし、20年前の自分の記憶と現在の自分の記憶と、厳密に同じ記憶であると立証されているのだろうか?

定期的にDNAデータを保存すれば、生化学的に同一身体であるかどうかは検証できる。しかし、同一の物質的身体に宿っている精神的実体、意識+潜在意識と言い換えてもいいが、20年前と現在とで同じであると、どう同定(identify)すればよいのだろうか?「一次情報」など得られようがないのではないか?

そもそも《エビデンス》とは何か?上の引用文で出て来る「一次情報」はエビデンスという集合に含まれる要素の一つとして使われているのだろう。

平成から令和になって目立つのだが、《エビデンス》がない命題は疑うべきだ、と。

思うのだが、人間の認識にエビデンスなどはないことの方が多い。そう思う。

ピタゴラスの定理が真理であると考えるエビデンスはどこにあるのか?

実際、アインシュタインは宇宙はユークリッド空間ではなく非ユークリッド空間であることを理論化した。だから、厳密には「ピタゴラスの定理」にはエビデンスがない(ことが分かった)。しかし、ユークリッド空間を仮定すればピタゴラスの定理は自動的に真である。これにエビデンスなどはない。

何かといえば「エビデンス」を求める姿勢は、科学的なフラグランスを醸し出す効果はあるが、実はよ~~~く聞いていると、相手の言い分が正しいというエビデンスがないという根拠から、それ即ち自分が正しいことの証明である、と。どうもこんなロジックを展開している。

ずっと以前にも投稿したことがあるが、

太陽が地球を回っているという天動説には経験から明らかなエビデンスがありますよね。地動説にエビデンスはありますか?ないでしょう。

こんな議論を真面目にしていた時代はあったはずだ。

滑稽である。

人類の知的進化はエビデンスの蓄積を合理的に説明できる純理性的推論による。単にエビデンスにマッチさせる理論は、往々にしてヴィジョンなき愚かな理論である。事実を説明する理論は無数に提案できるが、大半は幼稚で拙いものだ。真理をつく理論は美しさを有すると言われる。しかし、エビデンスの方から教えてくれるわけではない。真の知識はエビデンスがさきにあろうが、なかろうが、最初から真である。

なので、エビデンスは要りますかという問いは常に有効であると思っている。エビデンスの必要性は文脈によるのだ。

今日は《反証可能性》や《モデル選択》の話しをすれば十分だったかもしれないが、書きたいことを書いているうちに長くなってしまった。つまらなくて細かい話である。

2026年3月31日火曜日

断想:私には分かりません ≒ 記憶にございません

昨日、こんな記事をSmartNewsで目にした:

毎日新聞は28、29の両日、全国世論調査を実施した。高市早苗首相が、米国のイラン攻撃についての国際法上の評価を避けていることについて「支持する」が33%、「支持しない」が36%と意見が分かれた。「わからない」も29%あり、有権者に迷いも感じられる。

Source: SmartNews

Original: 毎日新聞

Date: 2026年3月30日

確かに高市首相は《アメリカ・イスラエル枢軸 vs イラン》戦争に関して、

首相は国会で「詳細な事実関係を十分把握する立場にないことから、確定的な法的評価は行っていない」と答弁した。

こんな報道がされている。

要するに、アメリカ=イスラエル枢軸のイランに対する先制攻撃が国際法に違反しているか、更に戦争犯罪に該当するかは、(事実関係がよく分からないので?)「分かりません」と答えている。

これをみて、(今となってはずいぶん昔の)《ロッキード事件》を思い出した。国会でこの問題が集中審議されたとき、証人喚問された日航、丸紅など関係企業経営陣は核心に迫る質問に対して全て

記憶にございません

と、鸚鵡のごとく繰り返していたものだ。この『記憶にございません』というセリフは、進退窮まった時に大変便利であるせいか、その後に色々な事件の重要参考人の常用する言葉にもなったわけで、こう考えると「ロッキード事件」というのは田中角栄という稀代の民衆政治家による《総理の犯罪》が追求されたにとどまらない、いわば日本社会全体のモラル感覚にも大きな傷跡を残した事件でもあったと思う。

まして、この事件の一連の展開そのものが、中国傾斜、アラブ傾斜を強める田中政権に鉄槌を下すことを目的に、アメリカ政府が計画した陰謀(?)であったと今もなお囁かれているのだから、ロッキード事件の発生と解決の仕方は戦後日本体制の不健康さを象徴する事件でもあったと、小生は勝手に思っている。

「戦後日本社会」は根本的タブーの上に成立している。それを露骨に言ってはならない。裏が腐っていても表は綺麗にしておけ、と。率直には生きられない。建て前をマナーの名のもとに強要される。守らなければマスメディアからバッシングされる。とはいえ、そんな生活感覚が時に疼くことがある。

戦後日本の特徴はこの辺にあると思っている。

「記憶にございません」と「私には分かりません」という対応は何と似ていることだろう。

それはいま聞かないで!

言葉で伝えようとしている主旨はそのまま重複していると感じるのは小生だけだろうか?

今朝、カミさんとこんな会話をした

小生: それにしてもアメリカって国は、太平洋戦争が終わってから、いったい何回戦争しているだろうね?朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン・・・他にも米軍が動いた紛争は無数にあるなあ・・・こんな好戦的な国は世界でアメリカだけだね。

カミさん: 平和な国じゃないのは確かだね。

小生: 昔あったソ連もソ連軍を使って力で抑えたことは多かったけど、のべつまくなし常に戦争をしているのはアメリカだけだよ。

カミさん: 超大国ってどこもそうなるのかなあ・・・?

小生: 19世紀の帝国主義の時代には大砲と軍艦で外交をやったのが西洋だからサ、そんなDNAがあるんだろ。反対に、中国は平和志向だ。歴史的にも中国の歴代王朝は対外侵略するより異民族から侵略される頻度のほうが多かった。とにかく国として物騒ではないな。これはアメリカと中国の行動履歴を比べてみれば誰でも分かる。日本では不思議なほど対中警戒心が強いけど、中国の方から軍を動かした紛争は、ほとんどない。どれもが「国境紛争」で、ある意味、典型的な武力衝突なんだけど、やるかやられるかという「戦争」じゃあない。大体、孫子の兵法でも上策は「戦わずして勝つ」で、「兵を動かして戦う」というのは下策とされている、そんなお国柄だからね。

カミさん: そうなの?あんまりイイ印象はないけど。 

小生: 日本は竹中半兵衛のような「策をめぐらす」というのが苦手だから、中国には苦手意識が強いんじゃないかネエ?国のサイズも違うし、謀略戦、情報戦の持久戦になると、どうしたって大国の方が小国より有利だよ。それと日本では右翼の宣伝がきいてる。ほんと、国内向けに宣伝するより相手の調査・諜報にもっとエネルギーを割くべきだと僕は思うんだけど、ネ。一部の過激派の宣伝は眉唾だと思って、いまはChatGPTとかGeminiとか、AIを誰でも使えるんだからサ、調べてもらえばいいのさ。そうすりゃ、とんでもなく間違うってことはなくなるよ。それにしても、何で日本人はAIに警戒心をもっているのかねえ。これまた七不思議だ。

カミさん: 得たいが知れないしサア、AIの指示通りに動いていたら、いつの間にか悪くなったり、戦争になったりするんじゃない?

小生: 逆だと思う。AIで戦争が起きるってことは先ずないな。いま世界で最も危険な国はアメリカさ。アメリカに睨まれたら危険極まりない。総理大臣がいつ殺害されるかわからん。天皇陛下がいつ拉致されるかも分からん。西部劇の保安官みたいなもンだ。正義の味方だと思ってるから始末が悪い。AIはモンスターじゃないよ。人間が造るものだからね。怒りや感情とは無縁だ。理性そのものだよ。それに思考には制約を課すことも出来る。怖いのはバカとハサミの方さ。

The New York Timesの最後のコラム記事でPaul Krugmanはこう書いていた。

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。指導者を信じられる時代は終わったのだ。何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ。 

この下りは以前の投稿でも引用したことがある。

有権者が選んだ人物を公の新聞紙上で《最悪》と表現できるところがアメリカ社会の良さと言えば「良さ」である。杓子定規な日本ならとてもこうは言えない(はずだ)。

最悪な人物を選挙で選ぶこともある。民主主義の失敗の一例として記憶されるのが、足元の「いま」という時代である。


ただ、最悪の人物を偶々選んでしまったのだというシンプルな理解を超える大きな危険性が、アメリカ合衆国という国には潜在している。これもまた真理であるかもしれない。

民主主義に本質的に潜んでいる危険性かもしれない。そうでないかもしれない。


古代ローマ帝国の盛期である《五賢帝時代》は、名君マルクス=アウレリウス帝の後を暗愚な息子コモドゥス帝が世襲したときに終わった。コモドゥス帝の(暴君とは必ずしもいえない)暗君ぶりと悲惨な最期は歴史が示す通り。そのあと、ローマ帝国は不安定な軍人皇帝時代に入り、ディオクレティアヌス帝が再び安定を取り戻すまでに100年を要したのである。そして、安定を取り戻したあとのローマ帝国は皇帝専制の度を強め、以前の輝きまでが戻ることはなかったのである。

世襲による君主制は選挙がないので暗君が出現すれば腐敗する。しかし、暗君、暴君による災害は、庶民までには害が及ばないこともあり、君主の贅沢は庶民には有難いことも多い。もしも君主の暴虐に多数の臣下が「耐えられない」と感じれば、「殿、ご乱心」と押し込め参らせ、嫡男に相続させることで案外早期に片付けられると、小生は勝手に評価している。これに反して、民主主義の失敗は君主制の失敗よりは低頻度であるが、いざそれが失敗すると修正しようがなく、その災害規模は未曽有の規模になりうる。

こんな風に漠然と思ったりしているのだが、どんなものでござんしょう。


高校野球は監督で決まる。企業はトップで決まる。国の盛衰は指導者で決まる。トルストイの歴史観とは違うが、一人の指導者の優劣で社会全体が決まる側面も、確かに人間社会にはある。

下手な指揮者が指揮するオーケストラを連想すればイイ。下手な指揮者は勝手に棒を振らせておき、無視を決め込んで、自主演奏する方が好い演奏になるものだ。

民主主義のロバストネスが現れるとすれば、こんな時だろう。


2026年3月25日水曜日

ホンの一言: 民主主義の変質はグローバルに進行中?

ロシア=ウクライナ戦争勃発を契機にまるで「ゾンビ」のように活動を再開したいわゆる「西側陣営」だが、どうやら政治的にも、社会的にも危機に瀕している模様だ。

それは西側社会のコアを為すはずの《民主主義(=Democracy)》という価値観、というか理念が揺らぎ始めているという兆候だ。

英誌"The Economist"が先ごろ次のような記事を掲載した。ヘッドラインは

Westerners are fleeing their countries in record numbers

欧米諸国からの脱出が記録的な規模で進んでいる

Source: The Economist

Date: Mar 22nd 2026

URL: https://www.economist.com/finance-and-economics/2026/03/22/westerners-are-fleeing-their-countries-in-record-numbers 

というものだ。

少し抜粋しておこう:

アーダーン・ニュージーランド首相といえば、2020年から21年にかけての世界的コロナ禍の時期、その進歩的な行政手腕から特に日本のマスコミでは高く評価されていた人物である。ところが:

After stepping down as New Zealand’s prime minister in 2023, Jacinda Ardern took up a role at Harvard University. Now she is based in Sydney. Ms Ardern’s decision to live abroad has struck a nerve with Kiwis, who were already worried about high levels of emigration.

記事は首相の座を降りてからシドニーに居を移し、ハーバード大学の為に仕事をしているという、こんな近況報道から始まっている。記事全体の趣旨は、いま西側先進国で激増(?)している国外移住者についてである。

Three factors explain the rise of the expat economy. First, the pandemic normalised the idea of geographical arbitrage. 

海外在住者経済の台頭には3つの要因がある。第一に、パンデミックによって地理的裁定取引という概念が一般的になった。 

日本国内では住み心地の良い適地を求めて自由に人が移動しているが、それが国境をまたぐ形で進んでいるというものだ。コロナ禍によるリモートワーク普及がこの動きの背中を押しているとも指摘されている。次は税制である。

Taxes are the second factor. 

誰しもその国でずっと暮らさないなら、付加価値税(=消費税)であれ、所得税であれ、税率は低ければ低いほどよい。また、残り時間が少なく、ブーメランの心配のない高齢者ならば、今年支払う税金を減らしたいのは自然な心理だろう。移住するかどうかで移住先の税制を考慮するのは当然だ。

日本国内でも住民税を含め地方税を個々の自治体が完全に自由に決めることが出来るとすれば、「ふるさと納税」の普及をみても、どこに住むかは税と保険料次第という状況が来るだろう。物価の高い首都圏の独り勝ちにはならないのは確実だ。例えば、農水産物(とエネルギー)を含めすべての商品の価格に「県域外出荷税」をかけるとすれば、大都市圏と地方圏のどちらが先に音をあげるか?論証するまでもなく帰結は明らかだろう。一定量の農産物をわざわざ低価格で出荷する動機は生産元の方にはない。価格カルテルが自然発生するであろう  ―   農産物貿易が完全自由化されれば、その時はまたどんな進行になるのか、色々なモデル化ができると思うが。

三番目の理由が本日投稿の主旨かもしれない。

Third, politics play a role. Many of the Americans who waltz around Hampstead dislike Mr Trump. Many of the Britons who have moved to Dubai detest “Keir Starmer’s socialist Britain”. Conservative Canadians, now living through their 11th year of centre-left Liberal rule, are looking elsewhere. All these different examples, though, are a subset of a broader process—the growing sense among Westerners of all political persuasions that politics is broken. 

第三に、政治が影響している。ハムステッドを闊歩するアメリカ人の多くはトランプ氏を嫌っている。ドバイに移住したイギリス人の多くは「キア・スターマーの社会主義イギリス」を嫌悪している。中道左派の自由党政権が11年目を迎えた保守派カナダ人は、別の場所を求めている。しかし、これら様々な例はすべて、より広範なプロセス、つまり、あらゆる政治的信条を持つ西洋人の間で政治が機能不全に陥っているという認識が高まっているというプロセスの一部に過ぎない。

政治が壊れるという現象は、何も君主制、寡頭制、独裁制、社会主義等々、政体を問わずどの国でも起こりうるということだ。

Their exit “went along with a deterioration of democracy in their home countries”, the authors find. 

 著者らは、彼らの出国は「母国の民主主義の悪化と並行して起こった」と結論づけている。

何も非民主主義的になったのではない。善い民主主義から悪い民主主義へと変質しつつあることを感じているからこそ、母国を見捨てるわけである。

実際、現世代は《民主主義》の創立世代ではなく、単なるユーザー世代である。「ユーザー」というのは、往々にして、不具合や動作異常に対してはお手上げ状態になるものだ。不平を述べることは出来ても、問題を解決できるだけの知識も経験もないものなのだ。

同じ趣旨の観方は実はIMFも持っているようで、それをF&D Magazineで書いている。

The world’s largest economy is in a precarious fiscal position, with a debt-GDP ratio poised to breach its historic post–World War II high. But unlike in 1946, there is no large peace dividend from reduced defense spending to rescue public finances. Demographic factors are pushing spending even higher through the continuing expansion of old-age entitlements, and there seems little prospect of avoiding large deficits and higher debt, even if economic conditions remain favorable.

世界最大の経済大国である米国は、財政的に不安定な状況にあり、対GDP債務比率は第二次世界大戦後最高水準に迫っている。しかし、1946年とは異なり、国防費削減による大きな平和配当は財政を立て直す助けにはならない。人口動態の変化は、民主主義の圧力を通じて、高齢者給付を拡大させ続ける。たとえ客観的には経済状況が良好であるとしても、巨額の財政赤字と債務増加を回避できる見込みはほとんどないのだ。

Source: IMF F&D Magazine

Author: Alan J. Auerbach

Date: March 2026 

URL: https://www.imf.org/en/publications/fandd/issues/2026/03/point-of-view-americas-perilous-fiscal-path-alan-auerbach

多数派の要求に正義があると前提するのが民主主義である。というより、「世論」には「正義」があると解釈しなければ、現代民主主義を運営できない。その大前提の下では、

無理を通せば道理が引っ込む

という社会状況がもたらされることになる。

これも《民主主義の失敗》への認識を示唆しているだろう。

小生思うのだが、もし幕末の時代、世論調査をすれば明治新政府は「攘夷」を推し進める以外に道はなかったはずだ。その当時、日本に民主主義がなかったことが近代日本への道を開いた。

Krugmanはトランプ政権を「反逆者」呼ばわりするに至っている。それは、イランに対して

48時間以内にホルムズ海峡を開放しなければ発電所を破壊する

という脅迫をしたあと、結局は5日間延期すると表明したいつものTACOに戻った事に関連している。

実は、最初の声明から延期方針の声明までの短い時間内において、石油の先物価格がイレギュラーな乱高下を示したというのだ。データはYahoo! Financeから採られているようなので、日本のマスコミ各社も確認可能であったはずだ。Krugmanはこう書いている。少し長いが引用しておこう:

This “sharp and isolated jump in volume” — which you can see for the oil futures market in the chart at the top of this post — was especially bizarre because there were no major news items — no major publicly available news items — to drive sudden big market transactions. The story would be baffling, except that there’s an obvious explanation: Somebody close to Trump knew what he was about to do, and exploited that inside information to make huge, instant profits.

This wasn’t the first time something like this has happened under Trump. There were large, suspicious moves in the prediction market Polymarket before previous attacks on Iran and Venezuela. But this front-running of U.S. policy was really large: the Financial Times estimates the sales of oil futures in that magic minute Monday morning at about $580 million, and that doesn’t count the purchases of stock futures.

When officers of a company or people close to them exploit confidential information for personal financial gain, that’s insider trading — which is illegal. But we have another word for situations in which people with access to confidential information regarding national security — such as plans to bomb or not to bomb another country — exploit that information for profit. That word is “treason.”

この「急激かつ孤立した取引量の急増」(この記事冒頭のチャートで原油先物市場について確認できる)は、特に不可解でした。なぜなら、突然の大規模な市場取引を引き起こすような、主要なニュース(一般に公開されている主要なニュース)が一切なかったからです。この出来事は不可解に思えますが、明白な説明があります。トランプ大統領に近い人物が、彼がこれから何をしようとしているのかを知っており、その内部情報を利用して莫大な利益を瞬時に得たのです。

トランプ政権下でこのようなことが起こったのは今回が初めてではありません。イランとベネズエラへの攻撃前にも、予測市場であるポリマーケットで大規模かつ不審な動きが見られました。しかし、今回の米国の政策先読みは、これまで以上に大規模でした。フィナンシャル・タイムズ紙は、月曜朝のあの瞬間の原油先物取引額を約5億8000万ドルと推定しており、これは株式先物取引の買い越し額は含まれていません。

企業の役員やその近しい人物が、機密情報を個人的な金銭的利益のために利用することは、インサイダー取引であり、違法行為です。しかし、国家安全保障に関する機密情報(例えば、他国を爆撃するか否かの計画など)にアクセスできる者が、その情報を利益のために悪用する状況を表す言葉は他にもあります。それは「反逆罪」です。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: Mar 24, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/treason-in-the-futures-markets 

この疑惑は、本日いま時点で、すでに日本でも報道されているから、ひょっとするとアメリカで大炎上するかもしれず、いまは大統領が抑えるとしても今秋の中間選挙で共和党が大敗すれば、大統領弾劾への動きが始まり、ト大統領に近い人たちは(最悪の場合)逮捕されるのではないかと予想しているところだ。

民主主義と資本主義は相性が良い。しかし、この二つが並立すると、どうしても公私の関係については

私 > 公

公共のために個人の権利を抑えることは不可。私権を尊重する大前提の下で公益を追求せよ、と。そんな姿勢が是認されがちである。

小生は、現時点では『公という観念は虚妄である』と考えているから、公益のためには私権を制限するのは当たり前だという価値観には与しない。公共部門は可能な限り小さくあるべきだと云うのが小生の信じる立場である。

貧困救済も福祉向上も、何も公共部門を設置しなくとも、個人間の利益と自由契約、さらに私的な協力行為(ゲーム理論で言う結託)に基づいて社会的な問題は自然に解決されるはずである。現代の「国家」は、私的な実力行使を禁ずるとともに、私的な福祉行為をも(事実上は)禁止し、余裕のある経済力は所得再分配という大義の下に徴税によって国家が吸い上げるべきだというイデオロギーを肯定している。「公」の内部が腐敗するのは私有財産を供出させる公的権力があるが為である。というより、「公」を具体化する「公的組織」はそこで活動する人間の私的利益の集合である。

これが小生の近現代社会観である。

いやしくも《公》という観念に見合うものが実在するというなら、公には公の倫理があるはずだ。公の倫理は利益動機とは異なるべきだ。また、公の為に私を制限する状況があるのも当たり前である。個人としては「公」は好きではないが、論理はこうなる(はずだ)。利益動機は私人だけにしてほしいものだ。私人に加えて、公である国家までが国益を求めるなど公私ダブルで強欲である。何も儒学を再興せよとは言わないが、「公」はもっとハイレベルであるべきだ。強欲な国は実に見苦しい。そう感じる次第。

最後は社会哲学的になってしまった。難しい。


いずれにせよ、とにかくトランプ政権は剣呑だ。どうなっても日本に火の粉が飛んでこないことを祈るばかりだ。

本ブログでも最近は民主主義の虚妄性を投稿することが増えているが、どうやら世界規模で思想の揺らぎ、理念の変質が進行中であるようだ。


2026年3月22日日曜日

断想: この世は舞台、すべて人は平等な役者仲間

最近のビッグ・イシューということなら

  • 先ごろワシントンで行われたトランプ・高市会談
  • WBC準々決勝における対ベネズエラ戦敗退
(アメリカ社会はまた違うと思うが)世間の関心度、注目度からして、この二つなンだろうと思う。

かたやトランプ大統領から『アメリカ=イスラエル陣営(=米以枢軸軍)に味方せよ』と強引に押し切られ、危ないと承知しながらも自衛隊(≒国防軍)をペルシア湾に遠征させるか?そのための特別措置法案を提出するのか?正に国運がかかってくるわけであります。かたや(たかが?)プロ野球の(さして巨額の賞金がかかっているわけでもない?)国際戦である。どちらが日本国民の命運を左右するかといえば言わずとも明白。それでも日本人の関心を広く集めたのは、ひょっとするとトランプ・高市会談の行方ではなく、日本が一時ベネズエラを逆転した試合の結果のほうであったかもしれない。

国際政治もプロ野球の国際戦もどちらも普通の日本人にとって思い通りになる対象ではない。どちらも手の届かない空中戦だ。とはいうものの、仮に高市首相がトランプ大統領の機嫌を損ね、以前のゼレンスキー・ウクライナ大統領のように見送りもされず足蹴にされるがごとくにホワイトハウスを後にするという、そんな哀れな情景がもしも放送されれば、さすがに日本人の大多数はそれをみて激怒したのではないだろうか?その度合いは、ベネズエラ戦で伊藤大海投手が逆転3ランホームランを打たれたことに対する罵詈雑言とは質の違うものではあったに違いない。

普通の日本人大衆にとっては、首相と米大統領との会談もプロ野球のWBCもサッカーのW杯も、はたまた毎年秋に公表されるノーベル賞受賞者発表も、映画のアカデミー賞受賞者発表も、すべては《同じ》なのじゃあないか、と。そうも感じているのだ、な。 詰まるところ、シェークスピアが『お気に召すまま』の登場人物に語らせているように

All the world's a stage
全てこの世は舞台
一人一人の日本人にとっては世間も浮世も自分が生きている一場の芝居のようなものである。とすれば、トランプも高市も、大谷も山本も、皆々すべて同じ舞台の上で、ほんの短い時間を自分と共に過ごす役者仲間のような存在ではないか。

物質的身体が機能を停止した後、身体を動かしていた精神的本体がどこに往くのか、それは誰もしらない。輪廻によってこの世に帰ってきているのかもしれないが、別の身体に生まれた後は前世のことは全て忘れると見える。だとすれば、余計にいま共にこの世で同じ空気を吸っている衆生一切に自分との縁を感じるのだ・・・そんなことかもしれない。

その意味では政治も暮らしも娯楽も、病気も子育ても、何もかもが同じ意識の中で平等に意識されるのだ・・・まあ、そんな風に思っています。

2026年3月18日水曜日

断想: 理性よりは情が重んじられるのは分かりますが・・・という話し

 前稿や前々稿で書いたことのポイントは次の下りに尽きるかもしれない:

《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。

何が善であり悪であるかは、時代やその国の文化的伝統ごとに違うものだ、と。こう考える限り、結局は《相対主義》に陥り、絶対不変の善悪判断などはないという結論を認めざるを得なくなる。

もしそんな立場に立てば、ロシアのウクライナ侵攻を批判する論拠は実はなく、単にロシアに味方するかウクライナに味方するかという利害得失の話になる。

アメリカとイスラエルが今回行ったイラン攻撃も善い行為なのか悪い行為なのか、絶対的真理はなく、つまりは相対主義に立って国ごとに判断すればイイことですよネ、と。こんな結論にせざるを得ない。

永遠かつ絶対に正しい国際法などは架空の空言で、果ては国の刑法ですら、いまはそう決められている決めごとに過ぎませんヨ、と。そんな虚無的な議論にもなるはずだ。

最後には、

よく言えば《武断主義》。悪くいえば《腕力の強い者が善》。こういうジャングルの掟が世を支配することになる。

これを事実として認めるべきだと。 実は、世界史、日本史を通して、理屈よりは腕力という時代が遥かに長かったのである。

これではダメだと最初に主張したのがソクラテスであったのは弟子・プラトンが数多くの作品で伝えているところだ。プラトンがそんな議論をした背景には、30年続いたペロポネソス戦争で降伏した民主国家・アテネの混迷と衆愚化した世相があった。師・ソクラテスの死刑判決はプラトンの目には衆愚を超えた「知の崩壊」が見えていたはずだ。その「知の崩壊」は要するに何か?それ以前に「知」とは何か?ここからプラトンは「哲学」を始めた。フィロソフィー、正に「知を愛するもの」である。

当時アテネ社会で一世を風靡していたソフィストの

人間は万物の尺度である。

という相対主義は、本質的に間違った世界観である、と。そして

何が善か、何が正しいかという問題には、絶対的で普遍の真理がある。

要するに

真理は実在する。

今は誰が強いか、10年後には誰が強くなりそうか?こんな有為転変で無常の問いかけには意味がない。空である。意味のない答えに基礎を置くのではなく、実在する真理に根拠を求める。こんな「理想主義」をプラトンは理路整然と展開した。哲学の誕生には敗戦で混乱するアテネ社会が必要だったとも言える。

前にも書いたが、時代と文化を超えて一定不変な心の働きは《理性》だけである。「感情」や「感覚」は、時代や文化どころか、同じ時代、同じ国の異なった個人の間で、もう異なるものである。人は色々、人生いろいろ、である。しかし、理性は色々ではなく、全ての人で同じように働き、同じ問題に同じ答えを出す。人によって幾何学の定理の真偽が異なることはなく、同じ方程式を解けば同じ答えを得る。理性だけは普遍的な心の働きなのである。

この世を超越した普遍的な善があるなら、それは理性だけが認識できるという理屈になる。普遍的な問いかけに対して真理は一つである以上、個々バラバラな感覚を用いて回答しても必ず間違いになるからだ。理性によって得られる帰結は、数学的知識と同じように、誰もがそう認めなければならないという点で、文字どおり普遍的である。

理性的議論をしていながら答えが分かれるとすれば、理性ではない感情やアドホックな価値観などが混入するからである。

なので、普遍的なモラル、倫理、善悪については、感情や価値観ではなく、理性を用いた議論をする必要があるというのは、いわゆる《合理主義者》に小生は完全に賛成する立場にいる。理性のみが、人類共通の心の働きだから、である。

一方、モラルの基礎は理性でなく感情であるとする立場もある。例えば、経済学者にして道徳哲学者でもあったアダム・スミスは『道徳感情論』を著している。

ずっと以前に投稿した孟子の四端説では

惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)

羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)

辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)

是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)

道徳の基礎に理性だけを置いているわけではない。特に最も重要視される《仁》は理性の働きとは関係がなさそうであり、どちらかといえば《情》に近いものである。

理性に基礎をおく考え方は、ギリシア人ばかりではなく、インド人を含めたアーリア民族共通の哲学であるのかもしれない。

仏理・仏道においても、前世から継承された業と現世の縁から発する様々な煩悩を滅却するためには、何よりこの世の現実を観察し、瞑想し、真如を悟るだけの智慧を持たなければならないとされている。法然と親鸞以降の日本・浄土信仰では、ひたすらに阿弥陀仏を信じて念仏を称えることが求められていて、智慧をどちらかといえば排するのであるが、本来の仏教は極めて智慧重視型の哲学に立っている所を観ないといけない。

孔子は紀元前5世紀、孟子は紀元前4世紀の人だから、まだ中国に仏教は伝わってはいなかった。中国文化は、極めて現実的で、 理性にのみ把握される抽象的概念が中心になることはなかったのである。

日本文化もまた、理性よりは一瞬ごとの直観、もののあはれを感じる感情こそ中核をなしていると小生はみている。

東洋哲学では「理性」よりは寧ろ《知・情・意》のバランスが大事だとされている(と理解している)。

まあ、大胆な割り切りではあるが、インド・ヨーロッパ的な理性重視の哲学と東洋哲学との間には、深い溝がありそうだ。

理性だけが同一不変の心の働きであると述べたが、それでも、

感情や価値観を基礎にする限り、今後の世界は《相対主義》の泥沼に迷い込んでいかざるを得ない。理屈としてそうなる。

こんな風になっていくのではないかと、いま怖れを感じているのだ、ナ。

カントが『永遠平和のために』という極めて理性的な小冊子を書いているが、どれほど机上の空論と感じようが、戦争のない世界を実現するには、理性だけを使って議論をしなければならない。

そんな仕事が出来る人だけが、重要な責任を負うべきであるというのが、小生の現代社会観である。

2026年3月13日金曜日

断想: 「侮れヌ」を遥かに超える『ソフィーの世界』の素晴らしさ

学校時代の春季休業は休暇の中で最もノンビリと出来る2週間だった。宿題も何もないわけだから楽しくないはずがない。しかも季節は早春である。何をやるにも最適の季節だ。

こんな時、読書好きな友人は(やっと)読みたい本を読めていた(はずだ)。課題図書にこだわる必要はない。

小生もそんな風に春季休業を過ごせば余程ましな学校時代を送れたと思うが、いま思い出してもロクな事はしなかった。怠け者であった。大体、課題図書を真面目に読んだことなどなく、ずっと後年になってから読んでみて「後悔先に立たず」と感じたのは「後の祭り」というものだ。

『ソクラテスの弁明』は中高時代の課題図書の常連だ ― 多分、いまでもそうなのだと思う。唯円の『歎異抄』もそうだろう。この二冊に西田幾多郎の『善の研究』を併せて読めば、この世界を《生きる》ことの本質が見えてくる・・・というのは比較的最近に投稿したことがある。

今日は更に『ソフィーの世界』を追加しておきたい。

『ソフィーの世界』が世界的なベストセラーになって邦訳本が日本で発売されたのは1995年6月だった(ということな)ので30年以上も前になる。その頃、小生はもう小役人から足を洗い北海道に移ってきていた。仕事も教育の現場であったからこの本の評判は耳にしていたが、「いまさら少女向けの哲学書なンて読めるか」という、そんな気分でうっちゃっておいたのだ、ナ。

ところが、つい先日になって『ソフィーの世界』の漫画ヴァージョンがKindle Unlimitedにあったので、目を通してみる気になった。それで感じたのが

先入観や偏見は後悔の母である

という古来の経験則である。

それで日本語訳できちんと最初から読んでみようと思ったわけだ。

小生は《古代》という時代が非常に好きである。神話時代の後、宗教が定着する中世の前という中間に位置し、最後には古代文明が完成の域に達してから崩壊する。特に、西洋にあっては民主国家アテネの発展と没落、アレクサンドロスという専制君主によるヘレニズム社会の形成とグローバル化。ヘレニズム後のローマ帝国への統合と古代文明の完成。貨幣経済の浸透と社会的分業の発展。そして最終的には蛮族の移民増加と帝国のゲルマン化。キリスト教の浸透と皇帝の権威の相対化。無秩序化と通貨の瓦解、都市文明の崩壊、人口減少、分散的な農業社会、生活水準の低下と人口減少の負のループ・・・

古代という時代は、(特に西洋にあっては)小さなスケールで最初から最後まで閉じた歴史を示している、とそう思っているのだ。

それで、『ソフィーの世界』でも特に上巻が面白いと感じた。

今日は例によって、記憶に値する個所と個人的なコメントを覚書にしておきたい。

まずアウグスティヌスから。

神が世界をつくる前、神の考えのなかにはイデアがあった、とアウグスティヌスは考えたんだ。永遠のイデアを神のものにすることによって、プラトンが想定した永遠のイデアを救ったんだ」  「あったまいい!」

まあ、全体がこんな文体で進んでいく。想定読者層は、やはり中高生あたりなのだろう。

 悪をどう見るかでも、アウグスティヌスは新プラトン学派を踏まえている。悪があるというのは、善なる神がそこにいない、ということだ、とアウグスティヌスは考えた。プロティノスと同じだね。悪は独立して存在するものではなくて、なんでもない何かだ。なぜなら、神の創造物は善に決まっているからだ。悪は人間の不従順から発生する、とアウグスティヌスは考えた。

この本文に対してこんなコメントを付けている。

悪とは善の不在である。カントの倫理観、フィヒテの考え、シェリングの宇宙観にも通じるかも。仏理的な悪は、その人が前世から継承してきた業が煩悩として現勢化した心の働きで、この世界に具象化されたその人の本質を成すものだ。悪は善の不在ではなく、確かにこの世界に実在する(と小生は理解している)。善悪の理解が西洋と仏教世界ではかなり違うようだ。

三番目は 

 「アウグスティヌスは歴史を哲学と関連づけたヨーロッパの最初の哲学者だ、ということも憶えておいてほしいな。善と悪の闘いという発想はちっとも目新しくない。アウグスティヌスの新しさは、この闘いが歴史をつうじてつづくとしたことだ。この点では、アウグスティヌスにはプラトンの考え方はあんまり感じられない。アウグスティヌスは、旧約聖書の直線的な歴史観にしっかりと立脚している。アウグスティヌスは、神は全歴史を使って神の国をうちたてようとしている、と考えていた。

これに対するコメント:

正にヘーゲル!

ヘーゲルの「世界精神の弁証法的発展」とアウグスティヌスの「神の国を打ち立てるための闘い」とどこが違うか?

こんなメモをつけている。

経済学者ケインズは、『思想というのは、新しいようにみえて、実は過去の誰かの思想を衣替えして再登場させているものだ』と、こんな趣旨の文章を(どこかで)書き残しているが正にこれを思い出した。

次に、トーマス=アクィナス。この大神学者にして大哲学者の名は世界史の教科書にも登場するので知っている人は多いはずだ。が、小生の記憶ではどんな学問的成果を成し遂げた人物なのか、最後までよく分からなかった記憶がある。ただ、ヨーロッパの中世神学はプラトンではなくアリストテレスの哲学を基礎にしていた(と書かれていた)ことだけは覚えている。

まず

「トマス・アクィナスは、ぼくたちが哲学とか理性とか呼んでいるものと、キリストの啓示とか信仰と呼んでいるもののあいだにどうにもならない矛盾があるとは考えなかった。キリスト教が言うことと哲学が言うことは、しばしば重なりあう。ぼくたちは理性の助けによって、聖書に書いてあるのと同じ真理を究明できるんだ」

20世紀の数学者にして哲学者でもあったバートランド=ラッセルは、人類が獲得する《知の成果》は三つのカテゴリーに分類されるとして、最下辺に観察データから実証される「科学」、中間に科学を基礎づける先験的総合命題の集まりである哲学と数学、論理学。最上辺に理性だけでは真偽が確定せず、直観と信仰(更に神秘的経験、つまり啓示?)から獲得される宗教的真理。この三つの階層に区分されるとした   ―   宗教的真理が「真理」であるとすることに現代日本人は疑問を抱くかもしれないが、人類以外の動物は宗教とは無縁である。知性を備えた人類のみ神や浄土を考える。つまり数学とは違った別種の超越的世界も人間の知性の働きであるのは同じである。

最近の小生の立場はこんな風なので、上の引用文は正に友を得たように感じて「その通り!」と同感したわけだ。

(キリスト教の)教義と哲学的理性はしばしば重なり合う。同様に、数学的理性と物理化学的現象とそれを観察したデータは重なり合うものだ。

こんなコメントを付けている。

次に

トマスによれば、神は聖書と理性をとおして人間たちの前にみずからを啓示する。だから信仰の神学と自然の神学があることになる。道徳の分野でも同じことだ。聖書は、ぼくたちは神の意志にそって生きるべきだ、という。でも神はまたぼくたちに良心もあたえて、自然の原則にしたがって善悪を区別できるようにした。だから、道徳生活にも二つの道があることになる。ぼくたちはたとえ聖書を読まなくても、ほかの人を苦しめてはいけない、ということを知っている。自分がそうしてもらいたいようにほかの人にもしてあげるべきだ、と知っている。

これはカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』との関係そのものではないか。「良心」の声は常にささやかである。良心の声が聞こえない時、つまり善が不在であるとき、人は悪を為すのであるという倫理観は、西洋の伝統でもあるのだろう。

トマスは、植物や動物から人間へ、人間から天使へ、天使から神へと高まっていく存在の段階がある、と考えた。人間は動物と同じように、感覚器官をそなえた肉体をもっているけれど、人間にはまた、よくよく考える理性もある。

人の特性は「考える器官」である「大脳」を物質的器官として持っている所にある。その大脳の中で進行する生化学的反応プロセスを、どうすれば数学的思考、更には自由意志や目的設定に翻訳することが出来るのか?

この問いに回答できる日が来るとは、小生、どうしても想像できない。いま足元で発展中の「AI」は、神経回路網を模造的に構築して、回路網に発生する電気信号を人間の言葉と論理に対応づけるソフトウェアのことである。つまり「人工知能」とは人間が造った「知能」であるが、実在するのはソフトウェアという成果物、というよりそんなソフトウェアを生み出し得た人間の《知識》。知識こそが実在する抽象的な本体であるというのは何度も投稿したとおりだ。

「知識」は非物質的実在であるから空間の中に観察可能な対象としては存在しない。空間に属しないが、やはり現実に実在する何者かであることに変わりはない。そう言うしかないであろう。

最後に

 「・・・神は今、わたしたちのことも見ている?」  「そうだよ、きっとぼくたちのことも見ている。でも『今』じゃない。神にとって時間は、ぼくたちの時間のようには存在しない。ぼくたちの『今』は神の『今』ではない。ぼくたちにとって数週間が過ぎることは、神にとっても数週間が過ぎることを意味しない」

「神」を美術作品によって表現することは不適切であるし、そもそも不可能であるというのは、ユダヤ(セム語文化圏)の伝統に近いキリスト教東方正教派、イスラム教では現代でも守られている立場だ。

「神」や「浄土」という宗教的概念は、感覚を超えて理性だけで理解されうる存在で、いわば「四次元の時空間宇宙」や「多次元の超ひも宇宙」のような対象であるはずなのだ。日常的な勤行で目にする仏画やイコンは、神や浄土の似せ絵ではなく単なる「記号」であって、例えば微分記号や積分記号のようなもので、それが何を意味しているかを理解して初めて意味をなす。この辺のことも最近の何度かの投稿で書いた。

ただ、法然上人が『一枚起請文』でいう
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候そうらわず。
この下りは日本仏教の革命的精華だと思っていて、小生のような典型的な「凡夫」にも心の平安を得ることが可能な道を開いてくれたという点で、これまた普遍的宗教だと思っているのだ。


それにしても『ソフィーの世界』でも時々登場するノルウェーの、ソフィーは15歳だから中学校になるのか、その授業風景や宿題の内容には感動を通り越して、日本の小中学校との隔絶ぶりに愕然とするほどだ。
覚えさせるよりは自分で考える習慣を身につけさせる。

日本の学校教育とのあまりの違いに驚くほどだ。 

義務教育の使命は、出来るだけ多くの国民に《自分で考える》ことの重要さを伝えることにある。これが正真正銘のオーソドックスな路線というべきだろう。

同じ知識を共有し、同じ常識を共有することを目標とするのも確かに一つの行き方だ。国民的一体感を実現しやすいという利点もある。

しかし、世界の中で相対的に貧困化しながら国民的一体感を維持する義務教育には、そもそも大した価値はないのではないか? 

国民が相対的に貧困化しても、日本文化と天皇制を守り続けるためには一体感が必要なのだ

(そんなことはないと思うが)日本国の中枢はこんな風に考えているのだろうか?

「国家」というのは、国民がともに豊かになるなら統一的な学習を強要しても理屈は通るが、現代という時代はもはやそうではない。

自分で考えることが自分を救うことにもなるという時代、義務教育で教えるべき知識を「国」が定める方式は、もう正当性を失っているというべきだろう。

2026年3月9日月曜日

断想: 道理は君命や民意に優越する

 トランプ大統領が「イスラエルに唆されて?」対イラン軍事攻撃に踏み切った動機は(ほゞほゞ確実に?)今秋に予定されている中間選挙であるという巷の憶測は、小生もたぶんそうなのだろうナアと思っている。

何度も投稿してきたことだが

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

世界中で地域紛争の種を探しては、これに介入し、自分の政治的地位を自国内で高めて選挙を有利にしたいというタイプの行為は、国際平和のためにも《それ自体が戦争犯罪》として認定してほしいものだ。 

この意味では、プーチンもゼレンスキーもトランプも、更にはロシア=ウクライナ戦争勃発時のジョンソン英・元首相も、もちろんイスラエルのネタニヤフ現首相も、一人残らず戦争犯罪を犯しつつあると観る立場に小生はいる。


《普通選挙》は自国が民主主義国であると主張するための最重要な必要条件として理解されている。確かにこれは近代以降の世界の常識だ。しかしながら、この認識は市民革命から参政権拡大、民主主義の浸透という政治的プロセスと、資本主義経済の持続的成長という経済的プロセスが、相互にシンクロして進んできたという最近200年間の経験から得られた《社会科学的仮説》に過ぎない。

(何度も投稿してきたことだが)実際には、古代ギリシア世界においては民主的なアテネが腐敗、没落し、その後にギリシア語を使う広大なヘレニズム文化圏を築いたのは専制的なアレクサンドロス大王とそれを継承したヘレニズム国家であった。ヘレニズム世界の中で東西の文化は溶け合い、自由で広域的な貿易が発展し、かつてない豊かな社会が実現した。また古代ローマがいわゆる《Pax Romana》(=ローマの平和)を実現したのは、民主的な共和制ローマではなく帝政に移行した後のローマ帝国である。ローマ帝国の歴史的評価は周知のとおりだ。

多くの国民に豊かで自由な暮らしを提供できる国家は、政治体制が非民主主義的であるとしても、国家の中身は十分に《民主的》であると、小生には思える時がある。


民主主義国において

民意に勝る意志はない。民意こそ正義である。

と自惚れる姿勢は、専制君主国において

王の意志こそが神聖であって、これに勝る正義はない。

と自惚れる王の姿勢と瓜二つである。

どちらも

道理を無視して愚かな人間(たち?)の意志を神聖視する

という根本的誤りを犯している。

世論調査は「暮らしと経済」が最も切実な要求であることを(ほぼ常に)示している。この当たり前の事実を徹底して理解しているマスメディア企業は驚くほど少ないようだ。

愚人が権力を行使するほど怖いことはない。


《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。