2026年9月22日火曜日

前稿の補足: 「理屈」と「難信」について

前稿では『歎異抄』という古典を通して親鸞の思想に触れた。単なる読後感想を超えて、普段の読経や勤行を続ける心理とも関連性があると感じ始めているのだ。

岩波文庫の鈴木大拙『浄土系思想論』に収められている「他力の信心につきて ― 『教行信証』を読みて」は、読んでみると大拙流の『教行信証読後感』じゃないかと感じたりするのだが、その中にこんな下りがある。

自力では何故に他力が難信であるかと云うに、自力の本質は、分別であり、分析することであり、対象的に物を見て、いつも此から彼、彼から此へと動くことである。それで、まず弥陀を彼方において、自分に対立せしめる。而して彼の本願力なるものを考える、而して、或いは歴史的に、時間的に、存在論的に、知識論的に、或いはまた物理学的。唯物論的にさえこれを検討せんとする。それ故、他力の論理から益々遠ざかるので、弥陀も彼の浄土も否定せられ、したがって自分自身の立場さえ混乱に陥って収集不可能になる。

まさに小生自身がたどってきた道である。考えてきたことは、論理の整合性という点で間違ってはいないと今でも思っているが、やはりどこかで行き詰るのではないかという予感は否定できないのであった。空しくはないが、不安であったと言えばいいか。


あとにこう続いている:

他力不可思議の論理を獲得せんには、どうしても分別智の制約からのがれねばならぬ。自力のはたらきをその根底から覆さねばならぬ。これが中々できぬので、「難信」ということにならざるを得ぬ。

分別智(≒理屈)とは分析の論理を指す。分析とは、自分と自分以外の世界を対立させて考える枠組みのことである。

宇宙には生命のない無機物と生物に由来する有機物がある。「我」には命がある。我をとりまくのは無機物と有機物である。無機物も有機物も素粒子から構成される物理的存在である点は同じである。生物の機能も、ある化学物質が別の化学物質へ変化する化学反応プロセスとして理解できる。つまりは素粒子の運動であり物理現象でもある。この議論を徹底すれば、人間の精神も自由意志も物質の運動として理解する唯物論になる。唯物論には、神も弥陀も入り込む余地はなく、浄土も来世もただの空想になる。

しかし、こんな科学主義はいずれ行き詰る、というより

闇の中で落とし物をした。街灯の下は明るい。そこを探せ!

確かに探せるのは明るい所に限られるから、上の方針は合理的である。しかし、どうも楽観的で合理的な行き方でスッパリと割り切っても、落とし物が見つかる保証はない。

分からンものは、分からンままでよい。それは最初からないと思え。

という発想に通じるところがある。

唯物論が荒唐無稽であるのは、何度も投稿してきたことで、間違いとは思わない。かといって、浄土信仰の道は行き止まりなく、ずっと続いているのか、と。やはり悩ましいのだ、な。


『仏説阿弥陀経』が成立したのは紀元1世紀頃だろうと推定されている。約二千年も前に書かれた阿弥陀経の結句にも

釋迦牟尼佛 能爲甚難 希有之事 能於娑婆國土 五濁惡世 劫濁 見濁 煩惱濁 衆生濁 命濁中 得阿耨多羅三藐三菩提 爲諸衆生 說是一切世間 難信之法

釈迦族の聖者、仏陀は、たいそう困難な事業を実現しています。それは苦悩の世界のなかでも五濁悪世と よばれる、時代の濁り、思想の濁り、煩悩の濁り、有情の濁り、寿命の濁りの濃い只中で、最高のさとりを完成し、さまざまな衆生のために、信じられることの 難しい法を説かれています。

URL:https://mjj.or.jp/amidakyou/amidakyou2

正に《信じてもらうのが難しい法(≒真理》、つまり「難信」のことが説明されている。 

親鸞の思想は、こんな「難信」を認めたうえで、それでも仏道信仰の成り立つ道筋は何かを追求している。

法然の専修念仏は、法然では完結しなかった。親鸞が必要であった。段々とそう思うようになっている。


以上、現時点の覚書きまで。


2026年9月18日金曜日

断想: 法然と親鸞の思想的な違い?

比較的新しい朝の習慣になった読経と称名念仏だが、月曜以外は千遍念仏をしているというのは少し前に投稿した。

短寸の線香一本が燃え尽きるまでが大体30分、昔流にいえば小半刻になる。この間、反復して阿弥陀如来の名を称えると概ね千遍称えることが出来る。しかし、そのためには息を深く吸って十念を早口で繰り返す動作がいる。それが毎日になると疲れが出て来るのだ、ナ。だから、最近はゆっくりとした発声で称えることにしている。そうすると、線香一本が燃え尽きるまでに700回乃至800回の念仏となる。


法然の『一紙小消息』には

行すくなしとても疑ふべからず。一念十念に足ぬべし。

と書かれている。回数の問題ではないのだ、と。

ただ同時に

行は一念十念なほ空しからずと信じて、無間に修すべし。一念なほ生る、況や多念をや。

とも書かれている。

「10回でいいなら11回以上は無駄だベ」という屁理屈は、いわゆる懈怠心で結果にはつながらない。中途半端はゼロと同じである。それで(続けられる範囲で)多念を実行しているというわけだ。


この《行》を中止するという心理はまったくない。前にも投稿したが、

疑いなく善である意志、善である行為は何であるか?

それは、一つには仏道にそって歩むことである。何かの縁があったのだろう、そう考えたから始めたことなのだが、それにしては、称名念仏を終えたあとに、いま一つ《嬉しさ》がない。《満足》は確かにあるのだが、《往生極楽》という観念がスッポリと胸に落ちない。嬉しさにつながって来ない。極楽世界の実在についてロジックは通ると考えているし、それは現代思想とも整合的であると理解しているが、いくら自我は空であるとはいえ、自身の死を迎えるのは、いくら非物質の心は破壊されないとしても、やはり文句なしに淋しいものであるし、可能なら元気で長生きが出来ればいいなあ、という心理は否定できない。

本ブログでも親鸞の言葉を記録した唯円の『歎異抄』は中高生の課題図書に最適だと何度も書いた記憶があるが、先日、読み直しているとこんな下りがあった:

「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころ、おろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

URL:https://minamimido.jp/online/tannisho202507/

「念仏を称えても、喜ぶ心がおきません。はやく極楽へいきたいという心もありません。どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、「この心、私(=親鸞)も疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、(案に相違して)喜べないところにこそ、いつ死んでも往生極楽は間違いないと思わざるを得ない理由がある。喜ばねばならないことを、喜べないのは、煩悩のしわざである。阿弥陀如来は、凡夫の心を百もご承知で、それでも凡夫を阿弥陀仏国に救いとるという意志(=本願)を明らかにされている。故に、他力の悲願は、このような私たちのためであったとさとり、この事をいよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。

つまり、いくら称名念仏をしても心から嬉しくなるわけではない。これが凡夫の(低レベルの)心の現実である。阿弥陀如来が建てた極楽浄土世界の定義は『無量寿経』に記されているが、凡夫救済を本願にしているのは明らかである。

だから、自分の心が迷うからと言って

これでいいのか? これではダメだ。

と自分を責める必要はない。逆に、「だからイイのだ」と。

親鸞の念仏は、自らの意志と選択から積み重ねる修行ではない。阿弥陀如来の方から凡夫を救いとろうと手を差し伸べる、その事を改めて知る、というか思い出すための念仏である。『無量寿経』の「東方偈」の一句

其仏本願力

聞名欲往生

皆悉到彼国

自致不退転

この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、

残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。

正にこの通りなのである、と。念仏を称えることは、阿弥陀仏の名を聞くことでもある。信じることと、称えることと、仏名を聞くことは三位一体であるというわけだ。

聞けば必ず救われる。自分の迷いが、逆に往生極楽へと救われることの確信へとつながるロジックが、ここに構成されている。

岩波文庫版『歎異抄』の第9章末にある注ではこんな風に書かれている:

念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に目覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。

まぎれもない《実存主義》である。巧みなまとめ方だ。

法然の『一枚起請文』の最重要なポイントは

ただ往生極楽おうじょうごくらくのためには、南無阿弥陀仏なむあみだぶつもうして、うたがいなく往生おうじょうするぞとおもりてもうほかにはべつ仔細しさいそうらわず。

URL:  https://www.chion-in.or.jp/okotoba/f23/

この一文である(と勝手に理解している)。法然の念仏は「往生するぞと思い取りて申す」ものである。「思い取りて」とは「自らが決心して」という意味である。

法然の他力本願は、確かに阿弥陀仏の本願を信じる他力思想なのであるが、

敢えてこの道を往くと自らが信じて選ぶのだ

この点では相当に自力的である。自力本願の禅宗の信徒が座禅を選ぶ決意と本質においてどこが違うだろうか?

親鸞の他力本願は、いわば《ポスト一枚起請文》だと勝手に思っている。

思い取りて 思い取りてなお わがこころ

     弥陀をうたがう 我が残れり

法然は《他の道を切って称える念仏》であるのに対して、親鸞の念仏は《切れない私》の救いの念仏である(と勝手に理解している)。自分から極楽に往くのではなく、向こうから送迎に来てくれるはずだ、何故なら自分は凡夫で弱者であるから、と。自分の意志でなく、阿弥陀仏の意志が自分を救うのである。この意味では、親鸞の他力思想は100パーセントの純粋な他力本願の仏道であると勝手に思っている。

まあ、細かい付け足しをするなら、阿弥陀仏の意志によって自分(という凡夫)がいま念仏を称えているという理解より、(この世界に法身としているはずの)釈迦如来のはからいによって自分はいま発願し、念仏を称えて往生極楽を志すようになった、と。こう理解する方が『仏説阿弥陀経』など浄土系原典にも忠実であるとは考えている。


いずれにしても、小生は、法然門下の弁長・良忠・源智の宗派に属するが、親鸞の思想を読んでいると、肩の力が抜けて、楽になるのは事実だ。


2026年9月14日月曜日

断想: ワード、エクセル、パワポの知識は剣術、能楽と同じ伝統芸能と化すか?

昨晩、小生が幼少年期を過ごした愛媛・松山で暮らす叔母から電話があり、亡くなった母の弟にあたる叔父が今月5日に他界したよし。小生にだけは知らせるようにと叔父が話していたそうで、それで電話をしたと言っていた。叔母は、話し始めたら声に詰まってもう涙声になるほどで、とても小生に電話など出来る状態ではないように感じたが、それでも叔父の言葉を覚えていて、かけてきたものと思われる。

ずっと昔、母方の祖父で裁判官をして生涯を送った祖父が喜寿・77歳を迎える祝いの席に、当時まだ健在だった父と母がそろって松山に帰ったことがある。その晩の祝宴には小生も同席した。今般亡くなった叔父と父は義理の間柄とはいえ、はた目にも波長があったと見えて、とても仲がよく、実姉であった母よりも叔父は義兄である父の方を慕っていたようなところがある。その夜、父は『武田節』を唄い、叔父は勤めていた農機具メーカーが熊本に持っていた事業所で仕事をしていたためか『田原坂』を謡った。調べは明るい肥後風であって薩摩風ではなかったと思う。父の声と叔父の歌声が交互に響くあの夜の母や叔母の笑顔はまだ眼前に髣髴とするのである。その夜、祝宴に出席していた大半の人は既に鬼籍に入ってしまった。

実に歳月怱々。この世は無常にして空である。

上の愚息は、隣町の食品加工会社で非正規従業員として簡単な現場仕事をしているのであるが、先日、正規社員になってみないかと問われたそうだ。新規の共同事業を他社と始めるようで、PCを使える人物を探しているということらしい。どうやら、このところの人手不足で中々補充できないので、非正規社員にまで範囲を広げて声をかけているのだろうと推察している。ビジネス現場でPCを使えるかと問われれば、今の常識ではMicrosoft Office、つまりはワードとエクセル、パワーポイントを使えるかと言う意味である(と言ってもイイだろう)。

愚息は、大学時代に少し経験したが、不安があるので今回は辞退したいと返事をしたそうである。


思うのだが、ワードやエクセル、パワーポイントの操作に熟達しているかなど、この問いかけは今後はほとんど意味が失われていくだろう。Copilotを上手に活用すれば十分だ。

何がデータで与えられていて、どんな分析をして、どんな資料をつくって、要点をどうまとめるかを、自然言語でAIに指示すれば、希望する成果は直ちに得られるはずである。

もはや統計ソフトRの非体系的な文法規則を学習してコーディングする必要はない。Pythonで使用するライブラリーに定義されているオブジェクトの名称や、そのオブジェクトが備えているオブジェクト・メソッドやクラス・メソッドを覚えていることの価値も大幅に低下した  ―   これらはAIが代わってやってくれるのであるから。それに「正解」がある場合は、AIは滅多に間違えない。Human ErrorよりAI Errorの方が遥かにレアであるという事実は大多数のユーザーが日常的に実感しているはずである。


愚息には、AIは何でも知っている友人だと思って上手に質問ができるようになれと話している。

2026年9月9日水曜日

ホンの一言: 皇室より大事な問題は多々あるだろうに

最近の皇室に関する世論(?)を観ていると、左翼的な皇族バッシングもあれば、「2600年の伝統」などという極右的な発言などもまじりあっていて、それぞれが互いに溶け合わずに主張している様子は、まるで蕎麦とうどんとラーメンが皿の上で乱雑に混じり合い、どんなツユでどう食すればよいのかが全く分からないゲテモノのような様相を呈している。

これは世論というよりは単なる混迷である

と。そう感じる今日この頃です。


こんな時は、自分への執着が混じった特定の権威の見解を聴くより、まずはAIで全体的な俯瞰をまとめてもらうのが一番である。そこで例によってChatGPTに次の順番で問うてみた。

  1. 皇位の男系継承を考えるとき、天皇と神道との関係がキーファクターになりませんか?
  2. 欧州ではローマ教皇が宗教界の象徴として存在する。欧州の王位に相応する地位として日本の天皇を理解するのは、国民心理の深層をみても、本質をとらえ損なう気がする。どう思う?
  3. 成文憲法の中に天皇の規定を文言として文章化するのは、これまでの日本文化と天皇、皇族との関係性を考えると、どう書くとしても問題が残り、現実的ではないように感じるのだが、この辺についてはどう思う?そもそも日本国の統治形式を規定する憲法に天皇を含める不可欠性があるのだろうか?かといって、大統領制に移行するのも日本の政治家をみると不安だな。

得られた回答はここにあるが、やはり大方の人間よりは要点をおさえることが出来ている。

天皇への感情は通常の王室への敬愛とも、明確な信仰とも違う、宗教以前の共同体感覚に近いものを含んでいます。

  • ただし、「国民心理の深層」を一枚岩として扱うことには慎重であるべきです。天皇を祭祀的存在として感じる人もいれば、純粋な憲法上の象徴と見る人、文化的伝統として緩やかに支持する人、制度そのものに批判的な人もいます。戦後80年以上を経て、天皇と神道との結びつきを意識しない国民も相当に多いでしょう。
  • 天皇が単なる憲法上の公職なら、男系男子限定の合理性は非常に弱くなります。反対に、天皇を皇祖神以来の祭祀と血統の継承者と見るなら、男系論には強い意味が生じます。現在の議論が噛み合わない最大の理由は、実は「男系か女系か」以前に、天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がないことにあるのではないでしょうか。

このように

現在の議論が噛み合わない最大の理由は、実は「男系か女系か」以前に、天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がないことにあるのではないでしょうか。

ズバリ、天皇や皇族に関する認識がばらばらであるという事実を指摘している。

ひょっとすると、こんな状況は、徳川将軍の幕藩体制下においても同じであったかもしれない。武家に権力が移ったあとの室町時代や鎌倉時代の民衆にとっても、その心理は現代日本人につながるものがあったかもしれない。

確かに明治政府は王政復古という形で天皇制について一つの選択をしたのだ。その選択は、倒幕のあとの国内状況、さらに帝国主義が支配する国際環境に迫られたものであったはずだ。本来は歴史的、時限的なもので、決して普遍的真理などではない。明治の精神で天皇制と向き合う必要性は客観的にもうないのである。とすれば、「ご自由に」ということになる。実際、皇室の事はご自由に決めてよい事柄である。


とはいうものの、天皇の地位は民意が決めるべきだという論理は、普遍的論理ではなく、歴史的にも根拠がなく、1946年に占領軍の指導下で制定した戦後憲法の法的要請にすぎないと言いたい自分がいる。憲法は、一度定着すれば権力を縛るとともに、国民をマインド・コントロールするのである。

天皇の問題をいま憲法と関連付けて議論するとき、まったくかみ合わなくなるのは、当たり前であると小生は思う。

「天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がない」ということに議論はとどまらないのだ。日本国憲法とは日本人にとって何者なのかについても、やはり国民の共通理解がない、と勝手に思っている。

つまり、天皇の話しを始めるや、二重の意味で日本人はバラバラなのである。

難しいネエ⋯⋯


最後に

まったく、この問題は複雑だ。正解はないということだけは分かるね。

こんな感想を述べると、AIは

本当にそう思います。「制度として論理的に整えること」と「歴史的に形成されたものを壊さず受け継ぐこと」が、きれいには一致しない問題です。

結局、万人を納得させる「正解」はなく、あり得るのは、何を守り、どの矛盾を引き受けるかという選択なのでしょう。男系を守れば継承可能性が細り、継承範囲を広げれば伝統の意味が変わる。天皇を憲法に置けば国民主権・平等原則との緊張が残り、外せば歴史的連続性や政治から距離を置いた象徴を失いかねません。

ただし「正解がない」から議論しても無駄なのではなく、むしろ、正解がないからこそ、政府や専門家に一任せず、国民がそれぞれの選択の代償まで理解して決めるべき問題だと思います。

このように、

国民がそれぞれの選択の代償まで理解して決めるべき問題だ

と。そう語っている。


たしかにネエ ⋯ ⋯、


これは何度も書いているのだが、つまるところ、「皇室」は所詮は非本質的問題なのである。日本人の生活、仕事にはホボホボ何の関係もない。政策とも無縁。天皇、皇族を中心にした文化的創造の場は、今という時代、絶えて久しいのであるから、要するに皇位継承はどうでもよいことである。

真に重要な問題は他にある。財政もそうであるし、社会保障もそうである。国防もそう。社会資本建設もそうだ。

皇位継承で(一部の物好きに限るとしても?)喧々諤々の論争をして、何だか対立しているような雰囲気になって、その挙句に真の問題を議論する時間も余裕もなくなるのは、日本まるごとドタバタ喜劇を演じていると海外にはみえるだろう。もしもこの騒動に関係者の営利動機が混じっているなら、公益を損ずる実に性悪な行き方ではないか?


思うに、現代日本人のどれほどが自らの願望の《代償》を理解しているだろうかと、この点に関してはまったく悲観的なのである。もし「願望」と「払うべき代償」とのロジックを理解していれば、そもそも解決不能なほどの財政赤字が累積する事態など起きないはずである。

財政破綻は、皇帝のいる王朝国家でも、現代世界の民主主義国家でも、権力の主体が願望を無際限に肯定し、理性的な抑制を失えば必ず起こるものである。

このロジックがいま当てはまっているわけではない。そう祈るばかりである。

【加筆修正:2026-09-10】

2026年9月7日月曜日

断想: これまでは孝行息子と思いしが………

大手メディア企業の報道よりネット(≒SNS)上のやりとりの方が世論に与える影響力が強まりつつある、と。少し前まではこんな指摘がよく耳に入っていたものだ。例えば、兵庫県の斎藤知事当選の際には、メディアの限界がよく議論されていた。

あれからまだ2年も経っていないのか・・・と改めて思う。


最新時点において様相はまた一歩進んだように感じる。


Yahoo! JAPANニュース、Googleニュース、SmartNews等々、いわゆる《ニュース・ポータル》になっていたサイトは数多くあるが、そのどれも目に入る記事は大手メディア企業のヘッドラインである。本文を読もうとすると、まず例外なく広告が再生、ないし表示され、元の画面に戻ると有料版への案内が画面に出る。ネットは大手メディア企業のビジネスの主戦場になった。

いわゆる「メディア」は、スポンサー企業の広告を最終ユーザーに到達させるための有料のメディア(=媒体)なのだから、紙面やTV画面よりネットの方が期待値が高いと判断すれば、ネットがメディア企業の活動現場として選ばれるのは当然のロジックである。

そして情報は、貨幣と同じく『悪貨は良貨を駆逐する』。良貨は秘蔵され、世には出ず、悪貨ばかりが目に入る結果になる。情報の確度ではなく世間の関心に応えることを優先するメディア企業がネットに入ってくれば、それまで良質の意見を提供していた個人の活動は、自分自身を守るためにもっと目立たない落ち着いた場所へと移動するというわけだ・・・そして、情報空間としてのネットは長期的には自己崩壊していく。


小生は、SNSはFBが主で、X、というよりTwitterはアカウントだけを10年以上も前に持ったことがあるだけだ。が、FBもスポンサーの広告が増えて、もはや広告なのか、自分が求めている情報なのか、一目では分からない。

メディア報道も、最近では臆面もなく「ネットでは〇〇」とか、「SNSでは〇〇という批判が大盛り上がり!」などと、

結局のところ、あなたの仕事とは何ですか?

と、アシモフの『黒後家蜘蛛の会』よろしく、質問したくなる。(匿名ではない)具体的な個人はともかく、報道ビジネスに従事する企業に勤務して、色々な記事を流している記者(?)たちのアイデンティティ(Identity)というか、価値と言うか、存在意義というか、レゾンデートル(Raison d'être)というか、・・・何をもって自己の活動を正当化しているつもりなのかを、問いたくなるのだ。

それはともかく、今朝はカミさんとこんな話をした:

小生: 20代の女性で包丁を所有していない人の割合が9割を切ったってねえ・・・

カミさん: へえ~~、そうなの?

小生: うん。何で「20代の女性で」に限定しているのか分からんけど、マア、男なら包丁を持ってなくとも当たり前だと言いたいのだろうな。でね、その理由としては「カット野菜をスーパーで買えばいいし」「調理済みの商品を買えばいいし」、「何も手間をかけるだけが愛情ではない」とか、いろいろ挙げられているらしいネ。

カミさん: うちがさあ、子供たちが大きくなって、カット野菜でいいよねって言い始めたのが、何歳くらいだったかなあ?いまの若い人たちは、それを最初からやろう、と。そういうこと?

小生: まあ、そういうことだ。・・・子供ってお母さんがつくってくれたご飯をいつまでも覚えているものなンだけどね・・・多分、共稼ぎでお母さんも忙しいってことだろうけど。

カミさん: 最近の若い人たちはそんな考え方だよ。

小生: でも、結局それは子供たちと一緒にいる時間より、働いてもらえる金を優先して意思決定したって事じゃないかネエ。

カミさん: 毎日一緒にいるより、お金をためて遊びに行ったり、旅行をしたりして、楽しい思い出を作るのもイイと思うけどなあ。

小生: 確かに俺が幼いころはサ、農家ではお母さんも忙しくてね、学校から帰っても大人はみんな働いてて忙しいのが当たり前だったからね。俺のオヤジは、親戚のうちまでリヤカーで荷物を運んで行けって言われて、市内から〇〇まで何キロ(Km)あるのかなあ、何時間もリヤカーを引いて歩いて行ったっていうから、今の家庭と少し昔の家庭とは、まったくライフ・スタイルが違うよ。

カミさん: あたしはあんまりお手伝いしなかったナア・・・

小生: それは俺も同じだけどネ。今となっては、手伝いもせず、心配ばかりかけていたから、不肖の愚息であったのが現実だったかもね。

カミさん: 勉強は出来たんでしょ?

小生: ああ、親を喜ばせるのが親孝行なら孝行息子だったな。「いい息子」だと自分でずっと思っていた時期もあったよ。だけどさ、テストでいい点数とるのが孝行なわけないワネ。

育てた子が、多くの人を助け、救い、感謝されるような状況が訪れれば

ああ、あの子を産んで育てて本当によかった。恩返しができた。ありがとう。神様、あの子をさずけて下さって、ありがとうございます。

こんな風に心から喜ぶのが親の欲張りな願いである。テストの点数とか、どこの大学に入るとか、⋯⋯、バカバカしい。


人はいつでも何か行動をするときには、迷いながらするか、確信をもってするかのどちらかだ。

そして、迷いは必ず行動を挫折させる。

とはいえ、確信をもってする行動も、それが正しいか、間違っているかといえば、何も証明はされていないのである。

自分は正しい

そう思う気持ちは、現実には自己への執着であって、人が誤るのは第一には「知識の不十分さ」、でなければ「自分への執着、つまり我執」である。このどちらか(あるいは両方)が原因である。

小生はずっと孝行息子である、というよりあったと、思ってきたが

これまでは 孝行息子と 思いしが

     バカな愚息と いまぞ知るなり

《真理》を知らないことこそ、つかの間の幸福感をもたらしてくれるものだ。

2026年9月5日土曜日

ホンの断想: 「二十億光年の孤独」が別の作品のように思えて

 谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』にこんな一節がある:


万有引力とは

ひきあう孤独の力である


宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う


宇宙はどんどん膨んでゆく

それ故みんなは不安である


二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした


この一節は詩という文学だが、無数の生命と物質を包含した宇宙空間をイメージする仏理的宇宙(≒三千大千世界)を表現した作品とも思える今日の夕暮れです。

アレルギー性鼻炎に悩むとき、以前は「小青龍湯」をよく飲んでいたが、あれは若者から中年始めの人に向いている薬だと聞いたので、最近は「苓甘姜味辛夏仁湯」をAmazonから買って、それを服用するようになった。

同じ作品を読んでも、以前はどんな風に感じたか、書いておかないと分からなくなるものだ。

何気に谷川俊太郎の詩集をめくっていたら、前のような印象とはまた違った感想を感じたのでメモしておく。

2026年9月2日水曜日

断想: 古代インド思想で《仏》の本性が議論された源は?

 先日の投稿では

高市内閣の経済政策は《ケ・セラ・セラ戦略》に該当する

と述べた。要するに、『明日は明日の風が吹く』("Tomorrow is another day.")という感性で、名画『風と共に去りぬ』の中で、南北戦争に敗北したあと、全てを失って故郷の農園・タラに戻る主人公・スカーレット=オハラが、この言葉を口にして前向きに生きていこうと決意する場面は大変有名だ。

高市早苗首相と焼け野原の故郷に佇むスカーレットと、どことなく似ているか?

ま、こんなイメージもあってよいかもしれませぬ。

【補足】映画の内容に照らしてみると上の言い方には混同があることが分かった。が、イメージはこんな風なので、このままにしておきます。


今日あたり、食料品に対する消費税減税の財源を法人税増税に求める話しがTVでされていて、

何も考えていないわけではありません

と、どうやら企業に逆風が吹き始めたという状況だ。でも、マア、これからの話しである。ベッセント・米財務長官は、明らかに財政拡張には反対している考えのようであるし、日本の財政政策の先行きは、まったくの五里霧中といった所である。

知識なき闇の世界、即ち「無明」を照らすために、色々な学問分野があり、経済については経済学が(インチキ版ではなく真っ当な経済学が曲がりなりにも?)使える状態であるにもかかわらず、「知識」なるものを軽蔑するのであれば、そりゃあ「五里霧中」にもなるし、ケ・セラ・セラにもなりましょうて・・・という感覚で観ているところである。

俗世間のことはさておき、こんな事を思った。

というのは、小生が属する宗派で日常的に読む『三宝礼』のことである。具体的には

一心敬礼 十方法界 常住仏

一心敬礼 十方法界 常住法

一心敬礼 十方法界 常住僧

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうぶ

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうほう

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうそう

これが日常勤行式の二番目に読まれる。趣旨はいわゆる「ブッポウソウ」、つまり仏と法と僧の三つは「三つの宝」(=三宝)なのだから、大切にせよ、と。公式の解説も大体同じ内容だ。

実は、ずっと月参りで聴いてきたときも、自分でも読経するようになった最近においても、小生はこの「三宝礼」というのは実に退屈に感じていたのだ。


それが変わったのは、読経の習慣ができて経典の文言を自分なりに解釈するようになってからだ。三宝礼もその一つだ。今日はそれをメモしておきたい。

最後の《僧》だが、これは「知識」を表すのだろうと思うようになった。これを「僧」と言うのは、仏道の経典であるからだ。僧は仏道の知識が人の形をとったものだ。

二番目の《法》だが、これは「道理」、「法則」、「真理」といった意味であろうと理解するようになった。もちろん仏道において、ここで「法」というのは「仏の教え」という意味に決まっている(はずだ)。小生はもっと広く理解したい。上の「知識」とは「法」に関して獲得されるもので、無尽蔵の法の中のごく一部分を人間は知識として得るのである。

「法」は「知識」を超え、「仏」は「法」を超える。いまではそう考えるようになった。逆に言うと、知識は法の一部であり、法は仏の一部である。つまり、最上位の《仏》は法を超えるもの、法の以前に実在するものである。法で止まらない所が、単なる「科学」とは違っている。

仏教では永遠の最終的実在として「仏」という漢字を当てているが、要するに「純粋知性」というべきものだろうと今は理解している。知性は法の源である、と。そんな宇宙観なのだろうと思う。ヘーゲルなら「世界精神」と言うだろうし、仏道では「法身」と呼ぶこともある。プラトンならイデア(=理想世界)をイメージできる「理性」と考えるであろう。人間が感覚的に観察する科学法則は、宇宙の法が可視化された結果である。観察される現象に形式と秩序を与え、法則として宇宙を理解するのは、理性の働きそのものである。

このブログでも何度か書いているが、人間の持っている能力というか、働きの中で、たった一つ「理性」だけは、全ての人に共通の形式で働く。感情や価値観、信念は個々人ごとに違うが、理性だけは共通、同一の仕方で考え、論証し、結論を出せるのである  ―   でなければ、人類共通の数学や論理学が成立するはずはない。

ただ、こう書くと、「法」を超える窮極的実在に関して、非常に西洋的に考えていることになる。仏道の世界は理論物理学の宇宙観とはまったく違っている。仏がいる世界には、因果律とともに、因と果を見通した目的もある。つまり善と悪の行為がある。

古代インド思想の何よりの特徴は、仏・法・僧の二番にある法の中に《輪廻転生》を真理として置いてあるところにある(と勝手に思っている)。当然だが、輪廻転生は仮説であるし、現代科学に染まり切った現代人なら「空想」であるとも言うだろう  ―   現代科学主義の根底にある唯物論もまた一つの荒唐無稽な空想であるというのは既に投稿した。

仏道に限らずインド思想では、「輪廻」を仮説でなく当然の真理として最初から前提している。生命あるもの(=衆生)は、この世界で何度も生まれ変わり、死に変わりしながら、ずっと一つながりの命として存在し続ける。生と死は物質的身体を与えられた個々の生物体の一時的状態に過ぎない。命は恒常的にあり続け、生は物質的身体をもっている状態、死は物質的身体をもっていない状態、というわけだ。

この「輪廻」を認めるのであれば、輪廻現象を含んだ諸法則の源である窮極的存在とは、一体どのような属性をもつはずのものであるか?

確かにこの問題は基本的であったに違いない。

同じ問題を問題としてとりあげた西洋の哲学者は(不勉強のせいもあって)知らない。

輪廻の仮説性は否定できない。とはいえ、一度それを認めると、宇宙は「生命」と「非生命」に二分される。物質に生命を生む潜在的可能性が含まれているかもしれないが、そんな素粒子の存在は聞いたことがない。生命は非物質であるとすると、宇宙には非物質と物質の二つが存在することになる。

では、そもそも非物質の命とはなぜ宇宙にあるのか?

そもそも理性という人間を超える普遍性のある働きがなぜ宇宙にありうるのか? 

そんな疑問が出て来る。生命は、物理化学的には自己組織化であり、エントロピー増大法則に反する現象である。なぜ宇宙には例外的な現象があるのか?なぜ生命はあるのか?

【修正】シュレーディンガー『生命とは何か』に書いてあることを忘れてこう書いてしまった。生命は外部にエントロピーを排出して、自身の内部を低エントロピー状態に維持しようとする。こう言うと正確だ。

命(=衆生)には目的がある。とすれば、目的を設定する存在を認めなければならない。

窮極的実在は、命(=衆生)を愛し、憐れむという本性をもっているに違いない。

最終的実在を《仏》と呼んで、仏とはどのような本性のものなのかについて、哲学的な思弁を展開した古代インド哲学者(と宗教家)のモチベーションが、何となくにせよ、分かる気がするようになった。


AIは、プリゴジンでも読んでみたらと推薦してきた。現代的視点から物理的にはどこまでが見当がついていて、どこから先が分からないのか、存在は知っていたが、一度読んでみますかネエ。


日常勤行式の「三宝礼」は、案外深い意味を持っている、と。今ではそう思っている  ―   ごくごく最近からだが。

以上、覚書まで。