浄土系信仰の対象である阿弥陀如来は人間ではない。もちろん過去に死んだ人間のことでもない。過去に死んだ人間が今いるはずもないではないか。
阿弥陀如来が人間として生きた時間、法蔵という名の修行僧であったのは、大乗経典『無量寿経』の通りだとすれば、なるほど「事実」である。しかし、だからと言って、死んだ人間が別の所に行って「極楽」という世界を作ったという話を、そのまま信じる人はいないはずだ。
だからこそ法然は『一枚起請文』の中で
一文不知の愚鈍の身になして・・・ただ一向にねん仏すべし
と書いたのに違いない。自我と理性に基礎をおく近代文明も良し悪しで、考えるなら考えるで、徹底的に考えなければ「信仰」なるものが成立するはずは最初からないのである。
生きていた法蔵は、いわば「プレ如来」、仏語で言うなら「菩薩」であった。生前に菩薩であったという認識と死した後に如来になるというのは、表裏一体の言い方である。であれば、何を達成すれば人は菩薩になるのかという問題意識から大乗仏教は興った。その頃の思想の果実は膨大な大乗仏典となって残っている。
毎朝の称名念仏は、小生の属する浄土系宗派の勤行なのであるが、その根拠が大乗仏典の中の一部分である浄土三部経にあることは前にも述べた。そこでは仏教の開祖である釈迦如来は「世尊」という名で登場しているが、釈迦はナレーターとして登場するに過ぎず、釈迦が薦める信仰対象である阿弥陀如来が真の主役なのである。
その阿弥陀如来は「無量寿仏」とも「無量光仏」とも呼ばれるとおり、時間を超越した永遠の寿命をもち、無限大の光明を発する実在として観念されている。
しかし、この宇宙に「無限」は存在しえない。無限に高速であると感じる光でさえ速さは有限である。
つまり阿弥陀如来は観察可能な実・宇宙空間に存在してはいない。だから、浄土三部経で阿弥陀仏や阿弥陀仏が開いた世界である「極楽」が視覚や聴覚に訴えかけるように感覚的に描写されている箇所は、《描写》として文字通りに読むべきではなく、全ては《象徴》として読まなければならない。これが理屈であろう。サンスクリット語が書かれる梵字やデーヴァナーガリー文字でもなく中国の漢字で書かれた「阿弥陀如来」や阿弥陀如来の仏画も、「・・・である」という描写ではなく「・・・のようなもの」として、つまりは《記号》として見られるべきである。そう考えなければ唯の荒唐無稽としか思われないはずだ。
阿弥陀如来が語られる世界は「無限大の世界」であり、純粋理性にのみ理解される。「無限大の世界」であるから普通の常識は通用しない。それは数学的な無限の世界で多くの非常識な結論が導かれるのと同じである。つまり経典に書かれている文章は、全て象徴としてのみ意味をもち、純粋知性である「如来」を伝達したり、理解したりするための記号として見なければならない。例えば、それは無限を表現するための記号である"$\infty$"や実数などの連続濃度を表す"$\aleph$"と同じ理解の仕方になる。多次元の連続的な実数空間について定理を発見したり証明したりするのと同じ意味合いで、無限の世界の出来事である極楽浄土のありようを象徴的に語っているのが大乗仏典であると解釈しなければ、そこに書いてあることは荒唐無稽に感じるだろう。
仏理では、このような抽象的な理論上の存在、言い換えると「理論上、実在するはずの存在」を《法身》と呼んでいる。もしも抽象的観念だから実在しないと考えるとすれば大きな間違いだ。現代世界にAIで自動走行する電気自動車は既に生まれているが、真に実在するのは、金属やプラスチックなどの集合体である自動車そのものではなく、それらを生み出した非物質的で抽象的なAIや車本体を製造するための製造知識である。自動車という被製造物は一定の時間内のみ動作するが、それらを製造する知性や知識は非物質的であるから(顧みられなくなることはあっても)無くなることはない。世間がいう「発明」とは知の世界における「発見」なのである。この辺の事はもう何度も本ブログに投稿している。
毎朝、(ささやかだが)千遍念仏を称えているのは、法身と言う純粋観念である阿弥陀如来の実在を、自己の内心の中で実感し、体感するための修行である(と勝手に思っている)。
自分が念仏する声を自分で聴きながら、観念(に過ぎないはず)の存在が現実に心を照らし、光を浴びる温かさを感じたり、すぐ近くに(つまり心の中にという意味になるが)観念の実在を体感している感じとか、それは錯覚と言われればそうであるかもしれないし、思い込みと言われればそうであるかもしれないが、それは事実なのだから仕方がない。宗教的心理を自然科学で分析することには無理があると思う。そもそも《直観》と《思い込み》を識別するのは無理である。データや実証的作業からは得られない(はずの)直接的な理解がここにはあるとしか言いようがない。美しい音楽を(そうと分かる人は)なぜ美しいと感じるか?この問題を科学的に分析するのは、やはり同じ理屈で無理であると思っている。
以上、きょう現在の日誌としてメモする次第。