プラトンは、弟子のアリストテレスより、時代をはるかに先行するピタゴラスに近いところがある。輪廻転生を肯定している所はそっくりである ― 日本の作家、三島由紀夫はその思想の末流に位置するわけだ。
西洋の哲学では古代ギリシアから近代哲学まで、結局
理性によって真理に至るとする合理主義の系譜と、経験によって真理を得るとするイギリス経験論の二つの論争に帰着する
こんな風に(勝手に)総括している。
これに対して、仏道では、物質と非物質との違い、具体的には物質的存在が実は空であること、にもかかわらず一部の物質がもっている(と思われる)生命が輪廻によって生まれ変わり、死に変わるのは、なぜ可能なのか?この問いにずっと執着している印象がする。
本質的に空なる物質と生命の永遠の輪廻はどう両立するのか?
この問題である。
だからと言うべきか、仏理を勉強しているとき、経験によって真理に到達するという考え方に出会うことは(小生の不勉強のせいかもしれないが)ない。真理に至らないのは、無明、つまり迷いの故であり、迷いは感覚と感覚がもたらす表象に執着しているからである、と。
なので、仏理を貫く発想は、西洋の合理主義哲学と相性がよいと思われるのだが、だからと言ってプラトンの否定する《ドクサ》(≒根拠のない思い込み)が、唯識論でいう《偏計所執性》とほぼ同じであるかと言うと、ちょっとイメージが違うような気がする。大体、仏道には西洋近代哲学のような
すべての人に共通して与えられている理性と理性の普遍性
という、そうした考え方はないように思っている ― しいて言えば、すべての人に潜在している《仏性》を想定する如来蔵思想が思い当たるくらいだ。
しかし、仮にこの二つは同じ趣旨だとすると、プラトンの《イデア》は真の智慧である《エピステーメー》によってのみ獲得されるという議論と、仏道の《仏智》(≒最高の智慧)によってのみ得られる《円成実性》という議論は、同じことを言っていると理解してもよいかもしれない。大きな違いは、仏道がいう《因と縁》というモデル化であるかもしれない。が、これすらもギリシア悲劇の『オイディプス』など、大乗経典にあってもおかしくなく、『観無量寿経』の頻婆娑羅王と阿闍世王の父子相克と阿闍世の救済はその古代インド版であるとも感じられる。
プラトン的な宇宙観をもっている西洋の自然科学者は現代でも多いそうだ。そういえばノーベル物理学賞受賞者で『皇帝の新しい心』を書いたロジャー・ペンローズはそうであった。であれば、仏教的な宇宙観と最先端の自然科学者のそれが深いところで共鳴する所があるかもしれない。もしそうなら、そんなやりとり、読んでみたいネエ・・・
以上、思い付きのメモ。
