2026年8月12日水曜日

覚書き: 足元の景気判断を誰も語らないのは奇妙だネエ・・・

 普段愛読しているブログに足元の日本経済の景況に関してこんな下りがあった:

日本企業の第1四半期の決算発表も8割方終わりつつありますが、概ね好調と言ってもよく、経常利益は前年同月比で25%の上昇となっています。円安に伴う輸出企業の利益増加と思われるかもしれませんが、輸出企業と内需関連企業で経常利益の貢献率を見るとざっくり輸出企業の60%に対して内需が40%となっています。また金利上昇に伴う金融機関の利益が莫大になっており、業種全般に好調を維持していると言えます。

日本経済を見れば絶好調とまでは言わないまでもバブル経済以降、最も輝いている時代に入っているとみています。

URL:https://agora-web.jp/archives/260806204700.html

ところが高市内閣は物価高騰の中での生活支援策として消費税減税を断行しようとする構えだ。つまり

景気は良いが、暮らしは苦しい。

ここから出て来る結論は、

労働分配率が急低下し、企業利益に吸収されている。

こうなるのだが、本当だろうか?

ChatGPTに調べてもらったばかりだが、こんな回答だ:

財務省「法人企業統計」を使った企業ベースの労働分配率(人件費/付加価値)では、2024年度は64.2%でした。2000年度の73.2%から約9ポイント低下しています。 さらに2025~26年の四半期データでも低水準が続いており、内閣府の2026年7月資料では、2026年1~3月期までの推移が概ね60%台前半にあります。

かなり以前に本ブログにも投稿したことがあるが、SNAベースで測ると労働分配率はそれほど劇的に下がっているわけではない。が、企業会計ベースで足元の分配は、かなりな程度、労働所得から資本所得へと比重が偏りつつある。このトレンドに間違いはないのだろう。そして、この背景としてAIの普及、浸透があるはずだという見立ては、前にも投稿したことがある(たとえばこれ)。

「AI革命」がリードする「新たな成長軌道」に日本は入りつつあるのだろうか?

しかし、企業利益が拡大し、労働所得が伸び悩み、結果として労働分配率が下がっているなら、当然の理屈として法人税を増税するという選択肢が検討されるはずだ。ところが、消費税減税の財源として、法人税増税を叫ぶ声がそれほど大きいわけではない  ―   マア、新聞、TVも増税は嫌がるはずなので、故意に触れないだけなのかもしれないが、まさかここまで不誠実ではあるまい。

ただ、景況感がイイと言うのは、内閣府の景気動向指数の動きからも確認できることではある。


Source:  https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

緑色が先行系列、紫色が一致系列で、直近月は本年6月である。図から明らかなように、先行系列は直近のボトムである昨年4月以降、ずっと上昇を続けている。これは景気拡大の腰が極めて強いことを意味している。紫色の一致系列は生産・販売の現状を総合的に伝えるデータだが、多分(?)今後にかけて上昇トレンドを加速するであろう、と。図を見る限り、こんな予測になる。

最初に引用した景況感とも一致するのだが、どうも違和感もあるのだ、な。とにかく日本社会には《明るさ》が欠けている。

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。
これでは法人税率引き上げなど、政府は言い出せないだろうネエ
という状況だ。


一部の人が言う「奇妙な明るさ」は、どこから来るのだろうか?

そもそも内閣府の景気動向指数は、今でも景気判断材料として信頼に足る統計なのだろうか?

「四半期別GDP速報(QE)」を重要な景気指標とする慣行は、ごく最近になってようやく「ちょっとおかしい」と感じ始めたのか、下火になってきたが、毎月の景気動向指数の方は小生も愛用してきた。しかし、これも「ちょっとおかしい」という動きをするようになってきた。

一時的な気の迷いか・・・


2026年8月8日土曜日

断想:日本史には二度の《大崩壊》があった?

高市内閣による皇室典範改正でにわかに「皇統」とか、「古代」とか、日本の神話時代に遡る発想が今は面白いというので、最近よく目にするのは継体天皇の名前である。

応神天皇や仁徳天皇より後の人だから神話の中のヒトではないが、何しろ遠い昔のことで『古事記』で知る時代、文字通り「遠つ神代」に生きた人である。

大体、日本人は「そもそも⋯」が好きである。日本語で「そもそも」と言いたい時、英語ではどう言うか、正直、適切なことばが浮かんで来ない。To bigin with、違う。Originally、ちょっと違う。Fundamentally speaking,...、ウ~~ン、いきなりクソ真面目な顔をして言ったら、笑われるンじゃないかナア。

これも古代から中世へと年表の古い順に日本史の授業をやっている副作用かもしれない。歴史に学びたいなら、先ずは一つ前の時代を振り返る考え方で、言うならば中国流で勉強するのが実際的な歴史だと思う、というのは前にも投稿したことがある。「温故知新」とは、千年前の事を知れば今の社会がよく分かる、という主旨ではない。そうではなく、今の社会を知るためには、その前の時代を振り返って経緯と沿革、そして必然性(?)を確かめる、そんな風に糸を手繰るように因果関係を遡及しながら、現在の状況を理解するという実証的方法論である。誰でも日頃やっていることであって、当たり前の正攻法が、正しい理解への早道である、ということだ。だから「歴史」と言っても難しく身がまえることはないのである、本来は。それを1500年位の昔かどうかハッキリしないが、継体天皇がこうだから今はどうこう⋯などと真面目に議論する風景は、滑稽としか感じられない。


それはともかく、これも前に投稿したことがあるが、

日本は応仁の乱の前後でまったく別の国になった

つまり、応仁の乱によって古代以来の社会構造は完全な崩壊へと向かい、織田・豊臣以降の社会はまったく新しい骨格をもった社会になったと言うのだが、小生も日本史が専門ではないが「それはそうかもなあ」という位で共感できることなのだ。応仁の乱の真っ最中から伝わった東山文化の侘び寂びは現代日本人にも感覚的にピンと来るが、鎌倉武士の日常や平安貴族の常識とか意識は本質的に共感の域を超えているはずだ。ましてその時代の庶民の暮らしぶりなど知識があるまい。

もう一つの大変動は、言うまでもなく昭和20年の「無条件降伏」である。占領軍が原稿を書いた戦後憲法は、織豊以降の近世・近代の日本社会を完全に覆した  ―   戦時の国家総動員体制で古い日本は半ば瓦解していたと見る人もいるかもしれないが。少なくとも、明治維新は《大崩壊》ではなく、権力層の交替であって、社会構造は(基本的に)保存された(と思っている)。

太平洋戦争は確かに日本にとっては《千年に一度》級の大変動をもたらした。というより、今ももたらしつつある。そう観るべきかもしれない。

小生は、戦前期・日本で中年までを生きた祖父母の感覚を知っているが、それでも敗戦より前、芝の増上寺には徳川家の霊廟群が江戸そのままの姿で厳かに建ち並び、霞が関には海軍省、三宅坂には陸軍省と参謀本部があった戦前日本のリアルな空気までは分かる由もない。同じ文化遺産を継承していながらも、戦前に生きていた日本人は現代とはまるで違う歴史観をもち、違う考え方をしており、服装や髪型、毎日の食事、あるいはしゃべり方すらも異なっていた(はずである)  ―   共通しているのは同じ数学的問題に同じ解答をするという論理においてくらいだろう。これが一つ前の時代で、「戦後日本」という現代は「降伏」という衝撃後に、そこから出てきた一つの結果である。


思うのだが、継体天皇云々は現代日本とは何の関係性もない歴史ロマンである。歴史的に今という時代を考えるなら、織豊政権から江戸時代、明治維新と王政復古、軍国主義までを大きく一括りにした「過ぎた時代」のあり様と歩みを振り返る方が先だと思っている。

【加筆修正:2026-08-09】



2026年8月5日水曜日

覚書き: 極右の女性首相の爆走、完走できるか?

クルーグマンやデロングのお二方はよく本ブログで引用させていただいているが、フランスの人口学者・エマニュエル・トッド先生の世界感覚も小生とは波長が合うので、何度かネタに使ったことがある。

最近でもこんな見方を述べている:

国際関係はイデオロギーや善意に基づいているわけではありませんし、そうなってはならないのです。

私は中国との穏やかな関係を提唱していますが、中国が巨大な勢力であることも認識しています。どれほどお互いに善意を持っていようとも、もし日本が自らの独立・自立・中立を守るための手段を持ち合わせておらず、また核兵器を保有せず、世界と良好な関係を保てない場合、日本は単に中国の属国になってしまうだけでしょう。日本は自国の独立を守るために、技術的な手段も持っておかなければならないということです。

また、中国の抱えている問題も受け入れる必要があります。たとえば、台湾に関しては中国を放っておくことです。日本こそが台湾の守護者だと考えるのをやめなければならないのです。この見方を好むか好まないかが問題なのではありません。中国との良好な関係構築のためには、相手国の利害についても認識し、各国の勢力関係をしっかりと見据えなければなりません。

だからこそ日本にとっては、核兵器の保有こそが唯一の選択肢だと私には思えるのです。日本は新しい国家理念を定義し、示すべきなのです。

この新しい日本の理念が、自国を核兵器で守りながらも国際関係においては中立性を保ち、自国領土から米軍基地を排除し、同時に「台湾は中国の一部であるという事実を受け入れる」という構想を掲げるのであれば、日本と中国は平和に共存する道が開けるのではないでしょうか。

Source: YAHOO! JAPAN ニュース
Original: Courrier Japan
Date: 8/4(火) 19:45
URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/a30edf2968cbe57b517225f9a72eb456c706c81d

上のような中国観(とアメリカ観)、そして防衛感覚に小生は100%賛成する。

しかし、高市・現内閣の基本方針とは正反対になるであろう。

そればかりか、経済政策をみても日銀の独立性への目配り、長期的な税制改革への展望もなく、

まるでアメリカのトランプ政権の無戦略を戦略とする戦略(?)を模倣する戦略(?)をとりつつある

こう感じられるのだ、ナ。

食料品に対する消費税率ゼロは、それ自体として最初から否定するべき方向ではない。現に多くの「先進国」で同じ政策を実行している  ―   ChatGPTにでも聞きなせえ。

とはいえ、実行するなら実行するで合理的方法を選択する必要がある。

理論なく政策の断行をもって最上の政治とする政治哲学

高市内閣の経済政策は《超・経済政策》と形容してもよいだろう。"Sanae's Ultra Super Economics"、略して"SUSE”とでも小生は呼びたい。

太平洋戦争開戦の直前、総理就任前の東條陸相が御前会議で発言したときく:

人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ

令和・日本の高市現首相の風貌と声音をTV画面で視て、昭和16年当時の東條英機首相のたたずまいの、男女の別はあるけれども、生まれ変わりのような既視感(デジャブ)を覚える人は他にもいるかもしれない。勤勉さと頑固さ、押しの強さと狭い視野が同居しているお人柄ということなのだろうか⋯⋯。ご本人と話したことは勿論ありませんが。

どうせ清水の舞台から飛び降りる覚悟が出来たなら、前にも投稿したが

さすが極右の女性首相

こんな風に感嘆できる政策断行を次々にやっていって欲しいものだ。

とはいうものの、あまりに任重く、道はあまりに遠い。

マア、一年以内に自爆する確率が60%以上はある

そんな予測をしながら観ています  ―   世間の風は「下手なシノギをして⋯⋯、もう詰んじゃったなあ」という方向に吹き始めているようだが。

前にも投稿したが、(首相ご本人のかどうか分からないが)皇室観だけであった、共感できる点は。

2026年8月2日日曜日

断想: 「信仰 ≠ 錯覚」、「抽象こそ実在」だと感じるとき

浄土系信仰の対象である阿弥陀如来は人間ではない。もちろん過去に死んだ人間のことでもない。過去に死んだ人間が今いるはずもないではないか。

阿弥陀如来が人間として生きた時間、法蔵という名の修行僧であったのは、大乗経典『無量寿経』の通りだとすれば、なるほど「事実」である。しかし、だからと言って、死んだ人間が別の所に行って「極楽」という世界を作ったという話を、そのまま信じる人はいないはずだ。

だからこそ法然は『一枚起請文』の中で

一文不知の愚鈍の身になして・・・ただ一向にねん仏すべし

と書いたのに違いない。自我と理性に基礎をおく近代文明も良し悪しで、考えるなら考えるで、徹底的に考えなければ「信仰」なるものが成立するはずは最初からないのである。


生きていた法蔵は、いわば「プレ如来」、仏語で言うなら「菩薩」であった。生前に菩薩であったという認識と死した後に如来になるというのは、表裏一体の言い方である。であれば、何を達成すれば人は菩薩になるのかという問題意識から大乗仏教は興った。その頃の思想の果実は膨大な大乗仏典となって残っている。

毎朝の称名念仏は、小生の属する浄土系宗派の勤行なのであるが、その根拠が大乗仏典の中の一部分である浄土三部経にあることは前にも述べた。そこでは仏教の開祖である釈迦如来は「仏」あるいは「世尊」という名で登場しているが、釈迦はナレーターとして登場するに過ぎず、釈迦が薦める信仰対象である阿弥陀如来が真の主役なのである。



その阿弥陀如来は「無量寿仏」とも「無量光仏」とも呼ばれるとおり、時間を超越した永遠の寿命をもち、無限大の光明を発する実在として観念されている。

しかし、この宇宙に「無限」は存在しえない。無限に高速であると感じる光でさえ速さは有限である。

つまり阿弥陀如来は観察可能な実・宇宙空間に存在してはいない。だから、浄土三部経で阿弥陀仏や阿弥陀仏が開いた世界である「極楽」が視覚や聴覚に訴えかけるように感覚的に描写されている箇所は、《描写》として文字通りに読むべきではなく、全ては《象徴》として読まなければならない。これが理屈であろう。サンスクリット語が書かれる梵字やデーヴァナーガリー文字でもなく中国の漢字で書かれた「阿弥陀如来」や阿弥陀如来の仏画も、「・・・である」という描写ではなく「・・・のようなもの」として、つまりは《記号》として見られるべきである。そう考えなければ唯の荒唐無稽としか思われないはずだ。

阿弥陀如来が語られる世界は「無限大の世界」であり、純粋理性にのみ理解される。「無限大の世界」であるから普通の常識は通用しない。それは数学的な無限の世界で多くの非常識な結論が導かれるのと同じである。つまり経典に書かれている文章は、全て象徴としてのみ意味をもち、純粋知性である「如来」を伝達したり、理解したりするための記号として見なければならない。例えば、それは無限を表現するための記号である"$\infty$"や実数などの連続濃度を表す"$\aleph$"と同じ理解の仕方になる。多次元の連続的な実数空間を概念的に生成し、そこで成り立つ定理を発見したり、論理的に証明したりするのと同じ意味合いで、無限の世界である極楽浄土のありようを象徴的に語っているのが大乗仏典であると解釈しなければ、書いてあることは荒唐無稽に感じるだろう。



仏理では、このような抽象的な理論上の存在、言い換えると「理論上、実在するはずの存在」を《法身》と呼んでいる。もしも抽象的観念だから実在しないと考えるとすれば大きな間違いだ。現代世界にAIで自動走行する電気自動車は既に生まれているが、真に実在するのは、金属やプラスチックなどの集合体である自動車そのものではなく、それらを生み出した非物質的で抽象的なAIや車本体を製造するための製造知識である。自動車という被製造物は一定の時間内のみ動作するが、それらを製造する知性や知識は非物質的であるから(顧みられなくなることはあっても)無くなることはない。世間がいう「発明」とは知の世界における「発見」なのである。この辺の事はもう何度も本ブログに投稿している。

毎朝、(ささやかだが)千遍念仏を称えているのは、法身と言う純粋観念である阿弥陀如来の実在を、自己の内心の中で実感し、体感するための修行である(と勝手に思っている)。

自分が念仏する声を自分で聴きながら、観念(に過ぎないはず)の存在が現実に心を照らし、光を浴びる温かさを感じたり、すぐ近くに(つまり心の中にという意味になるが)観念の実在を体感している感じとか、それは錯覚と言われればそうであるかもしれないし、思い込みと言われればそうであるかもしれないが、それは事実なのだから仕方がない。宗教的心理を自然科学で分析することには無理があると思う。そもそも《直観》と《思い込み》を識別するのは無理である。データや実証的作業からは得られない(はずの)直接的な理解がここにはあるとしか言いようがない。美しい音楽を(そうと分かる人は)なぜ美しいと感じるか?この問題を科学的に分析するのも、やはり同じ理屈で無理であると思っている。

以上、きょう現在の日誌としてメモする次第。

2026年7月30日木曜日

ホンの一言: 電車の釣り広告からニュースポータルへ移り変わった30年?

大地震で発生したイオン熊本の大規模ガス爆発。

YahooJapan!ニュースなどに掲載されている報道では

(ガスタンクの自動供給停止機能、建物の構造等を考慮すると?)これほど大規模なガス爆発は起こり得ない!

専門家は、爆発するはずがない、と。

そうなの?

不審に思う人は多かろう。

詳細はオリジナルの記事を(有料で)読んでほしいというわけだが、それにしてもエゲツナイ宣伝である。

起こり得ないと言っても現実には爆発している、ということは「専門家にも分からない」って事だネエ⋯⋯

そう解釈せざるを得ない。

たった一つの可能性は科学的因果関係の外側、つまりヒューマン・エラーか、故意による犯罪で起きた。理屈はこうなるが、だとすれば別の宣伝文句にするべきだろう。

Yahoo等のニュースポータルは、以前の自由な情報提供の場から、数多のマスコミ企業のプロモーションの場にかわり果てた。CM挿入の技術進歩ばかりが目立つ。情報価値の自壊は覆いようがない。AIの普及でその自壊ぶりは、より明瞭なものになろう。


才能ある人たちの活動はYoutubeに移ってしまった  ―   もちろん色々な評価はある。が、世論形成の自然な場はこんなものではないかとも感じる。Gender-Freeが好みならIdeology-Freeにもこだわってほしいものである。組織、企業は、一人の人間に宿る自然の動機ではなく、集団的に特定の目的を達成するために最適な言論を張るのである。人間には煩悩があるが、企業や組織はそれをシステマティックに行使する。そこが濁りにも、汚れにも映るのだ、な。

日本の世論が形成される場もアメリカ企業が運営するプラットフォームへと流出したようだ。

中国が自国産のネットに執着するのも理解できる気がする。

「お上」が管理するニュースサイトが清潔で見やすいとしても、内容を信用してもイイかどうか迷うかもしれない。ただ内容への疑念は、商業主義、利益追求に毒される日本のネット状況下でも、同じようにある。どうせ疑わしいなら、最初から分かっているだけ、清潔で見やすい中国的ネット状況の方がマシと感じる人は意外に多いかもしれない  ―   但し、中国国内のネット画面を中国人の立場に立ってリアルに経験したことはないので以上は想像に過ぎない。




2026年7月27日月曜日

覚書き: 豊臣家のイメージ?「トランプ政権、〇〇秋の陣」とでも呼ばれるだろうか?

アメリカ=イスラエル枢軸軍による奇襲的なイラン空爆とその後の戦況は、「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず」と言ったところで・・・今や世界的にも共通の認識になってきた模様。

これについて日本のネットでも

戦後、アメリカは多くの戦争を戦ってきた。大きな戦争としては、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争がある。だが、しかし、これらの戦争はいずれもアメリカが当初掲げた政治目標を十分には達成できなかった。敗北の理由は様々考えられるが、共通しているのは「傲慢さ」である。現在のイラン戦争も、トランプ大統領の「arrogance」ゆえに、歴史と状況に対する正確な分析に欠け、戦争の明確な戦略を立てることに失敗している。アメリカがイランに軍事的に敗北することはないにせよ、勝利を収めることも難しいだろう。

Source:Yahoo!JAPANニュース

Author:中岡望

Date:2026-07-27

こんな書き込みがあったりする。

これを読んで、ちょっと笑ってしまいました。だってト大統領が「傲慢」で「自意識過剰」のお人柄であることは周知の事実と言ってもよい程、明々白々のことであります。問題は、そういう人を大統領に選出した、そういう人が選挙で勝利したという事実にあります。もし大統領になればこんな大統領になるという予想は事前にあったわけでもあります。

その中でも急先鋒のクルーグマン博士。相変わらずsubstack.comの場で論陣を張っているが、デロング先生とはまた趣を異にしているのが面白い。デロング先生はcoolかつscinicalな雰囲気があるが、クルーグマン先生はずっとpassionateかつpessimisticである。最近はこんな投稿をしているので、(和訳したうえで)全文に近い引用をさせていただこう:

しかし、ここで本当に恐ろしいのは、トランプ氏が勝利に見えるものを勝ち取ろうとする試みを諦めたように見えることだ。ほんの数日前までを振り返ると、トランプ氏は事実上撤退し、プロジェクトを放棄し、海峡が事実上開いたことで原油価格が下落するのを利用して、これは真のアメリカの勝利であり、経済は好調で、株式市場を見れば分かるように、という話をでっち上げようとしているように見えた。

そして、まあ、それはちょっとどころかかなり愚かで、破滅的な試みだった。同時に、ある意味驚くべきことでもあった。なぜなら、真剣に紛争を終結させようとするなら、現実と向き合い、「よし、この戦争はうまくいかなかったが、アメリカは依然として偉大だ。申し訳ない」と言う必要があったからだ。

しかし、トランプ氏は感情的にそれをどうしても受け入れられなかったようだ。彼はこの事業が失敗したことを決して認めようとしない。彼は何事も失敗を認めようとしないのだ。彼の任期中、私たちはリフレクティング・プールの破壊工作犯を探し続けることになるだろう。

これは不吉な戦略転換だ。中間選挙に向けてトランプは何を考えているのだろうか?おそらく、十分な経済的成功を収め、人々の記憶力も短いので、ホルムズ海峡開通の功績はトランプに帰せられるだろうが、いずれにせよガソリン価格高騰や戦争をめぐる混乱は過去のものとなり、トランプとその仲間たちが主張し続ける黄金時代が到来したことを認める準備が整うだろう、というのが彼らの狙いだったのだろう。

今はもう全て白紙です。今はただイランを爆撃するだけです。明確な戦略はありませんが、事態が順調であるふりをするつもりもありません。イランを封鎖するつもりです。これは実際には少し影響力がありますが、中間選挙で共和党の勝算を高めるような形で何かが解決される兆候は全くありません。では、一体何が起こるのでしょうか?

トランプ氏が事実上諦めたのとほぼ同時期に、つまり戦争を放棄したという意味ではなく、たとえ肯定的な結果と解釈できるようなことでも達成しようとするのを諦めたのと同時期に、今週木曜日にゴールデンタイムの演説を行うという発表があったのは、偶然ではないと思う。報道によると、その演説は2020年の選挙不正に関するものになるという。また、ジョージア州選出の民主党上院議員2人を何らかの形で不当だと宣言しようとする可能性を示唆する報道もある。

まあ、それは実際にはうまくいかないだろう。彼が2020年の選挙で実際に勝利したという主張に納得する人はいないだろう。しかし、実際には彼は今年11月の投票に大規模な干渉を行うための口実、つまり土台を築いているのだ。つまり、公正な選挙を阻止しようとする、あるいは選挙そのものを阻止しようとする試みの舞台が整えられているのを、我々は目の当たりにしているのだ。

この先どうなるかは分かりません。しかし、トランプ氏とその側近たちが選挙に勝つことを諦めたのは明らかです。彼らは代わりに、プロパガンダ、誤報、偽情報、そしておそらくは大規模な違法行為を組み合わせることで前進しようと決めたのでしょう。

そして、「彼らはそんなことはしないだろう」などと言わないでください。それはこれまで、あらゆる場面で必ず裏目に出てきました。トランプ氏とその仲間でさえもやらないことがある、などという考えは、トランプ政権のあらゆる行動において、あらゆる点で間違っていることを示す最良の方法だったのです。

だから、ある意味では、トランプ大統領がイランへの爆撃を再開したという事実は、爆弾そのもののせいではなく、本当に悪いニュースなのです。もちろん、それは恐ろしいことですが、アメリカが外国勢力によって危険にさらされるという本当の恐怖があるからではなく、私たちの大統領、私たちの政府自身から、私たちにとって非常に大きな危険が迫っていることを示していると思うからです。

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/the-forever-war-gets-scary 


イランと戦争をして軍事的勝利を収めるのは諦めた、ということは中間選挙を普通に迎えれば勝てないことも分かってきた、ということはどうすればいい?

民主党が勝った選挙区では(日本流にいえば)「公職選挙法違反」があった疑いで片っ端から摘発する。強引に立件する。当選資格をはく奪する。負けた方を当選させる。この線は(多分?)有効だろう・・・と。

中国による選挙干渉に言及するなど、ヤル気満々のようだ。将棋でいえば、玉をとりたいから、いきなり玉筋に王手をかけるようなものだネエ・・・と思ったりする。相手の防御が自陣の王に対する王手になるなどとは予想しない。「しもた~ッ!」って奴です。この辺りが傲慢と言えば傲慢にあたるのだろうが・・・

仮に上下両院とも民主党が勝利すれば、必ず大統領弾劾裁判が始まる。職権乱用で有罪になる。閣僚の何人かは逮捕され、懲役50年から75年程度の刑を科される事態は十分ありうる。生きるか死ぬかである・・・


ト大統領の頭の中をシミュレーションして絶望感に苛まれるクルーグマン先生の姿が眼前に髣髴としてくるではないか。

2026年7月25日土曜日

ホンの一言: 生煮えの「ハラスメント」概念は研究段階の試作品とソックリの出来では?

かなり以前になるが高橋昌一郎『20世紀論争史~現代思想の源泉~』(光文社新書)が面白くて複数回読み返した記憶がある。

昨日、パラパラとページをめくって、以前に傍線を引いた個所を読み直していたのだが、読んだ当時はそれほどでもなかったが、昨日読み返すと中々に意味深な個所があったので引用しておきたい。論理実証主義のウィトゲンシュタインと科学哲学者ポッパー(というより数理哲学者ラッセル?)が口論する場面が秀逸である。が、以下に引用するのは論理実証主義に関するところ:

(ウィトゲンシュタインの)『論理哲学論考』が導くのは、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない」という有名な結論だ。

この世界で「明らかに語りうる」ことは、真か偽かを「論理的に」決定できること、あるいは事実か否かを「実証的に」確認できる言語に限られるという論理実証主義の理念は、そこから誕生したわけだ。

この下りを読んで思ったのは、

現代日本の「弁護士」という輩に読ませてあげたいネエ・・・〇〇ハラがあるかと思えば、ハラ・ハラもある。そんなハラスメントという犯罪概念(?)に対して論理実証主義者はどんな批判を浴びせるだろうネエ・・・

というものだった。 


「論理的に真偽を明らかにする」には、自明の大前提から矛盾や見落としを犯さず、唯一の結論に至るロジックを明らかにしなければならない。「明らかな事実」とは、日が昇ったり、そこに海があるとか、誰にとっても明らかで疑いようのない真実という意味である。「こうも考えられる、ああも考えられる」のは真偽不明を意味する、当たり前ですが⋯⋯

「法学」という学問分野が、学問体系全体の中でどのように位置づけられるべきか、小生には論じる資格はない。

しかし、「法」というものは最低限の要請として論理的でなければならず、事実の立証に基礎を置くからには、論理実証主義の哲学とは最も相性がよい学問ではないかと思う。自然科学とは違って、そこに「仮説性」が混じるのは、非常にまずいと思うのだ、ナ。

ハラスメントという犯罪、というか疑似犯罪概念、あり得ますよネ?

もしもこんな生煮えの学問談義から大した進展がないなら、研究段階の扱いにとどめるべきで、実社会に適用するべきではあるまい。特に《コンプライアンス原理主義者》が横行する現代日本社会では、《お気持ち倫理学》がはびこりがちでもあり、なおのこと慎重であるべきだ。

ひょっとすると、法律運用の現場では学問も論理も何もなく、ひたすらに「取り締まる」、「処罰する」、そのための理屈をつくるための道具が法律である、と。そんな即物主義的で虚無的な精神が共有されているのかもしれない。

ま、それならそれでつつがなくやられたらよろしゅうございましょう。



何事も学問的研究が生煮えの成果は実用を控えるほうが社会は安全である。

例えば、核融合エネルギーが実用化されれば、地球の危機はかなり解決されるだろうが、現在の段階では無理である。自動車の完全自動運転もそうである。望ましいことでも、未完成のうちは焦って実用化してはならない。

但し、技術的には完成間近で社会実験が必要になっているときに、敢えて一切禁止の選択をするという姿勢は、進取の精神に欠けているだけの事である。これは念のため。

この辺り、小学生でも理解できる簡単な道理であろう。

【加筆修正:2026-07-27】