2026年4月23日木曜日

断想: 文明崩壊の論理、反政府的経済学者の愛国心について

 「歴史に学べ」という人の多くは産業革命後の近代世界の発展史を指していることがほとんだ。せいぜいのところ、16世紀の《コペルニクス革命》以降、ヨーロッパで進行した自然科学の発展と産業技術への応用をイメージしている見方が大半だろう。

西洋の成功物語としては適切な選択だ。

ヨーロッパ発の科学革命とそれがもたらした産業経済の巨大な成功は、いわば「科学主義」と「唯物論」を現代社会に浸透させてきたというのが小生の歴史観だが、中国やインドといった伝統的大国の経済的復権に伴って、西洋的世界観にもそろそろ限界が見えてきたのかなあというのが、足元の状況だと思っている。

もっと注目してもよいと思うのは、あの華やかなギリシア=ローマの古代社会が、なぜ、どのような過程を経て崩壊するに至ったかという問題意識だと思っている。というのは、文明の中心であったローマ帝国の盛時、いわゆる《ローマの平和(Pax Romana)》は賢君マルクス=アウレリウス帝の後を暗君コモドゥス帝が継承して以後、突然に、というか急速に不安定化し、100年の混乱と後退のプロセスに入ったのは、あまりに唐突な変動で、一人の暗君の出現で何故かくも突然に巨大な文明が変調になるのかという問題があると思うのだ。

確かに、ゲルマンなど異民族の侵入など国際環境の悪化や農業生産技術の停滞など、数多くの原因が挙げられている。政治的不安定性の高まりが為すべき政治的決定を為すのを不可能にしたという点もあるだろう。それでも帝国が健全な時代であれば、帝国から外国に文化的同化力を放射できていたのが、一人の暗君の出現以後は反対に外国の脅威が帝国の平和を直接的に脅かす負の連鎖の時代へと入っていったことが不思議であるわけだ。

ローマ帝国の衰退についてはフランスの啓蒙思想家・モンテスキューが共和制の廃止と帝政への移行を根本的原因に挙げている。しかし、帝政に移行してから200年弱も経ってから負の影響が出て来るか、という疑問がある。ギボンも大著『ローマ帝国衰亡史』を著している。ギボンが指摘する衰退の原因は

  1. ローマ帝国の市民の精神的退廃とモラルの低下。
  2. ローマ軍自体の異民族依存、つまり多民族化は、国境防衛を脆弱にして、国防軍としての軍律弛緩を招いた。
  3. キリスト教の浸透が、来世志向、現世否定の心理を蔓延させた。また一神教なるが故に皇帝の権威への忠誠が揺らいだ。
まあ、ChatGPTに聞くと、こんな点に要約される(とされている)。

ローマ帝国は西洋においては唯一無二のグローバル帝国として君臨していた。であるから、衰退するとすれば、外的要因ではなく主として内的要因からであるというのは、よく理解できるところだ。

キリスト教の普及は、帝国の経済成長が頭打ちになり、政治的不安定性が高まる中で、一人一人の市民が日常的なストレスを感じた3世紀に加速した。

キリスト教の浸透とモラルの崩壊は、ある意味で矛盾するかもしれないが、自らの義務として帝国を守ろうとする気概が衰退したことを以て、モラルの崩壊と解釈すれば、分かる話しではあろう。

現代にまで伝わる古文書には残っていないだろうが、その当時も同時代的知識人が盛んに文明批評を著し、危機感を訴える文章を公表していたのに違いない。多くの人が文明の危機、帝国の危機を議論していたに違いない。

それでもローマ帝国は衰退し、滅亡し、古代社会は完全に瓦解し、ヨーロッパ社会はカール大帝のフランク王国がひとまずは乱世を収めるまで概ね300年の暗黒時代を送ったのである。キリスト教以外の文明資産は全く失われ、貨幣経済から物々交換への逆戻りを経験したのである。

こんな事が起こったのは何故だろうか?

自然科学の発展が始まってから、産業革命が始まってから、そんな成功物語を観ているだけでは分からない《文明崩壊の論理》、《衰退の論理》というものがあるのではないか?



クルーグマンが足元の電気技術の発展についてこんな見方をしている。Google翻訳で訳された和文で引用しておこう:

また、トランプ大統領がイランによるホルムズ海峡封鎖に対抗するため、自らもホルムズ海峡を封鎖するという決定を下したことは、各国が太陽光発電や風力発電に転換しない場合に頼らざるを得なくなるであろう、米国産石油とLNGへの依存が安全ではないという認識を確実に強めることになるだろう。気まぐれな米国が、他国のエネルギー依存を武器化しようとしないと誰が保証できるだろうか?

トランプ氏のイランにおける冒険主義的な行動は、太陽光発電、風力発電、そして再生可能エネルギーを24時間365日稼働させるためのバッテリーへの投資を世界的に加速させるきっかけとなった。

では、世界が求める再生可能エネルギー機器の大部分はどこから調達されるのだろうか?それは中国だ。中国は世界の工場であり、その製造業規模は米国、日本、ドイツ、韓国を合わせた規模よりも大きい。

   (中略)

バイデン大統領政権下で、米国はバッテリーや電気自動車をはじめとする電気技術分野の発展に向けて、必要不可欠な措置を講じた。また、再生可能エネルギー全般の成長加速も目指した。しかし、トランプ政権はバイデン政権の再生可能エネルギー関連プログラムをすべて中止しただけでなく、再生可能エネルギー分野への民間投資を積極的に阻止しようとしている。

アメリカがトランプ氏の化石燃料への執着から解放される頃には(もしそれが実現するとしても)、再生可能エネルギー製造における中国のリードは恐らく克服不可能なものになっているだろう。

太陽光パネルやバッテリーを中国に依存する世界は、必ずしも悪いことではない。政治的にも経済的にも、ほとんどの国にとって、カタールや、現時点では米国からの液化天然ガス(LNG)輸入に依存するよりも、はるかにリスクが低いのは確かだ。

Source: substack.com

Author: Paul Krugman

Date: 2026-4-14

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/chinese-electrotech-is-the-big-winner

小生は、親英米であるが、だからといって反中でも嫌中でもない。

「一つの中国」は歴史的事実というばかりではなく、そもそも日本には未だ和平には至っていない「国共内戦」という中国国内の紛争に介入する権限も、外交上の正当性もないという立場に立っている。

何より日本文化の表層を覆っている西洋由来の衣をはぎ取れば、古代から江戸時代まで続く伝統文化が表れ、そこには純国風の大和心と中国・インド発祥の文物が裏地のように織りなされてあり、日本人の感性を包んでいることが分かる。

なので、上のようなクルーグマン氏の論調には全面的に賛成する。経済的にそのとおりであり政治的にも、共和党的な政治観に好感をもっていた小生にも、上の左翼的見解は道理であると思われる。

最後にこう結ばれている。

しかし、この国が自らを破滅させ、未来を担う最も重要な産業を中国に譲り渡してしまうのを見るのは悲しいことだ。そうすることで、私たちはより貧しくなり、技術的に後れを取り、エネルギー革命へと突き進む世界において影響力を失ってしまう。結局のところ、私たちは化石燃料を燃やしているだけでなく、自らの未来をも燃やしているのだ。

愛国者としてのクルーグマンの思想が表れていると感じるのは、民主党支持者だけではなく、普通の人たちにも多いような気がする。 

 

 

 

2026年4月19日日曜日

断想: 『アメリカン・デモクラシー』が(改めて?)世界から注目される時代?

人口学者兼歴史家というべきかフランスのエマニュエル・トッド氏は、政府関係者が好んで使う《日米同盟》について、本当に「同盟」なのか?実態は「占領国&被占領国」の関係性が続いているだけではないか?こんな根本的な(?)疑問を投げかけているのが最近の言論界であります。

ただ厳しい問いかけをしても日本社会の空気を変える実効性はないのだろうナアとは思っている。

日本の若手現役世代には、

一身独立して一国独立す

こんな『文明論の概略』で主張された福沢諭吉的な独立精神はもう刺さらないような気がする。

これには時代背景があるわけで、そもそも高齢層とプレ高齢層を含めて、独立精神などは皆無ではないかと指摘する人も多かろう。実際は

独立どころか国家依存性がますます強まっている。

これが事実じゃあないか、と。社会保障という人工呼吸器で老後の生活を送っているのが、現代日本の高齢層の現実だ、と。我が道を行くどころか、巨大組織の歯車になる方を選ぶ性向はますます強まっているような社会観を小生はもつようになった。

国家、社会と言っても所詮は他人の集団である。その他人に《弱者に寄り添う優しさ》を自ら求めて恥じないエートス(=気風)が最初から肯定されるようになった。独立精神を求める要請はいつの頃からか冷酷であると退けて、《独立の尊厳性》を語る気風も否定されるようになった。高齢者が何の恥らいもなく他者依存精神を発揮しているのに、若い人たちにのみ独立精神を求めても説得力はないわけである。

日本社会が他者依存精神でまとまるに伴い、外交もまたアメリカ依存、アメリカ追従の一択で恥じないわけであります。

日本国が国際化すれば、「先祖代々の絆」には共感しようもない外国人在住者や二世たちが増える。すると個々人の独立志向が再評価されるであろう。だからこそ、これ以上の外国人増加は困る。他者によりかかる日本人集団が移民政策を本能的に嫌う根っこはここにある。そんな風にも思うわけであります。

依存すること自体に恥を感じなければ、対米従属は心地よい安心感を醸し出す仕掛けとなる。たとえ実態が「同盟」ではなく「占領」に近いものであっても

背に腹はかえられぬ

と合理化が出来る。経済学でいう《習慣形成効果》が国民行動にも作用するわけだ。

ところが、ロシア=ウクライナ戦争を煽っておきながらウ国のゼレンスキー大統領を公衆の面前で『あなたの国にカードはないンだ』と侮辱する、イラン攻撃に否定的なヨーロッパを口汚く罵るといったトランプ大統領の登場を契機にして

本当に「日米同盟」なる関係性が日本とアメリカにあると日本人は思っているのか?

こんな事までが話題になってきたというのが、正に今日的な状況であるわけだ。

現在の混乱はトランプ氏の個人的属性に由来すると観るのも可能であるし、日本やヨーロッパのNATO加盟国はそんな「次に期待する」待ちの姿勢かもしれない。

もともとト大統領を"The Worst"(=最悪)と判断していたクルーグマン博士は

Trump Can't Even Surrender Right

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/trump-cant-even-surrender-right?

こんなタイトルをつけてネットで語り、

But, my God, like I said, we are led by people who not only can’t plan a war right, they can’t even successfully execute a surrender. And that’s a really bad omen, not just for the Iran conflict, but for everything else.

しかし、まったく、先ほども言ったように、我々を率いているのは、戦争の計画すらまともに立てられないだけでなく、降伏すらまともに実行できない連中だ。これはイラン紛争だけでなく、あらゆることにとって、実に悪い兆候だ。

と結んでいる。

経済学史に詳しく比較的冷静な論評を書くJames Bradford DeLong博士は、同じくsubstack.comで

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://braddelong.substack.com/p/how-will-future-historians-describe

こんな風に、トランプ政権を《猿山レベル》、というより《猿たちの遥か下》と述べ、はっきり「問題外」としている。戦前のコメディアン・グループ「マルクス兄弟」に似た存在を日本で求めるとすれば1970年代の日本で笑いを提供した「ドリフターズ」辺りが有力候補かもしれない。

アメリカの一流有識者もこう言っているのだから、客観的にものが言えるはずの日本人ならもっと無遠慮に「猿!」と罵倒してもよい理屈だ。ト政権を指してDeLongは「猿」と言っているし、Krugmanはト大統領を「嘘つき」と言っている。

同じことを言う人が日本にいてもよいはずだ。ところが、政府関係者はもちろんとして、有識者、専門家を探しても、そんな人は日本に一人もいない。我慢しているのかもしれない。遠慮しているのかもしれない。まるで「裸の王様」の前で声を上げない大人たちのようである。それとも日本もまた同じ種類の《猿》を推しカツしているので、「猿」が「猿」であることが、ほとんどの人には認識できないのかもしれない。だとすれば怖いナアと思うのであります。

小生の高校、大学時代は学生運動華やかなりし時代で、先輩たちは《アメリカ帝国主義反対》、《打倒米帝》などというプラカードをもって大規模デモを繰り広げ、キャンパス内の学内設備を破壊して回ったものである。幼稚ではあったが、独立精神の表れだと自惚れた団塊の世代も、いまは他者依存の気風に染まってしまったのだから、変われば変わるものである。

背に腹は代えられない

日本社会はひたすら《合理性》を追求している(つもり?)かもしれない。しかし、合理性という点だけでいえば、猿も合理的に行動するし、アリやハチは十分に集団合理的である。他者依存から発していても行動が合理的であるのは可能だ。


いずれにせよ、現代日本人が共有する国民心理は、この30~40年で一変してしまった。実に歳月怱々の感あり。

対米従属は日本人が主体的に選んだ合理的な解なのであると、故に世界から批判されるアメリカの猿の悪行も日本は非難はしない、そもそも善悪の基準は相対的であり、名々が自由に決めれば良いのだと、忠義や友情も当事者の猿の選択だ、と。それならそれで、日本は日本の運命を受け入れればすむわけである。

ただ、明治維新前後に40歳以上であった人物は世の役には立たず、明治を支えたのは討幕・維新の時点で10代の少年たちであった世代だと言われる。

激しく変化するいま、世代交代の加速が日本再生への早道かもしれない。

率直に言って、いま現在、トランプ大統領がアメリカ合衆国の大統領として現に仕事をしているという事実そのものが、アメリカン・デモクラシーの本質的危うさを証拠立てるものである。

こう考える人は世界に多いはずである。かつて『アメリカの民主主義』を書いたトクヴィルもこんな問題意識をもっていた。

中国が仮に普通選挙を基盤とする民主主義国になるとして、多くの日本人はそれを歓迎するのだろうか?

小生は不安だ。

本当に14億の中国人が民主主義の手続きによって外交、国防政策まで決めていくのか?大丈夫なのか?共産主義だろうが何だろうが、むしろ有能なエリートが指導する現在の中国的統治の方が世界にとって安心できるのではないか?

小生は、こんな風に思うし、案外多くの日本人も民主主義国・中国に不安の念を共有するのではないかと想像している。

バカが偶々権力の座に就くことは専制君主制の下では世界史に無数の前例がある。が、普通選挙で指導者を選ぶ民主主義国でもバカが権力を得る事態は十分にありうるわけだ。バカが決して権力の座に就くことはないというシステムが必要な理由がここにある。いくら限界があっても(万国共通の尺度である)頭脳優秀なものを選抜する制度の方が、知識や知性をバカにする本当のバカが権力を握るよりは余程安全であろう  ―   それも相対的に、ではあるが。

 



2026年4月15日水曜日

断想: 葉桜の候、旧友の墓参りをする

 N.O.君は高校の同窓以来の旧友というより、本当に親しくなったのは大学院に入った直後、O君の方から『お前、〇〇だろ?高校で同じクラスにいたよな?』と彼の方から声をかけてくれた以降のことである。それからは磐城高校を出たY.S.君を入れた小生たち三人は、授業の合間で時間が出来るたびに、大学の門前にある喫茶店兼和菓子店で長談義にふけったものである。

当時、どんな話題であれほど長い時間、話すことが出来たのか、おそらく複数のバラバラの話題に飛びながら、連想ゲームのようにそれぞれが勝手に色々な事を話したのだろうと思うが、小生にとってはそれまでに経験したことがない程に愉快な時間であったことは記憶している。


そのO君が昨年の夏八月に急逝したことを知ったのはS君からの電話であった。小生が暮らす北の港町では雪模様の暗い日が続く二月のことだった。

小生は、数年前に年賀状じまいをして、SNSで元日の挨拶をすることにした。それでもO君からは年賀状が届き、小生はもらってから返事を書くというやり方に変わっていた。ところが今年に限り、O君からは年賀状が届かなかったので、不審に感じていた。そんなとき、S君から電話があったのである。

O君は、よく言えば非常に個性的な快男子で、世間に関しては非常に批判精神の強い傾向をもっていた。元来は経済学から研究を始めたのだが、Ph.Dの学位は国際関係論でとった。その学位も、はじめは(大人しく?)ある国際経済協力機関に就職したのだが、社内留学して会社を辞め、その後はパキスタン大使館の専門調査員(?)という資格だったかで、日本を留守にしていた。そうこうしているうちに米国の大学に留学して、本式に研究者の道を歩みたいという気持ちが強くなったのだろう、かなり齢をとってから留学をして、学位を無事とったのだ。結婚もアメリカでしたはずである。しかし、日本に残る母親を心配する気持ちが強かったのだろうか、何年かぶりに日本に帰国するときには既に離婚をしていた。

日本に帰ってから教職のポストを探すのに苦労をしていた時期があったが、ちょうどその頃、小生は小役人から足を洗い、北海道の小さな大学に転職していた。彼から相談を受けたこともあるが、微力な小生は何の力にもなれず、それでも神奈川県にある私立大学に教職の地位を得たことは、O君の母上にとっても大変な喜びであったに違いない。

一度、あざみ野にある大学までO君の研究室を訪ねたことがある。研究室の広さに驚いている小生に『理系の学部だからサア、広いんだよ』と説明していたO君の声音がまだ耳の奥に残っている様だ。

その後も、小生が上京するごとに、O君にS君を加えた三人で、横浜の中華街で、あるいは浅草で、あるいは銀座で食事をともにして、社会や経済について、果てしのない議論をしたものである。O君は、現代日本社会には絶望的なほど厳しい見方をしていて、呑気な小生とは常に見方が対立していた。

O君の母親思いは格別のもので、毎年秋には奈良の正倉院展に出かけ、湯河原温泉には何度二人でいっていたことだろう。イタリア旅行も楽しい思い出であったに違いなく、こと親孝行という点でO君に思い残したことはなかったはずである。

ブログやSNSを始めるきっかけになったのも、O君から『日本は民度が低いのじゃないか』と、ちょうど日本が小泉内閣の下で長年の不良債権問題にケリをつけた時期であったか、O君から刺激を受けたからである。O君は、人には「遅れている」と叱咤しながらも、自らはIT知識にうとく、ブログもSNSも身につかずじまいで終わったのが、小生にとっては非常に残念だ。それでも、いかにもO君らしい文章が投稿回数は少ないながらもネットにはまだ残っているので、抜粋引用して記憶にとどめることにしよう。

冷戦後の北東アジアの地域国際環境の変化を考えれば、日本は当然憲法改正を行うべきである。そして、自衛隊を軍隊と明瞭に位置付けた上で、必要な対応を行う必要がある。

・・・

このやり方自体の是非をめぐって、日本国内で大騒ぎになっているというのが、現在の状況である。

一方、対応の方法そのものの是非ではなく、日本が置かれている状況にどう対応すべきかについて、日本国内でまともな議論が行われているとは到底考えられない。

国際環境の変化とそれへの対応のあり方についての冷静な議論と理解が不足する中で、対応の仕方そのものについて不満が高まるという現在の状況は、百年以上前の日露戦争終結のためのポーツマス条約の締結をめぐって、交渉団の帰国時に起きた日比谷焼打ち事件とほとんど同じ状況である。

日本は100年前と同じことを繰り返している、未成熟な国家と言われても、反論する余地は無さそうである。

安倍内閣による「集団的自衛権の容認」と「安保法制」が国会を通過した頃の投稿である。いわゆる《解釈改憲 》の危険性に義憤をあらわにし、欺瞞を押し通す政治家をO君は心底から嫌っていた。これを唯々諾々と受け入れる現代日本の大衆には絶望していた。

現実を前にして平気で原則を捨てる現代日本社会の不誠実ぶり、厚顔無恥ぶりに呆れ果てる心情は、O君と奇妙に共通している。更に、《条文解釈》によって憲法は自由に改正できるという日本人独特の思考回路が可視化されたことから次の文章も出て来たのだろう。

これらの状況を考えれば、今日本が取り組まなければならない問題は憲法改正であり、改正後、自衛隊ではなく、日本軍の存在を憲法で保障し、その上で東アジアで起きている地域国際安全保障問題に対応するというのが、本来なすべきことの流れである。

それにもかかわらず、今回安倍政権が、国民を守るために必要と主張し、集団的自衛権解釈見直しを含め、本来改憲した上でなすべきことを、改憲せずに強引に進めたことは、将来の日本にとって極めて大きな問題をもたらすことになった。

それは、国民の理解と支持を得られないまま、憲法改正が前提となるべき措置を取ったことで、国民が憲法改正について大きな疑問、強い批判を招いた結果、国民が憲法改正に関して否定的な気持ちを一層強めたことである。

自衛隊の明記でなく「国防軍」を憲法によって規定するのが採るべきロジックだろうというのは、小生もずっと以前に投稿したことがある。

自衛隊は憲法が保有を禁ずる「武力」には該当せず

という詭弁は、日本国内では通じても、世界では通じない。そもそも意味を曖昧化することには便利な日本語では表現できても、論理的な英語には訳せない文だ―おそらく陸上自衛隊は"Force"であって"Army"ではないというのだろうが、航空自衛隊は"Air Self-Defense Force"だから、呼称からして立派な"Air Force"(=空軍)だ。というより、その行動内容を目で見れば、使用している戦闘機、ミサイル等々武器ともども、国防に任じられる米空軍、韓国空軍、英空軍、独空軍などと共通であって、だからこそ《共同訓練》も実施可能と考えるのがロジックというものだろう。要するに、「自衛隊」の実質は「日本軍」である。

一言でいえば、戦後日本の民主主義はアメリカから輸入した「押しつけ民主主義」であって、民主主義を運営するべき大衆は、大勢に順応することを考え、是非善悪を自ら考える何の主体性も持てなかった、と。詰まりはこういうことかもしれない。「動かざる原点」を特定の一点に決めないでおく《相対主義》、《状況主義》、《機会主義》は日本文化の核心でもある(と勝手に思っている)。

それまでの理屈を捨て去って、その時々の《直観》や《空気》から行動方針を一変させる日本的突発性はこんな所に根拠があると勝手に解釈している。剛直なO君が絶望するのは自然なことである  ―   日本的特質も悪い側面ばかりではないと小生は感じているが。


先週末にO君の墓参りをS君と二人でした。鎌倉まで行ったその日は気温こそ27度前後に上がったが湿度は低く、しのぎやすい快晴であった。苑内の桜は既に葉桜となり、2メートル乃至3メートルの風が吹き渡るたびに、花片が舞っていた。丘の斜面の高い処に位置するO君の墓は探すのに手間取ったが、人出は少なく、森閑とした中で墓前に香を焚き合掌することが出来た。

旧友の墓参はやはり独りではなく、二人でするべきものだと感じた。


 

 

 



2026年4月8日水曜日

断想: イスラム教とユダヤ教の宗教対立を理解するのは甚だ困難?

アメリカ=イスラエル枢軸とイランとの戦争は、イスラエルが戦争継続を希望しているにも関わらず、どうやら内部で決着がつき、ひとまず停戦ということになったそうだ。

これが一時代前の時代劇なら「祝着、祝着」と多くの人が喜ぶ場面だろう。

ただ、アメリカが和平を希望しても、戦争を願望するイスラエルが米軍の偽装をしてイラン兵を殺害する。もしくはイラン軍の偽装をして味方の米兵を殺害する。その位のことをイスラエルはやりかねないンじゃないか、と。そんな心配をする人もいるそうな。

ユダヤ民族に対するイメージは、この10年程の間に大きく変わってしまった。


イスラム教のモスクですら自宅の近くにできるのを嫌がる人がいる。イスラム教の印象は(日本では)非常に悪いが、これには、殺戮の続く中東やアルカイダというテロ組織、パリで起きた自爆テロ事件の凄惨さが記憶に残っているからだ(と思われる)。

ユダヤ人は苦しみに満ちた亡国の歴史をたどってきた。特に第二次大戦後はそう思われてきた。が、この数年間でイメージは大きく変わってしまった、ネガティブな方向へだ。

ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグの建設計画に猛反対する日本人はこれから増えるであろう。イスラム対ユダヤの民族的抗争、というか宗教対立をこの日本に持って来られるなど真っ平である、と。そんな警戒感が、本来はユダヤ教の普遍化バージョンであるキリスト教に対してすら感じてしまう日本人が増えるかもしれない。


日本人は無宗教だとよく言われるが、初詣や初宮参り、七五三などを観ても、実はそんなことはない。一つ言えるのは、日本人の感性は多神教的であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など一神教の宗教心理とは大きく違っているという点だ。

思うに、多神教と一神教の精神的文化には本質的違いがある。感性には乗り越えがたい溝がある。ロジカルに考えれば、多神教の国では「神の言葉」は唯一ではないので、それ程の重みは持たない。むしろ神々の言葉は矛盾に満ちているのが当たり前と考えられる。「神の意志」は唯一ではないのだ。

《神の示した真理》という観念は、ここ日本においては存在しない。故に《啓示》なるものもない 。但し「ある事柄に対して真理は一つ」。これは同じだ。しかし、その永遠の真理を唯一の神が人類に伝えるという理屈にはならない、多神教の国にあっては当然そうなる ―   庶民的な「神のお告げ」がローカルな地域であったり、観音菩薩の救いやお地蔵さんの助けが民話になったりすることはあるが。

仏教が伝来してから日本土着の神道と抗争する時代もあったが、その後は《神仏習合》という考え方で共存が可能になった。日本の神は仏が仮の姿をとって日本に現れるのだと解するわけだ。東京・芝にある浄土宗大本山・増上寺の横には東照宮がある。以前は増上寺の寺域の中にあった。徳川家康の神号である「東照大権現」は仏が神の姿となってこの世に現れたものと解するわけだ。

忘れられる神もいれば、急に人気の高まる神もいる。極めて人間的である。多神教・仏教では、神も不死ではなく六道輪廻の中で何度も生まれ変わっては死にかえる。人に比べると遥かに長い寿命をもっているが、いわゆる《天人五衰》の兆候とともに今生を終え次生に再生するとされている。

一神教の世界で神が死ねば神なき国となるが、多神教では幾らでも代わりがいるわけだ。神もまた無常なのである。神の世界は多神教と一神教ではまったく違う論理になる。


八百万の神々が共存する日本文化とイスラムやユダヤのような一神教の哲学とは水と油の違いがある。

ユダヤとアラブとの抗争の根本的理由の一つは信仰にあるのだが、この点を実感として理解できる日本人は少ないに違いない。

2026年4月6日月曜日

断想: ホワイトハウスは「神頼み」になったか?

戦争に神頼みを持ち込むと、太平洋戦争を戦った日本の「神風待望」と変わりがなくなる。

迂闊に開戦した対イラン戦争の出口が見えなくなったトランプ大統領。かたやイスラエルと米国内のキリスト教福音派 、こなたアメリカ国内で過半数を優に超える戦争反対派。どちらにつくべきか?

アメリカはいま政権丸ごと《迷える子羊》になってしまったようだ。で、ホワイトハウスに牧師団が慰労目的で訪れ、みんなで祈りを捧げている映像も公開されている・・・

ただ、残念なことは、こうして祈りを捧げている主の御名は極めて宗派ローカルなものである点で、敵方のイランには何も響かないのが弱いところだ。


信仰はカントも洞察したように《美と崇高に関する感情》がどこかしらで関係するもので、理性とは異なり人類に普遍の心の(あるいは頭の?)作用ではない。

経済学者のBrad DeLongがsubstack.comに寄稿している記事を読むようにしているのだが、今朝はこんな下りに目が行った:

What warrant do we have for any belief or even hope that there is any sort of arc tending the world toward justice? And if they were, shouldn’t that properly terrify us all? And do we not—looking around these days—have even less warrant for any belief or even hope that there is any sort of arc tending towards any sort of mercy?

But the big question: How does that matter as we wake and go about the deeds that it is proper and fitting for us to undertake each day?

世界を正義へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠はどこにあるのだろうか?もし存在するとしたら、それは私たち全員を恐怖に陥れるべきではないだろうか?そして、今日、周囲を見渡すと、世界を慈悲へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠は、さらに薄弱になっているのではないだろうか?

しかし、大きな疑問は、私たちが目覚めて、毎日行うべき適切でふさわしい行いをする際に、それが一体何の関係があるのか​​ということだ。

Source: substack.com

Author: Brad DeLong

Date: Apr 04, 2026

URL: https://braddelong.substack.com/p/reading-fred-clark-holy-saturday

神に祈りを捧げる人が、ただ「あいつらは危険だ、気に入らない」という理由で奇襲をして他人を殺害し、プロスポーツに興じる庶民がただ自分の生活を楽しんでいる二つの情景を見比べると、どちらが「適切でふさわしい行い」をしているのか分からない人はいないだろう。DeLongは当たり前のことをそのまま書いているだけである。 


親鸞の弟子・唯円が師の言葉を記録した『歎異抄』の一節を連想している所だ:

「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、

「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、

「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。

「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。

しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。

わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、

我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。

URL:https://xn--6quo9qmwi.com/tannisho13.html 

人の悪行は、その人が前生から継承した「業」とこの世に生まれてから巡り合った様々な「縁」が結びついて、その人の意志となり行為へつながった結果である。

こう書くと、人には《独立した人格》、《自由意志》、《実践理性≒良心》がないという趣旨に受け取れるが、確かに仏道では《凡夫》は《煩悩》に常に支配され、その煩悩は「無始」、つまり無限の過去に由来する。煩悩を滅却して《菩提心》に到達するなど、凡夫にはまず無理である、と考える。だから、成り行きによっては「意図せざる悪行」を行いうるのである。

しかし、日本独特の、というか中国発祥とも言えるが、浄土系他力本願思想では、極悪人であっても、凡庸な凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を信じ、一向に(=ひたすらに)阿弥陀仏の名を称えることによって、死後は極楽浄土へと救済される。

「死後に救済」というのは、物質的身体に関するものではなく、そこに宿っていた精神的エネルギーについてである。輪廻転生思想では「今生」の次に必ず「次生」がある。次生で再び苦しい生涯を送り、再び死ぬよりは、次は生死を超越した純粋の精神的存在に生まれ変わりたい。そういう意味である。高校生向け(それとも中学生向け?)哲学書として世界的ベストセラーになった『ソフィーの世界』でも、主人公・ソフィーと哲学の先生・アルベルトは、宇宙の実空間とは独立した次元に転生して肉体を持たない純精神的存在になったが、ちょうどこれと同じようなイメージである(と勝手に思っている)。

もしも輪廻転生、でなければ素朴な「霊魂不滅説」を根底で認めておかないと、すべての生物は死ねば無になると理解するしかなくなる。物質だけが実在して、精神的実在はない。だから、生きている間に、好きなことをして、言いたいことを言えたのは、炭素を主とする高分子化合物が「うまい具合に結合して」物質自らが意志を持ち、自由に移動したり、音声を発したり、論理をマスターして考えたりできていたのである、と。このような「唯物論」を信じる立場にいる、ということになる  ―   小生は何年か前に転向して今ではこの立場にはいないが。

まあ、どちらの《神話》を信じるかという選択であります。


親鸞の悪人正機説はラディカルであるが、実は師・法然も同様のことを語っていたという事実が最近になって確認されたようだ。ただ、『一紙小消息』では逆のことも書いているので、法然という人は改革者特有の幅広さをもっていたのかもしれない。没後、弟子たちが多くの流派を創っていったのも「むべなるかな」と言える。


2026年4月5日日曜日

ホンの一言: 「公務員倫理審査委員会」が必要なのでは?

先日、こんな記事をみた:

ひろゆき氏は「小学3年時から卒業までの4年間に6人から暴力を受け、金銭を要求された女子生徒。担任は事態を把握したが具体的な対応を取らなかった。校長も市教委に報告しなかった。首を絞められ、拳で殴られて、金を取られたのを知ってて放置した担任と校長は、何故クビにならないの?」と自身の見解をつづった。

Source: SmartNews

Original: SponichiAnnex

Date: 2026-4-1

《職業公務員》である人は公的権力を行使する立場にある、というのは国内マスメディアが愛用する表現だ。

嫌な業者は自由に忌避できるが、担当する公務員が嫌な奴だと感じても、公務は公的機関が独占しているので、納税者には逃げ場がないのだ。職権乱用という罪が公務員にあるのはこうした事情による。

メディアの評判は、特にオールド・メディアというか、ゾンビ・メディアというか、このところ評判はガタ落ちだが、公務員の怠慢・無責任・スキャンダルを厳しく報道する姿勢は絶対的に正しいと思っている。

公務員の勤勉・清潔な姿勢を守ることは、納税者から成る社会全体におけるフェアネス(fairness)の精神を守ることに直接的につながることだ。法やモラルが崩壊する前に、まず社会からフェアネスの感覚が崩れるというのは、時代と国を問わない経験則である。

英語の"Fairness"の意味はOxford English Dictionaryでこう定義されている:

the quality of treating people equally or in a way that is reasonable

人々を平等に、または合理的な方法で扱うという性質 

公的地位にある人の《先憂後楽》の気風は理想ではなく、現実に要請されるルールであるはずだ。爛熟した江戸・文化文政時代の三翁が共有していた「天下の楽に先んじて楽しむ」では幕府の統治そのものが崩壊するわけである。

こんなことを書くと、今は蔑称となり果てた(?)《反政府・野党・左翼》という言葉を投げつけられ、パヨクに分類されてしまうのが必至だが、それはどうでもよいことだ。公務員は厳しく扱われて当然だと考えるのはモラルに反してはいない。 


最高裁判事には『国民審査』という納税者による審判の場が設けられている。

この考え方を全公務員に範囲拡大をして、例えば《公務員倫理審査委員会》を公正取引委員会と同じく《三条委員会》として設置し、すべての日本人は公務員もしくは公的機構・団体を職業倫理に反するものとして告発できるようにすれば、上のような職務怠慢はかなりの程度改善されるはずである。

いまも(国家公務員に関しては)人事院の中に(どれだけ実効性が認められるか熟知しないが)国家公務員倫理審査会があることはある。だから、上の三条委員会設置は人事院内の国家公務員倫理審査会を独立拡大させる方向になるし、対象範囲を地方公務員を含めた全公務員にするとなると、準司法的な位置づけになる。

もちろん告発の取り扱いは、根拠規定に基づき手続きを統一化する必要があるし、実際に倫理審査に進むかどうかは、事情を調査し所定の手続きの下に判定しなければならない。

明らかな職業倫理違反があると認められれば、委員会が司法府に告発し、公判を受けさせるというのは、ありうべき姿だと、(大多数の人のことは分からないが)個人的には感じる。もちろん罰則は別に定める必要がある。公務員による(単なる?)倫理違反は、刑事事案にはなりにくく、民事事案にもなりにくい。しかし、公務員の倫理違反から生じる害悪は確かに存在する。


今のように公務員の不祥事は、刑事事件以外は(基本的に)「役所任せ」という情けない状況よりは余程よくなるだろうと感じる次第。

江戸・旧幕時代ですら幕臣に対しては目付役がおり、大名に対しては大目付がいた。ほぼ共有されている道徳的規範に反する官僚を処罰する機構は組織内部に個別に置くべきではないと思うがいかに?

他方、厳しい道徳規範に従う公務員には、手厚い身分保障・生活保障を生涯にわたって続けることがバランスの上からも求められる。これも理屈だろうと思う。生涯?安いものである。

何せ武士の時代にあっては、正規の武士は終身雇用どころか、(何も事件をおこさなければ)永代雇用。即ち、子々孫々に至るまで藩という組織は侍を養ったのである。

永代雇用。いわゆる「仕官」である、な。一介の町儒者であった新井白石も徳川家宣に仕えたことから、新井家は明治になるまで続く旗本となったのである。

日本にはそんな時代もあったわけだ。 


当たり前のことだが、本日投稿の主旨は、そのまま反語的に解釈しても、それはまた可である。一応念のため。



2026年4月1日水曜日

断想: エビデンスねえ~~~「真理」にエビデンスは要りますかという話し

今日は細かくて詰まらない話だ。

SmartNewsは広範囲の報道情報を集めるポータルサイトとしてとても役に立つ。というのは、Yahoo! JAPANニュースはスポンサー記事が増えすぎて、その広告過剰には辟易しているのだ。

情報提供側の経営目的は広告を流すことにあり、目的は報道ではない。この理屈は分かるが、ユーザー側の目的は情報にある。ここに報道ビジネスの根本的矛盾があるのだが、自分で情報を得る手間が惜しいなら他にイイ方法があるわけではない。

で、オヤッと思ったのが次の下り:

田久保・元伊東市長の私文書偽造罪、要するに偽の卒業証書を市会議員に公然と見せた件だ。

「嘘も100回言えば真実になる」

これはナチス・ドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダの手法を評した言葉だ。

厳密にはゲッベルス自身がこの一文を発したという一次情報はないものの、彼の思想を“意訳”したものとして現代に伝わっている。

Source: SmartNews

Date: 2026-4-1

Original: テレビ静岡

最近このような文章、というかもっと広く色々な場面でこういう妙な《なお書き》を付けた説明振りを見ることが多い。

まず感じたこと。

「厳密には」というナオ書き。要るかナア、と思います。

妙にくどい。

何が言いたいのか?

自信がないなら、そもそも書くなという気にもなる。

要するに、元ナチスのゲッベルス宣伝相の発言だとあなたは推定しているのか、いないのか?いるなら、そう書いておけばいい?いないなら、ゲッベルスの名前など出さない方がいい。仮にゲッベルスがこのセリフを口にしていたという「一次情報」が得られたとしよう。音声データまで奇跡的に出てきたとしよう。だからと言って、この言葉でゲッベルスがゲッベルスの思想を語った事の証明にはならない。誰か第三者が口にしたセリフをゲッベルスが借用したにすぎないという可能性も否定できないからだ。この場合はゲッベルスが「この一文を発した」とは言えないはずだ。その第三者もまた別の人から聞いただけかもしれない。

結局、一次情報もエビデンスも得られようはずがないのである。

この辺、ビジネススクールの最終プレゼンなら、必ずツッコミが入る所だ。

多分

エビデンスは何もないのですが、これは科学の論文ではなく、単に別の本題を語る「報道」ですので、修辞として読んでください。

こういう趣旨なのだろう、と受け取りました  ―   一次情報の形でエビデンスが手元にあるわけではありませんが。

思わず連想してしまった。こんな言い方が、今という時代の定型表現なら

右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい

『新約聖書』の「マタイ伝」にこう書かれているが、これにも「なお書き」が要る。

なお、聖書のこの部分は、イエス・キリストの弟子のマタイが書いたとされているキリスト伝で、イエスがそう言ったと書かれているだけですから、厳密にいえば本当にイエスがそう言ったという音声データが一次情報として残っているわけではありません。イエスの思想をマタイが意訳したものとして現代に伝わっているわけです。

こんな理屈になる。

というか、そもそもイエス・キリストは(おそらく?)地元の言語であるアラム語で説教をしていたはずとされている。なので、最初に新約聖書が書かれたギリシア語は、それ自体が「意訳」であって、要点は「意訳」であるのか、ないのかは大したことではないという点にある。

しかし、イエス・キリストがそう語っているかが不明であるという点に、上の筆者なら非常にこだわるかもしれない。何だか「本人がそう語ったわけではない」のであれば、そう語ったとされている事の価値がウンと下がると思っているのかしら?そうとも思える。

だとすれば、イエスは日本語で説教などしたはずがないから、日本語の聖書は100%意訳で、イエスの言葉として有難がるのはおかしいという理屈になる。

だから、何だというのだろうか?

言葉とは何だろう?

言葉に価値があるのか?

言葉に含まれた意味が価値をもつのか?

バイブルは全編が伝聞である(はずだ)。行動した本人の言葉は残っていないことが多い。パウロの手紙は掲載されているが、本当にパウロ本人が手紙を書いたの?そんな疑問を持つ人は多かったに違いない。

パウロの手紙って、パウロ本人が書いたのじゃないとしたら、価値がないの?

こう問いたいところです。

日本に浸透している大乗仏教は、釈迦が活きた時代と大乗経典が編纂された時代には大きな隔たりがあって、大乗仏教は「仏教」とは言えないと指摘する学者もいるくらいだ。

厳密には、中国伝来の仏教は仏教にあらず。というか、インドに赴いた唐僧・玄奘(三蔵法師)が持ち帰った経典は、インドにおいて既にオリジナルの仏教ではなかった。厳密にはこう判断するべきだろう。

だったらそれは何なのだろう?

小生は、それでも信仰に基礎づけられているなら、それは仏教であると解釈する立場にいる。「真理」は最近の世間で言われる「エビデンス」が決めるのではなく、理性と論理から確定してくるものである。

というか、理性に反しているがエビデンスがあるので「真理」と認めざるを得ないような「真理」は語義矛盾であって、理性に反している場合は「このエビデンスは誤りである」と結論するしか人間には選択肢がない。そう思っているし、実際に自然科学の発展史を振り返ると、そんな風に発展してきたと思っている。

非合理的な真理は最初から排除されているわけだ。

そもそも存在論として、20年前の私と現在の私が同じであると断定していいのだろうか?

物質的身体は、20年前とは別の素粒子、分子、細胞から成り立っている。それでも同じ人間だと自己認識しているのは、同じ幼少時の記憶をもち、継続性を意識しているからだ(といわれる)。

しかし、20年前の自分の記憶と現在の自分の記憶と、厳密に同じ記憶であると立証されているのだろうか?

定期的にDNAデータを保存すれば、生化学的に同一身体であるかどうかは検証できる。しかし、同一の物質的身体に宿っている精神的実体、意識+潜在意識と言い換えてもいいが、20年前と現在とで同じであると、どう同定(identify)すればよいのだろうか?「一次情報」など得られようがないのではないか?

そもそも《エビデンス》とは何か?上の引用文で出て来る「一次情報」はエビデンスという集合に含まれる要素の一つとして使われているのだろう。

平成から令和になって目立つのだが、《エビデンス》がない命題は疑うべきだ、と。

思うのだが、人間の認識にエビデンスなどはないことの方が多い。そう思う。

ピタゴラスの定理が真理であると考えるエビデンスはどこにあるのか?

実際、アインシュタインは宇宙はユークリッド空間ではなく非ユークリッド空間であることを理論化した。だから、厳密には「ピタゴラスの定理」にはエビデンスがない(ことが分かった)。しかし、ユークリッド空間を仮定すればピタゴラスの定理は自動的に真である。これにエビデンスなどはない。

何かといえば「エビデンス」を求める姿勢は、科学的なフラグランスを醸し出す効果はあるが、実はよ~~~く聞いていると、相手の言い分が正しいというエビデンスがないという根拠から、それ即ち自分が正しいことの証明である、と。どうもこんなロジックを展開している。

ずっと以前にも投稿したことがあるが、

太陽が地球を回っているという天動説には経験から明らかなエビデンスがありますよね。地動説にエビデンスはありますか?ないでしょう。

こんな議論を真面目にしていた時代はあったはずだ。

滑稽である。

人類の知的進化はエビデンスの蓄積を合理的に説明できる純理性的推論による。単にエビデンスにマッチさせる理論は、往々にしてヴィジョンなき愚かな理論である。事実を説明する理論は無数に提案できるが、大半は幼稚で拙いものだ。真理をつく理論は美しさを有すると言われる。しかし、エビデンスの方から教えてくれるわけではない。真の知識はエビデンスがさきにあろうが、なかろうが、最初から真である。

なので、エビデンスは要りますかという問いは常に有効であると思っている。エビデンスの必要性は文脈によるのだ。

今日は《反証可能性》や《モデル選択》の話しをすれば十分だったかもしれないが、書きたいことを書いているうちに長くなってしまった。つまらなくて細かい話である。