小生がまだ十代の頃、盛んに名前を聞いていながら、今では話題になることすらなくなった人として、歴史家・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)がいる。
ジャーナリスト的歴史家としてE.H.カー(Edward Hallett Carr)はまだ何かの記事で目にすることはあるが、トインビーの方はもう忘却の彼方に去ったようでもある。
まあ、戦前期に一世を風靡(?)しながら、戦後には全く忘れ去られた感がある徳富蘇峰などは、姿の唐突な消え方においてトインビーに似ているかもしれない。新聞記者兼歴史家兼評論家としては日本社会で極めて高名で影響力のあった人物である。
確か、トインビーには日本に「トインビー狂(?)」とでも言えるような人がいて、その人物の影響で日本でも著名であったことだけ覚えている。誰だったかな?・・・ちょっと思い出せない。ChatGPTに「トインビーを日本に紹介した人は誰でしたか?」と聞いてみると、清水幾太郎辺りの名前が出てきた。ちょっと違っていたような気もするが、確かに清水幾太郎の著作を読んだこともある。・・・忘れた。
最近は廃れてしまったが、トインビーをWikipediaではどうまとめているのかちょっと覗いてみた。
要領よく総括されているが、ウクライナの事も言及されていたので、原文にある脚注へのリンクボタンを削除したうえで引用しておこう:
トインビーは、ウクライナ(小ロシア)については、内政自治も連邦制も否定した。
トインビーが連邦制に反対したのは、連邦制になったロシアは分裂しすぎて統一された重心を持つことができず、かつてアメリカ合衆国が一時的に分裂(南北戦争)したように、断片化して分裂する危険性があるという懸念からであった。
トインビーは自治権の代わりに、ロシア帝国の大ロシア地域でウクライナ語を公用語にして、ウクライナ人(小ロシア人)が大ロシア人の劣等生としてではなく、大ロシア人の仲間としてロシアの政治家の一員になることを目指すことを提案した。トインビーはまた、ウクライナ語がロシアで公用語化されてもロシア語に対抗できないのであれば、ロシア語の優れた生命力をきっぱりと証明することになると主張した(トインビーによれば、ウクライナ語は農民のバラッドを書くのにしか使われていないのに対し、ロシア語は偉大な文学を書くのに使われている)。
20世紀初め、第一次世界大戦後の世界情勢をみながら、上のように述べている。
そして21世紀初め、ウクライナはソ連崩壊後に独立を目指し、ロシアへの敵意を露にし、いまは西側陣営(NATO)を後見役として、戦争を継続している真っ最中である。そのロシア=ウクライナ戦争の煽り役として記憶されるであろうイギリスで、ずっと昔、実はイギリス人・トインビーが「ロシア同化論」とでも言うようなウクライナ観をもっていたのは、面白いではないか。
ウクライナ人が愛するウクライナ語がロシア文明の中で自然淘汰されていくなら、それはそれで自然のプロセスである、と。いかにもイギリス人らしい物の考え方であると感じました。
実際、第二次大戦後のソ連で首相となったフルシチョフはロシア人ではあったがウクライナで育ったような人であった。ソ連最後の書記長・ゴルバチョフもまたウクライナ人の血を濃厚に受け継いでいる。
ロシアがウクライナを遇する姿勢にも問題はあったろうが、ウクライナ人の感情も狭量であったと小生は感じる ― マ、所詮は他人事ではあるでしょうが、最近の投稿では「二級国民」の語を使っていたのでそのつながりもあって、です。
トインビーといえば(小生は未読であるが)『歴史の研究』が主著である。その中でトインビーは、国家や政体ではなく、文明そのものの興亡を考えている。Wikipediaの<トインビー>には以下の下りを引用しているが、小生が十代であった当時も、非常に有名な歴史観であった:
人類の歴史の中で26の文明の盛衰を検証し、それらの文明は、エリート・リーダーからなる創造的な少数派のリーダーシップのもと、課題にうまく対応することで発展したと結論づけている。
『トインビーが『歴史の研究』で考察した26の文明とは何であったか?要約できますか?』という質問に対するChatGPTの回答はここに残しておこう。《発展した文明》のカテゴリーの中に「極東文明(中国系:儒教文明)」とは独立して「日本文明」が挙げられている点にトインビーのアジア観、というか文明観が見て取れて、非常に興味深いところだ。
最近50~60年程か、トインビーに注目する人がほとんどいなくなった理由の一つとして
トインビーが事実に基づくデータよりも神話や寓話、宗教を好むことを指摘している。
こんな点が挙げられているようで、ここにも現代文明を支配する《科学主義》、《実証主義》の影響があるように思う。
しかし、科学では「自己意識の発生」を説明できない。そもそも物質からどのようにして「生命」が発生するのか、これまた未解明である。物質が物理的身体となって、物理化学的プロセスから遂に自由意志を獲得して、自らの意志によって運動するなどと自然を解釈するのは「神話」以上に荒唐無稽であろう。人が認識する「世界」は、物質循環システムという「それ自体」よりは、そもそも精神的存在である(という立場に最近になって転向した)。
「社会科学」では、そもそもデータ収集過程そのものから「サンプル・セレクション」が発生し、データが真相を教えてくれるというより、真相を洞察する純粋理論の反証としてデータを使用する姿勢が求められる。何が「事実」であるか「真相」であるか、データが語ってくれると考えること自体、既に「神話」と言うべきだ。
まず考えなければ大事な真理には近づけないのである。自分が考えてもよいし、過去に生きた人物がどう考えたかを知ることも、大切である。
《文明》を精神ではなく、観察可能なデータ、物証で基礎づけようとする科学的歴史はそろそろ研究メソッドとして主役の座を降りるのではないだろうか?
そんな意味で、トインビー的学問の復権も間近いと思う、最近であります。