2026年9月9日水曜日

ホンの一言: 皇室より大事な問題は多々あるだろうに

最近の皇室に関する世論(?)を観ていると、左翼的な皇族バッシングもあれば、「2600年の伝統」などという極右的な発言などもまじりあっていて、それぞれが互いに溶け合わずに主張している様子は、まるで蕎麦とうどんとラーメンが皿の上で乱雑に混じり合い、どんなツユでどう食すればよいのかが全く分からないゲテモノのような様相を呈している。

これは世論というよりは単なる混迷である

と。そう感じる今日この頃です。


こんな時は、自分への執着が混じった特定の権威の見解を聴くより、まずはAIで全体的な俯瞰をまとめてもらうのが一番である。そこで例によってChatGPTに次の順番で問うてみた。

  1. 皇位の男系継承を考えるとき、天皇と神道との関係がキーファクターになりませんか?
  2. 欧州ではローマ教皇が宗教界の象徴として存在する。欧州の王位に相応する地位として日本の天皇を理解するのは、国民心理の深層をみても、本質をとらえ損なう気がする。どう思う?
  3. 成文憲法の中に天皇の規定を文言として文章化するのは、これまでの日本文化と天皇、皇族との関係性を考えると、どう書くとしても問題が残り、現実的ではないように感じるのだが、この辺についてはどう思う?そもそも日本国の統治形式を規定する憲法に天皇を含める不可欠性があるのだろうか?かといって、大統領制に移行するのも日本の政治家をみると不安だな。

得られた回答はここにあるが、やはり大方の人間よりは要点をおさえることが出来ている。

天皇への感情は通常の王室への敬愛とも、明確な信仰とも違う、宗教以前の共同体感覚に近いものを含んでいます。

  • ただし、「国民心理の深層」を一枚岩として扱うことには慎重であるべきです。天皇を祭祀的存在として感じる人もいれば、純粋な憲法上の象徴と見る人、文化的伝統として緩やかに支持する人、制度そのものに批判的な人もいます。戦後80年以上を経て、天皇と神道との結びつきを意識しない国民も相当に多いでしょう。
  • 天皇が単なる憲法上の公職なら、男系男子限定の合理性は非常に弱くなります。反対に、天皇を皇祖神以来の祭祀と血統の継承者と見るなら、男系論には強い意味が生じます。現在の議論が噛み合わない最大の理由は、実は「男系か女系か」以前に、天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がないことにあるのではないでしょうか。

このように

現在の議論が噛み合わない最大の理由は、実は「男系か女系か」以前に、天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がないことにあるのではないでしょうか。

ズバリ、天皇や皇族に関する認識がばらばらであるという事実を指摘している。

ひょっとすると、こんな状況は、徳川将軍の幕藩体制下においても同じであったかもしれない。武家に権力が移ったあとの室町時代や鎌倉時代の民衆にとっても、その心理は現代日本人につながるものがあったかもしれない。

確かに明治政府は王政復古という形で天皇制について一つの選択をしたのだ。その選択は、倒幕のあとの国内状況、さらに帝国主義が支配する国際環境に迫られたものであったはずだ。本来は歴史的、時限的なもので、決して普遍的真理などではない。明治の精神で天皇制と向き合う必要性は客観的にもうないのである。とすれば、「ご自由に」ということになる。実際、皇室の事はご自由に決めてよい事柄である。


とはいうものの、天皇の地位は民意が決めるべきだという論理は、普遍的論理ではなく、歴史的にも根拠がなく、1946年に占領軍の指導下で制定した戦後憲法の法的要請にすぎないと言いたい自分がいる。憲法は、一度定着すれば権力を縛るとともに、国民をマインド・コントロールするのである。

天皇の問題をいま憲法と関連付けて議論するとき、まったくかみ合わなくなるのは、当たり前であると小生は思う。

「天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がない」ということに議論はとどまらないのだ。日本国憲法とは日本人にとって何者なのかについても、やはり国民の共通理解がない、と勝手に思っている。

つまり、天皇の話しを始めるや、二重の意味で日本人はバラバラなのである。

難しいネエ⋯⋯


最後に

まったく、この問題は複雑だ。正解はないということだけは分かるね。

こんな感想を述べると、AIは

本当にそう思います。「制度として論理的に整えること」と「歴史的に形成されたものを壊さず受け継ぐこと」が、きれいには一致しない問題です。

結局、万人を納得させる「正解」はなく、あり得るのは、何を守り、どの矛盾を引き受けるかという選択なのでしょう。男系を守れば継承可能性が細り、継承範囲を広げれば伝統の意味が変わる。天皇を憲法に置けば国民主権・平等原則との緊張が残り、外せば歴史的連続性や政治から距離を置いた象徴を失いかねません。

ただし「正解がない」から議論しても無駄なのではなく、むしろ、正解がないからこそ、政府や専門家に一任せず、国民がそれぞれの選択の代償まで理解して決めるべき問題だと思います。

このように、

国民がそれぞれの選択の代償まで理解して決めるべき問題だ

と。そう語っている。


たしかにネエ ⋯ ⋯、


これは何度も書いているのだが、つまるところ、「皇室」は所詮は非本質的問題なのである。日本人の生活、仕事にはホボホボ何の関係もない。政策とも無縁。天皇、皇族を中心にした文化的創造の場は、今という時代、絶えて久しいのであるから、要するに皇位継承はどうでもよいことである。

真に重要な問題は他にある。財政もそうであるし、社会保障もそうである。国防もそう。社会資本建設もそうだ。

皇位継承で(一部の物好きに限るとしても?)喧々諤々の論争をして、何だか対立しているような雰囲気になって、その挙句に真の問題を議論する時間も余裕もなくなるのは、日本まるごとドタバタ喜劇を演じていると海外にはみえるだろう。もしもこの騒動に関係者の営利動機が混じっているなら、公益を損ずる実に性悪な行き方ではないか?


思うに、現代日本人のどれほどが自らの願望の《代償》を理解しているだろうかと、この点に関してはまったく悲観的なのである。もし「願望」と「払うべき代償」とのロジックを理解していれば、そもそも解決不能なほどの財政赤字が累積する事態など起きないはずである。

財政破綻は、皇帝のいる王朝国家でも、現代世界の民主主義国家でも、権力の主体が願望を無際限に肯定し、理性的な抑制を失えば必ず起こるものである。

このロジックがいま当てはまっているわけではない。そう祈るばかりである。

【加筆修正:2026-09-10】

2026年9月7日月曜日

断想: これまでは孝行息子と思いしが………

大手メディア企業の報道よりネット(≒SNS)上のやりとりの方が世論に与える影響力が強まりつつある、と。少し前まではこんな指摘がよく耳に入っていたものだ。例えば、兵庫県の斎藤知事当選の際には、メディアの限界がよく議論されていた。

あれからまだ2年も経っていないのか・・・と改めて思う。


最新時点において様相はまた一歩進んだように感じる。


Yahoo! JAPANニュース、Googleニュース、SmartNews等々、いわゆる《ニュース・ポータル》になっていたサイトは数多くあるが、そのどれも目に入る記事は大手メディア企業のヘッドラインである。本文を読もうとすると、まず例外なく広告が再生、ないし表示され、元の画面に戻ると有料版への案内が画面に出る。ネットは大手メディア企業のビジネスの主戦場になった。

いわゆる「メディア」は、スポンサー企業の広告を最終ユーザーに到達させるための有料のメディア(=媒体)なのだから、紙面やTV画面よりネットの方が期待値が高いと判断すれば、ネットがメディア企業の活動現場として選ばれるのは当然のロジックである。

そして情報は、貨幣と同じく『悪貨は良貨を駆逐する』。良貨は秘蔵され、世には出ず、悪貨ばかりが目に入る結果になる。情報の確度ではなく世間の関心に応えることを優先するメディア企業がネットに入ってくれば、それまで良質の意見を提供していた個人の活動は、自分自身を守るためにもっと目立たない落ち着いた場所へと移動するというわけだ・・・そして、情報空間としてのネットは長期的には自己崩壊していく。


小生は、SNSはFBが主で、X、というよりTwitterはアカウントだけを10年以上も前に持ったことがあるだけだ。が、FBもスポンサーの広告が増えて、もはや広告なのか、自分が求めている情報なのか、一目では分からない。

メディア報道も、最近では臆面もなく「ネットでは〇〇」とか、「SNSでは〇〇という批判が大盛り上がり!」などと、

結局のところ、あなたの仕事とは何ですか?

と、アシモフの『黒後家蜘蛛の会』よろしく、質問したくなる。(匿名ではない)具体的な個人はともかく、報道ビジネスに従事する企業に勤務して、色々な記事を流している記者(?)たちのアイデンティティ(Identity)というか、価値と言うか、存在意義というか、レゾンデートル(Raison d'être)というか、・・・何をもって自己の活動を正当化しているつもりなのかを、問いたくなるのだ。

それはともかく、今朝はカミさんとこんな話をした:

小生: 20代の女性で包丁を所有していない人の割合が9割を切ったってねえ・・・

カミさん: へえ~~、そうなの?

小生: うん。何で「20代の女性で」に限定しているのか分からんけど、マア、男なら包丁を持ってなくとも当たり前だと言いたいのだろうな。でね、その理由としては「カット野菜をスーパーで買えばいいし」「調理済みの商品を買えばいいし」、「何も手間をかけるだけが愛情ではない」とか、いろいろ挙げられているらしいネ。

カミさん: うちがさあ、子供たちが大きくなって、カット野菜でいいよねって言い始めたのが、何歳くらいだったかなあ?いまの若い人たちは、それを最初からやろう、と。そういうこと?

小生: まあ、そういうことだ。・・・子供ってお母さんがつくってくれたご飯をいつまでも覚えているものなンだけどね・・・多分、共稼ぎでお母さんも忙しいってことだろうけど。

カミさん: 最近の若い人たちはそんな考え方だよ。

小生: でも、結局それは子供たちと一緒にいる時間より、働いてもらえる金を優先して意思決定したって事じゃないかネエ。

カミさん: 毎日一緒にいるより、お金をためて遊びに行ったり、旅行をしたりして、楽しい思い出を作るのもイイと思うけどなあ。

小生: 確かに俺が幼いころはサ、農家ではお母さんも忙しくてね、学校から帰っても大人はみんな働いてて忙しいのが当たり前だったからね。俺のオヤジは、親戚のうちまでリヤカーで荷物を運んで行けって言われて、市内から〇〇まで何キロ(Km)あるのかなあ、何時間もリヤカーを引いて歩いて行ったっていうから、今の家庭と少し昔の家庭とは、まったくライフ・スタイルが違うよ。

カミさん: あたしはあんまりお手伝いしなかったナア・・・

小生: それは俺も同じだけどネ。今となっては、手伝いもせず、心配ばかりかけていたから、不肖の愚息であったのが現実だったかもね。

カミさん: 勉強は出来たんでしょ?

小生: ああ、親を喜ばせるのが親孝行なら孝行息子だったな。「いい息子」だと自分でずっと思っていた時期もあったよ。だけどさ、テストでいい点数とるのが孝行なわけないワネ。

育てた子が、多くの人を助け、救い、感謝されるような状況が訪れれば

ああ、あの子を産んで育てて本当によかった。恩返しができた。ありがとう。神様、あの子をさずけて下さって、ありがとうございます。

こんな風に心から喜ぶのが親の欲張りな願いである。テストの点数とか、どこの大学に入るとか、⋯⋯、バカバカしい。


人はいつでも何か行動をするときには、迷いながらするか、確信をもってするかのどちらかだ。

そして、迷いは必ず行動を挫折させる。

とはいえ、確信をもってする行動も、それが正しいか、間違っているかといえば、何も証明はされていないのである。

自分は正しい

そう思う気持ちは、現実には自己への執着であって、人が誤るのは第一には「知識の不十分さ」、でなければ「自分への執着、つまり我執」である。このどちらか(あるいは両方)が原因である。

小生はずっと孝行息子である、というよりあったと、思ってきたが

これまでは 孝行息子と 思いしが

     バカな愚息と いまぞ知るなり

《真理》を知らないことこそ、つかの間の幸福感をもたらしてくれるものだ。

2026年9月5日土曜日

ホンの断想: 「二十億光年の孤独」が別の作品のように思えて

 谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』にこんな一節がある:


万有引力とは

ひきあう孤独の力である


宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う


宇宙はどんどん膨んでゆく

それ故みんなは不安である


二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした


この一節は詩という文学だが、無数の生命と物質を包含した宇宙空間をイメージする仏理的宇宙(≒三千大千世界)を表現した作品とも思える今日の夕暮れです。

アレルギー性鼻炎に悩むとき、以前は「小青龍湯」をよく飲んでいたが、あれは若者から中年始めの人に向いている薬だと聞いたので、最近は「苓甘姜味辛夏仁湯」をAmazonから買って、それを服用するようになった。

同じ作品を読んでも、以前はどんな風に感じたか、書いておかないと分からなくなるものだ。

何気に谷川俊太郎の詩集をめくっていたら、前のような印象とはまた違った感想を感じたのでメモしておく。

2026年9月2日水曜日

断想: 古代インド思想で《仏》の本性が議論された源は?

 先日の投稿では

高市内閣の経済政策は《ケ・セラ・セラ戦略》に該当する

と述べた。要するに、『明日は明日の風が吹く』("Tomorrow is another day.")という感性で、名画『風と共に去りぬ』の中で、南北戦争に敗北したあと、全てを失って故郷の農園・タラに戻る主人公・スカーレット=オハラが、この言葉を口にして前向きに生きていこうと決意する場面は大変有名だ。

高市早苗首相と焼け野原の故郷に佇むスカーレットと、どことなく似ているか?

ま、こんなイメージもあってよいかもしれませぬ。

【補足】映画の内容に照らしてみると上の言い方には混同があることが分かった。が、イメージはこんな風なので、このままにしておきます。


今日あたり、食料品に対する消費税減税の財源を法人税増税に求める話しがTVでされていて、

何も考えていないわけではありません

と、どうやら企業に逆風が吹き始めたという状況だ。でも、マア、これからの話しである。ベッセント・米財務長官は、明らかに財政拡張には反対している考えのようであるし、日本の財政政策の先行きは、まったくの五里霧中といった所である。

知識なき闇の世界、即ち「無明」を照らすために、色々な学問分野があり、経済については経済学が(インチキ版ではなく真っ当な経済学が曲がりなりにも?)使える状態であるにもかかわらず、「知識」なるものを軽蔑するのであれば、そりゃあ「五里霧中」にもなるし、ケ・セラ・セラにもなりましょうて・・・という感覚で観ているところである。

俗世間のことはさておき、こんな事を思った。

というのは、小生が属する宗派で日常的に読む『三宝礼』のことである。具体的には

一心敬礼 十方法界 常住仏

一心敬礼 十方法界 常住法

一心敬礼 十方法界 常住僧

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうぶ

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうほう

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうそう

これが日常勤行式の二番目に読まれる。趣旨はいわゆる「ブッポウソウ」、つまり仏と法と僧の三つは「三つの宝」(=三宝)なのだから、大切にせよ、と。公式の解説も大体同じ内容だ。

実は、ずっと月参りで聴いてきたときも、自分でも読経するようになった最近においても、小生はこの「三宝礼」というのは実に退屈に感じていたのだ。


それが変わったのは、読経の習慣ができて経典の文言を自分なりに解釈するようになってからだ。三宝礼もその一つだ。今日はそれをメモしておきたい。

最後の《僧》だが、これは「知識」を表すのだろうと思うようになった。これを「僧」と言うのは、仏道の経典であるからだ。僧は仏道の知識が人の形をとったものだ。

二番目の《法》だが、これは「道理」、「法則」、「真理」といった意味であろうと理解するようになった。もちろん仏道において、ここで「法」というのは「仏の教え」という意味に決まっている(はずだ)。小生はもっと広く理解したい。上の「知識」とは「法」に関して獲得されるもので、無尽蔵の法の中のごく一部分を人間は知識として得るのである。

「法」は「知識」を超え、「仏」は「法」を超える。いまではそう考えるようになった。逆に言うと、知識は法の一部であり、法は仏の一部である。つまり、最上位の《仏》は法を超えるもの、法の以前に実在するものである。法で止まらない所が、単なる「科学」とは違っている。

仏教では永遠の最終的実在として「仏」という漢字を当てているが、要するに「純粋知性」というべきものだろうと今は理解している。知性は法の源である、と。そんな宇宙観なのだろうと思う。ヘーゲルなら「世界精神」と言うだろうし、仏道では「法身」と呼ぶこともある。プラトンならイデア(=理想世界)をイメージできる「理性」と考えるであろう。人間が感覚的に観察する科学法則は、宇宙の法が可視化された結果である。観察される現象に形式と秩序を与え、法則として宇宙を理解するのは、理性の働きそのものである。

このブログでも何度か書いているが、人間の持っている能力というか、働きの中で、たった一つ「理性」だけは、全ての人に共通の形式で働く。感情や価値観、信念は個々人ごとに違うが、理性だけは共通、同一の仕方で考え、論証し、結論を出せるのである  ―   でなければ、人類共通の数学や論理学が成立するはずはない。

ただ、こう書くと、「法」を超える窮極的実在に関して、非常に西洋的に考えていることになる。仏道の世界は理論物理学の宇宙観とはまったく違っている。仏がいる世界には、因果律とともに、因と果を見通した目的もある。つまり善と悪の行為がある。

古代インド思想の何よりの特徴は、仏・法・僧の二番にある法の中に《輪廻転生》を真理として置いてあるところにある(と勝手に思っている)。当然だが、輪廻転生は仮説であるし、現代科学に染まり切った現代人なら「空想」であるとも言うだろう  ―   現代科学主義の根底にある唯物論もまた一つの荒唐無稽な空想であるというのは既に投稿した。

仏道に限らずインド思想では、「輪廻」を仮説でなく当然の真理として最初から前提している。生命あるもの(=衆生)は、この世界で何度も生まれ変わり、死に変わりしながら、ずっと一つながりの命として存在し続ける。生と死は物質的身体を与えられた個々の生物体の一時的状態に過ぎない。命は恒常的にあり続け、生は物質的身体をもっている状態、死は物質的身体をもっていない状態、というわけだ。

この「輪廻」を認めるのであれば、輪廻現象を含んだ諸法則の源である窮極的存在とは、一体どのような属性をもつはずのものであるか?

確かにこの問題は基本的であったに違いない。

同じ問題を問題としてとりあげた西洋の哲学者は(不勉強のせいもあって)知らない。

輪廻の仮説性は否定できない。とはいえ、一度それを認めると、宇宙は「生命」と「非生命」に二分される。物質に生命を生む潜在的可能性が含まれているかもしれないが、そんな素粒子の存在は聞いたことがない。生命は非物質であるとすると、宇宙には非物質と物質の二つが存在することになる。

では、そもそも非物質の命とはなぜ宇宙にあるのか?

そもそも理性という人間を超える普遍性のある働きがなぜ宇宙にありうるのか? 

そんな疑問が出て来る。生命は、物理化学的には自己組織化であり、エントロピー増大法則に反する現象である。なぜ宇宙には例外的な現象があるのか?なぜ生命はあるのか?

【修正】シュレーディンガー『生命とは何か』に書いてあることを忘れてこう書いてしまった。生命は外部にエントロピーを排出して、自身の内部を低エントロピー状態に維持しようとする。こう言うと正確だ。

命(=衆生)には目的がある。とすれば、目的を設定する存在を認めなければならない。

窮極的実在は、命(=衆生)を愛し、憐れむという本性をもっているに違いない。

最終的実在を《仏》と呼んで、仏とはどのような本性のものなのかについて、哲学的な思弁を展開した古代インド哲学者(と宗教家)のモチベーションが、何となくにせよ、分かる気がするようになった。


AIは、プリゴジンでも読んでみたらと推薦してきた。現代的視点から物理的にはどこまでが見当がついていて、どこから先が分からないのか、存在は知っていたが、一度読んでみますかネエ。


日常勤行式の「三宝礼」は、案外深い意味を持っている、と。今ではそう思っている  ―   ごくごく最近からだが。

以上、覚書まで。



2026年8月28日金曜日

断想: トランプ政権の現状に真に責任ある者は?日本の事は?

 Brad DeLong先生、Krugman先生と同じでトランプ現政権批判の急先鋒であるが、最近はこんな事を書いている。但し。デロング先生の推し記事である。日本の大衆民主主義批判にも通じる話なので、抜粋を引用しておきたい:

Drezner explains why his harshest criticism of the Trump administration targets the “normie” Republicans—of whom he was once one—rather than the obvious buffoons: the people who know better and enable Trump anyway are more contemptible than those who never had principles to betray. In his view, contempt should be allotted in proportion to culpability, not incompetence. The intelligent enablers who understand exactly what they’re empowering — and choose it for power and status — deserve more scorn than manifestly unqualified and honorless clowns from whom nothing could ever have been expected.

ドレズナーは、トランプ政権に対する自身の最も厳しい批判の矛先が、誰の目にも明らかな「道化」たちではなく、かつては自分もその一人であった「ごく普通の(ノーミー)」共和党員に向けられる理由を説明しています。つまり、事の是非を理解していながらトランプを容認・支援する人々は、そもそも裏切るべき信念など持ち合わせていなかった連中よりも、はるかに軽蔑に値するということです。彼の考えでは、軽蔑の念は無能さに対​​してではなく、責任の重さに応じて向けられるべきものなのです。自らが力を与えている対象の正体を正確に理解し、権力や地位のためにあえてそれを選び取った「知的な協力者」たちこそ、最初から何ら期待などされていなかった、明らかに資質を欠き名誉心もない道化連中よりも、強い侮蔑を受けるべき存在なのです。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-08-28

URL: https://braddelong.substack.com/p/crosspost-dan-drezner-categories

上でいう「道化」とは、筆者がそもそも誰を意識して「道化(buffoons)」と言っているかは別として、本ブログでいう「大衆」に(イメージとしては)対応する。大衆は、無責任だが、知性も知識もなく、そもそも期待されていることもない、と。

 この「道化」に対するに

自らが力を与えている対象の正体を正確に理解し、(自分の?)権力や地位のためにあえてそれを選び取った「知的な協力者」たち

と書かれていて、筆者はこの一群の人物集団には実に厳しいのだ。(唾棄するほどの)「侮蔑」に値するような「知的な協力者」たちとは、いったい誰の事を指しているのだろうか?

よく読めば、引用文の筆者自身も含めた共和党員の全体を指していることは直ぐわかる。しかし、非難の標的はそんな漠然としたものではないという思いが伝わってくる。


クルーグマン先生が日ごろ展開している非難の標的から推測するに、(多分当たっているだろう)《軽蔑に値する知的な協力者》とは、ト政権の閣僚の面々に加えて、まずはTeslaのマスク、Amazonのベゾス、Metaのザッカーバーグを代表とするIT業界の大立者たち、つまり超富裕層である。次に、彼らがカネの力で支配しているメディア大手企業が垂れ流す報道に協力しているジャーナリスト(?)たち。経済的動機からト政権に《シッポを振ってすり寄る専門家》たちも同類である。マア、大略、こんなことを言いたいようである。

無知な大衆は、そもそも何も期待などされていないのであるし、自分が何をしているかも理解できていない。十分な理解力もないのである。故に、トランプ政権をいかに支持しようが、だからと言って無責任だと非難する理由はないし、軽蔑すべき存在でもない、と。


思うのだが、ここには西洋の社会哲学、政治哲学の底流に流れている根本認識がある。

知性ある者にこそ、責任がある。責任ある者にこそ、ふさわしい仕事が与えられる。知性あり、知識ある者は、与えられた職務を全うし期待に応えるべきである。

西洋流の民主主義の根本が窺いとれるではないか?本来の民主主義とはこういうものだと小生は思う。しかるに、アメリカの超富裕層は期待には応えず、自己利益を求めるだけである。

大乗仏教では《自利と利他》の双方を目的としているが、この「利他」が欠け、「自利」だけのために自らの知的能力を使っている。故に、軽蔑に値する、と。

民主主義は大衆によって支えられるものではない。所詮、大衆は世間の風になびくだけだ。問題は、民主主義を支えるべき階層がその責任を放棄していることだ、というわけだ。

翻って、東洋文明圏のメインランドである中国の(北京政府の)立場は、産経新聞が報じた以下の記事からも推察できる:

混乱を生んだ米軍のアフガニスタン撤収に触れて「米国式の民主主義を他国に無理に押し付けても全く通用しないことをはっきりと表した」と主張。米国の民主主義は「他国に干渉するための『大量破壊兵器』になっている」と非難した。

Date:2021/12/11 20:46

URL:https://www.sankei.com/article/20211211-Z5TKHHYYFFOUBOUPMAPUUHLEUQ/

北京政府は現在の共産党主導体制は民主主義の一つの形と認識しているので上のような言い方になるのだろう  ―   それより中国に普通選挙による民主主義を導入するのは、歴史に則しても、無理だろうと観ている。中国の大衆は政治的選択には関与しないので、トランプ的政権が選挙から生まれてしまう可能性はない。但し、知性ある指導層がパブリックへの奉仕精神をもって大衆の期待に応えられるか、応えようとしているかという問題は、中国にも存在する。中国においてもデロング的問題が全くないわけではない。

大衆も結果に対して責任は負うのである。なぜなら、知的エリートがいかに正論を主張しても、数に勝る大衆が正論に聞く耳を持たなければ、社会は必然的に間違うからである。政治家は正論ではなく票を求めるものだ。大衆にも、だから、結果責任はある。

社会を誤らせたことから事後的に生起してくる全ての惨憺たる結果を、大衆は自らが引き受ける。大衆が犯した誤りの責任は大衆自らによって必ずとられるのである。愚かだが、フェアであり、フェア・プレーをしている以上、軽蔑には値しない。

他方、トランプ政権がどんな政権になるか事前に(かなり明確に)予測されていたにもかかわらず、ビジネスに有利だからと言って、職業的に成功するチャンスが訪れたからと言って、

間違っていると理解しつつ、政権に協力してきた人たち

こんな人間集団は、自分の代わりに無知な大衆を賭け金にして自己利益を追求するという点で正に《軽蔑》に値する。彼らはいかにして売り逃げるかだけを考える。ババをつかむヘマはしない。実に合理的だ。そもそも合理性とは「合理性」であって善悪ではないのだ。とはいえ、人間の行為としてみるとき、人道に対する罪を犯していると言っても、これは確かに正論である。

日本に目を向けよう。日本にはデロング先生のいう「知的エリート」、分かりやすく言えば「利口な人たち」はいるのだろうか?

高市現内閣を日本の「大衆」が熱狂的に支持したのは、本年初めの時点で明らかな事実であった。高市内閣がどんな政治をするかも、かなり明確に予測できていた。現状はその時の結果である。

では、高市政権に反対するべき知性ある人たちが、大衆を賭け金がわりに使って、自らの利益のために「政権の犬」になっている・・・そんなデロング的状況が日本にもあるのか………?


しいて言うなら、

維新の会の面々

なのですかネエ??…ちょっと違うような気もするが。

高市首相にチャンスを見出し、自らの政治目的、事業目的を追求している、更には「自分のつごう」で同調している利己的な人々・・・

う~ん、そんな人がいるでしょうか?

それより、高市現首相と自民党総裁を争ったライバルたちはどうか?

今の政治は正しいと考えているのか?支えるべきだと心から考えているのか?

分からぬ。知り合いでもないので、小生には分かるはずもないが

やはり、極右(かどうかも定かではないが)の高市ではなく、

岸田・石破寄りであった従来与党の穏健派が、デロング的な意味で失望をかっている情けない人々になるのではないか。

こんな理解の仕方になってくるかもしれない。


トランプ政権の政策に対して、アメリカ国内の批判派急先鋒は声を(現に)あげている。日本にも同様の声はある(はずだ)。ところが、日本では

十分な知性をもっており、現在の誤りを理解できる理解力もある。しかし、声を上げるべき人が、自らの保身(≒自己利益)のために声を上げていない。結果として、現状を追認している。

デロング的な意味での《軽蔑》に値する人は、いわゆる《大衆》とは別にいる。真に軽蔑するべき人物集団は、大衆ではなく、そんな知性ある人たちである。


とはいえ、日本の大衆が決定的に愚かであれば、知性ある人がどれほど名案を示すとしても、大衆は耳を貸さないであろう。かえって《国民の敵》(≒非国民)と呼んで排除するはずだ。それは、民主主義社会では仕方のない事である。これもフェアプレーでありうる一つの帰結なのだから……

… … …

ふ~~む、

これまた、あってもよい見方だ。

【加筆修正:2026-0901】


2026年8月26日水曜日

断想: 読書感想文を宿題にするのは無理になったネエ・・・

ChatGPTなどAIが普及したいまという時代、もはや書評とか、批評とか、読書感想文といった学校なら誰でも取り組んだことがある「宿題」が、今後はどんな意味をもつのかどうか、非常に曖昧になってきた  ―   人によっては、数学の演習問題や哲学のレポート課題ですら、もはや宿題とするには、意味がなくなってきたと言うかもしれないが。

少なくとも、学校の夏休み課題としての読書感想文は何を測定する課題であるのか、意味を失ったと思う。

今日はその辺の経験と印象である。

ChatGPTに、試しに

芥川龍之介の最高傑作は何だと思う?

と聞いてみた。そうすると、『地獄変』だと思うと答えてきた。小生は『歯車』あたりが大したものだと思っているが、確かに『地獄変』を選ぶ見方もある。

課題図書と言えば漱石の『こころ』はまだ有力な選択肢なのだろうか?小生は、中学生や高校生が、『こころ』を読みこなすのは無理ではないかと、かなり以前の投稿で書いたことがある。そこで

漱石はどう?世評では

と聞いた。

そうすると、『こころ』と『明暗』の2作を挙げてきたので、中々やるじゃないか、と見直した。前にも書いたことがあるが、漱石が生涯の中で最高の境地に達したのは『明暗』においてであると、こればかりは譲れないのである。ただ、『明暗』は未完成の作品であるのが欠点だ。AIもこの辺については

『明暗』は小説技法としてはさらに先へ進んでいると思いますが、未完という決定的な問題があります。それに対して『こころ』は、作品の構造そのものが非常によくできています。「先生と私」から始まって、「両親と私」を経由し、最後に「先生と遺書」がすべてを呑み込む。個人の恋愛と裏切りの物語が、最後には「明治という時代の終焉」と重なってしまう。このスケールの変化が見事です。

こんな風にまとめている。中々要領がイイ。とはいえ、この程度なら読書好きな中学生でも書けるだろうと言うレベルだ。

とはいえ、『こころ』を最高傑作とするには疑問があるので、

『それから』を推す人も多いが、どう評価している?

と押してみた。すると

はい。『それから』を漱石の最高傑作に挙げるのは、かなり説得力のある評価だと思います。むしろ「完成した長篇小説」という条件をつけるなら、私は『こころ』より『それから』を上に置く議論にも賛成できます。

これにはちょっと驚いた。

それと次の考察は大したものだと感じた。

『それから』の強さは、主人公・代助が単なる「恋愛に悩む男」ではなく、明治末期の知識人が抱えた矛盾そのものとして造形されているところにあります。

代助は働かず、父や兄の経済力に依存して暮らしています。しかし本人は怠け者だとは思っていない。むしろ、金銭と競争によって人間を縛る近代社会の方がおかしい、と考えている。そこには漱石自身の文明批評がかなり入っています。

問題は、代助の批判がかなり正しいことです。

社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。

しかし、その社会を批判している本人が、その社会から送られてくる金で生きている。

ここが非常に痛いところです。

 ここまで書ける高校生は、いや大学生・社会人でも、そう多くはいない気がする。

問題は、代助の批判がかなり正しいことです。

社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。

これを指摘するのが、『それから』を読む上では、大きなポイントである。現代日本人にとっても、100年以上も昔に生きた漱石のこの問題意識は心に刺さるはずだ。


そこで次のように掘り下げた:

う~ん、感心したよ。結構深く読み込んでいるね。

すると、嬉しくなったのか(?)

ありがとうございます。漱石は、筋だけ追うと比較的平明なのに、人物の行動を「なぜそうしたのか」と考え始めると、急に底が深くなりますね。

特に『それから』はそうだと思います。代助を「高等遊民の身勝手な男」と見ればその通りだし、「社会の虚偽を拒否した近代的個人」と見てもその通り。しかし、漱石はどちらか一方に読者を落ち着かせてくれない。代助の思想には真実がある。しかし、その真実を実行すれば他人を傷つけ、自分の生活も破壊する――この矛盾を解消せず、そのまま小説として成立させているところが強いと思います。

そして漱石を読んでいて私が特に面白いと思うのは、結局ずっと「個人はいかにして他者と共に生きられるのか」を考えていた作家ではないか、ということです。『それから』では「自己の真実を貫くこと」、『こころ』では「その自己が他者を傷つけること」、『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。 

現代人からは内面的共感可能性すら失われつつあるいわゆる「明治の日本人」だが、「近代的個人」たることを「外圧」として意識させられている中で、そうした生き方をすること自体が、人間性を歪め、社会を歪め、倫理道徳を歪めている、そんな認識が漱石を読むことで知られるのである。そして、いかに歪んだ生き方を納得のできない社会でするとしても、生きるためにはそんな生き方をせざるを得ないという、この非条理の感覚が漱石の作品の肝である。

この漱石が提出した問題は、いま生きている戦後日本の日本人にも、依然として共通の問題として意識されている。小生はそう感じるのだ、ナ。

これが漱石の現代性と言うものだろう。つまり、漱石の作品を読んで考えてもらうという課題の「課題性」は、確かにある。これに間違いはないし、だから、これからも夏目漱石という作家は古くはならない、その意味で珍しい作家であると思っている。


漱石が西洋から学び取った《近代的個人》は、いわゆる《人格の尊厳》という概念になって日本の法体系にも具体化されている。これが江戸時代より以前の日本と違うところだ。マア、古くてなんだが、遣唐使が持ち帰った中国文化を模倣して作った「大宝律令」も新文明という点では同じような働きをしたのであろうと想像している。戦後日本も同じである。

しかし、上でChatGPTがまとめているように

『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。 

そもそも《我》という固有の実在にも疑いの目を向けているのが晩年の夏目漱石である。自分と社会、主観と客観という二項対立の認識は、特に近代西洋の哲学では当たり前の枠組みとして最初から前提されることが多いが、仏教思想が文化的土台の一つになっている東洋では、《我癡、我見、我慢、我愛》は、人を迷いに導きいれる煩悩の本質としてとらえ、「我が実在しないことを知る」ところから、全てが始まる。

漱石の目は、自我と社会という問題意識から、最後にはもっと高い処へと飛躍したわけである。


最後に、

自分の人生を追求すると、それは家族や他者を傷つける結果になるというのは、その通りだ。

こんなコメントを書いた。そうすると

そうですね。そして私は、そこが漱石の非常に現代的なところだと思います。

近代的な「個人」という考え方を突き詰めれば、自分自身の人生を生きよ、自分の内面的な真実に忠実であれという方向へ進みます。ところが、人間は孤立して生きているわけではない。親子、夫婦、友人、経済的依存、社会的義務といった関係の網の目の中にいる。したがって、自分に忠実であろうとすればするほど、誰かとの関係を壊さなければならない場合が出てくる。

『それから』は、まさにそれを極端な形で実験している小説でしょう。

AIの分際(?)で漱石の現代性を十分に理解している。青春小説とも言える『三四郎』の中で、「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言った三四郎に対して、「偉大なる暗闇」こと広田先生がただ一言、冷やかに「滅びるね」と答える有名な場面がある。この時の広田先生の社会観、文明観、人間観が、『それから』や『こころ』、『明暗」になって展開されていったわけだ。

いずれにしても『こころ』は『門』よりも更に『それから』の終結性を明瞭にもつ。その分だけ『それから』は、社会で生きる発端の問題を扱っており、学校の読書感想文としては『こころ』よりは若い人には読みやすいはずだと思っている。その反対が『明暗』であり、これを読みこなせるには、将来の夢を見ながら学校で勉強しているうちは無理である、というのが小生の読書観である。

AIにここまで書かれてしまうと、それを土台にして更に深堀するには、相当の思考力が求められる。

大半の人は、丸写しに近い編集をして、そのまま提出するだろう。

AIに思考力を鍛えられる階層と、白痴化が進む階層と、所得や資産といった経済力だけではなく、思考や知識といった次元でも、今後は更に二極分化、格差拡大が進むのではないか?

独立した個人と着想によって経済的進歩を実現しようとする古き良き時代の資本主義は、AIの浸透と活用に伴って、生産現場でも消費生活でも、一つの限界を迎える。何より、労働所得から資本所得へのウェイト移動を通して、資本主義が下部構造として機能するための条件が失われつつあると思う。

そんな感想です。

本日投稿は、AIの作品評価から最後は資本主義へと話が飛躍してしまった。これも覚書きということで。

2026年8月22日土曜日

断想: 「直系、直系」とあまり言い募るのもなんだかネエ……という話し

まだ改正してから何か月も経っていないにもかかわらず高市内閣の強引な皇室典範改正は非常に評判が悪いようである。

まあ、確かに数百年の間、傍流であり続けた旧宮家が、いかに「世襲親王家」という特別の血筋であったとはいえ、その辺の事情は現世代の日本人には知識がほとんどないわけである。

今回の皇室典範が、要するに何を含意しているかが明らかになってくるにつれて、社会的な反発が広がるのは無理もないような気がする。

ただ小生は、この辺には割と冷めていて、何度も投稿するが

誰が天皇であろうと、あっしには関りはござんせん

ホンネはこんな所である。

確かに、皇統と縁もゆかりもない御仁が、いつの間にか天皇になるというのは、日本史を汚すものである、とは感じる。これは正直にそう感じる。

とはいえ、皇位継承にこだわりがあるかと言えば、「何か深いご関係でもおありで?」と、そう問いたくなるのだ。

今から14年前にこんな投稿をしているのも事実だ。少し引用しておこう:

いま皇位継承をめぐって女性宮家を創設する方向で話が進み、内親王の称号を与えられるのは今上天皇の直系女子に限定される方向だと憶測されている。上の戦争責任との関連で議論する向きはほとんどないと伝えられている ― 仮に議論されているとしても一般報道には絶対に出てはこないだろう。思うのだが、歴史的にも採用したことが一度もない「女性宮家」までを創設し、そこまでして明治・大正・昭和と続いてきた直系を正統として守らなければならないのだろうか?守らなくとも天皇制は維持できる。

こんな発想をするのは古いと言われれば古いのだが、男子に恵まれず、ついに今の系統が(万が一)絶えることになれば、それはそれで歴史の流れの中で下された<天意>というものではないだろうか?その時には、敗戦後に廃止された伏見宮系統の皇統が皇族に復帰して、新たに正統として皇位を継いでいけば、よいのではないだろうか?明治・大正・昭和と続く、現在の皇統が聖なるものとして、採用したことがない方策をとってまで直系に執着するには、「永遠に刻むに値するような歴史的歩みだったのだろうか?」というか、国民が心からそう願うための倫理的な根拠が薄弱ではないのか。小生、そう思うのだな。ずばり<国を誤ったではないですか>、実際、それが戦後日本の基本的姿勢だと思うのだが。なのに・・・という意味である。

一口に言えば、

何も無理をしてまで、いまの皇統の直系を守る必要などないのではないかという立場になる。

そう思う根拠は、正に上に引用したとおりであって、結局のところ《戦争責任》というキーワードにたどり着く話しなのだと思うのだ。

明治・大正・昭和天皇に至る皇統直系こそが、実は国際協調を支持し、伏見宮系統の皇族方こそ太平洋戦争開戦前の時期に軍人皇族として対外強硬路線(≒日本的戦狼外交)の後ろ盾となっていたことを思うと、いまの状況はいかに《天意》とはいえ、実に《歴史の皮肉》としか言いようがないが、これも表舞台に立ってきた家系が担うべき《業》というものかもしれない。

確かに現在世代の日本人は、日中戦争にも、太平洋戦争にも何の責任もないし、満州事変の歴史的評価とか、上海事件への対応の適否とか、知らなくとも、考えなくともよいことである。

しかし、仮に祖父か曾祖父の親類に世を震わす凄惨な事件をひき起こした人物がいて、世間はそれを今では忘れているとしても、事件の当時に被害者遺族にどんな謝罪をしたのか、その後どんな償いをしたのかについて、全く何の関心も持たず、聞いたこともないという生活態度で生きているとすれば、何かの拍子でそれが話題になった時に、その歴史的無知を非難されても仕方がないと思うし、それは現在の子孫が引き継ぐべき《業》であると思うのだ、な。

世界史においては《忘却の権利》も《忘却の義務》もないし、「赦しはするが忘れず」というのは人類共通のモラルなのだろうと思う。

だから上に引用した投稿の最後は

日本の文化遺産の多くは、天皇と朝廷を舞台にした王朝文化である面が大きいのだが、天皇は国家と一体化してきたが故に、政治の荒波から無縁ではありえない。1945年以後10年ほどの間に ― なるほど日本人の多くは食べていくにも大変であったとは思うが ― 道義の観点からとるべき行動で、何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない。それは後世代である私たちがもう一度真剣に考えてもいいのかもしれない。ま、これが小生の個人的な意見だ。

こんな風に『何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない』と書いたのは、

もう一度よく思い出して、どんな風に過ごしてきたかを調べなおしてみてもいいンじゃない?

ま、こんなことを考えていたことが分かる。

特に「天皇家」になると、日本の歴史に責任を持たざるを得ない立場でもあろうから、あまり「直系、直系」とこだわるのも何だかネエ……と   ―   もちろん、今上陛下も現宮家の方々も、こんな風にはお考えになっておられないはずですが。

そういうことであります。

【加筆修正:2026-08-25】