2026年7月4日土曜日

覚書き: コンプライアンスについてChatGPTに質問してみた

小生は経済学部からビジネススクールへ横方向へ移籍した口である。移籍当初は経済学の感性と経営学の感性と、学問分野の違いばかりではなく、授業を教えている教員たちの感性までもが何故これほど違うのか、と。しばらくの間は、まるで文化大革命の渦中に投げ込まれたような違和感に満ちた毎日を過ごしたものである。

しかし、今になって振り返ってみると、ビジネススクールで仕事をしたおかげで、データ解析を担当した小生の問題意識も大いに啓発され、新しい方向へ研究を始めることが出来たのだから、結果的には良かったと思っている。

21世紀に入って何年か経った頃だったろうか、外部評価で評価委員が来学したことがあった。その最後に指摘された課題として

カリキュラムに「企業倫理」に関連した科目が含まれていない

そんな助言、というか要請があったことをまだ覚えているのだ、ナ。

経済学から入った小生にとって、企業は法人であり、倫理意識など持てようはずはないわけであったので

何をチバケタことを・・・

と呆れる思いがしたことをまだ覚えている  ―   「チバケタ」と書いたのは、その時の感想をそのままに書いているもので、岡山県に勤務したことがあった名残である。

つまり、「企業倫理」などと言う概念が存在する余地はなく、あるとすれば「経営者倫理」だけである。そんな理屈であった。

その後、長い時間が経ってみると「企業倫理」なり「ビジネス倫理」という言葉は、日本社会でも何だかそれなりに定着した感じで、要するに

儲かるなら何をしてもイイわけではない。

これを言いたいのであろうと、大体は察しがつくようになった。何をしてもいいわけではない、つまりそこには「規制」がある。法的な規制があるし、法的には合法でも倫理上の規制があるはずだ。いわゆる《コンプライアンス》という言葉がここから派生してきた。

最近なにかというと「葵のご紋」のように振りかざす人が増えた「コンプライアンス」、最初は企業倫理の方面から、だんだんと拡大、流布していったということか?

こんな「事ども」を思い出すことがあったので、試しにChatGPTの見解を聴いてみることにしたので下に引用して覚書としたい。

質問したのは先ず以下の質問だ。

コンプライアンスという言葉は20年程以前には使われていなかった記憶があるのですが、最近のように強調されるようになった具体的な契機や発端があったのでしょうか?

 回答は思った通りだった:

「コンプライアンス(compliance)」という言葉自体は以前から英語にはありましたが、日本で現在のように「企業経営の最重要課題」の一つとして盛んに使われるようになったのは、1990年代後半から2000年代初頭です。その背景には、いくつかの大きな出来事が重なっています。

1. バブル崩壊後の企業不祥事の続発

2. アメリカ企業統治の影響

3. 日本版SOX法(=サーベンス・オクスリー法)の制定 

4. 「法令遵守」から「企業倫理」へ

 「サーベンス・オクスリー法」の登場で、企業の内部統制と法令遵守を厳しく求める世の流れが確定した。

その法令遵守が次第に拡大解釈され、「適法か違法か?」という法律論から、いまは「適切か不適切か?」というグレーゾーンにまでコンプライアンスという言葉が使われるようになった。大雑把に整理するとそういうことのようだ。

そして今では

  • コンプライアンス委員会
  • コンプライアンス室
  • コンプライアンス研修

ちょっとした企業なら上のようなセクションなりコースが開設されているはずだ。

何かのトラブルがあれば、何かの原因がある、というより「あらねばならない」。その原因は、仮に法律違反でなくとも、(何らかの意味で)不適切である。どんな意味で不適切なのか?それは法律なり、法律がなければガイドラインなり、内規なり、探せば必ず見つかる(はずだ)。なければ新たに文章化して不適切にすればよい。つまり現実にトラブルが発生しているなら、関係者の言動に何かノン・コンプライアントな要素があったからである。そういう事にしよう。

トラブル ⇔ ノン・コンプライアンス

これが現代経営を支配する黄金律なのだろうと観ている。

まるで仏教である。仏道では「四苦」を「生・病・老・死」としているが、死の苦しみの原因は、即ち生まれたことそのものである。そこから全ての議論が出発する。(宗教としては)間違っている議論ではない。

問題解決には因果分析がなるほど必要だ。悪因悪果、善因善果。不適切な原因を排除すれば望ましい結果が得られる。とはいえ、これで安心するなら、まるで因果応報論の焼き直しである。

この極めてシンプルな論理に自らが苦しめられているのが当の我々ではないかナアと感じているのは小生だけだろうか?

生産現場、活動現場は因果律では動いていないのだ。人間は因果論ではなく、目的論に立って観察されるべき存在である。

〇〇したからこうなった。ではなく、〇〇したいから、こうした。

活動には目的がある。トラブルは排除するべき不適切では決してない。目的を追求する中では、何らかのトラブルはほぼ必然的に発生するものである。トラブルの根本的原因は、過去の時点にあるのではなく、目的を定めたこと自体にある。もし目的が絶対のものであるなら、付随するトラブルは半ば必然的。解決するべき問題として認識されるのである。

トラブルは改善への一里塚

それが人間行動である。こんな言動をしたことが重要なのではなく、何をしようとしてその言動をしたのか?意図と動機が人間行動の本質である。

外観だけに着眼して、一挙手一投足に是非の判定を下したがるのは、人間社会を《ゲーム》と錯覚している御仁の通弊である。


モノづくりを経験知として知っていた世代なら、不適切な原因がありトラブルが発生したという順とは反対方向からも考えられるはずだ。そもそも何が不適切かという判定は目的設定に依存して変わるものである。

モノ作りではなくて、サービス、つまりは「おもてなし」をコアとする現代日本の活動現場では、トラブル自体が単なる不祥事になってしまったようだ。

「改善への一里塚」から「単なる不祥事」へ

「失敗は成功の母」であるのに何という転落ぶりだろうか?しかし、アスリートでもない、クリエーターでもない、アーティストでもサイエンティストでも何でもない、いわゆるスキルとは無縁の人たちが活動する現場においては、トラブルは未熟からの成長の一過程とは認識されず、単なる無能としか観られない。成長するべき何物もない以上、トラブルは取り除くべき不適切な因子の存在を示唆するのである。

マルクスは「労働力の商品化」をもって「人間の自己疎外」と理解したが、「コンプライアンス」という言葉に支配される現代日本社会の「働く場所」に蔓延しているのは、文字通りの

働く人たちの自己疎外

である。浸食されているのは、被雇用者だけではなく、自らが造った言葉と観念に逆に支配されている経営者も同じである。

コンプライアンスとは元来は「法の尊重」を指す言葉だった。それが「不適切の排除」という意味に拡大してきたのが、この10年程の間の現代世間史と言えるだろう。この辺にも言及しているから、ChatGPTの回答は平均以上の出来栄えを示している。

興味深いのは、コンプライアンスの意味が変化していることです。

もともとは

法律を守ること(法令遵守)

という意味でした。

しかし現在では、それだけでは不十分と考えられ、

  • 社内規程を守る
  • 倫理規範を守る
  • 利益相反を避ける
  • ハラスメントを防止する
  • ESGや人権に配慮する

といった広い意味で使われています。

《トラブル、即ち不適切》という思い込みは、創造とモノづくりの現場を忘れた現代日本の精神的退廃であろう。正に、自らが造った言葉が自らを苦しめる自己疎外の典型的なケースであるというのが、小生の現代世相観である。

次いで、以下の質問をした。

個人的には、潜在的エネルギーが社会的な活力になるように法制度は柔軟に修正していくものだと考えています。現時点の法制度を所与として、法を順守する点を重視しすぎると、むしろ閉塞的な社会状況になると思いますが、あなたはどう思いますか?

あまり良い質問の仕方ではない。これでは答えを誘導している。

案の定

例えば歴史を振り返ると、

  1. 明治維新では封建的な身分制度や営業規制が大きく改められ、経済活動の自由が広がりました。
  2. 戦後の農地改革や独占禁止政策も、既存制度を大胆に変更することで社会の活力を引き出そうとした例です。
  3. 近年でも、デジタル技術やAIに対応するため、新しい事業を可能にする「サンドボックス制度」のように、既存規制を一時的に緩和して実証実験を認める仕組みが導入されています。

つまり、法制度は固定的なものではなく、社会の変化に応じて改正されるべきものだという考え方は、法学や経済学でも広く認められています。

小生が欲しいと思う回答が返ってきた。この回答自体に誤りはなく、正にその通りなのであるが、

社会進歩のためには、苦しむ人は犠牲になるべきだと考えるのですか?

必ずこんな反問に答えなければならない。注射は、同じ人が痛い思いをして、同時に治療効果の受け手になる。利得と損失の差し引き計算は可能だ。他方、社会が進歩するときには、ある人が大きな利益を得て、別の人がそれより小さい損失を蒙る。そんな時、損失を蒙る人は社会の為に犠牲になれというのですか?これでは、神風特攻隊を送り出した軍国日本の日本人と同じ精神ではないか?

この問題意識こそが議論の核心なのである。

次のように回答から逃げているのはAIなるものの賢いところだと思っている。

私が興味深いと感じるのは、ご指摘が**「コンプライアンス文化」への批判**にもつながっている点です。

近年のコンプライアンスは、単なる法令遵守を超えて「少しでも社会的批判を受けそうなことは避ける」というリスク回避の文化にまで広がることがあります。その結果、

  • 新規事業への挑戦をためらう
  • 前例主義が強まる
  • 失敗を極端に恐れる
  • 形式的なチェックや書類作成が増える

といった副作用が指摘されています。これは本来の「法令遵守」とは少し異なる現象で、むしろ過剰なリスク回避の問題と言えるでしょう。

コンプライアンス重視が、改革の痛みからの逃避になれば、その企業、その国は衰退するしかない理屈である。

要するに、コンプライアンスを「臭いものに蓋をする経営姿勢」の言い訳にしてはダメだということだ。が、現状は

コンプライアンス重視 = ことなかれ主義

コンプライアンス重視 = 護送船団方式

に堕している。1990年代のバブル崩壊の修羅場の経験を通して、これではダメだと日本人が学習した教訓を、そろそろ忘れ始めているのだろう。

日本社会は、一度は否定できた旧習を新しい言葉で飾りつけ又もや同じ事なかれ主義に戻りつつあるように観える。

とはいえ、こういう事こそ小生が最初から言いたい事であった。言いたい事を先に書いてくれるのは有り難いが、求めていたのはこれをロジックとして整理することであった。

数学の入試問題すら解けるAIだが、社会を肉切り包丁のように解体して、社会問題のロジックを自由自在に再構成してくれるという所までは行かない様だ。

 

 

 


2026年6月30日火曜日

ホンの一言: 日本政治もアメリカ政治も猿山になったか

刑事訴訟法改正や皇室典範改正だけでもどうなるか分からないのに、衆議員定数削減、それも小選挙区には手をつけず比例区だけを45人(?)も削減するという乱暴な法案の審議を始めるというのだから、国会が大荒れになるのは当たり前である。そんな雰囲気の中、自民党の重鎮議員が愛子天皇はありえないと、結婚相手が見つからないだろうと、講演か会見か、公の場で言ったから世間はよけいに荒れてきた。

これが「戦略的失言」であるなら、目的は何だろうか?

ちょっと思い浮かばない。単なる失言だろう。

先日、トランプ政権は「サル山」のようなレベルだと、経済学者のDeLong先生の評を引用したばかりだ。

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

日本の高市極右政権も同じ様なものか?

上の英文の最後に次の一文を追加したいというのが小生の感想だ:

As for Japan, too, the view that the administration is like a "chaos monkey" remains the same, though ....

日本に関しても、現政権が「猿山のサル」のような存在だという見方は変わっていませんが……。 

 但しこちらは、関税、移民取締り、ベネズエラ大統領拉致、対イラン戦闘開始と何でもありのト大統領とはちがって、いまだに宣伝とアピールだけ、成果はチマチマしたものばかり。やったのは奇襲のような衆議員解散だけである。

共通しているのは《奇襲》が好きなサルだという一点だけか ⋯⋯

2026年6月29日月曜日

ホンの一言: アメリカの対キューバ経済制裁は確かに悲惨ではあるが

愛読しているKrugman先生の投稿は、最近毎日のように、いかにトランプ政権が無能であるか、いかにトランプ大統領が悪質であるか等々、経済というより政治的な非難が多いので、その種の批判はちょっと丁寧に読むのは止めている。

そのト政権が経済制裁中のキューバ。やり方が惨いのでどうしてもト政権批判へと議論は流れがちだが、DeLong先生は意外と冷静な目でとらえている。

引用しておこう:

My view is that, had Cuba remained a normal country rather than becoming the patrimonial-authoritarian really-existing socialist caudillismist Castroite state that it did, the likely counterfactual is that nearly everyone would have been much better off. People would have been better off even with respect to infant mortality. In brief, Cuba today would probably look a lot like Costa Rica today, with 9 infant-mortality deaths per thousand live births. The Revolution and the Castroite régime has been a 2.5-generation disaster for Cuba, and the ability of the medical system to punch well above its economic weight in infant mortality is 100% offset by the régime’s system that makes its economic weight so low.

私の見解では、もしキューバが、家産制的かつ権威主義的で、現実の社会主義体制下におけるカウディージョ(独裁的指導者)支配の「カストロ体制国家」へと変貌するのではなく、ごく普通の国であり続けていたとしたら、ほぼすべての国民にとって状況ははるかに良好なものになっていたはずです。乳幼児死亡率の面でも、人々は今より良い状況にあったでしょう。端的に言えば、今日のキューバは、出生1,000人あたりの乳幼児死亡数が9人であるコスタリカとよく似た姿になっていた可能性が高いのです。革命とカストロ体制はキューバにとって2世代半にわたる災厄であり、乳幼児死亡率に関して経済規模に見合わないほどの高い成果を上げている医療システムの能力も、経済規模をこれほどまでに低く抑え込んでいる体制の仕組みによって、完全に相殺されてしまっているのです。

Source:  substack.com

URL:  https://braddelong.substack.com/p/no-castros-cuba-was-not-a-successful

このところ、日本でも《社会主義待望論》があるようで、アメリカでも何だか"Socialism"に関心をもつ若者が増えているそうだ  ―   さすがに"Communism"(=共産主義)は私有財産の完全否定につながるのでアメリカ人の感性には受け入れられない様子だが。

キューバのカストロ政権は、乳幼児死亡率やその他の医療面での福祉では(驚くほどの)ハイレベルな結果を残してきたものの、肝心の生活水準全体はといえば「停滞ぶりは酷いものだ」というのは、「社会主義経済」なるものを観察するときの最大公約数になっている。旧ソ連もそうであったし、西ドイツに対する東ドイツ、西欧に対する東欧と、どんな比較をしても同じ結果である。

社会主義は、一時的、短期的には良い結果を残すのだが、長期的に停滞に陥り、その停滞を解決するためのシステム改革ができないという袋小路に囚われてしまうのだ。中国共産党がいわば《不真面目な社会主義》へと舵を切ったのは、漢民族の現実感覚がなし得たファインプレーだと思っている。仏教はインドでは途絶えたが、中国では形を変えて残った。どこか相通ずるものがあるとも思っている。最近ではまた「社会主義原理主義」の志向をもつ政権トップが君臨しているためか、難問山積の状況だが、この辺の分析は社会主義的要素と自由主義的要素との絡み合い、更には中央指令的な共産党中央という要素があって、分析は一筋縄ではいかない。

いずれにせよ、社会主義は現在の体制とは違うので、何だか「いいね!」とか、あれも「よさそうだネ」とか、幼稚な感覚を超えた真っ当な議論の深まりが日本でも進んでいってほしいと思う。

2026年6月27日土曜日

覚書き: 聴いただけでは分からない事も多い。当たり前だが・・・

先日は最近の「千遍念仏」についてメモを書いておいた。

大体、あんな様なことなのだが、補足したい点が出てきた。

というのは、五百遍では所作だけということなのだろうか、千遍になって初めてピンと体感できるようになった、ということだ。

時間的にも五百遍念仏は15分ほどで終わるが、千遍念仏になると30分かかる。呼吸を深くして称え続けるので、終わると結構疲れる、体力もそれなりに要るのがよく分かる。

何がピンと来るかといえば、阿弥陀仏という宗教的観念が心の中に定着するという感じ、というか言葉では正確に表現できないが、マア、そういう事である。

例えば、数学の無限集合は観察できる世界で可視化はできない。無限に大きな物体や無限に微小な物体は経験的に確認不可能なのである。

しかし、無限集合が実在していることは論理でもって確かめられる。最も簡単な例が「自然数全体」という集合だ。最大の自然数がないことは、仮に$A$という自然数が最大であるとしても、それより大きい$A+1$もまた自然数であるので$A$は最大値ではない。つまり自然数全体は無限集合である。

自然数のそれぞれに2を掛ければ異なった偶数が対応する。逆に、任意の偶数を2で割れば異なった自然数が対応する。だから自然数全体と偶数全体は1対1に対応づけられ、故に自然数全体と偶数全体は同じ個数だけある・・・というのは、集合論の序盤で誰もが「エッ!」と驚くところだ。

大乗仏典では数多いことを恒河沙ごうがしゃと言ったり、あるいは無限に長い時間のことを阿僧祇劫あそうぎこうと言って、経文の中に何度も登場するのであるが、前者の恒河沙、つまりガンジス河の砂の数も有限である。無限大はどんな数よりも大きいものと定義するのだから、それ自体、もはや数ではない(とも言える)。自然数全体の個数と偶数全体の個数が同じであるなどという常識とは異なる結論が出て来るのも、無限を考えているためである。

数学の偉大な(?)ところは、常識や感覚には反する結論が得られるとしても、論理的に一貫している以上、最初に定義した抽象概念は実在すると考えて議論を進められる点にある。虚数を含んだ複素空間も別の例である。量子力学の基本になっているシュレーディンガー方程式は時間と空間に対応して複素数値をとる関数を想定している ― 小生は専門外なもので、これまでシュレーディンガー方程式は複素空間で定義された複素関数だと思い込んでいて、となると偏微分方程式がある以上は正則関数になるのではないかと、ChatGPTに愚問を発したところ、「それは誤解です」と思い違いを指摘されたのだ。ごく最近、実数のみでシュレーディンガー方程式を表現できるという研究結果が出たと何かで読んだが、しかし実数で書き直した方程式が余りにゴタゴタした形になっているのなら、自然の真理はやはり複素数で表現するべきなのではないかとも素人考えをしたりしているところだ。

それはともかく、阿弥陀仏という宗教的観念もこれに類した観念だと思う。というのは、実際に千遍念仏をしていると、阿弥陀仏の実在性が心の中に刻み込まれ定着する感覚を確かに覚えるからである。それは、数学や自然科学の「理解」とはやや異なり、論理や実験データとは別の「感得」、「体感」という分かり方に近い・・・としか言いようがない。

しかしながら、

実際にやってみれば分かる
という事は確かに世の中にはある。

最近、叱るなら言葉で叱ればいいのです、と。こんな言説が目立つのであるが、音楽や美術の修行をしている人たちに言わせれば、

聴いて分かるなら苦労はしませんよ
そう言うにきまっている。運動系の人たちももちろんそうだろう。言葉で聴くだけでは分からないことは多いのだ。

数学を勉強している時もそうである。講義を聴いて、教科書を読んで、それで「分かりました!」とはならない。やはり自分の頭と手で書いてみないと、使い物にはならず、習得したとはならないのである。仏道の《行》もそうで、浄土系宗派の念仏も《行》である(と思う)。称名念仏よりは《信》、つまり阿弥陀如来の本願を信じることが何より大事なのだという親鸞的な思想もあるが、小生の感覚では「分かりました」と信じるだけでは、本当に分かって信じたことにはならないと思う。

やはり他力本願とはいえ、それを身につけるには《行》、つまり《修行》がいる。体感しなければならない。そう思う次第。覚書まで。

2026年6月24日水曜日

覚え書: 権力という刀を抜くときの心構えという話になるか

話題としては旭川ローカルな事件だったが、同市で起きた女子高生殺人事件は結構な全国ニュースであったらしく、今週前半は主犯に懲役27年と言う「意外に軽い判決?」が出たというので、又々、喧々諤々の論議になった。

大変だろうなあ、と。判決を出す側の判事(それから裁判員)も求刑をした検事も、その気になればどんな重罰も申し渡せる立場にいる。いわば公権力という誰も抵抗できない《刀》を抜いて人を裁くという仕事をしているわけだ。

小生はずっと昔に小役人をやっていたが、とてもじゃないが、他人の人生を己が裁量で決めるという仕事を選ぼうとは思わない。

とはいえ、学生の人生を決めたり、裁いたりして来たではないかと言われれば、その通りであって、その時々にした自らの裁量をいまこの時点で非難されるとしたら釈明はしない。

落花不語空辭樹

流水無情自入池

落花ものいわずして、空しく樹を辞し、

流水こころのうして自ずから池に入る。

白楽天の『過元家履信宅』にある一句であるが、高校在籍時に使っていた漢文の参考書で見つけて以来、小生はこの心境を好んできた。

流水無心

道理無我

これが、大勢の人間と触れ合いながら仕事をせざるを得なかった役人時代に心を支えていた《座右の銘》、それも自作の標語であった。


母方の祖父は職業裁判官であったが、晩年になって

法廷で 死刑を宣し 勲〇等

という川柳を作ったそうだ。

裁判官は己の心象によって判決を下す権限、つまり自由心象主義が憲法で認められている。が、当の判事も刑を求める検事も「自分の(文字通りの)意志と裁量で被告人に死刑を宣するのだ」と、自分自身でそう認識すれば、行為としてそれは殺人にあたる、と。この理屈に抵抗できない自分を認めるはずである。

いくら給料を貰っても良心があればそんな職務に耐えられるはずはない。

求刑や判決は《法の道理》を映すもので《我》はない。道理無我。諸法無我。悪の源は常に自我である。

いくら世間で《悪人》と呼ばれていようが、意のままに人を刑務所に送ったり、命を奪ったりできるはずはない。我意によって人を害すれば、その行為はそれ自体として悪に決まっている。


わけもなく被害者となり、気がつけば加害者となる。二つの岐路も生き死にも業と縁で決まる。この世、つまり娑婆とはそんな世界である。

猿を聞く人捨て子に秋の風いかに

 遠くで猿の悲しげな鳴き声を聴いて哀れに思う人も、今まさに秋風にさらされて泣いているこの捨て子を見たら、どれほど心を痛めることだろうか

松尾芭蕉は、道中で見かけた3歳ほどの捨て子に対し、

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。

お前の父がお前を憎んでいるのではあるまい。お前の母がお前を可愛くないと思っているのでもあるまい。これは天命である。自分の運命を恨みなさい

こう語りかけ、自らは袂(たもと)から食べ物を与えて通り過ぎたと『野ざらし紀行』で記している。

日本文化の人生観と現代世界の人生観とは根本的に違うが、どちらが人の幸福につながる宇宙観かと問われれば、にわかに分からない自分がいる。そもそも芭蕉が生きた江戸時代と現代とで日本の世の中は本質的に善くなったのだろうか?・・・疑問であります。

少し、と言うよりかなり昔にはなるが、人は前世は変えられないが、来世は善くしたいと願って、今生の生き方を決めようと思う人がこの国には多かった。こんな問題に法律は無縁である。法律が扱うのはもっと俗な問題である。かといって、科学で解明される問題でもない。法は幸福のためにあるのではないし、科学が物質世界の真理を示すとしても人が幸福になるわけでもない。紛争が収まればよい。争いを未然に防げればよい。法はそのためにある。

こう考えるしかないのじゃ御座ンせんか?


司法官に与えられた職務は、法の道理に寄り添うことであり、被害者遺族に寄り添うことではない。その意味では、その職は非人間的で非人情の境地にある。



・・・別の話になるが、上の事件の被告人であった女性。幼少の頃から陽気で、人を仕切れるだけの才質があったということだ。ところが仕事についてもうまく行かず、反社組織の人物と交際するようになってから悪の道に入ったよし。


いま親の躾を非難する声が世間にはあるという。

まあ、世間とはそんなモノだ。無責任ぶりには呆れると言うしかあるまい。

実際には、親が子に体罰を課して折檻すれば暴行となる。子の嫌がる説教をすればハラスメントとなる。《コンプライアンス》はこんな状況を国民に強制するのである。

この10年程の世相の下では、悪の道に入りかけた子を親が激しく叱責して、真っ当な道に引き戻す努力をするとしても、もはやそれは非難の対象であり、決して称賛されることではなくなった。色々な問題で苦しむ家族に世間は寄り添わないのが現実だ。


思うに、成人前後の被告人は、浅はかな「非暴力主義」が蔓延る現代日本が(逆説的に)生み出したものであり、その意味では社会的産物である(と思っている)。

それでなくとも、日本文化は様式美を重んじるという特徴がある(と思っている)。現代日本人も美に対しては繊細な感覚をもつ(と思っている)。しかし、そうした特徴は反面で外観、形式に偏るルッキズムに堕しやすい。

外観をみて本質には目を向けない風潮になりやすい。外面を気にして本質を考えないという無思慮につながりやすい。現代日本社会の「体罰=暴行」という潔癖な非暴力主義は、無思慮の典型だと思って観ている。「被告人を死刑にしろ」と法廷内で騒いだ暴漢の声と「体罰は厳禁です」という世間の声と、両方とも同じ現代日本の世間の声である。もはや現代日本の世間に真っ当な思考を期待しても無理である。


社会理念の欠陥は、特に10代から20代にかけての、いわば「大人になりかけの世代」の行動様式にしわ寄せされて現れるものだ。

刑の軽重などを論議するよりは、社会的価値観のバランスが失われている点に目を向けるのが先決だと思うがいかに?

放っておけば、今後も別の形で理念的な偏り(とその反作用)が現象化するものと予想する。太平洋戦争中、「八紘一宇」などと夢のような法螺のような国家目標を日本人は(何も考えずに?)是としていた。(おかしいとどこかで感じながら?)神風特攻隊を賛美する日常行動もそこから発していた(と思う)。それと同じ時代相をみている感じがする。

日本国では国家目標も社会運動もイデオロギーも、初めはしばらくリベラルで最先端だが、やがて外見だけの張りぼてに化し、最後には「雨に破れかけた街かどのポスター」のような昔語りの対象に風化してしまう事が多い。どうせ風化するなら、速やかに風化させる方が、リアルな社会進歩につながるというものだ。この点では、下部構造が上部構造を決めるというマルクスの社会観に賛成する自分がいる。

 

2026年6月20日土曜日

ホンの一言: 米イ=イラン戦争? 60日間停戦? 大丈夫?との声の一例

アメリカ=イスラエル枢軸とイランとの戦闘行為は、ようやくのこと、「60日間停戦」に入った(ようだ)。

ただ、経済学者・Brad DeLong博士はsubstack.comに投稿した記事をこう結んでいる。

The chances that the next use of nuclear weapons will happen in the Middle East and will happen in the next 50 years keep rising. And Donald Trump’s inability not just to get ducks in a row, but to understand what a duck even is, is not helping.

中東で次の核兵器使用が起こる可能性、そしてそれが今後50年以内に起こる可能性は高まるばかりだ。ドナルド・トランプは、(ガア、ガアとうるさい)アヒル達をちゃんと並ばせる(=物事をきちんと整理する)ことが出来ないし、そもそもアヒル(≒ 問題)が何なのかすら理解できていないのは、どうしようもない。

まったく散々な評価であります。

トランプ政権を「猿山」になぞらえているDeLong博士から見れば

猿に出来るのか?

と思うのは無理からぬことでありましょう。


2026年6月18日木曜日

覚書き: 念仏修行の現在地点

 一昨年の2024年10月に寺で五重相伝をうけたとき毎日三百遍の称名念仏を誓った。それから1年半が経ったが、最近は毎朝6時に始め千遍の念仏を称えられるようになった。今年初めはまだ毎朝三百ないし五百遍であったが、何かの拍子で吐く息が尽きるまで十念で止めずずっと念仏を続ける仕方を「発見」した。それがヒントになり、今では腹式呼吸で息を吸ったあと、吐く息が尽きるまで南無阿弥陀仏を称える。そうすると一息で二十遍を称えられることに偶然気がついたのだ。

このやり方がいいのか悪いのか分からない。ただ、このやり方が効果的であったのか、集中心が途切れることなく、30分で1000遍、というより数珠の1コマごとに20遍。1周が27コマ、これを3周するから$20 \times 27 \times 3 \,=\, 1620$、いまの自分には十分な気がする。実際には、1息で20遍にはならない時もあり、3周目は1コマ10遍にすることも多いので、この場合は$18 \times 27 \times 2 + 10 \times 27 \,=\, 1242$になって概ね1000遍になる。

時間的にも線香が一本燃え尽きるまでになるから丁度よい。

法然は一念と多念に意義の違いはないとしているが、自らには三万遍を課し、一念派の幸西を破門している。回数を決めておくのは懈怠(=怠け心)を抑えるコツであるとも応えている。小生ももっとやれるかもしれない。が、しばらくは今の状態で落ちつきそうだ。

この30分の間、心を散らすのは本来はダメなのだが、色々な事を考える。

阿弥陀仏なる宗教的観念は当然のことインド発祥のものだが、当のインドでは日本の神仏習合とは逆に土俗的なヒンズー教が仏教を吸収してしまい、いま現在のインドに古代から残る仏教寺院はない。

大乗仏典をどう位置付けるかと言う学問上の論点はあるが、阿弥陀仏をいわゆる《浄土三部経》の文章からイメージ化すると「無限の光明」ということばで表される。だから、例えば『観無量寿経」では称名念仏の前に観想念仏の意義を釈迦如来が王妃・ヴァイデーヒーと弟子・アーナンダに語っているのだが、そこで第一に挙げられているのは《日想観》である。

心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。

岩波文庫『浄土三部経』ではそう訳されている。

また阿弥陀仏については

かの仏の円光は百億の三千大千世界のようである・・・一々の光明はあまねく十方の世界を照らして、仏を念ずる生ける者どもをおさめ取って捨てられることがない。

こんな風に表現している。いわゆる9番目の《身心観文》だが、これをみても阿弥陀仏のイメージは陰りのない光であって、だからこそ阿弥陀仏は「無量寿仏」とも「無量光仏」、「無辺光仏」とも呼ぶわけであろう。

思うのだが、インド発祥のオリジナル阿弥陀仏のイメージは、法然が専修念仏の道を啓いた時の阿弥陀仏とかなり大きな違いがあると感じる。

前の投稿でも書いているが、

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

念仏は(小生の宗派では)修行の一つの形であるが、人に見せて評価してもらう行為ではない。つまりパフォーマンスではない。だから、上に引用したように、皆が寝静まった深夜に起きて、自分だけに聞こえる声の大きさで称える念仏こそ、念仏としての意義がある、と。そう述べられている。というより、夜更けてから独り念仏を称える情景は、やはり極めて日本的であり、全くインド的でない。

法然の和歌のうち下の一首は有名である:

月影の いたらぬ里は なけれども

     ながむる人の 心にぞすむ 

 阿弥陀如来からさす光は月の光のようである、と。陰り無き光明というより、夜空に浮かぶ月のイメージをもって阿弥陀仏を観念化していることが伝わる。インド・オリジナルの阿弥陀仏とそれが中国経由で日本に伝わり鎌倉時代初めになって法然が表現した阿弥陀仏には大きな違いがある。

もともとは太陽のようであった阿弥陀仏が日本では月のイメージで理解されるようになった・・・

その違いは自らを「凡夫」であると思う心から生まれる(と勝手に理解している)。

「凡夫」とは普通の人間という意味で、我にこだわる煩悩に心は汚れきっている存在だ。ありのままの真実をみる覚悟はなく無知と偏見にまみれている。無知と偏見にまみれながら毎日を過ごし、それを自覚しないでいられるのは、智慧に欠けているためで、これが《無明》である。自分が迷子であることに気づく前の迷子に似ている。

真っ暗な夜空の中天に輝く月をみて、無明の闇に迷う自分自身をたすけてくれる阿弥陀仏の実在を感得したのであろう、そんな風に思っているところだ。

凡夫の自覚は迷いの自覚である。

無限の光明は悟りを目指す菩薩の理想である。それに対して夜空にかかる月は永遠に迷うダメな自分に向けられた一筋の光である。

同じ阿弥陀仏を思うとしても、思う人の心によって全くちがうイメージで思われるのである。


仏道では《知》と《智》を厳格に区別する。知とは知識である。学んで身につく学力と言っても可かもしれない。しかし、勉強して覚えた知識は(宗教学上の)仕事には役に立っても、阿弥陀仏国に往生する役には立たない。だからこそ『一枚起請文』の中で

智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし

と書きのこしたわけである。

知識を仕入れて知者のふるまいをする人なら現代日本に無数にいる。しかし、智者はほとんどいないのかもしれない。智とは正しい認識(=正しい宇宙観?正しい生命観?)を持つための必須の要件だ。知識を超えて真の認識に至る最後の一振りが智慧の働きである(と理解している)。

知者と智者の違いは、普通の人であっても、話を聴いているだけで分かるものである・・・というのは歴史が証明している単純な事実である。