2024年4月25日木曜日

調整インフレとは逆の調整デフレ。衆愚政治がついにやってくるか?

小生の少年時代はずっと固定為替相場制が続いていて、1ドルは360円だった。これは誰でも知っていることだと思う。

固定レート制というのは、毎日の円ドル相場が強制的に固定されるという意味ではなく、円ドル取引が360円で固定されるように、中央銀行が介入する、つまり為替市場の需給がバランスするよう政府機関の介入行為を国際的に公認するという制度である。

ところが、戦後の高度成長を経て、日本の、特に製造業の国際競争力が強化され、高品質の商品を低価格で販売できるようになった。国内で低価格であれば世界市場でも低価格になるのが固定レート制である。それで貿易収支の巨大黒字が定着した。

当時は、ドルで収入があれば、為替リスクもないので、国内取引に充てるため円に転換するのが普通だった。だから貿易黒字が定着すれば、輸出産業によるドル売り、円買いが増える。実勢としては円高に向かう。その潜在的な円高を止めるため日銀は円を売って、ドルを買うという介入行為を続けていたのが、固定為替相場制という制度の主旨である。故に外貨が蓄積された。

昭和41年(1971年)にニクソン大統領がドルと金の交換停止を突然発表し、戦後の国際通貨体制が崩壊した。その年の終わりには「スミソニアン体制」へ移行し、1ドルは308円に切り上げられた。が、この体制も基本は固定相場制であり、したがって各国は協調介入を行ったわけだが、結局、それでもアメリカのインフレ高進体質は変わらず、そのためドル安基調が続き、ついに昭和48年(1973年)に国際通貨市場は変動為替相場制へと移行することになった。毎日の為替レートは市場が決める。それがルールとなり、政府による意図的な為替操作は原則禁止となった。

で、今日に至る、というわけだ。

1970年代の日本政府の第一の心配は円切り上げ、つまり<円高>であった。

円高になれば、国内製造業が海外で販売する日本製品のドル価格が引き上げられる。販売数量減少が予想される。ドル価格の引き上げを抑えようとすれば、円ベースの出荷価格を値下げするしかない。ドル価格が変わらなければドルベースの売上高も変わらない。となれば利益が減る。どちらにしても輸出産業には打撃だ。

だから<円高>をとにかく回避したい。これが1970年代における日本の基本姿勢だった。


円切り上げを避ける、つまり実勢であった円高傾向に逆行して、円安へと導きたいなら、円の実質価値を下げる。つまり日本でもインフレを興せばよいという理屈は誰でも思いつく。これが《調整インフレ論》である。日本をインフレにしたいなら需要を刺激するのが一番だ。それには低金利を維持するか、でなければ財政支出を増やせばよい。

実際、1970年代の世界経済ではアメリカ、イギリスによる《インフレ輸出》が主たる問題として意識されていた(例えばこれ)。

そして、1970年代前半には一次産品の市況上昇が日本の物価にも波及し、1973年には第一次石油危機が訪れて「狂乱物価」の時代になった。その頃、日本国内では

為替レートを守るために調整インフレを容認したのではないか。輸出産業を守るために、国民にインフレを押しつけているのではないか。

そんな非難が根強くあったことを覚えている人がどれほどいるだろうか?


そもそも為替レートには購買力平価説が長期的には当てはまることが知られている。

同じ1個のBigMacがアメリカでは5ドル、日本では500円という価格が販売されているなら、BigMacを基準とする限り、1ドルと100円は同じ実質価値を持つ。日本でBigMacの価格が低下して、50円で1個のBigMacが買えるようになれば、1ドルと50円が同じ実質価値をもつ。であるので、レートは100円から50円の円高となる。これがBigMac指数である。この対象を広げて、全商品で平均すれば購買力平価となるわけだ。

1970年代の円高基調は円の実質価値が上がったからであるが、それは日本国内の産業の生産性が上がったからである。生産性が上がり、供給力が拡大した一方で、賃金も上がり、所得が増え、市場で循環するマネーも増えて、商品を買い支えることができたわけである。マネーも増えるが、生産能力も拡大されていたので、日本のインフレはアメリカほどではなかった。故に、円高圧力が強まったのである。

しかし、1970年代当時は、マクロ経済の自然な流れに反してでも為替レートを守りたかった。そこで、低金利を維持して国内のインフレ進行を容認した。

現時点はどうか?

日本の当局、というか世間は変わらないもので、ヤッパリ「円ドルレート」にこだわる。1970年代は円高に歯止めをかけたかった。今は円安を止めたい。心理は同じである。


実は、1970年代と同じくインフレは先ずアメリカで進んだ。

ドルでインフレが進むなら1970年代と同じくドルが低下し、円が上がるのがロジックだ。ところが、そうならなかった。

それは、アメリカがインフレ抑止のため金利を上げたからだ。これはドル投資を有利にするので円安を誘う。

つまり足元の円安は、前者の効果より後者の効果が大きいことからもたらされている。なぜ、前者の効果が弱いのだろう?

一つ注意した方がイイのは、日本でもアメリカほどではないが、インフレが進んでいるということだ。このインフレ進行を抑えるため日本でも金利を引き上げていれば、今の円安も相当程度は抑えられたはずだ。

ところが日銀は金利引き上げには動いていない。今はインフレを抑える意志がないということだ。アメリカのインフレは粘着的でまだなお終息には至っていない。日本はアメリカよりもインフレ率は低かった。それでも日本でも賃金は上がり始めており、日米のインフレ格差はやがて縮小することが見込まれる。であれば、金利格差のみが残る。

つまりアメリカはインフレ抑制的であり、日本はインフレ刺激的なのである。故に、それぞれの通貨の予想される実質価値は、円はドルより弱い。これが円安を誘っている側面は否定できないと小生は観ている。

期待インフレ率は統計的に確認されるはずであるが、日本とアメリカとで期待インフレ率は実際にどの程度になっているか。精緻な測定が必要だと思う。

1970年代は、円高基調に逆行して為替レートを守るための調整インフレ論があった。いまは円安を止めたいと願う人が次第に増えてきたようだ。

日本人はどんどん貧乏になっている。海外旅行にも行けない。以前には買えたのに輸入ブランド品は高嶺の花になった。ワインもシャンパンも高すぎる。日本国内の高級ホテルに日本人は宿泊できず、金持ちの外国人ばかりが利用できるようになった。観光地の料理屋に行けば吃驚するほどの金額になった。土産品も高すぎる。何だかすごく貧乏になった感じがする・・・・・・・

これじゃあストレスがたまる一方だ、というわけだ。 

しかし、1970年代のように調整インフレを引き起こして円の実質価値を下げるのは論外だ。確かに論外なのだが、とにかく賃金を上げてインフレにすればいいのだ、と。それで問題を解決できるのだ、と。こんな愚か者が意外に世間受けがいいのは社会全体が愚かになっている証拠だろう。メディアが愚かになると、世間も愚かになり、有権者が愚かになれば政治家は安心して愚かでいられる。単なるインフレが進めばますます円安になるロジックだ。

必要なのはこの反対で調整デフレが要るのだ。調整デフレが言い過ぎなら《調整ディスインフレ》と言えばイイ。要するに、円の実質価値を守るのである。《調整ディスインフレ政策》、具体的には日銀による金利引き上げ政策を主張する人がこの立場だ。金利ゼロから、アメリカ並みの5%は無理でも、2%乃至3%位まで引き上げればイイ。アメリカと同じようにインフレ抑止の姿勢を断固として示せば円安の歯止めになるだろう・・・

小生も、正直なところ、これが本筋ではあると思う。


しかし、この理論はまさに戦前期・日本の民政党・浜口内閣が円ドル相場の安定を目指して金解禁を強行し、超デフレの惨状を招いた「昭和恐慌」を彷彿とさせる。昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけてのことだ。

その当時も投資、投機を目的として大規模な円売り、ドル買いを行った国内商社を浜口政権は非難したものだ。足元の日本でも、財務省が投機筋を非難するかと思えば、新NISAを活用して米株を買っている人に非難がましい視線が寄せられている。

浜口内閣による金解禁は当時の日本経済の病根にメスを入れるという意図をもっていた。というのは、第一次大戦期のバブルとバブル崩壊、関東大震災による打撃、この二つで増大した不良債権、国際競争力を失い貿易赤字が続く中で脆弱になった円レート、ゾンビ企業を延命させるための産業政策と、こうした1920年代の経済政策を180度転換して、旧金本位制下の固定為替相場へと復帰するためのデフレ政策。これが金解禁であった。

この金解禁は、当時の日本経済と政党政治を崩壊させるほどのものとなったが、結果としては日本の産業を大いに強化したと小生はプラスの側面を見たくもあるのだ。この点は前にも投稿したことがある。


もう一つの可能性は1960年代の高度成長期の経済政策だ。低金利下で設備投資を加速し、国内産業の生産性が上がれば供給能力が拡大する。供給能力が余剰能力にならないようアコモデイトすれば結果として円の実質価値が上がる。生産性向上を通した供給増加と商品安、つまり実質的なデフレ政策なのである。

上のどちらも「調整インフレ」とは逆の「調整デフレ」、イヤイヤ「調整ディスインフレ」と言える。

但し、現時点の日本はエネルギーとマンパワーにボトルネックがあり、それを根本的に解決する政策を何ら検討していない。飛躍的な省エネルギー技術が進展するならまだしも、設備投資をしても総供給能力が上がらない確率が高い。ここにも(今は目立たないが)日本のインフレ体質が隠れている。マスメディアも(分かっているのだろうが)無視を決め込んでいる。大谷選手と殺人事件ばかりを話題にしている。昔のスポーツ紙、芸能誌と同じだ。

まったく、どいつもこいつも無責任野郎だて・・・

つくづく思いますネエ。

ともかく、足元の円安は意外と根が深いかもしれないのだ。これをくつがえして、円安を円高にもっていくには、だから、1970年代の「調整インフレ」とは逆のことを実行することになる。もちろん同じ「調整デフレ」といっても上に述べた後者の方が良い政策であるのに決まっている。当時と同じ人物が日本社会の上層部にいれば、逆の状況でも政策を上手に展開できるかもしれない。しかし、当時の日本を支えた人物群は今はもう世を去っている。


金解禁のような強烈な国内産業再編成を強行するという選択が、意図するにせよ、しないにせよ、無知のためか、蛮勇のためか、まるで初心者が大胆な運転をするような感覚で実行されてしまう。そんな時が来るのではないか。正に《衆愚政治》である。

衆愚政治が展開される前提は足元では充たされている。そういう予感を感じる今日この頃であります。危ない、危ない。




2024年4月23日火曜日

断想: 「専業主婦」をみる現代的視線への異論

実を言うと、専業主婦の第3号被保険者を廃止するべきであるとか、配偶者控除を廃止するべきであるとか、意義のない浅い議論だとずっと以前から思っている。

実際、<専業主婦>をキーワードにしてブログ内検索をかけてみると、非常に多数の投稿がかかってくる。

例えば、2016年4月14日の投稿にはこんなことを書いている:

税制もまた行政府が行う政策の一環だ。同棲をしている二人と、正式に結婚をしている二人はもう差別しない。そう考えるなら、税負担も平等にするべきだ。しかし、育児には家庭が必要で、家庭を築くには正式に結婚することが望ましい。そう考えるなら、専業主婦となるがゆえの利益は、そのことの社会的利益に対応するものと考えて、(一定期間かもしれないが)育児に専念する行為に対する報酬であると意味付けても、小生、それほど道理に反しているとは思えないのだ、な。そもそも今は子育てに優しい、出生率を高める方向の制度が必要なのではないか。

極右だとは自覚していないが、かなりの保守である。というか、内縁の夫婦と正式の夫婦を差別するなという意見も入り込んでいるので、かなりのプログレッシブではないかとも意識している。

かと思うと、 2016年8月8日には

確かに「女性が就労しやすい」ことで達成しやすくなる目的はある。労働供給のボトルネックを緩和して、潜在成長力を上げるという目的にはプラスだろう。ある意味で「経済合理性」があるとは思う。しかし、プラス効果は一面的だ。ロジックとしては、就労しやすい=主婦専業を奨励しない。これも別の面で言えることだ。

女性が就労を選びやすくすることは、女性が主婦専業を選びにくくすることと同じである。本当に、こうすることが今の日本社会の現実にマッチしたことなのか。

いや、いや、参りますネエ、旧すぎて・・・と言われそうだ 。

ごく最近になっても、

非市場家庭内サービスを担当していた専業主婦が、労働市場に参入し、サラリーをもらって働くようになれば、それまではゼロであった付加価値がプラスになるので、人口で割った一人当たりGDPが成長するのは当然の理屈であって、IMFの分析担当者が言う通りだ。

しかし、<国内総生産=GDP>という概念を考えるとき、主婦(と限ったわけではない)が担っている非市場性の<家庭内労働>も本来は帰属評価をして「国内総生産(=GDP)」に加算するべきなのである。

以前は、家庭内主婦労働を評価しないマクロ経済統計に対する不信感がずいぶんあったものである。平成25年には ― もう昔になったのか —、内閣府が家庭内の無償活動を評価、加算した拡大GDPを試算しているが、上のような問題意識に応じる試みだった。

「主婦労働」を評価しようという問題意識そのものが、もはや「時代遅れ」になってしまったのかもしれない。問題意識がなくなリャ、研究もせんわナ、ということだ。

しかし、新たな時代なら新たな時代として、研究の積み上げが必要だ。経済分析への取り組みがまったくとられないまま、世間が「少子化対策」、「子育て支援」、「財源調達」、「ジェンダーフリー」などと騒いでみても、これはいわば「負の世論」であって、有意義な政策形成にはほとんど寄与しないと観ている。そんな下向きの世論に応じて政策を展開してみても、それはいわゆる古代ギリシアのプラトンの昔からある「衆愚政治」というものだ。


・・・その果てに、家庭内で働いていた女性たちが労働市場へ参入し、そこで報酬を伴う仕事に就き、足元では女性労働者 ― ほとんどが非正規だが ― の就業率もほぼ上限に達し、ビジネス現場では空前の人出不足になった。

この状況をどのように考え、どのように評価すればよいのだろう?

日本の労働力人口の減少が始まった1998年以降、この25余年間、日本は一体何をしてきたのだろう?


騒がしいイデオロギーと落ち着いた国民生活とは、しばしば両立しないものだ。

騒がしい集団には注目して報道し、静かで安定した人たちが共有する基本的問題には無関心をつらぬく日本のジャーナリズムの底の浅さも、現代日本社会の世相を醸し出している一因なのかもしれない。


2024年4月22日月曜日

ホンノ一言: うっかりstreamyasの泥沼に迷い込んだ次第

土曜の夕刻にそれまで使用していたスマホ"Aquos R2"の外側カバーが外れていたので、よく見ると本体裏蓋が隙間が出来るほどに浮かび上がっている。これはバッテリーが膨張したからだと思い電源を切っておいた。改めて日曜朝に電源を入れようとすると起動しない。何も準備できないまま頓死である。

これには参った。

気を取り直して、夕方6時から"SONY Experia 10V"へ機種変更する作業を始める。

この時になって旧機"Aquos R2"の電源を押すと再び立ち上がったので驚いた。こんなこともあるのかというわけだ。おかげでデータ移行がずいぶん楽になった。

データ移行が終わったから、個別のアプリが従前と同じように動作するかどうかは試してみないと分からない。

大体は、問題なく終わったが、Amazon関連アプリがパスワードだけでは通らないことに気がついた。二段階認証になっているのだ。携帯番号を登録しているのだが、何と小生のスマホにはSMSで認証コードが届かない。

改めてPCからAmazonに入り、Amazonのアカウントサービスでログイン、セキュリティ上の変更をしようとしたところ、やはり携帯のSMSが着信しない。もう一つ登録しているYahooメールには届いたのだが、それが非常に遅い。これでは使い物にならない。

そこで、認証アプリを使ってワンタイム・パスワードを生成する方式に変えることにした。

<Google 認証>で検索すればよいと記されていたので、そうすると果たして「認証アプリ」というのがある。

これが思わぬ落とし穴であった。

結果から言うと、既にネットでは要警戒の書き込みがあるが、"streamyas"にクレジットカード情報を登録してしまった。

これが警戒するべき画面であった:


その時は、なぜか認証アプリを入手する意図で続行をクリックしたのだ、な。実に《意図》という奴は、時に始末におえない。

で、最後に行きついたのが"https://automathrill.com/index.php"というサイトだ。認証アプリを入手するつもりが、これはおかしいと流石に気がついた次第。

そもそもGoogleの認証ソフトを入手したかったのであるから、素直に"Authenticator"を選べば良かったのである。

それが怪しいサイトに連れていかれ、5日間の無料期間が経過すれば毎月7400円余の課金がチャージされるという状況になったのは、嘆かわしい限り。

こんな展開に何故なってしまったかを思い返すと、まずスマホが頓死した。データ移行に時間を費やした。アプリを一つずつ元の通りに動作するように調整していく。ところがAmazon関係のアプリがパスワードで通らない。二段階認証でSMSがスマホに届かない。イライラする。それで認証システムの利用に変えるか、と。アプリ検索してトップに出てきたものを軽率にダウンロードして実行した。実はそれが爆弾であったのだ。

一口に言うと、強引だった。

失敗は、よくよく経過を一つ一つ整理すると、失敗への道筋が分かってくる。

誰でも決してバカではない。明らかに愚かなことはしないものだ。が、結果として愚かな失敗をやってしまう。今回は自分でそれを演じた次第。

勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。

某監督が言ったとおりだ。

直ちに「これは違う」と気がついたので、先ずは無料会員期間が終了する以前にキャンセルの意志を伝えることにした。キャンセルの意志を視える化しておくことが大事だ。後日の証拠にもなろう。

それで毎日、Request of Cancellationのメールを相手のCustomer Serviceに反復して出し続けている。が、返信はない ― おそらく、このまま返信はないだろう、そもそも詐欺的行為をしているわけだから。なので、登録したクレジットカードを無効化することになるだろう。それでもしつこく請求してくるようなら、これはもはや犯罪である。警察に被害届を出してからカード会社と相談するしかない。

まずは覚え書きということで。


2024年4月18日木曜日

ホンノ一言: 生理現象だからって人前で話せば下品になるって感覚は大事ですゼ

この4月からスタートしたNHKの朝ドラは、いつも視ないカミさんも毎日視るようになって、中々の傑作ではないかと思う。

特徴を一つ挙げるとすれば、女性の生理がドラマの中でオープンに語られる点かもしれない。こういう筋運びは余りなかったことだ。実際、ネットでは色々と賛否両論、というよりリアクションと言うべきだが、寄せられている模様。

一つ感じるのは、なぜこれ程の話題になるかネエ、ということだ。


「そもそも論」として、男女を問わず人間の自然な生理現象を恥じたり、隠したり、話題にしづらい雰囲気があるのは、おかしなことである。

だから色々な生理現象は、すべてドラマの中でオープンに語ってよい、寧ろそれを恥ずかしがる方がおかしいのだ、と。多様化とは自然な生理現象を自然な話題にできるということなのだ、と。話はこうなるのであろう。

確かに、理屈は分かる。自然な生理現象を恥ずかしいと感じる社会心理こそ道理に合わない。その通りである。


しかしながら、だからと言って、求めて何度もそれを話すとすれば、それはそれで《下品》というものかもしれない。


考えてもみなせえ。男女共通の生理現象と言えば、言うまでもなく《大小便》だ。

ところが、近年の学校では、校内のトイレで大便をするのを知られたくないという雰囲気が強いそうだ。これは道理に合わない。

いま文字で「大便」と書いたが、朝ドラの編集理念に則して言えば、「大便」という生理現象をそのまま文字に書くのを控えるという感性はおかしいということになる。生理現象なのだから、遠慮せずどんどん使いなセエ、ということになる。

とはいえ、友達と遊んでいる最中に

ちょっとクソしてくるわ

と笑いながら平気で話していた昔の学校風景がはるかに洗練されていたとも言えないような気がするのだ、な。

「大便」とか、「ウ〇コ」とか、「クソ」とか、それをズバリと言わず、つまり隠して、そっとトイレで用を足してくる。それはそれでその人間集団の品格という徳性になるのじゃあないか、と。

退屈な話を聴いているとアクビをしたくなるのは自然な生理現象だ。が、教室で前を向いて大あくびをすれば、話している教授は「無作法な奴」と感じて気分を害するかもしれない。もし商談で大きな欠伸をすれば、相手は「無礼者!」と怒って席を立つ(かもしれない)。生理現象だからと言ってマナーを否定する理由にはならない。社会を維持する上で、やはりマナーを守ることは大事なのである。商談中の欠伸を我慢せよと命令しても、それが個性の抑圧には当たらないだろう。


朝ドラを視ながら朝食をとっている視聴者も案外多いのではないかと思う。

食事をしているかもしれない視聴者がカメラの向こう側にいると想像するとき、自然な生理現象だから話題にしてもイイという話しにはならないのではないか。そんな話題を避ける感覚だから、社会は進歩しないのだ、と。そうは言えないでしょ、ということだ。

要するに、マナーではないかと思うのだ、な。

多様化の時代というのは、善かれと思って継承してきた価値を疑い、是とされてきたモラルもマナーも、全て人間の個性を抑圧する不自然な束縛として否定する時代なのであろうか?

だとすれば、

多様化という時代は、つまりマナー以前の原始人に戻る時代である

そう思ってしまいますがネエ・・・

それで本稿の標題が決まったわけだ。

2024年4月17日水曜日

断想: いま楽しいことは将来の苦、いまの辛さが懐かしくなるのは普通にある

町外れにあるネッツ店でタイヤ交換をして来た。

冬タイヤを夏タイヤに換える頃には、毎年、道端の残雪が僅かになる。やがて桜が咲き始めると強風が吹き荒れる何日かがやってくる。桜はあっという間に葉桜になる。ちょうど黄金週間に入る頃である。気温は10度前後で小高い山に登ると肌寒さを感じる。GWが明けると厳冬期に凸凹になった道路を補修する工事があちこちで進む。そして工事が一段落すると、その頃までには白樺林は若葉の新緑になっていて、隣町ではライラック祭りがある。国道沿いのアカシアの花も開き始めると、初夏がやってくる。林の中でエゾハルゼミが短い夏の先触れのように高い声でさかんに鳴く……

まあ、こんな風に春から夏にかけての時候を毎年過ごしているが、これを幸福と言うのか、単調と言うのか、変化がないことは不安がないという事なのか、不安がないというのは平穏ということなのか、自分にはよく分からない。「ものも言いよう」なのだろう。

ただ、雪国に春がやってくる時節の晴れやかな嬉しさは格別である。これは真実である。

思ひきや 雪ふる里の わび住まい

     妻とよろこぶ 春の知らせを

首都圏で暮らし続けていれば、分からずじまいであった幸福だ。

誰であれ楽しかった思い出や、哀しかった思い出があるものだ。若い頃は、楽しかった時のことを思い出しては幸福感にひたったものだ。しかし、幸福の裏側で自分が気付かないままにやっていた独善や傲慢をやがて認識する時が来る。傷つけていた人たちに謝りたくともそんな機会は来ず、埋め合わせなど出来ることではないのだ。楽しい思い出は苦い追憶に変わる。これも浮世の摂理というものだろう。

反対に、辛い思い出は思い出したくもなかったが、時がたつといつの間にか懐かしい日々となって思い出されるのは実に不思議である。

ながらへば またこのごろや 偲ばれむ

     憂しと見し世ぞ 今はこひしき

藤原清輔の作である『新古今和歌集』のこの和歌には以下のような解説を窪田空穂が付けている:

これからのち生きながらえたならば、今と同じように、また現在のことがなつかしく思い返されるでしょう。憂いと思った頃が、ただただ今になると恋しいことです。

失恋もまた時の経過とともに美酒になるということか。時間は、ワインやウイスキーを産むだけではなく、人の心も別の心に換える。それは忘却ではなく、事の真相に到達するということなのだろう。裏もまた真なり。

2024年4月15日月曜日

ホンノ一言: 一致指数の急落から「景気悪化」を予想するのは無理ではないか

報道はあまりされなかったが、今月5日に内閣府から景気動向指数(2月分)が公表された。それによると、先行指数は(まあまあ)横ばいを続けているものの、生産・販売の現状を伝える一致指数が1月、2月と急落しているのが目立つ。

先行指数(le)と一致指数(co)を図にすると下図のようになっているので、ちょっと吃驚する。




実際、内閣府は今回の一致指数に基づき

景気動向指数(CI一致指数)は、下方への局面変化を示している

と判断している。

しかし、この判断はどうなのだろうナア、とやや疑いを感じる。あまりに機械的ではないですか、ということだ。


先行指数は2021年7月をピークとして低下してきたが、23年1月以降は横ばい基調を続けており、その動きに変化はない。寧ろ、足元の2月を含めて強含みである。


もし本年に入ってからの一致指数の変調が先行指数のピークアウトに伴うものだとすれば、2年もたってから先行指数の変化が一致指数に現れてきたことになる。しかし、先行指数の先行性はせいぜい半年ないし1年程度である。

直近で国内景気を話題にしたのは、多分この投稿だと思うが、そこでは

先行系列の悪化の動きは止まっている。横ばい基調が1年間続いている。

先行系列の横ばい基調は昨年12月まで変わっていない。ということは、この先の一層の景気悪化は考えにくい。そう予測するべきだろう。

こんな風にまとめている。


とすれば、2年も遅れて先行指数のピークアウトがいま一致指数にやってきたと判断するより、年明け以降の一致指数の急低下は一過的なものととらえるべきではないか。

実際、一致指数が急低下している背景は、耐久消費財出荷や鉱工業生産、輸出数量の急落である。これは、ダイハツの検査不正が発覚し、昨年12月に多数の車種の生産、出荷が停止に追い込まれたことが大きい。しかし、2月以降、次第に生産が再開されている。

なので、先行指数の動きをみても、この先も一致指数が悪化していくという可能性は小さいと(今は)みている。先行指数は悪化の兆しを見せていない。

 


2024年4月12日金曜日

ホンノ一言: 予測や判断は一年もたてば全く違うものになりうる、ということ

アメリカのインフレが予想外に「根強い(sticky)」という特性があるので金利引き下げの開始時期も後ずれするだろうと。そんな予想が高まっている。その分、株価にもネガティブな影響が出ていたりするのが、足元のアメリカ経済だ。

コロナ禍の後の供給ボトルネック、ロシア=ウクライナ戦争の勃発、インフレ率の急上昇、FRBによる攻撃的金利引き上げ、そして景気後退なきインフレ終息でソフトランディングと喜んでいたら、どうやらそんなに簡単には事は運ばないようである。

昨年5月までのデータに基づいて本ブログでは投稿でこんな図をアップしていた:

投稿したのは昨年6月だが、その時は
このところの投稿でよく使っている図で、(薄いグレーの線は)対前月インフレ率の年率値である。太線は原系列をSTLによって成分分解して得られる基調値(=Trend+Cyclical成分)だ。図で明らかなように直近の5月時点で基調値は2パーセントを僅かだが下回っている。
と説明している。

ところが、本年3月までのデータを用いて、最新時点の図を描き直すと下図のようになる。



図を作成したJupyter Notebookには以下のようなメモを付したところだ。
対前月インフレ率をSTLで成分分解し、TC成分を原系列と重ねて描画すると上図のようになる。

これを見ると、昨年秋以降、TC成分は低下基調から下げ止まり、更には反転上昇へと動きを変化させたことが窺われる。そして直近時点である2024年3月のトレンド値は4.1%という水準に留まっている。

実は、昨年5月のデータを見ながら書いた6月時点では、
対前月インフレ率のTC成分は既に2%というインフレ・ターゲット値に戻っていることが分かる。

と書いている。

要するに、

このままの物価動向が1年間続くとすれば、1年後の前年比インフレ率は2%に収まってくるはずだ

という見通しだったのだが、その後、ほぼ1年間のデータをみて計算し直すと、ターゲット値である2%には収まりそうもない、4%位になる。これは認められない。そんな物価上昇がまだ続いている、ということである。

確かに、アメリカのインフレは終息には至っていない。

とはいえ、トレンド値を計算する時にどの程度まで長く遡ってTC成分を計算するかというパラメーターを非常に長めに設定し直すと、上の図はこんな風に変わる。




これは、まるで大雑把なヒストグラムに似て、傾向・循環成分の変化が明瞭に伝わらない。

ただ、非常に概括的にデータをみるなら、毎月のインフレが次第に収束しつつあるという判断は依然として可能であるとも言える。


同じデータを見るとしても、見ようによって色々な判断が可能だ。まして、新たなデータが追加されれば、以前の予想とはまったく異なったものになる。

景気予測と景気判断は科学というより、アートに近い側面があると言われるのは、こんなところだろう。