2026年8月19日水曜日

断想: 「民主主義の文化的DNA」があるのか?

 ニュースポータル"SmartNews"にこんな下りがあった:

日本にとって中国は最大の貿易相手国となっているが、世界のリーダーとなった中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない。著者は中国研究の第一人者であり、バイアスのかからない情報発信を長年、続けてきたことで知られる。日本の将来を考えるなら、絶対に読んでおくべき一冊だ。

評論家・加谷珪一氏が寄稿した『『おそるべき「中国一強」時代』(富坂 聰)への書評の中の1節である。

違和感を感じました。

中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない・・・

《国民的合意 》が、日本と中国との交流に必要なのでしょうか?

中国から日本に文字が伝わり、仏教が導入されたのは、《国民的合意》があったからか?

国民的合意とは、これいかに?国会の議決のことか?世論調査のことか?

こんな疑問もあったりする。


中国と経済取引を拡大する方向は理に適っている。これは中国ビジネスを展開してきた(している、を含む)ビジネスマンなら肌感覚で了解する真理であろう。

高市・現内閣が採っている反中路線は、地政学的、安全保障戦略上の色々な理屈はあるのだろうが、せんじ詰めれば《非合理》だと思う立場に小生は立っている。

その背景として、日本の大衆心理に何となくのレベルで潜在している、対中恐怖心に迎合しようという政略があるのだと勘ぐっている。

民意を重視する政治体制ならば、これは仕方がないが、仮に明治前半期のような文字通りの専制君主制であれば、民意とは関係なく国益上合理的な外交戦略をとれていたに違いない。


先日、終戦時の海軍大臣であった米内光政のことを調べることがあってWikipediaを読んだのだが、こんな下りがあった:

武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は、世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を、批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが、出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで、二百年かかる」と述べたという。

 非常な洞察力だと感じた。この中の

日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。

この部分は今後ますます明瞭に可視化されてくると予想している。


日本は、確かに中国や朝鮮のような皇帝専制国家ではなかった。山岳地が多い日本の国土は、地域ごとに分立した分権統治、封建体制に自然に向かうようにできていた、と勝手に考えている。

とはいえ、中国文化圏の中にあった日本もまた民主主義や共和制とは縁遠く、世襲を重んじる国であった。これに反し、西洋の古代ギリシア、ローマには、民会を軸にした共和制の伝統があった。というか、そもそもインド=ヨーロッパ語族の源流である古代アーリア民族自体が、民会の議決を尊重する共和制に近い統治をしていた。例えば、Geminiにきいてみると、こんな回答が得られる:

ゲルマン民族、ギリシア人、ローマ人、そしてインドへ向かったアーリア人は、すべて言語・文化的な起源を同じくする「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」に属しています。彼らの原初の社会構造には、確かに「王権の制限」と「戦士(自由民)集会による合議」という、共和政や民主政の土台となる共通の文化的DNA(親和性)が存在していました。

ただし、歴史の進展とともにその親和性が崩れ、専制君主制へと移行した地域も多い。インドに侵入したアーリア系の国家では王権が強く、アーリア系であるペルシアもオリエント社会特有の専制君主制に移行した。インドもペルシアも大規模な社会インフラ整備が不可欠で、ギリシアのような小規模・都市国家が分立する社会構造では課題を解決できなかったのである。

この辺り、挑戦と応戦を繰り返す中で変容・発展する文明社会の生きざまが現れており、トインビー的歴史が鮮やかに伝わってくる一面にもなっている。


振り返ると、日本国では民意に基づいて国を統治した経験は歴史の中で一度もなく、唯一の経験である(かもしれない)戦前期の普通選挙体制(昭和初年以降)では、民主主義的な「政党政治」の運営に見事に失敗し、スキャンダルと派閥抗争の果てに主導権は軍部に渡った。そして、戦後日本が(アメリカが起草した)戦後憲法の下で歩んできたわけだが、少なくともイザナギ景気が終わる1971年(昭和46年)までは、官僚による行政指導と日銀の窓口規制が国民生活を律した官僚主導体制にあったし、その体制があってこそ二度の石油危機をも巧みに乗り越えた(と事後的には言える)。

思うに、日本で《民意》というものが社会の在り方を実質的に決めるようになったのは、つまり日本が文字通りの民主主義社会になってきたのは、2001年から5年間続いた小泉純一郎内閣から後の事ではないかと、小生は勝手に思っている。25年程の歴史である。

つまり

日本で(民意が官僚に優越する真正の)民主主義が実質的に機能し始めたのは21世紀になってからのことである。

こんな社会観をもっているのだ、な。

そして、

あれから25年

路線対立とスキャンダル合戦で議論するべき政策課題はないがしろにされ続けている。

何がないがしろにされているって?

多すぎてもう一つ一つ挙げられません。

他方で、国民生活には(ほとんど)何の関係もない《皇位継承》に執着して、皇室典範の再改正をいまなお声高に主張する政治家があまりにも多い。これもポピュリズムといえば「ポピュリズム」、政治には本当は真面目な関心をもっていない大衆からの支持を増やしたい大衆迎合政治といえば「大衆迎合」と言うべきだろう。

これらは全て日本が再び民主主義運営に失敗しつつあることを示唆する。

ありていに言えば、

日本社会は民主主義の文化的DNAを有していない。

ここまで言えるのではないかとすら思い始めている。


米内光政は、日本の復興には200年かかると予想したが、となると日本社会が次のステージに収束して安定するのは、2145年頃になる。2026年の現在から数えればあと119年。世代でいえば5世代という所であろう。今年生まれた新生児が、まだ何人かは生き残っているかもしれないが、現在時点の「世論」などは100%消え失せている遠い未来だ。しかし、遠いとはいえ徳川家康が征夷大将軍になってから徳川吉宗が家康との血縁の近さを評価され将軍に就くまでの時間だと思えば、それほど遥か先の未来でもない。

どちらにしても、最初の大崩壊である「応仁の乱」では、乱の前にあった荘園制社会から乱の後に出来上がってきた大名領国制へと、本質的に全く違った「ガラガラポンの国造り」が進んだのと同じ理屈で、約100年後の未来の日本になるまで、降伏後に輸入した民主主義と近世・近代の日本人に受け継がれてきた様々な感じ方や考え方とが、衝突したり融合したりを繰り返すサイクルが何度も発生するに違いない。どんな社会構造になって安定するのか分かりません。多分、今とは一変するに違いない。その意味では、ガラガラポンだと思う。

おそらく未来の日本人が、夏目漱石や太宰治、三島由紀夫を読んでも、今の日本人が近松や井原西鶴を読んでもどこが面白いか分からないのと同じく、漱石も太宰も三島もどこが面白いかさっぱり分からない、生活感覚的にピンと来ない、そう感じるほどに、未来の日本人は今の日本人とまったく別の考え方、感じ方、しゃべり方をする人間になっているであろう。

この国は「降伏と占領」から始まった千年に一度の大変動期にあり、安定収束までまだ長い時間がかかる。これが最近もつようになった歴史観であります。


いずれにしても、《経済大国・日本》も《GDP第4位の経済強国》も、目に見える経済の回復であって、日本の復興というものではないのだろう。そして、実はこの理屈は現代中国をどう観るかにも通じている話だと思う。

何が実現すれば、日本の復興という名に値するのか?それは未来の日本人が次第に理解してくる(はずの)ことである。少なくとも「戦後日本」は、いま世界においてそれほど「名誉ある地位」を占めているとは、言えないという感覚がある。この感覚もまた戦前と戦後と同じ日本人でどこか違っている所ではないかと思ったりする。

こんな風に想像している今日この頃であります。



2026年8月18日火曜日

ホンの一言: この経済政策は「ケ・セラ・セラ戦略」である

 8月17日付の日経では

上場企業の業績が一段と拡大する。2027年3月期の純利益は前期比14%増と6年連続で最高になる見通し。増益率は期初の5%増から上振れする。インフラやものづくりに欠かせない高シェア製品を手がける企業の成長がけん引する。

来年3月期の純利益見通し、つまり今年度の利益見通しは前期比(前年度比のことか?)14%増になる、と。

先日の投稿では、

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。

と書いた。本年6月の「短観」の回答基準日は6月11日である。

再度、「短観」を確認したが、今年度利益見通しが減益方向であるのは上にあるとおりだ。

フ~~~ム、6月上旬ではまだ減益見通しであったのが、最近になってドンドン強気になっていると言うのか……?一方は上場企業、一方は全国企業ではあるけれど。


景気動向指数の先行系列は、腰の強い景気拡大基調を伝えている。これは事実だ。

なぜ6月の短観では「弱気」の見通しになっているのか?

ただ、「短観」でも業況DIの要点は、大方、次のようにまとめられている:

  • 大企業製造業DI: 前回の+17から+22へ大幅改善(2018年3月以来の高水準)。生産用機械や電気機械などが好調。
  • 大企業非製造業DI: +37へと小幅改善し、好業況を維持。宿泊・飲食や小売などが個人消費の底堅さに支えられた。

気分的には明るいことが伝わっている(と判断されている)。

それにしても「個人消費の底堅さ」ネエ……減税は本当に必要なンですか?


しかし、減益にはなる、と。つまりピークアウト感がある。物価の行方、金利の行方も心配だろう。

何だか定まっていない感じがする。

景気観が定まらないままに消費税率引き下げが断行されるのか・・・これも高市内閣の個性、

理論より断行こそ国民のための政治

こういうことかもしれない。これを《ケ・セラ・セラ戦略》と呼んでいる。

2026年8月15日土曜日

断想: 西洋の哲学と仏道の違いを分ける線?

プラトンは、弟子のアリストテレスより、時代をはるかに先行するピタゴラスに近いところがある。輪廻転生を肯定している所はそっくりである  ―   日本の作家、三島由紀夫はその思想の末流に位置するわけだ。

 

西洋の哲学では古代ギリシアから近代哲学まで、結局のところ

理性によって真理に至るとする合理主義の系譜と、経験によって真理を得るとするイギリス経験論の二つの論争に帰着する

要するに、普遍と個の対立。この問題をずっと(今も)考えていると勝手に総括している。

これに対して、仏道では、物質と非物質との違い、具体的には物質的存在が実は空であること、にもかかわらず一部の物質がもっている(と思われる)生命が輪廻によって生まれ変わり、死に変わるのは、なぜ可能なのか?諸法無我であり、「我」は虚妄であるにもかかわらず、何故に輪廻転生はありうるのか?この問いにずっと執着している印象がする。

本質的に空なる物質と生命の永遠の輪廻はどう両立するのか?

この問題である。

これをメモしておきたい、というのが本日投稿の主旨である。

あとは思い浮かんだ順で。


だからと言うべきか、仏理を勉強しているとき、経験によって真理に到達するという考え方に出会うことは(小生の不勉強のせいかもしれないが)ない。真理に至らないのは、無明、つまり迷いの故であり、迷いは感覚と感覚がもたらす表象に執着しているからである、と。

なので、仏理を貫く発想は、西洋の合理主義哲学と相性がよいと思われるのだが、だからと言ってプラトンの否定する《ドクサ》(≒根拠のない思い込み)が、大乗仏教の唯識論でいう《偏計所執性》とほぼ同じであるかと言うと、ちょっとイメージが違うような気がする。大体、仏道には西洋近代哲学のような

すべての人に共通して与えられている理性と理性の普遍性

という、そうした考え方はないように思っている。むしろ大半の人は凡夫で、迷いのなかで生涯を終える。仏道は精神的な救済があるかどうかで登場するのである。


西洋の個人主義を支える近代哲学と古代インド発祥の仏道は、当然のこと人間観が全く違っている。それでも《イデア》は真の智慧である《エピステーメー》によってのみ獲得されるというプラトンの議論と、《仏智》(≒最高の智慧)によってのみ《円成実性》は得られるという大乗仏教の議論は、同じことを言っているような気もする。

大きな違いは仏道を特徴づける《因と縁》という実体なき関係性のモデルであるのかもしれない。が、これすらもギリシア悲劇の『オイディプス』など、大乗経典にあってもおかしくなく、『観無量寿経』の頻婆娑羅王と阿闍世王の父子相克と阿闍世の救済はその古代インド版であるとも感じられる。

資材もデザインも外観も全く違うが、洋の東西を問わず建築物は柱や壁、屋根や梁という基本単位が部屋を構成し、部屋が集まって建物が生まれる。こんな思考の形式は共通している。古代ギリシア以来の西洋哲学と古代インド発祥にして中国を経て日本で独自に発展した仏道と、どこか相通じる感じがするのも、思考や感覚の基底は実は同じであることを教えているのかもしれない。


プラトン的な宇宙観をもっている西洋の自然科学者は現代でも多いそうだ。そういえばノーベル物理学賞受賞者で『皇帝の新しい心』を書いたロジャー・ペンローズはそうであった。であれば、仏教的な宇宙観と最先端の自然科学者のそれが深いところで共鳴する所があるかもしれない。もしそうなら、そんなやりとり、読んでみたいナア・・・

以上、思い付きのメモ。

【加筆修正:2026-08-16】

2026年8月12日水曜日

覚書き: 足元の景気判断を誰も語らないのは奇妙だネエ・・・

 普段愛読しているブログに足元の日本経済の景況に関してこんな下りがあった:

日本企業の第1四半期の決算発表も8割方終わりつつありますが、概ね好調と言ってもよく、経常利益は前年同月比で25%の上昇となっています。円安に伴う輸出企業の利益増加と思われるかもしれませんが、輸出企業と内需関連企業で経常利益の貢献率を見るとざっくり輸出企業の60%に対して内需が40%となっています。また金利上昇に伴う金融機関の利益が莫大になっており、業種全般に好調を維持していると言えます。

日本経済を見れば絶好調とまでは言わないまでもバブル経済以降、最も輝いている時代に入っているとみています。

URL:https://agora-web.jp/archives/260806204700.html

ところが高市内閣は物価高騰の中での生活支援策として消費税減税を断行しようとする構えだ。つまり

景気は良いが、暮らしは苦しい。

ここから出て来る結論は、

労働分配率が急低下し、企業利益に吸収されている。

こうなるのだが、本当だろうか?

ChatGPTに調べてもらったばかりだが、こんな回答だ:

財務省「法人企業統計」を使った企業ベースの労働分配率(人件費/付加価値)では、2024年度は64.2%でした。2000年度の73.2%から約9ポイント低下しています。 さらに2025~26年の四半期データでも低水準が続いており、内閣府の2026年7月資料では、2026年1~3月期までの推移が概ね60%台前半にあります。

かなり以前に本ブログにも投稿したことがあるが、SNAベースで測ると労働分配率はそれほど劇的に下がっているわけではない。が、企業会計ベースで足元の分配は、かなりな程度、労働所得から資本所得へと比重が偏りつつある。このトレンドに間違いはないのだろう。そして、この背景としてAIの普及、浸透があるはずだという見立ては、前にも投稿したことがある(たとえばこれ)。

「AI革命」がリードする「新たな成長軌道」に日本は入りつつあるのだろうか?

しかし、企業利益が拡大し、労働所得が伸び悩み、結果として労働分配率が下がっているなら、当然の理屈として法人税を増税するという選択肢が検討されるはずだ。ところが、消費税減税の財源として、法人税増税を叫ぶ声がそれほど大きいわけではない  ―   マア、新聞、TVも増税は嫌がるはずなので、故意に触れないだけなのかもしれないが、まさかここまで不誠実ではあるまい。

ただ、景況感がイイと言うのは、内閣府の景気動向指数の動きからも確認できることではある。


Source:  https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

緑色が先行系列、紫色が一致系列で、直近月は本年6月である。図から明らかなように、先行系列は直近のボトムである昨年4月以降、ずっと上昇を続けている。これは景気拡大の腰が極めて強いことを意味している。紫色の一致系列は生産・販売の現状を総合的に伝えるデータだが、多分(?)今後にかけて上昇トレンドを加速するであろう、と。図を見る限り、こんな予測になる。

最初に引用した景況感とも一致するのだが、どうも違和感もあるのだ、な。とにかく日本社会には《明るさ》が欠けている。

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。
これでは法人税率引き上げなど、政府は言い出せないだろうネエ
という状況だ。


一部の人が言う「奇妙な明るさ」は、どこから来るのだろうか?

そもそも内閣府の景気動向指数は、今でも景気判断材料として信頼に足る統計なのだろうか?

「四半期別GDP速報(QE)」を重要な景気指標とする慣行は、ごく最近になってようやく「ちょっとおかしい」と感じ始めたのか、下火になってきたが、毎月の景気動向指数の方は小生も愛用してきた。しかし、これも「ちょっとおかしい」という動きをするようになってきた。

一時的な気の迷いか・・・


2026年8月8日土曜日

断想:日本史には二度の《大崩壊》があった?

高市内閣による皇室典範改正でにわかに「皇統」とか、「古代」とか、日本の神話時代に遡る発想が今は面白いというので、最近よく目にするのは継体天皇の名前である。

応神天皇や仁徳天皇より後の人だから神話の中のヒトではないが、何しろ遠い昔のことで『古事記』で知る時代、文字通り「遠つ神代」に生きた人である。

大体、日本人は「そもそも⋯」が好きである。日本語で「そもそも」と言いたい時、英語ではどう言うか、正直、適切なことばが浮かんで来ない。To bigin with、違う。Originally、ちょっと違う。Fundamentally speaking,...、ウ~~ン、いきなりクソ真面目な顔をして言ったら、笑われるンじゃないかナア。

これも古代から中世へと年表の古い順に日本史の授業をやっている副作用かもしれない。歴史に学びたいなら、先ずは一つ前の時代を振り返る考え方で、言うならば中国流で勉強するのが実際的な歴史だと思う、というのは前にも投稿したことがある。「温故知新」とは、千年前の事を知れば今の社会がよく分かる、という主旨ではない。そうではなく、今の社会を知るためには、その前の時代を振り返って経緯と沿革、そして必然性(?)を確かめる、そんな風に糸を手繰るように因果関係を遡及しながら、現在の状況を理解するという実証的方法論である。誰でも日頃やっていることであって、当たり前の正攻法が、正しい理解への早道である、ということだ。だから「歴史」と言っても難しく身がまえることはないのである、本来は。それを1500年位の昔かどうかハッキリしないが、継体天皇がこうだから今はどうこう⋯などと真面目に議論する風景は、滑稽としか感じられない。


それはともかく、これも前に投稿したことがあるが、

日本は応仁の乱の前後でまったく別の国になった

つまり、応仁の乱によって古代以来の社会構造は完全な崩壊へと向かい、織田・豊臣以降の社会はまったく新しい骨格をもった社会になったと言うのだが、小生も日本史が専門ではないが「それはそうかもなあ」という位で共感できることなのだ。応仁の乱の真っ最中から伝わった東山文化の侘び寂びは現代日本人にも感覚的にピンと来るが、鎌倉武士の日常や平安貴族の常識とか意識は本質的に共感の域を超えているはずだ。ましてその時代の庶民の暮らしぶりなど知識があるまい。

もう一つの大変動は、言うまでもなく昭和20年の「無条件降伏」である。占領軍が原稿を書いた戦後憲法は、織豊以降の近世・近代の日本社会を完全に覆した  ―   戦時の国家総動員体制で古い日本は半ば瓦解していたと見る人もいるかもしれないが。少なくとも、明治維新は《大崩壊》ではなく、権力層の交替であって、社会構造は(基本的に)保存された(と思っている)。

太平洋戦争は確かに日本にとっては《千年に一度》級の大変動をもたらした。というより、今ももたらしつつある。そう観るべきかもしれない。

小生は、戦前期・日本で中年までを生きた祖父母の感覚を知っているが、それでも敗戦より前、芝の増上寺には徳川将軍家の霊廟群が江戸そのままの姿で厳かに建ち並び、霞が関には海軍省、三宅坂には陸軍省と参謀本部があった戦前日本のリアルな空気までは分かる由もない。同じ文化遺産を継承していながらも、戦前に生きていた日本人は現代とはまるで違う歴史観をもち、違う考え方をしており、服装や髪型、毎日の食事、あるいはしゃべり方すらも異なっていた(はずである)  ―   共通しているのは同じ数学的問題に同じ解答をするという論理においてくらいだろう。これが一つ前の時代で、「戦後日本」という現代は「降伏」という衝撃後に、そこから出てきた一つの結果である。


思うのだが、継体天皇云々は現代日本とは何の関係性もない歴史ロマンである。歴史的に今という時代を考えるなら、織豊政権から江戸時代、明治維新と王政復古、軍国主義までを大きく一括りにした「過ぎた時代」のあり様と歩みを振り返る方が先だと思っている。

【加筆修正:2026-08-09】



2026年8月5日水曜日

覚書き: 極右の女性首相の爆走、完走できるか?

クルーグマンやデロングのお二方はよく本ブログで引用させていただいているが、フランスの人口学者・エマニュエル・トッド先生の世界感覚も小生とは波長が合うので、何度かネタに使ったことがある。

最近でもこんな見方を述べている:

国際関係はイデオロギーや善意に基づいているわけではありませんし、そうなってはならないのです。

私は中国との穏やかな関係を提唱していますが、中国が巨大な勢力であることも認識しています。どれほどお互いに善意を持っていようとも、もし日本が自らの独立・自立・中立を守るための手段を持ち合わせておらず、また核兵器を保有せず、世界と良好な関係を保てない場合、日本は単に中国の属国になってしまうだけでしょう。日本は自国の独立を守るために、技術的な手段も持っておかなければならないということです。

また、中国の抱えている問題も受け入れる必要があります。たとえば、台湾に関しては中国を放っておくことです。日本こそが台湾の守護者だと考えるのをやめなければならないのです。この見方を好むか好まないかが問題なのではありません。中国との良好な関係構築のためには、相手国の利害についても認識し、各国の勢力関係をしっかりと見据えなければなりません。

だからこそ日本にとっては、核兵器の保有こそが唯一の選択肢だと私には思えるのです。日本は新しい国家理念を定義し、示すべきなのです。

この新しい日本の理念が、自国を核兵器で守りながらも国際関係においては中立性を保ち、自国領土から米軍基地を排除し、同時に「台湾は中国の一部であるという事実を受け入れる」という構想を掲げるのであれば、日本と中国は平和に共存する道が開けるのではないでしょうか。

Source: YAHOO! JAPAN ニュース
Original: Courrier Japan
Date: 8/4(火) 19:45
URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/a30edf2968cbe57b517225f9a72eb456c706c81d

上のような中国観(とアメリカ観)、そして防衛感覚に小生は100%賛成する。

しかし、高市・現内閣の基本方針とは正反対になるであろう。

そればかりか、経済政策をみても日銀の独立性への目配り、長期的な税制改革への展望もなく、

まるでアメリカのトランプ政権の無戦略を戦略とする戦略(?)を模倣する戦略(?)をとりつつある

こう感じられるのだ、ナ。

食料品に対する消費税率ゼロは、それ自体として最初から否定するべき方向ではない。現に多くの「先進国」で同じ政策を実行している  ―   ChatGPTにでも聞きなせえ。

とはいえ、実行するなら実行するで合理的方法を選択する必要がある。

理論なく政策の断行をもって最上の政治とする政治哲学

高市内閣の経済政策は《超・経済政策》と形容してもよいだろう。"Sanae's Ultra Super Economics"、略して"SUSE”とでも小生は呼びたい。

太平洋戦争開戦の直前、総理就任前の東條陸相が御前会議で発言したときく:

人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ

令和・日本の高市現首相の風貌と声音をTV画面で視て、昭和16年当時の東條英機首相のたたずまいの、男女の別はあるけれども、生まれ変わりのような既視感(デジャブ)を覚える人は他にもいるかもしれない。勤勉さと頑固さ、押しの強さと狭い視野が同居しているお人柄ということなのだろうか⋯⋯。ご本人と話したことは勿論ありませんが。

どうせ清水の舞台から飛び降りる覚悟が出来たなら、前にも投稿したが

さすが極右の女性首相

こんな風に感嘆できる政策断行を次々にやっていって欲しいものだ。

とはいうものの、あまりに任重く、道はあまりに遠い。

マア、一年以内に自爆する確率が60%以上はある

そんな予測をしながら観ています  ―   世間の風は「下手なシノギをして⋯⋯、もう詰んじゃったなあ」という方向に吹き始めているようだが。

前にも投稿したが、(首相ご本人のかどうか分からないが)皇室観だけであった、共感できる点は。

2026年8月2日日曜日

断想: 「信仰 ≠ 錯覚」、「抽象こそ実在」だと感じるとき

浄土系信仰の対象である阿弥陀如来は人間ではない。もちろん過去に死んだ人間のことでもない。過去に死んだ人間が今いるはずもないではないか。

阿弥陀如来が人間として生きた時間、法蔵という名の修行僧であったのは、大乗経典『無量寿経』の通りだとすれば、なるほど「事実」である。しかし、だからと言って、死んだ人間が別の所に行って「極楽」という世界を作ったという話を、そのまま信じる人はいないはずだ。

だからこそ法然は『一枚起請文』の中で

一文不知の愚鈍の身になして・・・ただ一向にねん仏すべし

と書いたのに違いない。自我と理性に基礎をおく近代文明も良し悪しで、考えるなら考えるで、徹底的に考えなければ「信仰」なるものが成立するはずは最初からないのである。


生きていた法蔵は、いわば「プレ如来」、仏語で言うなら「菩薩」であった。生前に菩薩であったという認識と死した後に如来になるというのは、表裏一体の言い方である。であれば、何を達成すれば人は菩薩になるのかという問題意識から大乗仏教は興った。その頃の思想の果実は膨大な大乗仏典となって残っている。

毎朝の称名念仏は、小生の属する浄土系宗派の勤行なのであるが、その根拠が大乗仏典の中の一部分である浄土三部経にあることは前にも述べた。そこでは仏教の開祖である釈迦如来は「仏」あるいは「世尊」という名で登場しているが、釈迦はナレーターとして登場するに過ぎず、釈迦が薦める信仰対象である阿弥陀如来が真の主役なのである。



その阿弥陀如来は「無量寿仏」とも「無量光仏」とも呼ばれるとおり、時間を超越した永遠の寿命をもち、無限大の光明を発する実在として観念されている。

しかし、この宇宙に「無限」は存在しえない。無限に高速であると感じる光でさえ速さは有限である。

つまり阿弥陀如来は観察可能な実・宇宙空間に存在してはいない。だから、浄土三部経で阿弥陀仏や阿弥陀仏が開いた世界である「極楽」が視覚や聴覚に訴えかけるように感覚的に描写されている箇所は、《描写》として文字通りに読むべきではなく、全ては《象徴》として読まなければならない。これが理屈であろう。サンスクリット語が書かれる梵字やデーヴァナーガリー文字でもなく中国の漢字で書かれた「阿弥陀如来」や阿弥陀如来の仏画も、「・・・である」という描写ではなく「・・・のようなもの」として、つまりは《記号》として見られるべきである。そう考えなければ唯の荒唐無稽としか思われないはずだ。

阿弥陀如来が語られる世界は「無限大の世界」であり、純粋理性にのみ理解される。「無限大の世界」であるから普通の常識は通用しない。それは数学的な無限の世界で多くの非常識な結論が導かれるのと同じである。つまり経典に書かれている文章は、全て象徴としてのみ意味をもち、純粋知性である「如来」を伝達したり、理解したりするための記号として見なければならない。例えば、それは無限を表現するための記号である"$\infty$"や実数などの連続濃度を表す"$\aleph$"と同じ理解の仕方になる。多次元の連続的な実数空間を概念的に生成し、そこで成り立つ定理を発見したり、論理的に証明したりするのと同じ意味合いで、無限の世界である極楽浄土のありようを象徴的に語っているのが大乗仏典であると解釈しなければ、書いてあることは荒唐無稽に感じるだろう。



仏理では、このような抽象的な理論上の存在、言い換えると「理論上、実在するはずの存在」を《法身》と呼んでいる。もしも抽象的観念だから実在しないと考えるとすれば大きな間違いだ。現代世界にAIで自動走行する電気自動車は既に生まれているが、真に実在するのは、金属やプラスチックなどの集合体である自動車そのものではなく、それらを生み出した非物質的で抽象的なAIや車本体を製造するための製造知識である。自動車という被製造物は一定の時間内のみ動作するが、それらを製造する知性や知識は非物質的であるから(顧みられなくなることはあっても)無くなることはない。世間がいう「発明」とは知の世界における「発見」なのである。この辺の事はもう何度も本ブログに投稿している。

毎朝、(ささやかだが)千遍念仏を称えているのは、法身と言う純粋観念である阿弥陀如来の実在を、自己の内心の中で実感し、体感するための修行である(と勝手に思っている)。

自分が念仏する声を自分で聴きながら、観念(に過ぎないはず)の存在が現実に心を照らし、光を浴びる温かさを感じたり、すぐ近くに(つまり心の中にという意味になるが)観念の実在を体感している感じとか、それは錯覚と言われればそうであるかもしれないし、思い込みと言われればそうであるかもしれないが、それは事実なのだから仕方がない。宗教的心理を自然科学で分析することには無理があると思う。そもそも《直観》と《思い込み》を識別するのは無理である。データや実証的作業からは得られない(はずの)直接的な理解がここにはあるとしか言いようがない。美しい音楽を(そうと分かる人は)なぜ美しいと感じるか?この問題を科学的に分析するのも、やはり同じ理屈で無理であると思っている。

以上、きょう現在の日誌としてメモする次第。