2026年5月23日土曜日

断想: 皇位継承は非・民主的に決定するべき?天皇と政治の独立性とは?

今や「女性天皇」、「女系天皇」に賛成するか、反対するかで、日本国民が分断されかかっているとすら感じる世相(?)である。

「女性天皇賛成」が世論調査では大勢を占めている、旧宮家養子は世論に反する等々、「愛子天皇推し」がネット界隈で盛り上がっている。TVではまだ話題になることは少ないが、新聞メディアなど、そろそろどちらの側につくか、思案していることだろう。

思うのだが、世論と皇室を関連づけて皇位継承を語るのは、結果として《天皇の政治利用》につながるのではないか、と。

天皇の政治利用は、戦後日本においては最も忌避してきた情況である(はずだ)。

戦前日本では、陸海軍が天皇を政治利用して我意をとおした。

戦後日本でも、民意が天皇に敬意を払う、その敬意を(特に自民党は)政治に利用した。

というか、ときの天皇を支える側と天皇に歯向かう側を《官軍 vs 賊軍》で対立させるフレームは、日本史全体を通して常に《内乱》の基本構造となってきた。天皇を手中にした勢力が常に勝者になってきた  ―   「壬申の乱」(672年)と「承久の乱(変?)」(1221年)は大きな例外だが。だから、天皇制は継続できたのだ(と勝手に理解している)。ここが日本と外国とを大きく分ける歴史的因子の違いである(とこれまた勝手に理解している)。


戦前日本では、天皇は内閣(=大臣)の輔弼によりこの国を統治するとされた。「輔弼」とは助言以上で強制未満である。つまり「天皇制」とは言うものの、大臣の《輔弼》がなければ統治できない。乱暴にいえば「お上はロボットたれ」という原則があったわけだ。これでは「君主制」とは言えないと小生は(勝手に)思っている。

戦後は、天皇に統治権はない。「ない」とは言っても、戦前も天皇が臣下の反対に抗って「君意」を押し通す権限は与えられていなかったのだから、達観して言えば、天皇の発言力は戦前も戦後も「五十歩百歩」というところだ。

日本の現実政治に、天皇の意志が反映されることはないし、昔もなかったと思っている。

特に戦後日本では、天皇の意志や希望と政治の意志や決定とは何の関係もない、互いに独立している。それが建前だ。

しかし、本当にそうだろうか?これからも、そうだろうか?

本当に、民主主義的な戦後日本で、天皇と政治は互いに独立していられるのか?

戦後日本では民意が政治を決める。政治は民意に左右される。その民意がいま皇位継承を論議している。政治が民意を尊重すれば、結果として、政治と天皇が独立性を保つのは無理である。

民意が媒介となって、政治と天皇が共振するなら、それもまた民主主義だと自惚れるのは、それだけ日本人が劣化している証拠だと思う。

(こんなことは下の下であるが)仮に民意を基盤とする天皇が出現するとして、そんな天皇の意志ほど、民主主義的な日本の総理大臣が怖れなければならないものはない。

そんな天皇を憲法が予定しているとは思えない。

故に、政治が民意によって左右されるなら、天皇は民意からは超然としているべきだ。それが《天皇制》の主旨である(と思う)。


右翼と左翼、保守とリベラル等々、様々な政治勢力が覇権を争う現実政治から独立するには、天皇はどの勢力からも独立していなければならない。結果として、天皇は民意からは無関係である必要がある。従って、天皇制を維持しようとする意識は極めて非・民主主義的にならざるを得ない。

皇位継承は、皇統の定義、歴史的妥当性を熟知した有識者のみに基づいて、非・民主的に決定するべきだ、というのが小生の皇室観である。

以上、覚え書きまで。

2026年5月21日木曜日

断想: 独り早朝に読経することに意味があるか?

計量経済学を仕事にしている間、まさか齢をとってから仏道を歩みたいと自分が思うだろうなどと、若い時分に予想したはずはなかった。

そもそも宗教や信仰と言われる人間の行為にはデータに基づく実証性や客観性がないからだ。

この世の一寸先は闇というが、自分の将来像は決まっていると思う人は、まず間違うものである。

"Planning"とか"Strategy"、"Game Theory"という言葉は、一定時点に立ったロジカルな構築物ではあるが、過去・現在・未来にわたる人生全体において結果として何か意義があるかと言えば、ほとんどは予想不可能な偶然的なファクターで人生行路は決まるものである。

感覚的な言い方だが

結果として歩む人生の6割は自らの希望や志向が反映される。残り4割は偶然的ファクターで具体的な暮らしや生業が決まる。

そんな風に達観している。

小生が毎朝読経をする習慣になって一年余りが経ったところだ。怠惰だから(基本的には)毎日せいぜいが五百遍か六百遍の称名念仏で時間的には15分程度に過ぎない。浄土系宗派の開祖である法然は在家の人は一万遍くらいから称名念仏を始めたらよいと書いているので概ね一念十念の範囲内にある。

カミさんには話しているが起きてくることはない。小生独りでやっている。

これがいわゆる《他力の念仏》になっているのか、《自力の念仏》になってしまっているのか、専門的な教理は分からない。

ただ岩波文庫『法然上人絵伝』上巻の第20巻から引用すると、

虚仮とてかざる心にて申念仏が往生はせぬなり。決定往生せんとおもはば、かざる心なくして、まことの心にて申べし。

(現代文訳:浄土宗出版『法然上人行状絵図』より)

虚仮と言うのですが、うわべをよく見せようという心で称える念仏では往生できません。必ず往生しようと思うなら、うわべを飾る心ではなく、真実の心で称えなければなりません。

念仏というのは「南無阿弥陀仏」であり、これはサンスクリット語の"Namo Amitābha"(ナモ・アミターバ)の音をそのまま漢字に置き換えたものである(とされている)。ナモというのは、同じサンスクリットのナーマスの類語で、現代ヒンディー語で「こんにちは」に相当する「ナマステ」の古語と推測される。従って

「南無阿弥陀仏」とは「今日は阿弥陀さま」とでも解釈できる敬礼言葉である。

 いわば「極楽浄土」を主宰する阿弥陀如来へのリスペクトであるとも言えるわけだ。

いずれにしても、観察される物質的宇宙空間ではなく、知的に理解される非物質的な知識世界での存在だ(と理解している)。知識世界における《ミーム》(=自己複製子)が物質的宇宙における物質循環と相応している議論は以前にもドイッチュ『無限の始まり』に関連して投稿しているところだ。

上に引用した文章の少しあとで

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

全体のポイントは《自分自身の心のあり方》であって、他人とは関係ない、他人の評価、思惑、世評とは関係ない、こういう事である。


心のあり方を問題にしているなどと言うと、現代文明を支える「内心の自由」に染まった向きは

何をどう思うか、どう考えるか、思想・表現はそもそも自由である

と。 こんなコメントが予想できる。

つまり宗教、信仰とは、内心を問うものであり、従って内心の自由の否定から話が始まるものである。何が善であるかは、個人個人が自由に考えてもよいという「相対主義」ではなく、あるべき善、あるべき真理等々、絶対普遍の心の状態があると考える。仏理の「菩提心」(=悟りの心境)も相対主義ではなく普遍主義による観念である。名々が自由勝手に悟ってもそれは「野狐禅」に過ぎない。

普遍主義の観点から要求する心のあり方を「マインド・コントロール」と呼ぶのは現代文明の明らかな(困った?)特徴である。


「自由」と「社会」という二つの観念は現代という時代で密接に結びついている。この二つの結合は現代文明の核心であろう。「交換」と「専門化」、「貨幣経済」はこの二つの結合の論理的な帰結である。自分の自由と自分が所属する社会とを表裏一体のものとして意識する、これが当たり前の生き方だと意識する正にその意識が現代文明を支えている。

しかし、「社会」にせよ、「自我」にせよ、そもそも実在はしない。空である。なぜ空なのかを考える。仏理はここから出発する。本来は実在しないものが実在するかのように思い込んで生きるのは「迷い」である。

自由な自分が他人の集団である市場でどのように評価されているかを行動原理として自分の人生を決めていく。そのような意識に支配されている間は、夜更けての読経には価値が認められず、故にそんなことはしないはずだ。

その意味では、早朝の読経はそれ自体としていま小生が追い求める目的に適っている。そんな風に考えている所だ。


何年か前に思想的転向をした。それについては何回か投稿をしてきたが、本日はその後の進展を「ログ(=航海日誌)」として記録しておくものである。





2026年5月18日月曜日

ホンの一言: 「ダメだダメだ」と批判する人が一番ダメかもしれない?

船橋にある両親の墓参りを兼ねて東京まで往復した。清澄白河に泊して(元祖?)深川飯を食べたが、カミさんは「もうイイかな」と。大盛りの白飯に驚くほどのアサリをトッピングして、ネギを一かけ、後は沢庵と味噌汁だけで腹を満たすというのは、確かに江戸の食文化であるに違いない。今回は上の愚息が夏場所を観たいというので同行した。小生は、今場所の大相撲には飛行機代を払ってまで行くほどの観戦価値はないと思ったので、愚息一人で国技館に往く。

北海道に戻ると疲れが出た。若い時分は午前に1件、午後は午後イチ、2時から4時まで大きな仕事を1件、夕方から退庁時間まで1件。夜になってからまた別件と仕事漬けになるのが能力の証くらいに思っていた。最近は、午前1件、午後1件どころか、一日一件。その日の予定をこなすと、ホテルのラウンジで詰碁でもして休憩するか、小さめの喫茶店に入って往来の人々を眺めながら時を過ごすか、とにかく無為に過ごすのを愛するようになってきた。

(海外メジャー紙に比べて割高なので今は有料購読を中止しているが)久しぶりに日経新聞にアクセスした。すると

「日本の恥」はレジより財政 米財務長官の長期金利への警鐘忘れるな

こんなヘッドラインが目に入る。何やら高市首相がまた言わなくともイイことを言ったのか、と。

本文の一部は「無料」で公開している。こんな風だ:

いくらなんでもレジシステムのメーカーに失礼ではないだろうか。11日の参院決算委員会での高市早苗首相による消費税減税に関する答弁のことである。

「システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね。例えば感染症が起こる。何か大きな災害が起きたときに税率すら柔軟に変えられないレジシステムだということは情けない」

日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

以下、続きあり・・・


どうも首相の 『システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね』にカチンときたのだろうかネエ・・・恥ずかしいという感覚は、小生はどちらかと言えば、首相の感覚に近いものがあるが。

税率は頻繁に上げ下げするものであるし、実際、ヨーロッパなどは社会状況を考えながら付加価値税率を結構頻繁に上げ下げしている。

食料品に対する軽減税率、イギリスのゼロ税率などは、(ドタバタ皆無とは言えないが)それほど大騒ぎすることもなく、淡々と、というか粛々と実行できているのが、ヨーロッパの財政である。日本のマスコミもそんなヨーロッパ諸国の財政政策を淡々と報じてきている(はずだ)。もちろんこんな財政政策には、官僚組織の行政技術があるわけであるし、欧州衰えたりといえども製造業の基礎技術があるわけで、だからこそ実施可能なのである。

日本は古来ヨーロッパを師匠としてきたが、師匠老いたりと見るや、もはや学ぶものなしと、態度を一変させる悪癖がある。この辺り、日本国民は実に機会主義的であると思うのだが、先進国・後進国を問わず、海外にはいつでも学ぶところがあるものだと思う。


マア、この辺はAIにでも聞けば、いつでも詳細に教えてくれる。

というか、上の引用文の中の

 日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

これには、思わず笑って、いやいや苦笑、というか失笑というか、ニンマリとしてしまいました。

確かに、日本国のIT技術水準、分かる人の少なさ、研究意欲の低迷は、以前から《わかっていたこと》であります。ダメダメな人に、いまさら「ダメだ」と言ったところで、

ダメなことは前から分かっていたでしょ?

と言われるだけである  ―   カエルの面に水、とはこういう情景を言うのであろう。

もちろん、これ自体が情けないあり様なのだが、もっと情けないのは、

余りにも長い期間、ダメだダメだと指摘されながら、今もなおやっぱりダメだ

と。つまり、改善へのアップターンが観察されない。これこそ最もダメな所である。


若い芽が育って来ないのか、若い芽を潰しているのか?

おそらくこの両方なのだろうが、日経新聞というメジャーな経済紙で、こんな文章が堂々と載るところに現代日本社会のダメな所が象徴的に表れているのだと小生は思う。

とはいえ、大谷選手、山本投手、村上選手などの野球界、八村選手などのバスケット界等々、スポーツ分野では世界で評価される人物を日本は続々と輩出できている。音楽界や美術界も評価は高い。文学界も多様な若手人材が生まれてきている(と感じている)。

一方、数学、物理学、化学などの自然科学、経済学、心理学、社会学など人文・社会科学分野で、グローバルに活動する日本人はどれほど生まれているのだろうか?小生の勉強不足もあるかもしれないが、学問分野で注目すべき若手(中堅も)人材が注目される例は、最近あまり目や耳に入らない。

学問上のレベルはプロ・スポーツ界とは異なり、言論や世論、生産技術の創出などに、そのまま直結するものだ。ここが実は停滞しているという感覚がある。

学術だけを立て直しても全てうまくいくわけではない、と。ま〜〜アレです、この種の反論に満ち満ちている。この点こそ平成・令和日本の問題の核心であります。

法学は明治以来の国内文系教育の柱である。いま改憲の声が高まる中で、日本国内の憲法学者はどんな見解を持っているのか?《改憲私案》なるものは持ち合わせていないのか?今こそ学問的知見を公表するべき絶好の機会ではないのか?個人的にはそう思いますが、あまり、というかほとんど《法学界》からの見解をきかない  ―   というより、報道されない。

(今は忘れられた?)歴史家・トインビーも語っているが、文明が直面する難題を突破できるかどうかは、少数の人物に宿る才能こそが鍵となる。その他の凡夫は天才的人物が拓いた道を歩く。この段階で平均的国民の勤勉さが主たるファクターになるのである。


以前にも懸念(?)を投稿したことがあるが、もはや学術分野でも五輪選手養成に邁進するスポーツ界と同じ様に《〇〇ナショナル・アカデミー》を開設して、いわゆる”Gifted”と呼ばれる天才少年少女を分野を問わずバックアップするべき時代ではないか?経済支援するべきではないか?特別待遇するべきではないか?

史上最高(?)の数学者・ガウスの例をみるまでもなく、天才的才能の出現は貧富や出自、身分、民族を問わない。貧しいレンガ職人の子であったガウスは領主の支援もあって大成した。

伸びる才能を社会として支援するのは富裕層の善意だけではなく、政治でも出来ることだ。

ダメだダメだと指摘しながら、今日もまたやっぱりダメだという 

こんな政治風景は実に奇妙だ。選手が駄目、駄目と毎日けなす監督やGMがいるなら、一番ダメなのは駄目だと言っている当人である。



2026年5月11日月曜日

断想: 「自我を愛せよ」とは言えないネエ・・・

 昨日のこと、ネットのどこで見かけたか分からなくなったのだが、

自我を大事にしよう

という一文があった。自我は鍵かっこの中に入っていたかもしれない。

何度も投稿してきているが、この考え方には反対の立場に(今は)いる。友人と雑談するときの話題になることもありうるから、要点をメモしておきたい。

例えば横山紘一『唯識の思想』で書かれているが、せんじ詰めれば人の心の中はマチマチ、バラバラであって『一人一宇宙』、同じことだが『人人唯識』が世の実相である。

こんな世界で一人一人が自我を大事にするとどうなるか?

何が正しいか?

何が美しいか?

何が善いことであるのか?

一人一人、自分の自我で判断するしかないという理屈になる。これは究極の《相対主義》である。アメリカはトランプ大統領の自我で為すべきことを決めればよい。その権限があるからだ。イスラエルのネタニヤフ首相も自分の自我で正しいと思うことを為せばよい。そんな理屈になる。世界がどうなるか誰でも分かるはずだ。多くの自我が衝突する結果は弱肉強食の原理以外にはない。


古代ギリシア世界の「世界大戦」でもあったペロポネソス戦争に敗北したアテネの民主主義社会は、敗戦後に大いなる混乱に陥った。知力、財力、体力に勝る強者の意志が善であるという思想が流行したのは、《敗戦の必然》でもあったわけだ。せめて論争や法廷の場の弁論だけは熟達しておこうと「ソフィスト」と称される専門家が「有識者」として尊敬されたのは世界史の教科書でも記述されているところだ。

人間は万物の尺度である

大事なことを決めるのは人間であり世論(?)である。こんな哲学(?)が当時のアテネで一世を風靡した。

ソクラテスの主張の核心は『それではダメだ』という一点にまとめられる。何が真であり、美であり、善であるかには、人を超越した絶対永遠の答えがある。唯一の真理を知ろうとする努力を人は放棄するべきではない。プラトンが師・ソクラテスを描くことで伝えたかった事は実に単純明快な一点であった(と勝手に理解している)。

ただ知るべき真理は「自我」によってはとらえられない。感覚はあてにはならない。感情も人それぞれである。まして世の評判や名誉などは無常そのものだ。自我の中の「理性」によってのみ真理はとらえられる。何故なら理性は、万人に共有される同一の心の働きであり、正しい答えがただ一つ存在するなら、真理を真理だと認識できるのは人間に与えられた理性の働きによるしかない。これがロジックであるからだ。社会的な意思決定においても同じこと・・・

理性は万人に共有されるが故に「自我」の中の「超自我」である。行動する時、理性に従うことは、カントなら実践理性の声を聞くと言うだろう。

西洋の哲学に沿って考えるとこんな議論になる  ―   哲学辞典的に言葉にこだわるなら、「理性」と「知性」は違うと言うところだが、いまはどちらでもよい。

戦争は自我によって起こり、平和は理性によって達成されると誰かが言うなら、かなり西洋の薫りがするものの、小生も大賛成である。


最近の小生は仏道に沿って考えることが増えてきた。少し昔とは正反対である。

仏道では《無我》を原理とするので、《自我》は実在しないと言うところから議論を始める。

というより、実在しない自我が実在するかのように誤認して、自我に執着する心を《我執》という。この根本的間違いは、真理を何一つ知らない《無明》が根本原因なのであるが、それ故に生じる自我意識からは《我癡》、《我見》、《我慢》、《我愛》という煩悩が生まれ、自らの心を汚すことになる。即ち

  • 我癡がち:自分とは何かを知らない
  • 我見がけん:自分がここにあると思う
  • 我慢がまん:「他人」と比較して「自分」は優れていると思う
  • 我愛があい:自分に愛着を感じ、(物質的身体として)もっと生きたいと願う
自我意識からこういう風に、自己利益を求める心理(煩悩)が生まれて、しかもそれは正しいと意識する。

達観してしまうと、現代資本主義社会は、人の心の中の「無明」とそれ故に生まれる自我を愛する「煩悩」を丸ごと肯定して構築された社会である、と。ずっと以前の非・近代の社会に生まれた知識人であれば、現代世界をこう理解するであろう。


確かにこの世間は煩悩の支配する濁世であるのが現実だった。いまもそうである。自己利益を追求するためには合理的戦略があるのも仕方がない。それはやむを得ないことだ。しかし、だからと言って
自我を愛せよ
開き直って、こんな風に自己肯定するのは、とてもじゃないが言う気にはなれない。『大事にしよう』とは『愛せよ』と言うのと同じであリンしょう?『俺の心は邪念だらけで汚れてるしサ、ずっと悪人だから、いまさら偉そうなことを言う資格はないがナ・・・』という位のデリカシーは持つべきだろうと思う。

2026年5月8日金曜日

断想: 理論家・ヒックスの経済史と歴史への関心の高まり?

小生は、経済学から勉強を始めて統計学を飯のタネに選んだ。だから、縦に生きるというより、横に生きている人の気持ちは、比較的分かるつもりでいる。

経済学の勉強を始めた当初、ヒックスとサムエルソンは(特に純粋理論畑の人にとっては?)正に「神様」のような存在で、アダム・スミスやデビッド・リカード、更にはケインズの『一般理論』を真面目に読まない人でもヒックスの『価値と資本』だけはきちんと理解しようと、一生懸命精読したはずである。小生は計量畑であったが『価値と資本』、特に巻末の数学付録は、大学院入試の前に丁寧に読んでおいた。

大学院に入る頃はヒックスの『資本と成長』が評判になっていた。しばらくしてから『資本と時間』が日本語訳で出た。理論系の大立者であったM.F.教授は

ヒックスも耄碌したのかネエ

と語っていたのが何だか面白かった。

神様も老いることがあるのか

まあ、そんな感懐であります。『資本と時間』に老いを感じたのであれば、ちょうどその頃に執筆していたはずの『経済史の理論』はどう評しただろう?

こんな(下らない?)本を出すなんて、やることがなくなったのかネエ・・・

理論系の経済学者ならこんな評価になったかもしれない。聞いてみたかったものだ。

小生の「ヒックス経験」はそんな風であったので、最近、substack.comでDeLong先生がヒックスの経済史をテーマとしているのには、少々驚いた。

読むとこんな下りがある。

From his stage theory Hicks drew a bottom-line conclusion: When we consider the process that has generated our economic growth and current prosperity, we should note first that we have been very lucky. This process has gotten farther than it had any right to. The market system spread, expanded the potential for the specialized division of labor, created the opportunity for high-scale investment and accumulation. But it was always a tendency. It was never an inevitability. It had a halting nature. It had a limited geographic spread. They needed necessary supports were only found in patches.

ヒックスは自身の段階理論から、次のような結論を導き出した。我々の経済成長と現在の繁栄を生み出した過程を考えるとき、まず我々は非常に幸運であったことを指摘すべきである。この過程は、本来あるべき範囲を超えて進展した。市場システムは拡大し、専門分業の可能性を広げ、大規模投資と蓄積の機会を生み出した。しかし、それは常に傾向に過ぎず、決して必然ではなかった。その性質は停滞しがちで、地理的な広がりも限られていた。必要な支援は、断片的にしか見つからなかったのである。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-05-01

URL: https://braddelong.substack.com/p/theories-of-economic-history-v-commerce 

経済成長には何も必然性はない。歴史的結果として(多少なりとも)持続的に観察された「傾向」というものだという認識は、「成長」に劣らず現代世界の人で信じる人が多い「民主主義」にも当てはまるというのが、昔からの個人的感想であったので、同じような事を言う人はどこかにいるのだネエ、と。そう思った次第。

続けよう。

Plus there were the occasional reversals. We know more than Hicks did now about the post year -1200 late Bronze Age collapse, during which the Greeks forget how to write. We know more about the post-Song retreat of China’s iron production. We know more of what caused the D—I understand we are not supposed to call it that: call it the post-200 Late-Antiquity Pause, the thing that led to a world in which, somehow, by the year 750, in both Europe and in China, people were looking around and marveling at the accomplishments of the earlier Hellenistic and Roman and Han civilizations at their height, and mourning their situation as unworthy descendants of mightier men.

さらに、時には逆転現象も起こりました。紀元前1200年以降の青銅器時代後期の崩壊、つまりギリシャ人が文字の書き方を忘れてしまった時期については、ヒックスが当時知っていたよりも多くのことが分かっています。宋代以降の中国の鉄生産の衰退についても、より多くのことが分かっています。D期(そう呼ぶべきではないことは承知していますが、紀元前200年以降の古代末期の停滞期と呼ぶべきでしょう)の原因についても、より多くのことが分かっています。この停滞期によって、どういうわけか、750年までにヨーロッパと中国の両方で、人々は周囲を見回して、最盛期のヘレニズム文明、ローマ文明、漢文明の業績に驚嘆し、より偉大な人々の後継者としてふさわしくない自分たちの境遇を嘆くようになったのです。 

過去を賛美する所が儒学にはある。これも、しかし、事実に基づいた学問的知見であるというわけだ。

現代では「科学主義」が浸透している。現代人は、前の時代に生きた人より「進んでいる」と確信している。しかし、その確信には(実は)根拠がないわけである。進んだ科学は、先人たちが達成した成果であり、現世代が進んでいることを意味しない。

いま進行しているのは、人の大脳内部で起きている「思考現象」を半導体でそのまま模倣しようとするAI(人工知能)の研究開発である。思考(のような動作)を再現できるとしても、AI(人工知能)が「自我を意識した精神」であると思う人は一人もいない。そもそもよく言えば「人工」、悪く言えば「もどき」なのであり、それを実現可能にした基礎理論は何十年も前からあったわけである。


古代社会で華やかな文明が栄えたにもかかわらず、次第に創造性を失い、「民族の大規模な移動」をきっかけにして自壊するかのように、文明社会としては瓦解し、百年単位の「暗黒時代」を送ったことは、最近になって小生が関心を集中させている領域である。トインビーは、西洋については375年から675年までの300年間を混沌の時代と評しているし、この事情は中国についても後漢の滅亡から三国時代、南北朝を経て隋唐時代までの長い期間に当てはまっている。

文明の歴史の長い時間においては、「進歩の時代」と「後退の時代」が交互に現れると考えておいてもよいかもしれない。

理論家・ヒックスがこの辺の問題に知的興味を抱いていたのは、単なる経済学者ではなく、もっと水準の高い文人であった証拠だろう。

Hicks also concluded that fixed-capital industrialization—the key source of prosperity—required both science coming in from left field, and also the development of unusual institutions of financial deepening to make people willing to invest in things that coud not be liquidated for cash whenever events went rapidly south and the panic spread. Hicks also concluded that the system was very unlikely to deliver general wage increases, at least not until it had spread enough to a large enough scale to get you exhaustion of the W. Arthur Lewis labor surplus in the countryside; or until you got unions strong enough to enforce rent-sharing for a labor aristocracy. Hicks also concluded that the beginning, the development, and the future of the future of this process always was and is a dicey political-sociological question.

ヒックスはまた、繁栄の源泉である固定資本工業化には、異分野からの科学の流入と、事態が急激に悪化しパニックが広がるたびに現金化できないものに人々が投資する意欲を持たせるための、金融深化のための異例の制度の発展の両方が必要だと結論付けた。ヒックスはまた、このシステムが一般賃金の上昇をもたらす可能性は非常に低いと結論付けた。少なくとも、農村部におけるW・アーサー・ルイスの労働余剰が枯渇するほど大規模に普及するか、労働貴族のために地代分配を強制できるほど強力な労働組合が形成されるまでは、そうだろうと結論付けた。ヒックスはまた、このプロセスの始まり、発展、そして未来の見通しは、常に厄介な政治社会学的問題であったし、今もそうであると結論付けた。

《科学と工業》との決して切り離せない密接な関係性は言うまでもない。この関係性に加えて《信用と金融》が寄り添うことで、産業革命が進行し、現代の資本主義文明の大輪の花が開いたわけである。その過程で実質賃金が着実に上昇し、生活水準も向上したのであったが、これはこれで余剰労働力とのバランスから起きた現象であったというのは、経済理論に忠実な理解だ。しかし、過去において起きたから今後も同じことが起きるだろうとは言えない。それは人口と生産性との関係が決めることで、未来を予測することは出来ないとも言っている。

やはりヒックスは『賃金の理論』から研究をスタートさせた経済学者である。

いま急速に発展しつつある《AI(人工知能)》と先進国に共通する《少子化》という変化を観察するとき、ヒックスならどう思考するだろうか?

人口と経済発展は、マルサスの『人口論』を待つまでもなく、最初に経済学者の注意を引いた最重要な研究テーマである。

人口は幾何級数的に増加する一方で食料は算術級数的にしか増えないので必ず過剰人口が発生し賃金は最低生存レベルにまで低下する。

マルクスが『資本論』を執筆していた頃、広く流布されていた「賃金鉄則」だが、その後の経済成長によって「予言」は見事に外れたというのは、少し前の経済成長論テキストでお得意のエピソードであった。

しかし、まさか、どの国も高度文明化するに伴って《少子化》が進むと誰が予測しただろう?

所得分配の不平等化については、日本の経済学界でもこの50年程で多くの経済学者の問題意識を刺激し、研究成果が蓄積されてきた。 

若いころはそれ程の差がつかなくとも、高齢になれば大きな差になるものだ

運動会の徒競走やマラソン競技をみずとも、この単純な理屈は誰でも理解できる。これに少子化が合わされば、

高齢化社会では資産分配の不平等度は上昇し、所得分配も不平等になる。

当然、こんな帰結が出て来るわけだ。 

しかし、分配に関連する要因は「年齢」だけではない。

他方、分配問題に投入されてきたほど少子化は研究されてきただろうか?

西洋の古代社会はローマ帝国が世界帝国となって完成形に至ったのだが、その衰退期に顕著であったのは来世志向(≒現世への絶望)の宗教、即ちキリスト教の浸透、非婚率の上昇、移民の増加とローマ社会の変質であった(と推測されているようだ)。

古代社会の瓦解を歴史的に更に詳細に研究する必要性は、今後にかけて一層高まるかもしれない。


2026年5月6日水曜日

ホンの一言: ト政権、一体何をやりたいのか分かりませんという状況

経済理論では文字通りのマイスターであるものの、政治的立場はかなり違うなアと感じてきたクルーグマン博士だが、最近は遠慮会釈のない自国の大統領批判に愉快さを感じるようになった。これも日本人ならではの気楽さか・・・アメリカ国民の苦衷を体感できないのが残念だ。

今回は、「再エネ」が大嫌いなトランプ大統領が、意図することなくしてグリーン・エネルギー重視の流れを決定づけてしまった状況を(面白おかしく?)紹介している。

The global energy transition — the shift from fossil fuels to electrotech, which uses solar, wind and batteries to power an electrified economy — is accelerating. It’s now clear that the closure of the Strait of Hormuz marks an inflection point: the global green energy curve, which was already on a rapidly rising trajectory, has suddenly become even steeper. “Investors,” reports the Financial Times, “are piling into clean energy funds.”

化石燃料から電気技術への移行、すなわち太陽光、風力、蓄電池を用いて電化経済を支える電気エネルギーへの移行は、世界的なエネルギー転換を加速させている。ホルムズ海峡の閉鎖は、まさに転換点となることは明らかだ。すでに急速に上昇していた世界のグリーンエネルギー曲線は、突如としてさらに急勾配になった。「投資家たちはクリーンエネルギーファンドに資金を集中させている」とフィナンシャル・タイムズは報じている。

This acceleration isn’t just a consequence of soaring fossil fuel prices. It is also the result of the worldwide realization that, with the end of Pax Americana, depending on imported hydrocarbons is a risk not worth taking. The United States cannot be relied on to keep sea lanes open when cheap drones can take out an oil tanker or a major pipeline. Even relying on oil and gas from America itself is dangerous, since one never knows when an erratic U.S. government – now under the control of a twice-elected malignant narcissist — will try to use energy as a tool of coercion.

この加速は、化石燃料価格の高騰だけがもたらしたものではない。それはまた、パックス・アメリカーナの終焉に伴って、「輸入炭化水素に依存するのは、敢えて取るほどの価値がないリスクだ」、そんな認識が世界中に広まってしまった結果でもある。安価なドローンが石油タンカーや主要パイプラインを破壊できる状況では、米国が海上航路の安全を確保してくれるとは期待できない。米国産の石油やガスに頼ることだって危ない。なぜなら、二度も選出された悪質な「自己肥大症患者(ナルシスト)」が君臨する不安定なアメリカ政府が、いつエネルギーを我意を押し付けるための強制(脅迫?)手段にするか分からないからだ。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: May 05, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/trump-is-losing-a-second-war

オバマ、バイデン両氏の民主党政権下で進められた《再エネ重視路線》、

坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い

ということか?『掘って、掘って、掘りまくれ』と石油業界に活を入れていたのがト大統領だ。

しかるに、自分自身が最も嫌っている再エネ・ビジネスに、意図することなくして、わざわざ絶好のチャンスをいま与えている。ク博士も

何をやりたいのか、サッパリ分かりません

と言いたい感覚が伝わってくる。


100年前のハーディング政権は「オハイオ・ギャング」と言われていたそうで、その後「史上最低の大統領・ワーストワン・ランキング」の常連  ―  いや「アメリカ史上最も腐敗した政権ランキング」であったか?  ―  であったが、今のトランプ政権、何と呼ばれるようになるのだろうか?

そういえばハーディング大統領も共和党選出の大統領であった。


2026年5月3日日曜日

断想: 君子、豹変する。というより、豹変できる、と言うべきか?

朝、目が覚める前に、変な事を考えていた・・・

君子は豹変する

という古来の名句である。日本では「豹変」を悪い意味に使うことが多いが、

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

『間違った』と気づいた時点で直ちに止めることの大切さは、日本でもよく引き合いに出される。


今秋に予定されるアメリカ中間選挙で与党・共和党が苦境に立たされている由。某世論調査では、現・連邦議会は信頼できないと回答した者の割合が9割を超えたというから、大統領自身より先に与党が先に崖っぷちに追い込まれている模様だ。

マア、分かります。そりゃ、当然こうなるワナとしか思えません。

とはいえ、必敗の状況の中、手詰まりになったト大統領になお選択可能な道がある(かもしれない)。

それは、ネタニヤフ・イスラエル首相を生贄(Scapegoat)に差し出すことである。

私はイスラエルに騙された。ネタニヤフが私に嘘をついたのだ。

と。イスラエル抜きで停戦し、イスラエルへの軍事支援を止め、パレスチナ難民への支援を強化する。


文字通り

君子、豹変する。

ユダヤ層とは亀裂が入るだろう。その一方で、アラブ系住民はト大統領を見直すだろう。

《史上最低の愚かな大統領》との評価は確定的になるだろうが、傷は最小限にとどめられるかもしれない。

うまく行くかどうかは分からない。そもそもト大統領、「君子」ではないはずだ。しかし、今歩いている道は「行き止まり」であろう。


起きる前の夢の中の話しである。面白いと思ったので覚書きまで。