比較的新しい朝の習慣になった読経と称名念仏だが、月曜以外は千遍念仏をしているというのは少し前に投稿した。
短寸の線香一本が燃え尽きるまでが大体30分、昔流にいえば小半刻になる。この間、反復して阿弥陀如来の名を称えると概ね千遍称えることが出来る。しかし、そのためには息を深く吸って十念を早口で繰り返す動作がいる。それが毎日になると疲れが出て来るのだ、ナ。だから、最近はゆっくりとした発声で称えることにしている。そうすると、線香一本が燃え尽きるまでに700回乃至800回の念仏となる。
法然の『一紙小消息』には
行すくなしとても疑ふべからず。一念十念に足ぬべし。
と書かれている。回数の問題ではないのだ、と。
ただ同時に
行は一念十念なほ空しからずと信じて、無間に修すべし。一念なほ生る、況や多念をや。
とも書かれている。
「10回でいいなら11回以上は無駄だベ」という屁理屈は、いわゆる懈怠心で結果にはつながらない。中途半端はゼロと同じである。それで(続けられる範囲で)多念を実行しているというわけだ。
この《行》を中止するという心理はまったくない。前にも投稿したが、
疑いなく善である意志、善である行為は何であるか?
それは、一つには仏道にそって歩むことである。何かの縁があったのだろう、そう考えたから始めたことなのだが、それにしては、称名念仏を終えたあとに、いま一つ《嬉しさ》がない。《満足》は確かにあるのだが、《往生極楽》という観念がスッポリと胸に落ちない。嬉しさにつながって来ない。極楽世界の実在についてロジックは通ると考えているし、それは現代思想とも整合的であると理解しているが、いくら自我は空であるとはいえ、自身の死を迎えるのは、いくら非物質の心は破壊されないとしても、やはり文句なしに淋しいものであるし、可能なら元気で長生きが出来ればいいなあ、という心理は否定できない。
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本ブログでも親鸞の言葉を記録した唯円の『歎異抄』は中高生の課題図書に最適だと何度も書いた記憶があるが、先日、読み直しているとこんな下りがあった:
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころ、おろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
URL:https://minamimido.jp/online/tannisho202507/
「念仏を称えても、喜ぶ心がおきません。はやく極楽へいきたいという心もありません。どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、「この心、私(=親鸞)も疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、(案に相違して)喜べないところにこそ、いつ死んでも往生極楽は間違いないと思わざるを得ない理由がある。喜ばねばならないことを、喜べないのは、煩悩のしわざである。阿弥陀如来は、凡夫の心を百もご承知で、それでも凡夫を阿弥陀仏国に救いとるという意志(=本願)を明らかにされている。故に、他力の悲願は、このような私たちのためであったとさとり、この事をいよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。
つまり、いくら称名念仏をしても心から嬉しくなるわけではない。これが凡夫の(低レベルの)心の現実である。阿弥陀如来が建てた極楽浄土世界の定義は『無量寿経』に記されているが、凡夫救済を本願にしているのは明らかである。
だから、自分の心が迷うからと言って
これでいいのか? これではダメだ。
と自分を責める必要はない。逆に、「だからイイのだ」と。
親鸞の念仏は、自らの意志と選択から積み重ねる修行ではない。阿弥陀如来の方から凡夫を救いとろうと手を差し伸べる、その事を改めて知る、というか思い出すための念仏である。『無量寿経』の「東方偈」の一句
其仏本願力
聞名欲往生
皆悉到彼国
自致不退転
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、
残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。
正にこの通りなのである、と。念仏を称えることは、阿弥陀仏の名を聞くことでもある。信じることと、称えることと、仏名を聞くことは三位一体であるというわけだ。
聞けば必ず救われる。自分の迷いが、逆に往生極楽へと救われることの確信へとつながるロジックが、ここに構成されている。
岩波文庫版『歎異抄』の第9章末にある注ではこんな風に書かれている:
念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に目覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。
まぎれもない《実存主義》である。巧みなまとめ方だ。
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法然の『一枚起請文』の最重要なポイントは
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
URL: https://www.chion-in.or.jp/okotoba/f23/
この一文である(と勝手に理解している)。法然の念仏は「往生するぞと思い取りて申す」ものである。「思い取りて」とは「自らが決心して」という意味である。
法然の他力本願は、確かに阿弥陀仏の本願を信じる他力思想なのであるが、
敢えてこの道を往くと自らが信じて決めるのだ
この点では相当に自力的である。自力本願の禅宗の信徒が座禅を選ぶ決意と本質においてどこが違うだろうか?
親鸞の他力本願は、いわば《ポスト一枚起請文》だと勝手に思っている。
思い取りて 思い取りてなお わがこころ
弥陀をうたがう 我が残れり
法然は《他の道を切って称える念仏》であるのに対して、親鸞の念仏は《切れない凡夫》の救いの念仏である(と勝手に理解している)。自分から極楽に往くのではなく、向こうから送迎に来てくれるはずだ、何故なら自分は凡夫で弱者であるから、と。自分の意志でなく、阿弥陀仏の意志が自分を救うのである。この意味では、親鸞の他力思想は100パーセントの純粋な他力本願の仏道であると勝手に思っている。
まあ、細かい付け足しをするなら、阿弥陀仏の意志によって自分(という凡夫が)いま念仏を称えているという理解より、(この世界に法身としているはずの)釈迦如来のはからいによって自分はいま発願し、念仏を称えて往生極楽を願うようになった、と。こう理解する方が『仏説阿弥陀経』にも忠実であるとは考えている。
いずれにしても、小生は、法然門下の弁長・良忠・源智の宗派に属するが、親鸞の思想を読んでいると、肩の力が抜けて、楽になるのは事実だ。