2026年10月24日土曜日

断想: 確かに称名念仏は「宗教改革」とも言えたと思うが

浄土系仏道ではいわゆる『浄土三部経』が基本的な経典となる。具体的には「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」の三つである。タイトルの頭に「仏説」がつくことも多い。

浄土系宗派には浄土宗、浄土真宗(真宗大谷派を含む)、時宗の三派が挙げられるが、それぞれがどの経典を重んじるかには、それぞれの特徴があるようだ。その辺の教理的論理については、小生も専門家ではないので詳細は知らないが、浄土系信仰の途を切り開いた法然は観無量寿経の意義を強調していたと理解している。これに対して、真宗の開祖である親鸞は法然の弟子ではあっても最も基礎的な無量寿経を尊重したそうである。親鸞にとっては無量寿経が教科書、観無量寿経と阿弥陀経は手引き、アンチョコとまでは言わないのだろうが、要するに参考書である、と。そんな位置づけであったと勝手に理解している。

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その観無量寿経は、家庭的な受難に苦悩する王妃・韋提希を救済する釈迦如来の様子を描いた小品である。釈迦如来は、数ある彼岸世界の中でも特に阿弥陀仏国、つまり極楽浄土に生まれ変わりたいと望む韋提希に

あなたは知っているであろうか。阿弥陀仏のいられるところがここから遠くないということを。あなたは思念を集中して、はっきりとあの仏土を観想しなさい。

と、こう語るわけだ。

平安時代に一大流行となった阿弥陀信仰では、発声して念仏を称える称名念仏ではなく、上の引用文のとおり心で極楽世界をイメージする観想念仏が重視されていたことが分かっている。当時のベストセラーである源信の『往生要集』がその意義を強調した念仏も観想念仏の方である。これが声を出して称える称名念仏へと転換したのは法然が現れて以後のことだ。

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小生が、不審に思っていたのは、極楽世界や阿弥陀仏を心の中で想像する観想念仏の方法を13通りの方法で語っていた釈迦如来が、その後に補足するかのように追加した第14観から第16観までの位置づけについてなのだ。

現在の経典解釈では、末尾の三つの観法は「散善顕行観」と呼ばれ「日常生活の中で心が散乱している状態の凡夫に向けて説かれた教え」だと解釈されているようで、故に凡夫救済を目的とする浄土系仏道では、最後の三つが大事なのである、と。第1観から第13観までは凡夫には実践が難しい観想念仏、凡夫でも最終的には救済の対象となると明記されている第14観から第16観が本旨なのだ、と。

こんな解釈が主流であると(何かの本で)読んだことがある。

それが不思議であったのだ。

なぜなら原典を読むと、王妃・韋提希は「死を免れない一個の平凡な人間に過ぎない」と釈迦如来は最初から話している。

第1観は「日想観」で、「西に沈もうとする太陽を観よ、目を閉じても太陽が心の中にあるだろう」と、釈迦の話はこう始まっている。「生まれながらの盲目でない限り見ることはできるのであるから」とも断っている。王妃・韋提希は盲目ではないことは明らかなのだから、ここは「あなたにも出来ることです」と云うに等しいわけだ。確かにこのような事は誰にでも出来ることであって何も難しい事ではない。

第2観は「水想観」で、清らかな水がテーマとなる。光や宝石がイメージされるが、同時に風が吹き渡ると共に美しい音も耳に入ってくる。そんな世界を想像せよというわけだ。視覚から聴覚へと想像する範囲が広がってくる。

具体的な描写は、確かに空想的ではあるが、そもそも神話というのは人が空想できる限りの事を書いているにすぎず、これらは比喩、ないしは象徴として読むべきなのだ。だとすれば、一つ一つの観想のやり方は、平凡な人間である韋提希にとっても、決して実践困難なことではないと思うのだ、な。

そして第8観は小生の好きな一節であり、その中にこんな下りがある:

諸佛如來、是法界身。入一切衆生心想中。是故汝等、心想佛時、是心即是 三十二相 八十隨形好。是心作佛。是心是佛。

諸々の仏・如来たちは、存在するものすべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの心想の中に入って来るからである。それ故に、あなたたちが心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相であり、八十の小相なのだ。この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。

Source: Wikisource 、現代語訳は岩波文庫「浄土三部経(下)」

心の中で思うことが、即ち心の中に仏が現れることである、と。小生にはこう読めるわけで、これなら平凡な凡夫である韋提希にも実践できる念仏であったはずだ、と勝手に理解している。

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末尾の三つの観法の意義は、善人から悪人までと言えばよいか、上等な人間から下等な人間までと言えばよいか、原典では「上品上生」、「上品中生」等々から「下品下生」までの人間の「九品」と表現しているが、全ての人間が、阿弥陀仏の救済対象となる、ということが書かれている。この点を改めて整理、明記することに狙いがあるのだろう。

ここまでは韋提希の願いに応じた個別のアドバイス、ここからがいわば一般論というわけで、クリニックで医師に診察を請うときもこんな感じで説明を聴くことが多い。浄土系信仰の本旨である凡夫救済の思想にとってはこの一般論が大変重要なポイントなのである。

最後の第16観である「下品三種の往生の観想」の最後にある「下品下生の者」とはいわゆる「極悪人」を指すのだが、こんな人間であっても

汝若不能念者、應稱無量壽佛。如是至心、令聲不絶、具足十念、稱南無阿彌陀佛。

もし(仏を)念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(=阿弥陀仏)を称うべし。かくのごとく、至心に、声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称えしむ。

「南無阿弥陀仏」という称名念仏によって、極悪人であってもその魂は救済されるのであることを、はっきりと明記しているのは、浄土三部経全体の中でも「観無量寿経」のこの「下品往生」の一節だけである。特に十念のあいだ声をして絶えざらしむと、発声の大切さに触れているのは「下品下生」、ただ一か所のみである。

なので、観無量寿経は後半こそが重要なのだというのは、確かにその通りなのであるが、上にも書いたように、「念ずる(=心の中でイメージする)ことができない場合は」とあるように、何も第1観から第13観までの観想念仏の意義が棄却されているわけではない。

声を出すことも大事だが、上に引用したように

心想佛時是心作佛是心是佛

即ち、

心で仏を想像するとき、心がそのまま仏となり、心が即ち仏なのだ

と。

「観無量寿経」全体の本旨はこちらにあるのではないか、と。こうも思われるのだ。

ちなみに第8観の次の第9観はいわゆる『真身観文』で、有名な

光明徧照 十方世界 念佛衆生 攝取不捨

の出所であり、小生もしょっちゅう読んでいる箇所なのだが、やはり好きなのは前の一節である第8観の方なのだ。

2026年10月22日木曜日

ホンの一言: 中間選挙後がむしろ心配されているようで……

アメリカの中間選挙が近づくにつれて、世評は《与党大敗》の方向でそろっている模様だ。

いま世界の過半数の人々は、共和党敗北を希望しているはずである。


とはいえ今の懸念は、トランプ大統領が敗北を認めず、アメリカの公職選挙法はどうなっているか調べるつもりもないが、不正選挙を理由に結果を受け入れないという可能性にある(ようだ)。


第一次トランプ政権の終焉時、大統領選挙の敗北を認めず、連邦議事堂をターゲットにクーデターまがいの扇動をした挙句に、最後には責任を回避しようと懸命になったという醜態をまたもや再演するかもしれない。

歴史は繰り返すのである。同じ俳優が同じ舞台にいれば同じ演技になるのは当然だ。


そうなればアメリカへの信頼は文字通り地に落ちるであろう。

どんな情況になっても日本は最後まで付き合う(?)のだろうか?

一体、高市首相とト大統領が合意した対米巨額投資の行方はどうなるのだろうか?

日本企業が構造汚職に巻き込まれるなどというリスクはないのだろうか?


いやはや不信と不安の種は尽きない。

とにかく、ト大統領ご自身に何もなければ、中間選挙が終わっても《あと2年》は同じ時代が続くのだ。

2026年10月21日水曜日

断想: 「ジェンダー平等」は真剣に分析されているのだろうか?

分析的・実証的な研究なく、ただ一つの価値観をただ主張する姿勢は、まず賞味期限3年ないし4年で、その後は世間からは忘れられて行くものだ。少なくとも真っ当な考察を引き受ける一流の人材は現れないものだ。


日本でも《男女雇用均等法》が成立して以来、男女雇用均等がジェンダー平等論に結びつき、ひいては現時点の「愛子天皇熱望論」にもつながっているようなのだが、前にも投稿したように、日本の男女雇用均等政策というのは、多分に男性労働力人口の先細りに何とか国内人口だけで対応したいがため、誰もが賛同するはずの大義名分として唱えられたもので、そこには本気でジェンダー平等を目指す社会思想、あるいは哲学的・理念的な思想の裏打ちというのは、乏しかったと思っている。少なくとも、ジェンダー平等を実現しようという真剣な覚悟が先にあったとは言えない、そう思っているのだ、ナ。

日本でも女性首相が登場し、女性天皇も世間(の一部?)からは熱望されているのが最近の状況だ。手続き上の正当性に疑問が付されているものの、東京大学にも初の女性総長がお目見えするかもしれないご時勢なのである   ―   これまでは通用した「女性だから」という決定理由は次第に通らなくなりつつあるのが現時点の世相ではあるが。

しかし、日本社会の全般を虚心坦懐に俯瞰する限り、反・家父長制、反・夫唱婦随、等々、時系列的には古いと言われる《伝統的価値観》は、この日本でもそうそう簡単にはなくならないのじゃあないか、そんな感覚が小生にはある。

高市的政治家は、これからも出現しうるし、《保守反動》も定着してメインストリームになってしまえば、もはや「反動」とはいえず、「新しい時代」と呼ぶべきかもしれない。「戦後日本」という一つの時代は、日本だけではなく、世界をみても、いまようやく終わりつつある。そんな感覚を持つ人は小生だけなのだろうか?

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一体、《ジェンダー平等》というのは、どのような内容を含むのだろうか?

というより、男女の性別格差というのは、歴史を通して何故、どのように形成されてきたのだろうか?

ジェンダー平等というのは、小生の不勉強でなければ、近代ヨーロッパで芽生えた「平等なる個人」、「個人の尊厳」という啓蒙思想が発展して辿り着いた倫理的価値観で、いまでは政治的価値観でもある。小生はそう理解しているのだが、この近代ヨーロッパが生み出した市民社会なるもの、それを支える平等なる個人という理念は、どのような根拠に基づいて「正しい」と認識されているのだろうか?

思うに、少なくとも

市民社会が正しい社会で、市民社会は平等なる個人によって支えられるというのは、実証的・科学的に証明された結論ではない。

ずっと以前からそう考えてきたわけで、何度も本ブログにも投稿してきた(旧い投稿例はこれか)。何も反・民主主義者ではないが、かといって親・民主主義者という自覚もないと、ここでは書いておこう。

人類の(文字で記録された)歴史の中で古代史は始まりから崩壊までが完結した唯一のサンプルとして非常に有用である、というのは多分トインビーの言だと記憶している。そんな観点からみると、古代ローマは、長い歴史の中で王政、共和政、帝政をこの順序で全て経験したが、同じ変化は古代ギリシアの都市国家・アテネにも言えることで、古代アテネは王政から貴族政、僭主政を経てから、紀元前6世紀末にやっと民主政へと移行した。その後は、反アテネ陣営とペロポネソス戦争を戦った末に敗北し、最終的にはマケドニアのアレクサンドロス大王に征服されて、独立した国家としての歴史を終えた。

非民主国家から民主国家へ「進化した」というのは、ヨーロッパ近代史の描写であって、決して歴史を通した普遍的な命題ではないわけだ。

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こんな問題意識が、実は日ごろ愛読しているデロング先生の投稿にも取り上げられるのを見るのは、非常に興味深い。最後の結論部分を抜粋させてもらうと、

We live in an era of rapid technological advances, and yet women’s lives, safety and status still vary enormously across world regions. To tackle actually-existing patriarchy, we need to recognize this heterogeneity, and develop tools which help us understand its persistence. Going forwards, I suggest that qualitative insights into different societies can help ground our inquiries, so we can build innovative datasets that capture what really matters. Further, we could scrutinize LLMs to ensure that they do not pink-wash the patriarchy.

私たちは急速な技術進歩の時代に生きていますが、世界各地における女性の生活、安全、そして地位には、依然として極めて大きな隔たりが存在します。現実に根を張る家父長制に対処するには、こうした多様性を認識し、なぜ家父長制が存続し続けているのかを理解するためのツールを開発する必要があります。今後は、さまざまな社会に関する質的な知見を研究の基盤に据えることで、真に重要な側面を捉えた革新的なデータセットを構築できるはずです。さらに、大規模言語モデル(LLM)が家父長制を実態以上に好意的に見せかけるような「ピンクウォッシング」を行っていないか、精査していくことも求められます。

Source: substack.com

Author: Brad DeLong

URL: https://braddelong.substack.com/p/crosspost-alice-evans-stop-pink-washing

いわゆる《家父長制社会》という社会自体は、なぜ形成されたのだろうか?

この問いに対する信頼できる解答は多分まだ得られていないはずだ。しかし、家父長制社会が一度形成されて、その社会システムが理に適った社会として定着し、維持されれば、その中で、社会の現実のあり様は正しく、善であり、故に誰もが善なる規範を尊重して行動するべきだ、と。そんな議論が正当性を獲得するはずである。

この点では、下部構造が上部構造を決めるマルクス的社会観を依然として信じている自分がいる。

とすれば、なぜそもそも男性優位の家父長的社会が世界で広く形成されるに至ったのか?

確かに、ごく最近はポスト家父長制社会への胎動であるかもしれない。とすれば、なぜ最近になって家父長制を超える社会システムが求められるようになったのか?それはどんな意味で解体を超える創造でありうるのか?

今後の問題としては、非常に面白い課題だと思う。


2026年10月17日土曜日

ホンの一言: アメリカ経済に明るい未来なし?

反トランプ、というより反も親もないと言えるほど、客観的経済状況の変動はもはや方向が明らかなのだが、クルーグマン先生はインフレ再燃の酷い状況を指摘している。

War is peace. Freedom is slavery. Ignorance is strength. Inflation is down. Or at least that’s what Donald Trump says.

戦争は平和。自由は奴隷制。無知は力。インフレは下降。少なくともドナルド・トランプはそう言っている。

URL:https://paulkrugman.substack.com/p/the-bad-news-on-inflation-just-keeps 

こんな風に書きだした後、

上の図を見ながらこう書いている:

My basic point — that Trump inherited a relatively benign inflation picture and threw that inheritance away with his tariffs and war — is even clearer from the PPI than the CPI. And the PPI is often a leading indicator of future consumer prices, so there’s no relief visible in the near future.

私の基本的な主張、つまりトランプ氏が比較的穏やかなインフレ状況を引き継ぎながら、関税や戦争によってその状況を台無しにしてしまったという点は、消費者物価指数(CPI)よりも生産者物価指数(PPI)を見ればより明確です。そしてPPIはしばしば将来の消費者物価の先行指標となるため、近い将来に改善の兆しは見られません。

来月の中間選挙では共和党の大敗が予測されているが、たとえトランプ与党が議会で大敗したとしても、 日本とは違ってアメリカは三権分立に基づく大統領制である。内閣不信任も問責決議もできない。

立法府が行政府の意思決定を抑え込むのは不可能で、せいぜいのところ大統領弾劾に向けて議会審議を進めることくらいだろう。

その間に、経済状況は決定的に悪化してしまう可能性があり、それでもト大統領は自分の非は認めず、事態悪化の責任は共和党を支持しない愚かなアメリカ国民にある、と。自分は善意でアメリカの偉大さを取り戻そうと努力してきたのだ、と。

多分、こんな展開になるのではあるまいか?


2026年10月16日金曜日

ホンの一言: 道新のスパイ容疑と高市首相の「そんな事実はない」

サハリンに駐在していた地元紙・北海道新聞(=道新)記者が《スパイ容疑》でロシア政府に拘束された報道があったのは数日前か。

本日、外交ルートで日本政府に拘束の事実を通知してきたようだ。

ロシア側の主張は

当該記者は日本の情報機関の指示に従って、サハリン、千島列島地域からウクライナ軍事作戦にどの位の人数が送られたか、あるいは志願していったかを取材していた。これはスパイ活動に当たる……

と。これに対して、高市首相は

そのような事実はない

と述べている(と報道されている)。

日本国内の大方の人は、

首相も否定しているようにスパイ活動をしていたわけでもないのに、ロシア政府は無法にも日本人ジャーナリストを逮捕・拘束した。

そんなトーンで反応している(ように見える)。


奇妙なやりとりではないか?


ロシア側は(日本語訳を引用するのは不勉強だが)

ロシア連邦保安局(FSB)は2026年10月13日、ロシア極東サハリン州の州都ユジノサハリンスクに駐在していた北海道新聞の日本人男性記者を、スパイ容疑で拘束・逮捕したと発表しました。

こんな風に、

ロシア極東サハリン州の州都ユジノサハリンスクに駐在していた北海道新聞の日本人男性記者

と述べている。

TVのワイドショー辺りでは「北海道新聞はサハリンに記者を常駐させていたんですか」と確かめるレギュラー・コメンテーターもいるようだが、小生も同じ感覚だ。札幌市の姉妹都市であるノボシビルスクや、小樽の姉妹都市・ナホトカなら分かるが、なぜ樺太のユジノサハリンスクなのか?何か取材価値はあるのか?

そんな感じはする。


というより、

本当に、くだんの記者に日本側の情報機関は、何の接触もしていなかったのか?

そんな訳はないんじゃない、と小生は感じるのだが、違うのだろうか。

高市首相は

そんな事実はない

と断言していたが、まるでそれは薩摩藩で捕らえられた公儀隠密について問いただされた幕閣が

そのような者は知らぬ

と、知らぬ存ぜぬで、トカゲのしっぽ切りを押し通す首脳の姿を連想してしまいます。


実際、もしも上記記者が日本の情報機関とのやりとりを認める供述をすれば、日本では未曽有の大スキャンダルになり、水面下で処理できなかった高市内閣の総辞職はもちろん、日本の国際的地位も少なからぬ打撃を蒙るに違いない。

仮にそうなっても政府首脳は

当該記者の供述は事実ではなく、ロシア側の厳しい取り調べに耐えかねて、不本意にも口にしているものと推察される。

こんな風に言うに違いない。こうなると互いに引けない水掛け論であります。

逆に言うと、水掛け論にはならないように、ロシア政府が日本政府を(水面下で)恐喝する材料に使われる可能性もあるわけで、真相はどうなのか、誠に気になるわけであります。


それにしても、日本のマスコミというのは、セクハラ、パワハラ、モラハラなど特段の犯罪でもない《ハラスメント》については、火がついたように噛みついて離れない執着を示すのに、国益の事になると食いつくどころかまったく無関心であるようなのは何故だろうか、と。そこが不可思議なのである。

国民感情の厳しい現実を反映しているのか…?まさか、ネ。単なる営業だと思いたい。

2026年10月13日火曜日

断想: 「声の記憶」について

先日他界した母方の叔父の満中陰が済んだ旨、叔母から電話があった。従妹とも久方ぶりで、というより10年以上の間をおいて、話すことが出来た。

前にも投稿で書いたことがあるが、人間の感覚の中で聴覚が最後まで残って働くそうである。従妹は叔父が臨終を迎えるその時、叔父が好きだと話していたチャイコフスキーの交響曲第5番を聴こえるように再生してあげたそうだ。するともう意識がないかのように見えた叔父の目から一筋の涙が流れ出たそうである。電話の向こうでそう話す従妹の声は、叔母の声と不思議なほどに似ていて、聞いている小生は何だか胸が熱くなった。

音というのは、いつまでも記憶に残るものである。叔父の顔や佇まいは勿論のこと視覚された映像として覚えているが、声音ほどに生々しいものではない気がする。

夢にみる父や母がいかにも夢であるようなのは、一つには声を出していない、少なくとも夢の中で声を出して小生と話をしてはいないからであろう。実際に声を出して話をしていれば、それは寝言になる理屈だ。目覚めてから夢の中で話していた母の声が耳の奥に残っていることは一度もない。

というより、不思議なのは母の声よりも父の声の方が今でもありありと思い出せることだ。母の声は、覚えてはいるが、父の声よりは遠い。男性は男性の声をそのままに記憶するのだろうか?


「古今和歌集」にあり、「源氏物語」の「桐壺」でも挿入されている和歌

むばたまの やみのうつつは さだかなる 

     夢にいくらも まさらざりけり

現代語訳: 真っ暗な闇の中での現実は、はっきりした夢に対していくらも勝らないものだ

URL:https://note.com/chinomiyuki/n/n4e9f13671874

古今集の歌に対して、紫式部は更衣と死別した桐壺帝の嘆きの深さを「決して歌の通りではない」と悟らせることで表現している。小生も源氏物語に同感だ。真っ暗闇で姿形は見えずとも「さだかなる」というのは、つまり声を出して話してくれるから、それも二人の間でのみ意味が通じる事を話してくれることで、その人がそこにいると知れるからである(と勝手に解釈している)。もしそうであれば、姿だけの夢よりは、やみのうつつの方こそずっとまさるものだ。

小生に電話があったのは、葬儀が過ぎた後だったので、般若心経の写経と伽羅の線香を送ってくやみとした。写経だけでは「温もり」がないので、竹の水墨画を一つ同封した。喜んでくれた様子であるのは大変うれしかった。が、水墨画はまだ新米なので、人に贈る代物ではない。恥ずかしくもあった。

油彩、水彩を趣味としてきたが、筆・硯・墨・紙のいわゆる《文房四宝》は、これらと併せて使う水と共に、日本人の文化的生活の古層を為すものだ。写経を新しい習慣とするのに伴って、日本的生活の古層を味わうことが出来ているのは、予定外の収穫である。


人間の記憶に古層があるのと同じ理屈で日本人の精神的生活にも古層があるのだろう。とすれば、日本社会に古層というものがあるということだ。

古層を自覚しない創造・発展はありえないと思う。バブルと同じである。

2026年10月11日日曜日

断想: 曲がり角を曲がりつつあるというのはこんな感じか

昨日は隣町までレバンガ対ジェッツ戦を観にカミさんと二人で出かけて行った。試合はレバンガの動きに切れがなく、それでも最後に追い上げたものの、6点差で負けた。ジェッツの堅い守備を破れず、囲まれてつぶされるか、苦しくなってスリーポイントを打っては外れる、そんなパターンで時間だけが過ぎた。たまにB.Leagueを観るとスカッとするが、強豪を倒してくれると満足度も飛躍的に上がるものだ。頑張ってほしい。来月は佐賀のバルーナーズ戦を観に行く。多分勝ってくれるものと期待している。

高市首相の支持率が高止まりしているのも、小生のレバンガ推しと似ているところがあるのかもしれない。負けても応援、勝っても応援、一生懸命やっている間は応援させてもらいます、という意味でいわゆる《推し》なのであろう。


特に、高市外交には(どこの世論調査だったか忘れたが)6割の支持があるという。噴飯ものというよりは、絶句を禁じ得ず、多少の怖さが混じる。

そういえば、1941年12月8日未明の真珠湾奇襲成功を臨時ニュースで聴いた日本国民の大多数は、胸のつかえが落ちるようなスカッとした気分になったと語り伝えられている。

バスの中で周囲の人に「いよいよ始まりましたね」と話しかけたくて仕方がなかったものの、自分だけが興奮しているように思われ、黙っていたというのです。

さらに、欧米の一流国と戦うことによって初めて日本人が世界の一流国民としての自覚を得られる、という趣旨のことまで書いています。

ChatGPTがこう紹介するのは、文豪・伊藤整である。

世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。

こう書いた詩人・高村光太郎は「開戦を、世界史を画する重大な転換として歓迎しています」と述べたことが紹介されている。

一般国民は「長年の胸のつかえが取れるような爽快さを感じた」というのは、小生の亡くなった父が時々話していたことである。 

多分、満州事変に対する対日バッシングと国際連盟脱退で不満と不公平感、閉塞感を感じていた日本人は、《状況の一挙打開》を目指した行動に興奮を感じたのだろうと推測している。

こんなところが(当時の)アメリカ人には気色悪く感じられ、無謀を軽蔑する心情とともに、GHQのマッカーサーが戦後も数年経過した時点で米議会に

科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである。

と述べたことにもつながっているのかもしれない。

決してロジックと計算を密に重ねる老獪さではなく、どちらかといえば少年のような純真さを尊ぶ日本人の集団的性格は、「あの頃」から何も変わっていないのかもしれない。

小生は、昔から集団との協調が苦手科目であったから、いまの世相には危なっかしさを感じるのみである。


同じ右翼でも安倍元首相とは違って、高市首相がとるハッキリした反北京・反モスクワ姿勢(更に、反・旧連合軍?)は、日本との持久戦から降りようとしない中国・国民党の蒋介石に対して

国民政府を相手とせず

和平への途を日本の方から断ち切った当時の近衛文麿首相と何だか面影が重なっている。純粋は、高貴ではあるが、同時に幼稚でもあり、愚かさにも通じるのだ(と勝手に思っている)。

日本人は、明治維新の頃から、いやもっと昔から、老いより若さを愛する性癖がある(と勝手に思っている)。それは別にどうでもよいが、時間の価値増殖効果への無頓着は、旬より初物を好み、古酒より新酒を好む趣味をつくる。小生には浅くしかみえないのだ、ナ。

近衛首相も、大衆からの支持が高く、言葉は明快。「推し」の対象になりやすかった人柄だったのだろう。竹下元首相の「言語明瞭、意味不明了」は、これに対して、政治の職人であった同首相の雰囲気がよく表れている。