2026年4月19日日曜日

断想: 『アメリカン・デモクラシー』が(改めて?)世界から注目される時代?

人口学者兼歴史家というべきかフランスのエマニュエル・トッド氏は、政府関係者が好んで使う《日米同盟》について、本当に「同盟」なのか?実態は「占領国&被占領国」の関係性が続いているだけではないか?こんな根本的な(?)疑問を投げかけているのが最近の言論界であります。

ただ厳しい問いかけをしても日本社会の空気を変える実効性はないのだろうナアとは思っている。

日本の若手現役世代には、

一身独立して一国独立す

こんな『文明論の概略』で主張された福沢諭吉的な独立精神はもう刺さらないような気がする。

これには時代背景があるわけで、そもそも高齢層とプレ高齢層を含めて、独立精神などは皆無ではないかと指摘する人も多かろう。実際は

独立どころか国家依存性がますます強まっている。

これが事実じゃあないか、と。社会保障という人工呼吸器で老後の生活を送っているのが、現代日本の高齢層の現実だ、と。我が道を行くどころか、巨大組織の歯車になる方を選ぶ性向はますます強まっているような社会観を小生はもつようになった。

国家、社会と言っても所詮は他人の集団である。その他人に《弱者に寄り添う優しさ》を自ら求めて恥じないエートス(=気風)が最初から肯定されるようになった。独立精神を求める要請はいつの頃からか冷酷であると退けて、《独立の尊厳性》を語る気風も否定されるようになった。高齢者が何の恥らいもなく他者依存精神を発揮しているのに、若い人たちにのみ独立精神を求めても説得力はないわけである。

日本社会が他者依存精神でまとまるに伴い、外交もまたアメリカ依存、アメリカ追従の一択で恥じないわけであります。

日本国が国際化すれば、「先祖代々の絆」には共感しようもない外国人在住者や二世たちが増える。すると個々人の独立志向が再評価されるであろう。だからこそ、これ以上の外国人増加は困る。他者によりかかる日本人集団が移民政策を本能的に嫌う根っこはここにある。そんな風にも思うわけであります。

依存すること自体に恥を感じなければ、対米従属は心地よい安心感を醸し出す仕掛けとなる。たとえ実態が「同盟」ではなく「占領」に近いものであっても

背に腹はかえられぬ

と合理化が出来る。経済学でいう《習慣形成効果》が国民行動にも作用するわけだ。

ところが、ロシア=ウクライナ戦争を煽っておきながらウ国のゼレンスキー大統領を公衆の面前で『あなたの国にカードはないンだ』と侮辱する、イラン攻撃に否定的なヨーロッパを口汚く罵るといったトランプ大統領の登場を契機にして

本当に「日米同盟」なる関係性が日本とアメリカにあると日本人は思っているのか?

こんな事までが話題になってきたというのが、正に今日的な状況であるわけだ。

現在の混乱はトランプ氏の個人的属性に由来すると観るのも可能であるし、日本やヨーロッパのNATO加盟国はそんな「次に期待する」待ちの姿勢かもしれない。

もともとト大統領を"The Worst"(=最悪)と判断していたクルーグマン博士は

Trump Can't Even Surrender Right

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/trump-cant-even-surrender-right?

こんなタイトルをつけてネットで語り、

But, my God, like I said, we are led by people who not only can’t plan a war right, they can’t even successfully execute a surrender. And that’s a really bad omen, not just for the Iran conflict, but for everything else.

しかし、まったく、先ほども言ったように、我々を率いているのは、戦争の計画すらまともに立てられないだけでなく、降伏すらまともに実行できない連中だ。これはイラン紛争だけでなく、あらゆることにとって、実に悪い兆候だ。

と結んでいる。

経済学史に詳しく比較的冷静な論評を書くJames Bradford DeLong博士は、同じくsubstack.comで

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://braddelong.substack.com/p/how-will-future-historians-describe

こんな風に、トランプ政権を《猿山レベル》と述べ、はっきり「問題外」としている。戦前のコメディアン・グループ「マルクス兄弟」に似た存在を日本で求めるとすれば1970年代の日本で笑いを提供した「ドリフターズ」辺りが有力候補かもしれない。

アメリカ人もこう言っているのだから、客観的にものが言えるはずの日本人はもっと無遠慮に「猿!」と罵倒してもよい理屈だ。ト政権を指してDeLongは「猿」と言っているし、Krugmanはト大統領を「嘘つき」と言っている。

同じことを言う人が日本にいてもよいはずだ。ところが、政府関係者はもちろんとして、有識者、専門家を探しても、そんな人は日本に一人もいない。我慢しているのかもしれない。遠慮しているのかもしれない。まるで「裸の王様」の前で声を上げない大人たちのようである。それとも日本もまた同じ種類の《猿》を推しカツしているので、「猿」が「猿」であることが、ほとんどの人には認識できないのかもしれない。だとすれば怖いナアと思うのであります。

小生の高校、大学時代は学生運動華やかなりし時代で、先輩たちは《アメリカ帝国主義反対》、《打倒米帝》などというプラカードをもって大規模デモを繰り広げ、キャンパス内の学内設備を破壊して回ったものである。幼稚ではあったが、独立精神の表れだと自惚れた団塊の世代も、いまは他者依存の気風に染まってしまったのだから、変われば変わるものである。

背に腹は代えられない

日本社会はひたすら《合理性》を追求している(つもり?)かもしれない。しかし、合理性という点だけでいえば、猿も合理的に行動するし、アリやハチは十分に集団合理的である。他者依存から発していても行動が合理的でありうるのは可能だ。

いずれにせよ、現代日本人が共有する国民心理は、この30~40年で一変してしまった。実に歳月怱々。

明治維新前後に40歳以上であった人物は世の役には立たず、明治を支えたのは討幕・維新の時点で10代の少年たちであった世代だと言われる。

世代交代の加速が日本再生への早道かもしれない。

率直に言って、いま現在、トランプ大統領がアメリカ合衆国の大統領として現に仕事をしているという事実そのものが、アメリカン・デモクラシーの本質的危うさを証拠立てるものである。

こう考える人は世界に多いはずである。かつて『アメリカの民主主義』を書いたトクヴィルもこんな問題意識をもっていた。

中国が仮に普通選挙を基盤とする民主主義国になるとして、多くの日本人はそれを歓迎するのだろうか?

小生は不安だ。

本当に14億の中国人が民主主義の手続きによって外交、国防政策まで決めていくのか?大丈夫なのか?共産主義だろうが何だろうが、むしろ有能なエリートが指導する現在の中国的統治の方が世界にとって安心できるのではないか?

小生は、こんな風に思うし、案外多くの日本人も民主主義国・中国に不安の念を共有するのではないかと想像している。

バカが偶々権力の座に就くことは専制君主制の下では世界史に無数の前例がある。が、普通選挙で指導者を選ぶ民主主義国でもバカが権力を得る事態は十分にありうるわけだ。バカが決して権力の座に就くことはないというシステムが必要な理由がここにある。いくら限界があっても(万国共通の尺度である)頭脳優秀なものを選抜する制度の方が、理性をバカにする本当のバカが権力を握るよりは余程安全であろう  ―   それも相対的に、ではあるが。

 



2026年4月15日水曜日

断想: 葉桜の候、旧友の墓参りをする

 N.O.君は高校の同窓以来の旧友というより、本当に親しくなったのは大学院に入った直後、O君の方から『お前、〇〇だろ?高校で同じクラスにいたよな?』と彼の方から声をかけてくれた以降のことである。それからは磐城高校を出たY.S.君を入れた小生たち三人は、授業の合間で時間が出来るたびに、大学の門前にある喫茶店兼和菓子店で長談義にふけったものである。

当時、どんな話題であれほど長い時間、話すことが出来たのか、おそらく複数のバラバラの話題に飛びながら、連想ゲームのようにそれぞれが勝手に色々な事を話したのだろうと思うが、小生にとってはそれまでに経験したことがない程に愉快な時間であったことは記憶している。


そのO君が昨年の夏八月に急逝したことを知ったのはS君からの電話であった。小生が暮らす北の港町では雪模様の暗い日が続く二月のことだった。

小生は、数年前に年賀状じまいをして、SNSで元日の挨拶をすることにした。それでもO君からは年賀状が届き、小生はもらってから返事を書くというやり方に変わっていた。ところが今年に限り、O君からは年賀状が届かなかったので、不審に感じていた。そんなとき、S君から電話があったのである。

O君は、よく言えば非常に個性的な快男子で、世間に関しては非常に批判精神の強い傾向をもっていた。元来は経済学から研究を始めたのだが、Ph.Dの学位は国際関係論でとった。その学位も、はじめは(大人しく?)ある国際経済協力機関に就職したのだが、社内留学して会社を辞め、その後はパキスタン大使館の専門調査員(?)という資格だったかで、日本を留守にしていた。そうこうしているうちに米国の大学に留学して、本式に研究者の道を歩みたいという気持ちが強くなったのだろう、かなり齢をとってから留学をして、学位を無事とったのだ。結婚もアメリカでしたはずである。しかし、日本に残る母親を心配する気持ちが強かったのだろうか、何年かぶりに日本に帰国するときには既に離婚をしていた。

日本に帰ってから教職のポストを探すのに苦労をしていた時期があったが、ちょうどその頃、小生は小役人から足を洗い、北海道の小さな大学に転職していた。彼から相談を受けたこともあるが、微力な小生は何の力にもなれず、それでも神奈川県にある私立大学に教職の地位を得たことは、O君の母上にとっても大変な喜びであったに違いない。

一度、あざみ野にある大学までO君の研究室を訪ねたことがある。研究室の広さに驚いている小生に『理系の学部だからサア、広いんだよ』と説明していたO君の声音がまだ耳の奥に残っている様だ。

その後も、小生が上京するごとに、O君にS君を加えた三人で、横浜の中華街で、あるいは浅草で、あるいは銀座で食事をともにして、社会や経済について、果てしのない議論をしたものである。O君は、現代日本社会には絶望的なほど厳しい見方をしていて、呑気な小生とは常に見方が対立していた。

O君の母親思いは格別のもので、毎年秋には奈良の正倉院展に出かけ、湯河原温泉には何度二人でいっていたことだろう。イタリア旅行も楽しい思い出であったに違いなく、こと親孝行という点でO君に思い残したことはなかったはずである。

ブログやSNSを始めるきっかけになったのも、O君から『日本は民度が低いのじゃないか』と、ちょうど日本が小泉内閣の下で長年の不良債権問題にケリをつけた時期であったか、O君から刺激を受けたからである。O君は、人には「遅れている」と叱咤しながらも、自らはIT知識にうとく、ブログもSNSも身につかずじまいで終わったのが、小生にとっては非常に残念だ。それでも、いかにもO君らしい文章が投稿回数は少ないながらもネットにはまだ残っているので、抜粋引用して記憶にとどめることにしよう。

冷戦後の北東アジアの地域国際環境の変化を考えれば、日本は当然憲法改正を行うべきである。そして、自衛隊を軍隊と明瞭に位置付けた上で、必要な対応を行う必要がある。

・・・

このやり方自体の是非をめぐって、日本国内で大騒ぎになっているというのが、現在の状況である。

一方、対応の方法そのものの是非ではなく、日本が置かれている状況にどう対応すべきかについて、日本国内でまともな議論が行われているとは到底考えられない。

国際環境の変化とそれへの対応のあり方についての冷静な議論と理解が不足する中で、対応の仕方そのものについて不満が高まるという現在の状況は、百年以上前の日露戦争終結のためのポーツマス条約の締結をめぐって、交渉団の帰国時に起きた日比谷焼打ち事件とほとんど同じ状況である。

日本は100年前と同じことを繰り返している、未成熟な国家と言われても、反論する余地は無さそうである。

安倍内閣による「集団的自衛権の容認」と「安保法制」が国会を通過した頃の投稿である。いわゆる《解釈改憲 》の危険性に義憤をあらわにし、欺瞞を押し通す政治家をO君は心底から嫌っていた。これを唯々諾々と受け入れる現代日本の大衆には絶望していた。

現実を前にして平気で原則を捨てる現代日本社会の不誠実ぶり、厚顔無恥ぶりに呆れ果てる心情は、O君と奇妙に共通している。更に、《条文解釈》によって憲法は自由に改正できるという日本人独特の思考回路が可視化されたことから次の文章も出て来たのだろう。

これらの状況を考えれば、今日本が取り組まなければならない問題は憲法改正であり、改正後、自衛隊ではなく、日本軍の存在を憲法で保障し、その上で東アジアで起きている地域国際安全保障問題に対応するというのが、本来なすべきことの流れである。

それにもかかわらず、今回安倍政権が、国民を守るために必要と主張し、集団的自衛権解釈見直しを含め、本来改憲した上でなすべきことを、改憲せずに強引に進めたことは、将来の日本にとって極めて大きな問題をもたらすことになった。

それは、国民の理解と支持を得られないまま、憲法改正が前提となるべき措置を取ったことで、国民が憲法改正について大きな疑問、強い批判を招いた結果、国民が憲法改正に関して否定的な気持ちを一層強めたことである。

自衛隊の明記でなく「国防軍」を憲法によって規定するのが採るべきロジックだろうというのは、小生もずっと以前に投稿したことがある。

自衛隊は憲法が保有を禁ずる「武力」には該当せず

という詭弁は、日本国内では通じても、世界では通じない。そもそも意味を曖昧化することには便利な日本語では表現できても、論理的な英語には訳せない文だ―おそらく陸上自衛隊は"Force"であって"Army"ではないというのだろうが、航空自衛隊は"Air Self-Defense Force"だから、呼称からして立派な"Air Force"(=空軍)だ。というより、その行動内容を目で見れば、使用している戦闘機、ミサイル等々武器ともども、国防に任じられる米空軍、韓国空軍、英空軍、独空軍などと共通であって、だからこそ《共同訓練》も実施可能と考えるのがロジックというものだろう。要するに、「自衛隊」の実質は「日本軍」である。

一言でいえば、戦後日本の民主主義はアメリカから輸入した「押しつけ民主主義」であって、民主主義を運営するべき大衆は、大勢に順応することを考え、是非善悪を自ら考える何の主体性も持てなかった、と。詰まりはこういうことかもしれない。「動かざる原点」を特定の一点に決めないでおく《相対主義》、《状況主義》、《機会主義》は日本文化の核心でもある(と勝手に思っている)。

それまでの理屈を捨て去って、その時々の《直観》や《空気》から行動方針を一変させる日本的突発性はこんな所に根拠があると勝手に解釈している。剛直なO君が絶望するのは自然なことである  ―   日本的特質も悪い側面ばかりではないと小生は感じているが。


先週末にO君の墓参りをS君と二人でした。鎌倉まで行ったその日は気温こそ27度前後に上がったが湿度は低く、しのぎやすい快晴であった。苑内の桜は既に葉桜となり、2メートル乃至3メートルの風が吹き渡るたびに、花片が舞っていた。丘の斜面の高い処に位置するO君の墓は探すのに手間取ったが、人出は少なく、森閑とした中で墓前に香を焚き合掌することが出来た。

旧友の墓参はやはり独りではなく、二人でするべきものだと感じた。


 

 

 



2026年4月8日水曜日

断想: イスラム教とユダヤ教の宗教対立を理解するのは甚だ困難?

アメリカ=イスラエル枢軸とイランとの戦争は、イスラエルが戦争継続を希望しているにも関わらず、どうやら内部で決着がつき、ひとまず停戦ということになったそうだ。

これが一時代前の時代劇なら「祝着、祝着」と多くの人が喜ぶ場面だろう。

ただ、アメリカが和平を希望しても、戦争を願望するイスラエルが米軍の偽装をしてイラン兵を殺害する。もしくはイラン軍の偽装をして味方の米兵を殺害する。その位のことをイスラエルはやりかねないンじゃないか、と。そんな心配をする人もいるそうな。

ユダヤ民族に対するイメージは、この10年程の間に大きく変わってしまった。


イスラム教のモスクですら自宅の近くにできるのを嫌がる人がいる。イスラム教の印象は(日本では)非常に悪いが、これには、殺戮の続く中東やアルカイダというテロ組織、パリで起きた自爆テロ事件の凄惨さが記憶に残っているからだ(と思われる)。

ユダヤ人は苦しみに満ちた亡国の歴史をたどってきた。特に第二次大戦後はそう思われてきた。が、この数年間でイメージは大きく変わってしまった、ネガティブな方向へだ。

ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグの建設計画に猛反対する日本人はこれから増えるであろう。イスラム対ユダヤの民族的抗争、というか宗教対立をこの日本に持って来られるなど真っ平である、と。そんな警戒感が、本来はユダヤ教の普遍化バージョンであるキリスト教に対してすら感じてしまう日本人が増えるかもしれない。


日本人は無宗教だとよく言われるが、初詣や初宮参り、七五三などを観ても、実はそんなことはない。一つ言えるのは、日本人の感性は多神教的であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など一神教の宗教心理とは大きく違っているという点だ。

思うに、多神教と一神教の精神的文化には本質的違いがある。感性には乗り越えがたい溝がある。ロジカルに考えれば、多神教の国では「神の言葉」は唯一ではないので、それ程の重みは持たない。むしろ神々の言葉は矛盾に満ちているのが当たり前と考えられる。「神の意志」は唯一ではないのだ。

《神の示した真理》という観念は、ここ日本においては存在しない。故に《啓示》なるものもない 。但し「ある事柄に対して真理は一つ」。これは同じだ。しかし、その永遠の真理を唯一の神が人類に伝えるという理屈にはならない、多神教の国にあっては当然そうなる ―   庶民的な「神のお告げ」がローカルな地域であったり、観音菩薩の救いやお地蔵さんの助けが民話になったりすることはあるが。

仏教が伝来してから日本土着の神道と抗争する時代もあったが、その後は《神仏習合》という考え方で共存が可能になった。日本の神は仏が仮の姿をとって日本に現れるのだと解するわけだ。東京・芝にある浄土宗大本山・増上寺の横には東照宮がある。以前は増上寺の寺域の中にあった。徳川家康の神号である「東照大権現」は仏が神の姿となってこの世に現れたものと解するわけだ。

忘れられる神もいれば、急に人気の高まる神もいる。極めて人間的である。多神教・仏教では、神も不死ではなく六道輪廻の中で何度も生まれ変わっては死にかえる。人に比べると遥かに長い寿命をもっているが、いわゆる《天人五衰》の兆候とともに今生を終え次生に再生するとされている。

一神教の世界で神が死ねば神なき国となるが、多神教では幾らでも代わりがいるわけだ。神もまた無常なのである。神の世界は多神教と一神教ではまったく違う論理になる。


八百万の神々が共存する日本文化とイスラムやユダヤのような一神教の哲学とは水と油の違いがある。

ユダヤとアラブとの抗争の根本的理由の一つは信仰にあるのだが、この点を実感として理解できる日本人は少ないに違いない。

2026年4月6日月曜日

断想: ホワイトハウスは「神頼み」になったか?

戦争に神頼みを持ち込むと、太平洋戦争を戦った日本の「神風待望」と変わりがなくなる。

迂闊に開戦した対イラン戦争の出口が見えなくなったトランプ大統領。かたやイスラエルと米国内のキリスト教福音派 、こなたアメリカ国内で過半数を優に超える戦争反対派。どちらにつくべきか?

アメリカはいま政権丸ごと《迷える子羊》になってしまったようだ。で、ホワイトハウスに牧師団が慰労目的で訪れ、みんなで祈りを捧げている映像も公開されている・・・

ただ、残念なことは、こうして祈りを捧げている主の御名は極めて宗派ローカルなものである点で、敵方のイランには何も響かないのが弱いところだ。


信仰はカントも洞察したように《美と崇高に関する感情》がどこかしらで関係するもので、理性とは異なり人類に普遍の心の(あるいは頭の?)作用ではない。

経済学者のBrad DeLongがsubstack.comに寄稿している記事を読むようにしているのだが、今朝はこんな下りに目が行った:

What warrant do we have for any belief or even hope that there is any sort of arc tending the world toward justice? And if they were, shouldn’t that properly terrify us all? And do we not—looking around these days—have even less warrant for any belief or even hope that there is any sort of arc tending towards any sort of mercy?

But the big question: How does that matter as we wake and go about the deeds that it is proper and fitting for us to undertake each day?

世界を正義へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠はどこにあるのだろうか?もし存在するとしたら、それは私たち全員を恐怖に陥れるべきではないだろうか?そして、今日、周囲を見渡すと、世界を慈悲へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠は、さらに薄弱になっているのではないだろうか?

しかし、大きな疑問は、私たちが目覚めて、毎日行うべき適切でふさわしい行いをする際に、それが一体何の関係があるのか​​ということだ。

Source: substack.com

Author: Brad DeLong

Date: Apr 04, 2026

URL: https://braddelong.substack.com/p/reading-fred-clark-holy-saturday

神に祈りを捧げる人が、ただ「あいつらは危険だ、気に入らない」という理由で奇襲をして他人を殺害し、プロスポーツに興じる庶民がただ自分の生活を楽しんでいる二つの情景を見比べると、どちらが「適切でふさわしい行い」をしているのか分からない人はいないだろう。DeLongは当たり前のことをそのまま書いているだけである。 


親鸞の弟子・唯円が師の言葉を記録した『歎異抄』の一節を連想している所だ:

「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、

「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、

「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。

「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。

しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。

わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、

我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。

URL:https://xn--6quo9qmwi.com/tannisho13.html 

人の悪行は、その人が前生から継承した「業」とこの世に生まれてから巡り合った様々な「縁」が結びついて、その人の意志となり行為へつながった結果である。

こう書くと、人には《独立した人格》、《自由意志》、《実践理性≒良心》がないという趣旨に受け取れるが、確かに仏道では《凡夫》は《煩悩》に常に支配され、その煩悩は「無始」、つまり無限の過去に由来する。煩悩を滅却して《菩提心》に到達するなど、凡夫にはまず無理である、と考える。だから、成り行きによっては「意図せざる悪行」を行いうるのである。

しかし、日本独特の、というか中国発祥とも言えるが、浄土系他力本願思想では、極悪人であっても、凡庸な凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を信じ、一向に(=ひたすらに)阿弥陀仏の名を称えることによって、死後は極楽浄土へと救済される。

「死後に救済」というのは、物質的身体に関するものではなく、そこに宿っていた精神的エネルギーについてである。輪廻転生思想では「今生」の次に必ず「次生」がある。次生で再び苦しい生涯を送り、再び死ぬよりは、次は生死を超越した純粋の精神的存在に生まれ変わりたい。そういう意味である。高校生向け(それとも中学生向け?)哲学書として世界的ベストセラーになった『ソフィーの世界』でも、主人公・ソフィーと哲学の先生・アルベルトは、宇宙の実空間とは独立した次元に転生して肉体を持たない純精神的存在になったが、ちょうどこれと同じようなイメージである(と勝手に思っている)。

もしも輪廻転生、でなければ素朴な「霊魂不滅説」を根底で認めておかないと、すべての生物は死ねば無になると理解するしかなくなる。物質だけが実在して、精神的実在はない。だから、生きている間に、好きなことをして、言いたいことを言えたのは、炭素を主とする高分子化合物が「うまい具合に結合して」物質自らが意志を持ち、自由に移動したり、音声を発したり、論理をマスターして考えたりできていたのである、と。このような「唯物論」を信じる立場にいる、ということになる  ―   小生は何年か前に転向して今ではこの立場にはいないが。

まあ、どちらの《神話》を信じるかという選択であります。


親鸞の悪人正機説はラディカルであるが、実は師・法然も同様のことを語っていたという事実が最近になって確認されたようだ。ただ、『一紙小消息』では逆のことも書いているので、法然という人は改革者特有の幅広さをもっていたのかもしれない。没後、弟子たちが多くの流派を創っていったのも「むべなるかな」と言える。


2026年4月5日日曜日

ホンの一言: 「公務員倫理審査委員会」が必要なのでは?

先日、こんな記事をみた:

ひろゆき氏は「小学3年時から卒業までの4年間に6人から暴力を受け、金銭を要求された女子生徒。担任は事態を把握したが具体的な対応を取らなかった。校長も市教委に報告しなかった。首を絞められ、拳で殴られて、金を取られたのを知ってて放置した担任と校長は、何故クビにならないの?」と自身の見解をつづった。

Source: SmartNews

Original: SponichiAnnex

Date: 2026-4-1

《職業公務員》である人は公的権力を行使する立場にある、というのは国内マスメディアが愛用する表現だ。

嫌な業者は自由に忌避できるが、担当する公務員が嫌な奴だと感じても、公務は公的機関が独占しているので、納税者には逃げ場がないのだ。職権乱用という罪が公務員にあるのはこうした事情による。

メディアの評判は、特にオールド・メディアというか、ゾンビ・メディアというか、このところ評判はガタ落ちだが、公務員の怠慢・無責任・スキャンダルを厳しく報道する姿勢は絶対的に正しいと思っている。

公務員の勤勉・清潔な姿勢を守ることは、納税者から成る社会全体におけるフェアネス(fairness)の精神を守ることに直接的につながることだ。法やモラルが崩壊する前に、まず社会からフェアネスの感覚が崩れるというのは、時代と国を問わない経験則である。

英語の"Fairness"の意味はOxford English Dictionaryでこう定義されている:

the quality of treating people equally or in a way that is reasonable

人々を平等に、または合理的な方法で扱うという性質 

公的地位にある人の《先憂後楽》の気風は理想ではなく、現実に要請されるルールであるはずだ。爛熟した江戸・文化文政時代の三翁が共有していた「天下の楽に先んじて楽しむ」では幕府の統治そのものが崩壊するわけである。

こんなことを書くと、今は蔑称となり果てた(?)《反政府・野党・左翼》という言葉を投げつけられ、パヨクに分類されてしまうのが必至だが、それはどうでもよいことだ。公務員は厳しく扱われて当然だと考えるのはモラルに反してはいない。 


最高裁判事には『国民審査』という納税者による審判の場が設けられている。

この考え方を全公務員に範囲拡大をして、例えば《公務員倫理審査委員会》を公正取引委員会と同じく《三条委員会》として設置し、すべての日本人は公務員もしくは公的機構・団体を職業倫理に反するものとして告発できるようにすれば、上のような職務怠慢はかなりの程度改善されるはずである。

いまも(国家公務員に関しては)人事院の中に(どれだけ実効性が認められるか熟知しないが)国家公務員倫理審査会があることはある。だから、上の三条委員会設置は人事院内の国家公務員倫理審査会を独立拡大させる方向になるし、対象範囲を地方公務員を含めた全公務員にするとなると、準司法的な位置づけになる。

もちろん告発の取り扱いは、根拠規定に基づき手続きを統一化する必要があるし、実際に倫理審査に進むかどうかは、事情を調査し所定の手続きの下に判定しなければならない。

明らかな職業倫理違反があると認められれば、委員会が司法府に告発し、公判を受けさせるというのは、ありうべき姿だと、(大多数の人のことは分からないが)個人的には感じる。もちろん罰則は別に定める必要がある。公務員による(単なる?)倫理違反は、刑事事案にはなりにくく、民事事案にもなりにくい。しかし、公務員の倫理違反から生じる害悪は確かに存在する。


今のように公務員の不祥事は、刑事事件以外は(基本的に)「役所任せ」という情けない状況よりは余程よくなるだろうと感じる次第。

江戸・旧幕時代ですら幕臣に対しては目付役がおり、大名に対しては大目付がいた。ほぼ共有されている道徳的規範に反する官僚を処罰する機構は組織内部に個別に置くべきではないと思うがいかに?

他方、厳しい道徳規範に従う公務員には、手厚い身分保障・生活保障を生涯にわたって続けることがバランスの上からも求められる。これも理屈だろうと思う。生涯?安いものである。

何せ武士の時代にあっては、正規の武士は終身雇用どころか、(何も事件をおこさなければ)永代雇用。即ち、子々孫々に至るまで藩という組織は侍を養ったのである。

永代雇用。いわゆる「仕官」である、な。一介の町儒者であった新井白石も徳川家宣に仕えたことから、新井家は明治になるまで続く旗本となったのである。

日本にはそんな時代もあったわけだ。 


当たり前のことだが、本日投稿の主旨は、そのまま反語的に解釈しても、それはまた可である。一応念のため。



2026年4月1日水曜日

断想: エビデンスねえ~~~「真理」にエビデンスは要りますかという話し

今日は細かくて詰まらない話だ。

SmartNewsは広範囲の報道情報を集めるポータルサイトとしてとても役に立つ。というのは、Yahoo! JAPANニュースはスポンサー記事が増えすぎて、その広告過剰には辟易しているのだ。

情報提供側の経営目的は広告を流すことにあり、目的は報道ではない。この理屈は分かるが、ユーザー側の目的は情報にある。ここに報道ビジネスの根本的矛盾があるのだが、自分で情報を得る手間が惜しいなら他にイイ方法があるわけではない。

で、オヤッと思ったのが次の下り:

田久保・元伊東市長の私文書偽造罪、要するに偽の卒業証書を市会議員に公然と見せた件だ。

「嘘も100回言えば真実になる」

これはナチス・ドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダの手法を評した言葉だ。

厳密にはゲッベルス自身がこの一文を発したという一次情報はないものの、彼の思想を“意訳”したものとして現代に伝わっている。

Source: SmartNews

Date: 2026-4-1

Original: テレビ静岡

最近このような文章、というかもっと広く色々な場面でこういう妙な《なお書き》を付けた説明振りを見ることが多い。

まず感じたこと。

「厳密には」というナオ書き。要るかナア、と思います。

妙にくどい。

何が言いたいのか?

自信がないなら、そもそも書くなという気にもなる。

要するに、元ナチスのゲッベルス宣伝相の発言だとあなたは推定しているのか、いないのか?いるなら、そう書いておけばいい?いないなら、ゲッベルスの名前など出さない方がいい。仮にゲッベルスがこのセリフを口にしていたという「一次情報」が得られたとしよう。音声データまで奇跡的に出てきたとしよう。だからと言って、この言葉でゲッベルスがゲッベルスの思想を語った事の証明にはならない。誰か第三者が口にしたセリフをゲッベルスが借用したにすぎないという可能性も否定できないからだ。この場合はゲッベルスが「この一文を発した」とは言えないはずだ。その第三者もまた別の人から聞いただけかもしれない。

結局、一次情報もエビデンスも得られようはずがないのである。

この辺、ビジネススクールの最終プレゼンなら、必ずツッコミが入る所だ。

多分

エビデンスは何もないのですが、これは科学の論文ではなく、単に別の本題を語る「報道」ですので、修辞として読んでください。

こういう趣旨なのだろう、と受け取りました  ―   一次情報の形でエビデンスが手元にあるわけではありませんが。

思わず連想してしまった。こんな言い方が、今という時代の定型表現なら

右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい

『新約聖書』の「マタイ伝」にこう書かれているが、これにも「なお書き」が要る。

なお、聖書のこの部分は、イエス・キリストの弟子のマタイが書いたとされているキリスト伝で、イエスがそう言ったと書かれているだけですから、厳密にいえば本当にイエスがそう言ったという音声データが一次情報として残っているわけではありません。イエスの思想をマタイが意訳したものとして現代に伝わっているわけです。

こんな理屈になる。

というか、そもそもイエス・キリストは(おそらく?)地元の言語であるアラム語で説教をしていたはずとされている。なので、最初に新約聖書が書かれたギリシア語は、それ自体が「意訳」であって、要点は「意訳」であるのか、ないのかは大したことではないという点にある。

しかし、イエス・キリストがそう語っているかが不明であるという点に、上の筆者なら非常にこだわるかもしれない。何だか「本人がそう語ったわけではない」のであれば、そう語ったとされている事の価値がウンと下がると思っているのかしら?そうとも思える。

だとすれば、イエスは日本語で説教などしたはずがないから、日本語の聖書は100%意訳で、イエスの言葉として有難がるのはおかしいという理屈になる。

だから、何だというのだろうか?

言葉とは何だろう?

言葉に価値があるのか?

言葉に含まれた意味が価値をもつのか?

バイブルは全編が伝聞である(はずだ)。行動した本人の言葉は残っていないことが多い。パウロの手紙は掲載されているが、本当にパウロ本人が手紙を書いたの?そんな疑問を持つ人は多かったに違いない。

パウロの手紙って、パウロ本人が書いたのじゃないとしたら、価値がないの?

こう問いたいところです。

日本に浸透している大乗仏教は、釈迦が活きた時代と大乗経典が編纂された時代には大きな隔たりがあって、大乗仏教は「仏教」とは言えないと指摘する学者もいるくらいだ。

厳密には、中国伝来の仏教は仏教にあらず。というか、インドに赴いた唐僧・玄奘(三蔵法師)が持ち帰った経典は、インドにおいて既にオリジナルの仏教ではなかった。厳密にはこう判断するべきだろう。

だったらそれは何なのだろう?

小生は、それでも信仰に基礎づけられているなら、それは仏教であると解釈する立場にいる。「真理」は最近の世間で言われる「エビデンス」が決めるのではなく、理性と論理から確定してくるものである。

というか、理性に反しているがエビデンスがあるので「真理」と認めざるを得ないような「真理」は語義矛盾であって、理性に反している場合は「このエビデンスは誤りである」と結論するしか人間には選択肢がない。そう思っているし、実際に自然科学の発展史を振り返ると、そんな風に発展してきたと思っている。

非合理的な真理は最初から排除されているわけだ。

そもそも存在論として、20年前の私と現在の私が同じであると断定していいのだろうか?

物質的身体は、20年前とは別の素粒子、分子、細胞から成り立っている。それでも同じ人間だと自己認識しているのは、同じ幼少時の記憶をもち、継続性を意識しているからだ(といわれる)。

しかし、20年前の自分の記憶と現在の自分の記憶と、厳密に同じ記憶であると立証されているのだろうか?

定期的にDNAデータを保存すれば、生化学的に同一身体であるかどうかは検証できる。しかし、同一の物質的身体に宿っている精神的実体、意識+潜在意識と言い換えてもいいが、20年前と現在とで同じであると、どう同定(identify)すればよいのだろうか?「一次情報」など得られようがないのではないか?

そもそも《エビデンス》とは何か?上の引用文で出て来る「一次情報」はエビデンスという集合に含まれる要素の一つとして使われているのだろう。

平成から令和になって目立つのだが、《エビデンス》がない命題は疑うべきだ、と。

思うのだが、人間の認識にエビデンスなどはないことの方が多い。そう思う。

ピタゴラスの定理が真理であると考えるエビデンスはどこにあるのか?

実際、アインシュタインは宇宙はユークリッド空間ではなく非ユークリッド空間であることを理論化した。だから、厳密には「ピタゴラスの定理」にはエビデンスがない(ことが分かった)。しかし、ユークリッド空間を仮定すればピタゴラスの定理は自動的に真である。これにエビデンスなどはない。

何かといえば「エビデンス」を求める姿勢は、科学的なフラグランスを醸し出す効果はあるが、実はよ~~~く聞いていると、相手の言い分が正しいというエビデンスがないという根拠から、それ即ち自分が正しいことの証明である、と。どうもこんなロジックを展開している。

ずっと以前にも投稿したことがあるが、

太陽が地球を回っているという天動説には経験から明らかなエビデンスがありますよね。地動説にエビデンスはありますか?ないでしょう。

こんな議論を真面目にしていた時代はあったはずだ。

滑稽である。

人類の知的進化はエビデンスの蓄積を合理的に説明できる純理性的推論による。単にエビデンスにマッチさせる理論は、往々にしてヴィジョンなき愚かな理論である。事実を説明する理論は無数に提案できるが、大半は幼稚で拙いものだ。真理をつく理論は美しさを有すると言われる。しかし、エビデンスの方から教えてくれるわけではない。真の知識はエビデンスがさきにあろうが、なかろうが、最初から真である。

なので、エビデンスは要りますかという問いは常に有効であると思っている。エビデンスの必要性は文脈によるのだ。

今日は《反証可能性》や《モデル選択》の話しをすれば十分だったかもしれないが、書きたいことを書いているうちに長くなってしまった。つまらなくて細かい話である。

2026年3月31日火曜日

断想:私には分かりません ≒ 記憶にございません

昨日、こんな記事をSmartNewsで目にした:

毎日新聞は28、29の両日、全国世論調査を実施した。高市早苗首相が、米国のイラン攻撃についての国際法上の評価を避けていることについて「支持する」が33%、「支持しない」が36%と意見が分かれた。「わからない」も29%あり、有権者に迷いも感じられる。

Source: SmartNews

Original: 毎日新聞

Date: 2026年3月30日

確かに高市首相は《アメリカ・イスラエル枢軸 vs イラン》戦争に関して、

首相は国会で「詳細な事実関係を十分把握する立場にないことから、確定的な法的評価は行っていない」と答弁した。

こんな報道がされている。

要するに、アメリカ=イスラエル枢軸のイランに対する先制攻撃が国際法に違反しているか、更に戦争犯罪に該当するかは、(事実関係がよく分からないので?)「分かりません」と答えている。

これをみて、(今となってはずいぶん昔の)《ロッキード事件》を思い出した。国会でこの問題が集中審議されたとき、証人喚問された日航、丸紅など関係企業経営陣は核心に迫る質問に対して全て

記憶にございません

と、鸚鵡のごとく繰り返していたものだ。この『記憶にございません』というセリフは、進退窮まった時に大変便利であるせいか、その後に色々な事件の重要参考人の常用する言葉にもなったわけで、こう考えると「ロッキード事件」というのは田中角栄という稀代の民衆政治家による《総理の犯罪》が追求されたにとどまらない、いわば日本社会全体のモラル感覚にも大きな傷跡を残した事件でもあったと思う。

まして、この事件の一連の展開そのものが、中国傾斜、アラブ傾斜を強める田中政権に鉄槌を下すことを目的に、アメリカ政府が計画した陰謀(?)であったと今もなお囁かれているのだから、ロッキード事件の発生と解決の仕方は戦後日本体制の不健康さを象徴する事件でもあったと、小生は勝手に思っている。

「戦後日本社会」は根本的タブーの上に成立している。それを露骨に言ってはならない。裏が腐っていても表は綺麗にしておけ、と。率直には生きられない。建て前をマナーの名のもとに強要される。守らなければマスメディアからバッシングされる。とはいえ、そんな生活感覚が時に疼くことがある。

戦後日本の特徴はこの辺にあると思っている。

「記憶にございません」と「私には分かりません」という対応は何と似ていることだろう。

それはいま聞かないで!

言葉で伝えようとしている主旨はそのまま重複していると感じるのは小生だけだろうか?

今朝、カミさんとこんな会話をした

小生: それにしてもアメリカって国は、太平洋戦争が終わってから、いったい何回戦争しているンだろうね?朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン・・・他にも米軍が動いた紛争は無数にあるヨ・・・こんな好戦的な国は世界でアメリカだけだナア。

カミさん: 平和な国じゃないのは確かだね。

小生: 昔あったソ連もソ連軍を使って力で抑えたことは多かったけど、のべつまくなし常に戦争をしているのはアメリカだけだよ。

カミさん: 超大国ってどこもそうなるのかなあ・・・?

小生: 19世紀の帝国主義の時代には大砲と軍艦で外交をやったのが西洋だからサ、そんなDNAがあるんだろ。反対に、中国は意外と平和志向だネ。歴史的にも中国の歴代王朝は対外侵略するより異民族から侵略される頻度のほうが多かった。とにかく国として物騒ではないよね。これはアメリカと中国の行動履歴を比べてみれば誰でも分かる。日本ではホント不思議なほど対中警戒心が強いけど、中国の方から軍を動かした紛争は、ほとんどない。どれもが「国境紛争」で、ある意味、典型的な武力衝突なんだけど、やるかやられるかという「戦争」じゃあないンだな。大体、孫子の兵法でも上策は「戦わずして勝つ」で、「兵を動かして戦う」というのは下策とされている、そんなお国柄だからね。

カミさん: そうなの?あんまりイイ印象はないけど。 

小生: 日本は竹中半兵衛のような「策をめぐらす」というのが苦手だからサ、中国には苦手意識が強いんじゃないかネエ?国のサイズも違うし、謀略戦、情報戦の持久戦になると、どうしたって大国の方が小国より有利だよ。それと日本では右翼の宣伝がきいてるな。ほんと、国内向けに宣伝するよりは、相手の調査・諜報にもっとエネルギーを割くべきだと僕は思うんだけど、ネ。一部の過激派の宣伝は眉唾だと思って、いまはChatGPTとかGeminiとか、AIを誰でも使えるんだからサ、調べてもらえばいいのさ。そうすりゃ、とんでもなく間違うってことはなくなるよ。それにしても、何で日本人はAIに警戒心をもっているのかねえ。これまた七不思議だ。

カミさん: 得たいが知れないしサア、AIの指示通りに動いていたら、いつの間にか悪くなったり、戦争になったりするんじゃない?

小生: 逆だと思う。AIで戦争が起きるってことは先ずないな。いま世界で最も危険な国はアメリカさ。アメリカに睨まれたら危険極まりない。総理大臣がいつ殺害されるかわからん。天皇陛下がいつ拉致されるかも分からん。西部劇の保安官みたいなもンだ。正義の味方だと思ってるから始末が悪い。AIはモンスターじゃないよ。人間が造るものだからね。怒りや感情とは無縁だ。理性そのものだよ。それに思考には制約を課すことも出来る。怖いのはバカとハサミの方さ。

The New York Timesの最後のコラム記事でPaul Krugmanはこう書いていた。

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。指導者を信じられる時代は終わったのだ。何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ。 

この下りは以前の投稿でも引用したことがある。

有権者が選んだ人物を公の新聞紙上で《最悪》と表現できるところがアメリカ社会の良さと言えば「良さ」である。杓子定規な日本ならとてもこうは言えない(はずだ)。

最悪な人物を選挙で選ぶこともある。民主主義の失敗の一例として記憶されるのが、足元の「いま」という時代である。


ただ、最悪の人物を偶々選んでしまったのだというシンプルな理解を超える大きな危険性が、アメリカ合衆国という国には潜在している。これもまた真理であるかもしれない。

民主主義に本質的に潜んでいる危険性かもしれない。そうでないかもしれない。


古代ローマ帝国の盛期である《五賢帝時代》は、名君マルクス=アウレリウス帝の後を暗愚な息子コモドゥス帝が世襲したときに終わった。コモドゥス帝の(暴君とは必ずしもいえない)暗君ぶりと悲惨な最期は歴史が示す通り。そのあと、ローマ帝国は不安定な軍人皇帝時代に入り、ディオクレティアヌス帝が再び安定を取り戻すまでに100年を要したのである。そして、安定を取り戻したあとのローマ帝国は皇帝専制の度を強め、以前の輝きまでが戻ることはなかったのである。

世襲による君主制は選挙がないので暗君が出現すれば腐敗する。しかし、暗君、暴君による災害は、庶民までには害が及ばないこともあり、君主の贅沢は庶民には有難いことも多い。もしも君主の暴虐に多数の臣下が「耐えられない」と感じれば、「殿、ご乱心」と押し込め参らせ、嫡男に相続させることで案外早期に片付けられると、小生は勝手に評価している。これに反して、民主主義の失敗は君主制の失敗よりは低頻度であるが、いざそれが失敗すると修正しようがなく、その災害規模は未曽有の規模になりうる。

こんな風に漠然と思ったりしているのだが、どんなものでござんしょう。


高校野球は監督で決まる。企業はトップで決まる。国の盛衰は指導者で決まる。トルストイの歴史観とは違うが、一人の指導者の優劣で社会全体が決まる側面も、確かに人間社会にはある。

下手な指揮者が指揮するオーケストラを連想すればイイ。下手な指揮者は勝手に棒を振らせておき、無視を決め込んで、自主演奏する方が好い演奏になるものだ。

民主主義のロバストネスが現れるとすれば、こんな時だろう。