2026年5月18日月曜日

ホンの一言: 「ダメだダメだ」と批判する人が一番ダメかもしれない?

船橋にある両親の墓参りを兼ねて東京まで往復した。清澄白河に泊して(元祖?)深川飯を食べたが、カミさんは「もうイイかな」と。大盛りの白飯に驚くほどのアサリをトッピングして、ネギを一かけ、後は沢庵と味噌汁だけで腹を満たすというのは、確かに江戸の食文化であるに違いない。今回は上の愚息が夏場所を観たいというので同行した。小生は、今場所の大相撲には飛行機代を払ってまで行くほどの観戦価値はないと思ったので、愚息一人で国技館に往く。

北海道に戻ると疲れが出た。若い時分は午前に1件、午後は午後イチ、2時から4時まで大きな仕事を1件、夕方から退庁時間まで1件。夜になってからまた別件と仕事漬けになるのが能力の証くらいに思っていた。最近は、午前1件、午後1件どころか、一日一件。その日の予定をこなすと、ホテルのラウンジで詰碁でもして休憩するか、小さめの喫茶店に入って往来の人々を眺めながら時を過ごすか、とにかく無為に過ごすのを愛するようになってきた。

(海外メジャー紙に比べて割高なので今は有料購読を中止しているが)久しぶりに日経新聞にアクセスした。すると

「日本の恥」はレジより財政 米財務長官の長期金利への警鐘忘れるな

こんなヘッドラインが目に入る。何やら高市首相がまた言わなくともイイことを言ったのか、と。

本文の一部は「無料」で公開している。こんな風だ:

いくらなんでもレジシステムのメーカーに失礼ではないだろうか。11日の参院決算委員会での高市早苗首相による消費税減税に関する答弁のことである。

「システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね。例えば感染症が起こる。何か大きな災害が起きたときに税率すら柔軟に変えられないレジシステムだということは情けない」

日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

以下、続きあり・・・


どうも首相の 『システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね』にカチンときたのだろうかネエ・・・恥ずかしいという感覚は、小生はどちらかと言えば、首相の感覚に近いものがあるが。

税率は頻繁に上げ下げするものであるし、実際、ヨーロッパなどは社会状況を考えながら付加価値税率を結構頻繁に上げ下げしている。

食料品に対する軽減税率、イギリスのゼロ税率などは、(ドタバタ皆無とは言えないが)それほど大騒ぎすることもなく、淡々と、というか粛々と実行できているのが、ヨーロッパの財政である。日本のマスコミもそんなヨーロッパ諸国の財政政策を淡々と報じてきている(はずだ)。もちろんこんな財政政策には、官僚組織の行政技術があるわけであるし、欧州衰えたりといえども製造業の基礎技術があるわけで、だからこそ実施可能なのである。

日本は古来ヨーロッパを師匠としてきたが、師匠老いたりと見るや、もはや学ぶものなしと、態度を一変させる悪癖がある。この辺り、日本国民は実に機会主義的であると思うのだが、先進国・後進国を問わず、海外にはいつでも学ぶところがあるものだと思う。


マア、この辺はAIにでも聞けば、いつでも詳細に教えてくれる。

というか、上の引用文の中の

 日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

これには、思わず笑って、いやいや苦笑、というか失笑というか、ニンマリとしてしまいました。

確かに、日本国のIT技術水準、分かる人の少なさ、研究意欲の低迷は、以前から《わかっていたこと》であります。ダメダメな人に、いまさら「ダメだ」と言ったところで、

ダメなことは前から分かっていたでしょ?

と言われるだけである  ―   カエルの面に水、とはこういう情景を言うのであろう。

もちろん、これ自体が情けないあり様なのだが、もっと情けないのは、

余りにも長い期間、ダメだダメだと指摘されながら、今もなおやっぱりダメだ

と。つまり、改善へのアップターンが観察されない。これこそ最もダメな所である。


若い芽が育って来ないのか、若い芽を潰しているのか?

おそらくこの両方なのだろうが、日経新聞というメジャーな経済紙で、こんな文章が堂々と載るところに現代日本社会のダメな所が象徴的に表れているのだと小生は思う。

とはいえ、大谷選手、山本投手、村上選手などの野球界、八村選手などのバスケット界等々、スポーツ分野では世界で評価される人物を日本は続々と輩出できている。音楽界や美術界も評価は高い。文学界も多様な若手人材が生まれてきている(と感じている)。

一方、数学、物理学、化学などの自然科学、経済学、心理学、社会学など人文・社会科学分野で、グローバルに活動する日本人はどれほど生まれているのだろうか?小生の勉強不足もあるかもしれないが、学問分野で注目すべき若手(中堅も)人材が注目される例は、最近あまり目や耳に入らない。

学問上のレベルはプロ・スポーツ界とは異なり、言論や世論、生産技術の創出などに、そのまま直結するものだ。ここが実は停滞しているという感覚がある。

学術だけを立て直しても全てうまくいくわけではない、と。ま〜〜アレです、この種の反論に満ち満ちている。この点こそ平成・令和日本の問題の核心であります。

法学は明治以来の国内文系教育の柱である。いま改憲の声が高まる中で、日本国内の憲法学者はどんな見解を持っているのか?《改憲私案》なるものは持ち合わせていないのか?今こそ学問的知見を公表するべき絶好の機会ではないのか?個人的にはそう思いますが、あまり、というかほとんど《法学界》からの見解をきかない  ―   というより、報道されない。

(今は忘れられた?)歴史家・トインビーも語っているが、文明が直面する難題を突破できるかどうかは、少数の人物に宿る才能こそが鍵となる。その他の凡夫は天才的人物が拓いた道を歩く。この段階で平均的国民の勤勉さが主たるファクターになるのである。


以前にも懸念(?)を投稿したことがあるが、もはや学術分野でも五輪選手養成に邁進するスポーツ界と同じ様に《〇〇ナショナル・アカデミー》を開設して、いわゆる”Gifted”と呼ばれる天才少年少女を分野を問わずバックアップするべき時代ではないか?経済支援するべきではないか?特別待遇するべきではないか?

史上最高(?)の数学者・ガウスの例をみるまでもなく、天才的才能の出現は貧富や出自、身分、民族を問わない。貧しいレンガ職人の子であったガウスは領主の支援もあって大成した。

伸びる才能を社会として支援するのは富裕層の善意だけではなく、政治でも出来ることだ。

ダメだダメだと指摘しながら、今日もまたやっぱりダメだという 

こんな政治風景は実に奇妙だ。選手が駄目、駄目と毎日けなす監督やGMがいるなら、一番ダメなのは駄目だと言っている当人である。



2026年5月11日月曜日

断想: 「自我を愛せよ」とは言えないネエ・・・

 昨日のこと、ネットのどこで見かけたか分からなくなったのだが、

自我を大事にしよう

という一文があった。自我は鍵かっこの中に入っていたかもしれない。

何度も投稿してきているが、この考え方には反対の立場に(今は)いる。友人と雑談するときの話題になることもありうるから、要点をメモしておきたい。

例えば横山紘一『唯識の思想』で書かれているが、せんじ詰めれば人の心の中はマチマチ、バラバラであって『一人一宇宙』、同じことだが『人人唯識』が世の実相である。

こんな世界で一人一人が自我を大事にするとどうなるか?

何が正しいか?

何が美しいか?

何が善いことであるのか?

一人一人、自分の自我で判断するしかないという理屈になる。これは究極の《相対主義》である。アメリカはトランプ大統領の自我で為すべきことを決めればよい。その権限があるからだ。イスラエルのネタニヤフ首相も自分の自我で正しいと思うことを為せばよい。そんな理屈になる。世界がどうなるか誰でも分かるはずだ。多くの自我が衝突する結果は弱肉強食の原理以外にはない。


古代ギリシア世界の「世界大戦」でもあったペロポネソス戦争に敗北したアテネの民主主義社会は、敗戦後に大いなる混乱に陥った。知力、財力、体力に勝る強者の意志が善であるという思想が流行したのは、《敗戦の必然》でもあったわけだ。せめて論争や法廷の場の弁論だけは熟達しておこうと「ソフィスト」と称される専門家が「有識者」として尊敬されたのは世界史の教科書でも記述されているところだ。

人間は万物の尺度である

大事なことを決めるのは人間であり世論(?)である。こんな哲学(?)が当時のアテネで一世を風靡した。

ソクラテスの主張の核心は『それではダメだ』という一点にまとめられる。何が真であり、美であり、善であるかには、人を超越した絶対永遠の答えがある。唯一の真理を知ろうとする努力を人は放棄するべきではない。プラトンが師・ソクラテスを描くことで伝えたかった事は実に単純明快な一点であった(と勝手に理解している)。

ただ知るべき真理は「自我」によってはとらえられない。感覚はあてにはならない。感情も人それぞれである。まして世の評判や名誉などは無常そのものだ。自我の中の「理性」によってのみ真理はとらえられる。何故なら理性は、万人に共有される同一の心の働きであり、正しい答えがただ一つ存在するなら、真理を真理だと認識できるのは人間に与えられた理性の働きによるしかない。これがロジックであるからだ。社会的な意思決定においても同じこと・・・

理性は万人に共有されるが故に「自我」の中の「超自我」である。行動する時、理性に従うことは、カントなら実践理性の声を聞くと言うだろう。

西洋の哲学に沿って考えるとこんな議論になる  ―   哲学辞典的に言葉にこだわるなら、「理性」と「知性」は違うと言うところだが、いまはどちらでもよい。

戦争は自我によって起こり、平和は理性によって達成されると誰かが言うなら、かなり西洋の薫りがするものの、小生も大賛成である。


最近の小生は仏道に沿って考えることが増えてきた。少し昔とは正反対である。

仏道では《無我》を原理とするので、《自我》は実在しないと言うところから議論を始める。

というより、実在しない自我が実在するかのように誤認して、自我に執着する心を《我執》という。この根本的間違いは、真理を何一つ知らない《無明》が根本原因なのであるが、それ故に生じる自我意識からは《我癡》、《我見》、《我慢》、《我愛》という煩悩が生まれ、自らの心を汚すことになる。即ち

  • 我癡がち:自分とは何かを知らない
  • 我見がけん:自分がここにあると思う
  • 我慢がまん:「他人」と比較して「自分」は優れていると思う
  • 我愛があい:自分に愛着を感じ、(物質的身体として)もっと生きたいと願う
自我意識からこういう風に、自己利益を求める心理(煩悩)が生まれて、しかもそれは正しいと意識する。

達観してしまうと、現代資本主義社会は、人の心の中の「無明」とそれ故に生まれる自我を愛する「煩悩」を丸ごと肯定して構築された社会である、と。ずっと以前の非・近代の社会に生まれた知識人であれば、現代世界をこう理解するであろう。


確かにこの世間は煩悩の支配する濁世であるのが現実だった。いまもそうである。自己利益を追求するためには合理的戦略があるのも仕方がない。それはやむを得ないことだ。しかし、だからと言って
自我を愛せよ
開き直って、こんな風に自己肯定するのは、とてもじゃないが言う気にはなれない。『大事にしよう』とは『愛せよ』と言うのと同じであリンしょう?『俺の心は邪念だらけで汚れてるしサ、ずっと悪人だから、いまさら偉そうなことを言う資格はないがナ・・・』という位のデリカシーは持つべきだろうと思う。

2026年5月8日金曜日

断想: 理論家・ヒックスの経済史と歴史への関心の高まり?

小生は、経済学から勉強を始めて統計学を飯のタネに選んだ。だから、縦に生きるというより、横に生きている人の気持ちは、比較的分かるつもりでいる。

経済学の勉強を始めた当初、ヒックスとサムエルソンは(特に純粋理論畑の人にとっては?)正に「神様」のような存在で、アダム・スミスやデビッド・リカード、更にはケインズの『一般理論』を真面目に読まない人でもヒックスの『価値と資本』だけはきちんと理解しようと、一生懸命精読したはずである。小生は計量畑であったが『価値と資本』、特に巻末の数学付録は、大学院入試の前に丁寧に読んでおいた。

大学院に入る頃はヒックスの『資本と成長』が評判になっていた。しばらくしてから『資本と時間』が日本語訳で出た。理論系の大立者であったM.F.教授は

ヒックスも耄碌したのかネエ

と語っていたのが何だか面白かった。

神様も老いることがあるのか

まあ、そんな感懐であります。『資本と時間』に老いを感じたのであれば、ちょうどその頃に執筆していたはずの『経済史の理論』はどう評しただろう?

こんな(下らない?)本を出すなんて、やることがなくなったのかネエ・・・

理論系の経済学者ならこんな評価になったかもしれない。聞いてみたかったものだ。

小生の「ヒックス経験」はそんな風であったので、最近、substack.comでDeLong先生がヒックスの経済史をテーマとしているのには、少々驚いた。

読むとこんな下りがある。

From his stage theory Hicks drew a bottom-line conclusion: When we consider the process that has generated our economic growth and current prosperity, we should note first that we have been very lucky. This process has gotten farther than it had any right to. The market system spread, expanded the potential for the specialized division of labor, created the opportunity for high-scale investment and accumulation. But it was always a tendency. It was never an inevitability. It had a halting nature. It had a limited geographic spread. They needed necessary supports were only found in patches.

ヒックスは自身の段階理論から、次のような結論を導き出した。我々の経済成長と現在の繁栄を生み出した過程を考えるとき、まず我々は非常に幸運であったことを指摘すべきである。この過程は、本来あるべき範囲を超えて進展した。市場システムは拡大し、専門分業の可能性を広げ、大規模投資と蓄積の機会を生み出した。しかし、それは常に傾向に過ぎず、決して必然ではなかった。その性質は停滞しがちで、地理的な広がりも限られていた。必要な支援は、断片的にしか見つからなかったのである。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-05-01

URL: https://braddelong.substack.com/p/theories-of-economic-history-v-commerce 

経済成長には何も必然性はない。歴史的結果として(多少なりとも)持続的に観察された「傾向」というものだという認識は、「成長」に劣らず現代世界の人で信じる人が多い「民主主義」にも当てはまるというのが、昔からの個人的感想であったので、同じような事を言う人はどこかにいるのだネエ、と。そう思った次第。

続けよう。

Plus there were the occasional reversals. We know more than Hicks did now about the post year -1200 late Bronze Age collapse, during which the Greeks forget how to write. We know more about the post-Song retreat of China’s iron production. We know more of what caused the D—I understand we are not supposed to call it that: call it the post-200 Late-Antiquity Pause, the thing that led to a world in which, somehow, by the year 750, in both Europe and in China, people were looking around and marveling at the accomplishments of the earlier Hellenistic and Roman and Han civilizations at their height, and mourning their situation as unworthy descendants of mightier men.

さらに、時には逆転現象も起こりました。紀元前1200年以降の青銅器時代後期の崩壊、つまりギリシャ人が文字の書き方を忘れてしまった時期については、ヒックスが当時知っていたよりも多くのことが分かっています。宋代以降の中国の鉄生産の衰退についても、より多くのことが分かっています。D期(そう呼ぶべきではないことは承知していますが、紀元前200年以降の古代末期の停滞期と呼ぶべきでしょう)の原因についても、より多くのことが分かっています。この停滞期によって、どういうわけか、750年までにヨーロッパと中国の両方で、人々は周囲を見回して、最盛期のヘレニズム文明、ローマ文明、漢文明の業績に驚嘆し、より偉大な人々の後継者としてふさわしくない自分たちの境遇を嘆くようになったのです。 

過去を賛美する所が儒学にはある。これも、しかし、事実に基づいた学問的知見であるというわけだ。

現代では「科学主義」が浸透している。現代人は、前の時代に生きた人より「進んでいる」と確信している。しかし、その確信には(実は)根拠がないわけである。進んだ科学は、先人たちが達成した成果であり、現世代が進んでいることを意味しない。

いま進行しているのは、人の大脳内部で起きている「思考現象」を半導体でそのまま模倣しようとするAI(人工知能)の研究開発である。思考(のような動作)を再現できるとしても、AI(人工知能)が「自我を意識した精神」であると思う人は一人もいない。そもそもよく言えば「人工」、悪く言えば「もどき」なのであり、それを実現可能にした基礎理論は何十年も前からあったわけである。


古代社会で華やかな文明が栄えたにもかかわらず、次第に創造性を失い、「民族の大規模な移動」をきっかけにして自壊するかのように、文明社会としては瓦解し、百年単位の「暗黒時代」を送ったことは、最近になって小生が関心を集中させている領域である。トインビーは、西洋については375年から675年までの300年間を混沌の時代と評しているし、この事情は中国についても後漢の滅亡から三国時代、南北朝を経て隋唐時代までの長い期間に当てはまっている。

文明の歴史の長い時間においては、「進歩の時代」と「後退の時代」が交互に現れると考えておいてもよいかもしれない。

理論家・ヒックスがこの辺の問題に知的興味を抱いていたのは、単なる経済学者ではなく、もっと水準の高い文人であった証拠だろう。

Hicks also concluded that fixed-capital industrialization—the key source of prosperity—required both science coming in from left field, and also the development of unusual institutions of financial deepening to make people willing to invest in things that coud not be liquidated for cash whenever events went rapidly south and the panic spread. Hicks also concluded that the system was very unlikely to deliver general wage increases, at least not until it had spread enough to a large enough scale to get you exhaustion of the W. Arthur Lewis labor surplus in the countryside; or until you got unions strong enough to enforce rent-sharing for a labor aristocracy. Hicks also concluded that the beginning, the development, and the future of the future of this process always was and is a dicey political-sociological question.

ヒックスはまた、繁栄の源泉である固定資本工業化には、異分野からの科学の流入と、事態が急激に悪化しパニックが広がるたびに現金化できないものに人々が投資する意欲を持たせるための、金融深化のための異例の制度の発展の両方が必要だと結論付けた。ヒックスはまた、このシステムが一般賃金の上昇をもたらす可能性は非常に低いと結論付けた。少なくとも、農村部におけるW・アーサー・ルイスの労働余剰が枯渇するほど大規模に普及するか、労働貴族のために地代分配を強制できるほど強力な労働組合が形成されるまでは、そうだろうと結論付けた。ヒックスはまた、このプロセスの始まり、発展、そして未来の見通しは、常に厄介な政治社会学的問題であったし、今もそうであると結論付けた。

《科学と工業》との決して切り離せない密接な関係性は言うまでもない。この関係性に加えて《信用と金融》が寄り添うことで、産業革命が進行し、現代の資本主義文明の大輪の花が開いたわけである。その過程で実質賃金が着実に上昇し、生活水準も向上したのであったが、これはこれで余剰労働力とのバランスから起きた現象であったというのは、経済理論に忠実な理解だ。しかし、過去において起きたから今後も同じことが起きるだろうとは言えない。それは人口と生産性との関係が決めることで、未来を予測することは出来ないとも言っている。

やはりヒックスは『賃金の理論』から研究をスタートさせた経済学者である。

いま急速に発展しつつある《AI(人工知能)》と先進国に共通する《少子化》という変化を観察するとき、ヒックスならどう思考するだろうか?

人口と経済発展は、マルサスの『人口論』を待つまでもなく、最初に経済学者の注意を引いた最重要な研究テーマである。

人口は幾何級数的に増加する一方で食料は算術級数的にしか増えないので必ず過剰人口が発生し賃金は最低生存レベルにまで低下する。

マルクスが『資本論』を執筆していた頃、広く流布されていた「賃金鉄則」だが、その後の経済成長によって「予言」は見事に外れたというのは、少し前の経済成長論テキストでお得意のエピソードであった。

しかし、まさか、どの国も高度文明化するに伴って《少子化》が進むと誰が予測しただろう?

所得分配の不平等化については、日本の経済学界でもこの50年程で多くの経済学者の問題意識を刺激し、研究成果が蓄積されてきた。 

若いころはそれ程の差がつかなくとも、高齢になれば大きな差になるものだ

運動会の徒競走やマラソン競技をみずとも、この単純な理屈は誰でも理解できる。これに少子化が合わされば、

高齢化社会では資産分配の不平等度は上昇し、所得分配も不平等になる。

当然、こんな帰結が出て来るわけだ。 

しかし、分配に関連する要因は「年齢」だけではない。

他方、分配問題に投入されてきたほど少子化は研究されてきただろうか?

西洋の古代社会はローマ帝国が世界帝国となって完成形に至ったのだが、その衰退期に顕著であったのは来世志向(≒現世への絶望)の宗教、即ちキリスト教の浸透、非婚率の上昇、移民の増加とローマ社会の変質であった(と推測されているようだ)。

古代社会の瓦解を歴史的に更に詳細に研究する必要性は、今後にかけて一層高まるかもしれない。


2026年5月6日水曜日

ホンの一言: ト政権、一体何をやりたいのか分かりませんという状況

経済理論では文字通りのマイスターであるものの、政治的立場はかなり違うなアと感じてきたクルーグマン博士だが、最近は遠慮会釈のない自国の大統領批判に愉快さを感じるようになった。これも日本人ならではの気楽さか・・・アメリカ国民の苦衷を体感できないのが残念だ。

今回は、「再エネ」が大嫌いなトランプ大統領が、意図することなくしてグリーン・エネルギー重視の流れを決定づけてしまった状況を(面白おかしく?)紹介している。

The global energy transition — the shift from fossil fuels to electrotech, which uses solar, wind and batteries to power an electrified economy — is accelerating. It’s now clear that the closure of the Strait of Hormuz marks an inflection point: the global green energy curve, which was already on a rapidly rising trajectory, has suddenly become even steeper. “Investors,” reports the Financial Times, “are piling into clean energy funds.”

化石燃料から電気技術への移行、すなわち太陽光、風力、蓄電池を用いて電化経済を支える電気エネルギーへの移行は、世界的なエネルギー転換を加速させている。ホルムズ海峡の閉鎖は、まさに転換点となることは明らかだ。すでに急速に上昇していた世界のグリーンエネルギー曲線は、突如としてさらに急勾配になった。「投資家たちはクリーンエネルギーファンドに資金を集中させている」とフィナンシャル・タイムズは報じている。

This acceleration isn’t just a consequence of soaring fossil fuel prices. It is also the result of the worldwide realization that, with the end of Pax Americana, depending on imported hydrocarbons is a risk not worth taking. The United States cannot be relied on to keep sea lanes open when cheap drones can take out an oil tanker or a major pipeline. Even relying on oil and gas from America itself is dangerous, since one never knows when an erratic U.S. government – now under the control of a twice-elected malignant narcissist — will try to use energy as a tool of coercion.

この加速は、化石燃料価格の高騰だけがもたらしたものではない。それはまた、パックス・アメリカーナの終焉に伴って、「輸入炭化水素に依存するのは、敢えて取るほどの価値がないリスクだ」、そんな認識が世界中に広まってしまった結果でもある。安価なドローンが石油タンカーや主要パイプラインを破壊できる状況では、米国が海上航路の安全を確保してくれるとは期待できない。米国産の石油やガスに頼ることだって危ない。なぜなら、二度も選出された悪質な「自己肥大症患者(ナルシスト)」が君臨する不安定なアメリカ政府が、いつエネルギーを我意を押し付けるための強制(脅迫?)手段にするか分からないからだ。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: May 05, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/trump-is-losing-a-second-war

オバマ、バイデン両氏の民主党政権下で進められた《再エネ重視路線》、

坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い

ということか?『掘って、掘って、掘りまくれ』と石油業界に活を入れていたのがト大統領だ。

しかるに、自分自身が最も嫌っている再エネ・ビジネスに、意図することなくして、わざわざ絶好のチャンスをいま与えている。ク博士も

何をやりたいのか、サッパリ分かりません

と言いたい感覚が伝わってくる。


100年前のハーディング政権は「オハイオ・ギャング」と言われていたそうで、その後「史上最低の大統領・ワーストワン・ランキング」の常連  ―  いや「アメリカ史上最も腐敗した政権ランキング」であったか?  ―  であったが、今のトランプ政権、何と呼ばれるようになるのだろうか?

そういえばハーディング大統領も共和党選出の大統領であった。


2026年5月3日日曜日

断想: 君子、豹変する。というより、豹変できる、と言うべきか?

朝、目が覚める前に、変な事を考えていた・・・

君子は豹変する

という古来の名句である。日本では「豹変」を悪い意味に使うことが多いが、

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

『間違った』と気づいた時点で直ちに止めることの大切さは、日本でもよく引き合いに出される。


今秋に予定されるアメリカ中間選挙で与党・共和党が苦境に立たされている由。某世論調査では、現・連邦議会は信頼できないと回答した者の割合が9割を超えたというから、大統領自身より先に与党が先に崖っぷちに追い込まれている模様だ。

マア、分かります。そりゃ、当然こうなるワナとしか思えません。

とはいえ、必敗の状況の中、手詰まりになったト大統領になお選択可能な道がある(かもしれない)。

それは、ネタニヤフ・イスラエル首相を生贄(Scapegoat)に差し出すことである。

私はイスラエルに騙された。ネタニヤフが私に嘘をついたのだ。

と。イスラエル抜きで停戦し、イスラエルへの軍事支援を止め、パレスチナ難民への支援を強化する。


文字通り

君子、豹変する。

ユダヤ層とは亀裂が入るだろう。その一方で、アラブ系住民はト大統領を見直すだろう。

《史上最低の愚かな大統領》との評価は確定的になるだろうが、傷は最小限にとどめられるかもしれない。

うまく行くかどうかは分からない。そもそもト大統領、「君子」ではないはずだ。しかし、今歩いている道は「行き止まり」であろう。


起きる前の夢の中の話しである。面白いと思ったので覚書きまで。


2026年5月2日土曜日

前稿の補足: 社会は人生ゲームの競技場ではない

前の投稿でこんな下りを書いた:

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

このブログで何度も書いているが、小生は折り紙付きの偏屈者だ。智慧もない凡夫だ。一口に言うと、だから、扱いにくい唯のヒトである。なので、小生にとって現代日本の世間は決して「生きやすい空間」ではなかったし、今もそうではない。書きたいことを書いて、それでも治安当局の任意聴取の対象にならないのは、「違法行為」、「要注意人物」としてマークされていないからだろう。

今更だが

アメリカでは原則自由、例外禁止。日本では原則禁止、例外自由。

こう言われることが多い。昨年の夏に亡くなった旧友・O君なら

世界の常識は日本では非常識。日本の常識は世界では非常識。

これまた今でも耳にすることが多い。日本は島国であるせいか、自分たちの美的感覚、社会的常識を頑なに守っても、それで困ることはなかったし、外国と軋轢を生じさせることも少なかった。

小生はというと、自由に行動する時も、常に周囲の目、合法か違法か、規則に違反していないか、こんな事ばかりを意識してきた。いやあ、よくもまあ懲戒処分もされず、無事にやって来れたことよと、改めて我が身の幸運に感謝している。友人の一人は、「学内不正経理」とやらで六カ月停職の憂き目にあった。尊敬する我が先輩は「セクハラ」を理由に譴責を蒙ってしまった。

近年の日本は誠に剣呑な世になっている。

リアルな体感はないが、活発だった田沼時代の後の寛政期、華やかな文化文政時代の後の天保の改革期も、同じような雰囲気だったのだろうと想像する。というか、大正から昭和にかけての急激な世の空気の変化も、今と同じようだったのだろう。

しかし意外なことに、今では単なる"Japanese"が"Japanesque"と評価されることもあるから、小生の田舎でいう「キョロマ」とは正反対の「頑固」なお国柄が功を奏することもある。

ただごく最近感じるのは、いわゆる「日本風」が世界的観光の有力地として台頭するのに刺激されたか、日本人が過剰に保守的になって、外面は優しくて寛容だが、内面は(その実)器が小さくて神経質。こんな世相を痛感することママあり。

他人は自分の鏡ではない。他人の心に自分を見るのではなく、自分の姿は自己自身のみが知る。これを徹底したいものであります。


ネットによれば、暴力団組長の葬儀に出席して取材をした新聞記者が世間で非難されている由。何も会社から指示されたのではなく、香典も自費で払ったとのこと。

どうやら「反社」とは一切の接触を断てという「お上のご条例」があるそうで。

これなどは《棲み分け》を容認しない現代日本の世相、価値観を象徴している。

棲み分け否定、同化絶対、異分子排除を貫く《イスラエル主義》を日本人は批判できんナア

そう感じる次第。


現代人は世の中を何か人生ゲームの《競技場》とでも思っているのではないかしらン・・・ゲームや競技なら統一ルールが要るのは確かだ。ルールに違反するとファウルになり、繰り返せば《退場》となる。度を越せば《永久追放》と相なる。

しかし、日本は競技場ではないし、人生はゲームでもない。勝敗を争っているわけでもない。全ての日本人は意志によってこの国に生まれたのではない。人生ゲームに参加しようと考えたわけじゃあない。居場所があればいい。価値観が合わない人とは棲み分けして、感性が一致する人と楽しくやれれば満足なのだ。人に迷惑をかけなければ好きな事をやって生きたいと願うのは凡夫の性だろう。あれはダメ、これは禁止というのも程合いがある。


全ての人には生まれた国で居場所を得る生得の権利がある。法を犯せば刑罰が伴うが、接触、会話までを絶てという権限など、最初からお上にあるはずはない。犯罪を手伝えば共犯だが、「食事をともにしたから処罰しろ」という社会は、小生の目には《暗黒社会》にみえる。どちらが暴力団か分からなくなる。

事実を虚心に観察すれば、いまのアメリカは暴力団的である。同じように我々の社会が組織暴力団的になる可能性は常にある。そう思われますがネエ…

【加筆修正:2026-5-3】

2026年4月30日木曜日

断想: 「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる?

いかにも現代日本(特有?)の世相を映していると感じる記事は毎日見かけるもので、たとえば

 現在の大学のキャンパスでは、セクハラなどのハラスメント防止の啓発は学生同士の関係においても進んでいる。

 同じ学部、同じコミュニティ、同じ界隈といった範囲での炎上騒動を身近で見聞きしている若者も少なくなく、特に問題になりやすいのはやはり異性との関係だ。 

 そういう自分にとってリスクになるタブー要素を若者は意識的にも無意識的にも避け、コンプライアンス(コンプラ)を遵守するようになっている。 

Source: YAHOO! JAPAN ニュース

Original: PRESIDENT Online

Date: 2026-04-29

コンプライアンス(Compliance)については前にも投稿したことがある。

確かに、アメリカ社会などでは《自由》の価値、《個人の実存》が日本よりは遥かに徹底されて意識されているようだから、《法》の尊重が強調されるのは、社会のバランスをとる上で必要だと思う  ―   特にトランプ現政権の関係者にはコンプライアンスの感覚を徹底して持ってもらいたいと思う。現状はただ「無法」に近いのじゃあないかとも、真面目な日本人は感じる。

他方、日本人は視野の中に車が1台も見えない時でも、歩行者は信号が赤から青に変わるまで大人しく、というか真面目に待つというお国柄である。そんな国で《コンプライアンス》を強調したらどうなるか?

上に引用した下りは、社会的な帰結を示す一例でもあろう。

上の記事は以下のように続く:

 そんな調子だから、一緒に連れだって出かける時の「一番居心地のいい組み合わせ」も大幅に同性寄りにシフトしている(図表2)。恋愛至上主義真っ只中の1994年調査では約4割が「異性との二人」を挙げており、また、「男女二人ずつ」というダブルデート的な組み合わせを選ぶ人も約3割いた。

 異性を含めた組み合わせを選んだ人は合計で約75%に及ぶ。それが2024年調査では異性を含む組み合わせを全て合計しても35%程度にまで減少しているのだ。

 一方で大幅に増加したのが「同性同士の二人」。3人中2人はこの組み合わせを一番居心地がいいと回答している。同性との居心地が良くなった、という側面もあるだろうが、それ以上に異性との居心地が悪くなった、気の置けない関係が作りにくくなったことを痛感させられるデータだ。

一度《性的変質者》として烙印を押されてしまうと、その人は《男女共同参画》を基本理念とする現代日本では、ほとんど《社会的死》とほぼ同等の宣告を受けてしまうのが現実だろう。(特に男性が?)異性との交際、というか必要以上の親密さを避けるのも、リスク・マネジメントとしては賢明な戦略であり、いわば人生を生きていく上での《支配戦略》になっているのだと思う。

実際に「性的トラブル」を起こした人物は、支配戦略に沿って意思決定できなかった頭の悪い「落ちこぼれ」である、と。社会的には「無用」である、と。そういう事なのでありましょうか?

これは男女を問わないと思われるが、異性との一時的交友を楽しみたいと願うなら、有料ビジネスの場においてサービス消費として時間を過ごすのが最も安全である  ―   それでも不同意であったか同意であったかで、しばしばトラブルが発生しているようだが。

ま、いずれにしても、男女の交際にまでリスク・マネジメントの感覚が必要だと感じさせる現代日本社会において《少子化》が進むのは、当たり前だと思う次第。

夏目漱石は、『三四郎』に登場する「偉大なる暗闇」こと広田先生に、発展する日本を評して「滅びるね」と言わせているが、社会や国というのは、一生懸命に「そうなろう」と統一行動すればするほど、逆にそうはなれないものである。今のコンプライアンス運動、こんな調子であと10年やって行けるイメージがわきません。

自由と法の重みには必ずバランスがある。一方ばかり強調すると、いつか、どこかが破れる。

むしろ

男女七歳にして席を同じうせず

教育の場で男女分離を徹底し、公共・職場においても必要以上の男女の接触を断ち、その代わりに異性の友人関係については「血縁」、「地縁」に代わって、ずっと昔は町のどこにでもいた《お節介な世話好き叔母さん》が無報酬で、ただ親切心だけで果たしていた役割と同じような、何らかの、社会的に容認されるような、新たな《社会的慣行》が日本社会に定着するまでは、いまの息詰まるような学内環境、職場環境は続くのではないか。少子化も傾向として続くのではないか。そう思われます。

そうでなければ「男女共同参画社会」ではなく「男女共同参画特区」でも創ればよろしかろう、と。

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

昔の「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる。

日本社会は実はなにも変わってはいないが、いま目指している社会システムとそれに必要な倫理感覚が、日本人をハッピーにするのではなく、むしろアンハッピーにしている。そんな風に思われたりするのだ、な・・・