2026年10月6日火曜日

ホンの一言: トランプ政権、100年前のハーディング政権の再来なのか?

約100年前の米大統領にハーディング大統領がいる。このウォレン・ハーディング氏、米国史上最悪の大統領として長らくトップの座(ないしトップクラス?)を守ってきたことは前にも投稿したことがある。前の投稿は2017年のことだから第一次トランプ政権の時期だ。ハーディング政権はその腐敗ぶりから米市民からは「オハイオ・ギャング」と呼ばれたそうだが、この伝で行くとトランプ現政権は「ニューヨーク・ギャング」と呼ばれることになるのだろうか?

"Ohio Gang"は既に定着した固有名詞としても通用するらしく、例えばWikipediaでも検索することが出来る。そこでは

The Ohio Gang was a gang of politicians and industry leaders closely surrounding Warren G. Harding, the 29th president of the United States. Many of these individuals came into Harding's personal orbit during his tenure as a state-level politician in Ohio, hence the name.

During the Harding administration, several members of the Ohio Gang became involved in financial scandals. These included the Teapot Dome scandal and apparent malfeasance at the U.S. Department of Justice, some of which ended in prison terms and a suicide. Following Harding's sudden death of a heart attack in 1923, many members of the Ohio Gang were effectively removed from the corridors of power by Harding's vice president and successor, Calvin Coolidge.

オハイオ・ギャングとは、第29代アメリカ合衆国大統領ウォーレン・G・ハーディングを取り巻く政治家や産業界のリーダーたちの集団である。これらの人物の多くは、ハーディングがオハイオ州の州政治家だった時代に彼の個人的な交友関係に入ったことから、この名前が付けられた。

ハーディング政権時代、オハイオ・ギャングのメンバー数名が金融スキャンダルに関与した。これにはティーポット・ドーム事件や米国司法省における不正行為などが含まれ、中には懲役刑や自殺に至った者もいた。1923年にハーディングが心臓発作で急死すると、オハイオ・ギャングのメンバーの多くは、ハーディングの副大統領であり後継者であるカルビン・クーリッジによって権力の中枢から事実上排除された。

まさに史上最大級の腐敗政権であった史実が淡々と述べられているとともに、関係者の哀れな最期も紹介されている。

*

トランプ現政権の腐敗ぶりについては、もはや「天敵」とも言えるノーベル経済学賞受賞者・クルーグマン博士がごく最近こんな風に述べている:

The level of corruption that Trump has engaged in and enabled in others is completely unprecedented – self-dealing that, as Trump would say, is like nothing anybody has ever seen before. America currently has a Republican president who, along with his family, has raked in billions, possibly close to 10 billion dollars in personal gain from office in less than two years. He has effectively sold criminal pardons to scammers, invalidating the legal claims of their victims for restitution. His son-in-law Jared Kushner has become a billionaire running an investment fund for Gulf petro-state autocrats despite having no discernible investment skills. The Times just reported that Kristi Noem paid hundreds of millions over the reasonable price for 5 aircraft – one of which contains a marble bathroom and luxury bedroom – that were ostensibly for deportations but are instead sitting on the runway. And then there’s Trump’s Secretary of the Commerce, Howard Lutnick, whose family has doubled its net worth to over 7 billion dollars, largely through its investments in Tether, the crypto-currency of choice by Iran, terrorists and rogue states.

トランプ氏自身が関与し、また他者にも助長してきた汚職の規模は、まさに前代未聞です。それはトランプ氏流の言い回しを借りれば、「誰もかつて見たことのないような」私利私欲のための不正行為と言えるでしょう。現在のアメリカには、就任から2年足らずの間に、家族と共に数十億ドル、あるいは100億ドル近くもの私的利益を職務を通じてかき集めた共和党の大統領が存在します。彼は事実上、詐欺師たちに恩赦を「売却」し、それによって被害者が求めていた賠償の法的権利を無効にしてきました。また、義理の息子であるジャレッド・クシュナー氏は、投資に関する目立った手腕がないにもかかわらず、ペルシャ湾岸の産油国の独裁者たちのために投資ファンドを運営することで、億万長者となりました。さらに「ニューヨーク・タイムズ」紙の最近の報道によれば、クリスティ・ノーム氏は、表向きは強制送還用とされた5機の航空機(そのうちの1機には大理石のバスルームや豪華な寝室が備わっています)の購入に際し、適正価格を数億ドルも上回る金額を支払いましたが、それらの機体は結局、滑走路に放置されたままになっています。そして、トランプ政権の商務長官ハワード・ラトニック氏も忘れてはなりません。彼の家族は、イランやテロリスト、ならず者国家が好んで利用する暗号資産「テザー(Tether)」への投資などを通じて純資産を倍増させ、70億ドルを超える規模にまで拡大させています。

Source: substack.com

Author: Paul Krugman

Date: 2026-10-05

 トランプ氏自身が関与し、また他者にも助長してきた汚職の規模は、まさに前代未聞です。

こんな風に、ズバリ断言している。アメリカ人であるクルーグマン氏がハーディング政権の事を知らないはずはない。

彼は事実上、詐欺師たちに恩赦を「売却」し、それによって被害者が求めていた賠償の法的権利を無効にしてきました。

という下りは、(多分)詐欺犯罪者から賄賂を受け取り、その見返りに大統領恩赦によって無罪放免し、結果として詐欺被害者が受け取るべき損賠賠償金を無にしている。つまり、被害者が受け取るべき賠償金を被害者に渡すのではなく、自分のポケットに合法的に着服している、文意はこんなところであろう。

*

政権の腐敗ぶりにおいて、トランプ政権は100年前の"The Worst One"を超える新記録を樹立しつつあることに間違いはないようだ。

そのトランプ政権との蜜月関係をほとんど「唯一の政治資源」として総理の座を守る高市首相は一体これからどんな歴史的評価を受けるのだろうか?

他人事ながら心配になります。空前の対米投資も約束させられている模様だし、多分、汚泥が飛んでくるような可能性も高いのでありましょう。

アメリカの中間選挙ももちろん大事だが、それとは独立して今後将来にかけて、不可避と予想される《汚職追及》、《腐敗追及》に日本がどんな風に巻き込まれるのか、巻き込まれないのか?

この辺も「面白い」と言っては失礼だが、結構ポイントになってくるのではないかと思っている次第。

クルーグマン先生も

The cesspit of corruption that is Donald Trump’s presidency is finally getting the attention it deserves. It’s about time. And if a massive blue wave sweeps Washington on November 3rd as polls now suggest, Democrats should put corruption front and center of their agenda in Congress.

ドナルド・トランプ大統領の腐敗の温床は、ようやく然るべき注目を集めるようになった。まさに待望のことだ。そして、世論調査が示唆するように、11月3日にワシントンで民主党が圧勝すれば、民主党は議会において腐敗対策を最優先課題として掲げるべきだ。

クルーグマン先生、ト大統領の天敵となっているが、どうやら高市首相にとっても自動的に天敵になりつつあるのかもしれない。

だとすれば、日本にとっては損なことである。


2026年10月3日土曜日

断想: 「理性」が「神」を認識しているのだとすれば・・・

異なった人は異なった意識をもつ。

宗教的信仰と言ってもそれは人の意識にあるものだ。信仰の対象を「神」と呼んでもいいし、「〇〇仏」と呼んでもイイが、たとえ唯一神を信仰する宗教であっても、異なった人が信仰する「神」が同一の神であることを、どうやって証明できるのか?

二人の人が唯一の神を信仰していると言っている場合でも、信仰される二つの神が実は同一であるためには、その神は別々の二人の心の中にのみ在るものではないという理屈になる。主観の外、つまり客観的世界の中に二人が共有できる唯一の神は存在しなければならない。

つまり、キリスト教やイスラム教など唯一の神を信仰する宗教における「神」は、一人一人の主観の中に在るのではなく、主観の外にあるものだ。

唯一の《創造主》を数学の公理のように最初に措定するのは自然な始め方である。

しかし、客観世界における「神」は人間の感覚器官によっては観察できない。


この疑問に答えを出すには、「理性」は異なった人の間で同一であると考えなければならない。数学の定理が万人共通の定理であるのと同じで、理性によって認識される唯一の神は、万人共通の唯一神という結論になる。


「理性」が認識する「神」は、確かに唯一神として認識するなら、同じ神でなければならない、がしかし、キリスト教の神とイスラム教の神は異なっている(ものと理解している)。二つの宗派が認識している神は、理性によって認識された神ではないという理屈になる。

理性によって認識されていない「神」が多くの人によって「同一の唯一の神」として共通に信仰されている理由は(小生には)分からぬ。少なくともロジックが通らない気がする。


10月に入って早々、変な屁理屈を書いた。

これまた暇ということでござんしょう。

2026年9月26日土曜日

断想: 人生とマラソンを語るのは難しい。「初」だとすれば。

たとえて言えば、人生はマラソンのようなもので、一種の長距離走である。山あり、谷あり、落ちていくかと思えば、後半の追い込みもあるという所は、実人生にも通じることが多いと思って観ている。

どれほど練習をしても、努力をしても、もって生まれた才能と素質にめぐまれた人には、まず絶対に勝てない。そんなところも、実人生という一度切りの舞台と似ている点がある。

一度切りの人生と、初めてのマラソン。お互いに似ていると感じるのは小生だけだろうか?


そのマラソンだが、10キロ地点、20キロ地点、30キロ地点、ゴールまでの最終盤まで、実力の差を反映する形で、段々と差が広がっていくのは、当然の理屈である。力が拮抗している走者は最後まで競り合うが、力の差が明瞭であれば、1キロ走るごとに10秒ずつ離されていくものだ。40キロ走ればその40倍だから400秒、7分近い大差となる。1キロ走って10秒しか差がつかないのは、力の差がほとんどないように見える。しかし、長い距離を走れば、少しの差も大きな違いになって表れて来るのである。

毎日の暮らし、毎年の収入、俗にいえば《出世》とか《生活水準》も同じである。小学校、中学校を卒業する段階では、学力という限られた次元においても、それほどの差はなく、いつでも挽回できるように思うものだ。しかし、30歳になり、40歳になり、50歳、60歳になるにつれて、格差はとんでもなく大きいものになる。

いまの《格差拡大》は、平均寿命が延びて多くの人が非常に高齢になるまで競争を続ける当然の結果である、というのは本ブログでも何回か述べたことがある。


小生は、いまの世相は嫌いである。特に、民主主義社会は平等を実現するべきものだという俗な思い込みには、腹が立つことが多い。

腹は立たないが、苦々しく思うのは、30歳、40歳の段階で人生を語る人が最近は実に多いことである。これは、まるで20キロ地点まで走っているにすぎないのに、完走したかのようにマラソンというものを語るのと同じではないか。

前半20キロで経験することにも色々な波乱、浮き沈み、計算違いはある。しかし、後半の20キロ、最後の2キロ余りにどんなことが起きるのか?人生が初めてなら、マラソンも初めての場合を連想するべきだ。初めてなのだ。20キロの経験でマラソンとはどういうものかが分かるはずはない。初めてなら。人生が分かるのは、端的に言えば、体が動かなくなった状態を迎えたときである。

仏道の発願文には

命終の時に臨んで、心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せず。

という下りがあるが、初めて走ったマラソンを語ることが出来るのは、走り終えた後のことであろう。初めて走るマラソンの20キロ地点で「こんなものか」と考えている人は、後半20キロで予想外の状態に襲われ、慌てふためくのが落ちである。


「知っている」と言うのは、見たり、聞いたり、人に教えてもらっているからである。これが「学問」の効能に相当する。

しかし、知識が頭に入ったから、「もう出来ます」といえるなら、人が失敗することなどあるはずがない。


真の知識は経験を通してのみ得られるという《経験主義者》の言い分は小生も好きだった。若いころから実はそちらの側に立っていたのだ   ―   それではダメだというのは、前にも触れたがデイビッド・ドイッチュの『無限の始まり』を読んでからだ。

10歳の子供が20歳になったときに考える(であろう)ことは想像するしかない。多くの人は実際に20歳になって想像が裏切られるはずだ。20歳の自分が30歳の自分を想像するときもやはり裏切られる。こんな風に裏切られ続ける経験が、正に《人生の経験》であって、真の知識は経験を通して獲得できる  ―   もちろん経験だけではダメである。

夏目漱石は、49歳で亡くなったから、老後の人生の哀愁はあまり書けていない。芥川龍之介の作品に老人は登場するが、芥川の作品に登場する老人は若い精神をもっていることにすぐに気がつく。谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』はよく書けているが、これは谷崎が75歳から76歳にかけての作品である。

作家といえども経験してもいない老後の心理は書けるものではない。


ただ、年齢を問わず、理性だけは共通の形式で働く。老人には老人の理性があり、若者には若者の理性があるわけではない。数学の問題は、年齢を問わず、同じ答えに至る。心は、年齢に応じて経験するしか分かるはずはないが、理性で分析できる経済問題、住宅問題、法律問題などは、世代をとわず合理的に議論することが出来る。

合理的に議論する問題だけをテーマとしても、社会的に重要な論点はほぼ全てカバーできるはずである。非合理的な問題は・・・これはいかにメディアといえども、沈黙するしかない。分からないものは、分からないのである。多数決・・・? バカバカしい。

2026年9月24日木曜日

断想: 日本人の中国観、対中感情にはサイクルがあるようで

近代日本史は、急速な発展と挫折・崩壊のサイクルを繰り返している。時代が変わってもその循環性は驚くほどに単純反復に近いようだ。

確かに、日本に近代という時代を押し付けたのは欧米の乱暴な外交だ。しかし、開国してから後の近代日本の不安定な発展と挫折のサイクルは、大体が対中外交の成功と失敗にシンクロしているところがある(と勝手に理解している)。

近代だけではない。歴史全体を通して対中外交の成否は日本史を理解する肝である。

対欧米外交は対中外交を起点にして派生的、波及的に決まってきた(と勝手に思っている)。

*

日本人の中国観は、過剰に尊敬する時代と過剰に蔑視する時代とが交代してきた。

時代が交代するというより、親中国的な人の数と反中国的な人の数とが、何年周期かごとにどちらか一方が優勢になるかと思えば、次は劣勢であった側が逆に優勢になる、そんなサイクルが日本人の社会心理、メンタリティには明瞭にあると思っている。

こんな奇妙なサイクルは、対アメリカに対しては認められない。ヨーロッパに対しても概ねそうである。アメリカに対しては(偏った人たちは確かにいたが)太平洋戦争中の時ですら、多くの日本人は実はホンネの部分では一貫して好意的だったと聞いたし、また戦後も自分の周囲を含め事情は同じだと観ている。ヨーロッパ、特に英・独・仏・伊といった西欧も、西洋文明への根源的な憧れが日本にはあり、やはり一貫してホンネは好意的である。少なくとも侮辱的でも侮蔑的でもない。この辺りが対中国の心理とは全く違う。

詳細な知識はないが、江戸時代中期以降に盛んになり明治維新への駆動力の一つにもなった《国学》が「唐意(からごころ)を排せ」と主張した根っこには、鎖国政策から必然的に生まれ出てきた感性がある、つまり(当時としては)グローバルな価値観といえた儒学(及び仏教?)に敵対するナショナルな反中観、排外志向があったのだろうと、勝手に憶測している。


それは何故生まれたかという深層心理学的な分析が実は日本精神を理解する鍵なのだろうと思う。

今は、明らかに反中国的な側にドライブがかかっている。これは単に習近平政権の戦狼外交のみがもたらしたものとは言えないと思う。

*

日本が中国をみるときの不安定な眼差しは、心理的なもので「どうでもよい」かもしれないが、日本の発展と挫折、というか時代の区切りが、対中外交の安定と危機の繰り返しと奇妙にシンクロしているのも、ある程度は事実じゃないだろうか  ―   逆サイクルか、順サイクルかは別として。

*

対中外交が不安定化することが、なぜ日本全体の成長と発展に影響するのか、色々な理屈付けが可能だ。

しかし、その時代と局面ごとに《世相》という雰囲気が形成されて、それが政治家の手足をしばり、日中外交のリアリティにも自己実現的な影響を及ぼし、最終的には東アジアの「戦争と平和」をも決めていくのだとすれば、日本という国の存在は案外に世界史的な重要性をもっている。そう言えるのかもしれない。

日本人の中国観は、アメリカにもヨーロッパにもロシアにも制御できない。日本社会の雰囲気を望ましい方向に変えることが出来る日本人も実は(政治家、文化人を含めて)いないのじゃないかと思う。

また暗い話になった。

2026年9月22日火曜日

前稿の補足: 「理屈」と「難信」について

前稿では『歎異抄』という古典を通して親鸞の思想に触れた。単なる読後感想を超えて、普段の読経や勤行を続ける心理とも関連性があると感じ始めているのだ。

岩波文庫の鈴木大拙『浄土系思想論』に収められている「他力の信心につきて ― 『教行信証』を読みて」は、読んでみると大拙流の『教行信証読後感』じゃないかと感じたりするのだが、その中にこんな下りがある。

自力では何故に他力が難信であるかと云うに、自力の本質は、分別であり、分析することであり、対象的に物を見て、いつも此から彼、彼から此へと動くことである。それで、まず弥陀を彼方において、自分に対立せしめる。而して彼の本願力なるものを考える、而して、或いは歴史的に、時間的に、存在論的に、知識論的に、或いはまた物理学的、唯物論的にさえこれを検討せんとする。それ故、他力の論理から益々遠ざかるので、弥陀も彼の浄土も否定せられ、したがって自分自身の立場さえ混乱に陥って収拾不可能になる。

まさに小生自身がたどってきた道である。考えてきたことは、論理の整合性という点で間違ってはいないと今でも思っているが、やはりどこかで行き詰るのではないかという予感は否定できないのであった。空しくはないが、不安であったと言えばいいか。


あとにこう続いている:

他力不可思議の論理を獲得せんには、どうしても分別智の制約からのがれねばならぬ。自力のはたらきをその根底から覆さねばならぬ。これが中々できぬので、「難信」ということにならざるを得ぬ。

分別智(≒理屈)とは分析の論理を指す。分析とは、自分と自分以外の世界を対立させて考える枠組みのことである。

宇宙には生命のない無機物と生物に由来する有機物がある。「我」には命がある。我をとりまくのは無機物と有機物である。無機物も有機物も素粒子から構成される物理的存在である点は同じである。生物の機能も、ある化学物質が別の化学物質へ変化する化学反応プロセスとして理解できる。つまりは素粒子の運動であり物理現象でもある。この議論を徹底して、現に考えている「我」、つまり自らの理性にも当てはめれば、人間の精神も自由意志も物質の運動として理解する唯物論になる。唯物論には、神も弥陀も入り込む余地はなく、浄土も来世もただの空想になる。

しかし、こんな科学主義はいずれ行き詰る、というより

闇の中で落とし物をした。街灯の下は明るい。そこを探せ!

確かに探せるのは明るい所に限られるから、上の方針は合理的である。しかし、どうも楽観的で合理的な行き方でスッパリと割り切っても、落とし物が見つかる保証はない。

分からンものは、分からンままでよい。それは最初からないと思え。

という発想に通じるところがある。

唯物論が荒唐無稽であるのは、何度も投稿してきたことで、間違いとは思わない。かといって、浄土信仰の道は行き止まりなく、ずっと続いているのか、と。やはり悩ましいのだ、な。


『仏説阿弥陀経』が成立したのは紀元1世紀頃だろうと推定されている。約二千年も前に書かれた阿弥陀経の結句にも

釋迦牟尼佛 能爲甚難 希有之事 能於娑婆國土 五濁惡世 劫濁 見濁 煩惱濁 衆生濁 命濁中 得阿耨多羅三藐三菩提 爲諸衆生 說是一切世間 難信之法

釈迦族の聖者、仏陀は、たいそう困難な事業を実現しています。それは苦悩の世界のなかでも五濁悪世と よばれる、時代の濁り、思想の濁り、煩悩の濁り、有情の濁り、寿命の濁りの濃い只中で、最高のさとりを完成し、さまざまな衆生のために、信じられることの 難しい法を説かれています。

URL:https://mjj.or.jp/amidakyou/amidakyou2

正に《信じてもらうのが難しい法(≒真理》、つまり「難信」のことが説明されている。 

親鸞の思想は、こんな「難信」を認めたうえで、それでも仏道信仰の成り立つ道筋は何かを追求している。

法然の専修念仏は、法然では完結しなかった。親鸞が必要であった。段々とそう思うようになっている。


以上、現時点の覚書きまで。


2026年9月18日金曜日

断想: 法然と親鸞の思想的な違い?

比較的新しい朝の習慣になった読経と称名念仏だが、月曜以外は千遍念仏をしているというのは少し前に投稿した。

短寸の線香一本が燃え尽きるまでが大体30分、昔流にいえば小半刻になる。この間、反復して阿弥陀如来の名を称えると概ね千遍称えることが出来る。しかし、そのためには息を深く吸って十念を早口で繰り返す動作がいる。それが毎日になると疲れが出て来るのだ、ナ。だから、最近はゆっくりとした発声で称えることにしている。そうすると、線香一本が燃え尽きるまでに700回乃至800回の念仏となる。


法然の『一紙小消息』には

行すくなしとても疑ふべからず。一念十念に足ぬべし。

と書かれている。回数の問題ではないのだ、と。

ただ同時に

行は一念十念なほ空しからずと信じて、無間に修すべし。一念なほ生る、況や多念をや。

とも書かれている。

「10回でいいなら11回以上は無駄だベ」という屁理屈は、いわゆる懈怠心で結果にはつながらない。中途半端はゼロと同じである。それで(続けられる範囲で)多念を実行しているというわけだ。


この《行》を中止するという心理はまったくない。前にも投稿したが、

疑いなく善である意志、善である行為は何であるか?

それは、一つには仏道にそって歩むことである。何かの縁があったのだろう、そう考えたから始めたことなのだが、それにしては、称名念仏を終えたあとに、いま一つ《嬉しさ》がない。《満足》は確かにあるのだが、《往生極楽》という観念がスッポリと胸に落ちない。嬉しさにつながって来ない。極楽世界の実在についてロジックは通ると考えているし、それは現代思想とも整合的であると理解しているが、いくら自我は空であるとはいえ、自身の死を迎えるのは、いくら非物質の心は破壊されないとしても、やはり文句なしに淋しいものであるし、可能なら元気で長生きが出来ればいいなあ、という心理は否定できない。

★

本ブログでも親鸞の言葉を記録した唯円の『歎異抄』は中高生の課題図書に最適だと何度も書いた記憶があるが、先日、読み直しているとこんな下りがあった:

「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころ、おろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

URL:https://minamimido.jp/online/tannisho202507/

「念仏を称えても、喜ぶ心がおきません。はやく極楽へいきたいという心もありません。どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、「この心、私(=親鸞)も疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、(案に相違して)喜べないところにこそ、いつ死んでも往生極楽は間違いないと思わざるを得ない理由がある。喜ばねばならないことを、喜べないのは、煩悩のしわざである。阿弥陀如来は、凡夫の心を百もご承知で、それでも凡夫を阿弥陀仏国に救いとるという意志(=本願)を明らかにされている。故に、他力の悲願は、このような私たちのためであったとさとり、この事をいよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。

つまり、いくら称名念仏をしても心から嬉しくなるわけではない。これが凡夫の(低レベルの)心の現実である。阿弥陀如来が建てた極楽浄土世界の定義は『無量寿経』に記されているが、凡夫救済を本願にしているのは明らかである。

だから、自分の心が迷うからと言って

これでいいのか? これではダメだ。

と自分を責める必要はない。逆に、「だからイイのだ」と。

親鸞の念仏は、自らの意志と選択から積み重ねる修行ではない。阿弥陀如来の方から凡夫を救いとろうと手を差し伸べる、その事を改めて知る、というか思い出すための念仏である。『無量寿経』の「東方偈」の一句

其仏本願力

聞名欲往生

皆悉到彼国

自致不退転

この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、

残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。

正にこの通りなのである、と。念仏を称えることは、阿弥陀仏の名を聞くことでもある。信じることと、称えることと、仏名を聞くことは三位一体であるというわけだ。

聞けば必ず救われる。自分の迷いが、逆に往生極楽へと救われることの確信へとつながるロジックが、ここに構成されている。

岩波文庫版『歎異抄』の第9章末にある注ではこんな風に書かれている:

念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に目覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。

まぎれもない《実存主義》である。巧みなまとめ方だ。

★

法然の『一枚起請文』の最重要なポイントは

ただ往生極楽おうじょうごくらくのためには、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと申もうして、疑うたがいなく往生おうじょうするぞと思おもい取とりて申もうす外ほかには別べつの仔細しさい候そうらわず。

URL:  https://www.chion-in.or.jp/okotoba/f23/

この一文である(と勝手に理解している)。法然の念仏は「往生するぞと思い取りて申す」ものである。「思い取りて」とは「自らが決心して」という意味である。

法然の他力本願は、確かに阿弥陀仏の本願を信じる他力思想なのであるが、

敢えてこの道を往くと自らが信じて選ぶのだ

この点では相当に自力的である。自力本願の禅宗の信徒が座禅を選ぶ決意と本質においてどこが違うだろうか?

親鸞の他力本願は、いわば《ポスト一枚起請文》だと勝手に思っている。

思い取りて 思い取りてなお わがこころ

     弥陀をうたがう 我が残れり

法然は《他の道を切って称える念仏》であるのに対して、親鸞の念仏は《切れない私》の救いの念仏である(と勝手に理解している)。自分から極楽に往くのではなく、向こうから送迎に来てくれるはずだ、何故なら自分は凡夫で弱者であるから、と。自分の意志でなく、阿弥陀仏の意志が自分を救うのである。この意味では、親鸞の他力思想は100パーセントの純粋な他力本願の仏道であると勝手に思っている。

まあ、細かい付け足しをするなら、阿弥陀仏の意志によって自分(という凡夫)がいま念仏を称えているという理解より、(この世界に法身としているはずの)釈迦如来のはからいによって自分はいま発願し、念仏を称えて往生極楽を志すようになった、と。こう理解する方が『仏説阿弥陀経』など浄土系原典にも忠実であるとは考えている。


いずれにしても、小生は、法然門下の弁長・良忠・源智の宗派に属するが、親鸞の思想を読んでいると、肩の力が抜けて、楽になるのは事実だ。


2026年9月14日月曜日

断想: ワード、エクセル、パワポの知識は剣術、能楽と同じ伝統芸能と化すか?

昨晩、小生が幼少年期を過ごした愛媛・松山で暮らす叔母から電話があり、亡くなった母の弟にあたる叔父が今月5日に他界したよし。小生にだけは知らせるようにと叔父が話していたそうで、それで電話をしたと言っていた。叔母は、話し始めたら声に詰まってもう涙声になるほどで、とても小生に電話など出来る状態ではないように感じたが、それでも叔父の言葉を覚えていて、かけてきたものと思われる。

ずっと昔、母方の祖父で裁判官をして生涯を送った祖父が喜寿・77歳を迎える祝いの席に、当時まだ健在だった父と母がそろって松山に帰ったことがある。その晩の祝宴には小生も同席した。今般亡くなった叔父と父は義理の間柄とはいえ、はた目にも波長があったと見えて、とても仲がよく、実姉であった母よりも叔父は義兄である父の方を慕っていたようなところがある。その夜、父は『武田節』を唄い、叔父は勤めていた農機具メーカーが熊本に持っていた事業所で仕事をしていたためか『田原坂』を謡った。調べは明るい肥後風であって薩摩風ではなかったと思う。父の声と叔父の歌声が交互に響くあの夜の母や叔母の笑顔はまだ眼前に髣髴とするのである。その夜、祝宴に出席していた大半の人は既に鬼籍に入ってしまった。

実に歳月怱々。この世は無常にして空である。

★

上の愚息は、隣町の食品加工会社で非正規従業員として簡単な現場仕事をしているのであるが、先日、正規社員になってみないかと問われたそうだ。新規の共同事業を他社と始めるようで、PCを使える人物を探しているということらしい。どうやら、このところの人手不足で中々補充できないので、非正規社員にまで範囲を広げて声をかけているのだろうと推察している。ビジネス現場でPCを使えるかと問われれば、今の常識ではMicrosoft Office、つまりはワードとエクセル、パワーポイントを使えるかと言う意味である(と言ってもイイだろう)。

愚息は、大学時代に少し経験したが、不安があるので今回は辞退したいと返事をしたそうである。


思うのだが、ワードやエクセル、パワーポイントの操作に熟達しているかなど、この問いかけは今後はほとんど意味が失われていくだろう。Copilotを上手に活用すれば十分だ。

何がデータで与えられていて、どんな分析をして、どんな資料をつくって、要点をどうまとめるかを、自然言語でAIに指示すれば、希望する成果は直ちに得られるはずである。

もはや統計ソフトRの非体系的な文法規則を学習してコーディングする必要はない。Pythonで使用するライブラリーに定義されているオブジェクトの名称や、そのオブジェクトが備えているオブジェクト・メソッドやクラス・メソッドを覚えていることの価値も大幅に低下した  ―   これらはAIが代わってやってくれるのであるから。それに「正解」がある場合は、AIは滅多に間違えない。Human ErrorよりAI Errorの方が遥かにレアであるという事実は大多数のユーザーが日常的に実感しているはずである。


愚息には、AIは何でも知っている友人だと思って上手に質問ができるようになれと話している。