2026年3月13日金曜日

断想: 「侮れヌ」を遥かに超える『ソフィーの世界』の素晴らしさ

学校時代の春季休業は休暇の中で最もノンビリと出来る2週間だった。宿題も何もないわけだから楽しくないはずがない。しかも季節は早春である。何をやるにも最適の季節だ。

こんな時、読書好きな友人は(やっと)読みたい本を読めていた(はずだ)。課題図書にこだわる必要はない。

小生もそんな風に春季休業を過ごせば余程ましな学校時代を送れたと思うが、いま思い出してもロクな事はしなかった。怠け者であった。大体、課題図書を真面目に読んだことなどなく、ずっと後年になってから読んでみて「後悔先に立たず」と感じたのは「後の祭り」というものだ。

『ソクラテスの弁明』は中高時代の課題図書の常連だ ― 多分、いまでもそうなのだと思う。唯円の『歎異抄』もそうだろう。この二冊に西田幾多郎の『善の研究』を併せて読めば、この世界を《生きる》ことの本質が見えてくる・・・というのは比較的最近に投稿したことがある。

今日は更に『ソフィーの世界』を追加しておきたい。

『ソフィーの世界』が世界的なベストセラーになって邦訳本が日本で発売されたのは1995年6月だった(ということな)ので30年以上も前になる。その頃、小生はもう小役人から足を洗い北海道に移ってきていた。仕事も教育の現場であったからこの本の評判は耳にしていたが、「いまさら少女向けの哲学書なンて読めるか」という、そんな気分でうっちゃっておいたのだ、ナ。

ところが、つい先日になって『ソフィーの世界』の漫画ヴァージョンがKindle Unlimitedにあったので、目を通してみる気になった。それで感じたのが

先入観や偏見は後悔の母である

という古来の経験則である。

それで日本語訳できちんと最初から読んでみようと思ったわけだ。

小生は《古代》という時代が非常に好きである。神話時代の後、宗教が定着する中世の前という中間に位置し、最後には古代文明が完成の域に達してから崩壊する。特に、西洋にあっては民主国家アテネの発展と没落、アレクサンドロスという専制君主によるヘレニズム社会の形成とグローバル化。ヘレニズム後のローマ帝国への統合と古代文明の完成。貨幣経済の浸透と社会的分業の発展。そして最終的には蛮族の移民増加と帝国のゲルマン化。キリスト教の浸透と皇帝の権威の相対化。無秩序化と通貨の瓦解、都市文明の崩壊、人口減少、分散的な農業社会、生活水準の低下と人口減少の負のループ・・・

古代という時代は、(特に西洋にあっては)小さなスケールで最初から最後まで閉じた歴史を示している、とそう思っているのだ。

それで、『ソフィーの世界』でも特に上巻が面白いと感じた。

今日は例によって、記憶に値する個所と個人的なコメントを覚書にしておきたい。

まずアウグスティヌスから。

神が世界をつくる前、神の考えのなかにはイデアがあった、とアウグスティヌスは考えたんだ。永遠のイデアを神のものにすることによって、プラトンが想定した永遠のイデアを救ったんだ」  「あったまいい!」

まあ、全体がこんな文体で進んでいく。想定読者層は、やはり中高生あたりなのだろう。

 悪をどう見るかでも、アウグスティヌスは新プラトン学派を踏まえている。悪があるというのは、善なる神がそこにいない、ということだ、とアウグスティヌスは考えた。プロティノスと同じだね。悪は独立して存在するものではなくて、なんでもない何かだ。なぜなら、神の創造物は善に決まっているからだ。悪は人間の不従順から発生する、とアウグスティヌスは考えた。

この本文に対してこんなコメントを付けている。

悪とは善の不在である。カントの倫理観、フィヒテの考え、シェリングの宇宙観にも通じるかも。仏理的な悪は、その人が前世から継承してきた業が煩悩として現勢化した心の働きで、この世界に具象化されたその人の本質を成すものだ。悪は善の不在ではなく、確かにこの世界に実在する(と小生は理解している)。善悪の理解が西洋と仏教世界ではかなり違うようだ。

三番目は 

 「アウグスティヌスは歴史を哲学と関連づけたヨーロッパの最初の哲学者だ、ということも憶えておいてほしいな。善と悪の闘いという発想はちっとも目新しくない。アウグスティヌスの新しさは、この闘いが歴史をつうじてつづくとしたことだ。この点では、アウグスティヌスにはプラトンの考え方はあんまり感じられない。アウグスティヌスは、旧約聖書の直線的な歴史観にしっかりと立脚している。アウグスティヌスは、神は全歴史を使って神の国をうちたてようとしている、と考えていた。

これに対するコメント:

正にヘーゲル!

ヘーゲルの「世界精神の弁証法的発展」とアウグスティヌスの「神の国を打ち立てるための闘い」とどこが違うか?

こんなメモをつけている。

経済学者ケインズは、『思想というのは、新しいようにみえて、実は過去の誰かの思想を衣替えして再登場させているものだ』と、こんな趣旨の文章を(どこかで)書き残しているが正にこれを思い出した。

次に、トーマス=アクィナス。この大神学者にして大哲学者の名は世界史の教科書にも登場するので知っている人は多いはずだ。が、小生の記憶ではどんな学問的成果を成し遂げた人物なのか、最後までよく分からなかった記憶がある。ただ、ヨーロッパの中世神学はプラトンではなくアリストテレスの哲学を基礎にしていた(と書かれていた)ことだけは覚えている。

まず

「トマス・アクィナスは、ぼくたちが哲学とか理性とか呼んでいるものと、キリストの啓示とか信仰と呼んでいるもののあいだにどうにもならない矛盾があるとは考えなかった。キリスト教が言うことと哲学が言うことは、しばしば重なりあう。ぼくたちは理性の助けによって、聖書に書いてあるのと同じ真理を究明できるんだ」

20世紀の数学者にして哲学者でもあったバートランド=ラッセルは、人類が獲得する《知の成果》は三つのカテゴリーに分類されるとして、最下辺に観察データから実証される「科学」、中間に科学を基礎づける先験的総合命題の集まりである哲学と数学、論理学。最上辺に理性だけでは真偽が確定せず、直観と信仰(更に神秘的経験、つまり啓示?)から獲得される宗教的真理。この三つの階層に区分されるとした   ―   宗教的真理が「真理」であるとすることに現代日本人は疑問を抱くかもしれないが、人類以外の動物は宗教とは無縁である。知性を備えた人類のみ神や浄土を考える。つまり数学とは違った別種の超越的世界も人間の知性の働きであるのは同じである。

最近の小生の立場はこんな風なので、上の引用文は正に友を得たように感じて「その通り!」と同感したわけだ。

(キリスト教の)教義と哲学的理性はしばしば重なり合う。同様に、数学的理性と物理化学的現象とそれを観察したデータは重なり合うものだ。

こんなコメントを付けている。

次に

トマスによれば、神は聖書と理性をとおして人間たちの前にみずからを啓示する。だから信仰の神学と自然の神学があることになる。道徳の分野でも同じことだ。聖書は、ぼくたちは神の意志にそって生きるべきだ、という。でも神はまたぼくたちに良心もあたえて、自然の原則にしたがって善悪を区別できるようにした。だから、道徳生活にも二つの道があることになる。ぼくたちはたとえ聖書を読まなくても、ほかの人を苦しめてはいけない、ということを知っている。自分がそうしてもらいたいようにほかの人にもしてあげるべきだ、と知っている。

これはカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』との関係そのものではないか。「良心」の声は常にささやかである。良心の声が聞こえない時、つまり善が不在であるとき、人は悪を為すのであるという倫理観は、西洋の伝統でもあるのだろう。

トマスは、植物や動物から人間へ、人間から天使へ、天使から神へと高まっていく存在の段階がある、と考えた。人間は動物と同じように、感覚器官をそなえた肉体をもっているけれど、人間にはまた、よくよく考える理性もある。

人の特性は「考える器官」である「大脳」を物質的器官として持っている所にある。その大脳の中で進行する生化学的反応プロセスを、どうすれば数学的思考、更には自由意志や目的設定に翻訳することが出来るのか?

この問いに回答できる日が来るとは、小生、どうしても想像できない。いま足元で発展中の「AI」は、神経回路網を模造的に構築して、回路網に発生する電気信号を人間の言葉と論理に対応づけるソフトウェアのことである。つまり「人工知能」とは人間が造った「知能」であるが、実在するのはソフトウェアという成果物、というよりそんなソフトウェアを生み出し得た人間の《知識》。知識こそが実在する抽象的な本体であるというのは何度も投稿したとおりだ。

「知識」は非物質的実在であるから空間の中に観察可能な対象としては存在しない。空間に属しないが、やはり現実に実在する何者かであることに変わりはない。そう言うしかないであろう。

最後に

 「・・・神は今、わたしたちのことも見ている?」  「そうだよ、きっとぼくたちのことも見ている。でも『今』じゃない。神にとって時間は、ぼくたちの時間のようには存在しない。ぼくたちの『今』は神の『今』ではない。ぼくたちにとって数週間が過ぎることは、神にとっても数週間が過ぎることを意味しない」

「神」を美術作品によって表現することは不適切であるし、そもそも不可能であるというのは、ユダヤ(セム語文化圏)の伝統に近いキリスト教東方正教派、イスラム教では現代でも守られている立場だ。

「神」や「浄土」という宗教的概念は、感覚を超えて理性だけで理解されうる存在で、いわば「四次元の時空間宇宙」や「多次元の超ひも宇宙」のような対象であるはずなのだ。日常的な勤行で目にする仏画やイコンは、神や浄土の似せ絵ではなく単なる「記号」であって、例えば微分記号や積分記号のようなもので、それが何を意味しているかを理解して初めて意味をなす。この辺のことも最近の何度かの投稿で書いた。

ただ、法然上人が『一枚起請文』でいう
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候そうらわず。
この下りは日本仏教の革命的精華だと思っていて、小生のような典型的な「凡夫」にも心の平安を得ることが可能な道を開いてくれたという点で、これまた普遍的宗教だと思っているのだ。


それにしても『ソフィーの世界』でも時々登場するノルウェーの、ソフィーは15歳だから中学校になるのか、その授業風景や宿題の内容には感動を通り越して、日本の小中学校との隔絶ぶりに愕然とするほどだ。
覚えさせるよりは自分で考える習慣を身につけさせる。

日本の学校教育とのあまりの違いに驚くほどだ。 

義務教育の使命は、出来るだけ多くの国民に《自分で考える》ことの重要さを伝えることにある。これが正真正銘のオーソドックスな路線というべきだろう。

同じ知識を共有し、同じ常識を共有することを目標とするのも確かに一つの行き方だ。国民的一体感を実現しやすいという利点もある。

しかし、世界の中で相対的に貧困化しながら国民的一体感を維持する義務教育には、そもそも大した価値はないのではないか? 

国民が相対的に貧困化しても、日本文化と天皇制を守り続けるためには一体感が必要なのだ

(そんなことはないと思うが)日本国の中枢はこんな風に考えているのだろうか?

「国家」というのは、国民がともに豊かになるなら統一的な学習を強要しても理屈は通るが、現代という時代はもはやそうではない。

自分で考えることが自分を救うことにもなるという時代、義務教育で教えるべき知識を「国」が定める方式は、もう正当性を失っているというべきだろう。

2026年3月9日月曜日

断想: 道理は君命や民意に優越する

 トランプ大統領が「イスラエルに唆されて?」対イラン軍事攻撃に踏み切った動機は(ほゞほゞ確実に?)今秋に予定されている中間選挙であるという巷の憶測は、小生もたぶんそうなのだろうナアと思っている。

何度も投稿してきたことだが

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

世界中で地域紛争の種を探しては、これに介入し、自分の政治的地位を自国内で高めて選挙を有利にしたいというタイプの行為は、国際平和のためにも《それ自体が戦争犯罪》として認定してほしいものだ。 

この意味では、プーチンもゼレンスキーもトランプも、更にはロシア=ウクライナ戦争勃発時のジョンソン英・元首相も、もちろんイスラエルのネタニヤフ現首相も、一人残らず戦争犯罪を犯しつつあると観る立場に小生はいる。


《普通選挙》は自国が民主主義国であると主張するための最重要な必要条件として理解されている。確かにこれは近代以降の世界の常識だ。しかしながら、この認識は市民革命から参政権拡大、民主主義の浸透という政治的プロセスと、資本主義経済の持続的成長という経済的プロセスが、相互にシンクロして進んできたという最近200年間の経験から得られた《社会科学的仮説》に過ぎない。

(何度も投稿してきたことだが)実際には、古代ギリシア世界においては民主的なアテネが腐敗、没落し、その後にギリシア語を使う広大なヘレニズム文化圏を築いたのは専制的なアレクサンドロス大王とそれを継承したヘレニズム国家であった。ヘレニズム世界の中で東西の文化は溶け合い、自由で広域的な貿易が発展し、かつてない豊かな社会が実現した。また古代ローマがいわゆる《Pax Romana》(=ローマの平和)を実現したのは、民主的な共和制ローマではなく帝政に移行した後のローマ帝国である。ローマ帝国の歴史的評価は周知のとおりだ。

多くの国民に豊かで自由な暮らしを提供できる国家は、政治体制が非民主主義的であるとしても、国家の中身は十分に《民主的》であると、小生には思える時がある。


民主主義国において

民意に勝る意志はない。民意こそ正義である。

と自惚れる姿勢は、専制君主国において

王の意志こそが神聖であって、これに勝る正義はない。

と自惚れる王の姿勢と瓜二つである。

どちらも

道理を無視して愚かな人間(たち?)の意志を神聖視する

という根本的誤りを犯している。

世論調査は「暮らしと経済」が最も切実な要求であることを(ほぼ常に)示している。この当たり前の事実を徹底して理解しているマスメディア企業は驚くほど少ないようだ。

愚人が権力を行使するほど怖いことはない。


《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。


2026年3月4日水曜日

ホンの一言: トランプ大統領の深層心理を読み切れるネタニヤフ首相は面目躍如・・・

 数日前にsubstack.comから届いたKrugmanの投稿にはこんな下りがあった:

But because America wasn’t suffering a Germany 1932 or Russia 1998-type crisis, it was impossible for Trump to deliver rapid economic improvement – that is, it would have been impossible even if he were competent (which he isn’t). So his efforts to consolidate power aren’t succeeding the way he and his fellow authoritarians expected.

しかし、アメリカは1932年のドイツや1998年のロシアのような危機に見舞われていなかったため、トランプが急速な経済改善を実現することは不可能だった。つまり、たとえ彼が有能であったとしても(実際にはそうではないが)、不可能だったのだ。そのため、権力統合に向けた彼の努力は、彼自身や彼の仲間の権威主義者たちが期待したような成果を上げていない。

On Wednesday the historian Tim Snyder, who is an expert on the grim history of Central and Eastern Europe, published a post titled Fascist Failure about the Trump administration’s lagging attempt to bring fascism to America. For now, I will be more cautious and say that American fascism is faltering rather than failing. But the power grab is clearly not going according to plan. Why?

水曜日、中央・東ヨーロッパの悲惨な歴史の専門家である歴史家ティム・スナイダー氏は、「ファシストの失敗」と題した記事を掲載し、トランプ政権によるアメリカへのファシズム導入の試みが遅れていることを批判した。今のところは、より慎重に、アメリカのファシズムは失敗というよりはむしろ弱体化していると言うことにする。しかし、権力掌握は明らかに計画通りには進んでいない。なぜだろう?

First and foremost, the determination and courage of ordinary Americans — in utter contrast with the craven surrender of much of the elite — has been crucial. But there are also structural factors that have helped the resistance.

まず第一に、一般のアメリカ人の決意と勇気が決定的な役割を果たした。エリート層の卑怯な屈服とは全く対照的である。しかし、抵抗を支えた構造的な要因もいくつかある。

Snyder emphasizes the lack of a good enemy against whom Trump can mobilize the nation. It’s a fair point. 

スナイダー氏は、トランプ氏が国民を動員できるような強力な敵がいないと強調している。それは正当な指摘だ。

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-economics-of-faltering-fascism

Author: Paul Krugman

Date: Feb 27, 2026 

不法移民の摘発を担当してきたICE(移民・税関捜査局)の失態。エプスタイン問題の深刻化。インフレ高止まりに雇用悪化と経済状態も悪い。何より中国との関税戦争に敗退したことが大きい。それに相互関税の違憲判決。この秋には中間選挙もある。あと2年余りもト大統領が仕事を続けられるイメージがわいて来ない。修羅場だ。さぞ焦っていたに違いない。

どうやらトランプ大統領は《国民を動員できるような強力な敵 》を見つけたようだ。

イランがいい。

敵がいないなら作ればいい・・・そんなト大統領の心理を読んだイスラエルのネタニヤフ首相の政治勘には動物的なものがある。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発した頃に投稿したときはこんなことを書いた:

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これを思い出した。アメリカのトランプ大統領も同じであったようだ。 

専制君主は、選挙がないので国民の人気向上を目的にカネのかかる戦争など、そもそもする動機がないという理屈がある  ―  その代わり、プライドやら領土欲やらで勝手に戦争をしたりするので、どちらも良し悪しである。しかし、賢臣に支えられた君主制ほど安定した統治はないというのは、プラトンが『国家』で展開した議論に通じるものがある。


2026年3月1日日曜日

断想: 「天皇制」と「民主主義」はそもそも矛盾しているわけで・・・

 高市総理の経済政策や外交政策にはとうてい賛同できないが、対皇室姿勢だけは共感できるという点は、最近何度か投稿してきた。

巷では

「愛子天皇」を「世論」が望んでいるにもかかわらず、男系男子を皇位継承者として優先する姿勢は、高市首相は本当に保守派なのか?愛国者なのか?

こんな批判が結構出てきている。

マア、人は色々だから・・・とは思います。


ずいぶん以前から投稿してきたが(たとえばこれ

そもそも天皇制と民主主義とは両立するはずがない。

このロジックを否定できる論理は、屁理屈はともかくとして、ないと思う。

戦後日本においては、全ての日本人は平等にして、自由かつ基本的人権を有している。その中で、皇族は極めて例外的な位置を占めている。これこそ先ずは矛盾というものだろう。


皇位は《世襲》によって継承される。《世論》によって次期天皇が決まるわけではないし、もし世論によって次期天皇を決めるのが適切なら、皇族を対象とする《人気投票》を実施すればよいという理屈になる。

自分に人気があるのかないのか、新たな天皇が知っておくのは悪いことではないが、(国民にとっても?)『知らぬが花』というものがある。人気があるのもあだ花、人気がないのも寧ろ滋味があってよろしいという見方もあるだろう。

天皇は《国家元首》とは規定されていないが、国際的には日本国の元首として受け止められている(ようだ)。マア、戦後日本では「象徴」とされているが、やはり実質的には「元首」なのであろう。

世論によって元首を決めたいという立場に立つなら、対象を皇族に限定せず、最初から《大統領制》を主張するほうが、よほど民主的であり、論理的にもスッキリする。そうすれば、当の皇族の方々も肩の荷をおろして、安堵されるであろう。日本第一の「名門」として、自由に家系をつないで行かれるのがよいと思うし、そもそも「皇室典範」なる法律は作るべきではなく「皇族会議」で私的に決めればよいはずのことであった。

もし日本国でいずれ将来「大統領選挙」が行われるとして、そこで「男がイイ」とか、「女にするべきだ」とか、政治家としての能力をそっちのけにして、性別ばかりを語る人物がいれば、多分、知的水準(痴的水準?)を問われるに違いない。


大体、「皇族」とは「皇統」という概念をベースに定義される「特定かつ例外的な人物集団」を指す。その「皇統」の定義は、全歴史をみれば色々な学説もあるようだが、文書に残る日本史に限れば、「皇統」の定義は完全に確定済みと言ってよいはずだ。いま昭和敗戦後に西洋から輸入された理念に基づいて「皇統」を定義しなおすなら、同じ「天皇制」でも別の「令和天皇制」と呼ぶべき新たな制度になる理屈だろう。たかが、と言っては語弊があるが、今さら「伝統・天皇制」を廃止して、「新・天皇制」をこの国に樹立する意義があるのか?そんな意義はゼロだと思うが、極めて重要だと本気で考える御仁はどの位いるのだろう?いたずらに、無駄な対立を招くだけの愚行であると思うが・・・。

「天皇制」は平等を原理とする民主主義社会には、最初から馴染まない要素であるとしか言いようがない。明治維新以前の日本においては、中国を模範とした「律令」の規定とは別に日本独特の「令外官」が置かれており、関白などのポストもいわば「例外的な官職」であった。結果としてうまく行ったので置いた。いわば功利主義的な措置であって法理からは外れているわけだ。その意味では、戦後日本における天皇は理念とは相いれない「令外の地位」であると、小生は思ってきた。何もそれで問題はないはずだ。

戦後日本の民主主義において、憲法に天皇を定めるのは、最初から無理な相談であったと小生は理解している。

大体、「象徴」とは何ですか?国家元首とするわけにはいかなかったのか?

そういう事であります。


戦後日本体制の中の非民主主義的な要素として、《総家元》というか、日本の伝統文化として受け入れるしか天皇制を維持する根拠はない。

《西洋的な民主主義の失敗》がこの日本で余りにも明白になったとき、日本が戻るべき原点として天皇制を守ることには、一定の意義があるかもしれない。言えることはその位だろう。

大体、室町時代中期以降、「天皇(=ミカド、お上」の権威はほゞほゞ100パーセント崩壊していた。江戸時代においても幕末まではほゞほゞ同じ事情であった(はずだ)。

「皇室」を議論することで日本社会に混乱が生じるなど、文字通り『しっぽが胴体をふる』ようなものである。愚かだ。


とはいえ、日本国において天皇家は古代から続き神道、神社とも神話的つながりが深く、極めて宗教的な性格も併せ持っている。それ故に、近代西洋の民主主義の観点から合理化しようとしても土台無理な話しである。

成文憲法の存在しないイギリスを手本とするのが理想だが、例外規定を認め憲法を骨抜きにするか、そうでなければスウェーデン王室のように一切の「国事行為」を行わず、純粋に儀礼的な存在として規定しなおし、その代わりに一定の私的自由を保証し、伝統のままに家系を維持するのが戦後日本がとりうる唯一の道だろう。

【加筆修正:2026-03-03】

2026年2月21日土曜日

断想: 駐留米軍から「日本の司法」は信頼されているのだろうか?

 先日の衆院選関連の余波だろう:

2月に行われた衆院選で、選挙運動の報酬として運動員に現金を支払った疑いで、国民民主党から立候補していた候補者らが警視庁に逮捕されました。

Source:YAHOO! JAPANニュース

Original:FNNプライムオンライン

Date:2/21(土) 7:45配信

一体いくら払ったのかと読んでみると、

大学生5人に現金あわせて27万円を支払った疑いが持たれています

と・・・マア、27万円でも公職選挙法違反であり、別の表現をするなら《不正選挙》があったということになる。

しかしながら、この国民民主党の公認候補は落選しているのだ。

落ちた人には厳しいネエ・・・当選した国会議員には甘いけど

こんな感想です。

これから取り調べが行われて、送検され、検察が起訴するかどうかは分からないが、たった(?)27万円で公判を開くか?

マア、検察にとってはめんどくさいだけだろうから、起訴猶予とか、不起訴になるのではないかネエと思います。

日本では刑事捜査は、欧州大陸法を継受していることから、キャリア検察官が主導、指揮することになっている。起訴・不起訴の判断も担当検察官の専任であるというのが建前だ。そして、日本では裁判所による予審は廃止されたので、いったん起訴された被告人は刑事裁判において99.8~99.9%は有罪判決が下される。

つまり、よく言えば

日本の刑事裁判は(実質的に)検察官が支えている。検事がもつ秋霜烈日の精神こそ日本の正義を実現しているのだ。

こんな言い方になるし、実際にマスコミも(検察、更には官邸が怖いのか?)そう観ているようだ。

一方、悪く言えば

日本の刑事裁判担当の判事は(量刑はともかくほゞほゞ)検事の言いなりに判決文を書いている。

換言すると、刑事事件の裁判は検事による取り調べであらかた決着はついているわけだ。にも拘わらず、検事による「公判前の実質的予審?」において 弁護士の同席は認められていない。

極論すると、弁護士不在で検察庁内で「実質的裁判」が行われ、公判では検事の主張がほゞほゞ通っているのだから、

日本の司法は非民主的である

こんな理屈にならざるをえない。

たとえば沖縄県で事件を起こした米兵を日本の裁判の被告人とすることに米軍当局が、というかアメリカにいる容疑者家族というべきか、かなり消極的である理由の一つは、明らかに日本の司法に対する不信感があるからだと推察され、もしも可能なら幕末から明治時代初期のように米人容疑者に対しては《領事裁判権》、つまりアメリカ大使館内に設けられるアメリカ式の法廷で有罪・無罪の判断を行いたい。これがアメリカの本音ではないかと憶測する次第。

当の日本人が

世界に冠たる公正な日本の司法

こんな夜郎自大的な自己肯定を持ち続けている現状は信じがたいところがある。

「但し」を付け加える必要がある。裁判所の「予審」は司法の独立性を守るかという問いである。欧州大陸諸国では検察官が刑事事件の捜査を主導するが、捜査段階における検事の主導性に対して、予審判事の吟味が司法の中立性を担保する。「予審判事」の司法権限は不可侵で国家元首ですら怖れる存在である(と聞いている)。

しかしながら日本には日本の事情があった。戦前の「帝人事件」は検察による「誤起訴」、というより「でっち上げ」の典型例としてよく参照されるのだが、戦前であるから裁判所による「予審」は行われていたのである。

検察から起訴された刑事事案は、日本の司法がお手本にしたフランス、ドイツの制度に則して考えると、すべて裁判所の予審判事によって、証拠の客観性、十分性などが精査される。なので、警察・検察の捜査結果がそのまま司法の結果につながるという可能性は理屈上ないわけである。

ところが「帝人事件」では、裁判所による予審が機能しなかった。事件はまったくの「でっち上げ」であることが、本審である「公判」において明らかになったのだから、

日本の予審はなぜ機能しなかったのか?

こんな疑問が沸き起こったのは当然だ。それがひいては戦後の刑事訴訟法改正にまで尾を引いてしまった。裁判所の予審が機能しなかった理由をChatGPTに質問してみたが、その一部を引用しておこう。

なぜ予審は機能しなかったのか?

歴史研究では、いくつかの説明があります。

① 当時の予審は「強いチェック機能」を必ずしも持っていなかった

形式的審査に近かった

検察資料への依存が強かった

② 世論圧力

「大疑獄」報道

政治情勢の緊迫

③ 供述依存構造

自白・供述中心の立証

結果として、

予審段階では排除されず、公判で全面無罪

という流れになりました。

戦後になって裁判所の予審制度は廃止され(検察審査会の強化があったにせよ)現在に至るが、概ね日本の刑事司法は検事主導の戦前の香りを色濃く残しているというべきだろう。その検事は、内閣の指揮のもとにある。その内閣は国会の統制下にあり、国会は(実質的に)自民党の支配下にある。

この構造あって、この司法あり、現在の政界の実情があるわけだ。

憲法改正といえば「9条」ばかりに目を向けているが、憲法9条に「自衛隊」という語句を明記しようが現行のまま放置しようが、現実はほとんど変わらないだろう。

それに対して、司法の在り方を(高市首相お好みの)根本から変革すれば、国際社会が日本の民主主義に寄せる信頼感は飛躍的に高まるに違いない。たとえ(ないことを望むが)米兵が関係する刑事事件が発生したとしてもアメリカ政府は日本の司法を信頼して捜査、裁判に(喜んで?)米兵を委ねるであろう、というより容疑者本人もまた日本の司法の公正さを信頼して、自国の法廷と同じ度合いで自らの罪と向き合うに違いない。

昭和時代とは比較にならないほど豊かで便利な生活を現代日本社会は実現している。にもかかわらず、何とも言えない閉塞感があるのは、単に低成長や格差拡大、社会保障不安などの経済要因だけがもたらしているわけではない(と思う)。

経済も経済だが、それより

強きは救い、弱きを罰する。トップには甘く、下には厳しい。中枢には「目こぼし」があり、現場や末端には秋霜烈日。そんな社会のどこに《正義》や《公正》があるのか?

こんな社会心理が意外と重いのではないか。与党の重鎮は真っ黒である。野党議員は失業を怖れて保身を願うだけ。司法もまた上のとおり。閉塞感の根底には怒りあり。こんな現代社会観をいまもっているわけだ。

司法の強さ、ここでいう司法とは裁判所のことだが、それは社会の健全性の象徴である。

そう思うのだ、ナ。


高市旋風は《与党内アウトサイダー》ゆえに吹いたのであろう。ポピュリズムはポピュリズムだろうが、道義のある社会には決してポピュリズムの風は吹かないものだ。ということは

ポピュリズムの風が吹くのは、それだけ社会から道義が失われているからだ。

こんなロジックになる。ポピュリズムを批判するのは《一見、専門家風》だが、なぜそうなるかを洞察しなければなるまい。

いま思い出しているのは、ずっと昔に投稿したナポレオンの名句だ。

Man muss stark sein, um gut sein zu können 

人が善であるためには強くなければならない

弱い人間に《道義》を期待するものではない、というより期待しても「背に腹はかえられません」というだろう。とはいえ「弱者の気持ちに寄り添う」、これだけをやっていると、社会から善悪のけじめ、道義がなくなるというものだ。

どんな状況であっても、太陽だけではない、北風もまた必要なのである。

そう感じている次第。

今日はこの辺で。

【加筆修正:2026-02-24】


2026年2月15日日曜日

ホンの一言: 「トランプ劇場」こそ今一番面白いのでは・・・リアルで怖いですが

 「エプスタイン・スキャンダル」は、日本では「対岸の火事」とみているのか、ほとんど報道されることはない。が、エプスタイン文書をめぐって世界の著名人、というか多くの「セレブ達」が疑惑の対象になって名誉を失ったり、現実に失脚している、そしてまだまだ尾を引きそうな現状をみれば、日本ローカルなモリカケ・スキャンダルとはスケールが違う。いままた足元ではスターマー首相率いる英国・労働党政権が崩壊の瀬戸際に立たされている。そうかと思うと、アメリカ議会では司法長官が逆切れした様子が報道されて、例のKrugmann博士は絶好の話題とばかりに論じている。

この件、日本でも報道はされている:

 【ワシントン共同】米下院司法委員会で11日、少女らの性的人身売買罪で起訴され自殺した富豪エプスタイン氏に関する開示文書を巡り、議員らとボンディ司法長官が激しい応酬を繰り広げた。議員らは、有力者の名前を黒塗りにする一方で被害者の情報をさらしたと批判。ボンディ氏は、議員らが文書公開をトランプ大統領の攻撃材料に利用しているとして「偽善者」と罵倒した。

Source:News.jp

Original:共同

Date:2026-02-12

エプスタイン文書の公開をめぐっては今後もずっと尾を引きそうで国際政治の時限爆弾となる状況は変わらないだろう。

Krugmanはこんな風に書いている。

Attorney General Pam Bondi’s meltdown on Wednesday while being questioned the House Judiciary Committee was exceptional, even by this administration’s rock-bottom standards. Has any high-level official ever before shrieked at a member of Congress, “You don’t tell me anything, you washed-up, loser lawyer”?

Yet what truly amazed me was her demand that Democrats stop talking about Jeffrey Epstein because the Dow was above 50,000. This plumbed new depths of moral bankruptcy, effectively saying: “How dare you complain about child rape when the stock market is up?”

Source:substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-maga-bubble-is-imploding

Date: 2026-02-13

"Attorney General"は日本では「検事総長」と訳されることが多いが「司法長官」のことである。その人物が議会の答弁の最中に「キレて」、クルーグマン博士は

これまで、国会議員に向かって「何も言わないで!この落ちこぼれの弁護士が!!」と叫んだ連邦政府の高官がいただろうか?

と呆れているのだから、書いた側もスカッとしたに違いない。マ、少なくとも日本の法務大臣がこんな態度を国会で示せば、即日罷免となるのは間違いないところだ。

更に、クルーグマン博士は書く:

しかし、私が本当に驚いたのは、「株価のダウ平均だって50000ドルを超えたのよ。もう民主党はジェフリー・エプスタインについて話すのをやめてちょうだい!」と彼女が要求したことだ。トランプ政権を支える政治家のモラルは新たな底に向かって落下中だ。実際、「株価も上がっているというのに、まだ児童レイプが何とかかんとか、もう止めて!」と言っているようなものではないか。

いやあ、面白いです。

《トランプ劇場》は日本ローカルの《小泉劇場》を遥かに上回るスペクタクルになっている。

ずっと以前に投稿したが、アメリカ大統領のThe Worst Oneは第一次世界大戦後に就任したハーディング大統領と評価はほぼ決まっていたようなのだが、政権ともどもトランプ大統領が記録を更新することは間違いなさそうである。

そういえば高市総理も

「裏金議員」なんて呼び方、もう止めてちょうだい

と、そんなお願いをメディアにしているそうだが、真偽はどうなのだろう?NHK辺りは「不記載」議員などと呼び方を変えているように思うのだが・・・

 

 

2026年2月13日金曜日

断想: トップと部下の「世界共通の規範」というのは?

日本海海戦の作戦立案は先任参謀である秋山真之によるものだったという話しは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を待つまでもなく、松山で生まれた小生は幼少時から何度も聞かされていた。実際、海水浴場のある松山市・梅津寺には秋山兄弟の銅像がある。

とはいえ、

この見事な作戦は〇〇参謀の立案であった

こんな風に立案者が有名になるのは、例外的でなければならず、作戦を採用するのも、実行するのも、トップである司令官の責任であるはずだ。

だから、勝てば作戦を採用した司令官の功績であって、負ければ作戦を採用した司令官の責任である。こう考えるのが組織の論理であるはずだ。

日本海海戦で勝った司令官は東郷平八郎で勝利をもたらした提督として参謀・秋山を遥かに超える評価を得ている。これが本当の姿で、むしろ参謀・秋山の天才ぶりが『坂の上の雲』の中で叙述されていることも、実は参謀としては望ましい姿ではないと思う。参謀とは世間に知られてはならない黒子であるべきで、だからこそ参謀は思い切った立案をすることができる。

参謀やスタッフには結果責任はない

これが小生の理解である。


ところが昭和時代になると、勝てば参謀本部の作戦課長の功績、負ければ現地の司令官の責任という風潮になったようだ。本来は勝っても、負けてもトップの責任だ。参謀以下の部下に対してはトップが感謝の気持ちをもてば十分であって、部下の名前まで歴史に残るのは、おかしな話しだというのが小生の感覚だ。


これから高市政権が進める経済政策、外交政策も、うまく行っても、まずく行っても、その功績や責任は高市総理と担当大臣にある。

有力な参謀であるスタッフやアドバイザー、秘書官や側近官僚を探し出しては「隠れた権力者」などとおだて上げるのは、日本のマスコミの悪い癖である。

「現代の柳沢吉保」、「官邸のラスプーチン」などと持ち上げては叩き落すのがメディアの習慣になれば、失敗したスタッフをスケープゴートにして結果責任から逃げるのもトップの習慣となる。そうして

逃げるトップのために身命をかける部下など一人もいませんよ

こんな状態が論理的な帰結としてもたらされる。愚かだ。これが世界共通の行動規範だと思う。