2026年7月16日木曜日

ホンの一言: Chaos-Monkeyぶりを発揮しているトランプ大統領?

Brad DeLong博士はトランプ大統領を「猿」と呼ぶことを止めない。昨日もまた、ホルムズ海峡の再封鎖に伴い、substack.comに以下の投稿をしている:

Isn't this piracy? What could make it not piracy, other than a congressional declaration of a war to conquer & annex the Strait of Hormuz to the USA? 

これは海賊行為ではないのか?米国議会がホルムズ海峡を征服・併合するための戦争を宣言する以外に、これが海賊行為に当たらないと言える根拠などあるのだろうか?

URL:   https://braddelong.substack.com/p/can-we-call-this-anything-but-piracy 

ただ当のト大統領、一律20%の「海峡通行料」は撤回したらしい。

投稿のタイトルは

Can We Call This Anything But Piracy?: TUESDAY CHAOS-MONKEY TRUMPISM

正に海賊行為じゃないのか? 「ワヤクチャの猿」そのもの火曜日のトランプ主義

かなり意訳だ。それに"Chaos-Monkey"の語句だが、検索すると

カオスモンキー(Chaos Monkey)とは、米Netflix社が開発した、システムに意図的に障害を起こすためのテストツール(オープンソースソフトウェア)です。

つまり、意図的に障害を引き起こす高度なソフトウェアの名前だというわけで、何も自国の大統領を猿だと決めつけているわけではない・・・安全弁としては実に巧みな呼び方ではないか。

日本では、これに匹敵する知的な批判はまだ登場していない。両国の行政トップはかなり近いタイプだと思うのだが。両国民の国民性の違いのせいかもしれない。


2026年7月13日月曜日

ホンの一言: 酷暑に苦しむ人々が増えていますが・・・

九州地方では40度近い酷暑が既に始まっている。その熱波が段々と北上するのだろうと、近畿圏、首都圏にいる人たちは心配しているのだろう。小生が暮らす北海道も近年は30度どころか35度を超える酷暑、というか極暑日が散見されるようになった。熱波の縁は北海道にも到達することだろう。

エアコンを設置するかで悩んでいるが、設置したところで稼働は高々2~3週間だ。7月下旬から盆明けまではエアコンが有難いが、使いすぎると逆に疲労感がたまるというものだろう。窓を開ければ、夜、寝苦しいということは一日もない。それに積雪期に雪の積もるベランダに室外機を置いて大丈夫なのか、少々不安である。稼働が少なければ故障も多かろう。

それでも小生が暮らすマンションでもエアコンを設置している住戸がもう2割くらいにはなった。

どうするかナア・・・と迷っている。

エアコンが あればと願う 夏なれど

     豪雪ふらば 邪魔になるべし

先ずはポータブル・エアコンで効き目があるかどうか置いてみるか・・・

内地の大都市圏ではエアコンをオンにしているにもかかわらず、熱中症で亡くなる高齢者が目立つとのこと。

どうやら冬の設定のまま暖房にしていたとか、メンテナンスを怠り埃が中に溜まり風が出なかったとか、色々な不注意が原因だそうである。無情である・・・

ただ、思うのだが、

これもまた、人生の終わり方の一つなのかなあ、と

(政府・マスコミ公認の?)科学主義・唯物主義が共有されている現代世界では

死ぬのはダメ、生きて!

死ぬより生きるほうが善いに決まっている。

こんな風に、命を超える価値などはないという思想が正論中の正論になっているのだが、へそ曲がりの小生は

ただ生きているのは空しいだけである

そう考える、というか感じるのだから仕方がない。


エアコンの設定を失念して、熱中症で意識をなくし、そのまま浄土へ往生するのも、その人の業と縁である。業縁を人為的に止めようとするのが、その人にとって善い事なのかどうか、善い結果につながるのかどうか、確かなことは言えない。

成功と失敗、善と悪、正と邪、全て相対的であって、本質的には《空》であると考える立場に今は立っている。

2026年7月12日日曜日

覚書き: 《AI = 物知りの友人》、得意・不得意もあれば、思い込みもある。が、それでも・・・

高市内閣の政策で対皇室観だけは共感できるというのは以前にも書いたことがあるが、この国会で可決する見通しになった皇室典範には中々に反発が大きいようだ。

特に「旧宮家から養子案」については、実際はどうか分からないが、反対の声が多く上がっている。入ってくるのはメディア経由かネット経由の声が大多数で、それが日本人全体のサンプルになっているのか、今の世相では分からないが、反対が多いという事実はあるのだろう。

先日の投稿でこんな事を書いていた:

最初の光仁天皇だが、天武天皇以来の女系の男子皇族が何人もいたにもかかわらず、男系男子が途絶えたことを理由に、100年間にわたって傍系であった天智天皇系の白壁王が光仁天皇として即位したのである。光仁天皇。平安京に遷都した桓武天皇の父である。この事は、8世紀末という時点で、男系による皇位継承を続けようとする意識を皇室が有していた証明になるのではないかと思うが違うのだろうか?少なくとも、男系継承は明治政府による勝手な押しつけであるという批判は誤りであろう。

これは確かにその通りだと思うが、確か白壁王の正室は天武系の皇女ではなかったか、その正室との間に息子がいたはずだが、という記憶もあったのでChatGPTに聞いたところ、

他戸皇子は、


天武天皇

舎人親王

大炊王

他戸親王


という系譜で、天武天皇の男系曾孫に当たります。

これは《とんでもない間違い》であると直ぐに分かった。どうやら日本史に関する情報収集力は数学的処理の卓越さに比べると見る影もないほど貧弱であることが分かったので、今度はGoogleのGeminiに聞いてみた。回答の一部を下に引用しておこう:

まとめ
  • 天武系の男系が枯渇していたというのは正しい認識です。
  • ただし、光仁天皇の即位は「天武系との決別」ではなく、「天武・聖武の血(女系)を引く他戸親王へ繋ぐためのワンポイントリリーフ」でした
  • その後の藤原氏の政変(呪詛事件)によって他戸親王が廃されたことで、結果的に完全な天智系(桓武天皇の系統)へと変わっていきました。

壬申の乱の後、100年続いた天武天皇の皇統を排して天智天皇系を選んだというよりは、聖武天皇の女系の孫・他戸皇子が成長するまでのつなぎとして天智系の白壁王は即位した、と。天武系の男子が(政変や粛清によって)ほゞほゞ途絶えていたという認識は概ね間違ってはいないが、「敢えて血筋は遠くとも男系の白壁王を選んだ」という意識ではなかったのではないか、と。言い換えると、皇位は女系継承でも可だと、当時の人たちはそう意識していたのではないか⋯⋯、と。Geminiはそう理解している。

あくまでも仮説である。当時の関係者の真の目的、究極的な狙いを聞くことができない以上、事後の経過を重視する正反対の仮説もまた可能なのである。


それにしても、ふ~~む、往年の『時の娘』を書いたジョセフィン・ティや『成吉思汗の秘密』を書いた高木彬光ではないが、これは歴史ミステリーそのものではないか・・・


これ以上に立ち入るのは専門外の小生には時間も基礎知識もない。少なくとも言えることは

複数のAIに質問して、答えが一致するかどうか、確認するべきである。

いくら物知りの友人でも、得意・不得意はある。特定の友人を丸ごと信じるのが失敗の元であるのと同じように、AIの答えをそのまま信じるのはダメだということだ。

ちなみに「旧宮家から養子」という案だが、ChatGPTに以下の質問をした:

最近、第二次大戦後に皇籍離脱した伏見宮系の旧宮家が話題になりますが、男系を遡ると祖先の天皇までは何世代も数えるそうです。一方で、皇族であっても一定世代が経過すれば臣籍降下するのが慣行であったはずです。伏見宮系の皇族は何故これほど長い間皇族であり続けたのでしょう?

すると、以下のように応答してきた:

非常に重要な点です。実は、伏見宮系が長く皇族として存続した理由は、「皇位継承の予備系統」として制度的に維持されたからです。

まず、平安時代まではおっしゃるように、皇子・皇孫は数世代経つと臣籍降下するのが一般的でした。例えば、以前お話しした良岑安世のように、天皇の子孫でも皇族を離れて臣籍に下る例は数多くあります。

ところが、鎌倉時代になると事情が変わります。

伏見宮家の成立

伏見宮家は、伏見天皇の皇子である栄仁親王が14世紀初めに創設しました。

当時は、いわゆる持明院統と大覚寺統の対立があり、皇位継承が非常に不安定でした。そのため、本流以外にも男系皇族を維持しておく必要がありました。

「世襲親王家」という特別な家

室町時代以降、伏見宮家とそこから分かれた宮家は世襲親王家と呼ばれました。

これは通常の宮家とは異なり、

  • 皇位継承者を確保すること
  • 皇統が断絶しそうな場合に備えること

を目的として、代々親王・王の身分を保持することが認められた特別な宮家でした。

江戸時代には

  • 伏見宮家
  • 桂宮家
  • 有栖川宮家
  • 閑院宮家

の四家が代表的な世襲親王家でした。

明治以降

明治時代になると、伏見宮家からさらに

  • 久邇宮
  • 朝香宮
  • 東久邇宮
  • 竹田宮
  • 北白川宮
  • 賀陽宮
  • 東伏見宮
  • 梨本宮

などの宮家が創設されました。これらはいずれも伏見宮系の男系子孫です。

つまり、現在話題になる「旧宮家」とは、もともと皇位継承の予備として制度的に存続していた家々なのです。

1947年の皇籍離脱

戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策の一環として、皇室の規模を縮小するため、これら11宮家51名が皇籍を離脱しました。

したがって、現在議論される「旧宮家の皇族復帰」は、「何百年も前に臣籍降下した一般人を皇族に戻す」という話ではありません。

むしろ、戦後までは現に皇族であり、皇位継承の予備系統として制度上維持されていた家系をどう考えるかという問題なのです。

この点が、平安時代などの臣籍降下とは大きく異なるところです。歴史的には、伏見宮系は一般の皇族とは異なり、「皇統維持のために特別に皇族の身分を世襲することが認められた家系」であったため、何百年にもわたって皇族であり続けたのです。 

伏見宮栄仁親王の父である天皇の名(正しくは崇光天皇)や伏見宮創設時期(正しくは15世紀初め)が間違っている  ―   親王の名は正しい(ようだ)から可笑しいが。やはりChatGPTは歴史は苦手のようである。とはいえ、この問題はGeminiに質問しても、「世襲親王家」という着眼点については同じ趣旨の答えが返ってくる。

つまり、

現在議論される「旧宮家の皇族復帰」は、「何百年も前に臣籍降下した一般人を皇族に戻す」という話ではありません。

むしろ、戦後までは現に皇族であり、皇位継承の予備系統として制度上維持されていた家系をどう考えるかという問題なのです。

この問題意識は両方のAIで一致している。とるべきアプローチは、「ほとんど赤の他人」とも言える民間人を皇族にしてもいいかという問題提起とは別である、ということだ。

この見方は、いま世間で話されている内容とは違うし、小生の感覚では

世論よりはAIの方が冷静で、かつ客観的な問題理解だと思われる。

こういう事であります。


いずれにせよ、天皇というものについて議論を始めれば、基礎になるべき教養、知識は、高々100年にも足らない戦後日本の民主主義を遥かに超える厚みと深みを伴うものとなる。当たり前である。現代民主主義を大前提にしながら皇位継承を議論する時、何だか納まりがつかないモヤモヤ感があるのは、神社で柏手を打つ時に感じる小っ恥ずかしい感覚に通じているのである。モヤモヤ感は致し方がありません。戦後憲法は占領期にアメリカが書いた原稿が土台になっているのですから。

日本国憲法を大前提にしながら、国民統合の象徴を決めるなら、日本を共和制にして大統領を選挙で選ぶ方が余っ程ロジカルなのである。最近、上野千鶴子氏がこの見解をハッキリと述べているが、他の点はともかく知的誠実さには感服を禁じ得ないのだ、ナ。

何党か分からないが立候補して選挙運動をしたあと私たち有権者が投票をして選ばれる大統領と天皇陛下と日本人はどちらに日本の象徴性を感じるのか?それはまた自ずから別の事柄であろう  ⋯⋯   国歌「君が代」も廃止しないとネ、大統領制にするならば。国旗「日の丸」は江戸・幕末にアメリカに渡航した咸臨丸も掲げていたから残るでしょうが。

本当はこの選択を日本人はして、それに整合するように憲法を書き直す(=改正する)のが望ましいと思うが、これはまた別問題。


囲碁の名人がDeepMindのAlphaGoに負けてからAIの優越性が可視化されてきたのだが、歴史的背景と今の政策との関連をどう理解するかという点でも、世論よりはAIの方が(まだ細部で誤りが混じって満点ではないが)実力が上回るようになってきた。少なくとも世論の方がAIよりなお優れているとはもう言えない・・・こんな感想を持たざるを得ない。

囲碁や将棋などではとっくにそうなっているが、数学分野でもAIは大学院入試問題を軽々と解ける。人間に思いつかない証明方法を提案したりもできるようになってきた。所与の歴史的背景から今の問題の本質を探るときにも、正確な問題理解を示せるようになったとしても、それはAI進化の自然な帰結である。

民主主義の利点は《集合知》にあるというが、そんな世界の民主主義も知的な意味でそろそろ限界に近付いている気がする。

世界の大半の問題は、《世論》ではなく《AI》に質問する方が適切な回答が得られる時代がすぐそこまで迫ってきている。

正義や善が理性に基づく価値で、価値には合理性が求められるのであれば、社会的正義や社会的善の実現すらも世論よりはAIが担った方が、誤りを防げるだろう。人間には常に感情があり、怒りや嫉妬、妬み、怖れ、不安など色々な煩悩が混じる。国と国との関係もまたそうだから。

【加筆修正:2026-07-14】

 




 


2026年7月9日木曜日

覚え書: ハラスメント。野球もサッカーも誤審対策で慌ただしいのと同じか。

最近になって俳優の佐藤某と女優の橋本某がフジTVのドラマ撮影中に、なんだかハラスメント問題を起こしていたというので、芸能界隈では相当の騒動になっているよし。

きっかけは「文春砲」。週刊文春はハラスメントされた側の言い分を記事にしたところ、ハラスメントした側が「偏向している」と強硬に反論し、こんどは週刊新潮がこっちの側にインタビューした記事を出している(ようだ)。

正に共食いでありますが、これで販売部数が増えればカネを払うのは一般読者だから、業界全体としては見事な協調戦略であるわけだ  ―   これが意図的であるなら悪どいが。


それにしても、最初は「言葉の問題」であった(そうである)。小生の修行時代なら

きついこと、言われちゃったよ⋯⋯

友人にこぼして、慰められて、それまで。後で考えれば、きつい言葉の意味に気がついて、どうすればイイかを理解することもあった。

ハラスメント加害者を処罰し、ハラスメント被害を抑止するのは「善い社会」を築くための当然の努力であると思うが、ハラスメント認定を正確にしないと、今度はコミュニケーション障害を招き、こちらの損失が上回るかもしれない。

実質のない暴言は純粋のハラスメントだが、道理もロジックもある厳しい言葉を受けとれないのは聞いた側の理解力の問題で、言った側の問題であるとは言い難い⋯⋯と思う価値観に小生は立つ。この辺、言った側の意図、聞いた側の感情、両方の間に線を引いて判定するのは難しい。


とはいえ、そもそも

どんな犠牲を払ってでも守るべき価値などこの世には存在しない。たとえば、人類の生存を上回る価値がありますか?ないでしょう。しかし、これすらも地球を破壊してでも守る必要はない。

こう思っている。なので(という接続詞でいいかどうか分からないが)、この世界では《真実》こそ最も尊重されるべきだと思っている、甚だ抽象的ですが。真実を「誠意」、あるいは「自己を飾る嘘のない真心」と解してもよいかもしれない。

少なくとも口から出て、耳に入り、聴覚を刺激する空気の振動そのものに一喜一憂し、音波に罪の存在を求める態度は愚かである。というより(またまた)ドミノ的喜劇の発端になるだけである。本質は言葉ではなく、話者の意識であって、判定基準は動機と目的であろう(と勝手に考えている)。現代日本社会はまっとうな理性を働かしてほしいものだ。


野球でもサッカーでも、審判の判定能力が試合を円滑にもし、壊しもする。

ハラスメントの認定は日本では法律専門家の弁護士が担当することが多いようだが、弁護士もピンキリである。それに弁護士はクライアントの利益を代理するもので裁判官ではない。審判ではないのである。その審判もストライク・ボールの判定を間違えてばかりいる三流がいる。弁護士にも三流がいる。ハラスメント認定の現実は「お寒いものだ」と思って見ている。

ハラスメントを基本的に考察して、最適な法制度にするには、どんな基本法があればよいのか?基本が定まっていないから、安定しないのだ。そう思いますがネエ。この辺、以前にも投稿した。


2026年7月8日水曜日

ホンの一言: リニアの大阪延伸? 名古屋で十分なはずでは?

ずっと止まっていたリニア新幹線・静岡工区にも着工の目途がついて、いよいよ10年程先には東京‐名古屋間が40分程で結ばれる見通しになった(そうだ)。

ずっと昔、取手市に住まいしていた頃、霞が関の職場に行くのに片道1時間40分を要していた。リニアなら東京・名古屋を往復できる時間である。

月並みな言い方なら《今昔の感》ということになるのか。


ただ、今朝のワイドショーを視ていると、

仕事で行くのは大阪ですし、名古屋で乗り換えることはしないと思います。

そんな感じで、リニアの大阪延伸が今から早くて30年位ではないかという予想に、出演者の人たち、笑っておりました。

思うのだが、

大阪の拠点機能をソックリ名古屋に移せばイイのでは?

実に簡単な解決策でありましょう。

この発想、誰も口にしないのは不思議で仕方がない。


そもそも中京経済圏は現時点では近畿経済圏の半分ほどのスケールであるが、モノづくり産業の拠点であり、サービス経済化はこれからである。背後の信州までを含めると、人口、土地に広々とした余裕がある。信州は既に精密産業の一大拠点でもある。津波被害にもロバスト(=頑健)である。インフラ基盤は十分に厚い。成長ポテンシャルは中部経済圏の方が遥かに上であると観ている。

今になって《大阪副首都》などに振り回されるのは理に反する。

というより、経済的ロジックに沿って物事は自然に推移していくはずである。自然に進む都市形成をサポートする発想で資金を投入していけばよい。

関西経済圏は、地勢上、一定の繁栄は約束されている。しかし、名古屋の地理的利点を引き出さない法はない。生煮えの理屈で人為的なプランに執着するのは愚の骨頂である。

2026年7月5日日曜日

覚書き: 天皇の「男系男子継承」は明治政府が始めた非合理な方式なのだろうか?

カミさんに付き合って今朝の「サンデー・モーニング」を視たが、そこでも高市内閣の《男系男子による皇位継承》に疑念が呈されていた。民意ではないというのだ、ナ。

男系にこだわらないなら女系継承も認めることになる。天皇の娘の息子/娘が天皇になれば女系継承になるわけだ。この可能性に保守派が反対している、と。保守派は大半の国民の声に耳を傾けない。怪しからん、と。「男系男子による継承」は明治維新後に政府が押し付けた乱暴な方式にすぎないというのだ、ナ。男女平等をうたった日本国憲法の精神にも反するというわけだ。

「乱暴な方式」というと、鎌倉時代に幕府が朝廷に押しつけた「両統迭立」を思い出したりするのだが、明治以降の「万世一系・男系男子」も政府が強制した非合理な方式であるのだろうか?


マア、正直なところ、天皇や皇位継承など生活にはほとんど何の関係もない。誰が天皇になろうとかまわないのではないか?そう思いもするのだが、どうやら番組制作側は視聴者に受けると思っているらしい。本当にそうなのか、実に疑わしいのであるが、今日もそんな話がテレビ画面で語られているのだから仕方がない。


ただ、出演者の話しを聴いていて疑問に思った点が一つある。

日本は天照大神という女神から始まった国で元々は女帝なのですから・・・

と語る御仁がいたのだが、21世紀の日本の問題を論じるのに、よくまあ神話にまで遡りましたな、と。そう思って面白うございました。

それに天照大神は日本の始まりではなく、その前にイザナギとイザナミの夫婦神がいる。この二神が日本を創ったと『古事記』には書いている。天照大神はこの二神の娘である。神話に遡るなら『古事記』でござんしょう。

とはいえ、三種の神器を授けられて天孫降臨したニニギノミコトは天照大神の孫であるから、皇室の元祖は(神話のとおりなら)そもそも女系である。

つまり、日本人は本質的に女系継承を拒絶しているわけではない  ―   あくまで神話であるが。

それはさておき、《男系継承》を支持する側にも相応の根拠はあると小生は思う。

というのは、(小生は日本史の専門家ではないので雑駁な知識しかないのだが)、史料で確認できる歴史のほぼゝ全体を通して、天皇は男系の直系男子、理想型としては(息子がいれば)父から息子の形で継承されてきた。これは否定できないはずである。女性天皇が複数人いることは事実だが、それは男系皇子がまだ幼いなどの理由で一時的な「つなぎ役」として践祚したとも言える  ―   とはいえ、つなぎ役のはずの持統天皇が強いカリスマ性を発揮したのも事実であったはずだ。この辺り、先日投稿したとおり。

要するに、男系を選ぶ皇位継承は何も明治政府が始めたわけではない。(そうする理由や目的はともかくとして)男系による皇位継承は事実として続けられてきた。こう言っても間違いではない(はずだ)。


次に、直系が絶えたときの皇位継承をどうしたかである。小生は浅学のため、二例しか思いつかない。一つは(先日の投稿でも触れたが)壬申の乱後に100年ほど続いた天武系による継承から天智系に皇統が移った光仁天皇。それに江戸時代後期になるが光格天皇である。


最初の光仁天皇だが、天武天皇以来の女系の男子皇族が何人もいたにもかかわらず、男系男子が途絶えたことを理由に、100年間にわたって傍系であった天智天皇系の白壁王が光仁天皇として即位したのである。光仁天皇。平安京に遷都した桓武天皇の父である。この事は、8世紀末という時点で、男系による皇位継承を続けようとする意識を皇室が有していた証明になるのではないかと思うが違うのだろうか?少なくとも、男系継承は明治政府による勝手な押しつけであるという批判は誤りであろう。

次の光格天皇だが、1780年から1817年まで(あの時代にしては)長期にわたって在位したことから(前後の天皇に比べて)強い発言力を有して幕府を悩ませた天皇である。この光格天皇以後、今上陛下までは直系である。しかし、光格天皇はご先祖の東山天皇が亡くなってから60年程がたった傍系の皇子であり、親王にはなれず、皇族である「師仁王」として処遇されていた人物であった。ところが、直系の男系男子が途絶えたことから、閑院宮の息子である師仁王に白羽の矢が立った。これも男系による継承が選ばれた一例になると思う。

詳しいことは日本史の専門家が研究し尽くしているはずである。

いずれにしても、直系が絶えたとき、血筋の近い女系男子/娘ではなく、敢えて血筋は遠くとも男系男子を選ぶという意識は、(少し?)歴史を遡れば確かに皇室内部にあったと確認できる。なぜ男系を選ぶのか理由や目的は小生の知るところではないが、事実を解釈しようとすれば、そう思わざるを得ない。


少なくとも、男系男子による皇位継承は、明治政府が独断で定めた非合理な方式であり、それは日本の伝統でも何でもないという指摘は、正しくないと思う。むしろ、それがよいという積極的意識で、皇室(及び宮中貴族層も含めて?)が選んできた方法であった⋯⋯

小生の目にはそう見えますがネエ。

2026年7月4日土曜日

覚書き: 「コンプライアンス」がもたらす社会の「自己疎外」について

小生は経済学部からビジネススクールへ横方向へ移籍した口である。移籍当初は経済学の感性と経営学の感性と、学問分野の違いばかりではなく、授業を教えている教員たちの感性までもが何故これほど違うのか、と。しばらくの間は、まるで文化大革命の渦中に投げ込まれたような違和感に満ちた毎日を過ごしたものである。

しかし、今になって振り返ってみると、ビジネススクールで仕事をしたおかげで、データ解析を担当した小生の問題意識も大いに啓発され、新しい方向へ研究を始めることが出来たのだから、結果的には良かったと思っている。

21世紀に入って何年か経った頃だったろうか、外部評価で評価委員が来学したことがあった。その最後に指摘された課題として

カリキュラムに「企業倫理」に関連した科目が含まれていない

そんな助言、というか要請があったことをまだ覚えているのだ、ナ。

経済学から入った小生にとって、企業は法人であり、倫理意識など持てようはずはないわけであったので

何をチバケタことを・・・

と呆れる思いがしたことをまだ覚えている  ―   「チバケタ」と書いたのは、その時の感想をそのままに書いているもので、岡山県に勤務したことがあった名残である。

つまり、「企業倫理」などと言う概念が存在する余地はなく、あるとすれば「経営者倫理」だけである。そんな理屈であった。

その後、長い時間が経ってみると「企業倫理」なり「ビジネス倫理」という言葉は、日本社会でも何だかそれなりに定着した感じで、要するに

儲かるなら何をしてもイイわけではない。

これを言いたいのであろうと、大体は察しがつくようになった。何をしてもいいわけではない、つまりそこには「規制」がある。法的な規制があるし、法的には合法でも倫理上の規制があるはずだ。いわゆる《コンプライアンス》という言葉がここから派生してきた。

自由契約の精神はコンプライアンスという新たな外来語で羽交い締めされる社会状況になって来た。

最近なにかというと「葵のご紋」のように振りかざす人が増えた「コンプライアンス」、最初は企業倫理の方面から、だんだんと拡大、流布していったということか?

こんな「事ども」を思い出すことがあったので、試しにChatGPTの見解を聴いてみることにしたので下に引用して覚書としたい。

質問したのは先ず以下の質問だ。

コンプライアンスという言葉は20年程以前には使われていなかった記憶があるのですが、最近のように強調されるようになった具体的な契機や発端があったのでしょうか?

 回答は思った通りだった:

「コンプライアンス(compliance)」という言葉自体は以前から英語にはありましたが、日本で現在のように「企業経営の最重要課題」の一つとして盛んに使われるようになったのは、1990年代後半から2000年代初頭です。その背景には、いくつかの大きな出来事が重なっています。

1. バブル崩壊後の企業不祥事の続発

2. アメリカ企業統治の影響

3. 日本版SOX法(=サーベンス・オクスリー法)の制定 

4. 「法令遵守」から「企業倫理」へ

 「サーベンス・オクスリー法」の登場で、企業の内部統制と法令遵守を厳しく求める世の流れが確定した。

その法令遵守が次第に拡大解釈され、「適法か違法か?」という法律論から、いまは「適切か不適切か?」というグレーゾーンにまでコンプライアンスという言葉が使われるようになった。大雑把に整理するとそういうことのようだ。

そして今では

  • コンプライアンス委員会
  • コンプライアンス室
  • コンプライアンス研修

ちょっとした企業なら上のようなセクションなりコースが開設されているはずだ。

何かのトラブルがあれば、何かの原因がある、というより「あらねばならない」。その原因は、仮に法律違反でなくとも、(何らかの意味で)不適切である。どんな意味で不適切なのか?それは法律なり、法律がなければガイドラインなり、内規なり、探せば必ず見つかる(はずだ)。なければ新たに文章化して不適切にすればよい。つまり現実にトラブルが発生しているなら、関係者の言動に何かノン・コンプライアントな要素があったからである。そういう事にしよう。

トラブル ⇔ ノン・コンプライアンス

これが現代経営を支配する黄金律なのだろうと観ている。

まるで仏教である。仏教では全ての事象は過去の業が因となり何かの縁で触発されることで生起する。いわゆる「縁起」なのであるが、典型的な因果論にあたる。実際、仏道では「四苦」を「生・病・老・死」としているが、死の苦しみの原因は、即ち生まれたことそのものである。人生とは苦である。ここから全ての議論が出発する。(宗教としては)間違っている議論ではない。しかし、宇宙観を実務のマネジメント方針にするのは間違いだ。

問題解決には因果分析がなるほど必要だ。悪因悪果、善因善果。不適切な原因を排除すれば望ましい結果が得られる。とはいえ、これで安心するなら、まるで因果応報論の焼き直しである。

この極めてシンプルな論理に自らが苦しめられているのが当の我々ではないかナアと感じているのは小生だけだろうか?

生産現場、活動現場は因果律では動いていないのだ。人間は因果論ではなく、目的論に立って観察されるべき存在である。

〇〇したからこうなった。ではなく、〇〇したいから、こうする。

人間社会は目的合理性に沿って出来ている。活動には目的がある。これを理解できない人はいないはずだ。トラブルは排除するべき不適切では決してない。目的を追求する中では、何らかのトラブルはほぼ必然的に発生するものである。トラブルの根本的原因は、過去の時点にあるのではなく、目的を定めたこと自体にある。もし目的が絶対のものであるなら、付随するトラブルは半ば必然的。解決するべき問題として認識されるのである。

トラブルは改善への一里塚

それが人間行動である。こんな言動をしたことが重要なのではなく、何をしようとしてその言動をしたのか?意図と動機が人間行動の本質である。

外観だけに着目して、一挙手一投足一語句に是非の判定を下したがるのは、人間社会を《ゲーム》と錯覚している御仁の通弊である。この種の人物の増加と横行を止められない所が、現代民主主義社会に蔓延する文明病の主たる症状だと観ているところだ。


モノづくりを経験知として知っていた世代なら、不適切な原因がありトラブルが発生したという順とは反対方向からも考えられるはずだ。そもそも何が不適切かという判定は目的設定に依存して変わるものである。

モノ作りではなくて、サービス、つまりは「おもてなし」をコアとする現代日本の活動現場では、トラブル自体が単なる不祥事になってしまったようだ。

「改善への一里塚」から「単なる不祥事」へ

「失敗は成功の母」であるのに何という転落ぶりだろうか?しかし、アスリートでもない、クリエーターでもない、アーティストでもサイエンティストでも何でもない、いわゆるスキルとは無縁の人たちが活動する現場においては、トラブルは未熟からの成長の一過程とは認識されず、単なる無能としか観られない。成長するべき何物もない以上、トラブルは取り除くべき不適切な因子の存在を示唆するのである。

マルクスは「労働力の商品化」をもって「人間の自己疎外」と理解したが、「コンプライアンス」という言葉に支配される現代日本社会の「働く場所」に蔓延しているのは、文字通りの

働く人たちの自己疎外

である。浸食されているのは、被雇用者だけではなく、自らが造った言葉と観念に逆に支配されている経営者も同じである。

コンプライアンスとは元来は「法の尊重」を指す言葉だった。それが「不適切の排除」という意味に拡大してきたのが、この10年程の間の現代世間史と言えるだろう。この辺にも言及しているから、ChatGPTの回答は平均以上の出来栄えを示している。

興味深いのは、コンプライアンスの意味が変化していることです。

もともとは

法律を守ること(法令遵守)

という意味でした。

しかし現在では、それだけでは不十分と考えられ、

  • 社内規程を守る
  • 倫理規範を守る
  • 利益相反を避ける
  • ハラスメントを防止する
  • ESGや人権に配慮する

といった広い意味で使われています。

《トラブル、即ち不適切》という思い込みは、創造とモノづくりの現場を忘れた現代日本の精神的退廃であろう。正に、自らが造った言葉が自らを苦しめる自己疎外の典型的なケースであるというのが、小生の現代世相観である。

次いで、以下の質問をした。

個人的には、潜在的エネルギーが社会的な活力になるように法制度は柔軟に修正していくものだと考えています。現時点の法制度を所与として、法を順守する点を重視しすぎると、むしろ閉塞的な社会状況になると思いますが、あなたはどう思いますか?

あまり良い質問の仕方ではない。これでは答えを誘導している。

案の定

例えば歴史を振り返ると、

  1. 明治維新では封建的な身分制度や営業規制が大きく改められ、経済活動の自由が広がりました。
  2. 戦後の農地改革や独占禁止政策も、既存制度を大胆に変更することで社会の活力を引き出そうとした例です。
  3. 近年でも、デジタル技術やAIに対応するため、新しい事業を可能にする「サンドボックス制度」のように、既存規制を一時的に緩和して実証実験を認める仕組みが導入されています。

つまり、法制度は固定的なものではなく、社会の変化に応じて改正されるべきものだという考え方は、法学や経済学でも広く認められています。

小生が欲しいと思う回答が返ってきた。この回答自体に誤りはなく、正にその通りなのであるが、

社会進歩のためには、苦しむ人は犠牲になるべきだと考えるのですか?

必ずこんな反問に答えなければならない。注射は、同じ人が痛い思いをして、同時に治療効果の受け手になる。利得と損失の差し引き計算は可能だ。他方、社会が進歩するときには、ある人が大きな利益を得て、別の人がそれより小さい損失を蒙る。そんな時、損失を蒙る人は社会の為に犠牲になれというのですか?これでは、神風特攻隊を送り出した軍国日本の日本人と同じ精神ではないか?

この問題意識こそが議論の核心なのである。

次のように回答から逃げているのはAIなるものの賢いところだと思っている。

私が興味深いと感じるのは、ご指摘が**「コンプライアンス文化」への批判**にもつながっている点です。

近年のコンプライアンスは、単なる法令遵守を超えて「少しでも社会的批判を受けそうなことは避ける」というリスク回避の文化にまで広がることがあります。その結果、

  • 新規事業への挑戦をためらう
  • 前例主義が強まる
  • 失敗を極端に恐れる
  • 形式的なチェックや書類作成が増える

といった副作用が指摘されています。これは本来の「法令遵守」とは少し異なる現象で、むしろ過剰なリスク回避の問題と言えるでしょう。

コンプライアンス重視が、改革の痛みからの逃避になれば、その企業、その国は衰退するしかない理屈である。

要するに、コンプライアンスを「臭いものに蓋をする経営姿勢」の言い訳にしてはダメだということだ。が、現状は

コンプライアンス重視 = ことなかれ主義

コンプライアンス重視 = 護送船団方式

に堕している。1990年代のバブル崩壊の修羅場の経験を通して、これではダメだと日本人が学習した教訓を、そろそろ忘れ始めているのだろう。

日本社会は、一度は否定できた旧習を新しい言葉で飾りつけ又もや同じ事なかれ主義に戻りつつあるように観える。

とはいえ、こういう事こそ小生が最初から言いたい事であった。言いたい事を先に書いてくれるのは有り難いが、求めていたのはこれをロジックとして整理することであった。

数学の入試問題すら解けるAIだが、社会を肉切り包丁のように解体して、社会問題のロジックを自由自在に再構成してくれるという所までは行かない様だ。