2026年5月3日日曜日

断想: 君子、豹変する。というより、豹変できる、と言うべきか?

朝、目が覚める前に、変な事を考えていた・・・

君子は豹変する

という古来の名句である。日本では「豹変」を悪い意味に使うことが多いが、

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

『間違った』と気づいた時点で直ちに止めることの大切さは、日本でもよく引き合いに出される。


今秋に予定されるアメリカ中間選挙で与党・共和党が苦境に立たされている由。某世論調査では、現・連邦議会は信頼できないと回答した者の割合が9割を超えたというから、大統領自身より先に与党が先に崖っぷちに追い込まれている模様だ。

マア、分かります。そりゃ、当然こうなるワナとしか思えません。

とはいえ、必敗の状況の中、手詰まりになったト大統領になお選択可能な道がある(かもしれない)。

それは、ネタニヤフ・イスラエル首相を生贄(Scapegoat)に差し出すことである。

私はイスラエルに騙された。ネタニヤフが私に嘘をついたのだ。

と。イスラエル抜きで停戦し、イスラエルへの軍事支援を止め、パレスチナ難民への支援を強化する。


文字通り

君子、豹変する。

ユダヤ層とは亀裂が入るだろう。その一方で、アラブ系住民はト大統領を見直すだろう。

《史上最低の愚かな大統領》との評価は確定的になるだろうが、傷は最小限にとどめられるかもしれない。

うまく行くかどうかは分からない。そもそもト大統領、「君子」ではないはずだ。しかし、今歩いている道は「行き止まり」であろう。


起きる前の夢の中の話しである。面白いと思ったので覚書きまで。


2026年5月2日土曜日

前稿の補足: 社会は人生ゲームの競技場ではない

前の投稿でこんな下りを書いた:

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

このブログで何度も書いているが、小生は折り紙付きの偏屈者だ。智慧もない凡夫だ。一口に言うと、だから、扱いにくい唯のヒトである。なので、小生にとって現代日本の世間は決して「生きやすい空間」ではなかったし、今もそうではない。書きたいことを書いて、それでも治安当局の任意聴取の対象にならないのは、「違法行為」、「要注意人物」としてマークされていないからだろう。

今更だが

アメリカでは原則自由、例外禁止。日本では原則禁止、例外自由。

こう言われることが多い。昨年の夏に亡くなった旧友・O君なら

世界の常識は日本では非常識。日本の常識は世界では非常識。

これまた今でも耳にすることが多い。日本は島国であるせいか、自分たちの美的感覚、社会的常識を頑なに守っても、それで困ることはなかったし、外国と軋轢を生じさせることも少なかった。

小生はというと、自由に行動する時も、常に周囲の目、合法か違法か、規則に違反していないか、こんな事ばかりを意識してきた。いやあ、よくもまあ懲戒処分もされず、無事にやって来れたことよと、改めて我が身の幸運に感謝している。友人の一人は、「学内不正経理」とやらで六カ月停職の憂き目にあった。尊敬する我が先輩は「セクハラ」を理由に譴責を蒙ってしまった。

近年の日本は誠に剣呑な世になっている。

リアルな体感はないが、活発だった田沼時代の後の寛政期、華やかな文化文政時代の後の天保の改革期も、同じような雰囲気だったのだろうと想像する。というか、大正から昭和にかけての急激な世の空気の変化も、今と同じようだったのだろう。

しかし意外なことに、今では単なる"Japanese"が"Japanesque"と評価されることもあるから、小生の田舎でいう「キョロマ」とは正反対の「頑固」なお国柄が功を奏することもある。

ただごく最近感じるのは、いわゆる「日本風」が世界的観光の有力地として台頭するのに刺激されたか、日本人が過剰に保守的になって、外面は優しくて寛容だが、内面は(その実)器が小さくて神経質。こんな世相を痛感することママあり。

他人は自分の鏡ではない。他人の心に自分を見るのではなく、自分の姿は自己自身のみが知る。これを徹底したいものであります。


ネットによれば、暴力団組長の葬儀に出席して取材をした新聞記者が世間で非難されている由。何も会社から指示されたのではなく、香典も自費で払ったとのこと。

どうやら「反社」とは一切の接触を断てという「お上のご条例」があるそうで。

これなどは《棲み分け》を容認しない現代日本の世相、価値観を象徴している。

棲み分け否定、同化絶対、異分子排除を貫く《イスラエル主義》を日本人は批判できんナア

そう感じる次第。


現代人は世の中を何か人生ゲームの《競技場》とでも思っているのではないかしらン・・・ゲームや競技なら統一ルールが要るのは確かだ。ルールに違反するとファウルになり、繰り返せば《退場》となる。度を越せば《永久追放》と相なる。

しかし、日本は競技場ではないし、人生はゲームでもない。勝敗を争っているわけでもない。全ての日本人は意志によってこの国に生まれたのではない。人生ゲームに参加しようと考えたわけじゃあない。居場所があればいい。価値観が合わない人とは棲み分けして、感性が一致する人と楽しくやれれば満足なのだ。人に迷惑をかけなければ好きな事をやって生きたいと願うのは凡夫の性だろう。あれはダメ、これは禁止というのも程合いがある。


全ての人には生まれた国で居場所を得る生得の権利がある。法を犯せば刑罰が伴うが、接触、会話までを絶てという権限など、最初からお上にあるはずはない。犯罪を手伝えば共犯だが、「食事をともにしたから処罰しろ」という社会は、小生の目には《暗黒社会》にみえる。どちらが暴力団か分からなくなる。

事実を虚心に観察すれば、いまのアメリカは暴力団的である。同じように我々の社会が組織暴力団的になる可能性は常にある。そう思われますがネエ…

【加筆修正:2026-5-3】

2026年4月30日木曜日

断想: 「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる?

いかにも現代日本(特有?)の世相を映していると感じる記事は毎日見かけるもので、たとえば

 現在の大学のキャンパスでは、セクハラなどのハラスメント防止の啓発は学生同士の関係においても進んでいる。

 同じ学部、同じコミュニティ、同じ界隈といった範囲での炎上騒動を身近で見聞きしている若者も少なくなく、特に問題になりやすいのはやはり異性との関係だ。 

 そういう自分にとってリスクになるタブー要素を若者は意識的にも無意識的にも避け、コンプライアンス(コンプラ)を遵守するようになっている。 

Source: YAHOO! JAPAN ニュース

Original: PRESIDENT Online

Date: 2026-04-29

コンプライアンス(Compliance)については前にも投稿したことがある。

確かに、アメリカ社会などでは《自由》の価値、《個人の実存》が日本よりは遥かに徹底されて意識されているようだから、《法》の尊重が強調されるのは、社会のバランスをとる上で必要だと思う  ―   特にトランプ現政権の関係者にはコンプライアンスの感覚を徹底して持ってもらいたいと思う。現状はただ「無法」に近いのじゃあないかとも、真面目な日本人は感じる。

他方、日本人は視野の中に車が1台も見えない時でも、歩行者は信号が赤から青に変わるまで大人しく、というか真面目に待つというお国柄である。そんな国で《コンプライアンス》を強調したらどうなるか?

上に引用した下りは、社会的な帰結を示す一例でもあろう。

上の記事は以下のように続く:

 そんな調子だから、一緒に連れだって出かける時の「一番居心地のいい組み合わせ」も大幅に同性寄りにシフトしている(図表2)。恋愛至上主義真っ只中の1994年調査では約4割が「異性との二人」を挙げており、また、「男女二人ずつ」というダブルデート的な組み合わせを選ぶ人も約3割いた。

 異性を含めた組み合わせを選んだ人は合計で約75%に及ぶ。それが2024年調査では異性を含む組み合わせを全て合計しても35%程度にまで減少しているのだ。

 一方で大幅に増加したのが「同性同士の二人」。3人中2人はこの組み合わせを一番居心地がいいと回答している。同性との居心地が良くなった、という側面もあるだろうが、それ以上に異性との居心地が悪くなった、気の置けない関係が作りにくくなったことを痛感させられるデータだ。

一度《性的変質者》として烙印を押されてしまうと、その人は《男女共同参画》を基本理念とする現代日本では、ほとんど《社会的死》とほぼ同等の宣告を受けてしまうのが現実だろう。(特に男性が?)異性との交際、というか必要以上の親密さを避けるのも、リスク・マネジメントとしては賢明な戦略であり、いわば人生を生きていく上での《支配戦略》になっているのだと思う。

実際に「性的トラブル」を起こした人物は、支配戦略に沿って意思決定できなかった頭の悪い「落ちこぼれ」である、と。社会的には「無用」である、と。そういう事なのでありましょうか?

これは男女を問わないと思われるが、異性との一時的交友を楽しみたいと願うなら、有料ビジネスの場においてサービス消費として時間を過ごすのが最も安全である  ―   それでも不同意であったか同意であったかで、しばしばトラブルが発生しているようだが。

ま、いずれにしても、男女の交際にまでリスク・マネジメントの感覚が必要だと感じさせる現代日本社会において《少子化》が進むのは、当たり前だと思う次第。

夏目漱石は、『三四郎』に登場する「偉大なる暗闇」こと広田先生に、発展する日本を評して「滅びるね」と言わせているが、社会や国というのは、一生懸命に「そうなろう」と統一行動すればするほど、逆にそうはなれないものである。今のコンプライアンス運動、こんな調子であと10年やって行けるイメージがわきません。

自由と法の重みには必ずバランスがある。一方ばかり強調すると、いつか、どこかが破れる。

むしろ

男女七歳にして席を同じうせず

教育の場で男女分離を徹底し、公共・職場においても必要以上の男女の接触を断ち、その代わりに異性の友人関係については「血縁」、「地縁」に代わって、ずっと昔は町のどこにでもいた《お節介な世話好き叔母さん》が無報酬で、ただ親切心だけで果たしていた役割と同じような、何らかの、社会的に容認されるような、新たな《社会的慣行》が日本社会に定着するまでは、いまの息詰まるような学内環境、職場環境は続くのではないか。少子化も傾向として続くのではないか。そう思われます。

そうでなければ「男女共同参画社会」ではなく「男女共同参画特区」でも創ればよろしかろう、と。

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

昔の「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる。

日本社会は実はなにも変わってはいないが、いま目指している社会システムとそれに必要な倫理感覚が、日本人をハッピーにするのではなく、むしろアンハッピーにしている。そんな風に思われたりするのだ、な・・・ 


 




 

2026年4月27日月曜日

断想: トインビー的学問の再生が間近いかも

 小生がまだ十代の頃、盛んに名前を聞いていながら、今では話題になることすらなくなった人として、歴史家・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)がいる。

ジャーナリスト的歴史家としてE.H.カー(Edward Hallett Carr)はまだ何かの記事で目にすることはあるが、トインビーの方はもう忘却の彼方に去ったようでもある。

まあ、戦前期に一世を風靡(?)しながら、戦後には全く忘れ去られた感がある徳富蘇峰などは、姿の唐突な消え方においてトインビーに似ているかもしれない。新聞記者兼歴史家兼評論家としては日本社会で極めて高名で影響力のあった人物である。

確か、トインビーには日本に「トインビー狂(?)」とでも言えるような人がいて、その人物の影響で日本でも著名であったことだけ覚えている。誰だったかな?・・・ちょっと思い出せない。ChatGPTに「トインビーを日本に紹介した人は誰でしたか?」と聞いてみると、清水幾太郎辺りの名前が出てきた。ちょっと違っていたような気もするが、確かに清水幾太郎の著作を読んだこともある。・・・忘れた。

最近は廃れてしまったが、トインビーをWikipediaではどうまとめているのかちょっと覗いてみた。


要領よく総括されているが、ウクライナの事も言及されていたので、原文にある脚注へのリンクボタンを削除したうえで引用しておこう:

トインビーは、ウクライナ(小ロシア)については、内政自治も連邦制も否定した。 

トインビーが連邦制に反対したのは、連邦制になったロシアは分裂しすぎて統一された重心を持つことができず、かつてアメリカ合衆国が一時的に分裂(南北戦争)したように、断片化して分裂する危険性があるという懸念からであった。 

トインビーは自治権の代わりに、ロシア帝国の大ロシア地域でウクライナ語を公用語にして、ウクライナ人(小ロシア人)が大ロシア人の劣等生としてではなく、大ロシア人の仲間としてロシアの政治家の一員になることを目指すことを提案した。トインビーはまた、ウクライナ語がロシアで公用語化されてもロシア語に対抗できないのであれば、ロシア語の優れた生命力をきっぱりと証明することになると主張した(トインビーによれば、ウクライナ語は農民のバラッドを書くのにしか使われていないのに対し、ロシア語は偉大な文学を書くのに使われている)。

20世紀初め、第一次世界大戦後の世界情勢をみながら、上のように述べている。

そして21世紀初め、ウクライナはソ連崩壊後に独立を目指し、ロシアへの敵意を露にし、いまは西側陣営(NATO)を後見役として、戦争を継続している真っ最中である。そのロシア=ウクライナ戦争の煽り役として記憶されるであろうイギリスで、ずっと昔、実はイギリス人・トインビーが「ロシア同化論」とでも言うようなウクライナ観をもっていたのは、面白いではないか。

ウクライナ人が愛するウクライナ語がロシア文明の中で自然淘汰されていくなら、それはそれで自然のプロセスである、と。いかにもイギリス人らしい物の考え方であると感じました。

実際、第二次大戦後のソ連で首相となったフルシチョフはロシア人ではあったがウクライナで育ったような人であった。ソ連最後の書記長・ゴルバチョフもまたウクライナ人の血を濃厚に受け継いでいる。 

ロシアがウクライナを遇する姿勢にも問題はあったろうが、ウクライナ人の感情も狭量であったと小生は感じる   ―    マ、所詮は他人事ではあるでしょうが、最近の投稿では「二級国民」の語を使っていたのでそのつながりもあって、です。


トインビーといえば(小生は未読であるが)『歴史の研究』が主著である。その中でトインビーは、国家や政体ではなく、文明そのものの興亡を考えている。Wikipediaの<トインビー>には以下の下りを引用しているが、小生が十代であった当時も、非常に有名な歴史観であった:

人類の歴史の中で26の文明の盛衰を検証し、それらの文明は、エリート・リーダーからなる創造的な少数派のリーダーシップのもと、課題にうまく対応することで発展したと結論づけている。

『トインビーが『歴史の研究』で考察した26の文明とは何であったか?要約できますか?』という質問に対するChatGPTの回答はここに残しておこう。《発展した文明》のカテゴリーの中に「極東文明(中国系:儒教文明)」とは独立して「日本文明」が挙げられている点にトインビーのアジア観、というか文明観が見て取れて、非常に興味深いところだ。 


最近50~60年程か、トインビーに注目する人がほとんどいなくなった理由の一つとして

トインビーが事実に基づくデータよりも神話や寓話、宗教を好むことを指摘している。

こんな点が挙げられているようで、ここにも現代文明を支配する《科学主義》、《実証主義》の影響があるように思う。

しかし、科学では「自己意識の発生」を説明できない。そもそも物質からどのようにして「生命」が発生するのか、これまた未解明である。物質が物理的身体となって、物理化学的プロセスから遂に自由意志を獲得して、自らの意志によって運動するなどと自然を解釈するのは「神話」以上に荒唐無稽であろう。人が認識する「世界」は、物質循環システムという「それ自体」よりは、そもそも精神的存在である(という立場に最近になって転向した)。

「社会科学」では、そもそもデータ収集過程そのものから「サンプル・セレクション」が発生し、データが真相を教えてくれるというより、真相を洞察する純粋理論の反証としてデータを使用する姿勢が求められる。何が「事実」であるか「真相」であるか、データ自らが語ってくれると考えること自体、既に「神話」と言うべきだ。

まず考えなければ真理には近づけない。必要なのはデータの前にまずは思考であって、智慧である。データはその後だ。無思想にデータを集めても何も分からないままである。まず考えることが不可欠なのである。自分が考えてもよいし、過去に生きた人物がどう考えたかを知ることも、大切である。

生き残る理論はそれが良い説明になっているかどうか、良いモデルであるかどうかで決まってくる。真理をついた理論はエビデンスが集まる前から既に真なのである。

《文明》を精神活動ではなく、観察可能なデータ、物証で基礎づけようとする科学的歴史はそろそろ研究メソッドとして主役の座を降りるのではないだろうか?

そんな意味で、トインビー的学問の復権も間近いと思う、昨今であります。

【加筆修正:2026-04-28】



2026年4月25日土曜日

ホンの一言: これも業縁というものでござろう

 イスラエル首相のネタニヤフさんが前立腺がんの手術を受けた由。


A君: あれだけ多くの人を殺しておきながら、自分が死ぬのは嫌なんだネエ…

B君: そりゃ言い過ぎだろ、人の命は平等だよ

A君: マア、そうだろうけど、死んでよろこぶ人は多いだろうナア

B君: ・・・・


以って瞑すべし。病気の回復を切に祈る。

この世は舞台。どんな役回りを生きるかは、前世、過去生から受け継いだ業と、生まれてから出会った縁によって決まるものである。

この理は太平洋戦争のA級戦犯とて皆同じ。

殺すも殺されるも「これも業縁というものでござろう」と、唯円の『歎異鈔』を読んだ日本人なら言うであろう。



《戦犯》・・・現世で演じた役回りに対して下された審判はいまに至るまで有効である。というか、そんな判決があった事実を実はなかった事にすることはできない。これも業縁。しかし、今生を終えた非物質の精神的働きの根底、即ち阿頼耶識は最期の念仏で浄化され極楽浄土へ往生できたのか、それとも業があまりに強勢で別の生に転生し別の生を生きているのか、それは定かではない。いま生きている人間には不可知である。が、仮に別の人の阿頼耶識に転生しているなら、今度こそ平穏な一生を全うして、解脱への道を幾ばくかでも歩んでほしいものである。以上、近頃もつに至った宇宙観を補足した。

【加筆修正:2026-04-25】

2026年4月24日金曜日

ホンの一言: 国防費と社会保障費のトレードオフ?

ネットを見ているとこんな記事が目に入った:

Edgewingは英伊日の次世代戦闘機=GCAP本格開発に向けて「初の国際共同契約が締結された」と発表したが、これは英国の資金不足を反映した6月末までのつなぎ契約に過ぎず、スターマー政権は社会保障費の大幅削減に手がつけられず国防費増額の財源確保がますます困難になってきた。

URL:https://grandfleet.info/european-region/lack-of-funding-hinders-full-scale-development-of-next-generation-fighter-jets-making-significant-cuts-to-social-security-spending-difficult-in-the-uk/ 

要するに、社会保障のためにカネがいるので国防に支払うカネがない、と読める。

ウ〜ム、これは逆じゃあないか。そう感じました。

大きく極端なケース(an extreme case)で考えよう。モデルの頑健性、というか使用耐性は極端なケースでどんな帰結になるかで分かるものだ。

敵国の侵略から国を守る軍事行動には巨額の国防費が要る。税はいますぐ年度内に必要だから徴収するものだ。国防は「戦費」とは違う。戦費は戦費でケインズも『戦費調達論』を書いているところだ。私人は防犯設備に投資してセキュリティを買う。国は国防予算で国の安全を買うわけだ。税でなければ、国民に借金をする、つまり国防費の財源に国債を発行するのも理屈は通る。仮にも敗戦となると国債は多分紙くずだ。(運よく?)勝てば負けた敵国を収奪すれば国債を償還できる。これもロジカルである。

一方、国民が格差拡大に困窮しないようにするにはカネをバラまく必要がある。やはり金が要る。しかし、金持ちから金を借りて、貧しい人に金を支給するのは無理だ。借りた金を返せる目途がない。故にバラまく金は税で徴収しなければならない。特に金持ちを標的にした累進所得税や相続税、資産課税、更に(可能なら)累進消費税が有効だ。これがいわゆる福祉国家の理念で、ほとんど社会主義の国家運営となる。

国防と社会保障。財務省の視点からは巨大な歳出項目である点で同じだが、目的も特性も全く違う。

~ ~ ~

無しにしてもヨイのではないか?

優勢な敵が侵略してくれば、政府はさっさと降伏する。それで幕引きだ。犠牲も最小限ですむはずだ。国民の為だ。その代わり、国民は占領国から「二級国民」として侮蔑されるであろう。

貧困な国民がいても政府は無視しておけばいい。富裕層からカネを徴収(=増税)して、貧困層にカネを支給(=社会保障)しても、それでもって政府が助かるわけじゃあない。大体、社会保障給付を政府から受け取っても、貧しい人は政府に感謝はしないものである。政府に恩返ししようなどとは、これっぽっちもおもわないであろう。当然の権利だと思うだけだ。他方、税で取られる側は政府を恨む。割に合わないのだ。

社会保障を不可侵の権利だなどと思う国民なら、上段のように敵国にサッサと降伏して、以後蔑まれようと、その通りなのだからイイだろうと。

達観してしまうと、こんな議論になるだろうとは、若いころは思っていた。森嶋通夫の「無抵抗降伏論」はこの発想に近い。そして、今もって社会観は大きく変わらない。


補足すると、森嶋氏の無抵抗降伏論では勝者側から「二級国民」として侮蔑されるという可能性があまり採り上げられていない。寧ろ、「勤勉」で「我慢強い」日本人の国民性を発揮すれば、降伏後に日本人の才能によって勝者からリスペクトされるはずであるという議論がされている。1970年代の日本人であれば有効性があったろうが、パワハラ被害、モラハラ被害が多数訴えられ、退職代行業者が成長するご時世の現代日本人には、森嶋の議論は当てはまるまい。ただ単に「二級国民」と見られるだけであろうと予想する。


議論を戻すと、故にイギリス政府は安心して軍事費をカットして社会保障費を確保すれば良いのだ。それで英国民がイイと考えるなら、という結論になる。

しかし、本当に強大な敵国に降伏するとして、占領下で手厚い社会保障を継続するのは無理であろう。占領国が法外な賠償を課し社会保障給付を削減することを余儀なくされるのは確実だからだ。賠償とは名称であって要は無力化を目的とした収奪であり必ず実行される(はずだ)。

現時点で「国際法」はほぼ死文化していることを認識しなければならない。

要は、国民の気概と覚悟が論点なのである。

ソクラテスはただ立派なことを喋っていたから若者を惹きつけたわけではない。戦争には剣と盾を手に従軍し最前線で戦っていた勇者でもあったのだ。現代に置き換えれば、(いい例かどうか分からないが)第二次大戦末期のノルマンディー上陸作戦を「連合国遠征軍最高司令官」として指揮したアイゼンハワー将軍が戦後に米大統領になった例を思い出す。戦場を潜り抜けた人物はそれを知った国民から信用されるものだ。口からだす言葉は、普段の行動に裏付けられた気概と覚悟と一体でなければ、表裏ある人物と変わらず、たんなるお喋りになることは誰もが知っている事である  ―   「たんなるお喋り」に満ちた現代、日本もアメリカも同じ世相だろうが、今のト大統領がそうでないことは切に望んでいる。

ソクラテスやアイゼンハワーといった個人の話しになったが、国民も同じだ。気概と覚悟無き国民は必ずなめられる。話は実はシンプルなのだと思う。

国防と社会保障は「あれか、これか」でなく、《辞書的順序付け》。つまり国防関係費をA項目とすれば、社会保障関係費は次のB項目になる。

あるべき形はこうで、国民、というか市民と言うべきか、有権者とよぶべきか、価値の順序付けを当たり前のこととして、順応するしか道はないのではないか?

単純比較ではない。国家的価値の順序の問題ではないか?

こんな風に思うわけであります。

経済理論に則して考えると、政府は《政府サービス》を供給するために設置される組織である。

「政府サービス」というのは、『国民経済計算(=SNA:System Of National Accounts)』の用語であるが、要するに「公共サービス」である。

その公共サービスとは、公務員が直接に担う立法・行政・司法サービスのことを指すし、あるいは市場では十分に供給されない「公共財/社会資本」の整備を通して供給されるサービスをいうこともある。無料の公園などは市場では十分に「公園」が供給されないから、税を財源にして整備し無料で開放しているわけである。

国防が市場を通して有料で提供される情景は想像しがたいし、裁判所の司法サービスが有料の市場サービスである事態も想像困難である。

確かに「コアな公共サービス」はある。特に、治安・警察・国防は、古来、統治行為の核心であって、これを担う組織として警察、軍隊とは別に、紛争解決や刑罰を科すための裁判所が設けられたのは、誰もが想像できるはずだ。

割り切れば、その他のサービスは全てグレー・ゾーンである。教育、研究開発は民間では不足するのか?なぜ不足するのか?産業政策は国が行うべきなのか?そもそも何が成長分野か、民間には分からないが、政府には分かっていると言えるのか?リスクマネーというが、そもそも政府が国民からカネを集めて、ハイリスクの研究開発に投じるべきなのか?

社会保障もこの疑問の対象につらなっている(と思う立場に小生はいる)。


平等な医療を安価に提供することが何故政府の仕事になるのか?それでもって寿命が平等になるわけではないのである。

生活水準をなぜ(可能な限り)平等にしなければならないのか?決して政府が担うべき公共サービスとは思われないのだ、な。

間違ってはいけないのは、恵まれた人々が恵まれない人たちに善意を提供するという行為は疑いなく《善》であることだ。論点は、善を行うことができる人々からその機会を奪い、「政府」が政府の行為として、社会保障を行うという形のことである。

自発的な善行の余裕を社会から吸い上げて、政府が善を独占するという社会のありようは、小生は好きでない。

善なる行為は政府が主役で、それ以外の国民はただ自己利益を追求すればよい。例外的に公益法人などの存在を政府が認めてよい、と。

経済学の大前提はこれに近いものがあるが、これでは健全な社会にはならないという理屈は、中学生でも理解できるはずだ。普通の日本人は決してこうは考えていない(はずである)のは、日本社会が救われる点だと思っている。

しかし、戦後日本では社会保障の美名のもとに逆に国民を抑圧する機会を政府に与えている。そう思うのだが、共感してくれる人は多分ほとんどいないだろうネエ…

だから、今日のイギリスのように、社会保障の為に国防予算を削るというのは、正に本末転倒としか思えないのである。


・・・今回は物騒な投稿になった。剣呑、剣呑、ご容赦願いたい。

2026年4月23日木曜日

断想: 文明崩壊の論理、反政府的経済学者の愛国心について

 「歴史に学べ」という人の多くは産業革命後の近代世界の発展史を指していることがほとんだ。せいぜいのところ、16世紀の《コペルニクス革命》以降、ヨーロッパで進行した自然科学の発展と産業技術への応用をイメージしている見方が大半だろう。

西洋の成功物語としては適切な選択だ。

ヨーロッパ発の科学革命とそれがもたらした産業経済の巨大な成功は、いわば「科学主義」と「唯物論」を現代社会に浸透させてきたというのが小生の歴史観だが、中国やインドといった伝統的大国の経済的復権に伴って、西洋的世界観にもそろそろ限界が見えてきたのかなあというのが、足元の状況だと思っている。

もっと注目してもよいと思うのは、あの華やかなギリシア=ローマの古代社会が、なぜ、どのような過程を経て崩壊するに至ったかという問題意識だと思っている。というのは、文明の中心であったローマ帝国の盛時、いわゆる《ローマの平和(Pax Romana)》は賢君マルクス=アウレリウス帝の後を暗君コモドゥス帝が継承して以後、突然に、というか急速に不安定化し、100年の混乱と後退のプロセスに入ったのは、あまりに唐突な変動で、一人の暗君の出現で何故かくも突然に巨大な文明が変調になるのかという問題があると思うのだ。

確かに、ゲルマンなど異民族の侵入など国際環境の悪化や農業生産技術の停滞など、数多くの原因が挙げられている。政治的不安定性の高まりが為すべき政治的決定を為すのを不可能にしたという点もあるだろう。それでも帝国が健全な時代であれば、帝国から外国に文化的同化力を放射できていたのが、一人の暗君の出現以後は反対に外国の脅威が帝国の平和を直接的に脅かす負の連鎖の時代へと入っていったことが不思議であるわけだ。

ローマ帝国の衰退についてはフランスの啓蒙思想家・モンテスキューが共和制の廃止と帝政への移行を根本的原因に挙げている。しかし、帝政に移行してから200年弱も経ってから負の影響が出て来るか、という疑問がある。ギボンも大著『ローマ帝国衰亡史』を著している。ギボンが指摘する衰退の原因は

  1. ローマ帝国の市民の精神的退廃とモラルの低下。
  2. ローマ軍自体の異民族依存、つまり多民族化は、国境防衛を脆弱にして、国防軍としての軍律弛緩を招いた。
  3. キリスト教の浸透が、来世志向、現世否定の心理を蔓延させた。一神教なるが故に皇帝の権威への忠誠心が揺らいだ。国を守ることを自分のこととは考えない市民が増えた事が示唆される。
まあ、ChatGPTに聞くと、こんな点に要約される(とされている)。

ローマ帝国は西洋においては唯一無二のグローバル帝国として君臨していた。であるから、衰退するとすれば、外的要因ではなく主として内的要因からであるというのは、よく理解できるところだ。

キリスト教の普及は、帝国の経済成長が頭打ちになり、政治的不安定性が高まる中で、一人一人の市民が日常的なストレスを感じた3世紀に加速した。

キリスト教の浸透とモラルの崩壊は、ある意味で矛盾するかもしれないが、自らの義務として帝国を守ろうとする気概が衰退したことを以て、モラルの崩壊と解釈すれば、分かる話しではあろう。

現代にまで伝わる古文書には残っていないだろうが、その当時も同時代的知識人が盛んに文明批評を著し、危機感を訴える文章を公表していたのに違いない。多くの人が文明の危機、帝国の危機を議論していたに違いない。

それでもローマ帝国は衰退し、滅亡し、古代社会は完全に瓦解し、ヨーロッパ社会はカール大帝のフランク王国がひとまず乱世を収めるまで概ね300年の暗黒時代を経た。キリスト教以外の文明資産は全く失われ、貨幣経済から物々交換への逆戻りを経験したのである。

こんな事が起こったのは何故だろうか?

自然科学の発展が始まってから、産業革命が始まってから、そんな成功物語を観ているだけでは分からない《文明崩壊の論理》、《衰退の論理》というものがあるのではないか?



クルーグマンが足元の電気技術の発展についてこんな見方をしている。Google翻訳で訳された和文で引用しておこう:

また、トランプ大統領がイランによるホルムズ海峡封鎖に対抗するため、自らもホルムズ海峡を封鎖するという決定を下したことは、各国が太陽光発電や風力発電に転換しない場合に頼らざるを得なくなるであろう、米国産石油とLNGへの依存が安全ではないという認識を確実に強めることになるだろう。気まぐれな米国が、他国のエネルギー依存を武器化しようとしないと誰が保証できるだろうか?

トランプ氏のイランにおける冒険主義的な行動は、太陽光発電、風力発電、そして再生可能エネルギーを24時間365日稼働させるためのバッテリーへの投資を世界的に加速させるきっかけとなった。

では、世界が求める再生可能エネルギー機器の大部分はどこから調達されるのだろうか?それは中国だ。中国は世界の工場であり、その製造業規模は米国、日本、ドイツ、韓国を合わせた規模よりも大きい。

   (中略)

バイデン大統領政権下で、米国はバッテリーや電気自動車をはじめとする電気技術分野の発展に向けて、必要不可欠な措置を講じた。また、再生可能エネルギー全般の成長加速も目指した。しかし、トランプ政権はバイデン政権の再生可能エネルギー関連プログラムをすべて中止しただけでなく、再生可能エネルギー分野への民間投資を積極的に阻止しようとしている。

アメリカがトランプ氏の化石燃料への執着から解放される頃には(もしそれが実現するとしても)、再生可能エネルギー製造における中国のリードは恐らく克服不可能なものになっているだろう。

太陽光パネルやバッテリーを中国に依存する世界は、必ずしも悪いことではない。政治的にも経済的にも、ほとんどの国にとって、カタールや、現時点では米国からの液化天然ガス(LNG)輸入に依存するよりも、はるかにリスクが低いのは確かだ。

Source: substack.com

Author: Paul Krugman

Date: 2026-4-14

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/chinese-electrotech-is-the-big-winner

小生は、親英米であるが、だからといって反中でも嫌中でもない。

「一つの中国」は歴史的事実というばかりではなく、そもそも日本には未だ和平には至っていない「国共内戦」という中国国内の紛争に介入する権限も、外交上の正当性もないという立場に立っている。

何より日本文化の表層を覆っている西洋由来の衣をはぎ取れば、古代から江戸時代まで続く伝統文化が表れ、そこには純国風の大和心と中国・インド発祥の文物が裏地のように織りなされてあり、日本人の感性を包んでいることが分かる。

なので、上のようなクルーグマン氏の論調には全面的に賛成する。経済的にそのとおりであり政治的にも、共和党的な政治観に好感をもっていた小生にも、上の左翼的見解は道理であると思われる。

最後にこう結ばれている。

しかし、この国が自らを破滅させ、未来を担う最も重要な産業を中国に譲り渡してしまうのを見るのは悲しいことだ。そうすることで、私たちはより貧しくなり、技術的に後れを取り、エネルギー革命へと突き進む世界において影響力を失ってしまう。結局のところ、私たちは化石燃料を燃やしているだけでなく、自らの未来をも燃やしているのだ。

愛国者としてのクルーグマンの思想が表れていると感じるのは、民主党支持者だけではなく、普通の人たちにも多いような気がする。