ChatGPTなどAIが普及したいまという時代、もはや書評とか、批評とか、読書感想文といった学校なら誰でも取り組んだことがある「宿題」が、今後はどんな意味をもつのかどうか、非常に曖昧になってきた ― 人によっては、数学の演習問題や哲学のレポート課題ですら、もはや宿題とするには、意味がなくなってきたと言うかもしれないが。
少なくとも、学校の夏休み課題としての読書感想文は何を測定する課題であるのか、意味を失ったと思う。
今日はその辺の経験と印象である。
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ChatGPTに、試しに
芥川龍之介の最高傑作は何だと思う?
と聞いてみた。そうすると、『地獄変』だと思うと答えてきた。小生は『歯車』あたりが大したものだと思っているが、確かに『地獄変』を選ぶ見方もある。
課題図書と言えば漱石の『こころ』はまだ有力な選択肢なのだろうか?小生は、中学生や高校生が、『こころ』を読みこなすのは無理ではないかと、かなり以前の投稿で書いたことがある。そこで
漱石はどう?世評では
と聞いた。
そうすると、『こころ』と『明暗』の2作を挙げてきたので、中々やるじゃないか、と見直した。前にも書いたことがあるが、漱石が生涯の中で最高の境地に達したのは『明暗』においてであると、こればかりは譲れないのである。ただ、『明暗』は未完成の作品であるのが欠点だ。AIもこの辺については
『明暗』は小説技法としてはさらに先へ進んでいると思いますが、未完という決定的な問題があります。それに対して『こころ』は、作品の構造そのものが非常によくできています。「先生と私」から始まって、「両親と私」を経由し、最後に「先生と遺書」がすべてを呑み込む。個人の恋愛と裏切りの物語が、最後には「明治という時代の終焉」と重なってしまう。このスケールの変化が見事です。
こんな風にまとめている。中々要領がイイ。とはいえ、この程度なら読書好きな中学生でも書けるだろうと言うレベルだ。
とはいえ、『こころ』を最高傑作とするには疑問があるので、
『それから』を推す人も多いが、どう評価している?
と押してみた。すると
はい。『それから』を漱石の最高傑作に挙げるのは、かなり説得力のある評価だと思います。むしろ「完成した長篇小説」という条件をつけるなら、私は『こころ』より『それから』を上に置く議論にも賛成できます。
これにはちょっと驚いた。
それと次の考察は大したものだと感じた。
『それから』の強さは、主人公・代助が単なる「恋愛に悩む男」ではなく、明治末期の知識人が抱えた矛盾そのものとして造形されているところにあります。
代助は働かず、父や兄の経済力に依存して暮らしています。しかし本人は怠け者だとは思っていない。むしろ、金銭と競争によって人間を縛る近代社会の方がおかしい、と考えている。そこには漱石自身の文明批評がかなり入っています。
問題は、代助の批判がかなり正しいことです。
社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。
しかし、その社会を批判している本人が、その社会から送られてくる金で生きている。
ここが非常に痛いところです。
ここまで書ける高校生は、いや大学生・社会人でも、そう多くはいない気がする。
問題は、代助の批判がかなり正しいことです。
社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。
これを指摘するのが、『それから』を読む上では、大きなポイントである。現代日本人にとっても、100年以上も昔に生きた漱石のこの問題意識は心に刺さるはずだ。
そこで次のように掘り下げた:
う~ん、感心したよ。結構深く読み込んでいるね。
すると、嬉しくなったのか(?)
ありがとうございます。漱石は、筋だけ追うと比較的平明なのに、人物の行動を「なぜそうしたのか」と考え始めると、急に底が深くなりますね。
特に『それから』はそうだと思います。代助を「高等遊民の身勝手な男」と見ればその通りだし、「社会の虚偽を拒否した近代的個人」と見てもその通り。しかし、漱石はどちらか一方に読者を落ち着かせてくれない。代助の思想には真実がある。しかし、その真実を実行すれば他人を傷つけ、自分の生活も破壊する――この矛盾を解消せず、そのまま小説として成立させているところが強いと思います。
そして漱石を読んでいて私が特に面白いと思うのは、結局ずっと「個人はいかにして他者と共に生きられるのか」を考えていた作家ではないか、ということです。『それから』では「自己の真実を貫くこと」、『こころ』では「その自己が他者を傷つけること」、『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。
現代人からは内面的共感可能性すら失われつつあるいわゆる「明治の日本人」だが、「近代的個人」たることを「外圧」として意識させられている中で、そうした生き方をすること自体が、人間性を歪め、社会を歪め、倫理道徳を歪めている、そんな認識が漱石を読むことで知られるのである。そして、いかに歪んだ生き方を納得のできない社会でするとしても、生きるためにはそんな生き方をせざるを得ないという、この非条理の感覚が漱石の作品の肝である。
この漱石が提出した問題は、いま生きている戦後日本の日本人にも、依然として共通の問題として意識されている。小生はそう感じるのだ、ナ。
これが漱石の現代性と言うものだろう。つまり、漱石の作品を読んで考えてもらうという課題の「課題性」は、確かにある。これに間違いはないし、だから、これからも夏目漱石という作家は古くはならない、その意味で珍しい作家であると思っている。
漱石が西洋から学び取った《近代的個人》は、いわゆる《人格の尊厳》という概念になって日本の法体系にも具体化されている。これが江戸時代より以前の日本と違うところだ。マア、古くてなんだが、遣唐使が持ち帰った中国文化を模倣して作った「大宝律令」も新文明という点では同じような働きをしたのであろうと想像している。戦後日本も同じである。
しかし、上でChatGPTがまとめているように
『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。
そもそも《我》という固有の実在にも疑いの目を向けているのが晩年の夏目漱石である。自分と社会、主観と客観という二項対立の認識は、特に近代西洋の哲学では当たり前の枠組みとして最初から前提されることが多いが、仏教思想が文化的土台の一つになっている東洋では、《我癡、我見、我慢、我愛》は、人を迷いに導きいれる煩悩の本質としてとらえ、「我が実在しないことを知る」ところから、全てが始まる。
漱石の目は、自我と社会という問題意識から、最後にはもっと高い処へと飛躍したわけである。
最後に、
自分の人生を追求すると、それは家族や他者を傷つける結果になるというのは、その通りだ。
こんなコメントを書いた。そうすると
そうですね。そして私は、そこが漱石の非常に現代的なところだと思います。
近代的な「個人」という考え方を突き詰めれば、自分自身の人生を生きよ、自分の内面的な真実に忠実であれという方向へ進みます。ところが、人間は孤立して生きているわけではない。親子、夫婦、友人、経済的依存、社会的義務といった関係の網の目の中にいる。したがって、自分に忠実であろうとすればするほど、誰かとの関係を壊さなければならない場合が出てくる。
『それから』は、まさにそれを極端な形で実験している小説でしょう。
AIの分際(?)で漱石の現代性を十分に理解している。青春小説とも言える『三四郎』の中で、「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言った三四郎に対して、「偉大なる暗闇」こと広田先生がただ一言、冷やかに「滅びるね」と答える有名な場面がある。この時の広田先生の社会観、文明観、人間観が、『それから』や『こころ』、『明暗」になって展開されていったわけだ。
いずれにしても『こころ』は『門』よりも更に『それから』の終結性を明瞭にもつ。その分だけ『それから』は、社会で生きる発端の問題を扱っており、学校の読書感想文としては『こころ』よりは若い人には読みやすいはずだと思っている。その反対が『明暗』であり、これを読みこなせるには、将来の夢を見ながら学校で勉強しているうちは無理である、というのが小生の読書観である。
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AIにここまで書かれてしまうと、それを土台にして更に深堀するには、相当の思考力が求められる。
大半の人は、丸写しに近い編集をして、そのまま提出するだろう。
AIに思考力を鍛えられる階層と、白痴化が進む階層と、所得や資産といった経済力だけではなく、思考や知識といった次元でも、今後は更に二極分化、格差拡大が進むのではないか?
独立した個人と着想によって経済的進歩を実現しようとする古き良き時代の資本主義は、AIの浸透と活用に伴って、生産現場でも消費生活でも、一つの限界を迎える。何より、労働所得から資本所得へのウェイト移動を通して、資本主義が下部構造として機能するための条件が失われつつあると思う。
そんな感想です。
本日投稿は、AIの作品評価から最後は資本主義へと話が飛躍してしまった。これも覚書きということで。
