2026年3月25日水曜日

ホンの一言: 民主主義の変質はグローバルに進行中?

ロシア=ウクライナ戦争勃発を契機にまるで「ゾンビ」のように活動を再開したいわゆる「西側陣営」だが、どうやら政治的にも、社会的にも危機に瀕している模様だ。

それは西側社会のコアを為すはずの《民主主義(=Democracy)》という価値観、というか理念が揺らぎ始めているという兆候だ。

英誌"The Economist"が先ごろ次のような記事を掲載した。ヘッドラインは

Westerners are fleeing their countries in record numbers

欧米諸国からの脱出が記録的な規模で進んでいる

Source: The Economist

Date: Mar 22nd 2026

URL: https://www.economist.com/finance-and-economics/2026/03/22/westerners-are-fleeing-their-countries-in-record-numbers 

というものだ。

少し抜粋しておこう:

アーダーン・ニュージーランド首相といえば、2020年から21年にかけての世界的コロナ禍の時期、その進歩的な行政手腕から特に日本のマスコミでは高く評価されていた人物である。ところが:

After stepping down as New Zealand’s prime minister in 2023, Jacinda Ardern took up a role at Harvard University. Now she is based in Sydney. Ms Ardern’s decision to live abroad has struck a nerve with Kiwis, who were already worried about high levels of emigration.

記事は首相の座を降りてからシドニーに居を移し、ハーバード大学の為に仕事をしているという、こんな近況報道から始まっている。記事全体の趣旨は、いま西側先進国で激増(?)している国外移住者についてである。

Three factors explain the rise of the expat economy. First, the pandemic normalised the idea of geographical arbitrage. 

海外在住者経済の台頭には3つの要因がある。第一に、パンデミックによって地理的裁定取引という概念が一般的になった。 

日本国内では住み心地の良い適地を求めて自由に人が移動しているが、それが国境をまたぐ形で進んでいるというものだ。コロナ禍によるリモートワーク普及がこの動きの背中を押しているとも指摘されている。次は税制である。

Taxes are the second factor. 

日本国内でも住民税を含め地方税を個々の自治体が完全に自由に決めることが出来るとすれば、「ふるさと納税」の普及をみても、どこに住むかは税と保険料次第という状況が来るだろう。物価の高い首都圏の独り勝ちにはならないのは確実だ。例えば、農水産物(とエネルギー)を含めすべての商品の価格に「県域外出荷税」をかけるとすれば、大都市圏と地方圏のどちらが先に音をあげるか?予想される帰結は明らかだろう。

三番目の理由が本日投稿の主旨かもしれない。

Third, politics play a role. Many of the Americans who waltz around Hampstead dislike Mr Trump. Many of the Britons who have moved to Dubai detest “Keir Starmer’s socialist Britain”. Conservative Canadians, now living through their 11th year of centre-left Liberal rule, are looking elsewhere. All these different examples, though, are a subset of a broader process—the growing sense among Westerners of all political persuasions that politics is broken. 

第三に、政治が影響している。ハムステッドを闊歩するアメリカ人の多くはトランプ氏を嫌っている。ドバイに移住したイギリス人の多くは「キア・スターマーの社会主義イギリス」を嫌悪している。中道左派の自由党政権が11年目を迎えた保守派カナダ人は、別の場所を求めている。しかし、これら様々な例はすべて、より広範なプロセス、つまり、あらゆる政治的信条を持つ西洋人の間で政治が機能不全に陥っているという認識が高まっているというプロセスの一部に過ぎない。

政治が壊れるという現象は、何も君主制、寡頭制、独裁制、社会主義等々、政体を問わずどの国でも起こりうるということだ。

Their exit “went along with a deterioration of democracy in their home countries”, the authors find. 

 著者らは、彼らの出国は「母国の民主主義の悪化と並行して起こった」と結論づけている。

何も非民主主義的になったのではない。善い民主主義から悪い民主主義へと変質しつつあることを感じているからこそ、母国を見捨てるわけである。

実際、現世代は《民主主義》の創立世代ではなく、単なるユーザー世代である。「ユーザー」というのは、往々にして、不具合や動作異常に対してはお手上げ状態になるものだ。不平を述べることは出来ても、問題を解決できるだけの知識も経験もないものなのだ。

同じ趣旨の観方は実はIMFも持っているようで、それをF&D Magazineで書いている。

The world’s largest economy is in a precarious fiscal position, with a debt-GDP ratio poised to breach its historic post–World War II high. But unlike in 1946, there is no large peace dividend from reduced defense spending to rescue public finances. Demographic factors are pushing spending even higher through the continuing expansion of old-age entitlements, and there seems little prospect of avoiding large deficits and higher debt, even if economic conditions remain favorable.

世界最大の経済大国である米国は、財政的に不安定な状況にあり、対GDP債務比率は第二次世界大戦後最高水準に迫っている。しかし、1946年とは異なり、国防費削減による大きな平和配当は財政を立て直す助けにはならない。人口動態の変化は、民主主義の圧力を通じて、高齢者給付を拡大させ続ける。たとえ客観的には経済状況が良好であるとしても、巨額の財政赤字と債務増加を回避できる見込みはほとんどないのだ。

Source: IMF F&D Magazine

Author: Alan J. Auerbach

Date: March 2026 

URL: https://www.imf.org/en/publications/fandd/issues/2026/03/point-of-view-americas-perilous-fiscal-path-alan-auerbach

多数派の要求に正義があると前提するのが民主主義である。というより、「世論」には「正義」があると解釈しなければ、現代民主主義を運営できない。その大前提の下では、

無理を通せば道理が引っ込む

という社会状況がもたらされることになる。

これも《民主主義の失敗》への認識を示唆しているだろう。

小生思うのだが、もし幕末の時代、世論調査をすれば明治新政府は「攘夷」を推し進める以外に道はなかったはずだ。その当時、日本に民主主義がなかったことが近代日本への道を開いた。

Krugmanはトランプ政権を「反逆者」呼ばわりするに至っている。それは、イランに対して

48時間以内にホルムズ海峡を開放しなければ発電所を破壊する

という脅迫をしたあと、結局は5日間延期すると表明したいつものTACOに戻った事に関連している。

実は、最初の声明から延期方針の声明までの短い時間内において、石油の先物価格がイレギュラーな乱高下を示したというのだ。データはYahoo! Financeから採られているようなので、日本のマスコミ各社も確認可能であったはずだ。Krugmanはこう書いている。少し長いが引用しておこう:

This “sharp and isolated jump in volume” — which you can see for the oil futures market in the chart at the top of this post — was especially bizarre because there were no major news items — no major publicly available news items — to drive sudden big market transactions. The story would be baffling, except that there’s an obvious explanation: Somebody close to Trump knew what he was about to do, and exploited that inside information to make huge, instant profits.

This wasn’t the first time something like this has happened under Trump. There were large, suspicious moves in the prediction market Polymarket before previous attacks on Iran and Venezuela. But this front-running of U.S. policy was really large: the Financial Times estimates the sales of oil futures in that magic minute Monday morning at about $580 million, and that doesn’t count the purchases of stock futures.

When officers of a company or people close to them exploit confidential information for personal financial gain, that’s insider trading — which is illegal. But we have another word for situations in which people with access to confidential information regarding national security — such as plans to bomb or not to bomb another country — exploit that information for profit. That word is “treason.”

この「急激かつ孤立した取引量の急増」(この記事冒頭のチャートで原油先物市場について確認できる)は、特に不可解でした。なぜなら、突然の大規模な市場取引を引き起こすような、主要なニュース(一般に公開されている主要なニュース)が一切なかったからです。この出来事は不可解に思えますが、明白な説明があります。トランプ大統領に近い人物が、彼がこれから何をしようとしているのかを知っており、その内部情報を利用して莫大な利益を瞬時に得たのです。

トランプ政権下でこのようなことが起こったのは今回が初めてではありません。イランとベネズエラへの攻撃前にも、予測市場であるポリマーケットで大規模かつ不審な動きが見られました。しかし、今回の米国の政策先読みは、これまで以上に大規模でした。フィナンシャル・タイムズ紙は、月曜朝のあの瞬間の原油先物取引額を約5億8000万ドルと推定しており、これは株式先物取引の買い越し額は含まれていません。

企業の役員やその近しい人物が、機密情報を個人的な金銭的利益のために利用することは、インサイダー取引であり、違法行為です。しかし、国家安全保障に関する機密情報(例えば、他国を爆撃するか否かの計画など)にアクセスできる者が、その情報を利益のために悪用する状況を表す言葉は他にもあります。それは「反逆罪」です。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: Mar 24, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/treason-in-the-futures-markets 

この疑惑は、本日いま時点で、すでに日本でも報道されているから、ひょっとするとアメリカで大炎上するかもしれず、いまは大統領が抑えるとしても今秋の中間選挙で共和党が大敗すれば、大統領弾劾への動きが始まり、ト大統領に近い人たちは(最悪の場合)逮捕されるのではないかと予想しているところだ。

民主主義と資本主義は相性が良い。しかし、この二つが並立すると、どうしても公私の関係については

私 > 公

公共のために個人の権利を抑えることは不可。私権を尊重する大前提の下で公益を追求せよ、と。そんな姿勢が是認されがちである。

小生は、現時点では『公という観念は虚妄である』と考えているから、公益のためには私権を制限するのは当たり前だという価値観には与しない。しかし、いやしくも《公》という価値を設定するなら、設定した以上は「公の為に私を制限するのは当たり前の道理だ」という帰結になるだろう、と。これは論理であろう、と。

そう考える次第。


いずれにせよ、とにかくトランプ政権は剣呑だ。どうなっても日本に火の粉が飛んでこないことを祈るばかりだ。

本ブログでも最近は民主主義の虚妄性を投稿することが増えているが、どうやら世界規模で思想の揺らぎ、理念の変質が進行中であるようだ。


2026年3月22日日曜日

断想: この世は舞台、すべて人は平等な役者仲間

最近のビッグ・イシューということなら

  • 先ごろワシントンで行われたトランプ・高市会談
  • WBC準々決勝における対ベネズエラ戦敗退
(アメリカ社会はまた違うと思うが)世間の関心度、注目度からして、この二つなンだろうと思う。

かたやトランプ大統領から『アメリカ=イスラエル陣営(=米以枢軸軍)に味方せよ』と強引に押し切られ、危ないと承知しながらも自衛隊(≒国防軍)をペルシア湾に遠征させるか?そのための特別措置法案を提出するのか?正に国運がかかってくるわけであります。かたや(たかが?)プロ野球の(さして巨額の賞金がかかっているわけでもない?)国際戦である。どちらが日本国民の命運を左右するかといえば言わずとも明白。それでも日本人の関心を広く集めたのは、ひょっとするとトランプ・高市会談の行方ではなく、日本が一時ベネズエラを逆転した試合の結果のほうであったかもしれない。

国際政治もプロ野球の国際戦もどちらも普通の日本人にとって思い通りになる対象ではない。どちらも手の届かない空中戦だ。とはいうものの、仮に高市首相がトランプ大統領の機嫌を損ね、以前のゼレンスキー・ウクライナ大統領のように見送りもされず足蹴にされるがごとくにホワイトハウスを後にするという、そんな哀れな情景がもしも放送されれば、さすがに日本人の大多数はそれをみて激怒したのではないだろうか?その度合いは、ベネズエラ戦で伊藤大海投手が逆転3ランホームランを打たれたことに対する罵詈雑言とは質の違うものではあったに違いない。

普通の日本人大衆にとっては、首相と米大統領との会談もプロ野球のWBCもサッカーのW杯も、はたまた毎年秋に公表されるノーベル賞受賞者発表も、映画のアカデミー賞受賞者発表も、すべては《同じ》なのじゃあないか、と。そうも感じているのだ、な。 詰まるところ、シェークスピアが『お気に召すまま』の登場人物に語らせているように

All the world's a stage
全てこの世は舞台
一人一人の日本人にとっては世間も浮世も自分が生きている一場の芝居のようなものである。とすれば、トランプも高市も、大谷も山本も、皆々すべて同じ舞台の上で、ほんの短い時間を自分と共に過ごす役者仲間のような存在ではないか。

物質的身体が機能を停止した後、身体を動かしていた精神的本体がどこに往くのか、それは誰もしらない。輪廻によってこの世に帰ってきているのかもしれないが、別の身体に生まれた後は前世のことは全て忘れると見える。だとすれば、余計にいま共にこの世で同じ空気を吸っている衆生一切に自分との縁を感じるのだ・・・そんなことかもしれない。

その意味では政治も暮らしも娯楽も、病気も子育ても、何もかもが同じ意識の中で平等に意識されるのだ・・・まあ、そんな風に思っています。

2026年3月18日水曜日

断想: 理性よりは情が重んじられるのは分かりますが・・・という話し

 前稿や前々稿で書いたことのポイントは次の下りに尽きるかもしれない:

《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。

何が善であり悪であるかは、時代やその国の文化的伝統ごとに違うものだ、と。こう考える限り、結局は《相対主義》に陥り、絶対不変の善悪判断などはないという結論を認めざるを得なくなる。

もしそんな立場に立てば、ロシアのウクライナ侵攻を批判する論拠は実はなく、単にロシアに味方するかウクライナに味方するかという利害得失の話になる。

アメリカとイスラエルが今回行ったイラン攻撃も善い行為なのか悪い行為なのか、絶対的真理はなく、つまりは相対主義に立って国ごとに判断すればイイことですよネ、と。こんな結論にせざるを得ない。

永遠かつ絶対に正しい国際法などは架空の空言で、果ては国の刑法ですら、いまはそう決められている決めごとに過ぎませんヨ、と。そんな虚無的な議論にもなるはずだ。

最後には、

よく言えば《武断主義》。悪くいえば《腕力の強い者が善》。こういうジャングルの掟が世を支配することになる。

これを事実として認めるべきだと。 実は、世界史、日本史を通して、理屈よりは腕力という時代が遥かに長かったのである。

これではダメだと最初に主張したのがソクラテスであったのは弟子・プラトンが数多くの作品で伝えているところだ。プラトンがそんな議論をした背景には、30年続いたペロポネソス戦争で降伏した民主国家・アテネの混迷と衆愚化した世相があった。師・ソクラテスの死刑判決はプラトンの目には衆愚を超えた「知の崩壊」が見えていたはずだ。その「知の崩壊」は要するに何か?それ以前に「知」とは何か?ここからプラトンは「哲学」を始めた。フィロソフィー、正に「知を愛するもの」である。

当時アテネ社会で一世を風靡していたソフィストの

人間は万物の尺度である。

という相対主義は、本質的に間違った世界観である、と。そして

何が善か、何が正しいかという問題には、絶対的で普遍の真理がある。

要するに

真理は実在する。

今は誰が強いか、10年後には誰が強くなりそうか?こんな有為転変で無常の問いかけには意味がない。空である。意味のない答えに基礎を置くのではなく、実在する真理に根拠を求める。こんな「理想主義」をプラトンは理路整然と展開した。哲学の誕生には敗戦で混乱するアテネ社会が必要だったとも言える。

前にも書いたが、時代と文化を超えて一定不変な心の働きは《理性》だけである。「感情」や「感覚」は、時代や文化どころか、同じ時代、同じ国の異なった個人の間で、もう異なるものである。人は色々、人生いろいろ、である。しかし、理性は色々ではなく、全ての人で同じように働き、同じ問題に同じ答えを出す。人によって幾何学の定理の真偽が異なることはなく、同じ方程式を解けば同じ答えを得る。理性だけは普遍的な心の働きなのである。

この世を超越した普遍的な善があるなら、それは理性だけが認識できるという理屈になる。普遍的な問いかけに対して真理は一つである以上、個々バラバラな感覚を用いて回答しても必ず間違いになるからだ。理性によって得られる帰結は、数学的知識と同じように、誰もがそう認めなければならないという点で、文字どおり普遍的である。

理性的議論をしていながら答えが分かれるとすれば、理性ではない感情やアドホックな価値観などが混入するからである。

なので、普遍的なモラル、倫理、善悪については、感情や価値観ではなく、理性を用いた議論をする必要があるというのは、いわゆる《合理主義者》に小生は完全に賛成する立場にいる。理性のみが、人類共通の心の働きだから、である。

一方、モラルの基礎は理性でなく感情であるとする立場もある。例えば、経済学者にして道徳哲学者でもあったアダム・スミスは『道徳感情論』を著している。

ずっと以前に投稿した孟子の四端説では

惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)

羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)

辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)

是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)

道徳の基礎に理性だけを置いているわけではない。特に最も重要視される《仁》は理性の働きとは関係がなさそうであり、どちらかといえば《情》に近いものである。

理性に基礎をおく考え方は、ギリシア人ばかりではなく、インド人を含めたアーリア民族共通の哲学であるのかもしれない。

仏理・仏道においても、前世から継承された業と現世の縁から発する様々な煩悩を滅却するためには、何よりこの世の現実を観察し、瞑想し、真如を悟るだけの智慧を持たなければならないとされている。法然と親鸞以降の日本・浄土信仰では、ひたすらに阿弥陀仏を信じて念仏を称えることが求められていて、智慧をどちらかといえば排するのであるが、本来の仏教は極めて智慧重視型の哲学に立っている所を観ないといけない。

孔子は紀元前5世紀、孟子は紀元前4世紀の人だから、まだ中国に仏教は伝わってはいなかった。中国文化は、極めて現実的で、 理性にのみ把握される抽象的概念が中心になることはなかったのである。

日本文化もまた、理性よりは一瞬ごとの直観、もののあはれを感じる感情こそ中核をなしていると小生はみている。

東洋哲学では「理性」よりは寧ろ《知・情・意》のバランスが大事だとされている(と理解している)。

まあ、大胆な割り切りではあるが、インド・ヨーロッパ的な理性重視の哲学と東洋哲学との間には、深い溝がありそうだ。

理性だけが同一不変の心の働きであると述べたが、それでも、

感情や価値観を基礎にする限り、今後の世界は《相対主義》の泥沼に迷い込んでいかざるを得ない。理屈としてそうなる。

こんな風になっていくのではないかと、いま怖れを感じているのだ、ナ。

カントが『永遠平和のために』という極めて理性的な小冊子を書いているが、どれほど机上の空論と感じようが、戦争のない世界を実現するには、理性だけを使って議論をしなければならない。

そんな仕事が出来る人だけが、重要な責任を負うべきであるというのが、小生の現代社会観である。

2026年3月13日金曜日

断想: 「侮れヌ」を遥かに超える『ソフィーの世界』の素晴らしさ

学校時代の春季休業は休暇の中で最もノンビリと出来る2週間だった。宿題も何もないわけだから楽しくないはずがない。しかも季節は早春である。何をやるにも最適の季節だ。

こんな時、読書好きな友人は(やっと)読みたい本を読めていた(はずだ)。課題図書にこだわる必要はない。

小生もそんな風に春季休業を過ごせば余程ましな学校時代を送れたと思うが、いま思い出してもロクな事はしなかった。怠け者であった。大体、課題図書を真面目に読んだことなどなく、ずっと後年になってから読んでみて「後悔先に立たず」と感じたのは「後の祭り」というものだ。

『ソクラテスの弁明』は中高時代の課題図書の常連だ ― 多分、いまでもそうなのだと思う。唯円の『歎異抄』もそうだろう。この二冊に西田幾多郎の『善の研究』を併せて読めば、この世界を《生きる》ことの本質が見えてくる・・・というのは比較的最近に投稿したことがある。

今日は更に『ソフィーの世界』を追加しておきたい。

『ソフィーの世界』が世界的なベストセラーになって邦訳本が日本で発売されたのは1995年6月だった(ということな)ので30年以上も前になる。その頃、小生はもう小役人から足を洗い北海道に移ってきていた。仕事も教育の現場であったからこの本の評判は耳にしていたが、「いまさら少女向けの哲学書なンて読めるか」という、そんな気分でうっちゃっておいたのだ、ナ。

ところが、つい先日になって『ソフィーの世界』の漫画ヴァージョンがKindle Unlimitedにあったので、目を通してみる気になった。それで感じたのが

先入観や偏見は後悔の母である

という古来の経験則である。

それで日本語訳できちんと最初から読んでみようと思ったわけだ。

小生は《古代》という時代が非常に好きである。神話時代の後、宗教が定着する中世の前という中間に位置し、最後には古代文明が完成の域に達してから崩壊する。特に、西洋にあっては民主国家アテネの発展と没落、アレクサンドロスという専制君主によるヘレニズム社会の形成とグローバル化。ヘレニズム後のローマ帝国への統合と古代文明の完成。貨幣経済の浸透と社会的分業の発展。そして最終的には蛮族の移民増加と帝国のゲルマン化。キリスト教の浸透と皇帝の権威の相対化。無秩序化と通貨の瓦解、都市文明の崩壊、人口減少、分散的な農業社会、生活水準の低下と人口減少の負のループ・・・

古代という時代は、(特に西洋にあっては)小さなスケールで最初から最後まで閉じた歴史を示している、とそう思っているのだ。

それで、『ソフィーの世界』でも特に上巻が面白いと感じた。

今日は例によって、記憶に値する個所と個人的なコメントを覚書にしておきたい。

まずアウグスティヌスから。

神が世界をつくる前、神の考えのなかにはイデアがあった、とアウグスティヌスは考えたんだ。永遠のイデアを神のものにすることによって、プラトンが想定した永遠のイデアを救ったんだ」  「あったまいい!」

まあ、全体がこんな文体で進んでいく。想定読者層は、やはり中高生あたりなのだろう。

 悪をどう見るかでも、アウグスティヌスは新プラトン学派を踏まえている。悪があるというのは、善なる神がそこにいない、ということだ、とアウグスティヌスは考えた。プロティノスと同じだね。悪は独立して存在するものではなくて、なんでもない何かだ。なぜなら、神の創造物は善に決まっているからだ。悪は人間の不従順から発生する、とアウグスティヌスは考えた。

この本文に対してこんなコメントを付けている。

悪とは善の不在である。カントの倫理観、フィヒテの考え、シェリングの宇宙観にも通じるかも。仏理的な悪は、その人が前世から継承してきた業が煩悩として現勢化した心の働きで、この世界に具象化されたその人の本質を成すものだ。悪は善の不在ではなく、確かにこの世界に実在する(と小生は理解している)。善悪の理解が西洋と仏教世界ではかなり違うようだ。

三番目は 

 「アウグスティヌスは歴史を哲学と関連づけたヨーロッパの最初の哲学者だ、ということも憶えておいてほしいな。善と悪の闘いという発想はちっとも目新しくない。アウグスティヌスの新しさは、この闘いが歴史をつうじてつづくとしたことだ。この点では、アウグスティヌスにはプラトンの考え方はあんまり感じられない。アウグスティヌスは、旧約聖書の直線的な歴史観にしっかりと立脚している。アウグスティヌスは、神は全歴史を使って神の国をうちたてようとしている、と考えていた。

これに対するコメント:

正にヘーゲル!

ヘーゲルの「世界精神の弁証法的発展」とアウグスティヌスの「神の国を打ち立てるための闘い」とどこが違うか?

こんなメモをつけている。

経済学者ケインズは、『思想というのは、新しいようにみえて、実は過去の誰かの思想を衣替えして再登場させているものだ』と、こんな趣旨の文章を(どこかで)書き残しているが正にこれを思い出した。

次に、トーマス=アクィナス。この大神学者にして大哲学者の名は世界史の教科書にも登場するので知っている人は多いはずだ。が、小生の記憶ではどんな学問的成果を成し遂げた人物なのか、最後までよく分からなかった記憶がある。ただ、ヨーロッパの中世神学はプラトンではなくアリストテレスの哲学を基礎にしていた(と書かれていた)ことだけは覚えている。

まず

「トマス・アクィナスは、ぼくたちが哲学とか理性とか呼んでいるものと、キリストの啓示とか信仰と呼んでいるもののあいだにどうにもならない矛盾があるとは考えなかった。キリスト教が言うことと哲学が言うことは、しばしば重なりあう。ぼくたちは理性の助けによって、聖書に書いてあるのと同じ真理を究明できるんだ」

20世紀の数学者にして哲学者でもあったバートランド=ラッセルは、人類が獲得する《知の成果》は三つのカテゴリーに分類されるとして、最下辺に観察データから実証される「科学」、中間に科学を基礎づける先験的総合命題の集まりである哲学と数学、論理学。最上辺に理性だけでは真偽が確定せず、直観と信仰(更に神秘的経験、つまり啓示?)から獲得される宗教的真理。この三つの階層に区分されるとした   ―   宗教的真理が「真理」であるとすることに現代日本人は疑問を抱くかもしれないが、人類以外の動物は宗教とは無縁である。知性を備えた人類のみ神や浄土を考える。つまり数学とは違った別種の超越的世界も人間の知性の働きであるのは同じである。

最近の小生の立場はこんな風なので、上の引用文は正に友を得たように感じて「その通り!」と同感したわけだ。

(キリスト教の)教義と哲学的理性はしばしば重なり合う。同様に、数学的理性と物理化学的現象とそれを観察したデータは重なり合うものだ。

こんなコメントを付けている。

次に

トマスによれば、神は聖書と理性をとおして人間たちの前にみずからを啓示する。だから信仰の神学と自然の神学があることになる。道徳の分野でも同じことだ。聖書は、ぼくたちは神の意志にそって生きるべきだ、という。でも神はまたぼくたちに良心もあたえて、自然の原則にしたがって善悪を区別できるようにした。だから、道徳生活にも二つの道があることになる。ぼくたちはたとえ聖書を読まなくても、ほかの人を苦しめてはいけない、ということを知っている。自分がそうしてもらいたいようにほかの人にもしてあげるべきだ、と知っている。

これはカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』との関係そのものではないか。「良心」の声は常にささやかである。良心の声が聞こえない時、つまり善が不在であるとき、人は悪を為すのであるという倫理観は、西洋の伝統でもあるのだろう。

トマスは、植物や動物から人間へ、人間から天使へ、天使から神へと高まっていく存在の段階がある、と考えた。人間は動物と同じように、感覚器官をそなえた肉体をもっているけれど、人間にはまた、よくよく考える理性もある。

人の特性は「考える器官」である「大脳」を物質的器官として持っている所にある。その大脳の中で進行する生化学的反応プロセスを、どうすれば数学的思考、更には自由意志や目的設定に翻訳することが出来るのか?

この問いに回答できる日が来るとは、小生、どうしても想像できない。いま足元で発展中の「AI」は、神経回路網を模造的に構築して、回路網に発生する電気信号を人間の言葉と論理に対応づけるソフトウェアのことである。つまり「人工知能」とは人間が造った「知能」であるが、実在するのはソフトウェアという成果物、というよりそんなソフトウェアを生み出し得た人間の《知識》。知識こそが実在する抽象的な本体であるというのは何度も投稿したとおりだ。

「知識」は非物質的実在であるから空間の中に観察可能な対象としては存在しない。空間に属しないが、やはり現実に実在する何者かであることに変わりはない。そう言うしかないであろう。

最後に

 「・・・神は今、わたしたちのことも見ている?」  「そうだよ、きっとぼくたちのことも見ている。でも『今』じゃない。神にとって時間は、ぼくたちの時間のようには存在しない。ぼくたちの『今』は神の『今』ではない。ぼくたちにとって数週間が過ぎることは、神にとっても数週間が過ぎることを意味しない」

「神」を美術作品によって表現することは不適切であるし、そもそも不可能であるというのは、ユダヤ(セム語文化圏)の伝統に近いキリスト教東方正教派、イスラム教では現代でも守られている立場だ。

「神」や「浄土」という宗教的概念は、感覚を超えて理性だけで理解されうる存在で、いわば「四次元の時空間宇宙」や「多次元の超ひも宇宙」のような対象であるはずなのだ。日常的な勤行で目にする仏画やイコンは、神や浄土の似せ絵ではなく単なる「記号」であって、例えば微分記号や積分記号のようなもので、それが何を意味しているかを理解して初めて意味をなす。この辺のことも最近の何度かの投稿で書いた。

ただ、法然上人が『一枚起請文』でいう
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候そうらわず。
この下りは日本仏教の革命的精華だと思っていて、小生のような典型的な「凡夫」にも心の平安を得ることが可能な道を開いてくれたという点で、これまた普遍的宗教だと思っているのだ。


それにしても『ソフィーの世界』でも時々登場するノルウェーの、ソフィーは15歳だから中学校になるのか、その授業風景や宿題の内容には感動を通り越して、日本の小中学校との隔絶ぶりに愕然とするほどだ。
覚えさせるよりは自分で考える習慣を身につけさせる。

日本の学校教育とのあまりの違いに驚くほどだ。 

義務教育の使命は、出来るだけ多くの国民に《自分で考える》ことの重要さを伝えることにある。これが正真正銘のオーソドックスな路線というべきだろう。

同じ知識を共有し、同じ常識を共有することを目標とするのも確かに一つの行き方だ。国民的一体感を実現しやすいという利点もある。

しかし、世界の中で相対的に貧困化しながら国民的一体感を維持する義務教育には、そもそも大した価値はないのではないか? 

国民が相対的に貧困化しても、日本文化と天皇制を守り続けるためには一体感が必要なのだ

(そんなことはないと思うが)日本国の中枢はこんな風に考えているのだろうか?

「国家」というのは、国民がともに豊かになるなら統一的な学習を強要しても理屈は通るが、現代という時代はもはやそうではない。

自分で考えることが自分を救うことにもなるという時代、義務教育で教えるべき知識を「国」が定める方式は、もう正当性を失っているというべきだろう。

2026年3月9日月曜日

断想: 道理は君命や民意に優越する

 トランプ大統領が「イスラエルに唆されて?」対イラン軍事攻撃に踏み切った動機は(ほゞほゞ確実に?)今秋に予定されている中間選挙であるという巷の憶測は、小生もたぶんそうなのだろうナアと思っている。

何度も投稿してきたことだが

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

世界中で地域紛争の種を探しては、これに介入し、自分の政治的地位を自国内で高めて選挙を有利にしたいというタイプの行為は、国際平和のためにも《それ自体が戦争犯罪》として認定してほしいものだ。 

この意味では、プーチンもゼレンスキーもトランプも、更にはロシア=ウクライナ戦争勃発時のジョンソン英・元首相も、もちろんイスラエルのネタニヤフ現首相も、一人残らず戦争犯罪を犯しつつあると観る立場に小生はいる。


《普通選挙》は自国が民主主義国であると主張するための最重要な必要条件として理解されている。確かにこれは近代以降の世界の常識だ。しかしながら、この認識は市民革命から参政権拡大、民主主義の浸透という政治的プロセスと、資本主義経済の持続的成長という経済的プロセスが、相互にシンクロして進んできたという最近200年間の経験から得られた《社会科学的仮説》に過ぎない。

(何度も投稿してきたことだが)実際には、古代ギリシア世界においては民主的なアテネが腐敗、没落し、その後にギリシア語を使う広大なヘレニズム文化圏を築いたのは専制的なアレクサンドロス大王とそれを継承したヘレニズム国家であった。ヘレニズム世界の中で東西の文化は溶け合い、自由で広域的な貿易が発展し、かつてない豊かな社会が実現した。また古代ローマがいわゆる《Pax Romana》(=ローマの平和)を実現したのは、民主的な共和制ローマではなく帝政に移行した後のローマ帝国である。ローマ帝国の歴史的評価は周知のとおりだ。

多くの国民に豊かで自由な暮らしを提供できる国家は、政治体制が非民主主義的であるとしても、国家の中身は十分に《民主的》であると、小生には思える時がある。


民主主義国において

民意に勝る意志はない。民意こそ正義である。

と自惚れる姿勢は、専制君主国において

王の意志こそが神聖であって、これに勝る正義はない。

と自惚れる王の姿勢と瓜二つである。

どちらも

道理を無視して愚かな人間(たち?)の意志を神聖視する

という根本的誤りを犯している。

世論調査は「暮らしと経済」が最も切実な要求であることを(ほぼ常に)示している。この当たり前の事実を徹底して理解しているマスメディア企業は驚くほど少ないようだ。

愚人が権力を行使するほど怖いことはない。


《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。


2026年3月4日水曜日

ホンの一言: トランプ大統領の深層心理を読み切れるネタニヤフ首相は面目躍如・・・

 数日前にsubstack.comから届いたKrugmanの投稿にはこんな下りがあった:

But because America wasn’t suffering a Germany 1932 or Russia 1998-type crisis, it was impossible for Trump to deliver rapid economic improvement – that is, it would have been impossible even if he were competent (which he isn’t). So his efforts to consolidate power aren’t succeeding the way he and his fellow authoritarians expected.

しかし、アメリカは1932年のドイツや1998年のロシアのような危機に見舞われていなかったため、トランプが急速な経済改善を実現することは不可能だった。つまり、たとえ彼が有能であったとしても(実際にはそうではないが)、不可能だったのだ。そのため、権力統合に向けた彼の努力は、彼自身や彼の仲間の権威主義者たちが期待したような成果を上げていない。

On Wednesday the historian Tim Snyder, who is an expert on the grim history of Central and Eastern Europe, published a post titled Fascist Failure about the Trump administration’s lagging attempt to bring fascism to America. For now, I will be more cautious and say that American fascism is faltering rather than failing. But the power grab is clearly not going according to plan. Why?

水曜日、中央・東ヨーロッパの悲惨な歴史の専門家である歴史家ティム・スナイダー氏は、「ファシストの失敗」と題した記事を掲載し、トランプ政権によるアメリカへのファシズム導入の試みが遅れていることを批判した。今のところは、より慎重に、アメリカのファシズムは失敗というよりはむしろ弱体化していると言うことにする。しかし、権力掌握は明らかに計画通りには進んでいない。なぜだろう?

First and foremost, the determination and courage of ordinary Americans — in utter contrast with the craven surrender of much of the elite — has been crucial. But there are also structural factors that have helped the resistance.

まず第一に、一般のアメリカ人の決意と勇気が決定的な役割を果たした。エリート層の卑怯な屈服とは全く対照的である。しかし、抵抗を支えた構造的な要因もいくつかある。

Snyder emphasizes the lack of a good enemy against whom Trump can mobilize the nation. It’s a fair point. 

スナイダー氏は、トランプ氏が国民を動員できるような強力な敵がいないと強調している。それは正当な指摘だ。

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-economics-of-faltering-fascism

Author: Paul Krugman

Date: Feb 27, 2026 

不法移民の摘発を担当してきたICE(移民・税関捜査局)の失態。エプスタイン問題の深刻化。インフレ高止まりに雇用悪化と経済状態も悪い。何より中国との関税戦争に敗退したことが大きい。それに相互関税の違憲判決。この秋には中間選挙もある。あと2年余りもト大統領が仕事を続けられるイメージがわいて来ない。修羅場だ。さぞ焦っていたに違いない。

どうやらトランプ大統領は《国民を動員できるような強力な敵 》を見つけたようだ。

イランがいい。

敵がいないなら作ればいい・・・そんなト大統領の心理を読んだイスラエルのネタニヤフ首相の政治勘には動物的なものがある。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発した頃に投稿したときはこんなことを書いた:

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これを思い出した。アメリカのトランプ大統領も同じであったようだ。 

専制君主は、選挙がないので国民の人気向上を目的にカネのかかる戦争など、そもそもする動機がないという理屈がある  ―  その代わり、プライドやら領土欲やらで勝手に戦争をしたりするので、どちらも良し悪しである。しかし、賢臣に支えられた君主制ほど安定した統治はないというのは、プラトンが『国家』で展開した議論に通じるものがある。


2026年3月1日日曜日

断想: 「天皇制」と「民主主義」はそもそも矛盾しているわけで・・・

 高市総理の経済政策や外交政策にはとうてい賛同できないが、対皇室姿勢だけは共感できるという点は、最近何度か投稿してきた。

巷では

「愛子天皇」を「世論」が望んでいるにもかかわらず、男系男子を皇位継承者として優先する姿勢は、高市首相は本当に保守派なのか?愛国者なのか?

こんな批判が結構出てきている。

マア、人は色々だから・・・とは思います。


ずいぶん以前から投稿してきたが(たとえばこれ

そもそも天皇制と民主主義とは両立するはずがない。

このロジックを否定できる論理は、屁理屈はともかくとして、ないと思う。

戦後日本においては、全ての日本人は平等にして、自由かつ基本的人権を有している。その中で、皇族は極めて例外的な位置を占めている。これこそ先ずは矛盾というものだろう。


皇位は《世襲》によって継承される。《世論》によって次期天皇が決まるわけではないし、もし世論によって次期天皇を決めるのが適切なら、皇族を対象とする《人気投票》を実施すればよいという理屈になる。

自分に人気があるのかないのか、新たな天皇が知っておくのは悪いことではないが、(国民にとっても?)『知らぬが花』というものがある。人気があるのもあだ花、人気がないのも寧ろ滋味があってよろしいという見方もあるだろう。

天皇は《国家元首》とは規定されていないが、国際的には日本国の元首として受け止められている(ようだ)。マア、戦後日本では「象徴」とされているが、やはり実質的には「元首」なのであろう。

世論によって元首を決めたいという立場に立つなら、対象を皇族に限定せず、最初から《大統領制》を主張するほうが、よほど民主的であり、論理的にもスッキリする。そうすれば、当の皇族の方々も肩の荷をおろして、安堵されるであろう。日本第一の「名門」として、自由に家系をつないで行かれるのがよいと思うし、そもそも「皇室典範」なる法律は作るべきではなく「皇族会議」で私的に決めればよいはずのことであった。

もし日本国でいずれ将来「大統領選挙」が行われるとして、そこで「男がイイ」とか、「女にするべきだ」とか、政治家としての能力をそっちのけにして、性別ばかりを語る人物がいれば、多分、知的水準(痴的水準?)を問われるに違いない。


大体、「皇族」とは「皇統」という概念をベースに定義される「特定かつ例外的な人物集団」を指す。その「皇統」の定義は、全歴史をみれば色々な学説もあるようだが、文書に残る日本史に限れば、「皇統」の定義は完全に確定済みと言ってよいはずだ。いま昭和敗戦後に西洋から輸入された理念に基づいて「皇統」を定義しなおすなら、同じ「天皇制」でも別の「令和天皇制」と呼ぶべき新たな制度になる理屈だろう。たかが、と言っては語弊があるが、今さら「伝統・天皇制」を廃止して、「新・天皇制」をこの国に樹立する意義があるのか?そんな意義はゼロだと思うが、極めて重要だと本気で考える御仁はどの位いるのだろう?いたずらに、無駄な対立を招くだけの愚行であると思うが・・・。

「天皇制」は平等を原理とする民主主義社会には、最初から馴染まない要素であるとしか言いようがない。明治維新以前の日本においては、中国を模範とした「律令」の規定とは別に日本独特の「令外官」が置かれており、関白などのポストもいわば「例外的な官職」であった。結果としてうまく行ったので置いた。いわば功利主義的な措置であって法理からは外れているわけだ。その意味では、戦後日本における天皇は理念とは相いれない「令外の地位」であると、小生は思ってきた。何もそれで問題はないはずだ。

戦後日本の民主主義において、憲法に天皇を定めるのは、最初から無理な相談であったと小生は理解している。

大体、「象徴」とは何ですか?国家元首とするわけにはいかなかったのか?

そういう事であります。


戦後日本体制の中の非民主主義的な要素として、《総家元》というか、日本の伝統文化として受け入れるしか天皇制を維持する根拠はない。

《西洋的な民主主義の失敗》がこの日本で余りにも明白になったとき、日本が戻るべき原点として天皇制を守ることには、一定の意義があるかもしれない。言えることはその位だろう。

大体、室町時代中期以降、「天皇(=ミカド、お上」の権威はほゞほゞ100パーセント崩壊していた。江戸時代においても幕末まではほゞほゞ同じ事情であった(はずだ)。

「皇室」を議論することで日本社会に混乱が生じるなど、文字通り『しっぽが胴体をふる』ようなものである。愚かだ。


とはいえ、日本国において天皇家は古代から続き神道、神社とも神話的つながりが深く、極めて宗教的な性格も併せ持っている。それ故に、近代西洋の民主主義の観点から合理化しようとしても土台無理な話しである。

成文憲法の存在しないイギリスを手本とするのが理想だが、例外規定を認め憲法を骨抜きにするか、そうでなければスウェーデン王室のように一切の「国事行為」を行わず、純粋に儀礼的な存在として規定しなおし、その代わりに一定の私的自由を保証し、伝統のままに家系を維持するのが戦後日本がとりうる唯一の道だろう。

【加筆修正:2026-03-03】