2026年2月3日火曜日

断想: 善意にあふれながら、思考が停止している様な意見もあるようで

国政選挙があると世間が騒がしくなるので投稿の話題が増える。特に今回は、解散そのものの違憲疑惑も憲法学者からそれなりに指摘されているようで、問題意識を刺激される。2月の投稿は前半に集中、後半はお休みになりそうだ。

こんなネット記事をみかけた:

 給付と負担の公平性の観点から、高齢者医療の財源の一部を高齢者自身に負担してもらう発想だが、現役世代の「高齢者が優遇されている」(既得権益層である)という反感やねたみに拍車を掛けるもので、「今の利益を守ろうとする既得権者」対「未来を担う子ども・若者」という対立構造を暗に呼び込んでいるところがある。いわばシルバー民主主義との闘争である。

 そもそも日本の65歳以上の高齢者の相対的貧困率は約20%(5人に1人)に達しており、OECD諸国の中でも高い水準にある。特に女性単身世帯の貧困率は4割とかなり深刻な状況になっている。このように「反既得権益型」のポピュリズムの困難は、対立構造そのものが推進力となる面があることから、いたずらに分断をあおる可能性がある。国民同士のパイの奪い合いを推し進めかねないのだ。

Source:YAHOO!JAPANニュース

Original:東洋経済ONLINE

Date:2/3(火) 6:16配信

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/7d16a38773e1cdca5d92e0615966d63419a85db0?page=3

消費税よりは社会保険料の引き下げがより重要だと主張する政党もあるが賛成だ。そして、社会保険料引き下げが高齢者の医療費自己負担率引き上げにつながるであろうというのもロジカルで賛成だ。医療費が家計を圧迫して、特に低所得者の暮らしが苦しくなるのであれば、保険の高額療養費制度を拡充することで対応する方がロジックが明快だ。

この話題については最近も投稿したことがある。

要するに

年齢によらず医療保険の取り扱いは一律とするほうが透明である。

こういうことだと思うのだ、ナ。

齢をとると多病になる。多病になって最後には治らず寿命を終えるのが人生というものだ。寿命の長短は不平等だが、この不平等は人の努力でどうかなるものではない。しかし、人の努力で平等にできるものがあれば、すべての人は不平等より平等を好むはずだ。

高額療養費制度の利用者は高齢者が多く、若年者は少ないはずだ。それでも保険制度の下で形式的平等を実現しておく方が小生の感性にはあう。

今は若くて保険料負担に苦しむが高齢になれば自己負担率が低くなり便益を享受できるので『人生全体を通して平等は実現されている』というのが、既存制度を守る側の理屈だろうが、国の制度は実に「有為転変」、将来は財政が破綻して政府の公約など消失しているかもしれない。国家の破産は1997年の《アジア危機》、2009年の《ギリシア危機》をみた日本人は(潜在意識であっても)よく分かっている。日本が(再び)破産する可能性は日本人はもう肌で感じているのである。何より国の制度に入るかどうかで《選択の自由》がない。多くの日本人は国が決めることを強制されるという非条理への怒りを感じている・・・とも思えるのだ、ナ。

実質的平等は・・・などと言わず、まずは形式的平等をすべての時点において実現しておくべきである。

こんな風に思います。

ただ、上の引用した部分には「変な個所」もある。

日本の65歳以上の高齢者の相対的貧困率は約20%(5人に1人)に達しており、OECD諸国の中でも高い水準にある。特に女性単身世帯の貧困率は4割とかなり深刻な状況になっている。

この部分である。

実はカミさんが定期的にランチしている友人の一人は、数年前に夫君を亡くし、いまは非課税・女性単身者世帯なのである。定義によれば日本社会の中の《相対的貧困者》に該当する。

しかし、その友人のご両親は町の中心部で事業を展開して、いまもご健在であるので、両親の介護をしながら豊かな生活を送っている。

それに、これはよく指摘されることだが、女性単身者の日常生活は(持ち家か賃貸かにもよるが)せいぜい年収150万円(毎月12万5千円)もあれば十分のはずで、月々この程度の収入ならば3000万円の金融資産を毎年5%で回せば入るのである。3000万円なら現役中の貯蓄に退職金を加えればそれほど達成困難な金額ではない。更に、65歳を超えれば基礎年金も入るのだ。

要するに、

「相対的貧困」という尺度は現実の貧困をとらえる基準としては弱すぎる。

こういうことである。

少なくとも

所得ではなく(その人の)消費金額について中央値の1/2未満を相対的貧困とする

など、着目点の改善を望む次第だ。消費には持ち家帰属サービスも加算するべきだ。当該年だけではなく複数年にわたる継続性にも目を向けるべきであろう。

単身女性単身者には貧困世帯が多いので、医療費の自己負担率を引き上げるのは困難であるという指摘は、数学の定期試験で問題をみるなり

この問題、解くのが難しいから、解くのはやめヨっかな

こんな思考の停止、努力の放棄にかなり近い発想ではないかと感じている。

上に引用した記事がそうだというのではないが、ネット記事やコメントを読んでいると、「正気か?」、「勉強したことがあるン?」と思わず口に出そうな異常かつ無知な書き込みが多い、というより異常増殖している感覚がある。以前はこれ程ではなかったと思う(自信はないが)。

最近になって囲碁の「みんなの碁」や「囲碁シル」の愛用者になって技術革新の恩恵を実感しているのだが、囲碁にせよ、将棋にせよ、ネット対局では各人の棋力を知っておくのが必須だ。そのため、どのアプリでも《レーティング(Rate/Rating)対局》がシステム化されていて、勝敗の実績によって昇段・降段される。相手の力量が明示されていなければ対局を受ければいいのかどうかも判断できない  ―  過小に申告して楽しむ実力者も横行しているが、それは予定された状態ではなく、是正しうるノイズである。

で、思うのはネット記事やコメントを投稿する人にもレーティングを適用してほしいのだ、ナ。個人データとして何か有用な情報を登録してもよいし、オンラインで多数者から付与される「信頼ポイント」であっても可(かもしれない)。何も全員に義務付ける必要はない。"No Rating"という格付けがあってもよいのは当然だ。入試センターの共通試験で15科目平均97点をとれるAIなら、その人の既往投稿やコメントの内容を5段階評価する作業など簡単にできるだろう。

形は何でもイイが、書いている人がどのレベルの人か、それが分かればコメントに対するコメントも書きやすいし、コメントを書かれた側にとっても有益な情報になると思うがいかに。

2026年2月2日月曜日

ホンの一言: 帯に短し、たすきに長し。理想の政治家などいませんヨ

 TVでも、(一部の例外を除き)新聞でも、はたまたネットを見ても、《高市政策》は日本を破滅に導くという見方であふれている。そうかと思うと、閣僚経験もあり元・東大教授でもある某氏は、仮にこのまま《高市解散》が成功に終わるとすれば『この民にして、この総理大臣あり』と、マア、有権者を突き放すような投稿をしている。

小生は、これまで複数の関連投稿をしてきたが、対皇室スタンスだけは《高市理念》を共有している自分がいる。しかし、《高市経済》と《高市外交》は世間の識者が言うとおりだと思っている。更に《高市軍拡》が現実のものになるとすれば「狂気の沙汰」だと思われる一方、

徴兵制は憲法の禁ずる苦役には該当せず

という首相発言がいつあってもおかしくないと想像しているし、小生も同意見だ   ―  米・最高裁判例でもこれ自体は肯定されている。また原発の積極的活用を強調しても理解できるし、核武装への道を探ろうという見解を(どこか外国で)述べたとしても、それも一つの選択肢であると思うのが、小生の立ち位置だ。

右翼は嫌いだ。とはいえ、一部の政治哲学には共感する。否定しているのは経済政策である、というより経済音痴ぶりに唖然としている。昭和前期を連想させるような国家主義的言動には嫌悪を感じる。そんな要約になるのだろう。


一方、中道連合の親中外交には賛成である。現代中国には見るべき文化はないとしても、歴史的に多くの文化を創造してきた漢民族には尊敬の気持ちをもっている。漢文も漢詩も陶芸も好きであるし、最近は書道の美もよく分かるようになった。現時点の経済的相互依存関係をみても日中対立には何のメリットもない。

現に共同利益を受けておきながら、何のメリットもないのに空疎な敵愾心を煽り関係を壊すような言動は、ただ阿呆にのみ出来ることである。

現代中国に見るべき創造や文化が何一つ(?)ないのは、ひとえに共産党が信奉するマルクス的唯物史観がもたらす弊害であると観ている。

その他のリベラル派の政策には賛成できない。高市経済は日本経済を破綻させるだろう。が、規制や再エネ支援を偏愛し自由経済を忌避するリベラル派の経済政策も日本をずっと停滞させ続けるであろう。

何もかも兼ね備えた理想的政治家など30年に1人でも出現すれば御の字である。

結局、こういう事かもしれない。


それにしても不思議なのは、(一部を例外に)多くのマスコミ、ネット記事でこれほど評価されない高市首相が、なぜか週末の選挙では大勝しそうだという(今の)予想である。

評価されず、けなされてばかりの政治家が、なぜ選挙で勝ちそうなのか?

七不思議であります。

2026年2月1日日曜日

断想: 政治の浄化には「司法改革」が特効薬だろう

あと1週間で投票日を迎える今回の衆議院選挙は、予算審議もしないまま解散してから異常なほどの短期決戦であり、加えて真冬かつ受験シーズンの投票日でもあることから、もう「見たことがない」という様相を呈している。結果予想も人や機関によってマチマチ、バラバラで、誰も分からないということだけが分かる。

今になって高市首相のマイナス材料を相次いで週刊文春が報道している。世評では「高市首相の逃げ切り濃厚」という見方が強いようだが、仮に選挙に勝っても、あとが泥沼だろう。それでもやりたいっていうのは、よっぽど政治が好きなんだネエ、と感嘆します。

それはともかく、高市さんや萩生田さんも常連だったという旧統一教会とのつきあい。政治献金やら裏金やら、世間の関心は薄れてきたという報道なのだが、「裏金問題にはもう関心がない。それより消費税を減税してくれ」と。もしそんな有権者が大半を占めているようなら、戦後日本の民主主義も終末期に入ったという言うべきでありましょう。

但し、政治とカネ問題を解決する特効薬はある。それは厳格な経理、規制をかけるのではない。規制には必ず抜け道があるもので実効性には期待できないのだ。

それよりは《刑事司法》を民主化するだけで贈収賄、汚職はもちろん冤罪もまた大幅に改善される。小生はそう予想する。

日本の法体系は英米法ではなく大陸法の系統で刑事事件捜査とその後の法廷事務は検察官が主導するというやり方だ。それでも、ドイツやフランスの成熟した司法に比べると日本の後進性は明白である。

試みに、何かと日本がお手本にしてきたドイツの刑事捜査、刑事司法をChatGPTに聞いてみたので要点の部分を抜粋しておこう(全体はここ):

ドイツ手続の特徴を一言でまとめると

  1. 検察主導
  2. 裁判官による捜査段階からの強い人権統制
  3. 公判中心主義・口頭主義
  4. 有罪前提ではなく「客観的真実発見」重視

ドイツは前稿でも触れたが《起訴法定主義》で検察官の裁量は混じらない。原則として、すべての刑事事案が起訴され裁判になる。

ドイツの起訴法定主義とは、

検察は、犯罪の嫌疑が十分に認められる場合、原則として起訴しなければならない

という原則です。

明文根拠:ドイツ刑事訴訟法(StPO)§152(2)

補強規定:StPO §170(1)


この原則は、

「起訴してもしなくても検察の裁量」

という制度(=起訴便宜主義)を原則として否定します。

日本の刑事事件の有罪率が99.9%であることは世界でも有名だ。これは警察が検察に送検する事案のうち実際に起訴されるのは3割から4割であるためだ。強烈な事前スクリーニングを裁判とは別に検察官の独自裁量でかけているわけだ。

本当は、無罪が見込まれる場合でも検察は容疑者を公判にかけて「無罪判決」を得させるべきなのである。それが容疑者の人権を守ることにもつながる。

そうしない一つの理由は、無罪判決が担当検察官の敗北として評価されるからであろう。

予審制の下では内閣と議会から独立する予審判事が本審(=公判)を開くかどうかを判断する。ドイツもフランスも予審制である。日本にも昔は予審があったが、今は廃止され、検察官が実質的には予審判事の役割を(司法府ではないにもかかわらず)代行している。検察官は「準司法」と称しているが「法相指揮権」があるように内閣の統制下にある。

 

日本では検察庁が不起訴の詳細な理由を公表することはない。不起訴は「無罪」と実質的には同じ結果となるが、裁判による「無罪判決」とは全く異なる。かつ取り調べに弁護士が同席することはない。裁判とは違うのである。「一事不再理」の大原則も適用されず、不起訴であっても、検察の裁量で再び取り調べの対象となりうる。逆に、検察の裁量で起訴しないと決めれば、裁判の被告人になることはない   ―  「検察審査会」は最近になってようやく実現した司法の民主化の成果である。

検察官の裁量が排除され、無罪の可能性を含んだうえで事件はすべて公判に回されるのであれば、政治家が不正を行うハードルは極めて高くなるはずだ。また、公判裁判をとおして有権者が民主主義社会を運営できるだけの「常識」をもつことにもつながると思う。

日本の政界の浄化は《司法の浄化》が特効薬になると考える次第。覚書まで。

2026年1月29日木曜日

断想: 中国の刑事司法は怖い ≒ 日本の刑事司法は怖いという一面

再審法改正に向けて作業が続けられているが中々収束しない様子だ。そもそも「改正」の名に値する刑訴法改正になりうるのか、検察側の抵抗もあって予断を許さないとも伝えられている。


思うのだが、欧米先進国(?)と肩を並べて民主主義国に恥じない司法であるというには、四つの選択肢しかないと小生は思っている。順にあげよう。

  1. ドイツ風の起訴法定主義
  2. フランス的な予審制
  3. イギリス的な法曹一元と私人訴追制
  4. アメリカ流の検事公選制

思うのだが、いったん犯罪容疑者になった場合、身の潔白を晴らすには《裁判》によって無罪判決を勝ち取るのが最良かつ最終的である。


古代ギリシアでは市民が訴追し、市民が弁護し、市民が判決を下した。いわば「みんなで弁論をして、みんなで判決する」という民主的司法が制度として実現されていたわけで、このあたり、文明の出発時点でそもそも東洋と西洋は気風が大いに異なっていた。

日本国内のマスコミは、何かというと警察による「逮捕」を有罪の証明とみなし、検事による「不起訴」を無罪の証明のように語る。が、これほど大きな間違いは反社会的であるとすら思っていて、人権侵害の最たる報道姿勢である。

検察の不起訴は、実質的には無罪と等しいのだが、裁判によらずして無罪とするのは筋が違う。無罪が確定したわけではないので、いつまでも同じ容疑で世間からバッシングされる温床になる。日本の法務省にはお飾りのように人権擁護局があるので、こうした酷い状況が発生しないようコミットする義務があると思うがいかに。


検察による不起訴は無罪の証明ではない。そもそも検察庁は司法ではない。行政官庁の下にある行政庁である。なので、検察官は行政官として刑事事件の捜査で警察を指揮し、公訴事務を担当し、(原則として)すべての事案について司法の法廷の場で決着させる。これがドイツ流の起訴法定主義で実にドイツ的な首尾一貫さを感じる。

フランスでは予審判事が置かれていて強力な捜査権限をもっている。起訴された刑事犯を予審判事が中立的な立場で吟味し、裁判の厳密性を保証しようとするフランス的なやり方だ。ドイツも予審制はあるので「大陸法系」とまとめてもよいのだが、フランスは起訴法定ではなく起訴便宜主義をとっているので分けた。

小生が最も共感を感じるのはイギリスの司法である。ネットにはこう書いてある:

イギリスの法曹一元制は、熟練した法廷弁護士(バリスタ)が裁判官に任命される制度であり、14世紀からの伝統を持つ。事務弁護士(ソリシタ)と法廷弁護士の二層制(職務分担)を基礎とし、10〜15年以上の経験を持つ者が上級裁判所裁判官に選ばれる。これにより実務経験に基づく多様性と専門性が確保されている。 

またイギリスの検察官は事務職である:

イギリス(特にイングランドおよびウェールズ)の検察官は、主にCPS(刑事訴追局:Crown Prosecution Service)に所属し、警察が捜査した事件の公判を担う。日本の検察官と異なり、原則として捜査権を持たず、起訴後の訴追打ち切り権限や起訴状作成を行う。実務上、法廷弁護士(バリスタ)が訴追代理を務める。 

職業裁判官、職業検察官を任用せず、法曹資格のある専門家が判事役、検事役、弁護士役を務めるのは、フレキシブルでアングロサクソン的な行き方だ。

最後のアメリカ風の検事公選制は、大半の刑事事件を担当する地方検事のことで、連邦検事は任用制で公務員である。選挙によるのでアメリカの検事は、広い裁量権を与えられていて、必然的に起訴便宜主義をとっている。


検察官がキャリア公務員(=官僚)であるかどうかと、起訴を法定とするか裁量とするかは、ハッキリとした相関はないようだ。


検察官が警察の捜査に対して一般的指示権をもつのは、大陸法の系統で法を構成している国に多いのだが、ドイツでは起訴法定主義をとっていて、起訴・不起訴に検事の裁量は混じらない。フランスは検察から独立した予審判事が検察・警察と独立して捜査・証拠収集を行い、公判へ送るかどうかを判断する。司法は行政から独立している。


今回の刑事訴訟法改正で、日本の刑事司法が恥ずかしくないものになる可能性はほとんどない。

数年前にカルロス・ゴーン日産社長が微罪(?)で拘束され、その後レバノンに逃亡するという事件が起こったが、同氏は『日本には民主的な司法が存在しない』と話していたという。何もゴーン氏の味方をするつもりはないが、

日本には民主的な司法がない

と怖れた心理は、中国で拘束された日本人が

中国には民主的な司法がない

と恐怖する心理とどことなく大同小異に見えて仕方がない。

何事によらず落ち目で、本卦還りの三つ子のような感がする日本国であるが、せめて司法の民主化だけは粛々と進めなければなるまい。そうでなければ、優秀な外国人が働く場所としては怖くて、怖くて、検討対象にはとうてい入れてもらえないであろう。


今日のようなトピックはあまりとり上げたことがない。本日は頭出しということにしよう。何回か話題にするかもしれない。


2026年1月26日月曜日

ホンの一言: 「オールドメディア」というより「ゾンビメディア」だネエと感じること

つねづね不思議に感じているのは、これほど「専門家のご意見」を好む(オールド)メディアで、生身の専門家には意見を問うが、急速に発展中のAIを利用する場面はまったく目にしないことだ。

いま「大手政党?」のほぼ全てが「食料品に対する消費税ゼロ」を公約にかかげている現状に経済専門家はほゞほゞ例外なく反対を表明している。だけではなく、日本の財政破綻の懸念から国債相場と円の対ドルレートが暴落している。


ちなみに「長期金利急騰」と表現して「国債相場暴落」の語句を避けているのは、幼稚なイメージ操作であって、政権に対する忖度だろうと小生は観ている・・・マ、これは細かい話だ。


先週末になって、日米政府の協調介入がまとまったか詳細は不明だが、急速な円安修正が進んだが、今日の月曜になると円高進行が国内景気に冷水を浴びせるのではないかという心配から日本の株価が暴落した。

何だか、あちらを立てるとこちらが立たずで、「高市路線」は最初から方向違いであることを示唆しているのは明白なのだが、当のご本人が国民の審判を求めるなどと堂々と語っているので、状況は何も変わっていない。


大体、日本国民が思う方向で日本社会が変われるなら、バブル崩壊も失われた30年もなかったはずである。停滞の理由は、合理的な政策を一部国民の強硬な反対から進められなかった点にある。

この辺を淡々と事実のままに報道すればいいのに、取材力が落ちたか、そんな話題には故意に触れないつもりなのか分からないが、「オールドメディア」が触れない重要な話題は最近になって特に増えていると感じる。


消費税ゼロについても突っ込みが不足している。こんな時、これまでの行動パターンならすぐに国際比較をするはずである。

消費税≒欧州型付加価値税(VAT)である。そこでChatGPTに

欧州諸国の多くは食料品に対する付加価値税率を低くしていませんか?

と聞いてみた。その回答をポイントだけだが以下に示す。

多くの欧州(特にEU加盟国)では、「食料品に対する軽減税率」を導入しており、標準VATより低い税率で課税している国が多い。

そもそもEUでは付加価値税率は最低でも(=標準税率)15%以上と決められている。その中で食料品に対する税率はフランスでは5.5%、ドイツでは半分の7%である。EU域外になったイギリスでは食料品はゼロ税率。

イギリスではトラス政権の大盤振る舞いとポンド崩壊が記憶に新しいが、それでも食料品に対するVAT税率は(基本的に)ゼロとしている。それでもって経済は、マアマア、安定している。

こんな事実は、ギャラを払って経済専門家にご意見を求めなくとも、安い課金で一発でPCが教えてくれる。

食料品に対する消費税率ゼロは(小生はゼロ税率は反対だが)決して突飛な政策ではなく、むしろ望ましい政策である。・・・コメをはじめとする輸入食料品に対する関税率を(一定期間だけ?)下げることも検討するべきであるが。どうすれば可能かだって?初めてのことならいざ知らず、実際やっている「欧米先進国」があるのだから、お手本はあるだろうにネエ・・・分からんか!と言いたいところだ。


なぜ真っ当な議論をメディアは進めようとしないのか?

いま問われているのは

大砲を増やすか、バターを増やすか

選ばなければならないのは、伝説的な経済学テキストであるPaul Samuelsonの"Economics"で有名になった経済学の最重要課題であるこの問題なのである。

要するに、軍事拡大を進めれば生活支援まではカネがない。生活支援を手厚くすれば軍事費にはカネがない。両方は不可能だ。この選択なのである。

政治家には選択の権利がないから選挙で問うのである。

この基本認識を語っている「経済専門家」は一人もいない。直面している《選択のフレーム》に落とし込む作業くらいはしてあげれば良いのではないか?ChatGPTなら政治家の発言記録を情報にして直ぐにやってくれますゼ。出演している「経済専門家?」、おそらく大方は「無免許運転」なのであろうと推察している。


ドラマもダメ。スポーツ中継もNetflixなどの配信にとられる、映画も復活気味。報道もこんな惨状。残るのはお笑い芸人が集まるワイドショーだけとあっては、もう《オールドメディア》という呼称さえ非現実的だ。《ゾンビメディア》の方が似つかわしく思う。


2026年1月22日木曜日

断想: 何かを信じたいとき問題は「三択」になる

 「高市解散」は極めて世評が悪いが、それでも一部の(熱狂的右翼の?)支持層を基礎に今でも高い支持率を誇っている様だ。

国債増発まで選択肢に入れて、積極的な財政出動、軍事拡大路線を進み、中国と戦おうという高市首相ご本人の統治スタイルが若者たちには受けているのだろうと観ている。

しかしながら、それによって金融市場、特に国債市場では先行き財政破綻懸念から国債相場暴落、長期金利急騰が続いている。

今日あたりは日銀の国債買い入れ増額方針が効いたのだろうか、相場暴落は一休みしているが、もしもこれが総理‐財務省による要請なり、プレッシャによるものであったなら、インフレ下の国債買い入れ増加イコール貨幣供給増加であるから、必然的に物価を上げる方向に作用する。

純経済学的に考えれば、「高市路線」は詰んでいるのであり、

ここは一歩後退。守りを固め、時機を待ってから反撃するべきです。

と。総理に諫言するべきタイミングなのだろうが、そうすれば「ぶれた」と批判され、そのまま失脚するのが怖いのだろうと勝手に憶測している。

ただ、どれほど一歩後退しようが、高市総理という政治家は《国家主義者》である事実は永遠に変わるまい。

思うのだが、人は何かを信じて生きるものである。成人するまでは親、もしくは身近な保護者を信じるものである。

やがて人は独立して、自分で考えて自分の人生を歩み始める。そうなってからも、親のいうとおりという御仁もいるが、大方は何かを信じて生きているものだ。

それは友情であったり、家族であったり、人間関係であったりする。他の人間によって自分は生かされていると思えば、《社会》を信じる。社会に恩返しをしたいという心境になるものだ。逆に、社会に居場所を得られないと感覚すれば、社会に敵意をもち、時に暴発する。社会は一定の確率で、この種の不適応者を生むもので、そんな人物に対して社会は責任を感じるべきだと考えている。

社会を信じる人は、社会を支える現実の力として《国家》を求めるのも必然的な結果である。国家主義者が10人いれば10人とも社会的価値の重要性を説きたがるものだ。

日本国の尊厳を主張する保守的若者は、内面においては日本社会を守りたい、そこに生きている家族や友人、知人たちを守りたい。こんな心情があるのだろうが、この辺の国民心理(?)は、太平洋戦争に大敗した以降も日本人の心情としては、何も揺らいではいないはずである。

これとは正反対の極にいるのは《科学》を信じるというリベラル的思考である。最もラディカルであるのは、マルクス的な科学的社会主義であって、一切の人間存在は物理学的な素粒子に還元される。人間は、要するに高分子炭素化合物なのであるから、精神的な概念や価値は単なる主観的錯誤、幻想であって、実在するものではない。社会にも実体はなく、国家にも実体はない。実在するのは、生きている生物、その中の人類という種であるから、重要なのは「食うこと」、「住むこと」、「寝ること」である。そのための「生産活動」である。こんな思考になるので、国家のためにという議論は意味がなくなる。

小生は、経済学とデータ解析で食ってきたので、唯物史観的な世界観にはずっと親近感をもっていた。が、数年前から疑問を感じ始め、いまでは完全に転向した次第は本ブログにも投稿してきた。

とはいえ、この≪科学主義≫というか「合理的リベラル思想」というべきか、こうした立場の良いところは、極めて普遍的である点である。

もしも日本政府が完全リベラルな世界観をもって統治をおこなうならば、あらゆる非科学的な偏見や先入観を排して、民族、国籍、日本人、性別、出自などを問わず、人はみな平等とみなして、全員が「食って」、「寝て」、「暮らす」ことを最高の統治目標とするはずだ。

これがいまの日本人にとって悪いはずがない。

とはいうものの、

人はパンのみにて生くるにあらず

である。『新約聖書』の中のイエスの言葉として有名だが、実は『旧約聖書』でも

それは主である神が、あなたに、人はパンだけでなく主である神の口から出る全ての言葉によって生きているということを知らせるためであった

こんな一文がある(Wikipedia)。

人間は、食べるもので自分の身体を養うが、物質的身体は「魂」や「知性」の入れ物であって、人間存在の本質は身体ではなく、精神である。

「精神」すなわち「言葉」である。個々の人間存在は、身体ではなく、言葉を使って、考えることによって実在する真理を認識している。

どうしてもそうとしか考えられない段階がやってくる。

「国家」でも「科学」でもないが、信じるに足る対象。それが「哲学」であったり「論理学」であったり、「数学」であったりするわけだが、理性を超えたところに「宗教」がある、というのがロジックである。

社会で生きていく上で、となると第3の選択肢は「哲学」ないし「信仰」という言葉になる。

物質的身体を動かしている非物質的な実在を漢字では「精神」と書いたり「魂」とか「霊」とか「法身」と書いて理解しているが、その理解はちょうど数学者が「無限集合の濃度」や複素関数の微分可能性を理解したり、はたまたヘーゲル的な「世界精神」を理解するのと、ほゞほゞ同じ種類の知的行為である。

そんな意味合いで、観察可能な科学的真理を認めつつも、観察不能で非物質的な実在も、理解可能な範囲、議論可能な対象として信じるのが第三の立場になる。

但し、宗教や信仰は観察可能なデータで(原理的に)検証されえないため、学理としても信仰対象としても宗教対立を招きやすいのが欠点である。

とはいえ、知的行為が人類共通の行為であるという意味で、この立場も普遍的であって、特に共通の信仰の下では日本人と外国人の差別はもちろん、男女差別、人種差別等々、一切の差別を否定するところが2番目の「科学主義」、「唯物主義」と共通している   ―  キリスト教やイスラム教の女性観は十分な知識をもっていない。法の前の平等という多分に作為的な平等観ではなく、もっと原理的に「神の前に」あるいは「仏の前で」、「阿弥陀如来の前で」人間はすべて平等であるとみなされる。

思うのだが、この第三の立場の利点は、精神的価値と知的活動を肯定し、文化を積極的に支援することが統治上の原理になることだ。

平等施一切 同発菩提心

という句は、小生が毎朝読経している総回向文にある。「平等」という言葉は(物理ではなく)仏理に由来しているのを意外に思う人も多いかもしれない。

イノベーションは、人間の精神的活動が人間を支えるものと認識し、学問的自由を保障するところから生まれる。

だから21世紀の統治原理としては、この第三の立場しかあり得ないというのが、小生の勝手な個人的見解だ。

宗教と政治の関係性については、相当以前に一度投稿したことがある。そこで

民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。

こんなことを書いた。そもそも広い意味での「宗教感情」が日本人に広くもたれているのは、正月の初詣で、お盆の精霊流しなどの行事をみれば明白である   ―   日本固有の神道における平等観は勉強したことがない。

そんな意味では例えばリベラル派経済学者として著名なKrugmanが次のように発信しているのは、見解の自由、意見の自由、表現の自由を保障する在り方として羨ましく思っている。

I had never heard the term “sundowning” before it happened to my own father, yet it’s a fairly common syndrome. In his last few months my father remained lucid and rational — remained himself — during daylight hours. Once the sun went down he deteriorated, becoming confused, paranoid and aggressive.

It’s terrible to watch sundowning in someone you love. But that’s a personal tragedy – not a national or global one. It’s an entirely different matter when the president of the United States is sundowning — a president surrounded by malign sycophants who tell him whatever he wants to hear and indulge his every whim, no matter how destructive.

 

「サンダウニング」という言葉は、父が実際に経験するまで聞いたことがありませんでしたが、実はかなり一般的な症候群です。父は最期の数ヶ月、日中は正気で理性的な、つまり本来の自分らしさを保っていました。しかし、日が沈むと容態は悪化し、混乱し、偏執的になり、攻撃的になりました。

愛する人がサンダウニングに陥るのを見るのは辛いものです。しかし、これは個人的な悲劇であり、国家や世界規模の悲劇ではありません。アメリカ合衆国大統領がサンダウニングに陥るとなると、全く別の話です。大統領の周りには、どんなに破壊的なことであろうと、聞きたいことを何でも言い、どんな気まぐれでも甘やかす、悪意のある追従者たちがいます。 

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/its-sundowning-in-america

Date: Jan 20, 2026

Author: Paul Krugman 

自国の現職・大統領を「病気」だと言っているに等しく、こんな発信が自由にできるなど、日本国の現状と比べて、その寛大さは比較を絶している。


少し前までは、日本社会は自由で大らかで、品がなくハラスメントは横行していたかもしれないが、面白く生きられる社会であった(と記憶している)。

あらゆる人が、あらゆる人に「寄り添う」とき、「国家主義」は単なる「もたれあいの社会」を作るだけである。できあがる社会は動きのとれない、非寛容な管理社会だ。もたれあい・・・かつて「酷電」と呼ばれた朝の通勤電車は文字通りの「もたれあい空間」であった。立ったまま寝ても周囲の人にもたれて倒れずにすんだ。しかし、そんな残酷な空間からは誰しも逃れたいと一人残らず思っていたのである。社会を「酷電」にして支えあうなどは知恵と創造力の欠如を象徴している。まさに「貧すれば鈍す」だ。国家主義が堕落するとこうなる。

人が人に具体的な何かを期待し、求め始め、それが自己愛と結びつくことで、人は限りなく堕落すると確信している。人が人を救えると考えるのは科学主義者であろうが、科学主義の世界に精神の自由が尊重される空間はないはずだ。


現代日本社会の若者世代に高市的統治スタイルが善いとされているのなら、今後、日本が歩んでいく道は、かなりな程度「国家主義的」で「管理国家的」な色あいを強めることになるのだろう。

弱者を救済するのは「国家」の責任であると思えば思うほど国家は権力を堂々と行使する。

やはり日本は、「国家総動員」という社会体制を一度は選択した国民なのだナアと思う。そして同じ入り口から入れば同じ出口から出て瓦解するであろう・・・そんな事態は本当に一度だけ、"Das gibt's nur einmal"であってほしいものだ。

今回の投稿は覚書だ。ちょっと舌足らずだったかな?ま、もっと書き込むのは別の機会に。

2026年1月19日月曜日

断想: 大正と令和、明治と昭和。反発と憧憬が同居する関係性か?

カミさんと愚息の話になってこんな会話をした:

小生: それにしても最近の若い世代って、繊細であるのと同時に鈍感、傷つきやすいのに人を傷つけていることには鈍感。何だか分かりにくいところがあるよナ。うちの〇〇もそんなところが濃厚にあるだろ?

カミさん: △△さんとこの娘さん夫婦もそんな風みたいだよ。大人になっていないのかなあ・・・

小生: 幼稚だって世間では言うけどネ。若い人たち、よく「昭和」は古いってボロカスに言うじゃない。だけど同時に「昭和レトロ」なんて、昭和時代の当たり前の日常に結構魅かれるらしいんだよね。ずっと前にさ、ゼミ生の◆◆君がいたろ?彼なんて、将来は自分の窯で陶芸をやりたいなんて言うんだ。作務衣を来てね。マ、なんとなく形から入るところがあったけど、そんなに古い和風がいいと思うのかねと不思議に思ったよ。

カミさん: 惹きつけられながら、ご本人にあうと反発するって、若い人は昔からそうだったよ。

小生: 平成もそんなところがあったけど、昭和への反発は令和になってから高まるばかりだなあ。昭和に反発するなら昭和文化も排斥するのが道理なんだが・・・そういえば、大正時代の風潮は『明治はもういい』というもンだったんだ。明治の家父長的な家庭を否定して、食事の食べ方まで変わっていったのが大正時代なんだよね。「大正デモクラシー」って偉大な明治への反発から始まったものだって俺は思っているよ。だからだね、大正の民主主義はヒ弱くて、昭和の保守化が来ると呆気なく消えてしまったのは、偉大な明治への反発心が支えていただけってところがある。

カミさん: 食べ方まで変わったの?

小生: お祖父さんから聞いたんだけど、明治の世帯主、戸主って呼んだはずだけど、食事は時代劇に出て来る「箱膳」でさ、それも一家の家長が奥さんから給仕されながらまず先に食べるのが普通だったそうだよ。

カミさん: 私が小さかった頃はもう丸形のお膳だったけどね。

小生: だんだんそれが広まったのが大正時代から昭和。一家団欒なんて言葉は明治にはなかったのさ。家族がそろって食べるときも黙々と箸を動かしていたそうだ。別々の膳を前においてね。

カミさん: 昭和時代の暮らしなんて今の若い人は想像できないかもね。

小生: 俺が小さい頃はサ、結構「停電」があってネ。おふくろが「今日は夕方まで停電なのよ」って言ってたものサ。だけど、ちっとも焦ってなかったよ。その頃は、冷蔵庫は氷式。暖房は木炭の火鉢。風呂を沸かすのは薪。料理は都市ガスじゃなくてプロパンガスを使うことが多かったけど、焼き魚は七輪でこれまた木炭。電気は夜の照明だけさ。テレビ、ラジオは電気だったけどね。別に必須ってわけじゃない。今は、何もかも、自動車まで「電気を使おう」だからネエ。社会が脆くなるはずよ。

カミさん:北海道のブラックアウトには吃驚したものネ。 

小生: 一事が万事さ。便利さの裏には潜在的な不便が隠れているンだな。江戸時代の暮らしが時代劇で分かっているなら、昭和時代だって頭では分かるさ。だけど、生々しい感覚としては全然分からんだろうね。ま、一口に言うと

親、子を知らず

子、親を知らず

って、ドラマの「琅琊榜(ろうやぼう)」にあったよね。育ってきた生活のスタイルが違うんだから、感覚もまったく別、感じ方も別、親と子であっても、分かりあえる部分は何パーセントしかないと思うよ。言葉ではコミュニケーションできてるけどね。


何だか淋しい話をしたものだ。

しかし、いま会話を思い出しても、令和の優しさはいずれ難題を乗り越える国家主義の時代がやってくると「ひ弱な令和」と揶揄されて、否定されてしまうのではないかと心配になる。ちょうど明治への反発から生まれた大正文化の理想が《あだ花》であったように。


そうそう、では「平成」という時代は?

平成は昭和が最後に残したバブルのつけを苦闘の末に解決した時代だ。苦闘の30年の間に、すっかり背が丸まって下を向く癖がついてしまった。その意味で、平成は文字の定義通りの《ポスト昭和時代》であったと勝手に総括している。