2026年8月28日金曜日

断想: トランプ政権の現状に真に責任ある者は?日本の事は?

 Brad DeLong先生、Krugman先生と同じでトランプ現政権批判の急先鋒であるが、最近はこんな事を書いている。日本の大衆民主主義批判にも通じる話なので、抜粋を引用しておきたい:

Drezner explains why his harshest criticism of the Trump administration targets the “normie” Republicans—of whom he was once one—rather than the obvious buffoons: the people who know better and enable Trump anyway are more contemptible than those who never had principles to betray. In his view, contempt should be allotted in proportion to culpability, not incompetence. The intelligent enablers who understand exactly what they’re empowering — and choose it for power and status — deserve more scorn than manifestly unqualified and honorless clowns from whom nothing could ever have been expected.

ドレズナーは、トランプ政権に対する自身の最も厳しい批判の矛先が、誰の目にも明らかな「道化」たちではなく、かつては自分もその一人であった「ごく普通の(ノーミー)」共和党員に向けられる理由を説明しています。つまり、事の是非を理解していながらトランプを容認・支援する人々は、そもそも裏切るべき信念など持ち合わせていなかった連中よりも、はるかに軽蔑に値するということです。彼の考えでは、軽蔑の念は無能さに対​​してではなく、責任の重さに応じて向けられるべきものなのです。自らが力を与えている対象の正体を正確に理解し、権力や地位のためにあえてそれを選び取った「知的な協力者」たちこそ、最初から何ら期待などされていなかった、明らかに資質を欠き名誉心もない道化連中よりも、強い侮蔑を受けるべき存在なのです。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-08-28

URL: https://braddelong.substack.com/p/crosspost-dan-drezner-categories

上でいう「道化」とは、本ブログでいう「大衆」に対応する。大衆は、無責任だが、知性も知識もなく、そもそも期待されていることもない、と。

 一方

自らが力を与えている対象の正体を正確に理解し、(自分の?)権力や地位のためにあえてそれを選び取った「知的な協力者」たち

と書いている中で、真に「軽蔑」に値する「知的な協力者」たちとは、誰の事を指しているのだろうか?


クルーグマン先生が日ごろ展開している非難の標的から推測するに、(多分当たっているだろう)《軽蔑に値する知的な協力者》とは、ト政権の閣僚の面々に加えて、まずはTeslaのマスク、Amazonのベゾス、Metaのザッカーバーグを代表とするIT業界の大立者たち、つまり超富裕層である。次に、彼らがカネの力で支配しているメディア大手企業が垂れ流す報道に協力しているジャーナリスト(?)たち。経済的動機からト政権に《シッポを振ってすり寄る専門家》たちも同類である。マア、大略、こんなことを言いたいようである。

無知な大衆は、そもそも何も期待などされていないのであるし、自分が何をしているかも理解できていない。十分な理解力もないのである。故に、トランプ政権をいかに支持しようが、だからと言って無責任だと非難する理由はないし、軽蔑すべき存在でもない、と。


思うのだが、ここには西洋の社会哲学、政治哲学の底流に流れている根本認識がある。

知性ある者にこそ、責任がある。責任ある者にこそ、ふさわしい仕事が与えられる。知性あり、知識ある者は、与えられた職務を全うし期待に応えるべきである。

西洋流の民主主義の根本が窺いとれるではないか?本来の民主主義とはこういうものだと小生は思う。しかるに、アメリカの超富裕層は期待には応えず、自己利益を求めるだけである。

大乗仏教では《自利と利他》の双方を目的としているが、この「利他」が欠け、「自利」だけのために自らの知的能力を使っている。故に、軽蔑に値する、と。

民主主義は大衆によって支えられるものではない。所詮、大衆は世間の風になびくだけだ。問題は、民主主義を支えるべき階層がその責任を放棄していることだ、というわけだ。

翻って、東洋文明圏のメインランドである中国の(北京政府の)立場は、産経新聞が報じた以下の記事からも推察できる:

混乱を生んだ米軍のアフガニスタン撤収に触れて「米国式の民主主義を他国に無理に押し付けても全く通用しないことをはっきりと表した」と主張。米国の民主主義は「他国に干渉するための『大量破壊兵器』になっている」と非難した。

Date:2021/12/11 20:46

URL:https://www.sankei.com/article/20211211-Z5TKHHYYFFOUBOUPMAPUUHLEUQ/

北京政府は現在の共産党主導体制は民主主義の一つの形と認識しているので上のような言い方になるのだろう  ―   それより中国に普通選挙による民主主義を導入するのは、歴史に則しても、無理だろうと観ている。中国の大衆は政治的選択には関与しないので、トランプ的政権が選挙から生まれてしまう可能性はない。但し、知性ある指導層が大衆の期待に応えられるか、応えようとしているかという問題は、中国にも存在する。中国においてもデロング的問題が全くないわけではない。

大衆も結果に対して責任は負うべきだ。なぜなら、知的エリートがいかに正論を主張しても、数に勝る大衆が正論に聞く耳を持たなければ、社会は必然的に間違うからである。政治家は正論ではなく票を求めるものだ。大衆にも、だから、結果責任はある。

しかし、社会を誤らせたことから事後的に生起してくる全ての惨憺たる結果を、大衆は自らが引き受けるのである。愚かだが、フェアであり、軽蔑には値しない。

他方、トランプ政権がどんな政権になるか事前に(かなり明確に)予測されていたにもかかわらず、ビジネスに有利だからと言って、職業的に成功するチャンスが訪れたからと言って、

間違っていると理解しつつ、政権に協力してきた人たち

こんな人間集団は、自分の代わりに無知な大衆を賭け金にして自己利益を追求するという点で正に《軽蔑》に値する。人道に対する罪を犯していると言っても、これは確かに正論だ。

日本に目を向けよう。日本にはデロング先生のいう「知的エリート」、分かりやすく言えば「利口な人たち」はいるのだろうか?

高市現内閣を日本の「大衆」が熱狂的に支持したのは、本年初めの時点で明らかな事実であった。高市内閣がどんな政治をするかも、かなり明確に予測できていた。現状はその時の結果である。

では、高市政権に反対するべき知性ある人たちが、大衆を賭け金がわりに使って、自らの利益のために「政権の犬」になっている・・・そんなデロング的状況が日本にもあるのか………?


しいて言うなら、

維新の会の面々

なのですかネエ??…ちょっと違うような気もするが。

高市首相にチャンスを見出し、自らの政治目的、事業目的を追求している、更には「自分のつごう」で同調している利己的な人々・・・

う~ん、そんな人がいるでしょうか?

それより、高市現首相と自民党総裁を争ったライバルたちはどうか?

今の政治は正しいと考えているのか?支えるべきだと心から考えているのか?

分からぬ。知り合いでもないので、小生には分かるはずもないが

やはり、極右(かどうかも定かではないが)の高市ではなく、

岸田・石破寄りであった従来与党の穏健派が、デロング的な意味で失望をかっている情けない人々になるのではないか。

こんな理解の仕方になってくるかもしれない。


トランプ政権の政策に対して、アメリカ国内の批判派急先鋒は声を(現に)あげている。日本にも同様の声はある(はずだ)。ところが、日本では

十分な知性をもっており、現在の誤りを理解できる理解力もある。しかし、声を上げるべき人が、自らの保身(≒自己利益)のために声を上げていない。結果として、現状を追認している。

デロング的な意味での《軽蔑》に値する人は、いわゆる《大衆》とは別にいる。真に軽蔑するべき人物集団は、大衆ではなく、そんな知性ある人たちである。

ふ~~む、

確かに、あってもよい見方だ。


2026年8月26日水曜日

断想: 読書感想文を宿題にするのは無理になったネエ・・・

ChatGPTなどAIが普及したいまという時代、もはや書評とか、批評とか、読書感想文といった学校なら誰でも取り組んだことがある「宿題」が、今後はどんな意味をもつのかどうか、非常に曖昧になってきた  ―   人によっては、数学の演習問題や哲学のレポート課題ですら、もはや宿題とするには、意味がなくなってきたと言うかもしれないが。

少なくとも、学校の夏休み課題としての読書感想文は何を測定する課題であるのか、意味を失ったと思う。

今日はその辺の経験と印象である。

ChatGPTに、試しに

芥川龍之介の最高傑作は何だと思う?

と聞いてみた。そうすると、『地獄変』だと思うと答えてきた。小生は『歯車』あたりが大したものだと思っているが、確かに『地獄変』を選ぶ見方もある。

課題図書と言えば漱石の『こころ』はまだ有力な選択肢なのだろうか?小生は、中学生や高校生が、『こころ』を読みこなすのは無理ではないかと、かなり以前の投稿で書いたことがある。そこで

漱石はどう?世評では

と聞いた。

そうすると、『こころ』と『明暗』の2作を挙げてきたので、中々やるじゃないか、と見直した。前にも書いたことがあるが、漱石が生涯の中で最高の境地に達したのは『明暗』においてであると、こればかりは譲れないのである。ただ、『明暗』は未完成の作品であるのが欠点だ。AIもこの辺については

『明暗』は小説技法としてはさらに先へ進んでいると思いますが、未完という決定的な問題があります。それに対して『こころ』は、作品の構造そのものが非常によくできています。「先生と私」から始まって、「両親と私」を経由し、最後に「先生と遺書」がすべてを呑み込む。個人の恋愛と裏切りの物語が、最後には「明治という時代の終焉」と重なってしまう。このスケールの変化が見事です。

こんな風にまとめている。中々要領がイイ。とはいえ、この程度なら読書好きな中学生でも書けるだろうと言うレベルだ。

とはいえ、『こころ』を最高傑作とするには疑問があるので、

『それから』を推す人も多いが、どう評価している?

と押してみた。すると

はい。『それから』を漱石の最高傑作に挙げるのは、かなり説得力のある評価だと思います。むしろ「完成した長篇小説」という条件をつけるなら、私は『こころ』より『それから』を上に置く議論にも賛成できます。

これにはちょっと驚いた。

それと次の考察は大したものだと感じた。

『それから』の強さは、主人公・代助が単なる「恋愛に悩む男」ではなく、明治末期の知識人が抱えた矛盾そのものとして造形されているところにあります。

代助は働かず、父や兄の経済力に依存して暮らしています。しかし本人は怠け者だとは思っていない。むしろ、金銭と競争によって人間を縛る近代社会の方がおかしい、と考えている。そこには漱石自身の文明批評がかなり入っています。

問題は、代助の批判がかなり正しいことです。

社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。

しかし、その社会を批判している本人が、その社会から送られてくる金で生きている。

ここが非常に痛いところです。

 ここまで書ける高校生は、いや大学生・社会人でも、そう多くはいない気がする。

問題は、代助の批判がかなり正しいことです。

社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。

これを指摘するのが、『それから』を読む上では、大きなポイントである。現代日本人にとっても、100年以上も昔に生きた漱石のこの問題意識は心に刺さるはずだ。


そこで次のように掘り下げた:

う~ん、感心したよ。結構深く読み込んでいるね。

すると、嬉しくなったのか(?)

ありがとうございます。漱石は、筋だけ追うと比較的平明なのに、人物の行動を「なぜそうしたのか」と考え始めると、急に底が深くなりますね。

特に『それから』はそうだと思います。代助を「高等遊民の身勝手な男」と見ればその通りだし、「社会の虚偽を拒否した近代的個人」と見てもその通り。しかし、漱石はどちらか一方に読者を落ち着かせてくれない。代助の思想には真実がある。しかし、その真実を実行すれば他人を傷つけ、自分の生活も破壊する――この矛盾を解消せず、そのまま小説として成立させているところが強いと思います。

そして漱石を読んでいて私が特に面白いと思うのは、結局ずっと「個人はいかにして他者と共に生きられるのか」を考えていた作家ではないか、ということです。『それから』では「自己の真実を貫くこと」、『こころ』では「その自己が他者を傷つけること」、『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。 

現代人からは内面的共感可能性すら失われつつあるいわゆる「明治の日本人」だが、「近代的個人」たることを「外圧」として意識させられている中で、そうした生き方をすること自体が、人間性を歪め、社会を歪め、倫理道徳を歪めている、そんな認識が漱石を読むことで知られるのである。そして、いかに歪んだ生き方を納得のできない社会でするとしても、生きるためにはそんな生き方をせざるを得ないという、この非条理の感覚が漱石の作品の肝である。

この漱石が提出した問題は、いま生きている戦後日本の日本人にも、依然として共通の問題として意識されている。小生はそう感じるのだ、ナ。

これが漱石の現代性と言うものだろう。つまり、漱石の作品を読んで考えてもらうという課題の「課題性」は、確かにある。これに間違いはないし、だから、これからも夏目漱石という作家は古くはならない、その意味で珍しい作家であると思っている。


漱石が西洋から学び取った《近代的個人》は、いわゆる《人格の尊厳》という概念になって日本の法体系にも具体化されている。これが江戸時代より以前の日本と違うところだ。マア、古くてなんだが、遣唐使が持ち帰った中国文化を模倣して作った「大宝律令」も新文明という点では同じような働きをしたのであろうと想像している。戦後日本も同じである。

しかし、上でChatGPTがまとめているように

『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。 

そもそも《我》という固有の実在にも疑いの目を向けているのが晩年の夏目漱石である。自分と社会、主観と客観という二項対立の認識は、特に近代西洋の哲学では当たり前の枠組みとして最初から前提されることが多いが、仏教思想が文化的土台の一つになっている東洋では、《我癡、我見、我慢、我愛》は、人を迷いに導きいれる煩悩の本質としてとらえ、「我が実在しないことを知る」ところから、全てが始まる。

漱石の目は、自我と社会という問題意識から、最後にはもっと高い処へと飛躍したわけである。


最後に、

自分の人生を追求すると、それは家族や他者を傷つける結果になるというのは、その通りだ。

こんなコメントを書いた。そうすると

そうですね。そして私は、そこが漱石の非常に現代的なところだと思います。

近代的な「個人」という考え方を突き詰めれば、自分自身の人生を生きよ、自分の内面的な真実に忠実であれという方向へ進みます。ところが、人間は孤立して生きているわけではない。親子、夫婦、友人、経済的依存、社会的義務といった関係の網の目の中にいる。したがって、自分に忠実であろうとすればするほど、誰かとの関係を壊さなければならない場合が出てくる。

『それから』は、まさにそれを極端な形で実験している小説でしょう。

AIの分際(?)で漱石の現代性を十分に理解している。青春小説とも言える『三四郎』の中で、「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言った三四郎に対して、「偉大なる暗闇」こと広田先生がただ一言、冷やかに「滅びるね」と答える有名な場面がある。この時の広田先生の社会観、文明観、人間観が、『それから』や『こころ』、『明暗」になって展開されていったわけだ。

いずれにしても『こころ』は『門』よりも更に『それから』の終結性を明瞭にもつ。その分だけ『それから』は、社会で生きる発端の問題を扱っており、学校の読書感想文としては『こころ』よりは若い人には読みやすいはずだと思っている。その反対が『明暗』であり、これを読みこなせるには、将来の夢を見ながら学校で勉強しているうちは無理である、というのが小生の読書観である。

AIにここまで書かれてしまうと、それを土台にして更に深堀するには、相当の思考力が求められる。

大半の人は、丸写しに近い編集をして、そのまま提出するだろう。

AIに思考力を鍛えられる階層と、白痴化が進む階層と、所得や資産といった経済力だけではなく、思考や知識といった次元でも、今後は更に二極分化、格差拡大が進むのではないか?

独立した個人と着想によって経済的進歩を実現しようとする古き良き時代の資本主義は、AIの浸透と活用に伴って、生産現場でも消費生活でも、一つの限界を迎える。何より、労働所得から資本所得へのウェイト移動を通して、資本主義が下部構造として機能するための条件が失われつつあると思う。

そんな感想です。

本日投稿は、AIの作品評価から最後は資本主義へと話が飛躍してしまった。これも覚書きということで。

2026年8月22日土曜日

断想: 「直系、直系」とあまり言い募るのもなんだかネエ……という話し

まだ改正してから何か月も経っていないにもかかわらず高市内閣の強引な皇室典範改正は非常に評判が悪いようである。

まあ、確かに数百年の間、傍流であり続けた旧宮家が、いかに「世襲親王家」という特別の血筋であったとはいえ、その辺の事情は現世代の日本人には知識がほとんどないわけである。

今回の皇室典範が、要するに何を含意しているかが明らかになってくるにつれて、社会的な反発が広がるのは無理もないような気がする。

ただ小生は、この辺には割と冷めていて、何度も投稿するが

誰が天皇であろうと、あっしには関りはござんせん

ホンネはこんな所である。

確かに、皇統と縁もゆかりもない御仁が、いつの間にか天皇になるというのは、日本史を汚すものである、とは感じる。これは正直にそう感じる。

とはいえ、皇位継承にこだわりがあるかと言えば、「何か深いご関係でもおありで?」と、そう問いたくなるのだ。

今から14年前にこんな投稿をしているのも事実だ。少し引用しておこう:

いま皇位継承をめぐって女性宮家を創設する方向で話が進み、内親王の称号を与えられるのは今上天皇の直系女子に限定される方向だと憶測されている。上の戦争責任との関連で議論する向きはほとんどないと伝えられている ― 仮に議論されているとしても一般報道には絶対に出てはこないだろう。思うのだが、歴史的にも採用したことが一度もない「女性宮家」までを創設し、そこまでして明治・大正・昭和と続いてきた直系を正統として守らなければならないのだろうか?守らなくとも天皇制は維持できる。

こんな発想をするのは古いと言われれば古いのだが、男子に恵まれず、ついに今の系統が(万が一)絶えることになれば、それはそれで歴史の流れの中で下された<天意>というものではないだろうか?その時には、敗戦後に廃止された伏見宮系統の皇統が皇族に復帰して、新たに正統として皇位を継いでいけば、よいのではないだろうか?明治・大正・昭和と続く、現在の皇統が聖なるものとして、採用したことがない方策をとってまで直系に執着するには、「永遠に刻むに値するような歴史的歩みだったのだろうか?」というか、国民が心からそう願うための倫理的な根拠が薄弱ではないのか。小生、そう思うのだな。ずばり<国を誤ったではないですか>、実際、それが戦後日本の基本的姿勢だと思うのだが。なのに・・・という意味である。

一口に言えば、

何も無理をしてまで、いまの皇統の直系を守る必要などないのではないかという立場になる。

そう思う根拠は、正に上に引用したとおりであって、結局のところ《戦争責任》というキーワードにたどり着く話しなのだと思うのだ。

明治・大正・昭和天皇に至る皇統直系こそが、実は国際協調を支持し、伏見宮系統の皇族方こそ太平洋戦争開戦前の時期に軍人皇族として対外強硬路線(≒日本的戦狼外交)の後ろ盾となっていたことを思うと、いまの状況はいかに《天意》とはいえ、実に《歴史の皮肉》としか言いようがないが、これも表舞台に立ってきた家系が担うべき《業》というものかもしれない。

確かに現在世代の日本人は、日中戦争にも、太平洋戦争にも何の責任もないし、満州事変の歴史的評価とか、上海事件への対応の適否とか、知らなくとも、考えなくともよいことである。

しかし、仮に祖父か曾祖父の親類に世を震わす凄惨な事件をひき起こした人物がいて、世間はそれを今では忘れているとしても、事件の当時に被害者遺族にどんな謝罪をしたのか、その後どんな償いをしたのかについて、全く何の関心も持たず、聞いたこともないという生活態度で生きているとすれば、何かの拍子でそれが話題になった時に、その歴史的無知を非難されても仕方がないと思うし、それは現在の子孫が引き継ぐべき《業》であると思うのだ、な。

世界史においては《忘却の権利》も《忘却の義務》もないし、「赦しはするが忘れず」というのは人類共通のモラルなのだろうと思う。

だから上に引用した投稿の最後は

日本の文化遺産の多くは、天皇と朝廷を舞台にした王朝文化である面が大きいのだが、天皇は国家と一体化してきたが故に、政治の荒波から無縁ではありえない。1945年以後10年ほどの間に ― なるほど日本人の多くは食べていくにも大変であったとは思うが ― 道義の観点からとるべき行動で、何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない。それは後世代である私たちがもう一度真剣に考えてもいいのかもしれない。ま、これが小生の個人的な意見だ。

こんな風に『何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない』と書いたのは、

もう一度よく思い出して、どんな風に過ごしてきたかを調べなおしてみてもいいンじゃない?

ま、こんなことを考えていたことが分かる。

特に「天皇家」になると、日本の歴史に責任を持たざるを得ない立場でもあろうから、あまり「直系、直系」とこだわるのも何だかネエ……と   ―   もちろん、今上陛下も現宮家の方々も、こんな風にはお考えになっておられないはずですが。

そういうことであります。

【加筆修正:2026-08-25】

2026年8月19日水曜日

断想: 「民主主義の文化的DNA」があるのか?

 ニュースポータル"SmartNews"にこんな下りがあった:

日本にとって中国は最大の貿易相手国となっているが、世界のリーダーとなった中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない。著者は中国研究の第一人者であり、バイアスのかからない情報発信を長年、続けてきたことで知られる。日本の将来を考えるなら、絶対に読んでおくべき一冊だ。

評論家・加谷珪一氏が寄稿した『『おそるべき「中国一強」時代』(富坂 聰)への書評の中の1節である。

違和感を感じました。

中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない・・・

《国民的合意 》が、日本と中国との交流に必要なのでしょうか?

中国から日本に文字が伝わり、仏教が導入されたのは、《国民的合意》があったからか?田中角栄首相が北京政府と日中国交回復をしたのは《国民的合意》があったからか?北京政府が中国の唯一合法な政府と承認したのは《国民的合意》をしたからか?

国民的合意とは、これいかに?国会の議決のことか?世論調査の一定割合以上のことか?

こんな疑問もあったりする。


中国と経済取引を拡大する方向は理に適っている。これは中国ビジネスを展開してきた(している、を含む)ビジネスマンなら肌感覚で了解する真理であろう。

高市・現内閣が採っている反中路線は、地政学的、安全保障戦略上の色々な理屈はあるのだろうが、せんじ詰めれば《非合理》だと思う立場に小生は立っている。

その背景として、日本の大衆心理に何となくのレベルで潜在している、対中恐怖心に迎合しようという政略があるのだと勘ぐっている  ―   対米恐怖心なるファクターが語られないのは不思議だが。

民意を重視する政治体制ならば、これは仕方がないが、仮に明治前半期のような文字通りの専制君主制であれば、民意とは関係なく国益上合理的な外交戦略をとれていたに違いない。


先日、終戦時の海軍大臣であった米内光政のことを調べることがあってWikipediaを読んだのだが、こんな下りがあった:

武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は、世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を、批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが、出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで、二百年かかる」と述べたという。

 非常な洞察力だと感じた。この中の

日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。

この部分は今後ますます明瞭に可視化されてくると予想している。


日本は、確かに中国や朝鮮のような専制的な王朝国家ではなかった。山岳地が多い日本の国土は、地域ごとに分立した分権統治、封建体制に自然に向かうようにできていた、と勝手に考えている。

とはいえ、中国文化圏の中にあった日本もまた民主主義や共和制とは縁遠く、世襲を重んじる国であった。これに反し、西洋の古代ギリシア、ローマには、民会を軸にした共和制の伝統があった。というか、そもそもインド=ヨーロッパ語族の源流である古代アーリア民族自体が、民会の議決を尊重する共和制に近い統治をしていた。例えば、Geminiにきいてみると、こんな回答が得られる:

ゲルマン民族、ギリシア人、ローマ人、そしてインドへ向かったアーリア人は、すべて言語・文化的な起源を同じくする「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」に属しています。彼らの原初の社会構造には、確かに「王権の制限」と「戦士(自由民)集会による合議」という、共和政や民主政の土台となる共通の文化的DNA(親和性)が存在していました。

ただし、歴史の進展とともにその親和性が崩れ、専制君主制へと移行した地域も多い。インドに侵入したアーリア系の国家では王権が強く、アーリア系であるペルシアもオリエント社会特有の専制君主制に移行した。インドもペルシアも大規模な社会インフラ整備が不可欠で、ギリシアのような小規模・都市国家が分立する社会構造では課題を解決できなかったのである。

この辺り、挑戦と応戦を繰り返す中で変容・発展する文明社会の生きざまが現れており、トインビー的歴史が鮮やかに伝わってくる一面にもなっている。


振り返ると、日本国では民意に基づいて国を統治した経験は歴史の中で一度もなく、唯一の経験である(かもしれない)戦前期の普通選挙体制(昭和初年以降)では、民主主義的な「政党政治」の運営に見事に失敗し、スキャンダルと派閥抗争の果てに主導権は軍部に渡った。そして、戦後日本が(アメリカが起草した)戦後憲法の下で歩んできたわけだが、少なくともイザナギ景気が終わる1971年(昭和46年)までは、官僚による行政指導と日銀の窓口規制が国民生活を律する官僚主導体制にあったし、その体制があってこそ二度の石油危機をも巧みに乗り越えた(と事後的には言える)。

思うに、日本で《民意》というものが社会の在り方を実質的に決めるようになったのは、つまり日本が文字通りの民主主義社会になってきたのは、2001年から5年間続いた小泉純一郎内閣から後の事ではないかと、小生は勝手に思っている。25年程の歴史である。

つまり

日本で(民意が官僚に優越する真正の)民主主義が実質的に機能し始めたのは21世紀になってからのことである。

こんな社会観をもっているのだ、な。

そして、

あれから25年

路線対立とスキャンダル合戦で議論するべき政策課題はないがしろにされ続けている。

何がないがしろにされているって?

多すぎてもう一つ一つ挙げられません。

他方で、国民生活には(ほとんど)何の関係もない《皇位継承》に執着して、皇室典範の再改正をいまなお声高に主張する政治家があまりにも多い。これもポピュリズムといえば「ポピュリズム」、政治には本当は真面目な関心をもっていない大衆からの支持を増やしたい大衆迎合政治といえば「大衆迎合」と言うべきだろう。

これらは全て日本が再び民主主義運営に失敗しつつあることを示唆する。

ありていに言えば、

日本社会は民主主義の文化的DNAを有していない。

少なくとも、政治についてはハッキリ「ない」と言える。そう思い始めているのだ、ナ。


そういえば、小生が暮らすマンションでも総会があるごとに、白紙委任状による「出席」が出席者総数の7割ないし8割を占めるのが常態だ。雑務は、理事長、副理事長、理事など役員に「お任せ」である。次の総会では管理費の大幅引き上げが議題になる。「お任せ」にはなるまい。が、良案があるはずもない。ここでも実在しない《合意》を探る日本的混迷に陥る可能性がある………。日本社会は、マクロ、ミクロ、各層において、(自律的、独立的な)民主主義ではなく《外圧》、《上圧》、《競争圧》が作用して、初めて意思決定ができる。端的にいえば『これも何かの縁である』、『生き延びることが大事ぞ』、『仕方がない』、こう考えるとき、日本人は組織的に、というか絆を意識する集団として力を尽くす。これが小生の日本人観である。やっぱり「島国」だからネエ⋯⋯


米内光政は、日本の復興には200年かかると予想したが、となると日本社会が次のステージに収束して安定するのは、2145年頃になる。2026年の現在から数えればあと119年。世代でいえば5世代という所であろう。今年生まれた新生児が、まだ何人かは生き残っているかもしれないが、現在時点の「世論」などは100%消え失せている遠い未来だ。しかし、遠いとはいえ徳川家康が征夷大将軍になってから徳川吉宗が家康との血縁の近さを評価され将軍に就くまでの時間だと思えば、それほど遥か先の未来でもない。

どちらにしても、最初の大崩壊である「応仁の乱」では、乱の前にあった荘園制社会から乱の後に出来上がってきた大名領国制へと、本質的に全く違った「ガラガラポンの国造り」が進んだ。同じ理屈で、約100年後の未来の日本になるまで、「ガラガラポンの国造り」の2nd Seriesが進むであろう。1945年の降伏後に支配的になった民主主義の原理と、近世・近代の日本人の国民性として受け継がれてきた社会観や感じ方、思想などが、互いに衝突したり融合したりを繰り返すサイクルが何度も発生するに違いない。リベラルな政策が導入されるかと思えば、保守反動が続くだろう。どちらも言い分はあるのである。

どんな社会構造になって安定するのか分かりません。多分、今とは一変するに違いない。皇居が今のままの姿であるのかどうかさえ、小生は予想がつかない。

おそらく未来の日本人が、夏目漱石や太宰治、三島由紀夫を読んでも、今の日本人が近松や井原西鶴を読んでもどこが面白いか分からないのと同じく、漱石も太宰も三島もどこが面白いかさっぱり分からない、生活感覚的にピンと来ない、そう感じるほどに、未来の日本人は今の日本人とまったく別の考え方、感じ方、しゃべり方をする人間になっているであろう。

この国は「降伏と占領」から始まった千年に一度の大変動期にあり、安定収束までまだ長い時間がかかる。これが最近もつようになった歴史観であります。


いずれにしても、《経済大国・日本》も《GDP第4位の経済強国》も、目に見える経済の回復であって、日本の復興というものではないのだろう。そして、実はこの理屈は現代中国をどう観るかにも通じている話だと思う。

何が実現すれば、日本の復興という名に値するのか?それは未来の日本人が次第に理解してくる(はずの)ことである。少なくとも「戦後日本」は、いま世界においてそれほど「名誉ある地位」を占めているとは、言えないという感覚がある。この感覚もまた戦前と戦後と同じ日本人でどこか違っている所ではないかと思ったりする。

こんな風に想像している今日この頃であります。

【加筆修正:2026-08-21】

2026年8月18日火曜日

ホンの一言: この経済政策は「ケ・セラ・セラ戦略」である

 8月17日付の日経では

上場企業の業績が一段と拡大する。2027年3月期の純利益は前期比14%増と6年連続で最高になる見通し。増益率は期初の5%増から上振れする。インフラやものづくりに欠かせない高シェア製品を手がける企業の成長がけん引する。

来年3月期の純利益見通し、つまり今年度の利益見通しは前期比(前年度比のことか?)14%増になる、と。

先日の投稿では、

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。

と書いた。本年6月の「短観」の回答基準日は6月11日である。

再度、「短観」を確認したが、今年度利益見通しが減益方向であるのは上にあるとおりだ。

フ~~~ム、6月上旬ではまだ減益見通しであったのが、最近になってドンドン強気になっていると言うのか……?一方は上場企業、一方は全国企業ではあるけれど。


景気動向指数の先行系列は、腰の強い景気拡大基調を伝えている。これは事実だ。

なぜ6月の短観では「弱気」の見通しになっているのか?

ただ、「短観」でも業況DIの要点は、大方、次のようにまとめられている:

  • 大企業製造業DI: 前回の+17から+22へ大幅改善(2018年3月以来の高水準)。生産用機械や電気機械などが好調。
  • 大企業非製造業DI: +37へと小幅改善し、好業況を維持。宿泊・飲食や小売などが個人消費の底堅さに支えられた。

気分的には明るいことが伝わっている(と判断されている)。

それにしても「個人消費の底堅さ」ネエ……減税は本当に必要なンですか?


しかし、減益にはなる、と。つまりピークアウト感がある。物価の行方、金利の行方も心配だろう。

何だか定まっていない感じがする。

景気観が定まらないままに消費税率引き下げが断行されるのか・・・これも高市内閣の個性、

理論より断行こそ国民のための政治

こういうことかもしれない。これを《ケ・セラ・セラ戦略》と呼んでいる。

2026年8月15日土曜日

断想: 西洋の哲学と仏道の違いを分ける線?

プラトンは、弟子のアリストテレスより、時代をはるかに先行するピタゴラスに近いところがある。輪廻転生を肯定している所はそっくりである  ―   日本の作家、三島由紀夫はその思想の末流に位置するわけだ。

 

西洋の哲学では古代ギリシアから近代哲学まで、結局のところ

理性によって真理に至るとする合理主義の系譜と、経験によって真理を得るとするイギリス経験論の二つの論争に帰着する

要するに、普遍と個の対立。この問題をずっと(今も)考えていると勝手に総括している。

これに対して、仏道では、物質と非物質との違い、具体的には物質的存在が実は空であること、にもかかわらず一部の物質がもっている(と思われる)生命が輪廻によって生まれ変わり、死に変わるのは、なぜ可能なのか?諸法無我であり、「我」は虚妄であるにもかかわらず、何故に輪廻転生はありうるのか?この問いにずっと執着している印象がする。

本質的に空なる物質と生命の永遠の輪廻はどう両立するのか?

この問題である。

これをメモしておきたい、というのが本日投稿の主旨である。

あとは思い浮かんだ順で。


だからと言うべきか、仏理を勉強しているとき、経験によって真理に到達するという考え方に出会うことは(小生の不勉強のせいかもしれないが)ない。真理に至らないのは、無明、つまり迷いの故であり、迷いは感覚と感覚がもたらす表象に執着しているからである、と。

なので、仏理を貫く発想は、西洋の合理主義哲学と相性がよいと思われるのだが、だからと言ってプラトンの否定する《ドクサ》(≒根拠のない思い込み)が、大乗仏教の唯識論でいう《偏計所執性》とほぼ同じであるかと言うと、ちょっとイメージが違うような気がする。大体、仏道には西洋近代哲学のような

すべての人に共通して与えられている理性と理性の普遍性

という、そうした考え方はないように思っている。むしろ大半の人は凡夫で、迷いのなかで生涯を終える。仏道は精神的な救済があるかどうかで登場するのである。


西洋の個人主義を支える近代哲学と古代インド発祥の仏道は、当然のこと人間観が全く違っている。それでも《イデア》は真の智慧である《エピステーメー》によってのみ獲得されるというプラトンの議論と、《仏智》(≒最高の智慧)によってのみ《円成実性》は得られるという大乗仏教の議論は、同じことを言っているような気もする。

大きな違いは仏道を特徴づける《因と縁》という実体なき関係性のモデルであるのかもしれない。が、これすらもギリシア悲劇の『オイディプス』など、大乗経典にあってもおかしくなく、『観無量寿経』の頻婆娑羅王と阿闍世王の父子相克と阿闍世の救済はその古代インド版であるとも感じられる。

資材もデザインも外観も全く違うが、洋の東西を問わず建築物は柱や壁、屋根や梁という基本単位が部屋を構成し、部屋が集まって建物が生まれる。こんな思考の形式は共通している。古代ギリシア以来の西洋哲学と古代インド発祥にして中国を経て日本で独自に発展した仏道と、どこか相通じる感じがするのも、思考や感覚の基底は実は同じであることを教えているのかもしれない。


プラトン的な宇宙観をもっている西洋の自然科学者は現代でも多いそうだ。そういえばノーベル物理学賞受賞者で『皇帝の新しい心』を書いたロジャー・ペンローズはそうであった。であれば、仏教的な宇宙観と最先端の自然科学者のそれが深いところで共鳴する所があるかもしれない。もしそうなら、そんなやりとり、読んでみたいナア・・・

以上、思い付きのメモ。

【加筆修正:2026-08-16】

2026年8月12日水曜日

覚書き: 足元の景気判断を誰も語らないのは奇妙だネエ・・・

 普段愛読しているブログに足元の日本経済の景況に関してこんな下りがあった:

日本企業の第1四半期の決算発表も8割方終わりつつありますが、概ね好調と言ってもよく、経常利益は前年同月比で25%の上昇となっています。円安に伴う輸出企業の利益増加と思われるかもしれませんが、輸出企業と内需関連企業で経常利益の貢献率を見るとざっくり輸出企業の60%に対して内需が40%となっています。また金利上昇に伴う金融機関の利益が莫大になっており、業種全般に好調を維持していると言えます。

日本経済を見れば絶好調とまでは言わないまでもバブル経済以降、最も輝いている時代に入っているとみています。

URL:https://agora-web.jp/archives/260806204700.html

ところが高市内閣は物価高騰の中での生活支援策として消費税減税を断行しようとする構えだ。つまり

景気は良いが、暮らしは苦しい。

ここから出て来る結論は、

労働分配率が急低下し、企業利益に吸収されている。

こうなるのだが、本当だろうか?

ChatGPTに調べてもらったばかりだが、こんな回答だ:

財務省「法人企業統計」を使った企業ベースの労働分配率(人件費/付加価値)では、2024年度は64.2%でした。2000年度の73.2%から約9ポイント低下しています。 さらに2025~26年の四半期データでも低水準が続いており、内閣府の2026年7月資料では、2026年1~3月期までの推移が概ね60%台前半にあります。

かなり以前に本ブログにも投稿したことがあるが、SNAベースで測ると労働分配率はそれほど劇的に下がっているわけではない。が、企業会計ベースで足元の分配は、かなりな程度、労働所得から資本所得へと比重が偏りつつある。このトレンドに間違いはないのだろう。そして、この背景としてAIの普及、浸透があるはずだという見立ては、前にも投稿したことがある(たとえばこれ)。

「AI革命」がリードする「新たな成長軌道」に日本は入りつつあるのだろうか?

しかし、企業利益が拡大し、労働所得が伸び悩み、結果として労働分配率が下がっているなら、当然の理屈として法人税を増税するという選択肢が検討されるはずだ。ところが、消費税減税の財源として、法人税増税を叫ぶ声がそれほど大きいわけではない  ―   マア、新聞、TVも増税は嫌がるはずなので、故意に触れないだけなのかもしれないが、まさかここまで不誠実ではあるまい。

ただ、景況感がイイと言うのは、内閣府の景気動向指数の動きからも確認できることではある。


Source:  https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

緑色が先行系列、紫色が一致系列で、直近月は本年6月である。図から明らかなように、先行系列は直近のボトムである昨年4月以降、ずっと上昇を続けている。これは景気拡大の腰が極めて強いことを意味している。紫色の一致系列は生産・販売の現状を総合的に伝えるデータだが、多分(?)今後にかけて上昇トレンドを加速するであろう、と。図を見る限り、こんな予測になる。

最初に引用した景況感とも一致するのだが、どうも違和感もあるのだ、な。とにかく日本社会には《明るさ》が欠けている。

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。
これでは法人税率引き上げなど、政府は言い出せないだろうネエ
という状況だ。


一部の人が言う「奇妙な明るさ」は、どこから来るのだろうか?

そもそも内閣府の景気動向指数は、今でも景気判断材料として信頼に足る統計なのだろうか?

「四半期別GDP速報(QE)」を重要な景気指標とする慣行は、ごく最近になってようやく「ちょっとおかしい」と感じ始めたのか、下火になってきたが、毎月の景気動向指数の方は小生も愛用してきた。しかし、これも「ちょっとおかしい」という動きをするようになってきた。

一時的な気の迷いか・・・