2022年1月29日土曜日

ホンノ一言: 日本経済に対するIMFの提案について

 IMFによる日本経済審査が終了し、日本の長期的な経済成長についてこんな提案を示したとの報道だ。主な部分を抜粋して引用しておく:

それによりますと、日本経済の現状について、政府による経済政策の支援により「パンデミックから回復しつつある」とし、落ち込んでいた個人消費や投資が持ち直して、ことしは2年連続のプラス成長となる見込みだとしています。

ただ、足元でオミクロン株の感染が急拡大していることを踏まえて、個人消費への影響など、不確実性が経済の下振れリスクになるという懸念を示しました。

一方、今後の持続可能な成長に向けて、GDP=国内総生産の2倍以上に膨らむ債務残高を減らし財政健全化に取り組むとともに、女性や高齢者が働きやすい環境整備を進め、人手不足の分野で外国人労働者の受け入れを進めるべきだなどとしています。

IMFのオッドパー・ブレックアジア太平洋局副局長は、オンラインの会見で「短期的には新型コロナからの回復に向けた政策を維持すべきだが、その後は、信頼のおける財政再建の戦略を講じ、労働供給の強化や生産性向上を進めていくべきだ」と述べました。

URL: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220128/k10013454111000.html

Source: NHK NEWS WEB, 2022年1月28日 12時14分

足元ではオミクロン株の感染拡大による(日本では特に自粛による消費需要停滞など需要低下を想定したのか?)一時的な下振れリスクを指摘しているが、今後の長期的成長では提案のいずれも総需要創出に沿った内容ではない点が勘所だ。いずれも供給側(及び財政)、つまり商品、サービスを生産、提供する生産主体の改善を指摘している。

先日の投稿にも書いたが、こと日本経済の長期的成長に関する限り、どの経済専門家がみても概ね同じことを言うはずである。


面白いのは、TVのニュース解説では大体が、

賃金引き上げの重要性

ここに力点を置いて解説していたことだ ― というより、IMF提案という固い話題をTVでとりあげることに驚いたのだが。まあ、どう受け取ったのかはともかく、「いいとこどり」でありますナア・・・出演していたレギュラー・コメンテーターが話すには、消費需要を高めるには賃金を引き上げることが必要で、それによって需要増加→成長→需要増加の好循環を実現できる、と。なにやら、何十年か昔に大学学部のマクロ経済学で習った素朴なケインズ経済学を思い出してしまった次第。

ケインズは確かに『一般理論(=雇用、利子および貨幣の一般理論)』を世に著したが、この「一般」は日常会話で使う「一般」という言葉とは意味が違う。高い失業率が持続する現象を説明できない従来型の経済理論よりは「一般性」をもつ理論であるという意味で使われているに過ぎない。ここ日本経済においては失業のために経済停滞が起きているわけではない。ケインズ経済学を使ったからといって長期成長戦略に役立つわけではない。「いつでも一般的に」使える一般理論ではないのだ。

ワイドショーの「分かりやすい解説」に一言、留意点を付け加えるとすると、ただ単に賃金を引き上げれば確かに労働分配率(=労働所得÷国民所得)は上がる。そうすれば消費需要は刺激される。しかし、労働所得が増えたぶん資本所得が減って企業経営を圧迫する。それによって労働需要は低下し、雇用状況はかえって悪化するだろう。設備投資も増えるはずがない。投資が停滞すれば、技術進歩も停滞し、ますます日本の労働生産性は海外に比べて劣化することになる。

なにもしなければ、マルクスも言ったように、賃金と利潤はゼロサムゲームの対象だ。韓国の文在寅政権が断行した最低賃金引き上げ路線がこれにあたる。韓国の政策は一種のギャンブル、経済オンチの政治家による挑戦でもあったが、同じことをして失敗すれば単なる「バカ」だと世界からは視られるに違いない。

企業利益を確保しながら賃金を上げるには、一定の資本と労働を投入した結果であるアウトプット、つまり付加価値合計であるGDPを技術水準を上げることで増やさなければならない。これが生産性上昇であり、経済成長をもたらす主たる因子である。

引用部分の中に太字で示しているように、IMF提案のポイント

労働供給の強化と生産性向上

は、正にこのことであって、経済成長のための条件をまとめているに過ぎないとも言える。

一人一人のスキルをレベルアップし、必要な新規設備投資を加速し労働生産性を引き上げることが、提案の本質だ。そうすれば、事後的な結果として自然に賃金は上がる。

そうなるような仕掛けを作ることが今の政府に与えられた課題なのであって、真っ当な経済専門家なら同じことを、ただ一言、言うはずだ。そのための政策メニューなら税制、規制緩和、戦略特区、etc....多数ある。マスコミは数多くの質問をして『もっと詳しく』などと語らせるから、細部に注意が移り、要は同じ主旨であることが周囲には分からなくなってしまうのだ。『まったく細かくて下らないことに時間をかけて話すばかりで、大事なことは何も伝えていないのが、いまの日本のマスコミだネエ』と、その情報伝達の低生産性ぶりには情けなくなる。

経済政策の目標設定なら、たった一つ。もう専門家の合意は出来ている。

小生はそう観ているところだ。

引き上げに努力するべきは《生産性》であって《賃金》ではない。賃金を引き上げさえすれば良い結果が後からついてくるなら、とっくの昔に賃金は引き上げられている理屈だ。日本経済の現場はそれほど愚かではない。




2022年1月24日月曜日

一言メモ: 「言うだけ」の上と「頑張ろう」という下しかいない、と言うのも不正確か

最近、というより小生が社会人になった時分も同じだったような気がするが、多数の人が口にしたがる台詞がある。声に合わせてガッツポーズを決めることも多い。

頑張ろう!

頑張りましょう!

頑張ろや! 

頑張んべえ!

どこの方言でもよいのだが、この言葉。声掛け。一体何を中身としては伝える言葉なのだろうか?

言葉の意味がハッキリしないとき、外国語でいえば何と言うのか、こう問いかけるのが定石である。とすれば

日本人の「頑張ろう!」を英語でいうなら何と言う?

この問いかけに回答すればよい。まあ、まったく同じニュアンスにはならないと思うが。

ここで、例えばGoogleで翻訳させると

頑張ろう=Let us do our best!

こんな回答が返ってくる。『(さあ、)我々の最善を尽くそう(ではないか)!』。まあ、言い回しは固いが、こんなところかなあ、という気はする。しかし、明らかに言葉のニュアンスは違っている。「さあ、最善をつくそう」などと明からさまに言葉にすれば、「最善ってなにを指すんですか」と逆に詰め寄られて、言葉を失ってしまうのが落ちだろう。日本では、一部のブラック企業を除き、上品な大企業では、特に社会全体としては、日露戦争の日本海海戦や太平洋戦争の真珠湾奇襲の時などごく少数の異例のケースを除き「各員一層奮励努力せよ」などと上から下に「頑張れ」とは言わないものだ。

その代わりに

頑張ろう

と唱和する部下たちの自発的行動を期待するのである。これが日本の現場を特徴づける《円陣文化》である。上が何を言っても、というより何を考えているのか分からないという言うべきだろうが、下は上を受け入れて、身を挺して頑張る。すべてその国の「文明」を具体的に構成するルーティンには、発生・定着の背景、その狙いというものがあるものだ。日本人の「頑張ろう」もその一例であると思う。

小生思うに、国政選挙に出馬した候補者が選挙事務所で一同、こぶしをつきあげ、声を唱和して『頑張ろう』三唱をする情景は、外国でも見られるとはちょっと想像できない。

つまり日本の『頑張りましょう』という言葉かけ、声掛けは、非常に日本的な感性に基づく、日本的な習慣で、日本人の感性の深いところに響く言葉ではあるのだが、外国人がこの辺の感覚を日本人と共有できるかといえば、実のところ非常に心もとないわけだ。むしろ「頑張ろう」というなら、何に向けてどのように努力をすればよいか、その努力目標を統一的かつ客観的に設定し、とるべき行動を法律なり、条例なり、ルールにしてオープンに明示してほしい。そう考えるのが《国際標準》ではないだろうか?

いまもまた

オミクロンは軽症だとか、ステイホームはやる必要がないとか、色々意見の違いがありますが、私たち国民一人一人がこれまで以上に注意をすることが大事であることに変わりはありません。

頑張りましょう!

テレビ画面を通してワイドショーのMCがこんなことを言っている。

思い切って言うが、会社の社内でこんな感性の従業員が結構なリーダーシップを発揮している点にこそ、国内企業の非効率性を温存する主因があるとすら、小生は思っている。

日本は

現場は頑張るが、上はダメ

と、海外ではよく揶揄われているそうだが、因果関係の方向としては

現場は(上の指示とは関係なく)頑張る。故に、上は実質的な仕事を効率的に行わないのである

こちらが現実により当てはまっているかもしれない。上が独立変数で下が従属変数である。たとえ統一がとれていないにせよ、個々の現場は必ず頑張る。この意味では、日本社会は決して「ボトムアップ」ではなく、最も本質的な次元において「トップダウン」の社会である。上が内容空疎な形式、お飾りであっても、下は最大限の努力をして現場を守るのが職務である。上が空っぽであるので、ボトムアップに見えてしまうのだ。

こう考えると、解釈ができる事例が多いように思う。

もし真のボトムアップであるなら優秀な現場は現場を理解する優秀なトップを自ら選出するはずである。しかし、上は上、下は下である社会通念の下では、それは望ましくないと判定される。逆に、真のトップダウンであれば、文字通り「勇将の下に弱卒なし」、適材適所が実現する。日本のボトムアップは日本的なトップダウンを映し出している。

つまり、日本では上は下に何かを言う。頼むことすらする。そして下は下で頑張るのである。

もし「日本病」という判定が国内の現状を的確に形容しているのだとすれば、その原因は極めて日本的な特性にあるに違いないと考えるのがロジックだろう。

上で述べたように、日本社会の苦手科目である《目標設定》。「何をどう頑張ればよいのか」、「何をすればよいのか?」、「何が目標か?」、このような目標設定を曖昧なままにしているが故に、戦略、戦術、行動規範も曖昧なままに置かれる。対外的には最前線が頑張るが、実は上層部の内部では意見の対立を解決できていない。最善の戦略が何かという点で意見がまとまっていない。そんなサスペンディングな状態を《頑張りましょう》という下からの声掛けで風呂敷で包むように包摂して、一種の区切り感、結論感を関係者の間で醸し出している。ま、そんなところかなあ、と思いながら、いまも「頑張りましょう」を聴いていたわけだ。

これぞ《日本株式会社》の社風である。

であるから、「みんな、頑張ろう」というのは、目的とか、行動計画とか、固い内容の協力、分担というのがあるわけではないが、「これだけは最小限、やらないより、やる方がいいに決まっているでしょう」と、そんな合意がある行為については「ちゃんとやろう」、それが「頑張ろう」という声掛けの正確な内容ではないかと小生はいま振り返っているところだ。

つまり、「頑張ろう」と言いながら実際にやることは、主観的な最善を目指す相互確認であって、決して目的合理的な最善の行動計画ではない。というより、なにが最善の計画か、合意は得られていないのである。上に立つ人物の職務とは正にそんな全体合理的な集団行動へと下を導くことであるのだが、そうではない。上が上として行動はしない。上には期待できないという状況下において、下は自発的に何をするか。それが「頑張ろう」である。決して組織的な行動をしようとしているわけではない。そもそも組織行動をとるとき「頑張ろう」などとは互いに言わないであろう。

これが日本独特のトップダウンである。上のありようが先にあって、下のあり方と行動が決まっている。そう認識しているわけだ、最近の世相については。

・・・だとすると、システム障害を解決できないでいる「みずほフィナンシャル・グループ」の社風が

言うべき事を言わず、言われたことしかしない。

こんな「下に対する」批判を金融庁がしたりしている。つまり、みずほフィナンシャル・グループの現場は全く頑張らない傾向にあるというわけで、これは上にいった「頑張る現場」という日本的なイメージと矛盾している。昔は活発で優秀な現場であったのが、今ではダメになったということなのか・・・?

しかし、この問題も

上のあり方が、下のあり方を決める

上から下に向けた方向で因果関係が働いている。こんな見方をとると、見えて来るものはある。

「頑張る現場」すらも形成できず、「言われたことしかしない現場」に変容してしまった原因も、実は上のあり方に原因があった、と。とすれば、トップ・マネジメント自体が不在であったと言えそうである。

ダメな現場は優秀な上が指揮をしなければ全体がダメになるのに決まっている。いまの「みずほ」の現状は、

ダメな現場とダメな上

ということなのだろうか。金融当局はそういうことを言っているのか。

詳しい事は、現場にいない小生には分かりませぬ。



2022年1月22日土曜日

一言メモ: オミクロンを心配するより気が利いたことは沢山ある

世間ではいまオミクロン株感染者が激増している真っ最中である。

昨年末の南ア、欧米諸国の感染動向をみれば、いま現時点の日本の状況はほぼ確実に予想されていたはずで、予想された「暴風雨」が来襲したからと言って、いまさら慌てる必要はなく、分かっていた情報に基づいて粛々と対処すればよいはずである、理屈としては。

理屈はこうなるのだが、今朝もカミさんとこんな会話をした:

カミさん:(不安な表情をして)いつピークになるのかなあ・・・

小生:目安としては2月初めから第1週頃にピークアウトするって予想らしいな。

カミさん:また病院は大変だね。買い物にも行けないネエ・・・

小生:分かっていたことだよ、とっくに。ただ計算違いもあったことはあったなあ。

カミさん:計算違いって?

小生:政府の作戦はサ、世界でも呆れられるほど厳しい水際作戦をしいてサ、まあ鎖国みたいなことをしながらネ、国内にはオミクロンを絶対にいれないってマナジリを決して防疫を徹底しながら時間をかせぎ、その間にブースター接種のワクチンを確保して、2月からは高齢者への3回目接種を進めようって。そんな作戦だったわけよ。だから「ブースター接種を早めた方がいいのではないですか?」っていくら聞かれても「8カ月後から3回目接種を始める予定に変更はない」って、まさに泰然自若。動かざること山の如しであったんだけどネ。アニハカランヤ、米軍基地っていう裏口があって、そこからオミクロンに侵入されてしまった。「シマッタ!気が付かなかった!」って、それであえなく「作戦失敗」サ。いまとなっては「痰一斗 へちまの水も 間にあわず」。正岡子規の心境だろうヨ。なんだか戸板一枚で台風の暴風雨をさえぎりながら、部屋の中の家族に向かって「頑張れ!もうすぐ台風は通り過ぎるから。それまで雑巾で吹き込んだ雨をふくんだ」、お父さんが檄を飛ばしながらやってると、アニハカランヤ、向こうの雨戸を閉め忘れていて、そこから雨が吹き込んで家の中はビショビショだ。こんな感じだネエ。なにかあれだナア、今回の感染拡大劇ってコミカルじゃない?漫画的っていうか。まるで昔のドリフターズの「バカ殿」を連想したよ。

カミさん:そんな風に言っちゃあ悪いよ。みんな一生懸命やってるんだから。でも、ワクチンならあったって、前の河野さんが言ってたよ。

小生:まあ、そうなんだけどネ・・・どこにあるか分からんかったんだろうなあ。

カミさんにくぎを刺されてはいるのだが、やっぱり小生、オミクロン株の特性は既に推測のついている事で、したがって『これこれのことをやれば感染は抑えられる』ではなく、『感染者数が激増するのは確実なので、これこれのことをする』と、発想を逆転させるのが先決だと思われる。ところが世間はデルタ株以前のコロナ・ウイルス対処法と大体は同じ発想で向き合っている。実に《創造力》というものがないなあ、と感じているところだ。「頭が悪いんじゃないか」と言うのは言い過ぎだが、「最初は悲劇として、次は喜劇として」という名句は、いまの日本に当てはまるのじゃあないかという印象もある。

だから、不謹慎と分かっているのだが、つい笑ってしまうのだ。

旧態依然としたTVメディアは別として、ネット上には色々な提案がリベラルな立場から提案されている。小生も最近何度か所感を覚え書きにして投稿している。いまさら付け加えることはない。世間は世間、アッシとはかかわりのないことでござんす。そんな心持ちで、好きな音楽でも聴く方が賢いというものだろう。

で、最近、よく聴いているモーツアルトは、ディベルティメントの15番、それからごく最近はセレナーデ「ハフナー」である。若い時分は、『魔笛』、『ドン・ジョバンニ』といったオペラを3時間をかけて聴いたり、シンフォニーの40番や38番『プラーハ』を集中して聴いては疲労を感じたりしたのだが、そんな聴き方はもうそろそろ卒業かな、と。それでピアノ・コンチェルト、木管楽器の協奏曲も選ぶことは随分少なくなって、自然とモーツアルトが20歳前後に創った喜遊曲や小夜曲を好んで聴くようになってきた。

セレナーデ『ハフナー』については、以前にも本ブログに投稿したことがある。いまひとつピンと来なかったのだが、SONYが出しているJean-Pierre Rampalの"Serenade No. 7 in D Major, K. 250 "Haffner""を、ごく最近、MORAからダウンロードしたところ、にわかにこれまでの低評価をひっくり返された次第。ヴァイオリン独奏者はIsaac Sternである。

婚礼に伴う楽曲としては、メンデルスゾーン『真夏の世の夢』の中の「結婚行進曲」かワーグナー『ローエングリン』の「婚礼の合唱」と相場は決まっているのだが、婚礼を祝う宴の場に最もふさわしいのは、モーツアルトのこのセレナーデであろう。それも全曲1時間ほどを通して聴いてみると実に祝の晩餐の場にはピッタリである。

ネット上でモーツアルト解説が充実しているのは"Mozart con grazia"だが、こう書かれてある:

父レオポルトと親交のあった元ザルツブルク市長ジークムント・ハフナーの娘マリア・エリーザベト(Maria Elisabeth, 1753~1781)がフランツ・クサーヴァー・シュペート(Franz Xaver Anton Späth, 1750~1808)とこの年の7月に結婚することになり、その婚礼前夜(21日)の祝宴のために、行進曲ニ長調 K.249 とともに作曲された。 そのため「ハフナー・セレナーデ」と呼ばれる。 このセレナードと行進曲の自筆譜には父レオポルトによって作曲の目的と時期が明記されている。

ザルツブルク宮廷顧問官のシーデンホーフェンは日記に「7月21日、食後に私は婚礼の演奏を聴きに行った。 これは子息のハフナー氏が妹のリゼルのために作らせたものだ。モーツァルトの作曲で、ロレート教会の庭園で演奏された」と記している。 このとき新婦マリア・エリーザベトは23歳。 彼女は5年後の1781年11月1日に28歳の若さで亡くなる。 余談であるが、彼女の弟ジークムント2世(モーツァルトは彼のために「ハフナー交響曲 K.385」を書いた)も31歳の短命だった。

文字通り、婚礼を祝うための楽曲として創られたのは1776年7月。モーツアルト20歳の年である。 このセレナーデの第6楽章イ長調アンダンテを現代の結婚披露宴の場でそれだけを演奏してもいささかも古さを感じないだろう。

花嫁の薄幸な短命がこのセレナーデの美しさをより際立ったものとしている。

芸術はながく、人生はみじかし。

Ars longa, vita brevis

いまのオミクロン感染が怖いので、行動を規制して、経済活動を抑え込めという見解を世間で声高に主張しながら、その主張がいかに一方に偏し、片方には残酷な意見であるかには気が付かないような狭量な現代日本社会では、もう望むべくもないのかもしれないような広やかで凛とした品格をこの楽曲からは感じる。

そう感じながらも、「いや、まだ、それほど日本は酷くはないはずだ」とも期待する今日この頃であります。


2022年1月19日水曜日

ホンノ一言: オミクロン株で「路線闘争」が激化しているようで・・・

オミクロン株が従来の経験を吹き飛ばす程の感染力で急拡大をしており、WHOは既に春が訪れるまでには全欧州の半数の人が感染するだろうとの予測を出している。この予測は、「いまのままの政策を続けるとすれば」の条件を付けた上での(すべて予測には前提があるものだ)数値であるとは分かっているが、やはり日本人にはこの「半分は感染する」との予測がショッキングであった模様である。なるほど春までに日本人の半分、概ね5千万人ほどがオミクロンに感染する可能性は、いまの時代の日本人なら受け入れるはずがない。「絶対止めて!」というのが多数の支持する世論になるとしてもやむを得ないことだ。

「だから」というべきだろう、日本国内のTVワイドショーなどでは、これをWHOによる「予測」というよりも、「警戒を強めよ」という「警告」として受け止めた兆候がある。欧米ではオミクロン株の特性に応じた社会的戦略を採り始めているのに対して、ここ日本では昨夏のデルタ株流行と終息が成功体験になったのか、再び行動変容を促す従来戦略を採ろうという勢力と、欧米諸国の考え方を採用して従来戦略を練り直そうと考える勢力と、どうやら《路線闘争》が激化しつつある。

この路線闘争、決着がつく頃には「オミクロン株感染の波は通り過ぎました」ということで、意味もなく、生産的な総括をするまでもなく、ただ雲散霧消するのじゃあないかと予想しているのだが、いま現時点では丁々発止と激しくやっているようだ。

先日の投稿でも

海外、特に英米などアングロサクソン系の国では、この辺の基本目標が検査、治療、予防技術などの進化に応じて、政治的にも進化しているのかもしれないと思うようになった。前にも同じ主旨の投稿をしているのだが

最大多数の人々が最大数のコロナ抗体を保有する

こういう目標を前提としないなら、最近の英米両国の政府がとっている政策は理解困難である。ただ、冷静にみてみると、どちらが科学的に正当な目標であるかは自明だと思われる。

こんなことも書いているのだが、英米だけではなく、いわゆる「欧米先進国」がコロナウイルスに向き合う姿勢が、だんだんと《社会経済システムを維持する下で死者数を最小化する》という方向へ政策が収束しつつある。現時点はこんなところではないかと観ているのだ。 

もちろん世界全体を見れば、海外でもその国、その国に応じて、コロナとどう向き合うかという方向付けに、違いが出てくるわけで、その戦略の違いは目標設定の違いが反映される、というのがロジックである。

中国の《ゼロコロナ戦略》と欧米の《社会システム維持という条件下の死者数最小化戦略》とは、明らかに観察するだけでも大きな違いがあるのだが、それは政策責任者が何を目標として設定しているかの違いによるものである、と。これだけは言えるわけだ。そして、この《目標設定》というのが、日本、というより「日本社会」は、最も苦手な課題であって、その苦手振りは戦後日本にとどまらず、戦前期の日本社会、いやもっと遡って明治元年の明治維新の時点からそもそも日本社会の目的は曖昧であった(と思う)。

カミさんが贔屓にしている今朝のワイドショーでは、「常任」のコメンテーターT氏は(どうやら)従来戦略を採り、それに対してゲストに招待されたアカデミック・リサーチャーN氏は欧米先進国で主流となりつつある戦略を(基本的には)提案していた。つまり、具体的には小生も数日前に投稿した「治療の正常化」路線である。若年世代に属するレギュラー・コメンテーターA氏は(年齢が近いと言うこともあるのか)その従来戦略練り直し案に共感を示していたようだ。それに対して、常任コメンテーターは昨年来の主張に沿って、その提案はいまのオミクロン感染拡大中は実行不可であると主張していたのが印象的である。

つまり、要約すると、今朝招待されていたN氏も述べていたが、いま戦略Aと戦略Bがあり、主に恩恵をうける社会階層が二つの戦略の間で異なる場合、どちらの恩恵を重視するか、どちらの損失を重視するかは、その人の価値観による。これは経済学、法学にとどまらず社会全体を議論する時には最重要な前提で、従ってどの戦略がベストであるかは、マスコミは何かといえばそれをゲストに明言させようとするのであるが、その人の《価値判断》によらなければ結論が出せないわけだ。ちょうど治療方法が複数あっていずれにも一長一短がある場合、医師にできることはそれぞれの治療法のメリット、デメリットを説明してあげることだけである、結論としてどの治療法を選択するかは病と闘っている患者本人の感性、理念などによるしかない。この事と同質の問題なのである。どちらが善いかは価値観によるが、しかし、階層ごとに受ける恩恵と損失をデータを活用して実証的に計算して示すことが出来る。比較することができる。本日のゲストスピーカーN氏は、その比較をしたうえで、(個人的には)現行戦略を見直すことに大きなプラスの意義があると指摘をしたわけである。

選択対象になっている政策を議論するとき、何が善いかはそもそもその人の価値観によるのだというこの点をキチンと語るというのは、(研究上の常識とは言え)語っている人物の《誠意と謙虚》の証しであると小生は思っている。逆に、自らの価値観に触れることなく一つの政策的主張を述べ続けることの《不誠実》がTV画面を通して自然と醸し出されていた。どうもこのように(小生は)感じたのだが、視聴者全体としてはどうなのだろう?

ちなみにうちのカミさんは「怖いものは怖い」という価値観、というより感性をもっているので、できれば鎖国をしてほしいと話している。世間には、カミさんのような「普通の人」が多いのかもしれない。その普通の人の価値判断に基づいて採られる政策は、一定の階層に恩恵を、一定の階層には負担をしわ寄せするものである。今では誰もが知っているはずのこの事実を改めて指摘し、これまでとは特性の異なるオミクロン株が出てきたいま、これからもずっと従来と同じ価値観を採り続けていくのですか?そんな価値観が正当であるという価値判断は、今後もずっと変えないつもりですか?とすれば、何が重要で、何が劣ると判断しているのか、それを明らかにするのが誠意というものではないか?

結構、TVのワイドショーにしては、奥が深い問題が提起されたのではないか、と。そう思っている。

そういえば、『バカの壁」の著書としても著名な養老孟司氏が日本経済新聞にこんな短文を寄せている。一部を引用してメモしておこう:

細部を科学的に見ようとすればその分、全体は膨張する。これを「部分を見れば全体はボケる」と表現する。それぞれ目線が違う専門家や官僚、政治家らが集まって議論するコロナ対策の、ちぐはぐさの一端がそこに見いだせる。

コロナ禍では日々発表される感染者数などの統計数字が「事実」として認識されている。こうした現代人の認識も「いわば神様目線である」と疑問を呈す。

かねて「死は二人称でしかない」と述べてきた。一人称の「私」が死んでも、死んだ時には「私」はいない。三人称は「誰かの死」であって、ヒトの感情は動かない。二人称の「知っている人の死」だけが確実にヒトに影響を与える。「数字は、本来は抽象的だ。僕の周りでコロナになった人はいなかった。数字は自分の目で確認した『事実』ではない」と話す。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD033KG0T01C21A2000000/?unlock=1

Source:日本経済新聞、2022年1月18日 5:00

TV関係者は一人一人の視聴者の心に「寄り添う」(=忖度する、≠おもねる)ことが大事だ ― というか、番組制作側としてはそんな意識をもっているのだろう。寄り添ったうえで政策に関する意見を述べることが求められる。一方、公衆衛生や社会経済政策は、たとえ日本一国だけの観点に立つとしても、《神様目線》から決定することで合理性が保証される。

矛盾した観点にたつ人間が、同じレベル、同じ土俵に立って、一つの社会的課題について議論をしても、そもそも収束点に到達できると期待は出来ない。小生もこう思うようになった。これが最近よく指摘される《民主主義》の限界と言われればその通りかもしれない。しかし、例えば共産党が主導する中国のような《権威主義》であっても、やはり限界はあるのだ。どちらの失敗をより重視するか、これもまたその国の国民の価値観によるのである。

いわゆる《正解》はない。こんな「正解なき時代」においては、一定時間内に、時間を気にしながら、正しい解法に沿って計算を進め、(正解があると最初から分かりきっている問題であるので)求められている正解を回答する、その正解の数で合否を決める。このような筆記試験の意義自体が疑問に付されるとしても、むしろ望ましいことだろう。



2022年1月17日月曜日

ホンノ一言: これも「頭が悪くなっている証拠」の一例かも

 またまたカミさんと面白い会話をした。例によってTVのニュース報道を視聴していたときのことだ:

TV: (コロナ新規感染者の増加が見られる中)函館市では今日から高齢者に対する3回目のワクチン接種を始めました。会場である国立病院機構函館病院では・・・

小生: いまいった「国立病院機構函館病院」なんて、なぜこんな持って回った言い方をするのかネエ?昔の「国立函館病院」なんだから、同じ「国立函館病院」という呼び方でなぜダメなんだろうなあ?

カミさん: 正しく言いたかったのよ。

小生: 国立で函館にあるんだから「国立函館病院」で正しいはずだよ。

カミさん: 正式名称っていうことじゃない?

小生: 正式名称ネエ・・・それなら「慶応大学」っていう呼び方は間違っているって話になる。「慶応義塾大学」と呼ぶべきだな。TVの学生スポーツをとりあげるときはよく「慶応大学」って言ってるけど、あれもおかしいということになるなあ。

カミさん: テレビ局に電話したらいいじゃない(笑い)。

小生: そうそう北海道の大学は面倒な呼び方になるよ。今度、小樽商科大学、帯広畜産大学、北見工業大学の三つの国立大学が経営を統合して、「北海道国立大学機構」になる予定なんだけどネ。たとえば、これまでは『国立大学法人帯広畜産大学』が正式名称だったんだよ。それが経営統合後は例えば帯広畜産大学なら

国立大学法人北海道国立大学機構帯広畜産大学

正式な名前はこうなるはずさ。

カミさん: ええ~~っ

統合後も入試やカリキュラムは3大学が独立して進める予定だ。とすると、入試の合格発表でも

今日、国立大学法人北海道国立大学機構北見工業大学で合格発表がありました。

そんな報道の仕方になるのか・・・ やや漫画に近いような気もするが。

漫画的ということなら、徳川3代将軍・徳川家光を正式名称だからといって

淳和・奨学両院別当、氏長者、正二位、内大臣、征夷大将軍、源家光

「これからはこう呼ぶのじゃ」などと文科省が言い始めればどうなるか・・・いや、いや、これを志村けんの「バカ殿」でやってほしかったと思う。


最重要なポイントは生活の利便、簡便な伝え方にあるのであって、法的にどうか、制度としては何が正しいかというのは、職務上それが必要な人間の間で好きにやっていればよいことだ。

簡便な報道を心掛けるという当たり前の視点にたてば、「国立函館病院」で視聴者にはどこのことかが分かるし、わざわざ「慶応義塾大学」と言わなくとも「慶応大学」といえばどこの大学かは分かる。当の慶応義塾大学が文句を言っているわけでもない。小樽商科大学も

国立大学法人北海道国立大学機構小樽商科大学

などと正式名称で報道されれば、かえって

これまでの「小樽商科大学」と同じ大学です

と言いたくなるのじゃあないか。

こんなことは、当たり前のことだと小生には思われる。それが段々と当たり前にはならなくなりつつある。妙に「正確さ」、「細かな点」にこだわって、かえって滑稽なことをやっている。まるで太宰治が『お伽草子』の『瘤取り』で描いた「瘤取り爺さん」のようだ。自分は何をやろうとしているのか、何が大事であるのか、ちゃんと分かっているのか、アタマが悪くなりつつあるのじゃないか。そんな風にも感じる今日この頃であります。

2022年1月16日日曜日

断想: 「きみ、若いナア」には複数の意味がある

 21世紀の序盤という今の時代を特徴づける一つの側面に「若さの賛美」という傾向が挙げられると思う。

小生が若かった時分はこんな感性はなかった。そもそも「きみ、若いな」というのは、この上なくネガティブな警告であったのだ。その当時、信頼できる人物を形容する表現は「あの人は分かっている人だから」という言葉だった。「酸いも甘いもかみ分けた人」と言ってもほぼ同じだろう。

この背景、というより「傍証」と言うべきかもしれないが、小生が若かった頃の大人たち。その人たちは、大体が大正10年代以降で昭和1桁までに生まれた人たちであったと思うが、多くの人が軍国主義の教育を受け、赤紙が来て召集されるか、あるいは昭和18年の「学徒出陣」によって召集された経験をもつ。つまり戦争経験をもっている世代だった、という点が大きかったのじゃないかと思う。

考えてもみたまえ。「戦争」に参加すること以上に、「酸いも甘いも嚙み分ける」ことの重要さを教えてくれる実地教育の場がありうるであろうか?戦争という究極の「現場」では、どんな気の利いた言葉も刻々と押し寄せる事実によって消し去られてしまう。実質を理解した強い言葉だけが言葉として機能する。そんな強い言葉を発するには「多くの経験」が要る。経験に裏打ちされた強い人物は、言葉ではなく、沈黙によってさえ、力を発することができるものだ ― たとえTV画面、いや単なるマイクを通してでもだ。

人は、言葉そのものでなく、言葉を通してその人の中身を知りたいと思うものだ。中身とは真の知識であり、それは経験を通して以外には獲得できない。そこで話は「酸いも甘いも嚙み分けた人」に戻る。

だから、と必ずしも言えないかもしれないが、カミさんの父は東北帝大の法学部に在籍していたが、学徒動員で召集され、敗戦時には中国戦線にいたそうだ。家族は戦死を覚悟していたが、終戦後3年も経ってから骨と皮ばかりになって郷里・松山に生還した時には、みな言葉を失ったそうである。ところが、その亡くなった義父は、生前みずからが参加した戦争について、一切語らなかったそうである。だから義父が経験した最前線の様相を知る人は誰もいない。「武勇談」、「冒険譚」などという言葉とは一切無縁だったのが、戦争を経験した義父の「戦後」であった。ずっと昔のホームドラマの名作『だいこんの花』では「戦友の絆」がドラマを支えていたが、比較的早くに亡くなった生前の義父の暮らしぶりをカミさんから聴いていると、どうも「戦友の絆」などというウケのいい話は戦争を知らない脚本家が創作したフィクションではないか、と。そんな風に思ったりもする。

小生の実父は京都帝大の工学部で応用化学の勉強をしていたため召集は引き続き免除されていた。それに京都は空襲もなかったのだが、そうであっても食料がないのは他の地域とまったく同じ状況であったそうだ。「ある日」と父は言っていたが、実は「頻繁に」であったのじゃあないかと今では推測しているのだが、夜陰に紛れて農地に忍び込んでは芋や豆を盗んでいたそうである。大学の研究室で「合成調味料」なる物を試作しては、盗んできた食物を調理してその日の食事にしていたそうである。この話は子供の頃の小生が聴いても大層面白かったのだが、父から聞いた戦争中の話しはほぼこれだけである。京都で送っていた下宿の生活、家族との連絡、友人たちとの交流など、そんな雑多な話題について父が思い出を語ったことは、愉快な話はもちろん、辛かった経験も含めて、語ったことは一度もない。

父が盗んだ農作物について、話した以上に詳細を語らなかったのは、それが決して名誉なことではなく、やむを得ないとしても、犯罪であると自覚していたからであろう。人の物を盗むという行為は決して「愉快な思い出」にはならない。むしろ「恥ずかしい思い出」になる。父の心情を今になって憶測したりしているのだが、まさに『羞悪(しゆうお)の心は義のはじめなり』という孟子の名句のとおりである。父が盗んだのは芋や豆だけであったのだろうか?盗んだだけであったのだろうか?そういえば、カミさんの義父が最前線の思い出を一切語らなかったのは、語るべき何ものもなかったからに違いないが、語ること自体が余りにも辛かったからであるかもしれない。

実は、小生も10代の頃の自分についてはカミさんにもあまり話したことがない。当時は、父が担当していた仕事に行き詰り、今でいう「鬱病」が酷くなった頃だが、小生もまた在籍していた高校の雰囲気がマッチせず、意欲を失った漂流感に心を苛まれる状態になってしまった。なので、10代後半、輝くような予感を人生で初めて感じることも可能な年代に、小生は何事も為しえなかった。その頃の無力感は思い出したくもないし、語りたくもない、そんな心理がずっとあったのだ。ところが、最近になると、20代の頃の自分、30代の頃の自分と、ずっと後の時代を振り返るのは平気なはずが、むしろ過ぎたばかりの時点においては「愉快だった思い出」、「誇らしい思い出」であったはずが、いまになってその頃を思い出すと「為すべき事を為しえなかった」というあからさまの事実が明瞭に認識され、とても「懐かしい思い出」などとは言えなくなってきている。無力であった自分、人を傷つけるばかりであった自分、自分を救うことに精一杯で人を助けるなどは全くできなかった自分が修飾なしのありのままの自分自身であった・・・。《知りたくなかった事実》は、いずれ自分に分かる時が来る・・・スケールは小さいが『オイディプス』のプロットは小生にも当てはまっていたわけだ。

そして、小生ほど些末なレベルではなく、もっと深刻な内容においてカミさんの義父も「思い出したくない自己自身」を自覚していたのではないかなあ・・・と、今では思ったりしているのだ。

しかし、思い切って開き直るのだが、思い出したくない過去を自覚している人間こそ、『酸いも甘いも嚙み分けている』人間達であって、そんな世代は何も始めてはいない人間達に示唆や助言を提供する方がよいし、社会全体が進んでいく方向にも関係する方がよい。

小生には、やはり、こう思われてしまう。

行動は若い世代の領分だ。しかし行動が思い出したくない過去で終わるのはつらい。「反省」と「後悔」を知っている人が傍にいるのは良いことだ。

成功するには、どうしても失敗を知っておくことが不可欠なのかもしれない。

だから「いま」という時代を特徴づける「若さへの賛美」は、知らないことへの賛美、知ることが少なく、ただ目的に殉じるという純粋な行動を賛美する姿勢にも思われ、まさにこの感性こそが、戦争中に若い世代を躍らせた上層部の世代による「政治的奸計」にも相通じるものがある・・・。

そんな意味で、「若さへの賛美」といういま流行している態度は、真に責任を負うべき上層部の世代の「無責任」という実質と裏腹の関係にある。

そう思ったりしているのだが、ともかく旧世代、新世代、どちらであっても目を輝かせながら思い出を語れるというのが、幸福であった人生の一つの証であることは、どんな歴史を辿るにしても言えることであろう。


2022年1月12日水曜日

ホンノ一言: コロナの第6波は「もうやって来た」のじゃないかと言う話し

今の時代、《話業》、《話芸》の主舞台となると、もはや落語や漫才というよりワイドショーということになるのじゃないかと思われる中で、今夕も某ワイドショーをカミさんと一緒に視ていたところ、やはり「言葉の仕事師たち」であるせいか、面白い表現が耳に入ってきた。『(コロナ感染の)第6波が現実のものとなりつつあるいま・・・』、こういう言い回し。思わず感心した小生、カミさんに話しかけた:

小生: 「第6波が現実のものになりつつあるいま」ってサ、なんでこんな持って回った言い方をするのかなあ。「第6波がやって来たいま」ってシンプルにいえばいいのにネエ。この「現実のものになりつつある」って、なぜ進行形にするの?一体、こんな台詞、誰が思いついたのかナア・・・

カミさん: そうだね(笑い)

小生: 大体、第6波はもう現実だよ。マスコミもそう言っているじゃない。だから政府も対応を急いでいるんじゃないの。「現実のものになりつつある」ってサ、どういうことなんだ。「第6波がやって来つつあるいま」なんて可笑しいだろ。まだ現実のモノにはなっていないってことかなあ・・・

カミさん: もっと増えて、収まり始めたら、やっぱり第6波だったって分かるんじゃないの?

小生: フ~~ム、確かにねえ、そう言えば2020年の初めにサ、新型コロナが中国から広がり始めたころ、WHOのテドロス局長は『パンデミックという言葉を軽々しく使ってはいけない』って言ってたっけネエ。それがイタリアからフランス、イギリス、アメリカまで段々と広がってくると、『これはパンデミックと言わなければなるまい』って、エラク呑気な話をしていたよナア。火がボヤのうちは『火事などと軽々しく言ってはいけない』、それが屋根まで炎上したあとで『これは火事と言わねばなるまい』、それに似ているねって笑ったっけ。

カミさん: そうそう。だから「第6波が来た」って軽々しく言っちゃあダメなんだよ。

小生: なんだか官僚みたいな感覚だネエ。マ、TV局なんて、官僚と似た感性だろうネエ。現場から離れた東京の都心にいて、正味で一体なにがプラスの仕事なのかよく分からないしサ、それで以てそれなりの収入をもらっているところなんか、役人とよく似てるよ(笑)。

カミさん: そんなこと、普通の人は言わないヨオ。「憧れの職業」なんだよ。

小生: へえ~~~

・・・で、マア、この辺でこのおしゃべりは、これ以上展開されることなくして終わったのだが、最近は政治家の記者会見ばかりじゃなく、TVのニュース解説でも「ひょうたんナマズ」のような捕らえ所のない、輪郭がハッキリしない、色々な意味に解釈できるような、両論併記のような話の進行振りが増えている印象がする。

それにしても、小生が10代の頃には《話芸》といえば落語家、漫才師、講談師など文字通りの《噺(ハナシ)家》と相場が決まっっていた。舞台俳優、映画俳優もセリフ回しで自己表現をするのだが、ドラマ表現のための素材は「言葉」ばかりではなく、「表情」、「所作」もあり、「沈黙」や「間」もまた何かを伝えるには有効なツールであったりする。なので、まさに「言葉の職人」というと、やはり落語家、それも身振りや表情をおさえ、枯淡な声で話しだけを聞かせる江戸風の真打・落語家が「話業」に従事する専門家としては最も価値がある。そう思っていたのだ。

21世紀になってからは、和風の「噺家」はすっかり勢いを失って、「話業」といえばスーツを着てTVスタジオにドカッと座って話す(か、立ち話をする)ワイドショーMCに代表されるようになった。毎日刻々と入るニュース素材をどんな言葉で表現するか、おそらくキチンとした脚本は作成されていないものと想像しているが、しかしMCやコメンテーター達の発言を注意深く聴いていると、確かにそこにはプロットがあり、ストーリーがあり、何かを訴求しようとしている。つまりそこには演出がある。監督であるプロデューサーの演出の下で「話芸」として成立させている。そう感じるのだ、な。

だからこそ、落語の『寿限無』や『目黒のサンマ』ではないが、言葉の洗練には気を配ってほしいのだ。

「あぁ、これ、きんや、また目黒などに参りたいな」

「ははっ目黒は風光明媚な場所につきまして」

「いや、風光などはどうでもよい。この前行った時に出て参った、あの黒やかで長やかで、美味なる魚、さんまを…」

この『黒やかで、長やかで、美味なる魚』という表現が頭に浮かんだ時、そこには表現技術上の「創作」があった。「笑い」を誘う、新しい表現技術があったわけだ。

こういう目で、ワイドショーを視ているとネエ、なるほど「江戸の寄席」が「東京のTVスタジオ」になったのは仕方がないにしても

第6波が現実のものになりつつあるいま・・・

 これは、聞いていて耳ザワリであるし、そもそも「不正確」であると思う。

2022年1月9日日曜日

断想: 民主主義には「熟議」が大事だというが・・・

いわゆる《言論》とは何だろう?

自分の意見をオープンな場で公表すれば、それが「言論」ということになるのだろうか?

そうは思っていない。

医者の診察でも"Second Opinion"を聴く機会は誰もが当然に持っているものと考えるのが常識だ。

研究結果を公表する論文投稿でも、レフェリーによる審査があり、匿名のレフェリーによる質問や問題指摘に返答、反論したり、再計算する作業が不可欠で、それを経て初めて採択、公表される。学会発表でもまったく同じで、話しっぱなしで済むはずがなく、聴衆の質問や批判にどう答えるか、その回答ぶりによって報告自体の信ぴょう性が決まるのである。そもそも古代ギリシアで生まれ、今なお古典として読み継がれている著作の一つにプラトンの哲学書がある。哲学の書籍としては、史上最初のまとまった著作だと小生は思っているが、ほとんど全て「対話形式」、いわば「戯曲形式」、「脚本形式」で書かれている。師であるソクラテスが、実際のところ、どんなことを考えているのかを、相手の批判や反論に応えるその答え方を通して、理解していくわけである。ソクラテスの弟子であるプラトンはそんな形式で意見を発表した。

そもそも国会の委員会審議は対話形式である。それが真の意味で「対話」になっているかどうかは別として、表面的に、形式的に、言いっぱなしではなく、明らかに「対話」という形をとっている。

《言論》は単なる「意見」や「提案」とは違うはずだ。批判・反批判の応酬を経た結果として決着まで持っていくことが要点だ。

言論による決定の反対概念は「腕力」、つまり「武断主義」である。

腕力ではなく、言葉の応酬で決着をつける。これが「言論重視」であって、民主主義には不可欠の基盤である。故に、武断主義は非民主主義的である。「言論」とはこう理解するべきだろうと今は思っている ― 議会の多数派が「数の力」で押し切る議会運営をどう理解するかという問題はある。社会における言論による結果が議席となって現れるとする見方もあるだろう。そうではなく、議会は「言論の府」であるべきだと考える伝統的立場もある。

ところが、マスメディア(新聞はもともと一方向的なメディアなのだが)ばかりではなく、最近は"Yahoo! Japan"、"Facebook"などネットの情報サイトでも同じようになってきているが、余りにも一方的発言、一方的投稿、一方的コメントが多いと、ごく最近になって感じるようになった。これらも「言論」の一部を構成するのだろうか?

パネル形式のニュース解説番組も同様だ。パネリストは振られるごとに色々と発言するのだが、他のパネリストと異なった意見を述べるでもなく、互いにディベートをするでもなく、コーディネーターと丁々発止対話をするわけでもない。何かどこかの縁台に腰かけて、勝手におしゃべりしている雰囲気の番組が多い。これでは、どんなことを言いたいのか分からないし、その時語られた言葉だけで表面的に聞いておくしか聴きようがないというものだ。非常に「お気楽」であって、力が抜けている。

メディアが放送しているから、これも「言論」ということになるのだろうか?

一言で言えば、現在のマスメディアの現場は

余りにも底が浅い。言いっぱなしで表面的である。左の耳から入って、すぐに右の耳から抜けていく。

* 

『熟議が大切だ』とよく言われるが、おそらくコロナ対策にしても税制にしても社会保険料引き上げにしても、「会社」や「役所」などの職場では、話題になることもあるのだろう。しかし、職場のやりとりは所詮は「仕事つながり」である。日本の社会の中で、どの程度まで「熟議」がなされているのか怪しいものだ。

親しい会員制の《クラブ》も近所の《パブ》もなく、友人同士の《ホーム・パーティ》も(一部の人々を除いて)ごく稀で、《たまり場》も《居場所》もない日本社会の大人たちが、どこでどう《熟議》を繰り広げればよいのか、甚だ疑問である。そういえば、最近のコロナ禍で「かかりつけ」という言葉を頻繁に聞くのだが、そもそも日本には「かかりつけ医」という制度はなく、患者のほうが「かかりつけ」と思っていても、相手の医者の方は「受け持ち患者」とは思っていない。そんな患者がいることさえ忘れている。そんなケースも多いようで、これまた「熟議」と同じく、「言葉だけ」で実体が伴っていない。

小生の亡くなった父が社会の現役であった時代を思い出すと、言葉は少なかったが、実体はしっかりとあった。言葉上手は軽薄な才子、力量のある人物は口よりも体を動かす。そんな価値観、人物観が定着していた。

いつから日本は言葉重視の国になったのだろう?

戦前期の日本社会のように、村には《寄合》があり、若衆には《青年宿》があり、女子衆には女子衆で《結?》や《家内工業》の助け合いがあった社会の方が、旧い身分制の名残がまだあったにせよ、はるかに多くの《熟議》の場があったことだろう。しかし、現代の日本人はいま日本は平等で民主主義的で、戦前期の日本は不平等で非民主主義だったと思いこんでいる。

こんな思い込みは余りにも表面的だろう。小生が祖父や祖母から聞いた戦前日本の世間はそれほど非民主主義的ではなかった。「兵役の義務」があったから非民主主義的であったというのは非論理的である。大正14年(1925年)に普通選挙が実施されるまで日本は非民主主義的だったという人も多いが、森鴎外や夏目漱石の小説を読んで非民主主義的な暗さを感じることはほとんどない。そもそも「民主主義的」かどうかという切り口と、「平等か」という切り口は、本質的に異なった問題なのである。そして、本稿のテーマは、民主主義には不可欠のはずの「熟議」のことである。熟議とは、どこで、誰が、どのように、というのがテーマだ。

いつから日本は熟議が大事だと言い始めたのだろう?

日本は民主主義陣営に属するとしきりに言われるが、民主主義の実体が現在の日本社会にどの程度まであるのだろう。一方的に上から(?)話される「言葉だけ」の事柄が余りにも多い。「言葉」と「実体」の間の乖離が以前よりも大きくなっている印象をもつ。日本の民主主義というのは言葉のうえだけではないのか。本当に「民主主義」をやっているのか?単に「専制君主」が日本にはいないというだけではないか?そう思う時がある。


2022年1月8日土曜日

断想: 不良債権処理とコロナ感染対策

最近のコロナ感染対策をめぐる議論をフォローしていると、1990年代から2000年代にかけて文字通りの「論争」が繰り広げられた問題、つまり「不良債権処理」のことを思い出してしまう。

1990年代初頭に「バブル景気」は崩壊したのだが、想像もしなかった地価急落が焦げ付いた銀行の巨額融資の担保価値をも毀損し、日本国内の銀行部門全体の経営不安が大いに高まることになった、そういう問題である。

その解決をめぐり、当時、二つの陣営に分かれて路線闘争が展開された。一つは「ハード・ランディング路線」、もう一つは「ソフト・ランディング路線」である。ハードランディングとは、返済困難となった不良債権をバランスシートの借り方からブックオフ、つまり資産計上から削除する。と同時に、特別損失を計上し、貸方の資本が同額だけ毀損されたものとして会計処理する。資本が必要以上に毀損された金融機関については、公的資金を投入するか、健全な他の銀行に吸収合併させる。不良債権の融資先は、こうした処理によって追い貸しを停止されるので、当然ながら倒産(=民事再生法の適用申請)するわけだ。債務返済はその時点で止まるから、連鎖倒産も発生するであろう。しかし、倒産して市場から退出するべき企業、銀行を強制的に退出させることによって、ゾンビ企業を生き延びさせるための資金投入を停止し、成長分野に資金を回すことが出来る。これが「ハード・ランディング」の狙いである。それに対して、ソフト・ランディングとは、その当時「漸進主義(=グラデュアリズム)」とも呼ばれたが、基本的には強制的な不良債権処理は行わず、倒産企業も増やさず、毎年徐々に(=漸進的に)不良債権を償却しながら、マクロ経済的な成長の復活を待つという戦略であった。

1990年代に総理経験者としては戦後初めて大蔵大臣に就任した宮沢喜一蔵相だが、

ハードランディングなら誰でも出来る。政治家はあらゆる工夫をつくしながらソフトランディングを目指すべきだ。

こんな風に語ったことがまだ記憶に残っている。同蔵相はそもそもバブル崩壊直後の時点で公的資金投入の必要性を認識し、そのための政策的枠組みを整えようと努力したのだが、国費(≒国民の税金)を失敗した銀行救済のために投入することに、国民は大いに反発し、最も有効な時点で最も有効な政策を実行することができなかった。好機を逸した。まさに政治の職人・宮沢蔵相の忸怩たる思いが伝わってきたことを覚えている。

結果としては、1997年の山一証券倒産、拓銀破綻、翌年の日本長期信用銀行破綻と「金融パニック」の局面に突入し、日本の不良債権処理は — 望むところではなかった点が太平洋戦争開戦と似ているが ― ハードランディング路線を(覚悟の上ではあったはずだが)歩むことになった。

ハードランディングを敢えて採ることによって日本経済は奈落の底に沈んだ。その後、ダイエー、カネボウ、そごう、サンヨー等々、戦後日本を代表する企業が相次いで消え去っていったが、本当に消えなければならなかったのか、掘り下げた研究はまだまだ続けられるだろう。日本の「不良債権問題」の最終的解決には、小泉政権の下で「りそな銀行」の延命が容認されたことが、不安に満ちた当時の社会心理に明かりをさし、意識の転換をもたらしたことが一つのモメンタムになった。いわば「区切り感」である。そんな印象をもっている。

ロジックとしてはハード・ランディングが正しかったが、実際にはハード・ランディングによって問題は解決されなかった。

小生はこう認識している ― というより、そう記憶している。

コロナ禍に入って2年が経過した。

確かに「新型コロナ・ウイルス」は日本社会の脅威である。しかし、「コロナ」は日本社会が直面している多くの問題の中の一つであることも事実だ。

一定の原理、前提からロジカルな解決策を、専門家と言うのは常に提案するものだが、専門家は提案に対して責任をもつことができない。おそらく責任をもつ意志もないのではないだろうか。

「参謀」は提案することが職務であり、「司令官」はその提案を採用するかどうかを判断し、結果に責任をもつ。

理論と実行と。この辺の職務分担は、感染対策でも外交でも経済政策、企業経営でもまったく同じはずだ。すべて組織運営にあたっては、トップがトップの考え方のみに基づいて、意思決定されるわけではない。「トップ」とは「責任」の所在のことである。

現時点で世界で感染の急拡大が続いているオミクロン株にどう向き合えばよいかで日本の方針はまだシッカリと定まっていない様子だ。無症状ないし軽症が多い印象があるが、高齢者が感染したときのデータがまだ少ないという指摘がある。それで日本政府は世界でも珍しいほどの厳格な入出国管理を継続中である。(こう言ってはなんだが)『羹に懲りてなますを吹く』のきらいがないでもない。他方、安倍元総理は、コロナを感染症法の5類に指定替えすることを提唱している。5類になればインフルエンザと同じ診療体制になる。反対に、分科会の尾身会長は『今回も緊急事態宣言は理論的にはありうる』と語ったよし。

さて、このオミクロンの《路線闘争》どうなるか・・・?

図らずもいま、中国でも路線闘争が展開中である。「コロナ」をどうするという(些末な?)問題ではない。1978年に鄧小平が始めて以来、一貫して採られてきた「改革開放路線」をどう評価するのか、という本質的な問題である。確かに経済的に豊かにはなったが、共産主義の観点からみれば「堕落と退廃の40年」とも言えるだろう。中国はコロナに関しては「ゼロ・コロナ」を基本戦略としている。その戦略を支える医療・検査基盤、法制度を有している。同じ「路線闘争」でも、日本と中国とはずいぶんスケールが違うようで・・・と感じるのは小生だけだろうか。


ロジックは、必ず一定の前提に立つ。その前提を説明することは、多くの場合、スキップされ、結論のみを主張する専門家が多いものだ。「コロナ対策のハード・ランディング(?)」である「緊急事態宣言」も同じだろう。『理に適っている』ことばかりを評価するのは禁物だ。それは不良債権処理のハード・ランディングが理には適っていたことと同様だろうと感じる。

2022年1月6日木曜日

一言メモ: コロナ感染対策の目標、今のままでイイんですかい?

今日もまたコロナの話し。インフルエンザのワクチンだって、ほとんど打ったことがなく、ウイルス型肝炎にいつの間にか感染していたことが後になって検査で分かり「そうなんですか!?」と驚いた小生、新型コロナだけを何故こんなに話題にせざるを得ないのか。それは日本社会全体でコロナばかりを報道テーマにしているからでもある。世間で騒がなけりゃあ、いま暮らしているのは北の小さな港町のことだ、世の喧騒とはほとんど関係ない。仕事や暮らしで多くの人が街中をのんびりと歩いている。戸外であるのにマスクをしてメガネを曇らせている。それでもマスクを外さず、義務であるかのように歩いている。こんな日常生活に日本全国ベースのコロナ報道などはまったく不必要。世間で大騒ぎしなければ、このブログにコロナの事を書くにしても、これほど頻繁なはずがない。実際、2010年代になって毎年の季節性インフルエンザを死因とする死者数は年を追って増え、2019年には3500人を超えるに至った(2020年はコロナ禍で減少)。それでも世間は「インフルエンザ死者増加傾向」に関心を示さなかった。

今日もまたコロナのことを書いている。第6波が来たと何回聞いただろう。確かに大変ではある。しかし正にここに、今の日本社会の高齢化がもたらすフィジカルな弱さを自覚するからか、メンタルな不安があるからか、ともかくそういう現代性があると思っているのだ。

コロナ感染対策の政治目標だが、どうもTVのワイドショーなどを視ていると、2020年初めに国内感染者が確認されて以降、ほぼ2年間、ずっと変更なく、日本人もまた同じ感覚を持ち続けてきたのじゃあないか。つまり

新規感染者数の最小化が最善の政策

要するに、これだけではないか。だから先ずは水際対策を第一に求める。人的交流を絶って鎖国しようとする。しかし同時にこれでは国内の生産活動を甚だしく毀損するので、この間、多くの日本人がずっと葛藤をいだいてきた。状況はこんなところじゃないかと観ているのだ。

海外、特に英米などアングロサクソン系の国では、この辺の基本目標が検査、治療、予防技術などの進化に応じて、政治的にも進化しているのかもしれないと思うようになった。前にも同じ主旨の投稿をしているのだが

最大多数の人々が最大数のコロナ抗体を保有する

こういう目標を前提としないなら、最近の英米両国の政府がとっている政策は理解困難である。ただ、冷静にみてみると、どちらが科学的に正当な目標であるかは自明だと思われる。

抗体を保有するには、ワクチン接種と自然感染の2経路がある。本来、自分の命をいかなる方法で守るかは、自分自身の意志が鍵となるはずだ。これが現代民主主義社会の基本原則だろう。だから、ワクチン接種は義務化しない。これが今の基本的な考え方だ。自然感染したら治せばよいし、それでよいと考える人も相当数いるはずである。かかっても軽症で済ましたいなら、正にそのためにこそ予めワクチンを打つのである。ワクチン接種の目的対象は社会状況の改善ではなく、接種するその人の命であるわけだから、接種するかどうかも個人個人の選択に任される。これが基本的ロジックであろう。

もしも社会全体として《公益》の視点から、新規感染者数を最小化したいなら、

  1. ワクチン接種を義務化する
  2. 検査を強制化し、陽性の場合は隔離を義務化する

この二つを併用するのが最も強力、かつ効果的であることは、わざわざ立証するまでもない。 しかしながら、個人の自由(≒その人の幸福)と公益との両立を図ろうとするなら、ワクチン接種の義務化も、検査の強制化、隔離の強制化も、公権をもった政府は控えるべきである。これが旧西側諸国で共有されている価値観であって、一口にいえば、これが《民主主義》であるというわけだ。アメリカのバイデン政権は《リベラル》であるから、ワクチン接種義務化に前向きだが・・・

戦後日本もまた民主主義国であり、旧西側陣営に属する国である。とすれば、新型コロナにとどまらず、あらゆるパンデミック現象においてカギになると思うのだが、基本的な政策目標が他の民主主義国と大きくずれるという理屈はないはずなのだ。日本もまた、政策目標を適正な内容にシフトさせていけば、実行する感染対策も近しい海外諸国とシンクロさせることができ、日本国内のニュース報道も外国の動向とほぼ同じ視点に立つことができる。そうすれば、国民の視野も広がり、より客観的、科学的になり、ひいてはビジネス、進路選択など広く日本人全体の活力の向上にもつながっていくだろう。

コロナ禍の中で、国民全体が苛立っているのはどの国でも同じだろうが、ここ日本では日本社会が求める目標と、目標を実現するうえで有効な政策、政策を裏打ちする社会理念が互いに強く矛盾し、その矛盾をうまく整理することができない。だから感染の波が来るたびに、求めること、有効な政策ツール、社会理念の矛盾に意識が向かい、解答がない閉塞状態にイライラとする。だから、メディアもこのところ何だか頭が混乱しているようだ。もちろん、混乱しているのはメディア編集局の頭の中であって、ロジックの方はもうそろそろスッパリと通すタイミングだ。欧米流民主主義の基本ロジックの通りに実行していくのが戦後日本が置かれた立場だろうし、その立場から別の立場に移る願いは日本社会にはないとみる。

となれば、感染者数の最小化という目標からは、そろそろ卒業するべきであろう。すこし前に投稿したが、「治療の正常化」が最大多数の日本人がいま望んでいることであるような印象をもっている。

それにはまず、町のお医者さんを含めた全ての医療関係者が「コロナには罹りたくないなあ」という願望を持たないことが必要条件(十分条件ではない)の一つであろう。

いや、いや、思わずそれがしの存念を一方的に書いてしもうた・・・。ご容赦なされよ。



2022年1月4日火曜日

ほんの一言: 今年の箱駅駅伝に想う

読売新聞がバックアップする箱根駅伝をTVで観戦するのが、ここ30年程の習慣である。ちょっと調べてみると、TV中継が読売系の日テレでスタートしたのが1987年の第63回だそうである。しかし、それより以前、小生が岡山県に出向していた1984~85年当時も、夫婦二人でTV観戦していた記憶があるのだ。そのときの情景も、正月三賀日の休日をのんびり過ごしていた心持ちもよく覚えている。すると、更に調べていくうちに、こんな説明がWikipediaにあった:

日本テレビが中継を始める前の第55回(1979年)から第62回(1986年)までは東京12チャンネル→テレビ東京が箱根駅伝の中継番組を放送していたが、1月3日12:00 - 13:54の録画ダイジェスト放送(ゴールは生放送、中継を開始した1979年は13:25 - 14:10に放送)であった。

してみると、あれはテレビ東京であったのか、と。そう思ったりするのだが、その頃の岡山市で東京12チャンネルの放送を視聴することはできたのか、という新たな疑問が湧いてきたりする。記憶の中では、順天堂大学が何連覇かしたはずだが、岡山在住時であったはずの60、61回大会(1984、85年)の優勝校は2回とも早稲田になっている。順天堂は次の62回大会から4連覇を達成している。どうやら、順天堂の箱根駅伝全盛期は岡山から千葉県・柏市に転居したあとのことであるようだ。「そうか・・・あれは岡山にいた時のことではなかったンだなあ、柏に移ったあとか・・・」と。

どうも、記憶というのは、何枚かの過去の情景を並べ直すような作業だから、時間的な継起が正確ではない。 

それはともかく、

今年の大会は青山学院大学の完勝で終わったが、例によって、本日のTVワイドショーではその話題で持ちきりである。

上の愚息はとにかくスポーツ観戦が大好きなので、何でもよく知っている。

愚息:駒大で8区を走った選手。持ちタイムではダントツなんだけど、秋に太腿を骨折したばかりだから、無理だったみたいだよ。

小生:8区というと、持ちタイムでは圧倒的に劣勢だった順天堂大学の選手が、逆に途中からスパートして、そのまま走りきって区間賞をとったヤツだな。

愚息:あれは、想定外というより、心配していたことらしい・・・

小生:多分、優勝を狙って賭けたんだろうなあ。でもな、それは大学のスポーツでは邪道だと思うネ。大学のスポーツは、要するに「体育」なのさ。勝って何か得すること、学生だからカネじゃあないだろうけど、何か欲しい物があって、それで頑張るなら、それはもうプロだよ。学生スポーツとしては邪道だな。色々選択がある中で、わざわざ大学でスポーツをやるっていうのは、運動をして身体だけじゃなくて、精神というかな、メンタルも強くする。これ以外にはないだろ?学校のスポーツの目的ってこれしか本当はないはずなんだな。そのプロセスでもし優勝するとか、表彰台に立てるなら、これはご褒美だし、そんなイイ思い出を作れるのは、神様からのプレゼントだ。でも、大学スポーツの目的は、あくまでも体と心を鍛えるということだから、勝つために出場して骨折した箇所をまた悪化させるというのは、結果からいうと「学生スポーツからの逸脱」ってヤツにあたるな。

愚息:監督は優勝したいだろうけどね

小生:これが相撲の照ノ富士だったら、これはもう「体調のいかんにかかわらず、横綱たるもの、カネをもらう以上は、お客さんの前で恥ずかしい相撲は見せられん」ということになるンだけどネ、学生にそれを求めるのは教育にはなっちゃあいない。4年走って、卒業したときには足が壊れてました、なんてことは人を造る教育としては完全な失敗だ。 

愚息:こんど悪化したらもう駄目らしいよ。 

勝利した青山学院の原監督は評価が上がっているらしい。確かに「口八丁、手八丁」、箱根駅伝優勝を目的に掲げた練習プログラムをハイカラな名前のプロジェクト仕立てにして、参加する若者たちを奮起させて、ヤル気を興し、あとは仲間同士の自主的な「切磋琢磨」で個々人の成長を促すというのは、相当の「やり手」である。アンチが相当多数いるらしく耳にするのは、部員集団を統率して、集団全体のレベルを引き上げる方法論が、どことなく企業的、ビジネス的で、旧来型の不器用だが情熱だけはある監督像にハマりきらないためであろう。

ずっと以前、昔と言ってもよい位だが、プロ野球の広岡ヤクルト監督が「海軍式野球」という名前でトップダウンで、かつ整然としたリーダーシップを実践してみせ、一世を風靡したことがある。アマチュア・スポーツとはいえ原監督という紛れもない「おじさん」が現代の「若者世代」をまとめ、一つの目的のもとに「結集」させ、「メディア露出」と「コミュニケーション」を駆使しつつ「指導」を続け、「自発的成長」を促すことに成功し、課題である「最終ゴール」に誘導していくその「体系的方法」には、当然、注目が集まるだろう。同監督がこの10年間で成功してきたことは、多くの日本の企業経営者が正にいま悩みながら、模索していることでもあるはずだ。

アクティブ・ラーニングの実践例であるとも小生には思われ、大学教育のあり方という目で青山学院大学の駅伝の成功を詳細に研究して見る価値は大いにありそうだ。

2022年1月2日日曜日

断想: 人の名前が出て来なくなったとしても、それはプラスかもしれないという見方

かなり以前、役人時代の先輩TK氏が隣町で某社の社長をやっていた頃だが、小生のゼミに所属していた学生の就職で大変協力して頂いたことがある。小生よりは、やや年上であったが、

いやあ、最近、人の名前が出てこなくなってナア・・・

そうボヤいていたものである。その同じ経験をいま小生がしつつあるのだから、この世は回り舞台、すべてヒトというのは舞台の上手から登場し、時間が来れば下手の方に消えていくものかもしれない。まさに生きる人は例外なく誰もが「火宅の人」である。

もっと昔に役所の広報室で広報誌の編集長をやっていた頃、小生の上司が

俺の先輩でサ、極端にアバウトなヒトがいて、とにかく人の名前を正確に覚えないんだヨ。俺にあうと「オオ、青木じゃないか!」ってさ、「青木じゃなくてNKです」っていうと、「そうだそうだ、悪いワルイ、で元気だったか?」てな、いい人だったけど、あれはネエよな。ヒトの名前はまず最初に記憶にたたきこまないと、いい仕事はできネエよ。

と、中々、良いアドバイスをしていたものだ。この伝で言えば、人の名前が出てこなくなるというのは、齢のせいだと考えれば納得もできるのだが、いかにも能力の低下とも認められ、あまり気持ちのイイことではない。

ただ、人の名前が出てこなくなる一方で、認識能力が上がってきていると思われる側面もあるのだ、な。

若い時分には、何でも全て自分には理解できる。少なくとも勉強や研究をして追求すれば分かる。そんな心持であった。数理的な仕事をしていれば、解は必ず得られるものであるし、証明された結論は永遠の真理である。一度真理となった命題が覆えされることは決してない。そして人類が発見する真理は時の経過とともに必ず増えていく。そんな自信があった。

しかし、最近は《認識できないこと》を認識する、そんなことに気が付くことが多くなった。数日前にも投稿した「生命と非生命との曖昧な境界」はその一例だ。

小生は、拙宅が受け継いできた宗旨に沿って、この数年は他力本願の称名念仏を仏前で唱える習慣が身について来たのだが、口で唱える行為と心の中で唱える行為の両方を併せてやっている ― 口で発声して唱えるべきことが公式には推奨されているのだが、ここがプロではないところだ。そうすると、思うのだが、自分の外の世界に向かって唱えるときと、心の内に向かって唱えるときと、どんな本質的な違いがあるのだろうかと思う時がある。

やはり「外の世界」と「内の世界」とは違うのだろう。内の世界は、「認識された世界」である。外の世界は「認識が写像であるとすればその原像である世界の部分と認識されていない世界の部分との和集合」であって、外の世界として存在している物自体については人は知らないわけである。例えば、人が認識する世界は人が形成したイメージで、それは蟻や蜂がイメージしている世界像とは異なるのが当たり前だ。

認識しうる真理が無限にあるのだとすれば、人が既に知っている世界は全体の中の微々たる割合に過ぎず、人間が知っていることはほとんどない、と言っても間違いではないだろう。それは、蟻や蜂が集団の生存のために十分のことを知っていると自覚しているとしても、実はほとんど何も知らないのと、同じことである。

こういう「認識されていない世界が外にあることを認識する」という心持は、若い時分にはまったくなかったことである。《直観》といえば確かに直観だが、ロジカルな思考であるようにも思われ、確かに齢が重なるにつれ人の名前が出て来なくなることはあるのだが、別の側面に思考が及ぶという一面がある。

年齢によって頭脳の働き方は変化するものである

全体としてレベルが上がっているのか、下がっているのかは分からない。例えば、純粋数学的な仕事は若い時代に良い実績が集中するものだが、齢をとってから創造的な仕事ができる分野も多い。

思考という行動もまた、自然の変化にまかせたほうが良さそうである。これを<進歩>と言えるかといえば進歩ではなく、要するに<変化>なのだろうが、少なくとも<衰退>と受けとめる必要はない。

読経を声を発して行うときと、心の中で読むときと、確かにこの二つは本質的に異なった行為であると。いまはそう考えるようになった。やはり声を発して読むべきなのである。