2024年4月29日月曜日

ホンノ一言: 足元の円安は純粋に貨幣的現象で、国力がないので仕方がないという話しではない

前稿を補足しておきたい。

というのは、前稿は足元の為替レート、特に円ドルレートに関するメモだったが、レートは通貨の交換比率だ。

世間でも雑談が繰り広げられているが、確かに通貨の交換比率にはそれぞれの国の実体経済の実力が反映される側面がないではない。

とは言いながら、レートはあくまでも通貨に関する数字である。

国力が弱くなっているから円も弱くなるンです。

と。そこまで断言するか、という指摘は当然あるわけである。

インフレもそうだ。小生はなにもフリードマンの信者ではない。が、しかし所詮はインフレとは通貨と商品との相対価値を示す指標だ。通貨の実質価値が低下すればインフレになるし、通貨の実質価値が高まればデフレになる。

そして、何事もそうであるが、豊富にあるものは価値が薄まり、量が不足すれば価値が高まる。時に不自然な状況が一時的にみられることもあるが、これは経済の根本原理だ。

日米のマネーサプライだけを見ておこう。詳細に立ち入るとキリがなくブログの覚え書きには馴染まない。両国ともM2の前年比増加率をとっている。

まずアメリカだ。


2022年の金融政策転換後、マネーサプライが急速にしぼられ、足元では前年比マイナスになっている。長期トレンドと比べても、アメリカのマネーサプライの増加は目立って抑えられている。

つまり、アメリカはコロナ禍後はインフレが進行したため「カネ詰まり」状態に持っていった。にも関わらず、実体経済の拡大が何とか続いている。そんな情況である。利益の見通しがあるからとも言えるが、そういう有望なビジネスが規制もされず、自粛もせず、何とか資金を調達して順調に伸びているということでもある。投資もそれと並行して十分に行われているわけだ。


次は日本。




日銀からダウンロードしたデータファイルは1980年1月以降であるため、横軸は日米で異なる。

しかし、臨時緊急的なコロナ禍期間中は例外として、インフレが高進しているコロナ禍後においても日本のマネーサプライは特にしぼられているわけではない。

日本とアメリカとで、マネーサプライがこれほど違うのは、インフレを抑止しようという姿勢が根本的に違うためである。

というか、日本はいまデフレからインフレにもって行こうとする途中にある。

日本の通貨供給がアメリカに比べてこれ程まで緩ければ、円安になるのは当たり前である。日本はインフレを希望している国なのだ。アメリカはインフレを抑えようとしている。

故に、円の実質価値は低下し、ドルの実質価値は上昇すると見込まれる。基調として、円安ドル高を予想するのは当然の思考である。

アメリカのインフレは次第に沈静化するだろうが、日本のインフレは沈静とは逆の方向を志向しているのである ― それにしては、日本のマネーサプライ増加は図を見る限りなお不十分に思われるが。ま、いずれ名目ベースの拡大をアコモデイトするため通貨が加速して供給されていくのだろうと予想する。

国力が云々という議論は(まったく無関係でないが)筋違いで、今の為替レートの動きは純粋に貨幣的な現象であると観ている。


2024年4月25日木曜日

調整インフレとは逆の調整デフレ。衆愚政治がついにやってくるか?

小生の少年時代はずっと固定為替相場制が続いていて、1ドルは360円だった。これは誰でも知っていることだと思う。

固定レート制というのは、毎日の円ドル相場が強制的に固定されるという意味ではなく、円ドル取引が360円で固定されるように、中央銀行が介入する、つまり為替市場の需給がバランスするよう政府機関の介入行為を国際的に公認するという制度である。

ところが、戦後の高度成長を経て、日本の、特に製造業の国際競争力が強化され、高品質の商品を低価格で販売できるようになった。国内で低価格であれば世界市場でも低価格になるのが固定レート制である。それで貿易収支の巨大黒字が定着した。

当時は、ドルで収入があれば、為替リスクもないので、国内取引に充てるため円に転換するのが普通だった。だから貿易黒字が定着すれば、輸出産業によるドル売り、円買いが増える。実勢としては円高に向かう。その潜在的な円高を止めるため日銀は円を売って、ドルを買うという介入行為を続けていたのが、固定為替相場制という制度の主旨である。故に外貨が蓄積された。

昭和41年(1971年)にニクソン大統領がドルと金の交換停止を突然発表し、戦後の国際通貨体制が崩壊した。その年の終わりには「スミソニアン体制」へ移行し、1ドルは308円に切り上げられた。が、この体制も基本は固定相場制であり、したがって各国は協調介入を行ったわけだが、結局、それでもアメリカのインフレ高進体質は変わらず、そのためドル安基調が続き、ついに昭和48年(1973年)に国際通貨市場は変動為替相場制へと移行することになった。毎日の為替レートは市場が決める。それがルールとなり、政府による意図的な為替操作は原則禁止となった。

で、今日に至る、というわけだ。

1970年代の日本政府の第一の心配は円切り上げ、つまり<円高>であった。

円高になれば、国内製造業が海外で販売する日本製品のドル価格が引き上げられる。販売数量減少が予想される。ドル価格の引き上げを抑えようとすれば、円ベースの出荷価格を値下げするしかない。ドル価格が変わらなければドルベースの売上高も変わらない。となれば利益が減る。どちらにしても輸出産業には打撃だ。

だから<円高>をとにかく回避したい。これが1970年代における日本の基本姿勢だった。


円切り上げを避ける、つまり実勢であった円高傾向に逆行して、円安へと導きたいなら、円の実質価値を下げる。つまり日本でもインフレを興せばよいという理屈は誰でも思いつく。これが《調整インフレ論》である。日本をインフレにしたいなら需要を刺激するのが一番だ。それには低金利を維持するか、でなければ財政支出を増やせばよい。

実際、1970年代の世界経済ではアメリカ、イギリスによる《インフレ輸出》が主たる問題として意識されていた(例えばこれ)。

そして、1970年代前半には一次産品の市況上昇が日本の物価にも波及し、1973年には第一次石油危機が訪れて「狂乱物価」の時代になった。その頃、日本国内では

為替レートを守るために調整インフレを容認したのではないか。輸出産業を守るために、国民にインフレを押しつけているのではないか。

そんな非難が根強くあったことを覚えている人がどれほどいるだろうか?


そもそも為替レートには購買力平価説が長期的には当てはまることが知られている。

同じ1個のBigMacがアメリカでは5ドル、日本では500円という価格が販売されているなら、BigMacを基準とする限り、1ドルと100円は同じ実質価値を持つ。日本でBigMacの価格が低下して、50円で1個のBigMacが買えるようになれば、1ドルと50円が同じ実質価値をもつ。であるので、レートは100円から50円の円高となる。これがBigMac指数である。この対象を広げて、全商品で平均すれば購買力平価となるわけだ。

1970年代の円高基調は円の実質価値が上がったからであるが、それは日本国内の産業の生産性が上がったからである。生産性が上がり、供給力が拡大した一方で、賃金も上がり、所得が増え、市場で循環するマネーも増えて、商品を買い支えることができたわけである。マネーも増えるが、生産能力も拡大されていたので、日本のインフレはアメリカほどではなかった。故に、円高圧力が強まったのである。

しかし、1970年代当時は、マクロ経済の自然な流れに反してでも為替レートを守りたかった。そこで、低金利を維持して国内のインフレ進行を容認した。

現時点はどうか?

日本の当局、というか世間は変わらないもので、ヤッパリ「円ドルレート」にこだわる。1970年代は円高に歯止めをかけたかった。今は円安を止めたい。心理は同じである。


実は、1970年代と同じくインフレは先ずアメリカで進んだ。

ドルでインフレが進むなら1970年代と同じくドルが低下し、円が上がるのがロジックだ。ところが、そうならなかった。

それは、アメリカがインフレ抑止のため金利を上げたからだ。これはドル投資を有利にするので円安を誘う。

つまり足元の円安は、前者の効果より後者の効果が大きいことからもたらされている。なぜ、前者の効果が弱いのだろう?

一つ注意した方がイイのは、日本でもアメリカほどではないが、インフレが進んでいるということだ。このインフレ進行を抑えるため日本でも金利を引き上げていれば、今の円安も相当程度は抑えられたはずだ。

ところが日銀は金利引き上げには動いていない。今はインフレを抑える意志がないということだ。アメリカのインフレは粘着的でまだなお終息には至っていない。日本はアメリカよりもインフレ率は低かった。それでも日本でも賃金は上がり始めており、日米のインフレ格差はやがて縮小することが見込まれる。であれば、金利格差のみが残る。

つまりアメリカはインフレ抑制的であり、日本はインフレ刺激的なのである。故に、それぞれの通貨の予想される実質価値は、円はドルより弱い。これが円安を誘っている側面は否定できないと小生は観ている。

期待インフレ率は統計的に確認されるはずであるが、日本とアメリカとで期待インフレ率は実際にどの程度になっているか。精緻な測定が必要だと思う。

1970年代は、円高基調に逆行して為替レートを守るための調整インフレ論があった。いまは円安を止めたいと願う人が次第に増えてきたようだ。

日本人はどんどん貧乏になっている。海外旅行にも行けない。以前には買えたのに輸入ブランド品は高嶺の花になった。ワインもシャンパンも高すぎる。日本国内の高級ホテルに日本人は宿泊できず、金持ちの外国人ばかりが利用できるようになった。観光地の料理屋に行けば吃驚するほどの金額になった。土産品も高すぎる。何だかすごく貧乏になった感じがする・・・・・・・

これじゃあストレスがたまる一方だ、というわけだ。 

しかし、1970年代のように調整インフレを引き起こして円の実質価値を下げるのは論外だ。確かに論外なのだが、とにかく賃金を上げてインフレにすればいいのだ、と。それで問題を解決できるのだ、と。こんな愚か者が意外に世間受けがいいのは社会全体が愚かになっている証拠だろう。メディアが愚かになると、世間も愚かになり、有権者が愚かになれば政治家は安心して愚かでいられる。単なるインフレが進めばますます円安になるロジックだ。

必要なのはこの反対で調整デフレが要るのだ。調整デフレが言い過ぎなら《調整ディスインフレ》と言えばイイ。要するに、円の実質価値を守るのである。《調整ディスインフレ政策》、具体的には日銀による金利引き上げ政策を主張する人がこの立場だ。金利ゼロから、アメリカ並みの5%は無理でも、2%乃至3%位まで引き上げればイイ。アメリカと同じようにインフレ抑止の姿勢を断固として示せば円安の歯止めになるだろう・・・

小生も、正直なところ、これが本筋ではあると思う。


しかし、この理論はまさに戦前期・日本の民政党・浜口内閣が円ドル相場の安定を目指して金解禁を強行し、超デフレの惨状を招いた「昭和恐慌」を彷彿とさせる。昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけてのことだ。

その当時も投資、投機を目的として大規模な円売り、ドル買いを行った国内商社を浜口政権は非難したものだ。足元の日本でも、財務省が投機筋を非難するかと思えば、新NISAを活用して米株を買っている人に非難がましい視線が寄せられている。

浜口内閣による金解禁は当時の日本経済の病根にメスを入れるという意図をもっていた。というのは、第一次大戦期のバブルとバブル崩壊、関東大震災による打撃、この二つで増大した不良債権、国際競争力を失い貿易赤字が続く中で脆弱になった円レート、ゾンビ企業を延命させるための産業政策と、こうした1920年代の経済政策を180度転換して、旧金本位制下の固定為替相場へと復帰するためのデフレ政策。これが金解禁であった。

この金解禁は、当時の日本経済と政党政治を崩壊させるほどのものとなったが、結果としては日本の産業を大いに強化したと小生はプラスの側面を見たくもあるのだ。この点は前にも投稿したことがある。


もう一つの可能性は1960年代の高度成長期の経済政策だ。低金利下で設備投資を加速し、国内産業の生産性が上がれば供給能力が拡大する。供給能力が余剰能力にならないようアコモデイトすれば結果として円の実質価値が上がる。生産性向上を通した供給増加と商品安、つまり実質的なデフレ政策なのである。

上のどちらも「調整インフレ」とは逆の「調整デフレ」、イヤイヤ「調整ディスインフレ」と言える。

但し、現時点の日本はエネルギーとマンパワーにボトルネックがあり、それを根本的に解決する政策を何ら検討していない。飛躍的な省エネルギー技術が進展するならまだしも、設備投資をしても総供給能力が上がらない確率が高い。ここにも(今は目立たないが)日本のインフレ体質が隠れている。マスメディアも(分かっているのだろうが)無視を決め込んでいる。大谷選手と殺人事件ばかりを話題にしている。昔のスポーツ紙、芸能誌と同じだ。

まったく、どいつもこいつも無責任野郎だて・・・

つくづく思いますネエ。

ともかく、足元の円安は意外と根が深いかもしれないのだ。これをくつがえして、円安を円高にもっていくには、だから、1970年代の「調整インフレ」とは逆のことを実行することになる。もちろん同じ「調整デフレ」といっても上に述べた後者の方が良い政策であるのに決まっている。当時と同じ人物が日本社会の上層部にいれば、逆の状況でも政策を上手に展開できるかもしれない。しかし、当時の日本を支えた人物群は今はもう世を去っている。


金解禁のような強烈な国内産業再編成を強行するという選択が、意図するにせよ、しないにせよ、無知のためか、蛮勇のためか、まるで初心者が大胆な運転をするような感覚で実行されてしまう。そんな時が来るのではないか。正に《衆愚政治》である。

衆愚政治が展開される前提は足元では充たされている。そういう予感を感じる今日この頃であります。危ない、危ない。




2024年4月23日火曜日

断想: 「専業主婦」をみる現代的視線への異論

実を言うと、専業主婦の第3号被保険者を廃止するべきであるとか、配偶者控除を廃止するべきであるとか、意義のない浅い議論だとずっと以前から思っている。

実際、<専業主婦>をキーワードにしてブログ内検索をかけてみると、非常に多数の投稿がかかってくる。

例えば、2016年4月14日の投稿にはこんなことを書いている:

税制もまた行政府が行う政策の一環だ。同棲をしている二人と、正式に結婚をしている二人はもう差別しない。そう考えるなら、税負担も平等にするべきだ。しかし、育児には家庭が必要で、家庭を築くには正式に結婚することが望ましい。そう考えるなら、専業主婦となるがゆえの利益は、そのことの社会的利益に対応するものと考えて、(一定期間かもしれないが)育児に専念する行為に対する報酬であると意味付けても、小生、それほど道理に反しているとは思えないのだ、な。そもそも今は子育てに優しい、出生率を高める方向の制度が必要なのではないか。

極右だとは自覚していないが、かなりの保守である。というか、内縁の夫婦と正式の夫婦を差別するなという意見も入り込んでいるので、かなりのプログレッシブではないかとも意識している。

かと思うと、 2016年8月8日には

確かに「女性が就労しやすい」ことで達成しやすくなる目的はある。労働供給のボトルネックを緩和して、潜在成長力を上げるという目的にはプラスだろう。ある意味で「経済合理性」があるとは思う。しかし、プラス効果は一面的だ。ロジックとしては、就労しやすい=主婦専業を奨励しない。これも別の面で言えることだ。

女性が就労を選びやすくすることは、女性が主婦専業を選びにくくすることと同じである。本当に、こうすることが今の日本社会の現実にマッチしたことなのか。

いや、いや、参りますネエ、旧すぎて・・・と言われそうだ 。

ごく最近になっても、

非市場家庭内サービスを担当していた専業主婦が、労働市場に参入し、サラリーをもらって働くようになれば、それまではゼロであった付加価値がプラスになるので、人口で割った一人当たりGDPが成長するのは当然の理屈であって、IMFの分析担当者が言う通りだ。

しかし、<国内総生産=GDP>という概念を考えるとき、主婦(と限ったわけではない)が担っている非市場性の<家庭内労働>も本来は帰属評価をして「国内総生産(=GDP)」に加算するべきなのである。

以前は、家庭内主婦労働を評価しないマクロ経済統計に対する不信感がずいぶんあったものである。平成25年には ― もう昔になったのか —、内閣府が家庭内の無償活動を評価、加算した拡大GDPを試算しているが、上のような問題意識に応じる試みだった。

「主婦労働」を評価しようという問題意識そのものが、もはや「時代遅れ」になってしまったのかもしれない。問題意識がなくなリャ、研究もせんわナ、ということだ。

しかし、新たな時代なら新たな時代として、研究の積み上げが必要だ。経済分析への取り組みがまったくとられないまま、世間が「少子化対策」、「子育て支援」、「財源調達」、「ジェンダーフリー」などと騒いでみても、これはいわば「負の世論」であって、有意義な政策形成にはほとんど寄与しないと観ている。そんな下向きの世論に応じて政策を展開してみても、それはいわゆる古代ギリシアのプラトンの昔からある「衆愚政治」というものだ。


・・・その果てに、家庭内で働いていた女性たちが労働市場へ参入し、そこで報酬を伴う仕事に就き、足元では女性労働者 ― ほとんどが非正規だが ― の就業率もほぼ上限に達し、ビジネス現場では空前の人出不足になった。

この状況をどのように考え、どのように評価すればよいのだろう?

日本の労働力人口の減少が始まった1998年以降、この25余年間、日本は一体何をしてきたのだろう?


騒がしいイデオロギーと落ち着いた国民生活とは、しばしば両立しないものだ。

騒がしい集団には注目して報道し、静かで安定した人たちが共有する基本的問題には無関心をつらぬく日本のジャーナリズムの底の浅さも、現代日本社会の世相を醸し出している一因なのかもしれない。


2024年4月22日月曜日

ホンノ一言: うっかりstreamyasの泥沼に迷い込んだ次第

土曜の夕刻にそれまで使用していたスマホ"Aquos R2"の外側カバーが外れていたので、よく見ると本体裏蓋が隙間が出来るほどに浮かび上がっている。これはバッテリーが膨張したからだと思い電源を切っておいた。改めて日曜朝に電源を入れようとすると起動しない。何も準備できないまま頓死である。

これには参った。

気を取り直して、夕方6時から"SONY Experia 10V"へ機種変更する作業を始める。

この時になって旧機"Aquos R2"の電源を押すと再び立ち上がったので驚いた。こんなこともあるのかというわけだ。おかげでデータ移行がずいぶん楽になった。

データ移行が終わったから、個別のアプリが従前と同じように動作するかどうかは試してみないと分からない。

大体は、問題なく終わったが、Amazon関連アプリがパスワードだけでは通らないことに気がついた。二段階認証になっているのだ。携帯番号を登録しているのだが、何と小生のスマホにはSMSで認証コードが届かない。

改めてPCからAmazonに入り、Amazonのアカウントサービスでログイン、セキュリティ上の変更をしようとしたところ、やはり携帯のSMSが着信しない。もう一つ登録しているYahooメールには届いたのだが、それが非常に遅い。これでは使い物にならない。

そこで、認証アプリを使ってワンタイム・パスワードを生成する方式に変えることにした。

<Google 認証>で検索すればよいと記されていたので、そうすると果たして「認証アプリ」というのがある。

これが思わぬ落とし穴であった。

結果から言うと、既にネットでは要警戒の書き込みがあるが、"streamyas"にクレジットカード情報を登録してしまった。

これが警戒するべき画面であった:


その時は、なぜか認証アプリを入手する意図で続行をクリックしたのだ、な。実に《意図》という奴は、時に始末におえない。

で、最後に行きついたのが"https://automathrill.com/index.php"というサイトだ。認証アプリを入手するつもりが、これはおかしいと流石に気がついた次第。

そもそもGoogleの認証ソフトを入手したかったのであるから、素直に"Authenticator"を選べば良かったのである。

それが怪しいサイトに連れていかれ、5日間の無料期間が経過すれば毎月7400円余の課金がチャージされるという状況になったのは、嘆かわしい限り。

こんな展開に何故なってしまったかを思い返すと、まずスマホが頓死した。データ移行に時間を費やした。アプリを一つずつ元の通りに動作するように調整していく。ところがAmazon関係のアプリがパスワードで通らない。二段階認証でSMSがスマホに届かない。イライラする。それで認証システムの利用に変えるか、と。アプリ検索してトップに出てきたものを軽率にダウンロードして実行した。実はそれが爆弾であったのだ。

一口に言うと、強引だった。

失敗は、よくよく経過を一つ一つ整理すると、失敗への道筋が分かってくる。

誰でも決してバカではない。明らかに愚かなことはしないものだ。が、結果として愚かな失敗をやってしまう。今回は自分でそれを演じた次第。

勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。

某監督が言ったとおりだ。

直ちに「これは違う」と気がついたので、先ずは無料会員期間が終了する以前にキャンセルの意志を伝えることにした。キャンセルの意志を視える化しておくことが大事だ。後日の証拠にもなろう。

それで毎日、Request of Cancellationのメールを相手のCustomer Serviceに反復して出し続けている。が、返信はない ― おそらく、このまま返信はないだろう、そもそも詐欺的行為をしているわけだから。なので、登録したクレジットカードを無効化することになるだろう。それでもしつこく請求してくるようなら、これはもはや犯罪である。警察に被害届を出してからカード会社と相談するしかない。

まずは覚え書きということで。


2024年4月18日木曜日

ホンノ一言: 生理現象だからって人前で話せば下品になるって感覚は大事ですゼ

この4月からスタートしたNHKの朝ドラは、いつも視ないカミさんも毎日視るようになって、中々の傑作ではないかと思う。

特徴を一つ挙げるとすれば、女性の生理がドラマの中でオープンに語られる点かもしれない。こういう筋運びは余りなかったことだ。実際、ネットでは色々と賛否両論、というよりリアクションと言うべきだが、寄せられている模様。

一つ感じるのは、なぜこれ程の話題になるかネエ、ということだ。


「そもそも論」として、男女を問わず人間の自然な生理現象を恥じたり、隠したり、話題にしづらい雰囲気があるのは、おかしなことである。

だから色々な生理現象は、すべてドラマの中でオープンに語ってよい、寧ろそれを恥ずかしがる方がおかしいのだ、と。多様化とは自然な生理現象を自然な話題にできるということなのだ、と。話はこうなるのであろう。

確かに、理屈は分かる。自然な生理現象を恥ずかしいと感じる社会心理こそ道理に合わない。その通りである。


しかしながら、だからと言って、求めて何度もそれを話すとすれば、それはそれで《下品》というものかもしれない。


考えてもみなせえ。男女共通の生理現象と言えば、言うまでもなく《大小便》だ。

ところが、近年の学校では、校内のトイレで大便をするのを知られたくないという雰囲気が強いそうだ。これは道理に合わない。

いま文字で「大便」と書いたが、朝ドラの編集理念に則して言えば、「大便」という生理現象をそのまま文字に書くのを控えるという感性はおかしいということになる。生理現象なのだから、遠慮せずどんどん使いなセエ、ということになる。

とはいえ、友達と遊んでいる最中に

ちょっとクソしてくるわ

と笑いながら平気で話していた昔の学校風景がはるかに洗練されていたとも言えないような気がするのだ、な。

「大便」とか、「ウ〇コ」とか、「クソ」とか、それをズバリと言わず、つまり隠して、そっとトイレで用を足してくる。それはそれでその人間集団の品格という徳性になるのじゃあないか、と。

退屈な話を聴いているとアクビをしたくなるのは自然な生理現象だ。が、教室で前を向いて大あくびをすれば、話している教授は「無作法な奴」と感じて気分を害するかもしれない。もし商談で大きな欠伸をすれば、相手は「無礼者!」と怒って席を立つ(かもしれない)。生理現象だからと言ってマナーを否定する理由にはならない。社会を維持する上で、やはりマナーを守ることは大事なのである。商談中の欠伸を我慢せよと命令しても、それが個性の抑圧には当たらないだろう。


朝ドラを視ながら朝食をとっている視聴者も案外多いのではないかと思う。

食事をしているかもしれない視聴者がカメラの向こう側にいると想像するとき、自然な生理現象だから話題にしてもイイという話しにはならないのではないか。そんな話題を避ける感覚だから、社会は進歩しないのだ、と。そうは言えないでしょ、ということだ。

要するに、マナーではないかと思うのだ、な。

多様化の時代というのは、善かれと思って継承してきた価値を疑い、是とされてきたモラルもマナーも、全て人間の個性を抑圧する不自然な束縛として否定する時代なのであろうか?

だとすれば、

多様化という時代は、つまりマナー以前の原始人に戻る時代である

そう思ってしまいますがネエ・・・

それで本稿の標題が決まったわけだ。

2024年4月17日水曜日

断想: いま楽しいことは将来の苦、いまの辛さが懐かしくなるのは普通にある

町外れにあるネッツ店でタイヤ交換をして来た。

冬タイヤを夏タイヤに換える頃には、毎年、道端の残雪が僅かになる。やがて桜が咲き始めると強風が吹き荒れる何日かがやってくる。桜はあっという間に葉桜になる。ちょうど黄金週間に入る頃である。気温は10度前後で小高い山に登ると肌寒さを感じる。GWが明けると厳冬期に凸凹になった道路を補修する工事があちこちで進む。そして工事が一段落すると、その頃までには白樺林は若葉の新緑になっていて、隣町ではライラック祭りがある。国道沿いのアカシアの花も開き始めると、初夏がやってくる。林の中でエゾハルゼミが短い夏の先触れのように高い声でさかんに鳴く……

まあ、こんな風に春から夏にかけての時候を毎年過ごしているが、これを幸福と言うのか、単調と言うのか、変化がないことは不安がないという事なのか、不安がないというのは平穏ということなのか、自分にはよく分からない。「ものも言いよう」なのだろう。

ただ、雪国に春がやってくる時節の晴れやかな嬉しさは格別である。これは真実である。

思ひきや 雪ふる里の わび住まい

     妻とよろこぶ 春の知らせを

首都圏で暮らし続けていれば、分からずじまいであった幸福だ。

誰であれ楽しかった思い出や、哀しかった思い出があるものだ。若い頃は、楽しかった時のことを思い出しては幸福感にひたったものだ。しかし、幸福の裏側で自分が気付かないままにやっていた独善や傲慢をやがて認識する時が来る。傷つけていた人たちに謝りたくともそんな機会は来ず、埋め合わせなど出来ることではないのだ。楽しい思い出は苦い追憶に変わる。これも浮世の摂理というものだろう。

反対に、辛い思い出は思い出したくもなかったが、時がたつといつの間にか懐かしい日々となって思い出されるのは実に不思議である。

ながらへば またこのごろや 偲ばれむ

     憂しと見し世ぞ 今はこひしき

藤原清輔の作である『新古今和歌集』のこの和歌には以下のような解説を窪田空穂が付けている:

これからのち生きながらえたならば、今と同じように、また現在のことがなつかしく思い返されるでしょう。憂いと思った頃が、ただただ今になると恋しいことです。

失恋もまた時の経過とともに美酒になるということか。時間は、ワインやウイスキーを産むだけではなく、人の心も別の心に換える。それは忘却ではなく、事の真相に到達するということなのだろう。裏もまた真なり。

2024年4月15日月曜日

ホンノ一言: 一致指数の急落から「景気悪化」を予想するのは無理ではないか

報道はあまりされなかったが、今月5日に内閣府から景気動向指数(2月分)が公表された。それによると、先行指数は(まあまあ)横ばいを続けているものの、生産・販売の現状を伝える一致指数が1月、2月と急落しているのが目立つ。

先行指数(le)と一致指数(co)を図にすると下図のようになっているので、ちょっと吃驚する。




実際、内閣府は今回の一致指数に基づき

景気動向指数(CI一致指数)は、下方への局面変化を示している

と判断している。

しかし、この判断はどうなのだろうナア、とやや疑いを感じる。あまりに機械的ではないですか、ということだ。


先行指数は2021年7月をピークとして低下してきたが、23年1月以降は横ばい基調を続けており、その動きに変化はない。寧ろ、足元の2月を含めて強含みである。


もし本年に入ってからの一致指数の変調が先行指数のピークアウトに伴うものだとすれば、2年もたってから先行指数の変化が一致指数に現れてきたことになる。しかし、先行指数の先行性はせいぜい半年ないし1年程度である。

直近で国内景気を話題にしたのは、多分この投稿だと思うが、そこでは

先行系列の悪化の動きは止まっている。横ばい基調が1年間続いている。

先行系列の横ばい基調は昨年12月まで変わっていない。ということは、この先の一層の景気悪化は考えにくい。そう予測するべきだろう。

こんな風にまとめている。


とすれば、2年も遅れて先行指数のピークアウトがいま一致指数にやってきたと判断するより、年明け以降の一致指数の急低下は一過的なものととらえるべきではないか。

実際、一致指数が急低下している背景は、耐久消費財出荷や鉱工業生産、輸出数量の急落である。これは、ダイハツの検査不正が発覚し、昨年12月に多数の車種の生産、出荷が停止に追い込まれたことが大きい。しかし、2月以降、次第に生産が再開されている。

なので、先行指数の動きをみても、この先も一致指数が悪化していくという可能性は小さいと(今は)みている。先行指数は悪化の兆しを見せていない。

 


2024年4月12日金曜日

ホンノ一言: 予測や判断は一年もたてば全く違うものになりうる、ということ

アメリカのインフレが予想外に「根強い(sticky)」という特性があるので金利引き下げの開始時期も後ずれするだろうと。そんな予想が高まっている。その分、株価にもネガティブな影響が出ていたりするのが、足元のアメリカ経済だ。

コロナ禍の後の供給ボトルネック、ロシア=ウクライナ戦争の勃発、インフレ率の急上昇、FRBによる攻撃的金利引き上げ、そして景気後退なきインフレ終息でソフトランディングと喜んでいたら、どうやらそんなに簡単には事は運ばないようである。

昨年5月までのデータに基づいて本ブログでは投稿でこんな図をアップしていた:

投稿したのは昨年6月だが、その時は
このところの投稿でよく使っている図で、(薄いグレーの線は)対前月インフレ率の年率値である。太線は原系列をSTLによって成分分解して得られる基調値(=Trend+Cyclical成分)だ。図で明らかなように直近の5月時点で基調値は2パーセントを僅かだが下回っている。
と説明している。

ところが、本年3月までのデータを用いて、最新時点の図を描き直すと下図のようになる。



図を作成したJupyter Notebookには以下のようなメモを付したところだ。
対前月インフレ率をSTLで成分分解し、TC成分を原系列と重ねて描画すると上図のようになる。

これを見ると、昨年秋以降、TC成分は低下基調から下げ止まり、更には反転上昇へと動きを変化させたことが窺われる。そして直近時点である2024年3月のトレンド値は4.1%という水準に留まっている。

実は、昨年5月のデータを見ながら書いた6月時点では、
対前月インフレ率のTC成分は既に2%というインフレ・ターゲット値に戻っていることが分かる。

と書いている。

要するに、

このままの物価動向が1年間続くとすれば、1年後の前年比インフレ率は2%に収まってくるはずだ

という見通しだったのだが、その後、ほぼ1年間のデータをみて計算し直すと、ターゲット値である2%には収まりそうもない、4%位になる。これは認められない。そんな物価上昇がまだ続いている、ということである。

確かに、アメリカのインフレは終息には至っていない。

とはいえ、トレンド値を計算する時にどの程度まで長く遡ってTC成分を計算するかというパラメーターを非常に長めに設定し直すと、上の図はこんな風に変わる。




これは、まるで大雑把なヒストグラムに似て、傾向・循環成分の変化が明瞭に伝わらない。

ただ、非常に概括的にデータをみるなら、毎月のインフレが次第に収束しつつあるという判断は依然として可能であるとも言える。


同じデータを見るとしても、見ようによって色々な判断が可能だ。まして、新たなデータが追加されれば、以前の予想とはまったく異なったものになる。

景気予測と景気判断は科学というより、アートに近い側面があると言われるのは、こんなところだろう。








2024年4月10日水曜日

ホンノ一言: 性別とトランスジェンダーについてのカトリックの観方について

トランスジェンダーやLGBTQの人権問題は、記憶している限り、グローバル・スケールでいま最高の盛り上がりを見せている。

では具体的にどんな社会がこれから到来するのだろうかという予測をたてようとすると、途端に曖昧にならざるを得ない。

例えば、生殖器を切除した男性なら中国宮廷に「宦官」という職名で多数勤務していた。自発的去勢者も多くいたと伝えられている。彼らは男性とは認識されなかったようだが、女性でもなかったわけで、つまりは「無性者」という感覚だったのだろうと想像している ― そもそも日本にはないシステムであるから、感覚的リアリティは得られるものではない。そうかと思えば、以前投稿したことがあるが「男色」も「同性愛」も積極的に公開することではなかったにしても、それがイイという人にとってはあくまで自由、自然な趣向であった。

つまり、「婚姻」や「生殖」、「性行為」という点とは別に、男女の性別差をどう理解すればよいのか、遺伝子上の差異、生殖上の差異、法律上の差異、表現・感覚上の差異等々、互いに関連するかもしれない差異尺度が混在していて、どの尺度でどんな議論をして、落ち着きどころのよい結論が得られるのか、大多数の人たちにとってよく分からないというのが現状ではないだろうか?

そうしたところ、ローマ法王が声明を出したので、アメリカのNYT辺りは大きく報道した。

The sex a person is assigned at birth, the document argued, was an “irrevocable gift” from God and “any sex-change intervention, as a rule, risks threatening the unique dignity the person has received from the moment of conception.” People who desire “a personal self-determination, as gender theory prescribes,” risk succumbing “to the age-old temptation to make oneself God.”

Source: The New York Times

Author: Jason Horowitz and Elisabetta Povoledo

Date: April 8, 2024 Updated 1:11 p.m. ET

URL: https://www.nytimes.com/2024/04/08/world/europe/vatican-sex-change-surrogacy-dignity.html

人為的な手段で男女の性別に介入するのは、神が与えた個人の尊厳を毀損する、人間自らが神になろうとする思いあがった行為だ、という主旨である(と思う) ― 別に男性(女性)を女性(男性)に変えるわけではなく、せいぜい(昔からやっているように)生殖器を現代医療技術を用いて切除したり、それらしく模造するだけの事であるから、神の決めた性別を人間が変えるという指摘には当たらないと思うのだが。

ふ~~む、なるほど・・・ローマ・カトリックはこう考えますか。そんな感じだ。さすが<造物主>、というか<父なる神>の眼から世界をとらえるキリスト教だなあ、という訳だ。

正直に言うと、小生もかなりの部分で上の判断に与したいという気持ちはある。

しかしながら、仏教の観点から同じ問題をとりあげるとどんな理解になるのだろうと思わず考えた。

性を転換する、つまりトランスジェンダーという行為は、本質的に罪悪なのだろうか?

仏教には<五逆十悪>がある。

「五逆」というのは、

殺母、殺父、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧

「十悪」は

殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、愚痴

のことだ。

分かりやすく書き直すと、五逆

母親殺し、父親殺し、聖人殺し、仏を傷つけて出血させる、教団を破壊する

という行為。十悪

殺し、盗み、不純な異性関係、嘘、戯れ言、乱暴な言葉、陰口、貪欲、怒りや憎しみ、誤った見解

のことである。

極めて常識的であるし、むしろ現代日本社会でいかに「十悪」が蔓延しているかに改めて思いが至るというものだろう。

ただ、大事な点はリンクを上に付けているが、浄土系思想に基づけば

南無阿弥陀仏と称念すれば八十億劫の生死の罪が除かれ、往生することができる、とされる(同)。法然は『一紙小消息』に「十方に浄土おおけれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり」(聖典五・九/昭法全四九九)として、十悪を犯しても往生はかなう・・・

要するに、悪を為す人は前世の縁からそうせざるを得ない業を背負っているからこそであり、まず最初に阿弥陀如来の慈悲によって救済の対象になるのだ、と。他力思想では、救済される側には努力の余地がなく、救済する側に絶対的な選択権がある。これ即ち、他力本願で、小生も信じている思想である。

だから、生を受けた身体を変改して別の性別に転換するという行為をするとして、例えばそれが悪であり、何らかの罪であるとしても、それはその人の業と煩悩によるもので、信仰の道を歩めば魂は(最終的に)救済される ― 人間世界では罪を非難されるかもしれないが、絶対的な意味では許される、受け入れてくれる、だから平穏な気持ちでいてよい。そんな見解になるはずである ― あくまでも他力思想の宗派によるもので、禅宗や日蓮宗ではどんな思考になるのかは詳しくない。 

キリスト教的世界観に立てば、この世界は神の意志によって造られたものであり、故に自然は人工的に改変してはならぬという思考に傾きがちだ。これに対して、仏教的思想はTVにもよく登場するように《厭離穢土欣求浄土》となる。この現世は、煩悩と罪業に汚れきっている、だから来世には清浄な浄土に往生したい、ということになる  ―  「即身成仏」を旨とする密教や現世利益を肯定する日蓮宗ではまた別の観方になるかもしれない。


こう考えると、トランスジェンダーが神の意志に反するという見方は、日本社会では共感されないような気がする。


2024年4月8日月曜日

断想: 皇族の「東大入学」をどう思うかという話し

将来の天皇になるであろう秋篠宮悠仁親王がどの大学に進学されるのかで話が盛り上がることが増えてきている。

そりゃそうだろうなあ、と思う。多くの人は(多少の?)関心をもつだろうと思う。

関心領域が昆虫の生態研究にあるということから、農学系統の研究基盤が充実している東京大学や筑波大学、東京農業大学の名が挙がっていたが、最近は北大も可能性としてあがっているらしい。

それでも、豊富な研究予算、首都圏所在に着目すれば、やはり東京大学に進学するのがベストではないかという声も多いという。

小生も一票を投じたい。

仮に東大に進学されるとなると、筑波大学付属高からの推薦入学という枠を使うことになりそうだ(と伝えられている)。

ところが、これについても五月蠅い批判が世間にはあるようで。

皇族、というより未来の天皇になるであろう身分ゆえに東大入学ができるのではないか、と。これは不平等である、と。

まず本稿の前提を書いておくと、現代日本社会、というより実は歴史を通して日本社会の底流にあったかもしれないのだが、いわゆる《平等原理主義》を小生は支持しない。

何度も投稿しているように、平等や不平等は社会的プロセスがもたらす結果であって、それ自体について善悪の価値判断を下すのは難しい。戦争や内乱によって私有財産が解体されることで訪れる平等社会もあれば、長期間の平和と経済発展の中で創業者利得を得る超富裕層が生まれ、その結果として不平等化が進むこともある。どちらにしても、色々な格差は自然に発生し定着するもので、誰の責任でもない。平等を最優先して強権的に不平等を消滅させる権力は別の悲惨さと腐敗をもたらすだけである。これが小生の基本的な立場だ。


明治から戦前期・日本を通して日本社会に潜在していた《一君万民》という思想は、むしろ有害無益で、負の影響を社会にもたらしてきたと考えている。日本の戦前末期の政治的混迷は、正に一君万民思想にかぶれた過激派軍人が下剋上の行動を起こし、上層階層に属する天皇の側近を「君側の奸」として殺害する蛮行から始まったものであった ― 当の天皇陛下が悲嘆にくれるとしても蛮行を義挙と盲信していたわけだ。ゲニ、ゲニ、思想というのは恐ろしいモノで御座る。

「一君万民」よりは「ノーブレス オブリジェ(noblesse oblige)」のモラルの方が個人的にはずっと好きである。


そもそも世襲による天皇の継承という憲法の規定そのものが不平等である。不平等な規定から出発している社会の下で、原理的平等に執着しても、双方を納得させる有意義な結論は出ない。無益な紛争を避けて、道理に適った議論をしなければならないのが、現実の日本社会だろうと思っている。

だから求められているのは観念論ではない。功利主義、もっと露骨に言えば便宜主義に沿って議論するしかない。日本社会の建て付けがそうなっている。実は、律令の建前が崩れた平安時代から以降、摂関政治、武家政治、内閣制度へ移りながら、日本はずっとこんなやり方で一貫してやってきた。そう思うのだ、な。

「ごまかし」と言わば言え、和を以て貴しとなす、これが日本のお国柄なのだ

というわけだ。この気風はちょっとやそっとでは変わらないというのが小生の日本社会観である。

実際にはそんな事はないと推測しているが、仮に悠仁親王が皇族であるが故に有利な評価を得て、東大に推薦入学が許可されるとしても、それ自体が問題であるとは小生には思えず、シンプルに考えてそれは良い結果につながると思う。

大体、皇族が百人もいるわけではない。毎年、二人や三人の学問に関心ある皇族が東大に推薦入学するとしても、東大の授業運営、研究管理に何ら影響はないであろう。

他方、皇族が東大に在学する若者と交流して、人間関係を形成するのは、日本社会にとってもプラスの効果が期待されこそすれ、マイナスになるとは全く考えられない。

話しは違うが、福沢諭吉の子孫は慶應義塾に自動的に推薦入学が認められる。これを「既得権」だと非難する人物が世間にはいると予想するが、既得権だろうと何だろうと、こうした扱いがマイナスの結果をもたらすとは到底考えられない。寧ろ教育機関としての発展を考える時、創立者の子孫を迎える制度は、プラスの効果を結果として期待できる。こういうロジックなのだろうと思っている。だから、小生の主観としては、こうした扱いは(小生の家族とは無関係だが)ウェルカムなのだ。

東大に入学して以降の成績評価で皇族を相手にするが故の不正が行われるのではないかと心配する向きがあるかもしれないが、愚かな杞憂だ。

入学試験問題が本当に知力を測定できる問題なのかという疑問は以前からあるが、そもそも大学の成績は入試を遥かに上回って下らないものだと思っている。

大体、同世代としてリスペクトできる人物であるかどうかは、周りの東大生が一番よく分かっている。指導教官も大規模授業ならともかく研究室内の学生の知力はマズ正確に把握している。

まったく評価されていないにもかかわらず、皇族であるが故に卒業証書だけは手にするとしても、そんな資格はむしろ皇族としては恥であり、しかもその恥部を同期の東大OBや教職員に知られているという事ほど当人の心の負担になるものはない ― 実質的な学歴詐称なのだから。そんな事が分からない愚物であれば、分かった上で放置し、自然の成り行きに任せるのが最上だろう。そう割り切っても日本には何らマイナスではない。

東大卒を一枚看板にして一流企業に就職したいという俗世間的な願望を皇族がもつとは思えない。そんな願望は持つ必要がないのだ。そもそも一般、普通の人物ではない。正に日本社会があえて残している例外的不平等だ。「不平等の取り扱い」に日本社会は慣れなければならない、そういう問題であるのかもしれない。

平等原理主義の主張の背後には往々にして嫉妬と恨み、それに日頃鬱積した反社会感情が隠れているものだ。

【加筆修正2024-04-09】


2024年4月6日土曜日

ホンノ一言: 大谷礼賛、海外憧憬、日本軽視、どんどんヤリナハレという話し

 <世論>の空間と<言論>の空間とは微妙に違うものだと思っているが、少し前の投稿で砂浜のようだと例えたネットにこんな記事があるのに気がついた。

 日本人って、海外で活躍する日本人でしか自身のプライドを保てない情けない民族になったんだな、と思いました。ひたすら「大谷を全米が大絶賛!」「大谷を韓国のファンも絶賛!」ばかりやっている。

 そして、日本国内で行われるスポーツイベントでは、「カナダ人記者が日本のスタジアムグルメのクオリティーの高さを絶賛!」なんてことを書く。本当に海外からの日本礼賛にしか頼れない惨めな国になったんだな、と思う大谷だらけのテレビ報道でした。

 しかし、テレビ東京=0回だったのは少しだけホッとしました。こういう時、空気を読まずわが道をまい進するテレビ東京には感謝です。

Source: Yahoo!ニュース

Date: 4/6(土) 6:05配信

Original: デイリー新潮

Author:  中川淳一郎

言われるまでもなく、小生が視聴したい「報道」の中には、もはやテレ東の「WBS」が含まれるのみだ。残りのニュース解説、ワイドショーは全て「エンターテインメント」に主観的には分類されている。 


しかし、このことで民間TV局を非難するのは、筋違いというものだ。

民間メディア産業は、文字通り「メディア=媒体」であって、何を伝える媒体かと言えば<広告の媒体>である。つまり、メディア産業の主たる収入源は広告収入、具体的には広告を出稿する顧客企業が支払うCM料金である。故に、民間テレビ局は放送レベルには元来関心は持っておらず(制作現場は良いモノを作りたいと願っているだろうが)、経営としては可能な限り多くの人が放送をみる、つまり視聴率を高くしたい、これが企業経営の目的変数であるはずだ。視聴率向上の努力は、顧客志向を実行しているわけで、責められる話ではない。その視聴率向上をもたらす素材が、いまは「大谷選手」なのであろう。それが支配戦略になっている以上、放送内容差別化の余地はない。

ロジックはこういうことだろう。テレ東の「WBS」は内容差別化戦略、というより「ニッチ戦略」を選んでいるからで、それは他局の放送が競合する結果として生まれるニッチ市場を狙ったものである、と同時に所属する人材の得意分野に基づくものでもあって、非常に理に適った路線である。

この辺のロジックは、SNSの巨人であるMETA社も同じである。META社は、最大のSNSプラットフォームで、世界で共有される世論形成の場を提供することを創業の理念としているはずだが、

理念だけでは収入を得られない

結局は、この論理に行きつくわけで、故にMETA社は「イイね」が多数付与されるような投稿が増えて、そこにある広告が多く視られることを求める体質があるのは、自然の理屈である。だから、いま問題になっているように著名人の名前を騙る「投資詐欺」の投稿規制にいま一つ積極的でない、それは詐欺であるにせよ投稿が多くの人に読まれるのはMETA社の利益に適っているからだ、と。そんな批判が寄せられたりするわけである。

広告の媒体を提供する事業と、良質なサービスを提供するという企業理念は、往々にしてトレードオフの関係にある。

TVだろうが、新聞だろうが、週刊誌だろうが、SNSだろうが、全てのメディア事業は上のような限界に直面している。


それはそれとして、

日本人って、海外で活躍する日本人でしか自身のプライドを保てない情けない民族になったんだな

引用したネット記事の上の下りだが、これはこれとして、当たり前のことで、日本人もやっと普通の国民になったんだナア、と。正直、そう感じております。

そもそも海外で活躍する日本人も国内で暮らす日本人と同じ日本人である。将来、海外で活躍するだろう少年少女も含まれているに違いない。そんな日本人が海外で活躍する日本人をみて喜ぶのは当たり前であるし、それを映像で視たいという心理も自然な欲求だ。

野球やサッカーばかりではない。日本人がノーベル賞を受賞したり、映画のアカデミー賞を獲得したりする時には、国民的祝い事として世間が盛り上がる。

そもそも日本人は<世界一>というのが大好きである。


日本国内の小さな成功では満足せず、広く世界に認められる仕事をして、グローバルレベルの大成功を目指す志は、失われた30年を通して、永らく待ち望まれたもので、これこそ明治の始め、昭和の終戦早々の時期には日本人が確かに持っていた<進取の気性>というものである。

ネット記事とは逆に喜ぶべき変化だと思う。

2024年4月4日木曜日

断想: 被災者に寄り添うとは・・・真の意味で寄り添えるのか?

この正月に能登半島で大地震が発生したかと思うと、昨日にはまた台湾でもっとマグニチュードの大きな地震が発生した。ちょうど朝早々で小生は定期的に通っている病院へ車を走らせている所だった。ナビに緊急通報が届いて「視聴するか」とのメッセージであったので「視聴する」を選ぶとワンセグ放送だろう、地震速報が流れてきたのだ。

ナビにも緊急通報が届くんだネエ

というのは、遅まきながらその時に知った次第。 

一日明けた今朝もワイドショーは昨日の地震にかかりきりである。番組担当のレポーターが昨日内に台湾まで飛んだのだろう、現地から被災地の情況を説明している。

倒壊寸前になった家屋の側には赤色をした、何という名の花だろう、美しく咲いているのが奇妙に印象的である。

小生: TV局のレポーターはわき目もふらず、倒壊した家屋の悲惨さを説明するのに、口を動かしている。その傍らには、美しい紅花が満開に咲き誇っている。家の人はいない。家を捨ててどこに避難したのか・・・

あるじなくとも 春を忘るな

だネエ・・・

カミさん: そんな言い方、ちょっと不謹慎だよ、台湾の人は大変なんだから。

小生: テレビ局の人は被害の悲惨に目を向け、芸術家は倒壊した家屋の横に咲く花を絵に描くかもしれないし、詩人なら呆然と立ち尽くす人の群れと、災害は関係なしとばかりに咲く花々を対比させて、詩の一篇を書くかもしれんよ。こんな言い方は、モラハラになるのかな?

カミさん: 感じは悪いと思うよ。

小生: 中国の詩人で杜甫って知ってる?

カミさん: その人、教科書で太字になってるヨネ、あたし、太字の名前は覚えてるのヨ(笑)。

小生:じゃあ

国破れて山河在り 城春にして草木深し

って知ってる?

カミさん: 聞いたことある。

小生: 『春望』ってタイトルだから季節は春なんだけど、唐王朝の時代、安禄山の乱で長安の都が荒廃してサ、みるも無残な風景になったのを詩にしてるんだよ。巷、巷には、行き場を失った浮浪者が数多いたと思うんだよね。それを「国破れて・・・」と詠っている。これも、考えようによっちゃあ、被災者からみるとモラハラになるかもね。呑気に詩なんか作ってないで、炊き出しでも手伝ってくれという人がいたかもネ。

カミさん: そうだね。詩を作るなんて適切じゃあないかもネ。 


よく『被災した方々に寄り添う気持ちをずっと持ち続けたいものです』と、テレビ、新聞といったメディア各社は力説しているのだが、所詮、被災しなかった人と被災した人は、もはや異次元の生活空間に立っているのが、冷厳な現実だ。

そして、人が世界をみる目線は色々様々である。

様々な人たちの中には、政府で働いている人たちがいる。その人たちは災害で困窮した人たちが難民となり社会的不安定を招かないよう生活を支援する仕事に当たっている。また、内乱に荒廃した首都の光景を詩にする人もいる。それが後の人の胸をうち、歴史に残る漢詩の傑作となることがある。そうかと思えば、食料不足に陥った都に食料品を運び、一山儲けようと企てる商人、農民の一団がいる。これら全てを含めた営みが人間世界の有りようである。そう思うのだ、な。

鎌倉時代の随筆家・鴨長明が著した『方丈記』も

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

こんな書き出しが有名で、世の無常を観想していると言われることが多いのだが、実際のところ『方丈記』は、京の都を相次いで襲った飢饉や大地震、大火といった災害がどれほど悲惨なものであったか、その被災状況報告が主内容(の一つ)になっている。

しかしながら、『方丈記』が日本文化において占める位置は、鎌倉期・京都の災害レポートというより、優れた文学的作品としてのものである。

まあ、何度も災害に襲われて荒廃した都をレポートすれば、世は無常とつくづく感じるワナ

というところか。そこには人間社会の本質を洞察している観察者の眼があるわけだ。


過ぎゆく歴史的時間の中で、後世代の人がいま現世代の人たちがやっているどんな仕事を評価し、どんな成果を残したいと思うのか、現時点においては分からない。故に、いま生きている人たちが、互いに人それぞれの営みをリアルタイムで論難し、大衆を動員しては倫理的判定を下そうとするのは、有意義なことではないし、まして適切でもなく、結局のところ儲かるのは紛争をエンターテインメントに変えるメディア業界とそこに出演する法律家だけである。大半の人はただ困るだけであろう。

人は自分に出来る目の前の仕事に精を出せばそれが必要十分、他人や世間を気にしながらイイ仕事は出来ないものである。

漱石が『草枕』で述べているように、

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。

忖度過剰、倫理過剰の現代日本社会はますます住みにくくなっている。これでは一流の人材から海外に流出するだけであろう。

やはり無常の世間というわけか・・・

【加筆修正:2024-04-05】



2024年4月2日火曜日

断想: 社会主義と同じく民主主義も行くところまで行くしかないのだろう

前稿の最後にこう書いている:

長岡半太郎が生きた明治という時代は天皇に統治権があった。国民主権ではなかったので、国民の側に統治の最終的責任があるわけではない。故に、日露戦争を知らずとも、一人の社会人として無責任であったとは言えない。

この意味で、長岡半太郎という生来の科学者は、文字通りの《良き臣民》であったわけだ。

こうした戦前期・日本に生きた人たちのメンタリティを自分で追体験できないことは残念だ。夏目漱石、森鴎外や島崎藤村、芥川龍之介、谷崎潤一郎、江戸川乱歩などの小説作品に登場してくる人物は、正に非民主主義的であった日本に生きていたが、作品を読む限り、作中で前提されている価値観の非条理を覚えることは(少なくとも小生は)ない。少なくとも理解可能である。というより、理解不能な社会を前提とした文学作品は理解不能のはずで読む気にはなれないだろう。


戦前期・日本が民主主義国でなかったことは自明である。それでも、明治から大正へ時代が移る時期に発生した「大正政変」より以降は、衆議院選挙で数的優位を得た政党の総裁が総理大臣に任命される(あるいは別に任命される人物を与党としてサポートする)慣行が始まり、国家の体制はともかく、政治は民意に基づいて行われる潮流が確かにあったのだと、個人的には理解している。

ただ、政治が民主的に行われるとは言え、参政権は(現代日本で流行っている言葉を使えば)いわゆる<上級国民>に制限されていた。それが非民主的要素だと判断するのは、確かに道理であるが、それでも戦前期・日本社会で最大公約数的だった社会心理は

良き「臣民」として生きて、カネのやりくりに困らぬ生活が出来りゃあ、それで十分幸せな人生ってもンです

自分で経験したわけではないので表現は困る。が、大体はこんなメンタリティで普通の日本人は生きていたのじゃあないかと想像している ― 実際、小生の祖父や祖母は、戦前から戦後にかけて社会人生活を送ったが、戦前期の日本社会が非民主的で、人権が全く無視されていたとは、思い出話の中で決して語らなかった。酷かった時代に生きた記憶があれば、率直にそう語っていただろうし、孫に見栄を張る必要はない。

非民主的であったはずの戦前期・日本社会でも、というより戦前期・日本社会であったからこそ、そこで生まれえた高尚な文化や洗練された芸術があったことを追憶する姿勢は、フランスの外相としてナポレオン戦争後のウィーン会議に出席したタレーランがアンシャン・レジーム下のフランス社会を美しくも回想した感性と、どこか共通する所があるように感じる ― それでもなお、永井荷風によれば、明治以降の近代日本そのものが、その醜悪さによって特徴づけられるのであるが。

要するに、戦前から戦後にかけて日本は非民主主義国から民主主義国へ変革させられたのであるから、日本人は民主化された日本を喜んでいたはずだというのが理屈になるが、実際のところは、そんな単純な機械的なものではなかった。そう思うのだ、な。


だから思うのだが、仮に日本の統治に最終的責任を負うのは戦前と同じく「天皇」であると規定して、その時々の総理大臣を(ある手続きに沿って)天皇が任命するという戦前期の慣習が復活したとしても、その他の社会制度がそのままであれば、日本人の大半は何も不満は感じないのではないか、と。そんな風に想像したりすることがある。

寧ろ、政権交代のない55年・保守合同体制を内容空虚なまま続けるよりは、社会的に評価される人物を天皇が総理に任命する方が、議会多数派の協力が要るにせよ、スピーディな政治が責任をもって実行できる。そんな風に思う日本人は意外に多いかもしれない。

もちろん、その場合でも予算や課税、外交や国防に関する事柄は、国会の承認が欠かせない。が、しかし、戦前期日本においても、基本はそうだったのだ ― にも拘わらず、戦前末期に政党と議会が機能マヒに陥った真の理由は今後何度も徹底して検証することが必要だ。

人は、社会がどう変化しても順応するものである。人は解決不能なことで深刻に悩んだりしない。1941年から45年まで続いた戦時中であってすら、自分にとって楽しい一日もあれば、哀しい事もある毎日だったという話を亡くなった母から聞いたものである。

幸福は社会の価値観やイデオロギーとは関係なく普通に生きる人に訪れるものだと思う。そもそも、何日か前の投稿で記しておいたが、日本では民主主義の実現が国民の間の幸福の実感に結びついていない。

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この間、脱線気味であるので削除。

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とはいえ

一度手にした普通選挙と参政権を日本人が自ら手放すはずがない。

行政府の長を選任できる権限を国会が自ら手放すはずはない。

これだけは断言できるだろう。 

ということは

社会主義も民主主義も一度始めれば、何がどうなっても、後戻りは不可能で、行くところまで行かざるをえない。

ひょっとすると、《国民国家》という統治モデルの現実妥当性に疑問が高まっていくとしても、自分自身を否定するような新しい国家モデルにソフトに移行できるチャンスはない。

こうも言えそうである。