2022年6月30日木曜日

ラッセル『西洋哲学史』の役立ち方

ラッセルの『西洋哲学史』は非常な大部の(大部過ぎる?)著作でありながら、読む人がまだ多いのだろうか、特に英語圏ではまだなお評価が高いようで、特に物理学者・アインシュタインが絶賛しているので有名らしい。

実はこのBertrand Russel"A History of Western Philosophy"がAudio BookとしてAmazonのAudible.comで無料公開されている。耳を馴らしておくためにそれを毎日聴いているのだが、人間の知的活動なるものの全体を雄大なスケールで総括する語りは、音声で聴いてこそ説得力が増すものだ。

時代を問わず、国を問わず、人間が物事を考え、議論するときの土台になる《知識》を問題レベルによって三つに分類している見方は、日本人も教養としてもつ方が良いと思う。

一方の知識基盤に《科学》がある。科学的知識は最も確固とした真理として人は認めざるを得ないという認識だ。これと正反対にあるのは信仰、ないし《神学》であって、その基礎には独善(Dogma)がある。公理と言っても可だ。公理を疑えば神学は成り立たない。その公理が真であることを信じようとする心情は「情熱(=Passion)」である、と。三番目に、科学では回答できず、かといって独善的な信仰によるわけでもなく、あくまでも人間の理性で考え合理的議論を通して結論を導きたい問題がある。それが《哲学》に期待されている知的活動である、と。このラッセルの説明は、非常にバランスがとれていて、感動的な(?)部分だ。


ラッセルは、科学でもなく、哲学でもなく、ドグマ的情熱が人間を支配する心性は古代ギリシア文明が形成される往古から連綿と継承されているものであると議論している。

理性ではなく独善を根拠とするのはディオニュソス神信仰に発するもので、哲学者プラトンのイデア(=理念型)にもつながる知的活動である。知的なアリストテレスが大地を指し、プラトンが天を指すラファエロの名画とラッセルの講義は、見事に整合しているわけである。


Source:Wikipedia


いわゆる「ナショナル・アイデンティティ(National Identity)」は国家の存在価値とでも言える問題意識だが、この概念はまさしく情熱を根拠とするものだろう。

戦後日本の問題は、敗戦時に日本のナショナル・アイデンティティが否定され、そうかといってアメリカのナショナル・アイデンティティを共有しようとする選択もせず、また許されるわけでもなく、ただ理性のみによって戦後日本のアイデンティティを構築しようとしてきた点にあると、小生は思っているのだな。

故に、危機の際には明治維新体制より昭和戦後体制の方が国民にとって暮らしやすい社会であるにもかかわらず、いざ防衛に直面すると三島由紀夫が心配していたように「命を何よりも大事と思う合理的な」人たちばかりで大変脆いのではないかと予想している。知的な意味での弱さは行動面の弱さにも表れるものである。最近は、アメリカとナショナル・アイデンティティを共有しようとする奇妙な標語を駆使しているようだが、いくら価値の共有という分析的概念に落とし込んでみても、アメリカ人がアメリカを守ろうとする情熱は日本人がそのまま共有できるものでもないだろう。話芸に頼った知的マジックには自然と限界があるものだ。

言葉は、所詮、言葉でしかない。

要するに、日本の言論は痩せている。片輪走行である。まるで自動車に対する自転車のようなものだ。どこが痩せているかという問題意識はラッセルの著作を読むと必ず刺激されることだろう。






2022年6月29日水曜日

ホンノ一言: 「コロナ」も「電力不足」も、「国民運動」しか打つ手を思いつかないですか?

多分、これも「想定外」であったのだろう急激な「世界的資源インフレ」に襲われている中、更に6月にしては異常な酷暑と最近年の慢性的電力不足とがあいまって、日本国内の大都市圏は極めて危険な経済状況に立ち至っている。物価問題だけでも対応が難しいのに、経済産業省は国民に「節電」を呼びかけるのに必死である。また再び「国民へのお願い」である。

この現状を招いた「戦犯」を世間は探しているようだが、詰まるところ、二つの陣営に分かれているようだ。

  1. なぜもっと速やかに原発再稼働を進めてこなかったか?ベース電源として原発を活用する意志を持つなら、もっと速いスピードで電源正常化を進めるべきであった。
  2. なぜもっと速やかに再エネ投資を拡大してこなかったか?福一原発事故を繰り返さないためにも原発ゼロを確かなものにしておけば、太陽光発電だけではなく広範にグリーン投資が行われ、送電網の整備も進んだはずであった。
双方の言い分は、将来の不確実性の上に立った議論でもあり、どちらが正しいかの決着はそもそも難しい。どの選択肢を選んでもリスクが伴うとき、それでも意思決定を行わなければならないとすれば、それは《政治》以外にはないわけであるから、究極的には東日本大震災以後の不徹底は<政治の責任>としか言えないだろう。日本は政治主導と言いながらも、本質的には<官僚丸投げ体質>から脱しておらず、政治家はリスクをとろうとしない。この辺りは戦前期・日本の方がはるかに活力がある ― あり過ぎたかもしれないが。やはりここでも
頑張る現場とダメな上
が当てはまるようでもあり、
ダメな上にはダメな下
に最近はなってきたかのかナア、と。そう感じることも増えてきたわけだ。

さて、小生は本ブログに何度も投稿しているように、原子力エネルギーの活用は20世紀の物理学が人類にもたらした巨大なプレゼントであると考えているので、原発重視が基本的立場だ。だから、20世紀の原発技術から現時点ではどの程度の技術革新が見られているのか、日本人もバランスのとれた知識を持つ方がよいと思っている。これは価値観の問題ではなく、理科教育と科学的教養の問題だ。科学オンチ、技術オンチでは困るわけである。

それにつけても、上のような丁々発止の激論をなぜNHKばかりではなく、民放のニュース解説(というよりワイドショー?)でもメインの話題にせず、今は選挙期間中でもあるのに《政策討論会》を各局、各ローカル局が企画し、有権者が視る前で立候補した政治家たちが堂々と論争するという状況にならないのか?そこが全く不思議である、というより今の政治家の臆病には
失意のあまり涙コボルル
である。問題が指摘されているがアメリカの大統領選挙が羨ましくなるというものだ。

少し考えてみるだけで、
  1. 総電力供給量が不足しているのに、《蓄電池にも使える電気自動車(EV)の普及》はその場しのぎの漫才としても、《製造業の国内回帰》など(真面目な話しで)不可能ではないか。製造業拡大など夢のまた夢。むしろ一層の製造業空洞化を心配すべき状況だ。しかし一方で、グローバル経済の時代が曲がり角を迎え《経済安全保障》が重要になってきたという現実がある。こんな脆弱な電力事情で新たなサプライチェーンを日本国内に再構築できるのか?メドはついているのか?
  2. 再エネ投資は、ザックリと言えば、休耕田活用という名目ではあるが基本的には既存農地を削減するか、でなければ森林、海洋など環境資源を開発するという筋合いになる。気象変動(Climate Change)による水害や崩落、食料資源の国際的制約が懸念される中で、エネルギー供給のためとはいえ、自然環境や農業ポテンシャルを毀損していく方針は合理的か?バブル時代の「ゴルフ場開発」が姿をかえて今度は「再エネ開発」にならないなら幸いだ。国が旗を振ればロクなことがないからネエ・・・群集心理ほど怖いものはない。
マア、こんな論点が次々に出てくるわけであり、とてもじゃないがワイドショーで「ちょっと話してみる」というレベルでは収まらない。総合的かつ多角的に議論するべき重要な政策テーマがここにあるわけだ。

ところが、国政選挙が間近いにもかかわらず、真面目な《政策討論会》がサッパリと企画されない、企画されても話題にならず、関心が持たれない。1枚のパネルに重点政策を箇条書きしただけで、あとは選んでくれ、と。

まったく
ボーっと生きてんじゃネエ!!
チコチャンに喝を入れてもらうべきなのは、政治家なのか、日本のマスコミなのか、それとも日本人全体なのか、よく分からない。

よく分からないが、真に重要な問題を正直に議論しようという人がいない、するべき人が逃げている。ビリー・ジョエルではないが欠けているのは"Honesty"だろう。それも仕方がないと国民の多くが諦めている、そんな今の状況が最大の問題だと言えば確かに最大の問題だ。

経済理論としては「勘違い」ではあったが、暗殺をも怖れず「金解禁」を断行し経済正常化を実現しようとした昭和初期の首相・浜口雄幸と蔵相・井上準之助の『男子の本懐』がまるで別の国の出来事のように感じる。


2022年6月26日日曜日

ホンノ一言: 滑り台の横からブランコは危険な遊具だと言ってもネエ・・・そんな記事の一例

原発リスクの指摘が世間では盛んである。今日もこんな記事を見つけた:

ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、原子力発電をめぐる議論が活発になっている。米欧のロシア産原油の輸入禁止・削減によって、火力発電の縮小を余儀なくされて電力供給不足が懸念されるため、電力の安定供給の観点から原子力発電の維持・推進を求める声が出ている。その一方で、稼働中の原子力発電所が実際に攻撃されたことで、安全評価で戦争リスクを想定外とはしにくくなっている。

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2013U0Q2A620C2000000/

Source: 日本経済新聞、2022年6月26日 2:00

確かに戦争で敵国の標的になれば原発施設は危険だ。

しかし、小生が攻撃側にいれば、(破壊を目的にするとしても)原発を攻撃して(万が一の場合)当該地点周辺を長い期間にわたって居住不可能にするよりも、水力ダムがあればダムの方を破壊して破滅的な水害を起すほうを選択する。破壊と喪失という意味では両者は同じだが、こちらの方が敵国に与える打撃が大規模かつ短期集中的で、かつ一過性であるからだ。精密誘導が可能なら、重要地点にある堤防など治水インフラを破壊しても十分に有効だろう。

戦後のインフラ再利用に暗黙の了解が得られているような限定戦争を想定するなら、過剰な警戒感で経済の最適化を放棄するのは、むしろ有害である。

戦争は合理的に考えれば、双方にとって割の合わない高コストの政治手段で、ハイリスクであるのだが、だからといって何故に戦争時において原発施設がもつ脆弱性と危険をピックアップしフレームアップする議論にしてしまうのか?


昨日までアップしていた第一稿では否定的な感想を述べていた。が、よくよく考えてみると・・・

原発→核燃料→核兵器開発というロジックがあるに違いない。確かに、今次「ウクライナ戦争」でもロシアはウクライナに対して根本的な警戒感をもっていたに違いない。

やはり

核保有国にあらずして、原子力エネルギー活用を進める

こんなエネルギー戦略を選ぶには何らかのコミットメントが要るのかもしれない。《核兵器禁止条約》に参加する位の行動は隣国の疑惑を招かないためには必須の配慮かもしれない。これがロジックかもしれない。

日本政府(?)がここまで原発継続に執着しているのは、単にカーボンゼロを、安定的かつ比較的安価(?)に実現できるというエネルギー戦略上の優位性が唯一の理由なのか、首都の群衆から遠く隔たっている小生にはピンと来ないところがある。


考え直した結果、昨日までの第1稿から主旨がかなり変わってしまった。ここが随時上書き修正可能というブログならではの利点だろう。

但し、もちろん、戦時の攻撃目標の王道が軍需品生産など製造業が集中する工業地帯であることは言うまでもない。

2022年6月23日木曜日

ホンノ一言: 賃金引上げ?・・・「構造改革」は二つの選択肢にしぼられる?

参院選がスタートしてから、日本でも賃金引上げ、そのための生産性向上が議論されるようになった。これだけでも日本社会は<1歩>前進したように感じる。

10年ほど前までは<生産性>という言葉を使うと、『生産性を上げろと言うのは経営者本位の発想だ。もっと働けということだろう。怪しからん。』と。マア、こんな批判が野党やマスコミから津波のように沸き起こってきたものだ。確かに「生産性向上」の圧を感じないまま、一律昇給、一律昇進、定年再就職という人生は

〽 サラリーマンはア~~、気楽な稼業ときたもんだあ~~

と。まこと高度成長以来、日本の「企業戦士?」たちは、とりわけ大企業に勤務する恵まれた一部の戦士たちは、日本的経営の下で安楽に過ごせてきたわけである。確かに従業員本位の社会であった。それが、ずいぶん日本社会も変わってきたと思う。

もう限界かもしれない

と。リーマン危機では金融のシステミック・リスクが云々されたが、今度は日本的経営体制のシステミック・リスクが論議されようとしている。

どうやら、このキッカケは

韓国にも平均賃金で追い越され、これはイカン、と。

超保守的な戦後左翼、反改革派の野党も日本の凋落にはやっぱり不安感、危機感を感じると見えて、失業率の一時的上昇を覚悟してでも、最低賃金大幅引き上げを主張するようになっている。共産党系の野党など1500円を主張している。引き上げ率50%!韓国の文政権が断行した大幅賃上げなど「目じゃない」、義をみてせざるは勇なきなりというか、盲人、蛇におじず、というか、まあ米大リーグの大谷選手ではないがスゴイ公約が並んでいる。

最低賃金引上げといえば、菅内閣時の「成長戦略会議?」であったか委員に任命された英国出身の元金融マンで現在は京都にある ― と思ったが、日光東照宮造営にも関わった江戸発祥の企業であった — 伝統工芸品企業の社長をしているデービッド・アトキンソンが有名である。

今朝辺り、テレ朝の「モーニングショー」のコメンテーターとしてア氏が出演していたから、韓国の文政権が断行した最低賃金大幅引き上げを日本も模倣しようという流れになりつつあるのかもしれない。

アトキンソン氏、相当の自信がある様子だ。

何日か前、悲劇を別の舞台でまったく同じ内容でそのまま再演するなら、観衆は今度はそれを喜劇として鑑賞し、お笑いにするものだという人間心理を述べた。

日本と韓国と労働市場の構造はかなり違うが、まずは政策実験をしてみる勇気があるなら、やってみるのが最善であることは確かだ。歩きながら考えることが大事で、考えていても状況は変わらない。

下手な考え、休むに似たり

この格言は経済政策にも当てはまる。

先週末から今週初にかけて東京まで往復した。いや、マア、とにかく暑かったという感想で北海道に戻って機外に出たとき吸った空気にホッとしたものだ。

その帰りの機内で考えていたことをメモしておこう。

この30年間、日本の平均賃金がほぼ横ばいで、こんな先進国は他にはない。いま解決するべき最大の課題は《構造改革》である、と。こんな認識が浸透してきたこと自体は、未来への希望を高めるものだ。が、その「構造改革」とは、具体的には何を指すのか?何を目的とする「改革」なのか?ここが最も重要なポイントだ。

「構造改革」で目指すものとは、分かりやすく言えば

構造改革 → 労働生産性の向上

これに尽きるわけだ。この点は、今朝のアトキンソン氏が<バカでも分かる生産性と賃金の関係>を話していた。

企業と言うのは、要するに100で仕入れたものに、付加価値をつけて、200で売る。これに尽きるわけだ。経営者と従業員が加えた付加価値100が賃金支払いの原資となる。なので、同じ人数で付加価値を100から200に増やす。200で売れていたものを300で売れるものに出来れば、1人当たりの労働生産性は2倍に上がる。その人が支給される賃金原資も2倍に増える理屈である。つまり、生産性を上げずに賃金を上げるのは不可能である ― もちろん、生産性の問題ではない。資本家の報酬を削減して、従業員に分配すればいいのだと主張するマルクス的視点もある。しかし、経営者の報酬を削減しすぎれば、利益率が社会の平均に達せず、経営意欲が失われ、信用もなくし、企業自体が消えて行くだけである。

当たり前の理屈をやっとメディアも率直に語り始めたようである。


この当たり前の理屈を率直にテレビ画面から語らせる状況に至っただけでも、日本メディアの進歩である ― 正しい理解を得るまでかくも長い時間を要したことはメディア業界の酷い勉強不足の表れであったという非難は免れ得ないが。

さて、生産性向上には二つのアプローチしかない。これを考えながら旅行から戻って来た。

① 「市場競争と適者生存」の徹底 = 市場ディシプリン重視路線

生産性の高い企業と低い企業が同じ商品市場で競争するとき、高コスト体質を改善できない低生産性企業が生き残るのは困難になる。価格競争で勝てず、製品競争でも財務的余力がなければ負けるだろう。もし負け組のゾンビ企業を延命させることなく、市場から早期に退出させれば、負けた企業に属していた有能な人材は勝ち組企業に移籍し、その社の成長に寄与するはずである。他方、能力不足の社員は成長企業に移籍することができず、(おそらく)より低い賃金で再就業するしかない。短期的には弱者に社会的調整コストがしわ寄せされる。が、低生産の停滞企業の縮小と高生産の成長企業の拡大によって、日本全体の生産(=GDP)が増える。同じ就業者数でアウトプットが増えるのは社会全体の生産性が上がるということだ。それによって平均賃金の上昇がもたらされる。


② 労働市場改革 = 労働者個人の権利保護重視路線

有能な人材がより高い報酬機会を求めて自由に企業間を移籍できるように雇用慣行、労働法制を変更するというアプローチである。必然的に勤続年数で賃金が決まる年功賃金ではなく、その人が担当できる職務内容から賃金が決まるジョブ型賃金へと移る話しになる。年功賃金・終身雇用を原則とする日本型雇用の終焉を意味するわけだ。高い報酬を支払える新興企業が停滞している既存企業から有能な人材を奪取しようとするとき、その人材が在職企業内で形成してきた様々な資源をどの程度まで属人的資産としてトランスファー出来るかが非常に重要である。年功型賃金では中途退社・中途入社で個人的に失うものが大きい。これを解決し、勤労者個人を保護する法制が望まれるわけだ。企業の所有に帰する経営資源と社外に転出する社員個人に帰属させるべき社内資源との明確な線引きがポイントとなる。このような労働市場流動化が実現すれば、結果として、有能な人材がヒトを求める成長企業に集中、拡大し、停滞企業は人材が空洞化し、企業規模は縮小する。

帰りの飛行機の中でざっと上の二つの方法を考えていたわけだが、いずれにしても

ヒトを求めている成長分野を拡大させ、ヒトが余っている停滞分野を縮小させる

結局、日本経済の低成長と賃金停滞とは裏腹の関係にある二つの現象であって、その基礎にある経済的ロジックは極めてシンプルなものでしかない。簡単に言えば、

日本経済の停滞は停滞分野が縮小しないことによってもたらされている。

こう言えばそれに尽きるわけだ。

今日の停滞分野は、さすがに「重厚長大」型産業が財界を牛耳る時代ではないが、やはりまだ日本の産業政策には隠然たる影響力をふるっている。その停滞分野につながる企業に切り込み、それを縮小させる道をつける。これが政治的にいま日本がやるべきことなのだが、さて古い保守党である自民党にそれが出来るか?これが現時点の日本の政治的課題なのである。

アメリカやヨーロッパであれば、利害が対立する2勢力があれば、それぞれが異なった政党を支持し、政策的に対立、交替するものだが、不思議なことに日本ではこの対立構造がない。「労働者 vs 資本家」という174年も昔にマルクスとエンゲルスが提唱して今ではカビの生えた「階級闘争路線」を奉じて多くの政党が野党を延々とやり続けている。現代固有の対立構造を観察し、自党の支持基盤をどこに求めるか、政党のくせにそれも考えていないのか、と。まったく非現実的かつ無能な政略で、これが小生には「七不思議」なのだ。

成長分野とは、一口にいえば需要超過分野のことであるから、状態としては人手が足らない分野のことである。いくら経済オンチであっても、今日の日本にあって、どの分野にビジネスチャンスがあって人が足らず、どの分野では販売に苦戦し人が余っているか、この位は分かるだろうと思うのだ。

この辺の話題は既に何回も投稿しているので、<日本病>をキーワードにブログ内検索をかければ 、これまでの議論の流れは分かる。

2022年6月21日火曜日

断想:「政府の責任です」という言い方は評点「可」もしくは「不可」だよネエ

マスコミ、と言っても今日的状況では新聞よりもテレビであるわけで(そして、そのテレビですらマスメディアとしての影響力を失いつつあるのだが)、それが

これは<政府>の責任です

と、こんな言い方が頻繁に、というより余りにも頻繁に聞こえてくるご時世だ。


素朴な疑問がある。

《政府》という言葉にどんな意味を込めて使っているのだろう?

政府って《行政府》のこと?

だとすれば、こういう言い方はおかしいのじゃないか。日本はアメリカと違うのだ。 

こんな風にTV画面の前で声が出てしまう自分がいたりする・・・

いやはや、トシである。

 

政府が即ち「公的権力」という意味ならば、法律的根拠に基づいて「徴税権」や「捜査権」、「拘留権」など公的権限を有している機関がすべて含まれる。拘留権どころか司法権を含めるなら死刑を言い渡して命を奪う権力も日本にはある。しかし、ここまで広義の範囲で使うなら「政府」ではなく「国」という言い方をしているはずだ。

であるから、マスコミ辺りが「政府」と言うときは、先ずは「首相官邸」、これでは余りに狭い場合は「中央官庁」というイメージで、そう言っている印象がある。本当は徴税権や捜査権などをもつ都道府県や市町村も「政府」であるはずだが、なぜだかそれらは「自治体」という言い方をしているのが、やはりメディア・ボキャブラリーであって、この辺の語句の使い方は明らかに大学、学界とは異なっているように感じる。

しかし、マア、テレビのMCや専門家は、漠然と「▲▲省」、「〇〇庁」くらいの意味合いで「政府」と語っているのだと思うし、「政府の責任です」と言うのは「担当大臣の責任」、「担当大臣を任命した総理大臣の責任」ですと、言いたいのはこれだろうというのは分かるのだ。

しかし、こんな原稿では・・・大学で学生が提出するレポートでこの程度のレベルの文章を書けば、評点は<可>もしくは<不可>になると感じるのだ、な。


対米戦争を始めた責任は当然ながら「日本政府」にある。が、これでは実質的な内容は何もない。ゼロに等しい・・・と、気づくところから、勉強は始まるし、報道も同じことなのではないだろうか。

「責任は陸軍にあります」、「いや、海軍にもあります」、そんな思考の流れの末に「いや、いや体制からして天皇に責任があります」・・・あらゆる言い方がある。そのどれもが言い方としては正しい。しかし、どの言い方も単なる<言い方>に過ぎない。だからこそ、現代の日本人は一体日本はなぜアメリカと戦争を始めたか、その責任の帰着をまだ正しく本質に沿って理解していないのであるし、寧ろキチンと究明されていない状況を諦めてもいるわけだ。

先ずは、こう言っておけば間違いない

報道の現場でこんな割り切り方が支配的になっているなら、もうそこには研究という活動はありえないし、報道をしているならロクな報道にはならない。

一体、「間違いない」というのはどういう意味か?「間違いない」というのは「こう言えばそれは間違いだ」という是非の基準があって初めて言えるわけだ。そして是非の判断ができるというのは、前提としている目的や理論がある。故に、「間違いない」という人は、そう考える理由を求められるときに、ちゃんとアカウンタビリティ(accountability)を果たさなければならない。そう思うわけだ。


日本は国会が行政府を指導、管理する体制だ。大統領はいない。議院内閣制である。故に、政府と言う場合には国会を指す意味合いで使うべきだ。現にイギリスの新聞は▲▲議員、〇〇党に視線を向けていて、◇◇省や□□庁がニュースになるのは、何かを発表した時である。日本に置き換えれば、政府の責任というなら、議員である首相、議員である外相と言うべきであるし、つまりは自民党(と公明党)の責任と言わなければならない。

そして自民党の責任というなら、前回投稿でも触れた能力分布を考慮するなら、党の指導的立場にある極々数人の議員の言動に注意を集中するべきなのである。米英のマスメディアは、省庁や組織というより具体的な人物の発言や思想、傾向を頻繁に報道する。

なぜ日本ではそうなっていないのだろう。憶測するに、《記者クラブ制》という制度(?)と省庁という組織が一体になって、日本の政治報道、というより政府報道が展開されているからだろう。

これもメディア産業の「構造問題」の一つを為している。


そもそも、政治は人間関係の中にある。取材も同じだろう。それも「深い人間関係」の上に政治はある。「社内政治」、「学内政治」、全て同じだ。ところが、不思議なことに戦後の、というより現在の(?)日本社会は、日本国憲法のタテマエ的性質をより明瞭に意識しつつあるせいか、政治を人間関係として認識することにネガティブで、ますます社会メカニズムとしての政治というか、なにか実現するべき理想として考える傾向を強めているように見える。少なくとも小生はそんな感覚をもっている。人間関係の中にいれば言葉や態度で自分を表現しあうものだが、そこにはあらゆる要素がある。忖度だけではなく、 揣摩臆測 しまおくそく もある、 阿諛追従 あゆついしょう もあって当然だ。 面倒で仕方がない。もっとスッキリできないかと「何トカ政治」の嫌いな小生は願っているが、しかし、非合理で矛盾した人間が衝突する所に政治は必要になるわけだから、あらゆる▲▲政治が非合理的でドロドロしてくるのは当たり前のことだ。この程度の理屈は、成人式も済めば、誰でも分かっているはずなのだが・・・なので、メディアもこんな知的関心に応える政治報道をしてほしい。それが『これは政府の責任です』とはネエ・・・『ボウッと生きてんじゃねえ!』でしかないわナア。

大体、組織のルーティンワークはマネジメントであって政治ではない。ルーティンから出てくる固い情報をメカニックに集めても、清潔かつ透明で不潔感はないが、それは広報であって政治報道とは真逆の活動である。

今日もボヤキになった。同じ内容の事は何度も書いているから、この辺で。

2022年6月17日金曜日

断想: デモクラシーが善いか、悪いか、理屈では分からない

 前に<能力分布>について投稿したが、その中にこんな下りがある:

つまりどんな主題に関するレポートでも

10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。

大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。

面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。

つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。

民主主義的方法で重要事項の意思決定を図るとき、上のような分布が致命的に働くのではないかと思うようになった。

例えば国会議員に支給されるいいわゆる「文書通信費 」であったかな — まあ語句はどうでもよい。語句の正確性など拘るほどの重要性はない理屈だ。「ああ、あれネ」と分かれば十分だ。その使途を公開しようと検討してきたところ、この国会では結論が出ず、先送りになった。

もちろん真剣かつ有能で、仕事の出来る議員もいるわけで、そんな人たちは前向きかつ未来志向で適切な意思決定をしようと考えている(のだと信じている)。しかし、国会議員のレベルも(おそらく)玉石混交なのだろう。有能なヒトは少数で、平均未満の議員が過半数を占めているのだと推測する。低レベルの議員は落選すれば、民間で良い職業機会もなく、現職を続けることのみを希望するのだろう。現職にあって享受できる利益は将来もそのまま受け続けられることを望むだろう。どれほど一流の議員が改革を欲しても、平均未満の階層が反対に回れば、物事は決まらず、結果は《現状維持》になるのである。

デモクラシーとは多数者の支配という意味である。人数で物事を決める民主的決定を覆すには、「勅令」など君主制の下の君主の意志、もしくは三権分立の下で司法権に付与されている権限によるしかない ― 選挙無効、選挙区変更などはその好例だ。

立法府の議員達は日本社会の中では「選良」であり「エリート」である理屈だ。しかし、当選から就任に至るまで、どれほどの能力審査が行われているのか、不勉強にして知らない。おそらく驚くほどの職業的実績のばらつき、資質のばらつき、志のばらつきがあるに違いない(と思っている)。

非民主主義社会が円滑に運営されるには障害が多いと民主主義社会は言うが、民主主義社会が望ましい決定をするのかという点についても、確認するべきことは多い。<三権分立>は機能障害を防止する仕掛けの一例だが、もっと多くの仕掛けを追加するべきだと思うことは多い。

2022年6月15日水曜日

ホンノ一言: どうせ同じ結果になるなら・・・という割り切りが必要なとき?

アメリカの中央銀行当局FRBが世界的インフレに賢明に対応できるかどうかで議論が続いてきたが、どうやら当局自身が政策判断のミスを認め始めてきているようだ。

ウォール・ストリート・ジャーナルには

パウエルFRB議長 OLIVIER DOULIERY/AFP/GETTY IMAGES

バイデン米政権関係者や連邦準備制度理事会(FRB)高官は、インフレへの対応を誤ったと公の場で認めている。 

この失敗の背後には、経済を誤って解釈したことがある。 

URL: https://jp.wsj.com/articles/how-the-fed-and-the-biden-administration-got-inflation-wrong-11655178437

Source:WSJ、2022年6月14日

Author:Nick Timiraos and Jon Hilsenrath

The New York Timesの別記事からはこんな予測の形成されつつあることが伝わってくる。

A second stage to the market’s downturn is likely still to come, Ms. Shah said. Stocks could fall further as evidence of the economic trouble appears in corporate earnings, consumer spending and other data that show that the worst expectations for the economy are being realized. The new wave of selling may not happen until closer to the end of this year.

 URL:https://www.nytimes.com/2022/06/13/business/stocks-bonds-crypto.html

Source:NYT、June 13, June 13, 2022

Author:Mohammed Hadi and Jeanna Smialek

企業利益の減少、消費支出の減退が明らかになるにつれて株価は一層下落していくであろう。こんな予想が形成され始めている。リベラルなクルーグマンやサマーズよりかなりペシミスティックである。期待インフレの高まりはまだ見られないかもしれないが、不況が予測されるようになった。短期金利が長期金利を超える逆イールド現象も見られ始めた。どうも最悪の展開となる確率が高まってきた。

やっぱり、ダメだったか・・・というところだ。

少し以前にこんな投稿をしている。

1992年の大統領選挙で共和党のブッシュ大統領が民主党のクリントン候補に敗れたのは、選挙当時の経済的苦境が大統領の足を引っ張ったからだが、それは何もブッシュ大統領の責任ではなく、ある意味で世界経済の"Boom and Bust"に巻き込まれた点で運命的な敗北だった。同じように、この秋の中間選挙で民主党が負けるとすれば、それも運命的なものだろう。いま何をしても、やって来るのはインフレ加速か、不況かが変わるだけで、同じことなのである。

同じ結果が待っているなら、国民経済がより痛まない方を選ぶべきだろう。

やって来るのは<不況>か、<インフレ加速>か、そのどちらかになりそうだ。どうも<ソフト・ランディング>という理想のシナリオ通りには出来なかった模様である。

どちらに振れても選挙では敗北要因だ。となると、どうせ負けるなら(繰り返しだが)より混乱の少ない方を採るべきだ。対中外交戦略もあるのでどちらを採るか難しいところだ。

インフレを加速させてしまえば1970年代から80年代にかけての苦闘の10年間が思い出される。インフレを叩き過ぎれば、バブル崩壊後の日本のようになるかもしれない。難しい。だから経済運営の名手は『マエストロ』と敬称されるのである。

経済運営のマエストロと協調しながら国際外交戦略を進めるのは政治の名人だけである。

岸田政権は選挙戦略を要領よくやっているような印象だが、バイデン政権は泥沼の中で秋の中間選挙を迎えそうだ。これもその人のめぐり合わせというものか、はたまた自業自得というものなのか。

2022年6月12日日曜日

ホンノ一言: 「新しい資本主義」に対する世間の反応について

岸田政権が発表した今年度『骨太の方針』に岸田首相がご執心の「新しい資本主義」が反映されているというので、結構、マスコミの餌食になっているようだ。

格好のターゲットになっているのが《資産所得倍増》という単語である。もちろんこれは宏池会内閣の元祖である池田勇人首相が掲げた「国民所得倍増」の二番煎じである。何事もそうだが二番煎じは必ず薄味になるものだ。いや「薄味」どころではない。

よく見ると、盛り付け、飾りつけはソレラシイが、食エタ物ジャナイのは、

現預金を投資に振り向けて資産所得倍増をもたらす

これは政策レシピになっていない。滑稽に過ぎる。ホントに真面目にこんな政策を考えているのか、と。責任とれるのか、と。呆れました。

余りの愚かしさに絶句しつつ今朝もカミさんと話した:

小生: 貯金で株でも買わせようって腹なのかね?どこの株かな?バッカじゃないのかって言われるよ、ホントに。証券会社から頼まれたのかネエ・・・

カミさん: どの会社の株を買えばいいのか普通の家庭に分かるのかな?

小生: それより以前にサ、そもそもこれまでは銀行や郵貯に預金して、そのカネを向こうが融資とかで運用して、その運用利益が利子になって戻っていたわけだよ。今後は、銀行や郵便局に頼るのじゃなくて、自分で判断して、投資先を選んでください。理屈はそういうことだな。

カミさん: でも自分で株を選んで投資するって言われても、損をするのが心配なんじゃないかな?

小生: そのリスクをこれまでは金融機関が引き受けていたんだよね。その金融機関がだよ、最近は有望な融資先がなくなって困ってるんだよ。もう日本で事業をやってる企業が銀行に貸してくれって頼まなくなった。お金は十分持ってます。そんなご時世なんだよ。たまに融資を申し込む企業があれば、資金繰りが苦しいとか、スタートアップ企業があれば利益が出るまで金利を減免してくれとか。もう銀行が預金者に利子をつけてくれる時代じゃなくなったんだよ。

カミさん: そうなんだあ・・・

小生: 今は郵貯の定額貯金の金利がもう0.002%だからネエ。100万円を半年複利で10年間預けても、もらう利子は200円くらいだ。これじゃあ郵便局まで行ってくるバス代にもならない。タンスにしまっておく方が便利だな。日本ではもう余ったお金は預けてもダメですよって、お上も国民にそう伝えているわけさ。まさか「知らなかった」とは言わないヨネ。 それを急に『投資しましょう』って可笑しくないかい?マ、総理大臣になったばっかりで、現実を把握できてないンだろうね。

カミさん: でも投資しなさいって言われても、会社って、大体、赤字なんじゃないの?

小生: マ、「大体」は言い過ぎだけど、当たらずと言えども遠からず、かな。だけどネ、経営の論理としては、いまは赤字でも成長性があって将来に利益の出るビジネスプランがあれば、銀行はやっぱり貸してくれるんだ。金融支援すれば将来には優良貸出先に大化けするからネ。それがなくなった。要するに、日本国内に儲かるビジネスが見つからなくなってきた。どこもかしこも守る一方で先細り。将来性がない。だから成長を諦める。で、カネが余る。会社でも銀行でも持っているカネを減らさない方針でやる。カネは確かに余っている。けど、減らさないようにやる。自分や従業員の生活があるから首は切らず雇用は守る。赤字でも細々続ける。たとえ黒字でも慎重に手堅くでリスクはとらない。だから企業全体としては益々手元のカネを増やしている。日本の会社は大体こういう状況なんだよネ。要するに、稼げなくなっている、というより稼ごうとしなくなったのかもしれないけど、こういうことだよ。こんな状態でサ、日本企業が《投資対象》になるかい?株価は長期横這いだろうし、配当も渋いってことだよ。マ、どの会社の株を買っても、それは一時の値上がりを待つ「投機」だな。成長を待つ「投資」じゃない。国民に投機を進める首相がいるだろうかね?

カミさん: 財産そのものは一杯持ってて困らないけど、収入は少ないから、財産を減らさないように細々やっているイメージってこと?何だか年寄りみたいだネ。

小生: 人は高齢化すると元気がなくなるけど、国が丸ごと元気がなくなるなんて、政府にヤル気がないんだよ。いま世間に出てくるのは、シルバービジネスも過当競争になってきてネ、せいぜいが少額、かつ小規模のネットビジネスか、グリーン何とかで、「新規事業」って言っても、これならクラウド・ファンディングで何とかなるわさ。マ、クラウド・ファンディングに応じるのも投資の内ではあるけどネ。だから『あなたお金が余ってますね。投資に回しなさい!』って政府が声高に旗を振っても、ダメなのよ。止まったものは動かない。銀行にも、企業にも有望な投資先が見つからないのに普通のヒトがどこに投資するの?銀行や郵貯がお金を預かってもチャンスがなくて増やせないんだよ。普通のヒトは増やせるの?そういうことサ。

カミさん: 確かにねえ、アタシも最近教わって株を買ってみたけど、株主優待が魅力だって会社はあるけど、安心して買えるのはないもんネエ・・・結局、教えてくれたアメリカの投資ファンドを買うしかないものネエ・・・日本は利回りも低いし、上がらないし・・・

小生: ビジネスが動くように、やりたいビジネスを止めている障害を取り除くのが、今の日本では最優先事項なのさ。投資先を作れば、日本にはまだカネが余っているんだから、自然に流れていくよ。マ、いま止めている投資先を開放するなんて、自民党には無理だろう。野党も自民党にとって変わりたいって考えてるだけで発想は同じさ。政治的に力で押そうとしたら、スキャンダルが暴露されて既得権層から背中を刺されるのが落ちだ。そういう社会になっちまったんだな、とうとう。マ、お先真っ暗だ。 もう戦前の「新体制運動」じゃないけど、武断的に挙国一致体制を組むしか突破できんだろうネエ・・・

カミさん: そっかあ・・・ ・・・

小生: 去年、楽天がモバイル事業を日本郵政と提携して展開するって報道があってさ、それで急いで買ったんだけど、結果的に上がった後のピークで買ってしまったわけなんだ、な。さっぱり上昇気流に乗れない。それは事業がうまく行ってないからだよ。一事が万事なんだ。日本国内に投資先はない。『投機はあれど投資なし』、これが日本の現実だ、な。

カミさん: ホントにどうなるのかなあ・・・

小生: どの会社の株を買えばいいのか分からないから、結局、《投資信託》を買うンだろうな。でも、投資信託ってファンドマネージャーが結構ガッポリとっちゃうんだよね。マ、いま投資するなら、不動産投資ファンドの「REIT」か、でなければエネルギー投資ファンドの「インフラ投資法人」だろうけど、どうだろうねえ、同じタイプならネット証券に口座を作って、アメリカ、中国、インド辺に投資する方が利回りも高いからネエ、ヨーロッパの方がまだマシだ。結局、岸田政権の「現預金から投資へ」ってスローガン、やっても日本の証券会社が喜ぶだけだろうなあ・・・。

まったく日本国内に満足な投資先もないのに「現預金から投資へ」と言い始めるなど、まるで《政策詐欺》であるとすら言いたいところだ。海外に日本のマネーがそのまま流出して、投資意欲のある海外企業が成長するだけの話である。なぜ《グリーン投資減税飛躍的拡大》とか《AI投資は同年度完全償却へ》とかやらないかネエ。陳腐ではあるが、同じ減税でも消費税減税よりは余程役に立つ。ビジネスが旺盛になれば、投資にカネは流れ、生産性が上がり、賃金も必ず上がる。

いや、いや、悪口を書き続けるのも疲れるものだ。悲観的なことは、つい最近にも投稿したことがある。


それにしても、「現預金から投資へ」という話をすると、すぐさま

その現預金を持っていない世帯が日本には増えているんです

話しをそのまま<格差拡大>へ転じてしまうコメンテーターにも困ったものだ。多くの場合、このタイプの御仁は

資産所得倍増より前に、賃金引上げです

と主張しがちである。この主張にキチンと応対できる経済専門家は多数いるが、いま経済学に沿った正論を日本国内の大衆心理に忖度するテレビ局で堂々と語れる人は少ないのではないだろうか。民間エコノミストも所詮は<商売>をしているわけで物議・悪評は避けるのが賢明だからだ。言いにくいことを言えるのは<官庁エコノミスト>しかいない理屈だが、最近の人材事情はよく分からない。

韓国の文在寅政権が犯した《最低賃金引上げ政策》の大失敗を日本が再演してしまうコメディを観るのも遠くはないかもしれない。

文政権は確かに賃金政策を真っ先に実行して失敗した。しかし、消費需要を軸にして韓国経済の成長を実現したいという理念は本筋に沿っていた。経済のロジックに無知であったため、順番を間違えたのである。いわば善意による悲劇である。その失敗を最近年に観ていながら、同じ失敗をそのまま今度は日本という舞台で繰り返すとすれば、今度は悲劇ではなく喜劇となって、世界中で笑いを誘うに違いない。

小生: 学部のゼミ生の方がまだ中身のあるディスカッションが出来るよ。こんな話をテレビ電波に乗せて放送してイイのかねえ・・・

カミさん: まあ、まあ、ここでボヤいても仕方ないでしょ!

ホンノ今朝の覚え書きということで。


2022年6月11日土曜日

インフレ過敏症で株価急落を招くのはどこか愚に見える

 アメリカのインフレ動向には世界が注目している。インフレを全般的物価上昇とみれば、

インフレ→価格の全般的上昇→名目利益増加→配当増加→株価上昇

という理屈になるはずだが、インフレ加速が金融引き締めにつながると予測されれば、

インフレ→引き締め予想→市中金利の上昇予測→株価下落

こんな展開になるとしても自然だ。

とはいえ、インフレが加速すれば、期待インフレ率が上乗せされ名目金利は自然に上がる理屈にある。なので、名目金利上昇が必ずしも実質金利の上昇を意味するわけではない。インフレ加速、金利引き上げ、実質資本収益率の間の関係は結構複雑である。

実際、ニューヨーク市場の株価動向をS&P指数の長期系列でみてみると下図のようになる。

Note:以下掲載の図に加筆して作成。
URL:https://www.multpl.com/s-p-500-historical-prices

1970年代の資源インフレ時代を通してアメリカ株価は確かに横ばい基調で不振であり、正にスタグフレーションの状態にあったが、1979年にポール・ヴォルカーがFRB議長に就任し、マネタリスト的視点に立った新金融調節方式が採用されたことから、いわゆる《ヴォルカーショック》が発生した。この前後の動向をWikipediaは以下のように説明している:

ボルカー指導下のFRBは、1970年代の米国におけるスタグフレーションを巧拙を抜きにして、とにかく終わらせた業績で知られている。連邦準備制度理事会議長に就任した1979年8月より「新金融調節方式」、いわゆるボルカー・ショックと呼ばれる金融引き締め政策を断行した。

ボルカーの導入した引き締め政策によって、1979年10月にはニューヨーク株式市場は短期間のうちに10%を超える急落を見せた(ボルカー・ショック)。1979年に平均11.2%だったフェデラル・ファンド金利(政策金利)はボルカーによって引き上げられて 1981年には20%に達し、市中銀行のプライムレートも同年21.5%に達した。しかし、それと引き換えにGDPは3%以上減少し、産業稼働率は60%に低下、失業率は11%に跳ね上がった。特に、政策目標をマネーサプライに変更したことから、フェデラル・ファンド金利が乱高下することとなり経済の不確実性が高まったことが、不必要に経済状況を悪化させた。

図が示すように、アメリカ株価は金利急騰後に急速な回復基調に戻り、その途中で"Black Monday"という大暴落劇を演じながらも、2001年の「ITバブル崩壊」まで株価は長期上昇トレンドを継続したのである。そもそもヴォルカーショックによる目を剥くような金利の歴史的高騰があった中で、株価はトレンドを逸脱する程の大きな落ち込みを示していないことが分かる。

クルーグマンは、一度強度のインフレマインドが蔓延してしまった場合には、それを根本的に解決するには長大な期間と巨大な経済的コストを必要とする、そう警告している。だから、1970年代のような状況にならないように、つまりヴォルカー議長のような荒業が必要になる前に、インフレマインドの目を摘んでおくことが重要だ。それが現在のFRBの政策目標である(はずだ)。他方、これまでのインフレはコロナ・パンデミックとウクライナ戦争による部分的かつ一過的な現象であり、期待インフレ率の高まりはまだ観られていないとクルーグマンは判断している。なので、いま懸念されるのはインフレ加速そのものではなく、FRBによる政策的オーバーキルだと論じている ― もちろん、その見立てで専門家が一致しているわけではない。そのついでに(というわけでもあるまいが)インフレ率2%という政策目標そのものにも疑問を投げかけている。なぜインフレ率2%まで抑える必要があり、なぜ4%では有害なのかと論じているのは興味深い。

昨日のニューヨーク市場は、5月の消費者物価上昇率が前年比8.6%上昇という報道を受けて、ダウ平均が前日比▲880.00(▲2.73%)、ナスダックが▲414.20(▲3.52%)の急落となった。大暴落とまでは言えないが、いかにインフレ動向に神経質になっているかが察せられる。と同時に、名目金利の引き上げを過剰に心配するのも、昔の激動を知らない若い投資家(というより経験不足のAI?)の愚かさに見えてしまうのだが、それは言い過ぎだろうか。


2022年6月10日金曜日

断想: 自由主義と権威主義について

「民主主義 vs 権威主義」の競争と最近よく言われるが、民主主義で意味されている具体的中身がまず第一に「自由」であるのは明白だ。

その自由には<政治的自由>と<経済的自由>の二つがあって、民主主義は政治的自由を指してつかわれるがことが多いのだが、その政治的自由は経済的自由によって支えられていなければならない。これは徹底的な自由主義者であったミルトン・フリードマンが指摘した周知の命題である。そして、経済的自由とは、競争市場への自由な参入と退出の自由のことであると要約しても、本筋はあらかた押さえられるだろう。

日本の民主主義に「お題目」的側面があるのは、政治的自由を支えるべき経済的自由が無視できないほどにまで規制されている所からもたらされていると小生は思っている。つまり、<既得権保護>のための法制度や規制によって経済的自由が制限されているケースが非常に多い。

マ、この話題は本ブログでも何度かとりあげた。今日、もう一度繰り返しても、あまり意味はない。<日本病>をキーワードにしてブログ内検索をかければ、これまで投稿した覚え書きのヒストリーは簡単に確認できる。

ただ、世間で上の話題を議論するとき、実際にその社会で暮らしている人々の主観からみて、どちらのタイプの社会がより幸福であるのか?

こんな意識で議論されることは案外少ない。話されるときは、幸福ではなく、どちらの社会が正しい社会であるのか。そんな観点から話題になることが多い。余りにも、だ。

どんな社会が正しいか?

この質問には小生はまったく関心もない。これが重要だとも思っていない。

どんな社会で人々は幸福である可能性が高いか?

意味のある質問はこれだけだと思う。

というのは、小生はもう若くはなく《安定》を求める心理が強いからだと思う。安定が幸福をもたらすと考えるようになったのだ。そればかりではなく、若い時分から安定した人生を歩んできたのであれば、成長や発展がなくとも、それはそれなりに幸福であったのではないか。そう考えるようになったということかもしれない。

安定とは将来が(ある程度)見通せるということである。「ある程度」というのは自分の寿命ばかりは正確に将来予測できないからだ。

しかし、安定ではなく《発展》を求める心理が強いときもある。

高校レベルの授業「政治・経済」では(今でも)「単純再生産」と「拡大再生産」が重要事項に入っているはずだ。

現代社会は「経済成長」を当然の前提にして将来を考えるが、これは「拡大再生産」の社会である。この種の社会では、常に変わっていかなければ社会からはドロップアウトしてしまうわけである。ずっと同じでいたいと願っても、現状のまま続けていれば、それはやがて旧式になり、より強いライバルに吸収されてしまうか、消滅してしまう。発展する社会で安定を求めるのは矛盾している生き方である。そんな発展の果実を享受する機会は万人に平等に保障されるべきであるという理念から「経済的自由」の重要性が出てくる。そして経済的自由の上に、誰にも政治的特権を許さない政治的自由が実現する。これが近代民主主義社会を支える柱である。

経済的自由がまず先にあり、それを前提に政治的自由がある。逆ではない。ここにフリードマンの説得力の源がある。

しかしながら、常に発展を求める社会は万人にとって安心して生きていける社会だろうか?こんな問いかけをしても、すぐに無意味だと否定するべきではないだろう。


理想社会の雛形として《桃源郷》という言葉が古くから使われている。

その社会は、世界から隔絶されていて鎖国状態にあるが、単純再生産の下の生産力と総人口のバランスがとれているので、親から子、子から孫へ何世代にも渡って安定した生活が保障されている。拡大も縮小もない。こんなタイプの社会では《伝統》という文化が自然に形成され、その中には《神話》という昔語りもあるだろうし、人々の尊敬を集める象徴的な君主が推戴されるにしても決して奇妙な選択ではないと小生は(想像の中だが)感じる。

足るを知る

このモラルを守る限り、その国の住民は心の平静を保つことができ、幸福であるかもしれない ― 向上心に燃えたつ人物にとっては不満だろうが、拡大とは略奪、略奪とは物欲であり、悪徳であると教育すれば、そんな桃源郷に人は馴染み、適応するに違いない。

近代の発展する社会と発展を捨てた桃源郷と。どちらを目指すのが正しいか、幸福という観点から直ちに回答することは難しいはずだ。なぜなら、その人の主観的な価値観によるからだ。

そして、発展する社会には自由がなければ確かにフェアではないが、安定した社会で自由が大切になるかどうかはにわかに結論できない。

10年ほど前に《民主主義》について投稿した文章を読み返すと、自分の考え方というのは、基本的には変わらないものだとツクヅク思ってしまう。

古代ローマは、誕生から消滅までの国家の1サイクルを考察できる稀有な歴史的サンプルである。そのローマは最初は王制をとっており、次いで共和制に移った。共和制の下でローマは領土を拡張し、経済的にも非常に発展した。しかし、広大な領土を獲得したあと政治的な不安定が続き、共和制から帝政へと自然に移行し、以後帝国崩壊までずっと帝政が続いた。

古代ローマを例にとらなくとも、日本社会も競争的な戦国時代に農業技術、生産力が大いに発展し貨幣経済が生まれたが、最終的には徳川幕府の下で発展から安定へ、社会的流動から社会的固定へと体制が移行した。

発展を前提とすれば自由と民主主義が選ばれる理屈だと小生も思うが、発展を求めることが常に正しいとは限っていない。そう考えるとき、安定が正しいと考える筋道が生まれ、安定と自由とは必ずしも調和しない。こういう切り口もある。

ま、現代世界の問題が「拡大を求める権威主義」という存在にあるというのはその通りだ。発展を目指すうえで権威主義がベストの社会システムではないのは明らかだが、マルクス=レーニン主義だけは違う。その世界観に立てば共産党の革命史観を貫徹することこそ即ち発展につながるというロジックになる。

とはいえ、現代中国は真面目なマルクス=レーニン主義を既に捨てている。資本主義と社会主義のハイブリッド体制である。ただ「科学的社会主義」の発展段階説だけを残り火のように引き継いでいる。その意味で<マルクス=レーニン主義>というイデオロギーがもっている危険性は21世紀の現代世界においても決して否定できない。




2022年6月9日木曜日

ホンノ一言: 岸田インフレ?そんな認識では問題解決には遠いネエ

 『岸田インフレ』という政界単語(?)、というよりメディア・ボキャブラリーだろうが、こんな新単語(それとも新熟語?)が使われるようになっているらしい。

マ、確かに先日のフランス大統領選挙で現職・マクロンが苦戦した原因が、厳しすぎたコロナ感染対策と足元のインフレにあったことは、多くの人が指摘している。

バイデン大統領の信任投票とも言えるような今週の中間選挙だが、与党・民主党の敗北はほぼ必至だと言われている。そして、その主因は昨年の見苦しいアフガン撤退劇と足元のインフレにあることは誰もが認めているところだ。

インフレも経済現象、社会現象なのだから、社会に責任をもつ政府の責任だという意味をこめて「インフレも政府の責任だ」と非難しても、それがまったくの間違いではない、とは言える。

しかし、現在のインフレーションが、コロナ・パンデミックの後遺症に加えて、進行中のウクライナ動乱への対応(=対ロシア経済制裁)による結果であることは、誰もが知っていることだ。

対コロナ対策で厳しいロックダウンを実施し、それによって労働力が離職し、それが原因になって回復後もサプライチェーン危機に陥ってきたことは、政府が無能なためではない。政府は必要な政策をまず実行した。その後、経済メカニズムが自然な結果をもたらしたのである。

ロシアによる軍事侵攻に対して旧西側が直接的にウクライナに軍を派兵し核戦争の危機を高めるというリスクを避ける。これも各国国民の過半数から支持されている方針だ。

民主主義と自由を守るため非軍事的手段によってロシアに報復するという選択も各国国民は反対していない。

つまり、現在の世界的インフレーションは政府の「責任」であるかもしれないが、非難されるべき筋合いにはない。いわば「望ましい政策の不可避の反作用」である。これが理屈というものだろう。

インフレーションは世界共通の経済問題なのだ。実際、今日届いたIMFのメールはこんな風な書き出しだ:

By David Amaglobeli, Emine Hanedar, Gee Hee Hong, and Céline Thévenot

Governments confront difficult policy choices as they try to shield their people from record food prices and soaring energy costs driven higher by the war in Ukraine.

Countries introduced a variety of policy measures in response to this unprecedented surge in prices of the most crucial commodities. Our survey of these announced measures by member nations shows that many governments tried to limit the rise in domestic prices as international prices increased, either by cutting taxes or providing direct price subsidies. But such support measures in turn create new pressures on budgets already strained by the pandemic. 

困難な政策を余儀なくされている主語は"Governments". 複数形である。『どの国の政府も…』という意味に近い。現在の物価上昇は政府が政策目標として求めたものではない。必要な政策の「反作用」であって避けがたい結果なのだ。それでも、現在の「世界的インフレーション」によって旧西側(だけとは言えない)各国政府の支持率が低下している。

各国の政策の目標はいま一つ明らかではない。が上を読むと、国内物価の上昇を世界的インフレーションの限度内にとどめることを政策目標にしているようだ。

この目標が達成されるかどうかをどの指標によって確認するか。消費者物価指数でも卸売物価指数でもない。《GDPデフレーター》である。こういう議論は、1970年代の2度にわたる石油危機の混乱の中でさんざん議論したことである。忘れてしまったのなら、もう一度同じ議論を反復すればよい。

価格が上昇した輸入原材料が国内で在庫となり、それがより高額な取引となって流通するのは仕方がない。しかし、輸入原材料コストの上昇を川下に一切転嫁しなければ、国内企業の利益が減少するか、そうでなければ賃金の引き下げ圧力が生まれる。これは《デフレ圧力》である。

世界的インフレーションは、単なるインフレではない。通関後に国内でデフレ圧力として働く《輸入インフレ》なのである。だからこそ物価上昇を伴う不況であるスタグフレーションが懸念されている。

「岸田インフレ」などと、あたかも日本の経済政策の誤りで物価が上昇しているなどと考える単純な理解では

こりゃあダメだあ・・・

大学生以下、いや高校生以下ですぜ・・・

アメリカは金利を上げている。日本も上げないからインフレになる。こういう人も多い。特にテレビ画面に登場する人は言うのだが「円安」を指しているのだろう。まさに文字通り「盗人にも三分の理」。半分以上は間違っているが、完全に間違いではない。こんな「正論」がいまいかに増えていることだろう。

ズバリ、愚論である。アメリカが金利を上げているのは、労働市場の過熱、賃金上昇がインフレ期待に火をつけ、ホームメイドの真正インフレをもたらす可能性を摘むためである。日本と経済状況が違う。経済の体質の違いを無視してアメリカに追随するのは単なる「猿真似」である。

いま問題になっているのは《世界的インフレ》である。だから、IMFも議論している。輸入インフレを国内で転嫁できるかどうかが日本の課題である。それが出来なければ実質的にデフレになる。転嫁をして、次に日本に必要なのは賃金アップである。黒田日銀総裁もそう言いたかったのだろう。これが目下の目標だ。

ホントに「国の選良と言われる人たちがネエ・・・」。そもそも「中央銀行の独立性」をどう考えているのだろう・・・。

先行きは暗い。

いま大事であるのは、ウクライナ戦争への対応もそうなのだが、世界的インフレーションによって「世界的なインフレ・マインド」が形成され、それが「世界的な狂乱物価」を現実にもたらし、それを抑え込むために極度の金融引き締めに追い込まれ、「世界的二桁金利」という時代がやって来ないようにすることである。今後、国際的な意見調整、政策調整が必要になるだろう。この緊急性を訴えるなら日本のマスコミも100点満点だ。

戦争も「火遊び」であるが、その戦争に経済制裁という形で参加するのも、同程度に危険な「火遊び」である。その危険を指摘するTV局、新聞社は日本では皆無である。最近感じる「メディアの報道能力の劣化」がここにも表れていると思う。

やはり、日本語空間の政治と経済常識レベルは、長期的低下トレンドにある。日本が長い期間にわたって必要な政策変更を採れていないのは、政府、国会にも責任があるが、必要な国民的理解を形成しようとしていないメディア企業にも責任が大いにある。「寄りそう」などと美化しながら、自らは先頭に立たない所は、むしろ悪質である。


2022年6月5日日曜日

ウ戦争報道の最近 — これも国内メディア産業衰退の表れか?

「ウクライナ戦争」にも飽きて来たのか、その残酷さに辟易として来たのか、小生には分からないがマスコミの報道ぶりも段々と沈静化してきている。

ところが、足元ではアメリカ、ヨーロッパにおいても、「ゼレンスキー離れ」、「支援疲れ」が云々されるようになっていて、この辺りの状況変化も伝えておいたほうが良いのではないか。

「飽き」が「遅れ」につながり、「遅れ」が「見当違い」をもたらし、「見当違い」が「ガラパゴス化」を招くとすれば、これまた極めて日本的な失敗の一つの型ではないかと思ったりする。

日本は(とにかく)民主主義であって世論が政治を縛る国である点には、日本人自身が意識することがカギだと達観している。

最近のメディア報道から幾つか抜粋しておきたい:

まずロシアの原油輸出について:

商品関連データ会社ケプラーによると、ロシアは今、輸出用の原油日量約300万バレルを海路で輸送してくれる業者を必要としている。その量は、日量370万バレルだった4月に比べると減少している。……

パラマウントはスイスのジュネーブに拠点を置く、あまり知られていない商社だ。調査会社ペトロロジスティクスのデータによると、ウクライナ侵攻以降、同社の取引量は平均で日量16万3000バレルに達している。

 パラマウントはオランダ人のニールス・トゥルースト氏が創業および所有している。関係者によると、同社は欧州の制裁を回避するためドバイで活動を広げており、同氏とトレーダー部門もそこを拠点にしているという。…

パラマウントのような企業に原油輸送を担ってもらうことは、プーチン氏にとって死活的に重要だ。国際エネルギー機関(IEA)によると、ロシアの国家予算に占める石油・ガス収入の割合は2021年に45%に達した。ウクライナ戦争が一因となっているエネルギー価格の高騰は、今のところロシアの国庫を潤している。

 長年プーチン氏を批判する一方、かつてはロシアで多額の投資を行っていたエルミタージュ・キャピタル・マネジメントのビル・ブラウダー最高経営責任者(CEO)は「この資金の流れが続けばプーチンは延々とその座を維持できるだろうし、そうするだろう」と述べた。

URL:https://jp.wsj.com/articles/little-known-commodity-traders-help-russia-sell-oil-11653670507

Source:Wall Street Journal、2022 年 5 月 28 日 01:56 JST

Author:Anna Hirtenstein and Joe Wallace

以前に『貨幣ヴェール観』について投稿しているが、金融制裁を断固実施しても、商品は需要と供給によって取引されるものである、ということの一側面であろう。

テレビ番組では盛んに『対ロシア経済制裁は、半導体とか、かなり効いてますよね?どうですか?』とコメンテーターに『はい』という返事を強要するような空気が作られているようだが、現状は「お互い様」と言うのが正確だ。戦争によるサプライショックは、ロシアにだけ作用するわけではない。心配されている「インフレ」、「食糧危機」は旧・西側の対ロシア制裁が当然にもたらす反作用である。

次の、ヨーロッパの代替ガス確保にまつわる困難も、その一例。

ロシア産ガスの依存脱却に向けて中東や北アフリカからの代替調達を模索する欧州諸国が、ここにきて壁にぶつかっている。カタール、アルジェリア、リビアといった主要生産国との交渉が難航しているためだ。…

 英独の政府関係者はカタールとの交渉が続いていると述べたが、それ以上のコメントは控えた。ドイツ電力大手ユニパーとRWEはコメントを拒否した。

 なお契約を巡る溝は残るものの、タミム首長の英独訪問は、合意の実現に向けた政治的な意思があることを示していると言えそうだ。

 ただ、カタールが向こう数年に新たに増強する生産能力をすべて欧州への輸出に充てても、欧州向けのロシア産ガス供給をすべて補うことはできない。

 南欧諸国は、欧州向けの既存パイプラインを備えた主要生産国であるアルジェリアとリビアからのガス輸入拡大に期待を寄せていた。ただ、両国からの供給にはいずれも、著しい政治リスクを伴う。

 スペインはロシアのウクライナ侵攻前から、モロッコを通過して地中海を横断するパイプライン経由でアルジェリア産天然ガスの調達を拡大する方向で、アルジェリアと交渉を進めていた。ところが、アルジェリアはスペインへの供給を阻止し、販売を完全に打ち切る構えを見せている。モロッコが主張する西サハラの領有権をスペインが認めたことに反発したためだ。

URL: https://jp.wsj.com/articles/europes-quest-for-alternatives-to-russian-gas-hits-obstacles-in-middle-east-11653606125

Source:WSJ、2022 年 5 月 27 日 08:02 JST

Author:Benoit Faucon in London and Summer Said in Dubai

何だか「あちらを立てれば、こちらが立たず」。「貧すれば鈍す」。泥の中をヨロヨロと進軍している苦戦に見えて仕方がない。こんな状況で士気を保つには「〇〇のため」という大義名分が大事だ。本当に大義名分があると欧州諸国は心の底から思っているのだろうか?

3番目は既に知れ渡っているが、キッシンジャー元・米国務長官と著名な投資家ソロス氏が今年のダボス会議で行った議論だ:

ヘンリー・キッシンジャー氏はオンラインで会議に参加。ロシアを打ち負かしたり排除したりしないよう促すとともに、ウクライナに対しては戦争を終結させるために2014年の領土喪失を受け入れるよう求めた。数時間後、91歳のジョージ・ソロス氏が登壇し、ウラジーミル・プーチン氏のロシアとの戦争における勝利は「文明を救う」ために必要だと主張。西側諸国に対して、ウクライナが勝利するために必要なものは全て提供するよう訴えた。

URL: https://jp.wsj.com/articles/kissinger-vs-soros-on-russia-and-ukraine-11653542905

Source:WSJ、2022 年 5 月 26 日 14:43 JST

Author:Walter Russell Mead

キッシンジャー氏の発言、米政府とまったく無関係なのか、憶測をよんでいるらしい。ウクライナのゼ大統領は当然ながらキッシンジャー見解に反発している。

次は、戦後のウクライナ復興に向けたコスト負担について。

ウクライナのゼレンスキー大統領は5月下旬、世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)で、オンライン演説を通じて西側諸国に切実な願いを訴えた。推定5000億ドル(約63兆円)に上るウクライナ復興費用をまかなうためにロシアの中央銀行とオリガルヒ(新興財閥)の資産を没収して使えるようにしてほしいと語りかけたのだ。

…これに同調する政治の声は高まりそうだ。しかし、こうした公のアピールが実は、ダボスを訪れた欧米諸国やその同盟国の実業界、金融界エリート層の多くにとってひそかな悩みの種となっている。

理由はウクライナの窮状に同情していないからではない。戦後の復興費が莫大になることを認識できないからでもない。問題は、デュープロセス(法に基づく適正手続き)を欠いていることだ。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB3037C0Q2A530C2000000/?unlock=1

Source:日本経済新聞、2022年6月1日 0:00

Author:ジリアン・テット

Original:2022年5月27日付 英フィナンシャル・タイムズ紙

旧・西側が共有する価値の中に《法治主義(=法の支配)》がある。政治的に望ましいからといって、それだけの理由から財産権を侵害できる、とはならないだろう。

英紙The Telegraphの"Six lessons the Ukraine conflict"も展望記事としては秀逸。

最後に引用したいのは、The New York Timesから

The United States is an embattled global hegemon facing threats more significant than Russia. We are also an internally divided country led by an unpopular president whose majorities may be poised for political collapse. So if Kyiv and Moscow are headed for a multiyear or even multi-decade frozen conflict, we will need to push Ukraine toward its most realistic rather than its most ambitious military strategy. And just as urgently, we will need to shift some of the burden of supporting Kyiv from our own budget to our European allies.

URL: https://www.nytimes.com/2022/06/04/opinion/ukraine-russia-putin-war.html

Source:NYT、June 4, 2022, 2:30 p.m. ET

Author:ROSS DOUTHAT

ロシアだけが脅威なのではない。ヨーロッパの危機はヨーロッパがまずマネージしてほしいという発想に近い。どこか「疲れてきましたネエ」と声がかかりそうな状況が伝わってくる。

マア、こんな風に情勢は変化してきているのは間違いないようだ。

先日は、日本国内のとあるサイトで

中国が行動を起こして、ロシア、ウクライナの両当事国、それに一部欧州諸国(独仏だろう)が同調、勝手に停戦、平和条約交渉に入ると発表するのではないか、と。

こんな見通しを目にしたことがある―URLを保存しなかったのが小生の手落ちだ。

アメリカ、イギリスは梯子を外されるが、既に十分なほど利益を得ているから文句はないはずだ。独仏は一安心。ロシア、ウクライナもホンネは停戦を喜ぶはずだ。中国は外交的に一人勝ちできる。今後のロシア再建でも汗をかきそうだが、それは中国の海外投資先を非効率的な分野に振り向ける結果になるので米英もウェルカムだろう。日本は・・・梯子を外されるのは米英と共通だが、中国一国に頼るのを避けたいロシアにとって日本の助力は有難いはずである、と。

マ、本筋かどうかはともかく、知的な意味で『面白い』と思った。この種の意見(?)を『世界が真剣に取り組んでいるときに余計な事を言うな』と押さえつけるとすれば、いわゆる<事なかれ主義>というヤツの典型になる。大体、「世界が・・・」などと言うのは、子供が「みんな・・・してるヨ」と言うのと同じであるのだが、そう言えば、江戸時代を舞台にした時代劇では

そのほう、根拠なき世迷言を言い広め、無知の輩を惑わせし罪、重々不届き!

よって「▲▲島遠島」とする

とか何とか、そんな台詞であったかなあ・・・。現代日本もお上に嫌われぬよう忖度ばやりで似たようなものか・・・と。つきあいのある仲間やボスの意向を「世界」と呼んでいるわけで、レベル低いナア・・・と感じることが随分増えた。

しかし、マア、こんな意見が日本のネットに現にあるのだから、日本人の知的水準は実は劣化もしていないし、幼稚化もしていない。「最近ヘン」なのは、やはり日本の公式(?)のマスメディアといわゆる「論壇」であって、今はもうティピカルで、かつ誰もが知っていて、ポジションが明らかな意見以外の言説は、表に出すのが難しくなりつつあるようだ。

そもそも国際社会は自由な<提携ゲーム>に置かれている。既存の利益配分の枠組みを超える利得を関係国にもたらす<結託>が別にある場合、現状へのフラストレーションに耐えられず、新たな結託が実現すると考えるのがロジックである。国益とはリアルなものだと達観すれば、言葉に惑わされず未来をみる目も透明になるというものだ。


どの企業も物議をかもすことによる(短期的な)《イメージ悪化》を何より怖れるようになったのだろう。特に話芸、文筆で生計を立てている人たちはイメージが資本だ ― かつては体が資本だと言われていたのだが時代は変わった。そんなご時世で国内既存のメディア産業がもつ影響力は長期低下トレンドにあると言わざるを得ない。モノ作り産業の没落と軌を一にしているようで興味深い。

これも英語空間の総人口と比べた日本語空間の狭隘さがもたらす《日本病》の一症状かもしれない。




2022年6月3日金曜日

断想: 価値観や意志の自由は科学の限界を超えている

今日はちょっと思いついたことあり、覚え書きまで。


感染対策にしても、経済対策にしても、とにかく《エビデンス重視》、《科学的手法》という要求が、特に最近は非常に高まっている。これに《ロジック》を加えて

エビデンス、サイエンス、ロジック

というのが、現代のエリートが身に着けようと願う三種の神器になりかかっているらしい。戦前期・日本のエリート・旧制高校生が求めていた<真善美>に比べると、上の三つはどれもカタカナで外来語、本質よりはツール的な臭みがあるのは頂けないが、それでも一つ一つは非常に重要なものである。

ただ、何事も行き過ぎるのは問題で、まさか「民主主義社会」が「権威主義社会」より優れているという認識にも科学的根拠がある、と。まさかそう言いたいのではないヨネ、と。

優れているから選ぶんでしょ?

マ、言いたいことは分かる。こんな疑問も思い浮かんでしまう最近の世相である。

しかし、科学は人間の知性の全てではない。科学的探究の範囲外というものはあると思っている。

特に西欧起源の科学的思考が浸透する以前に発展した宗教的議論や儒教的道徳の全部が非科学的であるとして、初めから否定してかかる思考は愚者の典型だと思っている。科学の対象外である事柄を考えるとき、その議論が非科学的であるのは当たり前である。それでも人間はそうした学問に価値を認めてきた。その歴史にはそれなりの意味があると考えるべきだろう。

現代でも無意識に科学的議論と非科学的議論を世間は使い分けている。その<無意識に使う>という所が多くの問題の背景にもなっている。

まず確実に言えることは

科学は物理的な実在に対してのみ有効である

これはもう若い頃から当たり前すぎる前提として確信している。

科学の根底には物理学がある。明治の文明開化時代、福沢諭吉が強調していた「窮理学」ほどの昔に遡らなくとも、スーパー・コンピューターを開発している今の現場であっても、思いは同じだろう。物理的認識が基礎にない現象を科学的に説明することは想像できない。

逆に言うと、科学的な説明を要求するなら、必要分野が化学であれ、生物学であれ、医学であれ、根底には物理的現象としての認識があるはずだ。

まさかそのうち「宗教科学」が登場するとは予想していないが、飛んでるペテン師がそんなタイトルの本を出さないとも限らないので、「表現の自由」が保障された現代世界は要注意だ。

ナース『What is Life?』でも、シュレーディンガー『生命とは何か‐物理的にみた生細胞』でも、「生命」は化学プロセスであって、従って物理現象としてとらえている。まったく同感だ。一方で、生命をもったヒトを特徴づける《自由意志》や《価値観》が、いかなる化学的状態において脳内に存在しているのか、(小生の勉強不足もあるかもしれないが)まだ解明されてはいないはずである。

自由や価値観の生成や変化について科学的手法を適用するのは、(今のところ)不可能だ。多分、永遠に不可能だろう。

故に、何についてであれ、どちらを支持するかに関する《世論調査》の結果を分析する作業も科学ではない。単なる統計学である。

統計学は科学的分析のためのツールであって、科学そのものではない。この点、森鴎外に賛成する。

例えば「民主主義が善である」、同じことだが「非民主主義は不善である」という問題に直接回答するための科学的アプローチはない。是非善悪が人間の意識に物理的に埋め込まれた特質であると想定して、その特質を物理的実在として発見・同定できると考えるのは空想だと思う ― そもそも「意識」の物理的基礎が得られているのかどうかもまだ勉強してはいないが。

つまり、善悪の区別は、科学ではなく、現世代の人々が受け入れるかどうかで決まる、簡単に言えば《世間》が決めることである。「国家」や「戦争」に関する思想もほとんど同じ。現世代が死に絶えて別の世代が登場すれば、まったく別の見方や言葉、話し方が支配的になる。ちょうど衣装や髪型、装飾品などの風俗とそれほど違った次元にあるものではない。

大体、科学的知識は<合意>や<共有>をそもそも必要とはしない。科学的真理は人間とは関係なく、人間という存在を前提することなく、それ自体が真理である。こういう特質があるからこそ、科学は中世キリスト教世界で共有されていた世界観を否定しながら浸透し、結果として中世という時代は終わり、啓蒙時代を経て近代という世界が生まれたわけだ。科学は文字通りの<異端>であったし、いつでも時代の異端になりうることを意識しているだろうか。共有されることを求める<価値観>や<モラル>とは正反対であるのが科学である。

実際に、科学的研究の現場では

  • 著名な論文の間違いを見つけろ
  • 発表された論文の間違いをみつけろ
  • 学会報告の間違いを見つけろ

これが鉄則だ。衆に逆らい、異を立てるのが、有能な研究者であるための要件である。<科学>と<共有>とは最初から縁はない。仮に「いま共有されている価値観」なるものに「科学的根拠」と思えるのがあったとしても、その仮説に異を唱える反対仮説はいつでも登場しうるし、その異説に熱中するのが科学者である。

つまり、いま共有されている価値観や世界観、常識を掘り崩すかもしれないのは科学なのである。

故に、いま共有されている価値観、世界観に基づいて、サイエンス、エビデンス、ロジックを身につけていこうという努力は、矛盾している話しである。

しかし・・・と敢えて反復すると、科学は人間の知的活動の全てではない。科学とは無縁の知的活動で、それでも重要である学問分野。

価値観や理念は一種の《流行現象》、《群化現象》である。共有されれば一層それが当てはまる。

こう考えると、少し科学的アプローチが可能な問題に近くなる。

庭に蟻の穴が複数ある。どちらがより民主的で、どちらが独裁的であるか、人間には想像もつかないだろう。とはいえ、行動パターンの違いを比較することで、一方に<民主的>、他方に<独裁的>という名目的ラベルを付与するのは、十分、科学的である。

ラベル自体に意味はない。民主的を<D>、独裁的を<A>と万国共通のアルファベットで記号化して呼ぶ方が簡潔で良い。どのタイプが環境により適応しているか、それは自然淘汰を通した結果から事後的に検証されるべきもので、違い自体は人間社会の特徴に着目した<分類指標>である。人間社会のタイプに順序的な価値を認める姿勢は非科学的だ。

科学的には優劣をつけられない差異に対して優劣をつけるとすれば、それは人間の側の趣味や嗜好によるもので、そこに科学的根拠はない。「価値観」と言ったりするが、実態としては「流行現象」に似ている。そう思われるのだ、な。

何だか、書いていることがゴチャゴチャしてきた。所詮は、マックス・ウェーバーが言った"Wertfreiheit"(価値自由)のことなのだ。実証的研究"Positive Research"と規範的研究"Normative Research"の二つがあると書いておけば、付け足すべきことはないわけだ。

ただ「科学的方法」を採っているから、その研究は「科学」になるわけでもないだろうと感じるので、本日、メモっておいた次第。

こう書くと、『じゃあ、社会科学ってものをどう考えるの?』と問われそうだ。が、これは「また改めて」にしたい。