2023年2月27日月曜日

断想: 国民国家は戦争する。どう戦争するか、しないためにはどうするか、が問題だ。

 2月の最終投稿になりそうなので、今日は勝手気ままな断想を覚え書き。


前のトランプ大統領は「西側陣営」を不必要な存在であるかのように行動した。マクロン仏・大統領は『NATOは脳死状態』だと表現した。そんなト大統領も、ドイツとロシアがエネルギー共同体を構築する動きには苛立ちを隠さなかった。確かにEUとEURO圏、NATOにいながら、ロシアと一体になってヨーロッパで「大きな顔」をするのは矛盾した話しだ。それでもト大統領の動物的勘は「西側陣営からのアメリカの自由」を欲したのだろうと憶測している。元々、アメリカはモンロー主義を採っていてヨーロッパの問題に介入することを嫌っていた。

今のバイデン政権は解体されかかっていた「旧・西側陣営」を再びまとめようと一生懸命だ。それは(おそらく)中国とは結局のところ理解しあえない、故に敵対するしかないという意識があるのかもしれない。


そもそも

天に二日無く、土(ド)に二王無し。

という《公理》から政治を考える中国の伝統的思想と、ストラテゴスやコンスルを選挙で決めていたギリシア=ローマ以来の西洋的伝統とが融和するはずはなく、まして

All men are created equal.

という《公理》から出発するアメリカ民主主義と中国的文化の相性がイイはずはない。

この違いを、政経分離、多様化、相互主義の下で「あるべき違い」と考えれば、トランプ的発想になるだろうし、違いを「不正義」だと考えるならバイデン的な接近になる。


ト大統領のディール志向は日本人には評判が悪かったが、かと言って「何が正しいか?」を旗印にすると、結局は戦争しかない。

西欧の「ポスト宗教改革」では内戦が相次いだが、結局は信仰の自由と体制選択の自由という原則で平和が戻って来た。このプロセスで誕生したのが「国民国家」だ。

国民国家という建て前ももう雨漏りがしているが、かといって帝国の誕生を予感させるものはない。中国も内政不干渉を常に言っている。


しばらくは、体制選択の自由を認め合い、軍縮努力を再開するしか、道はない。軍縮の果てにあらゆる軍事同盟を禁止し、戦争拡大の目を摘むようなら御の字だ。何しろ古代ギリシア世界では、正反対の体制をとるアテネとスパルタが平和共存していたのだ ― 最終的に互いに軍事同盟を結成して二大陣営に分かれてペロポネソス戦争を始めてしまったが。アッ、第一次世界大戦もヨーロッパの強国が二大陣営に分かれてしまったことが背景にあった。となると、今もまた危ない、危ない・・・。


そもそもソ連解体時に「NATO」を解体しておくべきだった。それをしなかったのは、統一ドイツへの警戒感であったのだろうが、その時の善意が今の戦争につながっていると考えれば、歴史は皮肉なものだ。正にヘーゲル的弁証法による歴史の展開を見ている感じがする。

2023年2月24日金曜日

一言メモ: CPI上昇率で気になった些細なこと

1月の 消費者物価指数が公表された。指数で104.7、上昇率で4.3%になった。

ところが、昨年1月の指数は100.3だから、本年1月の前年比上昇率は4.3868...パーセント。四捨五入をすると4.4%になる。ところが上昇率公表値は4.3%。

どうやら丸めた後の指数値を使って変化率を出しているわけではなく、丸める前の数字を使って割り算をしているものと見える。

実質GDP成長率でも丸め誤差でこんなことが起きるが、備考にでも付記してくれると有難いものだ。

『細かな事が気になるもので・・・私の悪い癖』、ということで。

細かな点はともかく、物価の急速な上昇で生活は当然苦しくなっているはずだ。

名目の消費支出では下の図のように対前年で増えてはいる。



しかし、消費者物価指数で割り算をして実質化すると、


直近公表値である昨年11月、12月の対前年比は11月が▲0.6%、12月が▲0.5%の低下である。

※ 実質化に使ったCPIは、「帰属家賃を含む総合」で、実質消費支出の公表値で使われている「帰属家賃を除く総合」とは多少異なる。

電気料金の急上昇を税金で緩和しているので、足元で家計を苦しめてはいないが、今後もインフレは継続する見通し。

アメリカ主導の経済制裁をいつまで続けるのかという不満は次第に高まるだろう。


それにしても・・・で加筆。

アメリカは『この際だから』というノリでロシアを敗退にまで追い込みたい意識があるかもしれない。しかし、そうなればユーラシア大陸が不安定化する可能性が高まり、中国を巻き込み、世界はどうなるか分からない。

そもそも前にも投稿したが、英米の戦略的思考の本質が
先に熊を叩いて、あとで鶏を絞め殺す戦略
であるのは、中国政府も気づいているだろう。今は、西側、ロシアいずれにも与しない第三者的オーディエンスを決め込む国が世界で最も多数を占めている。そして、オーディエンスがいるとき、ゲームの当事者は《風評、名声、Reputation》を得たいがため不必要に冒険的な戦略を選ぶものであることも理論的には確認されているようだ — どこで読んだのか直ぐに確認できないが。

「イデオロギー不感症」に罹っている小生には、アメリカ(そしてイギリス)の悪い癖、いつもの《火遊び》にのめり込んでいるようにしか見えない。

もちろん、国境の向こうにロシア軍が集結している中で交渉への意志を貫徹せず、むしろ米英を頼り「来るなら受けて立とう」と言わんばかりの姿勢をとったゼレンスキー大統領と、作戦劈頭のキエフ急襲に失敗した段階でいったん矛を収め、力を温存し、東部に戦力を集中し(北部国境はむしろ最小限で良いから)当初の目的を貫徹しなかったプーチン大統領と。<1流半の政治家だが元スパイで軍事は素人 vs 3流半の政治家だが元俳優で"Great Communicator">という相性の悪い二人の当事者が、戦争拡大の直接責任を負うべき点に間違いはないだろう。マ、これも後講釈ということで。


・・・と、ここまで書いてきて、やはり消費支出実質化のデフレーターが公表値と違っているのは気になる。

「持家の帰属家賃を除く総合」で実質化したときの消費を描いておきたい。


この場合、昨年11月の前年比は▲1.2%、12月は▲1.3%になって公表値と同じになる。

【加筆】2023-2-26、2-28





2023年2月23日木曜日

覚え書き: 民主主義大国・アメリカの将来を示唆する本なのかも

本箱の隅に大変古い本が残っているのを再発見した。『堺屋太一が解くチンギス・ハンの世界』(講談社、2006年)だ。

モンゴル帝国といえば、大量虐殺をいとわない野蛮な軍事力で中国本土を制圧し100年を超える長きにわたって漢民族を抑圧したという点で、中国史においては言わば「黒歴史」のような扱いを受けているのが日本でもそのまま大勢になっている ― 日本をも攻撃した「元寇」は黒歴史というより多少は輝かしい戦史として記憶されているが。

ところが、実はモンゴル帝国は現代世界にも通じる《不換紙幣制度》を巧みに活用し、ユーラシア大陸全域に及ぶ広大な経済圏を出現させた極めて独創的な帝国でもあった。強大な軍事力は世界経済秩序を守るためのインフラとして機能していた。堺屋太一はこの帝国運営技術を高く評価しているのだ、な。

古い本なので内容はほとんど忘れていたが、パラパラとページをめくっていると、感心できる箇所が幾つもある。中でも、現代的意味を持つところをメモっておきたい:

史上初の「世界帝国」、大モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)にも滅びる時が来る。

(中略)

14世紀に入ると、チンギス・ハンの子孫にも、イスラム教やキリスト教、あるいは仏教などに熱中する者が現れる。これには地元の信仰深い女性が皇室に入った影響が大きい。・・・無期限無差別の取り込み主義は破れ、文化への介入が強まり、軍事力は分散して大量報復も実行されなくなった。

皇室と行政は、経済重視の原則を忘れて信仰にのめり込み、宗徒による差別が広まった。叛乱は交易を妨げ、通貨の需要を減らす。不換紙幣は過剰になり急速に価値を失った。不換紙幣の増発に頼って来たモンゴル政府は一気に財政破綻、軍事における物量作戦も不可能になった。

「世界帝国」の何よりの「敵」は主観的な価値観の押しつけである。押しつける本人は正義と感じ、相手も幸せにすると信じているから始末が悪い。

もし米国が21世紀を通じてスーパーパワーであるためには、自らの正義と美意識を他国に押しつけるべきではない。たとえそれが民主主義や市場経済であっても。

※62―63頁から引用

いやあ、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席が聞けば泣いて(?)喜びそうだ。こんな風に(正しく?)考えた日本人もいたのか、と。


著者は既に故人であるが、昭和10年(1935年)の生まれであるから、小生の父よりはかなりの年下。いわゆる「焼け跡派」の世代に属している。小生とはほぼ親子の年齢差があるものの、それでも上に引用した思考、発想は、かつての日本社会では世代を超えて共有されていたように記憶している。「日本は日本で考える」くらいの事は誰もが当然のことと前提していたような気がする。何しろかつての大学の経済学部には<比較経済体制論>などという授業もあった。大学のキャンパス構内には「打倒米帝」(米帝=アメリカ帝国)、「ファシストせん滅」(ファシスト=全体主義者≒支配階層)などの立て看板がまだ見られていたのだ。

だから、ロシア=ウクライナ戦争が始まったときも(少なくとも日本では)甲論乙駁、というかヒトは色々で多くの意見が出てくるものと思っていた。その方が日本としては自然だと思った。ところが、この一年間、発言されたり、説明されたりする意見はどれも要するに英米で主流のイデオロギーである。むしろ英米メディアより純粋に一色になっている。異論がほぼ出て来ない。テレビには防衛省の官僚が頻繁に登場して政府公式の見解を語っている ― マア、日本が「価値観の共有」などと繰り返し口にするのは、アメリカ、イギリスに遠慮、というか「忖度」している面もあるのかもしれない。しかし、民間まで忖度する必要はない。

自由な発言ができるはずのネットでも、《イデオロギー批判》、《観念論批判》は年齢層を問わず、ほとんど目にすることはなく、少なくとも日本では「ロシア批判」、「米英‐ウクライナ支持」で一色。《歴史的必然性》とか《アウフヘーベン》などと唱える御仁はまさに一人もいない。「百花斉放」、「百家争鳴」どころか、「同調圧力」のみが働いている。これはどうしたことか?

これでホントにいいんでしょうかネエ。足をすくわれなきゃいいんですがネエ・・・

と思います。

戦前、共産党を共通の敵とするべくドイツと「日独防共協定」を締結したところが、ドイツは勝手に「独ソ不可侵条約」を結ぶに至った。時の平沼騏一郎首相は

欧洲の天地は複雑怪奇

と呆れ、絶句し、上の捨て台詞と共に退陣したものだ。

同じような事は二度も三度も起こるだろう。


堺屋太一が上の本を出版した2006年だが、その3年前の2003年に「大量破壊兵器(Weapons for Mass Destruction)を密造しているという疑惑からアメリカ、イギリスなど有志国が「イラク戦争」を仕掛けている。更に、その2年前の2001年には、アメリカがビン・ラディンを匿った咎でアフガニスタンを攻め「アフガン戦争」が始まった。こんな時代背景もあって上の本を出版し、その中で引用したような文章を書いたのだろうと思われる。

その当時と状況は何も変わっていない。ただ、今回は軍を派兵することなく、兵器を提供しているだけの違いだ。

思想にとらわれて自分の主観を強引に主張すれば、現実面では必ず失敗するものだ。中国国民党支援、朝鮮戦争、ベトナム戦争、etc.、アメリカは一体いくつ失敗を重ねてきたのだろう。

マ、どちらにしても今回のロシア=ウクライナ戦争。ロシアもそうだろうが、アメリカも大きな歴史の曲がり角を曲がりつつあるようだ。これとモンゴル帝国の興隆と没落を重ね合わせる感性は今はもう誰も持っていない。

2023年2月22日水曜日

高度なツールを使わず高度な経済政策論ができる一例

まだ学部でマクロ経済学を勉強している頃、《フィリップス曲線》と言えば、縦軸がインフレ率、横軸が失業率のグラフで説明されていた。それが、1970年代の二度に渡る《石油危機》で世界がスタグフレーションに陥る頃には、フリードマンの《自然失業率》概念が主流となって、フィリップス曲線の縦軸はインフレ率ではなく、(いつしか)インフレ率の前期差をとって描かれるようになった。

KrugmanがThe New York Timesに寄せているコラム記事でこれと同じ話をしているので、非常に面白かった ― Krugmanはノーベル経済学賞を受賞した高度にアカデミックな経済学者である。

そこで使われている道具は三つのグラフである。

一つ目は


このグラフの縦軸はインフレ率の前期差で1970年代の大インフレ時代には主流であった関係である。いま足元では、8パーセント超えになったインフレ率を(せめて)2パーセント程度にまで抑えようとして、FRBが攻撃的金利引き上げを続けているわけだが、上の図を見ると、8パーセントから2パーセントまで、つまりインフレ率を6パーセント下げるには、図の縦軸の枠外になるが延長して読み取れば、失業率を5%まで悪化させても恐らく足りない。もっと景気を悪化させる必要がある ― ちなみにアメリカの失業率は1月時点で3.4%であるから、まだまだ景気が良すぎる。こういう政策観になる。

Krugmanがコラム記事で主張していた骨子は、期待インフレ率は1970年代とは様相が異なりほぼ一定の高さのままで変化していない。したがって、フィリップス曲線が、期待インフレ率の上昇に伴ってシフトするという現象は足元では認められない。故に、現在当てはまっているフィリップス曲線は


上のような縦軸にインフレ率をとったオリジナルの関係に戻っている。これを見ると、現時点の失業率は概ね3.5パーセントだからインフレ率は2パーセント弱になる。もし目標インフレ率が2パーセントであるなら、現状の労働市場は寧ろ弱い。実体経済を現状のまま継続すれば、インフレ率は2パーセントを下回るところまで景気が悪化していくであろう、と。

大体、こんな趣旨の議論を展開している。

なお「期待インフレ率はほぼ一定のままで安定している」という事実認識の根拠としては、以下の図を示している。


このように使用している経済学上の道具はどれも学部のマクロ経済学でもとりあげられるような入門的なレベルなのであるが、論理は極めて骨太で、主張がハッキリと明確である。

もとよりKrugmanは親・民主党として名だたる経済学者であるから、金利引き上げ・インフレ抑制よりは暮らし向き改善・雇用改善が望ましいと考える立場に近い。だから上のような議論をするのは自然なわけである。

主張されている政策論への賛否は当然あるのだが、何よりこのように骨太の経済政策論が、経済新聞でもない普通の新聞に掲載される<言論環境>に、小生は非常な羨ましさを感じる。

確かに日本経済新聞には「経済教室」や「やさしい経済学」もあるし、その他にも経済学者や経済専門家が登場するコラムは多々あるのだが、印象としては何かの分野のプロフェッショナルが専門分野の近いプロフェッショナル達を相手に書いているような感覚をいつも覚えてしまう。

せめて経済学部の2年生位の学生が読むとしても、基礎理論がそこでどのように応用されているかを見てとれるような、それでいて結論が具体的で明確であるような記事内容であってほしいものだ。

『最近の世界の学界で主流となっている考え方によれば云々・・・』のような骨子でいくら解説をしても、そこにはロジックと結論というものが欠けているので、読む人は著者に感心はするだろうが、面白さや共感には程遠いだろう。


2023年2月18日土曜日

ホンノ一言: 「打ち上げの失敗」ではなく「報道の失敗」だったようで

 <情報化時代>というのは、馬鹿々々しい事まで、それが拡大されて世間に伝わるということなのだろうか?


JAXAが打ち上げを予定していたH3ロケットの事もそうだ。

概要は毎日新聞の以下の記事で要点は尽きている:

種子島宇宙センター(鹿児島県)で据え付けられたH3の機体を、遠くから大勢の人が見守った。主エンジンは正常に着火し、白い煙を吐き出したが、カウントダウンが「ゼロ」になっても、機体は発射台から動かなかった。

JAXA側の担当プロマネの説明では、《フェイルセーフシステム》が異常を検知したので打ち上げを中止したということだ。 

ところが・・・

「失敗ではないのか」。記者会見で問われた岡田氏は「いざとなれば安全な状態で停止させることに、かなりの神経を使っている。その意味では正常に停止したので、設計した意図通りではある」と説明した。

上のように「失敗」という語句に拘った共同通信の取材記者が何度も食い下がり

世間ではこれを一般に「失敗」と呼んでいます

と捨て台詞を吐いたというので、今度はこれが騒動になっているそうだ。 


フェイルセーフとは”Fail Safe"であり、Wikipediaの解説

フェイルセーフ(フェールセーフ、フェイルセイフ、英語: fail safe)とは、なんらかの装置・システムにおいて、誤操作・誤動作による障害が発生した場合、常に設計時に想定した安全側に動作するようにすること。またはそう仕向けるような設計手法で信頼性設計のひとつ。これは装置やシステムが『必ず故障する』ということを前提にしたものである。

こんな説明を待つまでもなく、生じた異常は、確かに"a failure"であった。しかし、英語の"failure"は常に日本語の「失敗」という単語に訳されるわけではない。正常に動作しない異常なり障害もまた"failure"である。だからこそ"fail safe system"が作動して、補助エンジンに点火しなかったのだが、これもシステムの管理下で自動的にそうなったのであり、《システム管理下》の異常であったというのが、客観的なロジックだ。

システム管理下の安全維持動作であるので予定変更ではあるが失敗ではない。

これがJAXAのロジックで、現代工学では極々標準的な言葉使いである。

だから、旅客機が離陸するときでも、何らかの異常をセンサーが検知すれば(たとえ飛行可能ではあっても)「離陸中止」となり、多分、使用機変更になる。この手続きを「離陸失敗」とは言わない。異常発生に対してシステムが指令するルーティンであり正常業務の範囲内である。


今回の件は、「打ち上げ失敗」というより「報道の失敗」と言うべきだろう。 

The launch of H3 has been postponed due to some trouble in its auxiliary engine.

英米紙なら、多分、上のようにポストポーン(postpone)されたと短く伝えるだけの事だったのじゃないか?

・・・と思って、NYTやBBCを調べてみたが、記事が見つからない。報道もされなかったのかも・・・

まあ「報道の失敗」がニュースとして報道されるなんて、抱腹絶倒のブラックユーモアでしかない。情けないネエ、こんな印象で終わってしまった。


それにしても、共同通信のくだんの記者、卒業した学部はどこなのだろう?

まさか工学部出身の人じゃないよね?何だか、失敗の責任を確認したいような雰囲気だったから法学部出身? ひょっとして・・・

そんなことを思いました。




2023年2月17日金曜日

ホンノ一言: 株式市場はいまパラドックスの一言

確かに、株価は景気に対して先行性がある。景気拡大が続いている中でピークアウト感が出て来れば投資家は利益減少、配当減額を予想して早めにリスク回避をする。保有株式を高値で売り抜けようと図る。そして安全な債券へとシフトしようとする。すると、現実に株価は下がる。だから株価低下はリセッションの前兆である。

それは分かる。

しかし、NY株式市場は昨年春からもうずっとそんな迷走を続けている。FRBは景気拡大を伝えるデータが一つ出るごとに金利を上げ続けている。故に、リセッションの懸念もずっと続いている。それでもアメリカ経済はリセッションに入らない。

景気がいいのは良いことではないか。景気の腰はそれほど強いのである。

しかし、投資家はFRBが景気を後退させようと意図している、と。そう受け止めているので、明るい指標が出るたびに「また金利を上げるのじゃないか?一体、いつまで上げるのだ?」と驚き、かつ訝しみ、景気後退を予想して株価が下がる。そんな奇妙なゲームが1年近く続いている。

最近では、だから、明るいデータが出ると株価が下がり、暗いデータが出ると株価が上がる。普通の理屈では、あり得ない株価になっている。

昨日も、アメリカ景気の明るさを告げるデータが相次いだので、NYの株価は急落した!?

昨年、こんな投稿をしている。1970年代のアメリカ経済を苦しめた<大インフレーション>を退治したヴォルカー・ショックについての投稿だった。そこでも使ったグラフはこれだ。



確かに1970年代のインフレはアメリカ経済を大いに苦しめた。ヴォルカーFRB議長の空前の高金利政策によってようやくインフレ抑え込みに成功した。《ヴォルカー・ショック》についてネットではこんな解説をしている:
第12代連邦準備制度理事会(FRB)議長ポール・ボルカー(Paul Adolph Volcker, Jr.)の、1970年代の米国におけるスタグフレーションを終わらせたるための1979年の新金融調節方式の採用による金融引き締め政策の断行に伴う景気後退のことで、高金利政策により、3年間でインフレ率は12パーセント以上も減少し、4パーセントを下回りスタグフレーションを終わらせることはできたが、それと引き換えにGDPは3パーセント以上減少し、産業稼働率は60パーセントに低下、失業率は11パーセントに跳ね上がった。

1982年後半、3年続けた金融引き締め政策を断念し、緩和を実施し、これによって米国経済は活気を取り戻し、GDP・産業稼働率は向上し、失業率は低下した。

実に、空前の高金利政策と経済活動の大きな犠牲を伴ったのが1970年代インフレの抑え込みであったわけだ。ところが、上図で見る通り、S&P株価指数は(いま見ると「驚き」に値するが)急落していない。そして、引き締めから緩和へと移った1982年以降は株価の上昇トレンドが戻っている。

それに対して、足元のNY市場では


昨年春に金利引き上げに転じてからS&P株価指数は結構下げてしまった。そして、今もなおFRBと市場の間で腹の探り合いを続けている。FRBが狙っているという<リセッション>に入りそうで入らない膠着状態が続き、GOサインを出せないまま資本市場は低迷を続けている。
こんなデータが出てきた以上、今はまぎれもなく《リセッション》じゃ!
こんな塩梅で、実際に景気後退になれば、投資家は安心し、株価も上昇トレンドに戻るのだろうか?しかし、それは《不況》であるのじゃないだろうか?
ンなこと、あるわけないでしょうが。不況の時には株価は本格的に下がるんだヨ
常識的にはこう考える。

何だか、一軒の家が燃えていて火事が心配されるとき、様子をしばらく「注視」したあと
これだけ燃え上がった以上、これはまぎれもなく「火事」である
そうして、消防車が駆けつける。こんな情景を連想します。

ホント、どうするつもりなんでしょうネエ……

70年代のインフレに比べれば大したことはないのに・・・
何だか、今回のFRBは引き締めるにしても下手くそだネエ
こんな感想を抱く人は世界中に多いのではないだろうか?

また3月には金利を(ちょっと?)上げるそうで……

 



2023年2月15日水曜日

ホンノ一言: 文明開化時代の写真恐怖症と現在のマイナンバーカード拒否症とが似ているという話し

昨年12月であったが、河野太郎デジタル相が『運転免許証の更新手続きをオンラインで自宅から出来るようにする』との方針をABEMAであったか、某ネット番組で話したところ、否定的な意見が結構出ているとの報道がある。正直、ビックリだ。


その反対意見には

  • 視力検査どうするのか?
  • 交通事故の悲惨さを思うとき、こういう発想はいかがなものか?

など唖然とさせられるものがあるかと思うと、これを報道した記事の最後に

視力検査や高齢者をどうするのかなど、問題もありそうだ

といった結論めいたことを述べているので、ほとんど絶句の極みに立ち至った。

実は、小生のカミさんは年金をもらい始める時期なのだが、つい先日、北海道では免許更新のための優良講習がオンラインで配信されているので受講したところだ。

オンライン受講時には受講者のマイナンバーカードでログインし、免許証番号も入力する。マイナンバーカードの顔写真と免許証の顔写真が合致しているかどうかを顔認証するのであろう。ついでPCを操作している受講者が本人であるかどうか、PCのWEBカメラで自分を撮影し、その写真をサーバーにアップロードする。受講者が本人であるかどうかもチェックされるわけだ。

あとは、オンライン講義の区切りごとに簡単なクイズが出されるので回答していくという仕組みだ。運転免許試験場でも講習を受けたことが当然あるが、ただ聴いているだけだ。それに比べると、クイズに答えるだけでもキチンとしている。そのクイズは講義を聴いていないと答えづらい内容になっている。クイズの内容を日ごとにランダムに変更するのであれば、きちんと講習を聞いていなければ正解できず、次のステップに進めないだろう。オンラインの方が寧ろ良いと感じる。なお、クイズへ回答する際にも顔写真をアップロードする必要があるので、別の人が傍にいるにしても付き添っていなければならない。とはいえ、運転免許試験場における聴きっぱなしの講習風景を考えれば何ら問題ではないであろう。

更に、オンライン講習を受講すれば、その免許証番号の人物がオンライン受講済みである記録がサーバーに残る。免許証を交付してもらうためには警察署に一度は赴く必要があるが、受講済みであることは即座に確認される。後は、免許証用の写真を警察署で撮影する―背景が無地である必要があるので、自宅で撮るのは却って面倒なのだ。そうしてから、カミさんの場合は1カ月後以降に出来上がるという新免許証を待っている所である。


カミさんは、ほぼほぼ高齢者である。小生も高齢者であると自信を持って言える。その二人が、オンライン講習の方が便利だと痛感したのだから、上に引用した記事の結論部分にある「高齢者」は、さしあたって必要がない。


カミさんがオンラインでやったことは講習のみであり、書類記入は警察署にまで行って記入した。だから完全オンラインではない。それでも便利になったと感じる。これが、書類記入もオンラインで申請可能となり、写真はPCのカメラで撮影し、マイナンバーカードの顔写真と顔認証をかけてOKなら、アップロードした画像から顔の部分だけをクリップして背景が無地の写真をサーバー側で自動作成すれば、自宅にいながら完全オンラインで免許を更新できるわけで、技術的には今現在でも容易なはずだ。

残るのは視力検査であるが、これも事前に近くの眼科で視力検査をしてもらい、そのデータを眼科から登録するか、データを書き込んだファイルを本人がアップロードするかのシステムを作るのは何も難しくはない。視力検査だけならメガネ屋でも可能だろう。

つまり、高齢者も、写真撮影も、視力検査も何ら問題ではない。事務手続き合理化と「交通事故」がどう関係してくるのか理解不能である。問題でもないのに問題だと騒いでいるのは内容を知らずただ騒いでいるのであろう。問題がないのに問題があると騒ぐ人たちがいるということが即ち日本社会の問題である。


但し、という但し書きはやはり必要だ。

まず高齢者の場合、加齢を原因として認知能力の低下が高い確率で予想される。身体能力の衰え、反射能力の衰えも運転適性を大いに左右する。であるが故に、加齢とともにいつかの時点で認知能力等を検査する必要性はあり、その検査はオンラインでは(不可能ではないが代理者が傍にいることもありうるので)難しいのである。なので、認知症発症率が高くなる年齢、例えば後期高齢者以上の免許証更新者についてはオンライン手続きを認めないといった措置は必要であろう。

ただ、これは認知能力の検査の必要性があるという理由からであって、年齢を原因とするものではない。ということは、認知能力減退あるいは精神疾患で通院中の人物については、やはり運転適性の判断に対面検証が望ましいわけである。しかし、「通院中」、「治療中」であるという事実は(本来は)病院側のデジタルデータを活用すれば直ちに確認できることなのだ。仮に、(理想的には)自動車運転不適と判断される患者については、医師がそのデータを医師の判断に基づいて入力し、それが警察側のサーバーに自動転送される仕組みを設けておけば、免許証更新通知の段階でオンライン手続きで可であるか否であるかどうかまでも付記できることになる。極めて便利、かつ社会的安全も担保されるだろう。とはいえ、このレベルにまで立ち入って私たちの生活を便利にすることが望ましいのかどうか、それは日本社会が判断するべき事である。

火事があるときに「火事だ」と騒ぐのは社会的には有益である。しかし、火事がないのに「火事だ」と騒げば、リソースがムダに使用される一方、必要なところにリソースが投入できないという二重の無駄が生じる。

問題解決だけではなく、問題認識のステージにおいて、既に社会の発展を妨げる行為はありうるということだ。

今の日本社会の真のデジタル・ディバイド問題は、若年層・壮年層・高齢層という年齢を原因とする格差ではなく、PC、スマホ、色々な周辺機器といったIT機器を難なく操作できるか、使いこなせるかといったITスキルを原因とする格差が拡大している所にある。

スマホは使えてもキーボードを打てず、パワーポイントやエクセルはおろか、ワードで文書作成すらできない高校生が大学に入学してきている。そんな若者がデータベースから自分の問題意識に応じた情報を検索し、抽出し、デジタル化して解析するなどという作業が出来るはずがない。だから、ネット情報をコピペするというお手軽な方法に頼ったりする。お手軽な方法だからアウトプットは低く、価値につながらず、優位性がない。つまり、勉強や研究、開発で用いられているスタンダードなメソッドを修得しているかどうかで若年層にもデジタル・ディバイドが拡大していることに目を向けなければならない。

そこが日本社会の最大の弱点なのだということに余りにも無頓着な人が現役として立派に(?)仕事をしている。そして「高齢者は…」などと月並みで単純な言い回しで結論を書いている。

嗚呼、何て単純で空っぽな頭しか持ってないんだ

と、涙が出るほどの不甲斐なさを感じる。そこに大きな弱みがあるのだということだ。

こうした事態をもらたす教育環境上の格差、営業業態上の格差、生活環境上の格差、これらの色々な格差を<丁寧に>観察し、報道することが非常に重要である。

日本社会のDX化を妨げる主たる要因は、必ずしも年齢や世代ではなく、寧ろ上に述べた色々な要因による《格差》、なかでも《経済格差》、及びこれらの格差から派生する《意識の差》ではないかと思っている。

幕末から明治の文明開化の時代、日本人が《写真機》なるものに示した恐怖は相当のものがあったという。今では、滑稽そのものなのであるが、

写真をとると魂を抜き取られる

と触れ回る人が、実際に経験した人の前で面子を失い、恥をかく場面は、確かに少なかったのだ。

そして、写真を拒絶するような人間は必ずしも年齢とは関係がなかった。年齢とは関係なく新しもの好きで、好奇心の強い人は一定割合いるものである。逆に、新しいモノに反感を持つ人の割合も年齢とはあまり関係しないものだ。確かに、新しい物事に反対論を述べる高齢者はいるが、実は(小生の身の回りをみても)それほどの多数勢力ではないように感じる。功成り名を遂げて概ね引退した世代は、世の中の変化に対して声高に騒ぐ動機はない。更にいえば、今後長い期間に渡って反対論を述べ続けることもないのである。むしろ青壮年層であるにも関わらず、新しい物事の導入に強い反感を示すグループが、将来の日本にとっては大きな問題なのである。

この事情は幕末から明治にかけての騒乱においても同じであった。攘夷と開国、尊皇と佐幕、文明開化への共感と拒絶などなど、激しい対立は必ずしも年齢や世代で線引きされてはいなかったのである。その辺りの事情は(例えば)島崎藤村の歴史小説『夜明け前』を読めば当時の世間のイメージが伝わってくるものだ。そこでも描写されているが、高齢者というのは時代の変化に困惑するがそれだけである人が大半である。激しい対立は壮年、青年の現役世代の間の「考え方の違い」から発する。衝撃的な「大久保利通暗殺事件」以前の日本で続発した内戦、内乱、要人暗殺などはその現れだ。推して知るべし。「変化の時代」とは昔と今の違いこそあれ、互いに似ているものだ。明治維新と文明開化に反対したのは、その時代の「高齢者」であったなどと言えば、唖然失笑、バカの証明になっちまいますゼ……。

いまマイナンバーカードをめぐって、『口座番号を紐づけするなんて、オオ嫌だ!』とか、『マイナンバーカードなんて絶対作らないヨ!』などと言っている人たちは、その昔、文明開化の時代になっても『写真なんて、おいらあ金輪際御免だネ!』と啖呵をきって抵抗した江戸っ子を連想させる雰囲気をもっている。

【加筆】2023-02-16

2023年2月12日日曜日

断想: 風俗一新に50年あれば十分。別の世界になる。

 「同性婚」云々が世間を賑わせているが、確かに小生がまだ青年であった20世紀においては、「同性同士の結婚」が真面目な話題として登場する可能性など皆無であった ― 現象としてLGBTQと呼ばれる行為、というかヒトがそれなりに多く見られることは誰もが知っていた事実である。例えばイギリスの高名な作家で小生も愛読者であるサマセット・モームは同性愛者であった。序につけ足すと、小生が愛するもう一人の英国人作家・グレアム・グリーンは麻薬常用者(シャーロック・ホームズもそうだった)、妻帯者にして同性愛者かつ児童買春愛好者であり、それと同時に厳格なキリスト教倫理と自分自身の<業>の狭間で煩悶するモラリストで、実務としては国際スパイ活動にも手を染めていた。実に濃密な人生である。これも風俗としての「英国的自由」で、だからどうだ、ということにはならなかっただけだ。

LGBTという旧くて新しい人間らしい行為が、今後の社会でどのように認められ、社会制度にインコーポレイトされていくのか、非常に興味深い社会実験だと考えている。

人間社会の風俗は、時に思いもかけない程の速さで変わっていくものである。

例えば、谷崎潤一郎の名作『瘋癲老人日記』には次のような一節がある:

既婚ノ女、大概数エ年十八九歳以上ハスベテ眉ヲ剃リ歯ヲ黒ク染メテイタ。明治モ中期以後ニナレバコノ習慣ハ次第ニ廃レタガ、予ノ幼少時代マデハソウデアッタ。

… …

同ジ日本人ノ女ガ六十餘年ノ歳月ノ間ニ斯クモ変遷スルモノデアロウカ。

今でも高校の(中学でも?)課題図書によく挙げられる森鴎外の『舞姫』だが、発表されたのは明治23年(1890年)である。ということは、鴎外が『舞姫』を発表した時代、鴎外の身の回りにいるご婦人の多くは、眉毛を青々と剃り、歯はすべて鉄漿(=お歯黒)で漆を塗ったように黒々と光っていたはずである。特に鴎外がまだ少年であった時分には、ほとんど全ての女性はそんな風俗を佳しとしていた。それが江戸期以来の日本の伝統的風俗であり、審美感に沿うものであったのだ。

今日の日本人はこんな事情を知ったうえで鴎外や漱石の作品を読んでいるだろうか?おそらく今から何十年もたてば、三島由紀夫の『憂国』は残酷に過ぎるからという理由で販売禁止になるかもしれず、最後に重要人物が切腹する『奔馬』でさえも未成年には販売禁止になるかもしれない。それは紫式部の『源氏物語』に登場する男性が余りに多情であり女性蔑視も甚だしい、そんな非難を免れ得ないという点とも通じる。

<必読書>だと言われる古典の多くは昔に書かれたものである。故に、昔では当たり前だと受け取られたことは全て当然のこととして前提されている。そんな事は分かり切った上で現代人は名作を読まなければならない。それでもなお、昔の行為がずっと後の時点になってから分かり、当事者が随分齢をとってから、時代が変わった後の感覚や倫理で激しく非難されたり、裁かれたりする。そんな集団ヒステリーが時折発生する。「時効」も何もあったものではない。動くゴールポストそのものであり、アンフェアだと小生には感じられる。

「伝説」も「神話」も何も生まれず、ただただ「旧悪」が露見するという時代は余りにも淋しいものだ。

何年もたてば古い風俗も、旧い価値観も変わるものだ。そうして別の世界になる。新しい世界になるのは、その方が(旧世代も含めて)快適であるからだ。

つまり自発的に自然に変わる。もし自然に変わらないなら、それは新しい方に優位性がないからだ。そんな時は、旧いほうが生き残る。新しい方は一時の流行であって、まるでバブルのように消えて、旧いやり方がそのまま継承される。

ナイフやフォークが輸入されても日本人はまだ箸を使うことを止めない。「昭和はもう過去にしようよ」と言って箸をすて去るのは愚かだ。同じような愚かさは、今の日本社会に多く見られるような気がする。

生き残るには変化しなければならない

こんな風に強調する専門家は多い。が、変わるのは愚行であることも多い。何か新しいものが登場し、それで社会が変わるかどうかは、何人かの人の考え方や意見、評論とは関係ない。誰が何と言おうと、変わるべくして自然に変わるのだ。

2023年2月9日木曜日

断想: 「同性婚」、欧米とは違って深い問題を日本人に提起している気もするが

LGBT法案の行方が混とんとしている。野党が岸田総理に「法案を成立させる覚悟はおありか?」と迫っているのだが、質問者は国会議員、応える人は行政府の代表(としての立場)だ。法律を制定できるのは国会のみである。内閣が法律制定を主導すること自体、小生は不適切だと考える立場だ。しかも、今回のLGBT法案は議員立法である。総理は法案の事は国会におまかせすると応えておくのが筋だろう。何だか、野党議員は勘違いしているのではないか、と。そう感じた次第。

それはともかく、

結局、この日本で「家族」という言葉はどう認識され、使われているのか。その定義は何なのか。この点を議論しなければ根本的な理解には至らない。そう思われるのだ、な。

「家族」と似た概念に「世帯」がある。夫婦・親子・血縁の関係ではなく、生計を共にする複数人が世帯を構成する。

「世帯」は、世帯主と配偶者ほかの扶養家族から構成される。転出入など住民登録、確定申告、保険料支払い等々、これらは世帯ベースで行われている。現在、色々な場面でLGBTの権利保護が求められているが、議論を外野から聞いている限りは「世帯」ベースで対応できる問題ではないかとも感じる。であれば、行政上対応は難しくはないはずだ。

他方、同性婚が<違憲>になるのかどうかで揉めている日本国憲法24条だが、こう書かれている。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

婚姻は「両性の合意のみ」と明確に書かれている。両性とは(生物学的な)「男性と女性」を指しているのだろうというのは、憲法成立時点の常識を振り返ると、言わずもがなである。

なので、憲法の条文を普通に読めば、婚姻は「男性と女性」の二人が合意した時点で成立するのだ、と。親の同意や、親族の同意とか、「家」の支配は受けず、当人二人さえ合意すれば、その合意のみによって婚姻は成立するのだ、と。戦前期・日本の「家」制度を否定するというのが24条の主旨である。9条は読みようによって「戦力」の概念範囲が変わって来る曖昧さがあるが、この24条は9条よりは解釈の余地がよほど狭い。そう思われるのだ、な。

故に、同性婚合法化に反対している保守派の言い分も理解できないわけではない。

多くの違憲訴訟が相次ぐと、その時の最高裁判事の構成によっては「違憲判決」が出るような気もしないではない ― いや、条文を素直に読めば、違憲判決の可能性は大いにあると思う。

だから、やりたいことがあれば、

まず憲法の条文を、やりたいことが出来るよう、きちんと明確に書き直しておく。

前にも書いたが、これが本質的な問題だと思われる。

「敵基地先制攻撃」も「自衛」の範囲だ、と。そんな怪しい屁理屈をこねるより憲法をしっかり修正しておく。「同性婚」も同じことである。

その位の事は事前段階として取り組むべきであるし、真剣に問題解決を図りたいなら、その位の努力はどの国でもやっている ― もちろん独裁者が自己利益を守るために憲法を修正するなどという例も多いが、それでも直すべき憲法条文をまず直しておくという誠実さ(?)は最小限あるわけである。

この点に触れない日本のマスコミは、非論理的であるという批判を免れないし、そもそも知的な意味で甚だ不誠実である ― 大方の愚論に逆らって正論を敢えて述べる誠実なジャーナリストなど、戦前期の東洋経済新報社で活動した石橋湛山以外には思いつかず、そもそも不誠実なのだと割り切るのが賢い視線なのであるが。

序に書き足すと、日常生活における「世帯」の運用とは別に、日本で「家族」と言われる実態は《戸籍》制度によって実現されている。戦前期の「家(≒大家族)制度」でも、戦後の「核家族」でも、日本人にとっての家族感覚が戸籍制度と密着している点を否定するなら、真っ当な議論にはならないはずだ。

である以上、戸籍制度の改廃、変更に一言も言及しないのは、マスコミ(と国会自体?)がこの問題をいかに浅はかに考えているかを示唆している。


戸籍制度は、武士が支配する江戸期から国民皆兵を柱とする明治になり、政府が全日本人を把握する必要性から生まれたものである(と小生は理解している)。特に、重要なのは《国籍》、《出生・死亡》の把握・管理である。つまり日本国内の全家族の把握を目的として戸籍制度は生まれた。なぜなら人口が国力、特に動員可能な兵数に直結するからだ。

戦前期には戸籍上の「戸主」が「家」の監督権をもっていたが、戦後は「戸主」ではなく核家族ごとの「戸籍筆頭者」となり、日本社会は決定的に民主化された。しかし、それでも一つの戸籍は一人の男性と一人の女性が結婚した時点で創られ、子供が生まれれば出生届を提出して戸籍に登録する。誰かが死亡すれば死亡届を出して戸籍から除く。そうして一つの家族の生成・消滅は戸籍をベースとして把握され、管理されている。これが日本の行政を基礎部分で支える基盤になっている。

つまり

日本の国籍をもつ日本人が、どんな家族をもっているか(いたか)の把握は、戸籍制度によって法的に実現されている。

その意味で、日本人にとっての「家族」は「戸籍」と一体のものである。戸籍制度は、現代世界では日本、及び中国、台湾にのみ残る独特の制度になった。これを「東洋の伝統」と見るか、「廃止すべき悪政」と見るかは、人によって分かれるだろう。社会で共有される「家族」という言葉の定義・範囲にも関係しているはずだ。


戸籍の目的はまずは国籍の管理にあると言える。日本の「国籍」概念は属人主義である。つまり「血統」を重視する考え方を採っている。戦後日本には徴兵制はないので全ての日本人を把握したいという政府側の強烈な動機はない(と思われる)。とはいえ、出生した子供の両親は誰であるか、その両親は誰から生まれた人間であるのか。日本人であるのか、外国人であるのか、その者は養子であるのか、嫡出子であるのか、非嫡出子であるのか等々。行政において親子関係、家族関係を確認することが求められる場面はやはり多い。

そんな事情もあって戸籍制度はまだ日本にある。その戸籍制度の下では、子は戸籍上の家族に生まれ、そこで育てられる。そして、日本では婚外子比率は2パーセント程度であり、欧米社会とはまったく様相を異にしている ― そもそも欧米社会には戸籍制度がない。もし日本も西洋社会のように婚外子比率が50パーセントに迫るという社会情況になれば、もはや戸籍制度は風化したと言わざるを得ない。しかし、日本の状況はそうはなっていない。

つまり、日本において、戸籍制度は制度としてまだ機能している。憲法24条はこの営み、つまり家族の生成と成長、消滅という全プロセスを核家族という枠組みで民主化しているわけだ。もちろん、これを評価する人と評価しない人はいるだろうが、こういう認識が概ね現実妥当的ではないかと思う。日常生活では生計を共にする「世帯」をベースに公共サービスを享けるのだが、こうした側面とは別に戸籍という制度が果たしている機能にも目を向けるべきだろう。

概ね機能している社会制度を無理に解体する必要はないであろう。

というのは、健全な常識である、と小生には思われる。


とすれば、一つの結論が得られそうだ。

日本人(の多く)にとっての「家族」とは(さしあたって)婚姻届けで創られる戸籍上の核家族で、この家族感覚は同性婚で具体化される「家族」とは質的な概念差があるように感じる。「家族」ではなく「世帯」として認識し、日常生活において「一般世帯」と差別されることなく、公的サービスを享けることが出来れば、それが即ち欧米的な意味での「問題解決」に当たるのではないか ― そもそも欧米には戸籍はない。

もちろん「家族」に類似した生活をおくる同性の二人が「世帯」として公平な処遇を保障される一方で、例えば血縁のない第三者を(「子?」、「兄弟?」など)「世帯員」として届け出て扶養者控除を享けるなどの脱税行為は予め想定して、厳格に制度化しておく必要はあるだろう。更に、子の誕生、成長、消滅という戸籍ベースの「家族」とは特性が異なる「同性婚世帯」の場合、関係の解消、つまり「別離」をどうマネージするのか?LGBTの中の”B"が該当するのだろうが、異性婚を重複して行うことは可能なのか等々、整理しておくべき法的概念は多いと思われる。

制度の悪用を避け適切に制度化できるとすれば、公的サービスの平等な享受者として救済するべき対象者は、同性婚を希望する二人に限らず、同性婚に当てはまらない複数人であるケースも確かにある。差別を排除するという目的には柔軟な措置の方が役に立つし、哲学的な議論ではなく、実証的かつ功利主義的な解決をとるべきところだ。

日本の戸籍制度が運用不能なほど社会が変容すれば、日本国籍の《属人主義(=血統主義)》もまた継続不可能になってくるはずである。

この段階において、日本も言葉の意味通りに「グローバル化」することになるのだろう。そして、その時には日本独自の天皇制や天皇制に密着した神社もまた支持を失うのかもしれない。

こう考えると、単に同性婚を認める・認めないというレベルの問題ではなく、やはり

日本人が認識する「家族」とは何か? 

「日本人」とは何か?

日本の「文化」や「伝統」のコアは誰が継承していくのか?

できれば、このようなレベルにまで立ち入って議論する方が望ましいし、マスコミも議論の掘り下げに努力するべきだと思うのだ、な。


加筆:2023-02-11

2023年2月8日水曜日

覚え書: 実体経済の「後退」は徐々に広がっているようだ

日本経済の景気変動を手軽に(?)に視える化したい時は、やはり内閣府の景気動向指数が便利である。特に変動の振幅までイメージできるコンポジット・インデックス(CI)がよい。その景気動向指数が公表された。直近月は昨年12月である。

Source: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

上の図は、先行指数(le)、遅行指数(lg)だけを描いている。株価(採用系列は東証株価指数)等から算出される先行指数はずいぶん以前から低下していたが、今回発表では雇用動向等を反映する遅行系列も対前月で低下した。今後、景気後退色が目に見えて広がってくるものと予想される。

政府が力こぶを入れている「賃上げ」だが、予断を許さない ― 多分、中小企業を含んだ国内平均の賃上げ率は大した結果にはならないだろうと予想している。

どの程度の後退か、まだ明らかではない。先行指数を見る限り、それほどの後退ではないと(今のところ)思われる。

この先行指数、図の右上にも表示されているが、直近ピークは2021年6月につけている。今回、遅行指数が低下に転じる前兆が確認されたと(小生は)見ているが、1年半のタイムラグがあったことにある。

リーマン危機の際は、先行指数のピークが2006年5月、遅行指数のピークが2007年12月。やはり1年半程度のタイムラグがあった。

景気変動の振幅の違いはあれ、景気循環のメカニズムはそれほど構造変化していないことが示唆されている。

面白いのは、コロナ禍による経済混乱であるが、先行指数は2017年11月に(やや低い)ピークをつけたあと、回復することもなく、2020年5月の底まで奈落の底に落ちるように低下している。これをみると、
やはり2019年10月の消費税率引き上げ(軽減税率対象外は8%から10%)は時期の選択としては最悪であった。
そう言えるだろう。経済専門家が政府内にも多々いたはずであるのに、なぜこうした判断をしたのか、甚だ疑問である。


2023年2月6日月曜日

ホンノ一言: 総理秘書官の舌禍すっぱ抜きについて更に感じること

前稿では総理秘書官の舌禍すっぱ抜き事件について感想を記した。それは陰謀史観にも近い見方である。が、こうした見方は面白くはあるが、一般的には事実ではないことも承知している。

本稿はLGBTQというテーマそのものについてどう思っているか。以前の投稿の繰り返しになるが、それをメモっておきたい。

そこでも述べているが、そもそも自分がどう人生を歩んでいくかについて、国、ましてはその事務局に過ぎない政府が、とやかく言うべきではない。これが小生が信奉する原点であるわけだ。

同性婚の権利保護という背後には、一夫一婦という従来型の人生モデルが変容しつつある流れがあるのだと思っている。『人間、そもそもどう生きるかは、当人たちの自由でしょ』という感覚がこのレベルにまで浸透すると、社会の在り方は相当変わっていくと予想される。

将来にかけて、このことがどう社会を変えていくかは、コントロールできまい。戦争と平和もそうだ。望む通りにはコントロールできない。同様に、家庭のあり方、文化のあり方、宗教のあり方は、人、政府、社会の意志を超えて変化していくものである ― 「変化」というより「進化」と呼ぶべきだというのが本来のリベラル的世界観であろう。

そうそう・・・思いついたので将来予測、というより危惧される可能性を一つ:

生物学的世代交代から切り離して婚姻を認めるなら、なにも同性2人に限定する必要はないのではないか。同性3人が婚姻をして家族になることも可能ではないか。一夫多妻制を認める国が現在もある中で、同性3人の婚姻は不可能だという「先験的根拠」はあるのだろうか?あるいは、3人の場合は一人が「夫」、一人が「妻」、3人目は「長子」という風にあくまでも従来型の「核家族」を模したポジションを決めさせて「婚姻」と「子」を同時申請させるのだろうか?…いや、いや、21世紀というのは中々面白い時代になってきたものである。

だから上のように書いているが、いま読んでも(我ながら)「その通り」と思ってしまう。

確かに、《終身・一夫一妻・核家族モデル》という家族像など、これが現実妥当的であった時代など日本の歴史を通して極めて例外的で、おそらく戦後日本のごく限られた短い期間にのみ数多く見られた家族類型に過ぎない。単に、ずっと無年金であった女性の生活を保障するため国民年金制度を確立する時、議論を単純化するために設けた理想に過ぎなかったとも言える。農村が消失し戻れる《実家》という存在も実質的に消失した現代という時代となり、これももう持ちこたえられない・・・そんな日本独特の事情もある。政府は自然に継承されてきた家族モデルに法律・制度をもって介入するべきではないのだ。社会は公的介入によって寧ろ混乱する。

そう思っていたところが、(日頃は玉石混交の石コメントばかりに辟易しているのだが)Yahooコメントに(小生から見ると)図星と感じられるのがあったので転載しておきたい。

 共同生活の在り方は、伝統的婚姻と同性婚だけだというのは思い込み。 たとえば、3人婚や義兄弟などのマイノリティを含みます。  それにも関わらず、法制化を同性婚だけに限定するのは、まさに差別です。  限定する理由もないのに、同性婚だけに限定する行為は、一方で、性的少数者の人権を守れといいながら、もう一方で、他の少数者の権利を切り捨てる行為であって、自己矛盾を起こしています。 

他にも、核心をついたコメントがあった。やはり、人の生き方そのものについて政府上層部で仕事をしている人物(及びマスコミ表層部に出てくる人物達)が云々すれば、必然的に《浅知恵、浅はか》に堕する。その好例を提供した、というのが今回の騒動であったのではないか。 


戸籍制度も旧式、婚姻制度も旧式、家族モデルも旧式、そして政府には人生の<標準型>を定義できる能力はない。その資格もない。故に、どのような人生を選択しようと、権利が保護されるように法制度を造っておく。もちろん義務も規定しなければならない。一切の道徳的指導は不可。要するに、こういうことであろうと理解している。これは政府ばかりではなく、マスメディア、更には一般大衆の集団行動にも適用されるわけであって、人の人生を偏見や思い込みで勝手に制限したり、云々するのは駄目だ・・・まあ、こんな所になるはずで、それが遅々として改善されない現代社会には鬱屈した心情をもつ。こんな要約になるだろうか。

案外、<政府>なるものが無く、日本人が自由に生き、事業を行い、治安・警察・自衛は自らの意志決定で自由に組織化するに任せる。そんな原初・日本社会をイメージすれば、意外と理想に近づくのかもしれない・・・一場の白昼夢であるが、そんな風にも思う今日この頃でございます。


それにしても、テレビのワイドショーに次々に出てくるコメンテーター達の物言い・・・「ありゃ、何なんだい?」というレベルだ。視野も狭く、コメントも定型的で何だか高校生のレポートである―いや、高校生の方がレベルが高いだろう。前稿にも書いたが、まあ、「猿よりマシ」という程度。ChatGPTの日本語レベルを更に上げ、その音声機能をテレビ局も採用すれば十分ではないかと思わせる。

【加筆】2023-02-07

2023年2月4日土曜日

ホンノ一言: 総理秘書官を相手にLGBTQの言葉狩りを呑気にしている時じゃありませんゼ

岸田首相が同性婚を認めるかどうかについて『社会を大きく変えることになる』と話したところ、それをフォローしようとしたのかどうか、経産省出身の総理秘書官が『(ぼく自身?)見るのは嫌だし、隣に住んでいるのもちょっと嫌だ』と話したよし。それで、オフレコであったにも関わらず、この発言がリークされてしまって更迭必至であるとのこと。

やれやれ又か・・・というのは発言自体もさることながら、オフレコの約束を破って報道しているメディア側の行為である。オフレコの約束は信用できないにも関わらず、内心のホンネを ― 言葉というのは単なる冗句かもしれずホンネと断定することは出来ないものであるが、とにかく言葉を口先で ― なぜ不用意に語ってしまうのか、アカンなあ、というのが小生の感想である。

ま、それはともかく、

LGBTQに寛容な社会を造ろうと言うのは、一時代昔の言葉で言えば《グローバル・スタンダード》つまり「世界標準」になってきている。日本もそれにならって行こうとマスメディアが力説するのは小生もよく理解できる。この点でマスメディアは正しい。

しかし、《グローバル・スタンダード》に従って行こうと旗を振るなら、LGBTQの言葉狩りをする前に《死刑廃止》が世界の潮流であることもリスペクトするべきだ。それを日常的に報道し、死刑廃止が「世界標準」であることも力説するべきである。でなければ、姿勢が一貫しないとの批判を免れない。

人の命にもかかわる事であり、こちらの方が緊急性の高いメディアの使命であると思うが、いかに?

世論が怖いのか?

それならば、日本の世論が《グローバル・スタンダード》から外れているわけだから、それを指摘し、問題提起するのもメディアの使命ではないか。

それとも本件は、単に先日の三浦さん摘発に対する意趣返しなのだろうか?黒幕がいるのか?オフレコを破った記者は誰かが放った刺客であったのか?

どうも、権力闘争のきな臭い薫りが紛々として来ますナア・・・


テレビ画面でみるワイドショーの反応は、例によって、機械的、単純かつ幼稚な物言いで引用する程の価値はなし・・・この位なら、猿よりはマシなAIに言葉をしゃべらせておけば、AIにとっても良いトレーニングになるのではないだろうか?

2023年2月3日金曜日

断想: ちょっと呑気すぎる「政府」と「メディア」

思うのだが、

公的機関やメディアの上層部、仕事を依頼される御用専門家達は韓国流に言えば《現代の両班》と言えるだろう。身ぎれいな仕事に携われるという意味で、恵まれた支配層のトップの部分にいる。

自らは何も生みだしていない、活力を生みだす生産側ではなく、それを消費する側、つまり「花」の部分に相当しているのだ、と。かなり以前からそんな感覚を持っている ― 昔はそうではなかったと言うと昔を知らない世代から嫌がられるだけであるが、少なくとも現代社会よりはマシだった記憶がある。

最近の政府とマスメディアを見ていると、かつて東京電力の本社経営陣が、最も旧式の福島第一原発を呑気に稼働させていたことに対してほとんど何も危機感を感じていなかったこととも、どこかで通じるような独特の《非現場感覚》を感じるのだが、感じ過ぎなのだろうか?

今回起きた「連続強盗事件」と数年前の「特殊詐欺事件」を引き起こした犯罪組織が重なっており、かつ実行犯は《闇バイト》に応じた人たちであった事が明るみに出た事で、「視聴率をとれる話題」に困っていたTV各局は連日のようにこの「闇バイト」をとりあげては尺を稼いでいる。

そんなブラックな活動を可能にしている技術基盤が《SNS》であるというので、ただでさえSNSなるネット・サービスに批判的な日本人の眼差しが一層のこと非難がましいものに変わってきている感覚を覚えるのは、日本国内のメディア大手が願っている事でもあろうか、と。こうも感じられるわけだ。

興味深いのは、ルフィと呼ばれる主犯と目される人物はマニラの「ビクタン収容所」内にいる渡辺某なる日本人であると報道されているが、彼は現在小生が暮らしている北海道の出身だということと、他にも道内出身者が犯人グループに含まれていると伝えられている点だ。

昨年、安倍元首相を暗殺した青年・山上某もそうであるが、今回の主犯・渡辺某も高校生であった頃までは剣道に没頭する有望な青年であったという。推薦で札幌圏の大学に進学しススキノでアルバイトを始めた頃からどうやら悪の道に迷い込んで行ったと伝えられている。その背景なり交友関係、動機や心理などはまだ一切メディアは伝えていない。いま調べているのだろうか?

何度も投稿しているように、犯罪や犯罪者の発生は決してゼロには出来ないものだ。というより、人間は正義と罪の区別を設けて社会を運営するのである。毎年ほぼ一定数発生する犯罪、その犯罪を実行する犯罪者は、人間社会が必然的に生み出している。その意味で犯罪は社会的産物である。何度も投稿しているが、そう考えているのだ、な。

犯罪や悪という行為は、統計的特性として《定常的》であれば、社会的管理がノーマルに機能していることを示唆する ― その平均的な犯罪発生率が国によって高低が分かれるのは、国ごとの治安、経済状態、法制度等々の違いによる。ということは、犯罪発生率が現時点で低いとしても、平均的水準が切りあがりつつあったり、異常値が頻繁に発生したりするとすれば、もはや正常ではない。何らかの《異常原因》が隠れている。こう考えるのが、統計的生産管理というもので、この発想はあらゆる分野で応用可能だと思っている。

普通なら良い就業機会を得て社会的な貢献が出来るような有望な青年が、次々にこういった犯罪組織に迷いこんでしまうのは、基本的な背景として《生活苦》という要素があるのではないか。テレビのワイドショーでもそう話しているのは本筋に近い所を認識している。

先日の投稿で《エンゲル係数》を話題に取り上げたが、実はこれ位の変動は十分説明できるもので何もこれ自体が異常だというものではない、という経済専門家が多いのだと思われる。「一流の専門家」は「専門家集団」に対してのみ新たな知見を発表するものである。著名な経済学者・ケインズは、大恐慌後の世界経済危機に際して『雇用・利子および貨幣の一般理論』(The General Theory of Employment, Interest and Money)を公刊し、「ケインズ革命」と呼ばれるような影響を与えたのだが、しかし著書自体はメディアに向けたものではなく、経済学者集団に向けて書かれたものだった。その経済学界では、まだ日本社会に「生活苦」や「貧困現象」が広く蔓延しつつあり、日本社会に危機をもたらしつつあるといった、それほどの危機感は持つに至っていないと理解している。

しかし、メディアは「新し物好き」である。かつ「危機が近づけばそれで稼ぐ業界」ともいえる ― 決して非難しているわけでもないし、揶揄しているわけでもない。そのメディアが日本社会の底辺層に拡大しつつある「生活苦」と、その影響についてレポートしていないのは、かなり前から不審に思っている。

今の国会議員が庶民とはかけ離れた生活感覚を持っているのに似て、メディア企業の従業員やメディアから声がかかるような専門家は、集団としては「恵まれた階層」に属しており、社会の底辺部の人たちの生活苦が今一つピンと来ない。仮にそんな話題をとりあげても、購買層としているターゲットにはアピールしない。そもそも中流未満の階層はワイドショーをノンビリ視聴するような生活をしていない。だから、そうした人たちの経済的利害にはメディアは関心を向けないのだ。こんなロジックがあるとすれば根が深い。

西洋から発する何事も日本に来ると日本化する。日本には日本的な社会的分断がある。

そんな風に感じる次第。

先日はエンゲル係数のグラフを入れたが、同じことをもっと広い視点から見ることもできる。


食費が占める割合 ― 上図のエンゲル係数には外食が入っている ― が上昇するのと逆行して「その他消費」がそのしわ寄せを食うように割合を低下させている。「その他の消費支出」に含まれるのは、「たばこ」や「理美容品、理美容用品」、「身の回り品」、それから「こづかい」、「仕送り金」が含まれ、更に贈答、進物など「交際費」もこれに入っている。こうした出費が削られ、食費が増えている。携帯電話料金などが嵩むにつれて2015年前後までは「交通通信」の割合が上がっていたが、近年では頭打ちである。ごく足元においては、「光熱・水道」が「教養娯楽」よりも比率が上回る月が出てきた ― 不良債権問題で苦しんでいた2000年代初頭にもこんなことはなかった。

この10年ほどで平均的な「2人世帯」であっても、そのお金の使い道、暮らし方は大きく変化してきたのだ。平均を遥かに下回る生活をしている人たちにもっと強く注意を集中するべき状況になっている(ことを数字は伝えている)。そう思うのだ、な。

普通にみれば、

平均的な世帯であっても生活に余裕がなくなってきている

そういうことであって、更に深堀りすると驚くようなケースを見出すはずである。

昨年の大河ドラマの主題でもあった鎌倉幕府が滅亡した原因は、

家臣団(=御家人層)の経済的困窮

だった。この困窮は元寇で負担した戦費が原因だ。生活苦に対して幕府が十分な支援を提供できなかったことで御恩奉公で結ばれていた家臣団が解体されていった。

江戸幕府が行き詰り明治維新が可能になった背景は、幕府が自らの財政危機を解決できず、薩摩藩、長州藩に経済的優位を譲ったことにある。水戸学から派生した尊皇攘夷思想は、経済的強者となった側が弱者の立場に陥った幕府勢力を打倒する大義名分を与えたに過ぎない。

どれほど理念的な正統性をもっていようが、財政危機と生活苦の蔓延は体制的な危機の前兆である。あとは、その体制を支えるべきであるという理念がどれほど共有されているかで社会の復元力が決まってくる。

2023年2月1日水曜日

断想: 「合理的」って、簡単にはそうなりませんゼ

そろそろ「ロシア=ウクライナ戦争」が始まってから1年を迎えようとしている。まだ戦争の終結は展望できない。

日本国内の、少なくともメディア表層に登場する人物たちは、ロシアの非合理性を非難する姿勢をとり続けている ― ロシアが非合理的だと非難するご当人自身、絶対の自信を内心に持っているわけではないように見えるのだが、これはメディアの番組編成方針によることでもあり、そう言わされているようでもあり、マアどうでもイイことだろう。

特に近年になってからよく耳にするのだが、

合理的でなければいけない

という意見や指摘がある。

なるほど、数学、論理学を始めとして全ての学問分野は合理的に議論されるものだ。おそらく美学、芸術論においても、合理的に意見を述べるよう求められているに違いない。

ずいぶん昔に投稿したのだが、人を説得するのに万国共通の論拠になるのは《ロジック》である。ローカルな社会では《倫理感》や《美意識》がより強烈な動機になるから、そこを刺激する説得が有効であるが、モラルも審美感も世代や民族によってバラバラだ。

だから<合理性>を求める風潮は、グローバル化し、多民族が融合しつつある21世紀という時代では、広まるべくして広まりつつある人々の要求なのだと思っているのだ。

しかしナア・・・

《合理性》とは何だろうか?

よく引き合いに出されるのだが、ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが強調したように人は完全合理的には行動できないものである。可能な行動は限定合理的なものでしかない。つまり、「それなりに満足する」ところで決めるしかない。この現実を否定できる人間はいないはずだ。

というより、周知の「チェーンストアの逆説」があるように、和を重視し無駄な戦いを避ける合理的な企業はしばしば血で血を洗う激しい戦いを敢えてするような非合理的(と思われる)企業に敗退するものである。

力量が近接している二人が将棋を指すとき、「もう止めよう、負けた、負けた」というのは「勝つまで止めない」ような強情者を相手にした淡白な賢者の方であるに違いない。合理的な賢者は「これは割に合わず愚かなことだ」と考えるのでそんな結果になる。最後に勝つのは非合理な強情者であるに違いない。そして、最後に勝ちさえすればそれでもって決着することは世の中に多い。

まさに

泣く子と地頭には勝てない

そういうことである。

確かに強情者は損失を省みない点で非合理だ。しかし「勝つ」というただ一点を求めるという点では<目的合理的>なのである。

そんな強情者だと分かっている相手(=それは風評、評判から分かる)とは戦いを避けるのが賢明だ。もし攻撃をかけてくれば妥協を選ぶ。そして、愚かに見えた強情者は欲しいモノを得る、というのが「チェーンストアの逆説」である。

こんな強情者を抑え込むにはどうすればよいか?それは自分も同程度に強情になって、最後まで戦いにつきあって決着をつけるしか道はない。が、力量が拮抗している状況で、こんな対応をすれば《共倒れ》が唯一の帰結なのである。

ま、愚かな二人が愚かな結果を招くのは理の当然で、全体が愚かそのものなのであるが、第一次世界大戦などはこれを地でやってしまった愚行であるとも言えるだろう。

さて、上の最後に出てきた《目的合理性》。世間で言う「合理性」とは、多くの場合、この目的合理性のことを話していることが多い。特に「非合理だ!」という非難が飛び交う政談ではそうだ。

ただ、その場合、「合理・非合理」を識別する「目的の確認」という最初のステップが不可欠だ。でなければ、非論理的である。

合理性は目的が定まった後に追求できるもので、《目的の選択》そのものは理念や価値観(古くは「国体」や信仰)から決めざるを得ない。

この目的の選択だけは民主主義を尊重するべきだというのが小生の立場である ― 憲法は民定憲法でなければならないという志向はここから出てくるし、現行の日本国憲法は誕生の経緯を振り返ると日本国民が起草した日本人の民定憲法とは言いかねる。これも前に投稿したことがある。

いま『目的の選択だけは民主主義を尊重するべきだ』と上に書いたが、これすらも常に正しく、懐疑の余地のない原理であるとは思えない。失敗の可能性はあると思う。大体においてこう言えるという程度だ。この点、一言付け加えておきたい。

それはともかく・・・

目的を定め、その目的を追求するための合理的政策を決めていくステージに移った以降は、<不確実性>という要素が加わるので、合理的議論を重ねるだけでは最適政策とは何かの結論が人によって分かれる。不確実性下で最も目的合理的な政策を選択するためには、「一流」の人材の見識に決定を委ねるか、それとも具体的な政策選択においても民主主義的決定によるかは、お国柄によって分かれて来るに違いない。小生の(いまの)立場は先日の投稿で述べたところだ。

「民主主義」といっても《人は色々、国も色々》にならざるを得ないのではないか。