2022年2月27日日曜日

感想: 「ロシア版文禄慶長の役」になるかも

 ウクライナ紛争がウクライナ事変になり、もはやウクライナ戦争に近い情況になりつつあるようだ。

ウ軍は欧米から最先端兵器を供与されていたからか、優勢なロ軍を相手に予想外の善戦をしているようで、ロ軍側にも予定以上の死傷者が発生しているとの報道がある。もしそれが事実なら、仮にウ・ロ国境に動員したロ軍が15万人として死傷者が1万人を超えるなら「論外」で政治目的を達成しても実質的にはロシア側の敗北。5千人程度に収まるとしても軍事的には「失敗」。もっと少なく2千人程度に収まるとしても、政治的選択としては「失政」であったとロシア国内では評価されるだろう。

昨日(か一昨日)は1日で500人程度の死傷者がロシア側に発生した報道がある。特に北部国境から侵攻したロ軍が激しい抵抗にあっているようだ。

独立を承認した東部の親ロ政権の要請をうけて、先ずは東部を押さえるくらいにして、あとは三方から大包囲してキエフ政府内の内通者に行動させる、そんな展開を予想していたが、急戦狙いの「力攻め」をするとはネエ・・・多くの専門家も予想できなかった模様だ。これが本当にロ軍参謀本部が立案した作戦なのだろうか。分からん。

老化して頑固になった独裁者が無理な出兵を主張して、周辺の側近も困り果てたとすれば、これは21世紀の《ロシア版文禄慶長の役》である、な。先日の投稿では「満州事変」に例えたが、その比喩は撤回する。

最終的には、何年以内とは確言できないが、ロシア国内でどういう形でか権力の移動が起こる可能性が高まった。日本でも文禄慶長の役の後、豊臣から徳川へ権力が移動した。このロジックは時代と国を超えて普遍的であると思う。

死傷者が千人を超える辺りからロシア側の戦意が落ち、2千人に達する時点で「政治不安」が醸し出されると予想する。

ウクライナの現政権は、結末のいかんを問わず、終戦後かその前かに信頼を失うだろう。これも予想しておく。

ロシア制裁の最終手段として、SWIFT(国際的銀行間決済システム)からロシアを排除するとの報道だ。

やっぱり、やるの?マジで、完全にやるの?(幸に「完全に」ではない)

私たちドイツ人はどうやって天然ガスをロシアから買えばいいの?だって支払いが出来ないじゃない。どうすればいいの?原発は止めちゃったし・・・アメリカが「ガスは保障するから安心しろ」と言っているって?でも、それはパイプラインじゃなくて、船で輸送するんでしょ?いまのアメリカの港湾は、パンデミックで人が集まらなくて、機能不全になっているんじゃないの?物流の停滞でインフレが酷いのはどこの国だっけ?

こんな声が聞こえるようだ。ウクライナを助けるためにはドイツ1国くらいは犠牲にしてもいいということか。

日本にも影響はある。

日本の三井物産はロシアビジネスで巨額のプロジェクトをスタートさせているみたいだけど、決済が出来ないなら、それも頓挫するわナア。日本に輸入されている天然ガスも来なくなるネエ。結構な量だ。電気はどうする?大丈夫?まあ、何とか頑張ってくれ・・・いつまでかって?う~ん、長くなるかもしれないナア。それから三井物産、これは倒産するかもしれないケド、それくらいは覚悟しておいてヨネ・・・いや、政府が助ければいいか。

こんな感じになるか・・・要するに、SWIFTを経由した売買ができないなら、何をマネーにして決済するかという話になる。それはアメリカ、EUなど旧・西側政府の裁量とは無関係の何かならマネーに使えるという理屈だ。マネーは評価尺度、取引仲介機能があれば最低限機能する。

そもそもマネーは自然発生的に経済プロセスから生まれるものであって、そのマネー形成プロセスを政府が自由にコントロールできるものではない。取引機会があれば、必ずマネーは自然発生する。

クラシックな形でよければ金取引のオフショア・ネットワークがあれば使える ― 残念ながらこれは寡聞にして聞かない。金がダメなら暗号通貨でもよい。DIGITAL通貨があればそれもよい。人民元で相手が — ドイツが、日本が、フランスが — 支払ってくれるなら、あるいは受け取ってくれるなら、それも良い。手元に人民元がなければ中国の銀行が運転資金を貸してくれるだろう。そうすれば中国、日本、ドイツ、フランス等々、すべて八方ウェルカムになる。経済のポイントは当事者全てがウェルカムということだ。ひょっとすると日本はロシアに円で払えるかもしれない ― さすがに英米の手前、やりづらく、SWIFTでなければ非効率にはなるが取引は出来る。暮らしを守る行為の集積が《経済》なのである。この自然な経済プロセスのどこが本質的に問題なのか、小生には分からない。

「価値」やら「主義」やらは地に足が着いた生活感覚の上になければならない。おしゃべりや見栄や高揚感では空腹もみたせない。人生とは関係のない代物だ。

最も怖いのは意図せずして、善意の行動を積み重ねる結果、世界大戦へと拡大することだ。だからルールを設ける必要がある。鉄則は戦争当事国の領域内に武力紛争を局地化することである。なぜそれを誰も発言しないのか、不審で仕方がない。事は世界平和に関するのだ。戦争状態が長引いて喜ぶのは軍需産業だけである。

それにしてもネエ、三井物産という会社だが、ずっと昔に「イラン革命」で大変な火傷をして、総合商社No.1から滑り落ちたことがある。今度はロシアが「戦争」を勝手に始めてしまった。商社ビジネスの「業」とはいえ波乱の多い会社である。

マ、SWIFTから完全排除するなら、日本政府も何が起こりそうか、十分に国民に説明しておいた方がイイと思われる。

ロシアも無理な出兵であったが、ロシア制裁を無理に行うと、ロシアの破綻のあと、NATOも空中分解して「旧・西側諸国」なる勢力まで消滅するかもしれない。

そして誰もいなくなった

これも可能性の一つだ。

その果てに、機能不全が続いている「国際連合」。これも拠出金が高いし、いざという時は小田原評定で役には立たないし、脱退国が続出するかもしれないネエ。小生が暮らしているマンションも町内会費を払っている。で、何がメリットかと言うと、よく分からない。多分、メリットらしいメリットはないのだと思う。国連はそれほど馬鹿らしくはないが油断はできない。油断は禁物だが、国連に見切りをつけられてしまうと、『そして誰もいなくなった』を超えて、応仁の乱のあとの京都さながら

汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀(ひばり)

      上がるを見ても 落つる涙は

これが真の意味における《Post-WW2 Regime(=ポスト第2次世界大戦体制)》の終焉であろう。

所詮、第2次大戦後につくられたモノは、昔はなかったものだ。あっても役に立たなくなったなら、そもそもなくてもイイ。昔はなかった。なくてもイイものはなくした方がベターだ。かえってうまく行く。これにも一理あるだろう。


何ごとも無理を重ねるとき失敗は起きる。それも得意分野で失敗するものだ ― 苦手分野で無理はしないものだ。

無理は「出兵」する側にも、「制裁」する側にもありうる。剣呑、剣呑・・・


2022年2月26日土曜日

ホンノ一言: お寒いのはコロナ政策だけじゃない、ロシア外交もお寒いネエ

 安倍政権以来の対ロシア外交の蓄積は、とうとうゼロにリセットされた模様だ。

今朝のワイドショーには小野寺元防衛相が出演して、

プーチンを相手にした北方領土返還交渉はなんの成果もなかった。ゼロです。プーチンがいまの地位にある限り、話をしても駄目でしょう。今回のウクライナ侵略があったいま、むしろソ連による不法占領をG7各国に訴えて、その不法性を世界に知らしめていくのが重要です。

大体、こんな趣旨の見解を開陳していた。

まあ、お説はその通りだと共感するが、不法占拠を世界に訴えていくなどというのは、ずっと日本政府が採ってきた戦略ではなかったのかと小生は記憶している。まあ、「4島(マルゴト)返還」を目指す、1956年の日ソ共同宣言に沿って「(とりあえず)2島返還」を実現する、どの選択肢をとるかは、その時々で変化してきたが、一貫性がないと非難するのは理解に欠けるのだろう。むしろ柔軟だったと言うべきで、実際にソ連の不法性を訴えるアプローチは既に2010年に米国・オバマ政権が日本の立場を支持してくれたので、相応の成果は得ているわけだ。

【ワシントン=弟子丸幸子】クローリー米国務次官補は1日の記者会見で、ロシアのメドベージェフ大統領の国後島訪問について「北方領土に関して、米国は日本を支持している」と言明した。オバマ政権が北方四島を巡る問題で日本支持の立場を公式に確認したのは初めて。そのうえで、日本とロシアが平和条約締結に向けた交渉に努力するよう求めた。

クローリー氏は「(北方領土問題に関する)論争は十分に承知している」と指摘したうえで、4島返還を求める日本の主張への支持を表明。「だからこそ、米国は長年にわたり、日ロ間の平和条約交渉を促してきた」と述べた。

Source:日本経済新聞、2010年11月2日

この地点から更に交渉を詰めようとしたのが安倍‐プーチン外交であるというのは、時系列をたどるだけでも、簡単に推測はつく。

それを元防衛相ともあろう御仁が、もうこれ以上話をしても駄目ですから、世界に訴えていきましょうとは、要するにこの10年間の対ロシア外交の努力は一先ずリセットする、というメッセージだと思われる。

情けないネエ・・・。ウクライナの政治家の呑気さ加減よりはマシかもしれないが、日本の政治家も『ダイジョウブですか?Are You OK?』と聞きたくなるときが多いような気がする。

今回の「ウクライナ侵略」を断行したロシアに懲罰を加えるため、金融制裁、貿易制裁が色々と公表されている。

データを見てみると、対ロシア融資において日本は結構なシェアを占めている。


Source:日本経済新聞、2022年2月24日

シェアトップはフランスである。フランスはそもそも19世紀から20世紀にかけてロシア帝国によるシベリア鉄道建設資金を融資したくらいでロシアとの経済的絆は伝統的に強い。マクロン大統領が懸命に英米とロシアとの仲介に努力を傾けているのはフランス(とイタリア?)の国益のためである。フランスに対して、ドイツは実物取引、特に天然ガスを通して、ロシアと非常に深い関係があるというのは周知のことだ。もちろん米国も対ロシア融資の相当部分を占めているが、それよりは安全保障上のアメリカのポジションを優先させて外交戦略を決めているのは明らかだ。そして、日本の融資シェアはドイツやオランダよりは高く、直接投資や貿易取引ではそれ程ではないもののロシア関連では強い利害関係をもっていることが分かる。ロシア経済が破綻すれば、そのまま日本の金融機関の不良債権が増えることになるわけだ。

その日本が、アメリカ、イギリスと同じ姿勢で、同じような内容の発言を繰り返すだけではなく、同じ行動までとるとなると、マア、(どの程度まで英米から評価してもらえるかは眉唾であるが)少なくとも両国からはウェルカムに違いない。が、ロシアから眺めると

日本は最近年の対ロシア外交戦略を180度転換した

という風にしか見えないはずである。一体、合計して日本は得をするのか、損をするのか、分からない。2014年の「クリミア危機」の際は、安倍政権であったが、日露外交案件の情況を説明の上、ソフトな対応をロシアに行うことの国際的理解を得て、実際にそうしている。今回の「事変」では、日本にはそんな覚悟もないと思われ、今は英米に追随するのが反発を買わないやり方だ、という程度のことなのだろう、と。

もしもこんな印象が間違いであれば有難いくらいだ。

それにしても、マスメディアの報道姿勢も極めて劣悪である。

今回のようなことが勃発すれば、まずは戦況と今後の見通しを解説するのは当然として、

  • 日本とロシアの外交上、経済上の関係の経緯と現状
  • 日本とウクライナの外交上、経済上の関係の経緯と現状

この二点は政府も白書を通して公表しているので、担当者が資料を調査し、データを比較、整理して、国民に広く正しい認識を持ってもらう。この程度の努力はしてもイイのではないだろうか ― ま、マスコミもマンパワー不足だろうというのは分かる気もするが。正しい調査がそのまま経営成果に直結する商社、銀行、メーカーなら当然の事、やってますゼ、このくらいは。マスコミは言いっぱなしでお気楽なもンですネエ。こんなところである。

許されない暴挙です。この横暴に世界はどう対応するのでしょうか?

一先ずこう言っておくのは当然だが、こればっかり言ってそれで終わりっていうのもネエ・・・大体、「世界」っていう単一の国があるわけじゃない。対ロシア関係は国によって異なる。ロシア外交も国によって異なる余地がある。合唱に加わるのはいいとして、そのとき理性は何を考えているかが大事だろう。ニュース解説に使うパネルの細かなディーテイルに対比して、ほとんど中身のない説明、誰もクレームをつけない語り口を視聴していると、その知性のレベル、考察力のなさ、責任感の欠如がアリアリと感じられ、文字通り、《お寒い感覚》にとらわれる。もう日本国内の、特に大手民放TV各局は「報道」という目的を経営からは放棄したのじゃないか。「伝える」よりは「(CMを)みてもらう」。「背に腹はかえられぬ」という苦しい経営状態の現実が察せられ、怖い感覚に襲われる。

2022年2月25日金曜日

ほんの一言: ロシアのやり方、これはマズイねえ・・・

まとめにもならないが、まるで「戦況中継」だと感じつつ一応メモしておこう。

昨日稿では

複数の大都市で爆破事故を頻発させているのは、(あとになって該当する地にある軍事施設が攻撃されたとの報道があったが、やはり)後方攪乱であるし、心理戦術である。焦点が定まらず限られた軍事資源が集中できない。専守防衛は資源消費的なのである。そもそも現在でもゼレンスキー烏・大統領は支持率が低いそうだ。軍事、諜報にも素人だ。ウクライナ国内で信頼を失うのは時間の問題であると小生は予想している。

ゼ大統領は旧・西側から「国外退避」を勧められたが、それを断って首都キエフに留まると断言した由。平時の「才能なし」が戦時の「才能アリ」に脱皮する例は古今に多い。予想は予想として、実際にどうなっていくか分からない。

それと

北部国境の向こうで待機している露軍は、降伏か、和平交渉が始まった後にウクライナの要請を受けてキエフに進駐するか、あるいは進駐せずに国境地帯に留まる計画なのではないか。

NATO側が軍事的対応はしないと明言しているので、神経戦に持ち込んでウ側の内部崩壊をまつ戦術かと思ったが、そうでもないのかしら・・・日本で最近盛り上がっている「(先制的)敵基地攻撃」をやっているようだ。

いまウ国内で義勇軍(?)への志願者が非常に増えていると報道されている。人口が4千万人を超えるウクライナで反露感情が高まっているとすれば、ロシアによる今後のウクライナ運営、いやモトイ、ウクライナ経営がうまく行くのかどうか・・・。

自国に対する「怨念」をつくり出すのはマズイのでは。ロシア側にとっても結構なリスクがある。

「戦争」としては「3日間戦争」、「7日戦争」に分類されるのだろうが、今後、長期間にわたってウクライナ傀儡政権、更にはロシア政府に対する爆弾テロ、自爆テロが頻発していく情勢になれば、かつてイギリス政府の悩みの種であったIRA(=アイルランド共和国軍)を思い起こさせるものになるだろう。

武田信玄ではないが

人は城 人は石垣 人は堀

    情けは味方 仇は敵なり

《自他共栄》をはかるのが統治の根本であり、外交でも同じだろうと思うが、どうだろう。ロシアという国家と良好な関係を維持することで自国が繁栄すると。そう思わせていないところが、ロシア外交の問題点である。その問題は現在の中国にも言えることだ ― 事実としては、対中貿易で各国とも非常な利益を享けているのだが、対中依存への警戒感を高めてしまう所が実に宜しくない点で、これは中国(の不徳)に問題がある。

「勝ちすぎ」は失策だ。「一人勝ち」は最大の悪手である。


2022年2月24日木曜日

ホンノ一言: 今回のウクライナ紛争は「露烏事変」とでも呼ばれるのだろうか?

今回のウクライナ紛争を和名では「ロシア・ウクライナ戦争」とでも呼ぶのだろうか ― 正式な「宣戦布告」をして正規軍どうしで戦闘を展開するかどうかが不明なので「戦争」にはなり難く、むしろ「事変」という方がベターだと思うが。和名では「露西亜」と「烏克蘭」になるから《露烏事変》という辺りに落ち着くかもしれない・・・そういえば、戦前期・日本が突然に起こした《満州事変》。守るべき権益の存在、相手国の敵対的性向、外交交渉の不毛、相手国が取り結んでいる同盟関係、軍事オプションと相手側の油断、好機の到来。「満州事変」と「露烏事変」。両者は何となく似ているところがあるような印象がある。

ま、満州事変と似ているというのは、プーチン大統領にとっては極めて不吉であるに違いない。

日本国内のTVのワイドショーではこの話題でもちきりだ。

ずいぶん昔の思い出話になるが、アメリカとその同志がイラク・フセイン政権打倒のため「大量破壊兵器(=Weapons for Mass Destruction)」を口実にして空爆を開始した時も、日本のTV各局はまるで戦争ゲームさながら、火と轟音がとどろく映像を何度も流していたものである。多分、現地に張り付いているメディア関係者に攻撃中の現地司令部がサービスとして提供したものであったのだろう。

いま思えば、あの空爆の中で命を奪われる人たちが多数いたはずであったのに、悲劇である側面をあまり意識することなく、むしろそれをサカナにテレビ・サーフィンをしていたわけで、要するにメディアの視聴率競争にまんまと参加してしまった。この点、当時のわが身を振り返ると、内心忸怩たるものがあるわけだ。

ただ、「イラク戦争」について当時の事を思い出すと、先制的な軍事オプションを選択したアメリカ、および追随したイギリス、オーストラリアなどが世間で非難されたということはなかったように思う。先制攻撃に合理性はあるのかどうか異論や反論は多々あったようだが、少なくとも日本国内の一般視聴者は非はイラクの側にあると思い込まされていたように思う。実際には「大量破壊兵器」というのは「開戦の口実」に過ぎなかったことが、その後になって確認されている。「バグダッド空爆」は2003年の事件だから、もう19年も前のことだ。19年しか経っていないとも言えるが、戦闘自体は短期間のうちに終息したものの、その後の戦後処理に時間を要し、結局、米軍が完全に撤収するまでに8年余を要した。「戦争は政治の継続なり」とは言うものの、武力攻撃は決してコスト・パフォーマンスの良い政治ツールではない。

今日もワイドショーでは海外の特派員と交信しながら、さながら「イラク戦争」のような臨場感ある「戦争中継」をしようと民放各局はいかにも頑張っているが、悲しいかな日本のTV局の実力不足、取材能力不足、貧困なネットワークもあるようで、『新しい情報があれば教えてください』とMCが連呼するばかりであるのが、いかにも情報貧国・日本を地で行っているようで憐れな感じがする。

小生: 大した話は出来ないのに、なんでこの話題を引っ張るのかネエ・・・

カミさん: みんな視るのかなあ?

小生: 面白がって視る人が多いって考えてるからこそ、取り上げるんだろうネエ。

カミさん: 戦争になるの?

小生: アメリカは「プーチンは戦争を選んだ」って煽っているけど、昔のような戦争にはならないヨ。ウクライナがそもそも内部分裂して割れているみたいだし。それにプーチンさん、軍人出身じゃないんだよね、スパイ出身だよ。正面から戦車を送り込んで首都キエフを占領するなんて発想はしないんじゃないかなあ・・・

カミさん: そうなの?

小生: それよかウクライナ政府中枢部に内通者をつくってサ、いまのゼレンスキー大統領をどうかするんじゃないかと予想しているけど・・・

カミさん: どうかするって、怖いなあ・・・

複数の大都市で爆破事故を頻発させているのは、(あとになって該当する地にある軍事施設が攻撃されたとの報道があったが、やはり)後方攪乱であるし、心理戦術である。焦点が定まらず限られた軍事資源が集中できない。専守防衛は資源消費的なのである。そもそも現在でもゼレンスキー烏・大統領は支持率が低いそうだ。軍事、諜報にも素人だ。ウクライナ国内で信頼を失うのは時間の問題であると小生は予想している。

イラクのサダム・フセイン大統領は逃亡の果てに悲劇的な最期を迎えたが、烏・大統領も失職か、失踪か、あるいはもっと悲惨な暗殺といった可能性も考慮に入れる情況だと観ている。北部国境の向こうで待機している露軍は、降伏か、和平交渉が始まった後にウクライナの要請を受けてキエフに進駐するか、あるいは進駐せずに国境地帯に留まる計画なのではないか。

包囲され制空権も奪われた情勢ではウクライナはかなり困難だろう。それでも何が起こるかは分からない。理詰めの敵勢力が予想する以上のスピードで機動させ東部の戦闘地域に兵力を集中させることに成功すれば、劣勢のウクライナが意外や局地的戦闘で勝つ可能性はゼロではない。仮にそんな事態が起こるとすれば、ロシアが被る打撃は計り知れないほど大きいだろう。1982年のフォークランド戦争でも英海軍は予期せぬ損害をかなり被っている。

勝負ごとは終わるまでは分からない。

ウクライナがNATOに既に加盟していれば、ロシアも今回のような手は打てなかったはずだ。というより、ロシアと紛争を起こしておきながら、NATOへの加盟を希望するなど、ドイツ、フランスが対ロシア戦争の可能性を覚悟するはずはなく、その心理はポーランド、ハンガリー、ルーマニアなども同様だろう。ロシアと極めて近い関係にあるウクライナがNATOを志すというロジックにそもそも無理があったと思われる。

ずいぶん昔に経済学者・森嶋通夫氏が《無抵抗平和主義》を唱え、仮にソ連が本気で日本に侵攻してくる場合、日本は徹底抗戦して、莫大な人的・物的資源の犠牲を被るよりは、むしろ早期に無条件降伏をして、ソ連圏の中で有力な地位を占める方が合理的である、と。こんな提案を行って、その頃の世間で物議(?)をかもしたことがある。アメリカと軍事同盟を締結している日本においてすら、こんな議論が実際にあったことが大事なのである。ウクライナとロシアとの関係、地政学的状況を考えれば、

ウクライナにおいてをや

だと思う。一方の当事者であるウクライナの外交能力・政治能力が今回の紛争に濃厚な影を落としている。そう観ているところだ。


2022年2月22日火曜日

ホンノ一言: ウクライナ紛争でロシアを非難する議論の構造は

いま旬の話題であるのは、もはやオミクロンではなく、いつしかウクライナ情勢になった感がある。

少し前、ロシアのプーチン大統領はウクライナ東部の親ロシア勢力の独立、新国家樹立を承認し、そのため平和維持を目的に同地域へのロシア軍派兵を命令したと。そんな報道で今日のTVはもちきりである。

確かに「新国家承認」といっても体のイイ「侵略」であると非難するのは一理ある。というか、歴史を通して、《傀儡政権樹立+新国家承認》という手法は自国勢力を拡大する定石の一つである。たとえば

  • 戦前期・日本による満州事変から満州国樹立、日本政府による承認はその一例。
  • アメリカによる支援でベトナム戦争を戦ったサイゴン政権。これもドミノ的共産主義革命を怖れるアメリカの傀儡政権だった。
  • アフガニスタンのタリバン勢力駆逐後にアメリカが支援したカブール政府も傀儡政権の一つであったろう。

ロシアによる「ウクライナ東部の親ロシア勢力支援と新国家承認」は使い古されたクラシックな手法である。

欧米諸国、日本を含めた旧・西側諸国がロシアの「侵略」を非難するのは無理もない。

しかしなあ・・・、小生は極めてへそ曲がりなもので、ここで一文句つけたい余地もある。

一つ言えるのは、大国による「傀儡政権」はしばしば地元住民の心理と乖離した人工的構成物であるが故の弱点をもっているものだ。その基本的に脆弱な政権は、強大な外国による保護の下で緊張感を失い、政治に対する責任感を失い、独立した意思決定が出来ない中で、ただ一つ権力を維持することのみに苦心するために腐敗し、そのため地域住民の信頼をますます失い、反感をかい、最終的には崩壊へのプロセスを辿る・・・こんな例が非常に多いというのが、観察を通して得られた経験的知識である、ということだ。

例えば、日中戦争が続く中で英米から一貫して軍事支援された中国・国民党政府は、ある意味では英米による傀儡政権であった。弱体化し腐敗した国民党が中国国民の信頼を失い、日本の勢力が消え去った戦後早々、ライバルの中国共産党によって駆逐される憂き目にあったのは、まさに傀儡政権の多くが辿る途であった。

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但し、モスクワ政府が承認するというウクライナ東部の新国家が同様の道をたどると、今の段階で確言するつもりはない。そうなる、そうはならない、どちらの可能性もあると思う。

そもそもウクライナ東部の親ロシア勢力については、小生、十分な知識をもっていない。その親ロシア勢力が樹立する新国家がいかなるものか、よくは知らない。多分、アメリカ、EUが非難するように文字通り《ロシアの傀儡政権》なのだろう。しかし、だから、ウクライナ東部の親露国家はロシアによる侵略を正当化するための人工的構成物であるのだろうか?

1931年の満州事変以来の外交について、日本は太平洋戦争開戦ぎりぎりの段階に至って、「自存自衛」であると主張していた。しかし、当時の日本人の意識としては「自存自衛」であったかもしれないが、その核心が自国の海外権益の保護であったのは明白で、更に加えて新規権益獲得をも目指していたわけである。だから日本がとった行動は《満州侵略》であったと、小生も理解している。

ロシアは守るべき何かを何であると認識しているのか?ロシアは獲るべきものを何だと認識しているのか?この点の理解がまず前提にあって、その後に「ウクライナ侵略」を論じるという順になるのではないか?

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一般論として、地域住民の大半が中央政府から独立して新国家を樹立したいという願望を抱くとき、その新国家を支持することが既存の国家を《侵略》することになるのだろうか?もしなるのであれば、例えばスコットランドがスコットランド住民の手続きを経た総意として「連合王国(UK)」から独立しようとするとき、その新スコットランドをフランスが新国家として承認するとして、フランスはイギリスを侵略したという理屈になる。

「それは違う」と言う人は多いのではないだろうか。スコットランド国民の「人権」を尊重するべきだという人の方が多いのではないだろうか。

もし独立を求める勢力による新国家樹立を認めることが「侵略」に該当するなら、ウイグル自治区が北京政府から独立しようとするとき、そのウイグル自治政権をアメリカ、EU、日本などが承認すれば、日本は中国を侵略したことになる。

これは「侵略」ではないと旧・西側諸国なら言うのではないか。であれば、一般論としてはロシアがウクライナ国内で独立を宣言する親露政権を承認するとしても、それ自体が必ずしもウクライナ侵略にはならない。こういう議論になると思う。

要するに、近年盛んに用いられる論法だが、目的が「人権」で「権益」ではないなら他国の内政に立ち入っても「侵略」にはあたらないという法理(?)が一方にある。しかし、国と言うのは例外なく真の目的としては「国益(≒権益)」を追求するものなのだ。だから、今回のロシアの行動も心の底ではロシアの国益を拡張しようとしている、と。ホンネはこうだろう、と。そう非難するのはよいが、そうであれば「人権」を目的とする「干渉」なら許されるなどとは言わないことだ。「内政干渉」は全て「主権の侵害」であり、「侵略」であるというロジックを通すべきだろう。しかし、相手が中国になるとウイグルの人権抑圧を批判したい。中国の内政に干渉したい。その論拠が要る。そのためには建て前を語る必要がある。その一方でロシアにはホンネの部分を議論している。

同じ内政干渉であっても、旧・西側がやれば人権擁護、中露がやると侵略になる。「それはないでしょう」という人が出てきてもおかしくない。これでは韓国で大流行した「ネロナムブル」と同じ、自分(ネ)がやればロマンスだが、他人(ナム)がやると不倫(ブルユン)。これと中身は同じである。

ま、古来、このような議論を「二枚舌」という。どうもへそ曲がりなもので、こんな風な印象がある。

承認した国家との間では、条約を締結するし、軍事同盟を結ぶことも出来る理屈だ。ロシアと東ウクライナの親露国家もそうするだろう。

ロジックはこうならざるを得ない。実際、世界史の現実はこのように動いて来た。

ロジックを超えて「容認できない」と主張するとすれば、それはロジックではなくグローバルな覇権闘争(の一環)であるということだ。

そもそも国家に適用するべき「マクロ倫理学」などという理論はない。まして覇権闘争であるなら、ただただ、

どちらが勝つか、どちらが負けるか

この問題だけが解くべき問題である。善い、悪い、とは次元が違う。

ロシアが親ロシア勢力を支援せず、したがって「ウクライナ侵略」を控え、あくまでもキエフ政府を尊重するなら、そのキエフ政府によって親ロシア勢力は逮捕され、「国家転覆罪」に問われるのではないか? — ウクライナ刑法に目を通したわけではないが、普通に考えると、親ロシア勢力はこの種の犯罪を犯しているとキエフ政府の側は判断するはずである。これは「人権抑圧」にはならないのだろうか?

要するに、ウクライナの「国内問題」としてキエフ政府に処理を任せるに十分な信頼をロシアはキエフ政府にはもっていない。これが事の本質であろう。

どうやら、今回のウクライナ紛争は「ロシア帝国主義?」などという問題とは筋が違うように思われる。


・・・さて、今日は西側諸国の基本理念をかなりアカラサマに批判するような投稿になってしまった。もう数年も前になるが、以前にも率直な内容を書いたところ、《不適切投稿》のレッテルを誰かが貼ったか、あるいは運営企業の暗黙のルールに触れるかしたのだろうか、突然投稿が削除されたことがある。小生には事前警告も、一部修正要求もなかった。今回もそうなるかもしれないと少々心配している。自由なはずのここ日本で書くブログであっても、レンタルサーバーなどでアカウントの独立性を十分に守っていない限り、《表現の自由》が一方的に制限されることはママあるのが現実だ。自由が認められる範囲は意外なほど狭い。なので、念のため今回のドラフトは別に保存しておくことにしよう。

2022年2月20日日曜日

断想: 仕事や活動にも「集中型」と「持続型」の二つのタイプがある

プロ野球でも「短期決戦向きの監督」、「長期のペナントレース向きの監督」と言われることがあるが、亡くなった父もこの例えで様々人物評を語っていたものである。

確かに「強いチーム」を造ることには長けているのに、7回勝負の日本シリーズではほとんど負けるといった監督もいる。そんな人は「悲運の名将」と言われるが、仕事が求める個性とその人の個性とがミスマッチしているのかもしれない。

これと関連した話だが・・・

4年にたった一度きりのオリンピックで戦うアスリートは典型だと思うのだが、長い時間をかけて到達した成果を、限られた短時間、時には陸上短距離のように10秒ほど、あるいはマラソンであっても2時間ほどの時間の中に努力を凝縮させて表現する。そんなタイプの活動がある。

長期間の努力の成果を一瞬間に集中させる

長い自己研鑽の積み重ねがあるとしても、その積み重ねた努力の成果を最後に「自己表現」するという段階では極めて短期集中型になる。芸術では音楽演奏や舞台演劇もこれに似ているし、(まるで戦前の軍国少年のようではあるが)陸軍よりは海軍に近い。海戦は陸戦に比べると

準備は長期間、結果は短期間

というところがある。そんな「集中型」とでも言える仕事のスタイルがある。


これに対して、

努力の積み重ねの最終到達点がそのまま成果となって現れる

こんなタイプの仕事もある。いわば「持続型」である。

美術は絵画であれ、彫刻であれ、このタイプである。例えばレオナルドの『モナリザ』は、制作者が生涯を通して身近に持ち歩き、一筆ずつを加えて完成形に近づけ、それでもなお最後は未完成であった、と考えられているそうだ。海の戦いに比べて幾つかの都市全体が移動しながら優勢を一歩一歩築いていくような陸戦は、絵具を少しずつ重ねていく絵筆の運びにも似ている面がある。製造業の新製品開発もこれに似ている。反対に、成果が外形化されないサービスはモノ作りより集中型の色彩が強い。日本人が得意とする「おもてなし」は長年の準備と修練がいるのと同時に、最後の段階でそれを表現できるかどうかが大事である。


小生は、「瞬間」にかける仕事はずっと苦手だ。今風にいえば肉食系ではなく草食系なのかもしれない。何より現場の情勢を読んで瞬時のうちに対応を変化させる柔軟さに欠けている。プレゼンは今でも苦手だ。学会発表もどちらかと言えば苦痛だった。発表自体はよいのだが、その場で出てくる質問に対して的確に一言でズバリ回答するのが苦手なのだ。言葉足らずになったり、丁寧すぎて長広舌になったりする。勘が悪いのだ、な — その割にはスピーチは得意だから不思議だ。それよりは執筆が好きである。執筆という仕事は典型的な持続型である。100のうち80までをやり遂げれば、少し時間をおいても、成果はそのまま残る。だから、努力を長い期間にわたって継続し、レベルを上げていくことが最も大事になってくる。瞬間風速ではなく、平均風速が大事になってくる。そんな仕事のほうが好きである。

試行錯誤しながら再計算を繰り返したり、データを整理したり、着想をその都度書きとどめておく積み重ねの最後の到達点がそのまま結果になる仕事のスタイルを好んだ。大きな成果を残せなかったのは、そもそも素質が「才能なし」、せいぜいが「凡人」であったにもかかわらず、選んだ主題を徹底して一貫させ、同じテーマに関して深堀を続けるだけの根気に欠け、関心が拡散したためであったと自己評価している ― ま、やりたいことをやったのサ、という点では満足度はそれなりに高く残っているが。


少し以前の投稿で、

人間はイヌ型とトリ型の二通りがある

という恩師の人間観察をメモしておいたが、

仕事には集中型|持続型、たとえば音楽型|美術型の二通りがある

これも言えるような気がする。思い出したので書いておこう。


2022年2月17日木曜日

ホンノ一言: コロナ対応の「強者の論理」は絶対にないか?

今日の投稿もホンノ個人的な覚え書き。

いつかは何かに使う時もあるのだろうか・・・。

さて、

いわゆるメディア各社による「△△支持率」と政策の良否に関するロジックとが矛盾する場合は結構あると思うが、現在ほどこの二つが乖離しているケースは珍しいのではないだろうか?

こんな記事がYahooにあった:

“鎖国状態”とも言われる日本の厳しい水際対策。これまで、岸田首相が制限を緩めなかった理由について、自民党幹部は「支持率が持ちこたえてる理由が最初の水際強化。緩めた印象になるのがイヤみたいだな」と話します。

しかし、経済界のみならず、与野党からも批判が相次ぎ、政府は水際対策を緩和する方針を固めました。

16日現在、外国人の新規入国は原則停止です。しかし来月からは、一定の条件を満たせば、観光目的ではない外国人の新規入国が認められる方針で、一日あたりの入国者数の上限は3500人から5000人に引き上げられる方向で調整しています。

さらに、原則7日の待機期間を、例外的に3日に短縮することも認める方向で調整を進めています。

岸田首相は17日、水際対策の緩和について、会見で発表する方針です。

Source: “鎖国状態”水際対策緩和へ 経済界・与野党から批判相次ぎ(日テレNEWS) - Yahoo!ニュース、2/17(木) 0:51配信


ちょうどこんな感じか:

お母さん: ネエ、コロナの感染が心配だし、うちに持って帰られても困るから、会社休んでくれない。

お父さん: そりゃ、無理だよ。俺が休んだら仕事が回らなくなるしナア・・・

お母さん: うちには子供がいるのよ、ただでさえ学校でうつされるんじゃないかって心配だし・・・

お父さん: 子供はうつっても軽く済むから大丈夫だろ。

お父さん: それに来週、お義母さんがうちに見えるって言ってるでしょ。お義母さん、もうお年だし、うちで感染して、重症になったらどうするの?3回目のワクチンだってまだうってないのヨ。

お父さん: そんなに言われてもなあ、だからって仕事を休んでサ、それで契約をとれなかったらどうするんだ?会社が困れば、ボーナスだって減る、ローン返済だってある。あとで困るんだぞ。

お母さん: あ~あ、もうみんな一斉に会社を休むようにって国が言ってくれないかしら・・・

お父さん: 無茶をいうなよ。外に出るなって言うなら、お袋に今は来るなっていう方が手っ取り早いサ。よし、今から電話しよう。

お母さん: そうね。まずは、それからネ。

確かにコロナに感染するのは困る。しかし、仕事を停めるわけにはいかない。停めれば《メシの食い上げ》だ。「貯金を取り崩せばいいだろう」と言う人もいるが、ローン返済によって純資産が増える以上、返済は立派な貯蓄である。貯金は増えていないが、借金返済という形で貯金をしているのだ。その上さらに貯金を引き出せというのは、敗戦直後の日本人が送っていた「竹の子生活」と同じである。

21世紀のこの日本で「竹の子生活」をすればイイとのたまう人物がいるのは、小生、不可思議に感じている。

お父さん: 大企業で口先仕事をしていりゃ同じ給料を稼げる人間と俺たちとは違うんだよ。

お父さんのこの言葉がいまの現実を説明しているのではないか。

感染抑制を名目に国と社会が経済活動を抑制してもあまり困らない人たちがいる。反面、国の政策で暮らしが脅かされる人たちがいる ― 営業抑制の補償をするにしても限定的であるし、全額補償をするにも社会的反発が強かろう。

コロナはリスクの顕在化である。地震や火山の噴火、水害に似ている。顕在化したリスクの損失は誰かが負担しなければならない理屈だ。被る損失の強度はその人がつくため息の回数に比例するだろう。ため息をつきながら自宅に閉じこもり人との交わりを絶って命を守る高齢者の毎日も負担の一つのあり方だ。感染して重体になる高齢者もその一つ、若くして命を落とす不憫な青年もその一つである。客が減り、売り上げが減り、店を閉じて今後の行く末に迷う現役世代も一つのあり方だ。他にも無数にある。損失の強度、負担の形態は実に多様である。

しかし要点が一つある。発生した損失を社会の中で事後的にどう負担するかはゼロサムゲームになるということだ。損失をより多く負担する階層があれば、その分だけ損失を回避できる階層がある。コロナ負担は決して平等ではない。これがポイントだ。いわゆる《世論調査》にはどの階層の意見が強く反映されているかをみる必要がある。少なくとも回答者の年齢分布、男女別分布、居住地分布が日本人全体を代表しているのかどうかをみる必要がある。家でテレワークが出来る人、対人接触をせずに済ませられる人、それに年金、配当などで暮らしているランティエ( rentier)階層など、コロナ禍の損失をほとんど負担していない人たちは、いまの暮らしの安定よりは感染抑制を強く望むのではないか。

小生にはこれが《強者の論理》に思われる時がある。損失はなにも引き受けようとしない強い立場の人がいるように感じる。

【2月19日加筆】コロナ感染は大都市圏、地方中核都市など人口密集地域に偏重して脅威となるリスクである。実際に発生した「コロナ災害」による損失を日本国内ではどのように負担したのか、というのは面白い問題だと思う。「災害発生と復旧の経済学」というのはどの程度進んでいるのだろうか。これまで興味は持っていなかった。ちょっと勉強してみようかしら。そのうち何かを思いついたらメモすることにしよう。

強者と弱者のバランスをとるためには、コロナ感染抑制を目指す行動規制による損失を平等に負担するため、緊急事態宣言を発すると同時に(例えば)

  • 金利・配当・賃貸料などの財産所得に対する分離課税率を20%から40%に(時限的)に引き上げる ― 損害補償の財源にあてるため。
  • 特に緊急事態宣言下にある地域においては、不動産賃貸料支払いの減免、また固定資産税、都市計画税の支払い猶予を行う。
  • 営業自粛対象外の企業に対して(特に従業員千人以上の大企業に対しては)臨時法人特別税を課する。また賞与支払い額を前年の(例えば)5割以下にとどめるよう要請する — これも補償の財源に充当するため。

リスクの顕在化によって社会的損失が既に確定していた以上、損失を被る人たちがもう少し広く、数多く発生していて初めて自然であった理屈だろう。

実際、小生が保有していたREIT(=不動産投資ファンド)の中にはホテル中心に資産を運用していた銘柄が含まれていたのだが、コロナ禍の中でホテル経営を支えるためホテル側が支払う固定賃料を減免したことから投資家への分配金が90パーセント以上減額された。つまり、コロナによる損失を投資家が負担したのである。

これは某投資ファンドの一例で、分配金減額90パーセント超というのは極端であるが、このような負担平等化のための方策が広く社会的に必要であったかもしれない。もし、こうした負担平等化政策が実行されていれば、強い立場にある人々がそれでも「思い切った経済活動自粛」を求めたかどうか、小生は非常に疑問に思っている。

確かに公衆衛生も《公益》には違いないが、公益は公衆衛生のみで成り立っているわけではない。

いかに感染症蔓延の最中にあるとはいえ、仕事をしていない人も多くいる日本社会で、職業活動の自由を制限することによって感染者数を抑えるとしても、社会の一部ではマイナス、一部ではプラスの作用となって帰着し、その配分が不平等である。なので、立場によって判断が分かれるはずで、実は確たることは言えないのである ― しかし、この立場の違いに配慮するワイドショーは(小生がこれまで視ている限り)皆無である。

他方、ワクチンの提供、経口治療薬の提供、検査機会の拡大、医療サービス機会の拡大は、人々の選択範囲を拡大させるのでプラスの社会的価値をもたらす理屈だ。

社会全体の価値の増進になるのかどうか不明瞭な政策ではなく、プラスであることが明らかな政策に最大限の努力を傾けるべきだという単純明快な指針がここにある ― 実は普通の日本人なら誰でもそう考えているのではないかと思う。

《強者の論理》ではなく《当たり前の常識》に沿って政策を実行すれば、当たり前のことであるが故に理解もされやすいはずだ。これが理想的な《コミュニケーション》というものではないか。

コミュニケーションが下手なのは、そもそも分かり難い事をやろうとしているからだと言える。

専門家が主役である精密複雑な政策ではなく、素人っぽくて野暮ではあるが人情をわきまえ分かりやすい政策を志向する点にこそ、議会中心の良きアマチュアリズムがあると言われる。ところが、日本は議院内閣制であるのにそんな風ではない。どこかがおかしいのだろう。



2022年2月14日月曜日

ホンノ一言: 政治家は積極的のようだが憲法改正が行われる確率は低いと予想する

前回選挙で憲法改正勢力の優勢は維持された。岸田政権も憲法改正には積極的である様子である。

しかし思うに日本で憲法改正が実際に実行されることはないと(小生は)予想している。

理由の一つは以前の投稿の標題でもあったが、時機を逸した、というものだ。もはやどの条文を改正すればよいのか、論点が拡散しすぎて最優先事項を絞りこむことも不可能になったとみている。つまり改正案を提示することが困難ではないかと言うのが第1点。


第二に、現行憲法はもう実質的には守られていない。これが事実だと思う。例えば、第9条を読んでみるがいい。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「戦力不保持」と「自衛隊」と。この二つが両立するかどうかは、戦後日本を通して重すぎる問題であり続けた。 憲法学者はもう何十年も考察を加え自衛隊合憲の論理構成に努力してきたが、普通に文章を読めば、

戦争を永久に放棄するが故に戦力は保持しない

こう書いているのは明らかだ。にも拘わらず「自衛隊」という戦力は保持できるのだという議論は、

実際に必要な事は憲法解釈でロジックを構成すればよい

という手法を選択したということだ。試しに、これまでの憲法解釈を英訳して、海外の法学者に読んでもらえばよい。

航空自衛隊は"Japan Air Self-Defense Force"だが、憲法英訳版では

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

第9条をこう書いてある。"Air Self-Defense Force"は"Air Force"の部分集合だと小生には思われるし、普通の人もそう考えるのではないだろうか。

ごく最近では、「(先制的)敵基地攻撃」の必要性すら国会議員の間で議論されている。それも憲法改正を前提とせずにである。これも合憲と考えるわけだ。

つまり、解釈によってここまで実際的な憲法運用が出来るのであれば、もはや形式的憲法改正は必要ない。現実に即応した必要な立法は憲法再解釈で可能であるというのが第2点。


最後に、日本は明治維新以来、一度も憲法改正をしていないという点もある。よく戦後の日本国憲法は一度も改正されていないという点が引き合いに出されるが、戦前の大日本帝国憲法も一度も改正されたことがない。近代的立憲国家で憲法改正を実行したことがないのは、(おそらく)日本のみである。

敗戦後に明治憲法から現行憲法に置き換わる過程では確かに明治憲法の規定に従って改憲手続きが採られた。しかし、だからと言って、昭和21年11月に公布された日本国憲法を制定した憲法制定権力が日本人にあったと思う日本人は少ないだろう。ひょっとすると一人もいないかもしれない。なので、このときの憲法改正手続きを改憲経験に含めるべきではないだろう。

日本国民が自ら権力を行使して制定した憲法でなかったとすれば、それが決して悪くはない憲法なら、それを神聖に感じ、自らの手によっては変更するまいと考えてもむしろ自然な事だろう。敗戦直後の占領下においてのみ日本は現行憲法を公布できた。平時、戦時を含め、外国の軍隊によって占領されていない時期に、日本人は憲法を改正することをしていない。100年を超える長きにわたって国民が選択してこなかったことは、今後も選択はしないだろうというのが、小生の推測だ。

こんな投稿がネットにあった:

憲法論議と言ったら「改憲」VS「護憲」、あるいは「保守」VS「革新」が対立軸のような気がしていたが、それよりもずっと手前の段階に本質的な問題が横たわっていると言うのは、政治学者の境家史郎・東京大教授(43)だ。「ルール無視の現況が続けば、下手をすると憲法の死文化を招く危うさがあるのです」

URL: https://mainichi.jp/articles/20220214/dde/012/010/010000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20220214

Source:毎日新聞、2022年2月14日(月)

何世代かが経過する中で人は現実を合理化しようとするものだ。まさに

合理的なものは現実的なものであり、現実的なものは合理的である。

ヘーゲルの名言が実証されることだろう。

自然科学者は「自然現象は因果律に従う合理的なものだ」と考える。社会科学者は社会もまたそうだと考える。それだけではなく、合理的な根拠があるが故に、76年前の憲法が死文化する現実がもたらされたと、やがて考えることだろう。

人は、どれほど過酷な環境であっても、やがて順応するものだ。

 

2022年2月12日土曜日

断想: 運、不運を語りたがらない不毛な評論家と賢明な庶民との違いなのか

北京冬季五輪ではメダル競争とは別の面で色々なドラマが進行している。

日本選手が金メダルを獲得すれば日本人は喜ぶがどの国でも事情は同じだ。が、一つ言えるのは、メダルの色が金であるか、銀、銅であるかというよりは、戦っている選手の人間的素顔に人はより強い関心を持っている(ように見える)点だ。戦っている選手の心の中に入りこみ、不安や野心、その他の思いを知ったり、触れることで、人はより深く「面白い」と感じ入るものだ。不審な判定に対する不審そのものより、個々の選手がそんな不運に対して、どのように対応し行動したかということで視ている人は深く感動したりする。「不審な判定」は、審判の責任でもあるのだが、かと言って審判がおかしな判定をするとは予想はできず(予想されていればクレームが殺到するはずだ)、事後に「結果」をなかったものには出来ない以上、競技の結果は《運・不運》によるとしか言えず、それにそもそも運や不運はなにも審判の誤審のみからもたらされるわけではない。

こんな運や不運を《神のはからい》と達観するとすれば、まさにトロイア戦記であるホメロス『イリアス』のようにこの世は神々の悪戯であるという世界観になり、また日本の『平家物語』に表れる諸行無常の世界にもなるわけである。司馬遼太郎の歴史小説には様々批判があるが、歴史に名を残している個々の人間がリアルタイムでどう考え、どう行動したかを現代日本人にも理解可能な文章で再構成している点は、やはり文学的に創造された価値になっていると思う。

大体、自分の努力で結果が決まるなら、最も努力をした人が勝つというロジックになるが、こんな理屈を信じている庶民は誰一人いないであろう。

五輪の場で戦っている多くの選手たちの姿に何かを感じる心の動きと、例えば映画"The Longest Day"や「トラ・トラ・トラ!」を観たあとに何事かを思う心の動きは、互いによく似ているはずで、実はほぼ同じようなことを考えている。

オリンピックという競技の場で誰が勝つか、誰が負けるかは運・不運が強く影響する。

勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。

野球という勝負の世界に生きた野村監督はこの辺りの機微を実践的に把握していたのだろう。

同じように、ビジネスの世界で行う新規事業投資が成功するか失敗するかも、最後の段階で運・不運が影響する。かつて三井グループがイランのバンダルシャプールで展開したIJPCプロジェクトは投資としては典型的な失敗例であるが、その失敗の原因を突き詰めていけば、結局は「ホメイニ革命と革命政権」、その後の「イラン・イラク戦争」を事前に予想できたかどうかにたどり着くわけである。もしもこれを予想するべきであったとすれば、予想可能であったロジックとなるが、10年前に革命勃発を事前予想できたのであれば、更に10年前の段階で革命を予想できる情勢になることが予想できていたことになり、こうして再帰的に遡っていけば1000年も前から「将来、こうなるネ」という風に未来が分かっていた、と。こんな議論になる。バカバカしい限りだろう。

努力はいますべきこと。結果は未来に運・不運が混じって決まるものなのである。別に難しい事ではなく、普通の人なら当然知っていることだ。

競技や新規ビジネスだけではなく、人が行う様々な計画や努力には、例外なく《運・不運》がつきまとい、それから逃げることは出来ない。

人は神の意志から逃げることはできない

こんな認識で近代科学登場以前の人々は世の中というものを理解していたことは、その時代の文学作品を読めばすぐに分かることだ。小生がまだ学校在学中であった頃には「不可抗力」という言葉がよく使われていたものだ。「不運」と言っても、「不可抗力」と言っても、主旨は変わらない。

それに対して、現代日本では

物事にはすべて原因がある。原因を知ったうえで、それをコントロールして望ましい結果を実現するのが、私たちのやるべきことなのです。

こんな意見を述べる「専門家」、というか「評論家(?)」、「話芸従事者(?)」が世間には目立つ昨今だ。が、もしこんなことが現実に可能ならば、望ましくない事が起これば全てそれはどこかの誰かの管理ミスということになる。いま世間で「不可抗力」という言葉が使用不可になりつつあるのは、ひょっとしてこういう思考が背景にあるのではないかと思ったりもするのだ。

確かにこれは一つの世界観であるには違いない。

そういえば、小生が大学学部にいた頃、いまこの瞬間に宇宙のあらゆる粒子の位置と速度を知ることが出来れば、未来の事はすべて正確に予測できる。予測できないのは、ひとえに人間の知識が足りないためである、と。まさに「ラプラスの魔」を地で行くような、科学至上主義の教授がいた。

理念やモラルではなく科学の発展のみが社会の進歩を実現できることは、その通りだと小生も思っているが、精密科学に基づく決定論を小生は信じていない。ま、この論点は「科学」よりは、その以前の「信仰」に似た問題だと思う。

ただ、こういう世界観の大前提は実はいくつもあるのであって

  • 物事の原因は知ろうと思えば正確に知ることが出来る
  • 原因が判明したとして、その原因を人が高い精度でコントロールできる手段がある

要するに、テキサスで発生した竜巻の真の原因であるブラジルの一匹の蝶の羽ばたきを科学者は特定できるのかという《バタフライ効果》の問題であって、少なくともこの二つは前提しなければ、《科学的社会管理》は不可能である。そればかりでなく、科学を応用して社会の安全を制御するというこの発想は、そういう制御に人々は従うべきであるという「科学的社会主義」の薫りを濃厚に持っているとも言えるだろう。

経済学では、決定論的な純粋経済学は現実には適用されないものだ、ということが既に分かっている。経済の動きは確率的にしか理解できないということだ。経済成長、つまり実質GDPの増加プロセスは長期的には非定常な過程であることも確認されている。なので、20年後の経済状態を現時点から予想するとしても、役に立ちそうな予想は出ては来ない。

「確率的ノイズ」を「神のはからい」とは決して言わないものだが、事後において発生したノイズを逆評価してみると、なぜそんなノイズが発生したのか理論的には説明できない以上起こったことをそのまま受け入れるしかないわけで、あたかも「神のはからい」に見えるとしても、それは寧ろ自然な受け取り方と言えるだろう。

神のはからい、偶然、確率的ノイズ、そして運・不運。所詮は「ものも言いよう」の事柄なのである。

だからこそ、今でも人は運、不運を語り続けるのであり、不運に見舞われた人はそれにどう向き合ったか、幸運にも成功した人はどのような人生を送ったかを、人は知りたいと思う。今も昔も変わらない。それはちょうど、鎌倉、室町時代に生きた人たちが、伴奏付きで「平家物語」を弾き語る「平曲」を愛したことと変わらない。今日の日本人がオリンピックの中継を視聴する気持ちと大して違っていない。そう思われるのだ、な。

2022年2月9日水曜日

ホンノ覚え書き: コロナ感染予後と「養生」に関して

新型コロナで最もタチが悪い点は、一つには無症状感染者がウイルスを放出していること、もう一つは予後の後遺症が長引くという点だろう。

小生は医療専門家ではないので無責任なことは書けないが、それでも同じ疑問がずっと解決されないままに残っているのは、心持が悪い。それをメモしておきたい。


下の愚息がまだ高校に在学中であった頃だが、家族で北京周辺を旅行したことがある。まだ胡錦濤政権であったはずで、中国という国をみる海外の目線も今よりはずっと暖かであった印象が残っている。北京に着いてからずっと通訳として同伴してくれた王 — 下の名を何といったか残念ながら忘れてしまったが ― さんの親切には今でも感謝している。確か洛陽の出身だと話されていたが、いまでも元気にしているのだろうか。

何日目だったか北京同仁堂に立ち寄って脈をとってもらい好適な漢方薬は何かを問うたことがある。そうしたところ、虚証で胃腸に難があるから『補中益気湯』が好いだろうと助言を得た。


画像出所:https://ameblo.jp/chai-tai/entry-12344741453.html


小生はその頃から胃腸が弱く、アレルギーが鼻炎や咽喉にとどまらず結膜炎にも広がり、それが鬱陶しくなっていたのだが、どんな健康状態であるかが脈だけで分かるのかと、ちょっと驚きであったのだ、な。

買って帰った「補中益気湯」をしばらく服用し続けたのだが、そのうち鼻炎には即効性のある「小青竜湯」、風邪かなと思えば「葛根湯」や「銀翹散」を頻用するようになり、体質改善を促す「補中益気湯」を飲むことはなくなっていった。が、我が家の常備薬セットを編成するうえで漢方薬を重要視するようになったのはこの時からである。それまでは風邪ならパブロン、くしゃみ・鼻水にはベンザ鼻炎カプセルを一貫して使っていた。

イソジンやプロポリスも良いことはよいが、それより抗ウイルス効果のある茶『板藍茶』を切らさないようになったのも、やはり北京同仁堂を訪れた後のことだ。以来、1年に2,3回は風邪で寝込んでいた小生だが、風邪からは完全に解放された。理屈はともかく効けばそれが良薬であるに違いない。インフルエンザ程度なら、わざわざ他の病気の院内感染リスクをおかしてタミフルやゾフルーザを医師に処方してもらわなくとも、「銀翹散」か、最近では「麻黄湯」で治す人も多いようだ。

そこで思いついたことを一言:

治ったあとのコロナ後遺症に『補中益気湯』を試してみては。 

 

もう2年間もコロナ禍をテーマに毎週、毎日テレビでは長い時間をかけてお喋りを続けて来ているが、その割には漢方薬と養生との現代的状況を一度としてとり上げたことはない。

試みに町中のドラッグストアをみてみればよい。何種類もの漢方薬が棚に並んでいる。多くの人の関心がそこに反映されている。

漢方薬は確定診断がなければ何も出来ない近代医学とは異なり、症状と体質に合わせて薬剤を組み合わせる考え方だ。Aという病名なら薬剤Xが効くという場合、Xの作用を純粋化して切れを上げるのが西洋的な思考だが、漢方医学は必ずしもこういう思考では投薬を決めないようだ。欧米は分からないが、日本人が感染予後を養生するには寧ろ漢方医学の発想は受け入れやすいのではないかと思われる。

2022年2月6日日曜日

ホンノ一言: オリンピックはもはや政治的に中立ではないという指摘あり

 IOCが代表するオリンピックの理念は誰もが知っている。本ブログでも何度か投稿しているように、そもそも近代オリンピック運動は戦争当事国であったとしても五輪開催期間中は休戦をしてスポーツを通して勝敗を競う、そんな平和運動として発足したものである。その手本が古代ギリシアで開催されていた「オリュンピア祭」であることも周知のことで近代オリンピック運動はそれを継承するものだと最初から謳われている。

そのオリンピックの意義に対して最近は色々なクウェスチョン・マークが付けられるようになった。その背景の第一が昨夏の東京五輪で、コロナ禍であるにもかかわらず、無観客で開催を強行した。第二が今回の北京冬季五輪で、ウイグル族に対する人権抑圧があるにも拘わらず、政治からの中立という美名のもとで現状を追認するかのように開催が強行されている。そんな批判がある。

TVの「サン・モニ」は日曜朝にみるワイドショーであるが、そこでも同じ批判が今日は展開されていた。

IOCは政治からの中立と言葉では語っているが、実際にはアメリカのTV局が支払う放映権収入の上に経営が成り立っているビジネスになっていて、どんな事情があっても五輪を開催することが優先されてしまう。それによって『いまのままでよい』というメッセージをオリンピックが発することになってしまっている。独裁者がそれを自分の権力維持のために利用するようになっている。これは政治的に中立ではないし、五輪憲章とも矛盾している。

具体的に語られた言葉とは違っていると思うが、(小生の記憶では)まあ、こんな意味の意見が若い世代から寄せられていた。

なるほどネエ・・・

と強く印象付けられた。確かにこういう批判は真っ当である。戦前のヒトラー政権に五輪が利用された前例は世界にとっての悪夢であるに違いない — 1945年以降の歴史観に立つとすればだが。


しかし、どうなのだろうナア?

オリンピックが開催されること自体が、「善からぬ国」、「善からぬ権力者」、「望ましからぬ現状」を追認することになるとしても、そもそもそうした国なり、人なり、政治状況が「悪しき状態」、「否定するべき状態」と考えること自体が、一つの《政治的立場》であり、そんな政治的立場に立ってみているからこそ『望ましくはない状態を継続させる行為を敢えてしている』と、そう判断するのではないか。(自分が)望ましくないと考えている状態も、対立者側からみればそれが望ましいわけである。つまり《対立》がそこにはある。他の何かがあるわけではない。そして、「対立」など、時代を問わず、あって当然である。

「政治的中立性」とは、対立する一方の側には与しない、というのが元来の意味である。社会や国のあり方としては何が望ましく、何が望ましくないかという、こういう政治的立場の相違から超越した観点に立ったうえで、オリンピック運動を継続していく。こういうことではないか、と。「どうでもよい」とまでは考えていないだろうが、統治の在り方、社会の在り方などの政治哲学も個々の政治問題もすべて"Set Aside"して、開催期間中は競技をしよう、と。そういう《理念》、というか《運動》なのだろうと小生は思っている。なので、結果として社会の在り方の現状が続くことになるであろうというのは、当然の帰結である。

だから、様々の政治的矛盾や社会的対立を現実に解決するためにはオリンピックは無力である理屈だ。それでも古代ギリシャで長い期間にわたって「オリュンピア」が開催されたのは、そもそもそれが《祭》であり、競技は神々に捧げる《奉納》であったからだ。現実には戦争をしているが、双方とも源流を辿れば同じ民族であり、同じ神々を信仰している。神々の守護を望む点においては、戦争継続中の二国であっても共通の基盤があった。神々は人間世界の現実には束縛されず自由である(という理屈だ)。故に、人間社会の現状と神への祈りは関係しないという理屈もある。

オリンピックはたとえ戦争当事国であっても五輪開催期間中は停戦をするということの主旨は

開催期間中は停戦をするが、五輪が終了すれば、戦闘が再開される。

そういうことでもある。オリンピックがどの地であれ開催され自国が敵国とともにそれに参加すると言うことは、敵国の現状を認めることにもなるし、そのままで良いというメッセージを発するという理屈にもなった(はずだ)。こんなオリュンピアはボイコットするべきではないか、開催そのものを中止させるべきではないか、こうした世論が古代ギリシアの都市国家にもあったかもしれない。もし古代ギリシア社会に現代のワイドショー的なメディアがあったなら、

いま「オリュンピア祭」を開催することによって、同じ民族同士でいま戦争をしているという悲劇的現実を解決するどころか、現実がこうであるのは仕方がない、それでもいい、そんなメッセージとして伝わってしまうのではないでしょうか。

こんな意見を述べる御仁がいたとしても可笑しくはないわけだ。人間社会の本質だけをみれば、現代と古代とで大きくは違わないものだ。


それでもギリシア民族によって開催されていた「オリュンピア祭」は紀元前8世紀頃からローマ帝国の版図に入っていた紀元後4世紀まで、千年を超える歴史を歩んだそうである。実際に、政治問題をなにか解決したかと言えば、その点では無力であったろう。が、ギリシア民族の共有の「伝統」を思い出させる「祭事」としては開催継続への強い動機が働いていたことが推測される。つまり《政治》ではなく《文化》であった。人々がこだわる対象は実に多彩なのである。

そもそも古代ギリシャのオリュンピア祭開催都市であったエーリス市オリンピア地区は、競技関係者が落とすカネで財政収入の相当部分が賄われていたに違いなく、開催側としてはどうしても開催を続けて欲しいという動機もあったであろう。この辺り、人間のやることは時代を問わず、国を問わず、時空間を超えて似たようなものである。

近代オリンピック運動はこれに比べると遥かに短い歴史しか有していないが、

いかなる意味でも、オリンピックと政治とは無関係であるべきだ

こういう思想、というか理念は小生には今日的意義があるように思われる。大体、古代ギリシア世界からローマ帝国の領土に編入されるということは、政治的には大変動であったに違いない。それでも、「祭」は続いた。政治環境の激変とは関係なく続いた。「いまの社会を受け入れるべきか、否定するべきか」などといった政治哲学とは無関係にオリュンピア祭は開催され続けたのである。

人はパンのみにて生くるにあらず

というが、

人間社会は政治のみにて動くにあらず

と観るのがより本質に近いだろう。

地球上に生きる現代の人間達に、オリンピック開催への動機がある限り、オリンピックは続くであろうと小生は予想している。



2022年2月5日土曜日

ホンノ一言: 「医療逼迫動向指数」を作成すればよいだけのことではないのか?

マクロ経済の動向を数字で把握するのは中々難しい問題である。実質GDPの季調済前期比をみて判断すれば最も正しいというわけではない。それに「景況感」というのは、業種ごとに、企業規模ごとに、また個別企業ごとに異なる主観的なものである。だから、日銀の「短観」では業況判断DIが作成されているし、先行系列・一致系列・遅行系列から複数の数値データをとって総合した内閣府「景気動向指数」が公表されてもいるわけだ。景気判断は優に100系列を超える経済データを総合して判断するしかないものなのである。

コロナ感染状況の把握、医療の現状把握も同じだ。

いま政府と東京都の「重症患者数」の定義が異なるというので混乱していると伝えられている。まったく、この程度のことで「混乱」などしているようでは、雑多な情報が多数混在する経済分析などは複雑怪奇でやっていられないだろう。

困ったことがあれば、「困った」を言わず、「混乱」などはせず、ただどうすればイイのかを考えればよいだけだ。要するに「役に立つものがあればいいンでしょう」と。そういう話しである。「国が正しいか、都が正しいか」という井戸端会議は、好きな人が好きな場所で好きなだけオシャベリをしていればよい事柄である。オシャベリに実害はない。ただ工夫なき混乱には実害がある。


簡単な話しを覚え書きとして記しておきたい:

例えば医療の供給側でボトルネックが都内でどの程度生じているかを把握したいなら、東京都内の主要病院、更に(感染症患者を受け入れている)個別クリニック、あるいは施設運営者個々人に対して「ヒアリング」を行えば情報がすぐに採れるだろう。

病床に不足を感じているか?

人出不足を感じているか?

医薬品に不足を感じているか?

検査に制約を感じているか?

重症だと診断している患者が過剰だと思うか? 

軽症だと診断する入院患者が過剰だと思うか? 

等々

これらの点について質問したうえで、最後に

貴院において医療逼迫をどの程度まで認識しているか(5段階評価)?

こんな《聴き取り調査》を行えば現場の実態がある程度は把握できる。

そして、全回答数のうち「とても逼迫している」と回答した標本数がどの程度の割合であるかを《医療逼迫動向指数》として日次、週次あるいは月次で作成すれば役に立つ情報になるだろう。 標本数が多ければセグメントごとに集計することも出来る。折れ線グラフで視覚化すれば特に政治家には受けがイイに違いない。


ちょうど景気動向を把握するための情報の一つに「景気ウォッチャー調査」があるようなものだ。

医療を提供する側だけでなく、医療を受ける側、つまり病院・医院で診察を受けるために訪れる人たちにも「医療逼迫に関するウォッチャー調査」を行えば、もっと有用なデータになるだろう。

この調査に大してコストはかかるまい。


コロナ禍が始まって2年にもなるのに、なぜこの種の数値を試みにでも作ってみないのか?

作らずに「混乱」している。小生は不思議でならない。


2022年2月3日木曜日

つまらないメモ: 日本の感染対策が遅れがちである原因?

コロナ感染対策によらずデジタル化への対応、AI(人工知能)関連産業の育成等々、何かというと海外の事例を参考にするべきだと強調されるご時世だ。

確かに「海外の事例」を参考にすれば得られることは多く、なにより「車輪を発明する愚」をおかさずにすむ。

だから海外発の技術、政策を導入することは(基本的に)良いことだと小生も思っているが、そうなると今度は『もっと徹底しないとダメだ』、『導入するのが遅い』といった批判が乱れ飛ぶことになる。そして、ダンスを初めて習う生徒さながら、インストラクターの身振りを一挙手一投足、一拍子だけ遅れて真似をする練習風景さながらになる。一拍遅れてついていくのに懸命で、動作が自然と小さくなる。手足の動きが伸び伸びとしない。やらされているような感覚になる。自分の身についていないので、自然に動作することができず、常にインストラクターを目で視ながら動くことになる。自分で発案し、自分で考察し、自分でまとめあげた演技ではないので、なぜそれが合理的で美しい動きであるか理解しているわけではない。だから自分が動いているにもかかわらず、次の動きを自分で理解してはいない ・・・

日本の《輸入文化》の伝統もこんなところがあって、遡れば奈良時代に唐から輸入した「公地公民」、「律令による統治」もそうであったし、江戸時代の儒学による文治政治もそうだ。いずれも極めて不徹底で、出来上がったのは輸入文化と土着文化とのハイブリッド型社会であった。いわゆる《二重構造》の源流は遥かな過去にある。

「海外では・・・」と「日本では・・・」の2タイプの《でわの守》が平和共存しながら時流に乗ろうと競っている。日本という国のそんな特徴は明治維新後も続き、戦争を経た現代に至っている。

今回のコロナ禍においても、中国(ニュージーランドも?)の「ゼロコロナ政策」から欧米の「ウィズコロナ政策」まで、それぞれの国民性に応じた政策スペクトルがあるが、日本はその中間で揺れ動いている。どの感染予防戦略が「最善」であるかは、長時間を経た将来においてのみ事後的に確認できる事であろう。なので、「いまやっていることは正しくないのではないか?」という疑問感は感じる必要はないし、そんな自信のなさは寧ろ有害であるはずなのだが、今日もまた新規感染者がまだまだ多数であるにもかかわらず行動規制を撤廃しつつあるヨーロッパをみて

いいなあ・・・それにしても緩和して大丈夫?

と、そんな憧れと懸念の気持ちを表出する ー そして、ヨーロッパで採られてきたような厳格なロックダウンは御免だと、ああいうことはしたくない、と。コロナ感染対策をとってみても、やはり欧米先進国についていきたい、でも嫌なものは嫌だと、そう願う明治以来の日本人の心理がそこはかとなく滲み出ている。

ま、どういう理由かは知らないが、日本人のコロナ犠牲者数は欧米先進国よりは少ない。これは日本人の自尊心を底辺で守るために、案外、大きく寄与しているはずだ。

そんな風に思う今冬であります。自分の国の政策は自分で決めるような気配のある欧米諸国とはどこか違って、何だか遅れがちであるのは、やはり欧米のやり方がどこか手本になっているためでありましょう。先ずは世界の状況を見ながらという決まり文句は、結果を先に確かめてから手を打ちたいという手本重視の行動で、これこそが一貫した日本モデルに外ならぬ。リスクを恐れず、怖がらず、「清水の舞台から飛び降りる」つもりで欧米の先を行くという気概がどうしても欲しい所ではござんすが、80年ほど昔に一度死んだつもりで思い切って飛び降りてみたらばホントに死ぬほど痛い思いをしちまった。それがトラウマになってそれ以来『あつものにこりて、なますをふく』みたいに慎重になったのは無理もネエっていうものでござんしょう。

今日はこんなところで。


2022年2月2日水曜日

断想: 需給ミスマッチを解決できるのは「厚労省」なのか、「市場」なのか?

オミクロン株の新規感染者が数として激増する中で、確定診断を下すために必要な抗原検査キット、PCR検査の試薬が市中で不足し、それが実施可能な検査数を束縛しつつある。ベッド数や医師数もさることながら、今度は検査能力がボトルネックとなって、まさかそれを理由にして「緊急事態宣言」、「行動規制」を政府は言わないよネ、と。こんな心配が高まっている。

財貨やサービスの需給ミスマッチは、日本の医療関係物品ばかりではなく、農産物をはじめアメリカの耐久消費財、ヨーロッパの天然ガスなど、世界全体で観察されている現象である。日本の医療関連物品は別として、いずれもコロナ禍によるサプライチェーンの混乱、労働市場からの離職、退出者の増加によるものだ。

ただ日本と海外の違いは、海外における需給ミスマッチは直ちに市中価格の変動(=値上がり・値下がり)という形で調整メカニズムを作動させているのに対して、ここ日本では医療関連物品のほとんど全てが規制産業であるため、業者間転売市場で自由な取引が行われて余剰のある個所から不足のある箇所へと流れていくという風にはならず、「ある所にはある、ない所にはない」、お上(=厚労省)が指示を出すのもバタバタと慌てるばかりである。そして、困った経済状況が未調整のまま続いている。こう指摘をするのが本筋だろう。

ずっと以前になるのだが、本ブログへの投稿でこんなことを書いている:

必要な商品の増産は遅々として進んでいないようだ。戦前期においては強権的な国家総動員計画が見事に破綻し、戦後の民主的体制においては指導的権限を失った政府が何もできずに悠長にやっていると批判されている。

経済環境の激変で必要になるのは、資源の再配分である。資本、労働、マネーなどの生産要素を超過供給市場から超過需要市場へとシフトさせなければならない。その誘因としては第一に価格メカニズムがあると考えるのが標準的な経済理論である。が、今回の需要逼迫市場である医療サービス、新薬開発市場は資格、許認可が厳しい規制分野である。厚労省の「縄張り」である。超過需要(=24時間操業、疲弊、待ち行列)と超過供給(=閉店、休業、失業、etc.)は解消されないまま放置される可能性が高い。政府の判断が遅れればそれだけ資源配分の歪みが放置され、日本経済が毀損される仕組みがビルトインされている。

「あらゆる経済問題を解決するのは政府ではなく市場である」と語ったグリーンスパンを思い出すべき国としてまず日本が挙げられるかもしれない ― リベラル野党は飛び上がって反対するだろうが。

困難な経済状況を解決するために最も有効なツールは「自由化と自発的インセンティブ」である。口では「規制緩和」と唱えながら、安倍政権は本音では国家の指導を重視し、国家が資本主義経済と国民生活を誘導することの価値を信じてやまない傾向がある。2000年の前に死滅したはずの"Notorious MITI"のゾンビを視るのは小生だけだろうか。このゾンビは、経産省に限らず、複数の中央官庁、いやそれよりも政権周辺の諸々の与党政治家にコピーされ隠れているはずだ。その旗印は今更言うまでもないところだ。

であるとすれば、今のような政策哲学を信奉する政府が資源配分の歪みを解決できる理屈はない。

 "Notorious MITI"と書く代わりに、"Socialistic MHLW "と書けば、このままでも通る。それにしても、MITIは「ミティ」と呼んだが、厚労省の略称"MHLW"は何と呼んでいるのだろう。むしろ日本語で《計画好きな厚労省》という方がピッタリかも。

それにしても行政指導好きな当時の通産省が「悪名高い通産省」と非常な悪評に包まれていたのに対して、箸の上げ下ろしにまで口をはさむ厚労省には寧ろ「もっと頑張ってほしい」という国民の眼差しが(不思議にも)あり、その劣悪な管理能力を批判する世論になっていないのは、まさに「天下の奇観」である。ひょっとすると、日本のマスメディアの従業員は、その大半が心のホンネの部分で「反市場、親計画論者」、「半分社会主義者」であるのかもしれない。

2022年2月1日火曜日

覚え書き: 「世相」にも長期循環があるのか

埼玉県ふじみの市で数名を人質にとったうえ訪問治療に熱心な地元クリニックの医師が散弾銃で撃たれて殺害されたという事件は実に傷ましく、社会的にも多大の損失を被った悲劇だった。

これにとどまらず、2011年の東日本大震災以降の日本社会を振り返ると、いやそれ以前に2009年のリーマン危機、というよりもっと遡って1997年から98年にかけての金融恐慌辺りを境にして、日本社会はそれまでとはベクトルを異にした変質、というか劣化が進んでいる印象がある。一部の人は行き過ぎた《新自由主義》にその原因を求めているのだが、そう簡単には判定できないところもある。

永井荷風の日記『断腸亭日乗』から抜粋すると以下の様な下りがある。日付は昭和11年4月11日だ。

昭和11年4月10日。新聞の雑報には連日血腥きことばかりなり。昨9日の新聞には小学校の教員、その友の家にて或女を見染め妻にせんと言い寄りしが、娘承知せざれば教員は直に女の親元に赴き掛合ひしが同じく断られたり。教員は警視庁人事相談掛のもとに到り相談せしに、これまた思ふように行かず。遂に殺意を起し劇薬短刀等を持ち娘の家に乱入せしところ、娘は幸外出中にて教員は家人の訴によりその場にて捕らへられたりといふ。乱暴残忍実にこれより甚だしきはなし。現代の日本人は自分の気に入らぬ事あり、また自分の思ふやうにならぬ事あれば、直に兇器を振って人を殺しおのれも死する事を名誉となせるが如し。・・・人生の事もし大小となくその思ふようになるものならば、精神の修養は無用のことなり。

出所:岩波文庫『断腸亭日乗(上)』、351~352頁

昭和11年という時代にあって日本で流行していたのはむしろ「社会主義」、「計画主義」であって「自由主義」ではない。伝統的な資本主義の正当性は、復元への努力が政策当局の間でずっと払われ続けていたにせよ、古い社会への信頼は第一次世界大戦と1929年以降の「世界大恐慌」で失墜し、新しい社会が求められていたのが、世界の潮流であった。

現代社会と共通しているのは「経済格差拡大」であるが、それは第一次世界大戦による特需の恩恵を日本が享受し、戦後になってバブルが破裂するかのように長期停滞と経済集中化が続いたことによる。格差拡大の原因は「主義」ではなく「政策の失敗」である。このロジックは現代にも当てはまるはずだ。

引用文中「血腥きことばかり」というのは、同じ年の2月に発生した「2.26事件」が背景になっている。

引用した文章の中の「新聞」を「TVのワイドショー」に置き換えて読めば、日付が仮に2022年1月30日になっていたとしても、そのまま自然に通ってしまうのではないか、と。そんな気がする。

それにしても永井荷風のような親からもらった遺産で好きな事をやりながら食っていた一代の遊蕩児が

人生の事もし大小となくその思ふようになるものならば、精神の修養は無用のことなり。

というなど、今なら『お前には言われトウない』と返す場面だろう。 

この下りをそのまま読むと

人生、思うようにならないことが多いからこそ、精神の修養が要るのだ。

こういう主旨になる。やはり荷風が言うことではない。

永井荷風もこんなことを書くときがあったのかと愛読者としては驚きだ。とはいえ、何ごとも思うようになるなら、なにも精神修養に汗を流すことはしなくともよい、というのは当然の理屈だ。いつも満足して、この世は楽チンである。「弱いメンタル」をもってしても「世間の荒波」などは襲っては来ないという理屈になる。が、現実はそうではない。


そもそも同じ日本人でも小生と父の世代、祖父の世代とでは、人生経験、受けた教育、仕事の環境はまったく異なるし、価値観、生活習慣も重なるものがなく、同じ日本人とは思えないほどの大きな違いがあったものだ。父の世代と祖父の世代にもものの考え方に大きな違いがあったという印象が残っている。もちろん小生と愚息たちを比べても持っている感覚、常識、生活習慣、置かれている職場の環境等々、全てがまったく違っている。こんな事情は、日本特有というものではなく、ひょっとすると韓国や中国にも、というよりアジア全域にも共通した世代間格差があると思う。それほどの急激な歴史的変動を乗り越えてきたからだ。これに比べると、英米のように敗戦や政体変革を経験していない国では世代間の違いは相対的に小さいかもしれないと思うし、英米に比べると、ドイツなどではやはり育った時代によって大きな違いがあるのじゃないかと思うのだが、永らくそこで暮らした経験があるわけでもないので、こんな国際比較は小生にはできない。

つまり、同じ日本人でも時代が異なれば、まったく異なった世間、別の国のような生活習慣、全然違った常識がそこにはあったと想像しなければならないはずだ。

こんな風に思うのだが、「にも拘わらず」と言うべきか、永井荷風が苛立ちを増していた昭和10年代と今の日本とで、何だか同じような世相になっているとすれば、偶然とは言えないナア・・・そう考えるのが自然だろう。「似たような時代」というのは歴史に何度か反復して現れるものかもしれない。


ところで、上にいう「精神の修養」は学校教育にあっては「道徳」であったり、「修身」の授業であったりしたわけだが、戦前期の日本でいくら熱心に「倫理」や「精神修養」を授業で叩き込んでも、それでも血なまぐさい事件は多発したのが戦前期・日本である。

戦前期・日本の実情を観るだけでも、「精神の修養」は学校教育ではどうにもならないことが分かる。思うのだが、戦後日本のしばらくの期間、時には贈収賄、金権政治などへの批判が激しくなったにもせよ、概ね政治家、官僚が比較的清潔で、《パブリック》という価値をしっかり理解していたように感じられたのは、今日のようなワイドショーがなく実像が知られなかったということがあるかもしれないが、やはり多くの人々が戦争という「精神修養」を経てきたという社会的リアリティがあったからではないかと、そんな風に思ったりしている。決して戦前期・日本の学校教育で道徳教育が充実していたからではないと思っている。

現在の学校教育で道徳教育を行っていないことが現在の世相を招いているという認識は(多分)間違いだろう。個々人の心構えは、学校の授業ではなく、社会のあり方で決まるものだ。戦争は悲劇であったが、兵役という憲法上の義務に従って戦争の最前線に立つことで身をもって学んだことも多かっただろう。それは戦後社会で日本の人的資産を構成したに違いない。

とはいえ、戦争なり、軍事演習を国民的教育の場にするというのは、全体として"effective"であるという見方はありうるにせよ、やはり実に無慈悲で、かつ愚かな政策であると思う。そう思うし、それに「倫理」や「モラル」を鍛えたとしても、国民のモラルを良くしさえすれば、それで良い社会が訪れるのだ、と考えるのは流石に無理である。モラルの無力であることは既に経験で学んだことでもあるはずだ。


他にも色々とかけそうだが、ま、今日のような世相に対する批判が、90年近い昔の人と共有できそうなことを知るだけでも、本を読むことの意義はあるというものだ。