2019年9月24日火曜日

暴行と折檻の違いとは

児童の暴行死が後をたたない。というより、ずっと昔から捨て子や人身売買という悪習が続いてきた歴史の中で、現代に至って初めて児童への暴力が「犯罪」であると考えられるようになった。こうも言えるような気がする。つまり、子供ができたのはいいが、育てる自信がない親にとっては、一種の受難の時代であると。あとになってから、歴史家はこんな風に総括するかもしれない。

これまでにも小生の立場は(暗黙のうちに)記してきたが、自分としては躾の中で子を叩くことはありうると考えてきた。今でも考えは変わらない。

ただ子を叩くことによって何を理解させようとするのかという折檻の目的は何よりも重要であると確信している。これはもう自明であって、小生の場合は
痛みを知る
という一点であったと記憶している。記憶というより、理屈なしの直観で行動していたので、いま思い返すと「そうであったのかな」という位の意味合いである。

別に自慢で書いているわけではなく、思い出話に書いているにすぎないが、小生が好きだった言葉は
鬼手仏心
であった。

「仏心」を持たず子を叩くなら100パーセントの暴行であり「虐待」に該当する。これは確かだ。

児童虐待の連絡を受けて児童相談所の職員が駆け付けた時、その折檻が暴行ではなく、親として果たすべき折檻であると識別するのは難しかろう。その親の心の中に「仏心」が宿っていることなど、いかなる検知センサーをもってしても測定しようがない。故に、「行政手続き」としては子を叩いたという外的要件に則して、子を叩いた親は法的な意味で暴行罪ということになるのだろう。

小生は昔の時代を愛する偏屈者であるからこんな風潮は嫌いである。日本社会が全体として改良されているとも感じない。

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いま起きている多くの事件は、ヒトの子の親になるのに十分な人格的成熟に達しないまま、幼稚なままで親になってしまった人たちを、年嵩の親戚たちの応援もなく、「子育て」を他人事として管理しようとする社会システムに原因があるとも思っている。実際、大学という場で25年余を過ごすと、今の20代は昔の10代で実質"Teen Ager"、今の30代は昔の20代で大学生並みの精神年齢、今の40台が昔の30台で「而立」の齢で1人前、50歳を迎えて昔でいう40、「不惑」の齢か…と、ザっとこんな印象をもってきた。成熟度だけではなく、時間尺度からみても平均寿命に対する相対的位置づけはこんな対応関係になるかと思う。現代社会において20代で夫婦になるというのは、その昔の『奥様は18才』と同じ世界なのだと何年か前に気がついた。世間、というより成熟した大人たちが行政サービスとは別に身近で見守り、助け、相談に乗る雰囲気が欠かせない。分かっている大人が身近にいれば暴行と折檻を識別できるはずだ。そこに職業資格や専門性は要らない。小生はレベルの低い後発科学を修得した「専門家」の言うことを信じてはいない。

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