2022年4月30日土曜日

ロシアによる「核兵器使用」の可能性をどう考える?

 いわゆる《米ソ冷戦》はソ連が解体された1991年12月に、というよりその1年前、東西ドイツが統一された1990年10月3日に終結したわけだが、その米ソ冷戦とは《イコール核戦争の恐怖》でもあったことを、現時点でどれ位の人が記憶しているのだろう?

いまウクライナ戦争でプーチン・ロシア大統領が核兵器使用が必要になれば使用すると曖昧ではあるが匂わせている。これは「脅し」であると旧・西側諸国は激しく非難していて、日本国内のマスメディアも(今更ながら)恐怖を煽っているのだが、どの核保有国も決して使わない核兵器を保有しているはずがなく、必要になれば使うというのは、理屈から言えば、当然のことである。

問題は、

核兵器を使用する状況とはどんな状況なのか?

相手国、もしくは敵国が核兵器を使ったとき、(核兵器を持っている)自国はどのように対応するべきか?あるいは、核兵器を持っていないなら、どのように対応するべきか?

相互に核兵器が使用される新しい局面に移ったとき、戦争をどのようにマネージすれば相互的破滅を回避できるのか?

論点は、多分こんな問題から構成されるわけで、この議論なら今から50年以上も昔、<冷戦たけなわ>の頃、既に議論されていたことである。

その一つの代表作がトーマス・シェリングによる軍縮、核兵器に関する議論であって、ゲーム論に新しい地平を切り開いた業績を評価され2005年にノーベル経済学賞を授与された同氏の著作としては日本語訳もある『紛争の戦略』が有名である。初版は1960年に刊行されている。

本稿では、上記『紛争の戦略』巻末の補遺A「核兵器と限定戦争」の要点をメモっておきたい。

シェリングの問題意識は

限定戦争の限定性はどこから来るのか?

何がそうした限定性を安定もしくは不安定にするのか?

そうした戦争が限定的であることを権威付けするものは何か?

限定性を発見し、相互に認識しあうことを促進する状況や行動様式にはどのようなものがあるか?

これらの点が挙げられている。上に整理した論点と大体は重なっている。

そもそも「通常兵器」と「核兵器」の使用について何か法的な区分があるわけではない。

シェリングは

(重要な事は)敵の行動を決める要因は、象徴的には不連続であるこちら側の行為に対して報復しなかったら何を失うことになるかを敵が暗黙のうちにどう考えるか、なのである。

と書いている。だから

(国境や河川、橋梁、幹線など何らかの)政治的境界線は法的強制力を持たずとも停止線としては有効なのである。

たとえ戦争であっても、それは決して完全に対立的なゼロサム・ゲームではなく、コミュニケーションや交渉によって相互に利益が変化する交渉ゲームとしての一面をもつ。交渉ゲームで重要な機能を担うのが《フォーカル・ポイント》である。利益を配分する際に、「まずは2分の1」で分けようと考えたり、「慣例」や「前例」に基づいて交渉したり、自軍と敵軍が配置されるときに先ずは特定河川のこちら側とあちら側に分かれて敵対するというのは、フォーカル・ポイントの一例である。フォーカル・ポイントが全く存在せず、ただ連続する選択肢が無限にある状況の下では、交渉の解を発見する作業が困難になるわけだ。

プーチン大統領が示唆する「核兵器使用」に世界が不安を感じる理由と言うのは、シェリングも言及しているのであって、

技術の向上によって核兵器が多目的に使用される可能性が上昇しているが、このことは、核兵器を全く使用しないという特殊な限定性を除いては、核兵器の使用の限定をわかりやすく定義しようとすることをより困難にしている。

つまり、いったん核兵器を使用した後は、核兵器使用を分かりやすく限定するための境界線が見出しがたく、暗黙の交渉ができず、そのため戦争がエスカレートして、無際限に核戦争が拡大していってしまうのではないか。つまり

ある特定の制限を設けた核兵器の限定的使用を他の使用から「自然に」区別することは不可能に見える。

こういうロジックがあるからだ。つまり、この場合、もはや交渉解を見つけることができず、状況は発散するのではないか、と。これが現時点の懸念の核心だろう。

その戦争があくまでも限定的であると相互に認識可能であるためには、

限定性とは…交渉の過程によって発見されるもの

つまり双方の暗黙のコミュニケーションの中で、質的に区別される、一意性を備えた象徴的な性格をもった行動あるいは標識。これによって戦争は限定的になるわけである。

つまり、

まっさきに導かれる結論は、核兵器と通常兵器との間には(いま)区別が存在し、その区別は戦争を限定的にするプロセスの中で役割を果たしている・・・

という確認が得られるのであって、この認識は現在もなお有効である、ということだ。そして、ロシアによる核兵器使用の可能性が考えられるいま、必要なのは、その新たなフェーズにおいては何が戦争の限定性を保証するか、不連続で質的、かつ明確なフォーカルポイントがありうるか。これが今の問題の核心となる。

この基本的認識に基づいて、シェリングは幾つかの点を強調している。

一つは、

核兵器使用に対する抑制は、(いったん)核兵器が使われた途端に消滅する

ということだ。ここから次の要点が導かれる。

核兵器が初めて使用されたとき、…新たに確立されることになるパターンや先例が何なのか、そこで採用される「核の役割」が何なのかについて関心を向けなければならない。

戦争における核兵器使用の「先例」は史上ただ2回。広島と長崎への原爆投下のみである。その広島と長崎という先例から「核の役割」について政治的境界線の役割を果たせる何らかのパターンを見つけることが出来るだろうか。

将来再び、世界のどこかで発生するかもしれない「限定戦争」を限定的にするために、新たな政治的境界線を人類は発見しなければならない、ということだ。

これを敷衍すると

限定戦争で核兵器が使用された最初の場面においては、二つの事が同時に行われていると解釈するべきだ。

その第一は当初からの目的である限定的な戦争であり、第二は核兵器そのものの役割をめぐる暗黙の交渉ないし駆け引きである。

 仮に、今後訪れるだろう何らかの状況下でロシア軍が核兵器を使用するに至ったとき、旧・西側陣営は今回のウクライナ戦争そのものにどう対応するかという論点を超えて、今後起こりうる戦争において「核兵器」はいかに使用され、いかなる役割を果たすべきなのか、この点について(これまでにない)相互了解を見つける必要に迫られる。

暗黙にせよ、明示的な協議にせよ、その交渉には旧・西側陣営も応じざるを得ず、そもそもロシアがウクライナに対して先制的な軍事侵攻を断行した背景として、ウクライナがNATOに加盟し、ウクライナ国内、特にロシア国境沿いにミサイル基地が設けられ、そこにはアメリカ製核兵器が配備される、こうした危険性を除去しようとしたことが、ロシアによる今回の「特別軍事作戦」の目的であるのは明らかなのだから、もしもロシアが(仮に)核兵器を実際に使用するとすれば、

核兵器の役割に関する新たな政治的境界線を見出す

このための交渉を求めているのだ、という理屈になる。


核兵器は決して使用しない、というのでは戦争は管理できない。そこに既に核兵器はあり、戦争で使われた「前例」があるからだ。

これこそロシアがアメリカに対して求めている核心であるとすれば、この問題に関してアメリカが交渉に応じるとロシアが理解しないときは、ロシアはアメリカに交渉の意図はないと解釈し、核兵器を実際に使用して一つの「使用例」を創出するだろうという憶測は、確かに憶測としては合理的根拠がある。そして、確かにそれは使用例となり、今後将来にかけて戦争を管理し、(逆説的ではあるが)平和を維持することに役立つ一つの標識になるに違いない。

マ、小生はバイデンと言う大統領は相当の《三流政治家》であるという印象をもっているので、アメリカがキチンと対露対応を出来るのかどうか、いささか不安であるのが正直なところだ。

ま、これを今日のまとめの結論としておくか。


2022年4月25日月曜日

断想: 戦争で死ぬのは愚かだと考えるのが合理的なのか?

ウクライナ戦争でロシアが核兵器使用の「脅し」をかけている。これに関連して、《核兵器使用》をどう考えればよいのか、戦略的にどんな枠組みで考えればよいのか。トーマス・シェリング『紛争の戦略』の巻末補論に「核兵器と限定戦争」があるので、先ずは本が書かれた1960年の時点で、どんな風に考察されていたのか。その辺りを整理して覚書にしておくかと考えていたのだが、それは次回に回すことにして、本日投稿ではTVのワイドショーでも話されているような『人の命を何としても救わなければなりません」という、いわば素朴なヒューマニズムに立つ意見と、それとは真逆の意見と、本ブログではこの二つともこれまでに投稿しているので、引用、繰り返しにはなるが、改めて要点を書いておくことにした。

一つは、敵国の侵略に対する極めて理性的な、かつ人命尊重に立脚した対応であって、その代表はやはり森嶋通夫氏の見解だと思う。「森嶋通夫」でブログ内検索をかければ、たとえばこの投稿が出てくる。

「戦争放棄」を憲法で定めていても、現実に自衛のための戦力を保有している以上、どこか他国が日本本土を攻撃すれば自動的に「戦争状態」になる。日本は憲法上それを「戦争」であるとは宣言できないだろうが、誰が考えてもそれは欺瞞である。

戦争を放棄する意志を本当にもつなら、かつて経済学者・森嶋通夫氏が展開したロジックに従って、武力攻撃された場合は直ちに「降伏」するのが筋が通り、嘘のない誠実な態度である。直ちに降伏するつもりなら自衛隊という戦力を保持する必要はない。武力攻撃に抵抗する姿勢をとっていること自体が「戦争能力」をもつことを認めている証拠だ。戦争能力を現実にもっていること自体が心の奥底では戦争放棄を本当は決意していない証拠である。

(自分が書いたのだが)この下りを改めて読むと、論理に間違いはないと思う。まさにこの通りだと思う。

この考え方からロシア侵攻を考えれば、ロシアが首都キエフに向かって進撃した時点で、ウクライナ軍は敵とは交戦せず、ひたすらウクライナ国内の住民の生命の保護に専念すべきであって、ロシア軍の車列を停めることはせず、ましてミサイルで攻撃するなどはせず、敵軍が首都に入ることを容認し、その後はロシアの要求に従って平和裏にゼレンスキー大統領以下、現ウクライナ政権は辞任する、と。そんな対応が最適であるという理屈になる。こうすれば、たとえ何名かのウクライナ住民が偶発的に犠牲になることはあっても、住居やインフラ、生活は概ね(丸ごと)保護されることになったはずで、町全体が破壊されるなどの悲劇も予防でき、それらソーシャル・インフラはロシア側に接収され、反ロシア勢力が追放されるか、連行されるか、そんな屈辱を被るとしても、少なくとも国民の命は(基本的に)守られる展開になったと、小生は思う。

だから、一部の専門家が(今でも)主張しているように、ゼレンスキー大統領は早く降伏するべきであるというのは、「戦争とどう向き合うか」という問題に対する、一つの回答だと感じるわけで、決して間違っている思考ではないと思う。

これに対立する立場として一つの極端な意見は、やはり三島由紀夫氏の見解で、特に氏が愛した名著『葉隠』の思想が本質的ではないかと思う。<葉隠>でブログ内検索をかけてもよいし、<三島由紀夫>でかけてもいい。たとえばこんな投稿が出てくる。

現代の世界においても、頻繁に戦争や内戦を繰り返している国は多数ある。先進国は自動小銃や砲撃から無縁であり、そんな戦闘が展開されているのは未開発国であると思ってはならない。そもそもアメリカは日常的に戦争を繰り返している国であるし、イギリス、フランス、ドイツ、韓国など必要な時に戦闘に参加している先進国は多数にのぼるのが現実である。日本も人的支援を行なっている ― ただし「国権の発動たる戦争」だけは禁止されている。

現代インテリゲンチャの原型をなすような儒者、学者、あるいは武士の中にも、太平の世とともにそれに類するタイプが発生していた。それを常朝はじつに簡単に「勘定者」と呼んでいる。合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。(新潮文庫版、63頁)

人によっては過激な思想であると言うかもしれないが、小生はこの下りを今日読んでも、同感を禁じ得ない。戦後日本は素晴らしい理念に基づいて開かれたが、堕落をするとすれば三島由紀夫が非難するような形で堕落するのだろうなあと、やっぱり納得してしまうのだな。


「堕落する」というのは、例えば「民主主義と基本的人権」に最高の価値を認めると日常的には言いつつ、いざ他国から侵略されてその価値が踏みにじられる危機に際したとき、その価値を必死に守ろうとはせず、戦わずして侵略者に屈し、大事にするはずの「民主主義と基本的人権」を捨て去って、命だけは守ろうとする姿勢であって、これは文字通り自らが「言行不一致」の臆病者であることを証明するに違いないのだ。というか、そもそも「命」以外の価値を主張すること自体が、人命尊重のヒューマニズムとは矛盾するという理屈になろう。

『葉隠』の(そして三島由紀夫の)思想は、徹底した《反・合理主義》である。森嶋氏の議論が徹底して合理的であるのに対して、三島氏の思想は非常に反合理的である。やはり経済学者・森嶋と文学作家・三島の違いがここには見られる。経済学というのは、ともかく人間と言うのは徹底的に合理的行動をとりたがるものなのだ、それが善いのだ、こんな大前提から学問全体が成り立っている。


それでもなお、反合理的であるはずの『葉隠』や三島の思想に、かなり多数の日本人は(というか、国籍を問わず)どこかで共感しそうな予想を小生はしている。もしそうなら、単に反合理的であるだけではなく、どこか(ある意味で)

そう行動する方が、長い目でみれば、その国民全体にとって理に適った行動様式なのだ

と、その人たちが考えているのだろう(と思う)。「理に適う」とは、未来を含めた国民全体の利益につながるという意味であって、その利益にはカネで測る所得や富だけではなく、その国民に寄せられる敬意や名誉、信頼、そして歴史、伝説といった文化的無形資産もまた含まれるのである。同じ勘定でも足元の利益を勘定しているのではなく、はるか将来に目を向ければ、その時は反合理的に見えるにしても、実は全く意味のない空しい行動をとっているわけではない。こう思われるのだ、な。但し、この場合の「合理性」とは国民が共有する《集団合理性》であって、個々人の《私的合理性》ではない。

しかし、命を惜しむはずの個々人の立場に立つミクロの視点で考えるとしても

そう行動する方が、美の感覚に合致する。つまり、醜く生きるより、美しく死ぬ方が、自分としては本望だ、と。これもまた強い動機である場合がある。

哲学者カントも言うように、「崇高」は「感情」から、具体的には「美の感情」から生まれるものである。カネや快楽を求めず、崇高な自己自身を求める想いは、行動の動機として十分であるかもしれないではないか。

強い《同調の圧力》の下に置かれるとしても、必ずしもそれが悪いと言えるわけではなく、一人だけ自由な行動をとることの満足度が極めて高いとは限らない。

人間は完全に合理的な生物ではない。そもそも《合理性》は、人が口先で語る言葉に与えられる性質ではない。どんな人物も自分の言葉は理に適っていると考えている。「合理性」とは、現象の理解の仕方と問題解決への着目や行動との関係性に特に現れることが多い。たとえ理解の仕方が前近代的であるとしても、その範囲内で合理的であった人物は多い。古代ギリシア人は非合理的だったと考えるヨーロッパ人はまずいないだろう。

2022年4月21日木曜日

一言メモ: 「円安」、「経済政策」でも世間に忖度して議論を避けるワイドショー

朝に放送されるワイドショーでよく視るのは羽鳥慎一の『モーニングショー』だ。時に相当のバイアスが混在した解説振りが目立つが、情報提供という点ではマアマアだと感じる。

今日は珍しい(?)ことに経済問題がテーマで、「最近の急速な円安をどうみればよい?」であったので、最後まで視てしまった。


招待されたゲストが元・大蔵省財務官の榊原氏であったが、明らかに「頼まれて」出た雰囲気だ。来年交代予定の日銀総裁に雨宮副総裁の名を挙げていたが、TVのワイドショーでここまでハッキリ言って問題は生じないのかという気もした。

コメンテーターの加谷珪一氏が円安を観る視覚は本筋をつくものだった。やはり(と言っては失礼だが)エコノミストである。

円安は輸出産業にとってはメリットがある。しかし、国内のサービス業、消費関連産業、家計にとっては価格高騰につながるのでマイナスとなる。これまでは円安は景気刺激、円高は景気にマイナスという見方が常識であったが、今後は競争力の低下した輸出産業に頼るのではなく、日本国内の消費需要を刺激することで経済を維持する方向が正解だと思う。ただ、成熟経済になった割には国内で消費需要がいま一つ出て来ない。なぜ国内消費が高まらないのか。この問題はこれから国民全体で議論しないといけない・・・

とまあ、こんな見解を語っていた。要するに

輸出に頼るのではなく、国内消費を伸ばす経済政策が必要だ

という政策方針だ。

正に正解である。ただ、そのためにはどうするべきかが、本論になる理屈だが、それを具体的に言ってしまうと、日本国民の神経を逆なでするので、そこを忖度して、マスメディアは専門家にホンネを語らせないでいる。小生はそう観ているのだ、な。

ワイドショーを視ながら、まさか『消費を伸ばすには、ヤッパリ賃金を上げることが必要ですヨネ』と、そんな愚かな大衆迎合論でまとめるのではないかと懸念していたが、流石にそれはなかった。もしこれを言えば、韓国の文在寅政権が断行した賃金引上げ政策と「どちこちない」という愚論になっていた。そもそも賃金は、労働需要が高まらなければ上がる道理がない。そして労働需要が高まるというのは、ビジネスが旺盛であるということだ。ビジネスが低調である経済状況を放置して賃金だけを上げれば、雇用者が減少して失業率が上がるだけである。実際、韓国はそうなった。マ、こんな自虐的な政策案を主張するアホな御仁がいなかったのは、流石に羽鳥慎一のモーニングショー。救いであった。

当然の理屈だが、輸出に頼ることなく、国内消費を重点領域として需要喚起を実現していくとなると、日本の経常収支は悪化する。経常収支は国内の貯蓄投資差額と見合いの関係にあるからだ。消費を増やせば貯蓄は必ず減る。多分、アメリカのように経常収支赤字が体質的に恒常化する可能性がある。

経常収支赤字は資本収支黒字で調達することと表裏一体である。問題は、資本収支を黒字にできるか?経常収支赤字を海外資金流入で賄えるか?これが問題の核心だ。

資本収支の黒字と言っても、特に長期資本収支の黒字定着が重要で、具体的には日本国内への海外企業の直接投資、それと金融投資(=国債、株式、社債の海外販売)が主となる。日本という国家のブランディング戦略に成功すれば、日本で円をプリントして、日本円を決済通貨にして海外の製品を購入することが出来る可能性すらある。米ドルはそんな機能を果たせている。今でも日本円が外貨資産として保有される割合は中国の人民元よりも高いのだ ― なぜ人民元が外貨資産として不向きであるのかという点は調べれば直ちに分かる。

それはともかく、資本収支を黒字化するためには、海外から眺めた日本のビジネス環境を魅力あるものに変える、日本全体をビジネスに優しい経済環境に変えることが不可欠で、それは必然的に国内企業にとっては強力な競合企業が上陸することを意味する。日本の歴史ある老舗企業が海外に買収されることもウェルカムだと考えなければならないわけである。

以前にも投稿したが、医療介護産業、その他個人向けサービス産業に海外企業が進出して日本で自由に営業することを認める。特に保護的規制の強い農業、教育、医療、福祉などで規制を緩和して新しいビジネス機会を提供して、海外企業にもオープンにすれば、当然ながら日本に投資する海外企業が現れるだろう。日本国内のビジネスを旺盛にすることが勘所ということだ。そうすれば労働市場に超過需要が生まれ賃金は必ず上がる。外国勢の参入を嫌がるなど、もし米国メジャーリーグがこんな旧式な思想を続けていれば、今頃メジャーリーグの球団経営がどうなっていたか、想像すればすぐに分かるだろう。


要するに、こういうことを進めなければ、対日投資に慎重な海外企業の姿勢は継続する。資本収支が黒字化しなければ、経常収支を赤字には出来ない。経常収支を赤字に出来ないのであれば黒字に執着するしかない。それは輸出産業に頼ってマクロ経済を運営する事なのである。円安を(ホンネでは)歓迎する姿勢はここに根っこがある。つまり昭和30年代に成功した日本型(というよりアジア型)高度成長モデルを根本的に構造改革しなければ

国内消費の高まりを実現して日本経済をより成熟化させる

この提案は実行不可能である。


一言でいえば

輸出で稼ぐ経常収支黒字国ではなく、資本収支黒字国を目指すため、日本社会を国際化、成熟化させるべき段階に来ている

ということだ。日本国内で安くて良いモノを輸出してドルを稼ぐ<加工貿易モデル>ではなく、日本には資金を提供したい、日本に進出したい、投資したい、日本人を雇用してビジネスを展開したい、そんな国造り・人づくりを進めるべきだ。そういう段階に来てしまった。こんな風に観ているところだ。

その進むべき方向へなかなか歩き始められないまま、もう20年以上が過ぎてしまった。バブルの後始末に目途がついた2000年代に、産業再生から発想を転換するべきであった。ところが、ちょうどその頃、2008年のリーマン危機の荒波が世界を襲った。そのあと2011年には東日本大震災と福一原発事故が発生した。自民党から民主党へ政権が移った。未曽有の円高が進み、日本の製造業は破滅の瀬戸際に立った。

不運と言えば不運だが、

黒田日銀による量的緩和と円安戦略で何とか乗り切った

結局、《岩盤規制》が固すぎたということなのだが、平和ボケ、ゆでガエルと批判されても仕方がない面もある。


つまり《総需要拡大》で乗り切るというより、《産業高度化》が経済政策としては求められているわけだ。

しかし、この路線は高度成長期以来、日本の経済的発展に貢献した多数の老舗企業(≒財閥系名門企業)にも経営戦略の転換を迫るものだ。主流は非主流に、非主流が主流になるだろう。経済的権力の移動が日本国内で進む。そんな予想が現実となる。だから、難しいのだ。

自民党と財界主流(マスメディア大手も含まれる)との結びつき方、日本人がもっているメンタルな傾向。この二つを考え合わせると、日本の経済政策が正しい方向に沿って実施されるとは、小生には思えない。

経済専門家がいくら正論を述べても、現在の日本政府も日本人も、それを実行する覚悟はないとみる。この点については、何回も投稿している ― ごく最近ではこの投稿か。

国民に忖度して語るべきことを語らないマスメディアは、メディアの役割を放棄している理屈なのだが、いくら無責任だと指弾するとしても、メディアが委縮しているのだから、打つ手はもはやない。こういう状況だと観ている。米紙、英紙とは、メディアと世間の関係性、経営意識がまったく違っているような印象がある。

コロナ対策であれだけ政府を批判できたのだから、「あるべき政策」についてメディア大手はもっと政府に厳しくてもよいはずだ ― マア、メディア大手が規制の恩恵を享ける当事者でもあるから、これまた仕方がないわけだが。

ヤッパリ、堀江さんの横紙破りで、ライブドアによる「ニッポン放送」買収を政府も容認しておくべきだったネエ・・・

そう痛感しているのだ、な。もしあのとき容認しておけば、日本社会の風通しも随分よくなっていたに違いない。


2022年4月19日火曜日

ホンノ一言: ロシア産天然ガス禁輸も間近いか

ロシアによるウクライナ侵攻が発生して以降、欧州内のドイツの立場は「針の筵」というか、先日にはとうとうドイツ大統領シュタインマイヤーのウクライナ訪問をウクライナが断るという出来事まで起きてしまった。政治家シュタインマイヤーが一貫して保持してきた親ロシア思想にそれほどウクライナ側は怒りを持っている、ということでもあるのだが、ドイツ国内ではやはり反発の感情が広がっているようである。が、他の欧州諸国内でドイツに同情する向きは(今のところ)ない。

やはり2,3日前に投稿したように「ドイツ・バッシング」に日本からは見えてしまう。

先日はThe New York Timesに掲載されたKrugmanの寄稿から上のような標題の投稿をしたのだが、同じ主旨の記事は(当然ながら)イギリスにも既にあるわけだ。

例えばThe TelegraphにAmbrose Evans-Pritchardは次のように寄稿している:

It is perhaps unfair to pick on Germany because other EU states hide behind its skirts, all too willing to let the status quo continue. Yet nobody doubts that all Europe would fall into line if Berlin lifted its veto on an embargo.

Nor can one quickly forget that the German finance ministry, though its iron-control of the EU's economic machinery, inflicted an economic depression on southern Europe and Ireland during the eurozone banking crisis from 2008 to 2012, an episode that it framed falsely as a debt crisis and a morality tale of fiscal profligacy.

Source:The Telegraph,  15 April 2022 6:00am

URL:https://www.telegraph.co.uk/business/2022/04/15/olaf-scholz-must-choose-energy-embargo-russia-moral-embargo/

ドイツをイジメルのはフェアではない。というのは、現状を変えたくないと願うのは他国も同じで、それらの国はいま(息をひそめて)ドイツのスカートの陰に隠れているのだ。そのドイツが(覚悟を決めて)禁輸に踏みければ、ヨーロッパは一斉行動をとるだろう。

確かにドイツが悪者になって逆風を一身に受けている。それは英米(それからフランス)の利益に沿っているから、そうなっている。日本は・・・「アメリカの犬」と時々揶揄されるが、ドイツ批判が日本で見られないのは、一つの救いだ。

プリッチャードも上の引用記事で述べているように、かつてギリシア、南欧諸国、アイルランドが経済的苦境、金融的苦境にあるとき、ドイツが示した非常に冷淡な態度が、やはり尾を引いてしまっているわけだ。この目線はクルーグマンとまったく同じ。しかも、そのときギリシアやイタリアが放漫財政を続けていた事実はなく、金融危機の引き金を引いたのは、むしろベンダー・ファイナンス(≒売掛金による信用供与)を突然引き上げたドイツ企業の方であったというのでは、その当時、小賢しくモラルを説教していたドイツに他国が内心の怒りを感じていたとしても、そしてその怒りが今回のドイツの苦境で噴出しているとしても、無理はないだろうというわけだ。


う~む、まさに先日の投稿に書いたが、

情けは人の為ならず

情けは味方、仇は敵なり

は、世界共通に当てはまる鉄則であるようだ。

In any case, the political dam is bursting in Germany. Die Welt captured the exasperated mood of the media, calling Germany’s love affair with Putin’s Russia the “greatest and most dangerous miscalculation in the history of the Federal Republic”.

メルケル外交の破綻というより、20世紀の社民党政権による"Ostpolitik"そのものに戦略的失敗の可能性が含まれていた、そんな評価にまでなるかもしれない瀬戸際ではないだろうか ― 小生はそうは考えていないが。

“We must finally give Ukraine what it needs, and that includes heavy weapons. A complete energy embargo is doable,” said Anton Hofreiter, the Green chairman on Europe. “We are losing the respect of our neighbours on a massive scale. The problem is in the Chancellor’s office.”  

もうショルツ独首相の決断のみである。 


ドイツ経済界はエネルギー禁輸を非常に懸念している。その懸念にショルツ首相は応じているのである。これに対して、経済専門家は仮にロシア産天然ガスを完全に禁輸しても、今年、来年とドイツ経済は概ね5パーセント程度のマイナス成長に陥るという程度で済むはずだと試算している。ギリシアの金融危機に比べれば「損害軽微」だ、と。

どうやらドイツの最終的決断は間近いようだ。

しかし、エコノミストの経済分析は、様々、多くの前提を置いたうえでのシミュレーションである。それだけではない。シミュレーション計算に使用した統計的な関係式は、これまでのデータから推計されたものである。これまでに採ったことがない政策が実行されたときにどうなるかを予測するためのデータは実はないのだ。人々の行動がどう変容し、企業はどう対応し、敵対国がどんな政策で報復するかというデータは何もない。経済専門家の《予測》とは、大体これまでどおりで反応してくれるならこうなる、という「計算」である。かつて、計量経済学にロバート・ルーカスが加えた批判は、この種のシミュレーションに対してである。つまり、実際に一度も採ったことがない過激な政策を実行した時に、関係国がどのように応じ、その経済的な波及効果がどのように及んでくるかを予測できている経済専門家は一人もいないはずだと、小生は観ている。

ま、『それしかもう手がない』と本当にそう思うのであれば、やってみるしかないだろう、と言うしかない。かつて日本もそう考えて、シンガポール攻略、真珠湾奇襲を計画決定したわけだ。

手がない以上、するならするで仕方がないのだろうが、この間の進展はいかにも《3流政治家》ならやりそうな事だと、未来の歴史家なら語りそうだ  🤷‍♂ 

2022年4月16日土曜日

断想: SNSで「世論」が分かるものなのか?

現時点で、ジェフ・ベゾスを超える資産を保有する破壊的なアントレプレナーになりつつあるイーロン・マスク。今度はTwitter社経営に関心を高めているようだ。

人々が意見を自由に表明する共有の場をネットに設けたい

と、こんな理念を語っているようだが、同じことはずっと以前にFacebook社の創業者マーク・ザッカーバーグが話していた。

Facebookは本名によるアカウント開設が原則だ。投稿には責任(?)をもたされるシステムになっていることも与ったのか、2010年代初めの《アラブの春》では民主化運動のIT基盤になったということで、SNSビジネスの社会的意義がアメリカ国内で高く評価されたものである ― とはいえ、本名アカウントで反政府運動を展開するなど、よくそんな危険な事が出来たものだと、その時には思っていたのだが。

少し顧みると、Facebookが提供したソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)という新しい社会的ITツール。ポジティブな評価としてはこの「アラブの春」の頃がピークであったのではないか。その後、2016年のアメリカの大統領選挙では、トランプ候補を当選させたいと願うロシア勢力による米国内世論操作に利用されてしまった。果たして大方の予想を覆して(?)ト大統領当選が現実のものになってしばらくの時間が経過した後、ロシアによる選挙介入が問題として浮上した。アメリカ国民が憤激する様子が日本で報道されるのをみながら、思ったことは、「アラブの春」もそれ自体はネット上の運動であり、世論操作であったわけで、もしもそれが「良い事」ならば、同じことをアメリカ国内でやるとしても、「ヨイ事」であるはずだ。最小限考えても、それが「悪い事」だとは言えないだろう。アメリカ国内でFacebook批判が高まっていく様子を観ていて、小生、そう考えていたものである。

その頃、ザッカーバーグは『我々は人々に意見表明の場を提供しているだけだ』と話していたが、全くその通りだと小生も考えていたのだ、な。その見方は今でも基本的に大きく変わっていない。

しかしながら、その後の現実の進展はというと、『アラブでやって善いからと言って、それをアメリカでやって善いわけではない』のだと、こういう世論が支配的になった。それはちょうど、「有志連合軍」が主権国家イラクを軍事的に打倒しても「善い行為」になるが、ロシアがウクライナを軍事侵攻すれば、それは「戦争犯罪」である、と。歴史的位相は異なるが、記憶を振り返ると、まるで最近と相似形のような論理構造がその当時も観察できたわけである。他にも同様の事例はあると思う。

これに加えて、

Facebookはコンサルティング企業Cambridge Analyticaによるユーザーデータの不正取得について、メディアで報じられる何カ月も前から認識していた・・・

こんなデータ流出問題も暴露されるに至り、Facebook社の企業イメージは非常な打撃を受けてしまった。

ごく最近年とは違って1990年代を通して一貫していた米政府の"Anti-Microsoft"姿勢は、まるで今日の"Anti-Facebook"にそのままつながっているようで、どこかで相通じている本当の理由があるのではないかと感じているのだが、それもあってかFacebook社はSNSからMetaverseへ事業の重点をシフトさせようとする真っ最中にある。

Facebookが後退してTwitterが進出すると言うのは、SNS市場で当然予想される経営戦略的な展開で、まさに《戦略的代替性》が当てはまっている証拠である。昨年のアフガン撤退がアメリカの「撤退戦略」であったように、Facebookが重点事業をシフトさせているのも「撤退戦略」になっている。そう思いながら、今後のTwitter社の行方には関心を持っている。

しかしナア・・・イーロン・マスクが狙っているように、仮にTwitterが"Default SNS"のポジションを占めるとしても、そうなればそうなればで、やはり今度はTwitterが様々な勢力のプロパガンダに利用される理屈だ。既に、Facebookは「不適切な投稿」をFacebookの(AIに基づく)裁量でスクリーニングする体制をとっている。Twitterも同様の方針にあるようだが、それでも全ての人々に共通の言語空間を提供したいなら、投稿規制を可能限り緩めて、投稿を自由化し、《表現の自由》を保障しなければ、全ての人にとっての《価値》にはならない。

しかし、この道はFacebookが歩んできた道に他ならない。仮にイーロン・マスクがTwitterを経営するにしても、SNSの理念型が実現できると、小生には思われない。透明なガラスを透過するようにSNSという場に、ありとあらゆる人々の意見がそのまま視覚化される状態には、人々はメンタル的に耐えられない。見たくもなく、知りたくもない、そう思う。Facebookが直面したように、日本を含めて世界の人々は、理念通りのSNSには耐えられない。人々が何を考えているか、善かれと思ってSNSという場を(理念に沿って)構築したのだろうが、多くの人々はそんな場を、結局、歓迎していない。銃や刀剣といった武器が厳重に管理されて初めて有用な道具になるように、SNSという場はスクリーニングされ、フィルタリングされ、厳重にマネージされない限り、社会にとって役立つモノにはなりえない。こんな現実が既に確認されているのだと思う。

その意味では、TVや新聞など経営陣とプロデューサー、デスクが裁量的に「何を伝えるべきか」をスクリーニングしているメディア企業の方が、人々のホンネのありかを正確に洞察していると言えるのだ、な。

もしも仮に、人々が何を話しているか、自分のいないところで知人、友人達が自分について何を話しているか、Global Positioning System(GPS)データを指定して範囲選択し、関心のある人物のアカウントをフィルタリングすることで、話されている音声データを自由自在に聴く(=盗聴)ことが可能なデバイスが発明されたとする。そして、そんなデバイスが数万円程度で購入できるようになったとする。そうなれば、全ての人の意見を誰もが知ることができるわけだ。政治家にとっては「夢の超特急」ならぬ、「夢の世論調査器」になるはずだ。

しかし、人々はそんな世界には耐えられないだろう。精神的に耐えられないと小生は思う。

自分が他人と話す全ての会話が全ての人に聴かれている。そして、そのことを自分も他人も全ての人が分かっている・・・。そんな世界でも人は嘘をつくことができる。考えていることまでは他人に分からない。だから、いま話すことは全ての人に聴かれていることを前提に、最も自分に有利なように話す内容を決める。そんな世界になる。

言語空間はあるが、もはや真の意味で《コミュニケーション》が出来ない世界になる。

しかし、そんな世界でも人々は心の中で色々な願望をもつ。ホンネを伝えたい。そのホンネは他人には知られたくない。だから、理想のデバイスが発明されたあとでも、その理想のデバイスは役には立たない。ただ人を苛立たせるだけの機械になるはずだ。

ヒトは自分の考えを秘匿したいものである。

だから人々の意見、それが集計された《世論》を鏡のように映し出すデバイスは、《永久機関》と同様、人間には製造不可能である(と思う)。同じように、世論を映し出すSNSという場をネットに構築するのも不可能だ。というより、世間はそこまで求めてはいないし、希望してもいないのだ(と思う)。

《世論》をありのままの姿で目にしたり、ありとあらゆる《世論》を耳にすることは、ほとんどの人にとっては感情的に耐えられないことである(に違いない)。それが人間社会の現実である。綺麗ごとではすまない。理性によってスクリーニングしなければならない。世論は教育され、啓蒙されなければ、決して有用ではなく、むしろ有害になる。それが次第に分かってきたのが、SNSビジネス10年余の歴史そのものだと思うのだ、な。

問題は、そんなSNSマネジメントを誰が、どんな価値観に基づいて、どんな方法で行うか、になるだろう。価値観と言う大前提に立つ以上、やはりSNSに表れる「世論」なるものも、「懐疑」の対象になるのが当然である。

2022年4月13日水曜日

一言メモ: 権力の暴走 ≒ 世論の暴走

暴走は、伝染もするし、波及もする。一人が暴走すると、他の多くの者が刺激されて、模倣するのである。


今春の東大の入学式。「きかせる」祝辞があったようだ。

東京大学の入学式が日本武道館で開かれ、3000人の新入生が出席しました。来賓の映画監督の河瀬直美氏が祝辞で「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」と述べました。

意見の主旨はというと

 <<「ロシアを悪者にすることは簡単」としたうえで「なぜこのようなことが起こっているか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないか。誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで私は安心していないか」>>

というようなものだ。

これに対して、大方の世論の反応は

侵略した国と侵略された国を同格に論じる祝辞は、東大の見識も問われます。

大体、こういう主旨のものが多い。

まさに文字通り

どっちもどっち

であると、小生は思っている。


最近数年間の日本の《世論》、具体的には「ネット世論」、「ワイドショー世論」を指しているのだが、直進→暴論化→逆転→直進→暴論化→逆転→直進→・・・

まあ、こんな風な制御工学でいうところの《Bang-Bang制御》を連想させるものがある。つまり、社会状態は連続した多様な進路があるのではなく、<左翼化>と<右翼化>のたった二つの状態のみがあって、どこかで耐えられないほど過激になった段階で、何かの修正メカニズムが働いて、今度は逆向きの方向へと進む。俗にいう《振り子現象》である、な。アカデミックな用語を使うと《レジーム・スイッチング・モデル》に相当する — ただし、どのレジームにおいても社会は不安定であり発散する。そんな「世論変動プロセス」を、最近、有力な見方として改めて見直しているのだ。これが日本の社会(だけではないのかもしれないが)に、特にネットの普及で世論が「視える化」されるようになった後は、割と当てはまっている統計モデルではないか、と。

ホント、何がダイバーシティ(diversity)じゃ! 理想ばかり言って、やってることは、マルデ反対じゃないか!!

こんな感想です。


まあ、最近でも色々ありました・・・東京オリパラ延期問題、セクハラ、パワハラ、ジェンダーフリー、森さんや五輪関係者の辞任、それからコロナ感染。菅さんの辞任。安倍さんの花見問題、モリカケ問題。日産のゴーンさんも稀代の悪人にされチャイました・・・とにかくこの現代日本社会で世論の過激化は無数に繰り返されている。過激化が純粋化と重なるケースもある。純粋化はよく言えばそうなるわけで、幼稚化に見えることもある ― 子供と言うのは、いつの時代でも「純」だから、永遠の子供に憧れるヒトも増えているかもしれない。

この辺の事情、戦前期・日本で大いに盛り上がった<天皇機関説事件>も、その本質は同じである。<国体明徴運動>も同じ穴のムジナ。その20年ほど昔には<大正政変>があって民衆の決起が内閣を倒すということもあった。世論にも「狂熱」や「暴走」があるのは、独裁君主に「信念」があったり「理想」があったりするのと、まったく同じ社会的作用を及ぼす。

達観してみると、(少なくとも)日本社会では大正デモクラシーを経験し、普通選挙が実施されたあと、社会のガバナビリティが段々と低下し、その果てに国民は陸軍の強い権力を受け入れ、国家総動員体制へと社会は変化していった。そう観えるのだ、な。

西洋史をみても、「国民国家」が生まれてから、むしろ戦争やジェノサイドが過激化、大規模化した。その国民国家が絶対君主国から民主主義国になったからと言って、国家の品格が向上し、優雅になったなどとは、まったく言えない。封建領主が高額の報酬で傭兵を雇いつつ戦争をしていた時代は、戦(いくさ)は頻発するが、どれも短期、小規模で、だから封建制が長期安定したと、こんな風に小生は理解している。日本の歴史もこれに似たところがある。


民主主義であれ、非・民主主義であれ、権力闘争は必ず存在する。民主主義社会では「言論」の中に、つまり「世論」の中に権力闘争がある。権力闘争がたけなわになると、世論は過激化するのである。そんな社会が自分の好みに合うかどうかは、人それぞれだろう。もしタイムスリップで江戸時代の日本人が現代日本に紛れ込んだとして、その人が民主化された現代日本の世相をみて、「ああ、いい国になったネエ」と言って、この社会にとどまりたいと願うかどうか、それは分からない。例えば、明治から大正、昭和にかけての文人・永井荷風などは、日記『断腸亭日乗』を丁寧に読むと、世間なるものの騒がしく、五月蠅い世相に、ほとほと閉口していたように推測される。

今日書いたことは、2、3日前の投稿とほぼ同じ主旨だ。



 

2022年4月11日月曜日

ドイツ・バッシングもこうなるとイジメに似てきたなあ

Paul Krugmanはノーベル経済学賞を授与された超一流の(影響力ある)経済学者であるし、The New York Timesに寄稿しているコラムニストでもある。そのクルーグマン先生、ロシアによるウクライナ侵攻に対して旧・西側諸国が採っている経済制裁にドイツが一貫して消極姿勢をとっていることによほど腹が立っているのか、かなり感情的な文章を寄せている:

... Germany took the lead in demanding that debtor nations impose extreme austerity measures, especially spending cuts, no matter how large the economic costs. And those costs were immense: Between 2009 and 2013 the Greek economy shrank by 21 percent while the unemployment rate rose to 27 percent.

But while Germany was willing to impose economic and social catastrophe on countries it claimed had been irresponsible in their borrowing, it has been unwilling to impose far smaller costs on itself despite the undeniable irresponsibility of its past energy policies.

I’m not sure how to quantify this, but my sense is that Germany received far more and clearer warning about its feckless reliance on Russian gas than Greece ever did about its pre-crisis borrowing. Yet it seems as if Germany’s famous eagerness to treat economic policy as a morality play applies only to other countries.

Source: NYT, April 7, 2022

URL: https://www.nytimes.com/2022/04/07/opinion/germany-russia-ukraine-energy.html

要するに、

かつてギリシアの放漫財政によってギリシア経済が苦境に陥ったとき、ギリシアを助けることをせず、無責任な財政を続けたギリシアが自分で解決するしか道はないと冷淡に突き放したそのドイツが、今度は自国がとってきた無責任なエネルギー政策が破綻したとき、ロシアへ経済制裁するのはドイツにとって余りに負担が大きいので勘弁してくれと。かつてギリシアが耐え忍んだ苦境に比べれば、マイナス数パーセント程度の不況など大したコストではないだろう。他国には求めることを自国は免れたいと言っている。

まあ、こういう痛烈な批判をドイツに対して行っているわけで、アメリカ人から見ると、ドイツは確かにこう見えているに違いない。

本ブログでも、ちょうどギリシア危機のとき、こんなことを書いている:

平たく言えば、ドイツの景気が好くて、ギリシアで失業者が溢れているのであれば、ギリシアからドイツにいくらでも働きに行けるようにすれば良いのである。ドイツの賃金は下がるだろう。しかしギリシアは楽になるのだ。ドイツが、それをどうしても堰き止めたいというなら、ドイツがギリシアの経済開発を支援するために、見返りを求める投資ではなく、社会資本充実、人材育成等々を目的に資金供与するべきなのである。そうすることがヨーロッパの利益につながり、ひいてはドイツの利益になるだろう。そもそも、そのためにこそEUとEUROを作ったのではないのか?

まさに国際社会にあっても

情けは人のためならず

ディケンズが描いた『クリスマス・キャロル』の守銭奴・スクルージはクリスマスイブの夜に救われたが、ドイツはとうとう最悪の形でヨーロッパ内で積み上げてきた国際政治資産を喪失してしまった。

先日も書いたが、

これではまるで

ロシアと仲良くしたお前たちドイツが悪い!少しは辛い目にあって反省しろ!!

東アジアの外野から観ていると、旧連合軍がこう言っているのと同じなように思えたりする。なにやら英米にドイツがシバカレテイル、こんな感覚がある。

EUを隠れ蓑にして旨い汁ばかりすすりやがって・・・

と言いたいのか、と。ホント、旧東ドイツ出身であったメルケルさんが引退すると、早速こうなってしまう。

こんな状況だと、戦後のウクライナ復興事業にドイツ企業はほとんど、というよりまったく参入できず、実入りのいい所はすべてアメリカ、イギリス企業が受注することだろう。その下請けで、旗幟を鮮明にしたポーランド、バルト3国辺りが利益に与れるか、ま、そんな塩梅になるのではないかと予想している。ドイツは「蚊帳の外」で、あることか、あるまいことか、復興資金を拠出せよと。今まで儲けた貯えがあるだろう、と。またまた、カネを獲られる憂き目にあっちゃうかもナア・・・。

それに止まらず、ロシア産の安価な天然ガスに支えられてきたドイツ経済は、今後10年程度は苦難の道を歩む。EUでドイツが発揮できる影響力も格段に落ちていく方向だ。現在、欧州委員会委員長のフォン・デア・ライエンはメルケル前・独首相の後押しで選出されたドイツ出身の政治家だ。このポストももうドイツに戻ることはないだろう。

いや、いや、国際政治の舞台と言うのは、怖いものだと思う今日この頃だ。


ドイツがじっと耐えて苦難の道、イバラの道を歩み続けようとするのか、どこかで切れて、上に引用した投稿でも書き足しているのだが、

この亀裂が深刻になっていけば、最終的にはドイツがEUには(留まれるなら)留まる一方で、ソ連・ロシア敵視で発足したNATOからは脱退。ロシアとは(ポーランド、及び親ロシアのベラルーシを語らって)

独波ロべ四国不可侵条約を締結する 

こんな方向へ進んでいくかもネエ・・・だって、NATOに入っている事で却って怖いことが分かったでしょう、と。そういうことである。

ドイツ、ポーランドがそうすると、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアもNATOから脱退してこの新体制に追随する。出来るのは《中欧共同平和機構》でそれに何とロシアも加盟する!これは吃驚だ!

マサカ、こんな状況にならないヨネ、と。

ポーランドは対露恐怖症の気味があるので、昔のように孤独なトルコを語らって、ドイツ・トルコ枢軸同盟、これに親露的なハンガリー、ハンガリーと一衣帯水のオーストリアが入れば、正に第一次大戦前のヨーロッパ勢力地図とうり二つになってくる。やはり、勢力分布というのは、長い時間が経過する後には、似たようなゲシュタルトが何回も現れるものなのだろうか?


一度転がりだしたら、転がり続けるのは球形の物体ばかりではない。国際関係にも唯一の安定的な均衡点などはない。長い歴史を振り返れば自明のことだ。複数の均衡点がある(はずだ)。そして、どの均衡点に落ち着くかは、個別のプレーヤーが自国の利益を求めて選ぶ個別の戦略と、それに対する他のプレーヤーの対応と応酬から、最終的結果として決まるものである。

その最終解をいまから予想出来ている政治家、専門家は、一人もいないはずである。


2022年4月9日土曜日

断想: 「価値」は戦争の原因となり、平和は「懐疑」によって実現するものだ

いま(特にTVがそうだが)マスメディアが強調している《民主主義 vs 権威主義》という価値観対立。この対立が今回のウクライナ動乱にまでつながっている。こんな認識で、マスコミは様々、解説や展望を語っているのだが、ホントに同調してついて行っていいのだろうか?大体、昔の冷戦は「資本主義 vs 共産主義」だった。それがソ連崩壊をきっかけに「民主主義 vs 権威主義」という表現に変わってきた。「民主主義」というのは「自由主義」のことかと言えば、それはまた違うようで、《共有された価値観》に基づかない自由は規制されて当然だという政治哲学も、どうもあるようだ。

小生にはよく分からない・・・が、この「価値観を共有しているかどうか」が決定的な識別要因であるようだ。

であるとすれば、昔の《宗教対立》とどう違うのか?信仰する神が違うというのは、ある意味、究極的な価値観の対立だろう。

いま世界で表面化しているのは、価値観と口では言っているが、本質は宗教対立ではないのだろうか。違いますか?

宗教対立ではCという宗派とPという宗派への分断があって、その分裂が最後には戦争へと至る。それが宗教戦争だという理屈になるが、必ずしも実際の宗教戦争はそうではない。

ドイツ30年戦争」といえば世界史の入試センター試験でも出題の可能性が高い重点事項であった。その割には、担当教師はあまり分かりやすくは説明せず、あとは教科書をよく読めという体だった。ただ戦争終結をもたらした《ウェストファリア条約》は非常に著名で、現代に至る《国際法》も精神としてはこのウェストファリア体制に沿うものである。なので、現代的意味からしても「ドイツ30年戦争」は大きな意義をもつ大戦であったのだ。

ところが、その発端は実に詰まらない事件であったに過ぎない。要するに、ボヘミアの田舎君主がローマ教会と和解しようとしたが、王の行為に新教徒が多い庶民は激しく怒り、王が召集した市の参事会委員を窓から投げ落とすという暴行を演じた。それに激怒したハプスブルグ家の皇帝がこれを「反乱」とみなし軍事力を行使しようとした。新教徒が優勢な北欧諸国はこれを独裁的な抑圧であると非難しボヘミア市民を軍事支援することを決定した。神聖ローマ皇帝(=ハプスブルグ家)は同じカトリック国であるフランスに応援を期待したのであるが、何とフランスは新教国応援に舵をきった。それでヨーロッパ全土、特にドイツ国内(=神聖ローマ帝国領内)を舞台に、すべての封建領主を巻き込んで最後の宗教戦争が繰り広げられたのだった。その当時のドイツの人口の20%が戦争の犠牲になったと推測されている。

文脈はまるで違うが、日本の室町時代に起こった「応仁の乱」もつまらない諍いから生じた大乱であった。軍事支援の応酬から最後は大戦争になるわけである。

注意を要するのは、宗教戦争の様相ではあったが、実際には旧勢力のハプスブルグ王朝と新興のブルボン王朝との覇権闘争であったわけで、ドイツは宗教対立をネタに戦争の舞台とされてしまった。これが「30年戦争」の実相である。

ウェストファリア体制とは、戦争の目的であったはずの宗教対立を水に流して、各封建領主は自由に自ら信じる宗教を選択してもよい、こうしたリアリズムによる国際平和の実現が勘所である。いわゆる《内政不干渉》が国際原則として確立したのはウェストファリア体制においてであって、広域的かつ超越的な価値を体現する教皇、皇帝の権力は衰退の一途をたどった。

今に至るも、決して国際的意義を失っていない思想である。

実はこれに関連して、ごく最近になって、腑に落ちる感覚を覚えたのがデカルトの哲学である。

デカルトと言えば、

我思う、故に我あり

という後の啓蒙思想の予兆となる名句で余りにも有名だが、その根底にあるのは懐疑主義と合理主義である。主著『方法序説』を(一通り)読んだのは高校生の頃だった。多分、推薦図書になっていたのだろう。後半はあまり記憶していないのは、真ん中あたりで息切れしたのかもしれない。ただ、

全てを疑え、他人の意見を疑え、常識を疑え

という方法論から

信仰を疑う。神を疑う。あらゆる理念を疑う。しかし、疑っている自分だけは確かに存在している。これだけは確実で疑いの余地がない。

即ち、『我思う、故に我あり(Cogito,  Ergo Sum)』という認識の出発点が得られるという語り口には感心した。これを原点として、あとは最も確実な数学的論理のみに基づいて思考を演繹的に発展させるのが合理主義哲学である。まさにデカルトが経験した戦争の原因でもあった信仰の否定、宗教の否定にもつながる知的転回であるのだが、この辺りの文章の流れは実に歯切れがよく、まるでエラリー・クイーンのミステリーだと思ったことをよく覚えている。

デカルトが生きた当時も、ヒトが話す内容はホントが半分、ウソ半分で、信用できないこと位は分かっていた。しかし『聖書』だけは真理であると皆思っていた。そんな信仰の時代にあって、真理は聖書に書かれているわけではなく、人間の理性を用いて論理的に証明することによって得られると言ったデカルトは過激派もイイところだ。


最初に読んだときはそれだけで読み終わってしまったのだが、実はデカルトは上の「ドイツ30年戦争」に軍人として出征している。この辺のことは例えばWikipediaでも紹介されている:

1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。

1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。

人は、互いに人を殺しあいながら、

この戦いって、何なのだろう?

と、デカルトもそうであったが最前線の人間なら誰もが考えるはずだ。 戦争を始めるに至った思想はどこかおかしい。それが正義だと考える信仰もどこかおかしい、と。それはむしろ自然な結論ではないか。

両方が間違った価値観をもって、バカなことをやっているのだ

戦争の現実を目の当たりにしてそう考える人間が最も正しい。

ヨーロッパの近代への歩みが30年戦争から始まったというのは決して誇張ではない、というわけだ。ただその「近代」というのは、宗教が国家に置き換わっただけで、人間はどこまでも対立するものだという本質は同じである所が悲惨で、この事情は現代に至るもまだ変わっていない。

国家の価値もまた懐疑の対象にしなければなるまい。

2022年4月7日木曜日

ホンノ一言:「国際法」と「日本の民主主義」は両立しているのか、という疑問

今後予想出来る議論の方向として<ポスト・ウクライナ動乱>の国際的安全保障体制の構築というテーマが挙げられるのは、ほぼ確実だろう。

その中で新たなキーワードとして、《国連》と《国際法》の二つが欠かせないのも、まず間違いのないところだ。


国連が果たすべき役割を今回の「戦争」においては何ら果たすことが出来ずにいる。この点は専門家であれ、素人であれ、大半の人が同感するところだろう。今回のウクライナ動乱を抑止できるかどうかというステージにおいて、またロシアによる軍事侵攻が始まってからのステージにおいて、国連がまったく機能していないのは歴々たる事実である。国連が改革を迫られているのは、もう反対を許さない自明の事実になっている、と観られる。


ただ「国際法」については、個人的に長年の疑問があるのだ。

この分野の専門家ではないが、国際法の実体が、条約と国際慣習法であること位は聞いたことがある。

疑問は、この国際法の立案、立法、解釈・運用の各側面で《民主主義》との両立はいかにして実現されているのかという問いである。例えば、日本国内の民主主義と、日本があるいは日本人が守るべき国際法との調和が、いかにして実現されているのだろう?

よく国際法と憲法のいずれが優越するかという法学上の議論が展開されているのを目にするが、例えば

日本国憲法の規定より、まず国際法に沿って法的議論を進めるべきである

という、そんな主旨の議論をみると、

その国際法の規定に日本の民意はいかにして反映されるのか?

と、こんな疑問が必ず心の中に浮かび上がるのだ、な。

そもそも「民主主義」とは、一国の内部において定義される概念である。例えば、日本と韓国の2国の和集合をとって、その拡大された空間で民主主義が実現されているかといえば、韓国民の民意は日本の法律には反映されないし、まして日本の政策にも反映されない。逆も言える。だから、この日韓拡大空間は「非・民主主義的」である。日本とアメリカの和集合を考えても、実現されているのは「部分民主主義」であって「全体民主主義」ではない。旧・西側世界という政治空間を考えても、実現されているのは「部分民主主義」であって、旧・西側世界全体で民主主義が実現されているわけではない。大体、いま旧・西側世界で採られている政治方針に、日本人の民意が反映されているのかといえば、そんなことはなく、主として反映されているのは、アメリカ国民の民意だろう。これが現実ではないかというのは、かなり多数の人が共感するのではないだろうか?

つまり「民主主義」という概念は、あくまでも一国の内部において意味をもつ法的(政治学的?)概念である。その「民主主義」と「国際法」とは、いかにして両立しているのか?こんな問いである。

小生の疑問は、そういうことであって、日本は、日本人は国際法を尊重するべきだ、というこのこと自体は当然の義務かもしれないが、それは「日本の民主主義」といかにして両立しているのか?

勉強不足かもしれないが、この疑問は何年も解明されていない。

2022年4月4日月曜日

断想: 中国による対ロシア経済支援は絶対許さないって、ホントに?

欧米がウクライナへの軍事支援を続ける限り、ウクライナはロシアとの戦闘能力を当分の間は維持できるはずで、そうなるとロシアの経済力を考えれば、財政は遠からず破綻する方向だ。

軍事費を捻出するには、他の財政支出を削減するよりほかはなく、それは例えば退職公務員の年金削減、教育費削減、公共事業費削減、もっと踏み込めばインフラ施設の維持補修費も削減するだろうが、戦争が長期化すればそれでも不十分だろう。そこで不換紙幣であるルーブルを増発するとロシア国内でハイパー・インフレが発生する。ロシア経済全体は破綻して大混乱となる。戦時経済の典型的失敗となる。

これは非常に大問題だ。特に歴史的に縁が深く、政治理念が似通っており、かつ長い国境を接している中国にはロシアの経済的混乱を防止する強い動機がある。ロシア財政が危機に陥れば、中国は必ずロシアを経済支援する。

マクロ的には総供給と総需要は必ず均衡しなければならない。総供給はGDPと輸入の合計、総需要は民需+公需+輸出である。つまり

$$ Y + M \,=\, C + I + G + E $$

である。

いま軍事費という政府消費支出(G)が急増している ― 消費計上時点に関するテクニカルな部分は無視しておく。輸出は経済制裁で急減しているから双方がキャンセルすればマクロ的にはバランスを維持できる可能性はある。しかし、石油需要の急減で生じた余剰生産力を弾薬やミサイルの増産に転用できるわけではない。石油輸出需要の減少はそのまま左辺のGDP(Y)の減少になる可能性が高い。そもそもエネルギーの対西側輸出が減少する分を対中輸出でカバーしようと考えている。右辺の外需(E)は(ロシアにとって幸いに)変わらないとしよう。となれば、軍事費が増える分、消費などの民需を削減しなければ供給とバランスしない。消費需要はほぼ確実に落ちるのだ。が、それにも限度がある。従って、もしロシアの労働資源に余裕がないと仮定すれば、戦争経済を回すためには輸入を増加させるしかない(主に"Made in China"の消費財だろう) ― 自家消費で何とかしのげるとしても限界があるだろう。ロシアの国際収支は必然的に悪化して、ほぼ確実に赤字になるはずだ ― 普通、戦争をすれば財政は破綻し、国際収支も大赤字になるものだ。その赤字は海外からの資金調達で賄う必要がある。海外からみればロシアへの債権増加、つまり対ロシア投資である。しかしロシアは強い経済制裁を受けている。故に、具体的には、中国がロシアへの(金融)投資を増やさなければロシア経済が維持できない。一言でいえば、ロシアは中国からツケ(=負債)で消費財を輸入して国民生活を維持するのである。これが唯一の方法である。

ロシア産天然ガスを中国が輸入するのは、相互にウィンウィンの関係にある実物取引である。第3国がそれをとやかく言う筋合いはないというのが小生の立場だ。しかし、戦争が長期化すると、いずれ最後には中国が金融面で支えるしか方法はない。

具体的には、ルーブル建て国債を中国が買うかどうかになる。人民元建てであってもいいが、もしデフォールトになれば、ルーブル建てなら紙切れ同然、人民元建てなら不良債権になるだけの違いしかない。一言で言えば、いま投資先としてのロシアは「お先真っ暗」であって、この見方に反対する人は、よほどのリスク愛好者であるに違いない。特に<無担保融資>など怖くて実行できるはずがない。

極めて雑駁に言うと『中国からカネを借りてロシアは戦争を続ける』という状況もありうるわけだが、戦闘に勝ってもその後の統治あるいは良質の外交関係構築が期待できない泥沼戦の戦費を中国が用立てる、「これは困る」と旧・西側諸国は心配するだろうか?

いま世間では、「対ロシア経済制裁」の抜け穴をいかにして潰すかに関心が集まりつつある。が、ちょっとこれは的外れの話しだ。憶測しているのだが、英米の利益を考えれば、中国がロシアへの経済支援をすること自体は、英米にとってそれほど困る問題ではない(かもしれない)。

むしろ

中国にはロシアを経済的に支援してほしい

胸の内ではそう考えている(かもしれない)。「かもしれない」どころか、多分そうだ、と小生は推測している。まるでジャンク債のような危険でヴァルネラブルなロシア投資を中国に強要できるとすれば、これが英米の利益にならないはずがない。

世間で警戒しているロシアへの経済支援だが、ロシアを支援する中国に対して、軽度の二次制裁は加えるだろうが、禁止的かつ強硬な経済制裁を中国に課するなど、そんな動機をアメリカ、イギリスがもっているとは、小生には思われないのだ、な。

「戦争」を抑止できなかった政治的失敗をリカバーする以上の利益が、ひょっとすると、得られるかもしれない。

ロシアを叩いて、中国を泥沼に追い込む

仮にうまく行けば、これこそ<ケガの功名>ではないか。ひょっとすると、ワシントンやロンドンはこんな皮算用をしているかも。ダメだと口先では言いつつ、相手は聞かないだろうと予想して、それでも「ダメだ、ペナルティだ」と警告を発して体力を少しずつ奪っていく。老獪な悪巧みだネエ・・・

しかし、逆に考えると、中国もこの位の憶測はしているはずだから、その手にはかからない。つかず離れずで、最後はアッサリとロシアを見捨てる振りをして、ずっと昔、ロシアに強奪同様に奪われた沿海州を巨額の人民元で「買い戻す」腹でも隠しているかも。台湾、尖閣を遥かに超える大物だ。

これこそホントの囮戦略だネエ・・・

ほんと、これから何があるか分からん・・・そんな思いがわいて来る今日この頃であります。

2022年4月2日土曜日

概観: BREXITからウクライナ動乱まで

現在のウクライナ動乱という舞台の周辺で、アメリカ、ヨーロッパ、中国、それに日本といった主役、脇役、端役すべてを含め、色々な権謀術数が繰り広げられているが、事態を理解するには歴史を勉強しておくことが必要だと、常々、某イギリス人が口にしていたことを思い出す。

俗に《国家100年の計》という。しかし、これによって何をどうせよと言うのか、正確に理解している日本人は意外に少ないのじゃないかと思うことがある。

「100年の計」とは、漠然と今後100年のことも考えながら、今から計画を立てなさいという淡白な主旨ではない。そうではなく、100年後の自国の情況を最善の状態にすることを目的に、そのためには今、どう行動するのが最適であるのか?これが解くべき課題であるということだ。100年後の状態を最善化するには、いま足元で最適の行動と思われる対応方針があっても、それは必ずしも真の最適ではない。短期的視野で《機会主義的な行動》を選んではいけない。そういう主旨が「国家百年の計」である。

ロジックとしては、動的計画法(Dynamic Programming)になるし、あるいは有限期間の繰り返しゲームだと観てもいいだろう。つまり、100年後の時点で最善状態に到達するには、95年後の時点でその最善状態に到達可能になっていなければならない、そして95年後の時点で最善状態を目指せる状態になっているには、90年後の時点でそれを目標にしなければならない、以後後ろ向きに逆算して、100年後の最善を目指すベースとなる5年後の状態を目指していく行動計画が、いま行うべきプランニングである。一定期間の行動を<全体最適>にするなら、最終の1年を<部分最適>にすることから始め、それを前提に最終2年間を全体最適にする。しかし、最終2年間の全体最適は100年の中では部分最適だから、後ろ向きに順に遡って現時点にまで伸ばして来れば、100年間の全体最適解が得られる。いわゆる「後ろ向きの帰納法」という最適化手法である。この勘所は、100年後に「こうしたい」という目標があれば、将来から逆算して、いまは何を行うべきかを決める点にある。正に、文字通りの《戦略論》であって、やはりアングロ=サクソンの発想であるナア、と思うのだ。

これに比べると、日本人は(中国人、韓国人も?)どちらかと言えば、自分が一つ石を置き、次に相手が石を置く、それをみて相手の意図を感じ取り、次の1石を自分が置く、そうすると相手も石を一つ置く。こんな風に、現在から未来に向かって、1手ずつ手を打ちながら前に進んでいくのが「戦い」であると。つまり、どことなく「囲碁」的であり、あるいは「将棋」的であって、日本ではこう考える人が多いのではないだろうか?そもそも、100手目で勝利するには、99手目の段階でどうなっていなければならないか、そのためには98手目は・・・などと後ろ向きに推理できるなら、将棋必勝戦略があるという理屈になる。日本人ならバカバカしいと思う人が多いはずだ。だから、言葉としては「国家百年の計」とは言うものの、実は100年を計画期間とする戦略的行動は本当は苦手なのだと思う、というよりそのように行動はしないのだ、と観ている。

戦いには相手がいるわけで、当然、相手の出方が決定的だ。「戦い」とはこのようなものだという哲学(?)があるとすれば、日本人には極めて自然で、それはそれで十分有効だと思うのだが、これが行き過ぎると、やはり相手のスキに乗じる《機会主義》というか、よくいえば《後の先をとる》とも言えるが、要するに《戦略なき状況主義》に流れてしまう。守り志向でひたすら好機を待つ。こんな戦い方になるのではないかと思ってしまうのだ。この辺で、日本人はどうしても「国家百年の計」というのが割と苦手であると、ずっと感じているのだ、な。

こう考えると、イギリスのBREXITは、その時にイギリスが置かれていた状況の下でイギリスが選んだ政策であるが、これもまた「イギリスの国家百年の計」であったかもしれない、と。そう観ることもできるのではないかと思い至った次第。

いや、あれはタマタマ、政府の失策なんだ。ハプニングなんだヨ。

そう語る英国人が多いかもしれないが、結局、EU脱退という選択をその後の英国は受け入れ、それをテコにして国家戦略を考えるようになっている。どうしてもそう観えるのだ、な。

というのは、数日前にこんな投稿をしている:

しかし、SWIFT排除措置の中でロシア産天然ガス輸入は(当面)「お目こぼし」してもらいつつ、「エネルギー政策の再構築」を早くやれとプレッシャを受けている肩身の狭いドイツに、今度はロシア産石油も買うな、と。

これではまるで

ロシアと仲良くしたお前たちドイツが悪い!少しは辛い目にあって反省しろ!!

東アジアの外野から観ていると、旧連合軍がこう言っているのと同じなように思えたりする。なにやら英米にドイツがシバカレテイル、こんな感覚がある。

EUを隠れ蓑にして旨い汁ばかりすすりやがって・・・

と言いたいのか、と。ホント、旧東ドイツ出身であったメルケルさんが引退すると、早速こうなってしまう。

これが現在の状況であれば、ちょうど一本の河の下流を目の前でみているようなものだ。時間を遡って、その河の上流のほうへ遡っていくと、こんなことをかなり以前に書いている:

ひょっとするとと思っていたが、まさか離脱が多数を占めるとは想定外だった。英国の国民投票である。

(中略)

 ロシアは喜ぶだろう。ロシアとドイツは今のところ(歴史的にも)悪くはない。ヨーロッパは弱体化する。その中でドイツは欧州筆頭国になる勢いを示すだろう。フランスは単独でドイツとやりあう必要がある。フランスは落胆しているだろう。落胆したフランスはロシアとの距離を縮めようとするだろう。ロシアは仏独を天秤にかけるに違いない。ロシアのプーチン大統領は中国を訪問する予定だが、過剰生産、過剰設備にあえぐ中国にはロシアの石油を爆買いする意欲はもうないだろう。そんな中国に頭を下げて頼みごとをする必要がなくなったとすれば、プーチン大統領は幸運ではないか。逆に、ロシアに貸しを作るチャンスを逸するだろう習近平国家主席は落胆を感じているだろう。日本にとっては少し有り難い話かもしれない。まさに『風が吹いて桶屋がもうかる』という話しである。欧州と距離をおく英国は、米国が対欧州、対ロシア戦略を考える際の価値が下がってしまったが、弱体化しロシアの影響力が強まる今後のヨーロッパ大陸に直面するとき、英国の存在はやはり大きいだろう。

やはり、今回のウクライナ動乱でもイギリスは存在感を発揮している。アメリカのバイデン大統領の陰に隠れているが、もしイギリスが未だにEUに留まっていたなら、イギリスの外交方針は独仏、特にドイツの外交に束縛され、アメリカのバイデン大統領が繰り出す経済制裁も抑制気味になっていたに違いない。

少なくとも、イギリスはEUの一員ではない自国の立場を戦略的優位を築くための要素として活用中である。

これを<先読み>して、イギリスはまずEUから抜ける選択をしていたのであれば、これはもう

だから戦争には滅多に負けない国になれたんだネエ

と、感心する次第。

これに比べると、ドイツの合理性はやや視野が狭いようだ。しょっちゅう負けるのは、そのためかもしれない。