2024年12月1日日曜日

断想: 日本の上層部の心理には「民意に対する警戒感」がある?

多分、というより「ほぼ確実」なところ、兵庫県知事選も名古屋市長選も、更には今夏の東京都知事選で石丸氏が予想を覆して躍進した事も、《民意の現れ》であって、選挙運動で何らかの大きな不正行為があって、投票結果が歪められたのだとは、どうしても思われないのだ、な。

大体、大きな不正行為があれば、有権者も怪しいと感じるし、不正な接触に関与した関係者、有権者は自らの不正を知っているわけだ。それがバレずにいるというのも変だろう。メディアの批判を待たずとも、投票後に直ちに告発、内部通報があるだろうと思われる。

だから、SNSやその他インターネット媒体を駆使して支持者を掘り起こした候補者が当選したり、善戦したりした結果を、このところ既存のマスメディアがずっと非難がましく報道しているのは、要するに

不都合な結果を認めたくない

と。こんな利己的動機の表出ではないか、と。今はそう感じている。


この

民意に疑いを抱く

こんなとても口外できない潜在心理が、実は日本国の上層部には共有されているのではないか?そんな疑念、というか憶測を小生はもっているのだ ― スポーツ新聞記事に目立つ閲覧収入狙いの「コタツ記事」は取りあえず無視するとして。

たとえば、今秋の米大統領選挙でトランプ大統領が圧勝したという事実に、日本の大手マスメディアは今なお批判的である。

トランプ次期大統領が、閣僚予定者を人選しているが、これに対しても例えばテレビのワイドショーでは厳しい批判が相次いでいるのだが、アメリカ国民は(どちらかと言えば)人選を支持しているようだ。例えば、ジェトロ(JETRO)ではこう書いている:

米国のドナルド・トランプ次期大統領は次々と新政権の人事を発表している。最近の世論調査では、大方の要職人事への支持が反対を上回っていることがわかった。

・・・

また、トランプ次期政権に期待することとして、「インフレ・価格上昇を収束させる」が68%と最も支持率が高く、「米国経済の再活性化」(43%)、「米国の価値観の復活」(42%)、「世界中で強く、安全で、恐れられる米国の再構築」(41%)が続いた。

Source:JETRO

URL: https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/11/20e93b8803a91368.html

物議をかもしていると「伝えられている」国務長官、国防長官、ロバート・ケネディ・ジュニア氏の保健福祉長官への指名人事も、上の引用元をみると、確かに支持と不支持が拮抗しているが、少なくとも米国民が忌避している人事ではないという事実がある。

なお、JETRO記事の文中にある「エコノミスト」は、日本の毎日新聞社が発行している『週刊エコノミスト』ではなく、英誌"The Economist"のようだ。念のため。

これらのいわゆる「トランプ人事」は、日本国内の主流派メディアはケチョン、ケチョンに叩いているのであるが、ではなぜアメリカ国民の過半数は認めているのだろう?

やはり

トランプ大統領再任も、トランプ人事も、アメリカ国民の民意である

そう理解するしか理解のしようがなく、そればかりではなく、そう理解しなければならないし、そう理解するべきである。こんな風に、小生は勝手に思っている。

つまり

アメリカの民主主義とはこういう社会的意思決定を指す

この原点に戻るのだと思う。

実は、太平洋戦争末期に、というかそもそも太平洋戦争開戦時においても、日本が(絶対に)認めようとしなかった社会のありようは、《民意》で物事が決まるという、アメリカ的民主主義であった。これは当時の日本側の指導層の発言から歴然としている。

日本の指導層が敗戦を決定づけるポツダム宣言を受け入れた第一の理由は

国体護持への見通しがたったからである

その「国体」というのは、

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

という日本の根本原理のことで、正に大和朝廷が発足して以来、権力としては浮沈を繰り返しながら、1945年の敗戦まで(少なくとも)1300年を超える歴史を経てきたと言っても可である。

ちなみに、上の「天皇があって云々」の語句は、つまりは「天皇と天皇が任命する大臣、更に大臣が任命する官僚、以下任命権に基づいて広がる統治機構全体」という意味となる。故に理屈としては

天皇を原点とする統治機構があり、日本という国があるのであって、逆ではない

こう言い換えても理は通る。いわゆる(大分意識は薄まっては来たが)日本の《官尊民卑》の感覚は、日本という国の成立と一体化され、継承されてきた固有の文化でもある……、その時代、時代の社会の実質はともかく、日本の伝統はこうだったと、何だか賛同する自分がいることを自覚する。

この認識に立つことで可能となることに目を向けるのも重要だ。

百済、高句麗滅亡の後、当時としては巨大とも言える1万人以上(数万人に達する可能性も?)の数の移民が朝鮮半島から「渡来人」として日本列島に流入しても、官僚・技術者として多人数の渡来人が朝廷で優遇されるとしても、「皇統」が守られる限り、日本は日本であるというアイデンティティが揺らぐ事態はなかったわけである。

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

だから、太平洋戦争敗戦後に、GHQが日本の国家改造を断行しようと考えたとき、戦前の明治憲法を戦後の憲法に書き換える、すなわち上の順序を逆にして

日本があって、天皇がある

と。つまり、民意主導の国家に作り換えようとしたわけである。これが戦後日本の民主主義の出発点である ― この認識が、歴史的事実に即して、真相なのかどうか、疑問なしとしないが、要するにアメリカ的民主主義のイデオロギーに基づいて、憲法を書き換えたわけである。

しかし、これを受け入れた日本の側の意識と押しつけた(?)アメリカの側の意識には大きな意識のズレがあった。

所詮、憲法と言っても、単なる文章に過ぎない。しかも日本語で書かれているから、アメリカ人にはまず感覚が伝わらない。特に、

民意が他の全てに優先する

という民主主義の原理を、当時の日本の上層部がそのまま受け入れたとは小生にはとうてい想像できないのだ、な。「神聖なる皇位」に代わる「神聖なる民意」という観念に対して、本能的な拒絶感が胸中に内在していたことは歴然としている。


例えば、その現れの一つとして、日本の法令の大半が、官僚組織の内部で検討され、政権(≒保守政党)との調整を経てから、内閣から国会に法案が上程され、(保守政党主導で)可決され施行される。戦後日本のこんな立法システムを挙げてもよいかもしれない。確かに民意が反映される方式ではあるが、では民意に基づいて法が制定され、運用されているかと言えば、現時点でも違和感をもつ日本人は多いだろう。

日本の統治機構は、今でも、肝心要のところで民主主義精神の血肉化に失敗している、というのが小生の社会観である。

弱い政府権力が、必ずしも民主主義的であるとは限らず、政府の強い権限が必ずしも独裁的であるとは言えない。ロジカルに考えると、民主主義的な政府は、本来なら、強力な実行力をもつ強い政府になるはずなのである。



日本国憲法は、憲法改正へのハードルが極めて高い「硬性憲法」であるのだが、その理由の一つは、

「民意」によって天皇制(≒国のかたち)が改廃される事態を出来る限り避けるためである

小生は勝手にそう理解している ― 武力不行使の徹底もあるのだとは思うが。

こう考えると、古代から続く天皇制を現に続けている日本が、成文憲法で天皇を規定するという現在の基本法制自体に、天皇制との相性の悪さがある。

むしろ国の形を成文憲法として条文で定める方法を敢えてとらず、国の「伝統」として王制を維持するというイギリス人の知恵(というか狡知)に学ぶところは大きい ― 成文化すると成文によって王制が廃止される可能性がある、それは王制と言えないであろう 。

―  ―  ―  それでも、貴族以外の平民との通婚が当然のように繰り返されるとすれば、5世代(=約100年余)もたてば、「王族」といっても

王の家系の血は $$ 0.5^{5} = 0.03125 $$ だから、体内に3パーセント少々しか流れていないという計算になる。王の直系だから王位継承資格者ではあるが、実質はもはや平民との「雑種」、いやほとんど「平民」と言うべきだろう。王位の世襲は血筋の尊貴さに本質がある。そうなれば、法の前の平等という観点からも、その時の王位継承資格者は誰も国王としては認め難いという雰囲気になるのは、確実に予想できる推移である。

この理屈は日本の皇室にも当てはまる。

やはり民主主義の理念と天皇制・王制との相性は極めて悪い。それだけは言えそうだ。


それはともかく、

多分、戦後日本の発足当時の上のような心理は、政治家、官僚、大手メディア上層部にも共有されていたに違いなく、最近において何となく伝わってくるのが

民意の爆発的表出に対する警戒感と怖れ 

である。「驚き」ではなく「怖れ」が混じっている所に日米の違いがあると感じたりする。

SNSなどのネット世論が大手マスメディアを超える影響力を示し、予想もしない選挙結果になったとき、三権(立法・行政・司法)に席を占める人たち(=及び直接・間接に依存する上級国民?)の胸をよぎった思いは、おそらく、明治末期の「日比谷焼き討ち事件」や護憲運動の熱狂の前に退陣を余儀なくされた第三次桂太郎内閣(=大正政変)をみた時の指導層の怖れに、通じるところがあったに違いない。

最近の衝撃に過剰反応して、「SNS条例」や「集会条例」、令和版・治安維持法などの「検討」が始まらないことを祈るばかりだ。


予想せざる民意に戸惑う上層階層(≒政治的・経済的・知的エリート層)の心理の根底にあるのは、必ずしも「民意はコントロールできない」という焦りだけではない。特に日本においては、遠く遡る

終戦直後にあった左翼革命(=天皇制廃止)への恐怖と民意に対する警戒感

この感覚が、時代を越えて継承されているかもしれず、わきおこる民意への不安が色々な場面でいま表面化しているのではないか? だとすれば、この不安は、そもそも敗戦当初から警戒心として実は初めからあった。というより、そもそも明治維新の(民意に反する)国造り以来、ずっと日本のエリート層が持ち続けてきた潜在心理であった……

そういうことではないかナアと観ております。

【加筆修正:2024-12-02、12-04】



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