2020年7月31日金曜日

断想: 三好達治の作品とのつきあいについて

いま三好達治がどれ位読まれているかは知らない。昭和時代の「最大の抒情詩人である」という評もあるが、村上春樹や毎年の直木賞、芥川賞受賞者の新作はともかく、いわゆる「文学作品」がいまどのくらいの支持を得ているのか、小生には実感がない。

俳句は「芸能化」に成功して句作に励む人も増えているようだが、詩を読んだり、まして自分の心情を詩で表現して、発表したりする人がどのくらいいるのだろうか。現代社会では発表の機会には事欠かなくなった。にも拘わらず、いまネットで自作の詩を発表している人を小生はほとんど見たことがない。

***

学生であった時分、
春の岬 旅のをはりの  かもめ どり
  浮きつつ遠く なりにけるかも
詩集『測量船』の冒頭にあるこの短歌に心を魅かれた。

修士課程にいたころに父の病気が分かったときは
海の遠くに島が…、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。 

   約束はみんな壊れたね。

   海には雲が、ね、雲には地球が、映っているね。

   空には階段があるね。

今日記憶の旗が落ちて、大きな川のように、私は人と訣れよう。床に私の足跡が、足跡に微かな塵が…、ああ哀れな私よ。
この下りを何度も読み返し、その前後を暗唱できるようになった。

その後、小役人の道を選び、父を亡くし、カミさんと結婚をして、母を亡くし、子供を育てることで20年間余りを北海道の港町で過ごしてきた。

役所を辞める頃、

こころざしおとろへし日は
いかにせましな
冬の日の黄なるやちまた
つつましく人住む 小路 こうぢ
ゆきゆきてふと海を見つ
波のこへひびかふ卓に
甘からぬ酒をふふみつ
かかる日の日のくるるまで

『一点鐘』にある作品「志おとろへし日は」を何度読んだことだろう。

最近、目をひくようになったのは『艸千里拾遺』の中の「秋日口占」冒頭から続く以下の何連かである:

われながく憂ひに みて
はやく身は老いんとすらん

ふたつなきいのちをかくて
愚かにもうしなひつるよ

秋の日の高きにたちて
こしかたをおもへばかなし

あとにも続くこの詩的表現にこの歳になってはじめて共感を感じられるようになった。

凡人は、やはりその年齢になるまで、その年齢になってからどんなことを想うか、感じるか、想像もできないし、したがって真に理解することも出来ないものだ。年若のうちに「何歳になったら」と考えることも数えきれないほどの回数あるにはあったが、それは想像であって、現実にどうなるかということとは全然違うものである。

若いころの心情は記憶しているからよく分かる。しかし、齢をとったら何を考えるかは分からないのが人生である。人生は真の意味で「一方通行」であり、後ろは覚えているが、前はよく分からないし、それでも進むしかないのだ。

結局は、人と別れ、伴侶をみつけて子を育て、その間は仕事を出来るだけ長く続けて、カネを稼いで食って、寝る。これ以上のことで、人と人とが真の意味で共感できることは、驚くほどに少ない。

にも拘わらず、心にしみとおる詩を表現できる詩人がいるということは、ある意味で驚異であって、これほど有難いものはないと思っている。

***

息子というのは何歳になっても自分の父親と時々は会いたくなるものである。だから親は長生きできるなら、親としては用済みだと思えても、いてあげる方がよい。

今日は小生の父の命日になる。

それにしても、三好達治は相当のナルシストである。いま読むとそう思う。大正に青春時代を過ごし、昭和前期に壮年を迎えた世代は、大なり小なりそうであると思う。一つの世代にはその世代の共通語、共通感覚があるものだ。



2020年7月30日木曜日

覚え書き: テレワーク時代の業務管理スキルが問題だ

小生がバリバリの現役世代であれば、新型コロナウイルス感染拡大で前倒しで到来したテレワーク。これはもう大歓迎であったろう。

小役人だった頃、課題が決まっていれば、あとの進行とレポーティングは自分流にやらせてほしい。同僚と歩調を合わせることの意味はよく分からないという「変な奴」であった小生にとって、テレワーク解禁は文字通りの「福音」であったに違いない。

とにかく、早起きして、朝の満員電車、深夜の帰宅という、修行僧さながらの難行苦行から解放されるのである。これが嬉しくなければ人間ではないと思う。それが小生の本音だった。

★ ★ ★

テレワーク時代にインテンシブな仕事を求められるのは管理職の方だろう。

小生が勤務してきたビジネススクールでは、新型コロナ感染前から"e-Learning"を主たる柱にしてきた。

高頻度であれば毎週、標準方式では隔週に1回という対面授業の間の時間は、自学・自習を進めるのが原則で、したがって担当教員は事前課題と事後課題の出題を工夫する、学生はそれぞれの課題へのレポーティングとアップロードまでの時間を頑張る。担当教員は授業当日の出勤もさることながら、それよりはアップされたレポートへの採点・添削にずっと長い時間を割く。学生の立場からみれば、ビジネススクールでの「勉強時間」の大半は、当日の授業よりは授業の合間のレポーティング作業に費やされる(はずだ)。

テレワーク下の「勤務」も似たような方式になるだろう。

もしそうなら、トップダウンではなく、ボトムアップを主としてきた日本的組織文化を革命的に変えてしまう導火線になるのではないだろうか。

★ ★ ★

個人ごとに提出する年間目標、月間目標、週間スケジュールを丁寧に把握し、あとは上司が指示する毎日の進行課題に対して社員がアップする「業務ログ」を精査、評価と添削(=コメント)を記載してフィードバック。上司はこの作業を「かける人数分」毎日繰り返す。

今日の作業課題を社にアップすればその日はオフ。どれ、夕食までの時間帯、近くのカフェで一服してくるか。いいなあ・・・極楽、極楽というところだ。有能な人はサッサと課題を終えて上司を楽にする。仕事の出来ない人は時間ばかりをかけてサッパリ品質が上がらない。上司を苛立たせる。優等生を相手にする担任教師さながら、有能な部下をもつ上司は楽ができる。戦略的検討に時間を割ける。全てが好循環になる。

部下はアップして終わりだが上司はそれからが大変だ。フィードバック作業は言うに易く行うのは難しい。残業を強いられるのは上司の方だ ― 日課をこなせずアップアップする能力不足の部下はどこにでもいる。そのような人物にどんな指示をすればよいのか。頭を悩ませるのは上司である。必要ならWEBミーティングを開催して、コミュニケーションをはかる。

学校教師の悩みを企業の中間管理職も共感できるようになるだろう。ただ、学校は「出来ない学生」をどんどん退学させることはない。「退学規制が緩和」される日が来るとも思われない。学校は何と言っても教育機関なのである。他方、会社は利益と成長を目的とする組織であり、教育自体を目的にしてはいない。「解雇規制が緩和」されれば、能力不足の社員は解雇されるだろう。

テレワークは個々の職務範囲を明確にするモメンタムになる。個人個人の能力の違いを明確にする作用がある。上司は上司、部下は部下。今月は何が目標か、今週は何が課題か、今日はどこまでやるか。上司はモニターし、部下は頑張る。企業活動のリアリティが「視える化」され、「分析」されてしまうだろう。正規社員と非正規社員の境界線も限りなく透明に近くなり、非可視化されるに違いない。

テレワーク時代の到来は、企業文化がグローバル的に収束する契機になるかもしれない。

★ ★ ★

教師も大変なら管理職も大変だ。小生は、経済学科からビジネススクールへ学内移籍してからは、純粋研究がまったく出来なくなった。教育労働者という人もいるが、教育サービス業の中間管理職といえば実態に近い。象牙の塔の研究をする時間はなくなったが、まあ、授業設計や教材開発はそれなりに面白い仕事であった。後悔はしていない。が、利益が結果として現れるビジネス現場であのような仕事をするとすれば、これはもう大変で疲労困憊するかもしれない。大学教員はどんな実験的なことをしても、それが順調にいくにせよ、失敗に終わるにせよ、支給される給与に変動はない。だからリスクをとれる。会社の課長や部長はそうはいかない。

新しい勤務形態の下で、新しい管理システムを開発し定着させるには、個々の管理職に実験的なリスクをとれるような配慮が上層部には求められる。そうでなければ、現場で戦っている当事者は「前例墨守」、「出る杭にはならず」を行動原則とするに違いない。変わらない企業は、変わるテレワーク環境で競争劣位に陥るだろう。

競争圧力はいつの時代でも種の交代を迫るものなのだ。

テレワークは職位の上下を問わず個人ごとの能力差を「視える化」する。毎日出社はせずともよいという開放感があると同時に、能力アップへのプレッシャが高まる。

二つを合計すると、喜んでばかりもいられないかもしれない。

2020年7月28日火曜日

「安楽死」の議論を避けたがる「世論」

今日の標題にある「安楽死」と「世論」とは、そもそも馴染みにくいキーワードかもしれない。というのは、「安楽死」を望むような状態におちいる人は、国民という母集団の中では無視可能とも言えるほどに僅かであると思われるからだ。誰でも自分とはホボ無関係の論題について、現実的な感覚をもって意見を形成するのは無理である。

共感や想像力を通して感じるしかないが、想像することと現実にそうなることとは、まったく違うのが常である。なので、世論が参考になるのは、極めて日常的な問題に限られる。小生はそう思っている。

★ ★ ★

石原慎太郎氏が、先日発生した「ALS患者に対する二人の医師による嘱託殺人事件」について、それが「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯」であるとツイートしたというので論議を呼んでいるようだ。

こんな事柄はそもそも「多数決」で決められるものではないし、世論がどんな議論をするかについても、上にあげた世論との相性を考えると、ほとんど無意味であると感じる。

ただ、カミさんと話をするとき、『もう助からなくなって、何もできなくなる、周りの人に厄介ばかりかけるようになる、そんな運命ならもう生きていたくないかもねえ、私も楽になりたいなあ」と話す時がある。そんな時、「そんなに早くいなくなったら俺が淋しすぎるだろ」と応えるのだが、「早く楽にして」と何度も言われると仮定すれば、「それでも生きるのが君の義務だよ」とは言わないだろう。ま、どちらにしても想像の世界であり、現実にそうなればどんな事を考え、どんなことを話すかは分からない。

おそらく国会議員、裁判官、弁護士など法律専門家、医療関係者等々、関連する専門家も、私的には、あるいはそれぞれの家族との会話の中では、「安楽死」について話すことがあるのではないかと「想像」する。その談論の中では、おそらく小生とカミさんとの雑談のように、「楽になりたいと思ったときは楽にしてくれる?」と顔をのぞきこむようにして聞かれる人もいるのだと思う。そして聞かれた人は「そうだなあ・・・」と多分口をとざす。「分かったよ」とも言わず、「どうなっても最後まで生きるのが人間の義務だよ」とも言わない。「そのときにならないと分からないよ」とでも答えるだろう。

しかし「その時になってから決めるよ」という返答自体、「僕の気持じゃなく、君の気持を大事にするよ」ということを意味しているのだ。

★ ★ ★

有権者の顔色をうかがう民主的政治家ならば、意見が分かれるような問題には首を突っ込まないものだ。特に、建前として「正答」が定まっている問題に対して、建前の正統性を懐疑するような発言をするのは極めて政治的リスクが大きい。リスクは敢えて負担しないのが私的な意味では「賢明」である。

であるにも関わらず、ヨーロッパの複数の国、アメリカの複数の州で「他人による積極的安楽死を法律で容認」するという例が特に2000年以降に増えてきている(Wiki)。キリスト教の信仰に立脚すれば、神から与えられた生命を自他を問わず人間の判断で積極的に奪うのは、「殺人」であって誤りである。宗教的原則が確固たる伝統として存続してきたからこそ、それに対する「積極的懐疑」もまた世論の中で意義を見つけやすいのかもしれない。どれだけ疑っても、どれだけ否定しても、宗教的伝統が全面的に瓦解して、社会がバラバラになるという不安はないのかもしれない。

だとすると、日本とは国情が違う。日本は、わずか75年前までは「御国」のために命を捧げることは名誉であり、道徳的義務であると、そんな社会的通念が人を支配してきた国である。戦後日本はそんな道徳観を全面的に否定するという「180度の方向転換」から出発して成功してきた。ちょうど大韓民国が反日建国からスタートしたのと相似形である。戦後日本が失敗したならまた話は別だが、現時点では明治日本よりも一層成功し、日本人は一層豊かになっている。その戦後日本の根本理念を積極的に疑うような発言は、とりも直さずその社会で評価されているエスタブリッシュメント達にはまず出来ないことだろう。戦前の日本であったら、あるいはまだ未来が定まらず、戦前期の理念の残り火があった高度成長期以前の日本であれば、「安楽死」をどう法制化すればよいか、議論が可能であったかもしれない。

本来は、公認の見解を示すことが機能の一つである「国会」(決して行政府ではない)が今回のような積極的な「安楽死」についても「公論」を展開し、立法化は不可能としても「覚え書き」や「基本的考え方」くらいはまとめておくべきなのだ。その道義的義務を果たさずにいるのは、議員誰一人にとっても得ではなく、リスクばかりが高すぎる問題であるからだ。そう思われるのだ、な。国会に対する《審議の請願》を可能にする制度が望まれる国の中に日本は含まれるに違いない。

今回の事件と同種の事件は、公的な指針が一切示されないままに、個々人の願望に誰かが応える形で、いつか将来再び発生するのではないだろうか?

それにしても、人間の生命の尊厳さがこれほど繊細な問題である日本において、いまだに刑罰としての「死刑」を結構「頻繁に」宣告しているという日本の刑事裁判の現状も小生には不可思議、というか辻褄が合わず矛盾しているように思われるのだが、これはまた別の機会に。

2020年7月26日日曜日

一言メモ: 「オ・モ・テ・ナ・シ」が「オ・コ・ト・ワ・リ」に変更される日も間近いか

1年延期された東京五輪だが、あと1年を切ってしまった。現在の新型コロナウイルスの感染拡大を眺めると、来年夏季の時点で「検査なしで安心」という情況はとても無理であり、開催されるなら十分な規模の検査体制を整えて、東京を世界に開放するしか選択肢は残っていないのではないか。

そんな見通しもあるのか、ネットには既に五輪出場者、観衆にPCR検査を実施する場合の予算規模が投稿され始めている。

さらに、都や組織委が想定している大会関係者(選手、連盟委員、メディア、スポンサー関連など)とボランティアの人数はオリパラ合わせて35万人。選手分の検査費用を差し引いても、ざっと67億円かかる。2018年に五輪組織委が想定した観客予定数は1010万人。組織委はいまだに観客の間引きには消極的で、全員を動員した場合、PCR検査の費用だけでなんと2020億円もの資金が必要になる。五輪延期の追加費用は3000億円規模といわれているが、これではカネがいくらあっても足りない。検査態勢が整うはずもないだろう。 
五輪のPCR検査代に多額の血税が使われることに納得する国民が、いったい何人いるというのか。

出所:日刊ゲンダイDIGITAL、2020年7月25日9時26分配信

PCR検査を公衆衛生ではなく五輪関係費に計上する感覚には大いに疑問を感じるが、まあ、この程度の金額にはなるだろうと思う。

要するに、「オモテナシ」をするつもりであったが、状況が変わったので「オコトワリ」したいという主旨で、これまた日本国内の世論の一部なのだろう。

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ただ、PCR検査は、現在でも米NY州では毎日7万件のペースで行われている。24時間対応で希望者全員に無料である。感染状況をみれば、このペースがあと1年間は続く可能性が高い。とすれば、NY州1州で年間2555万件分の財政措置となる。中国は、1日370余万件の検査能力を整備している。

オ・モ・テ・ナ・シの予定を気が変わってオ・コ・ト・ワ・リにしても世論がそうなら仕方がないが、テーゲーなところで「そろそろ限界です」とあきらめて、あとは一切謝絶するというのも、いったん立候補した開催国としてはいかにも誠実味がなくて、器が小さい話だ。

検査効率化、低コスト化、自動化を叫ぶなら理屈が通るが、GDP第3位の「経済大国」日本が、それもロクに検査もしないうちから、今から敗北主義に立って『検査費がかかりすぎるンですヨネ』と泣きを入れるとすれば、その弱虫振りはやはり恥ずかしいネエ。

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それにしても、もしも東京五輪が中止となれば、日中戦争激化を理由に日本政府の方から開催を返上した1940年東京五輪以来、二度目の中止となる。1勝2敗だ。東京は相性が悪い。もう二度と五輪には立候補しない方がいいかもしれない、・・と思う人は少なからずいるかもしれない。

ちなみに加筆すると、東京が開催を返上したので次点のヘルシンキで開催されることに決まった。ところが欧州の第二次大戦は1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻から始まった。そのためヘルシンキ五輪も中止となる。そしてヘルシンキは戦後になってから48年のロンドンの後にはなったが、52年の開催都市になった。

東京は五輪とは相性が良くないことは事実のようだが、それでも開催都市として誠意を尽くし、近代五輪運動への協力を惜しまなければ、新型コロナ終息後の早い時期に東京五輪が実現することは期待してもよいのではないか、と。そう思われるのだな。

2020年7月24日金曜日

一言メモ: ひょっとすると「政策立案システム」が壊れてしまったのか?

新型コロナ関連:

発症した患者の診療行為に付随するPCR検査は、「病気治療」であるので保険を適用し、原則民間検査機関が対応する。検査能力に量的不足が発生すれば、財政面で支援し新規参入を促したり、効率化のための設備投資や機器交換を支援するといった措置も要るだろう。

病気治療ではなく、本人の希望で行われるPCR検査は、これも一般病院で受け付けることを原則とする。が、「任意検査」は「人間ドック」と同じく健康意識に立つものなので「治療」にはあたらず、100パーセント自己負担とする — 但し、勤務先あるいは共済組合等が一部を負担しても可であるし、「安心感」を広く醸成するため時限的に財政が負担することもアリだろう。

ここまでは民間の医療サービス業の問題だ。可能な限り、業態も設備投資も自由化する方が需要供給調整にはよい。規制や慣行墨守は不均衡を長期化させる。

他方、クラスター追跡、集団検査は、病気治療とは別に感染予防・公衆衛生上の観点から実施される行政行為であり、保健所が専担する公務となる筋合いである。当然、公務執行妨害は処罰対象になる理屈だ。

必要となる法改正があれば粛々と改正をするという手順になる。

(小生の)古ぼけた常識では、当然、こんな理屈、こんな仕分けになるのではないかと思われるのだが、いっかな日本の行政機構は中央、地方が入り乱れて、ゴチャゴチャ状態で、問題解決に向けての前進速度が「圧倒的に」不足している印象だ。

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バブル崩壊後の金融パニック発生時に、緊迫する政府部内で政策の設計図を起草したのは担当課の課長補佐だった(と聞いている)。日本の中央官庁では担当課長補佐が原案を書くのが慣行になってきた。省内でその原案を揉んで練りこみ、関係省庁との調整作業も行うことで、政策立案は完全な内容になる。

政治家は政治に責任をもち、官僚組織は行政執行に責任を負わなければ結果が出る理屈がない。ま、言葉の定義通りの事だから、当たり前のことか・・・

そもそも「選挙」を怖れ、有権者の顔色を常にうががう政治家に、自由な立場で政策立案ができるはずがない。選挙とは無縁の官僚の提案に『そんなことが出来るわけがない』と、穏便にことを進めようとするのもまた政治家なのである ― もちろん「一般的に」、だ。

政治家は出るべき出番で政治判断を下す。民主的統制はこれで十分だ。制度、法律を改めて行政方針を根本的に変更する仕事は政治の仕事である。だからこそ、議院内閣制の下で立法府が行政府を監督しているのであり、選挙を通して有権者が国会を評価しているのである。

今はどうなっているのだろう。

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安倍現政権は、選挙には強く連戦連勝し、史上最長の長い政権になった。が、これといったレガシー(=政治的遺産)がない。なぜ強力な長期政権が歴史に残る政治的遺産を築けていないのだろうか。

大きな政治課題が日本にないわけでは決してない。ないどころか、今回のコロナ禍で多くの課題が露わになった。

戦後日本で定着してきた慣行的な政策立案システムを根元から壊してしまったのではないかという印象が伝わってくる。

ここまで書けば後は再現可能。敢えてメモしておく必要もないので、ここまで。


2020年7月22日水曜日

非合理なのは経済学か、日本人の全面自粛か?

新型コロナウイルスが大きなリスクであること自体については医療関係者と経済学その他専門家とそれほど大きな認識の違いはない。

しかし、経済学者の一部には『新型コロナウイルスは季節性インフルエンザが少し危険になった程度』、『過度に危険性を強調し経済活動を停滞させることによる損失の方が遥かに巨大』といった認識に立つ人が相当数いるのも事実だ。

確かに、日本国内のインフルエンザに関連した死者数は年間でざっと1万人。感染者総数がザックリと1千万人程度であるから、致死率は0.1パーセント程度になる。

飛行機に乗って事故で死亡する確率は0.0009パーセントであるそうだから、世の中、飛行機事故よりインフルエンザで死亡する確率の方がずっと高いわけである。

インフルエンザが流行してもパニックにならず、ワクチンも接種せずに平気で通勤してきた日本人が、平気で飛行機を利用するのは極めて合理的であった理屈になる。

では、日本人が新型コロナウイルスをこれほど怖れる原因は何だろう。今のところ、新型コロナウイルスの致死率は国ごとの違いがあまりに大きく、まだ確かな目安がない。が、日本国内でみると感染確認者数に対する死亡者数の割合は3.8パーセント程度である(参照)。特に、3月から4月にかけて確認感染者が急増した時のことは記憶に新しい。重症化した場合の怖さはTVでも繰り返し報道されていた。欧州の医療崩壊も映像を通して十分に(十分以上に?)周知された。その一方で、新型コロナウイルスの場合は、大量の無症状感染者がいることも分かってきた。検査能力の制約に悩んでいる日本では、無症状感染者の相当割合が未確認感染者として水面下に隠れているに違いない。この春も水面下では無症状感染者が未確認のまま同じように激増していたはずである。なので、新型コロナウイルスの怖さは、「よく分からない」というのが正確なところだろう。

客観的に言えば、季節性インフルエンザも怖い感染症なのである。簡便検査キットや特効薬があるから怖くないのだと多くの人は言うが、毎年1万人前後(!)の人はその関連で亡くなっている。救命できなかったのだ。インフルエンザ流行期に学級閉鎖や学校閉鎖は行われる。しかし、全面的外出自粛やロックダウンなど誰一人として言わない。

おそらくのところ、新型コロナウイルスの致死率は、表面致死率よりは余程低く、季節性インフルエンザと同程度かもしれず、それよりは危険である可能性も残るが、インフルエンザに対する社会的な反応と比べてみると、一部強気の経済学者が新型コロナの感染よりは不況の深刻化をより怖れるべきであると警鐘をならすのに、一定の合理性はあると小生は思っている。

★ ★ ★

合理的である経済学者からみれば、新型コロナの感染防止が不況の深刻化よりも一層緊急度の高い課題であると、一斉に声をあげる日本国民はどこかが狂っている、あるいは何かにミスリードされている。とにかく非合理であると考えるに違いない。

しかし、もしこの世に合理的である存在があるなら、それは学者の頭が合理的であるのではなく、現実そのものが合理的なのである。この点ではヘーゲルが言ったように
合理的なものは現実的であり、現実的なものは合理的である
小生もこれが原点であると思っている。これがあらゆる科学の出発点であると思う。

自分は合理的であるから、自分に説明のつかない現象は非合理的である。非合理的な状態は矯正されるべきである。さすがに大自然に向かってこんな阿保らしい叫びをあげる物理学者は一人もいない。しかし、社会科学者には往々にしてこの種の勘違いに気がつかない御仁もいるのである。

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インフルエンザを怖れることがない、予防接種すらも怠って平気な日本人がなぜ新型コロナウイルスをこれほど怖れるのか?

一見非合理的なこの日本人の集団的反応を《合理的に》解釈する理論をみつけるのが、社会科学者、とりわけ経済学者に与えられた課題だろう。医療専門家の「過渡の懸念」を言挙げして、同じ土俵に参入して、ニワカ論争を吹っ掛けることに学者の良心があるとは、小生にはどうしても思えないのだ、な。

非合理的な現象は要するに「不思議な現象」なのである。不思議な現象が実はなにも不思議ではなく、当たり前の反応なのだということを解明することこそ、科学的思考の本質であり、科学的成果だけが新型コロナウイルスを怖れる日本社会を正常化させる第一歩であるに違いない。

この仕事は、経済学者が担当する筋合いだとは思うが、ひょっとすると公衆衛生や医療社会学を専門とする学者が斬新な理論モデルを提案するかもしれず、今後の学問分野間の生存競争がどのように収束するかは予断を許さないと思っている。

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実のところ、経済学分野で上の問題は既に解明されつつあるのではないかと小生は推測している。斬新な政策を提案できる時も間近いものと予想している。

「標準的」な投資理論では期待値‐分散の2次元情報で意思決定をするものと割り切る。確かにあらゆる事象は確率を乗じて集計されることによって確率変数の特性が定まる計算になる。しかし、代表値と散布度という二つの特性値で伝えられる確率的性質は余りに大雑把だ。日常的に使用される特性値の定義も古典的・限定的であり簡便だから使っている面が大きい。更にまた、どれほど確率が小さくとも飛行機事故で死亡すればミクロ的な損失は負の無限大である。故に、本当は飛行機を利用するときの期待損失はマイナス無限大であり、有限の期待利益を必ず上回る。それでも人は飛行機に乗っている。確率を頻度と理解してもよいビジネスでは飛行機を使うのも合理的かもしれない。しかし、ミクロの意思決定を行う消費者の視点にたてば飛行機を利用して旅行するのは合理的ではない。こんな非合理性も実は合理的に説明できるようになってきたのが、かつ経験的実証にも耐えられるほどの成果を出してきたのが、最近の経済学上の成果だろう。

インフルエンザで死亡する人が1万人もいるのにそれを怖がらず、予防接種すら怠る人が多数いるにも拘わらず、それとホボホボ同程度の新型コロナウイルスは全面的外出自粛を甘んじて受け入れるほどに怖れている。この非合理的な違いもまた、《合理的》に説明されなければならず、本当に効果的な政策は有効な理論に基づいてのみ提案されるべきだろう。


2020年7月21日火曜日

ほんの一言: 「腐敗」はどのような状況で起こるのか?

新型コロナウイルス感染拡大で安倍現政権は大いに評価が下がりつつある。以前の「安倍一強」とは様変わりになってきた。

「一強」が終わるのは善いことだ。

ズバリ言えば、政権内部は奢りと油断とで実力が空洞化していたのである。というか、空洞化を超えて「腐敗」していたという方が適切な表現かもしれない。

もちろん、一部「発展途上国」の独裁政権に見られる絶対的な意味での「腐敗」とは腐敗様が異なるが、何年か前の緊張感に満ちた政治のあり様に比べれば、相対的な意味で腐敗現象が進んでいた。この位は、誰もがそう感じているのではないだろうか?


★ ★ ★


「腐敗」は、権力の奢りと油断から進む徴候であるのは、時代と国を越えて共通している。

その「権力」とは、真の権力を有している集団をさす。一党独裁政権であれば、その一党が「権力」である。聖職者が真の権力を握っているなら聖職者集団が権力にあたる。そして、民主主義社会であれば真の権力者は有権者になる理屈だ。

奢りとは、真の権力者が自分たちの権力を自覚するときに生まれる。形式的な権限を有する階層ではなく、真の権力者が自らの権力を意識して、オールマイティの感覚、正義の感覚、正統である感覚、優越する感覚をもつとき、これは全て奢りの症状であり、腐敗に至る前段階にあたる。

★ ★ ★

安倍一強と呼ばれるようになった時点以降、安倍政権は腐敗の兆候を示した。

しかし、国民主権下の日本社会において、そもそも内閣の一強時代が永続するはずもないのだ。総理大臣に真の権力があるわけでもない。政府の腐敗はタカが知れたものだろう。しかし、民主主義社会において「大衆」が自らの権力を自覚するとき、抑制力のない奢りに陥るかもしれない。民主主義社会は絶対的に腐敗するだろう。

腐敗した民主主義社会においては、国民は決して間違うことがなく、世論は常に正しく、であるが故に世論は決して誤りを認めず、反省することがなく、あらゆる学問的・専門的知識は世論によって指導されるだろう。世論に反する政策は全て有害なことであり、世論に沿うものは全て正しい政策になる。

「無知の自覚」が真の知恵であることは、ソクラテスの昔から変わっていない。

古代ギリシア社会の世界大戦であったペロポネソス戦争でアテネは敗戦国となったが、そのアテネにプラトンが絶望した所以は非本質的な議論ばかりを続けてやまないアテネ市民の堕落にあった。

非本質的な議論をやめることなく続けるのは、『自分が正しいことは自分が知っている』と信じて疑わない「偽りの知恵者」が社会に蔓延しているからである。『真の知識を自分は知らない。故に、他者を疑うなら自分自身をも疑うべきだ』だという「無知の自覚」に立てば、空っぽの議論が事実「空っぽ」であることに気がつき、真っ当な議論を始めることが出来る。真っ当に議論をすれば結論も、マアマア真っ当になるだろう ― 科学技術の進歩いかんだが、思い込みが思い込みであることには気がつくだろう。

ま、現在の日本社会は上に述べたような惨状にはない。以前は強力だった現政権の腐敗、弱体化が進行しているとみるのが適切なのだろう。

2020年7月19日日曜日

断想:濁れる水の流れつつ澄む

前々稿ではこんな事を書いている:

ずっと自分は親にとって「よい子」であったと思い込んでいたところが、齢をとって時間が出来てきて、また自分の子供が成長して親の心持がわかるようになってから、実は自分がいかに「悪い子」であり、親を失望させてきたかという剥き出しの事実が、一つまた一つと、ページをめくるように思い出されてくるのは、若い時分には考えてもいなかった心理的な重荷になるものである。
齢をとると悪い夢をみることが増えるのは主にそのためだと憶測している。

今朝も夢をみたが、夏によくある(?)悪い夢ではなかった。誰かが『捨てればいい』という。『捨てろ』という。『捨ててしまえばそれでいい』という。

重荷に心悩ませるのは「煩悩」であるに違いない。それは「執着」である。悩むことは「誠実」の証ではない。

矢内原伊作の『海』が頭に残っているのが、ふと表面に浮かび上がり、夢の形になったのだろうか。

「水」のようであれ、と。時に、泥や塵芥を飲み込み、濁流になるとしても、水そのものは常に透明で清浄である。水は、全てを流し去り、滞ることがない。鏡のような水面に何が落ちてきても、それをただ受け入れるだけである。受け入れた物に自らが染まることはない。こういうことなのか、と。目覚めてから想った。

もう何年も前になるが函館で買った短冊を部屋の片隅に掲げている。

濁れる水の 流れつゝ澄む

山頭火である。何年も、視ようと思ってみたことはなかったが、無意識の底に残っていたのだろうか。

2020年7月18日土曜日

前稿の補足: 永井荷風の倫理観の現代性について

前稿では永井荷風の文明批評について触れた。

文明批評を述べるというのは、その人自身が一定の倫理観を持っていない限り、絶対に不可能なことである。

この点を補足しておきたい:

夏目漱石という作家の特徴としてその厳しい倫理観がよく言われる。なるほど、『こゝろ』や『道草』には漱石という人間がもっている厳しさがにじみ出ている。その厳しさは、自分自身に対して向けられるものであるが、小生はどちらかと言うと、他者を責める厳しさの方が勝っているのではないかと感じる時がある。初期の『坊ちゃん』などは他罰的傾向が如実に出ていると思うわけで、これも人間・漱石の本音ではないかと思っている。

荷風は、他人を責める所は希薄である。若い時分から遊蕩に明け暮れた生活振りに倫理感のかけらも窺えないという人もいると思う。しかし、荷風から独特の倫理観を感じとるときは多い。
正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実が却って沢山に摘み集められる。
こんな啖呵をきるとき、荷風は誰よりも「偽善的虚栄心」や「公明な社会の詐欺的活動」に対する義憤を伝えようとしているわけである。

21世紀も20年が過ぎた現代日本で、普通の日本人がより多くの共感を感じられるのは、漱石の厳しい倫理観よりは、「正義」が隠し持っている利己的な攻撃性への怒りの方ではあるまいか。それだけ、明治から昭和初期にかけて日本人は堕落したということである。これも荷風が言うように「資本主義」の害毒というものかもしれない。確かに、資本主義は社会全体を間違いなく平均的に豊かにしたが、それが垂れ流す害毒もまた甚だしかった点を、荷風は文明批評として指摘しているわけだ。

自分自身だけではなく他人をも責める漱石の他罰的傾向は、ひょっとすると親に捨てられた実体験に因るものかもしれない。他人を責めることが少なく自分を責めることが多い荷風の倫理観は、親を失望させ続けて成長した自分の自画像から由来するものかもしれない。

2020年7月17日金曜日

永井荷風の文明批評と夜の店、GOTOキャンペーン

ずっと自分は親にとって「よい子」であったと思い込んでいたところが、齢をとって時間が出来てきて、また自分の子供が成長して親の心持がわかるようになってから、実は自分がいかに「悪い子」であり、親を失望させてきたかという剥き出しの事実が、一つまた一つと、ページをめくるように思い出されてくるのは、若い時分には考えてもいなかった心理的な重荷になるものである。

齢をとると悪い夢をみることが増えるのは主にそのためだと憶測している。

まさに
樹静かならむと欲すれども風やまず、子孝ならむと欲すれども親またず
というのは、普遍的な真理である。

長命する親の晩年、大変な介護を何年も続けようとする心理的動機は、ちょうどその頃になって胸を苛むようになる「自分は決してよい子ではなかった」という罪悪感に基づくものであるに違いない。生物の仕組みは実に巧みにできているものである。

こんな偏屈な心境に陥っている時、何度読み返しても鼻につかない小説は永井荷風の作品である。この数年間、毎年夏が来ると、『濹東綺譚』を読み直すのが習慣になってしまった。この夏もちょうど読み終えたところだ。

***

実は、この作品の興味深い所は、単に本編だけにあるのではなく、末尾に付されている『作後贅言』が、これまた夏目漱石の『私の個人主義』を超えるほどの文明批評になっている点にもある。荷風の文明批評は、文芸春秋社をあれほど嫌悪しているにもかかわらず、荷風自身が天性のジャーナリストである一面をもっていて、叙述が極めて具体的である。

以下の下りなどは、最近のコロナ禍に悩む現代日本社会でも参考になるだろう。

わたくし(=荷風)は東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起こったかを考えなければならない。 
吉原遊郭の近くを除いて、震災前(=大正大震災)東京の町中で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦屋より外にはなかった。 
(神代) 帚葉 そうよう 翁はわたくしの質問に答えて、現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車(=JR線)が運転時間を暁1時過ぎまで延長したことと、市内1円の札を掲げた辻自動車(=タクシー)が50銭から30銭まで値下げをした事とに基づくのだと言って、いつものように眼鏡を取って、その細い眼を瞬きながら、「この有様をみたら、一部の道徳家は大いに慨嘆するでしょうな。わたくしは酒を飲まないし、腥臭い(=生臭い)ものが嫌いですから、どうでも構いませんが、もし現代の風俗を矯正しようと思うなら、交通を不便にして明治時代のようにすればいいのだと思います。そうでなければ、夜半過ぎてから円タクの賃銭をグット高くすればいいでしょう。ところが、夜おそくなればなるほど、円タクは昼間の半分よりも安くなるのですからね。」
(出所)荷風全集第9巻(昭和39年版)、202~203頁

JR山手線の終電時刻は、荷風が上に記したころと同じ、午前1時のままである。

小生が暮らす北海道の港町に隣のS市から電車で帰宅しようとすれば、夜飲みに行っても、店を10時半には出ないといけない。駅についてバスに乗ろうと思えば、もっと早く帰っていなければ駅から拙宅までタクシーで何千円かを払うことになる。そもそも小生の地元の町の商店街は、夜8時になれば大半が店を閉めてしまう。それでも一部の縄のれんは開いているが、交通はすべて止まるので、どこか寝る所を確保する必要がある。地方はどこでも、マア、こんなものである。

東京から遠方への旅行を抑制しようとすれば、距離ごとの運賃上昇率を加速度的に上げればよい — この点は以前に一度投稿した。

最近の東京で「夜の店」がエラク話題に、というか批判の的になっていたが、要するに首都圏の交通事情が夜遊びをしやすいダイヤ編成になっている。運賃体系になっている。そんなに難しい問題ではないはずだ。

行政が命令する権限がない、域外を超えて移動するのを抑えるのが困難だと、愚痴をこぼす暇があるなら、これまでとは異なる方法をチャンと検討して、実行しなければダメに決まっている。責任は現場の担当者でなく為政者が負えばよい。選挙はそのために行うものだ。

同じことを続ければ、今までと同じ結果になる。

この位の理屈は小学生でもわかるはずである。






2020年7月13日月曜日

低レベルの担当者は素人の質問を怖がるものである

ワイドショーは「専門家」がコメンテーターになっているとはいうが、所詮は最前線にはたっておらず、暇でTV出演が出来る人物が登場するわけだから、マア要するに「井戸端会議」の域を出ないのは最初からわかっていることだ。

そして、本物の「専門家」であれば、素人、部外者の素朴な質問に対して、それがどんな質問であっても明解に解答できなければ、「専門家」としては力量不足である誹りを免れない。

このところの新型コロナ感染再拡大でもそうである。たしかに「テレビ解説」は、現場の専門家の特別出演を別とすれば、いかに「専門家が解説します」と自称していてもその門外漢ぶりは明らかである。小生の専門分野である経済問題、景気問題などでも、ハッキリと「それは逆、勘違いです」と画面に向かって言いたくなる時は、定期試験を採点しているとき、他分野からの新参者と雑談している時のように、それこそ山ほどある。どんなテーマでも、専門外の事は小生には分からないが、素人向けのマスコミ解説というのは似たようなレベルになっているに違いない。とはいえ、予備知識のない人が日常の経験に基づいて、道理の通った質問を専門家にぶつけてくることも、これまたママある。

この辺の事情は、物理、化学、生物などの自然科学だけではなく、問題が複雑な法律問題、経済問題でも同じである。学生はどんな質問をしてくるか分からない。学会ではどんな質問が発表後に寄せられるか分からない。曖昧な応答は、オーディエンスの失笑をかい、専門家としては「おしまい」を意味する。素人の人が素朴に発する疑問というのは、実は本質をつく質問であることが多い。これが実は専門家にとっては非常に怖いのだ、な。

★ ★ ★

朝のワイドショーでは、「これは明らかに第2波です、私はそう呼びたいです」と。

カミさん: これでも政府は「第2波」とは考えてないんでしょ? 
小生: サッパリ考えてないんだろうね。もし考えていれば、「GOTOキャンペーン」と、何かの感染予防策との合わせ技になるはずだからネ。 
カミさん: なんだかWHOの事務局長みたいだネ。最初は、これはパンデミックではありません。軽々しくパンデミックという言葉を使ってはいけないって言ってたよネエ。 
小生: そうそう。ヨーロッパで感染者が爆発的に増えてきたときになって、これはパンデミックと呼ばざるを得ないってネ。そんなこたあ、みんな分かってらあ。あれはホント、オトボケだったネエ。世界の失笑をかっちまったヨ。『あれでいいなら、ワタシでもWHOの局長、出来ますよ』なんて人もTVに登場してたっけ。
カミさん: 前に、火事に例えた話ししてたよね。 
小生: ああ、見回りをしている消防隊の若い人が或る家の裏でちょっとした煙がたっているのを見つけて、『先輩、あれ、危険ですよ』。先輩は『なんだ、ありゃあボヤ未満だ』。『いや火も見えますね』、・・・『火事になるんじゃないですか』。それでも先輩、『火事なんて軽々しく口にするんじゃない!』。『あれ、塀に燃え広がってきました』、『気を付けたほうがいいな、家の人はいないのかな』、『あっ、母屋から火が見えてきました。燃えてますよ』、『これは火事だと言わずばならんな』。こんな話だったネ。 

ワイドショーのコメンテーターは『GOTOキャンペーンって、GOTOだから、旅行に行けって言っているわけですよね。コロナが市中感染している東京の人にも「旅行に行け」って、そういうことですヨ。しかも、東京から他県に旅行に行ったら、お金もあげましょう。税金から払いましょう。って、これはないでしょうと私は思うんですヨ。まず検査を拡大して、安心できる状況を作っておいてから、「さあ、安心して旅行に出かけてください」、順番はこうでしょう』と、こんな風なコメントを述べていた。素人でも理屈の通っている質問に応じるのは、案外、専門家は嫌がるものである。

いま「GOTOキャンペーン」で首都圏から全国への旅行を奨励するというのは、感染予防には逆行している、全国にウイルスをばらまくことになりませんか?

確かに、これは素人の疑問である。素朴な疑問であるが、政府は「専門家」の意見に基づいて、明解に解答する必要があるだろう。

無応答が無責任を示唆するのは"Responsibility"の語源からも分かることだ。応答は、アクションとコミュニケーションが二本の柱だ。応答が弱いなら、それはアクションの不十分とコミュニケーションの不十分とがミックスされたものだ。アクションとコミュニケーションの間にメディアが介在するからダメだという一面もある。二つを直結するのはデータしかない。

コロナに関しては《Open Data》を徹底するのが誠意の証明になる。しかし、政府のデータポータルサイトDATA.GO.JP(https://www.data.go.jp/)には、今日現在で「新型コロナ関連データ」のリンクボタンひとつない。「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」のボタン文字が古びてボロボロになった のぼり のように残っているだけだ。

これじゃあネエ・・・と一抹の悲哀を感じるのは小生だけではあるまい。

★ ★ ★

感染者が混じっているかもしれないときに、首都圏の人を旅行で受け入れる側こそ、ハイリスクである。

ハイリスクであれば、リスク・プレミアムを上乗せして、宿泊料金を引き上げるのが経済のロジックに適う。

その価格引き上げ差額を原資にして受け入れ側において《臨時PCR検査料金》を割り引いてあげるとすれば、これも経済のロジックに沿ったやり方だ。

いわば《損害保険サービス付きGOTOキャンペーン》である。これなら現在の状況にマッチする。ま、商品として買う人がいるかどうかは分からないが、行政の誠実さは伝わる。

ともかく、今回の「とにかくGOTOキャンペーン」は、時間不足のせいか相当の「生煮え」である。



・・・どうやら、次回の内閣支持率はまたまた下がりそうである。

安倍政権シンパの人々は「やってもやっても評価してくれない」とぼやいていると漏れ伝えられているが、評価してくれていないなら、それはそれだけの理由があるように思われる。




2020年7月11日土曜日

一言メモ: 「育児放棄」はモラルの問題とは限らない

線状降水帯がひき起こす記録的な集中豪雨による水害が最近になってから増えている。

最近になって増えているのは水害ばかりではない。母親、あるいは父親を含めた両親による育児放棄によって乳幼児が死亡するという傷ましい事件もまた最近になって増えている印象がある。小生が若かった時分には育児放棄による乳幼児の死亡が高頻度で報道されることはなかったと思う。

これは日本人の人間性が変わりつつあることを示唆しているのだろうか。

★ ★ ★

育児放棄が報道されると、世間、具体的には「世間」を伝える(?)ワイドショーということになるかもしれないが、まずは保護者たる親の無責任を非難するのが常である。児童相談所を含めた制度面の不十分さを指摘する声も出てくる。

集約すると、育児放棄の頻発を社会問題ととらえ(これ自体は当たり前だ)、当人の「無責任」と、全ての社会問題を解決するべき責任を有している「政府」の手ぬるさを責める。この二本柱で世間の議論は展開している。そんな総括になるのではないか。

★ ★ ★

モラルから議論を始め、最後には法律論で締めくくるのは、政経・倫社という高校・社会科の演習問題としては及第圏だろうが、実のところ、議論ばかりが盛り上がる一方で問題は何も解決されないのではないか。同種の問題の発生頻度は上がる一方なのではないか。そのうちに、解決能力の限界を超えて行き詰るのではないか。そんな予感もするのだ。

なぜ、行動学の見地から考える人が注目されないのだろう。「育児放棄」という現象は、動物行動学、比較行動学の分析テーマになるのじゃあないか。

一般に哺乳類動物は、どのような環境において、いかなる条件の下で、自分の子の育児を放棄する行動をとるのか。

特に、人類に近い霊長類において育児放棄現象の発生頻度が高まる状態とはどのような状態なのか。

家族や社会を構成して生きる動物で「子殺し」が観察されるのはどのような状況の下であるのか。増加するのはどのような条件においてか。

鳥類においても、親が抱卵を中止する行為をとることがある。それはどのような問題が生じたときにそうするのか。

人間社会に限定するとしても、日本で発生している育児放棄行動と類似した行動が頻見されるのはどのような地域、国であるのか。

このような観点にたつときに、問題発生の構造と本質的な原因を正確に洞察することが可能になるだろう。

***

親が生きていれば子はまたつくれるが、親が死ねば子も死んでしまう。この冷厳なロジックが、生存競争の中で生きているあらゆる種の動物にとって、合理的行動を選ばせる真の動機になるとすれば極めて自然な事だ。

『恒産ありて恒心あり』。社会問題をモラルや法といった上部構造的視点からではなく、唯物論的視点から分析するべきだというのは、なにもマルクスに限ったことではない。

2020年7月10日金曜日

追々メモ:ドビュッシーとモーツアルトの雪のテーマ

前稿ではドビュッシーがもう一人の天才だと。小生の勝手な感想を書いたが、そう聴くことが出来るようになったとき、小生はもう非常に若くはなかった。母の弟であった叔父は、まだ小生が中学校か高校の時にドビュッシーが好きだと話していたことだけを記憶している。名前くらいは知っていたので、何かの折に、おそらくは音楽の授業でドビュッシーの『子供の領分』を聴かされた時ではないかと見当はつけているが、「変な音楽だネエ」とただただ思ったことは覚えている。

小生の感性が年齢相応にもう少し洗練されていれば、「ゲン叔父」の好みに共感して面白い話が出来たのにと・・・。まあ、何でもそうだが「後悔先に立たず」、好機には後ろ髪ははえていないのだ。その「ゲン叔父」も、四国松山に「高砂」よろしく夫婦二人で長生きして暮らしている。南町2丁目にあった祖父母の旧居はもう取り壊されたが、そこには「ゲン叔父」の娘夫婦が新しく家を建てて暮らしている。

***

『子供の領分』の第4曲『雪は踊っている』は、雪の情景を想わせる楽曲としては最も美しい。そう、第4曲だけは別なのである。

そう思ってきたが、モーツアルトのピアノ協奏曲を全曲聴きこんでいるうちに、その17番第2楽章もやはり晩秋の初雪から降り積もる雪の心象をこの上なく美しく表現しているように感じられて、その点では『子供の領分』に勝るとも劣らない。

これは小生にとってはつい最近の価値ある発見の一つになった。

実際、モーツアルトのピアノ協奏曲でLP盤を買うのなら、普通は20番以降の傑作を買うのが常識で、外に買い求めるなら交響曲やオペラ、『レクイエム』あたりを購入するのがお金の賢い使い方だった。LP盤は結構高額な贅沢品だったのだ。なので、17番は最近まで聴き洩らしていた。


2020年7月8日水曜日

追加メモ: モーツアルトのト短調に関連して

この前の投稿でこんなことを書いている:

モーツアルトの何曲かは若い時分から聴いてきたし、先日投稿したようにYoutubeやAmazonのプライム・ミュージックのお陰で最近になって初めて知った曲も小生の愛聴リストに新たに追加された。ベートーベンを聴く機会はずいぶん減っているのだが、たとえモーツアルトが長命していたとしても、これは作れなかったのではないかと思ってきたのは、ベートーベンの第3番『エロイカ』である。

しかし、2、3日前にモーツアルトの40番ト短調を聴いていて、その第4楽章の展開部にさしかかったとき、どれだけこの曲が時代を突き抜けていたか、これまで覚えた事のない驚きを感じた。ともすればモーツアルトの交響曲は得意分野とされるオペラやピアノ協奏曲に比較すると内容空疎であると評されることも多いようだが、とんでもない。第1楽章から第4楽章までの全体をみるとき、凝縮されたトンデモなさという点において、40番ト短調は『エロイカ』を上回っている。突然だが、そう思った。

わざわざ素人の小生が書かなくとも、色々な評論を読むと以前からこんな風な解釈はあったようだ。門外漢は車輪を発明するの愚を犯すものである。

実は、モーツアルトの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」、今でいう「ヴァイオリンソナタ」だが、その中の例えば25番(K.301)を聴くときにはシューベルトを思い出す。ヴァイオリン協奏曲の第3番を聴くときには、メンデルスゾーンの有名なV.C.の最初の草稿ではないかと感じるときがある。 オペラ『ドン・ジョバンニ』からヴェルディを連想する人は結構多いのではないかと思う(そもそも台詞がイタリア語でもあるし)。ブラームスは自ら「新古典派」と位置付けていたくらいだから、個性は個性として、モーツアルトの未来形、というか応用例だと思って聴くと一層面白い。ヨハン・シュトラウスのウィンナ・ワルツなどは多分モーツアルトが19世紀後半に生きていれば多分作ったのではないかと思うような楽曲だ。音楽教科書のティピカルな説明では「モーツアルトは古典派音楽の完成者」、ベートーベンは「古典派音楽の完成者であるとともにロマン派への橋渡し」という言い方がされることが多いが、教科書は教科書、ものも言いよう、いかようにも言えるという典型例だと小生は勝手に思っている。

ただ、「これはモーツアルトが長命していても作らなかったかも」と思う音楽もある。例えば、ブルックナーの8番や9番を聴くと「やっぱり100年後の音楽だなあ」と思う。マーラーを聴いてもそうだ。耳に入りやすい1番や4番も、モーツアルトがもっている耳に入りやすさとは響きも違うし、感性も違う。同じ聴き方だと、心の中に入ってこないが、聴き方を変えると「ウンウン、これだよ、いいなあ」となる。もっと異なるのは、やはりドビュッシーだ。確実に美しいが、その美しさはモーツアルトが表現した美とは形式が違う。違っているのだが、やはり血が通い、音楽が生きている。ドビュッシーはもう一人の天才だと小生は思っている。

その境界線にいるのは、やはり専門家が言うようにワーグナーがいるのだろう。

ワーグナーの楽劇を通して鑑賞したことは一度もない。ハイライトで聴いたことがあるものすら少ない。マタチッチかショルティを聴いた程度だから何かを言うことはできない。が、「何でもそこにはある」という感覚は残っている。金閣寺が大阪城になったようで、規模雄大という形容が当てはまる。

ロシア物はほとんど聴かない。プロコフィエフもショスタコービッチともほぼ無縁である。チャイコフスキーのV.C.は亡くなった母が好きで、小生もこの曲からクラシックに慣れていったのだが、最近は聴かなくなった。ずっと以前、JICAの要務でウズベキスタンに往ったとき、フランクフルトで乗り換えてタシケントに向かう間、6時間ほどずっとイヤホンから流れるこのヴァイオリン・コンチェルトを何度も何度も飽きずに反復して聴き続けた。このウズベキスタン往来を境にチャイコフスキーは卒業したかのように聴かなくなった。諏訪内さんの演奏を聴いてもあまり感じなくなった。一生分の飽和密度に達して、聴き終えてしまった感があるのかもしれない。

2020年7月4日土曜日

「Long Vacation」の日月にかかる雲あり

関西圏の某国立大付置研に勤務していたのは30年ほど昔のことである。今はWindows10で原稿を書いているが、当時はまだWindowsは使えるのかどうかも怪しげで、マウスを動かせばカーソルがいかにも不細工にギクシャクと動くなどして、そもそも使ってみようという代物ではなかった。

自然にMacintoshを日常的には愛用することになり、日本語原稿もMacのMicrosoft Word・Sweet Jamという組み合わせで編集するのが常態となった。単純な計算作業では、所内のFACOMと併せてMS-DOSで動く統計ソフトSASやLotus1-2-3を使わざるを得なかったが、使って楽しいのはMacのHypercardであるという時代は、その後どれほど続いただろうか。少なくとも小生が北海道の田舎にある大学に移ってくるときには、Se/30を手放さずに持ってきたから、Mac離れをしたのはWindows98が出てから後の事だったろう。

世紀の変わり目の頃は、大型計算機センターのMVSでJCLを編集して動かし、新規に調達したSun、それからLinuxにWindowsと、あらゆるOSとマシンが混在して、本当に使い分け、使い込みに迷ったものだ。使わずじまいだったのはDECのVAXくらいなものだ。それがいつの間にか、現在のWindowsへと手元のPCは一元化された。それに最も与って主たる要因になったのは、言うまでもなくGoogleやMicrosoftの(更にはAWSもそうだ)クラウド・サービスである。一回りして元に戻った感じだが、まあ一口に言えば、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼへと至る弁証法的発展過程そのものであるのがコンピューター・システムの発展史なのだろう。

Macから離れようと思ったとき、手元のMacはQuadra840 AVに置き換わっていた。その頃になると、流石にWindows+Intelマシンの相対的優位性が否定できなくなった。Visual StudioやVisual Basic、.NETとWEBアプリ作成、本ブログの副タイトルにもなっているEラーニング教材作りを進めるのはWindows機の方が楽しくできた。更には、Excel VBAや"R"との相性などなど、変わるWindows、変わらないMacintoshという感覚があった。

しかし、こんな感覚はすべて仕事との関係から感じたことである。

仕事というのは、仕事に没頭している時は「仕事こそ自分の分身でこれほど自分にとって大事な事はない」と感じるが、仕事にいったんキリをつけると、実はさほど大切な事柄ではなかったという剥き出しの事実に気がついてしまう。なるほど「自分の家は自分の城」である。が、本当は生活が楽しくなければ家があっても仕方がない。食事はなるほど大事だ。グルメにもなる。が、食の役割は栄養であり、病気にならないことが大事である。衣食住と仕事の意義は実は裏腹の関係にある。いったんキリをつければ、執着を離れ、自由が戻る。仕事とは執着であったと感じたのは最近の事である。

***

大阪では、MacのQuick Basicで音符を並べ、Bachのカンタータをハイパーカード上で鳴らすようにしてみたりした。Macというパソコンは確かにビジネスツールというより、消費財であった、な。その研究所の電算機準備室にいたM氏は、小生が電算機管理の責任者(?)を任されていたこともあって、一日に何度も話をする情況であったが、Macから流れるバッハを聴いて『これ先生の仕事となにか関係してるんですか?』と。

仕事一途にはなりきれなかった点こそ、小生の最大のウィークポイントであった。

研究上の成果を出したいのであれば余計なことに興味をもって遊んではダメだ。かといって、狭い範囲に関心を限定してしまっては視野が狭くなる。この辺は本当にバランスをとるのが難しい。

***

そのM氏も随分前に亡くなってしまった。結局、世話を掛けたり、呑みに連れて行ってくれたりして、せんじ詰めれば、やってもらった事ばかりである。

多忙でストレスに満ちた日々もいつしか終わり、非常勤の仕事をノンビリ担当するだけとなり、いま心理的には《Long Vacation》だ。

業績は仕事から生まれる。が、記憶に残るのは遊びの方である。これは実に不思議だ。その遊びをともにした人と、Long Vacationをともに送れないことは、人の世の縁とはいえ『思い悄然』という白居易の詩句こそふさわしい。

2020年7月2日木曜日

フェースブックも中国内の日本企業も民主主義の敵ですか?

香港をめぐって中国政府が「 香港国家安全維持法」を可決成立させた。今後、香港という都市の位置づけや機能は本質的に変容するだろう。新型コロナの行動変容と同じく永続的な変化になる可能性が高い。

ま、もともと香港島はアヘン戦争後の南京条約で英国に永久割譲された土地である。1898年には九龍以北、深圳河以南の新界地域の租借にも成功した。それが1997年の租借期限到来に併せ香港島もまた中国に主権移譲されることになった。確かに「一国二制度」という「約束」があったにせよ、香港がその他中国と次第に融合していく流れを止めうる法理が確固としてあるのかどうか。小生は疑問なしとしない。

***

以下のような主旨の言論(?)がネットには多々出ているようだ:
いくら(私が?)警告しても中国市場で利益を追い求める日本企業がある。「あなたたちは、なぜ人権弾圧に加担するのか」と言いたい。
 チベット、ウイグル、香港……等々、北京政府は人権抑圧政策を続けている。南シナ海・東シナ海で「力による現状変更」を目指している。そんな中国共産党の政策に貢献する日本企業は、要するに、自社利益のためには「どれほど人々が弾圧されていても自分とは関係がない」と。そう思っているものと解釈できる。
考えてみれば、戦前期の特に1930年代以降の日本を世界がみていた視線と、いま世界が中国共産党をみる視線とは、どこか相通じるのではないかと想像される。

行動が似ているなら、動機も似ているかもしれない。とすれば、いま「北京政府」を動かしている国家的動機は、一つには「危機感」であろうし、一つには「自存自衛」を目指す「国防意識」でもあろう。現象面における「侵略」は、主観的には「国防」を実践しているだけであるという見方もありうる。戦前期の日本は国防のために満州全域に「進出」したが、今の中国が守ろうとしているのは元々中国の領土であった。

***

中国市場で日本企業が行っているビジネスだが、売買取引は全て日本企業と中国内の顧客、双方の自由意志によって行われる。法的に強制されて為されるものではない。自由意志によって行われる以上、日中双方の当事者にベネフィットをもたらしていることは明白である。政治は支配であるが、経済というのはそういうものだ。生産活動とは価値を創り出す行為であることを見落としてはならない。故に、日本企業が中国人を抑圧しているという見方は誤りだ。

むしろ、上のような主旨の文章を書き、投稿するという行為は、その行為それ自体として誰にどのようなベネフィットをもたらしうるのか。残念ながら明白ではない。ひょっとすると、価値を提供する行為ではなく、本人が満足する消費という行為であるのかもしれず、時間の無駄になっている可能性すらある。

ま、何らかの政治的影響を与えようという善意が幾分かは込められているのではあろう。が、この程度の日本人の善意に喜びを感じる中国本土、香港の人がどれほどいるだろうか。

確かに共産党が支配する中国で日本企業が事業展開することは、結果として北京政府を利する結果になっているのかもしれない。それに「腹が立つ」日本人もいるかもしれない。しかし、その事業は商品を求める中国内の顧客に商品を提供しようとするものだ。その事業で多くの人が喜ぶのであれば、たとえ北京政府が喜ぶとしても、正当かどうか分からない政治的イデオロギーから、一方的な非難を加えるのは「無粋」で「粗野」というものだろう。

***

このところ、米国では自由な投稿を許しているというのでフェースブックが「民主主義の敵」であると指弾されている。数年前に「アラブの春」を支えた折には随分と持ち上げておいて、今度は自分たちの気に入らないというので「民主主義の敵」だと叫んでいる。実に勝手なものである。非民主主義国・中国で利益を得ている日本企業もまた民主主義の敵である、と。「民主主義の味方」はいつの間にこんなに「粗野」になってしまったのだろう。民主主義も腐敗することを忘れるべきではない。

高貴な君主制と腐敗した民主制と、プラトンは大著『国家』の中で前者に共感をもっているのではないかという叙述をしている。小生も同感だ。しかし、高貴な君主制と高貴な民主制といずれが勝るかは予断を許さない。現代世界の常識では、君主制は腐敗しやすいのでダメだという考え方をとるが、時代と技術は変化している。未来永劫に民主制が最高の政体であるという命題はまだ証明されていないのではないか。モラルや価値観ではなく、実証科学として考えるべき問題だと思う。