2020年12月29日火曜日

一言メモ: 旧友から近著が贈られてきた日の覚え書き

 旧友の一人から近著が届いた。市場と社会を歴史的に概観し考察している。旧友その人はその中で国際関係論的視点から1章を書いている。


市場と社会……、小生もいま歴史は曲がり角を曲がりつつある時代なのだという感覚は共有しているつもりだ。

ただし、(何度も書いているが)小生は偏屈で、人の意見には逆らいたくなる性癖の持ち主だ。

人の行く 裏に道あり 花の山

リスクと予想、それに投資は小生のライフワークだと心得ている。偏った見方、異論、反論は大好きだ。

★ ★ ★


多くの人は、絶対王政が支配する旧体制((アンシャン・レジーム)を打倒した市民革命、それによって確立された民主主義社会。このような教科書的な視覚から近代社会の発展を考えているのではないだろうか。現代社会は多大の犠牲を払って獲得したなにか価値ある社会なのだ、と。そういういわば「フランス革命史観」とでも言える歴史観に多くの人は立っているのではないかと思っている。

でも、どうなのだろうなあ、と。小生はずっと前から想っている。

★ ★ ★


小生が(高校以来と言ってもいいが)ずっと興味を持ち続けているのは、古代社会の勃興、発展、成熟、衰頽、崩壊という過程である。そのプロセスはもう終わっていて、かつそれほど構造が輻輳しているわけでもない。何度も勉強して鏡とするには格好ではないかと思うことが多い。人間の本質はそれほど変わってはいないものだ。

一先ず「中国」は外しておく。

そうすると、論点は(さしあたって)ローマという古代国家の発展と衰退という問題に集約される。そして、そのローマだが、長い歴史の中で一つの都市国家からイタリア半島を支配する国家へ、更には地中海世界全域にまで版図を広げる中で、人口、経済はそれと並行して発展を遂げていった。一方、発展を続けるローマ社会を統治する政体は、建国から200年ほど続いた王政が王の追放を以て共和制へ移り、その共和政も500年続いたあと深刻化する国内不安を解決できず帝政へと変わり、その帝政は初期の元首制(プリンキパートゥス:Principatus)から専制君主制(ドミナートゥス:Dominatus)へと大きく変容していったのである。100年を単位とするような緩やかな変容ではあったのだが、最初と最後を比べると同じ古代ローマでも別の国家、別の社会に変わっていたことが今日ではよく分かっている。

政治的不安定に苦しむ共和政末期のローマで独裁官となったカエサルを敵視する共和主義者の主張と、いま価値観を異にする中国の台頭を懸念する自由主義国家群の言い分と、何と似ていることだろう。「元老院」という議会が重要事項を決定し、「執政官」という民選大統領が行政を運営していた共和国ローマは、独裁者への反発と暗殺、内乱を経て、任期のない「元首」が強大な権限を行使する国に生まれ変わった。元老院がこのような政体変容を承認したのである。これが帝政ローマである。「ローマの平和(Pax Romana)」とは、共和政から帝政へ政治体制が変わった後、ローマ帝国がもたらした安定した社会をさす言葉である。

仏人・モンテスキューは、『ローマ人盛衰原因論』の中で、内戦の終息、Pax Romanaの到来にもかかわらず、それを帝政という政治体制がもたらした恩恵とは考えず、帝政への移行こそローマ滅亡の遠因であったと論断している。フランス革命の政治哲学的基礎を提供したモンテスキューならではの見方でもあるし、現代社会の思想的基盤としての共和主義に立てばそんな歴史観にもなるということだ。

小生は、ローマの軍事的・経済的発展を支えた政治基盤としての共和政が空前の超大国に発展したローマ社会の中でなぜ円滑に機能しなくなったのか。なぜ帝政への政体変容が必要であったのか。この問題がずっと気になっていた。いまそれほど話題に取り上げられることが多くないのは、実に不思議に思っている。

そして文明が爛熟し、生活水準が最も高くなった(と考えられている)紀元4世紀以降に、文明的にははるかに劣位にあった異民族の攻勢に耐え切れず、軍事的に圧迫され、社会が崩壊するに至った顛末はこの上なく劇的に感じるのだ。このプロセスに小生はロマンを感じ、仕事の多忙にもかかわらず現役引退後に読もうとギボンの"The History of the Decline and Fall of the Roman Empire"を全巻買ってしまったのも上に述べた理由からだった — まだ書棚に鎮座したままではあるが。

★ ★ ★

こんな関心が根っこにあるものだから、古代社会が崩壊したあとに登場した中世の分権的封建社会が中央集権的な絶対王政に発展、変容していったプロセスもまた、地理上の発見と貿易拡大の中で進んだ富の蓄積がひき起こした政治権力の統合と集中化だったと、そんな風に観たくもあるわけである。つまり「中近世」という一つのサイクルとして理解したいというのが小生が気に入っている視点である。

そして、農業から工業へとリーディング産業が交代し、産業資本家というブルジョアジーが中世以来の地主階層である貴族の社会を侵食することで姿を現した資本主義社会は、「中近世」という一つのサイクルが一巡した次のサイクルの始まりとして観たくもあるわけだ。資本主義社会の本質的分権性、無政府的傾向を是とすれば、伝統的貴族が身分秩序を構成する絶対王政社会とは正反対の理念と価値観もまた是となるわけである。競争に基づく市場メカニズムに任せよと主張した古典派経済学はこの新しい時代を理念的に支える「スコラ哲学」としての役割を果たしたとも言えそうだ。ケインズ革命はカトリックに抗った宗教改革にもたとえられるかもしれない。

とすると、近代(モダン)からポストモダンという超近代の時代にかけて進むのが、これまでの歴史的サイクルと同じく、政治権力の統合と集中であるとしても、何もおかしくはないと小生は思っている ― 現実にそんな社会変動をこの目で分かる形で目撃するという可能性はほとんどゼロであるが。民主主義がよいとか、市民社会には普遍的価値があるとか、そんな共和主義的政治哲学とは別に、新しい産業と経済の発展に必要であるのなら、「伝統的価値」などというものは躊躇なく修正して、その時代の新しい社会に適合した政体を人々が認め、選び、受け入れていくであろうと。そう考えるわけである。現にこれまで歴史を通して人間はそうやって生きてきたのである。

その意味では、小生は人間の小さな頭脳の中にしか存在しない「主義」や「価値観」というのは現実の経済活動という広大なリアリティ、というより現実に生きている多数の人間の生という岩盤のようなリアリティに完全に従属する「上部構造」であると考えているわけで、この点だけは(何度も本ブログに書いているように)マルクス主義者なのである。

2020年12月27日日曜日

コロナ禍の1年……どんな記憶になるのだろう?

 コロナ、コロナの1年で終わるが、この1年、たとえば20年後にはどんな記憶になって残っているのだろう?

言えることは、100年前の「スペイン風邪」だが、日本国内で40万人の死者を出しているにもかかわらず、現代日本人の記憶には当時の悲惨さはほとんど記憶に残っていないということだ。むしろ、その直後の「関東大震災」、さらには「太平洋戦争と空襲・原爆・敗戦」が時代を画する大惨事として記憶されている。

「震災後」や「戦後」という言い方はされてきたが、「スペイン風邪大流行の後」という言葉を小説でも評論でも見たことはない。

だから「コロナ禍」というこの1年の言葉が、いつまで日本人の記憶に残るかと言えば、それは誰にも分からないというしかないだろう。

***

ただ、実態として政府の機構や行政システムを変革させる契機になるのではないか。そんな気はする。

このブログのタイトル欄に初めて「コロナ」という言葉が登場したのは2月27日の投稿だ。そこではこんなことを書いている:

どうやら(一部の)医療関係者にとっては上のような認識は間違っているようだ。

こんな投稿もある。:

モーニングショーで軽傷者を早く見つけて重症化を防ぐとテレビで述べていた医師がいましたが、早期診断してもしなくても新型コロナウイルス患者の転機は変わりませんし、早期に見つければ重症化させない方法なんて実験的投薬含めてまだ確立されていません。

URL:https://blogos.com/article/438799/

投稿者は早期治療に意味はないと考えている。まあ、ウイルスを直接的に攻撃する薬剤はないわけだから、それはそうなのだろう。インフルエンザなら(発症後一定の時間内であれば)検査をしたり、特効薬を投与したりと、医師がすることはあるが、新型コロナによる風邪には出来ることがないということなのだろう。出来ることはないのだから、自宅で安静にして休んでいなさいという判断は理に適っている。

重くなったら来てください、と言うのもネエ……、という気持ちも残るのだが。

***

確かにこの1年、コロナ感染対策の戦略方針という面で政府は迷走に迷走を重ねたのだが、その迷走の主たる原因として医療専門家の側の不定見(=(無定見+不見識)÷2)があったという指摘もありうるわけである。

3月14日にはこんな予測投稿もしている:

そこで個人的な予想を覚え書として書いておきたい ― そういえば、東日本大震災直後も、その時点で予想できたことを書いておいたのだが、半分以上はまだ実現していない(参考はこれ)。なので、以下に書くことの半分も実現されないかもしれない。

  1. 社会の基盤である生産活動は(基本的に)再開されるはずである。発症し感染が疑われる場合は検査を行い陽性の場合は自宅待機とするのはインフルエンザと同様に対応する。こんな方式になると予想する。
  2. 但し、クラスター形成の確率が非常に高くなる活動、つまり下図の3条件を満たす活動は時限的に、例えば1年間程度は禁止もしくは自粛要請されたり、あるいは入場時の体温チェックが義務付けられるのではないか ― 具体的にどの分野、施設で何が求められるかは、ちょうど「軽減税率」対象品目を指定するのと似ていて、恣意性が混じるのは仕方がないが。もしその間に喪失所得が発生するなら、幾ばくかの所得補償が失業保険と併用しながら別に立案されるだろう。
  3. 感染者が自宅で発生した時の「自宅待機」のあり方が最も重要になる。例えば『新型コロナウイルス感染者の自宅待機に関する行動指針』が感染者本人、家族への「お願い」として国内全世帯に郵送配布されるのではないか。日本人は公的な方針に従うことが好きである。全世帯配布は『年金お知らせ便』と同じである。
  4. マスク、アルコール消毒スプレー・ジェル、うがい薬などの適切な使用法なども「お願い」の中で記述されるはずである。
  5. 『接客に際する行動指針』、『勤務に際する行動指針』も必要かもしれない。
  6. 当面1か月、3か月、1年、ワクチン製造の目途がたつまでの2年程度までに分けて、<緩慢な感染拡大>と<死亡数の極小化>を担保するための戦略見通しがメディアを通して伝えられるだろう。
  7. その間の経済対策などは当然上の戦略と併せて示されるはずである。


大体、3月下旬から4月、遅れれば今年のゴールデン・ウィークにかけて、こんな風に物事は進行すると観る。

***

どうやら「生産活動の再開」、「陽性患者の原則自宅待機」の見通しは見込み違いになった — GOOTキャンペーンが実行されたのは予想通りであったが。「行動方針」というか「お願い」は詳細を説明した印刷物ではなく、TVを通して「3密回避」という言葉で伝えられたが、何事もショート・メッセージを好む現役世代の感覚が支配的になったからだろう。それから「ワクチン製造の目途が立つまでの2年程度」と予想した下り。これは現実には嬉しい誤算があったわけであり、1年もたたないうちに日本でもワクチン接種が始まるかもしれない状況であるのは誰もが安堵しているのではないだろうか。

当時の見通しの方が理に適っていると今更ながら感じる箇所は

クラスター形成の確率が非常に高くなる活動、つまり下図の3条件を満たす活動は時限的に、例えば1年間程度は禁止もしくは自粛要請されたり、あるいは入場時の体温チェックが義務付けられるのではないか ― 具体的にどの分野、施設で何が求められるかは、ちょうど「軽減税率」対象品目を指定するのと似ていて、恣意性が混じるのは仕方がないが。もしその間に喪失所得が発生するなら、幾ばくかの所得補償が失業保険と併用しながら別に立案されるだろう。

というところだ。

感染リスクの高い行動、活動を指定して、感染を抑制するという施策はやはり(特にその後のGOTOキャンペーンを展開するにあたっては)必須であったのではないだろうか? 必要な法改正は粛々とすすめる姿勢をとるべきではなかったか?実に「後悔先に立たず」である。

世界の「コロナ禍」の中で、行政府のトップが交代どころか、もしも菅・現内閣もまた「座礁」という羽目になれば、安倍前首相についで二人目の首相辞任という他には例のない体たらくになるのだが、仮にそうなれば世界の尺度では「かすり傷程度」で政治が不安定化する先進国という不名誉な事例になるということで、改めて日本国の国家的脆弱性が露見してしまうわけだ。ま、これも考えようによっては、第二次世界大戦後の連合軍の基本方針である「日本を無害化する」という戦略が見事に成功しているとも言えるわけで、「日本はあんなものか」、「アジアの平和にはよかったヨネ」というメッセージになるので、そうそう悪いことばかりでもないということか。


今年の投稿もずいぶん数が増えた。毎月大体12回か13回、1年で150回程度を目安にしているのだが、この2、3年はかなり多い。それだけ後になって読み返したくなると思われる話題が多かったということなのだろう。中でも「コロナ」というのは、この数年間でも強烈な記憶として残る、「東日本大震災」がこのブログを再開するきっかけであったのだが、それと同じレベルかもしれない。今はそう感じているということか……、それはともかく、今日あたりが今年最後の投稿になるかもしれない。というか、そう望みたい。


2020年12月25日金曜日

一言メモ: 民主主義社会の政治家にはどんな責任があるのだろうか?

 民主主義社会における政治家はどのような結果責任を負うものなのだろうか?


小泉政権に対しては『新自由主義的な政策を盲目的に進めたことが今日の格差拡大をもたらした』という批判がいまもなお根強く見られるし、安倍政権の概ね8年間に対しても「現在の政治不信」をもたらした責任があると非難する向きが多い。

問題の内容と現状に対する批判は分かるのだが、ただどうなのだろうなあ、とは思う。


例えば、君主制の下で国王から任命された宰相が失政をおかして社会が混乱したとする。そうした場合、確かに失政を繰り返した宰相に混乱の原因があるのだが、それは宰相の行政能力が不十分であったということである。能力の不足はその人の責任ではないであろう。その宰相を選んだ国王にこそ主たる責任があるだろうと誰もが考えるのではないか。もちろん能力が足りなかった宰相が法を犯していればその罪を免れ得ないのは言うまでもない。が、誠実と有能とは別物である。国王は能力を求めるなら有能な人物を、安心を求めるなら誠実な人物を宰相に任命しなければならない。その責任は君主制の下では主権者たる君主が負う。

第一次世界大戦にドイツ帝国は敗北したが、東部戦線の総司令官であったヒンデンブルグはワイマール体制下で大統領に就任した。ヒンデンブルグの下で参謀長を勤め、その後参謀本部次長に異動し「ルーデンドルフ独裁」を築き、1918年にはドイツ軍最後の「春季攻勢」を仕掛けたエーリッヒ・ルーデンドルフはドイツ敗戦後に一時スウェーデンに亡命はしたが、すぐにドイツに帰国し、盛んな政治活動を展開した。責任を負ったのは皇帝であったカイザー・ヴィルヘルム2世であって、プロシア以来のホーエンツォレルン王朝は消滅したのである。

現場で指揮をし戦った軍人が敗戦後も政治活動を続けることが国民に受け入れられ、他方皇帝は亡命し、王朝は崩壊したというこの歴史的な展開は、戦争開始時の主権がどこにあったかという点を考えれば、実に理屈が通っている結末だと思う。

では、民主主義社会においては、政治的変動の結果に誰が責任をもっているのか?それは主権をもつ「国民」自身であるという理屈になる。政治家による「失政」も、その社会がそもそも民主主義で国民が政治家を選んでいるのなら、失政による混乱もまた「身から出たさび」であるわけで、発展するにせよ、停滞するにせよ、いずれも国民が引き受けるべき結果である、というのが当たり前のロジックだと思われる。「君主制であれば……」と、問いかけを一般化すれば思考実験が出来る。

「民主主義」とはそういうことではないだろうか。

***

小泉政権に格差拡大社会の政治責任があるとは、小生は考えていない。おそらく将来の経済史の教科書においては「2000年代以降の日本の経済格差拡大」の色々な背景や原因がグローバルな観点から説明されるものと予想しているが、その原因として「当時の内閣の経済政策」が挙げられるとは想像できない。政治家が政治の場で解決するべき問題に向き合うとき、そもそも政策の選択肢は限られ、その中で選ぶべき最善の政策は人的能力、社会制度等を与件とすれば、自由度などはなく、特定の一つに決まることが常態だろうと思われるからだ。同じような視点で、菅直人内閣に福一原発事故の責任があるとも考えない。更に言うと、この8年間で新たな経済成長分野が育たず、規制緩和も進まず、全世代型社会保障システムは不完全なままであり、公衆衛生体制も実は脆弱で感染急拡大という緊急時に対応できなかった等々というような問題であるが、これらが安倍内閣の責任であるとは考えていない。まして菅現内閣の責任であるという見方には反対だ。どの内閣もある問題は(その時点に良しと思われる方法で)処理し、他の問題は(解決が困難と思われたが故に)未解決のままに残し、一定の期間、日本社会のマネジメントを担当したという事実が歴史に記録されるだけである。ま、歴史観と言えるほどではないが、そう考えているのだ、な。


民主主義社会であれば、良い意味であれ、悪い意味であれ、《結果として》結局は国民の多数派のホンネが政治となって現れるものである。

具体的に言えば、財界、業界、支持基盤、さらにマスコミと世論の圧力 — これ自体、社会が民主主義的である証拠だが―に影響されながら、内閣や首相、閣僚がいかに《自分の思うとおりに法律を制定し、権力を行使して、政策を実行することができないか》。この点はもうビフォー・コロナでもない、アフター・コロナでもない、まさにイン・コロナの現状をみれば、100パーセント完全に明らかになっている。

「責任」とは「自由」と裏腹の概念である。他に主権があり、それに制約され、思う通りの政治ができない以上、政治家には政治現象の結果責任はない。

***

もし民主主義社会の政治家に何らかの結果責任があるとすれば、君主制の下で任命された政治家であれば可能であるが、民主制の下で選ばれた政治家には不可能な行為を意図的にしたことが立証された時であろう。

とすれば、「桜の花見」の金銭的補填に関して、国会に虚偽の陳述を続けたことが証拠づけられたいまは、安倍前首相は政治家として結果責任を負わなければならない。

国家予算に比べれば金額として実に些末で、枝葉末節と言える範囲のことではあるが、金額は少額であっても意図的な粉飾決算や脱税が発覚し、証拠づけられたなら、その時点で経営トップが結果責任をとるのと同じである。

法治国家であればそんな理屈になる。

2020年12月19日土曜日

ホンノ一言: 結局、「原因と結果の認識は素人には難しい」、ということか

北海道では新型コロナ感染者が減少に向かっている。

カミさんはこれを見て、『やっぱり外出を自粛するとか、GOTOを止めるとかすると、感染者は減るもんだね』と喜んでいる。

『旭川の巨大クラスターが段々と終息に向かってるからネ、新規感染者の人数が減るのは当たり前さ。何もGOTOを止めたから減ってきたわけじゃないヨ。クラスター問題が解決されてきたからだよ。クラスター爆発があったらまた増えるヨ』と応えておく。

カミさんは『そうなのかなあ・・・』と不満顔である。理屈では勝てないとみたのだろう。

『病院と高齢者施設で発生した旭川のクラスター。これほどの規模になったのはGOTOトラベルが原因でした』と語る人はさすがにいない。今回のやりとりは、明らかに小生の側に正当なロジックがある。そう思った次第。

***

院内クラスター、施設内クラスター、学校クラスター、飲食店クラスター等々、を抑えられていない。巨大感染クラスターが生まれるか、生まれないかという違いが、組織の△△長の管理運営能力と関係ないとすれば驚きだ。公衆衛生行政と関係ないとすればビックリだ。クラスターはランダムに発生する現象だと言うのは無理だろう。誰がみても管理運営の責任があると思う。

要するに

集団感染を防げ

この鉄則を貫くために何をやってきたか?

「マスク、手洗い、三密回避」、である。まあ、人が自宅にこもっていれば確かに抑えられるだろうが・・・。何だか「頭の悪いやり方」のようにも正直なところ感じられる。が、よい知恵が浮かばないなら仕方がないか、と。そんなところだ。

先日のワイドショーによくTVに登場する「馴染みの医療専門家」が出ていて、視聴者からの質問『インフルエンザは減っているのに、なぜコロナは減らないんでしょう?』があった。これに対して、専門家が曰く『それは新型コロナの感染力が強い、ということです』。

小生が小学生だった頃、どこかであった五輪の女子100メートル走で圧勝した米国選手がいた。弟が『なんであんなに速いのかな?』と聞くのに対して『長い足をはやく回転させられるんだよ』と小生は応えたものだ。父はその横で大笑いだ。この話しを思い出した。

日本では、<科学的アプローチ>ではなく、<政治的アプローチ>でコロナ対策をやっている。そんな感覚なのだ、な。科学よりは民主主義、法律よりは民主主義、感染拡大防止にはまずは相談とお願いと・・・戦後日本の弱点が21世紀になって表面化してきた感じだねえ、と。明治日本の弱点が、1930年代になって顕在化してきたのと同じでなければいいが。

日本人の《教条主義》は今も昔も変わらない。世界に遍く知られているけれど、一点にこだわって融通がきかない。こう思われる今日この頃である。

どこも行政トップの支持率は下がっている。日本も例外ではない。安倍首相もコロナ対策の真っ最中に退陣した。継承した菅首相も評価が下がっている。しかし、日本の現状は欧米と比べればずっと良い。それでも国民の不安は高く、政府に対する評価は低い。おそらくアジアの中で比較しているのだろう。確かにアジア内で日本の成績は良くない。しかし、中国やベトナム、韓国などをみても分かるが、アジア内他国は政府の行政権限が日本よりは遥かに強く、個人情報やGPS追跡も使用できたりする。オーストラリアのような外出禁止令/抗議デモ/警察が逮捕、といった情景は日本では発生しえない。日本人はそのような強い行政権限に否定的である。同じことをすれば日本の成績も上がるだろう。それはしない。であれば、アジア内で日本の感染状況がパッとしないのは当たり前だ。なぜ日本人は現状に納得しないのだろう。その理由がよく分からない。ま、ワクチンが届けば機嫌も治るだろう。案外、メディアの報道ぶりがフィクションで、日本人のリアリティはそんな程度なのかもしれない。



2020年12月17日木曜日

一言メモ: 何かといえば「首相のメッセージ」を求める世相には幼稚さを感じる

 政府が展開する政策には「メッセージ」が込められなければならない、と。そのメッセージを正しく、強く伝えるのが政治家の重要な役割だと・・・。

いつの間にか、日本の政治家は政府から国民へのメッセージ係、つまり《メッセンジャー》であると。そんな風に理解されるようになったようで、こんな世相には小生、正直驚いている。

『トップである菅首相から強いメッセージを発するべきだと思います』などと、TVのコメンテーターが画面の向こうから発言している。何だか『お父さんからもチャンと言ってもらう方がいいわね』と子供の悪戯に手を焼いていた昭和の奥さんたちの話しっぷりを連想してしまう。お父さんが帰宅するなり「お前たちはそこに立っとれ!」などという昭和の家庭の典型的風景などはもう絶対にないと信じ切っている平和がそこにはあるのだが、小生は、ひとつ前の世代であるせいか、『政府というのは権力、だから怖い』という感覚が染みついている。それがいまは「首相からきちんとメッセージを出すべきです」か・・・。一国の総理大臣もまた、この何十年かで「怖い存在」から、厳罰など決して加えたりしない「優しいお父さん」になったということだ。

それにしては日本はまだ死刑制度にこだわって続けているんだけどネエ・・・ま、これも世相である。こんな感想が一つ。

***

ずっと昔、ある経済官庁で仕事をしていた時分、その頃に盛んだったマクロ計量モデルは、金利の上げ下げ、財政支出の増減、税率等々の政策変数を通じて、GDP成長率、インフレ率、国際収支など主要なマクロ経済変数にどのような効果を及ぼしうるかについて、色々なシミュレーションを行うのに不可欠なツールであった。複数のケースに分けて計算された将来予測の経路は政策判断においても重要な参考資料であった(と敢えて言っておこう)。

そのマクロ計量経済モデルだが、基本にあるのはいわば社会経済の「力学観」とでもいうか、一定のメカニズムで動いているシステムとして社会をイメージする。そんな「哲学」(というほどでもないが)に基づいていた。ま、経済学は物理学を連想しながら発展してきた社会科学でもあるので、多数の変量を色々な方程式で関係づけるわけである。例えば「消費関数」や「投資関数」など需要サイドの行動方程式があるし、「生産関数」や「労働供給関数」といった供給側の関数が入ることもある。

なので、「政治家の発信するメッセージが大事ですよね」と言われると、それはもう「はあ~っ?」という反応になるのは当たり前であって

メッセージ? そんな政策変数はねえなあ。それ、どうやって数値化するんだよ! バカバカしい。

などと、一蹴されるわけである。

これまさに「官僚主導」の典型である。改めるべし。いまは「政治主導」なのであると言われると、ただただ「そうでありました、まことに申し訳ござらぬ」と反省するしかない。

***

反省はするのだが、ただ現場の官僚のホンネは、今でもあまり変わっていないかもしれんなあと、そう憶測することもある。とにかく、今ほどホンネと建て前とが大きく乖離した時代はないと感じているのだ、な。だから気を使うことばかり増えている。

『大体、役者や芸人じゃああるまいし、TV映りがいいとか悪いとか、口先上手であるかどうかなど、政治家の言葉がそんなに大事かネエ・・・そんな枝葉末節のことで政策の効果が大きく変わるはずないだろ!』という思いは確かに今の小生の胸の内にもある。いわゆるヒューマン・ファクターは重要ではない。プロ・スポーツ試合の勝敗にしろ、コンサートの出来不出来にしろ、確かに選手同士の不和とか、相性とか、不機嫌とか、その日の言葉使いとか、監督がミーティングで何を言ったかとか、いろいろあるかもしれないけれど、決定的なのは練習と技量でしょ。要するに、口先で何を言うかより、黙々と練習をして、諦めずに挑むという行動が大切なのだ。そう考えてきたわけだ。

それを「首相のメッセージを」とはネエ・・・それこそオルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で批判した「行き過ぎた民主主義」というものだろう。こんな風にも考えたりするわけだ。

***

しかし、1980年から88年まで米・大統領をつとめたレーガンは「役者に大統領はつとまらないと言われたが、むしろ大統領がつとまるのは役者である」と語ったそうだ ― オリジナルの発言が見つからないのだが。

政治家でなくとも、アメリカのFRB議長を永年勤めたグリーンスパン氏。グ氏の真骨頂は「市場との対話」であった。何をどう説明するか、グ議長が何を言うか。金融市場関係者はグ氏の片言隻句に注意をしていたものだ。

なぜトップの発言が注目されるようになったかと言えば、政策は単に政策変数を物理的に調整するだけで終わるのではなく、国民の《予想》や《期待》に影響を与えることによって、結果に結びつくものである。こんな《予想・期待形成》の役割が政策実行の現場で非常に重要視されてきたことが背景にある。

確かに総司令官が最前線でビビってばかりいれば、戦う前に未来に希望をなくしてしまう兵が続出するだろう。トップは明るい、ポジティブな人物でなければ務まらないという常識には、《予想・期待》が人間集団の行動に大きな影響を与えるのだという科学的知見の裏付けがある。そう考えると、「トップである首相から強いメッセージを」というのは分からないわけでもない。

とはいえ、日本人は何も総理大臣の発言ばかりをきいて行動を決めているわけではない。首相の発言は多数の情報の中の一つ、それも相当距離のある、遠い人の言葉に過ぎない。そもそも首相のメッセージと言っても、大多数の日本人はTV局が作っている番組の中で切り取られた形で知るわけである。首相の声をその場で聴くわけではない。それに、いくら総理大臣が「会食は避けて」と言っても、諸般の事情、周囲の状況から「ま、大丈夫か、やらないわけにはいかんもんね」と思う人が日本で多ければ、結果として首相のメッセージは空振りに終わるのだ。

そもそも法律の運用なら仕方がないが、首相の言葉一つで日本人の行動が大きく変わるなど、考えただけでも恐ろしい。

デマゴーグを最も嫌う小生の希望的観測かもしれないが、現代社会において、首相の発言やましてワイドショーのコメンテーターの話しっぷりがそれ自体として社会的効果を有するのかという点については、小生、かなり疑問だ。やはり、例えば「GOTOを止める」とか、「営業時間短縮を要請する」とか、具体的な行政行動によって効果が出る。弱い行動では弱い効果しか出ず、強い行動をすれば強い効果が出る。であるから、メッセージだけを強く言っても、行動が弱ければ、口先だけで国民の行動を変えられるはずはない。小生はこんなロジックを信じる立場にいる。

口先の言葉は、やはり口先であって、それ自体としては大して重要なことではない。古い世代としてはどうしてもそう思われるのだ、な。TV業界や新聞業界は、首相のメッセージがあったほうが商売ネタになるので、そりゃあ求めるはずだが、それはGOTOを求める観光業の都合とまったく同じロジックの話しで、メディア産業の経営上の都合である。

消費者である私たちは、人様に知られたくない観光業の楽屋裏、人様に知られたくないメディア産業の楽屋裏、人様に知られたくない医療業界の楽屋裏などなど、口先の言葉の裏側をよく読みぬいて、自分の行動を決めることが大事だ。どの産業も自分のことが第一である。どの産業も、誰もが《ミー・ファースト(Me First)》の時代であることを忘れてはならない。

2020年12月14日月曜日

一言メモ: 「実行困難」な政策が前提となる「停止困難」な政策があったわけか……めんどくさいネエ

悲劇も視ようによって喜劇になる。倍速にすればそうなるそうだ。

今まさにそうなってきている世相だ。日本人は「コロナ感染」を毎日毎日あらゆる方向から早口で話してはその日の結論を出している。東証の株価と同じだ。毎日、毎日、不確定要因が発生して、話の行方が定まらない。「見通しがつかない」のは当たり前だ。これ、やっぱり「喜劇」であると、(失礼ながら)そう感じている ― こんな性格だから組織の中で働いていた頃はさぞかし嫌な奴だったろうと思う。申し訳ないと同時に冷や汗が流れる。

100年前の日本でもスペイン風邪が大流行した。大正7年(1918年)から大正10年(1921年)にかけて日本国内の死者は約40万人にのぼった。大正7年5月の夏場所では高熱で全休する力士が続出したそうである。が、その当時も現在のような「経済か、自粛か」などと大論争をしたのだろうか? まったくのNOであった。というより、ウイルスの遺伝子解析技術がなかった。それがアメリカ由来の新型ウイルスであると分かるはずもなかった。だから「スペイン風邪」になった。

それよりは第一次世界大戦中に暴騰した「米価」が大問題だった。大正7年に全国に拡大した「米騒動」は実は歴史に残るほどの大規模な民衆暴動であった。「スペイン風邪」の猛威よりは「毎日の暮らし」のほうが日本人にとっては遥かに重大事であったのだ。日本史の教科書をみれば何が重大であったかは明白である。

この事は、何が社会的真理であるのかについて、大事な示唆を含んでいると思う。

***

昨晩も福島・いわきで暮らす弟と久しぶりに話したのだが、『もうTVは観ないことにしたんだ、ラジオを聴いてるんだ。新聞も馬鹿々々しくなってきててネエ』というものだから、『おれはもうこの3月で新聞は止めたよ』と応えた。そうすると、『TVを視てると、ホント、バカになっちゃうよね』と問いかける。『TV局で番組をつくっている人間が、観ている俺たちはバカだと思っているか、番組をつくっている人間たちがバカであるかのどっちかだな』と言ってあいづちを打つと大笑いだ。

実際、TVや新聞の報道(というより「意見」)を聴いていると、不思議な頭脳回路をもっているようであり、どうもGOTOトラベルは「経済」と「感染」の二つの目的をもつ、両ニラミで進めている、というのだ。

そんな理屈はないでしょう、と。GOTOトラベルは経済にはいいが、感染には悪いに決まっている。

こんな簡単な理屈がマスコミの人間には分からないのか?つくづくと、そう思う。

***

旅行をすれば補助金を出す、飲食店にいけば補助金を出す。そんな政策が感染防止に役立つなどという理屈はまったくないのだ、な。

感染防止の観点にたてば悪いに決まっている。

「ポリシー・ミックス」という基本的な言葉も知らず、政策のことを論じるのは能力不足だろう。

GOTOキャンペーンは、観光業を救済するための「緊急経済対策」である ― 観光業を下支えするという政策がいま適切かどうかという問題は以前に投稿したように別にあるが。故に、GOTOキャンペーンを進めるなら、その副作用を抑えるための「感染防止対策」として何をするのか?マスコミはここを攻めないといけなかった。

感染防止対策が弱ければ経済対策も強くは出られない。感染防止対策を強く進めれば経済対策も思い切って出来る。経済活動はヒトとヒトとの触れ合いを増やすので感染症対策にマイナスであるのは最初から分かっている事だ。

実に単純な理屈である。

にもかかわらず、感染防止のために経済対策であるGOTOキャンペーンを止めてくれと、そればかりを主張するのは、感染防止を強化する政策を本当はやりたくない。そんなホンネがあるからだ。

実に簡単なロジックである。

***

「お願い」ではなく「命令」ができる強い感染防止対策をとるなら、区域、人物、機関を特定した指導・命令を行うことになる。が、これらはすべて非民主主義的だ。だから「実行困難」。とは言っても、経営破綻、生活破綻の激増を避けようとすれば経済対策が必要だ。だから「停止困難」。そこでTVも新聞も議論はいつも「堂々巡り」になる。実際に「堂々巡り」を演出してきたわけである。

堂々巡りは仕方がないが、それを公共の電波を使っているTVや再販価格で保護された新聞が、核心に迫ることなく、ホンネの議論から逃げて、毎日堂々と堂々巡りを単純反復するのは実に見苦しい。

聞きたくないことをズバリと指摘するのがマスメディアの役割だ。それを言わないのはプロデューサーなりデスクなりが、「ここから先は言わないで、書かないで」と一線を引いているのだろう。メディア各社も忖度して太平洋戦争直前のような八方美人を貫いている。忖度する先が、「政府」であるか、「世論」であるか、使い分けている楽屋裏はとっくに露見している。

あと何年もこんな感じでやって行くのは無理だろう。

喜劇を演じて恥としないマスメディアは、有害無益とまではいかないが、無能であるくらいの言葉は浴びせられても仕方がないだろう。

***

ただ、政府が「緊急事態宣言」を出すなら、12月上旬といういま出すのがベストだ、と。ワイドショーのコメンテーターが主張しているこの判断は小生も賛成だ。

GOTOを止めても、若い人たちが街を歩けば感染は広がろう。病院、高齢者施設のクラスター発生が止まるロジックはない。

感染者が増え続けるとする。来年1月中旬には大学入試センター試験がある。センター試験の直前になって緊急事態宣言を出すのは「実行困難」であると小生は感じる。かといって、センター試験を強行すると、一段と感染が拡大する可能性が高い。

ま、そうなると国内は大混乱となり、菅・現内閣は瓦解への一直線を歩む。

このくらいのことは、いま「見通せる」のではないだろうか。

2020年12月13日日曜日

一言メモ: 民主主義の健全さとメディア産業の経営と

 市場経済が国民の厚生という視点から最適な資源配分を達成できるかどうかには、経済学では周知の事ながら、大事な必要条件がある。

中でも大事な条件は、どの経済主体も市場価格を与件として行動すること。そして、どの経済主体も市場支配力をもたないことである。この段階で、現実は市場経済の理想とは隔絶している。

そして、同じ程度に重要な要件は《情報・知識》である。消費者(にとどまらずBtoBの購買者全般を含む)が、買おうとしている財貨・サービス、そして競合品の価格、品質、信頼性などについても完全な情報・知識をもっていることである。

これらを考えると、理想型どおりの市場経済が現実にはどこにも存在しないのは、当たり前なのだ。

★ ★ ★

分権型の民主主義社会が健全に機能することにも必要条件が幾つかある。必要条件を満たさなければ、名目だけ民主主義であっても、そのプラスの側面は現実のものにはならない。

複数政党制と普通選挙が不可欠の要件であることは誰もが知っているが、これに加えて、正確な情報が低価格で提供され、国民が情報の意味を理解できる十分な知識をもっていることも大事だ。

だからこそ、民主主義社会の発展とメディア企業の健全な成長とが強く関連してきたわけである。

その「メディア産業」が実は非常に重要なのだ。日本の近代化の歩みを振り返っても、文明開化から自由民権運動が盛んになる明治10年代に日本の新聞産業は勃興した。

日本のマスメディア産業の原点とも言える時代、新しい事業でもある「新聞」は江戸以来の「瓦版」とは全く異質であった。慶応義塾の福沢諭吉は高級紙『時事新報』の発行を始めた。明治15年3月の事だ。当時の福沢は日本国内で内外の事情、学問の諸分野に通じた最高レベルのジェネラリスト的知性であったろう。また明治21年に陸羯南が創刊し主筆を兼ねた『日本』は正岡子規との縁で有名だが、その記事内容は現在に置きなおせば、多分「岩波新書」のレベルに匹敵するほどの高水準だった。

記事として書く文章には書く人の学識、経験がにじみ出る。端的に言えば、新聞は(出版社側の品質管理努力が厳しいということで挙げているだけだが)たとえば「岩波新書」を出版できるほどの知識水準をもった人物が記事を書くことで、はじめて「新聞」としての機能を果たすことが可能になる。そう思うようになった。というより、そういう高度の学識に裏打ちされた人物でなければ、社会に影響を与えてはならない。そうではない人物が「口先」で社会的影響力を発揮してしまうときの「悲劇」(というべきだろうか)は歴史が実証するところである。学識に基づいて語るのでなければ、山勘か欲望、そうでなければ愉快を求めて語っているに違いないわけである。これが「マス・メディア」というものを論じるときの基本的視点だろうと思うのだ、な。

現在の新聞社に雇用されている新聞記者(≒ジャーナリスト?)のマンパワー・レベルと新聞草創期の執筆者とは、その学識、実績、経験の広汎さにおいて、比較にならないのではないだろうか?

小生は、今年の3月一杯で購読していた新聞を止めてしまった。毎月の購読料4千円は記事内容に比べて引き合わない。この感覚は日本国内のほとんどの新聞にも当てはまる。紙面の半分が、明治の福沢諭吉や陸羯南、あるいは後の時代の徳富蘇峰や石橋湛山などと同レベルの記者によって執筆され、どの記事が誰によって書かれているかがキチンと署名され、記事を書いた人物の略歴、学位、実績、著書が公開されている、そんな新聞であれば、小生は毎月購読料が2万円であっても読みたいと思うだろう。ページ数は減ってもかまわない。

理由は実に単純で<欲しい情報>だからである。

そもそも株式欄などはYahoo!Japanが無料で利用できる現在、不要であり、紙の無駄である ― 新聞の株価欄で株価をみている人はいまどの位残っているのだろう?

★ ★ ★

人はいつでも知的な刺激をうけたいと願うものだ。現在の新聞メディアが発行する新聞にはワクワクするような知性も着想も情報も哲学もない。このくらいなら自分にも分かっている。あるといえば、細々としたディーテイルであるが、保存しておきたいと思う程ではない。無料のインターネットで十分だ。そんな「情報」ばかりである。だから4千円でも高い。

新聞の販売部数の減少トレンドが止まらないのは、インターネットに読者を奪われているからではない。

ネットをみれば十分な内容の記事しか新聞にはない

これが主要因である。予約をしてまで買うはずはないのである。だから読者が離れる。ネットでは読めないハイレベルの記事を載せればよい。ネットにはハイレベルの情報はない。ハイレベルの情報が無料で提供されるはずはないのだ。そんな記事が新聞にあれば読者は戻ってくる。理屈は誠に単純である。

民間TV局に至っては、プロ野球中継、ドラマ、バラエティのどれも昔のインパクトを失い、それもあって「貧すれば鈍す」であろうか、今ではインターネットを追いかけて「政治談議」で視聴者をつなぎとめている始末だ。が、これもあと何年も続けられるものじゃあない。「専門家」も「コメンテーター」も底が割れてきている。楽屋裏が見えてきている。

マスメディア産業も電波行政や再販価格制の規制と保護を外し、グローバル資本の参入を認め、競争の波に洗われるべき時代が近づいているような気がする。

堀江さんは<報道規制>を主張しているらしいが、言い出せる人は永田町にも霞ヶ関にもいない。ここは<消費者本位>、<規制緩和>の名の下に、メディア産業を世界に開放するほうが効果的であろう。最後に残るのは、老舗、名匠のような「高級紙」だろう。「言葉の壁」が「日本の知性」を日本人のために残してくれるはずだ。

それが日本の民主主義を守る近道だろう。



2020年12月10日木曜日

一行メモ: 「ベッドは多い、医療スタッフは少ないがまあこんなもの」という見方の落とし穴

 先日の投稿でも、日本は他の先進国に比べて病床数は世界に冠たるものがあるが、医療スタッフの人数が少ないという点に触れた。

2017年時点の数字だが、病床数は人口千人当たり13.1であり、これは米国、英国のそれぞれ2.8、2.5はおろか、ドイツの8.0をも遥かに上回ってダントツの1位である。これに反して、人口千人当たりの医師数は2.4人であり、ドイツの4.3人に比べると半分強といったところだ。英国は2.8人で日本と同レベルだが、病床数がずっと少ないので、医師1人がケアするべき病床数は日本よりずっと少ない。負荷率が低いわけだ。

問題の核心は

日本では1人の医療スタッフがケアするべきベッド数が他の先進国に比べてはるかに多い。つまり、個々のスタッフの高度な技量ゆえの「少数精鋭主義」。これが日本の医療業界の大きな特徴だ。加えて、国民皆保険制度の下で一律のきめ細かなサービスを尽くすことが義務にもなっている。

先日の投稿でも述べたが、「少数精鋭主義」は長期の消耗戦には耐えられない。これ正に組織戦略論の基本である。医師に求めるレベルを緩和し量を確保するべきだ。ワクチン開発が遅れていれば、日本は国家的危機に陥ったに違いない。

一言でいえば《油断》である。堺屋太一の名作『油断』があったが、日本はまた油断をしたのである。なぜだか分からないが、日本人の弱点は「油断」をすることが多いという国民性にある。多分、「海」と「言葉の壁」に守られてクローズドな社会であったからだろう。

2020年12月9日水曜日

一言メモ: 攻守双方が大事なのは対コロナの戦いでも同じ

 確かにGOTO何トカと新型コロナの感染急拡大との因果関係については、「そりゃ、関係あるだろう」という山勘はあるものの、統計的なエビデンスが極めて弱く、不審な点も多く、本当に関係していたのかどうか、分からないのが現状である。

たとえばGOTOトラベルを利用して来道した旅行客から、具体的にどのような経路をたどって道内各地に、たとえば旭川市にまでウイルスが拡散していったのかが分からない。少なくとも、今回の旭川市の巨大クラスターはどう考えてもGOTOトラベルが原因ではなく、医療施設内のマネジメントが原因だろう、と。そう考えるのが自然だと思うのだ、な。であれば、GOTOを止めるにしても、気がついていない感染防止スキルの問題があるのであれば、クラスターの発生を止めることはできない。またいずれ近いうちにどこかで何かの接触で同じ規模の感染爆発現象は起こりうる。そんな理屈になる。

『10月以降、GOTOキャンペーンによって新型コロナ感染者が急増した、特に東京、大阪、北海道で』という「ものの見方」は、マスコミは飛びつくだろうが、本当にこの仮説が真理であるなら、むしろ幸いだ。感染抑止の有力な手立てがあるということなのだから。

***

小生自身は、『経済対策を止めてください』とお願いするばかりではなく、感染防止のスキルアップをはかることが医療専門家が取り組むべき重要な研究課題であろうと思っている。

とにかく直接的に旅行に関係する人々により多くの感染者が発生している状況ではなく、大クラスターの多くは、病院、高齢者施設、学校といった集住組織(及び飲食店)で発生している。

感染は旅行ではなく「飲食でのおしゃべり、回し飲み」、「ライブ・合唱」、「大声イベント」といったハイリスク行動への参加が決め手になったはずである。しかし、これらの「行動記録」は(多分)さっぱり残っていないのだろう。ここにも未デジタル化社会である日本のウィークポイントがある。

民主主義国・日本のウィークポイントである。

だからこそ、その枠内で問題解決能力の底上げを目指して、まず「デジタル化」を進めようとしている菅内閣の着眼点は実に本筋をついている。そう思うのだ、な。

***

とはいえ、プロ野球でも試合に勝たなければ来シーズンへの継続はない。夏の甲子園なら一度負ければそれで終わりだ。立派な戦略も、いまの勝負に負ければ夢のまた夢なのである。

その勝負は、攻守のバランスが大事だ。

まず守って、失点を少なくして、そして攻める。

小生の郷里である愛媛県では、高校野球なら何と言っても「松山商業」が人気だ。松商野球の神髄はとにかく守るのである。守って、守って、僅かのチャンスをものにして僅差で勝つという野球である。

あそこまで徹底するとなると、好きゝだが、政治も経営も、道理は同じだろう。守りを固めてから攻めるのが専門分野を問わず勝負の理ではないだろうか?


残念ながら、日本の医療は前にも投稿したが「少数精鋭主義」で多くの犠牲には耐えられないのだ。状況の急変に即応して柔軟かつ縦横に医療資源をシフトする機動性にも欠けている。制度上のバックアップもない。

そんな現状の中で、犠牲を省みず強引に攻めるという戦術では自滅するだろう。

ワクチンへの期待があるかもしれない。しかし、ワクチンという「援軍」が到着して、効果が出てくるまでには(おそらく)半年以上の時間がある。

その間に自滅しては元も子もない。

守備を鍛え直してから、再度、未来へ向けた攻勢をとるのが適切ではないか?守備の乱れから逆転負けを喫した高校野球の監督なら必ずそう発想するはずだ。同様に、現政権も「立て直し」に目を向け始めるものと予想する。その際、「守備を鍛え直す」とでも言えることに着手しなければ、同じ失敗をこれから以降も何度となく繰り返すだろう。

2020年12月8日火曜日

ホンノ一言: パンデミックが未来の方向を変えるとすれば

 医療崩壊目前の北海道・旭川市に自衛隊看護師が派遣された。自衛隊のイメージはまた良くなることだろう。

ずいぶん以前の投稿でこんなことを書いている:

それにしても、最近はやけに自衛隊優遇が目立つ。僻んでいるわけではないが、そのうち防衛大学付属高等学校、その下には「防大付属小、中学校」まで創立されるのではないか。そしていつの間にか全国の県庁所在地には「防大付属」が設置されるなどということになるのではないか。おそらく防大付属高は全額国費、無料であり、逆に給与が支給され、付属小、中学校も一般公立校より安くなるのではないか。最後に、教育機関である防大・大学院とは別に「国家安全保障研究センター」なるものが共同研究機関として設立されれば、その時は戦後日本の在り方は決定的に変わることになる。そんな風にも想像される今日この頃である、な。

 既に、防衛大学付属とは言えないものの、3年制の陸上自衛隊高等工科学校が横須賀市にあって1学年300人の計1000人弱の若者が自衛隊員として勉学・訓練に励んでいる。卒業後は最前線の現場で個々の自衛官を指揮する下士官となる。

これを普通高校と同程度の定員にしたうえで1県1高設置を進め、東京、大阪、札幌、仙台等8都市(程度の中核都市)に幹部候補生養成機関として防大付属高を設置すれば、自衛隊の人的基盤は飛躍的に整うことだろう。

これに有期任用の自衛官募集人員の増員と予備・後備制を併せてバックアップすれば、単に国防政策というだけではなく、日本の人的資源のスキル向上、生産性向上にもつながり、労働需給を下支えすることにもなる。これ自体が成長政策、雇用政策にもなりうる。

現代の国際環境、日本国内の経済環境、AI・ロボットなど技術革新と労働需要の2極化・非正規化、それによる経済格差拡大、教育格差拡大、国公立大学の低くはない授業料と貧弱な奨学金制度等々、諸般の事情を考えれば、国防の基礎の拡充は日本にとって一石二鳥にも三鳥にもなる戦略であるのかもしれない。

もちろん予算措置が必要であるし、財源確保のための増税も要る。とはいえ、目的が明瞭な増税は理解を得やすい — まあ、率直なところこんな方向へ進むとしても、10年から20年はかかると思うが。

国民1人当たりの公務員数は日本は他の先進国と比べて少数である(資料はたとえばこれ)。足元では「エッセンシャル・ワーカー」という言葉が流行しているが、景気・不景気とは関係なく、安定して社会基盤を支える職業従事者が余裕のある人数で存在することは、今回のようなリスクに対応するうえで望ましいことだろう。

アフター・コロナという新しい時代で、よくも悪くも「民間」や「財界」がリードしてきた戦後日本という社会が進むべき方向は、国民の感覚として、大きく曲がっていく可能性がある。ま、今回のパンデミックがキッカケになるかもしれないということだ。

2020年12月6日日曜日

ホンノ一言: 「コロナ対策」にかける政府の真剣度は?

2,3日前の投稿

 そもそも「ビッグデータ」の時代に、政府の「何トカ分科会」。そのメンバーに経済学者は入っているが、データ操作、モデル構築技術に長けたデータ・サイエンティストが入っていない(と思う)。

こんなことを書いたが、春から夏にかけては若手データサイエンティスト集団であるALBERTが、厚労省内のクラスター対策班に作業協力していたそうだ。接触率分析で空間データを駆使したそうだ。これはビッグデータだ。今でも、継続的に感染対策に参加しているのだろうか。是非そうであってほしいと思う。

それはともかく・・・

有料PCR検査が次第に立ち上がりつつある。それだけ検査に対する人々の要望が強い。需要があるビジネスである、ということだ。

カミさんとも話をしているが、素朴な疑問:

新規入院者が感染源になって院内クラスターになる事例が北海道ではまだ起きている。看護師、介護福祉士など職員がひき起こすクラスターもある ― GOTO何トカよりこちらの方が怖い。

小生: 新規入院患者にはPCR検査を必ずやってもらうって、まだやっていないのかな?

カミさん: 義務じゃないからネ。

小生: 医療関係者と高齢者施設関係者は定期的なPCR検査を一斉にするってサ、前に首相か厚労大臣かが言ってなかったっけ?

カミさん: ウン、私も覚えているけどサ、でも△△クン(四国の大学病院に勤務している甥っ子)、まだPCR検査は1回も受けてないって。検査するように言われたこともないみたいだよ。

小生: そうなの? △△クン、呼吸器内科だろ?それでやってないの?

カミさん: ホント、どこもグダグダだね・・・

政府も自治体も何トカ分科会も、新型コロナ感染を本気で抑え込もうと、全力を尽くしているとは、どうしても思えないのだ、な。

医療の最前線が崩壊の瀬戸際にあるという点は、TVの映像のとおりだろうが、医療界全体として本当に危機に陥っているのかといえば、それも疑問だ。欧米と比較すると日本の感染者数はゼロが一つも二つも少ない。重症患者も日本はヨーロッパの概ね10分の1ですんでいるのだ。

これでは《医療崩壊》も高視聴率をねらったTV局編集のニュースネタであるに過ぎない。そんな受け取り方も否定できないわけだ。

堀江さんが《報道規制》を口にするのにもどこか共感できる所以である。と同時に、司令部が疲弊するよりも先に現場が壊滅していくという日本の傾向。ずっと前に投稿したとおりだ。

そもそも政府や自治体がやっているはずの事をまだやっていない。これはまだ《本気でない》ことの表れだろう。

2020年12月5日土曜日

ホンノ感想: 辛坊治郎「ウェークアップ!ぷらす」に吃驚したこと

 土曜の朝は辛坊治郎氏の『ウェークアップ!ぷらす』を観るのが習慣だ。辛坊氏、思い込みが強すぎることが余りにも多いが、その感性は波長が合うのでずっと見続けている。

本日も例によって「新型コロナとGOTO」であった。国交大臣がリモートで出演していたが、国交大臣に向かって「いまコロナ感染者が急増していますが、それについてどう思いますか?」と。これを聞くなら感染状況と感染対策を所管している厚労大臣の方だろうと思ったりしたが、まあ、無関係の閣僚でもないので、これもありだろう。

思わずのけぞったのは、最後に高齢のコメンテーターが『それにしても、国会って役に立っているんでしょうか?』とつぶやいたことだ。

いやはや、これほど露骨な《野党批判》をTV画面で堂々とやるとはネエ……。

***

人によっては、「国会全体を批判したんでしょ?」と言うかもしれないが、それは現実とは合っていない。大前提として、現在の政府は差し当たって役に立っていると認めざるを得ないからだ。

携帯料金の引き下げに目途をつけたことが一つ。それから、何かと批判の多い「GOTOトラベル」だが、これは危機にある観光関連業界(ホテル・旅館、航空、鉄道、観光バス等々)を救済するための緊急経済対策である。その目的は概ね達成されつつあったのだから政策は成功している。デジタル庁も然り。無駄な押印手続きの廃止も然りだ。アメリカの反応を心配すれば当分は無理だろうと思われていた「RCEP(Regional Comprehensive Economic Partnership):東アジア地域包括的経済連携」も(何と!)首相就任早々の時点で署名に踏み切った。安倍前首相には出来なかったことだ。首相就任以来僅か2か月で得た戦果としては上々であるという判断に反対する人は、実績によらず自民党政権に絶対的に反対する極左勢力のみであろう。

ただ一つ、新型コロナの感染対策には失敗した。経済政策を推進する大前提である《感染抑え込み》が出来ていないからだ ― それでも欧米に比べればゼロの数が一つ、二つ少ないのだが、現実に医療が危機的状況に陥っている以上、感染抑え込みには失敗したと言わざるを得ない。

ほかに、些末な問題として「学術会議6名任命拒否」もある。が、これは本質的には共産党支持勢力と政権がどう対峙するかという問題であって、学問の自由などとは無縁の話しだ。

総じてみれば、小生は

現在の政府は十分役に立つことをしてくれている

そう観る立場にいる。

政府が役に立つことをしてくれていると前提できるなら、政府を支える与党もまた役に立つ存在である。であれば、『国会は役に立っていないですよね』とつぶやくのであれば、

野党は役に立たない存在ですよね

という意味になるのは当然の理屈だ。それをTVで堂々と言うのだから恐れ入る。

そういう主旨ではないと言うなら、「政府のしていることは役に立っていない」と判断しているというロジックであり、現状に基づけば「私は共産党にシンパシーを感じている」という主旨になる。

自己責任で自由に放送局を開設して報道できるなら、自社の政治的立場を主張しても何の問題もないが、日本では放送免許の許認可権を政府が有している。つまり規制産業であって、保護されており、保護している国民には色々な人がいる以上、公共性をもたなければならない。一党に偏してはいけない。これが基本原則である。それをネエ・・・と吃驚したわけだ。

***

もっと吃驚した、という以上に唖然、愕然、慄然の「三つのゼン」を今朝もまた覚えたのは、同じく出演していた医師のコメントだ。

GOTOトラベルがマイナスに働いたエビデンスはないわけですけど、プラスに働いたエビデンスもないわけですネ・・・

これには驚きのあまり、手に持っていた珈琲カップを落としそうになった。なぜ辛坊氏は

先生、ただですネ、GOTOトラベルは感染対策ではなくて、観光ビジネス救済を目的にやったものなんです。感染防止にプラスになるとは最初から思っていなかったと思いますが・・・

なぜ、MCとして一言注意しなかったのかネエと。この辺に同氏の限界があるのだろうか。まったくネエ、「GOTOでヒトが動けば、感染にはマイナスに決まっとるだろう!」、「そのマイナスの証拠がないって言っとるんだ!」と、そうTVに向かって声を上げたものだから、カミさんも驚いて小生の顔をマジマジと見ることになった。

この間に実行した感染対策は

マスク着用、手洗い、3密回避

これだけである。

いやいや、厚労省の伝統的作戦(?)と言っても良いのだろうか、《クラスター追跡作戦》もあった。「発症者」、もとい現在では「陽性者」であるが、を確認して、その「濃厚接触者」を追跡して検査する作戦だ。いわば「後手の先」を行く作戦思想だ。襲来するウイルスを受けて立つ戦略だ。確かに立派な作戦思想であるが、新型コロナは無症状者の感染力が非常に高い。一人の陽性者が確認されれば、その背後に100人(くらい?中国では)の無症状感染者がいる可能性がある。ここは「後手の先」というか「専守防衛」ではなくて、「敵基地攻撃能力」をもたないと負けるのじゃないか?「先手必勝」が勝利への道ではないか?先手必勝で感染者を発見・隔離・保護する作戦思想に変更して、それに必要な検査能力、人的資源を動員する方向へと向かうべきではないか?そうでなければ勝てないのではないか?経済対策も実行困難になりジリ貧ではないか?小生は、別に感染症の専門家ではないが、「勝負の力学」は分野を問わずウイルスが相手でも共通しているところがあるような気がしている。

何トカ分科会の尾見会長が「いみじくも」語っているように、実際に感染者が急増している状況の中、「もはや個人の努力を超えている」わけである。つまり、政府は個人々々にも努力をしてもらいながら作戦を実行してきたが失敗したということである。何かが足りなかったので失敗したという理屈になる。そして、足りなかった点は個人々々の側にはない。そういう意味である。実に立派な人物である。かつ論理が透徹している。小生もその通りだと思う。

この

感染抑え込みのために政府がしてきたことは失敗に終わった

という点をマスメディアは掘り下げなければならないわけである。いやしくも「情報番組」と名乗る放送をするならば、「何故?何故?」という問いかけを畳みかけていかなければならない。政府や医療関係者は最前線で戦っている。同じように、TV局側も努力をしなければなるまい。個人々々は既に十分に努力をしているのだから。


ま、たとえ「情報番組」としては極めて劣悪であるとしても、面白ければそれで視聴率は上がるのであって、番組制作目的は概ね達成しているのである。たとえ誤ったメッセージを番組が伝えるという副作用があるにしても、視聴者が多いということはスポンサーの要望には応えられている。来週以降もやっぱり「ウェークアップ!ぷらす」を視ようと思っている。役に立っているという点では「GOTOトラベル」と同じなのだ。

2020年12月4日金曜日

ホンノ一言: GOTOとコロナ感染に関する2,3の疑問

今年は年の初めから終わりまで「コロナ」がキーワード だった。年末にはこの1年のコロナ関連投稿をまとめてリストにしておくと便利そうだ。


GOTOトラベルと新型コロナの拡大に何かの関連はあったのだろう。それは同感だ。とはいえ単なる<山勘>でもあって、正否は定かではない。


「GOTOトラベル」は観光関連産業(旅館・ホテル、航空、鉄道、観光バス等々)を救済するための緊急経済対策である。とすれば、実は、分からない点も幾つかあるのだ、な。例えば・・・

  1. 北海道では確かに感染者が急増した。最初は寒冷な季節が到来したせいだと思っていたが、今ではGOTOトラベルが原因だと語る人が多い。であれば、旅館・ホテルの従業員がもっと多く感染していてもいいのではないか。ところが、複数発生しているクラスターは病院や高齢者施設、そして学校が多い。観光ビジネスとどう関連しているのか分からない。
  2. 9月から10月にかけてススキノ界隈の不衛生振りが何度かとりあげられた。これらは宿泊業ではなく観光ビジネスとは直接に関係していない ― 観光客が集中してウイルス感染があったと人は言うだろう。だとすれば旅館・ホテル側でウイルス感染がもっと表面化している方が納得できる。
  3. GOTOトラベルを利用して全国には多数の旅行者が訪れた。中でも秋という季節もあって「京都」には大勢が集まったはずだ。しかし、京都の感染者数は(少なくはないが)訪問観光客数に比例する程ではない。なぜだか分からない。
  4. 人気の高い旅行先である全国の温泉と温泉宿がある。そこにも多くの観光客が訪れた。しかし、温泉宿で大クラスターが発生した例はあまり聞かない。少なくとも全国の観光拠点で感染クラスターが多発している状況ではないようだ。大勢の観光客がウイルスを持ち込んで感染が拡大したのであれば、全国の「観光拠点」でもっとクラスターが発生していておかしくはない。
「旅館・ホテルの従業員」、「京都」、「全国の観光拠点」で予想できるほどの感染者が出ていないと思うのだが、ただそれをデータを集めて今から検証するのは、ちょっとしんどいネエ・・・、誰かやっているだろうか?というか、厚労省が分析するべきだろうという気もする。というより、そもそも「ビッグデータ」の時代に、政府の「何トカ分科会」。そのメンバーに経済学者は入っているが、データ操作、モデル構築技術に長けたデータ・サイエンティストが入っていない(と思う)。これでは感染対策の最前線において実効性のあるファクト・ファインディングができないだろう。結果を出そうとする際に、純粋理論や理念・信念は役には立たない。プロ・スポーツでもデータ・サイエンティストをチームに同行させる時代なのだ。

話しがそれた・・・

さらにつけ加えると、小生が調べた事ではないが、若手データサイエンティストであるO氏が「航空旅客数の増加と新型コロナ感染者数の変化に関する因果性検定」を行っている。羽田発で新千歳、福岡、那覇着に限ったデータに基づくもので限定的な分析ではあるが、旅客数と感染者数には因果関係が検出されていない。

また、先日のTVワイドショーでは福岡県の知事であったか、県庁関係者であったか、福岡県を訪れる観光客数の動きと感染者数の増加のデータを対比してみると、とても関連性があるようには思われないということをグラフを使って説明していた。

***

GOTOトラベルは、それ自体が主因というより、「気の緩み」を招いたという点で感染拡大をもたらしたということなのだろう。そんな気がしているのだ、な。

だとすると、ハイリスクの行動とは何か?ハイリスクの行動を避けることの効果をどう評価するか?感染確率が極めて高い「リスキーな行動」といえば「飲食でのおしゃべり、回し飲み」、「カラオケ」、「ライブなど大声イベント」が既に挙げられている。国内感染者も既に十分な数に達しているわけであるし、この辺を分析すれば行動パターン別の「リスク・クラス」、「リスク・ランキング」のような表にまとめられるのではないか?差し当たっては、ハイリスク行動の監視と抑え込みをシステマティックに実行する。これが緊急の課題ということになるのではないだろうか。

いずれにしても、非論理的な憶測とか印象を「情報」 ― 憶測や印象は情報ではない ― と称して、そのままTV画面や紙面からたれ流してみても、受け取る側は不安になるばかりで、問題自体は解決されず、社会全体の結果は最悪になるのではないだろうか?




2020年12月2日水曜日

一言メモ: まさに「二股の分かれ道」にさしかかった「経済か自粛か」という問題と今後の予想

 ネットにはこんな事も書かれている:

西村康稔氏がコロナの感染拡大が続けば就活に影響すると若者に呼びかけた件

堀江貴文氏は1日にTwitterで「マスコミを何とかする方が先決」と指摘した

コロナ騒ぎを拡大させているとして、報道規制などを先にすべきだと訴えた

小生も昨今のマスコミ(特に民放TV)については、同じような感覚をもっているので、上のような「強権的報道規制論」を目にしても、それほどの違和感はもう感じなくなった。それほど、このところTVから流れてくる「情報番組」には酷いものがある。

とはいえ、報道規制が日本で可能ならば、その前に「適切な感染対策」がとっくの昔に実行されているはずである。報道規制よりは感染対策のほうがずっと実行しやすいという理屈だ。

まったく「ブレーキとアクセルを同時に踏むのは分からない」などと……。"Operation Twist"の政策概念もご存じない。「話にならないネエ」と感じつつ、珈琲を飲みながらワイドショーを視るのも、健康に悪いネエと思う今日この頃である。

こんな風だから今朝もカミさんと言い合いをした。TVも罪作りだ。

カミさん: GOTO、なんでストップしないのかなあ?人の命をなんと思ってるんだろう。これ以上、感染者が増えたらどうするんだろうね。経済、経済ってサ、そればかり言って、なんにもヤル気がないんだから!(と怒っている)

小生:  経済か人の命かっていうけど、経済っていうのは日本人1億人の暮らしの事なんだよ。分かってる?

カミさん: それはそうかもしれないけど、人の命がもっと大事でしょ。

小生: 「そうかもしれないけど」じゃなくて「そうなんだ」。政府はホンネなんて言わないと思うけど、『日本人1億人の暮らしの安定と、何千人のコロナ患者が助からないかもしれないという心配と、どちらが重いと思っているんだ』、多分、これを一番言いたいんじゃないのかネエ。「経済」っていうのは政府の究極的な目的なんだよ。

カミさん: じゃあ、どうするの?増えるよ、感染者。死ぬ人だって増えるよ。

小生: テレビでも言ってるだろ?『日本では私権を制限することはできませんよね、色々な事ができませんよね、そんな中で感染を抑えるには強いメッセージを出して、自粛を徹底するしか、効果的な方策はないんですよって』。でもね、国民全員に我慢をさせるのは残酷なんだよ。何千人を救うために、そこまで1億人がみんな堪えなければならないのかっていうのは、政治家なら誰でも考えるんだよ。医者はコロナ重症者ばかりを言うけど、生活が破綻して誰にも言わずに死を選ぶ人は医者にはかからないのさ。医者は自分の患者はすくいたいけど、自殺する人の心配はしないからな。

まったく、TVの下らない井戸端会議で夫婦仲まで悪くなるというものだ。

つまりは日本では新型コロナによる死者が1桁も2桁も少ないのである。これが今の現実の本質である。死者が10万人を超えるようなら政府は動くであろう。しかし、もしそんな状況になる場合、日本政府は「自粛の徹底」という政策は選ばないと小生は思う。

日本政府の第1目標は《経済》である。この点はまったくブレていないと小生は観ている。みているし、小生の立場は「これが正しいと考える」という立場だ。まさにクリントン大統領が現職のGeorge H. W. Bushを打倒しようと1992年の大統領選挙に立候補した時、発した有名な1句:

It's the economy, stupid!

経済なんだ、この愚か者が!

この問題意識が政治家がもつべき感性である、小生もそう思う。

★ ★ ★

個人的な予想だが、大阪で《歴然とした医療崩壊》が発生すれば、まずは強権的感染抑え込み対策の必要性を知事から要請させ、政府はそれにGOサインを出す。私権制限を含む徹底した感染防止対策の法制化へ舵を切る。それによって国民の不安を鎮静化させるとともに、「休業命令」に伴う所得補償、「家賃等支払い猶予令」など諸般の法制化、より強力な経済対策に着手するであろう。

特定店舗に対する休業命令、区域、自治体を対象としたロックダウン命令、公権に基づく社会的PCR検査による陽性者あぶり出しと隔離・保護、GPS装着を義務付けた追跡も視野に入ってくるだろう。

全国知事会、全国市長会、全国町村会など自治体側が続々と政府方針を支持する声明を出せば動きは加速する。財界、連合が支持すれば勝負は決まる。野党は対案を作れるはずもなく反対はできないと考えるだろう。

結局、日本もまた中国型の問題解決に近い方策をとる。小生はそう観ているところだ。なぜなら、感染防止と経済活動とを両立させ、国民の不安を鎮静化させながら国民の生活を守るには、これが最も確実な政策であるからだ。確実であるのは、中国の現状をみても既に明らかである。

日本は、西ヨーロッパの英仏ほどには個人主義の伝統がなく、自由と人権の意識が強くはない。逆に言えば、自由の裏側にある自立と責任の感覚も弱い。行政権限を強化することによる感染抑え込みと強力な経済政策とのポリシーミックスを日本人は「歓迎」とまではいかないだろうが、「容認」するのではないかと小生は観ているのだ。「私権の制限」というそのこと自体に強く反発するというその意識が支えになって、長期間の自粛生活を耐え抜くほどには、日本人の人権意識、自由願望は強くはないと観ている。日本社会の強い同調圧力と自粛警察の活動などを観察していると、その社会的圧力を制度化することは、大部分の日本人は直ちに受け入れるのではないかと、そう予測する。

政府が待っているのは、《きっかけと潮どき》であろう。北海道で感染爆発が発生すれば道知事が菅首相に「徹底的感染抑え込みへの道」を要請していただろうし、大阪がそうなれば維新の会の府知事がその必要性を伝えるだろう。

結局のところ、日本人は一部の感染者、一部の地域住民の自由を制限する代わりに、大多数の国民の自由を得たいと望み、その方向で選択をする、それが民主主義だと日本人は考える。小生はそう思う。もし(有難いことに)そうならないとすれば、現実の感染状況がそこまでは偶然の要因で悪化しない、あるいは悪化する前にワクチンが普及する、そんな事情が出てくる場合だろう。

大きな船はゆっくりと曲がる。これからの3か月は新型コロナ・パンデミックの前と後の時代を区切る、いわば日本社会の歴史を区切る「分岐点」になるかもしれない。マスコミが愛する単語を使えば「その可能性がある」、そう書いておこう。

2020年12月1日火曜日

素朴な疑問: いまは「平時」ではない、これ間違ってますか?

 ワクチン接種が視野に入ってきたせいか、テレビ局の話題も「ワクチンは接種するほうがよいか、待つ方がよいか?」という正にワイドショー好みの話しに移ってきた。来年の春が過ぎるころには、日本にもファイザーやモデルナ、アストラゼネカのワクチンが届いて、優先順に接種が始まるだろう。ところが、その頃にはその頃で

A: 重篤な副反応は出てはいないようです。

B: 出てないことは、これからも出ないことの証明ではないですよね、「1千万人に3人出る」わけではないかもしれないけれど、「1億人に3人出る」かもしれませんから。生死にかかわる問題かもしれません。ワクチン接種をしなければ生きられたのに、接種したことが原因になって命を落とせば大惨事です。

A: おっしゃることは分かります。でも、それじゃあ日本では当分ワクチンは打てないってことになりませんか?

こんなやりとりがどこかの番組でかわされるような気がする。

★ ★ ★

世間の議論は本筋を外してばかりいるので理解困難なことが多い。

この点は最近何回か投稿した。まとめておいて今後の便としたい。

11月25日投稿

11月23日投稿

11月21日投稿

11月19日投稿


「GOTOトラベル」は、文字通り「GOTOトラブル」になってしまったようで、いまでは来年の黄金週間まで全面ストップするのがよいという話も出て来ているから驚きだ。

この発想が小生の思考回路にはそもそも入って来ないのだ、な。「おかしいなあ」と感じてしまう。

そもそも「GOTOキャンペーン」は平時なら実行しないであろう「緊急経済対策」だ。ターゲットとなる業種を限定して資金を集中投下するという政策は、1990代のバブル崩壊期に経営が不安定化した金融部門に公的資金を集中投下して以来の事であろう。その時も問題発生から資金投下の意思決定までの遅れが問題を深刻化させ、そのため国民の負担を増やしてしまった。今回、公的資金注入のような反発が広がらなかったのは、観光関連企業に直接的に資金を注入するのではなく、旅行をする費用を補助するという手法をとったからであって、国民も広くその公的資金の恩恵に与れたからにほかならない。簡単にいえば、国民にとっても有難かったのである。

経済対策は必要性があって実施されるものである。そして、GOTOキャンペーンには確かに効果があった。それは経済データから明らかだ。もし実行しなければ今年度上半期を越せない企業がもっと増えていたに違いない。

感染者増加はGOTOキャンペーンの《副作用》である。その副作用は確認されるより前に予想されていたことである。故に、政府としては経済対策の副作用を抑える感染対策を並行実施するべきであった。こんな理屈になる。

「平時」には実行されないタイプの経済対策を「緊急」に実行するなら、感染拡大という副作用を抑えるために「平時」には実施しない感染対策を「緊急」に実行するべきであったろう。これが基本的な理屈だ。

そのような強力な感染防止対策が「緊急」に実施されていただろうか? 寡聞にして聞いたことがない。TVからも新聞からも、一切、報道はされていなかった。

政府は360度、あらゆる問題に目を向けながら、政策を進めなければならない。

GOTOキャンペーンは「経済対策」として結果を出した。政策は成功したのである。

その副作用を抑えきれずに再び経済活動自粛へと向かう流れになったのは政府の失敗である。

どこで失敗したのか?

失敗をしたのは経済対策ではない。その副作用を抑えられなかった感染対策である。

経済対策は副作用を怖れずに断行されたが、感染対策はより厳しい措置をとることの副作用を怖れ、一歩踏み込んだ感染対策を実行できずにいるのだ。

これでは両輪がそろわず結果は出ない。

★ ★ ★

効果的な感染対策を公衆衛生当局が立案できない状態が続くとする。

そんな状況が続く限り、経済対策を立案しても実行は困難になるだろう。マクロでみれば「経済活動」の拡大はヒトとヒトとの接触を増やすものであるから、効果的な感染対策で手当てしなければ感染者は必ず増えるだろうからだ。

経済活動は人々の暮らしそのものであるから、たとえ感染者がゼロになるとしても、経済が底を割って崩壊すれば日本の社会そのものが崩壊するのである。

経済よりも人の命が大事です!?

テレビ画面からこんな見栄をきるコメンテーターが登場するたびに小生はその呑気な無責任ぶりに失笑する、とともに、暗然、愕然、慄然の「三つのゼン」を感じてしまうのだ、な。

『30日以内にゼロベースに戻ってより強力かつ効率的な感染抑え込み戦略を立案せよ。それができない場合には更迭する』と、まあこんなやりとりが政府の最上層部であったかどうかは全く知らない。が、あってもよい状況になってきた感じはする。


2020年11月29日日曜日

ホンノ一言: これが「邪推」でなければ幸いだ

 テレビ局や新聞社、週刊誌の編集局は、何が日本社会にとって最善であるかなどと考えながら番組を作ってはいない。記事を書いてはいない。

視聴率向上のためである。売り上げ収入の為である。つまり利益のためである。

故に、マスメディアの胸中にある本当のホンネは、世間に荒波がいつも立っていてほしい。できれば誘拐事件が発生してほしい、爆破事件があってほしい、今の時代ありえないと思われている「内乱」が起こってほしい……。まさか、ネ。

午睡でみる夢は大体は悪い夢である。うなされる。

目覚めてから「しかし……」と思う。

日本で、というのは流石に願わないだろうが、アメリカで「第二の内乱」とでも思われる武力紛争が突如として勃発したら・・・。それは日本のテレビ局にとっては「夢のような大事件」であろう、と。毎日特集を組むワイドショーの視聴率は50%を超えるだろう。これを願望しないはずがない、と。

スポンサーは、自社商品のプロモーションを依頼する。広告企業、メディア各社は依頼者の利益に沿って行動をする。なにも反社会的ではない。なにも悪くはない。しかし結果としては反社会的な行動をしてしまうことがあるという意味で脆弱性がある。弁護士をしばる倫理基準、マスメディアをしばる倫理基準、公認会計士をしばる倫理基準……、幾つもの倫理があるのだろうが、結果として社会を時に破滅に導きうるのも、やはり倫理であるのかもしれない。非合理な開戦を決意した昭和16年当時の関係者にもまた各自それぞれの倫理はあったに違いない。誰にでもその職業の「倫理」はある、その地位の「倫理」はある、つまりそんな「倫理」がその人の「正義」を決め、誰でも「正しいこと」をしたいと常に願っているものだ。

こんな風なことを考えた。

断想: ブラームスとベートーヴェンで気がついたこと

 日本国民4千万人の『GOTOフィーバー』も新型コロナ感染者の急増をもたらした「主因」であるとの疑いをうけ、そうなるとTV各局も飛びつくわけで、「検証」も「エビデンス」もないままに、とりあえず見直し、ということになった。この間の騒動振りは、「新型」だから正体が視えないという事情は分からないでもないが、誠に非合理かつ無様で、みっともなかったと思う。今になって「本当にGOTOトラベルが感染者急増の主たる要因だったのか?それはおかしい』という指摘が色々な所から出て来ているようだ。これまたバブル現象のあとによく見られる "aftermath"、 "hangover"というものだろう。

ともかく12月中旬頃にならなければ、今回の「一時見直し」で社会状況はどうなっているか?シミュレーションも見通しもまったくない、正に急な方針転換だったので、分からない。

感染対策。いまの陣容、いまの戦略でいいの?

そう思う人はこれから急増するかもしれない。

新型コロナの感染急増と感染対策の参謀チームに不信を感じる人の急増と、どちらが速く増えるかだネエ・・・おおっと、ワクチンもあった。ワクチンの普及が速いか?この三つの競争だわね。

上の三つの競争でどれが勝つか?賭けようかという人も、今後、非常に増えてくるかもしれない。この混乱の果てに、来年夏に東京五輪が予定されている。

戦前期1940年には日本側の都合で東京五輪を辞退した。

つくづく「東京」って都市はオリンピックとは相性が良くないんだネエと、そう思う。

★ ★ ★

近ごろ、この1年のモーツアルト偏向から少し離れてブラームスをまた聴くようになった。といっても、シンフォニーの4番だけを何度も聴いている。

村上春樹と小澤征爾の対談が『小澤征爾さんと音楽について話をする』という本になっている。その中にこんな下りがあるのでメモっておこう。119ページである。

村上: しかし耳で聴く音の印象は、ベートーヴェンとブラームスとではずいぶん違っていますよね。

小沢: 違いますねえ。(しばし間がある)……あのね、ベートーヴェンもね、9番で違ってくるんです。9番にいくまでは、そのオーケストレーションにはずいぶん制限があったんです。

村上: 僕の印象からすると、ブラームスの場合、楽器編成にそんなに変わりがなくとも、ベートーヴェンの音に比べて、音と音の間にもうひとつ音が入ってくるような、一段階濃密になっているような感じがあるんです。だからベートーヴェンの方がそのぶん、より音楽のストラクチャーが見えやすいというか……

小沢: もちろんそうです。ベートーヴェンの方が、管楽器と弦楽器との対話なんかが見えやすくなっているんです。ブラームスの場合になると、それを混ぜて音色を作っていく、ということです。

話しはブラームスの第1番なのだが、こんな会話をしているのをずっと覚えていた。

少し前に、初雪が降って冬の風景になった。それで何となく、ブラームスの4番を聴く気分になったのだな。そうしたところ、これまで気がつかなかった程の芳醇な響きの重層的な構造が伝わってきて、「これはすごい」と見直した。それまでブラームスの4番といえば、甘ったるい憂愁がブツブツと語られているような晩年の心情ばかりを感じてしまって、それよりは第1番の毅然とした、それでいてベートーヴェンとは明らかに違う曲想を佳しとしていたのだ。確かにブラームスのシンフォニーは音がもう一つ入っている。

モーツアルトの39番より上だと感じた。とはいえ、40番よりは下。41番の完璧さにはかなわない。順序付けるとすれば、こんなことを考えているが、改めて気がつくのは音楽が琴線に触れるとき、必ずしも「美しい」から感動するわけではないということだ。音楽が単なる音の構築物であることを超えて、そこに血が通っている、作った人の心が表現されていて、それが自分の心に触れてくる、そんな感覚なのだな。

数学者・藤原正彦が述べていたが、人は美しい風景をみてもそれだけでは感動はしない、その風景をみて誰かを想ってはじめて感動するのである、というのが本筋をついているのだろう。多くの場合、誰かを想うとき、その誰かの涙や喜悦を想うのである。人は人の涙をみて初めて心が動かされる。

やはりそんなものかと思った。

美しいだけではダメなのだ。真理であるということだけでもダメだ。善いということだけでもダメなのだ。では「ダメでない」というのは、どういうことなのか?それはまた改めて書こう。

2020年11月25日水曜日

少数精鋭の医療資源で新型コロナの大軍を迎え撃つ日本の苦境

 複数政党の党争が激しい時、制度改革で対立が激化している時、今回のコロナ禍のような「外患」に襲われた時、そして最悪のケースだが外国と戦争をしている時、etc.、誠に有難くはない社会状況は人生と同じで何年ごとに必ずやってくるものである。そして、個人個人の人格や性質は困っている時にこそ露わになるように、その国の国民性や理念とホンネ、長所と短所など、全ては悪い時代にさしかかったときにこそ目に見えて現れてくるものである。

今年の4月20日時点といえば、『暑くなればコロナも一段落するだろう』などという希望的観測があった頃である。その日の投稿にこんなことを書いている。少し長いが引用しておきたい:

ウイルスとの戦いである公衆衛生は国際関係における安全保障と同レベルの重要性をもつ国家戦略の核心的部分だ。その戦いの序盤で医療の最前線は崩壊を起こしかけており、「医療崩壊を避ける」という第一段階の主目的は達成できなかったようだ。

立て直せるか?

(中略)

その頃、医療関係者が話していたことは

無症状、軽症の人にPCR検査をかけて陽性だからって、やることはないんですよ。ワクチンも特効薬もなくて、医者に出来ることはないんです。だから検査に意味はないんです。意味のないPCR検査は絶対するべきでなく、命を救うために意味のある対象に的を絞って検査するのが効率的なんです。

大体、こんな意見だったと記憶している。同じころ、WHOのテドロス事務局長が

Test! Test! Test!

と声明を発した際も、同氏の中国寄りの姿勢に反発していたせいだろうか、日本国内で評判が悪く、「意味のない検査拡大は医療崩壊を招くので絶対反対です」といった意見が世間にはあふれた。ふと後ろをみると「水浸し」になっている情況はこうした風潮から実現したのかもしれない。

検査対象を絞り、検査資源を節約使用しても、医療崩壊は現に起こっている。故に、戦略は失敗である。それは感染者を見逃していたことの必然的結果だ。検査拡大・感染者囲い込み戦略が定石であった。日本で検査対象を絞ったのは、日本国内の検査資源が乏しかったからである。まさにこの点こそ問題の核心であり、日本の弱みであったことをリアルタイムで誰が語っていただろうか。

当時は、限られた検査資源を可能な限り有効に効率使用していこうという戦略であった。そうした「効率検査原理主義」が極論されて『意味のないPCR検査はするべきではないんです』という意見もあったのだろう。

その後も、公衆衛生当局の基本戦略は「クラスターを追跡する」という線で一貫していたようだ。「濃厚接触者」に的をしぼって無駄な検査をしない。これが大事だ、というわけだ。何だか財布の中を心配しながら、買い物をするような健気な昭和の主婦たちを連想してしまう。

日本では、一人の検査陽性者が出たから周辺地域の100万人を一斉検査し、100人余の無症状感染者を発見し隔離するという、そんな中国風「物量作戦」で問題解決をするという行き方はとれないし、またそんな意思もないようである。もしやれば、たまたま見つかった感染者の背後には時に100倍の保菌者がいることも分かるだろうに、と思うのだが。

★ ★ ★

日本の医療分野もまた「少数精鋭主義」であったようで、ベッド数はあるといえばあるが、相対的に医師が少なく、マンパワーが限られているという制約がある。その弱点から戦略を発想すれば、大軍を相手にする事態は絶対に避ける。そんな戦略のみが実行可能になる。こういう発想は分野を問わず、日本人共通の性向ではないだろうか。

だから、襲来してくるウイルス量、つまり新規感染者数が想定を超えると医療の最前線がすぐに崩壊する。日本では河川には高い堤防を築いているが、医療分野の堤防はそれほど分厚く、余裕をもって人的資源を育成してきたわけではない — 大陸ではなく島国国家という事情がある。今もまた医療現場の崩壊が心配されるので、『感染者をこれ以上は増やさないでほしい』という要請が出てきた。これが足元の状況だ。

引用した投稿でも

量は質に代替される。高度の技は消耗戦における勝利をもたらさない。高度の技を修得する人間の数は限定的であるので犠牲に耐えられないからだ。これは組織論の基本的な命題だ。

と書いている。日本的なこの状況が短期間で変わるはずもないのだ。

★ ★ ★

4月の時点では『二兎を追うべきではない』と書いている。

補給が破綻し、長時間の戦いの中で最前線から消耗し、枝葉が枯れるように順に壊滅していくのは、典型的に日本的な敗北の風景である。言うまでもなく、湖北省以外(後で浙江省も追加されたと記憶しているが)の中国本土から観光客を延々と受け入れ続けたことも、今回の対ウイルス防衛のための戦略としては、まったくの愚策であった。これは政府の戦略目標が対ウイルス防衛だけではなかったことを意味している。

そこでもう一つの教訓:

二兎を追う者は一兎をも得ず

こういうことではないだろうか。

今でも「経済と感染抑止の二兎を追うべきではない』と言えるだろうか?

思うのだが、4月時点から単純に緊急事態状況を延長していれば、おそらく、9月末が近づいた時点でもっと大量の企業が倒産していたであろう。「緊急事態宣言」も実は極めて短期の緊急回避であって、持続可能な体制を整えたわけではない。

ここで言えることは、確かに2月から3月、4月にかけては二兎を追うべきではなかった。感染抑止に集中していれば状況はずいぶん改善されていたはずだ、ということだ。しかし、時間が経過した今はそうではない。最も脆弱なセクターの経済的困窮が明瞭になったとき、それを放置するべきではないことは、当然だ。1990年代に銀行経営の健全性を取り戻すのに必要な不良債権問題の解決に真剣に取り組むことを嫌がり、その優柔不断がついには金融危機を招いた記憶を想えば、それが当然の判断であったことはすぐに分かるはずだ。

足元ではいま感染者が再び増加している。その中で、経済対策の中の柱の一つを見直すことになった。

経済対策の一時停止が感染防止政策になる

というロジックである。経済を犠牲にして感染拡大を防ぐ。二兎は負わないということだ。しかし、やるならもっと早い時点でやるべきであったワナ、と思う。年末が近い、いまやるの、と。

★ ★ ★

まあ、背水の陣である。「背水の陣」とは言っても、EUのように政府が潤沢な資金を市場から調達して、いつでも複数のチャンネルから資金支援をする覚悟が本当にあるかどうかは分からない。補正予算だなどと言っているが、これも何だか財布を心配しながらの様子がアリアリだ。いまからもう「財政再建」の必要性を強調したりする人がいる。

待ち受ける問題を先に先にと指摘したがるのは一概に売名行為とばかりは言えまい。日本人は完璧主義なのだ。但し、問題点を列挙することには熱中するのだが、しかしその割には肝心の問題解決が苦手な傾向がある。列挙する問題が多すぎるのである。重点志向が苦手である。選択と集中をおろそかにする。全ての問題に向き合おうとする。戦略的優位を築くための長期戦が特に苦手な遠因もここにある。日本人は長くとも1年程度で勝敗がつく短期殲滅戦が好きである。であれば、好機を逃さず機会主義に徹して短期的利益を積み重ねる一点突破を重視すればよい。しかし、短期戦の積み重ねでは積み残しの問題が残る。周囲はモヤモヤ感を感じたりする。要するに、自分が解決するべき《課題設定・目標設定》が苦手なのだろう。今回の「英断」もいかなる課題を解決するための「意思決定」なのか、関係者の間で合意されているようには思えない。明らかに「緊急」なのだ。

つまりは、緊急に背水の陣を布くという決定だ。

背水の陣を急いで布くと言ったってネエ・・・背水の陣っていうのは別動隊がしっかり動く大作戦でしょ?連携作戦だ。大きなプランでがんすヨ。そんな急いでやるもんなんですかい?

シミュレーションも見通しもない。だから、どうなるかは予断を許さない。そう予想しておいたほうがよい。

★ ★ ★

『経済対策を中止することが感染対策になるのは本当か?プラスとマイナスを合計して社会状況は改善されるのは本当か?』という疑問はまさに泉のようにわいてくる。おそらくデータ分析もシミュレーションも見通しも何もない上での決定なのだろう。要するに、これも一種の「緊急事態」なのだ。緊急事態のつもりが、ケリをつけるタイミングを失い、ズルズルと泥沼に陥ってしまった経験はこれまでにも何度かありませんでしたか?

もしそんな風になるなら、これもまた日本人の国民性はあまり変わっていない証だろうと感じる。

しかし、特にマンパワーの面で医療資源が脆弱なのであれば、欧米の何分の1というこの程度の感染者増加によっても、医療現場が逼迫し、経済対策の足が引っ張られる可能性が出てくることは予想しておくべきであった。

マンパワーが不足しているなら、補充可能な物的資源(設備、機器、素材等々)は十分に手当てして医療分野の戦力拡充を行っておくべきであった。この位は、政府(及び都道府県、市町村)に反省を迫ってもバチは当たらないだろう。

日本の政治家は民意や世論調査ばかりを怖れるからダメだ、いっそのこと組織マネジメントに長けた超一流の「民間企業経営者」に全体の指揮をとってもらったらどうかと思うこともある。(アメリカは当てにならないので)中国政府から《新型コロナウイルス感染防止対策顧問》を派遣してもらうよう「緊急要請」するのはどうだろう。今回来日した日中外相会談では「新型コロナ感染にかかわる情報交換、協力」も合意の中に含まれているらしいから。

2020年11月23日月曜日

一言メモ: 「GOTO」見直しのあきれ果てたロジック

政府が旗を振ってきた「GOTOトラベル」、「GOTOイート」の両方とも、新型コロナの感染拡大を抑制するため「見直し」をすることに決まった。

TVのワイドショーなども歓迎しているから、小生心から驚き入っている次第だ、というと又々小生の偏屈振りが際立ってしまいそうだ。

GOTO見直しは、全然、理屈が通っていない。

何故なら、GOTOトラベルもGOTOイートも経済対策として実行しているものであり、「経済政策」である。

経済政策を停止することを以て、感染防止対策としたわけである。

経済対策はしなくてもいいんですか?感染防止対策は何をするんですか?経済対策を停止することが感染防止になるということですが、効果はどれだけ期待できるんですか?プラスとマイナスを合計して、本当に状況は改善されるんですか?

疑問はつきない。非常に非論理的な政策選択をしたものだ。

『やるな、やるな』の大合唱に押されて、政府は「経済もコロナも手をしばられて策なし」という状態になった。「こりゃあ、菅さん、文字どおりの雪隠詰めじゃのう、あとは運を天に任せるか」とつぶやくご老人がいてもおかしくはない。『感染がどうなるかは神のみぞ知る』と分科会会長もおっしゃっている位だからネエ、と小生はいま思っている。

理屈で言えば、政府は経済政策と併せて強力な感染防止政策をも実行するべきであったのだ。


★ ★ ★

新型コロナの「脅威」が明らかになってきたとき、日本のマスメディアでは『イタリアのようにはならない、日本の病床数は世界に冠たるレベルにある。イタリアのように財政再建のために病院を削減するという愚かなこともしていない、云々』などと、日本礼賛論をエラク展開していたものだ。

ところが、昨年時点の資料だが、以下の様なデータがある。

まず病床数。

次に、医師の数。

URL: https://www.jmari.med.or.jp/download/RE077.pdf

急性感染症向けの病床数でもないし、医師も感染対応ができる診療科の医師ではない。それでも、日本では病床数には余裕があるかもしれないが、医師が足りないという状況があるのではないか?そんな問いかけは全くの素人でもできるわけである。

足元で、医師会の会長が『ベッドだけあっても駄目なんです。重症になれば人数を割かれますから医療崩壊が起こりうるんです』と、そう訴えているのも日本の医療の実態があるのだと推測される。

欧米で発生している新型コロナ感染者数はゼロが一つも二つも多い。それでも医療関係者は総動員体制で何とかしのいでいる。日本は患者が増えたと言っても、欧米の何分の1かである。それでも医療崩壊が近いという危機感が高まっている。

日本の組織はどこでも官民問わずマンパワーの余裕がないのである。この「余裕がない」というのは実に日本的な状況である。医療分野もまたそうであったわけだ。

実態がそうなのであれば『日本はイタリアのようにはならない』などと豪語はせず、感染者数を極力抑えるということを感染対策の第1目標として、そのために最も効果的な公衆衛生政策を実行しなければならない。そんなロジックになるはずだ。

ところが、この期に及んで、『感染者数増加を抑える』ためにどのような衛生政策を実行するのかがまったく公表されていない。誠におそまつだ。『クラスター対策でやってきた』ということなのだろうが、それでも感染を制御できていないし、現実に新記録を更新中だ。感染対策強化の方針は一切でてはいない。

すぐ経済対策を止めてください。それが公衆衛生政策になりますから。以上。

と本気で考えているなら、日本の厚生労働省には「作戦立案能力」がない、つまり無能である証しだろう。

公衆衛生政策担当の「参謀」(が誰であるかも不明だが)を変えた方がよいと思う。

2020年11月22日日曜日

世界景気はボトムアウトしたのではないか

 新型コロナウイルスで世界経済は文字通り「滅茶苦茶」と語る人々が、特にメディア業界には目立って多く、「経済崩壊の下の株価高騰は理屈に合わず、いずれクラッシュする」と、そんな風な語り口が耳には入るのだが、小生には「それはちょっと少し違うんじゃないのかネエ」と思われる。

例えば、世界景気の先行指標として有用な銅価格だが、LMEの取引価格(3カ月先物)を確認すると、以下のようになっている。


足元では既に2018年初夏の頃の高値に戻っている。その後の下落を経て今回の底値は本年の春から夏にかけての時期につけている。確かに新型コロナのパンデミックによる暴落がグラフからは明瞭に認められるが、その後の回復は極めて順調である。

もちろん個々の商品ごとに細かな変動の違いはあるが、アルミも鉄鉱石も概ね同じである。石油価格は低迷しているが、これは「脱炭素化」の大きな潮流が背景になっている。

もともと日本経済は2018年10月が「景気の山」であったと公式に認定されている。別に公式認定を待たずとも、毎月内閣府が公表する「景気動向指数」を観ていれば2018年の年末近く、あるいは2019年の初頭にかけて景気はピークアウトしていたことは周知の事実であった。ならば、平均的な景気後退期間は1年半程度であるから、予測としては本年2020年の初夏にかけて景気のボトムアウトが確認されるのではないかと考えられていたわけだ。日本経済は世界経済の中で動いているから、日本のデータで予測した方向性は世界経済を見通すうえでもそれなりの有効性をもつ。

そういえば、中国が元建ての銅先物取引市場を開設する計画だという。それが実現して、その取引市場が成長するという事態になれば、アジアでは市況商品を元建てで取引するようになるので、日本も中国経済圏に入って(米側視点にたてば、取り込まれて?)いくことになろう。

いま「自粛をするか、経済をとるか」で不毛、かつ迷惑な激論が連日TV画面で展開されている。これをみると、小生は昔の「一億総白痴化」という言葉を思い出してしまう。政治までもそんな混とんとした「言論カオス」に埋没してしまう。TVも新聞も週刊誌も、日本のメディア業界がサプライしている情報は、世界のリアリティとはほとんど関係のない内容になっている。

Yellow Journalismならいざ知らず、(大国ではない小国であるのに)トップレベルのメディア各社の大半までもが(どこもかしこも)今のようなレベルのメディア事業をしていて「恥ずかしい」と思わないのは、やはり大多数が《日本語だけ》で書いたり読んだり視たりしている、メディア企業と視聴者・読者とのそんな関係性がある、一言でいえば日本のメディア市場が閉鎖的である、だからじゃないか ― マア、TV&ネットと新聞とでレベル差があるのはまだ事実だが。その意味では、《ハングルだけ》で書いたり読んだり視たりしている韓国のメディア企業と韓国内顧客層を結ぶ関係性と経営環境としてはどこか似ている……

「気を悪くしないで下さいヨ、でもそんな気がするんですけどねネエ……」ということで今日はメモしておこう。


2020年11月21日土曜日

当たり前の一言: 一般に「感染症対策」で結果を出すにはどうすればよい?

 新型コロナウイルスに限らず感染症の拡大防止で結果を出すためには、公衆衛生の観点から最も効率的である手段をとるのが最善だ。ただ、これを断行するのは実は難しい話なのだ。感染する人は何も法的な意味で悪いことをしたわけではない。人権は尊重されるのが民主主義社会の根本だ。しかし、感染者を先手必勝で発見し、社会から全て隔離/追跡可能にすることが、感染の抑え込みには最も効率的なのである。

中国はそれが出来たが、民主主義に価値を置く日米欧などはそれが出来ずにいる。中国には出来ることも、日本はやる必要がないのだ、出来ないのだという話をずっとしている。

しかし、感染が拡大しつつある中で、全員が自粛をすることにより、社会の最も弱い人たちには堪えがたい苦痛を強制する。ある人は自ら死を選ぶ。その犠牲も「民主主義」を守るためだという理屈は、小生はもはや理屈ではなく、不作為の罪であるように見える。

「感染症対策」という問題解決は、選挙によって選ばれ民意をおそれる政治家ではなく、選挙とは無縁の官僚組織に委ねて粛々と進めるのが、国民には最善であると感じるようになってきた。任期を区切って政治家ではない職業専門家に権限を付与し(つまりは官僚の一員となるが)、身分を保証したうえで、感染対策の指揮権限を委ねるのが「感染防止」という課題の解決には最適であろう。人権尊重という別の目標には別の政策をもって割り当てるのが本筋だ。

確かに中国政府は権威主義的で、中国には複数政党も普通選挙もないが、それでも感染防止政策に国民の不満が高じている傾向は全体としては観察できないようである。『それ自体が問題だ』と語るよりは、『それは素晴らしい』と思う方が、自然な見方であろう。もう経験的事実として認めるべきではないだろうか?

今回は、ワクチン開発が成功しそうなのでそうはならないと思うが、「自粛」か「経済」かという不毛の迷走をあと1年も続ければ、『我々はどこか間違ったことをしているのじゃあないか?』と、誰もが疑問を口にするようになるだろう。

「民主主義」というのは、ソーシャル・マネジメントのツールであって、それ自体に普遍的価値があるとは小生には思われない。腐敗する社会は体制はどうであれ腐敗する。問題解決能力の有無は政治体制とは関係がない。この点はずっと前に投稿している。感染症対策という問題は、民主主義社会には苦手分野なのである。ミルグロム=ロバーツの『組織の経済学』の冒頭でも叙述されているように、分権的な市場メカニズムにも苦手な問題があり、それらは中央集権的な組織的意思決定に解決をゆだねる方がよい。このロジックと同じである。それを今回経験できたことは何かの参考になるだろう。

2020年11月19日木曜日

一言メモ: 「経済」か、「自粛」かといつまで迷っているのだろう?

 感染が拡大すれば「自粛」へと傾き、感染が落ち着けば「経済」へ傾く。『バランスが本当に難しいです』と、いつまで迷っているフリをするのだろう?

カミさんとはこんな話をした:

小生: 「経済」なんて、どうしてこんな抽象的な言葉でお茶を濁すんだろうね。「みんなの仕事の数」って言えばいいんだよ。

カミさん: 仕事の数って?

小生: 「経済を抑える」というのは、要するに仕事を抑える、客を減らす、注文を抑える、要するに、みんなの仕事の量を減らすってことだよ。仕事から外される人を増やすってことなんだよ。

カミさん: 確かにねえ、でもそうしないとコロナの感染は減らないんじゃない。

小生: 歌舞伎町でもススキノでもそうなんだけどサ、いくら注意しても言うことを聞かないホントに心配な店は、もう最前線の担当者には頭に入ってるんだよ。そんな店をターゲットにして、夜中にマスクをせずに盛り上がっているその最中に、突然踏み込んでサ、『これから緊急衛生検査を始めます。この部屋を出ないでください』ってね、店の経営者には『衛生検査令状です』とか、もしこんな行動がお上に許されればね、これは感染予防には正に一罰百戒ってものになるさ。ススキノが感染拡大の核になるって状態は、絶対確実に止められる。これは間違いないよ。

カミさん:「令状」って、そんなのないでしょ?

小生: そこさ、問題の本質は!できないんだよ、今の法律では。憲法上できないってことはないと思うんだけどね、みんなが助かるんだからさ。踏み込まれた店以外の店は、一生懸命にガイドラインを守ってるんだから、何のお咎めもないんだしね。でも、これが出来ないのさ。

カミさん: 決めればいいんじゃないの?

小生: それが、この程度の感染じゃあ、できないのさ。イタリアとか、ニューヨークの状態になれば、日本人も目が覚めるんだろうけど、知事は選挙があるから『そこまでやる前にみんな頑張ってくださいヨ』としり込みするだろうし、国は国で所詮は札幌という一都市、新宿という一区域のことだしね、『知事や市長に頑張ってもらおう』ってことになるんだよ。

もちろんススキノや歌舞伎町はシンボリックな地名である。本当に「心配な店」もあれば、「心配な客」もいる。「心配な人たち」、「心配なイベント」、「心配な旅行者」、「心配な病院」、「心配な高齢者施設」、「心配な会社」など、いろいろある。衛生管理の不備についての「内部通報」を奨励してもよい。これらはまだ面的に広がっている状況には至らず、点として存在し、かなりの部分は最前線の担当者は気がついている(はずの)ものである。もう点ではなく、一部地域では面であるとする認識もあると思うが、であれば猶更のこと「衛生指導」、「衛生検査」の法制化、組織化は感染抑止に大いに貢献するであろう — お上の権限を強化する一種の「焼け太り」ではあろうが、そうせずして効果的な方策があるなら、そちらを選べばよい。

要するに、新型コロナ(だけではなく今後予想される感染症)について、その感染拡大を防止する「切り札」は、日本にはまだある。だから、日本としてまだまだ勝負できるわけであり、この点は安心してもよいと思っている。たとえ、「切り札」が「最後の手段」であるとしても、「お手上げ」よりは余程マシであろう。 

数日前の投稿

 感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。

と書いた。 

感染拡大防止という目的を追求するには、民主主義の確保にとって最適である政策を実行するのではなく、副作用を怖れずに感染防止という目的に最も効率的な政策を実行するべきである。

とも書いた。

いま「感染抑止」と「人権擁護」という複数の目的がある。一般に、複数の目的を同時に追求する場合、複数の政策が必要となるので、各政策と各目標の割り当て方が主たる問題になる、というのが経済学者ティンバーゲン=マンデルが提起した問題である。各政策は単一目的の下で実行するべきである。これが結論だ。即ち、「公衆衛生政策」は「感染防止」という単一目的を達成するうえで最も効率的な手段を選ぶべきだ。「人権擁護」も加えた複数の目標を「公衆衛生」によって同時に追い求めるべきではない。「人権擁護」は「公衆衛生」とは別の独立した政策によって担保するべきである。これが基本的なロジックになる ― 但し、この基本的なロジックは「すべて政策はいずれをみても民主主義的で、人権尊重に適うものでなければ、違憲である」とする法律家の論理とは衝突するかもしれない。

こんなことを書くのは、『 みんなで我慢をしましょうと言うのは、耳に心地よいスローガンではあるが、つまりは感染拡大現象とは何の関係もない人々をも巻き込む「(意図せざる)連帯責任論」になっている』。この発想には情け容赦がない。そう思われるからである。



2020年11月17日火曜日

ホンノ一言: 現代中国の「王安石」になるか?

 中国・北宋の改革政治家といえば、何と言っても「王安石」である。

経済的繁栄を謳歌した北宋王朝であったが、11世紀末葉にもなると経済格差と支配階層への富の集中が進み(経済発展が進むと必ず格差は拡大するものだが)、社会が不安定化した。王安石が様々の新法を実施して歪の解消を目指すことを皇帝・神宗から委ねられたのは、皇帝もまた問題を認めていたからだ。時に1069年。

しかし、トップダウンの急進的な改革に対して強固な支配層であった官僚階層は猛烈な反・王安石批判を展開した。王安石は孤立し偶々発生した大旱魃が引き金になって政権の座を失うことになった。1074年のことである。執政の座にある事、5年。

その後、宰相に復帰することもあったが気力衰えた王安石は1076年職を辞し引退することになった。しかし王安石が始めた改革政治は時代の要求にも合致しており、皇帝・神宗が在位中は一貫して進められ、その多くは目的を達することになったとWikipediaには解説されている。ところが、皇帝・神宗が退位した後は、新法派(≒リベラル派)と旧法派(≒保守派)の対立が激化し、その派閥抗争が北宋王朝そのものの衰退を招いたとも言われている。

***

現代中国における習近平についてはこんな報道もある:

中国は2035年までに経済規模を2倍に拡大するとの目標を示してから、最も価値ある自国企業の一部に対し徹底した監督に乗り出した。フィンテック企業アント・グループによる350億ドル(約3兆6600億円)規模の新規株式公開(IPO)は突如中止となり、その直後にはテクノロジー時代の寵児(ちょうじ)となっていたテンセント・ホールディングス(騰訊)やアリババグループの抑え込みに向けた独占禁止規定の強化が公表された。

出所:Bloomberg2020年11月17日15:50配信

中国が直面する最大の課題は何より《格差解消》であって、共産党が主導する中国にあって格差解消の重要性は日本をはるかに超える理屈である。共産主義とは資本主義のデメリットを解決するための経済体制であるのだから。

経済的に成功を収めた財閥を抑え込めば共産党原理主義には適う。が、必ず反発が生じる。一般に、経済的リアリティと政治的理想が正面衝突をすれば敗北するのは政治的理想の方である。理想が敗北するだけではなく、国内社会の分断、対立を激化させるという負の作用も長引くものである。

習近平が格差解消に失敗すれば、共産党は習路線を否定し、政治的敗北を認めるしか道がなくなる。が、その後も弱体化した共産党政権の内部で長く激しい派閥抗争が続くだろう。この道を辿りたくなければ、そもそも資本主義導入によって共産党の終末を免れえた経緯を振り返り、潔く民主化へ舵を切り、複数政党制と普通選挙を認めるしか道はない。

長く激しい派閥抗争か、あるいは民主化と普通選挙の導入へと舵を切り、党の名誉と国の繁栄を得ることの引き換えに共産党の緩やかな風化と衰頽を受け入れるか。

中国共産党をまつ未来は決して明るいものではない。


2020年11月14日土曜日

閉塞感と無力感の責任は野党にあり

 貧弱な野党しか存在せず、その結果、日本人には政策の選択肢がないという点にこそ、政治に参加できない日本人の不幸がある。

眼前の問題に対して現政権が実行しつつある政策以外にどのようなアプローチがあるのか、それが<提案されない/されてない>という状況がずっと続いている。

政府の政策が「ベスト」であるとは誰も思っていないのに……。期待を裏切り続けているこの現実に、マスメディアはもっと真剣に怒らなければならない理屈なのだが、政府を批判するという面では仲間同士であるせいか、とにかく評価が甘いのである。大甘である。

世論調査で内閣支持率がなかなか下がらず、支持する理由として『ほかに適当な人がいない』というのは、与党内の他の政治家というより、野党に向けた絶望を表すものだと小生は思っている。

ところが、

(野党を代表する?)立憲民主党の枝野代表は、政党別支持率が4%程度であるにも拘わらず、『政権を渡してほしい』と公の場で盛んに発言しているそうだから可笑しくてたまらない。与党のうち自民党の支持率が25%強、公明党が3%弱であるにもかかわらず、だ。それでもなお「政権を渡しなさい」と堂々と求める姿勢は、日本人特有の「恥の心理」とは無縁の、我が信条に忠実な「良心的政治家」であるとさえ思わせてくれるから、ホント不思議である。

とはいえ、国民に広く支持されていないにもかかわらず「政権」を要求するというのは、民主主義に反しているのではないか?支持されるような活動を先にするべきではないか?『少数派が権力を奪おうと考えること自体が、共産党風で革命志向的であり、国民の支持を軽んじる非民主的な態度ではないか』と、厳しく非難されてもおかしくない。小生はそう思っているのだが、不思議なことにとやかく言う人はいないようである。可笑しいネエ…と思っているところだ。

ここ日本では野党の評価が大甘である。これでは鍛えられない。現状で満足する。真剣に活動しない野党は消してしまう位の真剣な気持ちをこめて、マス・メディアには頑張ってほしいものだ。

***

日本人の政治的不幸を少しでも解消したいなら、野党は努力をして「シャドウ・キャビネット」くらいは公表するべきだろう。そして、問題ごとに与党が推進しつつある政策に対して、常に対案を公表して政府に論争を挑むべきである。そうすれば、日本人は常に問題解決のために複数の選択肢があることが分かり、閉塞感が軽減されるのだ。

戦前期の首相・若槻礼次郎の自伝『古風庵回顧録』を読むと、晩年になってからの1930年代、次第に横暴を募らせる陸軍に振り回される苦悩がヴィヴィッドに叙述されている。しかし、戦前期の軍部も第一次世界大戦後の平和第一主義の時代、世界的に軍縮が進む中で、職業軍人は本当に肩身がせまい思いをしたことが伝えられている。その陸軍が、政争に明け暮れる政友会と民政党の既存政党をよそに、第3極として日本人に認められる分岐点となったのは、昭和9年(1934年)に公表された『国防の本義と其強化の提唱』、通称『陸パン』であろうと観ている。確かに、戦前期日本の政党政治は二大政党とはいえ、いずれも有産階層に基盤をもっており、真に日本人全体の願望に応える意欲はなかったとはいえる。党争の果ての金融恐慌、金解禁と昭和恐慌など、失政が甚だしかったとはいえる。しかし、最終的に戦前期の政党政治が崩壊して、日本人が軍部主導政治を受け入れたのは、「政党政治」の現実に対する失望に加えて、軍縮で雌伏してきた陸軍が日本人の心情に訴える声を発し始めたからである。結局、日本人は軍部を選んだのだ。

その職にありながら為すべき事を怠る者は淘汰され、為すべき事を為す者が実権を握る

この原理・原則は、時代を超えて普遍的であり、常に現実となって現れるものだと、小生は思っている。軍国主義云々の議論だけでは一面的である。

はるか昔の「大衆団交」を模倣したような「対官庁・野党合同ヒアリング」などはパワハラにも見えるし、見苦しい。カビが生えたような団体交渉を思い出す。キッパリ止めて、国会による政策立案研究に必要な「国政調査ヒアリング」に切り替えるべきだろう。世代交代をして全体をリフォームするべきだ。そうすれば、官僚の中にも共感するグループが形成され生きた好循環が始まるだろう。

スキャンダルで内閣支持率を落とす戦術は、日本人に未来の提案をするものではなく、むしろ不安と絶望感を深める作用がある。政府の不祥事を非難する戦術を採用するためには、政府の支持率を低下させた後に自らが替わって進めようとする政策案をあらかじめ公表しておくことが大前提だろう。それをせずに、ネガティブ・キャンペーンを展開するから、政治不信が深まるという結果になるのだ。

まさか「政府から認めてほしい、政府に賛成してほしい」などと願ってはおるまい。敵対するなら、やりたいことが違うという理屈なのであるから、どこでどう敵対しているのか、内容を示すのが第一歩だ。

分からんかネエ、この理屈・・・高校生でも分かるゾ、と思ったりする今日この頃だ。

行き場のない閉塞感、現実を受け入れるしかない無力感は、さぼっている野党に責任があると小生は思っている。

2020年11月12日木曜日

コロナ禍の中で日本人はどこまでも「連帯責任」を好むのか

コロナ感染者が又々増加中である。ここ北海道の激増振りは瞬間的に東京を上回ったほどだ。

感染拡大の源は、実は分かっている。

東京でも、初夏の頃、感染者が非常に増えた。その時の感染源は新宿であった。「東京問題」とはつまりは「新宿問題」だった。しかし、現場で問題の本質がわかっていても、解決に向けた政策が実行され始めるまでには、非常に時間がかかった。この時間的ロスによる負の効果が大きかったことは、もう誰も覚えてはいないようだ。

『負けても引きずらない」、「ポジティブ思考」で行こう、と…大したものだと思う。

★ ★ ★

北海道のコロナ問題とは、詰まるところ「札幌問題」であり、札幌問題はつまるところ「すすきの問題」である。この事は、誰でも胸の中では十分に分かっている事実である。

===11/14加筆===

と思っていたら、14日現在で道内他所に飛び火して、札幌市外の新規感染者が4割に達してしまった。火事はボヤのうちに消せ、を地で行く失敗だ。とはいえ、まだ道内の点で発生していて、面状に拡大している様相ではない。

============

GOTOトラベルが原因だという人がいる。しかし、GOTOキャンペーンを展開しているそのこと自体が原因となって、新規感染者数が増えているのであれば、西日本も含め、全国で感染者数が増えていなければならない。人と人との接触が増えているのは、何も東京、大阪、北海道に限ったことではない。

感染抑止を実行するための「ターゲット」は現場では分かっている(はずだ)。

現時点の札幌市内の感染発生状況に基づけば、「すすきの地区」の「接待を伴う飲食店」、「カラオケ店」。限定された区域の2形態だけを対象にして一斉検査を行い、従業員から陽性者が出ればその店は2週間営業停止にする。その程度のことであっても大きな感染抑止効果が期待されると小生は勝手に思っている。小生が暮らす港町でも昼間のカラオケからクラスターが発生して、死亡者まで出たことがある。このショックが大きかったのか、以後カラオケ店から感染クラスターは発生していない。怖くなって行かなくなったからだと思われる。店側も衛生管理を徹底したのだと思われる。

問題の本質は、店の経営姿勢である。昼間のカラオケ店の実態も(その場にいたわけではないが)そうであったと聞いている。「不可」と評価しなければならない個別店舗が一部にある。これは、交通事故とまったく同じロジックであって、劣悪店舗を現実にはゼロに出来ないわけである。衛生意識が非常に劣悪な店に好んでいく客にももちろん批判される点はある。が、店の側が感染防止に十分な注意を払えば、そうそう容易く大量に感染者は出ないことはこれまでの経験から分かってきたことだ。それが出来ていない。無頓着なのだ。どの店が出来ていないか。危ないか。現場の人間であれば、もう具体的に「あの店、この店は危ない」と指をさして示せるのではないかと推測している。

いくら国道5号線で事故が多発する区域があっても、その区域の走行を自粛せよと知事が発言すれば、文字通りの「愚行」になる。事故を誘発する危険な走行をしている自動車は少数である。その種のドライバーをターゲットにすればよい。警察のパトロールを増やせばよい。それだけで慎重になるのである。

犠牲者が出て初めて危険な交差点に信号が設置される。「煽り運転」で犠牲者が出て初めて危険な運転を刑罰の対象とする。行政というのは、手を変え品を変えながら、いつでも同じ行動パターンをとるものなのだ。戦前期の反省があってだろうが、、日本では官公庁が「予防」という目的で公権力を行使することに対して、国民は、というよりリベラル系のメディアは極めて警戒的である。特に特定個々人に対して<差別的に>(営業の)自由を予防的に制限することは、たとえ「公益」のためとはいえ、「治安維持」という暗い時代の言葉をも連想させるものであるが故に、許せないという雰囲気が厳然とある。

そんな社会的心理が手伝ってなのか・・・

TVのワイドショーをカミさんと観ていると、まったく方向が違うことを話している。

A氏: 感染を抑えるにはやはり人と人との接触を抑えていく、これしかないわけですヨ。

B氏: GOTOトラベルはその接触を増やしますよね?

A氏: 政策的に増やしています。なので、感染が増えてきた今、GOTOを一時休止するのは当たり前であって、これ以上待つのはおかしいと思います。

GOTOトラベルに参加している宿泊施設が原因となって、感染が拡大したという事例は生じていない。少し数字は古いが、7月22日から9月15日までの利用者数は1700万人弱、金額では700億円強が支援されたという報道がある。そんな中で、先ず北海道が、次いで東京と大阪で感染者が増え始めた。毎日200人から300人程度の新規感染が確認されるようになった。

GOTOトラベルが原因なのだろうか?GOTOトラベルを感染抑止のターゲットにすれば効果が期待できるのだろうか?

確かに、人の移動が増え、接触機会は増えた。しかし、新規感染者数とGOTOキャンペーン政策に直接的な因果関係がないことは、時系列データの数字、相関をみても推測できることだ。

影響があったとすれば、GOTOトラベル利用の浸透から日本人全体の<心理>と<行動>が変わった。それによって、コロナ感染を加速させるような行動をとる人が一部で増えている。そんな一面が無視できないわけであって、GOTOキャンペーンは間接的な経路で感染拡大をもたらしている。そんな見方は確かにありうる。間接的な経路で人々の行動を変えているとすれば、大本のGOTOキャンペーンを一時停止して、人々の行動を元の自粛モードに戻し、それによって感染を抑止する。確かにこんなロジックは「感染抑止政策」としてありうると小生も思う。

しかし、この方法は戦争中の「じゅうたん爆撃」と同種の発想である。極めて「残虐」である。小生はそう感じる。

ちなみに付言すると、逆説的であるが「民主主義」は時に「残虐」な選択をする。なんであれ教条主義的に一つの価値にこだわれば、思考が硬くなり、バランスを失い、同情心には欠けてくるものだ。民主主義の暴走である。


★ ★ ★

感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。

ターゲットの確定は、店舗・区域・自治体など様々なレベルがありうる。

しかしながら、ターゲットをどのように決めるにしても、ターゲットを決めること自体によってその政策は国民に対して<差別的>に働く。その意味で、ターゲットにされる側の基本的人権を侵害することにもなるという理屈はありうる。

しかし、公益拡大のため<差別的>に作用する政策が不適切ということであれば、便益平等の公共サービスの財源にするために累進的な所得税を課することもまた本当はおかしいという理屈になる。

公益のため一部の人たちに我慢を強いるのは人権を侵害する。「だから、みんなで我慢しようヨ」という考え方は、要するに「一蓮托生」のロジックであり、公益を名目として国民に「連帯責任」を求める思想と同じであろう。

小生はこのような考え方には反対する立場に立っている。

★ ★ ★

経済活動全般を抑えれば、一部の人に負担がしわ寄せされ、生活不安から自死を選ぶ人が出てくる。これが事実であることは、既にこの夏以降、確認されてきている。

感染者数が目に見えて増え始めれば、多数の国民は感染を抑えたいと求める。多数の国民の願望に「寄り添う」といえばよいのか、どのマスメディアも自粛志向の政策転換を主張する。それによって多数の国民の視野には入らない一部の人々に負担がしわ寄せされるのである。

「みんなで我慢をする」という社会的行動は、実は一部の人に耐えがたい負担を負わせるという結果をもたらしている。そして、その事を日本のマスメディアは、嫌がっているのかどうか分からないが、あまり語っていない。

「みんなで我慢をしましょう」と言うのは、耳に心地よいスローガンではあるが、つまりは感染拡大現象とは何の関係もない人々をも巻き込む「(意図せざる)連帯責任論」になっている、と。こう断定されても仕方がないだろう。

★ ★ ★

感染拡大防止には効果的な政策とそうではない政策がある。

政策の選択は、あくまでも行政の効率性の基準から行われるべきであろう。

「感染拡大防止」を目的とするなら、最も効率的な政策がある。ターゲットを決めるべきである。もし「民主主義の確保」をも同時に目的にするなら、同じ政策に二兎を追わせるべきではない。トレードオフになるかもしれないからだ。

同時に追求する目的が幾つかあるのなら、政策手段もまた目的と同じ個数だけなければならない。これは経済政策理論では誰もが知っている「ティンバーゲンの定理」である。

感染拡大防止という目的を追求するには、民主主義の確保にとって最適である政策を実行するのではなく、副作用を怖れずに感染防止という目的に最も効率的な政策を実行するべきである。民主主義の毀損が問題になるなら、もう一つの政策で手当てしなければならない。これも経済理論の基本である「マンデルの定理」から言えることである。

TV局で(新聞社もそうだが)報道番組の基本編成を担当しているプロデューサーは、(実は)何の学問的基礎もない「無学・無教養」な人たちであるという印象を小生はいつ頃からか持っている。そのTVのワイドショーでは、政策の是非についてコメンテーターが雑談することが多いのだが、余りに「定石」を知らない、大学初年級の基礎知識を知らないことに呆れることがママある。政策をめぐるこうした社会的ノイズもまた、日本の経済社会のパフォーマンスを大いに停滞させるという作用をしているのじゃあないか、と。そんな風にも感じているのだ、な。



2020年11月11日水曜日

一言メモ: 「世界の潮流」は学問世界ではどうでもよいことだ

 特に人文系、社会系の専門家に多く見られるのだが、

〇〇の問題については、▲▲のように考えるのが世界の潮流

というパターンで、「〇〇については▲▲と結論するべきである」と見解を述べる人が多い。

小生がまだ若かった頃は、理論経済学者が『大事な事は紙と鉛筆(そして頭脳と想像力?)で分かる」と豪語していた時代であって、理論こそが学問の本流としてリスペクトされていた。そんな時代に、敢えてその理論が現実に合致しているかどうかをデータに基づいて検証しようとする計量経済学は文字通りの「傍流」であった。そもそもの出発点から「主流派嫌い」であった小生の感覚では、『いまは▲▲と考えるのが世界の潮流」と語るような思考パターンが好きであるはずがないのだ、な。

そればかりではなく、『これこれが世界の潮流」と語ること自体、その学問分野は「科学」ではない証拠であると考えている。

***

コペルニクスは、天動説が「世界の潮流」であった時代に、実は地動説がデータを簡明に説明できることに気がついた。気がつきはしたが、それを出版することはしなかった。ところがガリレオ・ガリレイは公開の場で地動説を支持したことから、ローマ教会に反することになり、「世界の潮流」からみれば「異端児」として処遇されることになった。

20世紀になってロシアのレーニンは「世界の潮流」が資本主義である時代に、経済後進国であるロシアで社会主義経済の実験をした。それも社会主義が最先端の思想であり「これからの世界の潮流」であると考えていたからだ。・・・その失敗は74年後に表面化してソビエト連邦は瓦解した。

何が「潮流」であるかということと、何が現実を説明する正しい理論であるかということとは、まったく別の問題である。

データを説明できる仮説は複数あるが、データを説明できない理論は嘘に決まっている。これだけは言える。「潮流」であるかどうかは、どうでもよいことだ。

だから、『こう考えるのが現在の世界の潮流です』と、堂々と語る人物は学問とは縁のない人。よく言えば、思想家、宗教家、政治家ということになるだろうが、要するに自らが信じている価値をただ主張している人である。ま、主張すること自体は自由であるから、現代はよい時代なのだ ― 主張だけで止めるべきであって、政治行動をして、特定の価値感を公衆に押し付ければ非民主主義的な抑圧になるので、要注意人物でもある。

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。それが「社会の潮流」である。分かりやすくいえば「世間の受け止め方」である。従順な人は「社会の潮流」に従うだろうし、反骨心あふれる人は「誰かの信念」に共感して、「これからの潮流」を主張しようとする。それだけのことである。真理を探究する科学者ではない。

なぜ「▲▲と考えるのが世界の潮流です」という表現を好む人がいるのだろうか?その理由は、(特に日本では??)「民主主義は善いことだ」という価値観が広く浸透しているからだと思われる。学問世界では現実と合致した理論であるのか否かだけが重要なのであるが、「民主主義」という価値観をコッソリとしのばせることで、「潮流=支持者が多い」つまり民主主義的観点に立っても「▲▲と考えるのが正しい」と。そう言いたい。そんな思考法だと、小生は勝手に解釈している。科学とも、広く学問とも、まったく縁のない議論であるのは勿論だ。

民主主義が、客観的かつ科学的な意味合いから、本当に支持される考え方なのかどうか?これについてはずっと以前に投稿したことがある。が、このトピックはまた改めて。


2020年11月10日火曜日

ホンノ一言: 茶番のやりとり、茶番の報道

 こんな報道があったのには、小生、失笑してしまった。

 菅義偉首相は10日の衆院本会議で、日本学術会議の会員任命拒否問題を巡り、学術会議と政府の間で2017年に行われた人事の事前調整は適法との考えを強調した。

出所: Yahoo!Japanニュース、11月19:10配信

元ニュース: 共同通信

報道が・・・ということではない。内容である。総理大臣が国会で「学術会議の人事の事前調整は適法」と答弁したことを、ご丁寧に「ニュース」だと言って報道していることが可笑しかったのだ。

これは当たり前である。ニュースには値しない。渋谷の犬がワンと吠えてもニュースじゃあない。犬がカア、カアと吠えて初めてニュースになる。

この任命案を首相にあげた事務方の官房副長官を国会に招致せよと野党は主張している。であれば、事前調整が適法であると判断した(はずの)内閣法制局長官も国会招致を求めるのが筋だ。法制局長官に「適法と考えているのか?」と聞けばいい。「適法でございます」と回答されるのは確実だから、その次の質問をどうするかがカギになる。

つまり茶番である。質問も低レベル。報道も低レベル。本質を避けて時間つぶしをしている。

こんなところにも、時間つぶしにも似た「低生産性サービス業」の実態がうかがわれる。まさに象徴的だ。日本経済の全要素生産性(TFP)上昇率が低迷しているのもムベなるかな、である。


こんなことをしている間に、任命拒否にあった6名の学者が週刊誌ネタにされそうな勢いだ。日本社会の既存組織では、内部経済がプラス方向に成長しないので、外部不経済のマイナスばかりが目立ってきている。暮らしづらくなるわけだ。


それにしても、本当に政治と関係をもつとロクなことはない。その「イイ見本」になってきた。

菅首相は「政治で国は動いている」と感じ政治家になったと聞いたことがある。もしそうなら、国会審議で国が動いているわけではない。これもまた確かなことだ。あれは「政治」の現場ではない。時間をかけて視聴しても意味はほとんどあるまい ― ま、こんなことは周知の事実であるのだろうが。

2020年11月6日金曜日

「日本学術会議」の独立性について

 日本学術会議の6名任命拒否をめぐる論争がまだ終息していない。特に、同会議の「独立性」で判断が分かれているようだ。

「独立」といえば、小生は公正取引委員会と会計検査院を連想する。どちらも独立性が非常に高い機関である。

公正取引委員会については同委員会のホームページでこう解説されている:

公正取引委員会は,独占禁止法を運用するために設置された機関で,独占禁止法の補完法である下請法の運用も行っています。

 国の行政機関には,○○省や◎◎庁と呼ばれるもののほかに,一般に「行政委員会」と呼ばれる合議制の機関があります。公正取引委員会は,この行政委員会に当たり,委員長と4名の委員で構成されており,他から指揮監督を受けることなく独立して職務を行うことに特色があります。

 また,国の行政組織上は内閣府の外局として位置づけられています。

また、人事についてはWikipediaに以下のような説明がある:

 公正取引委員会は、独禁法等の違反事件の調査や審決を行う準司法的な機能、および規則制定権の準立法的な機能を有している。内閣総理大臣の所轄に属するとされているものの、委員長及び4名の委員が「独立」(独占禁止法28条)して職権を行使する独立行政委員会である。委員長及び委員の任命には衆参両議院の同意を必要とする。委員長は認証官とされ、その任免は天皇により認証される。

 他方、会計検査院は強度の独立性を担保されている。同じくWikipediaから:

会計検査院は、日本国憲法第90条第2項、会計検査院法第1条の規定により、内閣に対し独立の地位を有する[4]。さらに会計検査院の検査権限は内閣及びその所轄下にある各機関のみならず、国会(衆議院、参議院)、最高裁判所をも含むすべての国家機関に対して当然に及ぶなど、一般の行政機関とは際立って異なる性格を有している[4]。また、憲法にその設置が規定(第90条)されているため、その改廃には憲法改正を要する点も他の行政機関と異なる。

人事についても

 会計検査院の意思決定は、検査官会議で行われ、これを構成する3人の検査官は国会の同意を経て、内閣が任命する。また、検査官の任免は、天皇が認証する(認証官)。会計検査院長は、検査官のうちから互選した者を内閣が任命する。

★ ★ ★

機関としての「独立性」が担保されるべきであるという点だが、真に内閣から制度的に独立するべきであると考えて設置されたのだとすれば、内閣による人事にとどまらず、国会の同意なり何なり、内閣とは別の機関も関係する人事にするのが理屈だろう。

公正取引委員会委員の任命には国会の同意が必要であり、また本人の意に反して罷免することができる要件が明文で規定されている。内閣の自由な裁量で任命したり、罷免したりすることはできないことが規定からも明らかである。逆の視点からみると、確かに独禁法28条で「独立してその職権を行う」を規定されているが、それでも委員の人事については内閣が任命することになっており、かつ国会の同意が要る。その国会の同意が得られなければ、事後的にその委員は罷免されなければならないと定められている(31条の6)。その機関の独立性は必ずしも内部人事がそのままの形で実現されることを約束するものではない。

「内閣総理大臣の所轄に属する」と独禁法第27条では規定されているが、それにも拘わらず、第28条から第32条までにおいて、独立性・任命・身分・身分保障などを規定しているのは、「内閣総理大臣の所轄であるにもかかわらず」という意味合いの下で解釈するべきだろう。仮に、身分の保障等について特段の規定がなく、単に「内閣総理大臣の所轄に属する」と規定しているだけであれば、それは一般的な意味で「所轄する」という文言を解釈するほうが素直である。

他方、会計検査院の根拠である「会計検査院法」では、そもそも第1条で『会計検査院は、内閣に対し独立の地位を有する』と定められている。内閣に対する「独立性」をこれ以上明確に示す根拠はない。

会計検査院院長は、『 会計検査院の長は、検査官のうちから互選した者について、内閣においてこれを命ずる』と規定されている。検査官は国会の同意を経て内閣が任命することは上述のとおりだ。「推薦に基づく任命」ではなく、互選によって任命されている。「互選」と「推薦」はどう違うのかというのは、それこそ内閣法制局の所轄だろう ― ここまで独立性を担保しても、それもなお会計検査院は政府の影響下にあると時に揶揄されたりするのだが、それはまた別の話題である。

世間でよく引き合いに出される例になっているのは、天皇が総理大臣を任命している点だ。「任命」するからと書かれていても「拒否」はできないだろうという議論だ。しかし、素人でもこの議論がおかしいことはすぐに分かる。天皇による任命に先立って国会が議決によって(1名を)指名することになっており、同時に国会は国権の最高機関であると規定されているので、天皇が任命拒否できるロジックはないのだ。

★ ★ ★

要するに、政府の裁量によって任免ができないケースがあるのであれば、そのことが手続きと共に条文で明記されている。行政権を有するにも拘わらず人事という面で政府を束縛する以上、明記されるのが当然でもあり、これは立法意思を明示することでもある。

日本学術会議は、確かに第3条で『日本学術会議は、独立して左の職務を行う、云々』と規定されているが、《何に対して独立して》同条文の各項の職務を行うのか明らかではない。「内閣から独立して」と読めないことはないが、しかし、第1条で『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする』と明記しているので、第3条の「独立」が内閣総理大臣からの「独立」であると解釈するのは、牽強付会に過ぎるのではないかと小生には思われる。設置法には独立性の規定はあるが、しかし身分の保障や内部推薦の担保について特段の規定はない。推薦から任命に至るまでの規定がない。であれば、やはり普通の意味で内閣総理大臣の「所轄」の下にある。こんな理屈になるのではないか。「推薦に基づく」というのは、「推薦に基づかず」して政府の裁量で任命することは不可である。そう読むのが素直なように思える。

結局、今回の任命で欠員が出来てしまったが、それは学術会議の側の候補者リストと政府の意向の共通集合として、任命が決まったということであって、学術会議の意向にも、政府の意向にも沿った任命となったわけである。別の方法をとるとすれば、例えば政府の意向と学術会議の意向の和集合として定員が満たされるまで優先順に任命していく手法もあってよい。現行の方式は学術会議の内部推薦に基づく方式である。学術会議の意向は十分に尊重されていると小生は思うのだが、なぜ学術会議(というか日本共産党?)が不満であるのか。そこがよく分からないのだ。

★ ★ ★

小生は、小役人をやっていたとはいえ法律には素人であり、せいぜいが学内教務上の学則をいじっていた程度である。とはいえ、素人が少し調べてみても、日本学術会議の「独立性」は法律の条文に沿って素直に読むなら、かなり限定的に解釈しなければならないことがわかる。

まあ、おそらくは会員が各学界の権威や出身大学の意向、その他諸々のしがらみから拘束を受けることなく学術会議の使命を達成せよ、と。そんな意味での「独立性」だろうと小生には読み取れる。

★ ★ ★

以上みたとおり、これは国会でつついてみても細かな話であり、法解釈の問題であるとしても判定は自ずから明らかではないかと感じる。

内閣法制局が法解釈を変更していないというのは本当だろう。「条文上は明らかに拒否ができる文言になっているが、政府は推薦を拒否する意志はもちません」、「政府の任命はあくまでも形式的なものにする所存です」等々と、その時の総理大臣(中曽根首相)が前段を(故意に?)省いて答弁したものと思われる。

ま、「詐欺」といえば詐欺に近いが、これもまた「政治」というものだろう。

そういえば現在の野党も既に「政治」をしている。

行政判断に不満があれば司法の場で黒白を明らかにするのが筋道だ。政府の個別人事の理由を政府が公開の場では明かさないとしても間違っていない。政府は野党の許可をとって行政判断を行う義務はない。論争を仕掛けているのは野党である。政府は論争には応じていない。が、論争をしたい側が止めなければ論争は続く。しかし野党の言うとおり、法解釈の正当性が論点なのだから、行政訴訟に委ねるのが本筋だ。それを国会で論じ政治案件にしている。そうしているのは明らかに野党の方である。なぜなら来年には衆院選があるからだ。

何日か前の投稿でも書いたが、野党もまた「政治」をしているわけだ。その野党は、そもそも最初にこれを「政治」にしたのは与党の方だと言うだろう。

売られた喧嘩は買わせてもらう

そんなところか。与党も野党も同じ。要するに、政治家が「政治」をしている。ただそれだけの事である。「そんなに面白いのかネエ」と、小生などは思ったりするが、面白くてたまらないのだろう。

・・・ただ、仮に司法判断の場に移った場合、政治的な意味合いであるにせよ、推薦された候補の任命を拒否するなら一本理屈の通った根拠は要る。「危ない」という程度の理由で任命を拒否したのであれば、その結果として欠員が出来ているわけでもあり、あまりに運用が恣意的であると見なされ「決定は合理性に欠ける」、と。そんな判決が出る可能性は大いにあるとみている。ただ推薦通りに任命せよという判決にはならないとみる。

以上、覚え書きまで。

===

加筆を繰り返し、この辺でざっと一段落した感じがする。「一言メモ」はもう外してもよさそうだ。


 

2020年11月5日木曜日

大統領選挙の「1票の重み」を指摘する人がいるが……

 アメリカの大統領選挙は日本でもワイドショーの人気トピックである。日本にも多少の関係があるので、一種の「高みの見物」的な興味がある。もしもこれが日本国の運命を決めるほどの重要性をもっているなら、どのTV局も朝から晩までこればかりで一色になっているはずで、まあまあ丁度ホドホドに重要である話題、それがアメリカの大統領選挙であったのだろう。大阪都構想よりは日本全体に関係があるわけだし・・ということだ。

頻繁に聞くのは大統領選挙の仕組みについてである。特に、各州の選挙人を総取りするという間接選挙の成り立ちは、自民党総裁選挙を除けば、日本では馴染みがない。この方式のため、全米の得票率とは別の勝敗になることがある。前回のドナルド・トランプ対ヒラリー・クリントンのケースがそうだった。得票数ではクリントン候補が勝ったが、獲得した選挙人数ではトランプ候補が勝利したわけだ。

これについて『国民の得票数では勝ったのに、それでも選挙では負ける、これはおかしいということになっていくのではないでしょうか?」、「1票の重みに違いがあるんですよ」等々、この辺でアメリカの大統領選挙制度は民主的ではないという批判を語るTVコメンテーターが多いようだ。

日本人が『アメリカの大統領選挙制度は「民主的」ではない』と語ること自体が、どことなく漫画チックなのであるが、それも「一票の重みは完全平等であるのが真の民主主義」であるという大前提から選挙を考えているからだ。

★ ★ ★

いわゆる「1票の重み」についてはずっと以前に投稿したことがある。

小生は、その国の選挙で1票の重みに違いがあるとしても、当たり前だと考える立場に立っている。

★ ★ ★

大統領選挙は、人口が多い州には多くの選挙人が割り当てられているので、1票の重みへの斟酌は(十分ではないという理屈にはなるだろうが)されている。上院議員選挙になると、各州一律に2名であるから、1票の重みの平等はまったく考慮されてはいない。合衆国憲法に「各州平等」の規定があるのだ。

確かに、1票の重みという点では不平等だ。しかし、アメリカは(日本もそうだが)東海岸、西海岸などの大都市圏への人口集中度がかなり高い。人口比がそのまま投票の重みになるなら、人口希薄な地方は小さな政治的発言力しか持てないのが当たり前だという理屈になる。しかしながら、(これも最高裁判決を批判した以前の投稿で書いたのだが)地方では土地集約的な農業・牧畜が主たる産業である。広い農地、牧場には家畜はいるがヒトは住んでいない。『人口が少ないので政治的発言力はその分削減しますから……』と、そう結論を出すのは『大事な事は大都市の住民で方向を決めますから』という意味になる。

想像だが、人口比に準じて上院議員定数が割り当てられるなら、例えばロッキー山脈東麓の人口希薄な諸州(ネバダ州、ユタ州、ワイオミング州等々)は、政治的発言力が大幅に低下するので、アメリカ合衆国から離脱することを目指すかもしれない。人口希薄な地方圏は、大都市主導の国家から独立して、自分たちの政府を設立したいと考えるかもしれない。独立して自らの利害を自らの意志で守るほうが良いと考える住民は地方にはかなり存在するであろう。独立すれば1対1の対等になるからだ。これでは現行制度と同じになる — 日本国内にも同じ理屈で物事を考える人々は、小生が暮らす北海道をはじめとして、潜在的にかなりいると想像している。

念のために付言すると、各選挙区で有権者数と議員定数が比例するように選挙区の区割りを決めればよいのだというのは、小手先業であって本質的解決にならない。この手法もまた、各選挙区の職業比率に着目すれば、第2次、第3次産業に従事する人々の意向がより強く反映されるのは当然であるという価値観に立つことになるからだ。「価値観」であって、「理屈」ではない。

利害を異にする大都市圏から農業地帯である地方圏が離脱、独立する……そうした状態は、どちらが得をするのだろう。少なくとも「アメリカ合衆国」全体の国益にとってそれはプラスではないと思うのだ、な。

★ ★ ★

1票の重みを完全に平等にしないのは、決して《国家の怠慢》ではなく、国の統一や国の利益を考えた《国家戦略》である。小生はそう考えている。同じロジックは、日本国内の「1票の重み」をどう考えるかという論点にも当てはまる。地方が余りに得をして、大都市圏の経済的不利益が余りに大きいという感情が高まれば、今度は大都市圏の側から地方圏の切り離しを願うようになるだろう。逆に、大都市圏ばかりが得をして、地方圏が割を食っているという感情があるなら、1票の重みの完全平等などは目指すべきではない。国益を考えればそれが合理的だ。そんな風に「選挙」という意思決定方法については考えている。

陳腐なようだが、選挙もまた意思決定方式の中の一つであり、目的は《国益の向上》と《利益配分のバランス》である。故に、地域間の「一票の重みの格差」は正に政治問題であって、憲法や法律に関する問題でもないし、倫理や理念に関する問題でもない。

今日の投稿の結論はこんなところで。

2020年11月4日水曜日

ホンノ一言: 『守れ、守れ』をあと何年言い続けるのだろう?

『守れ、守れ』と声をあげる方が負けて、『倒せ、倒せ』という側が勝つのは浮世のならいである。

 行政手続きにおける押印廃止方針は、もはや「〇〇廃止運動」のような観を呈している。ご時勢といえばご時勢だが、こんな世間になるとは前もっては予測しがたいものだ。

が、マア公平かつ客観的にいえば、署名ならいざ知らず、署名押印の押印は無駄であろうという例は無数にある。これ自体は誰もが認める事実だろう。ずっと昔、小生の上司が『今朝は新聞を読み終えた印に判を押してきたよ』、『エッ、ホントですか?』と、そんな戯れのような話をしたものだ。よろず押印をもって公的手続きの基本に位置づけている国家といえば、(調べてみたわけではないが)日本の他にどこがあるだろう?

***

ところが旗を振っている河野行政改革担当相に対して猛反発している地域もある。印鑑が地元の名産になっている山梨県などは代表格である。河野大臣がネットで何かを言えば、知事自らが『嫌悪感を催す』などと語っているくらいだ。

どうも4年前のアメリカにトランプ大統領が登場してからというもの、政治家の言葉が口汚くなり、自己利益を臆面もなく主張することや感情を抑制できないことなど、本来は恥ずかしいことを、なんと政治家までが恥ずかしいと思わなくなってきた傾向がある。

政治家が庶民の真ん中に居て神輿に乗っているようでは、単に担がれているだけの存在である。誰でもよい理屈だ。「神輿は軽くてバカがいい」と言った重鎮政治家もいた。真ん中でみこしに乗るのではなく、庶民の前に出て将来を見通すくらいのことはする義務があるだろう。とすれば、庶民が下品になり(大半の庶民は下品になっていないと感じるが)、感情を抑えなくなっても(庶民の多くは感情を抑え礼儀を守っていると感じているが)、政治家がそれを真似してはいかんだろうと思うのだが、カンナ屑のようにペラペラとその時々の風にあおられる御仁が政治や行政をやっていたりするのが今のご時世である。

山梨県の人たちの地場産業を守るために日本国の制度をどうするかを決めるというのは、ちょっとついていけんナア、と。そう感じるのは、小生だけではないような気がする。

***

どこもかしこも『守れ、守れ』の掛け声ばかりだ。一体、いつまで守ればいいのだろう?何もかも守らなければならないのだろうか?そんなに守るのが大事なら、新生児の名前で「守」とか「護」が多いはずだろう。しかしよく目にするのは「翔」や「大」の字で、日本人の多くが何かを守るのに必死であるという雰囲気ではない。むしろ大きく飛躍をしたいという心情が子供の名前にも表れている。

「これが育ってきた、あれも育てたい」と、そんな風な声がたまには出て来てもバチは当たらんだろう。

このくらいは、バッサリと言ってほしいネエ。たとえ"Politically Wrong"であるとしても。「言っちゃえ、〇さん」と煽りたいところだ。


2020年11月3日火曜日

一言メモ: 科学リテラシーと前後則因果の誤謬(post hoc ergo propter hoc)

 こんな記事がある:

日本工学アカデミーは緊急提言を2017年と2019年に出している。わが国工学と科学技術力凋落への危機感から書かれた提言は、共に科学技術政策担当大臣に手交された。

「情報時代を先導する量子コンピュータ研究開発戦略」「2030年の超スマート社会に向けた次世代計算機技術開発戦略」「新たな働き方、生き方、社会の在り方の実現に向けた提言 テレイグジスタンスの社会実装へ」「医療の高度化と医療制度のサステイナビリティの両立に向けて」と、他の提言も具体的で将来を見据えたものである。

出所:アゴラ-言論プラットフォーム『日本学術会議は日本工学アカデミーに学べ』

URL: http://agora-web.jp/archives/2048777.html 

上の提言をみて、「このアカデミーの提言は政府の基本方針とほとんど同じだから、この機関は政府から独立してはいないようだ」と、そんな批判をする人もいるかもしれない。

政府の方針に沿って、民間機関が将来の方針を決めているのであれば、やはりこの国は政府主導で動いていると、そう観るのが「正しい」ということにもなるのだろう。

しかし、そう簡単ではないと思う。

***

いわゆる「前後則因果の誤謬(post hoc ergo propter hoc)」を連想してしまう。

稲妻が光った後に雷鳴が轟くが、だからと言って稲妻が雷の原因であるわけではない。本当は二つ同時に発生している。雷鳴が稲妻の後から聞こえるのは観察者までの距離による。後で観察されたからと言って、先に見たことの結果であるとは限らない。ただ「そう見える」だけである。

政府が政策方針を検討するとき、関係各界の意見を聴くものだ。政府の方針が公表されると、それに併せて財界や企業も同じ方針で具体的な計画を発表する。だからと言って、民間企業が政府に合わせているとは言えない。政府主導で物事が進められているとは限らない。ただ、そう見えてしまう。

これもやはり"Post Hoc Ergo Propter Hoc"の誤謬の一例だろう。

「民間が政府から独立していない」のではなく、「政府が民間から独立していない」のだとすれば、むしろ良いことだろう。

***

観察された事実や現象をどう説明するかは、現象の背後で働いているメカニズムを洞察し、立証しておくことが不可欠である。

同じ現象に対して、異なった複数の説明の仕方を列挙し、どれが真相に当てはまっているかを検証するのが科学的方法の核心である。

統計学の授業では事件捜査を例に引いて話したことが何度かある。

捜査の段階では複数の容疑者が現れるものだ。その容疑者は「推定無罪の前提」に立てば、最初は全員がシロである。シロがクロになるのは集められた物的証拠から「彼はシロではありえない」と結論されるからである。ということは、シロの可能性を否定する十分な証拠がなければ、シロの前提を覆すことはできない。故に「疑わしきは罰せず」なのである。容疑者が真にクロであるときに、証拠をもってそれを立証する能力を統計学では「検出力」という。誤ってシロの容疑者をクロと判断するのは「第1種の過誤」、クロであるにも関わらずシロであると判定して立件に至らないとすれば「第2種の過誤」になる。これらは統計学の基本中の基本である。

往々にしてやりがちな非科学的議論がある。

それは直観的にクロであると結論したい何かがある。そこでクロの想定を支持する証拠を一生懸命に集める。そして「これだけの証拠がある。だからクロである」と結論を出す。これは典型的なデータ・クッキングである。シロの前提に立ったときに、同じ証拠がどの位の確率で得られるのか、その点の評価をしなければならない。

「実証的」と言いながら、実は一方的な、偏った「検証」をしている例は余りにも多いと感じている。結局は、「科学リテラシー」の問題である。


2020年10月31日土曜日

一言メモ: 「表現の自由」、「言論の自由」が隠すパラドックス

イスラム・テロには屈しないと決意しているフランスに対して、イスラム諸国はフランス商品不買運動で応じているようである。

「表現の自由」を断固として守ると力説するマクロン大統領の強気の姿勢に対して、カナダのトルドー首相は『表現の自由には一定の制限がかかる』と発言した。アングロサクソン文化圏はやはり経験主義的であり、フランス的思考は大陸合理主義の系譜だからかどことなく観念論的である。フランスが日和見的に妥協することはどうもなさそうだ。

以前の投稿でこんな事を書いている:

言葉をビジネスツールにしている業界は「表現の自由」を連呼しているが、それは一般ビジネス界が「営業の自由」を主張するのと同じである。井戸端会議に精をだす奥さん達にすら100パーセントの「表現の自由」はないのが現実だ。どれほど営業の自由を主張しても、例えば金融業や学校経営、病院経営等々に営業の自由はない。すべて「自由」はそれ自体としてではなく、もたらす結果によって正当化されている。功利主義から判断されている。

その意味では「表現の自由」はより高い目的を達成するための方法である。有効だと信じてきた方法であっても、拙い使われ方が目立ち、望ましい結果とは遠ざかっているという判断がなされれば、方法の有効性そのものを再評価するのは当然の成り行きだろう。

これは明らかにカナダ首相の立場に近い。小生はかなりエクストリームで偏屈であることを自覚しているが、こればかりは平均的日本人も同じ見方ではないかと思っている。

***

好きな作家を全集で買うと各巻に「月報」などという名前の別冊が付いてくる。古本で購入してもこの月報がついている全巻セットはそれなりの価格がする。

昭和39年刊行の永井荷風全集第10巻の月報には寺田透が寄稿していて、中にこんな1節がある:

言葉は真実をかくすためにあるのだと言ったといふタレイランのことは今考慮の外におくにしても、人は書き語りはじめるや否や現実そのものではない一つの別の、フィクショナルな世界の造り手となる。あくまでそれは造り手となるのであって、その住人とか生活者になるのではなく、言語表現の場で、「私」、「非私」を問ふのがそもそも無駄なことなのだ。

「淡々と客観的に事実を叙述する」などという活動は仮面であって常に欺瞞になるということになるが、マア、この位の理解が一番賢明であるのだろう。現状をみても。 

報道や言論も同じ対象に入る。背後には必ず具体的な人間がいる。そしてジャーナリストが書く文章はジャーナリストが生きているリアリティとは独立した、ジャーナリスト自身が造った世界を表現している。上の下りはそんなことを言おうとしている。

「報道」に従事している人は語りたいことを語れる「自由」を欲している。しかし、その願望は、決して理念とか価値観のような高度なものではなく、むしろ「言論ビジネス」を思い通りに展開したいという営利動機を隠しているのではないかと、そう勘繰られるところが、いかにもウィークポイントになっているわけだ。だとすれば、所詮はマネーであるという「表現の自由」の楽屋裏を見せるような、ありのままの素な意見はむしろ言いだしにくい。同業者に迷惑をかけるので憚られる。これではかえって「表現の不自由」というものだ。

表現の自由を公共の場で力説することが、実は「表現の不自由」を目的とする行動になっている。意図的、戦略的にそうしているわけではないにしても。

これまた普遍的価値の共有が内に隠しているパラドックスの一例だろう。

2020年10月29日木曜日

メモ: 「施政方針演説」と「代表質問」は戦前の遺風で旧式だと思う

訳の分からない屁理屈というのは無数にあるものだ。人事について『任命拒否には理由の明示が要る』という指摘があるかと思えば、『説明できることと説明できないことがある』という発言もある。こんな状況では、複数候補がいる組閣時において任命から漏れた有力議員から自分を外した理由を示せという抗議がそのうち公然と出てくるだろう。確かに、情報公開請求が制度化されているのだが、現実の意思決定が幾つかの説明変数から完全かつ機械的に決まっているケースはない。常に「その他要因」が作用して選択や行動には揺らぎが混じるものだ。それが現実である。そもそもの一般原則は『あらかじめ定められた機械的識別を単純反復するという意思決定方式は最低である』というものだ。情報公開制度で期待されているのは、「決められている通りに決定されたかどうか」を確認するのではなく、意思決定システムから余りに乖離した決定には、不合理な(時には不正な)影響があった可能性があるのでその検出を可能にするという点にある。統計的に言えば「異常の検出」が目的である。そしてどこから先が「異常」であるかという臨界点は、緩くみる立場もあるし、厳しくみる立場もある。あらかじめファウルラインが目に見えるように引かれているわけではない。故に、敢えて判断をしたいなら、その権限がある機関、スポーツの試合であれば審判が、国であれば司法に任せるしかない理屈だ。


それはともかく・・・


国会が開会されると冒頭で首相による「所信表明演説」(=施政方針演説)があり、それに対して与野党を含めた各政党から代表質問が行われる。その後、各委員会に審議の場が移り、具体的で詳細な論点をめぐって論争が展開される。

例えば《帝国議会・国会内の総理大臣演説》をみると、第1回帝国議会で行われた山縣有朋首相による施政方針演説の原稿を読むことが出来る。明治23年12月6日。第3代第1次山縣内閣による施政方針である。その以前、第2代の黒田清隆内閣、初代の伊藤博文内閣では「施政方針演説」ではなく、「地方長官に対する訓示」という形をとっていた。第3代の山縣内閣以降、議会の冒頭か良い節目に、首相が衆議院において「施政方針演説」を行う習慣が定着したことが見て取れる。

この慣行は現代まで継承されているようだが、戦前期は元老あるいは内大臣の推薦に基づき天皇が首相を任命し組閣を命じていた。戦後は国会の指名に基づき天皇が首相を任命する。国会は憲法で国権の最高機関と規定されているので、同じく憲法で規定されている天皇の位にある者は国会の指名を拒否することはできない理屈である。

戦前期のように天皇が国会とは関係なく任命する首相であれば、施政方針をまず国会で演説し、各政党が代表質問を行うという形式は非常に理に適っていたと考えられる。

しかし、現在は国会の多数派が首相を選んでいるわけだ。何を施政方針とするかは最初から分かっている話だろう。戦前から伝わる古めかしい形式はもう陳腐化していると感じるのは小生だけだろうか?

首相が与党を代表して施政方針を演説するのであれば、野党も「施政に関する対立案」を演説する方がずっとダイナミックである。そうすれば、国の方向について現行案と対立案の二つがオープンに示され、国民には非常に分かりやすくなる。もし必要なら野党統一案だけではなく、第3極としての意味合いから「施政に関する別案」を示す機会を設けてもよいかもしれない。

どちらにせよ、野党もまた「施政に関する構想」を公開することを義務付けることによって、政党としての責任感、政策案を練り上げる努力を促す効果が期待できる。更に、無責任な放言や欺瞞を抑制する効果もあろう。

与党の演説に与党議員が質問するのは下らないし、野党議員が批判的な質問をすれば十分だ。また、野党の対立案に対しては与党議員が反対質問をすればよい。

泡沫野党は出る幕がなくなるだろうが、それは国会審議を活性化するうえで善いことであると思うがどうだろう。野党を結集させるインセンティブを与える制度改革にもなる。

2020年10月26日月曜日

断想: 戦後日本の建前とホンネのギャップはもう限界ではないか

 先日、議論には建前があるが、政治が建前に束縛されると機能しなくなる、と。そんな風なことを書いた。

臨時国会が始まり菅新首相による初の所信表明演説があった。それに対して、野党を代表する立場だからか、立憲民主党の枝野代表が演説には中身がないと批判を加えていた。

この図式は、ずっと昔の自民党vs社会党の対立構造を想い起こさせたりして、小生には大変馴染みがあるものだが、何がなしどこか空虚感が漂う気分を抑えることができない。

今日は「ホンネと建前」という古くて新しいテーマについて投稿しておきたい。

★ ★ ★

自民党はもはや公明党の支援なくして国政選挙を戦うことができないと言われる。立憲民主党もまた共産党の人的支援なくして選挙戦は戦えない、と。

その公明党の基盤は言うまでもなく宗教団体である創価学会である。自民党vs立憲民主党の対立とはいうが、生の現実をみると上層部の政党の活動を縁の下で支えている創価学会員や共産党員、その家族たちの存在なくして、日本の政治は成り立たなくなってきている。

その意味では、自民党も立憲民主党もある意味で「公家化」しているようだ。議員として生き残るためには末端の創価学会員や共産党員の心情を忖度しなければ身動きがとれなくなりつつある。頭や口ではない。動いてくれる人の数である。その動いてくれる人たちは、ホンネでは自民党という組織も立憲民主党という組織も実はどうなってもいい。これが今の日本のホンネともいえる現実かもしれない。自民党にせよ、立憲民主党にせよ、地元と東京をつなぐ人間関係のためのインフラ。ただそれだけの存在かもしれない。組織自体にロイヤリティを感じる多数の人間がいるわけではない、と。どうもそう感じられてしまうのだ、な。

戦前期日本では陸軍幼年学校が全国にあり、その上の陸軍士官学校、陸軍大学と一貫した人材養成システムが完備されていた。陸軍を退職したあとは在郷軍人会に所属した。正に草の根組織として日本全体に根を張っていた。陸軍で生きた人物が(極端なまでに)組織への帰属意識が強かった理由はこうしたハードな制度基盤にある。これほどハードな制度インフラがあったため戦前期の日本では陸軍が政府から独立して暴走することがが可能になった。

一方、反対例になるかどうか怪しいが平安時代の権力者であった藤原家は違った方法をとった。その力の源泉はといえば全国に所有する土地にあった。しかし、それらの土地は藤原家が費用を負担して開拓した土地ではない。地方の開拓地主が土地所有権を藤原家に寄進(=譲渡)して中央の権威と人間関係を取り結び、所有権を藤原家に譲渡する見返りに、租税免除と給田(=手当)の支給、さらに土地管理権も認められることが多かった。藤原家に年貢は納めるが、これは外部勢力との紛争に際したとき藤原氏が所有する土地であることと自分が庄司(=管理者)である事実を証明してくれることへのFEE(=手数料)であった。要するに、中央の権力者である藤原家は自らが直接的に人間集団を家臣として支配し、軍事力を保有していたわけではなかったが、皇室の外戚として高い官位を独占する一族であることから人間関係を取り結びたいと願う人間集団が地方に多くいた。朝廷(=政府)にいて法を運用することができた。ここが決定的である。統治システムとしては、建前としての権力と実質的な勢力とがずれていたシステムであり、だから小生は「荘園」という平安期の統治システムを最初に教えられた時、その本質が理解できるまでに時間を要した記憶がある。

どうも日本では同型の統治メカニズムが繰り返し現れるような気もするのだ。近年の「政党」とその力を支える基盤との関係もどこか平安時代の公家と武士のような関係を連想させるところがある。逆に言うと、戦前期の陸軍のような強固な組織は認めない。そんな傾向も戦後日本には濃厚にある。

政府周辺に強固な組織を置くことは忌避される一方で、系列を基軸とする大企業組織は極めて強固に機能した。が、それも「経済のグローバル化」、「働き方改革」、「中国の台頭」等々を通じて、次第に解体されようとしている。小生が、現時点の戦後日本がどこか建前的であり、ホンネとずれて来ているように感じるのは、こんな流れが背景にあるのかもしれない。

いま大河ドラマでは室町幕府最後の将軍・足利義昭が登場しているが、そのはるか以前から幕府は有力な守護大名の支援なくしては日本国内を統治できなくなっていた。それでも幕府が消滅しなかったのは、将軍家が戦国大名たちの権威付けの役に立ったからである。徳川幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で横死してから250年以上続いた幕府が瓦解するまで僅かに7年である。幕府の国内統治は「建前」になっていたという事実がよく分かる。

※ 【10月28日】本節、「繰り返し現れる同型の統治システム」に思い至ったものだから書き足しを繰り返し、ゴタツキ感が出た。「建前とホンネとの乖離」という言葉でいいのか?別の機会にまた展開したい。

★ ★ ★

戦後日本の建前とリアリティがここ近年ほど乖離してきている時代はなかったのではないだろうか。

日本国憲法では政治と宗教とは分離されているはずだ。にも拘わらず、創価学会という宗教団体が公明党を通して政治とのつながりを深めている。与野党の重鎮政治家が宗教団体のトップや幹部と会談してもおかしいと思う人がいない。そもそも宗教と政治が分離できないことは海外をみても明らかだ。ドイツの与党は「キリスト教民主・社会同盟」である。アメリカ大統領選挙ではカトリックがどちらの候補者を支持するかが注目されている。これもホンネでは認めなくてはならない事実だろう。

日本国憲法では私有財産が保護されている。にも拘わらず、(天皇制はともかくとして)産業国有化を核心とする(はずの)共産党が立派に日本の国政で活動している。

共産党が「護憲的」であると錯覚するのは、保守政党であるはずの自民党が憲法改正を提唱するからである。ロジックでいえば真の意味での改憲派は共産党である。ホンネを語らず、建前を語り続け、欺瞞を貫いているのは与党ではなく共産党であると小生は観ている。これも今日の標題の一例だ。欺瞞を続ければ必ず堕落するのは中国共産党ばかりではない。日本共産党も同じである。

★ ★ ★

アカデミックな世界でも建前とホンネが捻じれてきている。「憲法学者」と呼ばれる人達は、専門外の人間にとっては、ある意味で驚くべき頭脳構造をもっていると。そう感じるようになった。

下の愚息は法律の仕事をしているのだが、日常使っているのは刑法や民法、商法、その他諸々の法律だろう。民法や商法は憲法を前提として編纂、制定されている。だから、その分野の専門家が現行憲法の理念を重視するのは当たり前である。憲法を大前提としながら、しかし、専門の民法や商法については常に問題点を探り、改善の方向性を考え、実際何度も社会の変化に合わせて法改正されてきた。専門家というのはそういうものである。

一方、憲法学者はそうではないようだ。民法の専門家が民法の改善に努力し、刑法の専門家が刑法の改善を考えるのと同様に、憲法の専門家であれば憲法を超える統治の基本を為す観点から現行憲法の改善の方向に頭を使う、そんな理屈になるのだが、そこが違う。日本国内の憲法専門家は、現行憲法が既に最高の到達点に達しており、一切の変更は憲法を改悪するものであると、どうもそう考えているように見えてしまうのだ、な。実際、現行憲法は施行後70年を超えてまだ一度も修正されていない。

『現行憲法が理想の憲法そのものである』と、その分野の専門家であるはずの憲法学者が考えてしまっているところに、戦後日本社会の奇妙な安定と停滞が持続する根本的な原因があると思うようになったが、どうだろう。そう言えば、戦前期日本にあっても憲法学者は専門家として無力であり、実質的な仕事を為さなかった。戦前期日本の崩壊の責任の一部は当時の憲法学者達にあると小生は思っている。

企業にとっても理念は大切である。しかし、その理念は活動を通して表現されるべきものである。活動をすれば必ず問題が発生する。事業においては、常にPDCAというサイクルの中で問題が提起され、問題は解決されなければならない。そんな毎日の努力の中で理念は守られ、守られると同時に堅固に骨太になるのである。国も企業もこの点では同じである。学説によって憲法は守られるのではない。守るのは日本人である、というのが基本だ。

『いまのあり方が最高なのです』と主張してやまない人は、問題に目を向けず、解決を考えない、その意味ではDogmatism(独断主義)そのものであると、そう言われても仕方がないだろう。自由な思考を意味するリベラリズムとは正反対の立場だ。「リベラルです」と自称する人々が実は心のホンネでは「最高のものを守るのだ」という保守主義者である。これほどのパラドックスがあるだろうか。日本のリベラルは真の意味でリベラルではない。実は原理主義者であり保守派である。ここにも普通の日本人をとりまく哀しい現実がある。

これまた戦後日本社会の建前とホンネとの乖離の一例である。

※ 【10月29日】本節のポイントはマアマア本筋をついていると思う。

2020年10月23日金曜日

一言メモ: 当たり前の成り行きになってきた「野党合同ヒアリング」

 日本学術会議の6名任用拒否問題について日本共産党、立憲民主党ほかが参加する野党合同ヒアリングが開催されている中、与党がその実情を検証すると言い始めているそうだ。

「野党合同ヒアリング」で対座する官庁側職員と大勢の野党議員達をTV画面を通してみると、もう50年ほどの昔になったが大学全共闘による「大衆団交」が思い起こされるような雰囲気だ。野党議員のスピリット、というかエートス(=精神的態度)が如何なるものかが自ずから浮かび上がってくるわけで、正に『三つ子の魂百まで』なのであるが、それが今は国会議員の公的な権力に裏打ちされた活動になっている所が違う。若い学生達が数を頼みに大学を管理する総長や学部長に処分を怖れずに肉薄する、そういう図式とは正反対の展開になっているのだ、な。権力関係としては。長い時間が経ったのだと改めて感じるのは小生だけではあるまい。

「野党合同ヒアリング」について検証するというこの成り行きは当然だ、と。以前にはこんな投稿をしている。要点はこの部分か:

「野党合同ヒアリング」は法的に正当な手続きを経て実行されている行為なのだろうか?

「野党合同ヒアリング」はいずれかの委員会で採決されて実施されているのだろうか?

裁決されていないならば、議院の意思ではなく、国政調査権の行使には該当しないのではないか?

 出席する行政府の官僚には税金から俸給が支払われている。官僚の出席には機会費用としてコストが生じている。正当な法的根拠のない税金の支出は認められない理屈だ。

「野党合同ヒアリング」については分からないことが多い。

まったく「野党合同ヒアリング」は分からないことが多い。野党は官僚ではなく、政務3役の誰かが出席してほしいと要求しているともいう。であれば、これは政治家が担当するべき職務であることになる。もしそうなら、これは「政治」である。民主党政権下では政府委員廃止が論議され、国会の場で官僚が答弁するのは本当は不適切であるという認識が為されている。この認識が本筋であると小生も思う。

官僚が出席すれば、政権にいる与党政治家を擁護する意見を述べることを心理的には強要されるわけであって、事務的・技術的な業務にあたる官僚に担当させるのは適切ではあるまい。省庁の政務3役が部下の官僚に押し付けているのか?万が一、そうなのであればパワハラにも該当するかもしれない。体調不良に陥った職員がパワハラ被害で提訴すればどうなるのだろう?よく分からない、と同時に多くの問題を隠しているような気配がするのが「野党合同ヒアリング」である。 

「政治主導」は現実には「政治家主導」であるに過ぎないが、時にはこれが堕落して「政治家上位・官僚依存」にもなりうるわけで、「台本付き演技型官僚主導」が「バカ殿気まま型官僚主導」に変化しているだけのケースもあるだろう。「バカ殿連」を子守する人手が増しコストを払っている分、行政の実働部隊の効率性が低下し、低生産性体質になってしまっているのかもしれない。


政党、政治家どうしの論争、闘争は正に「政治」であり、国会の中で展開する筋合いだ。技術的な質問は国会の事務局を通して文書で行えば済む話だ。官僚は、要するに「白鳥は白い」という当たり前の事実だけが回答可能なのであって、法を逸脱することは禁止されている。官僚本人を呼ぼうが呼ぶまいが、(本来)回答が変わるはずはない理屈である。敢えて担当職員を査問する理由が生じれば、衆参いずれかの議院の公式手続きに基づくべきだろう。ま、キリがない、筋を通す理屈は幾つでも出てくるわけだ……

にもかかわらず担当職員を呼んで答弁を求める。有効であるはずはないのに。理屈に合わぬ。野党の戦術の狙いがどこにあるか、まあ、想像はつくが、適法かどうかは疑問だ。本当に「野党合同ヒアリング」には分からないことが多い。

2020年10月20日火曜日

ホンノ一言: 日本が行った「戦争」の分類

日本の近現代に対する歴史的興味がここ最近高まっているようだ。特に昭和戦前期をどう考えるかという問題は、ここにきて、関心の深さも広さも一段とレベルアップしたように感じることがある ― もちろんその裏側では数多くの歴史学者の努力があったわけだ。

東条英機という人物のありのままの姿をもう一度確認しようという著作も増えてきた。本当によいことだと思う。

それにしても「戦争」ほど極限的な国家行為はあるだろうか?

経済が社会を動かすことは誰もが知っている。それと同じ程度に、「戦争」の研究をすることは、その国、その国の国民を深く理解するうえで欠かせないテーマであると思う。

日本人がもっている根源的な理念や国民的なホンネは戦時においてこそ表面化し、露わに見えて来るものだ。日本人が絶対に譲れないと思っていることや何を心から信じているかも戦争を決意して臨むときにこそ分かる。勝利した時の態度、敗れた時の態度にもその国の個性が現れる。生死がかかるときにその人の人格が露わになることと同じだ。どんな「戦争」をするか?戦争の仕方をみてその国について分かる事は多い。

小生は経済史の専門家でも、経済学説史の専門家でもなく、まして歴史学となると完全な門外漢だ。それでも

  • 日本が一定の戦略の下で開始し終結させた戦争は、日清、日露戦争と満州事変の3回のみである。
  • 日中戦争(日華事変)は「戦争とは認めずそのまま停止不能になってしまった戦争」、真珠湾奇襲以後の太平洋戦争は「戦争したくはなかったがやってしまった戦争」、つまりマネジメント・ミスによる戦争である ― 要するにマネジメント・システムが壊れていたという単純な事実がわかる。これを前提として当時の事を検証する方がよいということも分かる。
  • その他、戦前期の日本の軍事行動は多くあるが、第一次世界大戦時の山東出兵、シベリア出兵など、どれも好機に乗ずるという意味では機会主義的かつ場当たり的な軍事行動だった — 現場は懸命に働いたが、得たものが少なく失ったものが多い。小生の田舎の方言でいう「キョロマ」がやることは全てがそんなものだ。

この程度のことは《仮説》として検証したいものだ。2番目と3番目のカテゴリーに属する戦争を止めるメカニズムを欠いていた所に戦前期日本の統治機構の大きな欠陥があった。このことと、その時代、その時代の経済的背景、社会的背景との相互関係を調べてみるのは、非常に面白そうだ。

ま、陳腐な問題意識だと思うが、メモしておきたい。

2020年10月18日日曜日

断想: 「価値観多様化」の行く末は?

 「多様化」の時代である。

「価値観多様化」が正しいという価値観も語られるようになった。

であれば、価値観多様化は認めない価値観もあるという理屈になる。そもそも「多様化」は一定限度まで容認可能だが、限界を超えた多様化は否定したいという価値観もありうるだろう。

***

現在の社会では、内心の自由は保障されており、故に思想の自由もある。

しかし、価値観を言葉で表現して社会に訴えるという表現の自由は、そうして訴えた結果として社会を変えたいという欲求を併せ持っていることが多い。そもそも価値観をもつということは社会に自分の価値観を広めていきたい、影響を与えていきたいという行動につながることが多い。

とすれば、思想の自由は表現の自由を経由して行動の自由へと拡大することになる。「自由」は欲張りなのだ。そして、行動の自由は言うまでもなく認められてはおらず、どこかで「社会の規範」と正面衝突する。これもまた「自由の主張」がもたらす結果の一例である。

・・・上で「自由は欲張り」と書いた。そう、「欲張り」は資本主義経済で成功するための最大のキーファクターである。18世紀の市民社会到来のあと、自由資本主義の繁栄、自由と民主主義、イヤイヤ、自由・平等・博愛がオリジナルであった、資本主義経済と価値の共有と、この二つの次元は「欲張り」という悪徳ともいえる資質を仲立ちにして表裏一体の関係にある。この点は、いま現代社会に暮らす人々は理解した方がよいのかもしれない。世の中、決して綺麗ごとではないのである。大体、人間社会の本質が綺麗であるはずがない。

話しを戻そう。

いずれにせよ、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフがはまった「全てが許された知性」という罠のような存在はどこにもない。ヒトは誰でもどこかで制限された自由しかもたないのだ。

***

もし価値観多様化が正しいと言うなら、「多様化」は間違いだという価値観に基づいて行動し始める集団もやがて誕生してくるだろう。

「価値観多様化」という価値観は非常にヴァルネラブル(Vulnerable)なのである。

価値観多様化を本当に認める社会にしたいなら、「ある種類の価値観は否定する」という価値観に立たなければならない。

結局、どの価値観は正しく、どの価値観は誤りかという不毛の神学論争に引きずり込まれる結果になる。「価値観」について議論することの不毛はそこで明らかになる。

「科学」が定着した社会はより早く不毛の議論を止めることが出来るだろう。観念はそもそも人間が創った人工的な言葉で、言葉以前のありのままの自然だけが意味のある存在である。

2020年10月17日土曜日

議論には建前があるが、政治が建前にしばられては機能しないというギャップ

日本学術会議騒動は当分の間は続くのであろうなあ、という予想が広まりつつある。

つまり、ある意味の「政治闘争」が進行しつつあるとみておいたほうがよさそうだ。一体、どことどこの闘争か?そもそもアカデミックな学術界と発足後1カ月の菅政権とが全面闘争するのだろうか?これは偶発か?にしても、「闘争するべき関係にあった」というのは非現実的な認識だ。それもあって何回か前の投稿では国鉄の「順法闘争」華やかなりし頃の思い出を書いて「デジャブ感」と標題をつけたわけである。やはりあの当時も結局は社会的力学によって問題が解決された。話し合いで問題解決できたのではなかった。

TVのワイドショーでは『この6名の方がなぜ任命拒否されたのかという理由はまだ政府から説明されておりません」と、おそらくフリをしているのだろうが、分かっていないかのような同じセリフを反復している。が、もうこの段階では国民の多くはウスウス、というよりマルっと分かってきているはずである。しかし、それをマスメディアは口にしない。なぜなら日本には建前があるからだ。

今日もカミさんと話をした:

カミさん: ほんとに拒否された人たち、なんでだろうね?

小生: そんなの決まってるヨ。

カミさん: 政府に反対したから?

小生: というより、共産党系の大物だからだよ。シンパも入っているみたいだけど、影響力のあるポストはもう与えないっていうメッセージじゃないかな。

カミさん: そうなの?

小生: 政府に反対しているのに任命された人もいるからネ。小者ならいいんだろう。そもそもこの件を大々的に問題視したのは共産党機関紙の『赤旗』だからネエ。

カミさん: ふう~~ん

小生: まあ見ててごらんヨ。(自らは中道だと言っているが)創価学会も応援している保守と共産党が応援する革新がガチンコでぶつかる力勝負が始まるかもしれないヨ。いま日本の隅々まで根を張って人を動員できるほどの組織的な勢力は(警察、税務署を除けば)宗教団体と共産党しかないからね。菅政権がどのくらい意識しているかは分からんけど。でも、安倍首相の頃から政府はかなり本気で共産党系の勢力を一掃しようと内心で決めていたんじゃないかなあ……。コロナの中で五輪を控えて過敏になっている時期でもあるし。口では「そうです」なんてとても言えないけどね。

カミさん: だって思想の自由があるでしょ。ひょっとすると大ごとだね。

小生: それは変わらないよ。思想は自由さ。やるかもしれないのは、政府の要職からは外していくってことで、何だかこれからそうなりそうな気配だなあ。マア、左と右は反対だけど、日本と韓国はそれほどは違わないってことかもネ。

これも政治のうちと言えば、確かにそうなのかもしれず、より大事なテーマは『なぜそんな時代になってきたか』だろう。「安倍政権があ・・・」ではない。「なぜ安倍政権が機能しえたのか」を議論しないといけない。日本社会の傾向は21世紀の入り口、ちょうど20年前と比べると、その変化は歴然としている。この社会的変化には背景、遠因、近因があるはずだ。

★ ★ ★

社会主義は現実には機能しない。これは歴史的に立証されてきた事実だ。ソ連の惨憺たる失敗や不平等拡大を何とも思わない中国共産党の(呆れた?)現状をみても明らかである。社会主義に夢はない。共産党に希望はない。にも拘わらず、イデオロギーとしての社会主義はなお残存している。今回のアメリカ大統領選挙戦でもその影というか、亜流が観察できたわけである。

多くの人は色々な社会問題を解決してほしいと願っている。だからと言って、大学進学率が50パーセントを超えるような社会で、経済的自由を享受している普通の人々を相手にして、左翼が右翼を打倒すれば一切が解決するなどという「革命史観」を語っても、普通の人は「なんのこっちゃ」としか反応しない。それが20世紀初めと100年後の現代との違いである。左翼は左翼でマルクスをもう一度読み直してリニューアルをするべきだと感じる。

こんなトレンドの中で共産党機関紙『赤旗』が今回の6名任命拒否をスクープして一大攻勢をかけてきたわけだが、これは来年の衆議院選挙を見据えたうえでの長期選挙戦の仕掛けではないかとも思われる ― でなければ部数減少に悩む『赤旗』のマーケティングである。やはり今回の騒動は共産党が仕掛けた「ロングスパート」であるかもしれず、だとすればその他野党は国会という前線で共産党の駒として使われるだけ、簡単に言えば、共産党に振り回されているのが哀れな現状かもしれない。共産党の応援なくして選挙を戦えないと言われる以上、それも仕方がない。これが実態かもしれない。

小生はこんな図式で(内心では面白がりながら)観ている。が、サテ、仕掛けた共産党が前面に出てきたとき、世間はどう動くだろうか。何しろこのご時世、共産党ですら増税には反対を唱え、筋からいえば主張するべき「大きな政府」と「福祉国家」はもうサッパリ諦めてしまったようである。そんな(堕落した?)極左勢力に魅力を感じる人がどの位いるだろう。「前衛」と自称する共産党ですら理論的政策論を捨て去ってしまったこの現状にこそ日本の有権者の悲哀がある。党創建の理念を忘れ今はただ時流に乗って権力のみを欲しているのではないか。まさかネ。と、そんな風に思っているのだ、な。


マ、任命拒否された6名の学者たちに政治意識はないのかもしれない。やはり学者の本分は政治闘争ではなく、真理の探究にある。学説の彫琢と立証が最優先でなければならない。これだけは確かである。ひょっとすると、朝鮮王朝初期に大義名分と節義に殉じた「死六臣」を想い起こさせるような歴史的存在として記憶される可能性もある。

政府などは相手にせず、政府のいかなる栄典、叙勲も辞退した福翁や漱石の心意気こそ実はイッチャン格好イイのである。任命してくれないことを悲憤慷慨するなど、どちらかと言えば醜態だと感じるのは小生だけだろうか。「血涙相和して数行下る」などという愁嘆場は見苦しい。やっぱり「死六臣」はちょっと無理かも・・・



2020年10月15日木曜日

「差別」について: 合理的議論を抑圧する二つの力は何か

 「差別」という言葉に過敏な世相である。「多様化」ならイイらしい。

同調圧力が高く、異分子を排除する傾向が強い状況の下で、最も激しい差別化が生じるという認識がある。だから「多様化」なのだ、と。違っているから損をするという状況は間違いだと、そんな発想になる。


小生が若い頃は、「意識統一」とか、「擦り合わせ」という用語が盛んに使われていたが、もはや隔世の感がある。いまビジネス現場の中間管理職 — この中間管理職というポジション自体が疑問視されているようだが ―で、「この四半期の目標について意識統一をしておこう」などと口にすれば、多分、猛烈な反発が若い社員から生じて炎上する次第になるのだろう。ただマア、「意識統一」ではなく「共有する」という言葉ならイイそうだから、であれば単なる流行語の変遷であるのかもしれない。

これほど「多様化」が叫ばれるのだから、もう「軍国主義」や「全体主義」が横行する時代は二度とやって来ないと思われる。


しかし・・・小生は偏屈であると同時に心配性でもあるのでメモしておきたい。

確かに「多様化」が進む社会は暮らしやすい。生きやすい。しかし、人を抑圧する力は社会の中に必ず生まれるし、存在する。その力が怖いという事情は永遠に変わらないだろう。それに関するメモだ。


実は、経営戦略のキーワードに「差別化」という言葉がある。ずいぶんイメージが悪くなったので、授業現場の担当者は苦労しているかもしれない。

いわゆる「差別反対」の差別はdiscriminationであり、「製品差別化」の差別はdifferentiationである。意味も用語も違うのだが、英語の辞書では確かにdifferentiationの所にdiscriminationという説明があったりする。ややこしい。

では経営学の製品差別化には人を差別する、排除するという意味合いが全くないのかといえば、実はあったりする。

というのは、製品差別化戦略とはコモディティ化を回避する経営戦略であり、他の製品と差別化されるが故に、そのブランドでは独占する。高い価格を設定することが出来る点に狙いがある。もっと低価格を設定すれば販売量を増やせるにもかかわらず高価格に設定する選択肢があるのは差別化されているからだ。高価格の方が結果としてマージンが増え、合計としての企業利益が増えることがあるのは簡単な数字例でも示せるほどだ。ただ、高価格が設定されると低価格を期待している顧客層は排除されてしまう。誰もがほしいブランド品はもっと低価格で本当は販売できるのである。しかし企業はそうはしない。だから欲しくても買えない人たちが出てくる。これは《正義》なのかという問いを発する人物はいつの時代にもいるであろう。これを《プライスアウト》と呼ぶ。経営者は自社の利益のため敢えて高い価格を設定して一部の潜在顧客を切り捨てるわけである。きつい言い方をすればこんな表現になる。「選択と集中」とも言えるし、「深堀り」とも言えるだろうが、要は「切り捨て」である。

イメージはずいぶん悪くなった。しかし、この製品差別化戦略はブランディング戦略であるともいえ、非常に合理性がある企業行動であって、世界のビジネススクールでは経営戦略の核心になっている。確かに合理的戦略であるのだが、《差別は悪、排除は悪》と、ここまで社会現象を倫理的にみる目線が流行してしまうと、合理的議論を職業にしている人は内心非常に困惑しているに違いない。


古来、合理的議論を妨害する力には二種類ある。それは地上の権力と天上の権力である。つまり、独裁的権力者あるいは理屈を超えた宗教感情である、な。

独裁的権力者は具体的にある人物の形をとる必要はない。理に適った考え方を抑圧する力を行使しようと考える人物(あるいは人物集団)は全て独裁的である。また、宗教感情といっても必ずしも教会や寺院に出入りする気持ちを指すわけではない。無批判に「これは悪い」という抑えがたい正義の感情にかられて他者を攻撃する人は、それはもう自覚することなくして、聖戦(イスラム教徒がいうジハド)に赴く戦士そのものなのである。

なにしろ中世のヨーロッパ・キリスト教社会では『同胞から利子をとることは悪である』とされていたのだから大変だった。有利子の金銭貸借という合理的経済サービスは、だからユダヤ教徒たちが金融業に従事することで提供されていた。ヨーロッパの反ユダヤ感情を形成した要因の一つは愛を説くキリスト教の教えである。


ずいぶん以前、今は京都に帰って行った同僚がいた。I氏と呼んでおこう。I氏は経済学者というより歴史学者であると小生は思っていたが、そのI氏と二人である夜小料理屋で長い時間を過ごしたことがある。その時、『20世紀は戦争の世紀でしたが、21世紀は宗教がカギになる100年になると思いませんか?』と聞いたことがある。そのとき、I氏は「そうかもしれんね」と応える程度であったが、独裁者と宗教感情と、21世紀を闇の世紀にするかもしれない要素は既に姿を現し始めている。そんな気配も感じるのだ、な。


人類の敵はすべて最初は自らを味方のような姿にかえて現れるものだ、という名句をどこかでみたことがある。剣呑、剣呑。

愛や正義感が最初の優しい姿をかなぐりすて、醜悪なる「反・合理主義」に化して、人類に多大の害悪を与えることがないことを祈る。

2020年10月13日火曜日

一言メモ: 非正規社員の賞与・退職金不支給に合理性はあるのか

 新型コロナ感染拡大で全国の学校、特に大学の理工系学部で徴収される施設充実費に疑問が寄せられるようになったのだが、それに対して大学側は『施設充実費は当該学期中の施設使用に対する使用料として徴収するものではなく、長期的な施設拡充計画に充当するため一定金額を均一に負担していただくためにお願いしているものである。故に、コロナウイルス感染予防のためキャンパスを閉鎖し、授業を遠隔化する場合においても施設充実費納入の必要性は変わらない』と、大体このような説明を行ったそうである。

対面授業が中止されて実験も実習も行われないにも拘わらず、施設充実費を請求される保護者の立場にたってみれば、まことに釈然としないが、理屈はその通りであろうと小生にも思われる。

そして、このロジックと、本日の最高裁判決で示された『非正規従業員に対する賞与、退職金不支給が不合理な格差にはあたらない』という判断と、何となく通底しているように感じられるのは小生だけだろうか。

★ ★ ★

なるほど毎日毎日の日常業務に正規社員と非正規社員とで違いはないケースは多い。しかし、観察可能な業務の外形をもって「正規社員と非正規社員が同一業務に従事している」と結論するのは正しくはない。

何を担当しているかという職務範囲は、日常的に現に行われている業務内容を観察するだけではなく、あらゆる可能性の下で担当することが予想される全ての業務と責任を考慮に含むべきである。

ルーティンワークへの従事だけではなく、緊急時への対応、トラブル発生時の責任、期待されている超過勤務、期待されているスキルの向上等々、たとえ日常的に従事している業務内容に違いが観察されなくとも、可能性のある色々な状況の下で要求されるであろう業務負荷の期待値に違いがあるとすれば、「同一労働」とは言えずあらかじめ支給する給与などに差を設けるとしても、理にかなった格差たりうる。

むしろ、経験と能力が十分で、より高い業務責任と給与を希望する意欲のある非正規従業員に正規化の道を積極的に開くことが一層重要であって、こちらのほうを政策論としては強調するべきだろう。そして、この方向を前に進めるには正規社員を過剰に保護している制度を改める、つまり解雇規制を緩和することが必要だ。正規社員は不安だろうが、そうした方が雇用側、被雇用側双方にとってフェアで納得できる社内環境を実現できるはずだ。現在でも正規社員として入社する若者世代の3分の1程度は短期間のうちに辞めていく。辞めるより非正規従業員に移行すれば働きたいように自由に働けるチャンスがある。成長して気が変われば同じ会社の正規職に戻るか、別の会社の正規職を探せばよい。自分の人生である。多様な人生航路をその人その人が選択できるように支える政策がより生き易い世の中をつくることにもなるだろう。

「働き方改革」の最終的目標は、残業時間を減らしたり、休暇をとりやすくしたり、テレワーク等の多様な勤務形態を導入するという外形的なことより(これらも無意味ではないが)、理に適うことからもたらされる「納得感」を広げることが必須の要素であるはずだ ― もちろん給与はもらう側にとっては多いに越したことはなく、払う側にとっては少ないに越したことはない。技能レベルごとの需要供給の関係で給与の相場が決まってくるメカニズムそのものは受け入れるしかない理屈ではあろうが、それでも理屈に合わない慣行は日本の職場に余りにも多いはずである。

2020年10月11日日曜日

動学的不整合: ここにもいる「利口バカ」

 日本学術会議の会員を推薦制に変更する以前の状態、つまり各学会ごとの公選に基づいて学術会議会員を決定していた状態は、総理大臣が公務員を任命するという権限を冒していたが故に、違憲状態であったのか、と。こんな質問が出されたようだ。内閣法制局はそれに対してシドロモドロであったそうである。

う~ん、こんな質問が国会の委員会で出れば、やはりどう回答すればいいか分からんだろうネエ、と。担当者には同情したいところだ。

理屈で言えば《違憲状態》であったと言うしかないだろう。『ただ当時の人々はこの決め方は違憲であるとは考えなかった』というしか解釈のしようがないだろう。というか、問題の本質は『なぜ超憲法的な行政組織が日本政府の足元に設置されていたのか』という問いかけにある。

★ ★ ★

それにしても、誰かは存ぜぬが、頭はイイがこんな思考回路でしか物事を考えないから肝心のアウトプットがさっぱり出てこないのだろうなあ(もし実績があるならば失礼の段をお詫びします)と、そう思ったりしている。

そもそも『動学的不整合』という状態はしばしば発生することである。

個人も政府も何年かにわたる見通しの下で『現時点ではこのように意思決定しておくのが最適である』と、そのような行動原理で一定の制約下でとるべき行動を決めるものである。いわゆる《動学的最適化》である。

そして、そのとおりに行動をして、事態が推移し、過去においては将来のある時点に到達するとする。その時点にたって、残りの期間にとるべき行動について意思決定を行うとする。当然、最初の計画どおりの行動を続けていけばよい、そう考えるのが筋であろう。しかし、その時点になってから残りの期間を対象に行動計画を決めるとすると、必ずしも当初の計画を続けるのがベストであるとは限らない。

こうなるのであったら、最初にあのような行動をとるのでなかった。ここに後悔が生じる。・・・誰にとっても人生とはそんなものであろう。まして多人数が暮らす社会なら一層そうであり、政治もまた同じである。だから歴史は面白くもあり難しいのだ。過去のことを問題にするなら、現在の視点と過去の視点を併せ持って複眼的に議論をしなければ、ロクな思考にならないのだ。

時間を通して、一貫したロジックが適用されるべきであると思い込むのは非常に危険である。エネルギー源として日本も原子力を選ぼうと意思決定をしたのはその時点においては合理的であり最適であった。過去において最適であったその原子力をいまは廃止しようと考えるとしても決して間違いではないのだ。たとえ福一原発事故がなかったとしても、だ。

意思決定は現在から将来にかけて行うものであって、『過去においてはこんな理屈であったのだから、同じ理屈でこれからも行くのが正しい』と、意地悪ではなく、本気でこんな議論をする御仁がいるとすれば、小生の田舎の方言でいうなら(文字通り)完全なる《利口バカ》である。

いや上の御仁の言っていることは逆であった。『これは違憲だからという理由でやり方を変えるなら、あの頃やっていたことも違憲だったということですよね』という論法だ。まったくネエ、ならば『いまの憲法は平和主義を是としている。軍事活動は違憲である。とすれば、戦前期は違憲であった。間違った政治をしていた。この認識は正しいですか?誤りですか?』というのはどうだろう。どう答えますか?答えにくいでしょう。困るでしょう。こんな阿保な発言をする人はまさかおるまいが、ヒトは誰でもどんな屁理屈であってもひねり出すものである。三流の法廷ミステリーのような話しは小説の中だけにとどめてほしいものだ。


2020年10月10日土曜日

ホンノ一言の追加: 「学術会議騒動」の今後の進行を予測する

 前回の「ホンノ一言」を補足したい。


標題だが、まずは格下の『独立行政法人に移行する』という線で片を付けようと政府は考えるのではないかと予想する。国立大学はすべて国立大学法人に移行し、「文部教官」は「文部教員」に呼び名が変わっている。学術会議も同じであっておかしくはない。業務内容にも大幅変更が加えられると予想する。


それに対して、学術会議側に剛直の士がいれば、これを機会に民間の独立団体として再生しようという提案が出るだろう。もしそんな人がいれば…だが。


しかし、純民間団体になれば、政府の科学研究費配分に影響力を行使することが困難になる可能性がある。特に多額の予算を必要とする実験系自然科学者は純民間団体への移行に不安を感じるかもしれない。あるいは学術会議があってこそ潤沢な研究費がある意味で保障されていた研究テーマがあるのかもしれない。もしあれば、純民間団体への移行には反対する動機をもつだろう。


文章を書いたり計算をしたり出来ればそれで学問ができる分野とどうしてもカネが要る分野と、水と油のような二つの学問分野の利害が対立し、分裂する可能性もある。現在でも数学者はカネに無頓着でラディカルな人が多いように感じるが、物理学者は理念よりは経験重視で(特に実験系の人は)カネの為なら長いものに巻かれるのも仕方がないと割り切る傾向がある ― という人もおり、これは教授会の席上で小生が感じてきた大雑把な印象とも合っている。印象ということでいえば、理念を重視する憲法学や経済学の純粋理論で仕事をしている方には反権力で筋を通す(=融通がきかない)人をしばしば見るのだが、データやコンピューター資源を必要とする実証系の人は人文、社会科学分野であっても、わりと(?)交渉上手である ― これまた教授会でずっと受けてきた印象である。


本当は、科学即ち学問ではなく、リベラルアーツも含めた総合的な学識がその国の文化水準を決定する、小生もそう考えているのだが、現在の政府は「実学重視」、というより「実学偏重」の兆候を示し始めている。


明治初期の実学重視が儒学否定と表裏一体であったのと同様、いま技術開発で世界に後れをとりつつある日本が、人文軽視・科学重視という路線を徹底するとしても小生は驚かない。政府の危機感はおそらく広く経済界の危機感とも重なり合っているのである。その危機感は、一部、自然科学分野の研究者でも共有されているように感じる。


こんな風に今後の進展を予想しては(正直)楽しんでいるのであるが、いずれにしても極めて厳格な審査の上はじめて入会が認められる「日本学士院」の存在には、今回は手が付けられないのだろうと思う。文字通りの「沈黙せるアカデミア」になっている現状の是非もあるし、戦前以来の伝統である「官学の拠点」という香りを良しとするかもあるのだが。



2020年10月9日金曜日

ホンノ一言: 順法闘争と日本学術会議のデジャブ感

 政府vs日本学術会議の紛争も収束までにはまだ暫くかかりそうである。

たかが200名少々の会員のそのまた半数を交替する人事に過ぎないが、背後には国内のリベラル派・社会主義者・共産主義者が反権力集団のマスとして存在しているのが大学界、言論界である。

あたかも織田軍団vs石山本願寺の戦闘を観るようでもある ― 任命拒否された6名の方々、関係者として解決に努力している方々はまるで修羅場をくぐっているようであろうし、実にお気の毒だと思うのであるが。

例えは悪いのだが、小生が中学か高校に在学している時だと記憶しているのだが、当時の国鉄の《順法闘争》で《スト権スト》が呼号され、交通ゼネストが計画されたことがある。その頃は、余りにも度々「順法闘争」が行われ、前後関係を忘れたところもあるが、首都圏の交通が麻痺状態に陥る中で埼玉県上尾駅では怒った利用客が集団で打ち壊しをするなど暴動事件が発生したこともある。「スト権スト」による混乱は1週間程度続いただろうか。労働組合トップと運輸大臣(海部俊樹氏だったと記憶しているが)とがTV討論したこともあったかと思う。社会は騒然となった。公共の社会インフラを私物化して、首都圏住民の不便を人質にとるという戦術に政府は激怒した。おそらく政府内で国労・動労が支配する国鉄という組織を解体しようという方針が現実的なものとして意識されたのはこの時ではなかったかと、今にして思うのだ、な。そして、中曽根政権になってから周到な準備を経て、国鉄、電電公社、専売公社の3公社は民営化された。特に国鉄は地域別JRに分割されバラバラになった。単体では採算性が不安視された北海道も「JR北海道」として独立した。民営化後に採用された組合員は北海道では半数もいなかった。日本学術会議会員が各学会による公選制から政府による任命制に移行したのも中曽根政権の時であったはずだ。任命制への移行に関する当時の中曽根首相の答弁がいま法解釈の根拠として注目されているのは皮肉なことである。

が、それも巨視的に達観すれば、仕方がないことなのかもしれない。一連の行為は一連の結果として結局は収束するものである。『誰が何を意図して…』という問いかけは歴史全体の中ではノイズのようなものだ。たとえナポレオンであっても、レーニンであっても、意図のとおりに物事が進行したことなどないだろう。それが正に歴史ではないだろうか。

学説は内心の自由であり、それは保証されているが、それを発言、行動として社会関係の下で主張すれば、必然的に何かの社会的力が反作用として生まれてくる。それも予想の範囲に含めて、行動計画を練り上げる姿勢が道を啓く人には不可欠ということだ。

確かに政府の「やり口」には「情け無用」という側面があるのは小生も同感だが、日本学術会議の将来は決して明るいものではないと予想する。何と言っても、同会議は政府機関であって、独立した民間の団体ではないからだ。子会社が親会社と正面から対立衝突して子会社の言い分がとおり、親会社の体制が覆るとすれば、それは「正しい者が勝つ」という状態ではなく、「ガバナンスが出来ていない」という状態である。21世紀の今日、「革命史観」に現実妥当性はない。