2012年12月31日月曜日

覚え書 − 軍国主義の遠因は大正デモクラシーかも

昭和ブームであるとは、つとに聞いているが、大正時代もまたこのところ見直されているらしい。

明治時代がどうこれから再評価されるのかは、これは微妙だと思うが、確かに大正文化は素晴らしい。黒田清輝は画壇の支配者というイメージを感じるが、岸田劉生や萬鉄五郎からは自由を感じる。その自由とは、人間の自由・あらゆる因習や伝統からの人間の解放を指しているから、必然的に人間肯定へ通じ、自由意志の尊重、その結果として罪の意識、美しい倫理観が前面に出てくる。人間の知性と道徳によって、人間がこの社会を統御する − 統制ではなく、統御というところがミソである − それができると考える点に<大正理想主義>の魅力も問題点もある。

その前、というより反対側の立場には<自然主義>があった。日本で自然主義文学というと実に暗い印象があるが、発祥の地である19世紀フランスにおいても自然主義文学を担ったゾラやフローベールなど、不道徳や悪習に染まる人間をむしろ肯定するような側面があり、よく言えば社会をありのままに描写する、悪く言えば開き直っている精神があって、『なにが自然じゃ、不自然そのものじゃないか」、小生若い頃にはそう感じたものだった。

しかし歳をとってくると感じ方が、正反対になるのだ、な。「これは不自然だ」という捉え方は、「これは治すべきだ」という目線に必然的につながり、この目線に青春特有の潔癖な倫理意識が混じると、社会の悪を矯正し、あるべき社会を実現するという姿勢が出てくる。東大の学生団体である新人会が結成されたのは大正10(1921)年であるが、後に左翼思想の揺籃となったこの組織も、誕生は人間肯定、社会改良を望む善意からだったと言えるだろう。つまり理想主義である。大正文化は本質的に青春の謳歌に似ている。成熟した老人の感性とは違っている。

反対に、自然主義的な思想は、理想を排している。ありのままの現実に美を認め、貧困や悪習に神の意図を見る。だから現実を淡々と描写する写実主義をとる。現実に神的性質をみる思想から理想の追求は出てはこず、主観的な未来ではなく、現に存在する「今」をみる。開き直ったパワーポリティックスを展開することはあっても、王道楽土を追い求める拡張主義的積極外交がとられるロジックは出てはこないのだな。

現実世界に神を見ないのなら、「神の意図」にかわる最高善をおかないと不安で仕方がないはずだ。その最高善なる価値は、通常、<民意=民主主義>もしくは<国家・伝統>が置かれる。そこで理想が語られる。今日よりは明日、明日よりは未来、そんな生き方がとられる。現実世界が矛盾にみちている場合、多神教に沿えば矛盾は神々の争いと解されるだろうし、唯一神が仮定されるなら「神の意志は広大にして人間の理性にはとらえ難い」とされる。「貧しきものは幸いなり」、もしくは「人間本来無一物」、「因果応報」と言っても可であろう。これが人間中心の理想主義からみると、あらゆる社会問題は自分たちの努力不足として理解される。

思うのだが、昭和前期の日本軍国主義の源には、明治から大正にかけて花開いた日本人の人間肯定と理想主義があったのじゃないかと。革命を求めるマルクス主義が日本に根付いたのも、革命ではなくて福祉国家の理念をとる修正資本主義も、国家が責任をもって理想社会を実現するという逆説的な統制主義も、その当時登場した新思想はどれも「社会を改良したい」という善意に土台があったのじゃないか。もしも明治後半の自然主義的人生観がそのまま日本人の心の柱であったら、昭和になってから近衛文麿の新体制運動や国家総動員体制が受け入れられることはなかったろうと。そう思うようになった。ま、その自然主義思想も一部知識人による輸入文化であったから、もともと地に足がついておらず、腰が定まった世界観とは到底言えなかったのであろうが。

これがいま立っている地点なので、理想主義的デモクラシーは世界のバランスオブパワーにとっては、極めて危険な因子じゃないかと、これが小生の基本的見方であります。しかしながら、より一層高齢化していく日本や中国、韓国において、そんな老人世界で理想主義はまず採られるはずがない。方向としては、歴史哲学や社会倫理などとは関係のない、ありのままのリアリズムが原理原則になってアジアの国際社会ができてくるのじゃないか。この点では楽観的である。以上、覚え書きとして記しておこう。

2012年12月30日日曜日

日曜日の話し(12/30)

今年は速く過ぎ去ってほしいと願っていたら明日からまた大吹雪になるよし。今日のうちに主なものは買い出しに行ってこようと決めて、先ほど戻ったところだ。お屠蘇はやはり増毛町産の『北海鬼ころし』にするかと、それから愚息が一度はこちらに帰ってくると言うから、グレンフィディック(GlenFiddich)の15年を近くの酒屋で買っておく。ま、酒を買うとなると、あれこれと考えるポイントが増えるというものだ。

最近は毎日嫌な夢をみる。若い頃は何かから逃げるように空を飛んだり、何かを投げたりする夢をよく見たが、最近は昔一緒に働いた同僚や先輩が登場して、甚だ人間臭く演出されている。もう忘れている人たちが、なぜ夢の中に限って小生とまた縁をとり結ぶのか、小生にはその理由・原因が全く分からない。とはいえ、小生にとっては『夢のような世界』とは辟易する世界であって、覚醒するとむしろ安心できる現世にいることを知るのであるから、これは『足るを知る』、つまり幸福への近道を歩いている、そう言えなくもないだろう。嫌な夢にも意味はある。



Marc Chagall, I and the Village, 1911

シャガールも他の多くの芸術家と同様に、1917年のロシア革命後、祖国に見切りをつけて、パリに行き、第2次大戦でパリがナチスドイツに占領された中、ユダヤ人であったことから、アメリカに亡命し、戦後になって再びフランスに戻り、国籍を取得して、ニースに移り住み、1985年にそこで死んだ。カンディンスキーもそうだったが、時代に振り回された人である。

上の有名な作品は、シャガールがロシアを永久に捨てる前、パリで制作されたもので、彼が少年時代を過ごしたロシアの田舎の情景を形づくる幾つかのコンポーネントが、記憶の重層構造を模写するかのように、同じ平面上に描かれている。いまにも話しだしそうな山羊の頭と人の横顔、乳搾り、教会の十字架と農作業から帰る一人の青年。確かに山羊の頭は気色悪いが、こんな夢なら見てもよい。しかし、夢から覚めた後は、もう戻らない少年時代と懐かしい世界を思い出し、いま生きている世界のプレッシャを改めて思い出すだろう。確かに、そんな生きにくい時代をシャガールは生きたわけだから、こんな絵を描く資格がある。では、夢のほうが淋しく、孤独で、思うようにいかない毎日であるなら何を描けばいいのか?夢ではなくて、目の前の風景と人物を描けばいい。懐かしく思い出すような少年時代がないのなら、現在生きている現実そのもののほうがましであろう。

<自然主義>というと写実主義、<理想主義>というと明るい幸福な理念を描くものだと文学史では聴いてきた。しかし、自分が帰るべき世界、行くべき世界が信じられないとすれば、そんな人間が帰するところはどこか?いま生きている現実のみである。いま存在している状態は神が作った世界であると考えれば、人間の頭で別に理想をひねくり出す必要はない。過去を追憶するのは、過去は一つしかないからだ。未来は何通りもあるので、どの未来もウソになる可能性がある。過去を語るとき、人は耳を傾けるが、未来を語るとき、人は語る人の思惑を嗅ぎとる。人は未来に生きるが、神はいまここにいるものだ。現在を大事にするか、未来を大事にするか、その選び方はその人の哲学を反映するだろう。

だから、これまでシャガールは小生にとっては疎遠な芸術家だった。しかし、今年の年末ばかりはシャガールを見たくなった。それで一枚を本ブログに含めることにした。


2012年12月29日土曜日

旭川一泊二日

愚息が旭川で修習を受けているので、年末にちょっと様子を見てこようと思い、ただ見てくるのではつまらないので、昨日は旭山動物園に初めて行ってきた。10時に宅を出たのだが、道央高速を北上している間、数カ所で激しく雪が降り、前が全く見えなくなる。旭川北ICで降りてから動物園までの距離が意外に遠く、結局、到着したのは午後2時を過ぎていた。これでは入ってすぐに閉園になってしまう。が、ラッキーなことにペンギン・パレードが2時半から始まるという。







先頭を歩いているペンギンがどうやらリーダーであったようだ。リーダーについて歩く他のペンギン達は思い思いの姿勢で、好きな方向を見ていて、甚だ統一がとれていない − 当たり前ではあるのだが。

パレードが終わって、オオカミの森を回っているうちに、蛍の光が流れ始めて元の東門に戻る。そこにある土産品売り場で評判のインスタントラーメン15食分を買う。

動物園初見は慌ただしく終わったが、宿泊した高砂台・扇松園は良かった。床の間の花と軸も中々良い。


福は海の如く
壽は山に似る
頭で考えれば逆に分からなくなるが、奇妙に納得できるところもある不思議な言葉だ。

具体的に説明せよと言われると小生も困るが、人間が人生において手にしたいと願っているはずの幸福と長命、このいずれも海や山と同様、自然から、というより自然の中で与えられるものである。だから、人の知恵で計画的にこれらを獲得しようとしたり、科学の進歩で技術的に実現しようとしても、得られるものの本質は幸福でもなく、長命でもない。表面的に得られたとしても、それは形だけのことであり、魔術によって黄金に変えられた泥と同じだ。福寿は、人間の頭の働きではなく、自然という現実の中でもたらされるものである。人為を排し、天地と一つになって初めて得られるものである。ま、そんなところであろう。禅語であるようだが、 カント的とも言える認識論が隠れているようではないか。それとも、こういう考え方自体、マルクス的唯物論に属するのか、哲学を専門としているわけではないので、この辺りは不明である。いずれにせよ、賀詞を小生の勝手で解釈してみた次第。

今日は愚息が暮らしている部屋を覗いてから、カミさん、愚息と一緒に旭川グランドホテル『四季』で大雪昼膳を食す。その後、北の嵐山にある大雪窯で珈琲茶碗を買ってから、帰宅する。

× × ×

東証はまだ上げているようだ。米国は5日連続の低下。ロイターは次のように報道している。

(Reuters) - President Barack Obama and U.S. congressional leaders agreed on Friday to make a final effort to prevent the United States from going over the "fiscal cliff," setting off intense bargaining over Americans' tax rates as a New Year's Eve deadline looms.

「前向きの協議で合意」というので日本は更にまた一層強気になっているよし。とはいえ、
Obama said he was "modestly optimistic" an agreement could be found. But neither side appeared to give much ground at a White House meeting of congressional leaders on Friday. 
What they did agree on was to task Harry Reid, the Democratic Senate majority leader, and Mitch McConnell, who heads the chamber's Republican minority, with reaching a budget agreement by Sunday at the latest.
Source:  Fri Dec 28, 2012 8:35pm EST 
まだ安心できる状況ではないようだ。しかし、11月下旬以来の上げ幅をみると、仮に協議決裂というリスクが顕在化するとしても、なお買わなかったことの判断ミスのほうが責められるかもしれない。ま、今から買うほど愚かなことはないとは見ているが。

はてさて、どうなることか・・・日本は大納会をやってしまったし、大発会までにアメリカ市場で何かが起これば、年明け後は状況が一変しているだろう。

そういえばドイツの暖冬は記録的であるようだ。欧州を覆っている暖気団が東へシフトしてくれば、年明け後の天候は12月とは反対になるかもしれない。天気もまた状況一変するかもしれない。

目を離せない。


2012年12月27日木曜日

二大政党制が単なる二択政治になるなら最悪ではないか

今月16日の総選挙の結果は二大政党とはかけ離れたもので、いわば<ガリバー型政党分布>とでも言うべき状態になった。野党は多党が分立しているし、他方、参議院では自民党、民主党を軸にしながら、「どこがどことくっつくのか?」と、腹の探り合いと合従連衡、権謀術数が支配することになろう・・・。

こんな風に書くと、だから政治はわけがわからない、密室政治はもう沢山だという反応が予想される。しかし、「こんな密室政治はもううんざりだ」と言うばかりで、その逆の見方もまたありうるということに目を向けないなら、あまりに単細胞的であるだろう。

× × ×

ドイツでも来年秋に連邦議会選挙がある。本年5月に実施されたノルトライン=ヴェストファーレン州の州議会選挙ではメルケル首相率いる与党が大敗している。この州は大都市が多く含まれドイツ国内でも中央政界に対する大きな影響力をもっている地域である。日本でいえば東京都議選に例えられるような位置づけにある。そこで野党・社会民主党の得票率が39%、CDUの得票率が26%にとどまったので、にわかに来年秋の政権交代もありうべき可能性として視野に入ってきた。それがドイツの政情だ。少なくとも与党が進める財政緊縮路線、欧州財政協定路線にはかなりのブレーキがかかりはじめた。そうも言えるか。

ただドイツもCDU(=与党・キリスト教民主党)、SPD(=社会民主党)の二大政党が多数を占める寡占状態だが、どの一党も安定過半数をとれない、だから連立政権が常態である。その連立を組むパートナーとして自由民主党(FDP)や緑の党(Grüne)がキャスティンボート的役回りを演じるが、これらの小党がどの大政党と組むか、必ずしも長期的に一定した関係はない。そこで「あちらとくっつく、こちらと離れる」、その度に有権者は政治家の合従連衡に翻弄される、そんな状況にドイツ国民の不満も高まっているようだ。独誌Die Zeitでも次のような記事がある。
Wie kann der Wahlkampf ehrlicher werden?
選挙戦をいかにして名誉あるものにするか?そんな風な意識だ。具体的には、どうせ選挙が終わって連立を組むつもりなのなら、選挙の前に複数の政党がブロックを構築して、政策調整を済ませ、その内容を有権者に示す方がよい。それが一方の意見である。
Das geht so weit, dass Parteien, die erklärtermaßen miteinander regieren wollen, mit denselben Schwerpunkten gegeneinander antreten. Die SPD nennt als ihren programmatischen Kern im Wahlkampf: soziale Gerechtigkeit. Und die Grünen? Soziale Gerechtigkeit!Was sollen die Wähler davon halten? Nur Polit-Puristen können behaupten, dass so wenigstens im Wahlkampf die Positionen der einzelnen Parteien nicht verwässert werden. Alle anderen aber dürfen sich darüber ärgern, wenn nach der Wahl das jeweilige Programm, für das sie stimmten, in den Koalitionsverhandlungen radikal zusammengestrichen wird. 
Source: Die Zeit, 21.12.2012 - 15:14 Uhr 
ドイツでは、社民党も緑の党も基軸は<社会的公正>であり、理念は同じである。しかし、選挙前はこの似通った二党が、政治的な位置はあくまでも異なっているのだと主張し合っている。選挙が終われば、色々な政策が連立協議の中で変更を加えられ、妥協が形成され、事前の綱領は根本的に改変されてしまう。これでは「公約を信じて投票したのに・・」と、有権者の不満も強いようだ。政策決定のプロセスが見えづらい。だから、事前に複数の政党がブロックを結成して、有権者が「こうするか、ああするか」の選択ができるような方式にするべきだ。本来、二大政党というのはこういう理解しやすい選択機会を有権者に提供するのに便利(Convenient)なのであって、そんな状況に近づける工夫をしようというのが、上の意見の狙いであると思うわけだ。

これに対する反対の見方もある。

Das wäre natürlich schön bequem: Ein Lagerwahlkampf Rot-Grün gegen Schwarz-Gelb, mit gemeinsamen Schattenkabinetten und Wahlprogrammen. Damit wir Wähler endlich sicher wissen, was wir für unser Kreuzchen am Ende bekommen, für welches politische Endprodukt wir mit unserer Stimme bezahlen. Politik, so berechenbar wie der Einkauf im Supermarkt! 
Aber Demokratie ist kein Supermarkt. Zum Glück. Wer sie auf eine Blockwahl reduzieren will, offenbart damit nur, dass ihm eine falsch verstandene Effizienz wichtiger ist als Meinungsvielfalt und Berechenbarkeit wichtiger als politischer Streit. Das ist ein letztlich schädliches Politikverständnis. 
Um das zu erklären, müssen wir uns kurz daran erinnern, wie Demokratie eigentlich gedacht ist: Alle Menschen sagen ihre Meinung, und am Ende trifft man nach einer fairen Diskussion eine gemeinsame Entscheidung. Dieser Diskurs ist umso besser, wenn möglichst viele der existierenden Meinungen und Argumente zur Sprache kommen. Im Idealfall, so sagt es Jürgen Habermas, herrsche nur der "Zwang des besseren Arguments und das Motiv der kooperativen Wahrheitssuche".
概要はこうだ。確かに、たとえば社民党+緑の党とキリスト教民主党+自由民主党の二大ブロックが対立して、<影の内閣>、<政策綱領>を選挙に先立って、事前に提示すれば、分かれ道に直面した有権者がどちらの方向を選ぶか、その機会が与えられる。それはいかにも有権者にとっても便利である。ちょうどスーパーで商品を選ぶのと似ている。

しかし、民主政治というのはスーパーで買い物をするのとは違う。 こんなやり方をすれば、意見の多様性よりも悪しき効率性をとるかもしれない。数字では測れない政治的対立をあたかも数字で測れるかのように過度に単純化して考えてしまうかもしれないのだ。民主主義というのは、誰でも自らの意見をオープンに発言して、抑圧のないフェアな議論をかわすことを通して、最後に何らかの結論を得るための全体的な仕組みであるはずだ。だから、選挙戦においては、できるだけ多くの意見を議論に登場させるほうが良い。多くの議論が登場すれば、最後に最良の議論が残る可能性が高まることになるし、<集合知>がそこで確認されることにもなる。「三人よれば文殊の知恵」とでも言うか、そんな社会的な工夫が民主主義なのだ。ま、こんな趣旨である。

× × ×

日本人も二大政党制がよいと考えている人が増えているようだ。確かに、原発は是か非か?こういう問いかけをすれば、答えもYesかNoの二つしかないので、選択が単純になる。受験者Aは合格とするべきか、不合格とするべきか?この製品は害があるのか、害はないのか?TPPに参加するべきか、拒絶するべきか?中国は信頼できるのか、信頼できないのか?すべて物事は是か非か、善か悪か、正か邪かという二項対立に持ち込むことが可能である。

回答を二通りに限定させることによって、決め方はシンプルになるが、失われるものも多くなる。良い面と悪い面の両方を含んでいる現実に対して、本当は「良い」と回答する方が全体の利益にはかなう場合に、誤って<悪い>と結論を出してしまう集合知ならぬ<集合愚>が発生するかもしれない − 逆に、「悪い」と判断するべき時に、「良い」と結論を出す失敗もありうる。とるべき判断とは正反対の結論を出す時の損害ははかりしれない − <間違った開戦の決定>などは一例だろう。

二項対立、言い換えると<選択の仕方>が間違っている。客観的な正解がありえない状況においては、現実にそった選び方をする必要がある。正解が明らかでない場合は、社会的な判断もいずれか一つの見方に偏らない方が、というより偏らせない方が、理にかなっている。不明解な姿勢をとり続けることによって、大胆果断な敵には<先制攻撃>のチャンスを与えるだろう。だから即断即決をするシステムが国益の観点から良いのだ、という結論にはなるまい。是非を決める意思決定を速くしても、甚大な失敗のリスクが高まるのであれば、元も子もない。集合知の形成に時間をかけるシステムにしておくのは、決して愚かな国作りではないと思うのだ、な。

ということで、1994年の細川内閣による選挙制度改革は改悪であったというのが、小生の立場であります − ちょっとロジックが飛ぶが、とりあえず今日はこの結論で。




2012年12月25日火曜日

年越し寒波ならぬ、年越し株暴落はありうるのか?

今朝は快晴とまでは行かないが、美しい青空が広がっている。雪も降っていない。「ハテ、今日はクリスマスだ、昨日もいい天気だったが、クリスマス寒波はどうなったのか・・・」、そう思って新聞の天気予報欄をみると、今夕から北海道南部、日本海側でも暴風雪になるよし。「なんだ、夕方からか、じゃあ大学に行って部屋でも片付けてくるか」と、カミさんと話しているところだ。

その新聞には某週刊経済誌の広告がある。
アベノミクスでプチバブル。東証株価1万円根固めの根拠。追い込まれる日銀、追加緩和策も。
何だか、世界と切り離された日本国で日本人が「裏に道あり、花の山」とばかりに宴を催している、そんな雰囲気である。しかし、小生、どうにも心配で11月末に手持ちの株を売却したまま、まだ買い戻していない − というか、これほど急ピッチで上がってしまうと、危なくて買うに買えないものだ、もちろん買わないリスクはあるにせよ。

カネにかけては一家言あるスイス人たちはどう見ているのか?そう思ってNeue Züricher Zeitungをみると以下の記事があった。
Eine Einigung vor dem Jahreswechsel gilt nun als zunehmend unwahrscheinlich. Wie hoch die Kursrückschläge am Aktienmarkt ausfallen dürften, sollten die USA ungebremst über die Klippe rasen, ist schwer abzusehen. Ein Stratege des New Yorker Brokers BTIG hält etwa ein Minus des S&P 500 von bis zu 15% für möglich.
Source: NZZ, Samstag, 22. Dezember 
 アメリカで調整中の<財政の崖・回避策>の決着は年内は難しくなりつつあると見ているようだ。もしアメリカ議会で案がまとまらず、そのまま財政の崖から飛び出してしまったら(ungebremst rasen)、その場合の経済的ショックは予測しがたいが、ニューヨークの証券会社は15%程度(!)の暴落もあり得る、と。そんな見方を紹介している。日経平均が連動すると1000円〜1500円の暴落も予測範囲内に入るのだから、これは怖い。大きなリスクである。

上の記事のヘッドラインは

Welle der Euphorie läuft am «Fiskal-Kliff» aus

思うに、11月下旬から何の拍子か上がり始めた今回の株価上昇劇は、フランス、中国、アメリカ・・そして日本・韓国と続いてきた政権交代(もしくは政権継続)をきっかけに、何かこれまでにない新しい事が始まる兆しではないか、そんな浮かれた気分(Euphoria)が超金融緩和と相まってもたらした宴会のごときミニバブルであったのだろう。その宴会もそろそろ終わりであるというのが上のヘッドラインである。

いずれにせよバブルはバブルだと感づかれた時に破裂するものだ。危ない、危ない。12月第1週辺りで波乱があるという見込みは見事にはずれ、ここにきて持たないリスクはあるものの、買うのはいつでも買える。米議会の調整を確かめてから買い戻すことにしよう。

2012年12月23日日曜日

日曜日の話し(12/23)

天皇誕生日というより毎月23日は母の祥月命日であり、近くの寺の住職が月参りに来て、読経してくれる日でもあるので、今日は祭日という実感があまりない。だから明日も振替休日で三連休という感覚が、頭では分かっているものの、全くなくて困る。

月参りが終わってから、雪が降り積もった人気のない大学に来て、年賀状を印刷した。今年の絵柄はずっと以前に本ブログにも投稿した「小樽運河と橋」の秋ヴァージョンにした。カミさんが家に戻ってきてくれて ― 戻った直後にぎっくり腰を患って、小生は相変わらず多忙ではあったのだが ― 心のゆとりができたのだろうか、描き始めてすぐに仕上がった。


秋の小樽運河と橋、Fabriano 230mm×305mm、水彩

絵といえば、最近 ― 参照したブログを信頼するとして ― 明らかになったことがある。カンディンスキーの作品だと手元では分類されているのだが、持っているカンディンスキーの画集のどれにも含まれず、彼の作品だと確認できなかったのが下の絵である。


カンディンスキーの作風とは明らかに違っていてクレーの絵ではないかとも思われ、ずっと小生にとっては作者不明であった。それがブログ「水彩画の巨匠たち ― ワシリー・カンディンスキー」の中で上の作品を偶然に確認することができた。1928年に制作された『闇の中へ』であるとのことだ。

1928年といえば、カンディンスキーが同棲していた恋人であり弟子でもあったガブリエレ・ミュンターと別れてロシアに戻り、そこで二人目の妻と結婚したのだが、そのロシアでも受け入れられず、スターリン政権が発足する直前、故国を捨て、第一次大戦後のドイツに開設されていたバウハウスに移って数年後の頃になる。クレーが教官に招いたのだが、そこでカンディンスキーは、1933年にナチス政権によってバウハウスが閉鎖されるまで、約10年間、再生したかのように旺盛な創造活動を展開したのだった。上の作品には明らかにクレーの影響が認められ、二人の親密な交流をうかがうことができる。

カンディンスキーはナチス政権下のドイツからアメリカに亡命することを勧められたが、それを拒否し、フランスに移って隠棲し、戦後を見ることなく78歳でパリに客死した。時代に振り回された人であり、平穏で幸福な生活は常に戦争や政権交代によって壊されたのであるが、そんな時代に生きた彼の人生があったればこそ、今日まで残された名作が数多く創造されたとも考えられる。

新しいものを創造する人は、内面の衝動に突き動かされて活動する人であり、ある意味では時代に捧げられる<生贄>のような存在かもしれない。そう思うことがある。『ワイマールのロッテ』の最終章の中で、作者トーマス・マンは老いたゲーテに「私こそが苦しんできたのです、ロッテ、わが身を燃やして、周囲を照らす蝋燭と同じように、すべての詩人は創造という炎の中に自らを生贄のように捧げて、美を紡いでいるのです」と。ちょっと原本がないので、引用の正確さには欠けるが、まあ、このような趣旨の告白をゲーテにさせている。

政治は科学ではなく芸術に近い。再現は本質的に不可能であって、新しい時代をつくるという創造にこそ意味があるからだ。だとすれば、政治家もまた時代に身を捧げる生贄としての覚悟を持つべきなのかもしれない。


2012年12月22日土曜日

覚書き ー いまの日本に足らないものは政治家でもないし、専門知識でもない

閉塞感にみちているという ー 小生の身の回りに限って言えば、この一年はあまりに多事多端、急流のような一年で、もういい、もうなんにもしないからな、そんな感懐を覚える歳末なのであるが。つまり、「今までのようにしていてはダメだ」、それだけが分かっていて、ではどうすればいいのかが分からない状態である。

これは私達に知恵が不足しているということか?この問題を解決できるのは、一流の政治家であると当たり前のように語られているが、そうなのか?

それは大間違いであると、小生、思うのだな。

× × ×

いまの日本に不足しているのは<思想>だと思っている。思想は、数学でも科学上の仮説でもないので、知恵とはまた別の話しである。

古くなるが、こんな解説がある。シュンペーターとドラッカーという組み合わせが面白く、とっておいたのだ。
シュンペーターからドラッカーへ(ダイヤモンド・オンライン)
シュンペーターとケインズはライバル談義としてよく登場するし、ケインズとハイエクもそうだ。しかし、シュンペーターとハイエクはそれほど多くはないし、まして経済学者シュンペーターと経営学者ドラッカーを比べて何になるのか、と感じる人は多いかもしれない。しかし共通点はあるのだ。ケインズを別として、あとは第一次大戦で敗北し瓦解したオーストリア・ハプスブルグ王朝末期の帝都ウィーンで青春時代を送った人たちなのだ。

アダム・スミスは、産業革命が始まろうとする正にその時に、グラスゴーという技術の揺籃地で社会を深く考えた。スミスによる自由資本主義というビジョンがなければ、19世紀欧州経済の発展はなかったであろう。最近に例をとると、社会主義・福祉国家の理念に対して投げかけたフリードマンの『資本主義と自由』、『選択の自由』が仮に出版されていなければ、今なおケインズ流の裁量的経済政策の時代が(だまし、だましではあろうが)続いていたかもしれない。

ある時代が行き詰まり、別の新しい時代へ通じる端境期においては、まず大きなデッサンを描く思想家が現れるものだ。というより、話しは逆であり、そんな思想家が登場してから、はじめて多数の人が共通の価値、共通の了解事項を見いだし、利益を同じくする安定した新興階層が形成され、これによって現実に社会は方向転換していくのであって、新しい思想を唱える人物が現れるまでは、あるいは再発見されるまでは、古い時代が惰性的に続いていく。小生にはそう思われるのだ、な。

シュンペーターは経済発展のモメンタムとして、<均衡>ではなくて、イノベーションという<破壊>に着目した。ドラッカーが考えたテーマは「・・・であるとすれば、how to innovate」、つまりイノベーションの実践論だと言えよう。 二人とも、旧世界の崩壊を眼前に見ながら、ただその崩壊を嘆くことはせず、新世界はどのような世界であるのか、そもそも時代が進歩するというのはどういうことか、こんな風に考えてくれたからこそ、今に至る古典が残されたわけである。それを残せたのはアメリカという場が二人に与えられたからだ。破壊は破壊で終わるのではなく、次代の創造に必要な行為であること、守るべきは常に新たに生きようとする魂であって、いまあるモノやいまの制度、いまの習慣ではないことを、アメリカで目の当たりにしたのだろう。

× × ×

伝統的な価値であった日本人の和と協調が、自由と競争という理念とどうしてもとけ合えない。和と協調を守ろうとすれば、現状のまま、じり貧を甘受するしかない。自由と競争を徹底して、海外と交流を深めようとすれば、国の姿が根本的に変わってしまう。足らないのは「変えるのは今だ」というビジョンであって、変えようとする日本人を支える道徳的価値である。しかし、日本人が信じている道徳的価値は、いまなお明らかに協調と和にあって、競争による解決は欲望による解決だと(ホンネでは)考えている。いくら新自由主義を日本で唱えても、その精神を実践する段階で多くの日本人の道徳感情と共鳴しない、Animal Spirit(=ケインズ流の資本主義的精神)が当局に摘発されるとしても、摘発が当然であり、資本家は不正であると感じてしまう、だから自己変革が定着しないのだと、小生、こんな風に思っている。

「今までのようではいけない」のであれば、「どうしていけばいいのか?」。この問いかけについて、多数の人が納得し、同じ価値観を共有している他人と信じあい協調しあえる<新しい思想>が日本にはまだない。というか、信じてきた価値ではうまくいかないと頭で分かり始めている。だから不安だ。そう言えるのじゃないか?

四分五裂しているのは、表面的には政治であるが、実は思想が混乱している。政治の混乱はその結果である。小生には、そう思われます。思想の混乱という点では、第一次大戦敗北後のオーストリアもそうだが、帝国が崩壊したドイツもそうであった。だからマックス・ウェーバーがカリスマを求める若者達に『職業としての学問』、『職業としての政治』を講演し、なかば脅かし、なかば諭したわけである。そういえば当時のワイマール憲法も国民主権を軸としながらも余りに理想的な憲法でありすぎて短命に終わった。

ま、あれだな。頭では「やめるべきだ」と分かっていたが、「やめるのが正しいことなのか」で迷っていた太平洋戦争末期と似ているのかもしれぬ。一つの終わり・一つの開始を政治的に実行することは、本来、大政治家でなければできるものではないが、その前に「それが正しい」と思わせる思想が不可欠である。

2012年12月20日木曜日

あるケース ― 国会議員が語るべき国益と私益

少し古くなるがロイターが以下のような報道をした。

米国のLNG輸出、国内価格押し上げる=民主党上院議員
民主党のデビー・スタベノウ上院議員(ミシガン州)は6日、液化天然ガス(LNG)の輸出推進について「意味がない」と批判。天然ガスの輸出容認は国内価格の上昇につながり、米製造業に痛手を与えて雇用喪失を招くとして、反対する意向を表明した。
同問題をめぐっては、上院エネルギー委員長を務める民主党のロン・ワイデン議員らも、輸出容認がもたらすメリットに疑念を提起し、輸出推進に反対する考えを示している。
オバマ政権は現在、国内企業からこの1年間に出された12を超す天然ガス輸出プロジェクトの認可申請に関する決定を保留して、LNG輸出が価格や国内経済に与える影響の検証を実施している。
また、米エネルギー省は5日に報告書を発表し、余剰天然ガスを国外に輸出することはエネルギー価格を押し上げるものの、経済全般には実質的な利益をもたらすとの見解を示した。
(出所)ロイター、2012年 12月 7日 14:43 配信
シェールオイル、シェールガス採掘技術の進歩から、いまは世界のエネルギー市場の市場構造が変革のさなかにある。一度アメリカから新興国に流出した米・製造業の生産拠点が再びアメリカ国内にUターンしつつある。このことはもう何度も報道されている。

余りに多くの一次エネルギー源を中東に依存する日本にとっても、このようなエネルギーのアメリカシフトは好ましく映っているはずである。ところが、日本の製造業の得は、アメリカ製造業の損であると。米国・民主党議員ならば、こういうゼロサムゲーム的な議論を構築するであろうとは、大いに予想されるところだ。

しかし上の議論は、アメリカ製造業とそのライバル国の議論では、実は、ない。 純粋にアメリカ国内の問題である。

ロジックからいえば、アメリカのエネルギーをグローバル市場で自由に取引させて、価格が需給で決定されるようになれば、アメリカのエネルギー産業は繁栄するが、当然のことドル高要因となり、それはアメリカの製造業にとっては輸出の足かせになるのでマイナスである。悪くすれば、アメリカがオランダ病に罹ってしまう。上記スタベノウ議員は、『だからアメリカ製造業のライバルを利することを懸念している』と、そう考えているようだが、実はアメリカ国内のエネルギー産業の利益拡大を抑えようとしているわけである。アメリカにとって、エネルギー産業を国の繁栄のコアと位置付けるか、製造業をコアと位置付けるか、アメリカが直面している問題はあくまで<アメリカの国益>なのであるが、そうは語っていない所が議論のミソである。民主党としては、同じアメリカの産業が繁栄するにしても、より多数の労働者が雇用されるようであってほしい。エネルギー産業が繁栄しても、それは少数の資本家が栄えるだけであり、中下層に利益は落ちてこない。まあ、こうは言ってはいないが、考えていることはこうであろう。もちろん優勢な製造業の保有=国防上の安全保障というロジックも意識されているだろう。これも民主党が伝統的にもっている政策思想に沿っている。

× × ×

特定の選挙区から選出された特定の政党に属する国会議員は、所詮、(ホンネでは)誰か特定の人たちの利益を代弁するものである。代弁というのがまずいなら、無視できない、と言い換えておこう。そんな政治家の姿勢が嫌だ、不潔だと考えるなら、そもそも<代議制民主主義>を採用するのは無理なんじゃないかと思う。寧ろ、こうした状況こそ、地に足がついており、活力があって望ましいと、そう感じる感性が必要だと、小生は思うのだな。

小生が特に羨ましく思うのは、抽象的な大義名分を振りかざすことをせず、あくまで具体的な利益の発生と損失の発生をロジカルに語りながら、何が国益であるかを明らかにしようとする国会議員の議論のスタイルである。そもそも<国益>を国会議員が語らないのなら、誰が<国益>を語るというのだろうか?

その国益を追い求めながら、それでも特定の選挙区から選出された特定の政党議員たちは、自分たちの利益も<結果として>同時に増えるようであってほしいと願っている。源頼朝は何よりも平家を打倒して父の無念を晴らしたかった。しかし、それは支持基盤の東国武士たちにはどうでもよいことだ。だから源頼朝の政治課題は東国武士の利益拡大であった。それが公益だ。その公益を拡大するべく行動する中で、自分の私的な目的である平家討滅もまた同時に達成した。源氏一門に属する人間が、東国の公益を求めながら、自らの私益を追求するとしたら、ああするのが合理的だったわけである。その点で政治的な天才であると思うのだ、な。もちろん、東国は日本の中の一地域であり、東国の利益=朝廷政治の損失という対立ゲームであったので、東国の公益とは結託の利益だったのだが、この点はまた別の機会に。

国益という仕事をこなしながら、私益も同時に達成する。いいねえ・・・複雑でありコンプレックスであり、深みがある。ま、アメリカの上院議員は鎌倉幕府とは関係がないが、<政党政治>たるもの、こうでないといかん。「新幹線延伸が私に与えられた政治課題であります」・・・私益丸出し。全く恥ずかしいの一語だ。それでもまだ日の本太郎なる人物がいるわけでもあるまいし『すべての国民の未来のために・・・』などという自称・政治家の枕詞よりはよほど中身があるだけマシであるが。ま、国会議員の議論のスタイルを示す一つの好例ではないかと思ったので米・上院議員のことながら、メモすることにした。

2012年12月19日水曜日

「みんなの党」が「みんなの間違い」にならないことを祈る

朝のTVで隣町のS市にある老舗デパートのデパチカが紹介されていた。洞爺湖サミット以来、牛肉の高級ブランドとして確立したかにみえる白老牛がとりあげられていた。
~~これは白老牛で作った〇〇△△です。わかりますか?
~~何でしょうねエ・・・
~~これ実は、白老牛で作った生ハムユッケジャンなんです!

小生「何と、白老牛で作っているのか、勿体ないねえ・・・」
カミさん「わたし、いらないなあ」
小生「だけど、あのデパートだからサ、例のおいしいコンビーフならいいんじゃないかな、白老牛のコンビーフなら一度食べてみたいねえ」
カミさん「売れないと思うけど」
小生「あれかな、白老牛に対して礼を失しているかもネ。そこもと、何か勘違いをしておらぬか!この白老牛をコンビーフごときに用いるとは、何たる了見じゃ!」
カミさん「ハハア、ご無礼の段、ひらにご容赦を・・・ってやつだね」

名案のように思えても、実は心得違いというのは、何ごとについてもあるものだ。そんな時に助けになるのが、体系的なカリキュラムに沿って、専門的な勉強をしておくことだ。「それはないでしょ」という簡単なミステークを避けることは、くだらない議論を避け、時間多消費型の迷走状態をつくらないようにする何よりの秘訣である。

× × ×

こんな報道がある。
渡辺喜美みんなの党代表
 安倍政権が唱える(改憲規定のある)憲法96条の要件緩和には、みんなの党も賛成だ。だが、優先順位として、まず公務員制度改革が必要だというのが、みんなの党の基本的な立場であります。憲法改正の要件が緩和されて、時代に適応した憲法改正が可能になったとしても、その受け皿となる官僚機構がまったく時代にそぐわない、今のままの状態が続いたなら、極めてチグハグになる。まずは、官僚制度改革が優先されるべきだと、強く主張してまいりたい。(党役員会で)
(出所)朝日新聞、2012年12月18日16時42分 配信
憲法とは国の姿をどのようにして作っていくかを示すものであって、言うならば国家戦略の柱をなすものであろう。日本という国のあり方について理念がまずあって、それをどのように追い求めて行くかという設計図と戦略が次に来て、ではオペレーションとしては誰がどのような組織と配置で担当していくのか。それが組織戦略である。

10年ほど前に文科省の新制度である専門職大学院に移って、ビジネススクールという所で授業をしている。制度自体がアメリカ直輸入に近いものだから、理念とか戦略という言葉は頻繁に使う。

戦略といえば、多々、ビッグネームが上がるだろうが、まずはアルフレッド・チャンドラーの名前は必ず入る。ま、戦略分野の大物だ。同氏の"Strategy and Structure"(戦略と組織)は一世を風靡した古典だが、中でも
組織は戦略に従う
という格言は、今学期も何度口にしたか分からないほどだ。日本語訳は、ズバリ、上の格言をタイトルにしている。

小生は次のようにパラフレーズして使っている。
いいですか、他の授業でも必ず引用されているとは思いますが、目的が定まって、戦略が定まる。戦略が定まって組織が定まるのです。ですから、戦略なき組織編成はありえないし、目的が不明確のまま戦略をたてようとしても不可能なんです。まず最初に社内組織を変えようかという会社が多いようですが、みんなが賛成するからと言って、目的をハッキリさせないまま、組織をいじってみても、時間とエネルギーの無駄使いなんですよ。
だから憲法改正を狙っていくなら、改憲論を先にしておくべきであって、公務員制度や中央省庁の編成は、新しい憲法で定める国の方向に向かって、確実に歩んで行けるように決めるべき事柄である。

最初に公務員制度や官庁のことを議論すれば、必然的にそれは<制度いじり・組織いじり>に堕することは、ロジカルな関係から簡単に予想できることである。にもかかわらず、渡辺代表が公務員改革にこれほど執着するのは、代表にとって公務員改革は組織戦略ではなく、それこそ国の姿そのものであると。そう考えているからであろう。しかし、これは明らかに間違ったものの見方だし、器の小さい政治であるとしか言いようがない。

みんなに貢献する政党だから「みんなの党(Your Party)」だと思っているのだが、みんなの間違いを提案するのでは元も子もない。間違いは、せいぜい「私たちの間違い(Our Mistake)」にとどめておいてほしいものだ。


2012年12月17日月曜日

最初の印象 ― 自民大勝・民主壊滅劇

事前に予想されてはいたが、やはり自民党が衆議院選挙で大勝し、民主党は惨敗した。100議席を割るという予想から、いやいや70台にとどまるという声が出て、まさかと言われていた。それが50台であるから、ただ茫然、為す所を知らずというのが事実であろう。

ただ2009年政権交代劇は、<ロマンティックな夢想家+反権力活動家OB+やり手の選挙屋>という、ドストエフスキーの『悪霊』にでも出てきそうな、まあ想像を絶する元素の化合物から生まれ、乙女のごとくウブな専門家達も毒素にやられてしまったことを思うと、今回は日本人の多数が魔術から醒めたという側面もあったのかもしれない。それにつけても、この三年間は何であったのだろう?将来の歴史家は<わる酔い政局>とでも総括するのではなかろうか。小生はそう予想しているところだ。

いずれにせよ、その立役者の一人は失政を非難されて、追い詰められ政界引退。他の一人は ― 追放ではなく離党ではあったけれど ― 古代ギリシャにも似た陶片追放の憂き目にあい、残る一人は選挙運動中に負傷するほど奮闘もしたのだが小選挙区で武運拙く敗北、朝刊締め切り時点では比例当選も定かならず。首謀者三人、それぞれ三人三様の有様にて、それにつけても悔しきは、敗軍の哀しさヨと、そんな風な結末なのだが、当選した民主党の構成員は、まだしも真っ当な人材に純化された。そう言えなくもないだろう。むしろ得体の知れない新人を多数抱えこんだ自民党の方が<時限爆弾>をわが身の中に抱え込んだようなもので、危ういこと限りなし。

それにしても日本未来の党の嘉田代表がTVで「今度は参議院選挙だなって、小沢先生はおっしゃっていました」と発言していたし、自民党幹事長は来夏の参議院選挙を意識して石破氏留任となったらしい。

昨日の衆議院選挙の開票がまだ終わってもいないうちから、来夏の参議院選挙を意識して、そこから逆算して今の政略を練る。ゲーム論的には当たり前のロジックなのだが、「何のために政治家になっているのかねえ・・・」と、小生は言いたくなりますね。世界の普通の感覚から見ると「ホント、日本の政治家というのは、落ちつかない連中だねえ。日本人ていうのは、あんな風にしておきたいのか?」。そんな風に言われるのではありますまいか。

2012年12月16日日曜日

日曜日の話し(12/16)

今日は衆議院選挙である。四国の実家から北海道に戻ったカミさんは、戻って一日だけは元気に動いていたが、二日目の終わりに腰が痛いと言い出して、そのまま寝込んでしまった。一週間経ってから動けるようになったが、まだ重いものを持つのは厳禁であり、買い物に出て少し歩いただけでまた痛くなる。そんな毎日である。そのカミさんが、今朝、小生に聞いた。
「選挙には行くの?」
「もう日本の国会にかかわりあうのは辞めたよ。真っ当な人物か、イカサマの候補か分からないのに、籤引き抽選会でもあるまいし、雪の中を出かけていって投票するなんて、時間の無駄だよ。大体、この選挙区にたっている候補は何だい?大臣在任中にはとんでもない行動をするし、そうかと思ったら原発ゼロとか、原発ゼロにしたまま消費税増税はストップするとか、何とか学校は無償化するとか・・・できもしないことを並べたてて、あれじゃあテレビのワイドショーと同じだよ。バカにしてらあ。」
「じゃあ、わたしも腰が痛いし、やめよっかなあ・・・」
「それが賢いね。意味もないことに参加して、また怪我をしちゃあ、つまらんよ。自然にまかせて、なるようになれば、それが正解というものさ」。

× × ×

前々日曜日は高橋由一を話題にしたから、順番からいえば狩野芳崖にならざるをえない。芳崖は旧幕時代に全国に散らばっていた狩野派絵師の一人である長府藩狩野晴皐の子として生まれた。神童の名を恣にした幼年時代を送った彼は、長じて江戸に出て、そこで生涯の親友・橋本雅邦と出会い、幕府瓦解まで二人は竜虎と称された。しかし明治政府が発足し、芳崖は生活に窮迫し、襖絵や焼き物の下絵を描くことで糊塗をしのいだ。落魄の人生である。芳崖を再び見いだしたのは米人フェノロサである。ジャポニスムの潮流の中で美術を研究してきたフェノロサは狩野派が作り出してきた美に日本をみた。


狩野芳崖、仁王捉鬼図、1886年

日本人・岡倉天心と協力して設立を準備していた東京美術学校(現・東京芸術大学)の教官を任される予定であったが、絶作「悲母観音」を描きあげた4日後、1888(明治21)年11月5日、「近代日本画の父」狩野芳崖は病気により死去した。美術学校開学は翌年のことである。


悲母観音、1888年

芳崖の代わりに美術学校に着任したのは橋本雅邦である。雅邦は横山大観、菱田春草などの弟子を育て明治後の日本美術再興に力を尽くした。

× × ×

芳崖、雅邦の時代、二世を生きた人は無数にいたが、だからといって当時の人が身の不運を嘆き合っていたとは、小生思えないのだな。それどころか、同時代の混乱に振り回され、幕臣たる身分を失った福沢諭吉は、自分の人生の最大の僥倖として、異なった時代を生きることができた点をあげていた。

今は閉塞感にみちていると言う。しかし同時に『窮すれば通ず』ともいう。変革期であることに多くの人が気がついている。変化によって若い人は必ず刺激を受けるであろう。旧時代の既得権益層である人も、既得権益を失うからといって落魄を嘆く必然性はない。それは落魄ではなくて、むしろ再生、Rebirthになるのだ。

小生は、次の世で何をどのようにしたいのかを思いめぐらすことのほうに、投票より関心を覚えるし、そのほうが面白いし、過半数の人が同じ行動をすれば、日本の国政選挙は死に体となり、日本国家の統治機能が麻痺するであろう。それは変革への触媒になるだろう。そんな選挙で選ばれた国会議員が有能であるはずはなく、政党が何かをできるわけはなく、結局は超党派の憲法改正準備委員会を開設することくらいしかできることは何もない、文字通りに<能のない集団>になるだろう。今日という日の偶然によって選ばれた国会議員集団がそのことを自覚する時が、日本の転機になるだろう。自覚しなければ、自覚するまで、本質的な事柄は何も進まないし、そもそも進められる人材が今のような「選挙」で選ばれうるとも思われないのだ、な。

2012年12月15日土曜日

民主化によって多数の国が共通国家モデルに収斂していくのだろうか?

歳末である。今年は、というか昨年の東日本大震災のあと、小生にとっては平穏な20年が終わり、多事多端な時代が幕開けした。そんな感懐を覚える年の瀬である。

北朝鮮の独裁体制が何かと言えば批判にさらされているが、民主化を政治の春にたとえるのは、アラブの春のあと、世界で共通した姿勢であるようにも思える。

小生の友人にもデモクラティストがいる。近代国家が生まれようとしていた18世紀末では、しかし、「共和主義者」といえば、イコール「危険人物」であった。当時はロイヤリスト(王党派)が伝統的な穏健派であり、民主主義者といえば過激派であったわけである。それが現代においては民主主義者が穏健な伝統派となり、反民主主義者は現・国家体制を転覆しようとする危険人物になっている。世の価値観や社会哲学は、100年を1単位とすれば往々にして逆転することが分かる。

× × ×

日本とアメリカはどちらが民主的社会であろう。日本と英国は?英国とドイツはいずれが民主的か?ドイツとイタリアはどうだろう?日本と韓国はどちらが民主的なのか?・・・民主化の度合いについて、こうした順序構造を設けるには、その度合いを数値化しておく必要がある。それが<民主主義指数=Democracy Index>である。英誌The Economistの付属機関であるエコノミック・インテリジェンス・ユニットが隔年で公表しており、世界167か国が調査対象になっている。オリジナルの公表資料はここにある。

2010年公表指数によれば、日本は君主制をとりながらも「完全な民主主義国」として認められており総合指数では22位に位置している。ちなみに第1位はノルウェーであり、アメリカは17位。167か国中の167位は(言うまでもないが)北朝鮮。北京に首都をおく中華人民共和国は136位に位置しているので民主化の度合いは(これまた言うまでもないと思うが)半分以下、極めて低評価にとどまっている。

面白いのは、韓国が日本よりも2位だけ上位にあって20位。差はあるものの、総合指数では日本が8.08、韓国が8.11と僅差であるから、ほぼ同等だ。ただ総合指数を計算する各次元の評価値では少々出方が違う。個別評価値は、「選挙手続きと多元主義」、「政府の機能」、「政治への参加」、「政治文化」、「市民の自由」、以上五つから構成されている。内訳を日本と韓国で比較すると


日本韓国
選挙手続きと多元主義9.179.17
政府の機能8.217.86
政治への参加6.117.22
政治文化7.507.50
市民の自由9.418.82


こうなっている。評価が違うのは、政府の機能(日本が上位)、政治への参加(韓国が上位)、市民の自由(日本が上位)で、選挙手続きと多元主義、政治文化については日韓同等である。これをみるとEconomist誌の調査データに基づく限り、日本と韓国の二国は<概ね同型の民主的社会>と把握できるわけである ― 当然、そこに暮らしている人々の間には体感的な違和感があるとは思うが。とにかく、政治への参加において韓国は日本よりも一歩先を行き、市民の自由においては日本に分があるというのは、(小生自身、両国の暮らしを熟知しているわけではないが)一般的な印象と合致しているのではあるまいか?

上の総合指数は個別数値を単純平均して算出されているようだ。個別指数が測定している社会の属性は、互いに関連し合っているが、個別数値の相関行列をみると関連の度合いは一様ではない。こういう場合は個別数値を単純平均するのではなく、下図のように考えて、因子分析を行い因子得点を求める方が適切である。
共通因子が個別測定数値に影響する際に、その他要因がノイズ(=個別因子)として混在するから、因子得点の変動が個別数値の間にみられる相関を100%説明するわけではない。回帰分析の決定係数に相当する指標である<共通性>も確認しておくべきである。ともかく因子分析の枠組みで考えれば、<民主化>共通因子を反映している度合いだけ、その国家は民主化が進んでおり、共通因子では説明できない個別因子(=ノイズ)は、その国が民主的であるかどうかとは関係のない、国ごとの個性、国民性、歴史的な相違等々を反映する。この個別因子を観察する作業も相当面白いのではないかと思う ― 日韓2か国の比較くらいであれば、個別数値を並べるだけでも察しはつくが。

× × ×

一口に<民主主義>と言っても、同じ度合いの民主的社会を構築するには、エコノミスト調査の方式に沿って議論するとしても、なお5次元の自由度があるわけである。民主化を進める道は一本道ではなく、平面でもなく、そこには広汎な選択の余地がある。また、その国家が民主主義的であるかどうかとは関係のない側面も国家・社会にはあるわけである。

より民主的になれば社会は改善されるだろうと言明しても、それは決して一つの方向を指し示すことにはならない。その慣行は先進民主主義国家では観察されないことであると指摘するとしても、数値分析を行えば、その社会的特徴は民主主義的であるかどうかとは、ほとんど無関係な次元に属するかもしれないのである。

単線的、というか過激にいえば<単細胞的な>評価を民主化について下すことほど非科学的な議論はないと言えるだろう。

2012年12月13日木曜日

TV業界 ー 知る権利も大事だが、間違った認識を避ける権利も大事だ

12月に入ってからずっと荒れていた天気も、昨日、今日は一段落して、青空がのぞかれるようになった。で、いまは某TV局のワイドショーをのんびりと観ている所だ。
高齢者 vs 若者、どちらの雇用を優先?
この<優先>という言葉が日本人は極めて好きである。アメリカにも<優先順位>はもちろんある。例えば、大統領に何かがあった場合の継承順位はずっと昔から確定している。優先順位の好きな日本人は、しかし、首相に何かあった時の継承順位はなく、それではまずいというので一応決めたのは相当最近のことだった。

<優先>という言葉が頻繁に使われるのは、優先順位をつけるのが実は苦手であり、何かというと物事を曖昧にしておきたいと願う日本人の傾向があるからだろう。小生はそう見てきたのだ、な。

『大道廃れて仁義あり』、老子も言うように「優しさだ、モラルだ」と五月蝿くいうのは、社会から優しさが失われ、モラルが失われていることの証拠である。言葉と現実は、往々にして、正反対の位置にあると考える方がよい。

それにしても、雇用問題において
高齢者と若者のどちらを優先するか?
とはねえ・・・答えは誠に単純明快である。

役に立つ人材を雇用すれば良いのである。若いからといって、それだけの理由で、同じ報酬を支払いながら若者を雇用する。それを命令する権利は国にはない。そんな愚かなことをすれば、日本企業が競争優位を失い、販売が低下し、肝心の仕事がなくなるだけの話しである。顧客との相互信頼がものを言う分野ではベテランが優位であろう。逆に、ITソフト開発や、斬新な製品デザインなどにおいては、若者が優位にたつはずだ。組織管理では経験がものをいうだろうし、研究開発では若者の柔軟な発想が不可欠だ。

人の雇用は、能力と報酬とのバランスでロジカルに決める、これが基本的なセオリーである。

とにもかくにも<日本人の>高齢者と若者、この二者対立図式が決定的にくだらない。企業は日本と外国のどちらに立地するかを考えているのだ。雇用される方も外国人と競争しているわけだ。学校の学年じゃあるまいし、年齢自体がそれほど大事か。要は、適材適所。最も有能な人材から担当業務を決める。経済はどれだけ合理的に行動するかで結果が決まる。かわいそうだとか、何とかしてあげたいという感情は、経済の議論じゃない。生産が一巡した後の社会保障政策である。つまり政治で解決、というより決定しないといけない事柄なのだな。

60歳から65歳までの再雇用を法律で民間企業に義務付けるというのは、経済政策ではなくて、社会保障政策のコストを国ではなく、民間企業に直接負担させるという点で無責任であり、日本政府の弱体化もここに極まっている。これでは経営状況に応じた給与格差がそのまま社会保障に反映されるではないか。ここが問題のコアではないか。まあ、いまでも年金格差はあるわけだから、いいといえばいいわけか・・・。、開き直れば、開き直れるわな、と、そういうことかな、と。いずれにせよ、無力な政府のツケを回された民間企業は海外に出て行くだけである。無責任というのは、政府もそうだが、租税負担を出来る限り後回しにしたいと願う国民もそうなのだ。政府と国民もろとも、困ることになるであろう。ここをTV局にもちゃんと見てほしいのですよ。

TVだけではなくマスメディアも産業である以上は、プラスの価値を創造してはじめて存立できるはずだ。その存立は「情報の品質」をめぐる普段の競争によって保証されるはずだ。しかし、電波割当、官公庁の記者クラブ制など色々な独占的要素がマスメディア業界には残っている。法に守られた独占的経営の行き着く先は、品質の停滞と高コスト体質、価格の高止まりである、というのが一般的に言えることだ。

マスメディアが正しい問いかけと正しい認識を提供して、私達が十分な情報をもつ。十分な情報を持つことで、豊かな生活やフェアな社会をつくれるようになる。それが情報産業の成長の果実である。ゼロサムゲームを繰り広げているわけでもない高齢者と若者を対立図式においてみる。そうすると話しが面白くなる。適材適所の合理性を追求する場に、なにか感情的行動をあおりたてるようなキャッチフレーズをつくる。それで視聴者の記憶にとどまろうとする。こういう放送姿勢は、根拠のない流言飛語を流しては大笑する「愉快犯」と、本質的には同類じゃあないか、小生、そんな風に思うのであります。ま、愉快犯には「悪」を楽しむ歪んだ人間の感情があるが、法人たるTV局には感情すらもない。ただ社員が食っていくためだけではないのか?悪意に見るならば、そんな風にも言えると思うのだな。

2012年12月11日火曜日

円安にすれば競争力が復活するというのはアヘンと同じである

家電製品が世界市場で売れるかどうかは、円の為替レートで決まる。そう思っている人が多いようだ。しかし、それは理論的には誤りだ。これは少し前の投稿でメモしている。

こんな解説記事がある。
この大きな要因は、電機メーカーの競争力低下に起因しているところが大きいと私は分析する。主力商品のコモディティ化によって、大幅赤字に転落した企業が相次ぐ中、次の主力商品をどのように創り出していくのか、具体的なプランが動き出しているところは、極めて少数のように見える。この私の見立てが間違っていなければ、電機産業の競争力回復は短期的には見込めず、輸出増大への展望は開けない。
(中略)
こうした日本企業の競争力低下を放置したまま、円安の推進を政策的に展開しても、マーケットが予想しているような企業業績の好転と貿易収支の黒字化に結びつかない公算が大きいのではないか。
そのことにマーケットが気づいた時、円安と株高の連動というモメンタムは衰弱し、円安と株安が連動しやすい市場地合いに移行する可能性が高いと予想する。だとすれば、日本国の運営に責任を持つ政治家は、日本企業の国際競争力の低下にもっと危機感を持ち、その反転を促すには何をするべきか、政策メニューを具体的に掲げるべきだ。(出所:ロイター、2012年12月7日 14:12配信)
為替レートを円高から円安方向に修正し、たとえば1ドル=120円程度の超安レートが定着したとしても、これまで日本株式会社の花形部門であった電気機器部門が、再び輸出競争力を回復できるかどうかは不明である ― 1年程度はうるおうであろうが。

直接的には、円高によって電機メーカーの価格競争力が失われた。高くても売れるものをと考えたが、多機能化を高付加価値化と勘違いした。差別化したつもりが単なる高価格商品になってしまった。そんなマーケティング戦略の失敗もあった。表面的にはそう見える。しかし、日本の電機産業以外の産業との生産性上昇率格差がメイド・イン・ジャパン内部の比較優位を変えつつある。ここがもっと重要だ。電機産業のイノベーションがいまも継続しているなら、円高・円安は半年~1年以内の価格競争には影響するとしても、世界市場における競争優位性を変えることはない ― それが比較優位理論のコアであって、日本の貿易構造は円レートではなく、産業間の比較優位によって決まることが、データの積み重ねを通して、確認されている。

ということは、電機産業が競争優位を失ったからには、競争優位を獲得しつつある産業部門が日本にあるという理屈だ。それは何か?その分野に経済資源がスムーズにシフトしていくように環境を整える ― 政府には経済の現場のことは分からないから、規制や独占的支配力を排除して市場メカニズムを活用する。経営をフレキシブルにする。企業統治をしっかりとする。金融面で支援する。それがいま必要なことだ。
危なくなったから、そこをテコ入れする
こんな発想で問題を解決しようとしていたら、日本株式会社がまるごと共倒れ、全員が討ち死にするのは確実だ。

戦略的代替関係があるなら、見込みのない前線は速やかに撤退し、ライバルの経営資源をその分野へ誘導し、自らは見通しのある新規分野に資源を速やかにシフトするしか道はない。勝負を回避していては先細りなのであれば、先行開発するもよし、開発力がなければ模倣するもよし、資源を十分に投入し、敢えて消耗戦を乗り切って勝つしか道はない。それだけの現ナマを日本企業は使わないまま持っているではないか。

円安にもっていけば、いま困っている電機産業が復活し、日本経済は再び輝きをとりもどせる。電機メーカーに勤務している社員が、これを言うなら事情はお察しするが、もし万が一、政府関係者が本気でこんな風に考えているなら、たとえ<政権交代>があったとしても、文字通りお先真っ暗である。

個別の企業を救済するのではない。個別の産業をテコ入れするのでもダメだ。死に金を生きた金にする。日本株式会社のリストラをして、<できるだけ>多くの人の生活を守るには、ある意味で<冷酷非情>なロジックに従うことも必要だ。それでGDPが増えるなら、国全体で色々なことが後でできるのだから。

2012年12月9日日曜日

日曜日の話し(12/9)

クリスマスがもうすぐと言うには北海道の猛吹雪は度をこしている。それでも真っ白になった街の風景をみると思い出すことがある。

小学校6年生の頃だったか、亡くなった母が当時暮らしていた町の書店でケストナー作『飛ぶ教室』を買ってきてくれた。ドイツの全寮制学校を舞台にして生徒とその学校のOBである寮監、寮監の元クラスメートで今は診療から離れ学校近くで隠棲している元医師が繰り広げる小説である。


その後、数えきれない本を読んだが、この『飛ぶ教室』は小生にとって手放すことの出来ない作品になった。映画化もされているようだが、小生は観ていない。映画は観てないが、この小説は日本語で何度読み返したか分からず、独語でも最低3回は読み直している。今でも枕元に置いて、気に入った箇所を拾い読みしては、寝る前の睡眠薬代わりにすること、しばしばである。


Source: http://www.playerweb.de/kino/das_fliegende_klassenzimmer

小生が中でも好きな下りは、クリスマス休暇で生徒達が実家に帰って誰もいなくなり、降り積もった雪でしんと静まりかえった校内を見回っていた寮監先生が、ふと足跡をみつけ「誰かいるのか」といぶかしく思って、足跡をたどって歩いていくと、主人公の一人であるマルティン少年が誰もいない所で独り空を見ている。そこから以降の数ページが実にいい。
Das Schulhaus war wie ausgestorben. Das Dutzend Schüler, das erst am Nachmittag fuhr, spürte man überhaupt nicht.
Da zog der Justus seinen Wintermantel an und ging in den stillen weißen Park hinunter. Die Gartenwege waren zugeschneit. Unberührt lagen sie da. Verschwunden waren Lärm und Gelächter. Johann Bökh blieb stehen und lauschte dem raschelnden Schnee, den der Wind von den Zweigen pustete. Na also, die große Ruhe und die große Einsamkeit konten beginnen. 
Als er in einen Seitenweg einbog, bemerkte er Fußstapfen. Es waren die Abdrücke von einem Paar Knabenschuhen. Wer lief denn jetzt allein im Park umher? 
「やあ、こんなところで何をしているんだい?」
「 独りになりたいと思って・・・」
「それは邪魔して悪かったね。でも、ちょうどいいから教えてくれないか、昨日の朝はなぜあれほど悪い出来だったの?」
「別のことを考えていて・・・」
「もう一つ、いいかな?昨日の午後の劇で君の演技はひどく悪かったね、それは何故だい?それから今日の食事では何も食べてないよね?」
「また別のことを考えなくちゃいけないんです、先生」
実家に帰ろうとしない少年をみながら、教師がハッとして「ひょっとしてお金に困っているの?」と囁くようにきくのは、この少し後である。『カネがないのは社会のせい』などとは言わない。人間が堕落する前の健康な時代の話しである。寮監先生は旧友を自分の元にかえしてくれたお礼だと言って、実家に帰る旅費を用立ててあげる。ささやかな、つつましいおカネだが、少年にとってはカネとは何か、人の心とは何かを知る生涯の記憶になった。

× × ×

公務員たるもの、特定の生徒に金銭的な支援を与えるのは規則では禁止されているはずだ。しかし規則を持ち出していちゃあ、話しにならないし、人間的交流もなく、人格の形成が窮極的目標である教育も不可能であろう。

規則と学習指導要領によって教育システムを運営できると本心から信じているなら、その人は教育=知識の伝達、本心ではそう考えているに違いない。であれば、これだけ技術進歩の速い現在、介護ロボットばかりではなく、教育ロボットを開発すればいい話しであろう。無人工場ならぬ「校長+教頭(システムエンジニア)+教育ロボット」から構成される学校を設立すれば、極めて効率的に学校が経営できるはずだ。

その思想が本物であるか、下らぬイカサマであるかを識別するには、その究極まで徹底して思想なり理念を追い求めたとき、どんな状態になるかを推論してみればよい。エクストリーム(extreme)なシミュレーションに耐えられない思想・理念は、まず確実に、本質的に間違っている考え方である。間違っている考え方がいつまでたってもなくならない、迷信や信心がいつまでたってもなくならない、こちらのほうが思うに本当の問題であります、な。



2012年12月8日土曜日

景気「ミニ後退」の兆し

本日の日経朝刊5面のヘッドラインは表題の通り『ミニ景気後退』である。

昨日、内閣府から公表された景気動向指数から景気判断は「悪化」に下方修正された。実際、足下 − とはいえ10月現在の統計データによるものだが − の景気を伝える一致指数は7ヶ月連続で低下し続けており、回復への動きは見られない。文字通りの「景気後退」に間違いはない。今年4月以降は景気後退局面に入っていると説明がある。その通りだろう。


ただ、先行きを伝える先行指標は、2ヶ月前に続き、またプラスで底打ちの気配だ。景気後退の平均的な長さは1年半程度であるのだが、半年程度で上向きそうな兆しが出てきているので『ミニ景気後退』と呼んでいるのだろう。数字で確認されない生産・販売の現場が意外に良いので、株価が先に回復しているという解釈もあるかもしれない。

欧州債務危機は、何とかこれ以上の深刻化は当面避けられそうだし、あとはアメリカの政府と議会で<歳出削減・減税打ち切り>を回避する方向で合意するかどうかである。2008年の米下院の迷走もあるので「だいじょぶか」という心配は残るが・・・ま、以前の投稿で「12月第1週辺りに何か波乱があって、いまの株価シャボン玉相場は破裂するのではないか」と予想しておいたが、それは杞憂であった確率が高まっている。
The Bundesbank cut its 2013 gross domestic product growth forecast to 0.4% from its June projection of 1.6%. The bank expects Germany to notch 0.7% growth this year, a marked deceleration from the past two years when GDP grew at rates of 3% or more.
"The cyclical outlook for the German economy has dimmed [and] there are even indications that economic activity may fall in the final quarter of 2012 and the first quarter of 2013," the Bundesbank said in its monthly report. Economists typically define recession as two consecutive quarters of contraction. (Source: Wall Street Journal, 2012, 12, 7)
ただドイツの生産は急低下しているし、中国の高度成長もどうやら終焉を迎えそうである。アメリカの住宅市場に底打ちの兆しが見られるのはよいのだが、しばらくは<鍋底>であろう。本格的な成長軌道再開のためには何かの<きっかけ>がいる。

景気循環論、日本経済分析で高名な経済学者・篠原三代平氏が亡くなった。合掌。

2012年12月6日木曜日

自民大勝→来年の参院選で大敗の愚を繰り返すか?

報道によれば、自民党+公明党で300議席前後はとりそうな見通しとのこと。驚きだ。民主党が惨敗するだろうことは、2009年政権交代後の体たらくをみれば − まあ、冷静に民主党を観察していれば、事前にかなりの確度で混乱が予想されてはいたが − 民主党の惨敗は当たり前ではある。それにしても日本の有権者の左右の振れは極端で、このくらい変化が激しい有権者を相手にしては、政治を志す候補者は何をどう訴えていけばいいか、さっぱり分からないだろう。互いに暗中模索とは、このこった。「鬼さん、こちら」では鬼だけが周りが見えず、他は見えているのだが、日本国の国政選挙はそれより酷い。全ての人が目隠しをされているようなもので、手で探り合っているというのが、実情だろう。だから、前から書いているのだな。選挙はいまや「抽選籤引き会」と同じ、自分が票を入れた候補者が真っ当な議員か、イカサマかは当たるも八卦、当たらぬも八卦。運・不運の世界なのであると。区割りが違憲状態にあるなど、確かに問題ではあるが、形式的なものであり、誠に些末な問題ではないか、小生、正直なところそう思います。

これで自公が300議席とって、安倍新首相が組閣するとする。ところが、またもや閣僚の一人が気分が高ぶったのか失言する。あるいは政治資金規正法に抵触するような経理が発覚する。そんな成り行きが、今から想像されるのだな。

来年(2013年)7月には参議院の任期満了選挙がまたあり、議員の半数が改選される。そこで、またまた、支持率をさげた自民党が惨敗して、非自民が結集して「ねじれ国会」になる。政治は、またもや膠着状態になって、動きがとれなくなる・・・

上の近未来想像図が実現すれば、1回目の安倍晋三・自民党内閣、2回目の菅直人・民主党内閣、3回目の安倍晋三・自民党内閣で<与党転倒劇3連チャン>とあいなる。仏の顔も二度三度だ。もしこうなれば、確かに政党も政治家も能力が不十分であるし、制度にも欠陥がある、それはそうだが、それにもまして今の時代の日本の大衆が「愚者の集団」であることの何よりの証拠であると、外国は言うだろう。特に中国辺りは「そおれ、みろ」と言わんばかりに論評するだろうねえ、「あんな不安定な政治でいいのか」と・・・海外のそんな揶揄に対して、日本人は返す言葉がない。そぞろ怖さを感じる、というか明日への「漠然たる不安」を覚える今日この頃であります。

2012年12月4日火曜日

戦争放棄戦略は「戦略」でありうるのか?

国防軍論争は、ヤジの割には不発のまま、華開くことなく終わりそうな雲行きである。ま、実質同じで言葉だけのかけあいをすれば、それこそ<政治の芸能化>を加速させることにもなっていたであろう。

ただ前稿でも触れた点と関係するが、世界中の全ての国が例外なく国防軍のみをもち、侵略行為を放棄すると憲法で決めるとして、その時には戦争は地上から消え去り、永遠平和が到来するのだろうか?そう推論できるロジックを構成できるのだろうか?この問題は議論する値打ちがあるかもしれない。

小生は、その場合でも戦争は常に起こりうる。というか、ほぼ確実に起こると思う。

それには戦争を定義しておかなければなるまい。クラウゼヴィッツは戦争とは政治の延長であると考えたが、だとすれば一方の政治的意図が達成され、他方がそれを容認すれば戦争は終了するはずである。これは、しかし、タカハト・ゲームにおける限定戦争の場合である。双方の政治的意図が達成できない場合、どうなるだろう?高コストの戦争は政治ツールとしては損失が大きいので、必然的に停戦なり、和約が成立すると考えるのが理にかなう。更に、一方の政治的意図は達成されているが、他方がそれを容認しない場合はどうなるか?その場合は限定戦争から殲滅戦となり、他方が抹殺されるまで戦争状態は継続し、その後に終了する。いずれにしても<永久戦争>が可能なロジックはないようだ。

タカハト・ゲームで、自国がタカとなるために軍事力を使う。限定戦争を招くその論理は国防軍のみを持つのであれば実効性はなくなる。それ故に、全ての国が国防軍のみを持てば戦争は起こらない。こう考えていいか?

戦争とは<意図的かつ継続的な軍事力の拡大利用>のことである。こう定義すると、現に進行している武力紛争をすべて「戦争状態」として包括できるだろう。

であれば、全ての国が専守防衛の理念に徹する意志をもっているとしても、戦争は常に発生可能だ。
誓約を相手に履行させるのは、相手の誠意ではなく、自国の実力である。・・・であるが故に、物資財政の余剰蓄積は<戦力>に転換できるのである。(ツキディデス『戦史』(岩波文庫上)巻末注より)
 和約が破棄される時に相手に対して懲罰行為を実行できる能力を自らが持たないなら、相手側の機会主義的な裏切りの誘因を与えることになる。このロジックがある以上、たとえ戦争をすべての国が放棄しても、<国防軍>を放棄することは理屈上ありえない。これはビジネス界でも同じである。協調高値を維持している場合でも、リーダーと目される企業は敢えて余剰能力を持つものである。それは攻撃的な顧客奪取戦略に打って出るアウトサイダーが出現した時に、報復的な増産で対応するためである。過剰設備を有しない、フル・キャパシティを追求する合理性は、合理的であるように見えて、実はヴァルネラブル(vulnerable)なのであるな。
戦争などは起こらぬという声があるかもしれぬ。だが誤れるかな、そうではない。ラケダイモン人(=スパルタ人)は諸君(=アテネ人)の発展を怖れ、諸君を相手にして戦争をしかけることを欲している。(上記文献、87ページ)
実は、古代ギリシア世界における「世界大戦」であるペロポネソス戦争を欲していたのは、スパルタではなくアテネより以前に貿易を制していたコリントであったという解釈が多いというが、他国の経済力が自国の脅威となるのは時代を超えた真理である。
大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳を傾ける。(出所:上記文献、73ページ)
継続的な信頼関係は、(実は)脆弱なものだと双方が自覚するとき、状況はタカハト・ゲームではなく、先制攻撃が双方の支配戦略となる<囚人のジレンマ>ゲームとして意識される。そうすれば、やはり(必然的に)戦争は起こるわけだ。誰もが予想せず、誰もが希望もしていない戦争が、現実に起こるとすれば、それは<必然的に>生じると考えるしかないではないか。

目に見える軍事力だけではなく、経済力と富の蓄積もまた戦力に転換可能な<準・軍事力>として相手側の警戒の対象となるのは当然のことだ。貿易が発展し、双方が経済協調の利益を享受し、発展したというその関係そのものが、相互に戦略的脅威を意識させる要因にもなる。

本当に人間というのは複雑かつ面白い存在だ。結局、自国と他国、自分と他人を区別して、それぞれが意思決定の自由、繁栄追求の自由をもち、その結果として競争が生じることが戦争を用意しているのである。しかしながら、自由があるからこそ、善を追求し悪を避け、自己の完成へと努力することもできるのだ。モラルが生まれるのだな。超越的な支配者に服従するもとでは、自由はなく、したがってモラルを論じること自体が無意味になる。モラルはなくなるが、同時に戦争は消え去り、永遠平和が訪れることは間違いない。とはいえ、そんな平和は誰もが望まないような平和であろう。

このように考えれば、日本国が自衛隊だけを保有するかどうかという点は、実は枝葉末節の論点であると、小生、思うのだな。 戦後日本の戦争放棄・経済重視戦略は、思うに昭和20年代、30年代には有効賢明な<撤退戦略>であったが、富裕国になったいまは日本国だけのバルネラブルな安心立命。他国からは平和主義を信じてはもらえぬ勝手な思い込み。そう言われても仕方がないのかもしれない。


2012年12月2日日曜日

日曜日の話し(12/2)

昨日は卒業年次生が作成中のビジネスプランやケーススタディの中間発表会があり、小生は最後席に座って採点員をつとめてきた。

10時半から5時半過ぎまでぶっ続けで発表がある。最後には誰が良いやら悪いやら、頭がぼおっとしてきそうだが、聴いているとどれも中々面白く、特にビジネスプランの中には独創的なアイデアも混じっており、事業化されることを願うばかりだ。

とはいえ、そんな風だから最後には頭痛がして、まぶたの上を指でマッサージする有様になる。

× × ×

一晩寝るとサッパリした。今日の午後は、永らく家を空けて義兄を亡くした実家の支援をしてきたカミさんが戻ってくる。迎えにいこうとは思っているのだが、外は雪が降っている。それまではノンビリ過ごすかとTVをつけると、またもやNHK「日曜討論」をやっていて、各党の政務調査会長レベルが出演している。ま、こういう議論になると、なるほど改革・舛添要一氏の議論は極めて整合的かつ筋道が通っていて、説得的である。奥さん達の井戸端会議で話しても笑われそうな国会議員がいる中で、出色でありますな、さすがに。ただ惜しいかな、正論を述べても「正論は嫌いだ」という国民が相当数いて、彼らが持っている票の数だけの政治権力を抑制することができない、それがいまの日本国の悲しい現実である。

というか、これじゃあ各党議員の地頭(ジアタマ)と見識の違いがわからんじゃないかと思うのは、大きなテーマについて、各党がせいぜい1分くらいずつ意見を述べていくという方式だ。質疑応答になれば、一言きいては、一言答えるというルールのようだ。昨日の学生による発表会でも、発表は11分であり、質疑応答が5分間設けられている。11分でも意見を発表するには、時間が足りない、その足りないことがトレーニングになるのだな。それが何だ・・・まず1分程度で<社会保障改革>について話す。あとは何か言っては、何か言う。これだけだ。資料もなく、話すだけ。これじゃあ視聴している国民は、番組全体から何のメッセージも得られないであろう。時間の無駄であるし、番組制作コストの無駄遣いであろう。

むしろ、これは国営放送を活用した各党平等のCM、販売促進ならぬ認知度向上活動だと思うのだな。その意味で、これは「視聴者のための番組」ではない。故に、こうした番組編成に放送受信料を支払う義務はないのではないかと、小生、思考するのだな。

× × ×

それにしても、こんな体たらくでは、若い人たちは「二世を生きる」ことだろうし、小生も長生きをしてしまえば「古い日本と新しい日本」を経験する、そんな事態になりそうだ。

明治維新前後のころ、旧幕時代で青年時代を生き、明治政府の下で壮年期以降を過ごす。そんな人は数多いた。芸術でも、宗教でも、明治維新と王政復古は、天と地が逆転するような感覚であったろう。ま、太平洋戦争敗戦後の日本の混乱もそれに近いが、こちらは敗戦国には普遍的にみられることで、求められていたのは国家としての堅固さであり、それを自分たちから天と地をひっくり返しては、武力で負け、心でも負けたってことになるわけだ。

高橋由一。1828年(文化11年)に江戸大手門前にあった野州の譜代大名・佐野藩邸に生まれた高橋は、幼少時から天才的な画才を示し狩野派の師について日本画を学んだが、黒船来航の後、西洋の絵画に接した時に衝撃をうけ、以後、油彩画制作を自らの画業とした。浪士による東漸寺襲撃の現場にもいた英人ワーグマンに師事をした高橋は幕府が瓦解した時すでに39歳になっていた。明治になって、国立大学の教官を勤めたこともあったが辞めて画塾を経営し多くの弟子を育てた。この点では明治政府には仕えず私塾・慶応義塾を経営した幕臣・福沢諭吉を思い起こさせる。高橋は明治になってから27年を生き、日清戦争が起こった1894年(明治27年)、68歳で死んだ。

高橋由一と言えば「鮭」の写実性を思い出すが、これは東芸大・美術館に所蔵されている。



画像中央にある縦長部分が作品である。明治10年頃の作品ということだから、高橋が育った古い日本が崩壊した後に描かれたものである。その高橋はいま「近代洋画の開拓者」であるとされ、特別展覧会が東京、京都で開催されている。

小生の祖父は随分以前に他界したが裁判官をしていた。任用されたのは戦前期日本であり、10年程は明治憲法と旧法体系の下で裁判を行った。敗戦時には40歳になっており、戦後は日本国憲法に基づいて審理を行うようになった。小生もそんな話しを何度も聴いたのだが、今になって思うと、よくもまあ天と地が逆転するような混乱の中で、落ち着いて裁判を行えたものだと、もう一度その頃の話しを聞いてみたいと思っているのだ。
法廷で 死刑を宣し 勲二等
その祖父が何かのときに作った川柳だそうだ。死刑は、戦前でも戦後でも量刑としてあるわけだが、どの憲法によっているかに関係なく、死刑を言い渡した裁判官にとってそれは<重すぎる>判断であり、その同じ道を選ぼうとしている愚息には誤判を犯した時にお前は耐えられるのかと、何回も聞いている。憲法とか制度とか体制は、NHKの日曜討論などに出るのが大好きな人間達が、あれこれと騒ぎ回って、結果として決まっていくのであるが、「二世を生きる」現場の人間の心情は時代を超えて、案外、同じなのだろう。

2012年11月30日金曜日

今度は「国防軍」論争ですか・・・

現勤務先に転任して今年の4月で20年が過ぎたというので、今日、その表彰状をもらった。その後は市内の結構旨い店から仕出し弁当をとってくれていて中々の満足ではあった ー 世が世なら財政黒字で、もっと一流の店で懇親会をやってくれたかもしれないなあと、そんなことも思いながら、箸を動かしたのではあるが。

10月に義兄の葬儀に着ていった白いワイシャツを着用したことに帰宅してから気がついた。ああ、そうだったのか、気がつかなかったなあ、それにしても葬儀で着た服を慶事で着るなんて、取り合わせが悪かったかなあ、と。しかし、あれだな、濃い紫の悲しみの上に、薄い水色のような喜びを重ね、今度きるときには紅殻色のような仕事をして、それから首都圏に出張したついでに美術館巡りをして心の色はレモンのように染まる。この白ワイシャツを何度か着るうちに、思い出すことも悲喜こもごもで、地層のように重なり、人生は黒に近いグレーであることを知るのだろう。

話しは変わるが、北海道は民主党の王国であると言われてきた。しかし今は完全な逆風で地元幹部は「国防軍批判の一点突破でいくしかない」と。逆に、自民党候補は安倍総裁の国防軍という言葉に<当惑>し、応援演説にきてもその言葉は使わないでくれと頼むよし。

情けないねえ・・・。自衛隊は、実質、国防軍ではござらぬか。とはいえ、「軍」という漢字は日常会話ではまず登場しない文字である。ぎらついている。ザラザラする、そんな感覚は否めない。米陸軍であればU.S. Army、英海軍ならRoyal Navyだ。空軍ならAir Force。軍事力は英語ではForcesであり、この単語は日常でもよく使う。力学で定義する「力」もForceである。地球を太陽に縛り付けているのは万有引力という力である。力=Forceの類義語であるPowerは、電力、政治力など、どちらかといえば高次の力。それに対してForceは素朴な腕力に近い。"He forced in"といえば、乱暴に押し入ってくるというニュアンスだ。自衛隊の役割もForce=軍事力であることを否定してはウソをつくことになるだろう。ドイツ国防軍はWehrmacht. これもWehr(ダム・せき) + Macht(力)の複合語。現・連邦軍はBundeswehr。堤防として使う力、そんなニュアンスだな。

しかし、「力」という漢字は名称には使えまい。当たり前すぎて気が抜ける。そこが日本語なのだな。戦国末期に武田家家臣・高坂弾正が『甲陽軍鑑』を著した。軍学を兵学ともいうが、明治になって国軍を創設するとき、その組織に「軍」という字を充てたのは、あてた人からすると、かなり自信があったのではないかと推察している。中国の史書でも国が統括する武力組織全体を「軍」と表現しているようだ。たとえば元寇で日本に押し寄せたのは「元軍」であると記述されているよし。隊は軍を構成する単位である。それ故、組織全体に自衛隊という具合に「隊」という文字を当てると、組織構成を厳密に表現できないのじゃないかと、素人ながら心配になる。更に、理屈だけから言えば、いま「自衛隊」があるということは、将来いつか「軍」が再建されるとき、別に「遠征隊」が編成されることもありうる、そんな可能性がこめられているのではないかと。小生個人としては、やはり「国防軍」とするほうが、限定的かつ明瞭な命名であると思う。

米軍を統率するのは、Department of Defense、ズバリ、国防省である。しょっちゅう自国の安全保障のために世界中で戦争をしている米軍も建前上は国防省が運用する軍隊、つまり<国防軍>である。日本の防衛省は既に"Ministry of Defense". アメリカと違いはない。英語で同じなら、日本語でも同じにするのが、誠実というものだ。

TPPに入るついでに、日本の防衛省を国防省という呼称に変えて、それと合わせる形で実動部隊も国防軍にしてはどうか。


2012年11月29日木曜日

真の自由貿易を望むなら怖いものはない

小生が大学を卒業する時代は、とにかく「鉄は国家なり」の時代だった。製鉄企業から出向していた人と一緒に働いたこともあるが、ホント、優秀な人でした。それから造船である。IHIは、当時はまだ石川島播磨重工という社名であったが、そこからも非常に優秀な人が来ていて、経営トップはドクター合理化と呼ばれた真藤恒氏であった。中学校に通学していた頃は三菱重工の広大な社宅群を横に見ながら歩いて通ったし、その近くには日本鋼管(現、JFE)の社宅があった。どれも小生にとっては懐かしい社名であり、日本の高度成長時代、黄金の60年代の温もりがまた体感できた時代であった。

その後は自動車と電子産業、そして電機である。このうち、電子産業の最終製品部門(=組み立て段階)はいま日本国内では生き残れなくなり、10年前にはエクセレント・カンパニーと賞賛されたSONYやパナソニックも経営危機と言える状態に陥ってしまった。旧モデルが新モデルに置き換わっていくのは技術進歩の中では当たり前だが、日本が何をつくって生きていくか、産業全体までが時代ごとに置き換わっていくのだろうか?

野田首相が争点にしようと力を入れたTPP。しかし、TPPを正面から論じるのは、各政党も怖くてたまらんと思っているのが、ヒシヒシと伝わってくるのだが、全く「たかがTPP」ではないか。貿易で勝つか、負けるかばかり考えているから、大局が見えなくなるのではないか?先方が自由貿易を求めるなら、日本から参加すればよい。参加して日本の方から<真の自由貿易>を求めればよい。アメリカの自動車産業は日本の自動車産業を怖れ、だから日本のTPP参加には反対している。アメリカだけに得である自由貿易は、ロジックとしては、ない。

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経済成長論の発展に貢献した第2世代の中心ロバート・ソローの理論は<長期収束仮説>が柱になっている。貯蓄率の高さとは無関係に、技術的知識が浸透していけば、どの国の労働生産性も一定水準に収束し、経済成長率は人口増加率と技術進歩率によって決まる。貯蓄するから速く成長するというわけではない。そんな予測をしているのだが、実際は収束するどころか、世界の国々の労働生産性、つまりは生活水準は格差が拡大してきたというのが現実である。「おかしいではないか」というので規模の経済や、競争の不完全性・独占的支配力などが原因として指摘されている。

少し古くなるがDani Rodrick's Weblogでは、製造業に限定した場合、収束仮説が見事に当てはまるというデータが紹介されている。ロドリック氏が要点を伝えるのに使っている図を下に引用しておこう。


横軸は個別産業の「当初時点における労働生産性」を測っている。縦軸は「平均的な労働生産性成長率」である。全体として、低生産部門である産業ほど、その後はより速い生産性上昇率を達成する傾向があることがわかる。簡単に言えば、生産性が低く、ということは割高に販売される商品部門は、ずっと後には効率化を達成して花形産業になる。そんな傾向が製造業にはある。プロダクト・サイクルといえば、そういうことだが、個別銘柄の商品をこえて、産業まるごとのレベルでそんな栄枯盛衰のパターンがあるということだな。

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たとえば最終財部門と中間財部門の二つがあって、いまのウォン・円レートで換算すると、最終財、中間財いずれも韓国製のほうが安いとしよう。たとえば、円ベースで評価して最終財価格は日本製が4、韓国製が1。中間財価格は日本製が2、韓国製が1としよう。最終財は特に日本製が高額であるが、中間財ではそれほど韓国製が安いわけではない数字になっている。

この場合、韓国は最終財、中間財とも「国際競争力」があるので、両方とも日本に輸出しようとするだろうか?そんなことはしないのだ、な。韓国は中間財を日本から輸入して、最終財を日本に輸出するはずである。逆に、日本は需要にこたえて中間財を輸出し、最終財を輸入する。日本の製造業が全滅するという理屈にはならない。なぜなら、韓国では最終財1単位と中間財1単位が同額だ。しかし最終財を日本に輸出し価格4で売り、中間財を価格2で買えば、2単位の中間財が調達できる。割安な中間財を日本から買い、それで最終財を作るほうが韓国にとって得である。だから韓国は、名目価格で最終財、中間財双方で国際競争力を持っているのであるが、比較優位性をもっていない中間財は日本には輸出できず、韓国内ではあくまでマージナルな存在にとどまる。最終財部門が韓国の花形となり、最終財部門に資源がシフトし、日本は<得意な>中間財をつくって稼ぐことになる。日本の最終財部門は縮小するので、安い韓国製中間財への需要も縮小する。韓国の中間財部門は、名目的には日本より安く製品を作れるが、韓国内の最終財部門に対し比較優位を持っていないため、拡大できる可能性はない。

日本も韓国も、貿易のあり方は為替レートで決まるのでなく、どの商品の生産に比較優位性があるか、その点で決まる。これが経済学では、歴史上有名な<比較優位理論>である。為替レートは、あくまで紙幣の交換比率に過ぎず、国家の経済の実態まで変える力は持っていない、そう言ってもいいわけだ。日本の暮らしが上向かない主因は、為替レートが円高になって、全ての製造業が「落城」したからではなく − そんなロジックにはなりません − 日本の労働生産性が全体として上がらない点にある、働き方が下手である、そこに原因があるとしかいえない。多分、リスクを怖れ、変化や進歩を追求せず、安定を求めるようになっているのだろう − もちろん上昇志向が強く、日々の改善に努力している例外はある。競争よりも競争しないことが善であるという何がなしの感情が日本人の心に根を下ろしてしまった、そんな点もあるかもしれない。効率よりもきめ細かい営業サービスを欠かせないビジネス習慣にあるのかもしれない。小生の経験から、もひとつ挙げれば「会議」の多いこと。結論の出ない会議などは「さぼり」と同じですからな。ま、これが原因だと挙げられれば、話しは簡単だ。

運動会の徒競走と同じ理屈である。高度成長を支えた造船、製鉄 ー その以前は繊維であったわけだが ー は、スタート直後、2位以下に大差をつけて走っていた。ところが、段々と自動車が合理化されて、最初のモタモタした状態から立ち直り、少し差がつまってきた。もしその時、隣のグラウンドで同じ徒競走が行われていて、そこではまだ自動車がやっぱりモタモタしている。この順序と格差が比較優位を決める。日本の花形産業である造船・製鉄の比較優位性を突き崩す原因になったのは、日本の自動車が(相対的に)頑張ったことである。<真の競争力>はすべて相対的なものだ。ということは、隣のグラウンドで、にわかに電子産業が頑張って順位をあげるだけで、(絶対的には日本の電子産業が勝てるはずであるにもかかわらず)日本の電子産業は比較優位を失う。これもまた貿易のロジックである。

いま最終段階の加工組立部門で輸出できなくなったのは、外国がまず最初に加工組立産業を合理化したからだ。何もないところに製造業を移植するだけで、日本の製造業は比較優位を失う。ということは、外国の農業部門の生産性が今後上昇すれば、外国の製造業の比較優位が失われることになる。これまた貿易のロジックだ。

こんなメカニズムを、少数の政策専門家がプランニングをして、最も望ましい日本の成長経路を指し示すなど、いつまで待ってもラチがあくはずはなく、時間の無駄である。「市場メカニズム」という言葉に日本人はもはやアレルギーは持っていないだろうが、人知を越えた資源配分は自然のプロセスに任せるのが最良である。あまった時間とエネルギーは、美や科学的真理の探求に投入するのが人間的知恵というものだ。ケインズは最も有名な経済学者の一人だが、ケインズにとって「経済問題」は人間が解くべき問題の中では、実に下らない、些末な問題として認識されていた。だってそうでしょう、大体、どうやって食っていくか、カネが足りるか足りないか、そんなことばかり考えながら、一度の人生をおくるなど、そんな風に暮らしのことばかりを考えて死んでいくなど、最も哀れではないか。生活水準が現在より遥かに低かった日本人の先祖達は、そんな中で偉大な芸術作品を遺し、いま生きている日本人達に喜びを与えてくれている。それを手本とするべきではないだろうか。

× × ×

TPPは、規制の在り方、制度の在り方もまた議題に含められる方向であって、これを日本は非常に恐れているようだ。医療、保険では特にそうであるようだ。

上に引用したロドリック氏も、製造業の成長は各国で収束しているのに、なぜ経済全体では収束しないのか?その疑問に短くコメントしている。
All this begs the question why economies as a whole do not convergence, if manufacturing experiences strong convergence. The answer turns out to have three components.
First, non-manufacturing does not exhibit convergence. Second, manufacturing’s impact on aggregate convergence is curtailed by its very small share of employment, especially in the poorer countries. Third, the growth boost from reallocation – the shift of labor from non-manufacturing to more productive manufacturing – is not sufficiently and systematically greater in poorer economies. Taken together, these three facts account for the absence of aggregate convergence.
非製造業には収束仮説が当てはまらない。これが主因だ。サイズとしてはサービス業である。低生産性サービスは、いつまでたっても低生産的であり、高生産性サービス、つまり報酬の高い部門は、いつまでたってもそうである。そこが製造業とは違う。

サービス部門のこの格差は、各サービスに従事するための人的投資、専門的知識などの違いを反映したフェアな格差なのか、それとも何かの職業規制、開業規制に守られているが故の、模倣や競争から隔離されているが故の、不公正が隠れているからなのか。既得権益なのか。難しい問題だ。確かに難しいが、これらは<日本という国の根幹をなす>という理屈で、外国との協議を一切はねつけるという言い分は、外国には通らないかもしれないし、制度や規制の在り方を外国と協議すること自体、日本にとって損になる。そんなロジックが最初からあるとは言えない気がする。

ま、やりなはれ、このテーマでも、小生はやっぱり「やりなはれ」だな。




2012年11月26日月曜日

多党化は民・自協調の誘因を形成するか?

二大政党が並立する状況では、どう考えても選挙はゼロサムゲームであり、自党が政策論争で譲歩すれば、譲歩した分、他党の言い分が通ることになる。国益のために自党が譲歩すれば、そのために他党の言い分が通るわけだが、それは当面の党利ではなく国益を優先するという自党の判断があったが故である、そして有権者もそこをみる。<議席の数>という目に見える利得ではなく、<国益>もはかりながら政党が行動する、それだけ政党の行動が複雑になる。それを国民もみて、政党の行動や動機、目的を洞察する、政談が好きでたまらない、そんな成熟した社会状況があれば極めてハイレベルの選挙戦が展開できるだろう。議席をめぐるゼロサムゲームが、国益をめぐる非ゼロ和・非協調ゲームとなるのだ、な。そこには協調もあれば、コミットメントもあり、また裏切りもある。ダイナミックな政治ドラマが極めてハイレベルに展開される素地が形成される。

小生、民主主義社会が理想的に運営されるには、理想的な仮定が満たされる必要があると考えている。しかし、こんな社会は近似的に考えても英国くらいのものだろう、と。まして日本では、自然発生的に上のような民主主義政治を運営したことはない。すべて<輸入文化>である。経済学も政治学も経営学も、日本国では輸入学問だが、世界における日本の経済学のレベル、日本の政治学のレベル、日本の経営学のレベルは、そのまま日本の民主政治の水準に対応していると言っても、決してこの思考法は間違いではないと自信をもっているのだ。

別に日本の恥ではない。むしろ英国のような二大政党・議院内閣制は ー 小生の専門分野でないが ー 稀なケースじゃないかと思うし、今は英国も連立政権である。ドイツはいつも連立政権である。フランスは与党と野党の二大グループに政治家がしょっちゅう再結集・再編成されている。韓国もそうであるな。政党の名称もしょっちゅう変わっている。

多党化すれば議席を利得と考えても、政党どうしの結託の利益が生じる。というか、結託して共同利益を求める方が利得の期待値が高いので、必然的に結託する。

政治家は引退すると政治評論家になるしかないのだろうか?森元首相がこんなことを語っている由。
政権与党の民主党は候補者の絶対数が足りないし、厳しい選挙になるのは間違いない。だけど、社会保障・税一体改革のときにできた民自公の枠組みは一応成功したんだし、僕は選挙後の課題についても3党でやっていくことが一番理想的だと思っているんだ。民主党の中堅にはいい人材がたくさんいますよ。そのためには民主党がどういう「純化路線」をとれるかだ。野田さんの立場からいうと、小さくても仕事ができる良質な民主党をつくって自民党なり維新と組んでいくということだろうね。
 民主党の中には日教組や自治労というかつての左翼の人たちもいる。その人たちだけは認めないというのが安倍さんの考え。そういう人たちも切って純化できるのか。僕はその方がいいと思うんだけどね。(MSN産経ニュース、2012年11月26日配信)
民・自・公三党提携の見通し、というより協調へと誘導するフォーカル・ポイントの意図かもしれない。確かに多党化したいま、自民党は民主党との結託の誘因がある。民主党にもある。しかし、自民党は維新とも結託できるし、生活第一ともできる。自民党は、自民党の党利を最大にしようと結託の相手を選ぶだろう。その相手は労働組合を含んだ民主党ではないだろう、元首相はそう読んでいるわけだし、だとすればこの発言は<民主党内離間の策>で、協調に誘うソフト・コミットメントどころか、略奪をねらうタフ・コミットメントである。この種の攻撃に対して、民主党は二大政党下であれば猛然と反撃するのがロジックだが、多党化している今はその必然性はない。民主党はすでに実質的に多プレーヤー化しており、党内グループが互いに裏切ることなく、共同利益を追求し続けられるのかどうかにかかっているし、さらにまた党内が協調したからと言って、民主党全体の共同利益が最大化される論理的根拠はなくなりつつある。共同の利益の意識が党内で共有されなくなれば、意外に早く民主党は解体への道をたどるだろう。いまの国内政治状況はこんな風に言えるのではないか?

いずれにせよ、自民党は結託相手として小党が望ましい。その小党は公明党の発言力を低下させるだろう。だから民主党が左翼をきって、中規模の小党となって自民党と協調する状況が(もし実現するなら)安倍政権にとっては最良であろう。このとき、反自民勢力は小異を捨てて野党勢力として結集できるか?自民党が民主党保守勢力をつまみ食いするなら、袖にされた維新と民主党左翼が結集するのは不可能だ。日本国は自民党政治に戻り、基本的枠組みとなり、10年程度が経過する可能性がある。そうなれば「常在戦場」ならぬ「常時政局」からは日本は脱することが出来ようが、まだつぼみの霞ヶ関・改革派官僚の志向は世に出ることはなく、政治家が求める地元利益のバランス・システムへと復帰することは間違いない。

では維新を協調相手に選ぶかだが、維新はサイズが大きくなると予想されているし、ひょっとするとそうなるだろう。その場合は、維新の側にタカとハトのハトに甘んじる意志はない。協調を目指しても内紛が生じること必至である。維新と協調すればじきに政権は行き詰まるだろう。小生はこう観ているところだ。ただコアとなる政策思想としては、親和性が高いので、党内を純化して、乗り越えるかもしれない。これも、こうなるとして二、三年の時間で見ないといけないだろう。

まだまだ遠く遥けく道行く必要がありそうだ。10年先の日本の姿など神様にも、お釈迦様にも分かるめえ、とはこのことだ。

いずれにしても来月の選挙によるが、選挙は偶然的要素に結果が左右される。ま、一言でいえば、日本国の将来をクジや抽選で決めるようなものだ。小生はそう思う。実に情けないのが偽らざる気持ちだ。問題は経済政策の行方だが、これはまた別の機会に。

2012年11月25日日曜日

日曜日の話し(11/25)

昨日義兄の満中陰を済ませ、カミさんは次の日曜日に戻ることになった。にわか一人暮らしはもう限界、というわけではないにしても、一人で暮らすのは本当に効率が悪い、それを実感した。若い頃にシングルで仕事漬けだった頃、突発的に市役所にいって手続きを済ませる必要が出来たとき、突然インフルエンザにかかったとき、自宅の設備に不具合が発生して業者に来てもらう、その業者は平日にしか来てくれない、そんな状態になった時、本当に困ったものだ。一人で暮らしていると、まま動きがとれなくなる。ライフスタイルとして脆弱なのだな。打撃に弱くバルネラブル(vulnerable)だ。両親がいれば臨時に来てもらうのだが、親を呼んで助手に使うなど本来は禁じ手のはずであるし、そもそも父はその頃もう闘病中であった。そして仕事を始めてから数年を経ずして父は亡くなってしまった。残された母に小生の雑用を押し付けるわけにもいかなかった。

そんなわけで待ち遠しいのだな、次の週末が。今日は前祝いをかねて映画でも観に行くか。

× × ×

そんなことを考えながら、NHKの日曜討論にチャンネルを合わせてみた。いつもは観ないのだが、今は選挙運動中だ。よく練った構想を各党の出演者が語ってくれるかもしれないではないか。で観たのだが、いやあ下らない、低レベルという表現を超えて、人前に出るのが大好きな人たちが日本国の将来はこうしようと口をパクパクとしながら話しているのをみて<恐怖>を感じました、な。

日本の議院内閣制はつくづくもう限界だと思う。国会議員を選挙で選んで、その国会議員が行政を制御していこうというには、肝心の日本国民の社会構造がすっかり変化してしまった。もう日本を統治できる国会議員など、選挙に立候補してくれないし、政治を志す人材を輩出する社会階層も、パブリックマインドをもった人材を育てる教育システムも、その教育システムを尊重する社会意識も戦後60年の間にすっかり風化してしまった。そんな思いに駆られる。

× × ×

おそらくいま30代の人は幕末から明治にかけて<二世を生きた>福沢諭吉と同様、全く違った二つの世の中を生きるしか、生きる道がないのではあるまいか?そういうなら文豪ゲーテも「二世を生きた」人であった。<共産資本主義>が限界を迎えている中国だけではなく、日本も社会変革を行わないまま今世紀の経済発展を目指すのは困難だろう。

東京証券取引所は「日本株キャラバン」と銘打って米英などの投資家を回ってきたという。ところが話しをした投資家達は口を揃えて「日本企業の自己資本利益率(ROE)が低すぎる」と指摘したらしい。それは社内に遊休化した「現ナマ」が多すぎる、死に金を抱えすぎている、だから利益率が低下するというロジックを今朝の日経が紹介していた。

(出所)2012年11月25日付け日本経済新聞3面から引用

それほどカネをもっているなら株主に配当するべきだ。その配当をもらった富裕層は海外に投資するのもいいが、日本国内の芸術・文化のために浪費してはどうか?前の投稿ではそんなことを書いた。芸術の成熟と完成は、ビジネスチャンスに恵まれた勃興期ではなく、カネはあれども衰退への兆しが訪れた時期に達成されるものだ。福祉社会が崩壊して、いよいよ落日を迎えるまでに、今の時期に、芸術的遺産を日本国内に遺しておくことは日本国民の将来世代にとって最も価値のある行動だろうと小生は思っている。

江戸時代・文化文政期の画家である酒井抱一は、譜代の名門である雅楽頭酒井家に生まれながら琳派の美への憧れを断ちがたく美術の世界にのめり込んだ。ま、明治の世に漱石がいった「高等遊民」として生きたわけだが、残した作品をみると正に芸術家の名にふさわしい。


酒井抱一 (1761-1828) 『風雨草花図(ふううそうかず)』、1821年頃
(出所)とおる美術館

酒井抱一は11代将軍・徳川家斉の治下、1821年(文政11年)まで生きて、江戸下谷根岸で死んだ。68歳。浦賀に黒船が来航するのは、彼の死の32年後、幕府が瓦解したのは46年後だった。酒井抱一よりも年上であった司馬江漢は、既にこの時代、洋風画に挑戦していた。


司馬江漢、相州鎌倉七里浜、1796年
(出所)Flickriver

酒井抱一が創造した江戸琳派はそのまま旧幕・日本の芸術的遺産となり、司馬江漢の洋風画のような先見性などはもちろん持っていなかったわけであるが、美の完成においては、過去や未来、先進や後進、これらのことは全く関係がないことだ。ただ完成されているかどうかだけであり、ビジネスの成否を決めるイノベーションとは無縁である。利益を生まないカネを持っているなら、美を創造できる人に、そのカネを使わせることは、小生、大変粋な使い方ではないかと思う。ま、浪費ではあろうが、使いみちに困るなら、浪費すればよろしいではございませぬか、それが最も喜ばれますぞ。そういうことである。





2012年11月24日土曜日

自民優勢だけで株価が上がるとは・・・

日経平均株価が突然狂ったかのように反転上昇している。アメリカの「財政の崖」解決の見通しは、二、三、楽観的な声が上がっているようだが、具体的には実は何も定まってはおらず、何事もこれから。それで海外の株価はこのところずっと下げてきたにも関わらずだ。実際、世界経済の実態は決していいものではない。OECDの景気先行指標(Composite Leading Indicator)は下図のようだ。



アメリカは確かに住宅価格が底打ち気味で回復しつつあるようでもある。えび茶色の英国、藤色のブラジルも上向きだ。しかし欧州大陸諸国、韓国、日本は下がっている。日本の株価が上がるのはおかしいのだな。それにグラフにはなぜか直近の動きが示されないが、中国の数字も上がってはおらず、この4月から9月までずっと鍋底をはっている状況である。これらを合計して、世界経済の大勢は総じて景気後退入りとみていいのではないか。



確かに米国のダウ平均は直近で回復しているが、これまでの下げ過ぎを修正しただけかもしれない。

要するに、いまの株価上昇はアメリカ、中国の次期政権が決まり、日本もどうやら首相が変わりそうである、韓国の大統領も近く変わる。どの人も何やら威勢のいいことを言っている。何が始まるかわからないが、現状を変えようと言う姿勢は共通している、株も上がりそうだから買ってみるかと。金融緩和のうえに心理的な変化待望感が作用したバブルならぬ<シャボン玉相場>だと思うのだな。小生、買い持ちはすべて解消した。いずれ近く下がるのを待とう。12月第1週辺りには<米国・政治主導型波乱>があるかもと思うが、なにせ投資下手の小生、見通しが当たるかどうかは全くわからぬ。わからぬがこうやってメモをしておけば、後で読んで面白いし、勉強になるだろう。


2012年11月22日木曜日

起こりうる大地震と起こりうる天災の違い

表題の意味は明らかだろう。天災は地震に限ったことではない。

NHKから以下のような報道があった。
世界で起こりうる最大級の地震について、地球の大きさや地形から、最大でマグニチュード10前後の規模が考えられるという分析結果を東北大学の専門家がまとめました。
この分析結果は、21日に都内で開かれた地震の専門家の会合で、東北大学大学院の松澤暢教授が報告しました。
それによりますと、地球の大きさや巨大地震を起こす可能性のあるプレート境界の断層の長さなどから、考えられる地震の規模は最大でマグニチュード10前後だとしています。
マグニチュード10は去年3月の巨大地震の32倍の規模で、これまで知られているなかで世界最大の1960年に南米チリ沖で起きたマグニチュード9.5の地震を上回ります。
例えば、北アメリカからカムチャツカ半島、そして、日本の南にかけての海溝沿い8800キロの断層が20メートルずれ動くとマグニチュード10になるとしています。
松澤教授は、こうした地震が起こると、揺れの長さは20分から1時間ほど続き、揺れが収まる前に津波が来て何日も続くことが考えられると指摘しました。
そのうえで「マグニチュード10が絶対、起こると考えている訳ではない。東日本大震災でマグニチュード8クラスまでしか起こらないと思っていたらマグニチュード9が起きたので、僅かでも可能性があるならば、どういうことが起こるか事前に理解しておくことは必要だ」と話しています。(11月22日 5時18分配信)
起きるとは考えていないとのことだが、もし起きればどんなことが起きるかを理解しておく必要があるということだ。

具体的なイメージがないので、東日本大震災の32倍と言われてもピンとこない面があるが、そんな大地震が発生する確率をゼロではないと考えるならば、大隕石が地球に衝突する確率も当然ゼロではない理屈になる ― こちらは歴史的に「頻繁に」とは言えないまでも、現に目撃されている例もあるのだから。実はこの話題、以前に投稿したことがある。

高さ数千メートルの巨大津波は、いかに大地震といっても想像しにくいが、大隕石の衝突であれば「これはありうる」、そう思ったりするし、それほど昔ではない時期に現に起こっている巨大隕石の落下は、決して確率ゼロではない、やはりそう考えるべきなのだろう。だから何が出来るか、そんな問題もあるわけであるし、もしいま類似の天災が起こったら、世界の文明はどんな打撃を被るか、そんな検討課題もあることはあるのだな。

「事前に理解しておくことは必要だ」。そう言えることは確かだと思うし、そういう議論をするとしても、それは終末史観にはあたらないだろう。

2012年11月20日火曜日

選挙の争点は定まったのか?

野田首相がTPP参加の是非を争点にしようと解散を決意して既に幾日かがたった。

今朝の朝刊のヘッドラインは、日経が『リクルートがネット通販 ― 仮想商店街、楽天など追撃』。う~ん、楽天株を買って大丈夫か??リクルートは傘下のサイトを利用する人が年間延べ1憶人以上。楽天はというと、2憶人。ま、小売の経験などを考えると、2~3年程度は楽天の競争優位が見込めそうだ。まずはリクルートさん、日本国内2位のアマゾンを抜かないとね。

読売は『民主党の離党者』、ハハア、「コレハエエワ」という感じですな。

北海道新聞は『ロシア、対日送電構想 ― サハリン・北海道結ぶ、政府に打診』と。なになに・・・シュワロフ第一副首相が来日、20日(=今日)に開催される日ロ政府間委員会で議論される可能性があるということか。そもそも東日本大震災・福島第一原発事故の直後からプーチンは日本とのエネルギー協力を外交戦略に据えようとしていた。まずは天然ガス・パイプラインをサハリン・北海道間に敷設する事業が浮上したが、エネルギーの元栓をロシアに預けることへの警戒心が日本側で高まり、あえなく頓挫、ロシアのガスプロム社は本年6月に断念を表明した。今度はサハリン・イリインスキーに石炭火力発電施設を新設し、原発2基分の電力を送電しようというものだ。北海道が余剰電力をもてば、北本連繋線経由で内地にも送電できる。おそらくロシア産の電力単価は安く、北電が買電・売電するのであれば、北電の利益は巨額になろう ― そううまくいくはずはないが。

中国は尖閣をめぐって韓国、ロシアを自陣営に誘っている。ロシアは当面は様子見姿勢で、日本に対する今回の提案は<ソフトコミットメント>、あくまでもロシアの国益を追求するための戦略的行動である。ま、即座に蹴っ飛ばすなどという対応は、日本にとっての最適反応戦略でないことは確実だ。電力の対ロシア依存性を高めると北方領土問題での交渉力が低下するわけだが、どちらのプラス、どちらのマイナスを日本は重視するかだねえ。それにしても、全国紙はなぜこの話題をとりあげない。信頼できないアドバルーンと判断したか、道新が頑張って取材したのか、ちょっと現時点では分からない。

× × ×

日経の2面。『金融政策、異例の争点』。安倍自民党総裁による<建設国債日銀引き受け論>である。野田首相は財政規律が損なわれると猛烈に批判している。多分、日銀は当然として、国債を引き受けてもらう財務省も反対であることは確実だ。

政府の財源調達が金利の上昇圧力を生み、民間の資金需要を圧迫したり、円高を誘発したりしないように、国債を市中で消化させずに、日銀に直接引き受けさせるという狙いは、それ自体、間違っているとはいえない。しかし、よく考えると、何も新しいことを提案しているわけではない。

まず日銀の資産側に国債がたち、負債側に政府当座預金が同額だけたつ。その政府預金は事業の進捗に応じて払いだされ、日銀の負債側では政府当座預金が日銀券もしくは民間銀行の日銀当座預金に振り替わる。この面をみれば確かに金融緩和だが、ロジックとしては日銀による量的緩和政策と同じである。違うのは、実体面において工事が進行し、人が雇用されていることであり、それ故に安倍総裁の提案は金融政策ではなく、財政政策である。ま、いずれにせよ、日銀に直接引き受けさせる以上は、財政法や日銀法の改正が必要になろう。

そもそも日銀は、たとえ政府の建設国債を引き受けたとしても、自行の判断によって<適切な売りオペ>を実施し、政府が散布するマネーを市中から吸収するだろう。結局、市場が建設国債を買ったことになる。だから心配されているような<ハイパーインフレ>は起こりえない。起こり得るとすれば、政府が日銀の金融調節を全面的に束縛して、「いまは売りオペをやるな、金融市場は政府が管理する」というところまで踏み込むかだが、それをするなら日銀法の中の
第二条  日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする。
この第2条に明記している日銀の目的<物価の安定>を削除するか、複数の目的を挙げておくべきだろう。複数の目的を挙げるとウェイト付で複雑になるし、削除しなければ、必ず日銀は金融市場を調節するであろう。どちらにしても、量的緩和がインフレ要因にはならなかったのは事実だ。本質的には同じ政策である「国債の日銀引き受け」がデフレ解決の特効薬になるとは予想できないのだ、な ― 単なる量的緩和政策と違って、生産要素が稼働しているので、無際限に実行可能というわけにはいかないが、日銀の調節でインフレの前に金利が急騰して、民間が悲鳴をあげるであろう。ハイパーインフレが起こりうるのは、政府が日銀法も財政法も改正し、日銀が政府のコントロール下に置かれるようになる時だけである。しかし、そんな極端な行動をとれば日本は<G20>にはいられなくなるのじゃあないか?ま、非現実的であり、安倍総裁は空言をもてあそんでいると批判されても仕方がないところがある。

政策技術的なことは官僚・日銀マンに任せ、安倍総裁は野田首相の仕掛けに敢えて乗って、TPP参加に賛同するのか、反対するのか、はっきりした姿勢を堂々と示すべきだろう。TPP参加の可否のほうが、はるかに日本の将来を本質的に決定する事柄である。TPPを争点にされると自民党は座り心地が悪かろうが、民主党は賛成を公認の条件にするとまで言っている。自民党も態度表明から逃げるべきではない。

2012年11月18日日曜日

日曜日の話し(11/18)

カミさんはその後ずっと松山の実家の近くに部屋を手当てして、義姉(といってもカミさんのほうが年長であるが)を支えてきたが、この週末三泊四日で拙宅に戻り、骨休みをして、今日は霙混じりの強風が吹く中、再び四国に戻っていった。あと一週間で満中陰、納骨の儀と相成るので、そのあと一週間程滞在してから、当地に戻ってくることにしている。小生の逆単身赴任生活もあと僅かになった。

× × ×

前の日曜日の話しで話題にしたヤーコブ・ロイスダールはオランダが黄金時代にあった17世紀前半に生きた人だ。ロイスダールをはさんで、同じ時代にオランダと今のベルギーに含まれるフランドル地方から煌めく星座のように多数の大芸術家が育ったことは、驚嘆に値する。

ルーベンス1577〜1640
レンブラント1606〜1669
ロイスダール1628〜1682
フェルメール1632〜1675

ちょっと数えるだけでも出てくる。もちろん生前は互いに意識しながら仕事をしたことだろう。この時代、オランダは国際貿易で巨万の富が蓄積され、当時の芸術家にとっては宝石のように高価であった顔料 − ウロトラマリン・ブルーの原料になるラピスラズリは典型である − を入手しやすかったという地の縁・金の縁を無視することはできない。


Johannes Vermeer、牛乳を注ぐ女、1660年

上の作品でも使われているブルーは<フェルメール・ブルー>と称される。画家フェルメールを支えたパトロンは、領地と城を保有する貴族ではなく、オランダ経済を支える大商人達であって、簡単にいえば不動産でなく、カネを持っていた。彼らはそれほど大きな屋敷に住んでいたわけではなく、会社経営の実務に携わる多忙な人間達だった。そんな人間達が愛好する絵画作品は、したがって、それほど巨大な大作ではありえず、部屋の壁にかけておいて仕事の合間に鑑賞するという流儀である。上の作品も、調べてみると、46センチ×41センチの小品である。

とはいえ、大作ではないものの、役にも立たぬ芸術に宝石と同じ価値の顔料を使わせるなど、粋な生活ではあるまいか。オランダという国家からはとっくに黄金時代の輝きは失われ、世界を左右する力などはもはやない。それでもオランダという国の魅力を形成し、オランダ人が周辺国から、世界から侮られず、存在感を発揮できる理由の一つとして、偉大な文化遺産の少なからぬ部分をオランダ人が創造してきたという歴史がある。こう言ってもいいような気がするのだな。100年後に生まれたドイツの大文化人ゲーテも、身近にオランダ人画家の画集をおいて、自らの芸術を創造する刺激にしていたのだ。国の力は、最初は軍事力であり、次は経済力であるかもしれないが、究極的には文化・文明であり、特に芸術的な美の遺産はその後ずっと世界の人間を魅了するものだ。それがその国の子孫を助けるというべきだろう。

× × ×

経済的には浪費であり、無駄な出費に見えるとしても、100年後、200年後の子孫が感謝するのは、リアルタイムで役立つように見えた資産ではなく、実は浪費と思えた末の成果であることが多いものだ。ピラミッド、パルテノン神殿。ローマの建築物の大半は贅沢な浪費であったろう。中国の万里の長城が<長城>として、どのくらい有用であったろう。

役に立つかどうかは、その時に生きている人間が100パーセント判断できるものであると考えれば、それは傲慢にすぎる。人間なんてそんなに物事は分かっちゃあいない。間違いだらけである。単に、色々なことが分かっているかのように話したり、しゃべったりしているだけであり、専門家とても、こと人間社会に関する限り、素人と大差はないものだ。「これって役に立つんですか?」、これが本質的に愚問であるとは気づかず、鋭い指摘だと信じきっている<自称・賢人>をみると、小生、その愚かさに耐えられない気持ちになるのだな。

ゲーテも「対話」の中で語っているが、時間が全てを生み出し、何事も時間が解決するものだ。真の完成、真の成熟は時間なくしてはもたらされない。時間を惜しんだ仕事は、日本の作家・池波正太郎がいうところの<急ぎばたらき>であり、手抜きは破綻の一里塚となる。市場が強要する効率化は、有り体にいえば<理にかなった手抜き>であり、だからコスト節減ができる。それ故に、真の成熟と真の完成という理想は、ビジネス原理とは中々両立しないのだと思う。むしろ事業の拡大が頭打ちになり、堕落した経営者が蓄積されたカネを事業に投資するよりも、私的な趣味にカネを転用するとき、その浪費の泥水の中で生きた天才が、真の芸術をなす。ここに<歴史の逆説>があると思っているのだ。

今の日本は、政府は貧乏だが、国全体はカネが余っている − 経常収支の黒字がずっと続いているというのはそういうことだ。余っているカネを海外投資するのもいいが、投資して得たものは、本当に日本の富になるのだろうか?結局、雲散霧消するのではないか?よい使い道が日本国内にないのであれば、大株主に配当して、オーナーは自分の感性に沿う芸術家のパトロンになって、思う存分に創造活動をさせるのも一法であろう。100年後、200年後、300年後の日本人に感謝され、日本人が尊敬されるよすがになるのは、真によいもの、真に偉大な芸術だけではないだろうか。その<偉大さ>は、<浪費>から生まれるものであり、<市場の選択>からは生まれないように思うのだ、な。投票で選ばれる民主的な政府からも生まれ得ないような気もするが、この話題はまた別の機会に。



2012年11月15日木曜日

政治劇の序破急、野田首相の演出も上出来だ

昨日の投稿で、民主党内の「任期満了居座り論」に勢いがつき、確かに民主党の立場から言えば、それも理屈だと考える議論を展開したのだが、その直後に野田首相が16日解散を安倍自民党総裁との党首討論で明言して、事態は急展開、首相が国会で明言したことを事後的に打ち消す権能は政党にはないので、これで決まりだ。先日の投稿で、小生、年内解散に1万円を賭けた。その賭けには勝ったが、解散を言う場の選び方としてはいい感覚をしていると。その点は吃驚している。

鳩山・菅のダラダラ政治から野田内閣になってから速度があがった。運転は乱暴になった。そして解散。序のあとの破、次は急である。政治の再活性化とダイナミズミの復活。期待していていいのだろうか。実は、今回の解散決定は序破急の急であり最終幕なのかもしれない。とすれば、自民党・公明党が勝利して、首相官邸に戻った安倍新総理は『帰り来たれば、官邸の品々、皆旧に依る、如何ぞ涙垂れざらん』と述懐をかたり、そして国土の均衡ある発展を求め、古き良き政治に戻し、美しい日本をつくる、近いうちにそんな日が来る・・・これでは道は開けないだろうと思っている。。

2012年11月14日水曜日

民主党・年内解散のゲーム論?

野田首相はTPP参加を争点にして、TPP参加に慎重な安倍自民党と選挙で決着をつける方向に舵を切ろうとしている。このように報道されているが、肝心の民主党内部では常任幹事会で年内解散反対が相次ぎ、さらに支持基盤の一つである前原グループ幹部からも反対が表明されるなど、野田首相は孤立の色を深めているようだ。とはいえ、もうここまで来れば、引けないだろう。「やけっぱち解散」か「雪隠詰め総辞職」のいずれかしか、首相のとりうる道はない。

菅直人元首相は、政権交代が支持されて民主党が与党となった。内閣不信任案が可決されること以外の理由で解散をするべきではなく、不信任されないならば任期満了まで続けるべきである。こんな旨を発言したという。

どうも奇妙な論理だ。不信任が可決されないことが世の趨勢と一致しているならば、直ちに解散をしても民主党は勝てるはずである。菅元首相の発言の背後には、選挙をすれば民主党が負ける、しかし2009年に支持されて政権についたことは事実であるので、任期が満了するまでは政権を担当する権利がある、そう主張していることと同じである。

選挙をすれば民主党が負けると確信をしているなら、それ即ち<信任>されていないことを認めているのではないか。

大体、野田首相が辞職するとして、また代表選挙をやるのか?したとしても、菅→野田→別の人物と、このように選挙を経ずして、ただ党内事情から三人の首相をタライ回しするとなると、さすがに国民の許容する所ではあるまい。小泉首相以後の首相も安倍→福田→麻生ときて、三人目に政権を失った。まあ、タライ回しも三人目が限度であるのが経験則ではないか。とすれば、野田首相による「やけっぱち解散」で敗北するも、「タライ回し首相」の追い込まれ解散で敗北するも同じことではないか。そんな見方もありうるわけだ、な。

そもそも2009年・大勝利の時の公約(=マニフェスト)はほぼ全てが破たんし、時の代表であった鳩山元首相は自分たちの未熟を自己批判しているくらいである。任期と言ってももう残すところ1年程度である。「近いうち」解散の約束を反故にすれば、参議院は動かないから、もうこの先は何もできないに違いない。将棋であれば敗北必至、負けの局面である。王が詰むより前に<投了>したっておかしくはない。

一見すると、野田首相の早期解散戦術が理には適っているように思われる。

× × ×

しかし、暴論と思われる思考こそが、真にロジカルであることもある。民主党幹部が主張するように、あくまで野田首相の約束は反故にして、任期満了まで強気に押していこうというのも一つの戦略には違いない。「押さば引け、引かば押せ」が該当する状況を<戦略的代替関係>があるというが、いま民主党が強気に出るなら、野党はどこまで強気に対抗できるだろうか?兵糧、というよりも重要法案を人質にとる野党という言い方がなされるが、与党のほうだって「野党が協力してくれないので法案が通りません、どうしようもありません」と匙をなげる戦術がある。ゲーム論でいう<ホールドアップ>である。民主党にこれ以上失うものはない。この点が重要だ。であれば、重要法案を人質にとったつもりの自民党は、ちょっと甘いというべきかもしれない。攻勢に出られるはずの自民党こそが自滅のリスクをもつ。自民党が次の政権を担当する可能性が高まれば高まるほど、民主党は逆に開き直り、強気に出る誘因をもつと言える。まああれだな。不良債権で倒産必至になった銀行の経営者が、自暴自棄のギャンブラー(=追貸し)戦術を選んだことと似ているようでもある。

ところが野田首相は敢えて自民党が歓迎する融和路線(=ソフト・コミットメント)である年内解散路線を打ち出してきた。事実認識が党幹部と少々異なっているようだ。首相は、ソフトに出ればソフトに出る、タフに攻撃してくればこちらも反撃するという<戦略的補完関係>を想定しているようだ。次の衆議院選挙で負けるにしても、参議院では第一党であり、自民党との良好な関係を築いておけば、協調体制の下で一定の発言力を保持できる。そう判断したのでもあろう。しかし、これらの思考はすべて自民党が民主党と協調する動機がある場合に限る。所詮、政党の国会席取りゲームはゼロサムゲームであり、協調することに自己利益はない。次の衆議院選で民主党が敗北すれば、自民党は参議院・民主党に揺さぶりをかけて、離党者を増やす作戦に打って出るのが理屈である。だからこそ、どうせ裏切られるなら、今から自民党は信頼せず、任期満了まで ― たとえ政策は何も進展がないとしても、それは自民党の非協力を訴えればいいのだから ―  議員の椅子に座り続ける。この戦略がロジックにはかなっている。こうも言えるだろう。

昼食を同僚とともにしたが、彼は「維新の会が怖いので、相手の組織が固まるまでに解散しちゃえってことだと思いますよ」と、自民党ではなく維新の会を仮想敵国とした戦術である、そんな見方だった。維新の会は民主党と支持者を食い合う関係じゃあないと思うのだが、しかし浮動層はどこに投票するか予想もつかないから、上の見方もあるかも。そんな話をした。

2012年11月12日月曜日

ストーカー、痴漢、etc. ― 国家権力が監視するべきなのか

ストーカー、痴漢、ハラスメントなど現代的性犯罪が横行しているが、逗子ストーカー殺人事件でまたまた一騒動が起きている。この種の事件が発生すると概ね「守れぬ命―規制法の不備を露呈」等々という報道が洪水のように新聞のヘッドラインを飾る。今回は最初の逮捕状に記載されている被疑事実を読み上げるときに、被害者の現姓と現住所も含めて相手に伝えた点がまず今回の事件につながる原因になったと批判されている。更に、嫌がらせメールに書かれている文面だけでは犯罪を構成できないという点が、今回の殺人事件を予防できなかった原因になったと、そう批判する論調が報道の大半を占めている。

『警察は起こってしまった事件を捜査して犯人を逮捕するという面では得意なのでしょうが、犯罪を未然に防止するという点では不十分なんですよね』、今朝の某TV局のワイドショーでは誰であったか、こんな意見を表明していた。

個人的疑問がいくつかある。


  1. 逮捕とは国家権力が個人の行動の自由を奪う行為である。逮捕されるには十分な理由を知る権利がある。もし十分な理由を当人に知らせなくとも、警察は必要だと判断した段階でその人を逮捕可能であるとするならば、本当に日本国民はそんな国にしたいと望んでいるのですか?私はそう質問したい。だから、どこの誰に対する犯罪行為で自分は逮捕されるのか、その点を知らせずに逮捕するという行為を警察はするべきではない、小生はそう思う。「なぜ逮捕されるのか、本人は分かるはずだ」などと誤魔化してはいけない。
  2. 警察は犯罪の予防をするべきなのか?そもそも捜査・逮捕をする警察組織と、起訴をして刑罰を求める検察組織は分離されている。そうしないと国民にとって危険だからだ。犯罪を予防する組織と、起こった犯罪を捜査し犯人を逮捕する組織も、やはり分離するべきだろうと小生は思う。とすれば、そもそも犯罪を予防する行動は国家権力が直接担当するべきなのか?小生、この点についても甚だ疑問に感じる。<予防>のためには、あらゆる行為が正当化されるであろう。狼を恐れて、虎を家の中に入れるのですか、ということだ。
  3. メールに書かれている文面は、脅迫には当たらず、ストーカー規制法では対応できなかった。その点も法の不備として非難されている。幸いにして小生はこれまで経験した事がないが、親族の一人がもう昨年になったか、嫌がらせメールの被害を受けたことがある。その嫌がらせメールは、発信者が匿名であったが、ごく近くの知人・親戚でなければ知りえない事柄が書かれていた。警察に相談したところ、「文面だけを見ると犯罪であるとは言えないのですね、ただプロバイダーの協力を得て、誰が、というかどのアドレスから送信されたかは調べることができる。そうすると相手がわかっちゃいますが、本当に調べますか?」と、そんなことを聞かれた由。その親族は、自分のメールアドレスを変更して、調査はしなかったそうだ。今回の被害者は、2か月で千通を超える嫌がらせメールを受け取ったということだ。スパムメールとして処理するとか、受け取りを拒否するとか、アドレスを変えるという方法もとれたように思う。


結局残る論点は、嫌がらせメールでは飽き足らぬ犯人が当人の暮らしている場所に出向いて犯行に及ぶ、そんな事態をどう防ぐか。ここである。小生、その予防を警察がやり始めちゃあ、最後に泣きを見るのは国民だよ。この点だけは断言できると思うのだな。自分が嫌なことはされたくない、されればハラスメントだ。どんなハラスメントも受けたくない、それを国が全ての人の権利であると認めますか?認めたうえで、国は防止にも力を入れますか?個人情報の保護どころではなくなりますよ、と。そういうことだ。

そもそも、犯罪防止は、権力ではなく、社会の機能だと思う。やれば、やりかえされる。まあ一言でいえば、ペナルティというか制裁機能がお互いに予想できる、そんなメカニズムが社会に備わっているのなら、警察が関与しなくとも紛争当事者の最終的犯罪行為を抑止できるはずだ。具体的には、相手がどんな武器をもっているか分からない。そういう状態は有効なはずである。また、狙う相手をとりまく親族・知人など周囲の人間たちが、自分に報復をするはずだという予想も ― 今回の逗子ストーカー事件では犯人が逮捕前に自殺しているので有効ではないが、それでも一般的には ― 犯罪を抑止できるであろう。

司法当局は、武器の携帯、私的な報復をどこまで容認するか、私人の正当防衛をどこまで広汎に弾力的に認めるのか。これらの日本の制度的背景が全て、日本人が自己責任において講ずることのできる自己防衛行動を決定しているのである。残念ながら、日本国内では自分の身を自分で(というか、自分たちで)守るという点について、日本国家は極めて強く国民の自由を制約しているように(小生は)思っている。だとすれば、「国民が生きる上でのリスクは全て国の責任でございます」くらいの気概をもって、適切な犯罪防止制度を工夫するべきだろう。しかし、そんな監視国家を日本人は望まないはずだ。とすれば、自己防衛のあり方という面にも、<自由化>と<規制緩和>が望まれるのである。小生は、そんな風に思うのだ、な。

2012年11月11日日曜日

日曜日の話し(11/11)

カミさんはまだ四国の田舎から帰らぬ。愚息は今月末から旭川で修習が始まるというので転居する、ついては賃貸契約の保証人になってくれ、印鑑証明がいると言ってくる。愚妹はずっと昔に亡くなった母が遺した株券が見つかった、どうしようかと言ってくる、等分で分けるから印鑑証明書を用意しておいてくれと言ってくる。なんでまた一度に印鑑証明が次から次にいるのか、その度に市役所にいくと時間もとられる、それなりに疲れる。こういうことは、ちょうど引き潮、満ち潮のように、何かの周期があるようだ。

前の日曜日の話しでは18世紀から19世紀にかけてのドイツの画家コルネリウスをとりあげた。とはいえ、『ゲーテとの対話』で最も頻繁に話題になっている画家なら、ロイスダールとクロード・ロランではないだろうか?ロイスダールは17世紀初め、オランダの黄金時代に活躍した画家であり、クロード・ロランは同じ頃にニコラ・プーサンとともにフランス的絵画を確立した大画家である。

最も有名なロイスダールは、ヤーコブ・ロイスダール(Jacob Izaaksz van Ruisdael)だが、父、叔父、従兄弟もみな同じ仕事をした画家一族だった。ゲーテが鑑賞したのはおそらくヤーコブ・ロイスダールだろうと推測できるが、叔父のサロモン・ロイスダールも中々いい作品を残している。


Salomon van Ruisdael、View of Deventer Seen from the North-West、1657
Source: http://en.wikipedia.org/wiki/File:Salomon_van_Ruisdael_Deventer.jpg

サロモン・ロイスダールが生きた時代、オランダは世界の海を支配していた。日本にも貿易を求めて盛んに往来したが、先行していたスペイン人、ポルトガル人と区別して、英国人とともに紅毛人と呼ばれた。その一人、ヤン・ヨーステンはリーフデ号に乗船していたところ、1600年頃に日本に漂着した。関ヶ原の戦いがあった年である。ヨーステンは徳川家康の貿易顧問、外交顧問のような役割を果たすようになった。東京駅前の地名・八重洲はここに屋敷をもったヨーステンからとられたものだ。これは高校の日本史でも話題になっていると思う。

家康の朱印船貿易が拡大する中でヨーステンは再び貿易商として活動をはじめ、東洋におけるオランダの貿易拠点であるバタビア(ジャカルタ)との間を往来しながら、オランダへの帰国を求め母国と交渉したようだが − 行方不明になっていた本人の人物確認やその証明など、当時はスペインをはじめ敵対国も多いお国柄だったゆえ面倒であったのだろう − 結局、帰国は認められず、諦めて日本に戻ろうとしたところ船が難破し、遭難したという。1623年、歳は70歳前後になっていたという。

もしもヨーステンがオランダに帰国していれば、幕末に日本を訪れて鳴滝塾を開いたシーボルトとともに、というか20年も日本に滞在し、江戸幕府の始祖・徳川家康とも親密に交流し、日本の歴史にも深くかかわったことから、日蘭、いや日本とヨーロッパを結ぶ第一人者として西洋史にも名が残ったであろうし、ゲーテも日本を語るときにはヨーステンの名を口にしたことだろう。歴史にIFは意味がないのであるが、現実と想像を分けるのは一瞬の偶然であるとも言える。だとすれば、現実の歴史はその何割かは偶然によって決まっていると言ってもいいわけであり、それにもかかわらず歴史の必然を語るには、あとづけの理屈、単なる語り部を超えた理論がいる、その理論は現時点以降の将来を予測するにも役に立つはずであるし、役に立たなければ「理論」とは言えない。そして役に立ってきたかどうかは、経験から判断できるし、判断できるような理論でなければ「理論」とはいえない。そう言ってもいいのじゃあないかと思っている。

2012年11月9日金曜日

野田首相は戦う純化主義者か、それとも<直官>総理なのか?

前の前の投稿では「野田首相は年内解散をして約束を厳守するほうに1万円を賭けてもいい」と見栄を切ったものの、年内のロシア訪問を断念、年明けまで延期する方向で再調整などという報道が流れたりして、ああこれはあかんわと投げていた。ところが今日になって次の報道が流れてきた。
政局の焦点である衆院解散・総選挙の時期を巡り、野田首相が環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加を表明し、その直後に衆院解散に踏み切ることを検討していることが8日、わかった。
 複数の首相周辺や民主党幹部が明らかにした。11月下旬から12月中旬に解散し、投開票日は12月中か年明けの1月が有力だ。首相は、TPP参加に慎重な自民党との違いを際立たせ、衆院選の対立軸にできると判断しており、早ければ月内の参加表明を探っている。TPP参加に反対する民主党議員の集団離党につながる可能性があり、政局は一気に緊迫の度合いを増しそうだ。
 首相が、解散を判断する環境整備に挙げる赤字国債発行を可能とする特例公債法案は、21日にも参院で可決、成立する見通しとなった。首相は同法案の成立後、TPP交渉参加表明と解散の時期について最終判断するとみられる。(出所)読売新聞、11月9日(金)3時6分配信 
こういう手で来ましたか・・・。やるねえ、そう思った次第。首相在職中に反小泉改革勢力との妥協を選んだ安倍晋三・現総裁のウィークポイントをつく作戦であるな。いまなお懐かしみをもって想起されることの多い小泉内閣時代のアグレッシブな − 実は橋本龍太郎内閣にその源をもつ改革路線であると言えるのだが − 自由化政策の旗を今度は野田・民主党代表が振って、小泉のあとを継ごうと思えば継げた自民党総裁を守旧派に仕立てるつもりか。もしそうなら上手な喧嘩である。見事の一語につきる。

しかし、消費税率引き上げの道筋をつけたかと思うと、今度はTPP参加表明。これは正に霞ヶ関の官僚主流派の政策思想に合致している。以前に現内閣は<直官内閣>と書いたことがある。上の報道に裏付けがあるとすれば、野田首相はいよいよ党内純化闘争を仕掛け、自民党内の路線対立にも導火線を仕掛ける腹のようにも見えるし、そうでないとすれば文字通りの官僚シナリオ、官僚がプロデュースした<ピノキオ宰相>の面目が躍如している報道である。こんな風にも見られるのだな。

やりなはれ、やってくれなはれ。勝てばええんどす。戦いなき政治ほど国家を停滞させるものはない。次は、安倍総裁がどんな手で応じるかだ、な。

2012年11月7日水曜日

覚え書き − 国会の在り方は分岐点にあるのではないか

国会議員という人間集団は概ね<素人>である、というか素人でも偶々投票日当日に多くの有権者から票を集めれば、さしたる資格審査や業績審査を経ることなく、自動的に国会議員になるのが現行の制度だ。こんな風であるにもかかわらず、戦後日本においては国会は国権の最高機関であり、立法府としての役割だけではなく、専門知識を必要とする行政府にも議院内閣制や政務三役という名目で人を送り込み、行政の細部にまで彼らの裁量が働く形になっている。特に経済政策は、とるべき方向がロジックとして決まることが多いのだが、審議する議員がその議論を理解できない、用語を理解できないという状態が仮にあるとすれば、運転を知らない人が助手席に座って運転を指示するようなものであろう。ズバリ、危ないのだな。

これは放置してもいいのか?小生、昔からずっと疑問というか、不信というか、どういえばいいのだろう「ちょっとおかしいのではないか」という気持ちを持ってきた。だってそうでしょう。どんな職業に就くのも − 議員という職業があるというのもおかしいが − 必要とされる教育、実績、更に担当する職務によっては資格が求められる。その職務を担うに十分な能力があるという証拠が明示されなければならないというわけだな。しかし、議員という人間集団は<当選>したというだけであって、力量や実績についての十分性を有権者に示しているとは言いがたい。ありていにいえば、国会に最高の国権を与えるのは、猫に小判、豚に真珠、気違いに刃物、まあそんな格言も当てはまるのではないか?要するにそういうことである。本来なら<政党>が、こうした人物評価機能を果たすべきなのであるが、現時点の日本を観察する限り、政党といえる政党なぞ、一つもないし、将来も出てはこないだろうと思われる。

覚え書きまでに書き留めておきたいのは、国権の最高機関で職務を担う国会議員の選出の在り方の可能性は、二つしかないのではないかということだ。

(1)被選挙者になるための費用を高額にする。と同時に、議員歳費は低額にする。

日本の選挙費用は極めて高額である(参考ブログ)。誰でも立候補できるわけではない。しかしこのこと自体が、スクリーニング機能を果たしていると言えないこともない。現に高額の選挙費用を負担できるということは、それまでの職業生活で成功し、それ故に有能な人物であることを憶測させるからだ。だからといって魅力のある名誉職であってはならない。議員歳費を低額にすることによって、真にパブリック・マインドを備えた人物だけが議員を志す、そのための誘因を形成できるはずだ。高額の選挙費用と、高額の議員歳費の両方を実施する今の方式はモラルハザードを招き、不効率である。いわば<特権階級>を形成してしまう要因ともなる。この(1)の方向で選挙制度を運用すると、日本の政治は成功者による寡頭政治というか、エリート政治、貴族政治に近いものになろう。議員の職務専念義務のレベルをどう定めるかなどは技術的問題に過ぎないだろう。

(2)選挙費用を低額にし、議員歳費を高額にする。と同時に、資格審査・実績審査を導入する。

選挙費用を低額にすれば、誰でも立候補して議員を目指すことができる。社会意識が高く、行動力のある人材が議会に参加する道が開けるだろう。議員歳費を高額にすれば、そうした人材への報酬も正義に適ったものになろう。有用な人材を議会に集めるためには、こうしたインセンティブが必要だと思われる。しかし、この方式で議会を形成するなら、被選挙者になるまでの審査を厳格化するべきだ。具体的には、自治体に審査委員会を設置して、あらかじめ定められた評価基準に沿って提出された履歴、職歴、資格を審査し、その人物の能力が十分であるかどうかを判断する、そして審査委員会は審査議事録を選挙に先立って有権者に公開するべきだろう。これが政治に参加する国民の平等な権利を侵害するというのであれば資格と能力の十分性を確認するための予備選挙を選挙区ごとに行い過半数の容認を求めるべきだ。被選挙者が提供するべき情報についてあらかじめ項目を定めておくのは言うまでもない。この(2)は(1)とは違って、より左派的な路線に近いだろう。

学校の生徒会長選挙では誰が立候補しようと、彼がどんな人物であるか、普段の行動を観察しているので分かっているわけだ。それでも不適当な人物が偶々当選してしまうことはままあることである。民間企業では、当然のことながら、勤務評定や昇格・昇任は多数の投票にはゆだねず、専門部署が評価し、判断して、人事を差配している。そのほうが低コストかつ高信頼性のある人事政策を展開できるからだ。国家全体の人事局などありえようはずもなく、だからこそ選挙という制度をとっているわけだが、現行の選挙制度そのものに価値があるわけではなく、目的は高いパブリックマインドをもった有能な人物に議員になってほしい、この目的が大事なのであって、いまの有り様そのものが大事であるわけではない。誰にでも国民を代表する同等な機会を与えるという空洞化した理念が大事なのではなく、機能する国会が最も大事である。国会は目的ではなく、統治するためのツールにすぎない。

国会の在り方については、一度、基本から考え直すべきだと思う。

2012年11月5日月曜日

いまの政局 ― つまりは犬か猿かという選択である

特例国債法案がまだ宙に浮いている。

今年度予算の執行を人質にする行為は、いかに政局とは言え、ルール違反である。野田首相はそう主張したい腹のようであり、安倍自民党総裁もあまりに下劣な手練手管を弄したくはない様子なのであるが、「政党」というのは玉石混交の人間集団だ。結局は欲望丸出しのバトルロイヤルになるのではないか。なるしかない。小生は、政局なんてそんなものと、ずっと昔から思っている。
 自民党の安倍総裁は5日午前のTBSの番組で、民主党の輿石幹事長が年内の衆院解散に否定的な見解を示していることについて、「来年、解散・総選挙になり、自民党が与党になったら、予算を組み直さないといけなくなる」と述べ、解散先送りは国政に混乱をもたらすと批判した。
 さらに、安倍氏は「首相がウソつきか、真っ当な人間かを決めるのは、首相しかいない」と強調し、「近いうち」に国民に信を問うとした約束を守り、年内解散を実施するよう求めた。
 民主、自民、公明3党の合意に基づく「社会保障制度改革国民会議」の設置に関しては、人選に協力する姿勢を改めて示す一方、「議論は信頼関係があって成り立つ」と語り、同会議での議論は衆院選後に始めるべきだとした。
(出所)読売新聞、2012年11月5日11時05分配信
2009年の政権交代は、官僚主導から政治(家)主導への転換がスローガンだった。まあ、あれだな。国家運営の番を役人というイヌに任せるか、それとも民主党のサルを有権者が投票で国会議事堂に送りこみ、最近のぼせあがっているイヌをおさえにかかるか。その選択であったわけだ。サルの方が人間の形をした有権者の姿には近いので、国民は民主党議員には親近感をもったが、サルは所詮はサルである。まだイヌの方がましか・・・しかし、イヌにまた戻すと、またイヌが威張って、誰が飼い主か分からなくなる、それもケタクソ悪い ― この「けたくそ悪い」という形容詞は小生が育った田舎の方言かもしれない、標準語では「かたはら痛い」という語感に相通じる。

自民党は、霞が関のイヌたちと長年つきあってきたサルの一党だ。こちらのサルが覇権を握ると、旧体制に戻って国家は安定するだろうが、そこで暮らしている国民の将来は明るくなるか、お先真っ暗か、何ともいえない。ギャンブルだな。まあ、政治は当てにせず、我々が自分のことをしっかりやれば、それが一番っしょ。税金は高いより安い方が一番っしょ。東京のお上なぞ、できれば無いほうがいいに決まってるっしょ。

あとは賭けて今の政局を楽しむがよかろう。政局の存在価値などはその程度である。小生は年内解散・首相が約束を厳守するの方に1万円をイーブンで賭けてもよい。

2012年11月4日日曜日

日曜日の話し(11/4)

ゲーテが晩年を迎えた1830年前後、彼は同時代の画家の作品を散々にくさしているのだが、幾人かの例外としてコルネリウス(Peter von Cornelius)を誉めている。
ゲーテはそれから私に(=エッカーマンに)、コルネリウスの新作の絵について、その構想といい、その展開といい、実に力にみちているとほめる。そして絵がすばらしい色彩を見せてくれるきっかけは、構想にあるという話しになる。(岩波文庫版「ゲーテとの対話(中)」、171頁から引用)
その後の叙述が思いがけない。
生物はあらん限りその生存を続けていくが、しかも、それから自分と同じものを再び生み出す工夫をこらすものだ、ということに思い至る。この自然の法則は、私に、世界の太初においては神はたった一人でおられたが、それから神の似姿をした息子を創られたのだというあの伝説を思い出させる。
そのようにして、すぐれた師にとっても、自分の根本原理と活動をうけついでくれるすぐれた弟子を育てあげること以上に切実な仕事はないのである。・・・作品がすぐれていれば、それと同じだけ当の画家あるいは詩人がすぐれていることになるであろう。だから他の誰かのすぐれた作品を見ても、私は決して嫉妬心を燃やしたりしてはいけないのだ。というのも、結局それは、それをつくるだけの価値のあったすぐれた人間に帰するからである。
忠実な弟子エッカーマンが心に抱いている複雑な陰影が思わず表出されている下りではあるまいかと読んだ次第。


Peter von Cornelius, Tavern, 1820

1820年に制作した作品をゲーテが1830年に新作とは言うまい。おそらく、1830年2月21日にゲーテが自宅の小室でエッカーマンと昼食をとりながら語ったというコルネリウスの新作は、上の作品ではないのであろう。真相は、小生の調査不足にもよると思うが、分からない。ナザレ派の画家であるコルネリウスの代表作は、主として歴史や神話に画題を求めており、上のような当時の居酒屋を描くことはそう多くはなかったのではないか。

この後、エッカーマンはゲーテからコルネリウスの銅版画を見せてもらうのだが、彼の目にはそれほど優れた作品にはうつらなかったようで、そのことも記されている。ここも霧がかかったような文章である。

文豪の晩年に年齢を超えた友情を育んだもののエッカーマンは、結果として独自の作品を遺すには至らず、その代わりに師ゲーテの人となりを伝える語り部となり、それによって歴史に残る作家となった。自分の役回りに徹することが大事であることは分かるが、生前のエッカーマンその人の心の中は永遠の謎である。

この同じ2月の初めには<報酬>の話しをしている。英国の聖職者の余りの高給ぶりがヨーロッパで評判になっていたというか、他国の同業者と余りに違うので顰蹙をかっていたというのだな。『世界は報酬を支払うことによって支配される、という意見がある。だが世界がよく支配されているか、悪く支配されているかを教えてくれるのは報酬であることを私は知っているよ』(同上、163頁)。報酬は「労働の価格」ではあるが、と同時に「正義の表現」にもなっている。人間の価値はそうそう変わるわけではあるまいに、需給関係や既得権益から不合理な報酬が支払われているとすれば、「社会正義が損なわれている」という心情が広がるものである。ゲーテは市民階級出身であり、ワイマール大公国の官僚として立身出世したが、先祖代々の遺産はなく、彼一代の才覚で稼いだ人物である。著作物の出版、販売動向にも関心が強い。優雅ではあるが、整理整頓が行き届いていて、財産管理もしっかりしている。こんな人物はあまり好かれる者ではないと思うのだが、多くの人から愛されたというのは、明るく快活だったというその性格にあったのだろう。こんなことも言っている。
正義は広い領域を占めるが、心の善良さはより広い空間を占有する。
彼が生きた時代は、神よりは理性と啓蒙の時代であり、フランス革命にも見るように<正義>が主張された時代だった。そして正義が次々に主張される世はその後ずっと現在まで続いている。「わたしは、ある機会に、現代文明の特徴をあらわすために、それを倫理時代と呼んだことがある。そこでは多くの人が、正義を行わなければならないと考え、また自分は正義を行いうると信じている・・・」(手塚富雄「生き生きと生きよ、ゲーテに学ぶ」(講談社電子文庫)から引用)。ゲーテは、正義の不毛と、自分自身の心の姿がより大事であること、善良な心に沿わない正義はこの世から消えていくことを示唆している。正義とはいえ、どんな正義でも世を変えるとは言えないことくらい、あまりにも明瞭ではあるが。


2012年11月2日金曜日

ヨーロッパ統合への道はあまりにも遠い

カミさんはいま四国・松山にいる。義兄の葬儀が終わって既に2週間になる。奥方はまだ40代である。どこでもそうだが、現役の世帯主が亡くなると、預金は自動的に凍結されるので、当座の資金に困る。カネに関連する名義の書き換えをしないといけないが、相続手続きとも関連するので面倒であるようだ ― 遺言書が公正証書として存在していればまた事情がずいぶん変わるようだが。確かに、いかに妻とはいえ、勝手に名義を書き換えて預金を引き出すことが可能であるなら、もし万が一、隠し子がいて財産相続権を主張してきた場合には、他界後に預金引き出しを許した銀行の責任が問われるであろう。まったく面倒である。そんなこんなで、うちのカミさんは今月中は松山にいて話し相手にならないといけないようだ。自炊も楽な時代になったが、昨日の昼に近くのレストランで食べたときの油が悪かったか、すぐにムカムカして、完全に腹をこわした。こんな時は一人暮らしは本当にさびしいものである。

とはいえ、電話で愚痴も言えるわけである。困ったときは<相身互い>である。

× × ×

ロイターで報道しているのだが、
 [ブリュッセル/ロンドン 1日 ロイター] 英議会は31日、欧州連合(EU)に予算の削減を求める動議を可決し、キャメロン英首相にとっては、1兆ユーロ(1兆3000億ドル)規模のEUの長期支出計画に対して強硬な姿勢で臨むことを求める圧力が高まった。
 一方、フランスは農業補助金の削減提案に反対し、拒否権発動も辞さない姿勢を示しており、EU予算をめぐる対立が強まっている。
 
 英議会の議決に強制力はないものの、与党保守党の反対派グループが野党労働党の一部と組み、動議を可決した。
 キャメロン首相に反対する保守党議員は、キャメロン首相に対してEU予算の凍結を支持する姿勢を取り下げ、予算削減を求めるよう促している。
 
 一方、最も多額の農業補助金を受け取っているフランスは、2014─2020年のEU予算を500億ユーロ以上削減するため、議長国のキプロスが妥協案として提示した農業補助金の削減に反発している。
 
 EU議長国であるキプロスは29日、予算の規模を縮小するため、農業分野への助成の削減幅を比較的小さく抑えながら、経済的に豊かでない国へのインフラ投資に充てる予算を最も減らすことを盛り込んだ妥協案を提示した。
 
 農業予算は提案通り削減されたとしても依然として最大の支出項目だが、フランスのルナール・カズヌーブ欧州問題担当相は「われわれは削減提案に反対する。フランスは共通農業政策に関する予算を維持しない長期予算を支持できない」と述べた。
また以下のような続報もある。
 [ロンドン 1日 ロイター] オズボーン英財務相は1日、英国は欧州連合(EU)予算の削減を望んでいるとし、予算が英国の納税者にとって望ましいものでなければ、キャメロン首相が拒否権を発動すると述べた。
 同相は、BBCラジオ4に対し「われわれはEUの予算の削減を望んでいる。協議は初期段階にあり、どう展開していくか見守る」と語った。
 さらに「英国の納税者にとって望ましいものでない限り、受け入れない。納税者にとって良くなければ、拒否権を発動する」と強調した。
 英議会は前日、EUに予算の削減を求める動議を可決し、キャメロン首相にとっては、1兆ユーロ規模のEUの長期支出計画に対して強硬な姿勢で臨むことを求める圧力が高まった。

 いまの欧州の混乱は、多国間の財政移転制度が完備していない点にあること、既に明瞭ではないだろうか。それと正反対の主張なり、行動がいま繰り広げられている。

英国・連立政権のパートナーであるクレッグ自由民主党党首は次のように述べている。
Nick Clegg said the Government's defeat in the House of Commonson its proposal for a freeze in the EU budget showed that Europe was once more "a party political football".
Responding to calls that the UK should renegotiate the terms of its membership in the EU, the  Liberal Democrat leader said the idea that the UK could "opt-out of the bad bits but stay opted-in to the good bits, and that the way to do that is a repatriation of British powers" was a "false promise wrapped in a Union Jack"
Mr Clegg claimed that other members of the EU would not tolerate the UK trying to extract itself "from the bulk of EU obligations".
Source: The Telegraph, Friday 02 November 2012 
 クレッグ党首の意見が妥当だ。


EU議長国は輪番制によりキプロス大統領がつとめている。その大統領がEU予算減額案を提案して、フランスがそれに反発し、英国と同様に拒否権をちらつかせている。


イギリスが得をするためにEUを利用し、フランスが得をするためにEUを利用する、ドイツはドイツでドイツの利益を大事にする・・・という風に自国利益を求める戦略を各国が採るのであれば、欧州全体が囚人のジレンマに陥る。これは、ゲーム論の初歩的なエクササイズだ。

既に通貨は統合されている。だとすれば検討課題は、モラルハザードをおかした国家なり個人に、どの程度のペナルティをどのように課すかであって、<ヨーロッパ>という国家連合の全体利益を現実に実現できるメカニズムを設計しておくことだ。その次に、全体利益の再配分システムをどう設計するかである。富裕国から貧困国への財政移転を多数国が容認できる形で行うことができるか、できないか。求められていることは極めて単純だと小生は思う。カネを出すからクチも出せるのだ。

既にファン・ロンパイ理事会議長はロンドンを訪れ、メルケル独首相も来週にはキャメロン英首相と会談予定ということだ。まあ<EU域内は相身互い>というわけにはいかないようだ。ヨーロッパ統合への道は余りにも遠い。