2021年12月29日水曜日

断想: 「理系」、「文系」という旧弊な区分けは何とかならないか

日本国内の高等教育機関では、例外なく(と思っているのだが)「文系」、「理系」という区分で学部編成やカリキュラム、専攻分野、進路を考える習慣がある・・・ということ自体が、実は非常に「日本的」なのではないかと考えるようになった。しかし、それは置いておいて、とりあえず日本国内の状況を前提した投稿である。


経済学や経営学が社会のメカニズムを理解するための学問分野だとすれば、文学部はその社会の中で生きている個々の人間を深く理解するためにある。こんな風に発想すると、法学部法学科は社会を適切に管理するための法的技術や学理を修得するために存在する。そして法学部政治学科は、法的技術を駆使して社会を管理運営するという行為、つまり政治について学ぶ場である。

いわゆる《文系》と総称される学問分野をこのように区分すると、その編成順は「人間を理解する文学部が1類、社会の機能を理解する社会科学系が2類、そして社会を法的、政治的に管理、運営する知識が3類」ということになるのが理屈だ、と。小生はそんな風に整理している。

近年は、《理系》の工学部の中に「金融工学」を学ぶ学科が新設されたり、医学部の保健学科の中に公衆衛生の一環である「医療社会学」があったりする。

古代ギリシアのアリストテレス級の総合的大賢人は望むべくもないが、そろそろ高等教育分野を見通しよく体系化し、無駄のないような大学組織に再編成した方がよいのではないかと感じる時はある。盆栽に例えて言えば、小枝の上にまた小枝が伸びてきて、全体として無駄枝ばかりが錯綜し、互いが重なり、縺れ合っているような状況だと感じる。

いわゆる「文系」だけではない。「理系」もそうだ。文学部の心理学科と医学部の精神医学は互いに無縁ではない。理系の中の生命科学とモノを相手に考える数物系科学も無縁ではありえない。

そういえば、数日前に月参りで宅に来た住職が置いていった月報にこんな文章がのっていた:

新聞にウイルス学の権威の先生のコメントが紹介されていました。『地球は46億年前に誕生した。ウイルスが生まれたのは30憶念前。人類はまだ20万年の歴史しかない。もし地球全史を1年に圧縮すると、ウイルスは5月生まれ、人類は大晦日の夜11時37分に生まれたばかりとなる』・・・

なかなか鋭い点をついているなあと思った。宗教畑の人たちがこんな事に知的関心をもっていること自体に感心と共感を覚えたわけだ。

生物学の啓蒙書なら例外なく説明されていると思うが、

細胞は細胞のみから生まれる

というのが基本認識になっている。しかし、地球はそもそも非生命惑星であったのが事実だ。ということは、

生命は非生命のモノから誕生した。細胞は非細胞のタンパク質から生まれた。そもそもモノの世界の中に生命が生まれ、進化をうながすメカニズムが潜在している。現代物理学ではまだ、化学分野ですら、こうしたレベルの理解までは進んでいない。

ロジックとしてはこう認識するしかないと思っている。

確かに「生きとし生ける存在」は死ねば物体に戻る。しかし、生命が誕生した母体は生命なきモノであった。死は生命の源に回帰する現象であるともみられる。

生命と非生命に明確な一線を引くことはできない。この点についても、現在の学問体系は我々が直面する問題とそぐわなくなってきているのではないだろうか?

意識するにせよ、しないにせよ、思考が何かの制約に縛られていれば、それだけ思考が不経済になり、内容が乏しくなる。ひいては日本人の思考レベルそのものが、自由に考える海外と比べて相対的に劣化する背景にもなる。こんな心配が最近は増している。

2021年12月27日月曜日

断想:ジェンダーフリー・・・極めて超歴史的にみてみると

最近は歴史的に一貫して<男性専科>であった軍隊にも女性が参加してきている。同じく<男性専科>であった警察は、ずっと以前から同様の組織変革が進んでいる。

古来、女性が命のやり取りをする軍人に(基本として)ならなかった理由は、実に単純であって、種族|部族|民族などの人間集団が自己保存を図るためであって、それ以外の体力、志向などの要因があるにせよ、主たる理由は明らかだと思う。女性が生き残りさえすれば、いかに男性が戦いで淘汰されようとも、次世代を育てる力を残せる理屈である。

この点については、小生もかの天才的(?)ポルノ小説作家である宇能鴻一郎が言ったという

男はタネをばらまく性だが可憐な相手はつい愛してしまい、すると広くタネを散布できなくなる。

前にも投稿したことがあるが、この男女観が自然の事実に合致していると考えている。

ところが、歴史的に一貫したこの慣行を現代人類は捨て去りつつあるように見える。命のやりとりをする危険な現場に女性を配置して、そのことに社会が不安を覚えないのは何故か?

こうした感覚の変化と並行して進行してきたのは、人工授精、更には精子、卵子、受精卵の凍結保存技術の発展である。これと合わせて、今後、人工子宮など胎外保育技術が一層進歩すれば、もはや危険な現場において男性と女性の配属をしいて区別する理屈はまったくなくなる。極めて危険な職務に従事する前に、自分の精子、卵子を提出、冷凍保存し、人工授精については所定の方式で依頼できる手続きさえ定めておけば、あとは生身の身体はどうなっても、その人間集団の生存に危険が及ぶことはない。親の身体と子孫の保存を分離できるからだ。

そんな社会が到来すれば

ぬちどぅたから(命こそ宝)

であった時代は歴史の彼方に過ぎ去るわけであり、

国立遺伝子情報保存センターこそ国の宝

こんな価値観が支配的になるだろう。

男女を問わず生身の人間から、次世代を育てるという役割と機能が完全に分離され、夫婦や家庭は解体され、一人一人の個々人は社会を構成する「細胞」として純粋に機能化される。もちろん乳幼児保育、給食、初等教育から高等教育までの養育は全面的に公益法人が担当し、両親は子弟養育義務から解放され、職業的義務(といえばイイのか)に専念する、そして寿命がくれば自動的に死を甘受して次世代と交代する・・・ウ~ム、こうなると人生の目的が幸福であり続けるかどうかも分からなくなる。小生が生きてきた社会とはまったく別の宇宙人のような社会だけどネエ、たしかに未来の可能性の一つだろう。

蟻や蜂は人類よりも地球上ではずっと先輩のはずだ。彼らが造っている社会システムは、これから人類が歩むであろう未来図なのかもしれない。そういえば、大半を占める働きアリや働きバチは全てが雌、というより生殖機能が退化しているので無性であると言える。

男女の均等とジェンダーフリー、社会の全分野における男女の公平な協同を支える技術基盤があるとすれば、それは結局、生物としてのヒトが自然にもっている男女間の性差自体を人工的に消失させる段階に至って、はじめて完結する。これがロジックではないだろうか。


社会で進んでいる一つの現象には、これと関連して別の現象が必ず進んでいるものだ。観察可能な現象の背後には、共通の因子が根本的な駆動力として働いているものだ。そしてその駆動力は多くの場合は《科学技術》である。科学技術が生産活動で応用されることで社会は進歩し、価値観も変わり、制度も変わる。文明の進歩の実体とはこういうことだと思う。生きている人間は、そうした変化を理解し、受け入れ、それが正しいと考える理屈を事後的に発案して新しい社会に順応していく。これが《思想の発展》だといえば、確かに思想の発展である。そのように発展する思想によれば、社会の要請に基づく変化はすべて民主主義に沿った進歩になるはずだ。何度も投稿しているが、やはり小生はマルクス流の唯物史観を肯定しているようだ。

2021年12月26日日曜日

「エンデミック?」、日本はまたアメリカを追いかけるのだろうか?

Wall Street Journal(日本語版)にこんな記事があった。抜粋してメモしておこう。

米国では1日1200人以上がコロナで死亡している。だが、通常のインフルエンザよりも死亡者数や感染者数がはるかに高水準であっても、コロナの感染拡大は恐らく、エンデミックとみなすのに十分なほど予測可能なパターンに落ち着くと、公衆衛生専門家はみている。

ウイルスが今後どのように変異し、過去の感染やワクチン接種による免疫反応がどのくらい持続し、コロナ対策で各国がいかに先手を打てるのか。これら全てが、社会とコロナの息の長い関係に影響を与えるだろうと公衆衛生専門家は言う。

 カリフォルニア大学アーバイン校の感染症疫学者であり人口統計学者でもあるアンドリュー・ノイマー氏は、1918年に大流行したインフルエンザを研究している。同氏は変異株によるコロナ感染の波が、数十年にわたって定期的に米国を襲う(特に冬季)と予想している。集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

「コロナは木工細工の中に組み込まれている」と同氏は言う。「もはや調度品の一部だ」

Source::WSJ、 2021 年 12 月 24 日 15:22 JST

URL:https://jp.wsj.com/articles/covid-19-marches-toward-endemic-status-in-u-s-as-omicron-spreads-11640326836

確かに2019年末に確認され世界に拡散した新型コロナウイルスによる混乱は、程度の見方に違いがあるにせよ「ブラックスワン」、ある意味で「アノマリー」とも言える異常変動であった。それが、既に地球上に拡散し、定着し、今後の新型コロナ感染はウイルス側の変異と人類側の免疫適応とのバランスがとれた定常的な進化プロセスに収束していくだろう、という予測である。

日本人の感性であれば上の引用のうち

集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

という「言葉」には、それなりの社会的反発があるだろうし、世間の反発を怖れる日本国内のマスコミは、決してこんな表現はしない、もっとマイルドな文章で「一部の識者にはこんな見方をする向きもある」などという言い方をするはずだ。日本は何事も人の心を忖度する「ものも言いよう」のお国柄である。

とはいえ、小生は『アメリカ人ならこんな考え方をするだろうネエ』とも思った。ベトナム戦争でアメリカの"Best and Brightest"達がどんな思考をしていたか、ハルバースタムの名著が伝えている所でもあるし、その後の国防戦略、経済戦略を振り返ると、アメリカという国は、ひょっとするとイギリスも含めたアングロサクソン系の国々はどこでもそうかもしれないが、上のようなある意味で「統計的発想」を好むのだなと改めて感じる。これが《科学的》というなら、確かに科学的である、と言えるかもしれない。

夏目漱石の『草枕』とは逆の意味になるかもしれないが

科学とは非人情なものなのだ

これに尽きる。 

2021年12月22日水曜日

断想: 職業上の成否で大事なのは「性格」だが、もっと大事なものがある

研究活動を職業とするには、才能より、むしろ性格が適しているかどうかが遥かに大事であるという点については本ブログでも何度か投稿済みである(例えばこれ)。

どの程度の高みにまで到達できるかという点では確かに才能がものをいう。が、才能を十分に開花させるためには、時間と根気が要る。何年も、ある場合は一生を通して、倦まずたゆまず一つの問題意識に執着し、自分が納得するまで試行錯誤を繰り返すには、それに適した性格が不可欠だ。何より(研究に限らずどんな仕事でもそうだが)その仕事に性格が適していれば、仕事が面白いと感じるはずで、たとえ超一流の実績があげられずとも、そんな職業上の競争を超えた所で、その仕事に携われたことに満足し、幸福を感じるはずである。

ただ職業上の幸福が得られても、人生は仕事のみから出来ているわけではない。家族、友人、師匠、先達をはじめとする人の縁、カネの縁も最終結果としての幸福な人生には欠かせぬであろう。

よく人生の達人になるには

知性・野性・感性

の三つが大切だと何度かきいたことがある。あるいは、

知・情・意

が三大要素であるとも聞いたことがある。

しかし、いま職業生活を思い返してみると、備えるべき最重要な条件は

一に体力、二に性格、三四がなくて五に幸運

若い頃には修養を心掛けていた(つもりの)「理性・野性・感性」も、「知・情・意」も、所詮は「畳スイレン」、モラル好きの「机上の空論」、あまり意味はなかったなあ、と。こんな感想を抱いているところである。

生まれついての才能の違いは、努力を何十年も続けて疲れを知らない体力があれば、ほとんど有意な違いをもたらさないような気がする。ある人は「直観」が大事だと言うが、それは後からみた自画自賛であって、要は「運が良かった」というただそれだけの事である(ような気がする)。

シンプルに概観すると、職業的な成功をおさめた人は、小生が知っている限り、若い頃からずっと健康に恵まれ、基礎体力が充実した人物である。しょっちゅう風邪を引いているようではダメだ。アレルギーで悩んでいるようでは集中力がそがれる。もちろん大病をしたときに失う時間資源は測り知れない。体力が最も重要で、全てのカギとなる。例外はないと思う。病弱な蒲柳の質を知力でカバーする諸葛亮孔明のような人物は小説の中のフィクションであると思っている。

体力は意志の強さを支え、意志は知性の土台となり、感性の良さが行動を完璧なものとする。誰もが知っている格言のように

健全な精神は健全な身体に宿る

時代を問わず、この名句が人生には当てはまっているのだと今では確信している。

明治以前、武士の家庭では自ら求めて武道の修練を続けなければ、(農家とは違って)体力は衰えるばかりであったはずだ。書物を読んで勉強する以前に、黙々と木刀の素振りを始める習慣は、サムライの気構えという以前に、成長への土台造りにもなっていたのだろう。体を動かすのを嫌う若者を元気な同世代は《文弱の徒》とバカにしていたが、日本人のこんな気風は、亡くなった父の思い出話をいま振り返ると、全日本人男性に兵役の義務が課された明治以後の近代日本にも、何がしか継承されていたような印象がある。身体的訓練を重視するこの習慣が、戦後日本で世代を重ねるうちに、少しずつ廃されてきた。

現代日本の価値観に基づけば、何が大事であるかは個人個人によって多様であって、身体的訓練が嫌いなら無理に稽古をする必要もないと、そう考えるわけだが、この考え方はどこか「不健康のすすめ」であるようにも感じるのが小生の世代である。三島由紀夫の『不道徳教育講座』は、読めばどの章も一理あると思うのだが、いま流行の「多様化」は昔の武士道に比べると、どこかイカかタコのような軟体動物的な《骨なしモラル》のように見えて仕方がない。


2021年12月18日土曜日

一言メモ: 降雪量が観測史上第1位・・これは凡ミスじゃないか?それともフェイクか?

12月17日から18日にかけて北海道の札樽地区では記録的な豪雪となった。降雪量については「観測史上第1位」になったとの報道だ。例えば

【札幌・小樽で大雪記録更新】日本海側を中心に大雪となっており、今朝までの24時間降雪量が札幌55cm、小樽53cmと1999年の統計開始以降の観測史上1位を更新しました。雪で道幅が狭くなっていたり、歩道の除雪が追いついていない所があります。屋根からの落雪や除雪中の事故にも十分注意してください。

Source:北海道防災情報

小生はマンション住まいなので戸外の駐車場に除雪車が入る時には自家用車を外に移動させなければならない — 面倒な事だが、それでも一戸建てに住んでいる人の雪かきを思うと、雪の日は極楽である。今朝は雪が車の窓の辺りまで積もりドアを開けるためだけに相当のエネルギーを使って雪をかかなければならなかった・・・それでも車は雪に埋もれてはいなかった。

小生の記憶の中ではもっと雪が降った日がある。一晩のうちに町が雪で埋め尽くされた朝があったことを覚えている。であるので、昨日からの雪が「観測史上第1位」と聞いた時には、それはおかしい、と感じたのだ、な。

が、報道をよくみると

1999年の統計開始以降の観測史上1位

と書いている。

***

1988年からずっと日記をつけているので、調べてみると、1996年1月9日にこんな記述をしている。

上の愚息が入院して手術。麻酔がきれる時を心配し家内は病院に泊まる。小生と下の愚息は温泉に近いホテルに泊する。夜半通過した台風並みの低気圧のせいで猛吹雪となる。一寸先も視えず。朝方には積雪が1メートルを超え、道路など全てが雪中に埋もれる。雪なお止まず。近郊の道路網は寸断され除雪もままならない模様。チェックアウトしようにも、まず除雪車を雪の中から掘り出すために従業員が雪かきをしている。その後、駐車場を除雪、宿泊客の車を掘り起こすのでそれまでは館内で待機してほしいとのこと館内放送がある。正午に至り漸く車を運転して自宅に戻る。ところがマンションの駐車場は積雪が深く中に入れず。人力で雪をかこうにも限界がある。仕方なく、大学の駐車場に車を停めようと思う。大学構内はさすがに除雪が終わっており、何とか停めることができる。この日は大学に車を置くことにしてタクシーで帰宅する。

今回のドカ雪は確かに記録的ではあったが、除雪車そのものが雪に埋もれ、町全体が麻痺する程の雪ではなかった。 

記憶にも鮮明なあの日の豪雪を含めれば、降雪量第1位は今回の雪ではない。

それよりも、この北海道で、それも《降雪量》という極めて基本的な気象データを、1999年以前には測定していないというのは、こちらの方がずっと信じがたいことだ。

***

気象データは予報するためには致命的に重要な情報である。毎日の降雪量データがたった20年間ほどしかないというのは・・・どう言えばよいのか言葉を知らない。

経済活動の循環と成長が長期的にどんな特性をもっているかという問題にとりくむときには、実質GDPについて時に100年間の長期時系列が不可欠である。2、30年のデータからは明らかにできない重要な点が倍の50年、60年間のデータを用いると初めて明確に分かってくることがある。100間の経済データがあれば分かる事は更に豊富になる。気象現象は「寒暖700年周期説」があったりする位だから、なおさらのことだと思っていた。思っていたし、気温や降雨量、降雪量などは測定も簡単なのだから、とっくに100年間くらいのデータはあると思い込んでいた。それが北海道の降雪量データがたったの20年程しかないとはネエ・・・。そして、このことを「それ以前はどうだったか」と聞くこともせず、淡々と報道している側もどんな神経をしているのだろうと、こちらの方が小生には驚きであった。

まったく日本の行政機関も報道機関も常識では推し量れない、「変だよネエ」と感じさせられる所がある。


・・・ここまで書いてきて、「それにしても降雪量程度のデータがないというのは余りにおかしい」と、念のため、例えば《1996年1月8日 小樽 雪》で小樽について検索をかけてみると、1996年1月中の気象データがヒットする。気象庁が公表しているデータである。これをみると、1月8日の降雪量は84cmになっている。今回の53cmを超えている。

「気象庁のデータ、やっぱりあるじゃないか」と、・・・そうするとマスコミが強調している「観測史上第1位」ってなんだろう? こんな疑問がわいて来る。一体、誰がそう言い始めたのだろう?





2021年12月14日火曜日

断想: 「日本病」の治療がもし自助努力で治らずば・・・?

※ 初回の投稿は長くなり過ぎるので余計な箇所を剪定したうえで更新する【12月20日】

こんな予測をすることがある。標題について、である。

このブログでも<日本化>、<日本病>については複数回、投稿したことがある。実際、これらをキーワードにしてブログ内検索をかけると、『こんなことも書いていたか・・・』と思うような投稿が出て来て、むしろ(我ながら)新鮮に感じる。

先日の投稿では以下のようなことを述べていた:

要するに、日本国内で積極的なビジネス展開が出来ていない、これが根本的原因であって、まさに民間にこそ《低迷日本》の主因があるのだが、その主因を解決できないでいる日本政府にも大いに責任がある。

・・・日本が取り組むべき課題はもう分かりきっている。一流の外国人政策顧問を招いても、世界的に評価されている真っ当な日本人専門家に問いただしても、まず同じことを提案するはずである。ところがこんな提案をすると日本人の神経を逆なでする。政治家は国民におもねるばかりで、なお悪いことにそんな姿勢を「国民に寄り添う」と美化している。「日本病」の核心がここにあるのは間違いない。

「経済成長」というこの当たり前の目的を達成するには、当たり前のことを実行しなければならないのだが、(どうしたことか、小生には不思議でならないのだが)日本人自らがこの「経済成長」という目標に心理的抵抗感を感じているように見えるのだ。社会心理的な不調のようでもある。

これは新種の国民的病ではないだろうか?

とも思われ、同僚とは「日本病」と言ったりしてきたのだが、まだ1970年代の「英国病(British Disease)」や2000年代前半のドイツが「欧州の病人(Sick man of Europe)」と呼ばれたようにはまだ世界で知られていないところを見ると、一見、日本はまだまだ底力があるように海外では思われているのかも知れない。

これに関連して、上の投稿では実はこんなことも書いていた。

民間企業も富裕階層もそうだが、余った金はただ余っているわけではない。資産は運用しているわけである。例えば、日本には一つもない利回り8パーセントで配当を払ってくれるアメリカの投資ファンド「エイリス・キャピタル(ARCC)」や同じたばこ企業でも日本のJTより高配当が期待できる"British American Tobacco(BTI)"で運用したりする人は多いだろう。

この投資行動は、小生自身にも当てはまっているわけなのだが、実は該投稿の数日後、口座をもっている証券会社から通知があり、上にいう「エイリス・キャピタル(ARCC)」や「ハーキュリーズ・キャピタル(HTGC)」など高利回り米株銘柄の新規売買(新規買付、既保有分の売却は可)を《諸般の事情》によって受付を停止する、と。この「諸般の事情」が何なのか(小生には)明らかではないが(15日加筆:どうやらこれが理由か)、日本国内からアメリカへ投資資金が流出して、外国企業の発展ばかりを支援しているという状況を財務省・金融庁、経済産業省など政策当局が苦々しく思っており、何らかの圧力が民間証券会社にかけられたのではないだろうかと、小生は邪推しているところだ。

問題の本質は、アメリカでは可能な高利回り投資商品が日本では成立しない点にこそある。その理由は、日本国内の資本ストックの収益力が低下していることにある。それは何故かというと新規事業投資が減っているからだ。新規事業投資の収益率が低下してもいるし、ハイリスク・ハイリターンの投資機会に挑戦する企業家の数も減っている。事業投資がこうである以上、日本国内で金融投資をするとしても、高い利回りは提供できない理屈だ。実際、2008年の「リーマン危機」以降、日本の民間企業部門が保有する資本ストックはほぼ停滞して増えていない。資本ストックが増えないのにアウトプットを増やそうとするから、現場は労働集約的になる。日本お得意の《お・も・て・な・し》や《丁寧に》というモットーは、非効率な現場に寄り添うための美辞麗句で、文字通り「ものも言いよう」の一例である。「言葉」ではなく、「実態」を黙って観察し、考えることがいま最も重要だ。いや、結論じみたことを書いてしまった。余計であった。まだ話は終わっていない・・・

「日本病」から来る特徴的な症状は「過少投資(=過剰貯蓄)」だが、しかし、日本の《過少投資》は期待収益率の高い投資機会が日本国内にはなくなってしまったからではない。ビジネスチャンスの宝庫である分野がほぼ全て政府の規制対象になっている。これがほとんど唯一の理由である。いや、単に「政府の規制」とばかりは言えない。日本人自らが「規制」を当然と考えている傾向がある。

「それは出来ない」と、日本社会がそう考えるからこそ、ビジネスが十分に育たないのである。

考えてもみるがいい。医療、介護産業とロボット産業がコラボすれば新規医療技術、介護支援技術のイノベーションが進行するに違いない。しかし、これは「機会」にすぎず、「チャンス」でしかない。実際には、医療分野は「医療産業」としては認識されていない、というのが現実の日本社会ではないだろうか。それどころか、大衆にとって「医は仁術」であるべきで、利益を求めるビジネスとしての医療は決して望ましくはない。こんな価値観が日本では優勢ではないか、と小生は思っているのだ。教育もまた「学校制度」において教育活動は行われるべきで、教職に就く人物は厳しい審査を通る必要がある。こんな理念が支配的である。小生は自分の経験に基づいてこの理念には同感しないが、日本全体の教育活動は主たる部分が「学校制度」の上で展開されている。こうした理念が、日本国内の既存の病院、医師、看護師、医療技師等々の医療専門家、介護従事者、あるいは学校教職員という非市場型従業員を「競争」から守っているのである。農業もそうである。通信、放送、報道もそうであろう。運輸、道路交通、移動もそうかもしれない。

一旦、新規参入した企業はすべて「成長」、「拡大」、「競争」を目指すものだし、目指すべきでもある。スタートアップ企業であれ、上場企業であれ、企業の論理は競争に敗れれば消滅するということだ。競合相手から顧客を奪取しようとする。奪取される不安を感じた側は、生き残りを目指して戦略を練るであろう。医療、介護や教育、農業経営などという分野で、このような自由な企業活動を認めるのに、日本人は警戒感や嫌悪感を感ずるのではないだろうか。既存事業者が主に中小規模の個人事業主であれば猶更のことだ。

日本は決していまビジネスに優しい、暖かい国ではない。日本の都道府県にも、企業誘致に積極的なところ、企業誘致には消極的なところがある。同じ理屈である。トヨタやキャノン、ユニクロやファナックなど最先端の優良企業が日本にも何社かあるという問題ではない。日本社会全体の傾向が日本の現状を形成している。

今朝もこんな話をした・・・

カミさん: もうエイリス、買えないんだネエ・・・がっくり。

小生: 何か月かしたら、またコッソリ買えるように受付するかもしれないよ。だって、証券会社は売買が増えれば儲かるんだから。

カミさん: 日本には代わりに買えるようなのはないの?

小生: 利回り7%とか、8%は日本にはないね。JT辺りが利回りではベストなんじゃないかなあ・・・

カミさん:でも、それにしては株価は冴えないよね。

小生: タバコ企業というなら、JTよりイギリスのブリティッシュ・アメリカン(BTI)のほうがずっと利回りも高いからJTも海外から見ると対日投資の対象からは外れるんだよ。将来、株価が上がって売買益が期待できるわけでもないからね。

カミさん: そっかあ・・・(落胆)

小生: まあ、日本はサ、医療でも、介護でも、農業でも、教育でもそうなんだけどサ、やりたいアイデアを事業にしようとすると、政府が

それは許可できません。

そんな規制があって、自由にできないんだよ。だから海外で儲ける。どうしてもこんな理屈になるんだよ。日本国内の大企業や海外企業が同じことを始めて、お客さんを奪われたら困るのは、これまでの業者だろ?規模の小さい既存事業者だからネ、効率化も出来ないし、そのための資金力もない。そんな人たちは自民党の支持基盤なんだ、な。どうしようもないんだヨ。「困る人がいるから仕方がない」って理屈は、政治家にとっては決定的なんだよ。

明治維新を実現した推進力は下級武士層と民間の豪商、豪農であったことはよく指摘されている。旧来の支配階層は(言うまでもなく)大名、上級武士層であったのだが、彼らの事業(=領地の一円支配)は既に行き詰まっていた。事業を通した所得生成力は衰退し、キャッシュフローが悪化し、債務は膨れ上がるばかりの状況になっていた。明治維新の背景は旧体制の経済的行き詰まりである。幕末の時点で封建領地経営への意欲は支配階層の中から消失していた。だから「無血革命」が成功したのである。

いま、戦後日本を支えてきた産業基盤、というか企業群の多くは日本国内で利益機会を失いつつある。実際、こんなデータがある。偽装か事実かは議論があるにせよ、現状は既に周知のことである。

国税庁が2021年3月26日に公表した「国税庁統計法人税表」(2019年度)によると、赤字法人(欠損法人)は181万2,332社だった。 全国の普通法人276万7,336社のうち、赤字法人率は65.4%(前年度66.1%)で、前年度から0.7ポイント改善した。

Source:東京商工リサーチ

赤字か黒字かは毎年ベースのフローである。余剰資金はストックだ。赤字でカネをなくすよりは余剰資金を海外で運用する方が合理的だ — 潜在的ビジネスチャンスに投資できないのであれば海外に逃げるしか選択肢がない。グローバル化への対応と言えば聞こえはいいが、海外への逃避は幕末の大名・上級武士層もやりたかったことに違いない。しかし、領地を海外に移動させることは出来ない相談であった。鎖国下の支配階層は明治維新を迎え、版籍奉還と廃藩置県を経て、ただ表舞台から去った。日本の封建時代はほとんど血を流すことなく終焉した。戦後日本を支え発展してきた全国の企業群はいま海外に経営資源を逃避させることができる。その分だけマシである。しかし、日本国内の雇用者の視点に立てば、国内で事業拡大への意欲やプランをもたない企業は生産主体としては寿命が尽きていると感じるだろう。

つまり戦後日本の成長を支えた企業群は「会社」という形を保持したまま《既得権益層》になりつつある — 会社の継続を重視するのは従業員の雇用と生活を思うが故でもあり非難する人は日本では少ない。既得権益で生活をする階層は、フランス流にいえば《ランティエ(rentier)》になるが、つまりは《金利・配当生活者》である。この種の人々は、平和を望み、変化を嫌い、国内では現状維持、国際的には自由な資本市場を要求するものだ。そして低リスクで安定的な資産運用を心掛ける。従って、既得権益層が経済資源の高い割合を占有すれば、その国の経済成長が停滞するのは当たり前の理屈である。

ケインズが生きたころの英国では金利生活者が個人の集合体として「階級」を構成していたが、現代の日本では「階級」というより、事業法人である「会社」がマネー運用で生き延びよう ― 従業員のためだと言えば非難する人も減るだろうが ― としている所が情景としては異なるが、経済の病人という点ではよく似ているわけだ。英国の停滞から脱するためケインズが企業家に対して何よりも求めた資質が"Animal Spirit"であった。しかし、今の日本にはケインズのような人物は登場しないだろうし、登場してもTVのワイドショーで叩かれるだけであろう。これもまた「日本病」の一つの症状だと思っている。

「日本病」に罹っている日本社会は、今のところ、落ちぶれつつあるとはいえ「富裕国」であるから、カネをグローバル市場で回せば、恥ずかしくない程度の生活は出来ている。これが国丸ごとの「ランティエ生活」である。この先、10年、15年程度は続けられるかもしれない。しかし、それも「当面は」である。日本は「資源小国」である。「貿易立国」以外に豊かな社会を維持できる道はない。日本の産業衰退が一層進めばいずれは世界で売れる商品がなくなる。稼ぎが低下し、貿易収支の赤字が所得収支(≒海外からの資産運用収益)の黒字を超える。経常収支が赤字化し資金不足に陥る。それでも日本に投資する海外企業があれば経済と生活は守られる。しかし、日本に投資する(=日本国債を含む)出資元を確保するには日本社会に期待がなければならない。ビジネスに優しくあらねばならない。しかし、それが出来るなら、もうやっているはずだ。いまやれないのは日本人の神経を逆なでするからだ。外国の出資元が現れなければ、海外に投資している対外資産を売却して日本人の生活費に充てなければならない(つまり資本課税が断行される)。この段階で、日本は「アジアのイギリス」になる。1960年代、70年代、サッチャー改革以前のイギリスである。悪ければ「アジアのギリシア」となる。いずれにしても、年金改革、社会保険改革、許認可行政の全面見直し、農地改革、医療改革、教育改革などが一気に進む理屈だ。つまり究極の「ハード・ランディング」である。こうして日本は海外で運用しているカネも使い「貧乏国」への道を歩む。この間に大規模な自然災害、意図せざる戦闘行為に巻き込まれるなど突発的事変があれば、臨時支出もかさみ「富の喪失」が早期のタイミングでやってくるだろう。いや、いや、結構悲惨な社会状況になる可能性がある・・・

【注】「既得権益」と「財産権」はほぼ区別不可能であるほどの近縁の下にある。既得権益が悪だとする価値判断をとるなら、同じ価値尺度を適用して、現行憲法で財産権を保護している29条自体が悪であると主張しなければならなくなるだろう。即ち、財産権よりも公益を優先する全体主義・社会主義となる理屈だ。こういう主旨ではないことに留意。「悪」ではなく、「うまく行っていない」ということだ。が、この点は機会を改めて投稿したい。

「日本病」を治そうとしても、政治的な閉塞や「そんなことをするなら治さなくてもイイ」という日本人の側のネガティブな反応によって、治すにも治せない。そんな予想が、上に引用した投稿の主旨であった。


 

2021年12月10日金曜日

「マクロ倫理学」も「国際倫理学」も学問としては存在しない

数日前の投稿でも話題にしたが、「五輪ボイコット」。政権内部でも

中国、たたくべし

あからさまには言わないが、要するに上のような主旨の主張が相次いでいるようだ。親英米派の影響力が強いということ自体は日本にとっては安心材料なのだが、問題はその思考回路なのだ、な。

「人権」、「民主主義」を中国が踏みにじっている。『だから、いかん』というのが、ボイコット論者の見解である。

小生は強度のへそ曲がりだから、どうしても立ち止まって、考え込んでしまう。

民主主義は善くて、民主主義でなければ悪い、というのは何か倫理基準があるんでござんすか?

人権、人権と言うが、この30年余りで中国の生活水準は大きく上昇した。豊かな社会の実現というのは、何より当の中国国民が喜んでいるのではないか?

人権が真の意味で侵害されているなら、目に見える形で反政府感情の高まりが広く社会全域で観察されているはずでは?

色々な問いかけが浮かんでくる。問いただしたところで、満足の行く答えは返っては来ないだろうが。 

一人の人間の生きざまについては、ずっと昔から人間が備えるべき徳目が学問として確立していた。というより、科学が発展するまでは、倫理、道徳が修養するべき主な学問ですらあった。

例えば、中国発祥の

仁義礼智信

これなどは、今でも通用する人間がもつべき徳目である。小生の好きな言葉の一つは

惻隠の情は、仁のはじめなり

この孟子の言である(以前にも投稿したことがある)。

この儒教的倫理は民主主義国・中国で発展したモラルではない。それでも、中国はアジア周辺地域全体に向かって文明の規範として魅力を発散し続けたのである。日本も中国文化を手本とした一時期がある。

こう書くと思い出すのは、小生が中学生であった時の歴史の教科書である。日本初の法体系である「大宝律令」は西暦701年に唐の法制を手本として制定されたものである。この律令の基本理念は「公地公民」にあり、経済面では「班田収授の法」を柱としていた。「土地国有制」という点は現代中国に相通じるところもある。大宝律令が規定するこの法制はいまの尺度で判断すれば<共産主義>そのものであるが、実際には私営開墾活動の成果である新耕地を私有財産として容認する「三世一身の法」(723年)、「墾田永年私財の法」(743年)が公布され、日本社会は共産主義的な律令社会から現実的な「私有財産社会」、つまり「荘園制」へと移って行き、それで安定したわけである。ところが、授業の場では荘園の発展が律令社会の堕落、古い豪族社会の復活のような負のイメージの下で説明されていたことを覚えている。

しかし、いま改めて振り返ると、授業には価値判断が混じっていたと感じる。一言で言えば「尊皇史観」という歴史観、つまり価値観である。この立場に立てば、たしかに律令国家の変容は社会の堕落、崩壊である。他方、当時の授業のようではなく、律令社会から荘園社会への変容は、むしろ個々人の努力を国家も認める民主主義的な社会への進歩であった。そう観ておくのが正当だ、と。こんな見方もありうるわけだ。

そして、このように考えたからと言って、日本社会は奈良時代から平安時代にかけて、より民主主義的な善い社会へ進むことができたのだ、と。こう言うとすれば、これまた客観性に欠ける議論である。

言いたいことは、

価値判断がいかに不毛の議論であるか 

ということだ。 

社会の在り方、国の在り方に、善い・悪いというモラル的価値尺度を当てはめて価値判断を行うのは、学問的には無理筋である。

実際、王朝時代の中国において、酷い政治、酷い社会状況がもたらされれば、それは社会が悪いのではなく、統治の責任者である皇帝その人個人の不徳に原因があると考えられたわけであって、やはり倫理的判断を下したいのであれば、その対象は国や社会ではなく、個人に限るべきである。それが本筋だろうと思うのだ、な。マ、統治責任者個人に政治の結果責任を問うのは、これはこれで極端だと思っているのだが、「徳目」に基づいて政治を語るならこう議論せざるをえない理屈になる。

つまり、対象を国や社会とした、「マクロ倫理学」やまして「国際倫理学」という学問分野は存在しないし、存在するべきでもない、というのが小生の立場だ。 

従って

非・民主主義国である中国、たたくべし

という主張は、その辺の活動家のアジ演説と同程度のレベルということになる。



 

 

2021年12月8日水曜日

コロナ治療の「正常化」で日本は元気を取り戻すだろう

戦争が終われば戦後の最優先課題は<Return to Normalcy(=正常化)>である。コロナ対策でも同じことが言える。いつまでもダラダラと不必要な危機感を持ち続けて萎縮するのは理にかなわず愚かである。鎖国をしているなら鎖国の分だけ損をすればよいが、多くの国がグローバルに関連しあっている中で人的交流を絶ち続ければ、海外が変化に適応する中で日本だけが遅れるという意味で、二重の損失を被る。

北海道でもメッキリとコロナ新規感染者が減少し、もはや実際に街中を歩いている時に、ウイルス放出者と遭遇する確率は限りなくゼロになった。

というより、小生はもうコロナ・ウイルスが怖いとは感じない ― もし、ワクチン2回接種済みでなお感染が怖いなら、何のためのワクチンであったのかという理屈だ。この心理は大多数の人とほぼ共有できるのだと思っている。

ただ、怖くないとはいえ、実際に新規陽性になるのは「面倒で、厄介だネエ」とは思う。というのは、インフルエンザとは異なり、いきつけのクリニックで簡便に診察をしてもらい、余病を併発する恐れがある場合は抗生物質も出してもらうなど、普段のインフルエンザと同じ便利さがコロナ・ウイルスに関してはないからである ― ちなみに、小生はいわゆる「タミフル世代」には属しない。インフルエンザがまだ「流感(=流行性感冒)」と呼ばれていた時代で幼少期を過ごした。

小生が暮らす港町でも、発熱がある場合は保健所に連絡し、PCR検査をワザワザ受けに行き、そこで陽性になれば、多分、大規模な市立病院に入院させられるか、でなければ指定施設で療養を指示される(だろう)。もしカミさんが陽性なら二人で療養したいところだが、そうでなければ離れざるを得ない(だろう)。

こんな予想があれば、感染は怖くないとはいえ、できれば避けたいと思うのが人情だ。コロナ・ウイルスの現状から判断して、ワクチン接種済みであるのに<暮らしにくい>という心理があるのは、まことに道理に合わない。

・・・(本ブログを読む人は世間で多くはないはずだが)こんなことを書くと『ワクチンは自分の為だけに打つわけではなく、他人に感染させないという社会的目的に貢献するために打つのです』と言われそうだが、もしそうお考えなら「ワクチン接種義務化」を提案するべきだ。これはこれまでにも何度か投稿した(たとえばこれ)。

もうコロナ・ウイルスは、それ自体としては、怖くない。そう感じるのが真相と合致するなら

コロナ治療はインフルエンザなみ

そういう方向で早期に治療体制を簡便化することが社会全体が元気を取り戻す早道であろう。

反対に、もしコロナ・ウイルスが初期と変わらず、実に恐れるべき病原であるなら、いかに危険であるかを当局は客観的に示して理解を得るべきだろう。そして、その場合は、コロナ・ウイルスを専門とする病院を臨時に新規開設して、その他一般診療の水準を維持することが課題となる。

大多数の人は、たとえコロナに感染しても街中のクリニックで診断可能、かつ治療可能と見込まれ、それでも発生が予測される一部の重症化患者は大規模病院に転院すればよい。その方が大規模病院にとっても負担が軽減されるだろう。

ずっと合理的ではないか。

コロナ・ウイルスを<特殊なウイルス>と認識し続け、そうかと言って「コロナ専門病院」を臨時的に開設する努力をせず、既存の大規模病院で一般診療を抑えつつ、その片手間でコロナに対処するのはもう限界だろうと思う。

もし《日本モデル》という言葉を使いたいなら、国威発揚のための「宣伝」ではなく、便利な暮らしに結び付く内実をこめて発案していくべきだろう。


どうしてもこう考えてしまうのだが、違うのかネエ・・・。どこが間違っているか、教えてほしいものでござんす。


2021年12月7日火曜日

ホンノ一言: 五輪の「外交的ボイコット」とは策に窮したのか?

来年2月開催予定の北京冬季五輪を「外交的ボイコット」するとの発表を米政府が行った。多分、英、加、豪などの英語圏諸国は同調・追随するのだろう。ニュージーランドは「我が道を行く」的な傾向があるのでボイコットはしないかもしれない。南アフリカはどうするのだろう?インドは?スリランカは?

いま民放TV各局が関心を高めているのは

日本はどうするの?

という問いかけだろう。これを放送すると、視聴率がほぼ確実に高まるはずだ。新型コロナのオミクロン株が日本で感染拡大するまでは、つなぎの話題に最適だ。そんな展望をもっているに違いない。

とはいえ、

外交的ボイコットとは何なのか?

小生は、それが分からない。

中国に五輪を開催する資格がないと判断するなら、選手派遣の公費負担などは中止するか、あるいは派遣そのものを中止するなど、きちんとボイコットすればよいではないか。

五輪を外交的にボイコットしても、五輪以外の場では外交関係を続けるという意志表示が即ち「五輪の外交的ボイコット」なのであれば、あえてそう宣言することに何か意味はあるのだろうか。五輪開催期間中に限って外交交渉は一時中断します、五輪が終わるまで暫時休憩、そういう主旨なのだろうか。正直そんな疑問を感じます。ところが・・・

日本社会の巷では

日本も外交的ボイコット、やるべし

の大合唱が一部で起きているようだ。

まあ、欧州のフランス、ドイツ辺りまで外交的ボイコット宣言に踏み切り始めると、一つの潮流になってくるのだろう。冬季オリンピックへの出場選手となればヨーロッパから参加する選手団は無視できない。そのヨーロッパの各国政府が外交的ボイコットを宣言すると・・・中国は落胆するかもしれない。それが世界にとって善いこととも思えないが・・・。特にフランスは近代オリンピック運動発祥の地である。ボイコットは創業の理念を否定する自殺行為だと観られるだろう。

まあ、あれなんだろうなあ・・・と思う。

黒船来航以降の「尊皇攘夷」、明治20年代の「朝鮮、討つべし」、「清国、討つべし」、「ロシア、討つべし」、昭和10年代の「米英、討つべし」。この流れの末にいまの『中国、たたくべし』の大合唱があるのは(小生の感覚では)分かりきった話だ。

この

△△、討つべし

というのは、半ば周期的に発生するかのような大地震に似て、日本社会の社会現象として、時に発生してしまうのだ。大合唱が「世論」であるかのように世を覆うが、しかし、実は内実は何も含まれていない。『討つべし』と叫ぶ対象に対して、何か具体的な理由をもって怒りの感情を共有しているかといえば、実は怒りなどの感情はなく、世間で騒いでいるから、その流れに自分も乗るしかない、これがありのままの状況で、たとえて言うなら《祭り》、《祝祭》と類似した社会現象である(とも言える)。

となれば、制御不能になる前に、たとえば年末の「第9」や「クリスマス」は大いに盛り上げる。札幌の「雪まつり」を盛大に開催する(実際、開催の方向であるよし)。「雪明かりの道」にも大勢の人を集める(これも開催の方向であるよし)。神社、寺院の初詣も大いに盛り上げる。春に向かって大規模イベントを盛り上げていく。これだけで、国内の大衆心理に蔓延する不穏な心情は雲散霧消して、来年2月の冬季五輪を平静に迎えるに違いない、と。

いまこんな風に思っている。

まあ、予想であるが、韓国は外交的ボイコットには追随しないだろう。インドもボイコットはしないと小生は予想している。となれば、タイ、ベトナムなどASEANも五輪をボイコットはせず外交の場に活用するのではないか ― 冬季オリンピックにどの位の選手が参加するかは分からないが。そんな中で、日本だけはボイコットするだろうか?多分、選手団に随行する政府関係者のランクを下げてお茶を濁すのではないだろうか。「ボイコット」とは言わないだろうが、そう受け取りたいならそう受け取るだろうし、そうではないと思いたいなら、ボイコットではない。「オミクロンも心配だしネ」というところになるのではないか?そして、その位の対処で何も害はないし、要するに外見が大事なのだろう。

近代オリンピック運動は、たとえ戦争当事国であっても、五輪開催期間だけは大会に参加しようという平和運動として発祥したものである。その理念は理念として高い価値があると思っている。相手国の政治の在り方に不満があるので、五輪をボイコットするという外交戦術を実行し始めたのはアメリカのモスクワ五輪ボイコットからである ― ヒトラー政権下のベルリン五輪をボイコットするべきかどうかで、アメリカでは激論が展開されていたのだが、結果として参加している。

アメリカの《五輪ボイコット》と中国の《不買運動》と、この二つにはどこか相通じるものがあると感じるのだが、そう感じるのは小生だけだろうか?

2021年12月6日月曜日

断想: 天皇の継承と現行憲法との関係

ネットにこんな投稿があるのは最近の日本社会を「象徴」しているようだ。おそらく相当多数の人たちが賛同すると見込まれるからこそ、公表するのだろうと思われる。

話題は例によって(?)日本の《天皇制》についてである。とにかく、眞子内親王と小室圭氏の結婚と出国、それに今上天皇の長女である愛子内親王の成人と、皇室関係の話題に日本人は無関心でいられない所がある ― この性向は明らかに明治維新以後に人工的に形成された社会心理であり、江戸時代にはなかったはずである。

小生の目に入った投稿記事というのは(抜粋をさせて頂くと)以下のとおり:

男女で“格差”を設けることが許されるのか

そもそも、女系天皇とセットにならない女性天皇・女性宮家は、およそ常識外れな、かなりイビツなものになるのを避けられない。同じ「天皇」なのに、男性ならお子様に皇位継承資格が認められ、女性なら認められない。このような差別の客観的・合理的な根拠は何か。性別だけを理由として“一人前の天皇(お子様に継承資格あり)”と“半人前の天皇(お子様に継承資格なし)”とを峻別するというのは、現代において相当「野蛮」な制度と自覚すべきではあるまいか。「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」である天皇どうしの間に、男女で“格差”を設けること自体、不自然だろう。

URL: https://blogos.com/article/573018/?p=2

Original:PRESIDENT Online2021年12月05日 13:41 (配信日時 12月05日 11:15)

投稿記事を読めば明らかに分かるが筆者の意見の論拠は現行憲法の規定に置かれている。

本ブログでも何度も投稿(例えばこれ)しているように、伝統的な「天皇制」、というより「天皇の継承」については、民主主義と全国民の平等を基本とする日本国憲法と矛盾するところがある。だからこそ、というより、こうなることを心配して、明治維新から20年程が経過した後になって、近代国家の在り方を規定する憲法と前・飛鳥時代から続く天皇制の伝統とが矛盾しないように明治の憲法草案では国家における天皇の存在を明文で規定をし、天皇を(私的な人物ではなく)公的存在とした、と。そう考えるべきだろう。だから『天皇機関説』という学説も法的ロジックとして出てきたわけである。

であれば、太平洋戦争敗戦後の日本において、なお伝統的な天皇制を守って行こうという意志が日本人の間にあったのであれば、それが正しく「国体護持」という言葉で意味されていた意志であったのだが、憲法と天皇制とが矛盾しないように規定を設けておくべきであった。

そうしなかった背景として、敗戦直後の日本は連合軍の占領下にあり、政府、及び日本人に憲法の条文を文言として書きくだす意志の自由が与えられていなかった。

つまり

現行憲法を制定した《憲法制定権力》に日本国民がどの程度まで参加できていたのか?ここが不透明である。

この点で天皇(というより皇室?)と憲法の関係にはどうしても曖昧で不明瞭な問題が残ってくるわけで、ここに皇室に関する議論全ての核心があると小生は思っている。

つまり、日本国憲法を根拠として、天皇制の在り方を議論しても、その議論の仕方自体に賛成できないという保守層が厳然として(それも有力な塊として)日本には存在する。

ということは、天皇の継承問題を望ましい形で解決するには、まず明らかに日本国民の意志がそこに反映されたと判断できる状態で憲法を、その内容に違いはあれ日本人自らの意志として、改正するという作業が先にあるべきだ、と。こんなロジックになるのではないか。

そうでなく、制定の過程に不透明性が残る現行憲法を論拠として、伝統的な天皇制に修正を加えるという試みは、ほぼ確実に成功しない、というより文字通り《日本国民の統合》に傷を残す。そればかりでなく、そうして即位する天皇その人に対するリスペクトもまた大いに毀損されるという結果を招く。そんな状況が予想される。 

いま日本に必要なのは、「令和の伊藤博文」であるに違いない。

2021年12月3日金曜日

ホンノ一言: アメリカのオミクロン対応について思う

コロナ・ウイルスの新変異種"omicron"にどう対応するかで、アメリカのバイデン政権は

経済・教育活動は今のままオープンを継続

という方向を選択したようだ。The New York Timesには

White House officials, and the president himself, have said the plan is aimed at keeping the economy and schools open. Yet it remains unclear how the strategy, and the administration’s new policies, will affect an economic recovery that faces new waves of uncertainty from Omicron.

と書かれている。

具体的方策としては《国内および国内外旅行者に対する検査拡大》、加えて《ブースター接種》を柱にするようだ。

 WASHINGTON — President Biden, confronting a worrisome new coronavirus variant and a potential winter surge, laid out a pandemic strategy on Thursday that includes hundreds of vaccination sites, boosters for all adults, new testing requirements for international travelers and free at-home tests.

バイデン大統領はこれまでワクチン接種に最大の力点を置いてきたが、それでもなお共和党支持色の強い"Red States"やいわゆる「田舎」で接種率が中々上がらず、全国の接種率は頭打ちになっていた。そこでワクチン接種から検査拡大に向けて作戦正面を転換した、ということなのだろう。紙面では

 After nearly a year of pushing vaccination as the way out of the pandemic, Mr. Biden has been unable to overcome resistance to the shots in red states and rural areas. His new strategy shifts away from a near-singular focus on vaccination and places a fresh emphasis on testing — a tacit acknowledgment by the White House that vaccination is not enough to end the worst public health crisis in a century.

と説明されている。 

もちろん旅行制限は厳格化されている。ただ上の記事に基づく限り、アフリカ8か国を対象としているようだ。

Mr. Biden’s remarks at the National Institutes of Health were the second time this week that he had addressed the nation on the pandemic; on Monday he spoke about new travel restrictions he imposed last week on eight African nations.

 Source: The New York Times,  Dec. 2, 2021 Updated 9:13 p.m. ET

URL:https://www.nytimes.com/2021/12/02/us/politics/biden-omicron-covid-testing.html

これからどのように適宜修正が加わって行くは不確定だが、《オミクロン対応の基本原則》を明示している所は、政策説明がロジカルである。

もちろん説明をロジカルにするのは一長一短である。論理には《前提》がある以上、その前提が当てはまらない場合にはどうするか、という質問がありえる。そして、そもそもパンデミックの進行は不確実性が伴うから、意思決定の前提が崩れる時のことを質問されると、いずれかの段階でそれ以上の説明は困難になる理屈だ。そこで《不安》が生じる。

例えば、「検査拡大というが、水際防止を検査だけで達成できる確率は?」という質問に回答するのは難しいだろう。あるいは、「検査で水際防止を行うより入国禁止のほうが効果的ではないか?」といった部分最適的な質問とか、「もしも教育の現場で感染者が急増する場合にもオープンのまま継続するのか?」という将来の<IF>を問うものとか、多数の疑問がありうるわけだ。

つまり、不安はロジックでは解消できないのである。

その解消できない不安を解消してほしいと願って

不確実性があることをもって今の不安を正当化する

こんなタイプの、いわば「議論を袋小路に陥らせるような質問」が、政策の受け手側の心に浮かんだときに、その質問をあえて控えるべきかどうかは、これは国民性に応じて変わって来るものであろう。いずれにせよ政策は目的を決め、何かの前提をおき、議論をして、結論を出すことによって決まるものだ。不確実性は直面している現実によっている。故に、不安をゼロには決してできないのである。

火事の現場に到着した消防士が、

放火である確率がゼロでない以上、証拠保全には十分留意するように

などと真っ先に注意するような隊長がいるとすれば、「熟慮」というより単に「のろま」である誹りを免れない。確率的には多くの可能性があるのだが、意志決定と行動はその中の一つを選ぶことである。リスクが消えた段階で行動に出ようと熟慮してもそんな時はやっては来ない。生きていることそのものがリスクである。

現実そのものに含まれる不確実性は、たとえ熟慮しても減らすことは出来ない。

つまり、日本社会で起こっているあらゆる現象は、同根であると思って観ている。 ただ、日本人がなぜこれほどリスクを嫌うようになったかというその根本原因は(小生には)分からないし、日本人の全体がリスクを嫌うようになっているのかと聞かれれば、全体がそうなっているわけではないという気もする。そもそも社会全体のリアリティなぞ、分かっている人がどこにいるか、であろう。我々に出来るのは、一部のサンプルを強調するか、全体を概観して印象を抱くか、のどちらかだ。そもそも『政治家と国民とのコミュニケーションって、一体、何を誰にどうせよと求めているのだろう?』と、この疑問がずっと解けないでいるのだ。

ま、いずれにせよ、

リスクだけを語るなら

リスクは小さいほど良いに決まっている。

成長を語るなら

成長率は高い方が良いに決まっている。

平等・不平等を語るなら

不平等よりは平等のほうがイイよね 

コロナ感染に話が及べば

感染者数は少ない方がイイし、重症者、死亡者も少ない方がイイに決まっている。

マスコミは誰にも分かる話しをする。難しい話はしない。しかし、最適な政策というのは、複数の目的を同時に最大化はできないからこそ《最適》というのだ。そして、人は色々である以上、選ばれた政策が<最適>だと考えない日本人の方が常に多いものだ。

確かに「コミュニケーション」が重要なのだろう。しかし、行政府が、政策上の意思決定について国民に説明するとき、どのような意識で、どのような構成でどんな風に話して説明するかは、聴く側の国民の感性に応じて、やはり変わるものである、と。上のNYT記事からそんなことを考えた。


2021年12月2日木曜日

ホンノ一言: 内政は苦手であるように思えた元首相だが・・・

 ネット記事に安倍元首相の外交感覚が次のように伝えられていた:

自民党の安倍晋三元首相は29日、東京都内のホテルで開かれた日本維新の会の鈴木宗男参院議員の会合で講演した。

 最近の中国とロシアの連携ぶりに警戒感を表明。日本の対中政策の観点からも「戦略的にロシアとの関係を改善していくことが死活的に重要だ」との認識を示した。

Source: Yahoo! ニュース、 11/29(月) 20:56配信

Original: JIJI.COM

対中外交で戦略的優位を築くために対露外交を活用するのは本筋である。

ヤッパリ、安倍首相って、つくづく内政が不得手で、外交が好きなんだネエ、と。

更に言えば、対中外交に駆使できるカードは、米国、ロシアに加えて、北朝鮮であることは間違いない。

北朝鮮との間には「拉致問題」という懸案があるわけで、この問題でもし日本がソフトコミットメントに打って出れば、期待できる利得は極めて大きいはずだ。と同時に、対韓外交、対中外交にもプラスの間接的効果がある。

西ドイツのブラント首相が進めた"Ostpolitik(東方外交)"を見習って日本でも<北方外交>を展開することにすれば、英国の思惑いかんではアメリカの賛同を得るのも、可能じゃないかとも思われる。ひょっとすると、アメリカにとっても対中優位を得るうえで「渡りに船」かもしれない ― まあ、もしこうなるとすれば、第二次大戦の末期、「背に腹はかえられない」とばかりに対日参戦をソ連に要請したアメリカの思いに似てくるのではあるが、一度あったことは、二度あってもおかしくはないだろう。

ただ対露外交の新展開とはいえ、アメリカの意向を確認せずに北方領土で日本が譲歩するのは、まず不可能である ― それに日本国内の世論も譲歩は許さないと予想される。なので、対露外交を前に進めたいと考えても、よほどの知恵が必要であり、この点では陸奥宗光クラスの天才的外交戦略家がいればの話しになるのかもしれない。

北の港町にいてもこんなことを思いつく。東京の政府ではとっくの昔にこれ位は分かっているはずだ — 「ダメ、ダメ!」とその場で却下されているのかもしれないが。

岸田総理は外相の経験が長いが、国際外交観のスケールはやはり安倍元総理の方がずっと上らしく(小生には)思われる。

2021年12月1日水曜日

ホンノ一言: オミクロン型と岸田政権による一律入国禁止措置について

南アフリカで確認されたコロナ変異種「オミクロン」だが、岸田首相が世界に先駆けて、全世界を対象に外国人の入国を全面的に停止する。1か月間を目途とする、と。こんな決定をテキパキと公表したところ、世間では非常に評判が良い — というより、評判が良いとマスコミ各社が一致して報道している・・・のが今日の状況である。

しかし、マスコミがそろって評価するような政策など、そんな政策は本当に良い政策なのだろうか?そんな報道はホントに良い報道なのだろうか?

もちろん逆のケースもあるわけで、マスコミがそろって非難する政策は本当に悪い政策なのだろうか、そんな問いかけもある。

***

これまではユルユル(?)かつズブズブ(?)のコロナ対応を続けてきた日本が、突如としてイスラエル並みの強硬策を採ったというので、英国BBCでも米国The New York Timesでも、一寸大きめの報道をしていたから、今回の日本の措置は海外に(ここ近年の日本にしては珍しい)一種のハレーションをひき起こしたことは確かなところだ。

小生も<今回だけに限定すれば>的確な措置の範囲内ではないかと思う。最初に締めて、状況に応じて徐ろに緩和するというのは、緊急対応の鉄則だろうとは思う。しかし、WHOは一律の渡航禁止には反対するとの声明を出した。英国や米国は全面入国禁止には踏み切っていない。韓国もそうである。

思うのだが、2020年初め以来、日本が採ってきたコロナ対応策は世界の中でも不徹底な点が多く。特に、PCR検査拡大には一貫して消極的であった。安倍元首相は「日本モデル」と称していたが、事後的に振り返ると単に「怠慢」ではないかと判定されても仕方がない側面もあったと、小生は感じている。

コロナ・ウイルスに対して世界でも突出してユルヤカな政策姿勢をとり続けてきた日本が、今度は世界でも突出して厳しい姿勢をとった。

ゆるいか、厳しいかという前に、この「突出」という点が共通している。ここに、日本社会というか、日本政府というか、何だか日本的であることの本質的な核心がうかがえるような気がするのだ、な。

***

要するに、

日頃の《相談相手》が日本にはいないのではないか

と、そんな風に憶測されたりするわけだ。

独りで悩んでいる控えめな人物が、前触れもなく、相談することもなく、過激な行動に走って世間をビックリさせる。いま現代社会でこの種の事件がいかに多いか。国際外交社会でもこんなロジックは、やはり当てはまっていると思う。 

パンデミックにいかに対応するかという問題は、これ自体が国境をまたいだグローバルな性格の問題であって、一国だけで「こうするのが正解だ」という結論は出せないはずである。一国にとっての最適戦略は大なり小なり関係国がとる(と予想される)戦略に応じて変わるものである。その結果として、連立方程式の解が定まるように、多国間の均衡戦略が決まってくると観なければならない。故に、今回の「オミクロン型」のような新変異種が確認され、いずれ自国にも侵入してくる事態が予想される時には、まずは近隣諸国、もしくは情報を共有している国と「そちらはどうするつもりか?」と(水面下で)確認をとりながら、また意見を交換しながら、行動方針を決めていく、というのが定石であるはずで、この辺の事情は我々の日常的なご近所付き合いとまったく同じロジックがあてはまりもするわけだ。そして、近隣諸国、利益を共有する諸国とヤリトリする中で、同じ問題に対して、多くの国が大勢として概ね似たような政策方針で対処するようになる。これが国境をまたいだ問題にいかに対処するかという時の基本的なロジックであろう。

世界の中で突出した政策を採ることが多い。しかも、左右のブレが甚だしい。

こうなる原因は(ひょっとして)日本だけで独善的に政策決定しているということではないか。そればかりではなく、その突出ぶりを自画自賛する傾向もある・・・。小生は、こんな傾向は極めて危ないとしか感じられない。

というのは、意見を交換し、政策を相互調整しようという国が日本の周りにはいないということの裏返しではないかと小生には思われる。とすれば、日本政府は「日本国内の評判が最も良いと思われる政策を実行しよう」と、ただひたすら、こんな政治的動機に沿って意思決定をするはずで、これが正に今回の事例に当たるのではないかな、と。

やっぱり、ずいぶん底が浅くなってるネエ

正直なところ、これが感想だ。

一部の人間集団だけが表舞台で頑張る(頑張らざるを得ない?)という近年の日本の何か「底浅い」社会状況をどこか象徴しているではないか。真の「国力」というのは、国民全体の活動が集計されるという次元で表れるものだ。実際、(一つの側面だけを測定しているに過ぎないが)GDPも集計値として定義されている。それがいま一つ伸びないのも、どこか通底しているのかもしれない。

***

日本国内にも今回の「一律入国禁止」には反対する意見を述べている人もいる模様だ。当然である。例えば、再入国が突如として禁止された外国人留学生の「人権」はいかにして保護されるのかという議論が、まったく見られないのは不思議である。こういう異論を可視化するというのが、本来はSNSの役割であり、マスメディアも複数の意見を紹介することが報道機関としては重要であるはずなのだが、いまの日本社会では — 世界も同様だろうが ― SNSもマスメディアも「正しい見方」、「正しい決定」を確認するための場になってしまっている。口では「多様化」と唱えているが、それは人種、男女差別に対抗する際の呪文に過ぎず、実際には「正しい見識をもって正しく行動をせよ」の一点張りである。ここが現代社会の一番危ないところではないかと思っている。

メディアは「正しい見方」を伝える事とは無関係である理屈だ。もしも「地動説は間違っている」と主張する専門家が現れれば、

地動説に疑問を表明する専門家がいます

と報道するのが、良いにしろ悪いにしろ、マスコミというものなのだ。

地動説が正しいに決まっているから、そんな主張を流して、混乱させるべきではない

こう考える方が、実はマスメディアを社会的死に至らせる発想である。

信用できる、時には「面白い」と思われる発言、出来事も含めて、様々な情報を早く伝えることに果たすべき役割がある。マスメディアとは国民に奉仕する《伝令》である。国民に考えてもらうことが最終的な目的だ。「世論」の形成にメディアは中立的であるのが最善である。報道機関が自ら意見をもつとすれば、もはや「報道機関」とは言えない。「宣伝」でも「エンターテインメント」でもない本当の「報道」はますます少なくなってきたのが、21世紀という時代なのだろう。

2021年11月29日月曜日

ホンノ一言: 権威主義・中国に暮らす国民の意識は?

最近とみに権威主義・中国に対する反感が日本でも高まっている模様である ― 本当に日本で反中意識が高まっているのかどうか、自民党の政治家やマスメディアの論調、ネット上の運動家達の声とは厳密に区別する必要があるとは思っている。

確かに新疆ウイグル自治区でどんな統治が行われているのか、チベットではどうなのか、という問題は、具体的な証拠が十分ではないにしても、ある。ひょっとすると英米がイラク戦争を始める前の"Weapons for Mass Destruction"と似た主張であるかもしれないが、それでも香港で行われたデモ抑圧は世界がよく知るところになった。ただ、それでも(と再び接続するが)香港と近接した深圳や広東で同じ現象が全然と言ってもよい程に伝播していない。これもまた目を向けておくべき事実であるとは思っている。

「同じ現象が中国国内で拡大しないのは、IT技術を活用して北京政府が国民を監視しているからだ」と語る専門家も多いのだが、マア、要するに、北京政府に対する不満が中国国民の間で高まってはいないのかどうか、現時点の論点はこれしかないわけであって、地元の国民が大勢としてこれでも良い、概ね満足していると考えているのであれば、そんな統治の在り方を、外国が非難したり、まして気に入らないから打倒しようなどという企ては、極めて悪質で侵略的であって、これこそ19世紀の欧米がとっていた帝国主義とどこがどう違うのか、というそんな感覚もある。

その中国国民が北京政府に寄せる意識だが、下のデータが参考になるかもしれない。

Source: https://www.nber.org/system/files/working_papers/w23119/w23119.pdf

この表は『21世紀の資本』で高名になった、フランスの経済学者Thomas Pikettyも共著者の一人に入っているNBER Working Paper "GLOBAL INEQUALITY DYNAMICS: NEW FINDINGS FROM WID.WORLD"から引用している。

表をみると、

経済開放後の35年ほどの期間における中国国民の所得の推移を所得階層別の成長率でみると、確かにトップ10%層(現在の富裕層)は累計で10倍以上にまで所得を増やしている。その下の40%(中流階層)も8倍近く増えている。それに加えて、貧困層を含む半分以下の所得階層もまたこの間に所得は4倍程に増えている。1世代の間に所得が4倍に増えたのであれば、まず不満は高まらないはずだ。そして幸運に恵まれれば13倍にまでリッチになることも夢ではない、そんなロールモデルも出現した。日本にもかつてあった「高度成長時代」を35年間も続けてきた北京の中央政府に「打倒してやろう」と考える中国国民がいるだろうか、と。いないのが自然だろう、と。小生はこれがポイントだと思っている。

これに対して、アメリカでは同じ期間のTOP10成長率が累計で2倍ほどにとどまっている。注目するべきは半分以下のボトム50%層の所得がマイナスとなっている点であり、アメリカでは”Lower - Lower Middle"という所得階層が<相対的にも、絶対的にも>没落したわけである。アメリカの政治が不安定化している背景は正にここにあるわけで、同じ現象がいま日本でも進行しつつあるとすれば、日本の国内政治の基盤は経済的要因によって浸食されつつあると観るべきだろう。

この同じ期間にフランスは、すべての所得階層で安定した成長を実現している。日本のマスメディアや学界は、日頃はあまりフランスという民主主義国家の政策に注意を払っていないが、一体どんな統治をしているのか、日本人ももう少し海外事情に関心を高めた方が善いと思うし、フランスばかりではなく、広く海外への関心を呼び起こすようなそんな問題意識をマスコミもまた企画段階で持つべきであると、ますます感じているところだ。また、また最後は「ベキ論」になってしまったが、今日はホンノ一言ということで。


2021年11月25日木曜日

覚え書: SNSの場で誤った見解を「淘汰」するという件

いまさら「イノヴェーション」、「創造的破壊」と書いても、もう使い古された言葉になったせいか、 珍奇好みのTV局でも滅多に使われなくなった感がある ― というか、イノベーションならいいのだろうが、それを日本語に訳した「**破壊」という字面が、どうも日本人には受けない、と。そういうことじゃあないのかな、とは観ているのだ。ありのままの言葉の意味なのだが。

日本人という「国民」にとっての「最高善」とは、いまもって

和を以て、貴しとなす

聖徳太子が1400年以上も前に「憲法十七条」で唱えたこの一句ではないかと、小生は邪推しているのだ、な。Wikipediaには次のような第1条の解説がある:

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。

最近の日本の世相も、世論では「構造改革」などと声をあげているが、何だかんだ言っても、結局、ここに回帰している感がある。なので「競争」も「破壊」もホンネでは大嫌いである。今日の標題にある「淘汰」という二文字も嫌悪することハンパではないと(経験的に)感じている。

さて、

ずいぶん前の投稿でこんな事を書いたことがある:

・・・、個人による投稿は、明らかに犯罪行為を扇動するという反社会的意図に基づくものでない限り — これさえも民主化運動を支えるインフラにもなることを想えば慎重に判断するべきだが ― すべての投稿を原則自由にするのが本筋だ。間違った思想や見解は、SNSという場で淘汰していく。その淘汰のプロセスを視える化するというのもSNSという仕組みの一つの目的である ― 「淘汰」に手間取るならば、それが社会の現実を視える化したということでもあり、これまた直視するべき真実であろう。

ところが、こんな意見を公開の場に書くと、

何でも投稿してイイってことになると、軍国主義や徴兵令復活とか、そんなことを主張する人間が野放しになる。こんな投稿は禁止するべきだし、世間の目に触れればタタイテおかなければ、日本はどうなるか分かりませんヨ・・・ 炎上しても放っておけということですか?

こういう反応が十分想像されると思うのだ ― 少なくとも小生はそうなると面倒だナアと思う。

こんな論争は「論争」ではなく、所詮は「水掛け論」といえば水掛け論であるし、「堂々巡り」と言えば堂々巡りのレベルのヤリトリなのだが、近年の日本国内のメディア、ネットに現れる世情をみていると、日本人(と限ったわけでもないが)は「激論」、「論争」がホントに不得意で、普段は控えめであるのに、いざ自己の理念を主張し始めると「相互理解」などには一片の意も払わず、最後は手段を選ばず「一線を越えて」でも論敵を攻撃して勝とうとする、そんな「炎上状態」にたやすく移ってしまう例が余りに多い、ということだ。特に、日本のネット世界は同じYahoo!という場で日本とアメリカを比較しても、暴言や口撃が多数公開されていると感じているのだが、この辺り、何か共通の事実認識は形成されているのだろうか。

何か「独創的」な意見をネットで公表する人物が現れるとする。

そんな意見は多数の人々にとっては「想定外」で「非常識」の見方であるが故に、人々は驚き、その驚きの感情が世間では歓呼の嵐となるか、怒りと反発となって現れるか、それは誰にも分からないわけである。

それは何も単に「意見」にとどまらず、「新商品」、「新サービス」でも同じであって、つまり、イノベーションの成否は本来はランダムで予測不能、その中の成功例が記憶に残り、歴史になるわけで、残りはただ忘れられていくのが世の常ということだ。つまり、あるアイデアがあるとき、「反発する人が多数いるのではないか」と予想する場合には、様子を見たいという動機も生ずるので、頻繁に発生する炎上現象の背後には、巻き添えを嫌うリスク回避的な社会が形成される可能性が高い。これは「突出」をきらう保守的な世相がもたらす明らかな負の副作用である。

こんなことは、無数の人が指摘している事柄で、なにも「新奇性」はない。

しかし、「であれば」ということだが、「開き直り」かもしれないが、こうも思っているのだ、な。

「軍備拡張」、「徴兵令復活」・・・どんどんSNSの場で提案すればよい。「株式投資はリスクがあるという意味ではギャンブルだ」、「ギャンブルのどこが悪い」、その代わりに「配当・譲渡益に対する一律20%の分離課税は廃止」、「資産運用益に対する累進課税導入」・・・遠慮なく社会に発信すればよいと思う。というか、発信状況が実に貧弱である点にこそ、現代日本社会の最大の弱点が現れている。そう思うことが増えてきた。

先に提案した人物を非難するのは積極的であっても、先に提案することには慎重である。積極的であれば、提案にも批判にも積極的であり、消極的な人物は提案にも批判にも消極的である理屈だ。しかし、日本社会では提案をするときと、批判をするときとで、姿勢を変える傾向が増えている。その場、その場で態度を変えることが増えているのじゃあないか。これ即ち《機会主義》、《オポチュニスト》なのであって、よくいえば「賢い」、「戦略的」と言えるが、要するに「小賢しくて」、人物が小さいことの証拠である。気をつけなければいけない。剣呑、剣呑・・・

日本国も余りに「都会化」しすぎた、ついに「田舎」がなくなり、「都会的」であることの長所も短所も、ようやく目に見えるほどになった。こういうことじゃないかな、と思っている。


ついでに、

民放TV局のワイドショーが顰蹙をかっているのは、割り当てられた公共の電波を独占的に利用して、自らの意見・見解を一方的に放送しているからである。TV局はネットと一部融合しつつあるが、TV局は(許認可を得ているという意味では)「独占」が認められた営業体である点がネット参加者とは異型なのである。しかも、それを「企業」として展開している、という点で、実に不公平であり、戦後社会なら容認されたが現代日本社会では道理に合わないと意識される対象となりかかっている ― そう感じさせるような営業行動を自ら採っているところがあり、どこか”arrogant”である。

"Arrogant"かと思うと、どこかが"Servile"であって、なんだかよくは分からないが、一定の鋳型にはめられた発言をしている。特に、「報道番組」や「情報番組」をTV画面で視ていると、どこか自制をしている。こんな風に感じることが増えたが、ずっと以前はこうではなかった印象がある(この辺は何度か投稿済みである)。「報道」は「報道」、「解説」は「解説」、「娯楽」は「娯楽」と区分されていて、報道では事実、解説では意見、娯楽はフィクションと、制作目的の違いが明らかに意識されていた。

新聞も政治部記者が書く記事は「政治」欄に、経済は「経済」欄に、社会部ものは「三面」に編集されて掲載されている。TV番組も、「報道」、「解説」、「娯楽(エンターテインメント)」というカテゴリーを明示して、番組表を公表しておけばよいのではないだろうか。そのうえで、余計な「鋳型」などは蹴っ飛ばして主張するべき事は主張すればよい。それくらいは放送法に触れないだろう、と・・・

いや、いや・・・また、また余計なことを書き足してしまった。本日投稿の主旨は、標題のとおりだ。

2021年11月24日水曜日

断想: 相続税に関する矛盾の自覚

検索欄に《相続税》と入れてブログ内検索をかけると、意外に多くの投稿が網にかかってくる。これらを概観して分かるのは、小生がかなり強烈な「相続税100パーセント」論者であることだ ― 配偶者への遺贈分は100%と異なる例外措置があってもよいが。

例えば、昭和40年代後半に急拡大した日本の「社会保障」の結果として各世代の生涯収支に生じたアンバランスだが、恩恵を享受した旧世代が100%相続税でもって後世代からの借りを清算するのが道理であろうと、何度か書いていたりする。

さはさりながら、

相続税と直接の関連はないのだが

才ある息子は世に用いられるが故に遠く旅立ち

才なき息子は世に無用の人であるが故に親元にとどまり孝を為す

こんな文句を実感したりしているのも事実である。

実際、下の愚息夫婦は首都圏で充実した(?)職業生活を送っている。他方、上の愚息はもう10年ほども同一の職場ではあるが非正規就業者として、貧ではないもののギリギリの暮らしを続けている。人並みの教育投資は行ったので現状は概ね本人の選択だ。しかし、家計収支均等のためには宅に定期的に届く(例えば)株主優待券を譲ってやるなどが必要だ。100パーセントの相続税の下では、上の愚息は最終的に親の支援を失うことになる。

この予想が小生にとって悲しく感じるのは「情」のためである。自分で作った資産をどう処分するかは資産をつくった本人に権利があるはずだと考えたのは新自由主義者ハイエクであった。「兄弟で差が出ないように」と考える時、小生は相続税に関して新自由主義の立場に近くなる。

新自由主義は、政府権力の介入を嫌悪し、独立と自由を尊ぶ。これは必ずしも「強者の論理」と決めつけることもできない。社会主義は理想を追求するための強い公権力を受け入れる。公地公民はその究極的姿である。これまた「弱者の論理」であるとは限らないわけだ。故に、両者は対立している。

親の貧困が子の貧困を招く不平等は社会的不正義の最たるものの一つだ。この認識は道理だと思うし解決が必要だ。それはそうなのだが、何度も書いているように《社会》や《国家》は人間が設計した擬制的なものである。これに対して、血縁集団は生物的な単位として自然の中に実存する。擬制である「社会」を実存する「家族」より優先するのは文字通り不自然である。こう考える時、実は《情》によって考えている。

自分自身の相続に関する限りは新自由主義的な情により、他人の資産については道理に従って相続税100%を支持する。理から離れるのはバカの証拠だ。情を無視するのは人デナシだ。二つが混在するのは矛盾である。だとすると、世論がバカであったり、冷酷になったり、矛盾に満ちているのは当たり前である。


2021年11月22日月曜日

断想: 「老い」については誰も分かっていない、というのが真相だろう

「年齢による知識増大」というと経験主義ということになるか。が、言いたいことはそうではない。「知識」というと汎化可能情報のようでもあるが、そうではなくあくまでも個々人限りの主観的な理解ではあるが、たしかに「分かる」という意味では「知識」には違いないもののことだ。そんな知識は確かにあると思う。

それは例えば「60歳になったときの自分は30歳の時には全く分からなかった」、「それが実際に60歳になってみて初めて分かった」、「60歳の母が考えていたことが初めてピンときた」というような知識のことだ。もともと分からないのは周囲の他人の思惑なのだが、実は自分の事さえも分からないのが人間だと思っている。小生の場合はもっと迂闊で、30年前どころか10年前の自分でさえ今日の自分の価値観や、やりたいこと、考えていることなど、事前には何も想像できなかった。

現役世代が現役世代の目で引退世代について考えても、制度や形式はともかくとして、本質的には無理解のままであろう。

多くの人が賛成する(かもしれない)ことは、

老人は若い人を理解できなくとも邪魔はしないことだ

若い世代は、前の世代がそうであったように、現在の経済環境、生活環境の下で理にかなった最適化行動をとっている。その選択を正当化する理念や哲学を選ぶはずである。それは前の世代の選択とは異なるのが当たり前である。

理解できないのは、本当に理解できないわけではない。自分たちも前の世代に反抗して新しいやり方を押し通してきたのである。老人は若い時分の記憶があるので、若い頃にどんなことを願望したり、考えたりするかは、結構分かっている。いつの時代にも色々な人間はいたのだから。

反対に、

若い人は老人を理解できない。老人を理解できるのは老人のみである。

こちらの方が正しい。 若いうちはまだ齢を重ねていないのだから、真の意味で「老い」を理解できる理屈はない。

子は親が自分を理解していないという。これは十分に正確ではない。親は「子供」については理解している。子供であった時の感情を親は記憶しているものだ。幼い頃の心理構造は人類が人類である限り、そう大きくは変わらないはずだ ― でなければ、そもそも発達心理学などという学問分野が成立しなくなる。ただ<子供≠我が子>という一般対個別の話しがあるだけだ。反対に、子が親をどの程度理解しているかといえば、十分に成長するまでは理解できるはずがない。理解できていると思うのは、共感したり、想像できる、ということに過ぎない。

夏目漱石は49歳で亡くなった。だから、70歳になったときの自らの心境は想像するだけであった。その想像は想像でしかない。実際、『道草』には漱石の分身である主人公・健三の養父・島田がずいぶん齢をとった姿で出てくる。が、この作品を読んだ人なら感じると思うが、島田という人間を漱石はリアルに描写してはいない。ただ憐れをさそうばかりである。島田の先妻・御常も同じだ。漱石が描く老齢者が明確なイメージをもって記憶に残らないのは、書いた漱石が40代であり、老齢者の心がよくは分からなかったからだろう ― そもそも40代の人に年老いたときの心境が分かるはずはないのである。

バルザック『ゴリオ爺さん』もほぼ同じである。この作品はバルザック36歳の年に公表されている。読めばすぐに分かることだが、若いラスティニャックや怪人物ヴォートランがそこにいるかのような存在感をもって伝わってくる一方で、肝心のペール・ゴリオの人となりは齢をとった人物という以外、人間としての中身、充実感は希薄で、つくりが薄口である。これは「老い」という現象を若いバルザックが想像して書いているためである。よく分からないことにリアリティを与えることは天才であっても難しい。

村上春樹の作品に存在の厚みをもった老齢者は一人も登場していない(と思っている)。Kazuo Ishiguroの『日の名残り』にも『浮世の画家』にも初老の男性(と、昔の恋人である初老の女性)が出てくるが、いずれも「齢をとったらこんなことをするのだろうなあ・・・」と、比較的若い作家が老いた時の自分に想像される行動を語っているわけである。しかし、実際に人がそんな年齢になったときに若い時に想像していたような行動をとるかといえば、実際にはそんな気はもうなくなっている・・・。こんな確認を何度経験してきただろう。

「老い」という現象、「老人」という存在の実相がそのまま表現された文学作品は、実際に老齢になった作家でなければ書けないものである。が、しかし、実際に老齢になってから力作を書き続けた作家は稀である。永井荷風は死ぬ前日まで日記を書き続けたが、あくまでも日記であって、それも毎日毎日くりかえして

晴。正午大黒屋食事。

この短い言葉だけを単純にくりかえす日記であった。時に「晴」が「陰」になり、「大黒屋」と書く少し前までは「浅草」と書いていたが、傾向としては同じである。このことから、老人の心を読み取るというのは、直観としては様々読めるわけだが、無理というものである。


今日は核心を避けて、周囲を回りながら、書けることをまとめておいた。


書いた後、明日は月参りだから、お供えの花と菓子がいるので買い物に行くとカミさんが言うので、荷物持ちで一緒に外出した。途中、昨日まであった道の真ん中の穴が補修されているのに気が付いた。

カミさん: 綺麗になったね。大きな穴だったから・・・

小生: きのうまであった道の穴はどこにいったんだろう? それをみていた僕はどこにいったんだろう? 僕はいま穴が埋められたあとをみている。あのときの僕はどこにいったんだろう? って、こんな文句の詩があったなあ・・・誰のだったか忘れたけど。

カミさん: ふ~~ん

何だか感じる所があった様子だった。若い頃にはピンと来なかったのではないかネエ、そんな風に思った。




2021年11月18日木曜日

ホンノ一言: 18歳未満児童への給付金と960万円制約の件

18歳以下児童に対する給付に年収制限を付ける件だが、世帯主の年収ではなく、世帯合計年収を基準に制約を設けるべしという指摘、というか批判が増えている。

確かに正論だ。


しかし、世帯合計収入を確認するにはちょっとした計算作業が要るはずだ。

必要なデータはそろっている。税務データが基本になる。年末調整と確定申告、その他一定金額以上の金銭取引が市町村には届けられているはずだ。

ただ、年末調整や確定申告データは個人ベースである。世帯構成は住民登録基本台帳データを参照しなければならない。世帯ベースの年収を得るには税務データと住民登録基本台帳データとマージしたうえで各世帯員の収入金額を合計して世帯収入を得るという作業になる。マージのためのキーはマイナンバーを使用するしかない。税務データでは、その世帯に18歳以下の児童がいるかどうかも分からない―いやっ・・「配偶者や親族に関する事項」を申告するから分かる事は分かりますな。それに配偶者特別控除との関連で年末調整には配偶者の年間収入を記入欄も(確か)あったわな。これを参照するってことかネエ・・・。何だか雑だと思うのだが。

税務データと住民登録基本台帳データは所管も違うし別々のデータベースで管理されているかもしれないが、それでも簡単なSQLコードでマージ作業は容易であるはずだ。ただ、本当にマージできるデータベースになっているのだろうか?地方の小さな市町村役場に必要なスキルをもった職員がいるのだろうか?マイナンバーはカード発行の有無にかかわらず全国民に付与されているのでデータベースにアクセスさえできれば、マージのためのキーとして使える。が、この作業にマイナンバーを使用しても可なのだろうか?マイナンバーの目的外使用には当たらないのだろうか?同じような問題は昨年の定額給付金でも発生していた記憶がある。


細かい点で問題が出て来て、ヤッサモッサしながら、時間ばかりが過ぎるというのでは、また再び内閣支持率が暴落すること必至だ。どんな隠れた問題があるのか、官僚ですら分からない状況になっているとすれば、もう日本の行政システムはブラックボックスそのものだ。


全国の1741市町村すべてで作業が完了するのが、来年の夏ごろになったというのでは、給付金の意味がないだろう。

理想からは遠く文句はあっても、確実に給付できる仕組みがあるなら、それを使うしかないのかもしれない。

安全第一。ここは手堅く確実に、ということだろう。


・・・年収制限をつけるとしても9割はカバーされるという。ほぼ全員である。敢えて年収制限を付けて、その制限の仕方がおかしいというので批判されるなら、いっそ「ばらまき批判」を覚悟して一律に給付してもよかったのではないか・・・そう思われます。

***

と、ここまで書いて来た段階でカミさんがこんなことを言った:

カミさん: なにかサア、世帯主と配偶者の高いほうの収入が960万円以下にするって方法にもできるんだって。そうすれば、条件は厳しくなるよネ。やっぱりご主人と奥さんの両方の収入を市町村は知ってるんだよ。なら、合計も出せるんじゃない?

小生: ふ~ん、児童手当の申請時に世帯員の収入はすべて書かせてるのかなあ・・・?でも、すべての市町村でそのように聞いているかどうかは分からんなあ。

まあ、児童手当の申請時に収入を聞いているのかもしれないが、そのとき何か証明になるような書類、例えば源泉徴収票とか確定申告書の写しなどを添付しているのだろうか?

分からぬ。ホント、分からないことだらけだネエ、ということでカミさんとの話はひとまず終わった。


2021年11月16日火曜日

ホンノ一言: COP26だが、これが正論だと思える

 Wall Street Journal(日本語版)も伝えているように、

英グラスゴーで開かれていた第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)は、ほとんど成果のないまま13日に閉幕した。

最終盤ぎりぎりのタイミングになって、インド(と中国)の異論が入り、石炭火力の「段階的廃止」ですら「段階的削減」にトーンダウンされたのだから、「ほとんど成果なし」と評されるのは当たり前で、ジョンソン英首相のように「石炭火力廃止へ第一歩を踏み出した」と表現するのは、ほとんどフェイクであると思う。 

とはいえ、小生にはWSJ紙の以下の認識がリアリティをより正確に理解した正論だと思われる。

気候対策のエリートたちは、経済のより多くの分野を自分たちの政治的コントロール下に誘導することによってのみ、気候変動による災害は回避可能だと人々に信じさせようとしている。そして、「グリーンのネバーランド(おとぎ話の世界)」に向けて飛び出すにあたり、人々はエネルギー費用の上昇とエネルギー不足というコストを支払うことになる。この選択肢が率直に提示されれば、欧米の有権者は必ず「ノー」と言うだろう。

 だからこそ、欧米の気候対策推進派は資金配分と化石燃料生産者の圧迫のために金融規制という密かな強制措置を使いたがるのだ。これは一部に弊害をもたらすだけで、世界の気温に影響を及ぼすことは全くないだろう。

 さらに言えば、グラスゴーの会議で起きた他のことも影響を及ぼすことはないだろう。重要なのは、新たな技術の研究、気候変動の不確実な影響への対応策の採用、そして不確実な未来にうまく対応するために世界がより豊かに成長するかどうかである。

Source: Wall Street Journal,  By The Editorial Board ,2021 年 11 月 15 日 13:34 JST

URL: https://jp.wsj.com/articles/glasgows-climate-of-unreality-11636948774?mod=hp_opin_pos_2


環境問題、気候問題は既に科学の次元を超えてしまっている。産業構造を政治的権力を通して転換させようとする勢力とその勢力に敵対する勢力との覇権闘争になっている。

外観は政策論争、中身は覇権闘争であるという点では、現在の気候問題、環境問題は、19世紀初めのイギリスで「穀物法」をめぐる一大論争となった「自由貿易 vs 保護貿易」論争を連想させる。

当時のイギリスでは、自由貿易論が保護貿易論を押さえ、社会の覇権は大地主から工場経営者へとシフトしていき、19世紀のPax Britanicaを築くうえでの分岐点ともなったのだが、そもそも経済理論に忠実に考えれば、産業構造の転換、資源配分の最適化は、国際会議や国会の議決など政治権力の介入によってではなく、市場メカニズムと価格が果たす役割を基本にして進める方が得策である、というのが一般的な結論である。それは昔も今も(基本的には)同じである。

***

具体的に「市場の失敗」が確認されていないなら、市場の失敗よりは「政府の失敗」をより恐れるべきであろう。政府の失敗というより「政治の失敗」と書く方がもっと適切だ。有害な開業規制や許認可、価格統制がないかどうか? 更に、市場の機能を阻害する独占的支配力、寡占企業による優越的地位の濫用がないかどうか? 独占禁止行政は適切に展開されているか? これらの検証の方が目的達成にはずっと近道である。要するに、公的に認められた《既得権益》が将来性豊かな経済活動の障害になっていないかどうか、ここを先に検証することの重要性が非常に高い、ということだ。

というより、

《既得権益》が将来性豊かな経済活動の障害になっていないかどうか

というこの点の判断自体が多分野の専門家の意見が対立する中では難しい。故に、まずは自由な参入・撤退を保証したうえで、発生する問題の解決に政治は専念する方がよい。つまり、既得権益を守っている規制を撤廃することの重要性は、いつの時代でも意義のあることで、まず第一に(というか、むしろ、常に)検討しなければならないことだ。 環境とエネルギー分野でもこの原則を通すほうがよい。

エネルギー市場に関連した現在の「気候変動論争」は、19世紀の「穀物法論争」のような「自由vs規制」の戦いというより、「従来の規制vs新しい規制」の戦いといえる。規制をどうするかの戦い、つまり既得権益層をひっくり返して新たな既得権益を狙う勢力が挑戦しているわけであって、その新勢力の根拠が気候変動予測理論という構造になっている。科学が政治にリンクしている点は、まさに原水爆を開発した物理学の進展の歴史とウリ二つではないか。

「気候変動枠組み条約」というのはこの辺が極めてウサン臭い、といえるわけだ。

***

さて、

市場が失敗するケースというのは、一般理論として、もう整理され切っていることで判断は容易である。それより、ずっと昔に導入された規制、その規制に基づく既得権益が、いまでも公益に沿っているのか否かのほうが、よほど難しい判断なのである。だから、一定期間が過ぎれば、規制は自動的に撤廃される、すべての規制を時限的なものにする、こんなサンセット方式こそ本当は望ましい。

9電力会社(沖縄を含めれば10電力会社)の地域独占も見直さなければならないし、電力価格の設定も見直さなければなるまい。もちろん原発経営の在り方も見直しが必要だ。再エネ電力の固定価格買い取り制度も当然ながら見直さなければならない。《規制》は必ず見直すというルールにしておけば既得権益の拡大も予防できるわけだ。

《気候変動とエネルギー》の将来構想などは、やるべきことをやったその後の議論であろう。


どれほど人々の理念や価値観に合致するように見えても、「計画経済」は必ず非効率の温床となり、最初に目指していた目的を達成するうえにおいてすら、「市場経済」に劣後することは、すでにソ連の壮大な失敗から学んだ教訓だろう。というより、一般的命題が確認済みであるとみるのが正しい。単なる言葉は「踊る言葉」に過ぎず、舞台俳優にふさわしい芸事であるわけで、言葉が力をもつためには現実に問題を解決できるだけの中身をもっていなければならない。

$\textrm{CO}_2$排出については、The New York Times紙の以下の記事も参考になる―ほかにも同紙には関連記事が多く掲載されている。

● Who Has The Most Historical Responsibility for Climate Change?


2021年11月14日日曜日

覚え書き: 日本のエネルギー計画、ホントどうするのだろうね?

日本経済新聞WEB版では英誌The Economistからメインイシューを抜粋して日本語訳で掲載しているのだが、最近、気になったものを覚え書きまでに残しておきたい。少し長いが抜粋で引用する:

単一通貨ユーロ、国境審査なしで欧州連合(EU)域内を行き来できるシェンゲン協定、EUの"国歌"となったベートーベンの「歓喜の歌」、バターの山を生んだEUの農業政策、EU創設を定めたマーストリヒト条約。これらが登場する前から欧州を結びつけてきたのは原子力だ。

EUではフランスを中心に原発を推進する動きが復活、ドイツもその流れは変えられそうにないという(フランス西部シボーで稼働する原発)=ロイター

コニャックの営業マンから政治家に転身し、EU創設の父となったジャン・モネは「原子力の平和利用は欧州統合の原動力になるだろう」と書き記した。欧州統合は、何よりもまず原子力を推進するためのプロジェクトだった。

1957年、欧州6カ国はEUの前身、欧州経済共同体(EEC)を設立するためのローマ条約に調印した。同時にこの条約によって、あまり知られていない各国の原子力発電セクターを監督する組織「欧州原子力共同体(ユーラトム)」も創設した。当時、共通市場という構想はまだ漠然としていたが、原子力エネルギーが持つ可能性は明らかだった。

(中略)

EUが原発を「環境に優しい」とすれば補助金の対象に

EUでは今、天然ガスの火力発電を巡っても原発と似た議論が起きている。ガスの火力発電を支持する向きは、CO2を発生させても石炭火力よりクリーンだと主張する。だが原発は賛成でもガスの火力発電には反対という加盟国もあれば、その逆の国も、両方に反対する国も、両方を必要とする国もある。

本来、原発とガスの火力発電は別問題だ。だが各国政府と最終承認を下す欧州議会の議員らの頭の中では、この2つは深く結びついている。様々なグループの利害が複雑に絡み合うため、到達する妥協案は誰にとっても満足のいくものにはならないだろう。

原発を巡る政治や天然ガスを巡る政治が絡み合う以上、政策はその影響を受ける。同じように激しい論争を巻き起こしている歳出を巡る規制改革に関する議論をみるといい。現状では、日常的な支出については厳格なルールを維持する一方で、低炭素社会への移行を目的とした支出については、各国に柔軟な対応を認めるという妥協案に至る可能性が高い。

その場合、EUとして民間部門の原発を環境に優しいと位置づけると、原発への補助金等の財政出動も認めざるをえなくなる。そうなるとドイツの有権者は、ライン川を挟んだ隣国フランスが自分たちが危険だと考える原発に多額の資金を投じるのを傍観するしかなくなる可能性がある。

EUのあらゆる機関は政治と無関係ではいられない。原発がクリーンか否かを最初に判断する欧州委員会は建前上、専門家としての立場から問題に答える公務員集団だ。だが、委員たちは現実には原発が極めて政治的テーマであることを知っている。

そのため彼らは、ドイツで強硬な反原発である緑の党を含む新連立政権が発足する前に解答を出しておいた方がよいとも認識している。メルケル首相が退任する前に何らかの妥協案をみつけられれば、それは彼女のさらなる功績となるし、連立政権の一翼を担うことになる緑の党も、前政権が決めた既成事実だからもはや自分たちは何もできないと責任を負わなくてよくなる。選択肢の中から最もひどくないものを選ぶのが官僚であり政治家だ。中世の政治思想家でフィレンツェ共和国の公務員でもあったマキャベリもそうだった。

今後EUは原発を一体となって推進

原子力政策は、問題がエネルギー確保だろうが環境保護、または経済であろうがEUが運命共同体であることを再認識させる。最もクリーンなエネルギーしか使っていないと胸を張る加盟国も、域内エネルギー市場の統合が進めば、議論を呼ぶエネルギーに依存せざるを得ない国から恩恵を受けることになる。

EUという巨大組織はますます均質化し、独自路線を歩みたい加盟国にとって、その余地は減りつつある。集団で下した決定である以上、加盟国はそれに縛られる。

モネは「加盟各国がバラバラに原子力政策を追求すれば混乱を招くことになる」と書いた。EUの原子力政策は反対する国があっても一体となって進めていくことになるということだ。

Source:日本経済新聞、2021年11月2日 0:00

Original: The Economist Newspaper Limited. October 30, 2021 All rights reserved.

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB310JX0R31C21A0000000/


コロナ禍に対する対応でも、EUはジグザグ状態を続けるにしても政府は本気で政策を実行し、反対する住民は本気で反対デモを展開した。どちらも当事者としての自分自身の意志を行動に表していた。

日本では、政府も国民もマスメディアも、簡単にいえば<言いっぱなし>、<口先>だけの側面が結構あった模様で、この「模様」という言葉が日本社会を理解する結構大事なキーワードでもあるようで、全体としては真面目な日本人が、この一年余り、自分に出来る理にかなった行動を自らとっていた、と。それで、結果としては、望ましい状況にいま到達している。どうもそんな印象なのである。砂粒のような一人一人の日本人のローカルな合理性が集積されて、日本社会の最適性を実現した、とまあこんな風に理解しているのだ、な。この辺が、どこかヨーロッパともアメリカ、というか中国とも韓国ともロシア等々とも違っている。

自分から言うのも変だが

ほんと、日本という国は不思議な意思決定をする国だ

私的合理性と集団合理性とが矛盾しない状況下では、ほんとうに日本人の<強み>というのが十全に発揮される。


ただ、《原発をどうする》という極めて根源的なイシューについては、何となくの「国民の風」では現状維持が続くばかりである。

ほんと、どうするつもりなんだろうね?

そう感じられる課題の一つが、日本のエネルギー計画だろう。

そもそも日本全体で電力が足らないと心配している状況で、カーボンフリーとか、ガソリンを積んだHVでもPHVでもなく、電気だけで走るEVを増やしていくなど、大体が無理な相談だろうと思うが、議論する時間は残されているのだろうか?

ドイツは綺麗ごとを言っているが、いざとなればフランスから原発エネルギーを安価に輸入する裏口ルートを確保したうえで言っているわけである。日本で同じことをやるなら、中国を含めた東アジアで例えば「エネルギー取引機構」(?)なる仕掛けを構築し、そのためのインフラも整備しなければ、日本の国内産業は心配で仕方がないと予想されるが、そんな方向が水面下で進んでいるなど、まったく聞いたことがない。産業が破綻すれば、日本人は大量に失業するはずで、その日の飯にも困るわけである。

先の見えない不透明な社会状況を生き抜くことにかけては大陸欧州は実にタフである。歴史を通して豊富な経験がある。政府が集団合理性の観点にたって個人の自由を押さえることも辞さない覚悟がある。それでもヨーロッパは民主主義なのである。反対に、日本の民主主義は輸入文化である。なので、建て前や形式にこだわる。手本にできるだけ忠実であろうと欲するのは、日本人が基礎理論に厳格だからというより、自信がないためである。不透明なワインディングロードを霧の中で走るような時代では、個々人の私的合理性と社会全体の集団合理性が矛盾する状態が多々発生する。そんなとき、日本は諸外国の行動を目で見て付いていく風な意思決定しかできなくなる。これではいわゆる「負け組」になるのは必然であろう。

ほんと、どうなるのだろうね?

日本人は、いつ本気になるのだろうね? 

こんな思いにかられる今日この頃であります。

2021年11月12日金曜日

ホンノ一言: デジタル化とマイナンバーカードを一緒くたにしちゃあダメでしょう

日本人が新しい物事に対していかなる警戒感をもつかは、既に多くの人が見たり聞いたりしているところだろう。いま流行の「デジタル化」、「マイナンバーカードとマイナポイント」についてもそうである。

今朝もうちのカミさんが贔屓にしているワイドショーを朝食をとりながら視たのだが、テーマはそのマイナンバーカード、さらにはデジタル化自体が善いのか悪いのか、ということだった。そして、その旧弊な発想と感覚に唖然とさせられたのは、常と変わらない、同じ調子であったのだ、な。出演者はみんな小生よりは若いはずだけどネエ・・・何ゆえにこれほどに慎重なのであろうと感じ入ること、しきり也。

小生: これってサ、運転免許をとりたいって言い出した息子に向かってさ、『そりゃあ、車が運転できれば便利だろうよ。しかしナ、運転している限り事故を起こす可能性はある、少なくとも確率はゼロじゃない、《最悪の場合》は、お前、死ぬことだってありうるんだぞ。親に先立って子が死ぬのは最大の不孝という。そんな覚悟はあるんだろうな!・・・』ってさ、こんなことを言う父親がいれば、誰だって呆れかえるんじゃないのかね?

カミさん: それは極端だよ。マイナンバーカードをもてば、個人情報が洩れるんじゃないかって話をしているんだから。

小生: 漏れることを心配するなら、マイナンバーカードじゃなくて、一人一人に番号をつけるナンバー制度そのものが危ないって、そう反対しないとダメだよ。大体、こないだも配偶者が公的年金をもらい始めましたかって照会が来たんだけどさ、そんなことは当の政府が知っているはずだヨ。それを俺に聞くか、お前が分かってるだろ、まあ、そういうことだよ。

ヤレヤレ・・・、

最悪の場合を考えて、政策は考えられるべきなんですよ

最近、何度も耳にするこの言葉を、単純かつ機械的に理解している人たちの何と多い事だろう。「最悪の場合」を考えるべきなら、地球に巨大隕石が落下する時の巨大津波、落下はしないまでも空中で爆発して熱核爆弾に匹敵する炎熱地獄が現出するというリスクに備えておくべきである・・・そんな理屈になるだろう。


マイナンバーは個人ごとに付与されるという意味で、極めて個人主義的な制度発想である。何ごとも個人が基本単位となる欧米ではシックリくる行政インフラだが、ここ日本ではまだまだ家族単位、世帯単位で納税、保険料納付、等々、色々な行政手続きが世帯単位で進められている所が多く残されている。それが自然だと日本人の大半が受け入れている。だから、世帯主は行政の非効率に苛立って、マイナンバーがあるんだからこんな書類記入なんか押し付けて来るなよ、鬱陶しい・・・と、こんな風な気持ちになっているとしても、その他の世帯員はマイナンバーカードって使わないよネエ、などと嘯いているわけだ。『使うよ!もしe-Taxがないと、それこそ面倒なんだよ』と強調しても、ある人の雑用にもたれかかっている世帯員はその面倒がピンと来ないのである。ここを個人単位の行政に変えていく必要があるとは感じている。

小生: このTV番組もそうなんだけどね。マイナンバーとマイナンバーカードを一緒くたにして話しているけどサ、デジタル化とマイナンバーカードはまったく別の話しだよ。完全デジタル化にカードなんて物は要らないんだよ。カードなんてものがあるから失くしたらどうしようって心配なのサ。カードなんて作らず、マイナンバーサービスを受けたい人はスマホにアプリをインストールすればいい、こんな方式でもいいんだヨ。アプリがなければ、保険証は保険証、免許証は免許証、銀行は銀行に行って、保険会社は保険会社でそれぞれ書類を取り寄せて、記入して、返送すれば手続き出来るようにすればいいんだよ。ヒトの手をわずらわせる分、コストがかかるから手続き費用は割高になるだろうけど、カネを払えば古いシステムが利用できるようにすればいい。これで安心できる人にとっては安心料ってわけだナ。一方、マイナンバー・アプリを利用してサービスサイトに指紋認証か、顔認証でログインすれば、何でも一発で済む。人は介在しないからランニングコストはほぼゼロ。投資コストは株主が負担。だから一般ユーザーは手続き無料。これがイイって考える人も多いはずだよ。となれば、そう出来るインフラをつくればいい。国際環境を考えるとそんなインフラを稼働させるべき時代になってきた。ガラパゴスはいかん。多分、日本ではそうなるのじゃないかなあとは思ってるんだ。何でも、日本は古いものが残るお国柄だからネ。「二重構造」の文化は日本社会の特徴でもあるんだヨ。

つまりは番組編集を担当するプロデューサーの感性、知的レベル、社会観に帰することなのだろう — いわゆる「社会常識」は、職業柄、十分なのだろうが。

 

デジタル化は急務である。世界で出来ていることが日本で出来ないことの方が大問題である。それを問題にしてTV、新聞で主題にしなければマスメディアの怠慢だろう。しかし、マイナンバーカードは、ちょうど副反応が怖いワクチン接種と同じで、不便でもいいから安心をしたい、そう願う人がいれば『利用しない権利』もまた受け入れる社会のほうが器が大きいというものだ。

2021年11月8日月曜日

ホンノ一言の断想: 「憲法改正」が望ましいのは勿論だが、もはや実行困難だろう

総選挙で護憲派リベラルが退潮した流れで予想すれば、今後は憲法改正論議が本格的に盛んになってきそうである。コロナ禍、というかパンデミックにおける緊急事態対応のこともあるから猶更だ。

しかし、実際には憲法改正案を国会で発議することすら、もやは集約は困難であると感じるし、ましてやその発議を経て国民投票にかけるとしても、それで日本人全体で了解されるような憲法改正を行うということは、それまでに必要な国内政治的エネルギーの巨大さを想像すると、ここ日本においてはもはや不可能に近いのではないかと感じる。

そもそも何十年も前に起案した成文憲法の文言などは、長い時間がたてば現実に即応しなくなることは当たり前であって、個別的に非現実的になった条項から適当な時期に改正を加えるというのは当たり前の立法努力である。憲法を時代の荒波の中で鍛える作業を怠るような立法府はそれだけで立法府失格だと思われる。なるほど民定憲法で主権は国民にある。だからと言って、国民(の中の誰なのか分からないが)自らが現行憲法の第△△条は現実とマッチしなくなったと判断し、具体的な修正案について世論を自発的に形成する状況というのは、本当にこんな社会状況がやって来るのかどうか怪しいし、それが善いこととも(小生には)思えない ― マ、本当にこんなことが起こりうるなら、日本人の自己革新能力も大したものだが。現実的には、国民の代表である立法府において、憲法と現実との乖離について常に注意を払い、必要なら議論を実行へと進めるのが、望ましい方法だろう。

実際、欧米では第2次大戦後に限っても頻繁に憲法改正が行われてきた。国会図書館が2014年に編集したある資料によれば以下のようになっている:

1945 年の第二次世界大戦終結から 2014 年 3 月に至るまで、アメリカは 6 回、カナダは 1867 年憲法法が 17 回、1982 年憲法法が 2 回、フランスは 27 回(新憲法制定を含む。)、ドイツは 59 回、イタリアは 15 回、オーストラリアは 5回、中国は 9 回(新憲法制定を含む。)、韓国は 9 回(新憲法制定を含む。)の憲法改正をそれぞれ行った。 

諸外国では適宜行われてきた改憲が日本では一度も行われて来なかったわけである。この違いは結構本質的な何かを伝えているのだと思う。 

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日本で憲法を改正することが実際に出来るのか?頭を冷やしてよく熟考して見れば誰でもすぐに分かることだ。

日本では、財政経済上の政策ツールに過ぎない「消費税率」一つをとっても、上げる議論をスタートさせてから実際に上げるまでに数年はかかるお国柄である。一度上げた税率を経済状況の変化に対応して下げるという決定も、状況によっては十分高い確率でありうるはずなのだが、これが日本では極めて難しい。いまコロナ禍による混乱が終盤にさしかかっているが、これまでにも消費税率を下げるということが真剣に検討されてきたかといえば、おそらく検討などはされなかったのではないか。それは一度下げれば、再び上げるのが、日本では極めて困難なためである。

憲法改正は、単なる消費税率変更をはるかに上回る本質的な変更である。これだけでも改憲が実行困難であることは分かる。

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しかし、何かの国際環境上の激変、経済状況上の激変、国民意識の大きな変化などが契機となって、いよいよ憲法を改正しようという機運になってきたとする。

しかし、それでも現行憲法のどの部分を修正するのか?

多分、憲法9条や緊急事態対応ばかりではすまない。最近の進展をみれば、第1章の天皇の地位についても何らかの文言変更が望ましいという議論があるかもしれない。そもそも第1章に天皇を規定していること自体、その前身である大日本帝国憲法の余光であることは確実で、事後的な結果はどうであれ日本は《国体護持》を最小限の大前提としてポツダム宣言を受け入れたのである。

ほかにも地方自治、基本的人権の具体的表現、第25条の生存権をどう表現するか、財政均衡と納税の義務との関係などまで含めれば、改憲にあたって要検討箇所は余りにも多い。多いというより、増え過ぎた感がある。「改憲」という作業に乗る話しなのだろうか?

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これらを一挙に憲法改正案として発議し、国民投票にかけるのは、個人的な山勘に過ぎないが、国内政治的にはきわめてまずいと思われる。

どんな改憲に際しても論点を明確にするべきだと思う。

かといって、問題点は増え過ぎた。これを何段階にも分けて、憲法改正案を逐次進めるという方式は、憲法の権威を考えると、とるべき道ではないだろう。

どうなっていくか、先の読めない憲法というのは、もやは憲法の名に値しないだろう。


つまり、もうこの日本において日本国憲法を改正するというのは、作業としては行えるし、議論もできるのだが、実際行うとなれば余りにも問題が膨らみすぎ、改憲案を結論として得るのは不可能に近くなっていると小生は思う。

要するに、日本はこれまでに行うべき憲法の修正を(どういう理由でか)国民感情として避けてきたが故に、もやは修正を行うことが極めて困難な状態に陥ってしまった。修正をしたくとも、どことどこを、どんな順序で、どんな風に修正すればよいのかが、整理できない。そんな状態に進んでいるのではないか、と。

政治学的にこれと似た状態に陥った国がかつてあったかどうかは知らないが、こういうことじゃないかと現状を理解している。こうした意味でも、日本が歩んだ《戦後76年》という歴史は《ほかに選択肢のない一本道》であった。「であった」というよりは、日本人全体が「一本道であると思い込んで歩いて来た」、長くもない戦後史をいまこんな風にみているところだ。

「一本道であると思い込んでいた」という点では、アメリカを相手に開戦した太平洋戦争直前の時点における日本人も、やはりそうであったのではないだろうかと思ったりする昨今である。

2021年11月4日木曜日

断想: 韓流ドラマから「違い」の理解について考える

日本でも「医療ドラマ」といえば高視聴率が期待できるテーマだ。『ドクターX』や『医龍』、Dr.コトー診療所』、『JIN-仁-』は傑作だと思うし、小生は視ていないが『コードブルー』も品質はかなり高いのだろう。それに『白い巨塔』は医療モノを超える古典として言葉自体が常套句になってしまった。

いま、カミさんがいきつけの美容師サンに教わったというので、韓流ドラマ『浪漫ドクター キム・サブ』を観ている。既にシリーズ1を見終わって、シリーズ2の中盤にさしかかっているところだ。


確かに面白い。そして、その面白さはやはり韓流ドラマに共通した面白さである。具体的にいえば、味付けが濃厚である。つまり「濃い味」で、かつ極端だ。日本の作品は韓流に比べると、ある意味「薄味」である。薄味好みの映画好きの日本人がみると、韓国の作品は「ムツコイ」と感じるかもしれない。その違いは、料理の世界と共通した違いかもしれない。

ドラマは言葉と映像が素材であるが、味付けが濃いと感じる一つのポイントとしては、言葉使い(といっても字幕を通した印象なのだが)がある。ハッキリ言えるのは、韓流の作品は人間同士の会話が率直である。というより、言い方がきつい。つかう言葉がストレートである度合いはアメリカ映画以上かもしれない。日本人のシナリオライターなら、ずっと間接的で、婉曲かつ繊細、時に「腹芸」も織り込んで会話を進めるだろう。だから、日本流の物言いを好む人が韓流の作品をみると、登場人物がいつも喧嘩をしていると感じるだろう。言葉ばかりではない。その人その人の違いはあるが、概して韓流ドラマの登場人物は表情の変化が豊かである。それに対して、日本のドラマ作品では、むしろ抑えた表情で心を伝える場面に視る人は共感することが多い — ただし、この辺はごく最近では日韓の違いが小さくなっているかもしれない。また、韓流では舌打ちをする頻度も多いが、日本の作品ではその種のボディ・ランゲッジは好まれないようだ。声をあげて相手を罵倒するシーンは韓流ならではだが、日本人なら逆に声をおさえて怒りを表現するのではないか。さらに映像、というかドラマを絵として観た場合も、韓流の作品は動きが激しくダイナミックであるのに対して、日本の作品は動きを最小限に排した静的で構図に凝った絵作りが多いように感じる。他にも違いをあげることは楽しい作業に違いない。

これらを総合した結果として、韓流ファンは『日本の作品よりコクも迫力もある』と感じるのだろうし、アンチ韓流は『品がないし、全体のつくりがドギツイ』と辟易するのだろう。

このような感覚の違いは、よく言えば美的感覚の違いにもつながるものだが、身の回りでいえば味覚の違い、香りの好みの違いに似ている違いである。


日本人の感覚で韓国に向かって、

こんな言われ方はないし、一方的で感情的、言い放題で言いがかりというものだし、そもそも怒鳴られるほどのことか

などと怒るべきではないし、反対に韓国人から日本に向かって

考えている事と話す言葉がいつも食い違うし、そもそも何を言いたいか分からんし、というかチャンと言わないし、何かをいつも隠している感じがする

などと悪感情を持つとすれば、それは感性の違いのなせる印象にすぎない。


日本国内でも、関東と関西の違い、県民性の違いは歴然としてある(と言われている)。小生も元々の育ちは関西、というか関西文化圏の四国であるが、東国・伊豆に転居したときは、食べなれた魚がない、サンマは口に合わん、味付けが違う、醤油がから過ぎる、味噌が辛過ぎる、言葉が早口で乱暴だ等々、両親が何度も何度も話していたことを覚えている。育った地域による県民性の違いは、どちらが正しいかを議論しても、否定には否定で応じるだけのことであって、まったく不毛に終わる。

個性の違いは、当然、あるものだ

と思って、あとは現実のあり方に順応していくことだけが、とりうる途だろう。これが《理解する》という行為だ。

問題解決の前には必ず「理解」があり、戦争の前段階には必ず「無理解」がある。感性も大事だが、世間を円満に運営するには理解力がはるかに重要だ。


この「理解力」が、日本国内でも最近は衰えてきた、というか「善いこと」として評価されづらくなってきている。同じ日本人が他の日本人のことを理解しようという熱意、というか誠意が、どの程度まであるのだろうか、と。そう疑うことが近年とみに増えてきた。

理解なんてことを強要されず、自由であるのが、すなわち多様化である

こんな風に<理解>されるとしたら、「個人の尊重」などという綺麗ごとにはならず、むしろ予想されるのは「見解の相違」が「断絶」となり、さらには「対立・闘争・解体」となり、弱肉強食の「自然状態」に社会が原点回帰していくのは、まず間違いないところだと思っている。

市場ディシプリンにせよ、競争メカニズムにせよ、市場価格へのリスペクトにせよ、原理主義的に上から下へ自由主義を押し付ける前に、なぜそのシステムがよいのかという点について、参加者、つまり国民がよく理解しておくことは不可欠の大前提である。ごく平均的な視聴者を想定しているTV番組やメディア報道の伝え振りをみているとそう感じる。

2021年11月2日火曜日

ホンノ一言: 日本の「お家芸」である「周回遅れ」は日本のリベラル勢力も同じだろう

選挙はやってみないと分からない。故に、政界の一寸先は闇ということなのだろう ― 一寸先が闇であるのは、政界ばかりではなく、ビジネスもそうであるし、日常生活もそうだし、そもそも人生自体が一寸先は闇なのだが。

自民党は議席を減らしたにもかかわらず、負けではなかったと安堵している様子である。逆に、立憲民主党は共産党と連携した野党一本化が功を奏して、自民党の現職幹事長を小選挙区で降すほどの成果をあげたにも拘わらず、敗北感に襲われているようだ。小選挙区では手ごたえがあったが、比例代表で大きく議席を奪われ、結果として党全体の勢力が減ってしまったからである。要するに、比例代表投票で「立憲民主党」と書く有権者が減ってしまったということだ。

そればかりではない。立憲民主党の議席が全体として減る中で、共産党の支援を受けて当選した小選挙区選出議員が党内で増えるという結果になった。共産党の支援によって当選したこれらの議員達は、今後も共産党の支援を受けるのが望ましいと考えるはずだ。いま立憲民主党内では、今回の敗北を招いた枝野代表の責任を問う声が高まっていると報道され、さらに共産党との共闘路線も見直されるのではないかと伝えられている。しかしながら、そんな簡単な話で終わるとは思えない。

短く要約すると、小選挙区で成果をあげたのは共産党のお陰、比例代表では立憲民主党の勢力が大きく後退した。これが同党の現状だ。

小選挙区選出議員の<格付け>が比例代表選出議員よりも高く評価されるという<政界の常識>が効力をもっているのだとする。であれば、共産党の支援は今後も必要であると主張する同党内の党内世論は、これまでとは違って相当強くなると想像される。この事実は重い。立憲民主党は後戻りができない意思決定を既にしてしまったと言うべきだ。まさに一期一会。素人の縁台将棋じゃあるまいし「ちょと待った」はないのだ。立憲民主党は共産党の色合いにもう染まり始めているというべきだろう。出来てしまった縁を自由自在に切ったり、また繋いだりできる道理はない。

立憲民主党の路線闘争、というより迷走は結構長引くのではないかと予想する。来夏の参院選までに路線転換を円満に完了するのは極めて難しいのではないか。


こうした逆境は、発想を転換せよというメッセージだと小生は考えることにしている。

災い転じて、福となす

こんな諺もあるではないか。


立憲民主党内の紛糾と共産党との共闘路線再検討の流れは、日本共産党という政党にとっては《最後のチャンス》になるだろう。

もし日本共産党が党創設以来の《綱領》を見直し、21世紀の現代的状況に即応した「社会民主主義政党」として党自身を再構築するという方針を明らかにし、党名もまた新たな理念にふさわしい新しい名称に改名すると公表すれば、その強固な組織力が強みとなり、日本のリベラル勢力が結集するための核になるのは間違いないところだ。

歴史あるフランス共産党は既に党内改革を終え、今は多様な理念を包含する左翼政党の一つに姿を変えている。同じく、老舗・共産党であるイタリア共産党は貴族出身のベルリングエル書記長の頃、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄するなどの党改革を行うなど柔軟路線に転換し、特に冷戦終了後に一度解党したものの、その後また復活し、現在では「イタリア共産主義党」として、やはり左翼勢力の一つとして活動し続けている。

《市場の失敗》もあれば、《政府の失敗》もある。市場原理が行き過ぎれば公共の理念が求められる。反対に、公共の理念が過剰になって余りにも非効率がひどくなれば市場メカニズムが必要になるのだ。どちらの観点が欠けても、現実の社会経済はうまく運営できない。一方に固執するのは、価値観などというご立派なものではなく、単に頑固で頭が悪い証拠である。

リベラル勢力結集を果たすうえで、《周回遅れ》であるのはやはり日本であるのかもしれない。環境の変化に抵抗して進化を拒絶し、自己革新に臆病な日本人の国民性がそこに窺われるのは仕方がないとしても、「理念を守る」つもりが、実は「単に遅れている」という事の証拠であることは多い。これをそろそろ認めることが出来れば、日本の《政治》にもかつての活力が戻ってくるチャンスがある。




2021年10月29日金曜日

一言メモ: Facebookの社名がMetaに変更されることに思う

Facebook株がまだ30$にもなっていない頃、僅かな金額を同社に投資した。それが今ではSNS分野では世界最大のメガ企業となり、広告業界ではGoogle(⊂ Alphabet)に次ぐポジションを占めるまでに成長した。

そのFacebookが近年立て続けにトラブルに見舞われ、政府からはもう何年も目を付けられている。同社が、めっきりと衰えの目立つアメリカ経済を最近10年間余りの長きにわたって"Innovatioin Center"として支えてきたことを思うと、いかに米政府と言えども、そうやたらにFBを「おとりつぶし」にしたり、会社の活力を奪うような「規制強化」、「強制分割」などに打って出られるはずはない。米政府がそんな愚行に出れば、喜ぶのはライバルの中国・北京政府であろう。

確かにFacebookやその他のSNSの世界は、"fake news"や"misinformation"があふれかえっており、人格攻撃、中傷などヘイト行為の温床にもなっている。しかし、それは現実の世界が流言飛語、デマ、フェイクニュース、非難中傷に満ち満ちているからであって、フェースブックがそうした悪意のある世界を創り出しているわけではない。寧ろ「悪貨」が「良貨」を駆逐するという名句のとおり、悪質な投稿が良心的な投稿を「不可視化」していると考えれば、SNS企業の側が被害者であると言ってもよい。SNSは、現実の世界を《視える化》しているわけである。米政府やマスメディアがいくら同社をたたいても、現実の世界がそれで改善されるわけではない。それに、(批判している人の目には不十分かもしれないが)Facebookは悪質な投稿を検知するために多大のカネとヒトを投入して努力している(ようだ)。この努力の規模は半端ではない(ようだ)。悪意のあるコメントがあふれかえる日本のYahooやその他のSNSをみるにつけ、「日本のネット企業はフェースブックの爪の垢でも煎じて飲むべきじゃあないか」と感じたりすることも多いのだ、な。

いま特にFacebookに厳しい報道をしているのはWall Street Journalである。反フェースブックの論陣をはるその調査報道ぶりは世界のマスメディアの中でも急先鋒である。他方、いつもなら人格攻撃や人権侵害には厳しいThe New York Timesは、今日の報道をみても、比較的冷静であり、穏やかである。

社名をFacebookからMetaに変更し、12月からはNY株式市場で使うティッカー名もFBからMVRSに変更するとの発表に対して、今日のNYTは次のように報じている。炎上中のトラブルやCEO・Zuckerbergのワンマン体制が継続される点を指摘しながらも、結局、以下のように締めくくっている。

Even so, Mr. Zuckerberg on Thursday talked up the idea as “the successor to the mobile internet” and said mobile devices would no longer be the focal points. The building blocks for the metaverse were also already available, he said. In a demonstration, he showed a digital avatar of himself that transported to different digital worlds while talking to friends and family, no matter where they were on the planet.

・・・

Success will depend partly on attracting others to create new apps and programs that work in the metaverse. As with the mobile app economy, users are more likely to join new computing ecosystems if there are programs and software for them to use.

As a result, Mr. Zuckerberg said he would continue offering low-cost or free services to developers and invest in attracting more developers through creator funds and other capital injections. Among other things, Facebook has earmarked $150 million for developers who create new kinds of immersive learning apps and programs.

“We are fully committed to this,” he said. “It is the next chapter of our work.”

URL: https://www.nytimes.com/2021/10/28/technology/facebook-meta-name-change.html

Source: The New York Times, Oct. 28, 2021

Updated 10:55 p.m. ET

明らかにWSJとNYTは観点が違う。

思うに、Wall Street Journalは共和党系である。他方、The New York Timesは民主党系である。Facebookはトランプ前大統領のアカウントを停止した。ト氏は共和党内に隠然たる影響力を今なお持っていると伝えられる。そもそもFB本社のあるカリフォルニア州メンローパークはシリコンバレーにあり、ここは多様化に高い価値を認める民主党の強固な地盤である。これまたありうる見方である。


マイクロソフトも1990年代から2000年代初めにかけて連邦政府からは仇敵のように見られていたものだ。後には訴訟の泥沼に引き込まれた。まるでアメリカ国家に危害を加えているかのような論調がマスメディアにはあふれていた。小生は、90年代前半まではAppleを、後半にWindows機を併用し始め、2000年代になってからはAppleを見限ったのだが、その頃、スマートなMac、ダサいWindowsというイメージが定着していた世相をみるにつけ、人気と中身がこれほど離れるものかネエと、呆れかえっていたものだ。結局、マイクロソフトという企業はいかなる損害をアメリカ社会にもたらしたというのだろう? やはりマイクロソフトは巨大になりすぎていたのだろう。そういえば、Microsoft登場前の覇者IBM、自動車業界の支配者GMなど、その市場支配力がどれほどアメリカ社会で警戒されたことだろう。時代は遡るが石油王ロックフェラーが創り上げたスタンダード・オイルは1911年に30以上の企業に解体されてしまった — こんな「蛮勇」もアメリカが伸びゆく時代であったからこそ可能であったのだが。

つまり

最大の企業はたたかれる

アメリカの政治とビジネスが向き合うそんな決してヤワではない、互いの緊張関係が何となく伝わって来るではないか。

本当はこうでないといけない。

時に不合理に見えるが、アメリカにおけるこの辺の政と財との緊張関係は、日本社会が見習って決して国民の損にはならない。そう考えるのだ、な。経団連や日経連、同友会、商工会議所とは、与党ばかりじゃなく、政権をとりたいと考える野党も仲良くしたがる、そんな政と財との甘々な関係がかえって変化する経済環境への適応力を弱め、国力の衰退につながっていく一因として働く可能性は、よく考えなければならない点である。

【10月30日加筆】

30日付けのWall Street Journal(日本語版)で、Facebookの新社名が"Meta Platforms"となることが分かった。単なる"Meta"ではない。軽率、軽率。

URL: https://jp.wsj.com/articles/mark-zuckerbergs-latest-pivot-is-personal-as-well-as-strategic-11635531916

WSJにしては"Metaverse"を主戦場に選んだ同社の新戦略を理解しているように思える。いずれにせよ、SNSの現状とSNS企業とは峻別した方がよい。SNSビジネス分野については、少々の寡占は大らかに受け入れ、寧ろ寡占企業の資金が新技術の実現に有効に活用されているかどうかに着目するべき時代だと(小生は)思っている。交通事故がにわかに急増したからと言って、自動車メーカーの活力を奪ってしまえば、正義感は満たされるが、チャンスも捨て去ることになったろう。とはいえ、死亡事故の抑制に向けて自動車企業が採れる方策があれば、その方策に誠実に取り組むことが重要だ。SNSに現れている今の問題も同様だ。


2021年10月28日木曜日

覚え書き: 古い投稿を読み直すことが役立った一例

何度も書いているが、ブログとはWebLogの略称、つまり「航海日誌」という意味合いで、「作業日誌」と言えばそれですむ事柄ではある。それをWeb上に保存するからブログと呼んでいるのだが、このご利益は世界のどこにいても書けるし、読める。これが最大の利点である。さらに強力な検索機能があり、ノートを持ち歩く必要もない。これらの利便性から世に普及したわけだ。


時々、以前のブログを眺めるだけでも「思考の再発見」、「問題の再確認」に役立つことが多い。例えば、


仕事の方向性を決めるのは部下ではなく、上司、というよりトップであるが、全員が目的感を即座に共有できるわけではない。故に、日常の習慣としては上司の身になって、聞いた言葉の真の意味を思い返すことが習慣となっていた。これが「忖度」である。

自分の属する組織はプラスになる事をやっていると信じなければ仕事をする気にならない。しかし、組織は目に見えず、自分こそ組織であると信じるのは自信過剰だ。なので、まずは上司の真の意図を理解しようと努める。当たり前であったな・・・・。


こんなことを2年前に書いているのだが、すっかり忘れていた。これに関連して、追加的な疑問が浮かんできた。



ごく最近、世間で強調される言葉に《リーダーシップ》がある。「トップがリーダーシップを発揮して・・・」とか、「いま求めても得られないのはカリスマ性というもので・・・」など、「リーダーシップ」という意味の言葉が、色々な場面で、色々な期待をこめて、使われている。特にマスコミ業界に従事している人は頻用している印象がある。


ところが、引用した上の文章通りのことを公の場で主張すると、


仕事の方向性を決める前に、まず人の声に耳を傾けることが大事です。独善はいけません。コミュニケーションを忘れるべきではありませんヨネ。


というコメントがほぼ確実に誰かの声になって、はね返ってくるはずだ。つまり、これが最近の世相であって、おそらく誰しも同じ印象をもっているのではないだろうか?



鎌倉時代に数度にわたる弾圧にも諦めず自らの主張を貫いた日蓮の言葉


敵百万人ありとても我ゆかん


という強い意志こそ、リーダーシップにつながっていく本質ではないだろうか。


人の声にまず耳を傾けて・・・というのは、リーダーシップ型の人物像とはかなり違うし、ましてカリスマ型の人物とは180度正反対にあると感じる。


西郷隆盛はカリスマに近かったが、それは配下の薩摩武士の総意を代弁していたから、「数の力」で指導力を発揮できたのか、それとも薩摩武士の集団が西郷隆盛と行動をともにしようと集まったのでリーダーでありえたのか?つまり「人望」というのは、自分たちの願いを聞いてくれるから多くの武士があつまり人望となったのか、反対に西郷隆盛の願いをかなえてあげたいと人が共感し、多くの人が集まったので人望ができたのか?


小生は後者だと思うのだな。というのは、「総意」というのは崩れやすいものであるし、もっと願いをかなえてくれそうな人物が現れると、そちらに流れる可能性がある。一方、特定の一人の人物はブレることさえなければ、一貫した一人の人間として生き続け、実存し続けるわけだ。どちらがリーダーシップに近いかは明らかだと思われる。



「総意」というものについては更に議論がある。


経済学の消費者行動理論では、消費財の組み合わせに対するその人の選好を順序集合として前提するが(効用関数を前提するといってもほぼ同様だが)、一人一人の中では矛盾のない選好であっても、多数の人間集合について社会的選好を多数決によって定めようとすると、それはどうやっても矛盾が発生する。非論理的なケースが出てくる。つまり、社会的な順序付けを定めるのは不可能であることが分かっている。いわゆる《アローの不可能性定理》である ― 肯定的な結論であれ、否定的な結論であれ、このような問題意識をもって純粋学問的な探究を続けること自体、民主主義国がその民主主義を本当に深めることの努力の証でもある。


明らかに両立しない矛盾した要求が言葉となってマスメディアにしばしば登場するのは、


世間とはそういうものだ


といえば、それですむ話しだが、むしろそれが「世論」というものの本質であって、それに振り回されてしまえば、政治的意思決定そのものが非論理的になるのは必然の結果だ。


なので、一人のトップが最終決定者としていなければならないのは、当然の要求である。世論の矛盾は世論形成の限界として認めることが、どんな民主主義にも必要である。



最近の世相について小生が疑問に感じるのは


かたや「強いリーダーシップ」と、かたや「多くの人の声にまず耳を傾ける」という基本原則と。一体この二つはどうすれば両立するのだろうか?


ということだ。率直に言って、この二つは両立しないと思う。


実際には難しいでしょうが、優れた人はこの二つのバランスをとれると思うんですヨネ。


と割り切ってしまえば、「それは確かにそうだよね」となるわけだが、しかし「それはそうだよね」というのは、つまりは当たり前すぎて、実は何も言っていない、何も結論付けていないということなのである。現実の社会に落とし込むには、矛盾だと思われる問題に対して、ハッキリと結論を出さなければならないし、そのための議論や時間や手間を惜しんではならない。


基本方針を定めることは、足元の利益にはならないが、長期的にみて自分たちが強くなる必要条件であるからだ。


逃げてはいかん


というのは、やはり一般的な通則であるようだ。


2021年10月26日火曜日

断想: 「齢をかさねたマルクス主義者」を思い出す

今日は漠然とした投稿。

まだ10代の頃だったか、父から《マルクス主義》という言葉を初めて聞いたときの情景を覚えている。具体的に何歳だったのか思い出せないが、小生は非常なオクテであったから、《マルクス》という人名も正確には知らなかった。ましてや、そのマルクスがどんな思想をもっていて、どんな主張をしていたか、その頃の小生の知識には入っていなかった。

若い頃にマルクスに関心をもたないとすれば、その人はどこか問題がある。

そして齢を重ねてもマルクス主義者である人は、その人はどこか問題がある。

確か父はそんな風なことを語っていた記憶がある。

若い頃に関心をもった理念を生涯を通して持ち続けるのは、それ自体はすごいことじゃないかと、そのときは思ったものだが、その頃の父より齢をとってみると、ある意味、父の言っていたことは、その通りだと。父はひょっとして、誰か具体的な人物例を頭に思い浮かべながら、そう話していたのかと、改めて思い出したりする。その頃の父は、新規事業の立ち上げを任されながら、事業提携先の労使紛争激化で物事が進まず、懊悩の極にあった。


TV画面にもよく登場する(自称?)「専門家」という人をみていると、若い時分にはラディカルな反政府運動で随分名をあげていた人もいる。そんな元・活動家が、今は政府からも一目置かれるような政治評論家になっていたりする。

そうかと思えば、若い頃は地味で真面目な学徒・研究者であったのが、いつしか「●●主義者」に変貌し、いまでは反政府的な発言で世間を煽り続けている。そんな人もいる。

前者は、父が語っていた人物観によれば、典型的な人生航路を歩いてきたことになる。他方、後者は上とは真逆の逆コースを進んできたわけだ。


まあ、「人はいろいろ」だから、好きなように人生航路を選んで歩けばイイのだが、やはり若くて世間との係わりが少ない時分はどうしても考え方が純粋で、それ故に反権力、反政府的な怒りをぶつける気持ちになるのは、仕方がないと小生は思っている。それが、齢を重ねるにともなって現実の資本主義社会で自分も給料を得て、その中で仕事をして実績もあげてくると、自分が生きている生活基盤自体が「間違っている」と否定する心情にはならなくなるものだ。これも自然な感情であろう。何か問題があれば、問題発見と解決法を提案すればよいわけで、もし自分にそれだけの能力があれば、問題解決のために汗をかけばよい。


若い時分には問題意識をもたず、現実の社会を受け入れておきながら、齢を重ねてから批判的な姿勢を強め、ついには反権力、反政府、反執行部の立場から自分が現に暮らしている社会を声高に非難するという生き方は、ちょっと小生の感覚には合致しない。何だか<あつかいにくい犬>と似ている。


2021年10月25日月曜日

「日本病」の克服は処方箋はあるが実行が極めて難しい

本ブログでは経済学に関連した投稿が結構ある。中でも<労働生産性>は最初に最も関心のあった経済成長論の肝でもあるので何度かその時点で思いついたことを書いている。

いま<労働生産性>をキーワードにしてブログ内検索をかけてみると、こんなに何度も書いているのか、こんなことも考えたことがあるのか、とあきれてしまう。何度も投稿している割には、断片的でどこか核心に的中していない ― そこがマア、ブログというメモツールの特性なのかもしれないが。

たとえば『覚え書: 高齢化の中では、実質賃金が伸び悩み、労働分配率が低下するのがロジカルだ』の中では、

もし全員が現役世代であれば、実質賃金の上昇は人の暮らしが向上することと裏腹の関係になる。

が、高齢化が進むと言うことは、働かずして所得を得る人の割合が増えるということだ。高齢者全体が得る所得はその社会の労働所得ではない。

なんてことを書いている。更に、

 介護施設で働く人の数を増やさない一方で、一人一人にパワースーツ"HAL"を支給し、労働生産性、持続可能性を確保しようとするのは具体的な一例だ。パワースーツの装着可能性向上などR&D投資が増えるということは、典型的な資本深化の一例だ。もし人ではなく、全面的に介護ロボットにシフトするなら、もっと資本集約化が進むことになる。

これらの一連の事柄は、施設運営者の利益拡大 ― ヒトは高く(なければならない)、ロボットは安い ― の努力として進むはずだが、結果として現場で働く人、介護をされる人の満足度向上にプラスの寄与をすることを理解できないはずがない。

高齢化が進む中で賃金の規制や介護方法の規制など規制を全面的に撤廃すれば、機を見るに敏な経営者が勝ち組となる可能性が高い。しかし、社会的には望ましい状態を作ってくれる可能性が高い。

それは社会の進化というものではないか。

ここまで書いている。確かに、その国の労働生産性は平均的な資本集約度($K/L$)が高いか低いかで決まるものである。成長論の基本中の基本に忠実に考えていたことが伝わって来る。が、以下のように考えているのは、やや極端、というか現実無視であったかもしれない。

機械への代替が進む中で賃金上昇は緩和される。人は減るので労働所得の増加も抑えられる。他方、資本集約化されることで生産活動は全体として減ることはないので、利益が拡大する。労働分配率は低下する。

「悪い低下」ではないだろう。

ロボットの持ち主が得る報酬は賃金ではなくレンタル利益、つまり利潤である。

自動化とロボット化を進めることで、高齢化社会の生産活動が維持可能となる。この方向を促進することは高齢者の生活水準向上、格差拡大を縮小するという政策目的にも寄与するはずだ。

さすがにこれは「違うでしょう!」と言われるに違いない。現在の経済問題は、実質賃金の上昇がもたらす「労働から資本へ」という流れではなく、ただ単に、労働生産性がある分野で上昇することもなく、ただただ日本国内の実質賃金が全体として低下してきていることにある。高い実質賃金を支払える効率的な企業が日本国内から出てこない。かつてのリーディング産業は海外との国際競争に敗れ去って国内から消滅したか、でなければ海外に流出してしまった。流出する片側で新たなリーディング産業が育ってくるはずが、それがない。あっても成長できずにいる。そこが大問題なのである。

今朝もカミさんが好きな「羽鳥慎一モーニングショー」につきあって視ていたのだが、総選挙を控えているためか、現在の経済問題と今後の経済政策の方向がテーマであった。近年の実質賃金の低下トレンドが「大問題」であることは、民間TVも勉強しているのか、問題意識としてはもっているようだった。コメンテーターの指摘をよく聞いていると、いま日本に求められているのは

保護したり、規制を強めることではなく、弱い企業組織を淘汰し、リーディング産業に人が流れていくように道を開くことにある

ちゃんとこれを明言している。

しかし、

新自由主義によって日本社会は悪化しているので、これを(逆に)改革して、弱者に寄り添う政策が実行されなければならない

と。やはりこんな意見が多数(反論と意識しているわけではないのだろうが)出て来てしまっている。日本で「廃業」や「解雇」につながる話しは、タブーとも言えるほどに社会的な拒絶感が強い言葉である。そのため、話全体としては

カネを持っている階層に増税で負担してもらう(しかないナア・・・)

と、こんな誰もが賛成しやすい、追い詰められた末の議論が、記憶に残ることになる。実は、ここにこそ日本人の生活習慣病にも似た「日本病」という経済状況の背後で働く社会心理的原因がある。


番組の中でも提案があったが、企業の内部留保や有資産階層が保有する金融資産に資本課税するとする。それを財源に年金、定額給付、児童手当などの社会保障拡大を進めるとする。もし万が一、こんな方針で進むとすれば、もはや再び日本経済が20世紀の輝きを取り戻すことは不可能になるであろう。祖父が創り上げた財産を子、孫の世代になって消費に食いつぶす行為とどこが違うだろうか?「資産」というものは、「生活」に使ってしまえば、なくなるのであって、もう戻ることはない。100年の苦心を3年で散財するのは、よくある話だが、これと同じ主旨の「提案」を「名案」だというトーンで堂々と語る風景を画面を通してみていると、悲劇であるのか、喜劇であるのか、小生にはもう分かりませヌ。


民間企業も富裕階層もそうだが、余った金はただ余っているわけではない。資産は運用しているわけである。例えば、日本には一つもない利回り8パーセントで配当を払ってくれるアメリカの投資ファンド「エイリス・キャピタル(ARCC)」や同じたばこ企業でも日本のJTより高配当が期待できる"British American Tobacco(BTI)"で運用したりする人は多いだろう。日本国内で、資本課税を強化し、資金を回収するように誘導して、政府がその資金を税として吸収して、それをカネの足りない階層への社会的給付に充てて分配するというのは、「福祉国家」といえば耳に心地よいが、所詮は《花咲じじいのばらまき》である。ばらまいた分、日本人の財産はなくなる。何度かばらまきを繰り返せば、あとは海外からカネを借りてばらまくしかない。海外からカネを借りれば返済地獄が待っている。これでは国家経済戦略もなにもないのだな。余ったカネはカネを生み続けるように投資するのが肝心で、いかに散財するかを考えるのは経済政策になっていない。

ホント、「ワイドショーのプロデューサー、このこと分かってます?」と思いながら、カミさんにつきあって、最後まで視た朝であった。

余剰資金をもった家計、企業なり国内の経済主体が、日本国内で運用する投資先が見当たらない。だから、アメリカや中国、インドその他海外の企業や投資ファンドの株式、債券を購入する。国際収支統計でいえば、資本収支にみられるこの赤字傾向が、日本の経常収支の黒字傾向と表裏一体の関係にある。日本は「貯蓄超過病」、「過少投資病」にかかっている。これが問題の本質である。「貯蓄超過国」は本来なら需要不足で国内生産そのものが低下しなければならないが、日本は政府が超過貯蓄を国債で借り受け、政府支出を高い水準に固定しながら、それで国内生産を維持している。なので、民間は黒字、政府は赤字である。その国債を日銀が買ってくれるのが今の日本である。民間はできたカネを海外に投資する。なるほど「カネは天下の回りもの」だが、根っこには日本の中には投資したいものがないという根因がある。だからカネは海外へ流れ出て、海外の事業家が助かり、ますます日本国内は非効率となり、賃金も低迷する結果になる。


要するに、日本国内で積極的なビジネス展開が出来ていない、これが根本的原因であって、まさに民間にこそ《低迷日本》の主因があるのだが、その主因を解決できないでいる日本政府にも大いに責任がある。


故に、為すべきことは


  1. 新たな成長産業にカネが流れる環境をつくる。<国内投資優遇税制>は寧ろ必要な政策である。これが第一歩だ。先日の投稿でも触れたが、安倍一強と称された政権であっても、この課題を日本はなおクリアできていない。その分、解決が難しくなっている。とはいえ、流れるべきカネをもっている家計、企業はまだ国内に多く存在する。それは救いであって、まだ日本は土俵を割ってはいない。
  2. カネの流れ先を海外から国内に変えるためには、海外投資と同じ程度の収益が期待できる投資先を日本国内に創らなければならない。《ビジネス創出》である。これもまだ日本はクリアできていない。インキュベーション段階から株式新規公開(IPO)に至るまでの《創業支援システム》になるが、これは日本の金融業の経営ミスとばかりは言えない。新規産業の立ち上げが厳しすぎるのだ。つまりはビジネスに優しいオープンな環境にしなければならない。特に、医療、教育、データ通信、情報、農林水産業は岩盤のような規制で守られている保護産業であるが、ビジネスチャンスの宝庫でもある。門戸を開くことが最重要の課題だ。そうすれば日本のカネは再び日本国内で運用され、投資へと向かい、海外からもカネが入るようになるはずだ。
  3. 1と2をクリアできるとする。そのあと、カネだけでは駄目だというステージになる。カネだけではなくヒトが流れなければ新たな産業は成長できない。つまり、労働市場の流動化こそ問題解決のもう一つの核心である。労働市場が柔軟化されれば国内の衰退産業から成長産業へと解雇・離職・転職が進むばかりではなく、有能なヒトが海外からも入ってくる。そうなって初めて成長するべき産業が日本で十分に開花する。この点はほぼ全ての経済学者が(ホンネでは)最も強調したい点であるはずだ ― 提言しないのは社会的反発を怖れているからだろうと推測している。

つまり、日本が富裕国から並みの国、並みの国から貧困国へと地盤沈下したくないのであれば、いま行うべきことはもはや決まっている。決まっているし、それは経済学畑の専門家であれば概ね誰もが既に分かっていることだ。ただ、ものを言いにくい社会的雰囲気がある。これが最も大きな問題なのである。

やれ「〇〇主義は間違っている」とか、「△△主義をもう一度見直すべきである」とか、そんな「主義」の問題ではないし、そんな神学論争がこの期に及んで大事であると考えるとすればアホの証拠である。そのくらい、日本が取り組むべき課題はもう分かりきっている。一流の外国人政策顧問を招いても、世界的に評価されている真っ当な日本人専門家に問いただしても、まず同じことを提案するはずである。ところがこんな提案をすると日本人の神経を逆なでする。政治家は国民におもねるばかりで、なお悪いことにそんな姿勢を「国民に寄り添う」と美化している。「日本病」の核心がここにあるのは間違いない。

コロナ対策でも、「先ずやるべきこと」についてはもう「定石」が定まりつつある。検査拡大、医療基盤強化、ワクチン・治療薬開発の三つを徹底することだ。同じように、経済成長軌道への復帰のための方策も、世界的にはもう「定石」が固まりつつある。あとは、その定石を実行する《ヒト(と組織)の問題》である。


19世紀終盤から第一次世界大戦にかけてイギリス経済は斜陽化が懸念された。資金を海外へと投資する富裕階層の行動には批判が集まった。しかしながら、イギリスから海外への投資が投資を受けた国々にとっては支援の手となったのも事実だ。こうして完成された「大英帝国」は第二次大戦後に解体への道を歩んだ。それでもイギリスは慣行的な政策思想にこだわり、ついに1980年代に「サッチャー改革」という荒療治を余儀なくされることになった。イギリスの場合は「失われた100年」と言うべきで、さすが「大英帝国」と称された分、その衰退劇と復活劇にも大きなスケールを感じる。

イギリスの例は巨大だが、実は日本にとってもっと身近な参考例もある。それはドイツである。

「いまは昔」というべきかもしれないが、東西ドイツ統一後のドイツ経済は極めて不振であり、21世紀になる頃には「ヨーロッパの病人・ドイツ」と揶揄されていたものだ。この「ドイツ病」を解決したのは労働階層を支持基盤とする社会民主党・シュレーダー政権であり、とりわけ労働市場改革が今日のドイツ繁栄に寄与してきたことは、今ではほぼ全ての専門家が合意している ― 日本国内の政治家、マスメディアは耳が痛いのか、あまり真面目にとりあげてはいないが。

このように日本の《成長戦略》は、戦略としてあるといえばあるのだが、実行には困難が伴うのも事実だ。何よりメディアの無理解があるし、いま必要なことは日本人の拒絶感に触れるものばかりだ。自己利益のために意図的に謬見を公表する人物も多いし、その種の煽りに「煽られやすい」という日本の大衆の軽薄さも必要な政策を断固実行することの困難を増している。それに、日本の政党には有能なブレーンが乏しい。

戦略策定には、これも「今は昔」の「臨調」、「臨教審」なみの臨時的大組織を期間限定で設け、産官学労の人材を網羅するような大風呂敷を広げなければ社会的合意が得られず、実行にはつながらないだろう。しかし、これも旗をふる人がいれば、の話しである。

理屈はこうなるはずなのだが・・・・

太平洋戦争を避けるためには「なすべき事」は分かっていた。それが出来なかったのである。分かってはいたが、実行できる人がいなかった。今も似たような状況かもしれない。今後、10年程度をかけて、再び全面的敗北への道を歩むのではないかとも予想される。



2021年10月23日土曜日

ホンノ一言: 国民性に合わせて政治はされるものなのか?

 COVID-19に関連して久しぶりの投稿。

いうまでもなく、コロナ・ウィルスは万国共通で、どの国という国の違いはウイルスにとっては何もわかっちゃいないし、どうでもよいことだ。それでも国によって感染動向に違いが出るのは、それぞれの国の国民や政府が違ったことをするからだ。(ファクターXなどという言葉もあるが)因果関係は基本的にはこうだろう。


イギリスで感染者数が再び増加の傾向にあり、こんな記事が出るに至っている。

キングス・カレッジ・ロンドンのティム・スペクター教授(遺伝疫学)は制限解除について、「ワクチン接種と自然免疫によって、早々に勝利できると期待して行われた」と語る。「それだけではうまくいかないということが分かった」

 英政府は20日、ワクチンを主な対策とする戦略を強化する一方、一部の医師や科学者が必要性を指摘しているマスク着用の義務化やワクチン接種証明などの措置に関しては、導入する必要は今のところないと述べた。

(中略)

 ボリス・ジョンソン首相は英国の「免疫の壁」がウイルスを制御すると見込んでいた。ある程度までは、その通りになった。英国では夏の間、感染者が目立って急増することはなかった。ただ、感染レベルが大きく下がることもなく、8月から9月にかけては1日あたり2万5000~4万人で一進一退が続いた。

 ここに来て、感染は再び増加している。21日の新規感染者数は7月以来初めて5万人を超え、先週の感染者数は前週比18%増となった。

Source: Wall Street Journal(日本語版)、 2021 年 10 月 23 日 03:42 JST

イギリスはワクチン接種率の上昇を根拠に早々に行動規制を撤廃するというギャンブル(?)に打って出たものの、デルタ株に関してはたとえ接種率が90%を超えても集団免疫にまでは至らないと専門家は警告を発していた。とはいえ、ワクチンを接種すれば、重症化、死亡等のリスクは格段に小さくなるということも明らかになってきた。

どうやらイギリスは、1日5万人の感染者が出て来てはいるが、行動規制撤廃の方針は変更しない構えである。確かに、ワクチン接種数の増加、未接種者数の減少、治療薬の登場が続く中、むしろ感染するなら感染して、

最大多数の人々が最大数のコロナ抗体を保有する

ワクチンであれ、実際に感染するのであれ、こんな社会状況に至るのであれば、感染拡大も正に「天のなせる計らい」であって、社会が均衡するまでの道のりにすぎない。こんな視点も明らかにある。

さすがに「功利主義」発祥の地・イギリスである。悪く言えば、結果良ければ全て良し、という政策思想に近い。が、もしワクチンを義務化しないのであれば、イギリス流のアプローチが正しいスタンスと言ってもよいと小生は考えているわけで、英政府の思考には論理が通っている。

他方、アメリカのリベラル派経済学者として著名なポール・クルーグマンはThe New York Timesのコラムで以下のように書いている。抜粋して下に引用しておこう:

But the biggest thing that could bring fast relief would be undoing the skew in demand by making people feel safe buying more services and fewer goods. The way to do that is by getting the pandemic under control, above all by getting more people vaccinated.

And how can we get more people vaccinated? Mandates. No need to spend time here rebutting claims that requiring workers or customers to be vaccinated is an assault on liberty: Sorry, but freedom doesn’t mean having the right to expose other people to a potentially deadly disease. At this point we can also dismiss claims that requiring vaccination will disrupt the economy: While many people told pollsters that they would quit rather than take their shots, in practice employers that have required vaccination have experienced only a handful of resignations.

In other words, what our economy needs now is a shot in the arm — or rather, millions of shots in millions of arms. And vaccine mandates will provide those shots, in addition to saving lives.

URL: https://www.nytimes.com/2021/10/19/opinion/vaccine-mandates-us-ports-supply-chain.html

Source: Tne New York Times, Oct. 19, 2021

コラム記事のテーマはワクチン接種それ自体ではなく、米国内でサプライチェーンの渋滞が発生しているということである。その主因としては、調理器具、健康保健器具などの耐久消費財購入が激増していることが挙げられる。つまり需要急増に物流機能が対応できずにいるのだ。

実際、以下の図が記事の中で示されている。米国・セントルイス連銀が運営するFREDが作成している。


耐久消費財が急増しているのは、サービス消費がひかえられているからである。サービス消費を控えているのは、コロナ感染のリスクをアメリカの消費者が心配しているためである。故に、いま必要なことは《モノを買うのではなく、安心してサービスを楽しめる》、そんな社会を実現することである。

クルーグマンは、社会に《安心》を広げるための特効薬は《ワクチン接種義務化》であると断言している。同じことは先日の投稿でも書いているが、この位の理屈は誰もが(ホンネでは)分かっているはずだ。

義務化は自由を侵害すると人は言うが、全員がワクチンを接種すれば、感染がなくなるわけではないが、ほぼ確実にカゼ程度の病気となり、過渡に感染を心配する社会からは脱却できる。誰もが安心して外食を楽しめるし、ジムにも通える。それを妨害する自由は誰ももっていないのだ、というのがクルーグマンの主張である。

実際、アメリカでは官公庁、民間企業でワクチン接種義務化が進んでいる。しかし、義務化は職場単位で行われ、全てのアメリカ人に対する義務ではない。だからクルーグマンの主張は、(いまのところ)ややラディカルで、過激である。


さて、日本は・・・、である。

日本は新規感染者の増加に極めて強い拒絶感がある社会ではないだろうか?とすれば、考え方とすれば、日本は基本的にイギリスではなく、アメリカの流儀で抗体保有者を増やすのが本筋だという理屈になる。

ところが・・・

北海道でも行われ始めた旅行の「道民割り」、正式には「新しい旅のスタイル」と呼ぶそうだが、割引は有難いが分割された幾つかのエリア内の旅行に限っての話しだ。加えて、北海道コロナ通知システムに登録することが求められているが、ワクチン接種証明書(未接種は陰性証明書)の提示は義務ではない―申し込み時にワクチン接種済みであることを回答する欄があるのだが、接種証明書を持参せよとは記されていない。どうも、どこかが「生ぬるい」、というか「シャキッとしていない」というか、
公金をつかって割り引いてくれるのは有難いけれど、何らかの《衛生証明書》の提示義務付けくらいやったらどうなんですか? しないんですか? エッ、しない、それはなぜ?
どこかグジュグジュしている行政のこの姿勢が、日本の民間全体にも「感染」して、民主党から政権を奪還した安倍政権・菅政権の9年間、実質的に大きな決断はなにもしてこなかった。大事なことはほぼ全て先に延ばしてきた。嫌な事は先送りしてきた。防衛政策はともかく、こと日本経済に関してはホノボノ暖かい量的緩和、ゼロ金利政策に頼りっぱなしだった。まるで低血圧患者だけでなく、みんなに昼寝をすすめ続けるようなスタンスだった。金融業界、自動車業界など個別業界、個別タテ割り省益を超えた<日本国まるごとの護送船団政策>。こんな<グジュグジュ感>がまだ今もあるということを改めて実感しているところだ。

反対を説得してやる。反対を押し切ってやる。反対者に発生する損失は賛成者から補償を行ってでもやる。「反対があるのでやらない」というのでは、議員にはなれないし、なるべきでもないし、まして政治家をするのは無理というものだ。



 


2021年10月21日木曜日

ホンノ一言: 久しぶりに「団塊の世代」の足跡をみたような気がして

今年のショパン国際ピアノコンクールで、日本人が2位と4位を獲得したというニュースが飛び込んできた。同コンクールと言えば、中村紘子さんを自動的に連想するので、改めてWikepediaではどう紹介されているのだろうかと思った。

その最後にこんな下りがあった。

1999年頃、母校である慶應義塾中等部から招かれてリサイタルを行った際、演奏をはじめてもいっこうにおしゃべりを止めない生徒たちのあまりの態度の悪さに演奏を中断し、静かにしなさい、と叱責した。しかし生徒の方はそれで静かになったものの、保護者のおしゃべりはやまなかったという。また演奏終了後、楽屋に挨拶に来た校長から「よくぞ言ってくださいました」と声をかけられ、本来おしゃべりをやめさせるのは校長先生の仕事だろうに、世も末だ、と慨嘆したという。

Source: Wikepedia

1999年に中学生の児童をもつ保護者ということは、小生よりはやや年上の世代、つまり有名な《団塊の世代》に該当するわけで、

なるほど・・・このお人たちは、こんなところでもこんな風であったのだネエ

と納得したのだ。

もちろんこう書いたからと言って悪口ではない。戦争直後にまだ小学生であったいわゆる《焼け跡派》の無軌道振りともどこか違っていたあの先輩たちは、それでもすし詰めの学級編成、受験競争、学園闘争を潜り抜け、社会に入ってからは戦後日本のポスト高度成長、とりわけ「バブル景気」を土台で支え、そして「バブル崩壊」から「不良債権処理」までの泥沼の中で中核部隊として戦い抜いた歴戦の勇士なのである。

前にも投稿したことがあるが、小生は「団塊の世代」と呼ばれる先輩たちに、尊敬と郷愁をもっている ― 確かに騒々しくて閉口するような鬱陶しさを感じる時はあるのだが。

江戸幕府も三代将軍・家光になった時代、かつて戦いに明け暮れ、いまは老人になっていた戦国武将の粗暴な感覚と言動に、殿中の礼儀をわきまえた若い世代は眉をひそめたと伝えられている。

「世も末だ」と慨嘆されたその不作法ぶりが、いかにも「あの人たち」という感じがして、懐かしく思い出した次第だ。

小生も、高校生だった時分、学校に招聘された評論家・江藤淳氏の講演を聴いていたとき、居眠り位ならよかったのだろうが、退屈になった多数の生徒が私語・おしゃべりをするに及び、壇上の江藤氏から叱責されたことがある。その江藤氏も故人となり、小生も齢をとった。叱責されたことも、多少の縁であって、懐かしい思い出になった。

最近も「松坂世代」という言葉を耳にしたが、「△△世代」という言葉に社会レベルの内実が伴っているのは、やはり「団塊の世代」をおいてはなく、今後、多分野の社会科学的な研究対象にするとしても、十分意義があると思っているのだ。


2021年10月20日水曜日

断想: 古いものが残るところが日本の魅力だとすれば

東海道新幹線がまだ「夢の超特急」と呼ばれていた頃、小生は父の勤務する事業場がある伊豆の三島市で暮らしていた。いよいよ東京・新大阪間が開通して、三島から(まだ三島駅がなかったので)熱海乗り換えで東京まで1時間ほどで行けるようになった時、日本中が新幹線の最先端振りに誇りを感じたのだろうか、その頃の祝賀ムードはまだ記憶に残っている。中には『鉄道発祥の地イギリスの田舎ではまだ蒸気機関車が動いているんだぜ』、『ホントかよ!』などと、「昇る日本、沈む英国」を象徴するような大法螺もどこかで聴いたような覚えがある ― 本当にその頃イギリスの地方へ行くと蒸気機関車がまだ現役で走っていたのかどうか、調べてみたわけではないが、ずっと時が経過した後、イギリス人のAndrew Lloyd Webberが創ったミュージカル「スターライトエクスプレス」の中では、日本の最先端列車「新幹線」を排して、旧型の蒸気機関車が観客の拍手喝さいを集めるという筋立てだったことを思い出すと、本当にイギリス人は「蒸気機関」という技術に対してプライドをもっていたのだなあと、今更ながら思う。

小生が、某経済官庁に入って小役人の修行を始めたころ、ファックスが先進的な通信技術であった。共同通信から24時間送られてくるファックス・ニュース。シュウシュウと音を立てながら吐き出されるファックス紙には、刻々と最新の情報が印刷されていたのだが、大学では目にしたこともなかったその風景に小生は脅威を感じたものだ。ジョン・レノン暗殺事件を知ったのもそのファックス・ニュースによってだ。

いまやファックスは時代遅れの技術の象徴であるが、ここ日本ではまだ現役である。小生の両親が眠っている霊園とのやりとりはファックスか電話に限定されていてメールは利用できない。季節が来ると予約の有無を問い合わせてくる三笠市の山崎ワイナリーもファックス送信用の注文書を封書で送ってくる ― さすがにここはメールでも注文を受け付けているが。

ファックスばかりではない。買い物ではやっと電子マネーが増えてきたが、近所のスーパーのレジではまだ現金で支払っている人が多い。それも高齢者に限らず若い人を含めての事である。戸籍謄本を遠方から取り寄せたい場合、申請用紙をダウンロードして印刷し、紙に記入してから封書で送る手間をかけている。

昨年の「特別定額給付金」という名称だったかナ、オンラインで申請した内容を東京都内の某特別区では一度プリントアウトした後、記入の誤りがないかどうか担当者が読み合わせをして、それをクリアしてから給付手続きに入ったそうで、オンライン申請は人手がかかるので紙で申請してくださいという笑い話のような要請を区民にしたそうだ。

そんな情況をみて、中国や韓国の国民が日本社会の古臭いモタモタぶりを嘲弄していたと耳にすることが多い。これは丁度、小生の少年時代、日本人が遅れた英国人を嘲弄したのと同じことだろう。

その英国にも、日本は労働生産性や実質賃金上昇率、経済成長率など多くの指標で再逆転されてしまっている。20世紀後半の50年間の蓄積があるので、遺産を食いつぶしながら、まだ経済規模では英国を上回っているが、このままのペースでいけば経済規模でも再逆転されて日本の国力は明治から大正にかけての頃とそう変わらなくなるに違いない。


イギリスも古いものを残すことにこだわりがあった国だ。日本も、何でもそうだが、古いものが残る国である。

必ずしもそれが悪いとは小生は思わない。日本を訪れる外国人観光客、その中には中国や韓国の人もいるわけだが、多くの人は日本社会の魅力の核心として「古い文化がなくなることなく溶け込んで残っている」という点をあげる。

古い文物は100パーセント一掃して、すべて新しいものに切り替えれば、確かにその時代のトップランナーになることは出来る。しかし、そんな戦略を日本人は本能的にか、賢明にもか、あるいはノロくてバカだからか、拒絶するのだな。何だかそこに日本人に対して海外が感じる安心感、というか魅力があるようでもある。つまるところ

与えるものは愛され、勝利を求めるものは愛されず

人間社会の鉄則はいまも生きているのかもしれない。

盲腸は手術をして切り取ってしまえばいいわけでは必ずしもない

これはずっと昔、近所の医師から聞いた言葉だ。そのお陰で、一夏のあいだ虫垂炎で苦しみながら、小生の腹の中にはまだ盲腸が残っている。

不要になったものがまだ残っている。が、残りはしたが目に見える実質的な機能はもう担っていない。「盲腸」にまで退化している。この点こそ、最も大事な着眼点であろう。


2021年10月19日火曜日

一言メモ: 「小選挙区制」は日本の政治状況に適していないのでは?

昨日、今日と、次の衆院選に向けて与野党党首討論会(?)が相次いで催されているようで、TVでも発言のサワリを切り取っては放送している。が、どこも似たりよったりで「この際だからいいでしょう」と言いたげな《ばら撒き公約(?)》を語っており、いかにも「国政選挙」にふさわしいレベルの議論はサッパリ出てこんネエ、と。そう感じるのは小生だけだろうか?

そもそも、現在の日本の衆院選は小選挙区で当選するのは1名である。マア、比例代表制も併用されているので、与野党合わせて幾つあるのだったか、5党か、6党か、数えもしなかったが、確かに多数党が並立してもよいことはよい。しかし、現在の衆議院の定数は465人で、うち289人が小選挙区、176人が比例代表になっている。やはり小選挙区制がメインとなっている。実際、政治的影響力をもつ有力な議員はどの人も小選挙区で当選している。

比例代表制で投票するなら、確かにどの政党に投票しても、自分自身の投票は集計された最終結果に必ず反映される仕組みである。多数の政党が党首討論会に参加することには意義がある。しかし、小選挙区では当選は1名。1名以外の政党候補者を記した票は「死票」となるのだ。


もしも全ての議員が小選挙区で選ばれるものとする。こんな場合、どんな結果になるかを考えることは結構重要だ。

  • 拮抗する2大政党であれば、死票は(よほどひどい選挙区割りでなければ)半分弱で済む理屈だ。確かに一理ある制度だ。
  • 小党が分立している状況ではどうだろう? 例えば政党の数が10党もある場合、小選挙区ではその中の1党のみが議席を得るため、概ね9割弱の票が死票となる理屈である。この理屈は各選挙区で成り立つので、全国で集計してもそうなる。日本人の9割弱は希望とは違う選挙結果に不満をもつだろう。つまり、小党分立で小選挙区制を採るのは明らかに不適切である。よく言われることだが、小選挙区制は2大政党制を前提していると言ってもよいだろう。それでも死票は半分程度には達する。
  • もし支持率が4割前後あるガリバー型政党が1党あり、残りの6割を5野党(6野党でもよいが)で分け合っているとする。こんな状況では、全ての小選挙区でガリバー政党が勝ちを制する地滑り的大勝利を得そうである。支持率が半分に届かないガリバー政党が国会を舞台に何でも出来そうである。故に、ガリバー型の政党勢力分布でも小選挙区は適していない。
  • なお、ガリバー型状況下で「野党統一候補」を出すのは、上に述べた当たり前の結果を回避する野党間の妥協、というか取引である。もし文字通りの野党統一候補を全選挙区に出せるなら、統一野党が勝つ確率が高い。が、どの政党の候補が統一候補になるかで野党間の妥協が整うかが問題になる。ロジカルに考えると、小規模野党の候補はせいぜい1名がどこかの選挙区に立ち、残りは主導権をもつ野党どうしの妥協と取引で候補が決まるはずだ。なぜなら小規模野党は小選挙区では(例外的な実力者でなければ)当選する可能性がないので、1名が統一候補となり当選のチャンスが得られれば、政権に参加できるだけで御の字であるからだ。やはり小選挙区制は小規模政党を淘汰しがちである。とはいえ、小選挙区制であっても野党が結集さえすればガリバー型政党に勝つチャンスは大いにある。
  • 小選挙区制の導入に熱心だった小沢一郎議員は2大政党形成か、野党結集か、方法論は多々あれど、大体はこんなロジックを頭に描いていたのだろう。

なるべく「死票」を出さないことが民主主義では大切だ。この点を重視するなら、小選挙区はあまり良い選挙制度とは言えない。

よく「比例代表制」が中途半端な選挙制度であるという批判をみるが、たとえばドイツでは比例代表制で各政党の議席を決定するという「比例を主とする小選挙区制」を採っている。フランスは小選挙区だが、決選投票のある2回投票制をとっている。イギリスは典型的な小選挙区制だが、勢力分布としては保守党と労働党との2大政党制に近い。小選挙区制を採るリアルな根拠がある国が英米である。

日本は比例代表制を併用しているが、小選挙区制の方にウェイトがある。総選挙が迫りにわかに「野党統一候補」などと言ってはいるが、野党間の政策合意は断片的で、実際に政権を得た後にどんな基本方針をとるのか不明である。そもそも《公約》などは守られないものである。日本で2大政党制が実現する時は、共産党勢力が消失し、自民党が保守とリベラルに分かれるまで来ないだろう。それまではずっとガリバー型が続くと予想している。

日本は典型的なガリバー型の政党分布にある。小選挙区制を主とする選挙制度は(本来は)実態に合っていないと結論してもよいのではないだろうか。

もし比例代表制を主とするなら、自民党+公明党で衆議院の3分の2超の議席を制するのは難しいのではないか? たとえ自民党であっても「非常に強力な政党」の地位を維持することは難しくなるのではないか? おそらく選挙のたびに(自民党を軸とするケースが多いだろうが)新たな連立政権発足に向けて政党間協議、政策調整が繰り返される情況になるのではないだろうか? たかだか一つの党の総裁である総理大臣の裁量で国会を解散するという事態もむしろ減るのではないだろうか? 政治が行き詰れば、内閣は単に総辞職をして、新たに政党間協議が行われ、新内閣が形成されるのではないか? 国会議員は誰もが士気を高め、意外な若手が登場する機会もむしろ増えるのではないだろうか? こんな、ある意味《イタリア的政治》への方向が日本にとって悪いことだとは思えない ― 天皇の役割を新たに考え直した方がイイかもしれないが、これには(当然)憲法改正が必要になる。

2021年10月17日日曜日

断想: 江藤淳『海は甦える』を再読して

社会がどう変わっていくかは、数名の政治家やエリートが何をするかではなく、国民全体の経済状況や科学技術の活用、さらには国民意識や価値観が決めていくものであるし、現にそうであるというのが、いわゆる民主主義的な世界観、社会観、歴史観だと括っても間違いではないはずだ。例えば、トルストイの『戦争と平和』は、こんな世界観で展開されている(と言われている)。小生は、いわゆる「ドストエフスキー派」で、トルストイの作品にはどうにも没入できないので、真面目な読者ではないが、伝えられるこの社会観にはまったく同感なのだ。

ところで今読んでいるのは実に旧い本で、江藤淳の『海は甦える』、その第2巻なのだが、裏表紙を開いた余白には亡くなった父が「52年11月6日 了」と書き込んでいる。もちろん昭和である。父が亡くなったのは比較的若い年齢であったから、もう44年も昔の書き込みだ。

実は、その中にこんな下りがある。日清戦争後に露仏独が日本に加えた<三国干渉>を当時まだ存命中だった勝海舟が批評した言葉で、引用しているのは筆者の江藤淳だが、小生もずっと以前に『海舟座談』で読んだ記憶がある。少し長いが覚え書きまでに引用しておこう:

今の大臣で そうろう なぞ言うて、太平無事の時は空威張りに威張り散らして、少し外交のことがゴタリとすれば、身振るいしてじきに縮み込む先生ばかりだから実に困るのだよ。見なさい、遼東半島還付のあのざまはどうだね。そのくせ伊藤さん(=伊藤博文)や陸奥などが、生意気なことをしゃべくるのが片腹痛くてたまらないのよ。・・・

講和談判のときかエ、あのときはおれの塾にいた陸奥宗光が外務大臣として衝に当たっておった関係もあり、かたがた当局へ一書を呈して注意したわけサ。おれの意見は日本は朝鮮の独立保護のために戦ったのだから、土地は寸尺も取るべからず。そのかわり沢山に償金をとることが肝要だ。もっともその償金の使途は支那の鉄道を敷設するに限る。ツマリ支那から取った償金で、支那の交通の便をはかってやる。支那はかならず喜んでこれに応ずるサ。今日にしてこの敷設をなさざれば、他日1マイルの鉄道を布くこともかならず欧米の干渉を受くることとなるよ。この何億という償金が日本に来たときは、軽薄な日本人のこと、かならずや有頂天になっていたずらに奢侈に耽り、国が弱くなるばかりだよ。ところがこのことも、お天狗の連中から一笑に付せられて、ご採用がかなわったわけサ。戦争に勝っても、国内の驕りが今日のごとくでは、輸入超過で2,3年のうちには元の木阿弥さ。それで国人は驕り、外国からは嫉まれ、経済戦では敗北し、八方ふさがりだよ。

日清戦争(それと日露戦争)の当時は、幸にして莫大な償金を原資にして日本は(金銀複本位ではなく本格的な)金本位制度を採用し、グローバルな国際金融ネットワークに入る途を選んだ。また、勝海舟が批判するほどに当時の政治指導者は浮かれていたわけでもなく、概して明治から大正期にかけて、日本の国際外交は独善を排する協調的な傾向を一貫させていた(とまとめてもよいだろう)。

むしろ海舟の批判は、大正3年(1914年)から7年(1918年)まで続いた第一次世界大戦による空前のバブル景気と、国際収支黒字基調の定着、戦後の国際連盟設立で「世界の5大国」に認知される中で、日本国内に浸透した「日本型の大衆民主主義」が醸し出す国民意識に対して、より適切に当てはまったのではないかと、感じる。 

ラッキーなことに日清戦争当時は、日本国内の庶民がいくら浮かれても、その集団が国を動かす政治的影響力を発揮するまでには至っていない。戦前期・日本では議院内閣制が採られず、国会は多数派政党が支配するものの、行政府のトップである総理大臣は天皇の大権によって指名されていた。まだまだ非民主主義的なお国柄であったから、日本は国を誤ることがなかったと、そうも言えるかもしれない。戦後日本の民主主義を理想とする人たちは飛び上がって怒るかもしれないが・・・

このように考えると、ごく数名の指導者の責任観と洞察力で国全体が間違った方向へと進まない、浮かれ騒ぐ一般庶民に対する防波堤になることで歴史が形成されることもある、そんな歴史観もやはり成立する余地がある。引用した下りを読むと、こんな感想ももってしまうわけだ。

実際に、日本で(男性のみであるが)普通選挙が導入されたのは大正から昭和へと移る境目である大正14年(1925年)のことだ。その後の日本の政治史が惨憺たるものであったことは周知のことで、昭和7年(1932年)に犬養首相が海軍青年将校たちに狙撃・暗殺されたときも、一般庶民は腐敗した(と煽られて信じた)政治家の暗殺を評価し、犯人の助命を嘆願する署名が当局に殺到し、新聞にはそんな世論を支持する記事で溢れかえった。

これが《ポピュリズム》なのだが、こうした事例をみるにつけ、「堕落した民主主義」よりも「理想の君主主義」のほうが善い社会であると(小生には)思われる。もちろん「堕落した君主主義」よりは「理想の民主主義」の方がよいことは当然だ。意見が分かれるのは、「理想の民主主義」と「理想の君主主義」と、このどちらが善いかだろうが、多分これには正解がない。これはもう、その人その人の好きズキなのだと考えているが、著名な政治学者・丸山真男が言った(と記憶している)『民主主義に期待できない美点は優雅というものだろう』というのはその通りかもしれないし、そもそも日本人が誇りとする<サムライ>や<武士道>も、非民主主義であった旧い日本社会を前提にして日本人が磨き上げてきた日本人のロールモデル、いや日本人の理念型なのであり、行動倫理である。戦後の民主主義・日本がこのさき成熟して行くうえで、生きたサムライが求められているのかどうか、非常に疑わしいと思う。

しかし・・・どんな生き様が美しいと感じるか?これは理屈ではなく感性の問題であって、多くの日本人が共有している感性は、やはり長い歳月を通して何世代も伝えられ、受け継いできたものである。「サムライなんてもう古臭い」と言う人がいても、多くの人が古くてもいいと思うなら、社会の感性は変わらないのである。この変わらないものが《伝統》であり、《文化》だろうと思うのだ、な。確かに「ガラパゴス化?そんなものはクソくらえだ」と見栄を切るのはそれ自体が「間違っている」とは言えない。《美意識》がかかっているからである。

本当に日本人は民主主義という理念に美意識という点からも共感しているのだろうか?民主主義の社会は、損得勘定と一体となって運営されるものであるし、常に政党・結社があり、互いに抗争し、政略をめぐらし、権力闘争をするかと思えば、妥協をする社会なのである。こんな社会が清らかな社会であるはずはない。「君主」がいないというこの一点が本質である。民主主義・日本の基盤となる日本人像を日本人はまだ見いだせていないのではないだろうか?見いだせていないからこそ、「日本国と日本国民統合の象徴」をわざわざ憲法に明記する必要性があるのではないか?だとすれば、日本人の心理の根っこは、明治維新で憲法に明記された天皇制の頃と、あまり大きく変化はしていないことが分かる。


2021年10月13日水曜日

ポスト・アベノミクスは変わる国際環境の中で考えるべきだろう

今日の投稿は岸田新内閣発足をきっかけにした経済テーマ3連発の最終回になる。

アベノミクスをどう観てきたかについては前々稿に書いている:

小生はアベノミクスは失敗だと考えている。それは、格差拡大を放置したから、という野党が掲げる理由からではない。そうではなく、

安倍政権は多くの規制を温存し、ニュービジネス成長の機会を奪ってきた

多くの規制を温存したのは自民党の《党益》の基盤であるからだ。

いわゆる《岩盤規制》には<特区>で形だけを整え、肝心要の労働市場改革は政府主導の賃上げ要請でその場しのぎを続けてきたわけで、アベノミクスの成長戦略については「論評に値せず」というのが小生の感覚だ。 それでも株価は好調であった。それは「アベノミクス=超低金利政策」であり、

海外でビジネスをする企業は利益を増やせる

一口で言えば、そんな構造を国内では定着させてきたからだ。高生産性の製造業は海外に流出し、低生産性の第3次産業が国内に残る以上、日本全体の労働生産性が停滞し、そのため実質賃金も低下し、流動化を免れた正規社員の処遇が守られる一方で、非正規就業者に経済的低迷がしわ寄せされてしまったのは当然の理屈である。

ごく最近年になって日本の農業が輸出産業として脚光を浴び始めているのは、新産業の成長が阻害されていることで製造業の主力が従来製品の国際競争力を維持するため海外へ移転し、残った国内製造業の平均生産性が低下した。その裏返しで、農業が結果として比較優位を強めたということであって、この二つのプロセスは表裏一体のロジックにある。この辺の理屈については、ずいぶん以前にも投稿したことがある。

要するに、日本では成長の停滞と分配の不平等がシンクロして進行してきたということなので、成長戦略に手をつけないまま、分配の公平を実現しようとしても、それは「みんな平等に貧しさを」という戦略にならざるをえないのだ、な。『新自由主義によって格差が拡大した』という野党と一部マスコミの主張が真実ならまだマシというものなのだ。海外では確かにそうも言えるが、この日本についてはそうは言えない。そう認識する方が本質に近い。

最近10年間程度の国内経済を小生はこう観てきたのだが、Wall Street Journalは少し違うようだ。

先週、岸田氏が安倍晋三元首相の成長促進政策の一部を撤回する可能性を示唆し、市場は大きく反応したが、その理由は容易に想像がつく。安倍氏が2012年に首相に就任し、財政出動、金融緩和、構造改革を3本柱とする「アベノミクス」を打ち出して以来、日本の株式市場はアジアで最高のパフォーマンスを上げてきた。1株利益(EPS)の増加がけん引役となり、TOPIXは2倍超に上昇した。外国人株主の比率も2012年の26.3%から拡大し、今年は30.2%に達している。これは、コーポレートガバナンス(企業統治)改善の兆しと、投資家に優しい規制環境が後押しした結果だ。

Source:Wall Street Journal(日本語版)、2021 年 10 月 12 日 01:52 JST 

確かにアベノミクスは、財政出動、金融緩和、構造改革の3本柱で成り立っていた。しかし、現実には「財政出動+金融緩和+構造改革」ではなく、「財政出動 or 金融緩和 or 構造改革」であり、結果としては「金融緩和」のみであったのが実態だろう。そうすれば、企業は儲かるに決まっている理屈で、WSJの認識に間違いはない。しかし、企業利益の源泉のより多くは海外であって、日本国内の生産性は低迷した。それでも完全雇用を達成したのは、低い賃金と低生産性のサービス産業がヒトを吸収したからである。雇用者数が増えても、生産性は低迷し、賃金は増えないために、共稼ぎを余儀なくされ、夫婦二人が働いてやっと生活ができる。そんな国民生活が広まった。これでは、生活水準がまだ低かった昭和30年代のほうが、まだしもみな幸福であったに違いないと小生は思うが、違うだろうか?

ただ、Wall Street Journalの次の下りには賛成だ。

格差の拡大に目を向けることは重要だが、高齢化が進み、何十年にもわたって成長が鈍化している日本では、成長と生産性の向上に重点を置くべきだ。日本企業は2兆ドル(約226兆5200億円)の手元資金を抱えているが、これは新型コロナウイルス感染拡大が始まって以来、さらに膨張している。

 競争とガバナンスを強化し、より生産性の高い投資を奨励する政策は、企業に賃金引き上げを強要したり、先進7カ国(G7)の基準では既に富の分配が比較的平たんになっている国で直接的に再分配しようとしたりするよりも、おそらく労働者を助ける効果が高いだろう。

しかしながら、前々稿とは事実認識がやや異なっている。寄り道になるが、この点を補足しておきたい。

 先進7カ国(G7)の基準では既に富の分配が比較的平たんになっている国

これはつまり日本のことであるが、WSJは以下のように認識している:

 国内総生産(GDP)に占める雇用者報酬の割合は、2019年には56%となり、2000年代前半のどん底からはわずかに上昇したものの、1990年代後半の約60%は大きく下回る。こうした低下傾向は、中国や米国など多くの他国でも観察されている。だが経済協力開発機構(OECD)によると、日本の所得格差を示すジニ係数は、2018年には0.334と、米国や英国などに比べはるかに低水準にとどまっている。

労働分配率は世界的に低下傾向にある。この中で<相対的貧困率>という尺度では日本の不平等は世界の中でも憂うべき状況にある。しかし、WSJは<ジニ係数>をみている。このジニ係数では、日本の不平等状態はまだマシだ、と。しかも、社会保障給付などによる再分配後の所得で見ると、日本のジニ係数は最近15年間を通して低下トレンドにあり、平等化してきている。どうやら、この辺の事実に着目しているようだ。

URL:https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-08-09.html

少し時点は遡るが、日本のジニ係数を国際比較した資料もある:

URL: https://www.stat.go.jp/info/today/053.html

確かに、1980年代半ばから世界のジニ係数は上昇(=不平等化)トレンドをたどってきたことが分かる。その中で、日本の不平等度はそれほど高いわけではないのも事実だ。

ただ、上の図でも見るように、当初所得の分配において、日本のジニ係数も最近年になって非常に悪化したというのが事実であることに違いはない — 安倍政権になって、その当初所得のジニ係数もそれまでの上昇から低下へと転じているのは見過ごせない事実だが。

コロナ感染対策の国際比較を行っても明瞭な違いが視られるが、やはり近年の日本人の最大の弱点は《過剰なリスク回避》に陥っている点だろう。

ことビジネスに関する限り、中国、韓国、欧米、インド、その他の諸外国が、アグレッシブでシェア略奪的な拡大投資戦略に打って出る、つまり経営戦略で言う《Top-Dog Strategy(勝ち犬戦略)》で攻勢に出てきた時、その標的になった日本は、身を切って応戦するだけのコミットメントを出さず、<懸命>ではなく、ある意味で<賢明>であろうとし、戦略的代替関係のセオリー通りに競争を避け、戦いを避け、むしろ競争のないオンリーワンであろうとし、高付加価値少量生産を志向するリスク回避戦略を(例外的起業家はいたものの)大勢としてはとってきた。 日本企業に目立つこんな<リスク回避戦略>を一貫して採用することによって、日本国内の創造的破壊が鈍り、その反対側で海外のライバルがどれほど日本企業の基本戦略を好機として、拡大投資を加速し、市場を奪い、最近20余年ほどの間に日本がどれほどの経済的損失を招いてきたか、もう計り知れないだろう。

であるので、

より生産性の高い投資を奨励する政策

この方向は、現時点において《最良の経済政策》であるのは間違いなく、この点ではWSJの課題認識に大賛成なのだが、この9年間(=8+1)のアベノミクス下でも国内投資に臆病であった日本企業が、岸田内閣に変わったからといって、そんな積極的投資に方向転換するはずがない、と。小生にはそう思われるのだ、な。昨日まで臆病であった慎重居士が、担任の先生が変わった途端に、積極果敢なリーダーになれるとは思えない。

ところが足元の情勢をみると、対中国関係の悪化による国際環境上のリスクが高まりつつある。加えるに、岸田政権になって日本国内の最低賃金が引上げられる可能性も高まる。どうやら石橋を叩いても渡らない臆病な日本企業であっても、生産拠点の国内回帰、効率化投資の実行、労働生産性上昇の三つを実現することに(ようやく)本気になるのではないだろうか。そんな見通しが出てきた。

ポスト・アベノミクスは、米中対立の継続、日中関係の悪化、日韓関係の悪化、軍事リスクの高まりという国際環境の変化の中で、高生産性分野の海外流出に潮目の変化が生じ、それと合わせて国内の賃金引き上げが進み、それによって労働節約的なAI、ICT投資が加速する。そうして職場の効率性が向上し、労働生産性が上がり、賃金上昇のトレンドが定着する。これが今後しばらくの基本的なロジックだと考えている。経済成長はすべて賃金の上昇につながらなければ息切れするものである。


2021年10月10日日曜日

ホンノ一言: 「新しい資本主義」は中々良い理念だと思うが

岸田新内閣の理念『新しい資本主義』が不評である。

現時点においてベストの政策かどうかには議論の余地があるが、決して悪くはない、中々イイ線を行っているのではないかと小生は思う。

安倍内閣が新自由主義的な経済政策を推し進め、そのために安倍・菅政権9年間で所得分配の不平等度が大いに上昇したという指摘は、前稿でも記したように、単なる思い込みであって、データと合致しない認識だ。

世評とは異なり、安倍内閣が実際に実行したことは、新自由主義とは矛盾した様々な規制の温存であって、結果としては「相対的貧困率」で測った所得格差は、むしろそれまでの上昇から転じて低下へと向かってきている。

ただ、そうだとしても、日本の経済格差が他のOECD加盟国と比較して相当ひどい状況になっていることは事実である。この日本で「新自由主義」に基づいた経済政策が真の意味で推進されてきたという言い方が的を射たものであるのかどうかは、《労働市場の硬直性》をみるだけでも、小生には大いに異論があるのだが、いまや《分配の不平等》が解決するべき問題として実存するという認識は間違ってはいない。その通りだ。例えばの資料として(やや古いが)以下を引用しておく:

URL:https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h23honpenhtml/html/zuhyo/hyo1202.html

日本の格差拡大は、確かに相当酷いものがあると言わなければなるまい。もはや「一億総中流社会」という言葉は死語であって、そんな時代がかつてあったというのは、「闇市」や「狂乱物価」と同じく「歴史上の事実」となり、記憶の中にしか存在しない。不平等度が日本でも上昇へと転換したのが欧米諸国と同じく1980年代半ば、ということは既に40年近きに及んで経済格差は拡大を続けてきたわけである。その間、日本の主問題は平等よりは、むしろ成長を取り戻すことであった。その成長には欠かせない決め手を断行することに日本は余りにも臆病であった。こうなってしまったのは「むべなるかな」である。


他方、野党が言うように、安倍内閣の経済政策でもたらされた結果は(単なる?)株価の上昇であって、それは資産格差をますます拡大させるもので、不平等を一層加速させるものであった、という言い方は経済理論としてはおかしい。

アベノミクスは、要するに低金利政策、というよりゼロ金利政策の継続だった。金利を引き下げれば資産収益に変化がなくとも全ての資産価格は上昇する理屈だ。故に所得分配には何も変化がなくとも、ゼロ金利を維持すれば資産評価額は上昇し、資産分配の格差は拡大する。

そもそも低金利政策は、ビジネス継続や起業にとっては優しく、住宅取得や教育支出を支援する。反対に、「高等遊民」というか金利生活者にとっては決して有難くはない政策なのである ― たしかに上昇した株を売却すれば譲渡益は生じるが、売却した時点で金利・配当収入はゼロになるのだ。所得を得ようとして再投資をするなら、高騰した資産を買い直すことになる。株価も地価も上がっているのだ。実質的なメリットは実は大きくはない。低金利による株価上昇をもって、富裕階層が利益を得て格差が拡大したと説明するのは『車が坂をのぼるとき、後席に座っている人が前席の人より頭が低くなって、前方を見づらくなる』という苦情と似ている。

この辺のことはKrugmanもNew York Timesに書いている。

安倍政権下の低金利は確かに株価上昇をもたらしたが、拡大した経済格差は株価上昇ではなく、株式配当・譲渡益の(一律)20%分離課税によって税負担率に天井が形成されるという税制上の不備からもたらされた所が大きい。岸田内閣は(安倍・菅内閣とは違って)この点にも目を向けている。「すぐには手をつけない」と語っているそうだが、さすがに財務省との縁が濃い宏池会の内閣だ ― むしろ税制上保護されている高所得層の税負担率を上げる仕事は、それこそリベラル系野党の仕事であるはずだが、日本では不思議なことに自民党の政治家がこれを実行したいと語っている、まるで野党は要らないと言いたげでもある。いずれにしても、こうした点も含めて、岸田内閣の経済政策は中々良いのではないかと(小生は)思っている。

経済政策がもたらす結果は印象論ではなかなか把握できないものだ。

「中流社会日本」が日本の強みであると意識してきたからこそ、平等を守ろうとして、成長を犠牲にした。そのしわ寄せが非正規就業者層に集中してしまい、平等は正規社員内部での平等へと退廃してしまった。いま「不平等社会日本」が紛れもない現実の日本であると自覚すれば、その時には平等には目をつぶってでも成長を心底から願望するであろう。成長を真に求めるからこそ、トリクルダウンも底上げも実現できる理屈だ。

小生のホンネはこんな感覚なのだが、まだまだ、日本国民の総意としては「中流社会日本」を取り戻すことであるようだ。その意味では、岸田内閣の政策理念は間違いではないと思う。