兵庫県知事選といえば、それ自体は関西の一つの県の出来事、つまりはローカルな話題にすぎないのだが、県議会から満場一致(?)で不信任決議をされた斎藤・前知事が、失職後に再立候補するという珍しい選択をしたところ、昨日の選挙で当選(再選)した。今朝はこの結果についてワイドショーでコメンテーター達が色々な意見を述べている。
この結果は、今春以来のTV放送の大勢とは真逆である。「なんで?」という奴だ。トランプ大統領が予想を覆して圧勝したこの秋の米大統領選でもメディア企業は間違えた。「二度も!」という奴である。日本の既存メディアは
痛恨の連敗だヨ
と、こんな心理かもしれない。
当選の最大のカギは、斎藤氏がYoutubeやXなどSNSを巧みに、最大限、活用したことにある(と報道されている)。この点は、先ごろの東京都知事選で大躍進をとげた石丸伸二氏に重なるところも多い。
そこでTVが力説したいように見えるのは
(民主主義国の?)選挙でSNSが活用されるという社会状況をどう評価するか?
これをクローズアップしたいようである。
SNSに有権者が踊らされるのはイケナイ
聴いていると、どうやらこんな批判を既存メディアはしたいようである。
であれば、本当にこれはイケナイ変化なのだろうか?
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既存メディアは全体としては
有権者はSNSに踊らされた
という指摘が多いようだ。が、思うのだが、
SNSに踊らされる人は確かに多いが、同様にTV、新聞、週刊誌など既存メディアに踊らされている人も多い。
要するに、誰であれ、この民主主義社会で暮らしている人は、世間で流通している《情報》に踊らされているわけであって、おそらく年齢層によって、自分が選ぶ《情報元》が異なると。こんな事実があるだけなのだろう。そう思っている。
某TV局の人気コメンテーターは
公職選挙法の制約もあって、選挙期間中は特定の候補を支援する(と受け取られる)放送はできないのです。一方、SNSは自由です。それでいいのか?今後、検討するべきだと思います。
などと、見解を開陳している。 しかし、こういうことを主張するのであれば
企業・団体が特定の政党を支援するために献金をするのは禁止するべきです
こんな意見もおかしいわけで、(巨大?)メディア企業が放送・出版を通して特定の政党を支持するのと、ビジネス界が言葉ではなく資金を寄付して特定の政党を支持するのと、企業・団体が政治に影響力を行使しようと意図する行為としては同じではないか?・・・この疑問に明解に回答する必要がある。
禁止をするなら両方を禁止する。認めるなら両方を認める。このどちらかであると言うならロジックは一貫する。
日本国内の大手TV局、新聞社は、電波許認可、再販価格制度によって寡占が認められているという点で、公共性をもつ。だから、特定の政治的立場を標榜することは禁止されている。これが基本的なロジックだと小生は理解しているが、理解の仕方が違うのかな?
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今回の選挙結果について小生が感じたことは、
情報産業でも、仲介サービスは衰退し、今後は直接取引が主体になる。
こういう見通しである。
実は、ずいぶん以前の投稿でこんなことを書き残している ― すぐに過去の覚え書きを検索できるところがWebLogの利点だ。正に「航海日誌」であり「ログ」である。
偽装商品が経済犯罪であるのはどうしてだろうか?不当表示が処罰されるべき企業行動であるのは何故だろうか?それは、当該商品に関する正確な知識・情報が欠如している場合、市場による資源配分は適切なものではなくなる。これが経済学の大事な結論であるからだ。不正確な情報の流通が、社会経済の正常なメカニズムに対する障害になるからだ。・・・マスメディアが販売する商品は、文字通りの情報であり、知識であり、見方である。<情報>の伝達と<流言>の伝達は識別困難であることが多い。<情報>と<洗脳>も外見は類似している。正確な情報を得るには取材コストを要するが、流言の取得は低コストである。創作は更にコストが低い。社内統治が必須である理屈だ。
一定の労働と資本を投入すれば、何らかのアウトプットは必ず生産される。しかし、労働価値説は適用できないわけであり、頑張ったから出来たものに必ず価値があるわけではない。価値は<価値>として市場が受け入れることによって、初めて価値になる。価値の生産に市場規律は不可欠なのだな。マスメディア企業は、販売する文章に含まれている事実的要素と虚構的要素を自由にミックスしてよい。そんなことが言えるはずはない。日本語という壁と様々な保護行政に守られ、なすべき社内統治を怠っているという事は本当にないのだろうか?再販売価格制度によって価格が規制され(=保護され)、事業としての存立に国民的負担が投入されている以上は、報道活動、報道内容について、定期的に市場外の審査を受けるべきではあるまいか?
既存のメディア企業は、社会で毎日発生している事件や出来事を、情報の需要者の関心に最もマッチするように編集したうえで、提供している。その意味では、情報の小売り、卸売りを行っており、情報の仲介サービス機能を果たしている。 情報を提供する場を多数の視聴者が視ると期待されるからこそ、コストを負担して宣伝を委託するスポンサーが現れ、一般視聴者は無料で情報にアクセスできるわけである。
20世紀ならば、個人個人が自ら必要とする情報を収集するには取得コストが高く、まずはマスメディアが提供している報道を利用するのが、最も効率的だった。社会共通の情報の基礎レベルを構築するうえで、メディア企業のインフラ性、公益性は多分に担保されていた。
しかし、インターネットが(完全に?)に普及した現代においては、情報収集コストが格段に低くなった。情報コストの破壊的低下、情報商品の価格破壊、知識ベースの拡大こそが、Googleの創立者たちが夢見た最終ゴールなのである。その夢が見事に結実したのが現代世界である。これが小生の基本的認識である。
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たとえば兵庫県知事選の立候補者は、メディア企業を経由せずとも、有権者に直接メッセージを伝えることができた。
既存マスコミは、「TVも新聞もメディア、ネットも同じメディアです、しかしネットは自由でTV、新聞は公選法の平等原則にしばられてしまう」と言うが、これは乱暴(というか低級)な「語呂合わせ」であって、為にする表現であると思う。
そもそも厳密に考えれば、「インターネット」は(典型的には)分散的なHTTPサーバー上の仮想空間を指しているわけで、その空間に多数の情報発信者と受信者が自由にアクセスし、その結果としてインターネットをメディア(=媒体)とする情報取引が行われるわけである。ネットと言う仮想空間には、あらゆる情報が流通しており、利用者は自ら情報を取捨選択するわけだ。
利用者が、あらゆる情報から自らが求める情報を取捨選択することは悪い事なのか?
ネットは(それ自体)情報を販売するわけではない。他方、TV、新聞は情報を販売する。ネットでは発信者の情報を素のままで入手するが、TVや新聞ではエディター(=編集者)やプロデューサー(=制作者)が介在する。その分、メディア情報は間接的で、「情報クッキング」が必然的に混在する。ネット情報は、(基本的には)オープンで仲介者がいない分、ダイレクトに情報が入るのである。
情報の直接入手と間接入手と、確かに一長一短ではあるが、このような違いが、情報の品質を評価する際に、かなり致命的に重要となるケースがある。その一つが「選挙」だと小生は思う。
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いずれにしても・・・
投票する際に参考とするべき情報の取捨選択は、メディアの編集者に委任するのではなく、有権者自らが情報を選ぶ権利がある。編集されない元のままの見解を候補者から聞く方が情報の品質としては高い。これが基本だろうと小生は思うが、意見が違う人が多いのかな?
一言で言えば、
SNSが選挙運動に活用されることは、それ自体、イノベーションであり、社会の進歩である。
基本的には、こう認識するべきだと小生には思われるのだ、な。
もちろんフェイクニュースやデマの流通もまた懸念される。しかし、立候補者と有権者がダイレクトに繋がっている場が形成されていれば、というか形成できているならば、誤った情報は政治家個人と有権者が直接に触れる中で、スクリーニングできるはずであるというロジックになる。このロジックが、現実にどの程度働いているかは、検証が必要である。
有権者、つまり大衆と政治家がダイレクトにつながることが、「衆愚政治」を招くきっかけになるのかどうか、これまた今後の検証が必要だ。
とはいえ、政治家(によらない)が、有権者に直接に語りかける場が提供されれば、TV・新聞が「価値」を提供できる機会は減る。故に多くの有権者がメディア企業から離れる。その分、影響力が低下する。これがロジカルで一般的な結論だと思う。
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有権者、マスコミ企業、候補者の関係は、経済学の"PrincipalーAgent"理論が当てはまるだろう。
マスコミ企業は、"Mass Communication"の名称のとおり、情報の「大量伝達」を担う会社であるわけで、選挙の時の候補者はマスコミ企業を有権者全体だと解釈して、発言する、つまりマスコミ企業は《有権者の代理者》として振る舞うわけだ。
「前ネット時代」においては、有権者は候補者本人について十分な情報を持たない。だからメディア企業が提供する報道を信用する。
メディア企業は、有権者の代理となって、有権者の利益を誠実に追及することが原則である。しかしながら、プリンシパルである有権者は、エージェントであるマスコミ企業が自分たち(=有権者)の利益を誠実に求めているかどうかが分からない。
そんな場合、エージェントはプリンシパルの《無知》に乗じて、自己利益を最大化する誘因が形成される。
つまり、候補者が、どんな構想をもつ、どんな人物で、信頼できる人物なのかどうかを誠実に有権者に伝達するよりは、マスコミ企業の自己利益が最大化されるような情報伝達の仕方を選ぶ。エージェントであるメディア企業が、不誠実な報道をしたとしても、プリンシパルである有権者はメディア情報を信じざるを得ない。なぜなら候補者に関する情報をダイレクトに収集するには取得コストが高すぎるからである。
これが「前ネット時代」の報道のロジックである。
ちょうど、間接金融方式が主であった以前の日本で、リスクの高い融資を行い、結果として不良債権を累積させた銀行と類似した構造の下で「報道の失敗」が発生する可能性が高いわけだ。
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考えてみれば、戦後日本の小売り産業の覇権は、個人商店からスーパーへ、スーパーからコンビニへ、そして今はネットと宅配へと、支配的な業態は激しく進化した。
良質な農家にダイレクトにアクセスできる小売り店舗が登場すれば、中売り業者から野菜を仕入れる個人商店は競争優位を失うし、そもそも中売り業者は淘汰されるだろう。
生産者と消費者が直接取引できる場が形成されれば、卸売り・小売りの中間流通部門は、必然的にスリム化される。これが経済の論理である。
情報市場でも同じだ。情報産業もコストと便益が伴う経済取引なのだから同じロジックが当てはまる。
もちろん情報の需要者は、一流の情報を欲している。一流の情報は一流の専門家が提供できる。しかし、(小生が視るところ)メディア企業は一流の専門家に意見を求めないことが多い。多分、それは一流の専門家は、何を書くか、何を言うかについて、メディア企業経営者側の編集権を認めたがらないからであろう。実際、一流の専門家はYoutube上に独自のチャネルを開設している例が目立つ。そこでも情報はダイレクトに取引されている。
いま情報の品質の選別が、情報市場において進行している。大規模メディア企業は、規模がもたらす高コスト体質に耐えきれなくなりつつある。価格破壊現象の中で退場しつつある。これが進行中のプロセスなのだろうと観ている ― 情報とは別にエンターテインメント産業としてみる場合はまた別である。
多くの産業で、激しい技術革新と産業組織の再編成が進行してきている中、メディア業界が、伝統的枠組みを維持しながら、保守的な企業活動を続けるのは困難だ。ましてインターネットとAI(人工知能)の時代においてをや、ではないか。別稿でも書いたが、TV、新聞、出版業界は全体として、最近では珍しい《人員過剰》あるいは《ワーク・シェアリング》が蔓延している状態ではないかと、小生は観ているのだ。アウトプットのレベルダウンは、メディア企業内部で編集規律が弛緩しているからではないかと憶測している。保護政策は保護されている産業内部でモラルの崩壊を必ず招くのである。
マ、TV業界や新聞業界の大手企業が、ネットに脅威を感じているならば、電波や紙メディアだけではなく、インターネット・メディアも活用して、自社の情報商品を販売すればよいだけのことだ。新規市場開拓は日本国内の普通の企業ならやっている。The New York Timesあたりは、ネット・メディアでWEB版を販売しているが、購読者数が1千万人を突破したようですゼ。定期寄稿者の面々も(政治的立場はリベラルな傾向があるが)一流だ。新規事業としてもうじき花が咲きます。NYTならネットを敵視するなんてコタア、なさりますまいテ。
その意味で、今回の兵庫県知事選は、ローカルな事柄ではあったが、経済現象としてみると、技術革新を通して情報産業でも流通合理化と再編成が進むという一般的問題の具体例としてとらえられる。そう思うのだ、な。
【加筆修正:2024-11-19、11-20】