2025年1月5日日曜日

ホンノ一言: 「女性初」の英断(?)で企業が成長するなら、「ドンドンおやりなセエ」ってことになるが、そんなに簡単にいくのか?

箱根駅伝はこの正月も盛況の内に終わったが、拙宅では特に上の愚息が好きで、今回も2日から3日にかけて宅に泊し、TV観戦にはりついていた。

観ている時には気がつかなかったが、

 日本テレビ杉野真実アナウンサー(33)が4日、インスタグラムを更新。箱根駅伝の第4区で、女性アナウンサーによる初めての中継地点での実況を行った杉野アナは、実況を終えた感想をつづった。

Source:YAHOO! JAPAN ニュース

Date:1/5(日) 6:00配信

Original:日刊スポーツ

こんな記事がネットにアップされていた。

これまた《女性初》ですか

そう思いました。

それもイイんですけどね

とも思いました。


これって、『人手が足りないンですよ』と。本当はコレですか?…と。何だか「国民男女総動員体制」を連想してしまうのだ、な。

こんな風に各分野で「女性初」の英断(?)を繰り返しつつ、仕事の現場ではイノヴァティブな改革が進まず、社会全体で「働き方改革」などと叫びつつ、実際には過去のやり方の延長を続けながら、働く人の人数で勝負と思いきや「人出不足」の現状に危機感のみが高まる。

何しろ、最近の最低賃金大幅引き上げに着いて行けない一部の県では

最低賃金引上げに耐えられない中小企業を支援する補助金が十分でない

こういう驚嘆に値する愚痴が、愚痴が愚痴ではなく、政策に対する正当な苦情として、もっともらしく伝えられる。世間はそれに同情する。

政策的な最低賃金引き上げに伴う経営不振や利益減少は、国に責任があるのだから、更なる経営努力ではなく、税金で保障してもらいたいわけだ。

そんなお国柄である。


言いたい本音を隠して、問題の根本的解決から逃げる経営の怠慢を美しい言葉で飾り、本当は為すべき経済政策を停めようとする。

この種の圧力は半端ではない・・・。

大体、(社内向け挨拶ならともかく)理念や価値観で企業を経営するべきではないでしょう。戦略はどうするンです?企業は何のためにあるンですか?

思わずそう感じるのだが、世間の受け止め方は、また違うのかな?

まあ、口を開けば『理念、理念、社会貢献』と企業経営者までが念仏よろしく唱えるのが、21世紀も20年余が過ぎた今の流行だからネエ・・・・21世紀は、案外、「宗教の世紀」になると語ったことがあるが、その通りの世相になってきた。

しかし、五濁悪世のこの浮世で、単なる理念を口で連呼しても、現実により良い社会になるロジックはないのだ。経済状況を改善したいなら、いくら気に入らなくとも、経済学の知識を活用する以外に道はない。

本来は英米社会に親和性のある英米発の経済理論が、日本社会でどれほど実効性があるかは、本気でやってみないと分からないが、日本社会の特性に立脚した学理がない(?)のだから仕方がない。

2025年1月3日金曜日

断想: そもそも他力思想の「往生極楽」という言葉は科学的意味を有するのか?

昨秋に受けた五重相伝を機に朝の読経を続けるようになった。これは前にも投稿したとおりだが、これまで職業生活を通して親しんできた科学的、というか《物質的自然観》のロジックに沿って考えると、信仰や救済、浄土といった精神的価値が、生死という生理学的現象と、そもそもどう関係しあっているのか?

こんな疑問がある。誰もが感じるはずのこの疑問に対して、正面から向き合わなければならない。

大体、仏教の浄土系宗派では「往生極楽」というが、これが我々をどう救済すると言うのか?

ここが分からないと、「他力」も「阿弥陀如来」も何もないわけで、それは禅宗などの自力思想が強調する「解脱」にとっても同じことだ。解脱したからと言って何がどう変わるのか?

こんな疑問は極めて基本的である。

他力思想から考えるとして、例えば、鈴木大拙の『浄土系思想論』には以下のような下りがある:

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である。……

本願を信じなくても、よってもって浄土に往生することの出来るというほど安全な純粋な善は、この世に存在しない……

善人はそのなせるところの善を必ず意識しこれを媒介にして、何かを求めんとする時、彼は直ちに善人ではなくなる。悪人といっても、もし彼にして一たび弥陀の光に照されたとすれば、その時に彼はその罪を除かれて、浄土往生人たる資格を得るのである。なんとなれば、弥陀は善をも悪をも一様に融かしてしまう坩堝ともいうべきもので、ここでは信のみがその絶対性を保持するからである。弥陀は創造主でないから、衆生に懲罰を与えようという考えを持たぬ。弥陀は普く一切衆生によって分有せられるところの慈悲の光である。

人間社会における《善悪》という価値は、阿弥陀如来による救済の場においては、一切意味を持たない。世間でいう「善人」、「悪人」とも、阿弥陀如来にとっては完全に平等であるというのは、善のイデアと神の審判とが相互に結び付いた西洋の思想とは違っている。

いま「世界観」と書いたが、最上行にある 

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である

がキーポイントになる。

「業」というのは、過去生、現在生、未来生を貫く、因果応報の連鎖のことで、宇宙の変動(=event、movement?)は相互に関連する因果関係による。その人が誕生時に負っている因果必然性を「業」とか「業縁」という観念で考えるわけだ。

なので、人間世界に生きる現在生において、善を為すか、悪を為すかという違いは、本人の自由意志がもたらすものではなく、「業縁」によって予め決定されている(と観る)。とすれば、確かに善人・悪人は平等ということになるが、最も分かり難いのは、このような世界観(倫理観とも言える?)を受け入れるにしても、

本願を深く信じて、浄土に往生する

なぜこれを心から人間の側から強く願うか?この一点だと思う。

そもそも「業」によって決定されている未来生があるのであれば、それを覆して、阿弥陀如来が救済するのは、論理矛盾ではないか?

こういう理屈になる。


ちなみに《本願》というのは、浄土系宗派では「常識」(?)に属するのだが、阿弥陀如来がまだ法蔵という人であったとき、48の誓いを「願」として立てて、これらが実現しないなら神の力をもつ如来にはならないと、そう誓ったわけだが、その中の第18願が宗派内では著名ないわゆる「本願」で

たとえ我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ

法然が唱えた専修念仏の有効性を根拠づける一文である。この伝説を釈迦が弟子・ 阿難に語る情景を記録しているのが、仏教の聖典(の一つ)でもある『無量寿経』である。ちなみにこの経典は「浄土三部経」の一つであり、後半部分で特に「悪」について書かれている所がユニークだと(勝手に)思っている。

他ならぬ仏教の開祖である釈迦が「阿弥陀仏」の存在を明言している以上、法蔵の願は全て実現されているのだろうということになる。故に「阿弥陀仏国」(=「極楽」)も実在し、第18願がある故に、「本願」のとおり現在生が終わる時、「極楽」という名の阿弥陀仏国に赴くことも、可能である。これが他力信仰の基本的論理である。


ただこうした思考に対して、唯物論的な科学的思考をする限り、認めがたいという現代世界の多数派の宇宙観があるわけで、実証のしようもなく、そもそもこの二つの見方は永遠に平行線をたどらざるを得ない。

だからこそ、

浄土に往生するというのは、なぜそれほど願わしいことなのか?

死ねば何も無くなる以上、死後の往生極楽など、架空の話しで意味がないではないか? 

こういう疑問は必ず生まれる。

* 

他力思想については、最近になってから何度も投稿してきた。たとえば小生自身の「世界観の変化」を要約したし、浄土思想や他力思想なら9年も前に既に投稿している。


多分、平安期10世紀から11世紀にかけて浄土信仰が非常に高まった背景として、源信による『往生要集』が可視化した地獄絵図の衝撃があった。これが先ずあったと想像する。地獄よりは極楽に往きたいと願うのは当然だ。その後、法然、親鸞が生きた平安末期から鎌倉初期という時代は、それまでの「末法」の感覚に加えて、現実に内乱、天災が続いた時代だった。貴族、庶民を問わず地獄絵図への恐怖は現代人の想像を超えていたであろう。内乱、動乱に明け暮れる中で浄土系仏教が救済宗教として受け入れられたのは偶然ではない。


では、科学主義が主流である現代世界において、なお浄土思想が有効であると考える根拠はあるのか?

それは、多分、因果関係から自然科学的に世界を理解するだけでは、「存在の真理」に達しえないという哲学的な立場によるのだと思う。


この世界は、原子、更には素粒子から構成されると観れば、元素や化合物、更には分子、高分子、生命は全て宇宙の本質ではないことになる。まして、人間がつくる社会や国、法律や学芸などは、とるに足らない幻になってしまうだろう。人間のやる事は、所詮は、この宇宙において意味なきバブルのような現象なのだろうか?

こんな虚無的なニヒリズムも確かに一つの立場だ。

しかし、ヒトにとって《世界》とは、決してモノクロームな原子や素粒子の集合体ではない。原子や素粒子が偶々結合して「事実存在」となった物体や生物から「世界」は造られていると認識する。外界にあるのは原子や素粒子だが、人間の意識が「ある」と認識するからだ。そう認識するのは、たまたまそんな物体を目で見たからではなく、それが何であるかを認識する知識をヒトが持っているからだ。これが「本質存在」に関する知識である。西田幾多郎が『善の研究』で述べているように、「世界」は意識の中にのみ存在する。

現に自らの中で活動している「自分」という精神的存在は、原子や素粒子の集合的運動として解釈するのは、無理というものだろう。即ち、「精神世界」という世界は確かに実在する。

考えてみれば、「社会」や「国」も実在はするが、物質として存在するものではない。

時間や空間は、カントが着目したように、人間が経験する現象を整理するための先験的な形式だ。時間という尺度に沿って考えれば、前世、生、死、来世という順序に整理される。しかし、生と死というのは、身体という物質の生成消滅のプロセスの一環であり、精神は身体の中に存在しているわけではない。

こう考えると、「精神世界」を「物質世界」とは区別して考える方が、ロジカルであって原子、素粒子の運動とは別の問題として、「精神世界」において実在するのは何かを考えないといけない。

こういう筋道になるだろう。


以上の議論を踏まえると、時間や空間という次元はもたない精神世界のどこに「自己自身」がそもそも帰属することになるのか?

こんな疑問は確かに疑問でありうる。

他力思想が強調する「往生極楽」という目的は、物質世界ではなく、精神世界において実効性をもつ言葉である。


今日のところは、まずはここまで。

雪深々 読経のあとに 湯をわかし

息と囲む すきやき鍋に 牛肉を

    これでよいかと 妻はとひつつ



2024年12月31日火曜日

覚え書き: 愚息としなかった話のメモ書き

一昨日は、いま札幌に勤務している下の愚息夫婦がやってきて、タラバ、ズワイを混ぜたカニ鍋を思う存分というほど大食して帰った。若いっていうのは、多分こういうのが至福のときであることを言うのだろうと思いながら見ていた。人間が人生で求めるものは、案外、シンプルそのものであるのかもしれない。

若夫婦とは色々なことを当然話したのだが、来る前はこんなことを話そうかなと想像することもあった。このまま忘れてしまうのも勿体ないので覚書にしておこう:

小生: 人が空を飛べるのは、飛行機が飛ばせているのであって、人が人を飛ばしているわけではないよね?

愚息: パイロットが飛ばせているのも事実だよ。

小生: パイロットは飛行機という機械の一部になって、決められたとおりに動作しているから飛行機が飛ぶんだよ。飛行機が能力通りに飛ぶためには、パイロットの自由意志は余計だ。自由に勝手に操作すれば、飛行機は飛ばないだろ?あくまで飛ぶのは飛行機であることは目に見るとおりだよ。

愚息: 確かにね。飛ぶのは飛行機だというのは間違いないよ。

小生: そう。人間が飛ばすわけではなく、飛ぶのは飛行機だ。そして、飛行機がなぜ飛ぶかと言えば、科学的知識があるからだ。知識の蓄積が飛行機を生んだわけだよね。科学知識は人間ではなく、自然の中に最初から法則としてあるものだ。それを人間は使っているに過ぎんわけだ。

愚息: それはそうだね。

小生: 飛行機を法に置き換えて考えるとどうなる?

愚息: 置き換えるって?

小生: 人が社会生活を安心して送れるのは「法」があってこそだ。法も知識が高度化するにつれて進化するものだ。その法もそれだけでは動かないよね。裁判官や検察官、弁護士という法律専門家が、法の一部になって、定められたとおりに行為するから、法が法として機能するわけだ。飛行機とパイロットの関係は、法と法律専門家の関係と、ちょうど同じだろ?

愚息: 確かに。

小生: 人は、自分たちの社会生活を守るために、法を尊重する。みんなに「安心」を提供できるインフラ、それが「法」だからね。だから尊重して守ろうとする。けど、それは法を動かす人を尊敬するのとは違う。尊敬する対象は法そのものであって、法を動かす人が自由意志にまかせて動かすべきではない。飛行機と同じで、こんな理屈になるよな?法を運用する人は、法が求めるとおりに、自分達の仕事に専念しなければいけない、とね。

愚息: 理屈はそうなるけどネエ・・・自由がないというのはどうなのかなあ?

小生; そもそも人は人を尊敬はしないものさ。人はすべて平等というのが素直な気持ちだよ。学問の師を尊敬するのは、師が伝える知識を尊敬しているからで、その気持ちを人である師に表しているわけだ。師が自分自身の動機に従って、自由に弟子を指導するとすれば、師に対する尊敬の気持ちも失せるだろう。

愚息: 意外とそんな先生、多いからね。

小生: おれにもそんな身勝手なところはあったからね。

愚息: そうなんだ・・・ 

愚息: すべて人は、煩悩から脱することができない凡夫なのさ。それでも師が伝える言葉が、学問に沿った真理であると思えばこそ、弟子は師を尊敬する。

愚息: 先生を尊敬するというより、伝えられる知識を尊敬するってこと? 

小生: 師は自分の意志で自由に語ることはできん。学問に従って語らなければ弟子の知識にはならない。あらゆる知識分野でこんなロジックがあてはまると思わないかい?

愚息: 教える側にも自由はないってことかな?

小生: 自由というより恣意というべきだな。自由という言葉の意味は結構難しいンだが、理に沿って、自らが自らを律して、こう語るべきだと語っている限り、実は何者にも強制されず、その点では完全に自由なんだ、な。欲望に任せて、思いのままに語っているときこそ、個人的な欲に支配されていて、欲の奴隷になっているとも言える。

愚息: う~ん、難しいなあ・・・ 

小生: 人は人よりも高みにあるものを尊敬するものサ。人である自分と同じ人である他人をそれ自体として尊敬する意志は本来はない。だからナ、学校時代にはよく「尊敬する人は誰ですか」って聞く先生がいるンだけど、この質問は本当は意味がないんだよ。「あなたが心から求める知識は何ですか?」、「あなたが身につけたい技は何ですか?」、「あなたが求めるものを伝えた人は誰ですか?」とね。技も芸も知識の特別な形だと考えれば、人がそもそも心から憧れて尊敬しているのは、人ではなく知識だと言うべきだな。

話しの主旨は

知は力なり

という単純な一点に過ぎない。

ソクラテスの「無知の知」とこれがどう両立するか?

プラトンに聞け、と言うしかない。

そのプラトンの真似事のようなこんな対話は、残念ながら行われなかった。『國稀』や愚息が持参した『九平次』を味わいながら、上のような理屈っぽい話をするのは、所詮無理というものであった。 


2024年12月27日金曜日

ホンノ一言: 国会議員が憲法の趣旨に反する発言をすることは十分ありうると思うが・・・

いまブレーク中の国民民主党代表(但し現在は役職停止中とのこと)玉木さんが、朝のモーニングショーで自党の政治活動について「悪質な印象操作」をされたため、「放送法4条(= 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること)の趣旨にも反すると思います」とネットで発信したよし。

そうしたところ、(一部では?)評価の高い元・衆議院議員で現・弁護士でもある菅野さんが

「何より玉木さんには、放送法4条を持ち出してメディア批判する政治家であってほしくないのよね。憲法感覚よろしくです」と記した

……こんな記事がネットには記されている(@_@)。


いやはや、典型的な「コタツ記事」であります。ここで「ネット」というのは、旧ツイッターで、現Xのことであります。

個人的に思うのだが、

国会議員は現行憲法をないがしろにする発言をしてはいけないのだろうか?

現行憲法を改変しようという意見をもってはいけないのだろうか?そんな意見をパブリックな場で述べてはいけないのだろうか?

数々の疑問が胸の中に湧いて参ります。

もし「こんな思想はまかりならぬ」とすれば、国会は憲法改正の発議も出来ない、と。そんな理屈になるのではないか?

もし国会が憲法改正を発議しないなら、国民投票も行われず、日本国民は憲法改正をする権利を行使することが、手続き上、実質的にはできないという理屈になるのではないか?

それは違うでしょう、と。そう考える立場に小生はいる。

国会議員は、現行憲法の規定に反する意見を持つことも出来るし、憲法改正を志すこともできるし、国民に自らの意見を訴えることもできる。

実際に、現行憲法に問題ありと考える人が国民の中で非常に増えれば、同じ考え方をする人物が国会議員に多数当選する確率も高まる。とすれば、現行憲法の問題を指摘する議員も急増し、憲法改正の必要性を公言する議員の数も激増する。そんな情況になる事も将来において十分ありうる。そう予想しておくべきだろう。

どうしても小生にはそう思えますがネエ・・・


もちろん選挙で選ばれたわけではない裁判官や検察官が公職にありながら、現行憲法をないがしろにする発言をするとすれば、それは当然、公務員としてあるまじき行為である。これは当たり前のことでありましょう。

民間とはいえ、法廷に立ちうる弁護士の立場から、憲法の趣旨に反する言動をすることが許されるかどうか? そこまでは畑違いのため詳細は知らない。 が、司法試験という国家試験に合格して職業資格を得る以上、現行の日本国憲法をないがしろにするような言動は慎むべきだとは感じる。

一方、誰であっても日本人なら主権をもつ日本国民の一人なのだから、誰しも憲法をどう考えて、どう発言するかは基本的に自由だ。

憲法は日本人の思想信条を統一するためにあるのじゃあない。

ホント、面倒くさいネエ・・・


ともかく、「言論の府」に席を置く国会議員に、特別職とはいえ公務員だから一般公務員と同じ理屈を当てはめられる・・・とは言えない。そう思いますがネエ。違った考え方をする人が多いのかな?

【加筆修正:2024-12-28、12-29】

 


2024年12月25日水曜日

断想: 車の電子キーが電池切れのあと、プリンターの突然死が来るかア……

 日記にこんな文章を書いたので今後の検索の便を考えここに転載しておきたい。公開には不向きな固有名詞の箇所は修正した:

昨日、年賀状を印刷していると、インク吸収パッドの容量限界に達したというメッセージとともに、10年程使ってきたプリンター「Epson EP-906」が突然動作しなくなった。突然死だ。ここ近年は、紙の年賀状を出す先は親戚に限っているが、カミさんの方の親戚がまだ印刷し終わっていない。吃驚し困惑もする。幸い、裏のデザインは最近の絵を入れて印刷済みであるので、カミさんはいま手で宛名書きをしている。

急遽、Amazonにエプソンの”EP-886AW”を発注する。到着は年末から年初にかけてということだ。

一昨日には、最寄りの寺の若住職が月参りに来た後、市場に行き、いわき市勿来町に住む弟宛てサーモン、銀鱈、ホタテ、イクラを発送したのだが、それが終わって郵便局に立ち寄って年賀状を買って帰ろうと思いながら、停めた車まで歩いて戻り、乗車しようとしたところ、何とキーが効かずドアが開かない。非常用のカギでドアは開くが、エンジンスタートできる鍵穴はない。緊急時の手順に沿って、キーのエンブレムをスタートボタンにタッチして、ボタンを押しても、エンジンがかからない!これには唖然とした。予定外の頓死だ。スマートキーの電池が(完全に!)切れて1個の「物体」に戻ったのだと推測し、そこからカミさんと二人で徒歩圏内にある生協方向へ歩き、途中にあるドラッグストアで電池を、生協の中にある百均でマイナス・ドライバーを買って、店内で電池の交換を行う。途中山道を通るがトラブルが町中で良かった。不幸中の幸いだ。

大丈夫かと思いつつ、また歩いて車まで戻ると、今度は障害なくドアが開き、エンジンもかかったので一安心する。雪道を往復小一時間の散歩となった。それにしても何の前兆もなく、突然電池が切れて、そのまま車が死んでしまうのはどうなのか?旅行中ならどうするのか?自問自答してしまいました。

昨日のプリンター停止は、車のキー電池切れと似たようなトラブルだ。本当に電子機器が関連すると、突然動作がストップして、人を慌てさせることが多い。とはいうものの、プリンターとインク吸収パッドは、問題が発生した部分と全体との大きさにバランスがとれている感覚がある一方、ガス欠でもなく、パンクでもなく、あの小さな電子キー1個の小さな、小さな電池一つが切れることが原因で、大きな自動車1台が丸ごと動かなくなるというのは、どこか非合理というか、バランス感がないというか、機械の製造スタンスとしてどうなの?……と。そう言えば、トヨタのRAV4もヴィッツと同じ仕様だった。以前乗っていたレガシーで使っていたキーレスキー、あれは便利で、よく出来ていて好かったネエ、と思い出しました。あの位でいいのに・・・この感覚、古いのだろうか?

ちなみに小生が、ずっと以前、愛用していた一眼レフ(の一つ)はCanon New F-1だったが、あのカメラは(低速シャッター速度では?)電池で動作はするが、基本は機械式のメカニカル・シャッターだったので電池切れの心配がなかった。ここ一番で不慮の頓死がなく、安心感を感じたものだ。内燃機関でディーゼル・エンジンがガソリン・エンジンより信頼性があるのは、故障が少なく、頑健であるからだ。とにかく、マア

電池一個 切れて動かぬ 車かな

     ガソリン、タイヤ トラブルはなく

こんな感想です。

今年一年にあった身の回りの諸々の変事、世間の事件を列挙すると、マア近来稀なほどに騒然とした一年であった。保有する金融資産は、株価上昇と円安で随分上がり、その点では嬉しい年ではあったのだが、辰年の「昇り龍」を思わせるゴロ、ゴロと雷鳴が轟くような「変事出来の一年」はもう閉口だ・・・( iᴗi )。

来年は、「騒」のあとの「安」を象徴するような年であってほしいものだ(;_;)


2024年12月20日金曜日

ホンノ一言: 103万円の壁より、もっと大きな絵を描く政治が求められているのかもしれない

空前の人出不足の時代だ。

移民政策について何らかの抜本的改革を講じない限り、男性労働力、女性労働力とも、労働参加率は歴史的高みに達しており、これ以上の労働供給は困難であると観ている。視聴率の高い人気ワイドショーでは、『働ける人はずっと働く、いや働かなければいけない、そんな時代なンだと思います・・・』などと、まるで昔の「国家総動員」のような暴論を展開しては、愚かさを自ら証明しているのが、今という時代なのだろう。


そんな情況であるにも関わらず、たとえば北九州市小倉区で起きた中学生殺傷事件の容疑者として逮捕されたのは、無職の40代男性である由。

いま40代であるとすれば、2000年当時は20代であったので、いわゆる「氷河期世代」の一人である。「巡り合わせ」とはいえ、1990年のバブル崩壊から1997~8年の金融パニックを切っ掛けに、日本では就業機会が激減し「就職氷河時代」へと入った。運よく入社はしても事業が停滞する中で、スキルを高める経験にも恵まれず、相当数の若者は、非正規労働市場で何とか生活だけはしてきたのが、これまでの歩みだ。「これも人生だ」と言えば簡単だが、当人たちは釈然としないだろう。

こうした不運な世代は、近代日本史においても時に生まれる。

明治末年に生まれた世代は、昭和初年の頃に成年を迎えたが、丁度その頃は昭和2年の「金融恐慌」、昭和5年の「昭和恐慌」と、とてもじゃないが就職できない。その頃の青年は、『大学は出たけれど』と嘆きの渕に沈んだ世代である ― ただ、昭和初年に20代ということは、太平洋戦争敗戦時には40代になっていたから、上の世代が戦争責任で一斉に追放された後、今度は戦後復興を(運よく)主導する立場にたてた。これまた運命による「埋め合わせ」とも言える想いであったろう。

人生とは不可解。何がどうなるか、分からないものでござる。

結局はここに行きつくのかもしれない。

メディア企業は、犯罪を好んで報道するが、逮捕された犯人の多くは無職である。

凶悪犯、知能犯を含め「犯罪」という行為は、社会の中で競争が激化し、しくじった人が浮かび上がるのが難しい時代において、増加するものだ。これは経験則であると言える。

社会が混乱した昭和20年代に凶悪事件が多かったことは、<昭和20年代 凶悪事件>とGoogle検索すれば簡単に分かる。戦前の大規模殺人事件として有名な「津山三十人殺し事件」が起きたのは、昭和13年(1938年)だ。軍律違反が明白であった「満州事変」が昭和6年、犬養首相が暗殺されたのが昭和7年、陸軍省の永田鉄山軍務局長が本省内執務室で惨殺されたのが昭和10年、クーデター未遂となった2.26事件は昭和11年。そんな時代背景の中で起きたのが津山三十人殺しであった。

時代背景と生活困窮とが重なるとき、往々にして、犯罪は主観的に肯定されてしまうことが多い。

国民の生活保障に国が(ある程度まで)責任をもつのが近代国家である ― その背景には国民が国家を防衛する国防軍の存在が大きいが。雇用保険、医療保険、年金保険などの社会政策と生活保護政策は、素のままの資本主義を修正するための理念の現れである。が、これにはコストがかかる。資本主義は小さい政府を志向するが、社会政策を組み込んだ資本主義は大きい政府を受け入れるのがロジックだ。

大規模な生活保障を推進するのは、そもそも社会主義的な国家運営だが、これには政府が租税及び税外収入を確保する必要がある。基幹産業を国営化するのは、税率を容認可能なレベルにとどめながら、国家の収入を確保するためである。

社会主義でなくとも十分な税収があれば、生活保障はできる。

例えば、日本で消費税率を3パーセント引き上げれば、現行と同じ定額の国民年金を100パーセント税負担として、支給できる。国民年金保険料支払いは廃止できる ― 支払い済みの人には支払い分還付に相当するだけの付加年金が必要になろうが ― ……という、そんな議論があることは、多くの人はもう知りつつある。にもかかわらず、意思決定ができず、政治家もまた問題解決から逃げている。

これを含めて「日本病」という人が多いが、名前を付けたからといって、何もしない人間であることに変わりはない。

国が解決できないならば、実は《特効薬》がある。ただ、極端に乱暴な方法である。

・・・

生活に困窮した人々を富裕層が「家事手伝い」として私的に雇った場合、現行税制では頼む側の支払いはあくまでも頼む側の所得処分とみなし課税対象に含め、もらう側にも贈与とみなして上限を超えれば贈与税がかかる。それを今後は、金を支払う富裕層は支払額を収入から控除でき、受け取る困窮者の側も非課税にする。

つまり私人が困窮者を私的に助ける場合、助ける方と助けられる方との間でやりとりされるカネは丸ごとなかったことになる。国には税を納めない、というわけだ。

自治体は応益課税であるからサービスの対価は支払う。但し、支払うのは生活支援を受けている側ではなく、支援をしている富裕層である。そして地方税支払いもまた損金として扱われる。

確かに、これは極めてラディカルな制度改革と言える(はずだ)。

もしこんな制度改革が実行されると、国の税収の中で、消費税は影響を受けないだろうが、所得税は大減収、高額役員報酬に対する高率の所得税を人並みの税率に抑えられる方法があるわけだから、企業の内部留保に留める必要もない。企業利益は会計上ゼロとされるだろうから法人税収もほぼゼロになるだろう。

その一方で、国家が富裕な私人に生活困窮者の支援を丸投げ(?)するのであるから、財政負担は大いに軽減される。大体、年金支給が開始される65歳まで定年後の再雇用を企業に義務付けているのは、国が為すべき生活保障(の一部)を丸投げしていると言われても仕方がない。

さて、上に述べたように、富裕層が私費で生活困窮者を救済する仕組みが制度的に容認されてしまうなら、これは民間による国家の代行であり、《国家の崩塊》ではないかと危惧する人がいるかもしれない。が、心配ご無用だ。前例がある。そうなっても日本が崩壊するわけではない。政府が弱体化するだけの話しである。

そもそも日本は奈良時代より前は公地公民制。土地も人民も国家の所有で、土地は国から分与されるもの、かつ国民皆兵であった。しかし、この律令体制は短期間のうちに形骸化した。

自ら開発した農地を都に居住する貴族に寄進して名義だけを譲るのが「寄進荘園」であった。大貴族に与えられた「不輸不入」の特権によって貴族は納税を免除される。一方、地元の開拓農民は、貴族の被官、つまり扶養者に似た存在であるから自らは国の徴税対象にはならない。税よりは安い年貢を貴族に納めれば事足りる。

国は減収になる。が、貴族は荘園からの年貢で豊かな生活ができる。国からもらう俸給が低くとも公務は担当できる。国の財政(の一部)が貴族の家計収支の内部に奪われ、組み込まれてしまったわけだ。もちろん地元の開拓農民は名義だけ寄進して所有権が担保されるので喜ぶ。泣くのは国だけだ。さすがに地方の治安は、国が担当するには税収不足であり、召集可能な兵数も足りない。だから、田舎は田舎にまかせる。国は官有地から税を徴収できるだけ徴収して都に運ぶ。あとは地方は地方でやる・・・かくして武士と呼ばれる階層が東国で成長した。地方、田舎は自存自衛でやれというわけだ。

これが、奈良時代から戦国時代が到来するまで、崩れそうで崩れなかった日本の慣習的土地制度「荘園制」である。田舎に「荘園」を有する貴族・寺社が、何の官職もなくとも生活だけはできたのは、いずれかの地に荘園を認められていたからだ。荘園に居住する「平民」は、日本国民というより、その荘園の「領主」に従う従僕として振る舞ったわけである。

政府は空洞化し、弱体化したが、日本という国のアイデンティティは崩壊しなかった。同じ理屈は今でも有効だと思う — 100年を単位とする超長期の変容プロセスではあるが。

日本が日本であることと、統治システムがどうであるかは、全く別の事柄なのである。数日前の投稿でも書いたが、「天皇制」の意義があるとすれば、多分、このレベルにおいてであるというのが小生の日本観だ。

いままた政府にカネはなく、国債の信用にも危険信号がともるかもしれないご時世だ。とはいえ、日本は対外的には債権国である。国にはカネはないが、カネを持っている人は多いのが日本である。

それでいて、生活困窮者がいて、政府が十分に救済するには財源が要る。ところが、増税がままならない。ヨーロッパは付加価値税率をテキパキと引き上げているが、日本では同じことに四苦八苦している。

だとすれば、

私人が困窮している人を私的に救済する。国はこれを受け入れる。

こうするのが効率的だ。というより財源がないので国の出来ることには限界がある。

私人であっても行うことは公的業務である。国に代わって実行しているだけだ(とみなす)。故に、その経費は損金算入を認め、収入段階では非課税とするのが理屈である。そして、私人が行った生活支援事業を通して所得を得る人々から、政府がピンハネする筋合いはない。これまた非課税とする。

富裕層から支援金を給付された人は、年間幾日か、例えばベビーシッター、洗濯・調理・買い物・清掃・付き添い・介護などの家事労働を「労役」という形で提供すれば済む。封建時代のように「家来」にならずともよい — ここが人権の確立した近代国家たる所以である。もっとも「家来」というのは子孫代々の(雇い主の後継者がいる限りの)「永代終身雇用」のような契約でもあるから、こちらを望む人も日本には多いかもしれない。特に地方ではそうだろう。マ、子供から職業選択の自由、移動の自由を制限するので、現行憲法下では人権侵害となるが、こちらが良いなら憲法を変えれば済む。

それで、上のような《民活による生活保障》となるわけである。

・・・ま、これまた一場のお話しであります。


玉木さんの103万円の壁も、前原さんの教育無償化もいいが、今は《大きな絵》を描く政治が求められる時代に入ってきているのかもしれない。

【加筆修正:2024-12-22、12-23、12-24】

2024年12月18日水曜日

断想: 冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだと思うが

カミさんと簡単な朝食を ― ヨーグルトとバナナ、珈琲だけの簡単なメニューだが ― 摂りながら、いつものワイドショーを視ていると、

冤罪はなぜなくせないのか?

こんな話題があった。

ワイドショーにしては真っ当な話題だ。が、専門家の意見はいかにも専門家然としていて、これでは世論になんの影響力ももたないだろうナア……と感じました。具体的内容は、いま書いているこの瞬間においても、もう『何だったかな?』と、『忘れてしまいました』と、そんな内容であった(と思われる)。


思うに、冤罪を恒常的にゼロに抑えるのは困難だと考えるが、出来る限り冤罪の被害者をなくすには、一つの原則を徹底するのが第一歩であろうと思っている。但し、実に簡単なことではあるが、国民の意識改革が求められるので、徹底するのは難しいかもしれない。

それは

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。動機、犯行など詳細は取り調べが進むにつれて明らかになる。そんな状況です。

という報道が現在は多いのだが、これを

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。これが不当逮捕でないという詳細な説明が捜査並びに司法当局には求められます。

文章で書くと極めて簡単だが、報道方針を上のように180度逆転するだけで、冤罪防止には極めて効果的であろうと確信する。

当然、検察に対しても

〇〇の容疑で逮捕され送検されていた△△が本日起訴されました。これが不当な起訴ではないという根拠が切に求められています。

こうした報道方針が厳守されるだけで《冤罪を生む不当な裁判》を防ぐ第一歩になることだろう。

要するに、

人を逮捕したり、起訴したりする以上は、その具体的根拠を明示する義務は当局の側にあり、容疑者自らがシロであることを証明する義務はない。

あらゆる場面において、いわゆる《推定無罪》の原則を、最初の報道段階から徹底して意識するだけで済む。これだけで情況は大いに改善されるはずだ。

もちろん第一歩であって、必要な二歩目、三歩目はある。が、これはまた別の機会に。

 

コントロール不能なSNSはともかく、マスメディア企業が申し合わせれば、上のように方針転換するのは簡単に実行できる(はずだ)。

しかし、日本人の、というより日本という国の歴史を通して染みついた強固な《お上意識》と《お国第一》というか、強固な《帰属意識》をかなぐり捨てて、ハナから

警察・検察当局のやることを疑いの眼差しでみる

日本人たる個人ゞの自尊心にかけて(?)、常にこんな感覚をもつというのは、果たして日本人に出来るのかどうか、定かでない。

が、ともかく

冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだ

とは思っている。


大体、(必要もない)戦争が起きる根本的原因は、国民が政府を信じることである。政府が弱体で、信頼されていない国は、戦争をするのも困難である。無能か有能かは問わず、警戒されていれば、サイズも権限も大きくは出来ない。自動的に小さい政府のメリットが得られる ― もちろん(こういう仮定を置く具体的根拠を示すことが大事だが)一方的に「侵略」された場合に、有効に反撃することもまた困難になるが。

【加筆修正:2024-12-19】