2024年11月20日水曜日

断想: 高齢化と少子化は、当然、シンクロするはずのもので・・・

本ブログ内を<幼稚化>というキーワードで検索すれば、無数といっても可であるほど多くの投稿がかかってくる。

つまり、

日本人は、以前に比べて、幼稚化している

と、そんな感想を小生はずっと持っているのだろう、という証拠である。

実際、ワイドショーで出演者が見せる色々な挙措や振りをみていると、

何だか幼稚園にいるみたいだナア

と感じることが多い。実際に視ているのは(時刻からいっても)三十も過ぎた大人達であろうのに。

ただ、視ていて思ったことがあって、カミさんとこんな話をした。

小生: 子供をつくらず、自らが子供のままでいるのが、いまの日本だネエ・・・なんでかな?

カミさん: さあ・・・(笑)

小生:一人っ子なら、お母さんがお姉ちゃんになってあげないといけないヨネ。お母さんが大人であっちゃあ、一人っ子は淋しいからネエ。

カミさん:一人っ子にも同じ年くらいの友達がいるんじゃない? 

小生: そりゃ、そうだ。ン? いるかなあ?……でも何だか、最近の人は幼いと感じない?高齢の親がいつまでも元気だからじゃないかな?

カミさん: そうなの?

小生: いや、自分でも思うんだけど、人ってサ、親や家族を亡くして、「死」というのを痛切に知って、初めて独立精神が身につくと思わない?「無常」を知ると、人は成熟するものだからサ……

カミさん: それはそうかもね。

小生: 子供を持たない今様の夫婦なら、そもそも大人になろうとか、大人であろうとか、感覚そのものがないンじゃないかなあ。親がピンピンしてればネ。

カミさん: う~~~ん、ちょっと、それ分かんない・・・

小生: マ、僕もわかんないけどネ(^^。。

高齢化と少子化は、シンクロして進行してきたが、ミクロ的にもマクロ的にも経済的に極めて合理的な行動をしている。

仮に、高度成長期並みの出生率を今でも維持していれば、日本社会は老人と子供と、被扶養者比率の極端な上昇から、家計は破産寸前になっていたかもしれない。

過去50年間、日本社会はどの程度の出生率(と平均寿命)を維持していれば、結果として理想的人口構造をいま実現できていたのか? ……、確かにこんな数値実験も面白そうだ。


実際、小生が中学生であった時分、一緒に塾に行っていた友人の家庭は、三人姉妹に世帯主の母親を加えた6人家族であった ― それでも当時の習慣というか、専業主婦家庭であったが。1人の稼ぎ手に、5人の被扶養者・・・、正に"good old days"である。1人が5人を食わせることが出来るだけの労働生産性を発揮して、家庭は回っていたわけだから。

父などは『△△さんチも大変だろうと思うヨ』と、何が大変なのか小生にはピンと来なかったが、とにかく何かが大変なんだろうと思って聞いていたことを覚えている。


現在は、夫婦の両親4人がそろって90歳を超えることもザラである。文字通りの長寿社会である。4人の高齢者を最後まで見守るとすれば、高齢者の年金収入、保有資産にもよるが、よほどの余裕が子の家計になければ、更に子供を育てるのは難しい。

以前は、親が子を助けながら子育てをした ― 結婚年齢も若かったし、親もまだ元気が残っていた。近年は、親と子といっても、独立世帯で、かつ遠方に離れていることが多い。晩婚で親も健康寿命を過ぎている。近隣社会は他人の寄せ集めで互いに信用できない。それでいて、高齢になれば子は親を介護したり、扶養したりする。

確かに、これでは子は育てられんワナ

なので、日本人の幼稚化はこれからも進行するのであろう、と。 

ちょっと思いついたのでメモしておく。


2024年11月18日月曜日

ホンノ一言: 兵庫県知事選は「情報仲介産業」の衰退を示唆しているか?

兵庫県知事選といえば、それ自体は関西の一つの県の出来事、つまりはローカルな話題にすぎないのだが、県議会から満場一致(?)で不信任決議をされた斎藤・前知事が、失職後に再立候補するという珍しい選択をしたところ、昨日の選挙で当選(再選)した。今朝はこの結果についてワイドショーでコメンテーター達が色々な意見を述べている。

この結果は、今春以来のTV放送の大勢とは真逆である。「なんで?」という奴だ。トランプ大統領が予想を覆して圧勝したこの秋の米大統領選でもメディア企業は間違えた。「二度も!」という奴である。日本の既存メディアは

痛恨の連敗だヨ

と、こんな心理かもしれない。

当選の最大のカギは、斎藤氏がYoutubeやXなどSNSを巧みに、最大限、活用したことにある(と報道されている)。この点は、先ごろの東京都知事選で大躍進をとげた石丸伸二氏に重なるところも多い。

そこでTVが力説したいように見えるのは

(民主主義国の?)選挙でSNSが活用されるという社会状況をどう評価するか?

これをクローズアップしたいようである。

SNSに有権者が踊らされるのはイケナイ

聴いていると、どうやらこんな批判を既存メディアはしたいようである。

であれば、本当にこれはイケナイ変化なのだろうか?


***


既存メディアは全体としては

有権者はSNSに踊らされた

という指摘が多いようだ。が、思うのだが、

SNSに踊らされる人は確かに多いが、同様にTV、新聞、週刊誌など既存メディアに踊らされている人も多い。

要するに、誰であれ、この民主主義社会で暮らしている人は、世間で流通している《情報》に踊らされているわけであって、おそらく年齢層によって、自分が選ぶ《情報元》が異なると。こんな事実があるだけなのだろう。そう思っている。

某TV局の人気コメンテーターは

公職選挙法の制約もあって、選挙期間中は特定の候補を支援する(と受け取られる)放送はできないのです。一方、SNSは自由です。それでいいのか?今後、検討するべきだと思います。

などと、見解を開陳している。 しかし、こういうことを主張するのであれば

企業・団体が特定の政党を支援するために献金をするのは禁止するべきです

こんな意見もおかしいわけで、(巨大?)メディア企業が放送・出版を通して特定の政党を支持するのと、ビジネス界が言葉ではなく資金を寄付して特定の政党を支持するのと、企業・団体が政治に影響力を行使しようと意図する行為としては同じではないか?・・・この疑問に明解に回答する必要がある。

禁止をするなら両方を禁止する。認めるなら両方を認める。このどちらかであると言うならロジックは一貫する。

日本国内の大手TV局、新聞社は、電波許認可、再販価格制度によって寡占が認められているという点で、公共性をもつ。だから、特定の政治的立場を標榜することは禁止されている。これが基本的なロジックだと小生は理解しているが、理解の仕方が違うのかな?


***


今回の選挙結果について小生が感じたことは、

情報産業でも、仲介サービスは衰退し、今後は直接取引が主体になる。

こういう見通しである。

実は、ずいぶん以前の投稿でこんなことを書き残している ― すぐに過去の覚え書きを検索できるところがWebLogの利点だ。正に「航海日誌」であり「ログ」である。

偽装商品が経済犯罪であるのはどうしてだろうか?不当表示が処罰されるべき企業行動であるのは何故だろうか?それは、当該商品に関する正確な知識・情報が欠如している場合、市場による資源配分は適切なものではなくなる。これが経済学の大事な結論であるからだ。不正確な情報の流通が、社会経済の正常なメカニズムに対する障害になるからだ。・・・マスメディアが販売する商品は、文字通りの情報であり、知識であり、見方である。<情報>の伝達と<流言>の伝達は識別困難であることが多い。<情報>と<洗脳>も外見は類似している。正確な情報を得るには取材コストを要するが、流言の取得は低コストである。創作は更にコストが低い。社内統治が必須である理屈だ。

一定の労働と資本を投入すれば、何らかのアウトプットは必ず生産される。しかし、労働価値説は適用できないわけであり、頑張ったから出来たものに必ず価値があるわけではない。価値は<価値>として市場が受け入れることによって、初めて価値になる。価値の生産に市場規律は不可欠なのだな。マスメディア企業は、販売する文章に含まれている事実的要素と虚構的要素を自由にミックスしてよい。そんなことが言えるはずはない。日本語という壁と様々な保護行政に守られ、なすべき社内統治を怠っているという事は本当にないのだろうか?再販売価格制度によって価格が規制され(=保護され)、事業としての存立に国民的負担が投入されている以上は、報道活動、報道内容について、定期的に市場外の審査を受けるべきではあるまいか?

既存のメディア企業は、社会で毎日発生している事件や出来事を、情報の需要者の関心に最もマッチするように編集したうえで、提供している。その意味では、情報の小売り、卸売りを行っており、情報の仲介サービス機能を果たしている。 情報を提供する場を多数の視聴者が視ると期待されるからこそ、コストを負担して宣伝を委託するスポンサーが現れ、一般視聴者は無料で情報にアクセスできるわけである。

20世紀ならば、個人個人が自ら必要とする情報を収集するには取得コストが高く、まずはマスメディアが提供している報道を利用するのが、最も効率的だった。社会共通の情報の基礎レベルを構築するうえで、メディア企業のインフラ性、公益性は多分に担保されていた。

しかし、インターネットが(完全に?)に普及した現代においては、情報収集コストが格段に低くなった。情報コストの破壊的低下、情報商品の価格破壊、知識ベースの拡大こそが、Googleの創立者たちが夢見た最終ゴールなのである。その夢が見事に結実したのが現代世界である。これが小生の基本的認識である。


***


たとえば兵庫県知事選の立候補者は、メディア企業を経由せずとも、有権者に直接メッセージを伝えることができた。

既存マスコミは、「TVも新聞もメディア、ネットも同じメディアです、しかしネットは自由でTV、新聞は公選法の平等原則にしばられてしまう」と言うが、これは乱暴(というか低級)な「語呂合わせ」であって、為にする表現であると思う。

そもそも厳密に考えれば、「インターネット」は(典型的には)分散的なHTTPサーバー上の仮想空間を指しているわけで、その空間に多数の情報発信者と受信者が自由にアクセスし、その結果としてインターネットをメディア(=媒体)とする情報取引が行われるわけである。ネットと言う仮想空間には、あらゆる情報が流通しており、利用者は自ら情報を取捨選択するわけだ。

利用者が、あらゆる情報から自らが求める情報を取捨選択することは悪い事なのか?

ネットは(それ自体)情報を販売するわけではない。他方、TV、新聞は情報を販売する。ネットでは発信者の情報を素のままで入手するが、TVや新聞ではエディター(=編集者)やプロデューサー(=制作者)が介在する。その分、メディア情報は間接的で、「情報クッキング」が必然的に混在する。ネット情報は、(基本的には)オープンで仲介者がいない分、ダイレクトに情報が入るのである。

情報の直接入手と間接入手と、確かに一長一短ではあるが、このような違いが、情報の品質を評価する際に、かなり致命的に重要となるケースがある。その一つが「選挙」だと小生は思う。


***


いずれにしても・・・

投票する際に参考とするべき情報の取捨選択は、メディアの編集者に委任するのではなく、有権者自らが情報を選ぶ権利がある。編集されない元のままの見解を候補者から聞く方が情報の品質としては高い。これが基本だろうと小生は思うが、意見が違う人が多いのかな?

一言で言えば、

SNSが選挙運動に活用されることは、それ自体、イノベーションであり、社会の進歩である。

基本的には、こう認識するべきだと小生には思われるのだ、な。

もちろんフェイクニュースやデマの流通もまた懸念される。しかし、立候補者と有権者がダイレクトに繋がっている場が形成されていれば、というか形成できているならば、誤った情報は政治家個人と有権者が直接に触れる中で、スクリーニングできるはずであるというロジックになる。このロジックが、現実にどの程度働いているかは、検証が必要である。

有権者、つまり大衆と政治家がダイレクトにつながることが、「衆愚政治」を招くきっかけになるのかどうか、これまた今後の検証が必要だ。

とはいえ、政治家(によらない)が、有権者に直接に語りかける場が提供されれば、TV・新聞が「価値」を提供できる機会は減る。故に多くの有権者がメディア企業から離れる。その分、影響力が低下する。これがロジカルで一般的な結論だと思う。


***


有権者、マスコミ企業、候補者の関係は、経済学の"PrincipalーAgent"理論が当てはまるだろう。

マスコミ企業は、"Mass Communication"の名称のとおり、情報の「大量伝達」を担う会社であるわけで、選挙の時の候補者はマスコミ企業を有権者全体だと解釈して、発言する、つまりマスコミ企業は《有権者の代理者》として振る舞うわけだ。

「前ネット時代」においては、有権者は候補者本人について十分な情報を持たない。だからメディア企業が提供する報道を信用する。

メディア企業は、有権者の代理となって、有権者の利益を誠実に追及することが原則である。しかしながら、プリンシパルである有権者は、エージェントであるマスコミ企業が自分たち(=有権者)の利益を誠実に求めているかどうかが分からない。

そんな場合、エージェントはプリンシパルの《無知》に乗じて、自己利益を最大化する誘因が形成される。

つまり、候補者が、どんな構想をもつ、どんな人物で、信頼できる人物なのかどうかを誠実に有権者に伝達するよりは、マスコミ企業の自己利益が最大化されるような情報伝達の仕方を選ぶ。エージェントであるメディア企業が、不誠実な報道をしたとしても、プリンシパルである有権者はメディア情報を信じざるを得ない。なぜなら候補者に関する情報をダイレクトに収集するには取得コストが高すぎるからである。

これが「前ネット時代」の報道のロジックである。

ちょうど、間接金融方式が主であった以前の日本で、リスクの高い融資を行い、結果として不良債権を累積させた銀行と類似した構造の下で「報道の失敗」が発生する可能性が高いわけだ。


***


考えてみれば、戦後日本の小売り産業の覇権は、個人商店からスーパーへ、スーパーからコンビニへ、そして今はネットと宅配へと、支配的な業態は激しく進化した。

良質な農家にダイレクトにアクセスできる小売り店舗が登場すれば、中売り業者から野菜を仕入れる個人商店は競争優位を失うし、そもそも中売り業者は淘汰されるだろう。

生産者と消費者が直接取引できる場が形成されれば、卸売り・小売りの中間流通部門は、必然的にスリム化される。これが経済の論理である。

情報市場でも同じだ。情報産業もコストと便益が伴う経済取引なのだから同じロジックが当てはまる。

もちろん情報の需要者は、一流の情報を欲している。一流の情報は一流の専門家が提供できる。しかし、(小生が視るところ)メディア企業は一流の専門家に意見を求めないことが多い。多分、それは一流の専門家は、何を書くか、何を言うかについて、メディア企業経営者側の編集権を認めたがらないからであろう。実際、一流の専門家はYoutube上に独自のチャネルを開設している例が目立つ。そこでも情報はダイレクトに取引されている。

いま情報の品質の選別が、情報市場において進行している。大規模メディア企業は、規模がもたらす高コスト体質に耐えきれなくなりつつある。価格破壊現象の中で退場しつつある。これが進行中のプロセスなのだろうと観ている ― 情報とは別にエンターテインメント産業としてみる場合はまた別である。

多くの産業で、激しい技術革新と産業組織の再編成が進行してきている中、メディア業界が、伝統的枠組みを維持しながら、保守的な企業活動を続けるのは困難だ。ましてインターネットとAI(人工知能)の時代においてをや、ではないか。別稿でも書いたが、TV、新聞、出版業界は全体として、最近では珍しい《人員過剰》あるいは《ワーク・シェアリング》が蔓延している状態ではないかと、小生は観ているのだ。アウトプットのレベルダウンは、メディア企業内部で編集規律が弛緩しているからではないかと憶測している。保護政策は保護されている産業内部でモラルの崩壊を必ず招くのである。

マ、TV業界や新聞業界の大手企業が、ネットに脅威を感じているならば、電波や紙メディアだけではなく、インターネット・メディアも活用して、自社の情報商品を販売すればよいだけのことだ。新規市場開拓は日本国内の普通の企業ならやっている。The New York Timesあたりは、ネット・メディアでWEB版を販売しているが、購読者数が1千万人を突破したようですゼ。定期寄稿者の面々も(政治的立場はリベラルな傾向があるが)一流だ。新規事業としてもうじき花が咲きます。NYTならネットを敵視するなんてコタア、なさりますまいテ。


その意味で、今回の兵庫県知事選は、ローカルな事柄ではあったが、経済現象としてみると、技術革新を通して情報産業でも流通合理化と再編成が進むという一般的問題の具体例としてとらえられる。そう思うのだ、な。

【加筆修正:2024-11-19、11-20】


 


2024年11月15日金曜日

断想: 戦後日本の人間観はどこか奇妙かもしれません

若い時分は、無味乾燥とした統計分析の合間に、三好達治の文庫本を開いては、気分転換をしていたものだ。その頃、小説は読み終えるのに時間がかかるので、もっぱら高木彬光や鮎川哲也のミステリーを短時間集中で読んでいた。なので、このブログで頻繁にとりあげている永井荷風や三島由紀夫、谷崎潤一郎といった日本の作家の作品を愛読するようになったのは、大学に戻ってから、それも時間が惜しいとは思わなくなってからの事である。

確かに「文学」という趣味は、タイパが非常に悪い。

人が何かを書くとき、書きたいことがある。その書きたいことを全て書き尽くすのは、非常に難しく、ひょっとすると本質的に不可能ではないかと思っている。作品を書いた作家が何を伝えたくて小説などを書いているのかを知りたいなら、まずは全集ベースで全てを読むしかないと気がついた時は、もうそれほど若くはなかった。

だから、小生の好きな本といっても、それほど多くない。読書家ではないわけだ。

三島由紀夫の『潮騒』の次に読んだのが『葉隠入門』である ― 本ブログでも何度か話題にしている。リアルに身近で接していたわけではないが、書いていることに嘘はあまり混じっていない気がする。

中でも記憶鮮明な箇所は『葉隠』でも有名な箇所に関するところで

「武士道というは、死ぬ事と見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし……我人、生くる方が好きなり。多分すきの方に理が付くべし。…(それでも、という逆接になるが)毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕果すべきなり。」

常住死身になることによって自由を得るというのは、『葉隠』の発見した哲学であった。

こんな一節があるのだが、このページの上に、いつ書いたか完全に忘れたが、鉛筆書きのメモを書き入れている。 

反知性主義?

合理性の追求は「理性の奴隷」になること?

こんな字句を書いている。

確かに、毎朝毎夕、《死の練習》をして覚悟を決めている人など、現代日本社会にはもう稀な存在であるに違いない。特に戦後日本は、合理性こそ正しく、反知性主義は否定すべき邪念であると決めている。

合理的に考えれば、『葉隠』の著者も述べているように、死ぬより生きる方がイイに決まっている。人生の目的は、まず生きることであり、命を何よりも大切にすることである。と。そんな価値観になるのは極めてロジカルで、ロジックと命を関連付けると、生きることこそ何よりも大事ですと、結論せざるを得ないのだ。

ただ、生きることが何より大事だとは、例えば古代アテネの哲学者・ソクラテスは考えていなかったし、そのことはプラトンが書き残している。田中美知太郎訳の『クリトン』の中に次の一節がある:

しかし、まあ、ソクラテス、…子供たちのことも、生きるということも、他のいかなることも、正というものをさしおいて、それ以上に重く見るようなことをしてはいけない。……おまえはすっかり不正な目にあわされた人間として去ってゆくことになるけれども、しかしそれは、私たち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。……醜い仕方で不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、あの世の法が、…好意的におまえを受け入れてはくれないだろう。

「国法」のイデア、というか擬人化された亡霊が、死刑執行を待つソクラテスに語りかけている形で書かれている。

有名な『悪法もまた法なり』という箇所にあたるのだが、人生の目的は《善く生きる》ということにあって、《ただ生きること》、言い換えると《ただ命を大切にすること》とは書かれていない。死の意義が生の意義を超える状況はありうる、と。プラトンはそう考えていたことが分かる。

だからこそ、『パイドン』の中で

真の哲学者は、死ぬことを心がけている者であり、彼らが誰よりも死を恐れない者であるということは、ほんとうなのだ。

と述べ、哲学は『死の練習』であると考えたわけである。何と『葉隠』の精神的態度と似ているのだろう。

プラトンが現代日本に現れたら、前稿の続きではないが

生活があるんです。生きて行かなくちゃいけないんです。背に腹はかえられません。仕方がないじゃないですか?

という悲痛な訴えに対して 

それが何か?

と応えるかもしれない。

しかし、現代日本より前の時代にあっては、ほとんど全ての日本人は、プラトンのような「不正に生きるよりは死を選ぶ」といった警句、というか価値観を、理解していたような気がする — 理解と、身についているというのは、別であるが。

小生は、ごく最近になって「四誓偈」、「一紙小消息」、「一枚起請文」を日替わりで読み上げた後、「相伝」の際に誓った回数の日課念仏を称えるという習慣に入ったのだが、「勤行式」の中にある「発願文」には注釈が記されてあって

死の縁は無量なり。いつも臨終の思いになって唱えよ。

と書かれてある。これは正に「死の練習」であるな…と思った。

浄土系仏教では

人生の目的は、阿弥陀仏の支配する「極楽」という名の「浄土」へ往くことである。

これがスタートだ。

つまり、

幸福は、この世で生きる上での願いであって、生きる目的ではない。

そういうロジックになる。

(何度か投稿してきたとおり)幸福は善の本質であると、小生は考えてきたが、ごく最近になって、変わりました。政府が追求するべき目的は「幸福」である(かもしれない)が、人が生きる目的は「幸福」ではない。幸福は生きている人の「願い」である。が、「願い」に過ぎないとも言えそうだ。

人の生き方を決めているのは、(当たり前だが)その人の「意志」である。が、この辺についてはまた改めて。

人生の意味づけは、東洋も西洋も、古代からずっと大きなテーマだった。ところが、どうも本質的なところで発想に共通部分がある。時代によって、国によって、まったく別の考え方をしてきたわけではない。似ている面がある。

現代世界では全てとは言わないが、少なくとも戦後日本社会の人間観は、文化的伝統から切り離されて、奇妙な偏見がある。

何だかそう思う昨今であります。



2024年11月12日火曜日

ホンノ一言: 日本はいま「末法」なのか?ミッテラン元・仏大統領が懐かしいネエ

フランスの元大統領であるフランソワ・ミッテラン氏は歴史に残る左翼政治家で、小生の好みには合わなかったが、同氏が醸し出すフランス的薫りには、なぜだか魅かれざるを得なかった。

実際、本ブログ内を「ミッテラン」で検索すると複数の投稿がかかってくる。2023年11月9日付だから丁度1年前になるが、こんな事を書いている:

日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。

人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。

利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。

フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。

小生が円借款を担当している時分、仕事で比国を訪れると空港外には多数の低所得階層の人たちが集まっていて、いわゆる「施し」を求めていたのを「忘れられぬ風景」として記憶している。その様子は、行ったことはまだないが、当時のインドでも、インドネシアでも似たようなものであったろうと推測する。

そして、同じヨーロッパでも(粗雑にまとめてしまうと)カトリック国(そしてラテン・アメリカでも?)では、「持たざる人」は神からの「福音」、というか「施し」を期待するのだと、何かの本で読んだことがある。人間は神ほど完全ではない。故に、すべて人はおのが職分を果たせば足りる。そんな感性があるのだ、と。他方、プロテスタント国では、それこそ

天は自ら扶くる者を扶く

Heaven helps those who help themselves.

こんな気風の方が強いのだ、と。個人はすべて独立している、と。

とすれば、いずれにしても、大方どこでも

それが何か?

と応える人たちが、政治を行っているわけだ ― 政治に限った事でもないが。

日本では上に引用した投稿のテーマにもなっているが《利他主義》が強い。政治家にも「利他主義」を求める。政治家の利他とは公への奉仕のことだ。「公」とは戦後日本では「私たち国民」である理屈だ。なので、私たちは誰でも政治家の利他行為を望む。政治家の利己行為を憎む。どうやらそんな気風が戦後日本社会にはあるのかもしれない。故に、日本では政治家がミッテラン氏のように国民一般に

それが何か?

とは応えられない。常々思うのだが、政治家が低レベルの利他主義にはしって有権者に上目使いで迎合するようであれば、もうおしまいである。


だから、国民民主党の玉木代表には何の思い入れもないが、突然、ふって沸いたような不倫問題で苦境に立たされているのは、

この責められ方は日本独特なんじゃないかネエ・・・

と、そう感じます。好き嫌いは別として・・・

不倫どころか、隠し子があったとしても、

それが何か?

小生は、そんな社会に健全な強さと合理的社会観、更には自信を感じる。強い社会は強い個人の集合のことである。弱い個人が組織プレーをして対抗するとしても、持久力には限界があり、長期戦は無理なものだ。小生思うに、日本流の「利他主義」は、《もたれ合い》につながりやすく、実は《たすけ合い》になっていかない。そう観ているのだ。

そもそも論でいうと、モラルは本来「守るべきルール」というより「強い個人」を作るためにあるのではないだろうか?それが出来るようになるための修養、鍛錬だと思ってきたが、違うのかな?

で、今回の不倫騒動。小生はまったくの外野。野次馬にすぎないが、今回のTさん、弱い夫と強い妻の組み合わせであったのだナアと、感じる。ただ、世間はTさんとは他人なのだから、家族関係で何かを言う立場にはない。件の女性も、

かくすれば かくなるものと 知りながら ・・・

つまりは『身から出た錆び』ですヨ。不公平だろうと、不平等だろうと、世間はいろいろ言ってますが、身を切って何かしてくれるわけじゃあない。世間はこんなものです。後でも書くが、今の世相をみてごらんなセエ。こちらも「強き女性」であってほしいものだ。ただ、Tさんも女性の身の振り方くらいは心配してさし上げればとは、思いますがネエ・・・感想はこんなところです。で、後日談をもしメディアがきいたら

それが何か?

そう答えればイイと思います。ついでに

この世は凡夫ばかりなり。あなたも私も一緒でしょ?

これがありのままの真実というものだ。マ、TVドラマにもなりませんワナ・・・

***

(再び)マア(で恐縮です)、これは明らかに財務省(か警察)辺りの情報リークだと観ている。

連想してしまうのが、(不倫よりはよほどスケールが巨大だが)民主党政権発足前後の「陸山会事件」である。クロニクルに時系列を追ってみると

2007年7月 参院選で民主党大勝。第一次安倍内閣退陣。「ねじれ国会」へ。

   この期間、民主党支持率の上昇が続く

2009年3月 小沢一郎議員の公設第一秘書が東京地検特捜部に逮捕される

2009年7月 麻生首相、衆議院を解散

2009年8月 民主党、衆院選で大勝。民主党政権発足。鳩山由紀夫首相。小沢一郎幹事長。

   「政権交代」が流行語大賞をとる

2010年1月 東京地検、小沢一郎議員の資金管理団体「陸山会」、秘書、ゼネコン鹿島建設を一斉捜査。

2010年6月 小沢一郎議員、民主党幹事長を辞任。

2011年3月 東日本大震災

大体、こんな風に進んでいた。

さすがに《国策捜査》という言葉が云々されたものである ― というか、なぜ鳩山政権は幹事長が直接関係する捜査に対して指揮権を発動しなかったか、と。今でも分からない。少なくとも、政治に密接に関連する事案の捜査活動には、内閣、国会の承認が要るという理屈だ。司法が認めるとしても、国会の判断が上位になければならないと思うが、違うかな?

それはともかく・・・、今回は、《不倫報道》である。もしも玉木氏が男女関係において清廉潔白であったなら、政治資金収支報告書の何らかの不記載があったと報道されていたかもしれず、不記載もなければ地元有権者に何らかの物品が配布されていたと報道されていた可能性がある。これもなければ、宗教団体との親密な関係、過去に遡った発言等々、何らかの報道がされていたのではないかと推測する。

何故なら、財政膨張を危惧する財務省には動機があり、政権にある少数与党にもあるからだ。他にも動機をもつ者がいるが、それはここで記すまでもあるまい。

単なる「疑惑」で十分なのだ、報道するのは。真実かどうかなど現代日本の世間は問題にはしない。

何ごとによらず「なぜいまこのタイミングで?」と不思議に思うなら、「得した者を探せ」という格言は常に当てはまる。

マ(何度目だろう?)、ただ全ては「状況証拠」に過ぎない・・・

***

今でも残念に思うのだが、当時の民主党政権の公約の中で

  • 中学卒業まで子ども手当2万6千円を毎月支給
  • 月7万円の最低保障年金
  • 後期高齢者医療制度の廃止

この三つはまだ記憶に、ボンヤリではあるが、残っている。

しかしながら、鳩山由紀夫首相が消費税率引き上げと一体化して進める決断を避けたために、結局、撤回されるか、減額されるかした。そして、今また、同じような政策課題が検討課題になりつつある。

どうやらこの日本国では、昨日まで野党であった一政党がエッジのたった政策を主張すると、何かの捜査が始まるか、スキャンダルが暴露され、《にわか出頭人》は排除され、後になってから(戦後日本では)自民党政権か、もしくはメジャーだと認められた勢力が、自民党に代わって実行する。何だかこんな経験則が日本にはあるのかもしれない。

全体の進行が極めて保守的なのである。特に登場人物は滅多に入れ替わらない。「初もの」は排除される。非常に保守的な傾向が日本社会にはある。島国であるからなのか。

それでもって、行ける所まで行く、と。

***

ネガティブ・キャンペーンは、政党間競争で勝つには、最もコスパが良い戦術である。

しかし、政治家の不倫が許せないと放送しながら、若者は闇バイトに応募して強盗殺人を行い、高齢ドライバーは生活に不便だと車を運転して、案の定、事故を起こす。

全部をまとめると、

何という、マア、素晴らしい世相でございましょう・・・

死刑の継続を望みながら、体罰禁止に賛同する世の中も似たようなものでございます。

これは義務 あれはルールと 自らを

  しばるが人の 生きる道なり

ドイツの哲学者・カントを手本とする普遍的モラルを追い求めていた戦前のエリート達が始めたのが太平洋戦争であります。ガリ勉の一知半解とはこの事でござんしょう。

カントの道徳哲学は(当然ながら)ヨーロッパ的な個人主義を前提している。個人主義の理解が未熟な日本で西洋流の道徳を追求すると、相互監視に熱心になるばかりで、生きづらい社会をもたらすだけだ、というのが小生の社会観だ。

中国が、G7を代表とするような欧米民主主義国、いわゆる「西側陣営」で是とされる価値観や社会哲学を拒否しているのは、この辺りを直観的に理解しているからだろうと推察している。この点だけは、さすがに賢明なもので、肝が据わっている ― 明治以来の慣れもあって、日本人にはとても無理な行き方であるが。


世に名高き《衆愚政治》がいま正に眼前にあり。昔の人はこんな世相を《末法》と言ったもので御座いましょう。

やはり今は

Vox Populi, Vox Diaboli

人々の声は悪魔の声

になっている、そんな時代なので御座いましょう。

【加筆修正:2024-11-13、11-14】


2024年11月10日日曜日

ホンノ一言: アメリカと比べて絶望するより、ヨーロッパとまず比べては?

ネットに可視化されている様々な意見は、たとえ邪見、偏見が混じる玉石混交の「闇鍋」状態であるとしても、それはそれで《世論》という何モノかの一断面であると思う。

今日あたりは

米国はなぜ日本より豊かなのか?

こんなヘッドラインを見かけた ― 書かれている内容は大体想像できるので読みはしないが。

これには思わずクスクスと笑ってしまいました (^^。

いまどき日本の生活水準をアメリカと比較する人がまだ残っているとはネエ・・・

「不適切にもほどがある」とまでは言わないが、何だか「あなた自身を知れ」というか、ソクラテスを連想してしまいました。

世銀で提供している"GNI per capita ranking"(=一人当たり国民総所得の国際比較)をみると、

2023年時点でアメリカは第6位で80300ドル、日本は第32位で39030ドル、故に日本はアメリカの半分未満である。

GNIは"Gross National Income"を表す。但し、これは世銀のATLAS法による換算値だ。つまり、毎年の対ドル為替レートに3年後方移動平均を施した修正為替レートでドル換算するのだが、その際に世界インフレ率と当該国インフレ率との乖離率をウェイトとする加重移動平均にしている。基本的には為替レートで換算しているから、観光でアメリカを訪れた日本人には実感できる数値かもしれない。

購買力平価で換算された数値も公表されている。それによれば同じ2023年でアメリカは第10位で82190ドル、日本は第38位で52640ドルになっているから、日本はアメリカの概ね64%のレベルになる。

為替レートによる換算よりは、こちらの方が日常的な生活感覚により近い数値になっているかもしれない。なお、購買力平価ベースの一人当たり国民所得でみると、日本はG7グループの中の最下位、第34位の韓国よりも低い。この後は、ATLAS法による数値(=修正為替レートでドル換算した値)で話を進めよう。

要するに、日本とアメリカの生活水準には大きな違いがある。日本から見て「アメリカは豊かだ」と感じるのは、確かに数字としての根拠があるわけだ。


これから直ちに頑張って、日本がアメリカに追いつく可能性があるとしても、20年(いや30年?)はかかる程の大差である。次の世代に頑張ってもらうしかないが、今や「絶望的」と言ってもよい程の違いである。箱根駅伝でいえば、二日目の復路スタート時点で先行する大学と10分の差がついている状況に近いかもしれない。1区間で2分ずつ縮めればイイという理屈はあるが、そんなことが出来るのか、という程の大きな差がついている。

G7で日本より下位にある国は、日本のすぐ下にあるイタリアで38200ドルである。文化的ストックはともかく、フローの生活レベルだけを比べれば、日本とイタリアには実感できるほどの違いはないとも言える。

他の英、独、仏、加は全て日本より上位にある。中でも相対的に低いフランスをとってみると45070ドル。イギリスはフランスより僅かに高く47800ドルである。アメリカよりはずっと低いが、それでも

フランスは日本より15%以上、イギリスは日本を20%以上も上回っているのだ。

これから日本の一人当たり国民所得を20%以上引き上げて、それは一人当たり労働生産性を上げるということでもあるのだが、イギリス、フランス並みの高さにまで到達すること自体、相当頑張らないといけないのは、最近20年間の日本経済をみれば納得がいくだろう。単に名目賃金を上げるのとは意味が違う。実質的なアウトプットを上げることが生産性の向上だ。

現場を(IT投資などをするなりして)効率化するか、同じ賃金でもっと頑張るか、さもなければ効率的な産業を拡大し、非効率的な産業は縮小して産業構造そのものを変えるとかしなければ、日本全体の生産性は上がらないわけである。

一人当たり国民所得を20%上げて先行する国に追いつくのが大変であることは容易に分かるはずだ。

仮にフランスを抜き、イギリスのレベルにまで追いついたとしても、その時はイギリスも更に先行しているであろう。イギリスに追いつくこともまた困難なのである。フランスに追いつくのも大変だ。とはいえ、フランスやイギリスはアメリカよりははるかに手前を走っているのである。

日本とアメリカを比べるのは「身の程知らずが!」と言われそうだが、イギリス、フランスと比べるなら、現在時点でまだしも現実的な計画を立案できそうだ。

何も太平洋戦争開戦前のように

世界の中の日本を知れ

と言うつもりはない。島国日本で暮らしていると隣国の(本当の)生活水準には無知になりやすい。まして世界に関してはをや、である。

とはいえ、いくら日本国に自信があるとはいえ、

いまの状況で、日本とアメリカを比較して、日本人はアメリカに学ぶ覚悟ができているのか?

この問いかけをしたい。経済だけではなく、社会的進歩には犠牲が伴うのである。


移民やイノベーション、制度変更など色々な激変に対して免疫がある、というか頑健なスピリットをもっている資源大国・軍事大国・農業大国・知財大国アメリカと日本を比較することで、なにか日本にとって有益な示唆が得られるのだろうか?

むしろ資源、歴史など所与の条件がアメリカよりは近いヨーロッパと比べてはどうか?

まずはG7内の例えばイギリス、フランスに追いつくように頑張るか、と。英仏が悩んでいる問題と、その解決に向けて2国がそれぞれどんな風に取り組んできたか、と。フランスは大統領制だが、イギリスには王制と議院内閣制が併存している。どちらにしても、歴史的、資源賦存状況等々の面で日本との比較に親和性があるのではないだろうか。宗教や個人主義、文化的伝統はともかく、少なくとも日本が真似しようと思えばマネできる範囲にいる。そこがアメリカとは違う。


海外に後れをとるのが嫌なら、はるか先を走り、地力の違いがあるアメリカを目指すよりは、より近いところを走っていて国の大きさもアメリカよりは似通っているイギリス、フランス辺りを先ずは目標とする。この方が現実的だと思いますが、いかに? アメリカを手本にして無理をすると日本社会が空中分解して墓穴を掘りますゼ。

【加筆修正:2024-11-11】


2024年11月9日土曜日

断想: 浄土系仏教には確かに「国家」というものがない

地域によって日程の違いはあるが近くの寺で十夜法要があったので行ってきた。

今日は法話から出席したが、若い人であるにもかかわらず、中々イイ話をしていた。慣れるに従って、どんどん上手になって行くだろう。

聖徳太子の

我、必ずしも善ならず、彼、必ずしも悪ならず。我、彼、凡夫にほかならず。

この名句を引いて浄土思想の人間観から入っていた。一つの社会観になっている。

テーマは《凡夫》である。凡夫が、安心して死ぬためにはどうすればよいか、である。

なにもプラトンや三島由紀夫を引き合いに出すまでもない。人間が常に直面している課題は「いかにして死ぬか」だろう。いわば「死の練習」は誰もがしなければならない課題である。こればかりは、武士がいた昔から兵役の義務のあった明治・大正・昭和、そして今は義務と言えば「税金」くらいしか思いつかない現代日本に至っても、逃れようのない普遍的な課題である。

ちなみに気になって調べると、上の名句のオリジナルは

我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。

という字句である様だ。

URL: https://gakuen.koka.ac.jp/archives/775

凡夫と煩悩は表裏一体の関係にある。凡夫は、煩悩にまみれ、煩悩に負ける弱い人間である。欲が深く、詰まらないことで直ぐに我をわすれて怒り、道理はそっちのけで迷ってばかりいる。文字通りのダメな人間である。己をよく見つめれば、大半の人はダメな人間じゃないですか、という人間観、社会観である。

煩悩という言葉の意味するのは、究極的には

綺麗ごとでは終わらない

という認識をもつべきだ、ということだろう(と勝手に理解している)。

会者定離を悟っていた身であるにもかかわらず、病身の良寛を見舞った貞心尼をみると

いついつと 待ちにし人は 来たりけり                                        今は 相見て 何か思はむ

と詠うのも独りの凡夫であるからだろう。

そんな話の流れで良寛禅師が今わの際で

裏をみせ 表をみせて ちる紅葉

と発したこの言葉でまとめたのは、話しの終わり方として上手だと思った。

Reference:https://ryoukan-w.info/

最近、投稿することが増えてきたが、浄土系の宗教思想は個人の救済にあるが、少し調べれば、そこに《国家》という概念がないことに思い至る。つまり統治者側からみる「国家の安寧秩序」という概念が(ほとんど)窺われないのだ、な。

それもそのはずの理屈で、浄土思想では現世を濁世と観る。なので徳川家康の旗印にもなっていた

厭離穢土、欣求浄土

が基本思想なのである。

他方、日本に最初に入って来た奈良仏教は「ぶつりがく」は「ぶつりがく」でも物理学ではなく仏理学の色彩が強い。その教理を基盤に聖武天皇が建てたのが東大寺という官立寺院であった。京都に遷都されてからは天台、真言の平安仏教が主となった。これらもまた「国家鎮護」を役割の一つとしていた。東大寺だけではなく、奈良時代の国分寺、平安時代初めに空海が拝領した教王護国寺(=東寺)は統治機構の一環を為していたわけだ。統治する側にとっては、この世において解脱をして、悟りの境地に達して、仏となる、というか「なれる」ことが最も重要だった。故に、密教が標榜する「即身成仏」は、統治の哲学でもあったわけだ。

つまり奈良仏教、平安仏教には、国家を支える要素が含まれていた。この世界を清浄化できる、そんな境地にまで修行によって到達できるという志である。安倍晋三元首相の『美しい国・日本』という言葉は、極めて平安仏教的な志である。

これに対して、浄土系仏教は

凡夫は現世で仏にはなれない。煩悩に勝てず厳しい修行を全うできないからだ。ただ、それでも阿弥陀仏の国に往くことは出来る。浄土三部経という根本経典にそう明記してある。即ち「弥陀の本願」である。たとえ大罪を犯した悪人であっても、本願を信じて一念、十念でも念仏すれば、そこに往生できる。そして阿弥陀如来の国、つまり「極楽」において「不退転」の位を得て、仏になるべく修行を続けることが可能になる。そうすれば、再び現世に「菩薩」として降り来たって、人々を迷いから救い、正覚を得て仏に達し、永劫輪廻の労苦から解放される。そう約束されている・・・

とまあ、こんな宇宙観を示すわけだ。

つまり、この世はもはや救い難いと観ている。だから弱い個人を救う。この意味では、法然上人の浄土宗は旧教に対する新教であり、文字通り、(日本流の?)「宗教改革」だったと言える(と、今のところ理解しています)。

こうしてみると、前期・鎌倉仏教の中心人物であった法然(そして親鸞など)は、相当のラディカル左派だったと言える。法然上人の晩年から死後にかけて、主流派側から激しい弾圧が加えられたのは、ヨーロッパの宗教改革以後の混乱と共通している。

さしづめ後期・鎌倉仏教に位置づけられる日蓮は、個人救済はあっても国家が脱落した浄土思想に対する保守反動であったのかもしれない。日蓮の『立正安国論』は余りに増え過ぎた浄土系信徒への反撃であったのかもしれない。西洋で言えば、宗教改革後に生まれたカトリック系の過激派・イエズス会にも相応するようなポジションに似た位置を志したのかもしれない。昭和初年の陸軍部内、民間言論界に日蓮宗を信仰する人物が多く現れたのも、ムベなるかな、である。

ま、現時点の小生の理解である。

鎌倉仏教で無視できない禅宗のことはよく知らない。

この辺を整理するには、もう少し勉強が必要だ。また改めて。今日は後で役だつよう思いついたことをメモする次第。



2024年11月7日木曜日

ホンノ一言: 大接戦のはずだった米大統領選だが・・・

昨日も投稿した米大統領選だが、おそらく数日はこのテーマで投稿するのだろうナア、と予想していた。多分、日本のマスメディアも同じだったろう。

ところが、蓋を開けるとトランプ氏の圧勝となった。

おかしいネエ・・・

今朝になってから専門家は「信じられないですね」と言うのかと思いきや、今度はどこでもトランプ氏圧勝の原因分析を語り始めている。

ちょっと滑稽だが、マ、与えられた事実が発生した原因を分析する姿勢は、「こんな結果は間違っています」と言い募る専門家よりは、よほど好ましいと言える。

***

ただ、このところアメリカ国内の有権者の傾向について報道される内容を聴いてきて、「こんな状況って本当にいまあるのか?」と、そういう違和感がなかったわけではない。

それは、

今回の大統領選では、男性がトランプ支持、女性はハリス支持と、男女間で明確な違いがある。

女性は投票率が高いので、この点からもハリス優位である。

こんな見方が事前には語られていたと記憶している。


しかしネエ・・・

うちのカミさんは(当然)女性であるから、何かの社会問題で「女性はこう考えるのヨ」と、男性である小生からみるとかなり「超越的視点」から異論を投げかけることは、たまにある。しかし、電気料金引き下げとか、原発再稼働とか、消費税率変更とか、いろいろとありうる政策をめぐって、

あなたは男性だからそう考えるかもしれないけど、女性は違うわよ!

こんな風に政治的問題で男女のギャップというのを痛感した経験はほとんどないのだ。

実際、人工妊娠中絶をどう考えるかという問題で議論が盛り上がっていたようだが、確かに女性の身体は女性のものであるかもしれない。しかし、胎児を中絶するのは、権利なき憐れな命を殺す行為ではないか、そんな見方も確かにありうるわけであって、どちらの立場をとるかで男女が正反対になっていて、政治的立場を性別で明瞭にクラスター化できるのだろうか?

こんな疑問もあって、男性ならト氏、女性ならハ氏。ちょっと眉唾だネエ、と。そう感じてきたわけだ。

結果はトランプ氏の圧勝である。


世間では「ガラスの天井を今回も打ち破れなかった」と評している向きもある。が、小生思うのだが、

いやいや、ガラスの天井に手が届かなかっただけじゃあないですか? 

打ち破る云々じゃあないと思いますけど・・・

こんな風に観ています。

というより、前に投稿したように、「ガラスの天井」というのは、アメリカの政界には(日本の政界にも?)、実在はしていないと思う。

***

それにしても、もし男女間で支持率ギャップがあったなら、予想通りの大接戦を演じていたはずである。

結果が予想と異なっていれば、予想の前提になっていた仮説が誤っていたからである。


有力な解釈が一つある。

それは、世論調査の対象になった女性が嘘をついていた、これは十分あり得る。

トランプ候補と、ハリス候補と、あなたはどちらを支持しますか?

そうね、やっぱりハリス候補を支持しています。

やはりそうですか。ご回答、有難うございます。

マア、例えばこんな風な回答をしていた女性が多数いたのではないか。何故なら、女性であるにも関わらず「私は、ハリスさんではなく、トランプの方を支持していますよ」とは、回答しにくいではないか。というより、調査されること自体が不愉快である可能性が高い。

何かの記事にあったのだが、

世論調査にウソを回答したことがありますか?

こんな世論調査をしたところ、4人に1人が「ウソを回答する」と回答したそうである(^o^)。

===後日追加部分===

気になって調べて見ると、こんな記事があった:

…… 米国の新興ニュースサイト「アクシオス」がハリス世論調査会社(副大統領とは無関係)に委託して調査した結果を10月30日の記事で伝えたが、有権者の約4分の1、最若年層の約半数が「誰に投票するか」を問われれば「ウソをつく」と回答したからだ。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Date: 11/5(火) 11:54配信

Original: FNNプライムオンライン

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/8e78cb32f15f6644f7750dcdaf9138f7c551a11a

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政治的立場に《男女差》というのは、データが伝えていたほどには、なかった。とすれば、男性が「トランプを支持するサ」と嘘をつく動機はないと思われるので、男女を含めてトランプが圧勝したのも理屈が通っている。これが真相だろう。

即ち、今回の米大統領選で、大接戦になるとの事前予想を覆して、ト氏圧勝になった理由としては、世論調査にウソを答えた人が多数いた。そういうことでしょう・・・データにバイアスがかかっていたらワールドシリーズにも勝てません。


***


というより、世論調査は最も安易なデータ収集手法だと小生は思っている。

経済学の一分野に「産業組織論」があって、Jean Tiroleといえばその分野への学術的貢献が評価されノーベル経済学賞を授与された大家である。2014年のことである。

Tiroleが著した"The Theory of Industrial Organization"(=「産業組織論」)は、1988年の刊行だが、今でもこの分野の標準的テキストであり続けていると思う。小生も、ずっと以前にひもといたことがあるが、

データに基づく計量経済分析よりは、企業経営者に対するインタビューを含めた《ケーススタディ》の方が、産業組織分析にはより有益である。

Tiroleがとっているこんな基本的スタンスを知って、当初は驚いたものだ、というより計量経済学を専攻してきた小生としては、やや不愉快に感じたものである。しかしながら、ずっと後になって新たに設置されたビジネススクールに移籍してから、Tiroleの立場が理解できるようになったのだ、な。確かに社会経済、企業経営について集めている数量データは、人間ドックで集めている数字のようなものだ。その人の健康状態は数字で表現可能であるというのは極端すぎるだろう。何が測定されているかに無知ならばミスリードされる可能性すらある。


選挙結果を事前に予想するなら、機械的な支持率調査などに依存するのではなく、もっと丁寧に時間をかけて有権者の心情を聴きとることにマンパワーを投入するべきだと思うのは、上のTiroleの指摘とも重なっている所がある。

要するに、メディアの情報収集力は本質的な意味合いで低下している ― 考察力も、思うに「並み」のレベルだ。数値データは効率的かつ科学的で(一見?)カッコいいが、しばしば人を騙すものである。何によらず、知的活動の結果の価値は、《労働価値説》がシンプルに当てはまっていると、小生は今でも思っている。《科学的手法》が《手抜き》の免罪符になっているとすれば必ず失敗する。

【加筆修正:2024-11-09】