3月末から4月初にかけて東京まで往復した。
船橋にある両親の墓に参ったあと、母が療養で入院するまで暮らしていた取手市の戸頭団地に回り、まだ七分咲きの桜を観た。それから守谷乗り換え・つくばエクスプレスで新御徒町まで戻って、ついでに上野の山の桜風景でも撮ってスマホの待ち受け画面にするかと考えていたのだが、とにかく寒く(後できくと41年ぶりの低温であったとか)、花見はせずコンビニでサンドイッチを買って、ホテルに帰ることにしたのは、つくづく根性がなくってきたナアと感じた次第。
墓参の帰り、近くのバス停まで歩く途中、自動車の解体工場がある。バラバラに切断されたボンネットの破片が山積みされている。
それを横目にみて、歩きながら、考えた:
自動車は、燃料を消費して熱エネルギーを生成し、熱エネルギーを運動エネルギーに変換して走る。人間の身体も同じである。そう言えば、《人間機械論》という唯物思想があって、西欧の啓蒙時代にかけて、一時流行したそうな。その意味では、人間と自動車は同じことをやっている物理的存在である。
しかし、根本的に違う所がある。自動車が走るのは、自ら走るのではなく、人間の意志が自動車の外側にまずあって、その意志のとおりに自動車が動かされているわけだ。人間の身体もこの点では同じだ。無意識活動も生存への意志と広く解釈すれば、その人の意志がまずあって、意志の通りに身体の各部分が動かされている。ところが、その意志は人間の身体の内部にあるのが、自動車とは違う。
意志は物質である身体とは区別された非物質の精神の働きである。仮にそう考えず、人間の身体に精神は宿るのだと考えると、物質が精神をもつというロジックになる。物質が意志をもつという理屈にもなる。
しかし、物質が意志を持つと考えるのは流石に可笑しい(と感じます)。自動運転もママならないのに、自動車が意志をもちうるか?自動車が精神をもちうるか?持つとすれば、それは自動車本体とは区別された《AI》である。今のところ、自動車は精神をもたず、意志を持たない。だから外側から人間の意志によって動いている。物理的存在である自動車が意志をもつことは将来もないだろう。
物質である身体と非物質の精神とは、正に《不二》にして《一如》、一体のものであると考えることも可能だ。これも一つの世界観である。金剛界と胎蔵界は本来一つであるとみた空海の「両部不二」もこれに近いかもしれない。
この立場にたつとすると、動物も植物も、生命あるものはすべて、意志(=生存への意志)をもつと考えるべきだ。「生存本能」と呼ぶが、「生存」と「世代継承」という特定の目的を実現するために物質を動かせるのであれば、それは「意志」の働きである、と言ってイイだろう。
老衰と死は、物質的身体の衰えから、精神が意志の通りに身体を動かせなくなる生理学的現象である。つまり、死の時点で精神は身体を失う。
身体を失った後、精神が存在するとしても、物理的実体ではないため、実空間においては観察不能である。
もしも物理的な存在である身体の死が、同時に精神の死であるのであれば、物質の内部に精神があったことになる。言い換えると、物質が意志を持ちえるというロジックになる。
ひょっとすると、こう考えてもよいのかもしれない。しかし、こう考えると、生命体を超えてあらゆる存在は内部に精神をもち、意志をもつ、と考えてもよいことになりそうだ。意志があれば目的がある。故に、宇宙全体はある目的に向かって合理的に動いているという宇宙観になる。が、(というより、とすれば)、その目的を与えた存在は何か?この問いかけから逃げられない。目的の背後には意志が存在するからだ。
やはり物質と精神には本質的な違いがある。こう考える方が(今の)小生には納得できる。とすれば、物質的存在である身体の死は、精神の死を意味しない。では、身体的な死の時点で、精神はどんな状態に移行するのか?
宗教、哲学(ひょっとすると更に科学も?)とが重複する領域がここにある。
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こんな事を思案しながらバス停で待っていたから、待ち時間で退屈することはなかった。