2025年12月13日土曜日

断想: 「心の中にのみある」をキチンと理解できる人、いますかネ?

世間でよく言われるが、

宗教によって神々は様々だが、これらはすべて人の心の中にのみ存在するという点では共通している。
同じ趣旨の記事を先日ネットでも見かけたから、現代日本社会の大多数の人々にとっては当たり前の常識になっているのだろう。

確かに神という観念は、心の外の外界に可視化しうる存在物(=物理的存在)としては存在しないという理屈は納得的である。しかし、上のような考え方の根底に

心の中にのみ存在するのだから、本質的には虚構であって、客観的に実在するものではない。すなわち、全ての宗教は人間が作ったストーリーに過ぎない。
これが言いたい事であれば、まったく賛成できない。というか、正反対であるというのは、最近の何度かの投稿で強調してきたことだ。とはいえ、これを再説するのに《唯識論》の要点から始めるのは面倒だ。ただ
「客観は実在するが、主観は心の中にのみある」と考えること自体がその人の主観である。その人の大脳が「彼我」の「彼」として構築した映像を「客観」という。
つまり「客観は実在する」という言明は「我は実在する」というのを裏側から言っているだけだ。これだけを今日は記しておきたい。




昨年の秋に相伝を受けたことを契機に朝の読経が習慣になった。最初は「日常勤行式」に沿ってやっていたが、最近は月曜以外には「専修念仏」をしている。もし人が『南無阿弥陀仏』というのは人がつくった想像によるものだと言えば、人が考えたものであるのは確かな事実だ。異論はない。

そう意見を投げかかる人に問うことがあるとすれば $$ \frac{\partial^2 u}{\partial t^2} = a^2 \frac{\partial^2 u}{\partial x^2}+f $$ という文字列と

南無阿弥陀仏
という文字列が記された固形物を(人類がその時まで生存しているかどうか分からないが)何万年もの未来に発見する人がいるとして、どう考えるだろう?

どちらの文字列も物理的存在として確かに客観的に実在すると言っても可であろう。他の人とも目で見ているその文字列は同一の表象として認識されるのは間違いないからだ。

とはいえ、客観的に実在するのは目で見ている文字列だけであるというなら、それは誤りだ。上の偏微分方程式はいわゆる『波動方程式』で、理系の大学なら2年か3年で学習するはずだ。方程式が伝えようとしている《知の働き》を理解できた人には

方程式が伝えている知の働きと知がとらえた真理が実在するのであって、この文字列はいま消え失せてもおかしくはない。
そう考えるはずである。そして、知がとらえた真理は生死を超越して永遠不変である理屈だ。なぜなら真理は、古代ギリシア人なら《ロゴス》、現代の英米人なら"Truth"、ドイツ人なら"Die Wahrheit"という単語で表現するはずだが、物質を媒体とする単なる現象ではないからである。物質は時間が経過する中で、老朽化し、消失するが、非物質的な知の成果は物質とは別に現に働いているともいえるわけだ。

働いている以上、そう働かせている主体が(いずれかの空間に)実在していると考えるとしても合理的な思考というものだろう。もちろん測定可能な何かのデータがエビデンスになるとは思われないので、経験科学の成果だけが真理であると断言する人は別の立場にいる。しかし、そうした《科学原理主義者》は、データによって実証されるまでは、いかなる数学的定理も真理とはいえないという羽目に陥るのではないかと逆に心配になる。

物質と非物質との違いは何度も投稿してきたので、これ以上くりかえす必要はない。が、念仏と偏微分方程式は、文字列自体に意味があるわけではなく、思念している心の中でとらえている対象が重要という点で似ている。本当に実在しているのは目で見ている物ではなく、知性がとらえた観念の方である。だから、最初に引用した『神々は人の心の中にのみ存在するのです』というのは、確かにその通りで仏教では「法界」と言うのだが、これをきちんと理解できる人は(難しいことは避ける?)現代日本社会では極めて少数であると思っているのだ、ナ。

多分、そんな人は目で見える現象こそ実在していると思うはずだから、自動運転されて走っているバスを目撃すれば

ついに人類は考える自動車を発明したわけか!
タイムスリップしたシャーロック・ホームズよろしく、こう思いこむことでありましょう。仮にそうなりゃ、
機械が考えるなら、鳥も考えているし、犬だって考えてるだろう。いやいや、宇宙全体、何かを考えているンでございましょう
そんな「汎神論」みたいな、マア、正反対の極地にも通じるわけです。

2025年12月10日水曜日

断想: 世界のスーパーパワーは100年ほどの黄金時代しかもてない?

前稿の続きのようなことを書いておきたい。

世界史には色々なスーパーパワーが登場した。しかし、どれほど長くとも、概ね100年ほどの「黄金時代」を謳歌できたに過ぎない。昔なら5世代かもしれないが、人間の寿命が長くなった現代では3世代ほどの長さでしかない。100年というのは意外と短いのだ。


イギリスは「大英帝国」と呼ばれたこと(それとも自称?)があったが、名実ともに指導的位置についたのは、ナポレオン戦争終息後の1814年に開催された「ウィーン会議」から1914年に始まった第一次世界大戦までの100年間に過ぎない。確かに18世紀末には他のヨーロッパ諸国に先駆けて「産業革命」がイギリスから始まったが、その当時はまだフランスが大陸欧州の主役のような役割を続けていた。イギリスが欧州を代表する指導国になり得たのはフランス革命の勃発とナポレオンの台頭と没落が直接的なきっかけである。加えて、自由貿易と金本位制によって英ポンドを国際通貨として通用させたことも大きい。

中国の清王朝は乾隆帝の時代、大いに国境線を拡大して現代中国の領土の基礎を築いたことが最大の貢献だと(勝手に)思っているが、清王朝の黄金時代である「康熙乾隆時代」も「三藩の乱」鎮圧後の1683年から乾隆帝が没する1796年までの100年少々にすぎない。

古代ローマ帝国の盛時で"Pax Romana"とも呼ばれた「五賢帝時代」も時間の長さで言えば最初のネルヴァ帝が即位した西暦96年から最後のマルクス=アウレリウス帝が亡くなる西暦180年までの100年弱に過ぎない。

日本史で最も長い平和を築いた徳川幕府もその黄金時代と言えば(人によって異なるだろうが)小生は綱吉将軍の下で元禄時代が始まった1688年から松平定信による寛政の改革が始まる1787年までの約100年間だと思っている。寛政の改革は統治組織としての江戸幕府の余命を可能な限り延ばしたという点では歴史的意義をもつ。しかし、中心人物の松平定信がたった6年間在職しただけで老中を退いた後の幕府政治には活発な創造力が欠け、むしろ地方の諸藩の統治能力の方に先進性があった(と勝手に考えている)。幕府政治が輝いていた時間もせいぜい100年ほどに過ぎない。

キリがないので止めるが、後は推して知るべしで、

歴史的節目をなす程の強力な統治システムであっても、その黄金時代は高々100年ほどで終焉する。これが歴史を通した経験則である。

と(これまた勝手に)思っている。


アメリカ合衆国が世界的なスーパーパワーとして登場したのが、第一次世界大戦に連合国の一翼として参戦した1917年。今年はそれから108年後に当たる。

世界のスーパーパワーとしてのアメリカ合衆国の黄金時代は過去のものとなりつつある。そう観るのは、これまでの経験則と合致していると思う。


今後進むのは《世界の変質》だろうと予想している。

すいぶん以前に経済発展と民主主義という問題意識で似たようなことを書いた。

一つの企業の寿命はよく30年であると言われる。30年ほどが経つと成長してきた企業も老化するというわけだ。社内改革を断行せずして、30年を超えて同じ企業を安定的に存続させるのは至難の業である。そんな経験則がよく言われる。

国家も企業もシステムである点では共通している。自ずから寿命があるということだ。文字通り《諸行無常》。100年も経って同じ国家が繫栄していれば、名称は同じでも実質は別の国家になっているという理屈になる。

2025年12月9日火曜日

ホンの一言: 高市首相のチョットした失言がバタフライ効果を生むのだろうか?

確かに高市首相はミスをした。外交経験の不足と自信過剰、支持基盤への配慮など幾つかの理由があったにせよ、「いま言う必要がないこと」を「最悪の場所とタイミング」で発言したのは否定しがたい。

碁や将棋であれば、その時には「悪手」。対局後の検討では「大悪手」と判定される一手に似ている。


純粋のミスであれば撤回もできるが、政治的狙いが混じっていたのであれば、撤回できない。それに、今さら撤回しても有効ではなく、むしろマイナスにしか働かない。手当しなかった「断点」に石を打ち込まれれば、時に「総崩れ」になるものだ。

中国は「守りのほころび」、「日本の弱み」を突いてきている。


米国は中国とBig Dealを欲している。経済的報復の切り札を持っているのは中国側だというもっぱらの評価である ― レアアースや巨大市場としての魅力を指しているのだろう。トランプ大統領は中国と商談を進めたがっている。

その弱みを中国は突いてきている。

日本とアメリカはつながっていなかったのだ。その状態で高市首相は「いう必要がないこと」を国会で発言した。

その「ほころび」を中国は突いてきている。


日本の外堀を埋め、日本を外交的に孤立させる好機が《棚からボタ餅》のように北京政府の上に降ってきたわけだ。

日本が圧力に負けて高市首相が(事実上の?)発言撤回に追い込まれれば、日本には《アメリカは頼りにならず》という痛恨の記憶が残るだろう。

アメリカが対中商談に執着すれば、日本に対中譲歩を要求するだろう。日本の不信をかい西太平洋の重要根拠点を失ってでもアメリカが対中ビジネスを選ぶ可能性はある。

アメリカは手を広げ過ぎた。帝国ではないのだ。帝国を維持するのは膨大なコストがかかる。正に"Business of America is business"である。大アメリカではなく、小アメリカでもよい。その方が安上がりに豊かな国をつくれるというものだ。

そういうことかもしれない。しかし、それは中国が西太平洋海域を勢力下におさめる第一歩になるだろう。


地政学上の大きな変動が進む分岐点にさしかかっているのかもしれない。

トランプ政権の大局観が間違っていれば、それが第一の理由になるのだが、その大変動の始まりは同盟国・日本の新米首相が想定問答を無視して自分の言葉で語った《軽い一言》であったということか?

しかし、

戦場で歴史的大敗北をもたらした原因は、一人の兵が乗っていた馬が小さな小石を踏み損ねて驚いて悲鳴をあげたことである。その小さな事故が味方にとっては最悪のタイミング、敵にとっては最良のタイミングで起きた。

これを《バタフライ効果》というが、太平洋海域の地政学的パワーバランスが大きく変動する(ことがあるとして、その)契機となったのは、高市首相のチョットした言い過ぎであった……、事後的にそんな風になる可能性が絶対にないとは言えないだろう。

2025年12月3日水曜日

ホンの一言: TVが「反社会的」な主張をすることもあるのか……

今朝もいつものようにカミさんと馴染みのワイドショーを視ていたところ、食べたものが喉につかえるような事を又々あるコメンテーターが語っていた:

米を増産すると前の農水大臣が話していたのに今は「お米券」を配って増産はしないという。お米券って筋の悪い方法ですよ。需要が多いから価格が騰がっているわけですから、お米券を配ったりするともっと騰がります。それより増産する。増産してもらって価格が下がったら農家に所得を保障してあげる。そうしたら価格は下がります、云々……

確かに理屈は通っている。増産してもらってコストがカバーできなかったら所得補償をする。農家は喜んで米を作るだろう。

キロ当たり100の費用をかけて米を作る。ところが市中の販売価格はキロ当たり60だ。このままでは農家経営が破綻するから政府が40を補填してあげる。そうすれば次年度も農家は米を作れるから安心だ。

こういう理屈だ。


しかし、この方法は農業生産の非効率性を温存するという理由で廃止された《食糧管理制度》とどこが違うのか?

イレギュラーな米価暴落時に農家所得を補填してあげるのであれば、マア、良い。しかし、毎年必ず損失が出るという経営構造になっているのに、それでも損失を補填してあげるというなら、バブル崩壊のあと「ゾンビ企業」が「不良債権」となる中、延命融資を継続した日本の銀行と同じことをやることになるのではないか?

農家の所得補償にあてる財政支出にも財源がいる。その財源は(理屈としては)税である ― もちろん国債発行もありうるが、さすがにこれを主張する御仁はおるまい。

要するに

高コストの米を食べる日本人に米を低価格で食べさせるため、その費用を日本人全体で負担する。

こういう発想である。

しかし、高価なコシヒカリやアキタコマチを愛する日本人のために、なぜその他の日本人がコストを負担しなければならないのだろう?『どうせ国民の税金で農家所得を補填するなら、最初から高い価格で買ってあげれば一番簡単でしょう』と突っ込みも入りそうだ。そんな突っ込みが入れば『高い価格では買ってくれないから困るんです。安くなっているのが困るんです。経営できないンです』、マア、これがTVコメントの話の本質である。


キロ当たり60の販売価格では生産できないという日本の農家の高コスト体質がコメ問題の根底にある。上の数字例だが、なぜ市中の販売価格が60まで下がるのか?人口が減っているとか、消費者の財布が厳しくて需要が増えないというのは違う。確かに高いコメを買い支える需要が出てこないのは事実だ。しかしこれは一つの側面でしかない。もっと大事なのは、それ以上の高価格になると高関税を払ってでも海外の安価な米を輸入できることだ。

コシヒカリなどの銘柄米にこだわっている御仁はいざ知らず、普通の人はカリフォルニア産のカルローズ米で十分だ。少なくとも小生は美味いと思う。故に米価上昇には限度がある。上がり過ぎれば関税込みの輸入米の方が安くなる。許可制ではないので貿易商社は外国米を自由に輸入できる。

日本のコメ関税は定率関税ではなく、キロ当たりの従量制である。米価があがれば関税もあがるわけではない。故に、世界でインフレが進行すれば日本の米作農家を守っているコメ関税というハードルは相対的に低くなる。コメの関税障壁はインフレ進行の中で瓦解するのである。そうなっても、日本がコメ関税を引き上げられる世界情勢ではない。下手にコメ関税を引き上げると、コメ輸出国は報復として対日輸出課徴金を使うでしょう。そうなると、日本人は高い国産米、課徴金込みの高い外国米しか買えないことになる。そうなりゃ、経済戦争になるっていうものです。

遠くない将来、いずれ日本のコメは実質的には自由貿易に近くなるだろう。


問題の本質は、日本の農家の高コスト体質にある。そして、高コスト体質の原因はわかっている。合理的な米作経営にすれば日本でも低コストにできる。低コストで高品質のコメを日本でも作れる。

いまは最も非合理的な米作をしている農家のコストに合わせて米価を決めている。合理的な米作をしている経営者は高い米価で利益を得ている理屈だ。合理的経営を増やし非合理的な経営を減らす。そうすれば日本でも低価格で高品質のコメを作れる。経済学の基本だ。学生でもレポートできる初歩中の初歩である。農水大臣が先ずやるべきことはこれだろうと、小生は思うが、日本社会は違った筋道で思考しているようだから、まったく訳が分からない。

コメの生産が非合理的であるだけではなく、日本社会全体が非合理的であるようだ。

具体的に合理的な米生産とはどこが合理的なのか?非合理的というのはどこが非合理的なのか?……、ここまで書くと身もふたもない。AIに質問すれば何時でも回答してくれる。

いずれにしても、高コスト体質の米作農業を肯定して、それを温存するためにカネを投入せよというのは、それ以外の必要な分野にはカネを回すなというロジックになる。まさに《反・経済成長》、《反・科学》。小生には、本日のワイドショーの見解は《反社会的》であると感じました。マア、「言うべきことは言うな、しかし何かを言え」とでも台本に書かれていれば、この位になるかナア、という事ではあったかもしれないが決して感心できる内容ではない。

【加筆修正:2025-12-05】

2025年11月30日日曜日

覚書き:マンション管理組合の総会

先日、いま暮らしているマンションの管理組合の役員を頼まれて、やむなく引き受けた。

北海道に移住してきて初めての冬を迎える年末、それまでの官舎暮らしを卒業して初めて分譲マンションを購入したのだが、運悪く籤に当たったのだろうか、理事長を頼まれてしまった。1年余りやっただろうか、初めての雪国暮らし、初めてのマンション暮らしを理由に断るべきだったとずっと後悔してきた。それが割れた窓硝子の取り換えを頼んだことから、引き受け手がおらずに困っていたのだろう、現理事長から役員になってくれと頼みこまれた。西行の『年たけて、またこゆべしと、思いきや』ではないが、これも縁かと思い引き受けることにした。今日は総会があったので出席した。ずっと昔、理事長を退任してからは委任状提出で済ませてきたので、出席するのは久方ぶりである。

最初の総会で司会をした時の情景はまだ眼底に残っている。みな若かった。しかし顔は忘れた。今日見た顔と同じ顔があったのかもしれない。その後、新しく入居した人も今日いたのかもしれない。それは分かるはずもないが、小生にとっては構内で時に挨拶をする程度でそれ以上には知らない人が並んでいた。

マンションの 総会に出る この三十年みとせ
       うつりける世を わが身にぞしる
実に歳月怱々。この12月の上旬、ニセコでリゾート事業を展開する会社が社員寮に買い取ったという1戸に台湾、香港の人が4人引っ越してくるとのこと。これからこんな事が増えてくるだろう、と。願わくば、日本で楽しい生活を送って、北海道には盆踊りはないが祭りにも参加して、母国に戻ってから思い出話を語ってほしいものだ。
この秋は 熊をおそれて 散策を
       ひかえて今日は 雪虫をみず
毎年の年末、清水寺が発表する「今年の漢字」は何になるだろうか?「熊」かもしれず、「米」かもしれず、「難」かもしれず、いずれにしても今年は明るい一年ではなかった。

2025年11月28日金曜日

感想: 福田梯夫『棋道漫歩』を読み始めて

囲碁がらみのひょんな縁から福田悌夫『棋道漫歩』を「日本の古本屋」で買って読み始めたところだ。囲碁がらみとは言え、本書は「漫歩」という名のとおり、広いテーマにわたった随筆集である。

著者はプロの作家ではない。Wikipediaでも紹介されているような地方の素封家、農場主として人生を歩みながら、太平洋戦争直前期に衆議院議員であったせいだろうか、敗戦後には公職追放処分のうきめに遭った人である。多分、戦後の農地解放で甚大な損失を蒙った社会階層、すなわち「斜陽族」に属していた。

生年は明治28年(1895年)だから小生の祖父ともそれほど年齢が離れていない。祖父もそうだったが、大正デモクラシーの空気を吸いながら思春期、青春期を過ごしたからか、その世代に属する人は昔の人とは思えないほどリベラルな社会観をもっていた。確かに戦前という時代を想像させるエリート意識は、小生にもヒシヒシと伝わってきたものだが、当時は大学・専門学校といった高等教育機関への進学率が5%ほど、大学になれば1%位で、100人のうち1人が大学までいくかという時代だった。まして本書の筆者のように東京帝国大学法学部を出ていれば、その稀少価値はいま芸能界にも利用されている現代日本の東京大学の比ではない。

最初の章の題名は『人間のレッテル』である。何だか戦前期文人のエートス(≒気風)がにじみ出ている様だが、読んでみると確かにリベラルである。

著者本人は自らを「ディレッタント(≒好事家、趣味人、物好き)」だとしている。つまり特定のスキルで稼ぐプロフェッショナルではない。地主として農業経営に従事してはいたが、法学部を出たのであれば、土壌成分や作物、品種などの専門知識はなかったろう。農業については、現場に通じた農夫ではなく、あくまでもアマチュアで、それでも現場の専門家を超絶した地方の名士として尊敬もされ、何か地方単位で政治勢力がまとまれば指導者にも推される。縁があって衆議院議員にもなった。そんな人物によるエッセーである。

ただ第1章から傍線を引きたくなった個所もあるわけで以下に引用して覚書としたい。

どれもみな素人の限界近くまでは達したが、結局玄人の埒内には踏み込めなかった。これは主として私がディレッタントであるせいだと思っている。あるいは下手の横好きと云っていいかも知れない。私は「下手の横好き」を高く評価する。

由来、玄人は過去の固陋な世界に執着して、正しい革新を阻む宿命をもっているものだ。未知の世界への推進力となる者は多くは素人であり、玄人の縄張り根性が進歩の敵となる場合が多い。

大戦当時、東条大将は首相となっても現役を去らず、従って陸軍大将の軍服のままで議会へも出席した。演壇から居丈高になって議場を睥睨する総理大臣の軍服姿に、当時議席にいた筆者は早くからまざまざと敗戦の兆しを感じた。

再軍備が行われる時が来たとしても、極めて明瞭なことは、少なくとも総理大臣と軍部大臣だけは、断じて厳格な意味の文民大臣でなくてはならない、と云うことだ。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発してから、遠い異国の日本でもTV画面には自衛隊関係者や外交専門家が連日のように登場しては、色々なことを語っていた。

いまも時々あんな調子でやっている。すべて反ロシア的だ。反ロシアという点では、EU(のごく一部?)が急先鋒、米国のトランプ政権が立場をロシア寄りに変更中、日本はいつの間にかト政権より反ロシア的な位置にいる。日本が親ウクライナを選ぶ何か具体的理由があるのだろうか?

日本の反ロシアが露中関係に間接効果を及ぼし日中関係の悪化につながりやすい。アメリカは新政権になって早々に立場を変更した。日本だけは義理を守って、実利を捨てる作戦のようだ。損得を重視し機会主義的に行動してきた日本が妙に頑なだ。不思議である。

いずれにせよ、メディア報道が反ロシアで一貫しているのは

素人の意見はダメ。専門家の意見を聴かないとダメ。

というか、そんな盲目的な信頼が土台にあるのだろうが、上に引用した本の筆者は、筆者一人というより戦地に駆り出されて膨大な犠牲を払ったあと戦後に生き残った同世代全体を代表したいという気分も混じっていたのか

あるスキル、特定の知識でメシを食っている「専門家」は「素人」である主人を必ずだます

そう言いたい様である。

要するに、戦争の専門家である軍人組織が素人である文民や国民を、更には素人である天皇陛下という主人をも下にみて、独善と隠ぺいと保身に陥った末に未曽有の大敗北を喫した。実に傲慢で無能。この一点が核心であると言いたいのであれば、小生も大賛成だ。

本書が出版されたのは昭和36年で著者の福田氏は昭和41年に70歳で亡くなっている。最晩年を迎えた時期に記憶をたどりながら書き綴ったのがこの随筆集なのだろう。その最初に、上のようなことを述べたのは、その年齢に至っても「これだけは言いたい」という事だったのかもしれない。

それにしても、不思議に思うのは、大正デモクラシーという極めてリベラルな社会哲学、政治思想を身に着けた世代が社会の中核となった時、なぜもろくも陸海軍上層部の軍国主義にのまれてしまったのか?

自由を圧殺するような国家総動員体制をなぜ日本は選択しえたのか?それほどまでの知恵者が軍部にはいたのか?いたのであれば、なぜ必敗の開戦をするような愚を演じたのか?

まあ多分

普通選挙の導入で民主主義が拡大したタイミングで、知的劣位にあってただ楽しい生活を求める、無思想・無理念の大衆に「清潔な」軍部がアピールして、高学歴の文民・知的エリートから政治的ヘゲモニーを奪取した ― 最後にはこのこと自体が日本の「軍事政権」を束縛する状態になってしまったとみているが。

そんな風に要約されるだろうが、しかし直線的に成功したわけではないし、大衆もそれほど阿呆ではなかったはずだ。にもかかわらず、日本の大衆は我とわが身を縛って国に捧げ莫大な犠牲を甘んじて受けた。目が覚めたのは昭和20年8月15日だ。

これまで好著は何作も出版されてきたが、まだ納得可能な答えは出ていないように思う。

【加筆修正:2025-11-29、11-30】

2025年11月26日水曜日

断想:再び『社会が家族の代わりになろう』なんてネエ、という話し

少年時代、父からは将棋を教わった。ただ、その頃の父はそれほど多忙ではなかったのだが、教え方はあまり上手ではなく、駒の動き方を一通り説明したあとの基礎力をどう上げればいいか、当人の頑張り次第だナと、そんな感じだった。だから一生の趣味になるほどのレベルには達せず、中学生になって勉強が忙しくなると、自然に遠ざかってしまった。

芸は身をたすく

今になって思うと、塾の試験で正解できなかった問題を解説してくれるより、将棋を教え続けてくれたほうが余程ありがたかった。

将棋から少し遅れて母方の祖父は碁を教えてくれた。ただ祖父母は遠方にいて、頻繁に行くことが出来ない。なので親の家に戻ると、自然に碁のことは忘れてしまった。碁は将棋ほど覚えることは少ない代わりに、それらしく打てるまで体感すべき事は多い。もし祖父が(一時代前のように)近くで悠々自適の暮らしをしていて、いつ遊びに行っても相手をしてくれていたなら、パズルを解くのが好きであった小生は碁に親しんでいたと思う。これも極めて残念なことである。


最近、時間が少しできてクライツィグの数学テキストやスミルノフを読み返すだけでは飽きるとき、取り組みがいのあるゲームをやりたくなった。

いまはAI搭載の将棋、碁アプリが数多く使われている。そこでGoogle Pixel Tabletに詰将棋をインストールして何年振りかで将棋を再開した。ところが勘がまったく鈍っている。少年期に一定のレベルにまで上がっていれば「鈍ってもタイ」のはずだが、早々にやめたから身についていない。それでも段々と感覚を取り戻してきたのだが、タブレットの画面では駒がいかにも小さい。文字も小さすぎる。駒は動くし、目が相当疲れるのである、ナ(^^;;;)。かといって将棋盤を買いなおすのは億劫だ。片手間でよい。

それで碁をやってみた。こちらは最初から習得したとは言えない幼稚なレベルだ。それでも日本棋院から優秀なアプリが提供されているので、昔に比べると格段に勉強しやすくなっている。

もし小生の少年時代に「Katago」や「KataTrain」、「みんなの碁」、「KGS」などというソフトウェアが利用できていれば、祖父の家から両親のもとに帰ってからも、やり続けることが出来ていたはずだ。

英語や数学、更には大学の専門科目である経済学や統計学は、確かに人生を歩むのに役に立つ。が、少なくともそれと同程度に将棋や碁も我が人生を豊かにしてくれていたはずだった。つくづくそう思うのだ。


現代日本社会でファミリー・ライフといえば「両親+子供」の核家族を指すものと決まってしまった。

今はそんなご時世だ。しかし、かつてはそうではなかったのだ。

父は仕事で忙しく、便利で多種多様な家電製品がなく、食事の宅配サービスもコンビニ弁当もない時代、専業主婦の母もまたそれほど子供の相手はできない。そんなとき、祖父母は格好の話し相手、遊び相手であり、また教師であった。何より都合がよいのは「無料」なのである。そこに若い叔父や叔母が来て、従弟妹たちが集まってくれば、自然にそこはフリースクールになる。参加者もまた楽しいのであり、すべて無料である。

今は子供が何かを習得しようとすれば、家族外の有料サービスを利用する(しかないだろう)。お稽古事、習い事など教育サービスの価格は結構高い。その教育支払いを負担するために共稼ぎを余儀なくされている若い夫婦も多いようだ。

幸い、小生が暮らしている町は地方の小都市なので、カミさんの友人はこのところ孫を引きうけ始めて、自宅がまるで幼稚園や託児所のようになっているらしい。これもまた「無料」だからきっと娘夫婦の助けになっていることだろう。

もちろん祖父や祖母は、対価を受け取って特定のスキルを教えるわけではないから、若夫婦が希望する教育をしてくれるわけではあるまい。

しかし、ものは考えようで、親が望む教育を子が受けることが子にとって楽しいものとは限らない。中国ドラマ『琅琊榜 ろうやぼう』の中の台詞だが

親、子を知らず
子、親を知らず

である。

無報酬で、ただただ自由な祖父母の語りは、子供にとっては最もノビノビできる時間である。


いま東京の中央政府は、解体されつつある《家族》の機能を《社会》で代替しようと(どのくらい真剣なのか不明だが)努力している様だが、軌道に乗るまで何年かかるか小生にはわからない。ひょっとすると、不可能な難問に挑戦しようと大法螺をかましているだけで、かつて東京都で実施されていた「学校群」のように、30年くらいたってから、その時の現役世代が

過ちては改むるに憚ること勿れ

などと下から突き上げて、結局、何の成果も跡形もなく放棄されてしまうかもしれない。いわゆる《社会目標》というのは、その時代に何故そのときの大多数の人々がそんなことに賛成したのか、後になってみると分からない、そんなものが多いことは日本人には周知のことである(はずだ)。(特に民主主義国では)政府も議会も、決して失敗の責任はとらない。というより、とれないのである。