2025年3月11日火曜日

覚え書き: エンゲル係数を見るなら、ミクロとマクロと、両方から見るべきだ

経済統計でいう《エンゲル係数》は、消費合計に占める食費の比率で、これが直ちにその世帯の生活水準を伝える指標とは言えないまでも、

毎日の食費が多ければ、やりくりがそれだけ厳しくなり、他の目的に充てる余裕がなくなる

この事実に変わりはない。

なので、国内の世帯を平均したエンゲル係数が傾向的に上昇していれば、あまり良い兆候とは言えない。生活が苦しい世帯が増えているのだろうと推測する根拠にはなるのだ。

エンゲル係数は色々な要因で上がることがありますから・・・

という割り切り方は、経済専門家としては不誠実である。

そのエンゲル係数については、つい先だっても日本経済新聞(2025年2月7日付け)が

食料価格の高騰が個人消費の重荷になっている。総務省の家計調査によると、2024年の消費支出は実質で前年比1.1%減少した。消費支出に占める食費の割合を示す「エンゲル係数」は28.3%と1981年以来43年ぶりの高水準となった。

このように伝えている。足元の米価急騰の世情もあって、「エンゲル係数の歴史的高さ」がちょっとした話題になった。

確かに良いニュースではない。

改めて、年間収入で層別化されたデータを(e-Statを利用して)家計調査からとり、第3階層、即ち「中位層」を対象にエンゲル係数を求めてみると、2024年平均で29.1%になるから、日経報道とは概ね整合的な数値になる。

ちなみに外食と酒類を除いて食費に占める割合を求めると、上の数値は23.5%になるので、この違いはかなり大きいことに留意しなければならない。

年間収入階層別のエンゲル係数については、以前にも投稿したことがあった。足元では本年1月までの月次データが家計調査で得られているので、再計算した結果を下に示そう。


薄いグレーの折れ線は、生のエンゲル係数を3カ月移動平均した値。色分けして重ね書きしているのは、局所回帰(LOESS)で成分分解して得られた傾向成分である。年間収入階層は、"01"から"05"にかけて収入が高くなっている。各階層は5分位階級になっているので、5分の1ずつの世帯が含まれている。但し、外食・酒類を除くエンゲル係数である。

トレンドを見ると、最もエンゲル係数の高い第1階層は、本年1月時点で大体28%。中位に当たる第3階層では22~23%程度である。最も豊かな第5階層は18%というところだ。確かに、同時点で(=物価水準が与えられたとすれば)、年間収入が増えれば、エンゲル係数は低くなる。これは歴然としている。故に、エンゲル係数の高低は、(ある程度にせよ)生活水準の指標として使えるわけである。

このエンゲル係数は、どの世帯も2015年前後を境にして、それまでの横ばい傾向から上昇傾向へと動きが変わり、この10年程の間に5~6%ほど高くなった。これが2014年4月、2019年10月の二度に渡る消費税率引き上げとどれほど関係しているのか、多くの人が経済専門家から解説を聴くことはほとんどないのではないだろうか?というか、そもそも因果関係について研究が満足になされていないのかもしれない。

この辺も、普通の日本人にとって、経済学が(ずっと以前に比べて)縁遠く感じられる一因になっているかもしれない。

上図で視ておくべき点として、低収入世帯ではエンゲル係数がずっと(傾向として)上がり続けているが、高収入世帯では最高水準の高さにまで上がっているわけではない点だ。

食品価格の上昇の痛みをより強く感じているのは、やはり低収入世帯であるという認識はどうやら的をついていると言える。

家計調査は、家計に対するミクロベースの統計データである。これとは別に、マクロ統計でエンゲル係数を見ることもできる。GDP統計はマクロ統計の代表だが、GDPは国民経済計算(SNA)の一環として公表されているデータだ。SNAの付表12は「家計の目的別最終消費支出の構成」を教えてくれる。

この付表12からマクロのエンゲル係数を求めると下のようになる。



確かに、マクロのエンゲル係数も上昇トレンドを示している。ただその「上昇トレンド」は、リーマン危機が出来した2008年前後を底にしたアップ・スウィングになっていて、家計調査では目立っていた2015年以降の上昇はそれほど大きいものではない。せいぜいが2~3%程度上がっているに過ぎない。そもそもマクロのエンゲル係数は、たしかに歴史的高みに上がってきているとは言え、その高さは確報公表値のある2023暦年で19%程度である。

但し、このエンゲル係数は、目的分類の中の「食料・非アルコール」を帰属家賃を除く家計最終消費支出で割った値になっている。外食は別の目的として「外食・宿泊サービス」に含まれているので、家計調査ベースのエンゲル係数と比べる時には、概念を揃える必要がある ― そのほかにも、マクロの消費概念とミクロの消費概念には微小な差異があるが、大勢には影響しない。

上のグラフに描画した家計調査ベース・エンゲル係数は外食と酒類を除いている。概念的には上で求めたマクロのエンゲル係数に近くなっている。

家計調査ベースのエンゲル係数の2023年平均を求めると、第3階層で23.2%である。マクロのエンゲル係数は同じ2023年に20%未満である。

この違いは、調整しきれない概念差だけからもたらされているにしては大きすぎるような気がする。つまり、

全体として、マクロのエンゲル係数は世帯を対象にした標本調査結果より低くなっている。

こう言ってよいのではないだろうか。

この違いをみて、思うのだが・・・

マクロのエンゲル係数がミクロのエンゲル係数より低い理由は、低収入世帯が高収入世帯より相対的に増えていることだろう。具体的には、高齢化が進む中で、「年金のみで生活する高齢者世帯」が数において増加している。だから、世帯を単位として平均すると、エンゲル係数の平均値が上がる。基本的なロジックはこういうことだろうと推察している。

高齢化によって家計のやりくりが厳しくなるのは、ザックリと言えば、避けようがない(と小生は個人的に思っている)。マクロ的にみると、日本のエンゲル係数は20%未満で、「海外先進国」に比して、それほど突出して高いとはいえない。これまた「経済的な真実」なのではないかと思われる。

家計調査が示すミクロの平均値だけをみて騒ぎ立てるのは、(無意味ではないが)「偏っている」とは言えそうだ。

身の回りの報道で、マクロで見た時のエンゲル係数が(一度も?)参照されないのは、(小生の目には)不可思議である ― 簡単な作業なんですが…



2025年3月9日日曜日

前稿の補足: なぜ「浄土」を目指すのが善いか?「好いことがあるから」ではない

昨秋に小生が属する浄土系宗派の相伝を受けた後、平日には朝の勤行で読経をし、日曜はカミさんと拝礼をしてから写経をすることが新たな習慣になった。

勤行は、遠く遡れば『昼夜六時』、つまり晨朝(早朝)、日中、日没、初夜、中夜、 後夜の六回、行うべき行なのだが、現代に生きる凡夫なる小生は朝一発で勘弁してもらっている。

それでも、読経後は気分が晴々として、なかなか、良いものである。朝の散歩もイイが、発声しながら一念集中していると、無念無想にも近くなり、心身の健康維持にもよいのじゃないかと、今はヨカッタと思っている次第。


前稿の補足:

毎日の読経では、「往生安楽国」とか、「応当発願 生彼国土」とか、色々と出てくるが、(浄土系宗派では)「安楽国」も「彼国」(=彼岸にある国)も浄土に数多存在する国の内の阿弥陀仏国を指す言葉で、その国名が「極楽」なのである。

このような超越的世界概念の実在性について前稿では数学との類推から覚え書きを保存したのだが、存在論としては理解可能というものの、なぜそこに往くのが善いのかという点で、こんな風に書いた:

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

こんな風なまとめ方をした。

その後、上の点を考えたが、解答は一つだ:

阿弥陀仏国に往こうと願う意志は、この世に生きている内に行い得るあらゆる「善行」を超える、最高の善意志であるに決まっているからだ。 

こう考える以外に答えはない。

存在論として理解可能で、倫理として「そこへ往くべきだ」となるなら、あとは「そこへ往こう」と志すだけになる。残る問題は、日本仏教で発展した《称名念仏》という法然以来の他力宗派が強調する「念仏」が、なぜ有効なのか。残る問題はこれだけになる。

当然ながら、これについては色々な研究の積み重ねがあるようだ。


それはともかく、上の答えは(自分や社会にとって)良い結果がもたらされるかどうかで、その行為が善いかどうかを決めるのではない。善を目指す意志そのものに善の源をみる立場だ。これは英米流の功利主義よりカント以降のドイツ観念論に近い。日本の西田幾多郎が『善の研究』で展開した善の観念もそうである。西田の功利主義批判は既に投稿した中で触れている。

この関連で言うと、仏教の「阿弥陀仏国」はプラトンの「善のイデア」とほぼ同じものを指しているとも思われる ― かなりアバウトではありますが。そういえば、プラトンの『国家』の最終章には『エルの物語』があるが、あれは仏教でいう輪廻転生のギリシア版ともいえる生命観、世界観である。

プラトンは、人の幸福は善であることであり、善とは善のイデアにどれほど近いかであると、こう考えていたが、善のイデアに憧れる意志と阿弥陀仏国に往きたいと願う意志とは、小生にはほとんど無差別にみえる。

ギリシア思想は、紀元前三世紀からゼロ年頃まで続いたヘレニズム時代に、東方へ拡散し、特にパキスタン、北インド、アフガニスタン辺りのガンダーラ地方ではギリシア文明の影響が顕著にみられる。この地域は、仏教が発祥・発展し大乗仏典が編纂された地域とも重なっている。仏典編纂とヘレニズム文化は時代的にも重なっている。当時の北インド地方では、サンスクリット語、ギリシア語、中国語その他が混在して使われていて、文字通りに国際化された社会があったに違いない。インドで生まれた仏教思想とギリシア思想との関係は、掘り下げて勉強すると面白いテーマだと思う。

毎日の日常勤行式の中の『四弘誓』には

法門無尽誓願知

という一句があるが、正に真理を知ろうとする動機によって、最高の善に近付くという、共通の発想が色々な文脈の下で重なっている。そんな気がする。

以上、前稿の補足まで。

2025年3月6日木曜日

断想: 数学的虚構が実在するならば・・・宗教的実在も?

愛読書の一つにプラトンの著作があるというのは、本ブログで度々述べてきた ― プラトンとは学理上の競争者であるアリストテレスの方は、どうも波長が合わなくて、ほとんど読んだことはない。そんな小生が、長い間、現実に即した実証主義に共感を感じてきたのは、それ自体が矛盾ではあった。

その意味では《民主主義》とか《平等主義》よりも前に、《プラトン主義者》であるのかもしれないネエと改めて感じていたところ、ずっと前にも似たような下りを読んだことがあったナアと思い出したのが、ロジャー・ペンローズの『皇帝の新しい心』(="The Emperor's New Mind")である。原本は1989年、訳本は1994年に刊行されている。著者のペンローズは宇宙論上の業績で2020年にノーベル物理学賞を受賞している。

要するに、AI(=人工知能)なるものに対する批判的論評である。当時は、まだ最近の「生成AI」は未登場であったが、それにもかかわらず、あらゆるAIに対して当てはまる根本的問題意識に、物理学の視点から解答するものになっている、解答というより疑念になっている、こういう受け取り方はまだまだ可能だと思う。

なので、AI進化の発展史はまだまだ続く、今後も多くの山があり壁があり峠があると、予想しておくべきだというのが、小生のAI観、ロボット観である。

その中の第3章『数学と実在』という章であったが、末尾にこんな文章がある:

……数学については、少なくともより深遠な数学的概念については、他の場合に比べて、玄妙な外的な存在を信じる根拠はずっと強い、と私は感じないではいられない。このような数学的アイデアには、芸術あるいは工学に期待されるものとはまったく異なる、有無を言わせない独自性と普遍性がある。数学的アイデアが無時間の、玄妙な意味で存在しうるという見解を古代に提唱したのはギリシアの偉大な哲学者プラトンだった。そのためにこの見解はしばしば「数学的プラトン主義」と呼ばれている。

つまり数学的概念は数学者の空想ではなく『実在』である、と。実在する場所の特定は、未解決としても、とにかく「実在」している。こうした世界観は確かにプラトン的である。即ち、数学的な概念はプラトンの《イデア》であって、この世界にはなく、《イデア界》に実在する、と。こんな哲学のことである。

その前の下り

彼ら(=数学者)は現実的な実在性のない、精巧な心的構成物を作り出しているに過ぎないが、……それとも数学者はすでに事実「そこに」存在している真理 ― 数学者の活動とはまったく無関係に存在している真理  ―  を本当に暴き出しているのだろうか。

… …

数学には、「発明」というより「発見」という言葉の方がはるかに適切な事柄がある。…このような場合には、数学者は「神の業」にぶつかったのだという見方をすることもできる。

このタイプの思考と、プラトンが『国家』や『ゴルギアス』で展開している思考は、まったく同じ形式を共有している。

1572年にラファエル・ボンベリが『アルジェブラ』と題した著作の中で、カルダーノの(3次方程式の根に関する)研究を拡張し、複素数の代数を実際に研究し始めた…

現実には「存在するはずもない」虚数が、数学で使われ始めたことをどう観ればいいかで、著者の立場を述べているわけである。


この本を読んだ当初には、まったく注意しなかったが(読書はそんなものである)、改めて読むと実に深いことを書いていたわけだ。

で、改めて欄外にこんなメモを書き加えておいた:

事実としてそこに存在する真理だが観察はされない。西田幾多郎は純粋経験による認識にだけ実在性を認める。両者の関係はいかに?鈴木大拙の「霊性」か?

人間が作ったものは全て無常で永遠のものではない。神の業は永遠に不変である。真理とは変わるものでなく、変わらないものである。

素数は人類がいようといまいと、素数はこの世界に存在していた。ピタゴラスの定理がユークリッド空間において真理であること自体は、たとえこの世界が消失しても、真理であることに変わりはない。

こんな事を鉛筆でメモ書きした。

上のメモ書きにもある鈴木大拙だが、同じ岩波文庫にあるとはいえ『浄土系思想論』は豊かな実質がこもっているが、最高峰の定評がある『日本的霊性』は昭和19年に大衆向けに刊行されたためなのかレベルが低い(と勝手に判断している)。

『浄土系思想論』の冒頭には、結論の主旨が箇条書きされているので、二点だけ抜粋しよう:

  1. 極楽(=阿弥陀仏が主宰する浄土世界の一つ)は霊性の世界で、娑婆(=現に生きているこの宇宙)は感覚と知性の世界である。ここに霊性というのは感覚や知性よりも次元を異にする主体なのである。感覚は物の世界の働きを、知性は分別をその性格としている。
  2. 極楽を知性と感覚の方面より見る限り、物質的なもの、即ち時間的・空間的となる。それではどうしても本当の「安心」が得られぬ。「安心」は霊性に属するものである。

この二つより適切な浄土観を小生は読んだことがない。

このページの上にも何かメモ書きがしてある。判読してみるとこう書いてある:

感覚と知性では認識できない。故に経験では認識できない? → カントの神と同様。霊性なる働きを人間はもっている?誰でも?霊性の働きでのみ認識できるのか?

こんな事を書いてある。

鈴木大拙は、感覚や知性で「浄土」や「極楽」の実在をとらえられない、と。そう述べている。が、この世界に存在するはずもない数概念を、数学では理性を用いて使いこなしているわけだ。

空想だと思われる数概念を使うことで、実際にこの世界の理解が深まる事象が多々ある。とすれば、この世界には存在しようがない数だが、この世界の背後、というかこの世界の「現象界」の背後に実在していると考えるよりほかはないであろう。これが数学的プラトン主義の骨子であった。

同じように、「浄土」という概念がある。それは此の世界から直接に行ける世界ではない。が、その実在性を当然のように考えて宗教哲学の中で使うとしても、直ちに空想とは言えないわけである。

鈴木大拙がいう「霊性」に頼らずとも「知性」のレベルで議論するとしても、存在論として浄土を否定することは無理である。その実在は、人間の(というより、全ての衆生になるのだが)この世界の全体像について、よい世界観を提供するのか否か。この議論次第であるという理屈になる。

つまり、「浄土」なる世界については

  • その存在論は超越的世界として理性的に受け入れ可能
  • しかし、形態論としては、時間や長さ、大きさ、色・形など感覚的とらえ方をするわけにはいかないので、経典では色々な言葉で表現されているが、すべて感覚的であり不適切。
  • 機能論としても、例えば「浄土三部経」で述べられている内容は、(当然ながら)荒唐無稽。不謹慎(?)な事を敢えていえば、浄土に多々ある中の一つである「極楽」という世界だが、その名称の割にはそれほど安楽で面白そうな所ではない。
  • ただ、価値論としてみるとき、つまり此の世でいま生きている人間が目指すべき世界なのか、言い換えれば阿弥陀経のいう『応当発願 願生彼国』、即ち

信仰心のある立派な若者たちと立派な娘たちは、かの仏国土(=極楽浄土)に生まれたいという誓願をおこさなければならないのだ

と。ここまで強く願うに値する世界なのか、極楽浄土は?この点は、もっと研究の余地ありではないか。「厭離穢土」というが、それほどにまで「厭離」するべき世界なのか、この世界は?こういう疑問である。実際、生まれ変わっても、この世で人間としてまた生きたいと願っている人間は数多くいるに違いない。『輪廻を離る』どころか『輪廻に執着する』人は、案外、多いのだろう。この現実をどう見る?

  • 最後に、検証可能性という点もある。とはいえ、そもそも観察不能な超越的対象についてどんな検証を行えるのか?検証するためには、そこから導かれる反証可能性のある仮説を立てるしかないわけである。これがない限り、議論に使うのは自由だが、実在性については未確認ということになる。つまり、浄土を目指す他力信仰は、今もなお、《信》こそが最も大事な《難信之法》であるわけだ ― だからこそ「宗教」に分類されてもいる。

今のところ、科学的には(?)こんな風に整理しているところです。

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

 

2025年3月3日月曜日

ホンノ一言: ホワイトハウスの悲劇を英誌はどう見たかの一例

ずっと以前、イギリスは「世界の歴史の黒子役」と形容したことがある(例えば、これこれ)が、今回の米国・ホワイトハウスを舞台にした悲劇というか、喜劇というか、これについて、英誌・The Economistは、

これは"manufactured fight"(=仕組まれた戦い)だった

と観ているようで、早速こんな風に概括している:

Even deputies from Mr Zelensky’s inner circle agreed that it had been a disaster. Some reasoned the president had been tired, three years into war and a long transatlantic flight. He had been provoked into a manufactured fight. “J.D. was the problem,” said one of them. “Zelensky had to show strength to be credible for negotiations, but the emotions were too much.” A senior Ukrainian security source said Mr Vance seemed to be pleased that the negotiations never even happened. “As a wrecker, Vance had been well prepared,” he says. “He did his thing professionally.”

At the end of the shouting match, Mr Trump quipped, “This is gonna be great television.” The president of Ukraine scowled as he sat with his hands clasped. Mr Vance smirked. His work was done. 

Source: The Economist
Date: Feb 28th 2025
URL: https://www.economist.com/europe/2025/02/28/a-disaster-in-the-white-house-for-volodymyr-zelensky-and-for-ukraine

ウクライナのゼ大統領、英国人の目には『仕組まれた戦い』(=manufactured fight)に絡めとられたと映ったようだ。

マ、罠に落ちたと云う方が分かりやすい。

終わった時、副大統領はニヤリと笑い、ゼ大統領は顔をしかめた。彼は仕事をした、と。

中国人なら「欺計」とでも呼ぶようなプランである ― 目的は当然のこと「ゼ大統領の排除」であるのは明白で、欧州側の思惑とは別に、アメリカはとっくにそう決めて、準備万端、練っていたのだろう。TVを観ていたヨーロッパ首脳にはアメリカ側の意図が伝わったはずである。

その後の英首相との協議、英国王との謁見はイギリスの仕事である ― 多分、マクロン仏大統領はどんな役を演じるのか、イギリスが(アメリカと裏で相談しながら?)決めるのだろうと憶測している。古来、イギリスの「二枚舌」(?)には定評がある。

グレアム・グリーンやイアン・フレミング、ジョン・ル・カレを生んだ国民性は伊達じゃあない。

思うことは、一つ。

国の運命をこうして外国の胸先三寸で決めるなんてことは、情けなくて、情けなくて、金輪際、いやだネエ・・・ということだ。

戊辰戦争勃発のとき、徳川慶喜がフランスの支援申し出を断ったというエピソードは、この日本を救う大英断であった。改めてそう思います。


念のため、引用した英文にGoogle翻訳がつけた和訳をコピーしておく:
===
ゼレンスキー氏の側近の議員たちも、これは大惨事だったと認めた。大統領は戦争が始まって3年、大西洋を横断する長い飛行で疲れていたと推論する者もいた。大統領は挑発されて仕組まれた戦いに巻き込まれたのだ。「問題はJ.D.だった」と議員の1人は語った。「ゼレンスキー氏は交渉で信頼を得るために強さを見せなければならなかったが、感情が勝りすぎた」。ウクライナの安全保障当局の高官は、交渉がそもそも行われなかったことにヴァンス氏は満足しているようだと語った。「破壊者として、ヴァンス氏は十分に準備していた」と同氏は言う。「彼はプロとして自分の仕事をした」。

口論の末、トランプ氏は「これは素晴らしいテレビになるだろう」と皮肉った。ウクライナ大統領は顔をしかめ、両手を握りしめて座った。ヴァンス氏はニヤリと笑った。彼の仕事は終わった。
===

いつも思うのだが、海外のメディアが日本に参入する際の《言葉の壁》はもはやない。

Amazon Primeの会員数が日本で増加中であるのと同じく、アメリカの"The New York Times"や"Washington Post"、イギリスの"The Telegraph"や"The Guardian"をネットで購読する日本人もこれから飛躍的に伸びていくのではないかと想像している。

とにかく海外メディアは低価格で高品質の情報を提供しているのが強みである。

AIの進化速度と放送技術の進歩を考えると、10年後には、紙媒体のメディアだけではなく、音声媒体である(先ずは)ネット動画でも「言葉の壁」が消失している可能性は高い。国内のTV、ラジオは、世界のメディアとの競争を迫られるだろう。

2025年3月1日土曜日

ホンノ一言: 日本がウクライナにしてあげられる事はあるのか?

たとえ新聞やTVを相手に「情報断ち」をしても、ネットからは断片が入って来る。いくら目張りしても、どこかの隙間をみつけて家の中に入ってくるカメムシに似ている。

今日も

ウクライナとアメリカの平和交渉は混とんとしてきました。

Source: アゴラ AGORA 言論プラットフォーム

URL: https://agora-web.jp/archives/250228222304.html 

こんな一文が目に入った。

昨日、ホワイトハウスを舞台に激論を繰り広げた挙句に決裂した、アメリカ=ウクライナ会談のことである。その後、上のような記事が出回っているわけだ。


確かに「混沌」としてきた。が、これはいわゆる将来予測でメシを食ってきた野次馬の目線からいえば、「線形的予想」、というか「単純な外挿予測」である。

野球で3回までに2点差がついた。とすれば、9回までやればその3倍、6点差がつく。先行されたのなら負けてしまう。こう考える人は悲観論者だ、先取点をとって勝っているなら6点差で楽勝だ、そう考えるなら(とんでもない)楽観論者というわけだ。

世界を予測するのに単純な外挿予測は当てはまらない。


今の場合、

混とんとするより前に、ウクライナという国が消滅してしまえば、ウクライナとアメリカの平和交渉も自動消失する。

情勢は、予測によって動くのではなく、力学によって動くものだ。戦争をしているなら軍事力と外交手腕に着目して将来予測をするべきだ。

「混沌」などと言う楽観的予測にはとても賛成する気になれない。


アメリカの軍事支援は西側ヨーロッパ諸国がまとまっても(量的に)補えない。イギリスは(最初からそうだったと観ているが)賢く立ち回っているようであり、ドイツはもう既に青息吐息というところ。そもそもドイツはロシア融和外交で経済的繁栄を築いて来たのである。開戦当時から在職しているマクロン仏大統領は、昨年の選挙で与党が大敗北して昨年末には4人目の首相を任命したばかり。最大の政敵である極右政治家・マリーヌ=ルペンを検察を使って不正経理で葬り去ろうとしている真っ最中である。これでは国内を統治するので精一杯だろう。後は推して知るべし。ハンガリーなどは最初からロシアに同情的である。

日本も太平洋戦争で酷い負け方をした。試みに<太平洋戦争 戦没者>で検索すると、

太平洋戦争における日本の戦没者数は、約310万人とされています。そのうち軍人や軍属は約230万人、民間人は約80万人です。

と表示される。

次に<太平洋戦争 1944年以降 戦死者>で検索すると、

太平洋戦争で1944年以降に戦没した日本人の数は、約281万人です。これは全戦没者数の約91%を占めています。

という結果になる。

太平洋戦争は1941年12月に始まり、42、43、44年と続き、45年で終わったが、戦没者の90%超が後半1年半に集中しているわけだ。

1944年1月時点は、まだサイパン島が落ちておらず、日本の敗戦が「決定的」だとまでは言えなかった。そこで真剣に和平を求め停戦していれば、戦没者の9割以上は助かったかもしれない。

しかし日本は和平を求めなかった。何故なら日本には日本の正義があったからである。

戦争を支配する論理、重視するべき計算とはこういうものである。


劣勢が決定的になった後に停戦を選んでも"too late"であるのは歴史が教えてくれている。日本人が経験した歴史をウクライナ指導者に伝えることも日本として出来る事の一つであるには違いない。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・』といった精神は、ウ国の歴史全体がひょっとすると、そんな歴史であるかもしれず、言いたいことが伝わる可能性があるというものだ。

あと一月もたたないうちに、『ゼレンスキーはもはや狂人だ』と、そんな風評がアメリカ発で世界に拡散されていくのではないだろうか?

予想されうる状況ではあったものの、憐れムベし、憐れムベし……

2025年2月28日金曜日

ホンノ寸評: 日本伝統のイイとこ取りの発想で行き詰っているのかも?

2月最後の投稿は寸言だけ。

最近、この日本で暮らしている人たちは

増税が話題のときは、政府不信の無政府主義者

授業料無償化、医療費補助、少子化になると、国の役割を重視する社会主義者

政府のあり方について話すときは民主主義者

大企業を語るときは、独占排除、競争促進の自由経済論者

中小企業の経営苦をみるときは、公的支援を主張する積極的介入論者 

といった具合に、何を話すかで色々な《イデオロギー》を使い分けている、一言でいうと《イイとこ取り》で国や制度と自分の生活とを関係づけている(という印象を受けてます)。


日本社会を造ったときの柱や梁、屋根、壁といった基礎部分が、古くなり、互いに整合しなくなり、つぎはぎを繰り返している内に、スパゲッティ化して絡み合い、もつれあい、もう日本人自らも合理的な建て替えができない ― 散らかり放題の中で平気で暮らしている人たちの低い知性を物語っているようで実に恥ずかしいのだが。まるでモンスターのような複雑怪奇な法制度・文明の国になっている……、そんな感覚がする……、これは小生だけだろうか?

マア、「だけ」なのかもしれないネエ。


2025年2月24日月曜日

ホンノ一言: 「共通の見方」をこそ疑うべきだという一例

トランプ米政権のスタートを契機に、ロシア=ウクライナ戦争停戦への道筋が見えてきたというので、大仰にいえば世間は《騒然》としている。

どうもこんな世情を見聞きするにつけ、日露戦争を知らなかったという日本の天文学者に、たまらなく羨ましさを感じる。

先日も投稿したように、新聞、TVについては基本的に《情報絶ち》をして、それなりに快適なのだが、ネット・アクセスを遮断するわけには中々いかない。どうしても情報の断片は視野に入って来るのだ。


こんな断片もあった:

国際社会は外交と制裁を駆使し、ロシアのプーチン大統領による「力による現状変更」を阻止しようとしてきたが、戦況はロシア優位に傾いている。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original: JIJI.COM

Date: 2/24(月) 0:46配信

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/1c42f042d27ba64824eb46bc6938632e82fe40df

この文中にある「国際社会は外交と制裁を駆使」という所だが、何も国際社会が一致して対ロシア制裁をしているわけではない。多数派ですらない。間違った事実認識だ。「少なくとも価値観を共有する西側社会は……」とでも言い直すべきところだろう。

自らが立脚する立場を無条件に肯定して、その前提には何も触れることなく、特定の判断を押し付ける報道は、《自省とは無縁の独断》というもので、もう卒業してもいいのではないだろうか?


真っ赤な嘘を嘘と知るのは簡単だ。しかし、本当らしく語られる意見が嘘であると見破るのは難しい。語る本人がそう思っているならなおさらだ。

社会が混乱する時代には、その昔、古代ギリシアの哲学者プラトンが《ドクサ》(=勘違い、思惑、独断、etc.)と呼んだ、こうした言説が広まるものである。

《多数者の見方を否定》することが出来る人、《真理》を語る人は、いつの時代でも少数である。ソクラテスはただ独りしかいなかった。少数の人が語ることに耳を傾けることこそ重要であるのが現代という時代だ。