世間でよく言われるが、
宗教によって神々は様々だが、これらはすべて人の心の中にのみ存在するという点では共通している。同じ趣旨の記事を先日ネットでも見かけたから、現代日本社会の大多数の人々にとっては当たり前の常識になっているのだろう。
確かに神という観念は、心の外の外界に可視化しうる存在物(=物理的存在)としては存在しないという理屈は納得的である。しかし、上のような考え方の根底に
心の中にのみ存在するのだから、本質的には虚構であって、客観的に実在するものではない。すなわち、全ての宗教は人間が作ったストーリーに過ぎない。これが言いたい事であれば、まったく賛成できない。というか、正反対であるというのは、最近の何度かの投稿で強調してきたことだ。とはいえ、これを再説するのに《唯識論》の要点から始めるのは面倒だ。ただ
「客観は実在するが、主観は心の中にのみある」と考えること自体がその人の主観である。その人の大脳が「彼我」の「彼」として構築した映像を「客観」という。つまり「客観は実在する」という言明は「我は実在する」というのを裏側から言っているだけだ。これだけを今日は記しておきたい。
昨年の秋に相伝を受けたことを契機に朝の読経が習慣になった。最初は「日常勤行式」に沿ってやっていたが、最近は月曜以外には「専修念仏」をしている。もし人が『南無阿弥陀仏』というのは人がつくった想像によるものだと言えば、人が考えたものであるのは確かな事実だ。異論はない。
そう意見を投げかかる人に問うことがあるとすれば $$ \frac{\partial^2 u}{\partial t^2} = a^2 \frac{\partial^2 u}{\partial x^2}+f $$ という文字列と
どちらの文字列も物理的存在として確かに客観的に実在すると言っても可であろう。他の人とも目で見ているその文字列は同一の表象として認識されるのは間違いないからだ。
とはいえ、客観的に実在するのは目で見ている文字列だけであるというなら、それは誤りだ。上の偏微分方程式はいわゆる『波動方程式』で、理系の大学なら2年か3年で学習するはずだ。方程式が伝えようとしている《知の働き》を理解できた人には
方程式が伝えている知の働きと知がとらえた真理が実在するのであって、この文字列はいま消え失せてもおかしくはない。そう考えるはずである。そして、知がとらえた真理は生死を超越して永遠不変である理屈だ。なぜなら真理は、古代ギリシア人なら《ロゴス》、現代の英米人なら"Truth"、ドイツ人なら"Die Wahrheit"という単語で表現するはずだが、物質を媒体とする単なる現象ではないからである。物質は時間が経過する中で、老朽化し、消失するが、非物質的な知の成果は物質とは別に現に働いているともいえるわけだ。
働いている以上、そう働かせている主体が(いずれかの空間に)実在していると考えるとしても合理的な思考というものだろう。もちろん測定可能な何かのデータがエビデンスになるとは思われないので、経験科学の成果だけが真理であると断言する人は別の立場にいる。しかし、そうした《科学原理主義者》は、データによって実証されるまでは、いかなる数学的定理も真理とはいえないという羽目に陥るのではないかと逆に心配になる。
物質と非物質との違いは何度も投稿してきたので、これ以上くりかえす必要はない。が、念仏と偏微分方程式は、文字列自体に意味があるわけではなく、思念している心の中でとらえている対象が重要という点で似ている。本当に実在しているのは目で見ている物ではなく、知性がとらえた観念の方である。だから、最初に引用した『神々は人の心の中にのみ存在するのです』というのは、確かにその通りで仏教では「法界」と言うのだが、これをきちんと理解できる人は(難しいことは避ける?)現代日本社会では極めて少数であると思っているのだ、ナ。
多分、そんな人は目で見える現象こそ実在していると思うはずだから、自動運転されて走っているバスを目撃すれば
ついに人類は考える自動車を発明したわけか!タイムスリップしたシャーロック・ホームズよろしく、こう思いこむことでありましょう。仮にそうなりゃ、
機械が考えるなら、鳥も考えているし、犬だって考えてるだろう。いやいや、宇宙全体、何かを考えているンでございましょうそんな「汎神論」みたいな、マア、正反対の極地にも通じるわけです。