2025年1月17日金曜日

断想: 「浄土」という観念と「無限大」という数学的観念と

西田幾多郎と親交のあった哲学者・宗教家に鈴木大拙がいる。『日本的霊性』がよく知られているが、『浄土系思想論』も岩波文庫に入っている。こちらは哲学というより宗教論に近く一般受けはしないかもしれない。が、その中の「浄土観続稿」第5節に次のような下りがある:

とにかく、浄土は吾等の感性的対象でもなければ、分別智の領解を容るべき圏内にも入らないようである。浄土の空間は娑婆の空間ではない。時間またその通りである。…浄土は徹底して不可思議なのである。

娑婆とは我々が生きているこの現実世界のことである。浄土と呼ばれる世界は、この世界のどこにも存在しないと言っているわけだ。

他力思想に基づく浄土系仏教信仰において、最大の難所は文字通りの始めにあるわけで、浄土、つまり「極楽」なる世界が本当に存在するのか?その極楽世界を創った阿弥陀如来なる存在は本当に実在するのか?

こんな疑問に回答が得られない限り、どうもただ「信じろ」と言われたって、疑わしいネエ、と。救済や信仰対象をよほど強く願望している人はともかく、毎日をマアマア安楽に暮らしている人ほど、こんな疑問をほとんどの人は感じるような気がする。

こうして文字で「浄土」と書くのは簡単だが、書いたからって実在が約束されるわけではない。そんな理屈がそもそもあるわけだ。

ただ、思うのだが、理解しているつもりでも、私たちの感覚では観察不能な概念を、まるで実在するかのような感覚で使っている言葉は、他にも色々ある。

位置だけがあって大きさのない「点」、幅がない純粋の「直線」、目には見えない(はずの)直線で囲まれた純粋の「三角形」などという言葉をここで繰り出すのは、寧ろ幼稚な例になってしまう。

それより$\infty$、いわゆる「無限大」は、もっと「浄土」という言葉に似た概念かもしれない。



一つ言えるのは、無限大は実数ではないという点だ。実数ではないので、数字では表現できない。
 
エッ、何故かって?
 
いま、$\infty \,\,\in \, {\Bbb R}$と仮定する。
すると、$\infty$に$1$を加えた値も実数であり、$\infty$より$1$だけ大きい。つまり、 $$ \infty \,\, < \,\, \infty + 1 \in \, {\Bbb R} $$ しかし、 $\infty$は、いかなる実数よりも大きいから $$ \infty + 1 < \infty \quad \therefore 1 < 0 $$ これは矛盾だ。故に、背理法により、無限大は実数空間には含まれないと結論できる。 

つまり、いかなる数字でも表現できない。この世界は「有限性」に束縛されているので、無限大という大きさを測ることはできないわけだ。

$\infty$は、この世界では決して感覚的に観察できない大きさである。しかし、数学の理論展開において$\infty$は不可欠で日常的に使用されている。使っているということは、存在していると考えているわけで、ありもしない空想で数学を構築しているわけではない。実際、人間の頭脳が創りあげた数学が外界の宇宙をよく説明できるのは驚異とも言える。その数学で、この世界の外に飛び出す値である$\infty$を使っている。

無限大もまた比較を超えた、絶対的に巨大な数量、即ち「不可思議」な値であるには違いない。

更に、虚部を含む複素数には、一層のこと空想性を感じる向きが多いだろう。が、その(計算上の有用性ではなく)物理的な実在性については、他の説明がネットにはあるし、もう面倒なので省略する。

いずれにせよ、上の「浄土」という鈴木大拙の解説を読みながら、ふと連想したのでメモしておいた。

2025年1月13日月曜日

ホンノ一言: メタ社の方針転換と内外メディアの報道姿勢の違い

SNSではメジャーであるFacebookを運営しているメタ社が、トランプ次期大統領や共和党から批判が強いファクトチェックを停止すると発表したのは数日前のことだ。これに対して、バイデン現大統領が「恥ずべき決定」と非難したとの報道だ。例えばこんな感じだ:

US President Joe Biden has slammed US IT giant Meta's decision to end its third-party fact-checking program, calling it "shameful."

Meta CEO Mark Zuckerberg announced on Tuesday that the company decided to abandon fact-checking on its social media platforms Facebook and Instagram.

Speaking to reporters on Friday, Biden called the decision "contrary to American justice" and "really shameful."

Source: NHK World

Date:  Saturday, Jan. 11, 23:32

URL: https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20250112_02/

全体に日本国内の報道では、上のNHK報道と概ね同じ視点から、

メタ社の方針転換、よろしからず!

と、こんな評価が大半を占めている。企業経営の自律性を重視する日本経済新聞ですら

SNSのフェイスブックなどを運営する米メタが、第三者機関による事実確認、ファクトチェックを米国で廃止すると発表した。代替機能を導入するものの偽情報などの増加につながる可能性があり、憂慮せざるを得ない。

このように「憂慮せざるを得ない」決定としてネガティブに報道している。

他方、同じ経済分野の報道で世界から高く評価されている英誌"The Economist"は、今回のメタ社の決定は正しい方向への第一歩だと評価している:

For all that, Meta’s moves are a step in the right direction. Social networks should stamp out illegal content. For the sake of advertisers’ business and users’ enjoyment, they will probably want to keep things civil. But it is past time that they got out of the business of ruling on what is right and wrong. Only a fool would claim that his social network was the truth.

Source: The Economist

URL: https://www.economist.com/leaders/2025/01/08/mark-zuckerbergs-u-turn-on-fact-checking-is-craven-but-correct

Google翻訳の和訳能力は合格レベルだと思うので、英文をそのまま転載しても問題はないだろう。 

同誌編集部が最も重視している判断は、上の引用部分下から3行目の"But"以下の部分だ。

しかし、善悪(※ここは「正邪善悪」と訳すべきである、ナ)を判断するビジネスから手を引くべき時が来ている。自分のソーシャル ネットワークが真実だと主張するのは愚か者だけだ。

ちなみに上の記事のヘッドラインは

Social-media platforms should not be in the business of defining truth

である。小生も賛成だ。

世論における間違いは世論で解決するのが民主主義である。判決権は民間企業にはない。

従って、SNSはフィルターをかけるべきではない。あるテーマについて、どんな投稿があるかを視る時、SNS運営側はあらゆる意見を表示させるべきだ。コメントがあればコメントもそのまま表示するべきだ。何故なら、それが(ネットにアクセスする一部の階層に限定されてはいるが)社会全体の発言の縮図だからであって、それが世論のリアリティそのものであるからだ。

最も重要であるのは、真相つまり実在するリアリティであって、頭で信じている価値基準ではない。 

どうもこの辺に、外国のメディアと日本のメディアとでは、報道という行為にコミットする者としての覚悟の違いが、可視化されているような気がする。

何だか日本のメディア企業の上層部が(密かに)抱いている《愚民観》が、ここに図らずも表面化しているとすら感じる。

とはいえ、これまた「報道のあるべき姿」という問いかけに対する価値判断であって、メディア各社ごとの信念による……、とも言えるかもしれない。




2025年1月11日土曜日

断想: 実存主義哲学と浄土系思想、どこか似ているという話し

学生時代にはマルクスの唯物史観が人気の絶頂にあり、従って歴史の段階的発展仮説から必然的に「予測」される社会主義革命を待望するというのが、小生の少し上の世代、及び少し下の世代で共有されていた感覚であった(ように記憶している)。

今はそんな気風はないと思う。むしろ社会主義イコール強権的政府というイメージが定着してしまった。

考えてみれば、唯物論に共感しながら、クリスマス・イブの夜にはパーティを開いて遊び、元日には神社に初詣をして、御神籤を引くという行動は、頭脳が丸ごと矛盾の上に構築されていたわけで、それを不思議に思わなかった所こそ、当時の若者世代が精神的にいい加減、というよりタフであったところだ ― 矛盾こそ次なる発展の起点になるという屁理屈をこねていたものだ。マ、(マルクスもそうだが)ヘーゲルの聞きかじりだ。

小生は、「ドイツ観念論」という(単なる)呼び名にどこか知的なカッコ良さを感じ、それと同時に自分の研究テーマとしていた計量経済学の基礎になっている科学的世界観も是としていたので、唯物論的世界観にも賛同するという、何だかコウモリのようなポジションにいた(ような気がする)。が、それでも仲間内では「これもまた良し」という風で、時間があれば大学裏門の真向かいにある甘党兼喫茶店に座を占めて、半日の間は、友人たちと役にも立たない雑談にふけったりしていたから、今となってはゲーム機で遊んでいた方が時間のつぶし方としてはまだ気が利いていたと思う。

議論に熱中したから、頭脳が鍛えられる、とは限らないのだ。良い議論をしなければ、無知は無知のままである。

「物自体」から構成される外界から、人は色々な情報を感覚器官から得るが、「理性」は生得的な枠組み(=空間・時間、更には因果関係などのカテゴリー)に沿って、感覚的情報を整理して、「合理的世界」を意識の中で構成する。それが認識である。つまり、理性、というより「悟性」というべきだが、人間が生得的にもっている認識能力が処理した情報(=現象)のみが、人間が意識する世界には配置され、モノとして認識される。そういう哲学で、これは確かにプラトン以来の伝統を感じさせる所がある。それ故に、ニュートンやアインシュタインの理論物理学が典型的だが、世界が合理的に観えるのは当たり前のことで、そもそも目の前で展開される現象を、例えば因果関係に基づいて、人は合理的に説明するものなのだ……、人間は非合理な世界に自分がいるとは思考できない。これがカントの発見した純粋理性というヤツだ。

カントにおいては、意識の中で理性が構成する世界は、現象界を説明しているにすぎず、物自体のごく一部を占めるだけだが、理性が意識と外界との矛盾を解決しながら、自己発展的に成長すると考えれば、最終的には理性が構成する意識と物自体の客観世界が一致し、人の理性が導く結論が客観的にも正しい、いわば人が神様になるというか、可能性というか、そんな道筋を開いたのがヘーゲルである(と理解している)。

このような道筋の造り方は、どこか日本の哲学者・西田幾多郎の『善の研究』からも窺われるのだが、その辺は別の投稿でも一度とり上げたことがある。

ただ思うのだが、西洋流の哲学を読んでいると、浄土系仏教で強調する《煩悩》という語句が、まず出ては来ないのだ。まして人が煩悩を去って、理性の光に照らされて、客観世界の真相を捉えるに至るなど、仏教の立場から言えば《悟り》というべきだろう。悟りは、自力思想の最終到達点ではあるが、他力思想では実行困難なゴールである(と認識される)。

煩悩に理性が曇らされた《凡夫》は《無明の闇》の中で生きている(と考える)。確かに、理性は光である。真理は人を正しい生き方に導く。理性は、客観世界の真相を人に伝える力をもっているが、他力思想から言わせれば、こんな議論は机上の空論である。

『無明が知性をだめにする』と洞察したのは(もう故人だが)著名な伝説的数学者・岡潔である。

いまの世相は、芸術家は美を知らず、学者は真を知らずというありさまだが、そんなふうにさせてしまっているその本体こそ、無明というものではないか。そして無明の働きに対して、全く警戒を忘れているのが現状ではなかろうか。

随筆『春風夏雨』の第2章「無明」でこう書いてある。刊行は昭和40年だから60年も以前の昔だ。現在は更に闇の度合いを増していると推察するべきだろう。

このように、現実には全ての人は《貪瞋痴》という「三毒」によって、常に欲望に負け、怒りや焦りに身をまかせ、間違った思い込みから道に迷ってばかりいる存在である(という世界観である) ― ま、好意的にみれば「努力」とも言えるであろう。

ちなみに『春風夏雨』の第1章冒頭は

近ごろ、生命とは何かががようやくわかってきたように思う。

こんな書き出しから始まっている。

精神より生命が先立つ

というのが、素直にみる時にみえる「宇宙」なのだろうというのが、小生の立場だ ― これも最近になって迷いが出てきたのが正直なところだが、この点は既に投稿した。

こう考えると、ヘーゲル死後にヘーゲル批判派が提起した《実存主義》の哲学は、理性という光から人間を理解するのではなく、現実に存在している人間のありのままの姿を論じている点では、

たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして…… 

という法然『一枚起請文』で前提される人間観に近いものがある。

とはいえ、他力思想は日本史の中の平安末期から鎌倉初期にかけての「飢饉と動乱の時代」で急速に浸透した宗教思想だ。それまでは「自力」で最高の智慧に至ろうとする聖道門が支配的だった。自力主導の聖道門は現実には選択困難であると観るところで他力による浄土門に目が向けられるわけだ。

近代ヨーロッパの実存主義は19世紀の資本主義世界で生まれた。歴史のフェーズは遠く隔たっているが、最高の智慧に到達できる人間などはいないと現実を理解するところでは、実存主義哲学と浄土系仏教思想とは、どこか似ているところがある。この二つに相互関連などはないが、人間が考えることと、それを考える人間をとりまく世界との関係性には、意外と時間と空間を超えて共通する面があるのかもしれない。

【加筆修正:2024-1-12】

2025年1月8日水曜日

断想: グリーンスパン「私の履歴書」を切り抜いていたか、もう17年も前になるが

旧年末に本箱を整理していると、古い新聞の切り抜きがあった。見ると米国のFRB元議長で、在任中は金融市場との絶妙な間合いから「マエストロ」と称されていたアラン・グリーンスパンが、日経の「私の履歴書」に寄稿したものだった。2008年1月1日から1月31日までの30回分である ― 1月2日は休刊日だ。

改めて読んでみると中々面白い。

終盤近くになってから、話しは日本の事になっている。

日本にも中国脅威論があるようだが、恐れることはない。日中が競合する分野はそれほど大きくないからだ。 … 気になるのは、高齢化と労働人口の縮小だ。すでに高い技術力を持つ日本が生産性を高めるのは困難。労働力や生産性上昇に限界があれば成長も鈍る。移民を増やすことに消極的だと将来難しい状況に追い込まれるのではと恐れる。

どうやらグリーンスパンは、日本経済の成長にとって中国はそれほど警戒する必要はなく、それより労働供給の制約が成長の停滞をもたらすのではないかと心配していたようだ。

確かに、コロナ後の米経済の高成長が、一面で「不法移民」によって支えられてきたことは、ある程度まで事実であるに違いない。社会全体の生産力が、労働人口と資本ストックの総量及び技術進歩で決まることは、経済学には素人の人にとっても自明の事実だろう。

設備投資が低調であったこの日本においては、労働供給こそが生産力を高める(というか、維持する?)鍵であったわけだ。その労働供給を支えてきた(ほとんど大半が非正規の)女性の就業率は既に

(令和5年は…)女性の年齢階級別の就業率は、昭和56(1981)年と比較すると、25~29歳は86.9%、30~34歳は79.4%と上昇しており、いわゆるM字カーブの底が大幅に上昇しています。

こんな状況になってきた。だからと言うべきか、民放TVのワイドショー辺りは、働ける高齢者は何歳になっても働けとばかりに発破を飛ばしている有様だ。多分、《移民政策》を正面から話題にすると、社会から総バッシングを受けると怖がっているのでありましょう ― 事実として、大量の移民労働力を日本は既に受け入れつつあるのだが。

それにしても、日本社会に根強い「中国脅威論」に対して「恐れることはない」と観ていたグリーンスパンの目が「慧眼」であったか、「節穴」であったか、どちらに考えるかは、その人の政治的立場や文明史観をあぶり出すリトマス試験紙であるだろう。

アメリカ経済についても心配な事柄は(当然)記してある。たとえば

最近は共和、民主両党が角を突き合せるだけで、互いのつきあいは減っている。だから何事も前に進まない。政治が機能不全に陥りつつあるのでは、と時々不安になる。

この辺は、最近になってアメリカ社会も一層酷い状況になってきたわけで、

分かっちゃいるけど止められない

というところが、正義と派閥を好む人間社会にはあるということなのか?『無責任なんだよネ』という語り口ではおさまらない人間社会、というか本質的に「無知」である人間たちの宿命なのかもれない。

《所得格差》を観る目も真っ当である。

公正に富が分配されていると人々が受け止めなければ、資本主義やそれを支える諸制度への支持は得られない。

これが現時点で正に進行している現象だ。

ただ、それに対しては処方箋を示しており

この問題への答えは教育にある

こう断言している。

日本の歴史を振り返ってみても、近代的学校制度の発足は、明治維新のあと早くも明治5年という時点で、断行されている。江戸以来の幕藩体制に終止符を打つ「廃藩置県」がその僅か1年前の明治4年であったことを思うと、正に

教育は立国の第一歩なり

必ずしも「民意」に沿った政治を行ったわけではない明治政府だが、この点だけは大正解であったことが、改めて確認できる。

現代日本の政府は、(民主主義社会であるにもかかわらず)この点ではまったくの落第と言うべきであろう。一部のラディカルな御仁は

いまの文部科学省は解体した方が国益に資する

と、のたもうているようだが、むべなるかな、である。

そもそも政府全体が

何をやりたいのか、サッパリ見えてこないのは、これ又むべなるかな

仕方がない……ということなのだろうか?


 


2025年1月5日日曜日

ホンノ一言: 「女性初」の英断(?)で企業が成長するなら、「ドンドンおやりなセエ」ってことになるが、そんなに簡単にいくのか?

箱根駅伝はこの正月も盛況の内に終わったが、拙宅では特に上の愚息が好きで、今回も2日から3日にかけて宅に泊し、TV観戦にはりついていた。

観ている時には気がつかなかったが、

 日本テレビ杉野真実アナウンサー(33)が4日、インスタグラムを更新。箱根駅伝の第4区で、女性アナウンサーによる初めての中継地点での実況を行った杉野アナは、実況を終えた感想をつづった。

Source:YAHOO! JAPAN ニュース

Date:1/5(日) 6:00配信

Original:日刊スポーツ

こんな記事がネットにアップされていた。

これまた《女性初》ですか

そう思いました。

それもイイんですけどね

とも思いました。


これって、『人手が足りないンですよ』と。本当はコレですか?…と。何だか「国民男女総動員体制」を連想してしまうのだ、な。

こんな風に各分野で「女性初」の英断(?)を繰り返しつつ、仕事の現場ではイノヴァティブな改革が進まず、社会全体で「働き方改革」などと叫びつつ、実際には過去のやり方の延長を続けながら、働く人の人数で勝負と思いきや「人出不足」の現状に危機感のみが高まる。

何しろ、最近の最低賃金大幅引き上げに着いて行けない一部の県では

最低賃金引上げに耐えられない中小企業を支援する補助金が十分でない

こういう驚嘆に値する愚痴が、愚痴が愚痴ではなく、政策に対する正当な苦情として、もっともらしく伝えられる。世間はそれに同情する。

政策的な最低賃金引き上げに伴う経営不振や利益減少は、国に責任があるのだから、更なる経営努力ではなく、税金で保障してもらいたいわけだ。

そんなお国柄である。


言いたい本音を隠して、問題の根本的解決から逃げる経営の怠慢を美しい言葉で飾り、本当は為すべき経済政策を停めようとする。

この種の圧力は半端ではない・・・。

大体、(社内向け挨拶ならともかく)理念や価値観で企業を経営するべきではないでしょう。戦略はどうするンです?企業は何のためにあるンですか?

思わずそう感じるのだが、世間の受け止め方は、また違うのかな?

まあ、口を開けば『理念、理念、社会貢献』と企業経営者までが念仏よろしく唱えるのが、21世紀も20年余が過ぎた今の流行だからネエ・・・・21世紀は、案外、「宗教の世紀」になると語ったことがあるが、その通りの世相になってきた。

しかし、五濁悪世のこの浮世で、単なる理念を口で連呼しても、現実により良い社会になるロジックはないのだ。経済状況を改善したいなら、いくら気に入らなくとも、経済学の知識を活用する以外に道はない。

本来は英米社会に親和性のある英米発の経済理論が、日本社会でどれほど実効性があるかは、本気でやってみないと分からないが、日本社会の特性に立脚した学理がない(?)のだから仕方がない。

2025年1月3日金曜日

断想: そもそも他力思想の「往生極楽」という言葉は科学的意味を有するのか?

昨秋に受けた五重相伝を機に朝の読経を続けるようになった。これは前にも投稿したとおりだが、これまで職業生活を通して親しんできた科学的、というか《物質的自然観》のロジックに沿って考えると、信仰や救済、浄土といった精神的価値が、生死という生理学的現象と、そもそもどう関係しあっているのか?

こんな疑問がある。誰もが感じるはずのこの疑問に対して、正面から向き合わなければならない。

大体、仏教の浄土系宗派では「往生極楽」というが、これが我々をどう救済すると言うのか?

ここが分からないと、「他力」も「阿弥陀如来」も何もないわけで、それは禅宗などの自力思想が強調する「解脱」にとっても同じことだ。解脱したからと言って何がどう変わるのか?

こんな疑問は極めて基本的である。

他力思想から考えるとして、例えば、鈴木大拙の『浄土系思想論』には以下のような下りがある ― 但し、AmazonがKindle版で提供している『浄土系思想論(上)』<ディスカバーebook選書>に含まれている「真宗管見」から抜粋している。岩波文庫版『浄土系思想論』には「真宗管見」は収録されていない:

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である。……

本願を信じなくても、よってもって浄土に往生することの出来るというほど安全な純粋な善は、この世に存在しない……

善人はそのなせるところの善を必ず意識しこれを媒介にして、何かを求めんとする時、彼は直ちに善人ではなくなる。悪人といっても、もし彼にして一たび弥陀の光に照されたとすれば、その時に彼はその罪を除かれて、浄土往生人たる資格を得るのである。なんとなれば、弥陀は善をも悪をも一様に融かしてしまう坩堝ともいうべきもので、ここでは信のみがその絶対性を保持するからである。弥陀は創造主でないから、衆生に懲罰を与えようという考えを持たぬ。弥陀は普く一切衆生によって分有せられるところの慈悲の光である。

人間社会における《善悪》という価値は、阿弥陀如来による救済の場においては、一切意味を持たない。世間でいう「善人」、「悪人」とも、阿弥陀如来にとっては完全に平等であるというのは、善のイデアと神の審判とが相互に結び付いた西洋の思想とは違っている。

いま「世界観」と書いたが、最上行にある 

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である

がキーポイントになる。

「業」というのは、過去生、現在生、未来生を貫く、因果応報の連鎖のことで、宇宙の変動(=event、movement?)は相互に関連する因果関係による。その人が誕生時に負っている因果必然性を「業」とか「業縁」という観念で考えるわけだ。

なので、人間世界に生きる現在生において、善を為すか、悪を為すかという違いは、本人の自由意志がもたらすものではなく、「業縁」によって予め決定されている(と観る)。とすれば、確かに善人・悪人は平等ということになるが、最も分かり難いのは、このような世界観(倫理観とも言える?)を受け入れるにしても、

本願を深く信じて、浄土に往生する

なぜこれを心から人間の側から強く願うか?この一点だと思う。

そもそも「業」によって決定されている未来生があるのであれば、それを覆して、阿弥陀如来が救済するのは、論理矛盾ではないか?

こういう理屈になる。


ちなみに《本願》というのは、浄土系宗派では「常識」(?)に属するのだが、阿弥陀如来がまだ法蔵という人であったとき、48の誓いを「願」として立てて、これらが実現しないなら神の力をもつ如来にはならないと、そう誓ったわけだが、その中の第18願が宗派内では著名ないわゆる「本願」で

たとえ我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ

法然が唱えた専修念仏の有効性を根拠づける一文である。この伝説を釈迦が弟子・ 阿難に語る情景を記録しているのが、仏教の聖典(の一つ)でもある『無量寿経』である。ちなみにこの経典は「浄土三部経」の一つであり、後半部分で特に「悪」について書かれている所がユニークだと(勝手に)思っている。

他ならぬ仏教の開祖である釈迦が「阿弥陀仏」の存在を明言している以上、法蔵の願は全て実現されているのだろうということになる。故に「阿弥陀仏国」(=「極楽」)も実在し、第18願がある故に、「本願」のとおり現在生が終わる時、「極楽」という名の阿弥陀仏国に赴くことも、可能である。これが他力信仰の基本的論理である。


ただこうした思考に対して、唯物論的な科学的思考をする限り、認めがたいという現代世界の多数派の宇宙観があるわけで、実証のしようもなく、そもそもこの二つの見方は永遠に平行線をたどらざるを得ない。

だからこそ、

浄土に往生するというのは、なぜそれほど願わしいことなのか?

死ねば何も無くなる以上、死後の往生極楽など、架空の話しで意味がないではないか? 

こういう疑問は必ず生まれる。

* 

他力思想については、最近になってから何度も投稿してきた。たとえば小生自身の「世界観の変化」を要約したし、浄土思想や他力思想なら9年も前に既に投稿している。


多分、平安期10世紀から11世紀にかけて浄土信仰が非常に高まった背景として、源信による『往生要集』が可視化した地獄絵図の衝撃があった。これが先ずあったと想像する。地獄よりは極楽に往きたいと願うのは当然だ。その後、法然、親鸞が生きた平安末期から鎌倉初期という時代は、それまでの「末法」の感覚に加えて、現実に内乱、天災が続いた時代だった。貴族、庶民を問わず地獄絵図への恐怖は現代人の想像を超えていたであろう。内乱、動乱に明け暮れる中で浄土系仏教が救済宗教として受け入れられたのは偶然ではない。


では、科学主義が主流である現代世界において、なお浄土思想が有効であると考える根拠はあるのか?

それは、多分、因果関係から自然科学的に世界を理解するだけでは、「存在の真理」に達しえないという哲学的な立場によるのだと思う。


この世界は、原子、更には素粒子から構成されると観れば、元素や化合物、更には分子、高分子、生命は全て宇宙の本質ではないことになる。まして、人間がつくる社会や国、法律や学芸などは、とるに足らない幻になってしまうだろう。人間のやる事は、所詮は、この宇宙において意味なきバブルのような現象なのだろうか?

こんな虚無的なニヒリズムも確かに一つの立場だ。

しかし、ヒトにとって《世界》とは、決してモノクロームな原子や素粒子の集合体ではない。原子や素粒子が偶々結合して「事実存在」となった物体や生物から「世界」は造られていると認識する。外界にあるのは原子や素粒子だが、人間の意識が「ある」と認識するからだ。そう認識するのは、たまたまそんな物体を目で見たからではなく、それが何であるかを認識する知識をヒトが持っているからだ。これが「本質存在」に関する知識である。西田幾多郎が『善の研究』で述べているように、「世界」は意識の中にのみ存在する。

現に自らの中で活動している「自分」という精神的存在は、原子や素粒子の集合的運動として解釈するのは、無理というものだろう。即ち、「精神世界」という世界は確かに実在する。

考えてみれば、「社会」や「国」も実在はするが、物質として存在するものではない。

時間や空間は、カントが着目したように、人間が経験する現象を整理するための先験的な形式だ。時間という尺度に沿って考えれば、前世、生、死、来世という順序に整理される。しかし、生と死というのは、身体という物質の生成消滅のプロセスの一環であり、精神は身体の中に存在しているわけではない。

こう考えると、「精神世界」を「物質世界」とは区別して考える方が、ロジカルであって原子、素粒子の運動とは別の問題として、「精神世界」において実在するのは何かを考えないといけない。

こういう筋道になるだろう。


以上の議論を踏まえると、時間や空間という次元はもたない精神世界のどこに「自己自身」がそもそも帰属することになるのか?

こんな疑問は確かに疑問でありうる。

他力思想が強調する「往生極楽」という目的は、物質世界ではなく、精神世界において実効性をもつ言葉である。


今日のところは、まずはここまで。

雪深々 読経のあとに 湯をわかし

息と囲む すきやき鍋に 牛肉を

    これでよいかと 妻はとひつつ

【加筆修正:20254-1-10】 



2024年12月31日火曜日

覚え書き: 愚息としなかった話のメモ書き

一昨日は、いま札幌に勤務している下の愚息夫婦がやってきて、タラバ、ズワイを混ぜたカニ鍋を思う存分というほど大食して帰った。若いっていうのは、多分こういうのが至福のときであることを言うのだろうと思いながら見ていた。人間が人生で求めるものは、案外、シンプルそのものであるのかもしれない。

若夫婦とは色々なことを当然話したのだが、来る前はこんなことを話そうかなと想像することもあった。このまま忘れてしまうのも勿体ないので覚書にしておこう:

小生: 人が空を飛べるのは、飛行機が飛ばせているのであって、人が人を飛ばしているわけではないよね?

愚息: パイロットが飛ばせているのも事実だよ。

小生: パイロットは飛行機という機械の一部になって、決められたとおりに動作しているから飛行機が飛ぶんだよ。飛行機が能力通りに飛ぶためには、パイロットの自由意志は余計だ。自由に勝手に操作すれば、飛行機は飛ばないだろ?あくまで飛ぶのは飛行機であることは目に見るとおりだよ。

愚息: 確かにね。飛ぶのは飛行機だというのは間違いないよ。

小生: そう。人間が飛ばすわけではなく、飛ぶのは飛行機だ。そして、飛行機がなぜ飛ぶかと言えば、科学的知識があるからだ。知識の蓄積が飛行機を生んだわけだよね。科学知識は人間ではなく、自然の中に最初から法則としてあるものだ。それを人間は使っているに過ぎんわけだ。

愚息: それはそうだね。

小生: 飛行機を法に置き換えて考えるとどうなる?

愚息: 置き換えるって?

小生: 人が社会生活を安心して送れるのは「法」があってこそだ。法も知識が高度化するにつれて進化するものだ。その法もそれだけでは動かないよね。裁判官や検察官、弁護士という法律専門家が、法の一部になって、定められたとおりに行為するから、法が法として機能するわけだ。飛行機とパイロットの関係は、法と法律専門家の関係と、ちょうど同じだろ?

愚息: 確かに。

小生: 人は、自分たちの社会生活を守るために、法を尊重する。みんなに「安心」を提供できるインフラ、それが「法」だからね。だから尊重して守ろうとする。けど、それは法を動かす人を尊敬するのとは違う。尊敬する対象は法そのものであって、法を動かす人が自由意志にまかせて動かすべきではない。飛行機と同じで、こんな理屈になるよな?法を運用する人は、法が求めるとおりに、自分達の仕事に専念しなければいけない、とね。

愚息: 理屈はそうなるけどネエ・・・自由がないというのはどうなのかなあ?

小生; そもそも人は人を尊敬はしないものさ。人はすべて平等というのが素直な気持ちだよ。学問の師を尊敬するのは、師が伝える知識を尊敬しているからで、その気持ちを人である師に表しているわけだ。師が自分自身の動機に従って、自由に弟子を指導するとすれば、師に対する尊敬の気持ちも失せるだろう。

愚息: 意外とそんな先生、多いからね。

小生: おれにもそんな身勝手なところはあったからね。

愚息: そうなんだ・・・ 

愚息: すべて人は、煩悩から脱することができない凡夫なのさ。それでも師が伝える言葉が、学問に沿った真理であると思えばこそ、弟子は師を尊敬する。

愚息: 先生を尊敬するというより、伝えられる知識を尊敬するってこと? 

小生: 師は自分の意志で自由に語ることはできん。学問に従って語らなければ弟子の知識にはならない。あらゆる知識分野でこんなロジックがあてはまると思わないかい?

愚息: 教える側にも自由はないってことかな?

小生: 自由というより恣意というべきだな。自由という言葉の意味は結構難しいンだが、理に沿って、自らが自らを律して、こう語るべきだと語っている限り、実は何者にも強制されず、その点では完全に自由なんだ、な。欲望に任せて、思いのままに語っているときこそ、個人的な欲に支配されていて、欲の奴隷になっているとも言える。

愚息: う~ん、難しいなあ・・・ 

小生: 人は人よりも高みにあるものを尊敬するものサ。人である自分と同じ人である他人をそれ自体として尊敬する意志は本来はない。だからナ、学校時代にはよく「尊敬する人は誰ですか」って聞く先生がいるンだけど、この質問は本当は意味がないんだよ。「あなたが心から求める知識は何ですか?」、「あなたが身につけたい技は何ですか?」、「あなたが求めるものを伝えた人は誰ですか?」とね。技も芸も知識の特別な形だと考えれば、人がそもそも心から憧れて尊敬しているのは、人ではなく知識だと言うべきだな。

話しの主旨は

知は力なり

という単純な一点に過ぎない。

ソクラテスの「無知の知」とこれがどう両立するか?

プラトンに聞け、と言うしかない。

そのプラトンの真似事のようなこんな対話は、残念ながら行われなかった。『國稀』や愚息が持参した『九平次』を味わいながら、上のような理屈っぽい話をするのは、所詮無理というものであった。