2026年4月1日水曜日

断想: エビデンスねえ~~~「真理」にエビデンスは要りますかという話し

今日は細かくて詰まらない話だ。

SmartNewsは広範囲の報道情報を集めるポータルサイトとしてとても役に立つ。というのは、Yahoo! JAPANニュースはスポンサー記事が増えすぎて、その広告過剰には辟易しているのだ。

情報提供側の経営目的は広告を流すことにあり、目的は報道ではない。この理屈は分かるが、ユーザー側の目的は情報にある。ここに報道ビジネスの根本的矛盾があるのだが、自分で情報を得る手間が惜しいなら他にイイ方法があるわけではない。

で、オヤッと思ったのが次の下り:

田久保・元伊東市長の私文書偽造罪、要するに偽の卒業証書を市会議員に公然と見せた件だ。

「嘘も100回言えば真実になる」

これはナチス・ドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダの手法を評した言葉だ。

厳密にはゲッベルス自身がこの一文を発したという一次情報はないものの、彼の思想を“意訳”したものとして現代に伝わっている。

Source: SmartNews

Date: 2026-4-1

Original: テレビ静岡

最近このような文章、というかもっと広く色々な場面でこういう妙な《なお書き》を付けた説明振りを見ることが多い。

まず感じたこと。

「厳密には」というナオ書き。要るかナア、と思います。

妙にくどい。

何が言いたいのか?

自信がないなら、そもそも書くなという気にもなる。

要するに、元ナチスのゲッベルス宣伝相の発言だとあなたは推定しているのか、いないのか?いるなら、そう書いておけばいい?いないなら、ゲッベルスの名前など出さない方がいい。

ビジネススクールの最終プレゼンなら、必ずツッコミが入る所だ。

多分

エビデンスは何もないのですが、これは科学の論文ではなく、単に別の本題を語る「報道」ですので、修辞として読んでください。

こういう趣旨なのだろう、と受け取りました  ―   一次情報の形でエビデンスが手元にあるわけではありませんが。

思わず連想してしまった。こんな言い方が、今という時代の定型表現なら

右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい

『新約聖書』の「マタイ伝」にこう書かれているが、これにも「なお書き」が要る。

なお、聖書のこの部分は、イエス・キリストの弟子のマタイが書いたとされているキリスト伝で、イエスがそう言ったと書かれているだけですから、厳密にいえば本当にイエスがそう言ったという音声データが一次情報として残っているわけではありません。イエスの思想をマタイが意訳したものとして現代に伝わっているわけです。

こんな理屈になる。

というか、そもそもイエス・キリストは(おそらく?)地元の言語であるアラム語で説教をしていたはずとされている。なので、最初に新約聖書が書かれたギリシア語は、それ自体が「意訳」であって、要点は「意訳」であるのか、ないのかは大したことではないという点にある。

しかし、イエス・キリストがそう語っているかが不明であるという点に、上の筆者なら非常にこだわるかもしれない。何だか「本人がそう語ったわけではない」のであれば、そう語ったとされている事の価値がウンと下がると思っているのかしら?そうとも思える。

だとすれば、イエスは日本語で説教などしたはずがないから、日本語の聖書は100%意訳で、イエスの言葉として有難がるのはおかしいという理屈になる。

だから、何だというのだろうか?

言葉とは何だろう?

言葉に価値があるのか?

言葉に含まれた意味が価値をもつのか?

バイブルは全編が伝聞である(はずだ)。行動した本人の言葉は残っていないことが多い。パウロの手紙は掲載されているが、本当にパウロ本人が手紙を書いたの?そんな疑問を持つ人は多かったに違いない。

パウロの手紙って、パウロ本人が書いたのじゃないとしたら、価値がないの?

こう問いたいところです。

日本に浸透している大乗仏教は、釈迦が活きた時代と大乗経典が編纂された時代には大きな隔たりがあって、大乗仏教は「仏教」とは言えないと指摘する学者もいるくらいだ。

厳密には、中国伝来の仏教は仏教にあらず。というか、インドに赴いた唐僧・玄奘(三蔵法師)が持ち帰った経典は、インドにおいて既にオリジナルの仏教ではなかった。厳密にはこう判断するべきだろう。

だったらそれは何なのだろう?

小生は、それでも信仰に基礎づけられているなら、それは仏教であると解釈する立場にいる。「真理」は最近の世間で言われる「エビデンス」が決めるのではなく、理性と論理から確定してくるものである。

というか、理性に反しているがエビデンスがあるので「真理」と認めざるを得ないような「真理」は語義矛盾であって、理性に反している場合は「このエビデンスは誤りである」と結論するしか人間には選択肢がない。そう思っているし、実際に自然科学の発展史を振り返ると、そんな風に発展してきたと思っている。

非合理的な真理は最初から排除されているわけだ。

そもそも存在論として、20年前の私と現在の私が同じであると断定していいのだろうか?

物質的身体は、20年前とは別の素粒子、分子、細胞から成り立っている。それでも同じ人間だと自己認識しているのは、同じ幼少時の記憶をもち、継続性を意識しているからだ(といわれる)。

しかし、20年前の自分の記憶と現在の自分の記憶と、厳密に同じ記憶であると立証されているのだろうか?

定期的にDNAデータを保存すれば、生化学的に同一身体であるかどうかは検証できる。しかし、同一の物質的身体に宿っている精神的実体、意識+潜在意識と言い換えてもいいが、20年前と現在とで同じであると、どう同定(identify)すればよいのだろうか?「一次情報」など得られようがないのではないか?

そもそも《エビデンス》とは何か?上の引用文で出て来る「一次情報」はエビデンスという集合に含まれる要素の一つとして使われているのだろう。

平成から令和になって目立つのだが、《エビデンス》がない命題は疑うべきだ、と。

思うのだが、人間の認識にエビデンスなどはないことの方が多い。そう思う。

ピタゴラスの定理が真理であると考えるエビデンスはどこにあるのか?

実際、アインシュタインは宇宙はユークリッド空間ではなく非ユークリッド空間であることを理論化した。だから、厳密には「ピタゴラスの定理」にはエビデンスがない(ことが分かった)。しかし、ユークリッド空間を仮定すればピタゴラスの定理は自動的に真である。これにエビデンスなどはない。

何かといえば「エビデンス」を求める姿勢は、科学的なフラグランスを醸し出す効果はあるが、実はよ~~~く聞いていると、相手の言い分が正しいというエビデンスがないという根拠から、それ即ち自分が正しいことの証明である、と。どうもこんなロジックを展開している。

ずっと以前にも投稿したことがあるが、

太陽が地球を回っているという天動説には経験から明らかなエビデンスがありますよね。地動説にエビデンスはありますか?ないでしょう。

こんな議論を真面目にしていた時代はあったはずだ。

滑稽である。

人類の知的進化はエビデンスの蓄積を合理的に説明できる純理性的推論による。単にエビデンスにマッチさせる理論は、往々にしてヴィジョンなき愚かな理論である。事実を説明する理論は無数に提案できるが、大半は幼稚で拙いものだ。真理をつく理論は美しさを有すると言われる。しかし、エビデンスの方から教えてくれるわけではない。真の知識はエビデンスがさきにあろうが、なかろうが、最初から真である。

なので、エビデンスは要りますかという問いは常に有効であると思っている。エビデンスの必要性は文脈によるのだ。

今日は《反証可能性》や《モデル選択》の話しをすれば十分だったかもしれないが、書きたいことを書いているうちに長くなってしまった。つまらなくて細かい話である。