前稿や前々稿で書いたことのポイントは次の下りに尽きるかもしれない:
《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。
人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。
いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。
何が善であり悪であるかは、時代やその国の文化的伝統ごとに違うものだ、と。こう考える限り、結局は《相対主義》に陥り、絶対不変の善悪判断などはないという結論を認めざるを得なくなる。
もしそんな立場に立てば、ロシアのウクライナ侵攻を批判する論拠は実はなく、単にロシアに味方するかウクライナに味方するかという利害得失の話になる。
アメリカとイスラエルが今回行ったイラン攻撃も善い行為なのか悪い行為なのか、絶対的真理はなく、つまりは相対主義に立って国ごとに判断すればイイことですよネ、と。こんな結論にせざるを得ない。
永遠かつ絶対に正しい国際法などは架空の空言で、果ては国の刑法ですら、いまはそう決められている決めごとに過ぎませんヨ、と。そんな虚無的な議論にもなるはずだ。
最後には、
よく言えば《武断主義》。悪くいえば《腕力の強い者が善》。こういうジャングルの掟が世を支配することになる。
これを事実として認めるべきだと。 実は、世界史、日本史を通して、理屈よりは腕力という時代が遥かに長かったのである。
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これではダメだと最初に主張したのがソクラテスであったのは弟子・プラトンが数多くの作品で伝えているところだ。プラトンがそんな議論をした背景には、30年続いたペロポネソス戦争で降伏した民主国家・アテネの混迷と衆愚化した世相があった。師・ソクラテスの死刑判決はプラトンの目には衆愚を超えた「知の崩壊」が見えていたはずだ。その「知の崩壊」は要するに何か?それ以前に「知」とは何か?ここからプラトンは「哲学」を始めた。フィロソフィー、正に「知を愛するもの」である。
当時アテネ社会で一世を風靡していたソフィストの
人間は万物の尺度である。
という相対主義は、本質的に間違った世界観である、と。そして
何が善か、何が正しいかという問題には、絶対的で普遍の真理がある。
要するに
真理は実在する。
今は誰が強いか、10年後には誰が強くなりそうか?こんな有為転変で無常の問いかけには意味がない。空である。意味のない答えに基礎を置くのではなく、実在する真理に根拠を求める。こんな「理想主義」をプラトンは理路整然と展開した。哲学の誕生には敗戦で混乱するアテネ社会が必要だったとも言える。
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前にも書いたが、時代と文化を超えて一定不変な心の働きは《理性》だけである。「感情」や「感覚」は、時代や文化どころか、同じ時代、同じ国の異なった個人の間で、もう異なるものである。人は色々、人生いろいろ、である。しかし、理性は色々ではなく、全ての人で同じように働き、同じ問題に同じ答えを出す。人によって幾何学の定理の真偽が異なることはなく、同じ方程式を解けば同じ答えを得る。理性だけは普遍的な心の働きなのである。
この世を超越した普遍的な善があるなら、それは理性だけが認識できるという理屈になる。普遍的な問いかけに対して真理は一つである以上、個々バラバラな感覚を用いて回答しても必ず間違いになるからだ。理性によって得られる帰結は、数学的知識と同じように、誰もがそう認めなければならないという点で、文字どおり普遍的である。
理性的議論をしていながら答えが分かれるとすれば、理性ではない感情やアドホックな価値観などが混入するからである。
なので、普遍的なモラル、倫理、善悪については、感情や価値観ではなく、理性を用いた議論をする必要があるというのは、いわゆる《合理主義者》に小生は完全に賛成する立場にいる。理性のみが、人類共通の心の働きだから、である。
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一方、モラルの基礎は理性でなく感情であるとする立場もある。例えば、経済学者にして道徳哲学者でもあったアダム・スミスは『道徳感情論』を著している。
ずっと以前に投稿した孟子の四端説では
惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)
羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)
辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)
是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)
道徳の基礎に理性だけを置いているわけではない。特に最も重要視される《仁》は理性の働きとは関係がなさそうであり、どちらかといえば《情》に近いものである。
理性に基礎をおく考え方は、ギリシア人ばかりではなく、インド人を含めたアーリア民族共通の哲学であるのかもしれない。
仏理・仏道においても、前世から継承された業と現世の縁から発する様々な煩悩を滅却するためには、何よりこの世の現実を観察し、瞑想し、真如を悟るだけの智慧を持たなければならないとされている。法然と親鸞以降の日本・浄土信仰では、ひたすらに阿弥陀仏を信じて念仏を称えることが求められていて、智慧をどちらかといえば排するのであるが、本来の仏教は極めて智慧重視型の哲学に立っている所を観ないといけない。
孔子は紀元前5世紀、孟子は紀元前4世紀の人だから、まだ中国に仏教は伝わってはいなかった。中国文化は、極めて現実的で、 理性にのみ把握される抽象的概念が中心になることはなかったのである。
日本文化もまた、理性よりは一瞬ごとの直観、もののあはれを感じる感情こそ中核をなしていると小生はみている。
東洋哲学では「理性」よりは寧ろ《知・情・意》のバランスが大事だとされている(と理解している)。
まあ、大胆な割り切りではあるが、インド・ヨーロッパ的な理性重視の哲学と東洋哲学との間には、深い溝がありそうだ。
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理性だけが同一不変の心の働きであると述べたが、それでも、
感情や価値観を基礎にする限り、今後の世界は《相対主義》の泥沼に迷い込んでいかざるを得ない。理屈としてそうなる。
こんな風になっていくのではないかと、いま怖れを感じているのだ、ナ。
カントが『永遠平和のために』という極めて理性的な小冊子を書いているが、どれほど机上の空論と感じようが、戦争のない世界を実現するには、理性だけを使って議論をしなければならない。
そんな仕事が出来る人だけが、重要な責任を負うべきであるというのが、小生の現代社会観である。
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