2025年8月15日金曜日

断想: 民主主義もまた「虚妄」であるのか?

カント以後のドイツ観念論哲学では、理性の限界がぎりぎり最大限の限界まで拡張され、ヘーゲルに至って世界は《世界精神の弁証法的自己展開》である、と。故に、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、と。この名言が生まれる事にもなったわけである ― ひょっとして前後の順が反対だったかな・・・

ヘーゲルに至らないまでも人間が実現できる倫理的価値、つまりは《善なる事》に関しても深い考察が加えられた。が、全体として

悪とは善が欠如していることをいう。即ち、善への意志が不足している。
ドイツ哲学については詳しくないが、どうもこんな理解がされている(ようだ)。

他方、仏教的立場に立つと、善を求めるのは当然そうなのだが、そのためには何よりも煩悩を断つことが第一だと強調されている。正に、毎朝読んでいる日常勤行式の最後に出てくる「四弘誓」の第一句、第二句にあるように

衆生無辺誓願度
煩悩無辺誓願断
と。宗派が異なると細部の字句もまた違うようだが、読経を始めた頃、小生は「〇〇無辺△△」という同じ文字が二度繰り返されていることが奇妙に感じられた。いまでは
生あるものは無限であり(同じ数だけの)無限の煩悩がある。無限の衆生を苦から救うため無限の煩悩を断つ。そう願い、誓う。
こんな意味合いだろうと勝手に見当をつけている。何が言いたいかと言えば、
仏教においては、悪を止滅できている状態が善である。
悪とは行為であるから、悪を止滅するには悪をもたらす心の作用、つまり煩悩を断つことが必要である。こんなロジックなのだが、上のドイツ哲学の見方とは微妙に違っているように感じる。

そう言えば、西洋哲学は《幸福》に最上の価値を置く一方で、仏教では釈迦以来、この世界は《苦》であるという認識から議論を始める。つまり釈迦が悟りとった《四諦》である。何だか座標軸のプラス側から俯瞰するか、マイナス側から仰望するか、に似ている。なるほどプラスとマイナスとどちらの側から見るかで、世界の眺めは正反対になるであろう。

やや話がそれるが、少なくとも数学的論証には《自我》による偏りが混入する余地がなく、その意味ではいかなる煩悩にも染まらず、故に真の智恵がそこには反映されている。そう思われるのだ、な。古代アテネのプラトンが創立したアカデメイアの門前には「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」という言葉が掲げられていたそうだが、それもムベなるかな、である。

だとすれば、プラトンが理想とする国家の体制を民主主義とはしなかったのも、これまたムベなるかな、である。真理を追究する議論において、「私はこう主張する」という自我の表出は害にこそなれ、益になることはない。

古代ギリシア世界において確実な知識と言うのは、現代社会と比べればまだ微々たるものであった。それでも、あらゆる問題解決に際して、まずは確実な知識を尊重して、知識に基づいて問題の解決をすることの大切さを、プラトンはあらゆる作品を通してくどい程に強調した。

地球が温暖化しているのか、していないのか、まだ論争は続いている様です。アンケートの結果をみてみましょう・・・
認識の問題に世論を持ちだす愚かな人はもういないはずであるとは言いきれない所が、現代社会の馬鹿々々しさの根源にある。聖職者が世俗の政治家に優越していた中世ヨーロッパで解答困難な問題に直面したとき、まずは聖書の記述を解釈することが求められた(と聞く)が、それはちょうど現代民主主義社会で世論を聴くのと大同小異である。聖書の文言と世論調査の結果と・・・人は根拠のないことに根拠を求め、馬鹿々々しさを感じるより、それを神聖視するものなのである。

知識の集積は加速的にその速度を増している。そして、集積された知識の活用は、生身の人間が担うのではなく、AIという人工の構造物が代替するようになってきた。そのウェイトは今後ますますAIの重みが増していくだろう。どんな問題にせよ、凡夫の愚論に問う必要はもはやなく、専門的知見から解を示すことが出来るようになる日が来る。

民主主義という「高邁な理想」に反対するわけジャアない。しかし、《世論》なるものの馬鹿々々しさが露呈され、より確実な《知識》に基づく統治が技術的にも可能になって来たのが、いま21世紀という時代であるのかもしれない。だとすれば、いまAI(=人工知能)なる新技術を警戒的な目線で眺めている人文系の知的人々や政治関係者たちは、ちょうど産業革命の進展の中で警戒の念を強めていたその当時の貴族や地主などの旧支配階級の心理と実はあまり違っていない。こうも言えるかもしれない。

主権者は、技術革新、知識の集積に伴って、変わりゆくのである。世論に基づく民主主義社会もその例外ではない。人間社会は無常である。不変の実在物ではない。いまの社会のあり方を是として、あたかもそれが実在であるかのように執着するのは、虚妄にこだわる煩悩である。そう感じる今日この頃であります。

とはいえ、政治という点で民衆が主権者の地位から(実質的に?)滑り落ちるとしても、人間は善を志すことが出来る。社会において善を実現する仕事は、おそらくAIがどれほど進化しようと、この課題は人間に残されるのではないかと考えている。(また再び)しかしながら、自我の混じった「染汚の心」は(以前は信じていた功利主義的思考には反するが)社会に善をもたらすことはないと考えるので、民主主義の価値観が復活することはまずないのじゃあないか、と。こうも予想しているわけであります ― 浄土に往かず、この世の未来に転生しない限り、見ることはないと思うが。

美の実現、これも最後まで人間に残される仕事かもしれない。美は神が実現しているとも言われ、浄土の荘厳も語られている。しかし、美については浅学のためよく分からない。

【加筆修正:2025-08-16】

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