2026年10月6日火曜日

ホンの一言: トランプ政権、100年前のハーディング政権の再来なのか?

約100年前の米大統領にハーディング大統領がいる。このウォレン・ハーディング氏、米国史上最悪の大統領として長らくトップの座(ないしトップクラス?)を守ってきたことは前にも投稿したことがある。前の投稿は2017年のことだから第一次トランプ政権の時期だ。ハーディング政権はその腐敗ぶりから米市民からは「オハイオ・ギャング」と呼ばれたそうだが、この伝で行くとトランプ現政権は「ニューヨーク・ギャング」と呼ばれることになるのだろうか?

"Ohio Gang"は既に定着した固有名詞としても通用するらしく、例えばWikipediaでも検索することが出来る。そこでは

The Ohio Gang was a gang of politicians and industry leaders closely surrounding Warren G. Harding, the 29th president of the United States. Many of these individuals came into Harding's personal orbit during his tenure as a state-level politician in Ohio, hence the name.

During the Harding administration, several members of the Ohio Gang became involved in financial scandals. These included the Teapot Dome scandal and apparent malfeasance at the U.S. Department of Justice, some of which ended in prison terms and a suicide. Following Harding's sudden death of a heart attack in 1923, many members of the Ohio Gang were effectively removed from the corridors of power by Harding's vice president and successor, Calvin Coolidge.

オハイオ・ギャングとは、第29代アメリカ合衆国大統領ウォーレン・G・ハーディングを取り巻く政治家や産業界のリーダーたちの集団である。これらの人物の多くは、ハーディングがオハイオ州の州政治家だった時代に彼の個人的な交友関係に入ったことから、この名前が付けられた。

ハーディング政権時代、オハイオ・ギャングのメンバー数名が金融スキャンダルに関与した。これにはティーポット・ドーム事件や米国司法省における不正行為などが含まれ、中には懲役刑や自殺に至った者もいた。1923年にハーディングが心臓発作で急死すると、オハイオ・ギャングのメンバーの多くは、ハーディングの副大統領であり後継者であるカルビン・クーリッジによって権力の中枢から事実上排除された。

まさに史上最大級の腐敗政権であった史実が淡々と述べられているとともに、関係者の哀れな最期も紹介されている。

*

トランプ現政権の腐敗ぶりについては、もはや「天敵」とも言えるノーベル経済学賞受賞者・クルーグマン博士がごく最近こんな風に述べている:

The level of corruption that Trump has engaged in and enabled in others is completely unprecedented – self-dealing that, as Trump would say, is like nothing anybody has ever seen before. America currently has a Republican president who, along with his family, has raked in billions, possibly close to 10 billion dollars in personal gain from office in less than two years. He has effectively sold criminal pardons to scammers, invalidating the legal claims of their victims for restitution. His son-in-law Jared Kushner has become a billionaire running an investment fund for Gulf petro-state autocrats despite having no discernible investment skills. The Times just reported that Kristi Noem paid hundreds of millions over the reasonable price for 5 aircraft – one of which contains a marble bathroom and luxury bedroom – that were ostensibly for deportations but are instead sitting on the runway. And then there’s Trump’s Secretary of the Commerce, Howard Lutnick, whose family has doubled its net worth to over 7 billion dollars, largely through its investments in Tether, the crypto-currency of choice by Iran, terrorists and rogue states.

トランプ氏自身が関与し、また他者にも助長してきた汚職の規模は、まさに前代未聞です。それはトランプ氏流の言い回しを借りれば、「誰もかつて見たことのないような」私利私欲のための不正行為と言えるでしょう。現在のアメリカには、就任から2年足らずの間に、家族と共に数十億ドル、あるいは100億ドル近くもの私的利益を職務を通じてかき集めた共和党の大統領が存在します。彼は事実上、詐欺師たちに恩赦を「売却」し、それによって被害者が求めていた賠償の法的権利を無効にしてきました。また、義理の息子であるジャレッド・クシュナー氏は、投資に関する目立った手腕がないにもかかわらず、ペルシャ湾岸の産油国の独裁者たちのために投資ファンドを運営することで、億万長者となりました。さらに「ニューヨーク・タイムズ」紙の最近の報道によれば、クリスティ・ノーム氏は、表向きは強制送還用とされた5機の航空機(そのうちの1機には大理石のバスルームや豪華な寝室が備わっています)の購入に際し、適正価格を数億ドルも上回る金額を支払いましたが、それらの機体は結局、滑走路に放置されたままになっています。そして、トランプ政権の商務長官ハワード・ラトニック氏も忘れてはなりません。彼の家族は、イランやテロリスト、ならず者国家が好んで利用する暗号資産「テザー(Tether)」への投資などを通じて純資産を倍増させ、70億ドルを超える規模にまで拡大させています。

Source: substack.com

Author: Paul Krugman

Date: 2026-10-05

 トランプ氏自身が関与し、また他者にも助長してきた汚職の規模は、まさに前代未聞です。

こんな風に、ズバリ断言している。アメリカ人であるクルーグマン氏がハーディング政権の事を知らないはずはない。

彼は事実上、詐欺師たちに恩赦を「売却」し、それによって被害者が求めていた賠償の法的権利を無効にしてきました。

という下りは、(多分)詐欺犯罪者から賄賂を受け取り、その見返りに大統領恩赦によって無罪放免し、結果として詐欺被害者が受け取るべき損賠賠償金を無にしている。つまり、被害者が受け取るべき賠償金を被害者に渡すのではなく、自分のポケットに合法的に着服している、文意はこんなところであろう。

*

政権の腐敗ぶりにおいて、トランプ政権は100年前の"The Worst One"を超える新記録を樹立しつつあることに間違いはないようだ。

そのトランプ政権との蜜月関係をほとんど「唯一の政治資源」として総理の座を守る高市首相は一体これからどんな歴史的評価を受けるのだろうか?

他人事ながら心配になります。空前の対米投資も約束させられている模様だし、多分、汚泥が飛んでくるような可能性も高いのでありましょう。

アメリカの中間選挙ももちろん大事だが、それとは独立して今後将来にかけて、不可避と予想される《汚職追及》、《腐敗追及》に日本がどんな風に巻き込まれるのか、巻き込まれないのか?

この辺も「面白い」と言っては失礼だが、結構ポイントになってくるのではないかと思っている次第。

クルーグマン先生も

The cesspit of corruption that is Donald Trump’s presidency is finally getting the attention it deserves. It’s about time. And if a massive blue wave sweeps Washington on November 3rd as polls now suggest, Democrats should put corruption front and center of their agenda in Congress.

ドナルド・トランプ大統領の腐敗の温床は、ようやく然るべき注目を集めるようになった。まさに待望のことだ。そして、世論調査が示唆するように、11月3日にワシントンで民主党が圧勝すれば、民主党は議会において腐敗対策を最優先課題として掲げるべきだ。

クルーグマン先生、ト大統領の天敵となっているが、どうやら高市首相にとっても自動的に天敵になりつつあるのかもしれない。

だとすれば、日本にとっては損なことである。


2026年10月3日土曜日

断想: 「理性」が「神」を認識しているのだとすれば・・・

異なった人は異なった意識をもつ。

宗教的信仰と言ってもそれは人の意識にあるものだ。信仰の対象を「神」と呼んでもいいし、「〇〇仏」と呼んでもイイが、たとえ唯一神を信仰する宗教であっても、異なった人が信仰する「神」が同一の神であることを、どうやって証明できるのか?

二人の人が唯一の神を信仰していると言っている場合でも、信仰される二つの神が実は同一であるためには、その神は別々の二人の心の中にのみ在るものではないという理屈になる。主観の外、つまり客観的世界の中に二人が共有できる唯一の神は存在しなければならない。

つまり、キリスト教やイスラム教など唯一の神を信仰する宗教における「神」は、一人一人の主観の中に在るのではなく、主観の外にあるものだ。

唯一の《創造主》を数学の公理のように最初に措定するのは自然な始め方である。

しかし、客観世界における「神」は人間の感覚器官によっては観察できない。


この疑問に答えを出すには、「理性」は異なった人の間で同一であると考えなければならない。数学の定理が万人共通の定理であるのと同じで、理性によって認識される唯一の神は、万人共通の唯一神という結論になる。


「理性」が認識する「神」は、確かに唯一神として認識するなら、同じ神でなければならない、がしかし、キリスト教の神とイスラム教の神は異なっている(ものと理解している)。二つの宗派が認識している神は、理性によって認識された神ではないという理屈になる。

理性によって認識されていない「神」が多くの人によって「同一の唯一の神」として共通に信仰されている理由は(小生には)分からぬ。少なくともロジックが通らない気がする。


10月に入って早々、変な屁理屈を書いた。

これまた暇ということでござんしょう。

2026年9月26日土曜日

断想: 人生とマラソンを語るのは難しい。「初」だとすれば。

たとえて言えば、人生はマラソンのようなもので、一種の長距離走である。山あり、谷あり、落ちていくかと思えば、後半の追い込みもあるという所は、実人生にも通じることが多いと思って観ている。

どれほど練習をしても、努力をしても、もって生まれた才能と素質にめぐまれた人には、まず絶対に勝てない。そんなところも、実人生という一度切りの舞台と似ている点がある。

一度切りの人生と、初めてのマラソン。お互いに似ていると感じるのは小生だけだろうか?


そのマラソンだが、10キロ地点、20キロ地点、30キロ地点、ゴールまでの最終盤まで、実力の差を反映する形で、段々と差が広がっていくのは、当然の理屈である。力が拮抗している走者は最後まで競り合うが、力の差が明瞭であれば、1キロ走るごとに10秒ずつ離されていくものだ。40キロ走ればその40倍だから400秒、7分近い大差となる。1キロ走って10秒しか差がつかないのは、力の差がほとんどないように見える。しかし、長い距離を走れば、少しの差も大きな違いになって表れて来るのである。

毎日の暮らし、毎年の収入、俗にいえば《出世》とか《生活水準》も同じである。小学校、中学校を卒業する段階では、学力という限られた次元においても、それほどの差はなく、いつでも挽回できるように思うものだ。しかし、30歳になり、40歳になり、50歳、60歳になるにつれて、格差はとんでもなく大きいものになる。

いまの《格差拡大》は、平均寿命が延びて多くの人が非常に高齢になるまで競争を続ける当然の結果である、というのは本ブログでも何回か述べたことがある。


小生は、いまの世相は嫌いである。特に、民主主義社会は平等を実現するべきものだという俗な思い込みには、腹が立つことが多い。

腹は立たないが、苦々しく思うのは、30歳、40歳の段階で人生を語る人が最近は実に多いことである。これは、まるで20キロ地点まで走っているにすぎないのに、完走したかのようにマラソンというものを語るのと同じではないか。

前半20キロで経験することにも色々な波乱、浮き沈み、計算違いはある。しかし、後半の20キロ、最後の2キロ余りにどんなことが起きるのか?人生が初めてなら、マラソンも初めての場合を連想するべきだ。初めてなのだ。20キロの経験でマラソンとはどういうものかが分かるはずはない。初めてなら。人生が分かるのは、端的に言えば、体が動かなくなった状態を迎えたときである。

仏道の発願文には

命終の時に臨んで、心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せず。

という下りがあるが、初めて走ったマラソンを語ることが出来るのは、走り終えた後のことであろう。初めて走るマラソンの20キロ地点で「こんなものか」と考えている人は、後半20キロで予想外の状態に襲われ、慌てふためくのが落ちである。


「知っている」と言うのは、見たり、聞いたり、人に教えてもらっているからである。これが「学問」の効能に相当する。

しかし、知識が頭に入ったから、「もう出来ます」といえるなら、人が失敗することなどあるはずがない。


真の知識は経験を通してのみ得られるという《経験主義者》の言い分は小生も好きだった。若いころから実はそちらの側に立っていたのだ   ―   それではダメだというのは、前にも触れたがデイビッド・ドイッチュの『無限の始まり』を読んでからだ。

10歳の子供が20歳になったときに考える(であろう)ことは想像するしかない。多くの人は実際に20歳になって想像が裏切られるはずだ。20歳の自分が30歳の自分を想像するときもやはり裏切られる。こんな風に裏切られ続ける経験が、正に《人生の経験》であって、真の知識は経験を通して獲得できる  ―   もちろん経験だけではダメである。

夏目漱石は、49歳で亡くなったから、老後の人生の哀愁はあまり書けていない。芥川龍之介の作品に老人は登場するが、芥川の作品に登場する老人は若い精神をもっていることにすぐに気がつく。谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』はよく書けているが、これは谷崎が75歳から76歳にかけての作品である。

作家といえども経験してもいない老後の心理は書けるものではない。


ただ、年齢を問わず、理性だけは共通の形式で働く。老人には老人の理性があり、若者には若者の理性があるわけではない。数学の問題は、年齢を問わず、同じ答えに至る。心は、年齢に応じて経験するしか分かるはずはないが、理性で分析できる経済問題、住宅問題、法律問題などは、世代をとわず合理的に議論することが出来る。

合理的に議論する問題だけをテーマとしても、社会的に重要な論点はほぼ全てカバーできるはずである。非合理的な問題は・・・これはいかにメディアといえども、沈黙するしかない。分からないものは、分からないのである。多数決・・・? バカバカしい。

2026年9月24日木曜日

断想: 日本人の中国観、対中感情にはサイクルがあるようで

近代日本史は、急速な発展と挫折・崩壊のサイクルを繰り返している。時代が変わってもその循環性は驚くほどに単純反復に近いようだ。

確かに、日本に近代という時代を押し付けたのは欧米の乱暴な外交だ。しかし、開国してから後の近代日本の不安定な発展と挫折のサイクルは、大体が対中外交の成功と失敗にシンクロしているところがある(と勝手に理解している)。

近代だけではない。歴史全体を通して対中外交の成否は日本史を理解する肝である。

対欧米外交は対中外交を起点にして派生的、波及的に決まってきた(と勝手に思っている)。

*

日本人の中国観は、過剰に尊敬する時代と過剰に蔑視する時代とが交代してきた。

時代が交代するというより、親中国的な人の数と反中国的な人の数とが、何年周期かごとにどちらか一方が優勢になるかと思えば、次は劣勢であった側が逆に優勢になる、そんなサイクルが日本人の社会心理、メンタリティには明瞭にあると思っている。

こんな奇妙なサイクルは、対アメリカに対しては認められない。ヨーロッパに対しても概ねそうである。アメリカに対しては(偏った人たちは確かにいたが)太平洋戦争中の時ですら、多くの日本人は実はホンネの部分では一貫して好意的だったと聞いたし、また戦後も自分の周囲を含め事情は同じだと観ている。ヨーロッパ、特に英・独・仏・伊といった西欧も、西洋文明への根源的な憧れが日本にはあり、やはり一貫してホンネは好意的である。少なくとも侮辱的でも侮蔑的でもない。この辺りが対中国の心理とは全く違う。

詳細な知識はないが、江戸時代中期以降に盛んになり明治維新への駆動力の一つにもなった《国学》が「唐意(からごころ)を排せ」と主張した根っこには、鎖国政策から必然的に生まれ出てきた感性がある、つまり(当時としては)グローバルな価値観といえた儒学(及び仏教?)に敵対するナショナルな反中観、排外志向があったのだろうと、勝手に憶測している。


それは何故生まれたかという深層心理学的な分析が実は日本精神を理解する鍵なのだろうと思う。

今は、明らかに反中国的な側にドライブがかかっている。これは単に習近平政権の戦狼外交のみがもたらしたものとは言えないと思う。

*

日本が中国をみるときの不安定な眼差しは、心理的なもので「どうでもよい」かもしれないが、日本の発展と挫折、というか時代の区切りが、対中外交の安定と危機の繰り返しと奇妙にシンクロしているのも、ある程度は事実じゃないだろうか  ―   逆サイクルか、順サイクルかは別として。

*

対中外交が不安定化することが、なぜ日本全体の成長と発展に影響するのか、色々な理屈付けが可能だ。

しかし、その時代と局面ごとに《世相》という雰囲気が形成されて、それが政治家の手足をしばり、日中外交のリアリティにも自己実現的な影響を及ぼし、最終的には東アジアの「戦争と平和」をも決めていくのだとすれば、日本という国の存在は案外に世界史的な重要性をもっている。そう言えるのかもしれない。

日本人の中国観は、アメリカにもヨーロッパにもロシアにも制御できない。日本社会の雰囲気を望ましい方向に変えることが出来る日本人も実は(政治家、文化人を含めて)いないのじゃないかと思う。

また暗い話になった。

2026年9月22日火曜日

前稿の補足: 「理屈」と「難信」について

前稿では『歎異抄』という古典を通して親鸞の思想に触れた。単なる読後感想を超えて、普段の読経や勤行を続ける心理とも関連性があると感じ始めているのだ。

岩波文庫の鈴木大拙『浄土系思想論』に収められている「他力の信心につきて ― 『教行信証』を読みて」は、読んでみると大拙流の『教行信証読後感』じゃないかと感じたりするのだが、その中にこんな下りがある。

自力では何故に他力が難信であるかと云うに、自力の本質は、分別であり、分析することであり、対象的に物を見て、いつも此から彼、彼から此へと動くことである。それで、まず弥陀を彼方において、自分に対立せしめる。而して彼の本願力なるものを考える、而して、或いは歴史的に、時間的に、存在論的に、知識論的に、或いはまた物理学的、唯物論的にさえこれを検討せんとする。それ故、他力の論理から益々遠ざかるので、弥陀も彼の浄土も否定せられ、したがって自分自身の立場さえ混乱に陥って収拾不可能になる。

まさに小生自身がたどってきた道である。考えてきたことは、論理の整合性という点で間違ってはいないと今でも思っているが、やはりどこかで行き詰るのではないかという予感は否定できないのであった。空しくはないが、不安であったと言えばいいか。


あとにこう続いている:

他力不可思議の論理を獲得せんには、どうしても分別智の制約からのがれねばならぬ。自力のはたらきをその根底から覆さねばならぬ。これが中々できぬので、「難信」ということにならざるを得ぬ。

分別智(≒理屈)とは分析の論理を指す。分析とは、自分と自分以外の世界を対立させて考える枠組みのことである。

宇宙には生命のない無機物と生物に由来する有機物がある。「我」には命がある。我をとりまくのは無機物と有機物である。無機物も有機物も素粒子から構成される物理的存在である点は同じである。生物の機能も、ある化学物質が別の化学物質へ変化する化学反応プロセスとして理解できる。つまりは素粒子の運動であり物理現象でもある。この議論を徹底して、現に考えている「我」、つまり自らの理性にも当てはめれば、人間の精神も自由意志も物質の運動として理解する唯物論になる。唯物論には、神も弥陀も入り込む余地はなく、浄土も来世もただの空想になる。

しかし、こんな科学主義はいずれ行き詰る、というより

闇の中で落とし物をした。街灯の下は明るい。そこを探せ!

確かに探せるのは明るい所に限られるから、上の方針は合理的である。しかし、どうも楽観的で合理的な行き方でスッパリと割り切っても、落とし物が見つかる保証はない。

分からンものは、分からンままでよい。それは最初からないと思え。

という発想に通じるところがある。

唯物論が荒唐無稽であるのは、何度も投稿してきたことで、間違いとは思わない。かといって、浄土信仰の道は行き止まりなく、ずっと続いているのか、と。やはり悩ましいのだ、な。


『仏説阿弥陀経』が成立したのは紀元1世紀頃だろうと推定されている。約二千年も前に書かれた阿弥陀経の結句にも

釋迦牟尼佛 能爲甚難 希有之事 能於娑婆國土 五濁惡世 劫濁 見濁 煩惱濁 衆生濁 命濁中 得阿耨多羅三藐三菩提 爲諸衆生 說是一切世間 難信之法

釈迦族の聖者、仏陀は、たいそう困難な事業を実現しています。それは苦悩の世界のなかでも五濁悪世と よばれる、時代の濁り、思想の濁り、煩悩の濁り、有情の濁り、寿命の濁りの濃い只中で、最高のさとりを完成し、さまざまな衆生のために、信じられることの 難しい法を説かれています。

URL:https://mjj.or.jp/amidakyou/amidakyou2

正に《信じてもらうのが難しい法(≒真理》、つまり「難信」のことが説明されている。 

親鸞の思想は、こんな「難信」を認めたうえで、それでも仏道信仰の成り立つ道筋は何かを追求している。

法然の専修念仏は、法然では完結しなかった。親鸞が必要であった。段々とそう思うようになっている。


以上、現時点の覚書きまで。


2026年9月18日金曜日

断想: 法然と親鸞の思想的な違い?

比較的新しい朝の習慣になった読経と称名念仏だが、月曜以外は千遍念仏をしているというのは少し前に投稿した。

短寸の線香一本が燃え尽きるまでが大体30分、昔流にいえば小半刻になる。この間、反復して阿弥陀如来の名を称えると概ね千遍称えることが出来る。しかし、そのためには息を深く吸って十念を早口で繰り返す動作がいる。それが毎日になると疲れが出て来るのだ、ナ。だから、最近はゆっくりとした発声で称えることにしている。そうすると、線香一本が燃え尽きるまでに700回乃至800回の念仏となる。


法然の『一紙小消息』には

行すくなしとても疑ふべからず。一念十念に足ぬべし。

と書かれている。回数の問題ではないのだ、と。

ただ同時に

行は一念十念なほ空しからずと信じて、無間に修すべし。一念なほ生る、況や多念をや。

とも書かれている。

「10回でいいなら11回以上は無駄だベ」という屁理屈は、いわゆる懈怠心で結果にはつながらない。中途半端はゼロと同じである。それで(続けられる範囲で)多念を実行しているというわけだ。


この《行》を中止するという心理はまったくない。前にも投稿したが、

疑いなく善である意志、善である行為は何であるか?

それは、一つには仏道にそって歩むことである。何かの縁があったのだろう、そう考えたから始めたことなのだが、それにしては、称名念仏を終えたあとに、いま一つ《嬉しさ》がない。《満足》は確かにあるのだが、《往生極楽》という観念がスッポリと胸に落ちない。嬉しさにつながって来ない。極楽世界の実在についてロジックは通ると考えているし、それは現代思想とも整合的であると理解しているが、いくら自我は空であるとはいえ、自身の死を迎えるのは、いくら非物質の心は破壊されないとしても、やはり文句なしに淋しいものであるし、可能なら元気で長生きが出来ればいいなあ、という心理は否定できない。

★

本ブログでも親鸞の言葉を記録した唯円の『歎異抄』は中高生の課題図書に最適だと何度も書いた記憶があるが、先日、読み直しているとこんな下りがあった:

「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころ、おろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

URL:https://minamimido.jp/online/tannisho202507/

「念仏を称えても、喜ぶ心がおきません。はやく極楽へいきたいという心もありません。どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、「この心、私(=親鸞)も疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、(案に相違して)喜べないところにこそ、いつ死んでも往生極楽は間違いないと思わざるを得ない理由がある。喜ばねばならないことを、喜べないのは、煩悩のしわざである。阿弥陀如来は、凡夫の心を百もご承知で、それでも凡夫を阿弥陀仏国に救いとるという意志(=本願)を明らかにされている。故に、他力の悲願は、このような私たちのためであったとさとり、この事をいよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。

つまり、いくら称名念仏をしても心から嬉しくなるわけではない。これが凡夫の(低レベルの)心の現実である。阿弥陀如来が建てた極楽浄土世界の定義は『無量寿経』に記されているが、凡夫救済を本願にしているのは明らかである。

だから、自分の心が迷うからと言って

これでいいのか? これではダメだ。

と自分を責める必要はない。逆に、「だからイイのだ」と。

親鸞の念仏は、自らの意志と選択から積み重ねる修行ではない。阿弥陀如来の方から凡夫を救いとろうと手を差し伸べる、その事を改めて知る、というか思い出すための念仏である。『無量寿経』の「東方偈」の一句

其仏本願力

聞名欲往生

皆悉到彼国

自致不退転

この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、

残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。

正にこの通りなのである、と。念仏を称えることは、阿弥陀仏の名を聞くことでもある。信じることと、称えることと、仏名を聞くことは三位一体であるというわけだ。

聞けば必ず救われる。自分の迷いが、逆に往生極楽へと救われることの確信へとつながるロジックが、ここに構成されている。

岩波文庫版『歎異抄』の第9章末にある注ではこんな風に書かれている:

念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に目覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。

まぎれもない《実存主義》である。巧みなまとめ方だ。

★

法然の『一枚起請文』の最重要なポイントは

ただ往生極楽おうじょうごくらくのためには、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと申もうして、疑うたがいなく往生おうじょうするぞと思おもい取とりて申もうす外ほかには別べつの仔細しさい候そうらわず。

URL:  https://www.chion-in.or.jp/okotoba/f23/

この一文である(と勝手に理解している)。法然の念仏は「往生するぞと思い取りて申す」ものである。「思い取りて」とは「自らが決心して」という意味である。

法然の他力本願は、確かに阿弥陀仏の本願を信じる他力思想なのであるが、

敢えてこの道を往くと自らが信じて選ぶのだ

この点では相当に自力的である。自力本願の禅宗の信徒が座禅を選ぶ決意と本質においてどこが違うだろうか?

親鸞の他力本願は、いわば《ポスト一枚起請文》だと勝手に思っている。

思い取りて 思い取りてなお わがこころ

     弥陀をうたがう 我が残れり

法然は《他の道を切って称える念仏》であるのに対して、親鸞の念仏は《切れない私》の救いの念仏である(と勝手に理解している)。自分から極楽に往くのではなく、向こうから送迎に来てくれるはずだ、何故なら自分は凡夫で弱者であるから、と。自分の意志でなく、阿弥陀仏の意志が自分を救うのである。この意味では、親鸞の他力思想は100パーセントの純粋な他力本願の仏道であると勝手に思っている。

まあ、細かい付け足しをするなら、阿弥陀仏の意志によって自分(という凡夫)がいま念仏を称えているという理解より、(この世界に法身としているはずの)釈迦如来のはからいによって自分はいま発願し、念仏を称えて往生極楽を志すようになった、と。こう理解する方が『仏説阿弥陀経』など浄土系原典にも忠実であるとは考えている。


いずれにしても、小生は、法然門下の弁長・良忠・源智の宗派に属するが、親鸞の思想を読んでいると、肩の力が抜けて、楽になるのは事実だ。


2026年9月14日月曜日

断想: ワード、エクセル、パワポの知識は剣術、能楽と同じ伝統芸能と化すか?

昨晩、小生が幼少年期を過ごした愛媛・松山で暮らす叔母から電話があり、亡くなった母の弟にあたる叔父が今月5日に他界したよし。小生にだけは知らせるようにと叔父が話していたそうで、それで電話をしたと言っていた。叔母は、話し始めたら声に詰まってもう涙声になるほどで、とても小生に電話など出来る状態ではないように感じたが、それでも叔父の言葉を覚えていて、かけてきたものと思われる。

ずっと昔、母方の祖父で裁判官をして生涯を送った祖父が喜寿・77歳を迎える祝いの席に、当時まだ健在だった父と母がそろって松山に帰ったことがある。その晩の祝宴には小生も同席した。今般亡くなった叔父と父は義理の間柄とはいえ、はた目にも波長があったと見えて、とても仲がよく、実姉であった母よりも叔父は義兄である父の方を慕っていたようなところがある。その夜、父は『武田節』を唄い、叔父は勤めていた農機具メーカーが熊本に持っていた事業所で仕事をしていたためか『田原坂』を謡った。調べは明るい肥後風であって薩摩風ではなかったと思う。父の声と叔父の歌声が交互に響くあの夜の母や叔母の笑顔はまだ眼前に髣髴とするのである。その夜、祝宴に出席していた大半の人は既に鬼籍に入ってしまった。

実に歳月怱々。この世は無常にして空である。

★

上の愚息は、隣町の食品加工会社で非正規従業員として簡単な現場仕事をしているのであるが、先日、正規社員になってみないかと問われたそうだ。新規の共同事業を他社と始めるようで、PCを使える人物を探しているということらしい。どうやら、このところの人手不足で中々補充できないので、非正規社員にまで範囲を広げて声をかけているのだろうと推察している。ビジネス現場でPCを使えるかと問われれば、今の常識ではMicrosoft Office、つまりはワードとエクセル、パワーポイントを使えるかと言う意味である(と言ってもイイだろう)。

愚息は、大学時代に少し経験したが、不安があるので今回は辞退したいと返事をしたそうである。


思うのだが、ワードやエクセル、パワーポイントの操作に熟達しているかなど、この問いかけは今後はほとんど意味が失われていくだろう。Copilotを上手に活用すれば十分だ。

何がデータで与えられていて、どんな分析をして、どんな資料をつくって、要点をどうまとめるかを、自然言語でAIに指示すれば、希望する成果は直ちに得られるはずである。

もはや統計ソフトRの非体系的な文法規則を学習してコーディングする必要はない。Pythonで使用するライブラリーに定義されているオブジェクトの名称や、そのオブジェクトが備えているオブジェクト・メソッドやクラス・メソッドを覚えていることの価値も大幅に低下した  ―   これらはAIが代わってやってくれるのであるから。それに「正解」がある場合は、AIは滅多に間違えない。Human ErrorよりAI Errorの方が遥かにレアであるという事実は大多数のユーザーが日常的に実感しているはずである。


愚息には、AIは何でも知っている友人だと思って上手に質問ができるようになれと話している。

2026年9月9日水曜日

ホンの一言: 皇室より大事な問題は多々あるだろうに

最近の皇室に関する世論(?)を観ていると、左翼的な皇族バッシングもあれば、「2600年の伝統」などという極右的な発言などもまじりあっていて、それぞれが互いに溶け合わずに主張している様子は、まるで蕎麦とうどんとラーメンが皿の上で乱雑に混じり合い、どんなツユでどう食すればよいのかが全く分からないゲテモノのような様相を呈している。

これは世論というよりは単なる混迷である

と。そう感じる今日この頃です。


こんな時は、自分への執着が混じった特定の権威の見解を聴くより、まずはAIで全体的な俯瞰をまとめてもらうのが一番である。そこで例によってChatGPTに次の順番で問うてみた。

  1. 皇位の男系継承を考えるとき、天皇と神道との関係がキーファクターになりませんか?
  2. 欧州ではローマ教皇が宗教界の象徴として存在する。欧州の王位に相応する地位として日本の天皇を理解するのは、国民心理の深層をみても、本質をとらえ損なう気がする。どう思う?
  3. 成文憲法の中に天皇の規定を文言として文章化するのは、これまでの日本文化と天皇、皇族との関係性を考えると、どう書くとしても問題が残り、現実的ではないように感じるのだが、この辺についてはどう思う?そもそも日本国の統治形式を規定する憲法に天皇を含める不可欠性があるのだろうか?かといって、大統領制に移行するのも日本の政治家をみると不安だな。

得られた回答はここにあるが、やはり大方の人間よりは要点をおさえることが出来ている。

天皇への感情は通常の王室への敬愛とも、明確な信仰とも違う、宗教以前の共同体感覚に近いものを含んでいます。

  • ただし、「国民心理の深層」を一枚岩として扱うことには慎重であるべきです。天皇を祭祀的存在として感じる人もいれば、純粋な憲法上の象徴と見る人、文化的伝統として緩やかに支持する人、制度そのものに批判的な人もいます。戦後80年以上を経て、天皇と神道との結びつきを意識しない国民も相当に多いでしょう。
  • 天皇が単なる憲法上の公職なら、男系男子限定の合理性は非常に弱くなります。反対に、天皇を皇祖神以来の祭祀と血統の継承者と見るなら、男系論には強い意味が生じます。現在の議論が噛み合わない最大の理由は、実は「男系か女系か」以前に、天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がないことにあるのではないでしょうか。

このように

現在の議論が噛み合わない最大の理由は、実は「男系か女系か」以前に、天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がないことにあるのではないでしょうか。

ズバリ、天皇や皇族に関する認識がばらばらであるという事実を指摘している。

ひょっとすると、こんな状況は、徳川将軍の幕藩体制下においても同じであったかもしれない。武家に権力が移ったあとの室町時代や鎌倉時代の民衆にとっても、その心理は現代日本人につながるものがあったかもしれない。

確かに明治政府は王政復古という形で天皇制について一つの選択をしたのだ。その選択は、倒幕のあとの国内状況、さらに帝国主義が支配する国際環境に迫られたものであったはずだ。本来は歴史的、時限的なもので、決して普遍的真理などではない。明治の精神で天皇制と向き合う必要性は客観的にもうないのである。とすれば、「ご自由に」ということになる。実際、皇室の事はご自由に決めてよい事柄である。


とはいうものの、天皇の地位は民意が決めるべきだという論理は、普遍的論理ではなく、歴史的にも根拠がなく、1946年に占領軍の指導下で制定した戦後憲法の法的要請にすぎないと言いたい自分がいる。憲法は、一度定着すれば権力を縛るとともに、国民をマインド・コントロールするのである。

天皇の問題をいま憲法と関連付けて議論するとき、まったくかみ合わなくなるのは、当たり前であると小生は思う。

「天皇とはそもそも何者なのかについて、国民の共通理解がない」ということに議論はとどまらないのだ。日本国憲法とは日本人にとって何者なのかについても、やはり国民の共通理解がない、と勝手に思っている。

つまり、天皇の話しを始めるや、二重の意味で日本人はバラバラなのである。

難しいネエ⋯⋯


最後に

まったく、この問題は複雑だ。正解はないということだけは分かるね。

こんな感想を述べると、AIは

本当にそう思います。「制度として論理的に整えること」と「歴史的に形成されたものを壊さず受け継ぐこと」が、きれいには一致しない問題です。

結局、万人を納得させる「正解」はなく、あり得るのは、何を守り、どの矛盾を引き受けるかという選択なのでしょう。男系を守れば継承可能性が細り、継承範囲を広げれば伝統の意味が変わる。天皇を憲法に置けば国民主権・平等原則との緊張が残り、外せば歴史的連続性や政治から距離を置いた象徴を失いかねません。

ただし「正解がない」から議論しても無駄なのではなく、むしろ、正解がないからこそ、政府や専門家に一任せず、国民がそれぞれの選択の代償まで理解して決めるべき問題だと思います。

このように、

国民がそれぞれの選択の代償まで理解して決めるべき問題だ

と。そう語っている。


たしかにネエ ⋯ ⋯、


これは何度も書いているのだが、つまるところ、「皇室」は所詮は非本質的問題なのである。日本人の生活、仕事にはホボホボ何の関係もない。政策とも無縁。天皇、皇族を中心にした文化的創造の場は、今という時代、絶えて久しいのであるから、要するに皇位継承はどうでもよいことである。

真に重要な問題は他にある。財政もそうであるし、社会保障もそうである。国防もそう。社会資本建設もそうだ。

皇位継承で(一部の物好きに限るとしても?)喧々諤々の論争をして、何だか対立しているような雰囲気になって、その挙句に真の問題を議論する時間も余裕もなくなるのは、日本まるごとドタバタ喜劇を演じていると海外にはみえるだろう。もしもこの騒動に関係者の営利動機が混じっているなら、公益を損ずる実に性悪な行き方ではないか?


思うに、現代日本人のどれほどが自らの願望の《代償》を理解しているだろうかと、この点に関してはまったく悲観的なのである。もし「願望」と「払うべき代償」とのロジックを理解していれば、そもそも解決不能なほどの財政赤字が累積する事態など起きないはずである。

財政破綻は、皇帝のいる王朝国家でも、現代世界の民主主義国家でも、権力の主体が願望を無際限に肯定し、理性的な抑制を失えば必ず起こるものである。

このロジックがいま当てはまっているわけではない。そう祈るばかりである。

【加筆修正:2026-09-10】

2026年9月7日月曜日

断想: これまでは孝行息子と思いしが………

大手メディア企業の報道よりネット(≒SNS)上のやりとりの方が世論に与える影響力が強まりつつある、と。少し前まではこんな指摘がよく耳に入っていたものだ。例えば、兵庫県の斎藤知事当選の際には、メディアの限界がよく議論されていた。

あれからまだ2年も経っていないのか・・・と改めて思う。


最新時点において様相はまた一歩進んだように感じる。


Yahoo! JAPANニュース、Googleニュース、SmartNews等々、いわゆる《ニュース・ポータル》になっていたサイトは数多くあるが、そのどれも目に入る記事は大手メディア企業のヘッドラインである。本文を読もうとすると、まず例外なく広告が再生、ないし表示され、元の画面に戻ると有料版への案内が画面に出る。ネットは大手メディア企業のビジネスの主戦場になった。

いわゆる「メディア」は、スポンサー企業の広告を最終ユーザーに到達させるための有料のメディア(=媒体)なのだから、紙面やTV画面よりネットの方が期待値が高いと判断すれば、ネットがメディア企業の活動現場として選ばれるのは当然のロジックである。

そして情報は、貨幣と同じく『悪貨は良貨を駆逐する』。良貨は秘蔵され、世には出ず、悪貨ばかりが目に入る結果になる。情報の確度ではなく世間の関心に応えることを優先するメディア企業がネットに入ってくれば、それまで良質の意見を提供していた個人の活動は、自分自身を守るためにもっと目立たない落ち着いた場所へと移動するというわけだ・・・そして、情報空間としてのネットは長期的には自己崩壊していく。


小生は、SNSはFBが主で、X、というよりTwitterはアカウントだけを10年以上も前に持ったことがあるだけだ。が、FBもスポンサーの広告が増えて、もはや広告なのか、自分が求めている情報なのか、一目では分からない。

メディア報道も、最近では臆面もなく「ネットでは〇〇」とか、「SNSでは〇〇という批判が大盛り上がり!」などと、

結局のところ、あなたの仕事とは何ですか?

と、アシモフの『黒後家蜘蛛の会』よろしく、質問したくなる。(匿名ではない)具体的な個人はともかく、報道ビジネスに従事する企業に勤務して、色々な記事を流している記者(?)たちのアイデンティティ(Identity)というか、価値と言うか、存在意義というか、レゾンデートル(Raison d'être)というか、・・・何をもって自己の活動を正当化しているつもりなのかを、問いたくなるのだ。

★

それはともかく、今朝はカミさんとこんな話をした:

小生: 20代の女性で包丁を所有していない人の割合が9割を切ったってねえ・・・

カミさん: へえ~~、そうなの?

小生: うん。何で「20代の女性で」に限定しているのか分からんけど、マア、男なら包丁を持ってなくとも当たり前だと言いたいのだろうな。でね、その理由としては「カット野菜をスーパーで買えばいいし」「調理済みの商品を買えばいいし」、「何も手間をかけるだけが愛情ではない」とか、いろいろ挙げられているらしいネ。

カミさん: うちがさあ、子供たちが大きくなって、カット野菜でいいよねって言い始めたのが、何歳くらいだったかなあ?いまの若い人たちは、それを最初からやろう、と。そういうこと?

小生: まあ、そういうことだ。・・・子供ってお母さんがつくってくれたご飯をいつまでも覚えているものなンだけどね・・・多分、共稼ぎでお母さんも忙しいってことだろうけど。

カミさん: 最近の若い人たちはそんな考え方だよ。

小生: でも、結局それは子供たちと一緒にいる時間より、働いてもらえる金を優先して意思決定したって事じゃないかネエ。

カミさん: 毎日一緒にいるより、お金をためて遊びに行ったり、旅行をしたりして、楽しい思い出を作るのもイイと思うけどなあ。

小生: 確かに俺が幼いころはサ、農家ではお母さんも忙しくてね、学校から帰っても大人はみんな働いてて忙しいのが当たり前だったからね。俺のオヤジは、親戚のうちまでリヤカーで荷物を運んで行けって言われて、市内から〇〇まで何キロ(Km)あるのかなあ、何時間もリヤカーを引いて歩いて行ったっていうから、今の家庭と少し昔の家庭とは、まったくライフ・スタイルが違うよ。

カミさん: あたしはあんまりお手伝いしなかったナア・・・

小生: それは俺も同じだけどネ。今となっては、手伝いもせず、心配ばかりかけていたから、不肖の愚息であったのが現実だったかもね。

カミさん: 勉強は出来たんでしょ?

小生: ああ、親を喜ばせるのが親孝行なら孝行息子だったな。「いい息子」だと自分でずっと思っていた時期もあったよ。だけどさ、テストでいい点数とるのが孝行なわけないワネ。

★

育てた子が、多くの人を助け、救い、感謝されるような状況が訪れれば

ああ、あの子を産んで育てて本当によかった。恩返しができた。ありがとう。神様、あの子をさずけて下さって、ありがとうございます。

こんな風に心から喜ぶのが親の欲張りな願いである。テストの点数とか、どこの大学に入るとか、⋯⋯、バカバカしい。


人はいつでも何か行動をするときには、迷いながらするか、確信をもってするかのどちらかだ。

そして、迷いは必ず行動を挫折させる。

とはいえ、確信をもってする行動も、それが正しいか、間違っているかといえば、何も証明はされていないのである。

自分は正しい

そう思う気持ちは、現実には自己への執着であって、人が誤るのは第一には「知識の不十分さ」、でなければ「自分への執着、つまり我執」である。このどちらか(あるいは両方)が原因である。

小生はずっと孝行息子である、というよりあったと、思ってきたが

これまでは 孝行息子と 思いしが

     バカな愚息と いまぞ知るなり

《真理》を知らないことこそ、つかの間の幸福感をもたらしてくれるものだ。

2026年9月5日土曜日

ホンの断想: 「二十億光年の孤独」が別の作品のように思えて

 谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』にこんな一節がある:


万有引力とは

ひきあう孤独の力である


宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う


宇宙はどんどん膨んでゆく

それ故みんなは不安である


二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした


この一節は詩という文学だが、無数の生命と物質を包含した宇宙空間をイメージする仏理的宇宙(≒三千大千世界)を表現した作品とも思える今日の夕暮れです。

アレルギー性鼻炎に悩むとき、以前は「小青龍湯」をよく飲んでいたが、あれは若者から中年始めの人に向いている薬だと聞いたので、最近は「苓甘姜味辛夏仁湯」をAmazonから買って、それを服用するようになった。

同じ作品を読んでも、以前はどんな風に感じたか、書いておかないと分からなくなるものだ。

何気に谷川俊太郎の詩集をめくっていたら、前のような印象とはまた違った感想を感じたのでメモしておく。

2026年9月2日水曜日

断想: 古代インド思想で《仏》の本性が議論された源は?

 先日の投稿では

高市内閣の経済政策は《ケ・セラ・セラ戦略》に該当する

と述べた。要するに、『明日は明日の風が吹く』("Tomorrow is another day.")という感性で、名画『風と共に去りぬ』の中で、南北戦争に敗北したあと、全てを失って故郷の農園・タラに戻る主人公・スカーレット=オハラが、この言葉を口にして前向きに生きていこうと決意する場面は大変有名だ。

高市早苗首相と焼け野原の故郷に佇むスカーレットと、どことなく似ているか?

ま、こんなイメージもあってよいかもしれませぬ。

【補足】映画の内容に照らしてみると上の言い方には混同があることが分かった。が、イメージはこんな風なので、このままにしておきます。


今日あたり、食料品に対する消費税減税の財源を法人税増税に求める話しがTVでされていて、

何も考えていないわけではありません

と、どうやら企業に逆風が吹き始めたという状況だ。でも、マア、これからの話しである。ベッセント・米財務長官は、明らかに財政拡張には反対している考えのようであるし、日本の財政政策の先行きは、まったくの五里霧中といった所である。

知識なき闇の世界、即ち「無明」を照らすために、色々な学問分野があり、経済については経済学が(インチキ版ではなく真っ当な経済学が曲がりなりにも?)使える状態であるにもかかわらず、「知識」なるものを軽蔑するのであれば、そりゃあ「五里霧中」にもなるし、ケ・セラ・セラにもなりましょうて・・・という感覚で観ているところである。

★

俗世間のことはさておき、こんな事を思った。

というのは、小生が属する宗派で日常的に読む『三宝礼』のことである。具体的には

一心敬礼 十方法界 常住仏

一心敬礼 十方法界 常住法

一心敬礼 十方法界 常住僧

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうぶ

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうほう

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうそう

これが日常勤行式の二番目に読まれる。趣旨はいわゆる「ブッポウソウ」、つまり仏と法と僧の三つは「三つの宝」(=三宝)なのだから、大切にせよ、と。公式の解説も大体同じ内容だ。

実は、ずっと月参りで聴いてきたときも、自分でも読経するようになった最近においても、小生はこの「三宝礼」というのは実に退屈に感じていたのだ。


それが変わったのは、読経の習慣ができて経典の文言を自分なりに解釈するようになってからだ。三宝礼もその一つだ。今日はそれをメモしておきたい。

最後の《僧》だが、これは「知識」を表すのだろうと思うようになった。これを「僧」と言うのは、仏道の経典であるからだ。僧は仏道の知識が人の形をとったものだ。

二番目の《法》だが、これは「道理」、「法則」、「真理」といった意味であろうと理解するようになった。もちろん仏道において、ここで「法」というのは「仏の教え」という意味に決まっている(はずだ)。小生はもっと広く理解したい。上の「知識」とは「法」に関して獲得されるもので、無尽蔵の法の中のごく一部分を人間は知識として得るのである。

「法」は「知識」を超え、「仏」は「法」を超える。いまではそう考えるようになった。逆に言うと、知識は法の一部であり、法は仏の一部である。つまり、最上位の《仏》は法を超えるもの、法の以前に実在するものである。法で止まらない所が、単なる「科学」とは違っている。

仏教では永遠の最終的実在として「仏」という漢字を当てているが、要するに「純粋知性」というべきものだろうと今は理解している。知性は法の源である、と。そんな宇宙観なのだろうと思う。ヘーゲルなら「世界精神」と言うだろうし、仏道では「法身」と呼ぶこともある。プラトンならイデア(=理想世界)をイメージできる「理性」と考えるであろう。人間が感覚的に観察する科学法則は、宇宙の法が可視化された結果である。観察される現象に形式と秩序を与え、法則として宇宙を理解するのは、理性の働きそのものである。

このブログでも何度か書いているが、人間の持っている能力というか、働きの中で、たった一つ「理性」だけは、全ての人に共通の形式で働く。感情や価値観、信念は個々人ごとに違うが、理性だけは共通、同一の仕方で考え、論証し、結論を出せるのである  ―   でなければ、人類共通の数学や論理学が成立するはずはない。

ただ、こう書くと、「法」を超える窮極的実在に関して、非常に西洋的に考えていることになる。仏道の世界は理論物理学の宇宙観とはまったく違っている。仏がいる世界には、因果律とともに、因と果を見通した目的もある。つまり善と悪の行為がある。

★

古代インド思想の何よりの特徴は、仏・法・僧の二番にある法の中に《輪廻転生》を真理として置いてあるところにある(と勝手に思っている)。当然だが、輪廻転生は仮説であるし、現代科学に染まり切った現代人なら「空想」であるとも言うだろう  ―   現代科学主義の根底にある唯物論もまた一つの荒唐無稽な空想であるというのは既に投稿した。

仏道に限らずインド思想では、「輪廻」を仮説でなく当然の真理として最初から前提している。生命あるもの(=衆生)は、この世界で何度も生まれ変わり、死に変わりしながら、ずっと一つながりの命として存在し続ける。生と死は物質的身体を与えられた個々の生物体の一時的状態に過ぎない。命は恒常的にあり続け、生は物質的身体をもっている状態、死は物質的身体をもっていない状態、というわけだ。

この「輪廻」を認めるのであれば、輪廻現象を含んだ諸法則の源である窮極的存在とは、一体どのような属性をもつはずのものであるか?

確かにこの問題は基本的であったに違いない。

同じ問題を問題としてとりあげた西洋の哲学者は(不勉強のせいもあって)知らない。

★

輪廻の仮説性は否定できない。とはいえ、一度それを認めると、宇宙は「生命」と「非生命」に二分される。物質に生命を生む潜在的可能性が含まれているかもしれないが、そんな素粒子の存在は聞いたことがない。生命は非物質であるとすると、宇宙には非物質と物質の二つが存在することになる。

では、そもそも非物質の命とはなぜ宇宙にあるのか?

そもそも理性という人間を超える普遍性のある働きがなぜ宇宙にありうるのか? 

そんな疑問が出て来る。生命は、物理化学的には自己組織化であり、エントロピー増大法則に反する現象である。なぜ宇宙には例外的な現象があるのか?なぜ生命はあるのか?

【修正】シュレーディンガー『生命とは何か』に書いてあることを忘れてこう書いてしまった。生命は外部にエントロピーを排出して、自身の内部を低エントロピー状態に維持しようとする。こう言うと正確だ。

命(=衆生)には目的がある。とすれば、目的を設定する存在を認めなければならない。

窮極的実在は、命(=衆生)を愛し、憐れむという本性をもっているに違いない。

最終的実在を《仏》と呼んで、仏とはどのような本性のものなのかについて、哲学的な思弁を展開した古代インド哲学者(と宗教家)のモチベーションが、何となくにせよ、分かる気がするようになった。


AIは、プリゴジンでも読んでみたらと推薦してきた。現代的視点から物理的にはどこまでが見当がついていて、どこから先が分からないのか、存在は知っていたが、一度読んでみますかネエ。


日常勤行式の「三宝礼」は、案外深い意味を持っている、と。今ではそう思っている  ―   ごくごく最近からだが。

以上、覚書まで。



2026年8月28日金曜日

断想: トランプ政権の現状に真に責任ある者は?日本の事は?

 Brad DeLong先生、Krugman先生と同じでトランプ現政権批判の急先鋒であるが、最近はこんな事を書いている。但し。デロング先生の推し記事である。日本の大衆民主主義批判にも通じる話なので、抜粋を引用しておきたい:

Drezner explains why his harshest criticism of the Trump administration targets the “normie” Republicans—of whom he was once one—rather than the obvious buffoons: the people who know better and enable Trump anyway are more contemptible than those who never had principles to betray. In his view, contempt should be allotted in proportion to culpability, not incompetence. The intelligent enablers who understand exactly what they’re empowering — and choose it for power and status — deserve more scorn than manifestly unqualified and honorless clowns from whom nothing could ever have been expected.

ドレズナーは、トランプ政権に対する自身の最も厳しい批判の矛先が、誰の目にも明らかな「道化」たちではなく、かつては自分もその一人であった「ごく普通の(ノーミー)」共和党員に向けられる理由を説明しています。つまり、事の是非を理解していながらトランプを容認・支援する人々は、そもそも裏切るべき信念など持ち合わせていなかった連中よりも、はるかに軽蔑に値するということです。彼の考えでは、軽蔑の念は無能さに対​​してではなく、責任の重さに応じて向けられるべきものなのです。自らが力を与えている対象の正体を正確に理解し、権力や地位のためにあえてそれを選び取った「知的な協力者」たちこそ、最初から何ら期待などされていなかった、明らかに資質を欠き名誉心もない道化連中よりも、強い侮蔑を受けるべき存在なのです。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-08-28

URL: https://braddelong.substack.com/p/crosspost-dan-drezner-categories

上でいう「道化」とは、筆者がそもそも誰を意識して「道化(buffoons)」と言っているかは別として、本ブログでいう「大衆」に(イメージとしては)対応する。大衆は、無責任だが、知性も知識もなく、そもそも期待されていることもない、と。

 この「道化」に対するに

自らが力を与えている対象の正体を正確に理解し、(自分の?)権力や地位のためにあえてそれを選び取った「知的な協力者」たち

と書かれていて、筆者はこの一群の人物集団には実に厳しいのだ。(唾棄するほどの)「侮蔑」に値するような「知的な協力者」たちとは、いったい誰の事を指しているのだろうか?

よく読めば、引用文の筆者自身も含めた共和党員の全体を指していることは直ぐわかる。しかし、非難の標的はそんな漠然としたものではないという思いが伝わってくる。


クルーグマン先生が日ごろ展開している非難の標的から推測するに、(多分当たっているだろう)《軽蔑に値する知的な協力者》とは、ト政権の閣僚の面々に加えて、まずはTeslaのマスク、Amazonのベゾス、Metaのザッカーバーグを代表とするIT業界の大立者たち、つまり超富裕層である。次に、彼らがカネの力で支配しているメディア大手企業が垂れ流す報道に協力しているジャーナリスト(?)たち。経済的動機からト政権に《シッポを振ってすり寄る専門家》たちも同類である。マア、大略、こんなことを言いたいようである。

無知な大衆は、そもそも何も期待などされていないのであるし、自分が何をしているかも理解できていない。十分な理解力もないのである。故に、トランプ政権をいかに支持しようが、だからと言って無責任だと非難する理由はないし、軽蔑すべき存在でもない、と。


思うのだが、ここには西洋の社会哲学、政治哲学の底流に流れている根本認識がある。

知性ある者にこそ、責任がある。責任ある者にこそ、ふさわしい仕事が与えられる。知性あり、知識ある者は、与えられた職務を全うし期待に応えるべきである。

西洋流の民主主義の根本が窺いとれるではないか?本来の民主主義とはこういうものだと小生は思う。しかるに、アメリカの超富裕層は期待には応えず、自己利益を求めるだけである。

大乗仏教では《自利と利他》の双方を目的としているが、この「利他」が欠け、「自利」だけのために自らの知的能力を使っている。故に、軽蔑に値する、と。

民主主義は大衆によって支えられるものではない。所詮、大衆は世間の風になびくだけだ。問題は、民主主義を支えるべき階層がその責任を放棄していることだ、というわけだ。

翻って、東洋文明圏のメインランドである中国の(北京政府の)立場は、産経新聞が報じた以下の記事からも推察できる:

混乱を生んだ米軍のアフガニスタン撤収に触れて「米国式の民主主義を他国に無理に押し付けても全く通用しないことをはっきりと表した」と主張。米国の民主主義は「他国に干渉するための『大量破壊兵器』になっている」と非難した。

Date:2021/12/11 20:46

URL:https://www.sankei.com/article/20211211-Z5TKHHYYFFOUBOUPMAPUUHLEUQ/

北京政府は現在の共産党主導体制は民主主義の一つの形と認識しているので上のような言い方になるのだろう  ―   それより中国に普通選挙による民主主義を導入するのは、歴史に則しても、無理だろうと観ている。中国の大衆は政治的選択には関与しないので、トランプ的政権が選挙から生まれてしまう可能性はない。但し、知性ある指導層がパブリックへの奉仕精神をもって大衆の期待に応えられるか、応えようとしているかという問題は、中国にも存在する。中国においてもデロング的問題が全くないわけではない。

*

大衆も結果に対して責任は負うのである。なぜなら、知的エリートがいかに正論を主張しても、数に勝る大衆が正論に聞く耳を持たなければ、社会は必然的に間違うからである。政治家は正論ではなく票を求めるものだ。大衆にも、だから、結果責任はある。

社会を誤らせたことから事後的に生起してくる全ての惨憺たる結果を、大衆は自らが引き受ける。大衆が犯した誤りの責任は大衆自らによって必ずとられるのである。愚かだが、フェアであり、フェア・プレーをしている以上、軽蔑には値しない。

他方、トランプ政権がどんな政権になるか事前に(かなり明確に)予測されていたにもかかわらず、ビジネスに有利だからと言って、職業的に成功するチャンスが訪れたからと言って、

間違っていると理解しつつ、政権に協力してきた人たち

こんな人間集団は、自分の代わりに無知な大衆を賭け金にして自己利益を追求するという点で正に《軽蔑》に値する。彼らはいかにして売り逃げるかだけを考える。ババをつかむヘマはしない。実に合理的だ。そもそも合理性とは「合理性」であって善悪ではないのだ。とはいえ、人間の行為としてみるとき、人道に対する罪を犯していると言っても、これは確かに正論である。

*

日本に目を向けよう。日本にはデロング先生のいう「知的エリート」、分かりやすく言えば「利口な人たち」はいるのだろうか?

高市現内閣を日本の「大衆」が熱狂的に支持したのは、本年初めの時点で明らかな事実であった。高市内閣がどんな政治をするかも、かなり明確に予測できていた。現状はその時の結果である。

では、高市政権に反対するべき知性ある人たちが、大衆を賭け金がわりに使って、自らの利益のために「政権の犬」になっている・・・そんなデロング的状況が日本にもあるのか………?


しいて言うなら、

維新の会の面々

なのですかネエ??…ちょっと違うような気もするが。

高市首相にチャンスを見出し、自らの政治目的、事業目的を追求している、更には「自分のつごう」で同調している利己的な人々・・・

う~ん、そんな人がいるでしょうか?

それより、高市現首相と自民党総裁を争ったライバルたちはどうか?

今の政治は正しいと考えているのか?支えるべきだと心から考えているのか?

分からぬ。知り合いでもないので、小生には分かるはずもないが

やはり、極右(かどうかも定かではないが)の高市ではなく、

岸田・石破寄りであった従来与党の穏健派が、デロング的な意味で失望をかっている情けない人々になるのではないか。

こんな理解の仕方になってくるかもしれない。


トランプ政権の政策に対して、アメリカ国内の批判派急先鋒は声を(現に)あげている。日本にも同様の声はある(はずだ)。ところが、日本では

十分な知性をもっており、現在の誤りを理解できる理解力もある。しかし、声を上げるべき人が、自らの保身(≒自己利益)のために声を上げていない。結果として、現状を追認している。

デロング的な意味での《軽蔑》に値する人は、いわゆる《大衆》とは別にいる。真に軽蔑するべき人物集団は、大衆ではなく、そんな知性ある人たちである。


とはいえ、日本の大衆が決定的に愚かであれば、知性ある人がどれほど名案を示すとしても、大衆は耳を貸さないであろう。かえって《国民の敵》(≒非国民)と呼んで排除するはずだ。それは、民主主義社会では仕方のない事である。これもフェアプレーでありうる一つの帰結なのだから……

… … …

ふ~~む、

これまた、あってもよい見方だ。

【加筆修正:2026-0901】


2026年8月26日水曜日

断想: 読書感想文を宿題にするのは無理になったネエ・・・

ChatGPTなどAIが普及したいまという時代、もはや書評とか、批評とか、読書感想文といった学校なら誰でも取り組んだことがある「宿題」が、今後はどんな意味をもつのかどうか、非常に曖昧になってきた  ―   人によっては、数学の演習問題や哲学のレポート課題ですら、もはや宿題とするには、意味がなくなってきたと言うかもしれないが。

少なくとも、学校の夏休み課題としての読書感想文は何を測定する課題であるのか、意味を失ったと思う。

今日はその辺の経験と印象である。

★

ChatGPTに、試しに

芥川龍之介の最高傑作は何だと思う?

と聞いてみた。そうすると、『地獄変』だと思うと答えてきた。小生は『歯車』あたりが大したものだと思っているが、確かに『地獄変』を選ぶ見方もある。

課題図書と言えば漱石の『こころ』はまだ有力な選択肢なのだろうか?小生は、中学生や高校生が、『こころ』を読みこなすのは無理ではないかと、かなり以前の投稿で書いたことがある。そこで

漱石はどう?世評では

と聞いた。

そうすると、『こころ』と『明暗』の2作を挙げてきたので、中々やるじゃないか、と見直した。前にも書いたことがあるが、漱石が生涯の中で最高の境地に達したのは『明暗』においてであると、こればかりは譲れないのである。ただ、『明暗』は未完成の作品であるのが欠点だ。AIもこの辺については

『明暗』は小説技法としてはさらに先へ進んでいると思いますが、未完という決定的な問題があります。それに対して『こころ』は、作品の構造そのものが非常によくできています。「先生と私」から始まって、「両親と私」を経由し、最後に「先生と遺書」がすべてを呑み込む。個人の恋愛と裏切りの物語が、最後には「明治という時代の終焉」と重なってしまう。このスケールの変化が見事です。

こんな風にまとめている。中々要領がイイ。とはいえ、この程度なら読書好きな中学生でも書けるだろうと言うレベルだ。

とはいえ、『こころ』を最高傑作とするには疑問があるので、

『それから』を推す人も多いが、どう評価している?

と押してみた。すると

はい。『それから』を漱石の最高傑作に挙げるのは、かなり説得力のある評価だと思います。むしろ「完成した長篇小説」という条件をつけるなら、私は『こころ』より『それから』を上に置く議論にも賛成できます。

これにはちょっと驚いた。

それと次の考察は大したものだと感じた。

『それから』の強さは、主人公・代助が単なる「恋愛に悩む男」ではなく、明治末期の知識人が抱えた矛盾そのものとして造形されているところにあります。

代助は働かず、父や兄の経済力に依存して暮らしています。しかし本人は怠け者だとは思っていない。むしろ、金銭と競争によって人間を縛る近代社会の方がおかしい、と考えている。そこには漱石自身の文明批評がかなり入っています。

問題は、代助の批判がかなり正しいことです。

社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。

しかし、その社会を批判している本人が、その社会から送られてくる金で生きている。

ここが非常に痛いところです。

 ここまで書ける高校生は、いや大学生・社会人でも、そう多くはいない気がする。

問題は、代助の批判がかなり正しいことです。

社会が虚偽に満ちていることも、金銭が人間関係を歪めていることも、形式的な道徳が必ずしも人間の真実と一致しないことも、代助は鋭く見抜いている。

これを指摘するのが、『それから』を読む上では、大きなポイントである。現代日本人にとっても、100年以上も昔に生きた漱石のこの問題意識は心に刺さるはずだ。


そこで次のように掘り下げた:

う~ん、感心したよ。結構深く読み込んでいるね。

すると、嬉しくなったのか(?)

ありがとうございます。漱石は、筋だけ追うと比較的平明なのに、人物の行動を「なぜそうしたのか」と考え始めると、急に底が深くなりますね。

特に『それから』はそうだと思います。代助を「高等遊民の身勝手な男」と見ればその通りだし、「社会の虚偽を拒否した近代的個人」と見てもその通り。しかし、漱石はどちらか一方に読者を落ち着かせてくれない。代助の思想には真実がある。しかし、その真実を実行すれば他人を傷つけ、自分の生活も破壊する――この矛盾を解消せず、そのまま小説として成立させているところが強いと思います。

そして漱石を読んでいて私が特に面白いと思うのは、結局ずっと「個人はいかにして他者と共に生きられるのか」を考えていた作家ではないか、ということです。『それから』では「自己の真実を貫くこと」、『こころ』では「その自己が他者を傷つけること」、『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。 

現代人からは内面的共感可能性すら失われつつあるいわゆる「明治の日本人」だが、「近代的個人」たることを「外圧」として意識させられている中で、そうした生き方をすること自体が、人間性を歪め、社会を歪め、倫理道徳を歪めている、そんな認識が漱石を読むことで知られるのである。そして、いかに歪んだ生き方を納得のできない社会でするとしても、生きるためにはそんな生き方をせざるを得ないという、この非条理の感覚が漱石の作品の肝である。

この漱石が提出した問題は、いま生きている戦後日本の日本人にも、依然として共通の問題として意識されている。小生はそう感じるのだ、ナ。

これが漱石の現代性と言うものだろう。つまり、漱石の作品を読んで考えてもらうという課題の「課題性」は、確かにある。これに間違いはないし、だから、これからも夏目漱石という作家は古くはならない、その意味で珍しい作家であると思っている。


漱石が西洋から学び取った《近代的個人》は、いわゆる《人格の尊厳》という概念になって日本の法体系にも具体化されている。これが江戸時代より以前の日本と違うところだ。マア、古くてなんだが、遣唐使が持ち帰った中国文化を模倣して作った「大宝律令」も新文明という点では同じような働きをしたのであろうと想像している。戦後日本も同じである。

しかし、上でChatGPTがまとめているように

『明暗』ではさらに進んで、「そもそも自分自身の欲望さえ本人には完全には分かっていない」というところまで来る。 

そもそも《我》という固有の実在にも疑いの目を向けているのが晩年の夏目漱石である。自分と社会、主観と客観という二項対立の認識は、特に近代西洋の哲学では当たり前の枠組みとして最初から前提されることが多いが、仏教思想が文化的土台の一つになっている東洋では、《我癡、我見、我慢、我愛》は、人を迷いに導きいれる煩悩の本質としてとらえ、「我が実在しないことを知る」ところから、全てが始まる。

漱石の目は、自我と社会という問題意識から、最後にはもっと高い処へと飛躍したわけである。


最後に、

自分の人生を追求すると、それは家族や他者を傷つける結果になるというのは、その通りだ。

こんなコメントを書いた。そうすると

そうですね。そして私は、そこが漱石の非常に現代的なところだと思います。

近代的な「個人」という考え方を突き詰めれば、自分自身の人生を生きよ、自分の内面的な真実に忠実であれという方向へ進みます。ところが、人間は孤立して生きているわけではない。親子、夫婦、友人、経済的依存、社会的義務といった関係の網の目の中にいる。したがって、自分に忠実であろうとすればするほど、誰かとの関係を壊さなければならない場合が出てくる。

『それから』は、まさにそれを極端な形で実験している小説でしょう。

AIの分際(?)で漱石の現代性を十分に理解している。青春小説とも言える『三四郎』の中で、「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言った三四郎に対して、「偉大なる暗闇」こと広田先生がただ一言、冷やかに「滅びるね」と答える有名な場面がある。この時の広田先生の社会観、文明観、人間観が、『それから』や『こころ』、『明暗」になって展開されていったわけだ。

いずれにしても『こころ』は『門』よりも更に『それから』の終結性を明瞭にもつ。その分だけ『それから』は、社会で生きる発端の問題を扱っており、学校の読書感想文としては『こころ』よりは若い人には読みやすいはずだと思っている。その反対が『明暗』であり、これを読みこなせるには、将来の夢を見ながら学校で勉強しているうちは無理である、というのが小生の読書観である。

★

AIにここまで書かれてしまうと、それを土台にして更に深堀するには、相当の思考力が求められる。

大半の人は、丸写しに近い編集をして、そのまま提出するだろう。

AIに思考力を鍛えられる階層と、白痴化が進む階層と、所得や資産といった経済力だけではなく、思考や知識といった次元でも、今後は更に二極分化、格差拡大が進むのではないか?

独立した個人と着想によって経済的進歩を実現しようとする古き良き時代の資本主義は、AIの浸透と活用に伴って、生産現場でも消費生活でも、一つの限界を迎える。何より、労働所得から資本所得へのウェイト移動を通して、資本主義が下部構造として機能するための条件が失われつつあると思う。

そんな感想です。

本日投稿は、AIの作品評価から最後は資本主義へと話が飛躍してしまった。これも覚書きということで。

2026年8月22日土曜日

断想: 「直系、直系」とあまり言い募るのもなんだかネエ……という話し

まだ改正してから何か月も経っていないにもかかわらず高市内閣の強引な皇室典範改正は非常に評判が悪いようである。

まあ、確かに数百年の間、傍流であり続けた旧宮家が、いかに「世襲親王家」という特別の血筋であったとはいえ、その辺の事情は現世代の日本人には知識がほとんどないわけである。

今回の皇室典範が、要するに何を含意しているかが明らかになってくるにつれて、社会的な反発が広がるのは無理もないような気がする。

*

ただ小生は、この辺には割と冷めていて、何度も投稿するが

誰が天皇であろうと、あっしには関りはござんせん

ホンネはこんな所である。

確かに、皇統と縁もゆかりもない御仁が、いつの間にか天皇になるというのは、日本史を汚すものである、とは感じる。これは正直にそう感じる。

とはいえ、皇位継承にこだわりがあるかと言えば、「何か深いご関係でもおありで?」と、そう問いたくなるのだ。

今から14年前にこんな投稿をしているのも事実だ。少し引用しておこう:

いま皇位継承をめぐって女性宮家を創設する方向で話が進み、内親王の称号を与えられるのは今上天皇の直系女子に限定される方向だと憶測されている。上の戦争責任との関連で議論する向きはほとんどないと伝えられている ― 仮に議論されているとしても一般報道には絶対に出てはこないだろう。思うのだが、歴史的にも採用したことが一度もない「女性宮家」までを創設し、そこまでして明治・大正・昭和と続いてきた直系を正統として守らなければならないのだろうか?守らなくとも天皇制は維持できる。

こんな発想をするのは古いと言われれば古いのだが、男子に恵まれず、ついに今の系統が(万が一)絶えることになれば、それはそれで歴史の流れの中で下された<天意>というものではないだろうか?その時には、敗戦後に廃止された伏見宮系統の皇統が皇族に復帰して、新たに正統として皇位を継いでいけば、よいのではないだろうか?明治・大正・昭和と続く、現在の皇統が聖なるものとして、採用したことがない方策をとってまで直系に執着するには、「永遠に刻むに値するような歴史的歩みだったのだろうか?」というか、国民が心からそう願うための倫理的な根拠が薄弱ではないのか。小生、そう思うのだな。ずばり<国を誤ったではないですか>、実際、それが戦後日本の基本的姿勢だと思うのだが。なのに・・・という意味である。

一口に言えば、

何も無理をしてまで、いまの皇統の直系を守る必要などないのではないかという立場になる。

そう思う根拠は、正に上に引用したとおりであって、結局のところ《戦争責任》というキーワードにたどり着く話しなのだと思うのだ。

明治・大正・昭和天皇に至る皇統直系こそが、実は国際協調を支持し、伏見宮系統の皇族方こそ太平洋戦争開戦前の時期に軍人皇族として対外強硬路線(≒日本的戦狼外交)の後ろ盾となっていたことを思うと、いまの状況はいかに《天意》とはいえ、実に《歴史の皮肉》としか言いようがないが、これも表舞台に立ってきた家系が担うべき《業》というものかもしれない。

*

確かに現在世代の日本人は、日中戦争にも、太平洋戦争にも何の責任もないし、満州事変の歴史的評価とか、上海事件への対応の適否とか、知らなくとも、考えなくともよいことである。

しかし、仮に祖父か曾祖父の親類に世を震わす凄惨な事件をひき起こした人物がいて、世間はそれを今では忘れているとしても、事件の当時に被害者遺族にどんな謝罪をしたのか、その後どんな償いをしたのかについて、全く何の関心も持たず、聞いたこともないという生活態度で生きているとすれば、何かの拍子でそれが話題になった時に、その歴史的無知を非難されても仕方がないと思うし、それは現在の子孫が引き継ぐべき《業》であると思うのだ、な。

世界史においては《忘却の権利》も《忘却の義務》もないし、「赦しはするが忘れず」というのは人類共通のモラルなのだろうと思う。

だから上に引用した投稿の最後は

日本の文化遺産の多くは、天皇と朝廷を舞台にした王朝文化である面が大きいのだが、天皇は国家と一体化してきたが故に、政治の荒波から無縁ではありえない。1945年以後10年ほどの間に ― なるほど日本人の多くは食べていくにも大変であったとは思うが ― 道義の観点からとるべき行動で、何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない。それは後世代である私たちがもう一度真剣に考えてもいいのかもしれない。ま、これが小生の個人的な意見だ。

こんな風に『何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない』と書いたのは、

もう一度よく思い出して、どんな風に過ごしてきたかを調べなおしてみてもいいンじゃない?

ま、こんなことを考えていたことが分かる。

特に「天皇家」になると、日本の歴史に責任を持たざるを得ない立場でもあろうから、あまり「直系、直系」とこだわるのも何だかネエ……と   ―   もちろん、今上陛下も現宮家の方々も、こんな風にはお考えになっておられないはずですが。

そういうことであります。

【加筆修正:2026-08-25】

2026年8月19日水曜日

断想: 「民主主義の文化的DNA」があるのか?

 ニュースポータル"SmartNews"にこんな下りがあった:

日本にとって中国は最大の貿易相手国となっているが、世界のリーダーとなった中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない。著者は中国研究の第一人者であり、バイアスのかからない情報発信を長年、続けてきたことで知られる。日本の将来を考えるなら、絶対に読んでおくべき一冊だ。

評論家・加谷珪一氏が寄稿した『『おそるべき「中国一強」時代』(富坂 聰)への書評の中の1節である。

違和感を感じました。

中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない・・・

《国民的合意 》が、日本と中国との交流に必要なのでしょうか?

中国から日本に文字が伝わり、仏教が導入されたのは、《国民的合意》があったからか?田中角栄首相が北京政府と日中国交回復をしたのは《国民的合意》があったからか?北京政府が中国の唯一合法な政府と承認したのは《国民的合意》をしたからか?

国民的合意とは、これいかに?国会の議決のことか?世論調査の一定割合以上のことか?

こんな疑問もあったりする。


中国と経済取引を拡大する方向は理に適っている。これは中国ビジネスを展開してきた(している、を含む)ビジネスマンなら肌感覚で了解する真理であろう。

高市・現内閣が採っている反中路線は、地政学的、安全保障戦略上の色々な理屈はあるのだろうが、せんじ詰めれば《非合理》だと思う立場に小生は立っている。

その背景として、日本の大衆心理に何となくのレベルで潜在している、対中恐怖心に迎合しようという政略があるのだと勘ぐっている  ―   対米恐怖心なるファクターが語られないのは不思議だが。

民意を重視する政治体制ならば、これは仕方がないが、仮に明治前半期のような文字通りの専制君主制であれば、民意とは関係なく国益上合理的な外交戦略をとれていたに違いない。


先日、終戦時の海軍大臣であった米内光政のことを調べることがあってWikipediaを読んだのだが、こんな下りがあった:

武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は、世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を、批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが、出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで、二百年かかる」と述べたという。

 非常な洞察力だと感じた。この中の

日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。

この部分は今後ますます明瞭に可視化されてくると予想している。


日本は、確かに中国や朝鮮のような専制的な王朝国家ではなかった。山岳地が多い日本の国土は、地域ごとに分立した分権統治、封建体制に自然に向かうようにできていた、と勝手に考えている。

とはいえ、中国文化圏の中にあった日本もまた民主主義や共和制とは縁遠く、世襲を重んじる国であった。これに反し、西洋の古代ギリシア、ローマには、民会を軸にした共和制の伝統があった。というか、そもそもインド=ヨーロッパ語族の源流である古代アーリア民族自体が、民会の議決を尊重する共和制に近い統治をしていた。例えば、Geminiにきいてみると、こんな回答が得られる:

ゲルマン民族、ギリシア人、ローマ人、そしてインドへ向かったアーリア人は、すべて言語・文化的な起源を同じくする「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」に属しています。彼らの原初の社会構造には、確かに「王権の制限」と「戦士(自由民)集会による合議」という、共和政や民主政の土台となる共通の文化的DNA(親和性)が存在していました。

ただし、歴史の進展とともにその親和性が崩れ、専制君主制へと移行した地域も多い。インドに侵入したアーリア系の国家では王権が強く、アーリア系であるペルシアもオリエント社会特有の専制君主制に移行した。インドもペルシアも大規模な社会インフラ整備が不可欠で、ギリシアのような小規模・都市国家が分立する社会構造では課題を解決できなかったのである。

この辺り、挑戦と応戦を繰り返す中で変容・発展する文明社会の生きざまが現れており、トインビー的歴史が鮮やかに伝わってくる一面にもなっている。


振り返ると、日本国では民意に基づいて国を統治した経験は歴史の中で一度もなく、唯一の経験である(かもしれない)戦前期の普通選挙体制(昭和初年以降)では、民主主義的な「政党政治」の運営に見事に失敗し、スキャンダルと派閥抗争の果てに主導権は軍部に渡った。そして、戦後日本が(アメリカが起草した)戦後憲法の下で歩んできたわけだが、少なくともイザナギ景気が終わる1971年(昭和46年)までは、官僚による行政指導と日銀の窓口規制が国民生活を律する官僚主導体制にあったし、その体制があってこそ二度の石油危機をも巧みに乗り越えた(と事後的には言える)。

思うに、日本で《民意》というものが社会の在り方を実質的に決めるようになったのは、つまり日本が文字通りの民主主義社会になってきたのは、2001年から5年間続いた小泉純一郎内閣から後の事ではないかと、小生は勝手に思っている。25年程の歴史である。

つまり

日本で(民意が官僚に優越する真正の)民主主義が実質的に機能し始めたのは21世紀になってからのことである。

こんな社会観をもっているのだ、な。

そして、

あれから25年

路線対立とスキャンダル合戦で議論するべき政策課題はないがしろにされ続けている。

何がないがしろにされているって?

多すぎてもう一つ一つ挙げられません。

他方で、国民生活には(ほとんど)何の関係もない《皇位継承》に執着して、皇室典範の再改正をいまなお声高に主張する政治家があまりにも多い。これもポピュリズムといえば「ポピュリズム」、政治には本当は真面目な関心をもっていない大衆からの支持を増やしたい大衆迎合政治といえば「大衆迎合」と言うべきだろう。

これらは全て日本が再び民主主義運営に失敗しつつあることを示唆する。

ありていに言えば、

日本社会は民主主義の文化的DNAを有していない。

少なくとも、政治についてはハッキリ「ない」と言える。そう思い始めているのだ、ナ。


そういえば、小生が暮らすマンションでも総会があるごとに、白紙委任状による「出席」が出席者総数の7割ないし8割を占めるのが常態だ。雑務は、理事長、副理事長、理事など役員に「お任せ」である。次の総会では管理費の大幅引き上げが議題になる。「お任せ」にはなるまい。が、良案があるはずもない。ここでも実在しない《合意》を探る日本的混迷に陥る可能性がある………。日本社会は、マクロ、ミクロ、各層において、(自律的、独立的な)民主主義ではなく《外圧》、《上圧》、《競争圧》が作用して、初めて意思決定ができる。端的にいえば『これも何かの縁である』、『生き延びることが大事ぞ』、『仕方がない』、こう考えるとき、日本人は組織的に、というか絆を意識する集団として力を尽くす。これが小生の日本人観である。やっぱり「島国」だからネエ⋯⋯


米内光政は、日本の復興には200年かかると予想したが、となると日本社会が次のステージに収束して安定するのは、2145年頃になる。2026年の現在から数えればあと119年。世代でいえば5世代という所であろう。今年生まれた新生児が、まだ何人かは生き残っているかもしれないが、現在時点の「世論」などは100%消え失せている遠い未来だ。しかし、遠いとはいえ徳川家康が征夷大将軍になってから徳川吉宗が家康との血縁の近さを評価され将軍に就くまでの時間だと思えば、それほど遥か先の未来でもない。

どちらにしても、最初の大崩壊である「応仁の乱」では、乱の前にあった荘園制社会から乱の後に出来上がってきた大名領国制へと、本質的に全く違った「ガラガラポンの国造り」が進んだ。同じ理屈で、約100年後の未来の日本になるまで、「ガラガラポンの国造り」の2nd Seriesが進むであろう。1945年の降伏後に支配的になった民主主義の原理と、近世・近代の日本人の国民性として受け継がれてきた社会観や感じ方、思想などが、互いに衝突したり融合したりを繰り返すサイクルが何度も発生するに違いない。リベラルな政策が導入されるかと思えば、保守反動が続くだろう。どちらも言い分はあるのである。

どんな社会構造になって安定するのか分かりません。多分、今とは一変するに違いない。皇居が今のままの姿であるのかどうかさえ、小生は予想がつかない。

おそらく未来の日本人が、夏目漱石や太宰治、三島由紀夫を読んでも、今の日本人が近松や井原西鶴を読んでもどこが面白いか分からないのと同じく、漱石も太宰も三島もどこが面白いかさっぱり分からない、生活感覚的にピンと来ない、そう感じるほどに、未来の日本人は今の日本人とまったく別の考え方、感じ方、しゃべり方をする人間になっているであろう。

この国は「降伏と占領」から始まった千年に一度の大変動期にあり、安定収束までまだ長い時間がかかる。これが最近もつようになった歴史観であります。


いずれにしても、《経済大国・日本》も《GDP第4位の経済強国》も、目に見える経済の回復であって、日本の復興というものではないのだろう。そして、実はこの理屈は現代中国をどう観るかにも通じている話だと思う。

何が実現すれば、日本の復興という名に値するのか?それは未来の日本人が次第に理解してくる(はずの)ことである。少なくとも「戦後日本」は、いま世界においてそれほど「名誉ある地位」を占めているとは、言えないという感覚がある。この感覚もまた戦前と戦後と同じ日本人でどこか違っている所ではないかと思ったりする。

こんな風に想像している今日この頃であります。

【加筆修正:2026-08-21】

2026年8月18日火曜日

ホンの一言: この経済政策は「ケ・セラ・セラ戦略」である

 8月17日付の日経では

上場企業の業績が一段と拡大する。2027年3月期の純利益は前期比14%増と6年連続で最高になる見通し。増益率は期初の5%増から上振れする。インフラやものづくりに欠かせない高シェア製品を手がける企業の成長がけん引する。

来年3月期の純利益見通し、つまり今年度の利益見通しは前期比(前年度比のことか?)14%増になる、と。

先日の投稿では、

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。

と書いた。本年6月の「短観」の回答基準日は6月11日である。

再度、「短観」を確認したが、今年度利益見通しが減益方向であるのは上にあるとおりだ。

フ~~~ム、6月上旬ではまだ減益見通しであったのが、最近になってドンドン強気になっていると言うのか……?一方は上場企業、一方は全国企業ではあるけれど。


景気動向指数の先行系列は、腰の強い景気拡大基調を伝えている。これは事実だ。

なぜ6月の短観では「弱気」の見通しになっているのか?

ただ、「短観」でも業況DIの要点は、大方、次のようにまとめられている:

  • 大企業製造業DI: 前回の+17から+22へ大幅改善(2018年3月以来の高水準)。生産用機械や電気機械などが好調。
  • 大企業非製造業DI: +37へと小幅改善し、好業況を維持。宿泊・飲食や小売などが個人消費の底堅さに支えられた。

気分的には明るいことが伝わっている(と判断されている)。

それにしても「個人消費の底堅さ」ネエ……減税は本当に必要なンですか?


しかし、減益にはなる、と。つまりピークアウト感がある。物価の行方、金利の行方も心配だろう。

何だか定まっていない感じがする。

景気観が定まらないままに消費税率引き下げが断行されるのか・・・これも高市内閣の個性、

理論より断行こそ国民のための政治

こういうことかもしれない。これを《ケ・セラ・セラ戦略》と呼んでいる。

2026年8月15日土曜日

断想: 西洋の哲学と仏道の違いを分ける線?

プラトンは、弟子のアリストテレスより、時代をはるかに先行するピタゴラスに近いところがある。輪廻転生を肯定している所はそっくりである  ―   日本の作家、三島由紀夫はその思想の末流に位置するわけだ。

 

西洋の哲学では古代ギリシアから近代哲学まで、結局のところ

理性によって真理に至るとする合理主義の系譜と、経験によって真理を得るとするイギリス経験論の二つの論争に帰着する

要するに、普遍と個の対立。この問題をずっと(今も)考えていると勝手に総括している。

これに対して、仏道では、物質と非物質との違い、具体的には物質的存在が実は空であること、にもかかわらず一部の物質がもっている(と思われる)生命が輪廻によって生まれ変わり、死に変わるのは、なぜ可能なのか?諸法無我であり、「我」は虚妄であるにもかかわらず、何故に輪廻転生はありうるのか?この問いにずっと執着している印象がする。

本質的に空なる物質と生命の永遠の輪廻はどう両立するのか?

この問題である。

これをメモしておきたい、というのが本日投稿の主旨である。

あとは思い浮かんだ順で。


だからと言うべきか、仏理を勉強しているとき、経験によって真理に到達するという考え方に出会うことは(小生の不勉強のせいかもしれないが)ない。真理に至らないのは、無明、つまり迷いの故であり、迷いは感覚と感覚がもたらす表象に執着しているからである、と。

なので、仏理を貫く発想は、西洋の合理主義哲学と相性がよいと思われるのだが、だからと言ってプラトンの否定する《ドクサ》(≒根拠のない思い込み)が、大乗仏教の唯識論でいう《偏計所執性》とほぼ同じであるかと言うと、ちょっとイメージが違うような気がする。大体、仏道には西洋近代哲学のような

すべての人に共通して与えられている理性と理性の普遍性

という、そうした考え方はないように思っている。むしろ大半の人は凡夫で、迷いのなかで生涯を終える。仏道は精神的な救済があるかどうかで登場するのである。


西洋の個人主義を支える近代哲学と古代インド発祥の仏道は、当然のこと人間観が全く違っている。それでも《イデア》は真の智慧である《エピステーメー》によってのみ獲得されるというプラトンの議論と、《仏智》(≒最高の智慧)によってのみ《円成実性》は得られるという大乗仏教の議論は、同じことを言っているような気もする。

大きな違いは仏道を特徴づける《因と縁》という実体なき関係性のモデルであるのかもしれない。が、これすらもギリシア悲劇の『オイディプス』など、大乗経典にあってもおかしくなく、『観無量寿経』の頻婆娑羅王と阿闍世王の父子相克と阿闍世の救済はその古代インド版であるとも感じられる。

資材もデザインも外観も全く違うが、洋の東西を問わず建築物は柱や壁、屋根や梁という基本単位が部屋を構成し、部屋が集まって建物が生まれる。こんな思考の形式は共通している。古代ギリシア以来の西洋哲学と古代インド発祥にして中国を経て日本で独自に発展した仏道と、どこか相通じる感じがするのも、思考や感覚の基底は実は同じであることを教えているのかもしれない。


プラトン的な宇宙観をもっている西洋の自然科学者は現代でも多いそうだ。そういえばノーベル物理学賞受賞者で『皇帝の新しい心』を書いたロジャー・ペンローズはそうであった。であれば、仏教的な宇宙観と最先端の自然科学者のそれが深いところで共鳴する所があるかもしれない。もしそうなら、そんなやりとり、読んでみたいナア・・・

以上、思い付きのメモ。

【加筆修正:2026-08-16】

2026年8月12日水曜日

覚書き: 足元の景気判断を誰も語らないのは奇妙だネエ・・・

 普段愛読しているブログに足元の日本経済の景況に関してこんな下りがあった:

日本企業の第1四半期の決算発表も8割方終わりつつありますが、概ね好調と言ってもよく、経常利益は前年同月比で25%の上昇となっています。円安に伴う輸出企業の利益増加と思われるかもしれませんが、輸出企業と内需関連企業で経常利益の貢献率を見るとざっくり輸出企業の60%に対して内需が40%となっています。また金利上昇に伴う金融機関の利益が莫大になっており、業種全般に好調を維持していると言えます。

日本経済を見れば絶好調とまでは言わないまでもバブル経済以降、最も輝いている時代に入っているとみています。

URL:https://agora-web.jp/archives/260806204700.html

ところが高市内閣は物価高騰の中での生活支援策として消費税減税を断行しようとする構えだ。つまり

景気は良いが、暮らしは苦しい。

ここから出て来る結論は、

労働分配率が急低下し、企業利益に吸収されている。

こうなるのだが、本当だろうか?

ChatGPTに調べてもらったばかりだが、こんな回答だ:

財務省「法人企業統計」を使った企業ベースの労働分配率(人件費/付加価値)では、2024年度は64.2%でした。2000年度の73.2%から約9ポイント低下しています。 さらに2025~26年の四半期データでも低水準が続いており、内閣府の2026年7月資料では、2026年1~3月期までの推移が概ね60%台前半にあります。

かなり以前に本ブログにも投稿したことがあるが、SNAベースで測ると労働分配率はそれほど劇的に下がっているわけではない。が、企業会計ベースで足元の分配は、かなりな程度、労働所得から資本所得へと比重が偏りつつある。このトレンドに間違いはないのだろう。そして、この背景としてAIの普及、浸透があるはずだという見立ては、前にも投稿したことがある(たとえばこれ)。

「AI革命」がリードする「新たな成長軌道」に日本は入りつつあるのだろうか?

*

しかし、企業利益が拡大し、労働所得が伸び悩み、結果として労働分配率が下がっているなら、当然の理屈として法人税を増税するという選択肢が検討されるはずだ。ところが、消費税減税の財源として、法人税増税を叫ぶ声がそれほど大きいわけではない  ―   マア、新聞、TVも増税は嫌がるはずなので、故意に触れないだけなのかもしれないが、まさかここまで不誠実ではあるまい。

ただ、景況感がイイと言うのは、内閣府の景気動向指数の動きからも確認できることではある。


Source:  https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

緑色が先行系列、紫色が一致系列で、直近月は本年6月である。図から明らかなように、先行系列は直近のボトムである昨年4月以降、ずっと上昇を続けている。これは景気拡大の腰が極めて強いことを意味している。紫色の一致系列は生産・販売の現状を総合的に伝えるデータだが、多分(?)今後にかけて上昇トレンドを加速するであろう、と。図を見る限り、こんな予測になる。

最初に引用した景況感とも一致するのだが、どうも違和感もあるのだ、な。とにかく日本社会には《明るさ》が欠けている。

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。
これでは法人税率引き上げなど、政府は言い出せないだろうネエ
という状況だ。

*

一部の人が言う「奇妙な明るさ」は、どこから来るのだろうか?

そもそも内閣府の景気動向指数は、今でも景気判断材料として信頼に足る統計なのだろうか?

「四半期別GDP速報(QE)」を重要な景気指標とする慣行は、ごく最近になってようやく「ちょっとおかしい」と感じ始めたのか、下火になってきたが、毎月の景気動向指数の方は小生も愛用してきた。しかし、これも「ちょっとおかしい」という動きをするようになってきた。

一時的な気の迷いか・・・


2026年8月8日土曜日

断想:日本史には二度の《大崩壊》があった?

高市内閣による皇室典範改正でにわかに「皇統」とか、「古代」とか、日本の神話時代に遡る発想が今は面白いというので、最近よく目にするのは継体天皇の名前である。

応神天皇や仁徳天皇より後の人だから神話の中のヒトではないが、何しろ遠い昔のことで『古事記』で知る時代、文字通り「遠つ神代」に生きた人である。

大体、日本人は「そもそも⋯」が好きである。日本語で「そもそも」と言いたい時、英語ではどう言うか、正直、適切なことばが浮かんで来ない。To bigin with、違う。Originally、ちょっと違う。Fundamentally speaking,...、ウ~~ン、いきなりクソ真面目な顔をして言ったら、笑われるンじゃないかナア。

これも古代から中世へと年表の古い順に日本史の授業をやっている副作用かもしれない。歴史に学びたいなら、先ずは一つ前の時代を振り返る考え方で、言うならば中国流で勉強するのが実際的な歴史だと思う、というのは前にも投稿したことがある。「温故知新」とは、千年前の事を知れば今の社会がよく分かる、という主旨ではない。そうではなく、今の社会を知るためには、その前の時代を振り返って経緯と沿革、そして必然性(?)を確かめる、そんな風に糸を手繰るように因果関係を遡及しながら、現在の状況を理解するという実証的方法論である。誰でも日頃やっていることであって、当たり前の正攻法が、正しい理解への早道である、ということだ。だから「歴史」と言っても難しく身がまえることはないのである、本来は。それを1500年位の昔かどうかハッキリしないが、継体天皇がこうだから今はどうこう⋯などと真面目に議論する風景は、滑稽としか感じられない。


それはともかく、これも前に投稿したことがあるが、

日本は応仁の乱の前後でまったく別の国になった

つまり、応仁の乱によって古代以来の社会構造は完全な崩壊へと向かい、織田・豊臣以降の社会はまったく新しい骨格をもった社会になったと言うのだが、小生も日本史が専門ではないが「それはそうかもなあ」という位で共感できることなのだ。応仁の乱の真っ最中から伝わった東山文化の侘び寂びは現代日本人にも感覚的にピンと来るが、鎌倉武士の日常や平安貴族の常識とか意識は本質的に共感の域を超えているはずだ。ましてその時代の庶民の暮らしぶりなど知識があるまい。

もう一つの大変動は、言うまでもなく昭和20年の「無条件降伏」である。占領軍が原稿を書いた戦後憲法は、織豊以降の近世・近代の日本社会を完全に覆した  ―   戦時の国家総動員体制で古い日本は半ば瓦解していたと見る人もいるかもしれないが。少なくとも、明治維新は《大崩壊》ではなく、権力層の交替であって、社会構造は(基本的に)保存された(と思っている)。

太平洋戦争は確かに日本にとっては《千年に一度》級の大変動をもたらした。というより、今ももたらしつつある。そう観るべきかもしれない。

小生は、戦前期・日本で中年までを生きた祖父母の感覚を知っているが、それでも敗戦より前、芝の増上寺には徳川将軍家の霊廟群が江戸そのままの姿で厳かに建ち並び、霞が関には海軍省、三宅坂には陸軍省と参謀本部があった戦前日本のリアルな空気までは分かる由もない。同じ文化遺産を継承していながらも、戦前に生きていた日本人は現代とはまるで違う歴史観をもち、違う考え方をしており、服装や髪型、毎日の食事、あるいはしゃべり方すらも異なっていた(はずである)  ―   共通しているのは同じ数学的問題に同じ解答をするという論理においてくらいだろう。これが一つ前の時代で、「戦後日本」という現代は「降伏」という衝撃後に、そこから出てきた一つの結果である。


この段落は、書き足しておこうと思ったところで、具体的には「明治維新をどう観ているのか」という点に関係する。これは自由勝手な歴史観と言われそうだが、鎌倉幕府の成立と明治維新は、長い日本史の中で非常に似た意義を持っていると思っている。この二つは、既存の社会構造、マルクス流にいえば《下部構造》と呼んでもいいと思うが、この基礎部分を温存しながら、その時代に発生していた問題を解決できる政治体制へと移行したという事につきると思うのだ。その意味で、上では「権力層の交代」と書いたのである。故に、鎌倉幕府、明治維新の双方は本稿でいう《大崩壊》ではない。いわば《小崩壊》である。今流にいえば《社会的リニューアル》である。社会の骨格は変わっていない。権力層の交代という点では、鎌倉幕府滅亡、建武新政から室町幕府成立にかけての出来事も同じだ。やはり(ちょっとした)リニューアルだと勝手に理解している。以上、補足まで。


思うのだが、継体天皇云々は現代日本とは何の関係性もない歴史ロマンである。歴史的に今という時代を考えるなら、織豊政権から江戸時代、明治維新と王政復古、軍国主義までを大きく一括りにした「過ぎた時代」のあり様と歩みを振り返る方が先だと思っている。

【加筆修正:2026-08-09、2026-08-21】



2026年8月5日水曜日

覚書き: 極右の女性首相の爆走、完走できるか?

クルーグマンやデロングのお二方はよく本ブログで引用させていただいているが、フランスの人口学者・エマニュエル・トッド先生の世界感覚も小生とは波長が合うので、何度かネタに使ったことがある。

最近でもこんな見方を述べている:

国際関係はイデオロギーや善意に基づいているわけではありませんし、そうなってはならないのです。

私は中国との穏やかな関係を提唱していますが、中国が巨大な勢力であることも認識しています。どれほどお互いに善意を持っていようとも、もし日本が自らの独立・自立・中立を守るための手段を持ち合わせておらず、また核兵器を保有せず、世界と良好な関係を保てない場合、日本は単に中国の属国になってしまうだけでしょう。日本は自国の独立を守るために、技術的な手段も持っておかなければならないということです。

また、中国の抱えている問題も受け入れる必要があります。たとえば、台湾に関しては中国を放っておくことです。日本こそが台湾の守護者だと考えるのをやめなければならないのです。この見方を好むか好まないかが問題なのではありません。中国との良好な関係構築のためには、相手国の利害についても認識し、各国の勢力関係をしっかりと見据えなければなりません。

だからこそ日本にとっては、核兵器の保有こそが唯一の選択肢だと私には思えるのです。日本は新しい国家理念を定義し、示すべきなのです。

この新しい日本の理念が、自国を核兵器で守りながらも国際関係においては中立性を保ち、自国領土から米軍基地を排除し、同時に「台湾は中国の一部であるという事実を受け入れる」という構想を掲げるのであれば、日本と中国は平和に共存する道が開けるのではないでしょうか。

Source: YAHOO! JAPAN ニュース
Original: Courrier Japan
Date: 8/4(火) 19:45
URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/a30edf2968cbe57b517225f9a72eb456c706c81d

上のような中国観(とアメリカ観)、そして防衛感覚に小生は100%賛成する。

しかし、高市・現内閣の基本方針とは正反対になるであろう。

そればかりか、経済政策をみても日銀の独立性への目配り、長期的な税制改革への展望もなく、

まるでアメリカのトランプ政権の無戦略を戦略とする戦略(?)を模倣する戦略(?)をとりつつある

こう感じられるのだ、ナ。

食料品に対する消費税率ゼロは、それ自体として最初から否定するべき方向ではない。現に多くの「先進国」で同じ政策を実行している  ―   ChatGPTにでも聞きなせえ。

とはいえ、実行するなら実行するで合理的方法を選択する必要がある。

理論なく政策の断行をもって最上の政治とする政治哲学

高市内閣の経済政策は《超・経済政策》と形容してもよいだろう。"Sanae's Ultra Super Economics"、略して"SUSE”とでも小生は呼びたい。

太平洋戦争開戦の直前、総理就任前の東條陸相が御前会議で発言したときく:

人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ

令和・日本の高市現首相の風貌と声音をTV画面で視て、昭和16年当時の東條英機首相のたたずまいの、男女の別はあるけれども、生まれ変わりのような既視感(デジャブ)を覚える人は他にもいるかもしれない。勤勉さと頑固さ、押しの強さと狭い視野が同居しているお人柄ということなのだろうか⋯⋯。ご本人と話したことは勿論ありませんが。

どうせ清水の舞台から飛び降りる覚悟が出来たなら、前にも投稿したが

さすが極右の女性首相

こんな風に感嘆できる政策断行を次々にやっていって欲しいものだ。

とはいうものの、あまりに任重く、道はあまりに遠い。

マア、一年以内に自爆する確率が60%以上はある

そんな予測をしながら観ています  ―   世間の風は「下手なシノギをして⋯⋯、もう詰んじゃったなあ」という方向に吹き始めているようだが。

前にも投稿したが、(首相ご本人のかどうか分からないが)皇室観だけであった、共感できる点は。

2026年8月2日日曜日

断想: 「信仰 ≠ 錯覚」、「抽象こそ実在」だと感じるとき

浄土系信仰の対象である阿弥陀如来は人間ではない。もちろん過去に死んだ人間のことでもない。過去に死んだ人間が今いるはずもないではないか。

阿弥陀如来が人間として生きた時間、法蔵という名の修行僧であったのは、大乗経典『無量寿経』の通りだとすれば、なるほど「事実」である。しかし、だからと言って、死んだ人間が別の所に行って「極楽」という世界を作ったという話を、そのまま信じる人はいないはずだ。

だからこそ法然は『一枚起請文』の中で

一文不知の愚鈍の身になして・・・ただ一向にねん仏すべし

と書いたのに違いない。自我と理性に基礎をおく近代文明も良し悪しで、考えるなら考えるで、徹底的に考えなければ「信仰」なるものが成立するはずは最初からないのである。


生きていた法蔵は、いわば「プレ如来」、仏語で言うなら「菩薩」であった。生前に菩薩であったという認識と死した後に如来になるというのは、表裏一体の言い方である。であれば、何を達成すれば人は菩薩になるのかという問題意識から大乗仏教は興った。その頃の思想の果実は膨大な大乗仏典となって残っている。

毎朝の称名念仏は、小生の属する浄土系宗派の勤行なのであるが、その根拠が大乗仏典の中の一部分である浄土三部経にあることは前にも述べた。そこでは仏教の開祖である釈迦如来は「仏」あるいは「世尊」という名で登場しているが、釈迦はナレーターとして登場するに過ぎず、釈迦が薦める信仰対象である阿弥陀如来が真の主役なのである。



その阿弥陀如来は「無量寿仏」とも「無量光仏」とも呼ばれるとおり、時間を超越した永遠の寿命をもち、無限大の光明を発する実在として観念されている。

しかし、この宇宙に「無限」は存在しえない。無限に高速であると感じる光でさえ速さは有限である。

つまり阿弥陀如来は観察可能な実・宇宙空間に存在してはいない。だから、浄土三部経で阿弥陀仏や阿弥陀仏が開いた世界である「極楽」が視覚や聴覚に訴えかけるように感覚的に描写されている箇所は、《描写》として文字通りに読むべきではなく、全ては《象徴》として読まなければならない。これが理屈であろう。サンスクリット語が書かれる梵字やデーヴァナーガリー文字でもなく中国の漢字で書かれた「阿弥陀如来」や阿弥陀如来の仏画も、「・・・である」という描写ではなく「・・・のようなもの」として、つまりは《記号》として見られるべきである。そう考えなければ唯の荒唐無稽としか思われないはずだ。

阿弥陀如来が語られる世界は「無限大の世界」であり、純粋理性にのみ理解される。「無限大の世界」であるから普通の常識は通用しない。それは数学的な無限の世界で多くの非常識な結論が導かれるのと同じである。つまり経典に書かれている文章は、全て象徴としてのみ意味をもち、純粋知性である「如来」を伝達したり、理解したりするための記号として見なければならない。例えば、それは無限を表現するための記号である"$\infty$"や実数などの連続濃度を表す"$\aleph$"と同じ理解の仕方になる。多次元の連続的な実数空間を概念的に生成し、そこで成り立つ定理を発見したり、論理的に証明したりするのと同じ意味合いで、無限の世界である極楽浄土のありようを象徴的に語っているのが大乗仏典であると解釈しなければ、書いてあることは荒唐無稽に感じるだろう。



仏理では、このような抽象的な理論上の存在、言い換えると「理論上、実在するはずの存在」を《法身》と呼んでいる。もしも抽象的観念だから実在しないと考えるとすれば大きな間違いだ。現代世界にAIで自動走行する電気自動車は既に生まれているが、真に実在するのは、金属やプラスチックなどの集合体である自動車そのものではなく、それらを生み出した非物質的で抽象的なAIや車本体を製造するための製造知識である。自動車という被製造物は一定の時間内のみ動作するが、それらを製造する知性や知識は非物質的であるから(顧みられなくなることはあっても)無くなることはない。世間がいう「発明」とは知の世界における「発見」なのである。この辺の事はもう何度も本ブログに投稿している。

毎朝、(ささやかだが)千遍念仏を称えているのは、法身と言う純粋観念である阿弥陀如来の実在を、自己の内心の中で実感し、体感するための修行である(と勝手に思っている)。

自分が念仏する声を自分で聴きながら、観念(に過ぎないはず)の存在が現実に心を照らし、光を浴びる温かさを感じたり、すぐ近くに(つまり心の中にという意味になるが)観念の実在を体感している感じとか、それは錯覚と言われればそうであるかもしれないし、思い込みと言われればそうであるかもしれないが、それは事実なのだから仕方がない。宗教的心理を自然科学で分析することには無理があると思う。そもそも《直観》と《思い込み》を識別するのは無理である。データや実証的作業からは得られない(はずの)直接的な理解がここにはあるとしか言いようがない。美しい音楽を(そうと分かる人は)なぜ美しいと感じるか?この問題を科学的に分析するのも、やはり同じ理屈で無理であると思っている。

以上、きょう現在の日誌としてメモする次第。

2026年7月30日木曜日

ホンの一言: 電車の釣り広告からニュースポータルへ移り変わった30年?

大地震で発生したイオン熊本の大規模ガス爆発。

YahooJapan!ニュースなどに掲載されている報道では

(ガスタンクの自動供給停止機能、建物の構造等を考慮すると?)これほど大規模なガス爆発は起こり得ない!

専門家は、爆発するはずがない、と。

そうなの?

不審に思う人は多かろう。

詳細はオリジナルの記事を(有料で)読んでほしいというわけだが、それにしてもエゲツナイ宣伝である。

起こり得ないと言っても現実には爆発している、ということは「専門家にも分からない」って事だネエ⋯⋯

そう解釈せざるを得ない。

たった一つの可能性は科学的因果関係の外側、つまりヒューマン・エラーか、故意による犯罪で起きた。理屈はこうなるが、だとすれば別の宣伝文句にするべきだろう。

Yahoo等のニュースポータルは、以前の自由な情報提供の場から、数多のマスコミ企業のプロモーションの場にかわり果てた。CM挿入の技術進歩ばかりが目立つ。情報価値の自壊は覆いようがない。AIの普及でその自壊ぶりは、より明瞭なものになろう。


才能ある人たちの活動はYoutubeに移ってしまった  ―   もちろん色々な評価はある。が、世論形成の自然な場はこんなものではないかとも感じる。Gender-Freeが好みならIdeology-Freeにもこだわってほしいものである。組織、企業は、一人の人間に宿る自然の動機ではなく、集団的に特定の目的を達成するために最適な言論を張るのである。人間には煩悩があるが、企業や組織はそれをシステマティックに行使する。そこが濁りにも、汚れにも映るのだ、な。

日本の世論が形成される場もアメリカ企業が運営するプラットフォームへと流出したようだ。

中国が自国産のネットに執着するのも理解できる気がする。

「お上」が管理するニュースサイトが清潔で見やすいとしても、内容を信用してもイイかどうか迷うかもしれない。ただ内容への疑念は、商業主義、利益追求に毒される日本のネット状況下でも、同じようにある。どうせ疑わしいなら、最初から分かっているだけ、清潔で見やすい中国的ネット状況の方がマシと感じる人は意外に多いかもしれない  ―   但し、中国国内のネット画面を中国人の立場に立ってリアルに経験したことはないので以上は想像に過ぎない。




2026年7月27日月曜日

覚書き: 豊臣家のイメージ?「トランプ政権、〇〇秋の陣」とでも呼ばれるだろうか?

アメリカ=イスラエル枢軸軍による奇襲的なイラン空爆とその後の戦況は、「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず」と言ったところで・・・今や世界的にも共通の認識になってきた模様。

これについて日本のネットでも

戦後、アメリカは多くの戦争を戦ってきた。大きな戦争としては、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争がある。だが、しかし、これらの戦争はいずれもアメリカが当初掲げた政治目標を十分には達成できなかった。敗北の理由は様々考えられるが、共通しているのは「傲慢さ」である。現在のイラン戦争も、トランプ大統領の「arrogance」ゆえに、歴史と状況に対する正確な分析に欠け、戦争の明確な戦略を立てることに失敗している。アメリカがイランに軍事的に敗北することはないにせよ、勝利を収めることも難しいだろう。

Source:Yahoo!JAPANニュース

Author:中岡望

Date:2026-07-27

こんな書き込みがあったりする。

これを読んで、ちょっと笑ってしまいました。だってト大統領が「傲慢」で「自意識過剰」のお人柄であることは周知の事実と言ってもよい程、明々白々のことであります。問題は、そういう人を大統領に選出した、そういう人が選挙で勝利したという事実にあります。もし大統領になればこんな大統領になるという予想は事前にあったわけでもあります。

その中でも急先鋒のクルーグマン博士。相変わらずsubstack.comの場で論陣を張っているが、デロング先生とはまた趣を異にしているのが面白い。デロング先生はcoolかつscinicalな雰囲気があるが、クルーグマン先生はずっとpassionateかつpessimisticである。最近はこんな投稿をしているので、(和訳したうえで)全文に近い引用をさせていただこう:

しかし、ここで本当に恐ろしいのは、トランプ氏が勝利に見えるものを勝ち取ろうとする試みを諦めたように見えることだ。ほんの数日前までを振り返ると、トランプ氏は事実上撤退し、プロジェクトを放棄し、海峡が事実上開いたことで原油価格が下落するのを利用して、これは真のアメリカの勝利であり、経済は好調で、株式市場を見れば分かるように、という話をでっち上げようとしているように見えた。

そして、まあ、それはちょっとどころかかなり愚かで、破滅的な試みだった。同時に、ある意味驚くべきことでもあった。なぜなら、真剣に紛争を終結させようとするなら、現実と向き合い、「よし、この戦争はうまくいかなかったが、アメリカは依然として偉大だ。申し訳ない」と言う必要があったからだ。

しかし、トランプ氏は感情的にそれをどうしても受け入れられなかったようだ。彼はこの事業が失敗したことを決して認めようとしない。彼は何事も失敗を認めようとしないのだ。彼の任期中、私たちはリフレクティング・プールの破壊工作犯を探し続けることになるだろう。

これは不吉な戦略転換だ。中間選挙に向けてトランプは何を考えているのだろうか?おそらく、十分な経済的成功を収め、人々の記憶力も短いので、ホルムズ海峡開通の功績はトランプに帰せられるだろうが、いずれにせよガソリン価格高騰や戦争をめぐる混乱は過去のものとなり、トランプとその仲間たちが主張し続ける黄金時代が到来したことを認める準備が整うだろう、というのが彼らの狙いだったのだろう。

今はもう全て白紙です。今はただイランを爆撃するだけです。明確な戦略はありませんが、事態が順調であるふりをするつもりもありません。イランを封鎖するつもりです。これは実際には少し影響力がありますが、中間選挙で共和党の勝算を高めるような形で何かが解決される兆候は全くありません。では、一体何が起こるのでしょうか?

トランプ氏が事実上諦めたのとほぼ同時期に、つまり戦争を放棄したという意味ではなく、たとえ肯定的な結果と解釈できるようなことでも達成しようとするのを諦めたのと同時期に、今週木曜日にゴールデンタイムの演説を行うという発表があったのは、偶然ではないと思う。報道によると、その演説は2020年の選挙不正に関するものになるという。また、ジョージア州選出の民主党上院議員2人を何らかの形で不当だと宣言しようとする可能性を示唆する報道もある。

まあ、それは実際にはうまくいかないだろう。彼が2020年の選挙で実際に勝利したという主張に納得する人はいないだろう。しかし、実際には彼は今年11月の投票に大規模な干渉を行うための口実、つまり土台を築いているのだ。つまり、公正な選挙を阻止しようとする、あるいは選挙そのものを阻止しようとする試みの舞台が整えられているのを、我々は目の当たりにしているのだ。

この先どうなるかは分かりません。しかし、トランプ氏とその側近たちが選挙に勝つことを諦めたのは明らかです。彼らは代わりに、プロパガンダ、誤報、偽情報、そしておそらくは大規模な違法行為を組み合わせることで前進しようと決めたのでしょう。

そして、「彼らはそんなことはしないだろう」などと言わないでください。それはこれまで、あらゆる場面で必ず裏目に出てきました。トランプ氏とその仲間でさえもやらないことがある、などという考えは、トランプ政権のあらゆる行動において、あらゆる点で間違っていることを示す最良の方法だったのです。

だから、ある意味では、トランプ大統領がイランへの爆撃を再開したという事実は、爆弾そのもののせいではなく、本当に悪いニュースなのです。もちろん、それは恐ろしいことですが、アメリカが外国勢力によって危険にさらされるという本当の恐怖があるからではなく、私たちの大統領、私たちの政府自身から、私たちにとって非常に大きな危険が迫っていることを示していると思うからです。

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/the-forever-war-gets-scary 


イランと戦争をして軍事的勝利を収めるのは諦めた、ということは中間選挙を普通に迎えれば勝てないことも分かってきた、ということはどうすればいい?

民主党が勝った選挙区では(日本流にいえば)「公職選挙法違反」があった疑いで片っ端から摘発する。強引に立件する。当選資格をはく奪する。負けた方を当選させる。この線は(多分?)有効だろう・・・と。

中国による選挙干渉に言及するなど、ヤル気満々のようだ。将棋でいえば、玉をとりたいから、いきなり玉筋に王手をかけるようなものだネエ・・・と思ったりする。相手の防御が自陣の王に対する王手になるなどとは予想しない。「しもた~ッ!」って奴です。この辺りが傲慢と言えば傲慢にあたるのだろうが・・・

仮に上下両院とも民主党が勝利すれば、必ず大統領弾劾裁判が始まる。職権乱用で有罪になる。閣僚の何人かは逮捕され、懲役50年から75年程度の刑を科される事態は十分ありうる。生きるか死ぬかである・・・


ト大統領の頭の中をシミュレーションして絶望感に苛まれるクルーグマン先生の姿が眼前に髣髴としてくるではないか。

2026年7月25日土曜日

ホンの一言: 生煮えの「ハラスメント」概念は研究段階の試作品とソックリの出来では?

かなり以前になるが高橋昌一郎『20世紀論争史~現代思想の源泉~』(光文社新書)が面白くて複数回読み返した記憶がある。

昨日、パラパラとページをめくって、以前に傍線を引いた個所を読み直していたのだが、読んだ当時はそれほどでもなかったが、昨日読み返すと中々に意味深な個所があったので引用しておきたい。論理実証主義のウィトゲンシュタインと科学哲学者ポッパー(というより数理哲学者ラッセル?)が口論する場面が秀逸である。が、以下に引用するのは論理実証主義に関するところ:

(ウィトゲンシュタインの)『論理哲学論考』が導くのは、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない」という有名な結論だ。

この世界で「明らかに語りうる」ことは、真か偽かを「論理的に」決定できること、あるいは事実か否かを「実証的に」確認できる言語に限られるという論理実証主義の理念は、そこから誕生したわけだ。

この下りを読んで思ったのは、

現代日本の「弁護士」という輩に読ませてあげたいネエ・・・〇〇ハラがあるかと思えば、ハラ・ハラもある。そんなハラスメントという犯罪概念(?)に対して論理実証主義者はどんな批判を浴びせるだろうネエ・・・

というものだった。 


「論理的に真偽を明らかにする」には、自明の大前提から矛盾や見落としを犯さず、唯一の結論に至るロジックを明らかにしなければならない。「明らかな事実」とは、日が昇ったり、そこに海があるとか、誰にとっても明らかで疑いようのない真実という意味である。「こうも考えられる、ああも考えられる」のは真偽不明を意味する、当たり前ですが⋯⋯

「法学」という学問分野が、学問体系全体の中でどのように位置づけられるべきか、小生には論じる資格はない。

しかし、「法」というものは最低限の要請として論理的でなければならず、事実の立証に基礎を置くからには、論理実証主義の哲学とは最も相性がよい学問ではないかと思う。自然科学とは違って、そこに「仮説性」が混じるのは、非常にまずいと思うのだ、ナ。

ハラスメントという犯罪、というか疑似犯罪概念、あり得ますよネ?

もしもこんな生煮えの学問談義から大した進展がないなら、研究段階の扱いにとどめるべきで、実社会に適用するべきではあるまい。特に《コンプライアンス原理主義者》が横行する現代日本社会では、《お気持ち倫理学》がはびこりがちでもあり、なおのこと慎重であるべきだ。

ひょっとすると、法律運用の現場では学問も論理も何もなく、ひたすらに「取り締まる」、「処罰する」、そのための理屈をつくるための道具が法律である、と。そんな即物主義的で虚無的な精神が共有されているのかもしれない。

ま、それならそれでつつがなくやられたらよろしゅうございましょう。



何事も学問的研究が生煮えの成果は実用を控えるほうが社会は安全である。

例えば、核融合エネルギーが実用化されれば、地球の危機はかなり解決されるだろうが、現在の段階では無理である。自動車の完全自動運転もそうである。望ましいことでも、未完成のうちは焦って実用化してはならない。

但し、技術的には完成間近で社会実験が必要になっているときに、敢えて一切禁止の選択をするという姿勢は、進取の精神に欠けているだけの事である。これは念のため。

この辺り、小学生でも理解できる簡単な道理であろう。

【加筆修正:2026-07-27】




2026年7月22日水曜日

断想: AI(=人工知能)が乗りこえるべき高い壁?

先日の投稿では、「総括」というか、こんな感想を述べている:

囲碁の名人がDeepMindのAlphaGoに負けてからAIの優越性が可視化されてきたのだが、歴史的背景と今の政策との関連をどう理解するかという点でも、世論よりはAIの方が(まだ細部で誤りが混じって満点ではないが)実力が上回るようになってきた。少なくとも世論の方がAIよりなお優れているとはもう言えない・・・こんな感想を持たざるを得ない。

人類の知的活動の少なからざる部分は、今後将来にかけて生身の人間からAIに置き換わっていくだろうというのは、ほゞほゞ確定していると言わざるを得ない。淋しいが・・・

それが善なのか、正義に適うのかという論点は、もう陳腐かもしれない。

道理とは何かを考える時にも、世論よりはAIの方がはるかに冷静で優れた考察をすることが出来る、個々の事案についてすら出来る、そんな時代がもうすぐそこまで来ていると、使えば使うほどそう実感するのだ。 

*

ただ、AIの利用、影響力が全世界的に急速に拡大していくかと問われれば、越えがたい技術的な壁があると思う。

以下のデータはChatGPTに調べてもらったのだが、一見したところ、予想に近い回答であったので使うことにした。

まず地球上の知的構成物としては見事としか言いようのない「人類」であるが、人体を構成する元素比は

質量比(成人の平均的な値)

元素質量比
酸素 (O)約65%
炭素 (C)約18.5%
水素 (H)約9.5%
窒素 (N)約3.2%
カルシウム (Ca)約1.5%
リン (P)約1.0%
カリウム (K)約0.4%
硫黄 (S)約0.3%
ナトリウム (Na)約0.2%
塩素 (Cl)約0.2%
マグネシウム (Mg)約0.1%
その他(鉄、亜鉛、銅、ヨウ素など)約0.1%

このように、酸素・炭素・水素・窒素の4元素だけで人体重量の約96%を占めます。

豊富に存在する元素を多く、稀少なものは少なくという経済的な構成になっているのが人体である。安い原材料だけを使って高度の知的生命体を自然は生み出したというわけだ。

これに対して、こんな質問をした:

データセンターの基盤になるサーバーの必須のパーツは半導体チップだと思われますが、半導体を構成する元素の比率はわかりますか?

するとこんな回答が得られた:

はい、ただし「半導体チップ全体」と「半導体そのもの(トランジスタ部分)」では大きく異なります。

CPUやGPU、AIアクセラレータなどの半導体チップは、シリコンだけでできているわけではありません。概ね次のような構成です。

主な元素用途質量比の目安
ケイ素 (Si)半導体基板・トランジスタ約40~60%
銅 (Cu)配線約20~40%
酸素 (O)二酸化ケイ素(絶縁膜)約10~20%
炭素 (C)低誘電率絶縁膜など数%
タングステン (W)配線・ビア数%
コバルト (Co)、タンタル (Ta)、チタン (Ti)、ニッケル (Ni)バリア膜・電極1%未満~数%
ホウ素 (B)、リン (P)、ヒ素 (As)ドーパント(不純物)0.01%未満

 

特に重要なのはシリコン。シリコン(=ケイ素)はトランジスタを形成する母材であり、半導体チップの中核となる元素です。 

人体とは大きく異なっている。ケイ素は地殻内では酸素に次いで豊富に存在している元素だから問題はないが、問題は《銅》である。銅は地殻の中では極めて稀少にしか存在しない物質である。

更に、データセンター全体でみると

半導体チップよりも

    • アルミニウム(筐体・ヒートシンク)
    • 銅(電源ケーブル・配線)
    • 鉄(ラック・構造材)
    • ニッケル(電池・合金)

などの金属の使用量の方がはるかに多くなります。

したがって、「AIを支える元素は何か」という観点では、シリコンだけでなく、銅・アルミニウム・鉄・ニッケルなどの供給も極めて重要になります。半導体そのものは高度な技術の結晶ですが、データセンター全体として見ると、実は大量の一般的な金属資源にも支えられているのです。 

そこで、地球に存在する元素賦存比率とデータセンターに必要な元素比率とを対比すると、以下のようになる:

結論から言うと、地球全体の元素組成とデータセンターの元素組成を比べた場合、最も大きく偏っているのは「銅」「シリコン」「希少金属(タンタル・コバルト・ガリウムなど)」です。

一方で、地球に非常に多い鉄・酸素・マグネシウムなどは、データセンターでは相対的に少なくなります。

おおまかに比較すると、

元素地球(質量比)データセンター偏り
鉄 (Fe)約32%(地球全体)数~10数%大幅に少ない
酸素 (O)約30%数%少ない
ケイ素 (Si)約15%10~30%やや多い
マグネシウム (Mg)約14%ほとんど使わない極端に少ない
銅 (Cu)約0.006%数十%にもなる数千倍以上多い
タンタル (Ta)数ppmコンデンサに使用数万~数百万倍濃縮
ガリウム (Ga)十数ppm高周波半導体非常に濃縮
金 (Au)数ppbコネクタ等数百万倍濃縮

 

特に「銅」が際立っています。地球全体では銅はごくわずかしか存在しません。

しかしデータセンターでは、

    • 電源ケーブル
    • 基板配線
    • 半導体内部配線
    • トランス
    • モーター

などに大量に使われます。

重量ベースでは数十%近くが銅になる設備も珍しくありません。

もっと極端なのは金・タンタル・ガリウム。これらは地球中では極めて希少ですが、
    • 金:腐食しない接点
    • タンタル:高性能コンデンサ
    • ガリウム:高周波・光通信用半導体

として不可欠です。

例えば金は地球全体では数十億分の1程度しかありませんが、CPUやサーバー基板には必ず微量ながら含まれています。

足元のテクノロジー文明を支えるのは、豊富に存在する酸素、窒素、炭素、水素ではない、数種類の希少金属であると言っても言い過ぎではない。

これはAI(=人工知能)と言っても、極めて非合理的な技術であろう。

*

こうして概観すると、知的活動体としての《人》は、小型にして経済合理的。自然による見事な作品であることが改めて確認できる。これに対して、AIは《人工知能》であるせいか、自然の摂理に反していて、非経済的かつ非合理的である。

古来、非・経済合理的な技術文明が長期間に渡って持続したためしはない。

地球上を面的にマネージするうえで《AI》の利活用は欠かせないと思うが、使われる材料が現在の元素比のままでは、近い将来に資源上の制約に縛られてしまうのは確実である。

更に、人体の優れている点は、小型の構造であるにも関わらず、内部にエネルギー生成機能を有していることだ。確かにエネルギー源は外部から摂取する必要がある。つまり食料である。が、それら食料は水、炭水化物、タンパク質を主として、あとは少量の脂質、ビタミン、ミネラルを必要とするだけである。大体は、炭素、酸素、水素を毎日摂取できれば人体と諸器官を動作させるには十分だ。驚異的な知性がここに反映されている。

上で示したデータセンターは内部でエネルギーを生成できはしない。電気エネルギーは外部から供給しなければならない。土地節約的な原子力発電にはウランが必要だ。そうでなければ、どこからか電気を供給しなければAIは動かない。

ついでに太陽光発電施設も含めて、特徴的な元素の比較をしておこう:

システム
特徴的な元素
人体
    H・O・C・N(地球上に豊富)
データセンター    Cu・Si・Ta・Co・Ga(高純度・希少)
太陽光発電所
Fe・Al・Si・O(比較的豊富)

 ChatGPTはこう締めくくっている:

この比較を見ると、太陽光発電はデータセンターよりも、人体に近い「豊富な元素を大量に使う技術」と言えます。もちろん人体とは構成が異なりますが、「地球上に比較的ありふれた元素を主体にしている」という点では共通しています。

実際、エネルギー工学では「技術が大規模に普及するためには、希少元素への依存を減らすことが重要」という考え方があります。太陽光発電では銀の削減、AIハードウェアでは銅や希少金属の節約が研究されているのも、その考え方に沿った動きです。

こうして眺めると、「どの元素をどれだけ必要とする技術なのか」という視点は、将来その技術がどこまで普及できるかを考える上で、一つの重要な指標になると言えるでしょう。

本日投稿は、AIに色々と教えてもらいながら、普段から疑問に感じていた事を整理してみた。この間、わずかに小一時間である。

*

まったく別の付けたし。

小生は、民放TVのドラマでも近い将来《生の俳優・女優抜きの100%完全な人工ドラマ》が制作されるものと確信している。人は《フェーク・ドラマ》と呼ぶかもしれないが、"Artificial Drama"あるいは"Artificial Film"という方が同時代的だろう。その兆しは既にもう出てきているから、空想の世界ではない。

AIが創造した人工俳優や人工女優なら、まず人間関係をマネージする雑用から解放される。最近発生したような「ハラスメント問題」に悩まされることもない。そもそも「ロケ弁不要」であるし、飲み会も必要ない。技術的知識を本質的実体としながらヴァーチャルな影像として可視化されるものである「人工俳優」は、仕事を経験すればするほど経験知が上がり続け、豊かな表現力を持つようになる。かつ人間とは違って、齢をとらず、永遠に若く、高齢俳優であっても何十年も活動できる。 

世界のどこかで研究は既に進められていると思うが、日本はまだ問題意識すらないかもしれないネエ・・・と。

近年の日本社会は、伝統と言われるのを嫌いながら歴史には誇りをもち、新しいものを願いながらも新しいものが古いものに置き換わるのは拒否するという、そんな傾向が目立ちますから・・・

2026年7月19日日曜日

断想: 最近の日本は昭和十年代に似ていると言うけれど⋯⋯

近年の日本の世相が過去のいつの時代に似ているかという話題は結構人気があるようだ。特に戦前日本は頻繁に口にされる。

中でも、ここ最近と昭和10年代が似ているというのは聞くことが多い。第2次安倍政権で安全保障が重視されたり、軍事費拡大へ向かう自民党政治をみてのことだろう。

個人的にはちょっと違っていると思う。


ここ20年から30年ほどを《近年の世相》と拡大解釈したうえで過去の似ている時代を探すとすれば、それは《大正デモクラシー》の頃ではないかと思っている。


大正時代はまず最初に「大正政変」から始まったのだが、その大正政変は元老や大政治家の意思決定を《民意》がつぶした初めての事例として記憶されるべき大事件である。

明治が元老と官僚専制の時代と言うなら、大正時代は《明治的なすべての慣行への反発》が駆動した時代である(と勝手に理解している)。その明治への反発は、文学、文化、世相など全てに表れていた(はずだ)。そもそも大正天皇その人が志す世の中は明治天皇が是とした国家とはまったく異なるものであったと聞く。

政治的には、国の統治に民意が反映される仕掛けである《普通選挙運動》が時代のテーマとなり、最終的には大正が終わる大正14年に「普通選挙法」となって実を結んだわけだ。Wikipediaには、

普通選挙法に基づく選挙は1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙から1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)まで計6回行われた。

こう説明されている。つまり、この14年間は普通選挙という形で(女性参政権はなかったにせよ)民意が政治を動かしていたことになる。


何度も投稿したように、戦前日本の普通選挙の歴史は、あい続くスキャンダル合戦の果てに明治以来の政党政治が自己崩壊した歴史でもあった。

不安定化する国際環境の中で、普選の達成と高揚は政党不信、議会不信へと変質し、半ば必然的に軍部と官僚組織へと権力の再集中が進んだ。これが戦前日本が歩んだ道の大雑把な要約である。

大正デモクラシー全盛の頃、天皇は生身の人間と言うより、国家運営の必要から置かれる一つの機能、つまり「国家機関」と理解されていた。いわゆる「天皇機関説」である。その天皇機関説を理論化した憲法学者・美濃部達吉が攻撃のターゲットになり貴族院議員を辞職したのは昭和10年(1935年)である。日本の国の姿を再確認するべきだとする一種の文化運動であった側面もあった(かもしれないが)「国体明徴運動」がその背景になった。

国体明徴運動は、普通選挙法公布の概ね10年後、普通選挙法下の初めての国政選挙である「第16回衆議院議員総選挙」の7年後になる。この7年間の間に、当時の日本人は普通選挙を通した民意の実現というものに、すっかり幻滅してしまっていたのである。

昭和10年から強まったのは、大正デモクラシー以来の民意重視の潮流を逆転させる姿勢で、《保守革命》の言葉を使ってもよい。軍部、特に当時の陸軍が成熟した外交センスをもっておらず、日本の国際的孤立化をまねいてしまったのは、「不運」という結果論が当てはまるかもしれない。


・・・ということなので、最近の日本社会に似ているのは、選挙を通した政権交代への失望が広がった昭和1桁の10年間、もっと遡ると関東大震災で古き良き明治が完全に消滅した大正12年(1923年)以降の12年間であろう(と勝手に思っている)。そして、これから未来にかけて似てくる(かもしれない)のが、保守革命が世を覆い始めた昭和10年代である  ―   低知能の保守反動ではありましたが。そう思われます。

戦前は動きが急であったが、これは第一次大戦後の「戦間期」という時代、国際環境が非常に不安定であったことによる。長寿社会では世間もユックリと変わるのかもしれない。


そんな風に予想しているところです。



2026年7月17日金曜日

ホンの一言: 暮らしより皇位継承が大事ですかネエ⋯⋯

TV放送の七不思議。

今朝も旧宮家の養子の話をしている。

皇室典範改正だ。

悠仁親王の即位までは確定しているのだから、悠仁親王に皇子が誕生すればそれでよし。娘しか生まれず、養子に息子が生まれた時に、また騒動が起きる(かもしれない)話しである。が、今から分かるはずもなし、20年か30年ほど後にでも議論すればイイのではないか?とりあえず「世襲親王家」の血筋が《曲がりなりにも》復活する目処がついたのだから。

そう思いますがネエ・・・


例えは悪いが、年金を持続可能にするために「マクロ経済スライド」を導入し、天皇制を持続可能にするため、600年の間ずっと皇統の傍系として存続して来た「伏見宮系の血筋」にふたたび頼ることにした。今回の措置の主旨はこれに尽きる(と勝手に思っている)。そもそも占領期のGHQの政策がなければ、いまの皇位継承の危機はなかった理屈である。

必要に応じて、これから将来、どんどん養子相続は増えるだろう。角界の年寄名跡ではないが、空席の由緒ある宮家が復活することも、いずれあるだろう。少なくとも皇后が皇子を産むことを迫られる圧力は(たぶん増えるだろう傍系が伴走するだろうから)減るには違いない。

価値云々ではない。主義の問題でもない。要するに、安定化したいのだろう。

但し、《安定化》の手法に岩盤保守的な前例主義が採られた。旧い。それで反発が起こっている。これが現状なのだろう、と。

正に現実としていま社会的対立が生まれていること自体が、戦後天皇制の設計ミスである(としか思えない)が、課題は《天皇制》をどうするかである。そりゃあ保守派の意見がどうしたって通るでしょう、と。そう思います。その時の価値観や権力の所在などなど、天皇制はそうしたファクターに抵抗しながら存続してきたという側面をこそ見るべきだと思う。だから、今回の決定はもう仕方がないと小生は思って観ている。

小泉内閣時の女系天皇容認の機運、その後に続いた秋篠宮妃ご懐妊と親王ご誕生、平成天皇の生前譲位、実質「皇太弟」である秋篠宮殿下の立皇嗣。「世襲親王家」の復活とも解釈される今回の措置。この時系列的な流れに思いを致すべきだと思っている。

日本史の中では時に保守革命が成功することが複数回ある  ―   具体例は細かに述べない。これらの保守革命には例外なく天皇(と朝廷、公家集団)が関係している。更に、日本の対外戦争は天皇が復権している時代において起こった、と。これも小生の歴史観なのである。「だから何?」、というわけではないが⋯⋯


いずれにせよ、今回の措置は日本人の暮らしとは何のつながりもない、どうでもいい話しではあるのだ。

そう思いますがネエ・・・


⋯⋯、何故、食料品の消費税率を話さないのだろう?「食料品には消費税率ゼロ」とするには財源の問題がなるほどある。しかし、イギリスは同じ政策をもう半世紀近くも平気でやっている。他の欧州諸国も食料品の軽減税率は思い切ってバンとやっている。

食料品以外の税率が高いのはその代償である。とはいえ、日本でできないはずはないのだ。しかも望む国民は多い。望んでいる国民の家計に目を向けるのも政治だろう。

経済の話をして消費税率引き下げに向けて世論を形成するのに消極的な理由は、メディア企業自体が消費税率引き下げは筋悪だと考えているからであろう。2年限定なら余計に筋悪だということだろう。かと言って、引き下げに消極的だとTV画面で声高に話すのは世間の反発を受けそうで怖い。

だから、暮らしとは何の関係もない皇室典範の話しをしておく。

どうです?ズバリではない?


話してもほとんど意味のないことを話題にして熱を上げるのもよいが、こんな事なかれ主義のような番組編集には必ず代償がある。

そう思いますがネエ⋯⋯

【加筆修正:2026-07-19】