2026年7月9日木曜日

覚え書: ハラスメント。野球もサッカーも誤審対策で慌ただしいのと同じか。

最近になって俳優の佐藤某と女優の橋本某がフジTVのドラマ撮影中に、なんだかハラスメント問題を起こしていたというので、芸能界隈では相当の騒動になっているよし。

きっかけは「文春砲」。週刊文春はハラスメントされた側の言い分を記事にしたところ、ハラスメントした側が「偏向している」と強硬に反論し、こんどは週刊新潮がこっちの側にインタビューした記事を出している(ようだ)。

正に共食いでありますが、これで販売部数が増えればカネを払うのは一般読者だから、業界全体としては見事な協調戦略であるわけだ  ―   これが意図的であるなら悪どいが。


それにしても、最初は「言葉の問題」であった(そうである)。小生の修行時代なら

きついこと、言われちゃったよ⋯⋯

友人にこぼして、慰められて、それまで。後で考えれば、きつい言葉の意味に気がついて、どうすればイイかを理解することもあった。

ハラスメント加害者を処罰し、ハラスメント被害を抑止するのは「善い社会」を築くための当然の努力であると思うが、ハラスメント認定を正確にしないと、今度はコミュニケーション障害を招き、こちらの損失が上回るかもしれない。

実質のない暴言は純粋のハラスメントだが、道理もロジックもある厳しい言葉を受けとれないのは聞いた側の理解力の問題で、言った側の問題であるとは言い難い⋯⋯と思う価値観に小生は立つ。この辺、言った側の意図、聞いた側の感情、両方の間に線を引いて判定するのは難しい。


とはいえ、そもそも

どんな犠牲を払ってでも守るべき価値などこの世には存在しない。たとえば、人類の生存を上回る価値がありますか?ないでしょう。しかし、これすらも地球を破壊してでも守る必要はない。

こう思っている。なので(という接続詞でいいかどうか分からないが)、この世界では《真実》こそ最も尊重されるべきだと思っている、甚だ抽象的ですが。真実を「誠意」、あるいは「自己を飾る嘘のない真心」と解してもよいかもしれない。


野球でもサッカーでも、審判の判定能力が試合を円滑にもし、壊しもする。

ハラスメントの認定は日本では法律専門家の弁護士が担当することが多いようだが、弁護士もピンキリである。それに弁護士はクライアントの利益を代理するもので裁判官ではない。審判ではないのである。その審判もストライク・ボールの判定を間違えてばかりいる三流がいる。弁護士にも三流がいる。ハラスメント認定の現実は「お寒いものだ」と思って見ている。

ハラスメントを基本的に考察して、最適な法制度にするには、どんな基本法があればよいのか?基本が定まっていないから、安定しないのだ。そう思いますがネエ。この辺、以前にも投稿した。


2026年7月8日水曜日

ホンの一言: リニアの大阪延伸? 名古屋で十分なはずでは?

ずっと止まっていたリニア新幹線・静岡工区にも着工の目途がついて、いよいよ10年程先には東京‐名古屋間が40分程で結ばれる見通しになった(そうだ)。

ずっと昔、取手市に住まいしていた頃、霞が関の職場に行くのに片道1時間40分を要していた。リニアなら東京・名古屋を往復できる時間である。

月並みな言い方なら《今昔の感》ということになるのか。


ただ、今朝のワイドショーを視ていると、

仕事で行くのは大阪ですし、名古屋で乗り換えることはしないと思います。

そんな感じで、リニアの大阪延伸が今から早くて30年位ではないかという予想に、出演者の人たち、笑っておりました。

思うのだが、

大阪の拠点機能をソックリ名古屋に移せばイイのでは?

実に簡単な解決策でありましょう。

この発想、誰も口にしないのは不思議で仕方がない。


そもそも中京経済圏は現時点では近畿経済圏の半分ほどのスケールであるが、モノづくり産業の拠点であり、サービス経済化はこれからである。背後の信州までを含めると、人口、土地に広々とした余裕がある。信州は既に精密産業の一大拠点でもある。津波被害にもロバスト(=頑健)である。インフラ基盤は十分に厚い。成長ポテンシャルは中部経済圏の方が遥かに上であると観ている。

今になって《大阪副首都》などに振り回されるのは理に反する。

というより、経済的ロジックに沿って物事は自然に推移していくはずである。自然に進む都市形成をサポートする発想で資金を投入していけばよい。

関西経済圏は、地勢上、一定の繁栄は約束されている。しかし、名古屋の地理的利点を引き出さない法はない。生煮えの理屈で人為的なプランに執着するのは愚の骨頂である。

2026年7月5日日曜日

覚書き: 天皇の「男系男子継承」は明治政府が始めた非合理な方式なのだろうか?

カミさんに付き合って今朝の「サンデー・モーニング」を視たが、そこでも高市内閣の《男系男子による皇位継承》に疑念が呈されていた。民意ではないというのだ、ナ。

男系にこだわらないなら女系継承も認めることになる。天皇の娘の息子/娘が天皇になれば女系継承になるわけだ。この可能性に保守派が反対している、と。保守派は大半の国民の声に耳を傾けない。怪しからん、と。「男系男子による継承」は明治維新後に政府が押し付けた乱暴な方式にすぎないというのだ、ナ。男女平等をうたった日本国憲法の精神にも反するというわけだ。

「乱暴な方式」というと、鎌倉時代に幕府が朝廷に押しつけた「両統迭立」を思い出したりするのだが、明治以降の「万世一系・男系男子」も政府が強制した非合理な方式であるのだろうか?


マア、正直なところ、天皇や皇位継承など生活にはほとんど何の関係もない。誰が天皇になろうとかまわないのではないか?そう思いもするのだが、どうやら番組制作側は視聴者に受けると思っているらしい。本当にそうなのか、実に疑わしいのであるが、今日もそんな話がテレビ画面で語られているのだから仕方がない。


ただ、出演者の話しを聴いていて疑問に思った点が一つある。

日本は天照大神という女神から始まった国で元々は女帝なのですから・・・

と語る御仁がいたのだが、21世紀の日本の問題を論じるのに、よくまあ神話にまで遡りましたな、と。そう思って面白うございました。

それに天照大神は日本の始まりではなく、その前にイザナギとイザナミの夫婦神がいる。この二神が日本を創ったと『古事記』には書いている。天照大神はこの二神の娘である。神話に遡るなら『古事記』でござんしょう。

とはいえ、三種の神器を授けられて天孫降臨したニニギノミコトは天照大神の孫であるから、皇室の元祖は(神話のとおりなら)そもそも女系である。

つまり、日本人は本質的に女系継承を拒絶しているわけではない  ―   あくまで神話であるが。

それはさておき、《男系継承》を支持する側にも相応の根拠はあると小生は思う。

というのは、(小生は日本史の専門家ではないので雑駁な知識しかないのだが)、史料で確認できる歴史のほぼゝ全体を通して、天皇は男系の直系男子、理想型としては(息子がいれば)父から息子の形で継承されてきた。これは否定できないはずである。女性天皇が複数人いることは事実だが、それは男系皇子がまだ幼いなどの理由で一時的な「つなぎ役」として践祚したとも言える  ―   とはいえ、つなぎ役のはずの持統天皇が強いカリスマ性を発揮したのも事実であったはずだ。この辺り、先日投稿したとおり。

要するに、男系を選ぶ皇位継承は何も明治政府が始めたわけではない。(そうする理由や目的はともかくとして)男系による皇位継承は事実として続けられてきた。こう言っても間違いではない(はずだ)。


次に、直系が絶えたときの皇位継承をどうしたかである。小生は浅学のため、二例しか思いつかない。一つは(先日の投稿でも触れたが)壬申の乱後に100年ほど続いた天武系による継承から天智系に皇統が移った光仁天皇。それに江戸時代後期になるが光格天皇である。


最初の光仁天皇だが、天武天皇以来の女系の男子皇族が何人もいたにもかかわらず、男系男子が途絶えたことを理由に、100年間にわたって傍系であった天智天皇系の白壁王が光仁天皇として即位したのである。光仁天皇。平安京に遷都した桓武天皇の父である。この事は、8世紀末という時点で、男系による皇位継承を続けようとする意識を皇室が有していた証明になるのではないかと思うが違うのだろうか?少なくとも、男系継承は明治政府による勝手な押しつけであるという批判は誤りであろう。

次の光格天皇だが、1780年から1817年まで(あの時代にしては)長期にわたって在位したことから(前後の天皇に比べて)強い発言力を有して幕府を悩ませた天皇である。この光格天皇以後、今上陛下までは直系である。しかし、光格天皇はご先祖の東山天皇が亡くなってから60年程がたった傍系の皇子であり、親王にはなれず、皇族である「師仁王」として処遇されていた人物であった。ところが、直系の男系男子が途絶えたことから、閑院宮の息子である師仁王に白羽の矢が立った。これも男系による継承が選ばれた一例になると思う。

詳しいことは日本史の専門家が研究し尽くしているはずである。

いずれにしても、直系が絶えたとき、血筋の近い女系男子/娘ではなく、敢えて血筋は遠くとも男系男子を選ぶという意識は、(少し?)歴史を遡れば確かに皇室内部にあったと確認できる。なぜ男系を選ぶのか理由や目的は小生の知るところではないが、事実を解釈しようとすれば、そう思わざるを得ない。


少なくとも、男系男子による皇位継承は、明治政府が独断で定めた非合理な方式であり、それは日本の伝統でも何でもないという指摘は、正しくないと思う。むしろ、それがよいという積極的意識で、皇室(及び宮中貴族層も含めて?)が選んできた方法であった⋯⋯

小生の目にはそう見えますがネエ。

2026年7月4日土曜日

覚書き: 「コンプライアンス」がもたらす社会の「自己疎外」について

小生は経済学部からビジネススクールへ横方向へ移籍した口である。移籍当初は経済学の感性と経営学の感性と、学問分野の違いばかりではなく、授業を教えている教員たちの感性までもが何故これほど違うのか、と。しばらくの間は、まるで文化大革命の渦中に投げ込まれたような違和感に満ちた毎日を過ごしたものである。

しかし、今になって振り返ってみると、ビジネススクールで仕事をしたおかげで、データ解析を担当した小生の問題意識も大いに啓発され、新しい方向へ研究を始めることが出来たのだから、結果的には良かったと思っている。

21世紀に入って何年か経った頃だったろうか、外部評価で評価委員が来学したことがあった。その最後に指摘された課題として

カリキュラムに「企業倫理」に関連した科目が含まれていない

そんな助言、というか要請があったことをまだ覚えているのだ、ナ。

経済学から入った小生にとって、企業は法人であり、倫理意識など持てようはずはないわけであったので

何をチバケタことを・・・

と呆れる思いがしたことをまだ覚えている  ―   「チバケタ」と書いたのは、その時の感想をそのままに書いているもので、岡山県に勤務したことがあった名残である。

つまり、「企業倫理」などと言う概念が存在する余地はなく、あるとすれば「経営者倫理」だけである。そんな理屈であった。

その後、長い時間が経ってみると「企業倫理」なり「ビジネス倫理」という言葉は、日本社会でも何だかそれなりに定着した感じで、要するに

儲かるなら何をしてもイイわけではない。

これを言いたいのであろうと、大体は察しがつくようになった。何をしてもいいわけではない、つまりそこには「規制」がある。法的な規制があるし、法的には合法でも倫理上の規制があるはずだ。いわゆる《コンプライアンス》という言葉がここから派生してきた。

自由契約の精神はコンプライアンスという新たな外来語で羽交い締めされる社会状況になって来た。

最近なにかというと「葵のご紋」のように振りかざす人が増えた「コンプライアンス」、最初は企業倫理の方面から、だんだんと拡大、流布していったということか?

こんな「事ども」を思い出すことがあったので、試しにChatGPTの見解を聴いてみることにしたので下に引用して覚書としたい。

質問したのは先ず以下の質問だ。

コンプライアンスという言葉は20年程以前には使われていなかった記憶があるのですが、最近のように強調されるようになった具体的な契機や発端があったのでしょうか?

 回答は思った通りだった:

「コンプライアンス(compliance)」という言葉自体は以前から英語にはありましたが、日本で現在のように「企業経営の最重要課題」の一つとして盛んに使われるようになったのは、1990年代後半から2000年代初頭です。その背景には、いくつかの大きな出来事が重なっています。

1. バブル崩壊後の企業不祥事の続発

2. アメリカ企業統治の影響

3. 日本版SOX法(=サーベンス・オクスリー法)の制定 

4. 「法令遵守」から「企業倫理」へ

 「サーベンス・オクスリー法」の登場で、企業の内部統制と法令遵守を厳しく求める世の流れが確定した。

その法令遵守が次第に拡大解釈され、「適法か違法か?」という法律論から、いまは「適切か不適切か?」というグレーゾーンにまでコンプライアンスという言葉が使われるようになった。大雑把に整理するとそういうことのようだ。

そして今では

  • コンプライアンス委員会
  • コンプライアンス室
  • コンプライアンス研修

ちょっとした企業なら上のようなセクションなりコースが開設されているはずだ。

何かのトラブルがあれば、何かの原因がある、というより「あらねばならない」。その原因は、仮に法律違反でなくとも、(何らかの意味で)不適切である。どんな意味で不適切なのか?それは法律なり、法律がなければガイドラインなり、内規なり、探せば必ず見つかる(はずだ)。なければ新たに文章化して不適切にすればよい。つまり現実にトラブルが発生しているなら、関係者の言動に何かノン・コンプライアントな要素があったからである。そういう事にしよう。

トラブル ⇔ ノン・コンプライアンス

これが現代経営を支配する黄金律なのだろうと観ている。

まるで仏教である。仏教では全ての事象は過去の業が因となり何かの縁で触発されることで生起する。いわゆる「縁起」なのであるが、典型的な因果論にあたる。実際、仏道では「四苦」を「生・病・老・死」としているが、死の苦しみの原因は、即ち生まれたことそのものである。人生とは苦である。ここから全ての議論が出発する。(宗教としては)間違っている議論ではない。しかし、宇宙観を実務のマネジメント方針にするのは間違いだ。

問題解決には因果分析がなるほど必要だ。悪因悪果、善因善果。不適切な原因を排除すれば望ましい結果が得られる。とはいえ、これで安心するなら、まるで因果応報論の焼き直しである。

この極めてシンプルな論理に自らが苦しめられているのが当の我々ではないかナアと感じているのは小生だけだろうか?

生産現場、活動現場は因果律では動いていないのだ。人間は因果論ではなく、目的論に立って観察されるべき存在である。

〇〇したからこうなった。ではなく、〇〇したいから、こうする。

人間社会は目的合理性に沿って出来ている。活動には目的がある。これを理解できない人はいないはずだ。トラブルは排除するべき不適切では決してない。目的を追求する中では、何らかのトラブルはほぼ必然的に発生するものである。トラブルの根本的原因は、過去の時点にあるのではなく、目的を定めたこと自体にある。もし目的が絶対のものであるなら、付随するトラブルは半ば必然的。解決するべき問題として認識されるのである。

トラブルは改善への一里塚

それが人間行動である。こんな言動をしたことが重要なのではなく、何をしようとしてその言動をしたのか?意図と動機が人間行動の本質である。

外観だけに着目して、一挙手一投足一語句に是非の判定を下したがるのは、人間社会を《ゲーム》と錯覚している御仁の通弊である。この種の人物の増加と横行を止められない所が、現代民主主義社会に蔓延する文明病の主たる症状だと観ているところだ。


モノづくりを経験知として知っていた世代なら、不適切な原因がありトラブルが発生したという順とは反対方向からも考えられるはずだ。そもそも何が不適切かという判定は目的設定に依存して変わるものである。

モノ作りではなくて、サービス、つまりは「おもてなし」をコアとする現代日本の活動現場では、トラブル自体が単なる不祥事になってしまったようだ。

「改善への一里塚」から「単なる不祥事」へ

「失敗は成功の母」であるのに何という転落ぶりだろうか?しかし、アスリートでもない、クリエーターでもない、アーティストでもサイエンティストでも何でもない、いわゆるスキルとは無縁の人たちが活動する現場においては、トラブルは未熟からの成長の一過程とは認識されず、単なる無能としか観られない。成長するべき何物もない以上、トラブルは取り除くべき不適切な因子の存在を示唆するのである。

マルクスは「労働力の商品化」をもって「人間の自己疎外」と理解したが、「コンプライアンス」という言葉に支配される現代日本社会の「働く場所」に蔓延しているのは、文字通りの

働く人たちの自己疎外

である。浸食されているのは、被雇用者だけではなく、自らが造った言葉と観念に逆に支配されている経営者も同じである。

コンプライアンスとは元来は「法の尊重」を指す言葉だった。それが「不適切の排除」という意味に拡大してきたのが、この10年程の間の現代世間史と言えるだろう。この辺にも言及しているから、ChatGPTの回答は平均以上の出来栄えを示している。

興味深いのは、コンプライアンスの意味が変化していることです。

もともとは

法律を守ること(法令遵守)

という意味でした。

しかし現在では、それだけでは不十分と考えられ、

  • 社内規程を守る
  • 倫理規範を守る
  • 利益相反を避ける
  • ハラスメントを防止する
  • ESGや人権に配慮する

といった広い意味で使われています。

《トラブル、即ち不適切》という思い込みは、創造とモノづくりの現場を忘れた現代日本の精神的退廃であろう。正に、自らが造った言葉が自らを苦しめる自己疎外の典型的なケースであるというのが、小生の現代世相観である。

次いで、以下の質問をした。

個人的には、潜在的エネルギーが社会的な活力になるように法制度は柔軟に修正していくものだと考えています。現時点の法制度を所与として、法を順守する点を重視しすぎると、むしろ閉塞的な社会状況になると思いますが、あなたはどう思いますか?

あまり良い質問の仕方ではない。これでは答えを誘導している。

案の定

例えば歴史を振り返ると、

  1. 明治維新では封建的な身分制度や営業規制が大きく改められ、経済活動の自由が広がりました。
  2. 戦後の農地改革や独占禁止政策も、既存制度を大胆に変更することで社会の活力を引き出そうとした例です。
  3. 近年でも、デジタル技術やAIに対応するため、新しい事業を可能にする「サンドボックス制度」のように、既存規制を一時的に緩和して実証実験を認める仕組みが導入されています。

つまり、法制度は固定的なものではなく、社会の変化に応じて改正されるべきものだという考え方は、法学や経済学でも広く認められています。

小生が欲しいと思う回答が返ってきた。この回答自体に誤りはなく、正にその通りなのであるが、

社会進歩のためには、苦しむ人は犠牲になるべきだと考えるのですか?

必ずこんな反問に答えなければならない。注射は、同じ人が痛い思いをして、同時に治療効果の受け手になる。利得と損失の差し引き計算は可能だ。他方、社会が進歩するときには、ある人が大きな利益を得て、別の人がそれより小さい損失を蒙る。そんな時、損失を蒙る人は社会の為に犠牲になれというのですか?これでは、神風特攻隊を送り出した軍国日本の日本人と同じ精神ではないか?

この問題意識こそが議論の核心なのである。

次のように回答から逃げているのはAIなるものの賢いところだと思っている。

私が興味深いと感じるのは、ご指摘が**「コンプライアンス文化」への批判**にもつながっている点です。

近年のコンプライアンスは、単なる法令遵守を超えて「少しでも社会的批判を受けそうなことは避ける」というリスク回避の文化にまで広がることがあります。その結果、

  • 新規事業への挑戦をためらう
  • 前例主義が強まる
  • 失敗を極端に恐れる
  • 形式的なチェックや書類作成が増える

といった副作用が指摘されています。これは本来の「法令遵守」とは少し異なる現象で、むしろ過剰なリスク回避の問題と言えるでしょう。

コンプライアンス重視が、改革の痛みからの逃避になれば、その企業、その国は衰退するしかない理屈である。

要するに、コンプライアンスを「臭いものに蓋をする経営姿勢」の言い訳にしてはダメだということだ。が、現状は

コンプライアンス重視 = ことなかれ主義

コンプライアンス重視 = 護送船団方式

に堕している。1990年代のバブル崩壊の修羅場の経験を通して、これではダメだと日本人が学習した教訓を、そろそろ忘れ始めているのだろう。

日本社会は、一度は否定できた旧習を新しい言葉で飾りつけ又もや同じ事なかれ主義に戻りつつあるように観える。

とはいえ、こういう事こそ小生が最初から言いたい事であった。言いたい事を先に書いてくれるのは有り難いが、求めていたのはこれをロジックとして整理することであった。

数学の入試問題すら解けるAIだが、社会を肉切り包丁のように解体して、社会問題のロジックを自由自在に再構成してくれるという所までは行かない様だ。

 

 

 


2026年6月30日火曜日

ホンの一言: 日本政治もアメリカ政治も猿山になったか

刑事訴訟法改正や皇室典範改正だけでもどうなるか分からないのに、衆議員定数削減、それも小選挙区には手をつけず比例区だけを45人(?)も削減するという乱暴な法案の審議を始めるというのだから、国会が大荒れになるのは当たり前である。そんな雰囲気の中、自民党の重鎮議員が愛子天皇はありえないと、結婚相手が見つからないだろうと、講演か会見か、公の場で言ったから世間はよけいに荒れてきた。

これが「戦略的失言」であるなら、目的は何だろうか?

ちょっと思い浮かばない。単なる失言だろう。

先日、トランプ政権は「サル山」のようなレベルだと、経済学者のDeLong先生の評を引用したばかりだ。

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

日本の高市極右政権も同じ様なものか?

上の英文の最後に次の一文を追加したいというのが小生の感想だ:

As for Japan, too, the view that the administration is like a "chaos monkey" remains the same, though ....

日本に関しても、現政権が「猿山のサル」のような存在だという見方は変わっていませんが……。 

 但しこちらは、関税、移民取締り、ベネズエラ大統領拉致、対イラン戦闘開始と何でもありのト大統領とはちがって、いまだに宣伝とアピールだけ、成果はチマチマしたものばかり。やったのは奇襲のような衆議員解散だけである。

共通しているのは《奇襲》が好きなサルだという一点だけか ⋯⋯

2026年6月29日月曜日

ホンの一言: アメリカの対キューバ経済制裁は確かに悲惨ではあるが

愛読しているKrugman先生の投稿は、最近毎日のように、いかにトランプ政権が無能であるか、いかにトランプ大統領が悪質であるか等々、経済というより政治的な非難が多いので、その種の批判はちょっと丁寧に読むのは止めている。

そのト政権が経済制裁中のキューバ。やり方が惨いのでどうしてもト政権批判へと議論は流れがちだが、DeLong先生は意外と冷静な目でとらえている。

引用しておこう:

My view is that, had Cuba remained a normal country rather than becoming the patrimonial-authoritarian really-existing socialist caudillismist Castroite state that it did, the likely counterfactual is that nearly everyone would have been much better off. People would have been better off even with respect to infant mortality. In brief, Cuba today would probably look a lot like Costa Rica today, with 9 infant-mortality deaths per thousand live births. The Revolution and the Castroite régime has been a 2.5-generation disaster for Cuba, and the ability of the medical system to punch well above its economic weight in infant mortality is 100% offset by the régime’s system that makes its economic weight so low.

私の見解では、もしキューバが、家産制的かつ権威主義的で、現実の社会主義体制下におけるカウディージョ(独裁的指導者)支配の「カストロ体制国家」へと変貌するのではなく、ごく普通の国であり続けていたとしたら、ほぼすべての国民にとって状況ははるかに良好なものになっていたはずです。乳幼児死亡率の面でも、人々は今より良い状況にあったでしょう。端的に言えば、今日のキューバは、出生1,000人あたりの乳幼児死亡数が9人であるコスタリカとよく似た姿になっていた可能性が高いのです。革命とカストロ体制はキューバにとって2世代半にわたる災厄であり、乳幼児死亡率に関して経済規模に見合わないほどの高い成果を上げている医療システムの能力も、経済規模をこれほどまでに低く抑え込んでいる体制の仕組みによって、完全に相殺されてしまっているのです。

Source:  substack.com

URL:  https://braddelong.substack.com/p/no-castros-cuba-was-not-a-successful

このところ、日本でも《社会主義待望論》があるようで、アメリカでも何だか"Socialism"に関心をもつ若者が増えているそうだ  ―   さすがに"Communism"(=共産主義)は私有財産の完全否定につながるのでアメリカ人の感性には受け入れられない様子だが。

キューバのカストロ政権は、乳幼児死亡率やその他の医療面での福祉では(驚くほどの)ハイレベルな結果を残してきたものの、肝心の生活水準全体はといえば「停滞ぶりは酷いものだ」というのは、「社会主義経済」なるものを観察するときの最大公約数になっている。旧ソ連もそうであったし、西ドイツに対する東ドイツ、西欧に対する東欧と、どんな比較をしても同じ結果である。

社会主義は、一時的、短期的には良い結果を残すのだが、長期的に停滞に陥り、その停滞を解決するためのシステム改革ができないという袋小路に囚われてしまうのだ。中国共産党がいわば《不真面目な社会主義》へと舵を切ったのは、漢民族の現実感覚がなし得たファインプレーだと思っている。仏教はインドでは途絶えたが、中国では形を変えて残った。どこか相通ずるものがあるとも思っている。最近ではまた「社会主義原理主義」の志向をもつ政権トップが君臨しているためか、難問山積の状況だが、この辺の分析は社会主義的要素と自由主義的要素との絡み合い、更には中央指令的な共産党中央という要素があって、分析は一筋縄ではいかない。

いずれにせよ、社会主義は現在の体制とは違うので、何だか「いいね!」とか、あれも「よさそうだネ」とか、幼稚な感覚を超えた真っ当な議論の深まりが日本でも進んでいってほしいと思う。

2026年6月27日土曜日

覚書き: 聴いただけでは分からない事も多い。当たり前だが・・・

先日は最近の「千遍念仏」についてメモを書いておいた。

大体、あんな様なことなのだが、補足したい点が出てきた。

というのは、五百遍では所作だけということなのだろうか、千遍になって初めてピンと体感できるようになった、ということだ。

時間的にも五百遍念仏は15分ほどで終わるが、千遍念仏になると30分かかる。呼吸を深くして称え続けるので、終わると結構疲れる、体力もそれなりに要るのがよく分かる。

何がピンと来るかといえば、阿弥陀仏という宗教的観念が心の中に定着するという感じ、というか言葉では正確に表現できないが、マア、そういう事である。

例えば、数学の無限集合は観察できる世界で可視化はできない。無限に大きな物体や無限に微小な物体は経験的に確認不可能なのである。

しかし、無限集合が実在していることは論理でもって確かめられる。最も簡単な例が「自然数全体」という集合だ。最大の自然数がないことは、仮に$A$という自然数が最大であるとしても、それより大きい$A+1$もまた自然数であるので$A$は最大値ではない。つまり自然数全体は無限集合である。

自然数のそれぞれに2を掛ければ異なった偶数が対応する。逆に、任意の偶数を2で割れば異なった自然数が対応する。だから自然数全体と偶数全体は1対1に対応づけられ、故に自然数全体と偶数全体は同じ個数だけある・・・というのは、集合論の序盤で誰もが「エッ!」と驚くところだ。

大乗仏典では数多いことを恒河沙ごうがしゃと言ったり、あるいは無限に長い時間のことを阿僧祇劫あそうぎこうと言って、経文の中に何度も登場するのであるが、前者の恒河沙、つまりガンジス河の砂の数も有限である。無限大はどんな数よりも大きいものと定義するのだから、それ自体、もはや数ではない(とも言える)。自然数全体の個数と偶数全体の個数が同じであるなどという常識とは異なる結論が出て来るのも、無限を考えているためである。

数学の偉大な(?)ところは、常識や感覚には反する結論が得られるとしても、論理的に一貫している以上、最初に定義した抽象概念は実在すると考えて議論を進められる点にある。虚数を含んだ複素空間も別の例である。量子力学の基本になっているシュレーディンガー方程式は時間と空間に対応して複素数値をとる関数を想定している ― 小生は専門外なもので、これまでシュレーディンガー方程式は複素空間で定義された複素関数だと思い込んでいて、となると偏微分方程式がある以上は正則関数になるのではないかと、ChatGPTに愚問を発したところ、「それは誤解です」と思い違いを指摘されたのだ。ごく最近、実数のみでシュレーディンガー方程式を表現できるという研究結果が出たと何かで読んだが、しかし実数で書き直した方程式が余りにゴタゴタした形になっているのなら、自然の真理はやはり複素数で表現するべきなのではないかとも素人考えをしたりしているところだ。

それはともかく、阿弥陀仏という宗教的観念もこれに類した観念だと思う。というのは、実際に千遍念仏をしていると、阿弥陀仏の実在性が心の中に刻み込まれ定着する感覚を確かに覚えるからである。それは、数学や自然科学の「理解」とはやや異なり、論理や実験データとは別の「感得」、「体感」という分かり方に近い・・・としか言いようがない。

しかしながら、

実際にやってみれば分かる
という事は確かに世の中にはある。

最近、叱るなら言葉で叱ればいいのです、と。こんな言説が目立つのであるが、音楽や美術の修行をしている人たちに言わせれば、

聴いて分かるなら苦労はしませんよ
そう言うにきまっている。運動系の人たちももちろんそうだろう。言葉で聴くだけでは分からないことは多いのだ。

数学を勉強している時もそうである。講義を聴いて、教科書を読んで、それで「分かりました!」とはならない。やはり自分の頭と手で書いてみないと、使い物にはならず、習得したとはならないのである。仏道の《行》もそうで、浄土系宗派の念仏も《行》である(と思う)。称名念仏よりは《信》、つまり阿弥陀如来の本願を信じることが何より大事なのだという親鸞的な思想もあるが、小生の感覚では「分かりました」と信じるだけでは、本当に分かって信じたことにはならないと思う。

やはり他力本願とはいえ、それを身につけるには《行》、つまり《修行》がいる。体感しなければならない。そう思う次第。覚書まで。

2026年6月24日水曜日

覚え書: 権力という刀を抜くときの心構えという話になるか

話題としては旭川ローカルな事件だったが、同市で起きた女子高生殺人事件は結構な全国ニュースであったらしく、今週前半は主犯に懲役27年と言う「意外に軽い判決?」が出たというので、又々、喧々諤々の論議になった。

大変だろうなあ、と。判決を出す側の判事(それから裁判員)も求刑をした検事も、その気になればどんな重罰も申し渡せる立場にいる。いわば公権力という誰も抵抗できない《刀》を抜いて人を裁くという仕事をしているわけだ。

小生はずっと昔に小役人をやっていたが、とてもじゃないが、他人の人生を己が裁量で決めるという仕事を選ぼうとは思わない。

とはいえ、学生の人生を決めたり、裁いたりして来たではないかと言われれば、その通りであって、その時々にした自らの裁量をいまこの時点で非難されるとしたら釈明はしない。

落花不語空辭樹

流水無情自入池

落花ものいわずして、空しく樹を辞し、

流水こころのうして自ずから池に入る。

白楽天の『過元家履信宅』にある一句であるが、高校在籍時に使っていた漢文の参考書で見つけて以来、小生はこの心境を好んできた。

流水無心

道理無我

これが、大勢の人間と触れ合いながら仕事をせざるを得なかった役人時代に心を支えていた《座右の銘》、それも自作の標語であった。


母方の祖父は職業裁判官であったが、晩年になって

法廷で 死刑を宣し 勲〇等

という川柳を作ったそうだ。

裁判官は己の心象によって判決を下す権限、つまり自由心象主義が憲法で認められている。が、当の判事も刑を求める検事も「自分の(文字通りの)意志と裁量で被告人に死刑を宣するのだ」と、自分自身でそう認識すれば、行為としてそれは殺人にあたる、と。この理屈に抵抗できない自分を認めるはずである。

いくら給料を貰っても良心があればそんな職務に耐えられるはずはない。

求刑や判決は《法の道理》を映すもので《我》はない。道理無我。諸法無我。悪の源は常に自我である。

いくら世間で《悪人》と呼ばれていようが、意のままに人を刑務所に送ったり、命を奪ったりできるはずはない。我意によって人を害すれば、その行為はそれ自体として悪に決まっている。


わけもなく被害者となり、気がつけば加害者となる。二つの岐路も生き死にも業と縁で決まる。この世、つまり娑婆とはそんな世界である。

猿を聞く人捨て子に秋の風いかに

 遠くで猿の悲しげな鳴き声を聴いて哀れに思う人も、今まさに秋風にさらされて泣いているこの捨て子を見たら、どれほど心を痛めることだろうか

松尾芭蕉は、道中で見かけた3歳ほどの捨て子に対し、

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。

お前の父がお前を憎んでいるのではあるまい。お前の母がお前を可愛くないと思っているのでもあるまい。これは天命である。自分の運命を恨みなさい

こう語りかけ、自らは袂(たもと)から食べ物を与えて通り過ぎたと『野ざらし紀行』で記している。

日本文化の人生観と現代世界の人生観とは根本的に違うが、どちらが人の幸福につながる宇宙観かと問われれば、にわかに分からない自分がいる。そもそも芭蕉が生きた江戸時代と現代とで日本の世の中は本質的に善くなったのだろうか?・・・疑問であります。

少し、と言うよりかなり昔にはなるが、人は前世は変えられないが、来世は善くしたいと願って、今生の生き方を決めようと思う人がこの国には多かった。こんな問題に法律は無縁である。法律が扱うのはもっと俗な問題である。かといって、科学で解明される問題でもない。法は幸福のためにあるのではないし、科学が物質世界の真理を示すとしても人が幸福になるわけでもない。紛争が収まればよい。争いを未然に防げればよい。法はそのためにある。

こう考えるしかないのじゃ御座ンせんか?


司法官に与えられた職務は、法の道理に寄り添うことであり、被害者遺族に寄り添うことではない。その意味では、その職は非人間的で非人情の境地にある。



・・・別の話になるが、上の事件の被告人であった女性。幼少の頃から陽気で、人を仕切れるだけの才質があったということだ。ところが仕事についてもうまく行かず、反社組織の人物と交際するようになってから悪の道に入ったよし。


いま親の躾を非難する声が世間にはあるという。

まあ、世間とはそんなモノだ。無責任ぶりには呆れると言うしかあるまい。

実際には、親が子に体罰を課して折檻すれば暴行となる。子の嫌がる説教をすればハラスメントとなる。《コンプライアンス》はこんな状況を国民に強制するのである。

この10年程の世相の下では、悪の道に入りかけた子を親が激しく叱責して、真っ当な道に引き戻す努力をするとしても、もはやそれは非難の対象であり、決して称賛されることではなくなった。色々な問題で苦しむ家族に世間は寄り添わないのが現実だ。


思うに、成人前後の被告人は、浅はかな「非暴力主義」が蔓延る現代日本が(逆説的に)生み出したものであり、その意味では社会的産物である(と思っている)。

それでなくとも、日本文化は様式美を重んじるという特徴がある(と思っている)。現代日本人も美に対しては繊細な感覚をもつ(と思っている)。しかし、そうした特徴は反面で外観、形式に偏るルッキズムに堕しやすい。

外観をみて本質には目を向けない風潮になりやすい。外面を気にして本質を考えないという無思慮につながりやすい。現代日本社会の「体罰=暴行」という潔癖な非暴力主義は、無思慮の典型だと思って観ている。「被告人を死刑にしろ」と法廷内で騒いだ暴漢の声と「体罰は厳禁です」という世間の声と、両方とも同じ現代日本の世間の声である。もはや現代日本の世間に真っ当な思考を期待しても無理である。


社会理念の欠陥は、特に10代から20代にかけての、いわば「大人になりかけの世代」の行動様式にしわ寄せされて現れるものだ。

刑の軽重などを論議するよりは、社会的価値観のバランスが失われている点に目を向けるのが先決だと思うがいかに?

放っておけば、今後も別の形で理念的な偏り(とその反作用)が現象化するものと予想する。太平洋戦争中、「八紘一宇」などと夢のような法螺のような国家目標を日本人は(何も考えずに?)是としていた。(おかしいとどこかで感じながら?)神風特攻隊を賛美する日常行動もそこから発していた(と思う)。それと同じ時代相をみている感じがする。

日本国では国家目標も社会運動もイデオロギーも、初めはしばらくリベラルで最先端だが、やがて外見だけの張りぼてに化し、最後には「雨に破れかけた街かどのポスター」のような昔語りの対象に風化してしまう事が多い。どうせ風化するなら、速やかに風化させる方が、リアルな社会進歩につながるというものだ。この点では、下部構造が上部構造を決めるというマルクスの社会観に賛成する自分がいる。

 

2026年6月20日土曜日

ホンの一言: 米イ=イラン戦争? 60日間停戦? 大丈夫?との声の一例

アメリカ=イスラエル枢軸とイランとの戦闘行為は、ようやくのこと、「60日間停戦」に入った(ようだ)。

ただ、経済学者・Brad DeLong博士はsubstack.comに投稿した記事をこう結んでいる。

The chances that the next use of nuclear weapons will happen in the Middle East and will happen in the next 50 years keep rising. And Donald Trump’s inability not just to get ducks in a row, but to understand what a duck even is, is not helping.

中東で次の核兵器使用が起こる可能性、そしてそれが今後50年以内に起こる可能性は高まるばかりだ。ドナルド・トランプは、(ガア、ガアとうるさい)アヒル達をちゃんと並ばせる(=物事をきちんと整理する)ことが出来ないし、そもそもアヒル(≒ 問題)が何なのかすら理解できていないのは、どうしようもない。

まったく散々な評価であります。

トランプ政権を「猿山」になぞらえているDeLong博士から見れば

猿に出来るのか?

と思うのは無理からぬことでありましょう。


2026年6月18日木曜日

覚書き: 念仏修行の現在地点

 一昨年の2024年10月に寺で五重相伝をうけたとき毎日三百遍の称名念仏を誓った。それから1年半が経ったが、最近は毎朝6時に始め千遍の念仏を称えられるようになった。今年初めはまだ毎朝三百ないし五百遍であったが、何かの拍子で吐く息が尽きるまで十念で止めずずっと念仏を続ける仕方を「発見」した。それがヒントになり、今では腹式呼吸で息を吸ったあと、吐く息が尽きるまで南無阿弥陀仏を称える。そうすると一息で二十遍を称えられることに偶然気がついたのだ。

このやり方がいいのか悪いのか分からない。ただ、このやり方が効果的であったのか、集中心が途切れることなく、30分で1000遍、というより数珠の1コマごとに20遍。1周が27コマ、これを3周するから$20 \times 27 \times 3 \,=\, 1620$、いまの自分には十分な気がする。実際には、1息で20遍にはならない時もあり、3周目は1コマ10遍にすることも多いので、この場合は$18 \times 27 \times 2 + 10 \times 27 \,=\, 1242$になって概ね1000遍になる。

時間的にも線香が一本燃え尽きるまでになるから丁度よい。

法然は一念と多念に意義の違いはないとしているが、自らには三万遍を課し、一念派の幸西を破門している。回数を決めておくのは懈怠(=怠け心)を抑えるコツであるとも応えている。小生ももっとやれるかもしれない。が、しばらくは今の状態で落ちつきそうだ。

この30分の間、心を散らすのは本来はダメなのだが、色々な事を考える。

阿弥陀仏なる宗教的観念は当然のことインド発祥のものだが、当のインドでは日本の神仏習合とは逆に土俗的なヒンズー教が仏教を吸収してしまい、いま現在のインドに古代から残る仏教寺院はない。

大乗仏典をどう位置付けるかと言う学問上の論点はあるが、阿弥陀仏をいわゆる《浄土三部経》の文章からイメージ化すると「無限の光明」ということばで表される。だから、例えば『観無量寿経」では称名念仏の前に観想念仏の意義を釈迦如来が王妃・ヴァイデーヒーと弟子・アーナンダに語っているのだが、そこで第一に挙げられているのは《日想観》である。

心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。

岩波文庫『浄土三部経』ではそう訳されている。

また阿弥陀仏については

かの仏の円光は百億の三千大千世界のようである・・・一々の光明はあまねく十方の世界を照らして、仏を念ずる生ける者どもをおさめ取って捨てられることがない。

こんな風に表現している。いわゆる9番目の《身心観文》だが、これをみても阿弥陀仏のイメージは陰りのない光であって、だからこそ阿弥陀仏は「無量寿仏」とも「無量光仏」、「無辺光仏」とも呼ぶわけであろう。

思うのだが、インド発祥のオリジナル阿弥陀仏のイメージは、法然が専修念仏の道を啓いた時の阿弥陀仏とかなり大きな違いがあると感じる。

前の投稿でも書いているが、

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

念仏は(小生の宗派では)修行の一つの形であるが、人に見せて評価してもらう行為ではない。つまりパフォーマンスではない。だから、上に引用したように、皆が寝静まった深夜に起きて、自分だけに聞こえる声の大きさで称える念仏こそ、念仏としての意義がある、と。そう述べられている。というより、夜更けてから独り念仏を称える情景は、やはり極めて日本的であり、全くインド的でない。

法然の和歌のうち下の一首は有名である:

月影の いたらぬ里は なけれども

     ながむる人の 心にぞすむ 

 阿弥陀如来からさす光は月の光のようである、と。陰り無き光明というより、夜空に浮かぶ月のイメージをもって阿弥陀仏を観念化していることが伝わる。インド・オリジナルの阿弥陀仏とそれが中国経由で日本に伝わり鎌倉時代初めになって法然が表現した阿弥陀仏には大きな違いがある。

もともとは太陽のようであった阿弥陀仏が日本では月のイメージで理解されるようになった・・・

その違いは自らを「凡夫」であると思う心から生まれる(と勝手に理解している)。

「凡夫」とは普通の人間という意味で、我にこだわる煩悩に心は汚れきっている存在だ。ありのままの真実をみる覚悟はなく無知と偏見にまみれている。無知と偏見にまみれながら毎日を過ごし、それを自覚しないでいられるのは、智慧に欠けているためで、これが《無明》である。自分が迷子であることに気づく前の迷子に似ている。

真っ暗な夜空の中天に輝く月をみて、無明の闇に迷う自分自身をたすけてくれる阿弥陀仏の実在を感得したのであろう、そんな風に思っているところだ。

凡夫の自覚は迷いの自覚である。

無限の光明は悟りを目指す菩薩の理想である。それに対して夜空にかかる月は永遠に迷うダメな自分に向けられた一筋の光である。

同じ阿弥陀仏を思うとしても、思う人の心によって全くちがうイメージで思われるのである。


仏道では《知》と《智》を厳格に区別する。知とは知識である。学んで身につく学力と言っても可かもしれない。しかし、勉強して覚えた知識は(宗教学上の)仕事には役に立っても、阿弥陀仏国に往生する役には立たない。だからこそ『一枚起請文』の中で

智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし

と書きのこしたわけである。

知識を仕入れて知者のふるまいをする人なら現代日本に無数にいる。しかし、智者はほとんどいないのかもしれない。智とは正しい認識(=正しい宇宙観?正しい生命観?)を持つための必須の要件だ。知識を超えて真の認識に至る最後の一振りが智慧の働きである(と理解している)。

知者と智者の違いは、普通の人であっても、話を聴いているだけで分かるものである・・・というのは歴史が証明している単純な事実である。

2026年6月15日月曜日

覚書き: 「愛子天皇待望論」。これを憂慮されていたのかも・・・

ネットをみていると必要のない情報まで目に入る。

今あふれているのは《愛子天皇熱望》、《旧宮家養子絶対反対》を主張する投稿群(?)である。

不愉快ではないのだが、「またか」という感じで、もう閉口する今日この頃です。

明治以前に遡るのはいいが、江戸、室町、鎌倉、平安、奈良の各時代を一挙に飛び越えて、古代日本にまで立ち返り

天皇は決して男系継承で一貫していたわけではなかった

そもそも天照大神は女性であった、等々 

という記述をみると、

それが何か?

So what?

と言いたくなる。


ただ皇位継承が混乱していた時期と言うのは今回が初めてではなく、(周知のように?)歴史上何度もあった。

一つ不思議に思っているのは、平成上皇が生前退位された前後の事情(?)について、誰も思い出さないというか、話題にもしない所である。

そもそも天皇の生前退位、生前譲位というのは、稀とまでは行かないが、あまりない。何か特別の事情、特定の人の意志があって起きていた出来事なのである。


平成上皇の生前譲位があってまだ10年も経っていない。

平成上皇の生前譲位があり、今上陛下が即位し、秋篠宮殿下が立皇嗣の礼を経て皇嗣殿下となった。

天皇という地位は「民意」によって決まるのではなく、形式的・理念的には「神意」によって決まるものと、皇室自身がホンネでは考えているはずである。大体、民意によって天皇が即位するという理解は、それ自体が社会観として矛盾している。日本の天皇の実質をみても間違った理解だ。

いま《皇嗣殿下》と敬称するのは、皇室典範に「皇太子」、「皇太孫」の語句はあるが「皇太弟」という語句が明記されていないという法律上の理由からで、もし法律がなければ当然に「皇太弟」と呼ばれていただろう。

日本の国事行為として正式の皇室儀礼を神事として済ませた以上、民意によってそれを覆すことは思想的に不可能だ。

この一連の進展は、平成上皇が生前譲位を決意したところから発している。

そこに込められた意図は、限られた範囲の人物しか承知していないはずだが、皇位継承の方向を確定しておくことにあったと、小生は勝手にこう推測している。

歴史上の似た事例としては、(大分遡るが)持統天皇から文武天皇への譲位を連想する。

蘇我入鹿粛清と大化改新を断行した中大兄皇子が後に天智天皇となった時代は、革命(クーデター?)あり、恋愛あり、対外出兵あり、遷都ありの古代日本で最もドラマチックな時代であった。更に、天智天皇崩御後の壬申の乱から文武天皇即位までを含めると、半世紀にもわたって展開される大河ドラマでもあったのだ。

織田・豊臣・徳川の三英傑が登場する戦国末期と同じ程度に面白い時代は7世紀後半の50年間である。

中国では秦や漢、三国時代を舞台にした時代劇が作られ、韓国でも高句驪、新羅、百済の時代がドラマ化されている。同時代の日本が何故手つかずのまま話題にすらならないのか、小生にはメディア業界の鈍感さの由来が分かりませヌ。

持統天皇は天智天皇の皇女であり、天皇の実弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の室となる。天智天皇崩御のあと、決起を胸に秘め吉野から伊勢へと脱出する逃避行に皇女は同行、大海人皇子を支え、官軍に勝利する。大海人皇子が天武天皇として即位するとき皇女は皇后に立てられる。

この辺のストーリーはそのまま歴史小説になるのであるが、Wikipediaにも概要は述べられている。

持統天皇は天武天皇崩御のあと自らが女帝として即位するのであるが、その後の皇位継承が実子の死去、異腹の皇子の存在などもあって、極めて不安定化するのである。

Wikipediaにはこんな記述がある。

持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。

その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった  ―   コメント:3月と説明している例もあるが専門外でもあり深入りしない。この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある。

持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。

大国柱であった天武天皇の長男・高市皇子が亡くなったのが696年。次の天皇に想定されていた持統天皇の実子・草壁皇子は若くして亡くなっていた。草壁皇子の(異腹の)兄弟は複数いた。どの皇子にも皇位継承の可能性があった。人望のあった高市皇子の薨去によって「皇嗣」を正式に決める必要性が表面化した。

そんな時、「最初の朝臣」とも言われる葛野王が

日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。

と発言し、亡くなった草壁皇子の息子、つまり持統天皇の孫である軽皇子が皇太子に立てられることになった。697年3月の事だ。そして同年8月1日に持統天皇は生前譲位し、15歳の軽皇子が文武天皇として即位した。

高市皇子の薨去から持統天皇の生前譲位までの一連の進展は、自分の若い孫に皇位を継承させようという持統天皇の意図から発していた(と今では推測されているようだ)。

実に、持統天皇という女性は若い頃から波乱万丈、剛毅にしてカリスマ性があり、北条政子を遥かに越える日本史上最大の女傑でありました。

葛野王。壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の息子である。後に臣籍に下り、孫は有名な文人・淡海三船である。今に伝わる伝統《万世一系》を言葉に表した元祖と見られている。

このように天皇の生前譲位は特別の意図から発していると理解するのが至当である。

とすれば、平成上皇の生前譲位の意図は

長男から次男、次男から次男の長男への皇位継承を確定させておきたい

そう理解するのが正しい(と勝手に推測している)。

そして、上皇の意図は時の政府の了解を得て日本国の国事行為と皇室神事によって公的に確定した(と勝手に思っている)。勝手に思っているのだが、確定したという事実はたとえ知識を持たないヒトが多数いようとも事実であることに変わりはない。


「愛子天皇待望論」は、それに横槍を入れる主張であり、横紙破りとも言える。

正に「このような進展になるかもしれない」と憂慮して、平成上皇は生前譲位を決意されたのであろう(と勝手に憶測している)。

政府、与党のある意味で強引かつ直線的とも感じられる姿勢の背景には、譲れぬ一線があるのであろう、と。そんな風に観ているところだ。


とはいえ、上に引用した葛野王の発言。

日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。

平成上皇の深慮にかかわらず、既に確定済みの皇位継承には「不自然なところがある」と感じる国民が多いのも仕方のない事だと思う。


持統天皇の努力にもかかわらず、その後も皇位継承の不安定は続き、何人かの女帝が即位しながら血脈をつないだが、遂に男系皇子が途絶えたことから、天智天皇系の光仁天皇を迎えることになった。皇統はここで天武系から天智系に移った。

皇位継承は、人の努力を超える形で、それでも血筋が守られ続けられてきた。そこにマア、日本人が「天皇制」を維持させていこうと感じる歴史的価値があると言えば、あるのかもしれない。

日本人には「血筋」に極めて関心をもっている人が多い(?)。「名門」に支配されるのは嫌だが、名門の末裔がいると何か安心するという心理は、ひょっとすると日本的な心情かもしれない。逆に言うと、「血筋」というものに対する関心が薄まって行くなら、永きにわたった天皇制も(国制としては)終焉を迎える背景になるのだろう。



2026年6月11日木曜日

読後感: 『台湾漫遊鉄道のふたり』は記憶に残る佳作だ

旭川地裁の公判で審理された《女子高生殺人事件》、事件自体は旭川ローカル、大きく見ても北海道ローカルな出来事であったにもかかわらず、TVの全国向けワイドショーでは連日メインの話題にしていたから吃驚した。

ずっと以前、小生も東京の役所で仕事をしていたが、その頃の感覚でいえば旭川は半分外国といってもよい極北の小都市というイメージであった。そこで起きた殺人事件・・・まあ、ミステリー好きなら興味を持つかもしれないが、一般の人はどうかネエという感覚があった(と思うのだ)が、最近はそうでもないらしい。

情報空間としての日本国に今感じる距離感と、片や首都圏に昔感じていた距離感と、心理的には同じくらいかナア

そう思います。昔の東京人なら奥多摩に感じた距離感と同じ感覚で今は旭川を感じる・・・こういうことか?ずいぶん近しくなった。そう改めて思いました。

宇都宮で熊が出たなど、東京の人は関心があるだろうから関東ローカル番組で自由にやってくれというのが北海道で暮らす小生の感覚だ。しかし、スマホ情報が身体の一部のようになった世代にとっては、旭川で起きた殺人事件と宇都宮の熊騒動は、同一の局所的近傍で生じた事件として意識される(のかもしれない)。

なるほどネエ

と自分で自分に勝手に感心する自分がいる。


それにしても検察官の求刑27年に関しては色々と論議があるようだ。

それはそうだろうと思うが、次のようなコメントには違和感を感じる。

U被告に対して検察は懲役27年の求刑をしました。 あまりにも軽い量刑です。U被告は、殺意はなかった、殺人でない、と主張している 。殺人罪が認定できるか、国民の認識を確認すれば良い。 大衆の全員が殺人であったと判断しているはずだ。 検察は、もっと事件に対して真剣に向きあって欲しい。 被害者と被害者遺族が報われない。 社会の安全も維持できない。 次の犯罪を助けることになる。 判決では正しく裁かれることを願っています。

どこかの報道に対するヤフコメ(Yahooコメント)にあった文章をコピペさせてもらった。

最近の現代日本の世相を映し出す鏡にもなっているので、個人的コメントを記しておきたい:

まず

あまりにも軽い量刑です

被害者遺族は極刑(=死刑)を望んでいるようだ。どうやら上の評者も同じ考えと見受けられる。他にも多くの日本人はそうなのかもしれない。小生が違和感を感じるのは、阿部慎之助・元巨人監督が家庭内で起こした暴行事件のときの世間の反応と、今回の極刑願望との、この二つの感覚の極端な落差である。

何度も書くが、《極刑=死刑》というのは日本人が社会の掟を破った時に日本社会が日本人に下す究極の体罰である。そう理解するべきであるし、そうではないというなら余程の鉄面皮である。

人間は誰でも正義の倫理観があるし、仁や礼の情を有している。許せないと思う倫理観は、日本人の生活の基礎になっているし、国の法律も日本人の倫理観と真っ向から矛盾するわけにはいかない。

「許せない」と思うとき、(被害者遺族でもない)無関係の日本人の多くが「そいつを殺せ」と主張する。と同時に「娘の口のきき方が悪いと怒った父親が長女を叩いた。これは体罰だ。体罰は許せん。父は職を辞して謹慎だ」と、そう非難する心理は、一体、どんな思考回路になっているのであろうと、こればかりは我が胸中で再現できない。

ある時は、許せないと思う人物を殺せという。

ある時は、許せないと怒って叩いた方が悪いという。

いくら怒っても叩くのはいかんだろうと考えるなら、いくら許せなくても殺すのはいかん、と。理屈はそうなるのじゃあないか・・・?

ま、これはずっと前から小生と世間の大方の意見と完全に異なる個所だ。ここでは繰り返さない  ―   実際には、蹴る、叩くなどの行為もなかったそうだ。


次に、

殺人罪が認定できるか、国民の認識を確認すれば良い。 大衆の全員が殺人であったと判断しているはずだ

国民の民意が「これは殺人である」と思えば、それは当人が否定しても、殺人ということになるのだろうか?これではまるで、

国民 = 皇帝

ではないか。神聖なる皇帝はすべてを決定できる権限を有していた。いまは神聖なる民意が皇帝の権限を継承している。こう言いたいのか?

民主主義を研究テーマとする研究者なら

ハッ!

の一言。まず基礎的な事柄の勉強に役立つ本を教えられて終わりになるのではないか。

暴君、暗君が革命によって追放されるのと同じ理屈で、自己研鑽を忘れて愚かな大衆に成り果てた国民の民主主義は打倒されるべきだと小生は勝手に思っている。

まあ、現代日本の民主主義の形が可視化されているという点は、ネット社会の最大の成果である。可視化は問題理解の近道であり、問題理解は問題解決への第一歩なのだから。

上で「ハッ!」という反応を使ったが、実はこれは最近読んだ『台湾漫遊鉄道のふたり』(楊双子著、三浦裕子訳)を思い出して、使えるかナと思ったのだ。

・・・申し出があったのよ。「南進政策」を宣揚する文章を書く条件でね。私は断りました。ペンを銃として戦えですって?ハッ!日の丸帝国を謳う国家が、戦争のためにここまでするなんて、まったく笑止千万よね。

こんなキャラクターの日本人女性作家が台湾の日本人会である「日新会」に招かれて、1年ほど台湾に滞在し、その間、通訳として付き添った台湾人女性との交流を旅行と料理、おしゃべりで表現した小説である。

終盤になって

帝国の横暴と、官僚の理不尽には反感を覚える。だが、本島(=台湾)を近代化した功績については、客観的な目で見れば、本島にとっても役に立つ大きな援助になったはずではないか。

こんな潜在意識が抜けない作家に対して台湾生まれの公務員が

この世界で、独りよがりの善意ほど、はた迷惑なものはございません

と伝える場面がある。

苦悩に沈む幾日かを経たあと

私はいつも、植民地に対する帝国の偏見、女性に対する男性の偏見、本島人に対する内地人の偏見について批判してきた。こんな世間の馬鹿馬鹿しさを嘲笑し、抗議してもいた。だが、実際には、私自身が世間の塵にまみれ、自分の心に潜む傲慢や偏見に気付いていない、凡俗な人間だったのだ。

作家はこう悟るに至る。

プロットは何度も聞いた月並みの主題が中心であるのだが、月並みの主題を土台にして書き込まれている登場人物のおしゃべりは血が通っているかのように生き生きしている。

これは歴史書ではなくて小説である。

結局こういうことになるのだが、その意味では世評に違わず成功している作品である。


人間が行う「認識」には、「主観 vs 客観」、「我 vs 対象」という二項対立形式からもたらされる歪みが必然的に含まれる。そもそも我が対象を見つめる、我が対象について考えるとき、考える我は見られていない。考える我を考えても、そう考える我は考えられていない。我が考える、その考えるという考え方そのものが決して考えられない盲点を作ってしまうのである。

こう考えると、歴史好きな者にとっても面白い作品だが、哲学好きにとっても結構面白い小説なのである。


今日は、世論のメチャクチャな側面をメモするつもりが、読書感想文になってしまった。どちらが主であるか分からない。

タイトルは、読書感想ということにしておこう。



2026年6月7日日曜日

感想の覚え書:「警察官 ≒ 昔のお侍さん」がこれからの世相になるか?

 オリジナルのURLはどこかにいって失念したが、こんな事件があったそうだ:

スーパーのレジで沢山の小銭で支払おうとしたお爺さんが、『小銭が多いなあ」という店員のボヤキに腹を立てて、買い物カゴを投げつけたらしい。それが運悪く店員の目(の付近?)に当たり、『これは暴力ですヨ。警察に通報しますから』となった。店長も駆けつけ周囲は騒然としたが、すぐに近くの交番からだろうか、巡査が駆け付けた。警察官の姿をみてお爺さん、途端にションボリとなり、促されて店員に謝罪をしたあと、警察官に連行されていった・・・

小生も小銭でやりとりするのは数えるのが面倒で嫌いだった。なので財布に小銭が溜まると『またクズ化したよ』と言いながら、我が家で『寄付バケツ』と呼んでいたのだが、小さなバケツ形の容器に投げ入れ、バケツが一杯になると郵便局に持参してUNICEFに寄付をするというのが長年の習慣だった。

最近はセルフレジで電子マネー支払いが新しい習慣になったので、上のような事件を知ると、何だか旧式な世代と最新の流儀だけしか知らない最新世代が溶け合わない今の世情がしのばれて、同情と淋しさとが入り混じった気分になる。

それに加えて、こんな事にも現場の管理責任者である店長を飛び越えて、警察官が《加害者》を連行していくのか、と。こちらの方に、より強い諦めと絶望に似たような感情が起こってくるわけであります。

小生の常識、というか生活感覚に沿って想像すると、多分、次のように進展する。

体躯隆々でいかにも乱暴そうな若衆ではなく、たかが(と言っては失礼だが)一人のお爺さんである。

買い物カゴを投げつけられた店員は

何をするんですか?乱暴は止めてください!

と先ずは怒る。

口の悪い若者であれば

何をしやがる、このジジイ!やる気か、てめえ!!

と怒鳴っても、周囲の客は店員を非難はするまい。

やがて店長と警備員がやって来て

お客様、どうぞ此方へ!さあ、こちらへ!!

と、腕をつかんで連れて行くであろう。騒動の現場はこれで元通りになる。

最後に、店員が周囲の客に向かって

乱暴な口をきいて申し訳ありませんでした。思わず腹がたって・・・

と言えば、多分、三々五々

あんなのもいるからネエ

とか

元気をお出しヨ

とか、声がかかり。それで騒ぎは完全に一件落着である。時間的には10分もかからないであろう。巡査の臨場など必要ない(はず)なのである。

お爺さんは

暴行障害で被害届を警察に出しましょうか?

と言われると、にわかに自らの粗忽を後悔し、治療費とお詫びの幾ばくかを負担することを了解するだろう。で、念書を一枚書かされて拇印を押す。

それで終わりになったろうし、むしろその位で終わらせるべき諍いであると、小生は感じる。

こんなことを書くと

暴行は法で裁くべきである

などと異論が聞こえてきそうだ。近年は頭の固い御仁が増えていて、実に暮らしにくくなって困る。そのうち幼稚園で子どもが他の子を押して怪我をさせた時にも巡査が駆け付ける時代になるかもしれない。

何が日常生活の範囲内で、何が法的に裁かれるべき犯罪であるかは、本来は普通の国民が決めるべき事で、そもそも国が正邪善悪を決める権利をもっているわけではない。

国や政府は、ただ法律をつくって、手続きとルーティンを定めているだけである。善悪の判断をするべき倫理を国家や政府は持っていない、というより持てる「心」が国家や政府にあるはずがないでしょう。

日本は後発・民主主義国で、決して本来の民主主義国ではない。こんな所にもそれが映っているように思っているのだ、ナ。

江戸時代まで遡らなくとも、戦前と言う時代まで、ずっと日本人は喧嘩のやり方を知っていた。

大体、鉛筆削りなどという利器はなかったので、小学生から「切り出し 」という名の小刀をみな持っていたものだ。それでも子供同士が刃物をふるう「刃傷沙汰?」など聞いたこともなかった。要するに

喧嘩の仕方をみな知っていたのである。

兵役の義務があったので大人の男性で武器の使い方を熟知している人は隣近所にいたはずだ。銃剣、軍刀、拳銃、自動小銃を見ただけで怖がるなどという感覚ではなかった(と聞いている)。小刀、包丁、金ヅチ、巻き割りなどに使うナタ、オノなど、どの家にも多くの武器(?)を普通に置いていた。今だから言えるが・・・旧友の父上は戦後のドサクサにまぎれてか、軍から支給された軍刀を終戦後も(ダマテンで?)所有していたそうだ。それも複数本あったというから中々に豪気なものである。友人本人は「怖かった」と話していたが、もしこんな父上が健在なら、いまを盛りの「トクリュウ」も手出しはできまい、まかり間違って忍び込んだら成敗されるだけだと思われる。仮に「盗賊を成敗」するとして、友人の父は暴行傷害罪に問われるのか・・・問われるのだろうネエ、非暴力の現代日本においては。

便利になるのは進歩には違いないが、人は強くなるのではなく、逆に弱くなるのである。「進歩」と言われるが、進歩とは反対の「退歩」も進んでいるのが、現代文明を全体としてみる時の客観状況だと思う。

二昔か三昔になるか分からないが、芥川龍之介や太宰治が生きた時代ならば、買い物かごが飛んできたくらいの事は「暴力」とは認識されなかったような気がする。お爺さんは巡査に連行されるほどのことはしていない。

まあ、落ち着いて、関係者で穏便に話し合ってください。

その位のことだろう、と。小生にはそんな感覚が残っている。

いま警察官は武器を携帯している。普通の国民は、突き飛ばされるだけで反撃方法を知らないため、「暴行」の被害を訴える。だから武装警察がやってくる。

何だか腰に刀を差した《お侍さん》を頼りにする町人のようではないか。


鉛筆を削る小刀くらいは子供でも持つ。そもそも「棒切れ」ですら武器にはなる。武器で自衛をするのは当たり前だという時代が以前にはあった。今は反対に、日常生活からあらゆる暴力を追放する。ただ国家だけが人を連行したり、監禁(?)したり、刑罰という暴力的手段で懲らしめることができる。

故に、国家に勤務する者だけは武装できる。戦前という時代、陸海軍将校は、当然のこと、軍刀を帯することが出来た。警察官でなくとも内務省勤務の文官官僚もサーベルを帯する権利があった。

近代日本の《お侍さん》である。


腕力を否定する現代日本人は、暴力、暴行に弱い。故に《お侍さん》を頼りにする。そのうち、あらゆる公務員は十手ならぬ《房飾りのある警棒》を持つ権利を与えられるかもしれない。あらゆる諍いに警棒を持った公務員が ― もう公務員とは別の名称で呼ばれるだろうが  ―  (身分証を提示しながら)割って入り、双方から供述をとり、警備当局に書類を出しておくことになるかもしれない。

かつての「一億総中流社会」は、階層化、身分化で溶け合わない階層に分離していき、「新型の士農工商社会」が再びやってくるかもしれない。

文系より理系が大事だよネ、食糧安全保障を考えれば農がもっと大事だよネ

というわけだ。 


あらゆる「武器」の不所持、家庭の内と外を問わず一切の「暴行」が禁止される社会は、制裁と懲罰を許される階層と制裁や懲罰を受ける階層に分かれるという社会的な結末に至るであろう・・・

そして、溶け合わない二つの階層は、住いの地域も分かれて行くだろう。明治初めの東京も(全国の城下町と同様に)武家屋敷と町屋は地理的に分かれていた  ―   隅田川以東は次第に混ざり合って来ていたようだが。

階層化は身分化になり、最後には地理的棲み分けとなって、景観としても完成するのである。こうした変化を日本人全体が評価し、受け入れることで歴史の大きな時代が一つ進むのであろう。その頃、未来の日本人が民主主義という西洋の香りがする社会構造をどう思うか、もう分かりませヌ。

そんな風に未来を想像しながら世間の移り変わりを観ている所であります。

【加筆修正: 2026-06-08】

2026年6月6日土曜日

ホンの一言:国旗損壊罪よりこちらが先では?

高市内閣が提出する《国旗損壊罪》の新設法案、世間ではその必要性や何をどうすれば処罰されるのかという線引など、無数の《???》が飛んでいる模様だ。

日の丸と言っても布や紙で出来た旗である。ひょっとすると、日の丸弁当も国旗のパクリだ、と。日の丸を食べるなど何事か、と。まさかネ。

思うのだが、たかが旗の尊厳を守るより、天皇や皇室を侮辱したり揶揄したりする言動を《不敬罪》とする方がよほど意味があるのじゃあないか、と。不敬罪の復活。憲法で規定する日本国民統合の象徴なのだから尊厳性を守ると言うならこちらが先だと思うがいかに?

2026年6月2日火曜日

断想: 「皇位は世襲」のはずが、思わぬ対立、混乱が起きているのは何故だろう?

 TVは(まだ?)意図的に控えているのだろうか、今国会に上程される予定(と思われる)の皇室典範改正案をめぐって、ネット界ではもう「女性天皇・女系天皇」支持論であふれている。あふれているのは、現実政治においては力学的に劣勢であると感じているからだろう。極々たまに「旧宮家養子容認、男系天皇」支持論を見かけるが数的には劣勢である。

小生は、前にも投稿したが、皇位継承をめぐって世間で議論が喧しいという正にこの状況は、《世襲》を原則とする《天皇制》と矛盾している、と。そう思う立場にいる。

例えば「天皇 非民主的」でブログ内検索をすれば、結構、多数の投稿がかかってくる。それを見ると、皇位継承も戦後日本の民主主義と男女平等という現代的文明観に沿って行われるべきである、とは全く思っていない自分が改めて可視化される感覚がする。


ただ、ずいぶん前に「家門の継承」というテーマでこんな投稿もしている:

五代将軍徳川綱吉は子に恵まれなかったので、紀州藩に嫁がせた娘・鶴姫の夫である徳川綱教を次期将軍にしようとした。子ではない娘婿である。その時、綱吉には若くして世を去った実兄・綱重の遺子である甲府宰相綱豊がいたにもかかわらずである。これには流石に水戸藩のご隠居である徳川光圀が反対したという。それはそうだろう。血のつながりの濃さによって継承していくのが<世襲>というシステムの本質なのだから。しかし、もしこれが、娘・鶴姫の子であったら水戸黄門も反対しきれなかったのではないか。これが<女系将軍>というものだ。結果としては、肝心の紀州藩主綱教が死んでしまい、兄の子である甥が六代将軍家宣になるのだが、こうしてみると幕府内に<女系将軍>が後を継ぐという事態にそれほどの拒絶感はなかったのではないか。そう思わせる逸話であろう。

「家門の継承」、「血筋の継承」という話には、現代日本人も意外に強い関心を持っているようなのは、いまでもネットをみていると、「関ケ原合戦の直前に悲劇の死をとげた細川ガラシャの子孫はいるのか?」とか、 「室町時代の足利将軍家の末裔はいまでもいるのか?」とか、この種の話題にはかなり多数の人が関心を寄せているのがよく伝わってくることからも言えるのではないか。

女性天皇は歴史に実例がある。母方で血がつながっている女系でも尊貴な血筋にはわけもなく尊敬(?)の念を感じてしまう日本人の癖は、それが天皇ともなれば、歌舞伎俳優の襲名や芸能界の二世たちとは全然レベルが違う話になってくるのは明らかに思われる。

冷静に考えれば、男系、女系、男性、女性を問わず、天皇家の血筋を継承していってほしいというのが、最大多数の日本人の共通の感覚なのだろうと推測する。

皇室が断絶すれば多くの日本人は日本文化の伝統まで失われたという喪失感覚を覚えるかもしれない。移民政策の失敗とシンクロすれば日本社会全体が予期しない方向へ不安定化するかもしれない。もちろん、その時には直系が絶えたということで、傍流からどうにでも継がせることは可能だが、それはそれで今をはるかに上回る大騒動になるに違いない。

ただ政府は「男系継承」を続けたいと考えているようだから、これはもう仕方がないと思うのだ、ナ。

反政府の立場から「女系容認」の世論をぶつければ、正に皇位継承をめぐって「政治的対立」が生まれるわけで、そうなれば次の天皇に政治的な色合いが最初からついて回ることになるのが理屈だ。

現時点の継承順に沿って秋篠宮家に皇統が移れば秋篠系の天皇は「親・自民党の天皇」、皇位に就けなかった今上天皇の内親王は「親・リベラル勢力が支持した悲劇の(?)内親王」として自動的に認知されてしまうのではないか?そして「皇位を奪われた内親王の子女たち」は、自動的に(政治的には?)リベラル色の強い皇族として見られることになってしまう・・・ずっと昔、宮中の派閥はこうして生まれるものであった。宮中ならマシだが、今は民主主義だ。社会を舞台に皇位をめぐって派閥が形成される。

・・・この種の政治的対立は、「日本国民統合の象徴」としての天皇そのものを決定的に毀損する結果になる  ―   これもまた非常に日本史的な展開ではあるが。

何度も投稿したが、民主主義と天皇制は水と油の関係にある。そもそも天皇の権威を尊重するのは非・民主的であり、民主主義を徹底すれば天皇制を廃止して、大統領制にするべき筋合いなのだと、そう書いたのもつい最近の事である。

皇位は《世襲》によると憲法で定めているのは、皇位は血筋によって決まるのであり、民意によって決まるのではないという意味だと小生は(勝手に)理解している。

世襲とは、つまり、次期天皇をめぐって国民の対立を生まないことを期待しての制度である。

これが日本の天皇制の最も重要な点であろう。

まあ、個人的には

  • 新しい元号くらいは官房長官ではなく新たに即位した天皇が発表するべき筋合いではないか?
  • 新たな天皇が即位するとき位は、憲法改正の論点整理をして条文を見直しても天皇と政治の独立に反するとは言えないのではないか?

そんな気持ちではあるが、その前に「皇位継承」そのもので意見が対立するなどは、昔風にいえば《世の乱れ》の典型的原因になりうるのである  ―   もう十分に乱れていると言う御仁もいるかもしれないが。

日本国憲法の第2条には、確かに『皇位は世襲のものであり』と記述されているが、その後に『国会の議決した皇室典範の定めるところにより継承される』と明記されている。

あたかも「世襲」のあり方には「国会の議決」、つまり「民意」が介入する余地を認めている。

いま「あたかも」と書いたが、現在の混乱はここから生起していると思っている。憲法制定時、更には皇室典範が戦前の「皇族家法」から国会が議決する法律になった時には、まったく予想していなかった混乱だろう。

もともと穴が開いていた船底から浸水し始めた状況と似ている感じがする。これを《千慮の一失》という人はおそらく保守派であろう。


いずれにせよ、上皇陛下退位のとき、今上陛下即位に併せて秋篠宮様が皇嗣殿下になることは、今上天皇ご自身が

「文仁親王が皇嗣であることを、広く内外に宣明します」

と世界に向けて公にされている。いわゆる2020年11月8日に行われた「立皇嗣宣明の儀」である。これをひっくり返すなど天皇も政府も出来るはずがない。綸言汗の如し、である。

既にいる皇嗣殿下がいざ践祚するとして、さて皇太子はということになれば、どう考えても天皇の長男の悠仁親王になる。仮に年長の女性でも可であるとすれば、長女の真子様が皇族復帰をして皇太子となるか、でなければまだ皇籍にある(かもしれない)佳子内親王が皇太子になるかの選択肢になるのが理屈ではないか?

いま世間で吹聴されている《愛子内親王推し活》は、天皇陛下が世界に向けて嘘をついたことになってもよい、と。こういう主張と同じ意味になる。推し活はわかるが、その低能ぶりは雑音の域を超えていると思うがいかに?

マア、色々と考えられるが、この辺にしたい。

【加筆修正:2026年6月5日】

2026年5月31日日曜日

断想: トランプ政権は「信念のトップ」に率いられているのか、「バカ」に率いられているのか?

そろそろ夏至、"Midsummer"だ。とはいえ、日本のMidsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)はシェークスピアの喜劇とは異なり、阿部慎之助・元巨人監督の家族にとってはロクな物語りではなかった。家族を不意に襲った出来事は

ある人は

これは家庭の悲劇である。

とTV画面で評していた。

ある人はネットで

これはいわゆる『善意のパラドックス』である。

と書いていた。

小生の見立ては

今回の顛末は「悲劇」というより、「喜劇」と呼ぶにふさわしいと思う。・・・

喜劇の本質は、全役者が一生懸命なのだが、どの人も目の前を見て機械的なルーティンに従い、考えることを一切しないので、ドミノ倒しのように意図せざる最悪の結果に向かって猛スピードで進む所にある。

と先日の投稿で書いたとおりだ。

ある人には、こう見える。別の人にはああ見える。人それぞれで受け取る感想はマチマチであるのが現実であるに違いない。


ただ、小生は「これは善意のパラドックス」という理解の仕方は不誠実であり、不作為の罪につながる見方である、と思う。

大体、児童相談所の職員は《善意》で対応していたのだろうか?

現場に臨場した警察官は《善意》で対応していたのだろうか?

おそらく上に引用した文の筆者であれば

「被害者」である上の娘に善意で対応したのは正しい

と言うのだろうが、当の娘ではない他の家族には善意で対応していたのだろうか?

そもそも「親子喧嘩」の通報があったとき、先ずは家族全体への善意を最初に持つべきではなかったか?他人同士が居酒屋で会食していたわけではないのだ。昨日までは仲のよい家族であったかもしれず、いや多分そうであると想像し、今日はなにかで大喧嘩をしているようだ⋯⋯もし通報者ありきでなく、家族全体に寄り添う「善意」を公務員が持っていれば、別のアプローチになったのではないか?ものごとの進展は違っていたのではないか?

なので、小生、極めて残念であります。結果論として、この度の事案処理は失敗である。この自覚だけは当該担当者には持ってほしいものだ。

一般論になるが

公務員という職業人は、善意ではなく、指示によって職務を遂行するのである。行動マニュアル、規則に沿って行動するのが公務員だ。

こう理解している  ―   この一点だけは小生が小役人であった時代と今とで変わりはないはずだ。つまり、所属する組織が指示する「行動方針」に沿って児相と警察は対応したはずなのである。

ここから、現代日本社会のもっとも嫌な所が生まれて来る。家族を解体して個人に戻し、それぞれ別々に善意を持ったり、容疑をいだきながら、職務にあたっている。

何度も書くが、国家や政府が家族内部に無遠慮に立ち入る権利などは、最初からないのである。


大体、みんな善意でやったんだよネと言うなら、

太平洋戦争、というか1930年代から1945年の大日本帝国。最後はとんでもない結末になったけど、みんな《愛国の情》から一生懸命にやったんだよね。いわば《愛国のパラドックス》。愛国は当然に善意だからサ。これも「善意のパラドックス」だったんだヨ。本当は誰も責められないンだよね・・・

こんな歴史観にもなるに違いない。極右の「日本会議」が聴けば、涙を流して喜ぶだろう。


結果が悲劇的であったのなら、どこかが間違っていた。歴史に対する誠意というのは、こういう事ではないだろうか?

あの時代、日本社会の主たるプレーヤーである陸海軍、政党、官僚、財閥、マスコミ、民間の活動家は全て「善意」ではなく「自己利益」を求めて行動していた。「自己利益」でなければ「保身」が動機であった。故に「愛国のパラドックス」と理解するのは間違いなのである。

現実に起きた不幸には主たる原因があった。この問題意識を「善意のパラドックス」などと美しく語って隠蔽してはならないと思うがいかに?

日本のMidsummer Night's Dreamは(見方によっては)悲しい事件であったが、アメリカのトランプ政権。ト大統領が繰り出すツイッターに振り回されるアメリカ人たち。いまどうなのだろう?

最近愛読しているsubstack.comのKrugman、DeLong博士の論調は以下のとおり:

まずDeLong博士から

What was the Trump Administration’s thinking and how did it plan for its war on Iran to end anyway? There was no thinking. There was no plan. There still is no plan. There MAY—repeat: MAY—now be thinking. But probably not. Trump careens among:

  • demanding Tehran’s “unconditional surrender”,
  • hinting that he might abruptly declare victory—having “mowed the grass” and leave,
  • expecting collapse of the Iranian regime,
  • expecting the emergence of new leaders who will do a deal on his terms,
  • expecting the emergence of new leaders who will concede to fundamental political and strategic demands,
  • expecting Iran to pretend it has conceded to Trump’s fundamental political and strategic demands.

Chaos-monkey foreign policy:

そもそも考えなどなかった。計画もなかった。今も計画はない。もしかしたら――繰り返すが、もしかしたら――今になって考えているかもしれない。だが、おそらくそうではないだろう。トランプは次のようなことを繰り返している。

  • テヘランの「無条件降伏」を要求し、
  • 彼は突然勝利宣言をするかもしれないと示唆し、「草を刈り終えた」ので、
  • イラン政権の崩壊を予想し、
  • 彼の条件で取引を行う新たな指導者の出現を期待して、
  • 根本的な政治的および戦略的要求に譲歩する新しい指導者の出現を期待して、
  • イランがトランプの根本的な政治的・戦略的要求に屈したふりをするだろうと予想している。

混乱した猿どもの外交政策・・・

URL:  https://braddelong.substack.com/p/crosspost-dan-drezner-the-trump-administrations

相変わらず、トランプ政権は《猿山の猿ども》と理解しているようだ。

次にKrugman博士。

Donald Trump’s chief economist said something interesting the other day. Yes, the remarks by Kevin Hassett, director of the National Economic Council, were stupid, but that goes without saying. The point is that they were stupid in an interesting way.

On Fox News, Hassett was, as usual, boasting about how great the economy is, when he was asked why Americans aren’t feeling it — why the long-running Michigan index of consumer sentiment has hit its lowest level ever. He responded by claiming that the index “is being driven by Democrats who have Trump derangement syndrome.”

Well, yes indeed … someone is deranged here.

ドナルド・トランプの首席経済顧問が先日、興味深い発言をした。確かに、国家経済会議議長のケビン・ハセットの発言は愚かだったが、それは言うまでもない。重要なのは、その愚かさが興味深い意味を持っていたということだ。

ハセット氏はフォックスニュースで、いつものように経済の好調ぶりを自慢していたところ、なぜアメリカ国民はそれを実感していないのか、なぜ長年続いているミシガン消費者信頼感指数が過去最低水準にまで落ち込んでいるのかと問われた。彼は、その指数は「トランプ錯乱症候群にかかった民主党員によって操作されている」と主張して答えた。

ええ、確かに…ここには正気を失った人がいるようですね。

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/whos-deranged-exactly 

こちらは「猿」でなく「正気を失った人(たち)」と見ている。

統計的仮設検定を思い出した。検定とはいまの「前提(=帰無仮説)」を棄却できるか、採択するかの判断を、データに基づいて行う手法である。

どう判断するかによらず、判断には必ず2種類の誤りが混じる可能性がある。それは

  • いまの前提が正しいにもかかわらず、間違いだと捨ててしまう誤り
  • いまの前提が間違っているにもかかわらず、間違いに気がつかないという誤り

上を「第1種の誤り」といい、下を「第2種の誤り」というのは、学部の統計学の授業で必ず採り上げるテーマだ。 そして、データが与えられたとすれば、第1種の誤りを犯す確率と第2種の誤りを犯す確率を同時に小さくすることは不可能であることも。

小生はこの2種の判断ミスを事件の容疑者を問い詰める捜査官の心理になぞらえて説明することが多かった。帰無仮説は当たり前だが《無罪の前提》だ。これを前提に、得られた物的証拠から容疑者を黒とするか、白とするかを判断しなければならない。

黒の物証を評価して黒だと判断すれば、本当は前提どおり白だったとき、冤罪となってしまう。

かといって、

証拠が不十分だとして白だと判断すれば、容疑者が本当は黒だったとき、犯人を見逃してしまう。

世間は『絶対に犯人を捕まえろ』とプレッシャをかける。それは同時に「冤罪のリスクをおそれるな」ということでもある。反対に『冤罪だけは犯すな』と圧力をかければ「真犯人逮捕にはこだわるな」という風にもなる。

とかくこの世は難しい

 トランプ政権は

政策は正しい。どんなデータが出ても、この信念は揺るがない。

こういう政策姿勢をとっているのである。確かに「頑迷」であるし、「バカ」にも「猿」にも見える。しかし、「信念」であると言えば、

信念をもつことは大事だよね

という人も出て来るだろう。

ト大統領の側から見れば、「substack.com全体が反トランプ陣営なのだ」と言えば、それで済む話である。Krugman、DeLong両氏に加えて何人の批判が登場しようと、『偶々出てきたデータなどによって自分の考えを変えたりはしない』と言えば、これも信念にはなるのである。

「あの時代」、チャーチル・元英首相が

ヒトラーのドイツには「絶対」に屈しない

という「信念」を持っていなければ、客観状況に応じて適切に対応するという哲学をもっていたならば、ヨーロッパは今日のヨーロッパとは違っていたはずだ。

「言葉」と言うのは、人間が誤りを犯す最も大きな原因になるのである。


今日のメインテーマはトランプ政権の人々が、「バカ」であるか「信念の人」であるのか。これをテーマに書きたかったのだが、「善意のパラドックス」なる言葉を見つけたので、ダブル・イシューになってちゃんこ鍋のような投稿になった。

桜は終わり、ライラックも盛りを過ぎた。これからはアカシア(北海道のアカシアはニセアカシアであるのだが)の白い花が咲く季節だ。それが終わると道路わきにハマナスの花が開く。しばらくは雪とは無縁の時間だ。



 

 





2026年5月28日木曜日

まとめ? 事件、正義、民主主義、司法の辺り

阿部慎之助・元監督と家族を襲った突然の不幸は多くの人の感情を刺激したのだろうか?その後も相当の論議が続いている。

とはいえ、綸言汗の如しというか、覆水盆に帰らずというか、監督復帰はもう無理な話だと思う。「あれは家庭内暴力であった」という価値判断か、事実判断か、いずれかは自明ではないとおもうが、どちらにせよ社会的判断がもう「確定」していると観られるからだ。


それにしても警察、というより公権力というのは、「民事不介入」と言っていたのだが、そんな時代はもう過ぎ去った過去なんだネエ、と。

家庭内の喧嘩が、そのまま「刑事事件」として扱われる時代であります・・・そういえば、以前は学校内に警察を入れるのはタブーであったが、今ではキャンパス内の喧嘩、教室内の喧嘩等々、すべて刑事事件であります。

日本人はもう喧嘩が出来る場がなくなりました・・・もう危なくて、危なくて、家の中で男の子(女の子も?)どうしがプロレスごっこや相撲ごっこをして興じるなど、させるわけにはまいりませぬ。小生の上の愚息は階下の息子と取っ組み合いをしている最中、転び方が悪くて、腕の骨を折ってしまったことがある。いまなら「暴行障害」だろう。その時、小生、

向こう傷は男の甲斐性だ。〇〇君を恨んだらダメだよ。

そう申し聞かせたものだ。愚息は淡々とうなづいていた。

そんな《腕白小僧》は、もう現代日本社会で生息は出来ませぬ。単なる《悪い子》になり果てた。小生、別に腕白ではなかったが、あの活発だった時代を思うと、今さらながら懐かしさの気持ちがこみあげて来る・・・日本も衰退するはずです。


ただ一方では、ウクライナ、中東では軍事行動が止まらず、犠牲者が続出している。怪我どころか、命がかかっているわけであります。日本と世界とで、暴力という点で、何というレベルの格差でしょう  ―   日本人は、この辺り無頓着だが。

日本人同士では家族を含め一切の暴力を禁ずる。一方、国家の意志であれば、外国の軍隊と戦い、そこで敵兵を殺してもよし。彼らは日本人ではないが故に。

まさかこんな風なロジックを採用することはないだろうネと期待するばかりだ。


前稿でも述べたように、小生はいくら有名人であっても、ある一人の家庭内で起きた一場の争いを公的機関(マスコミを含めてよいかもしれない)が一方的に刑事事件とするのは、公権力の暴力だと考える立場にいる。

家族と他人は質的に異なる人間関係だと感じる人は多い。これは事実認識の問題だ。であれば、家族と一般的他人を同一視して発生する事象を等しく扱う近年の潮流は道理に合わないと思っている。

かつてあった「尊属殺人」という概念の廃止以降、嫡出子と庶子の均等な処遇など、日本社会は家族と他人を分けず平等な個人からなる空間としてとらえる潮流が一層明瞭になってきている。しかし、日本社会は平等な個人からなる単純な集合ではない。家族、血縁、親類などで関係づけられた構造を持った集合だ。暴行や詐取など広く社会で適用される犯罪概念を何も考えず機械的に家族に当てはめるのは知的怠慢であるばかりでなく、粗暴かつ不適切だと考える立場に小生はいる。

「家族」と「ご近所」、「世間」を区別する生活感覚は日常生活のベースであって現に機能している感覚だ。法律と法に従う公務員がその基盤をことさらに否定するのは非条理でもある。

個人的には、怖かったオヤジより公権力の横暴の方がよほど怖い。法の暴力を警戒しない根拠なき政府への信頼が現代日本になぜありうるのか、ちょっと不思議である。


最近の投稿を振り返ると、ある日は非・民主主義的なことを書く、エリートの役割を強調する、そうかと思うと別の日には小さい政府を主張する、国民の常識を優先させることを書く、一体どちらが本音なんだいと、ここらで整理しておきたくなった。

箇条書きにしておこう。

  • 公共機関が担当するほとんどの問題は、学問的に解決可能だ。そんな問題に専門知識を持たない素人が納得するまで時間をかけると、こうした手続きを必要としない国に競争劣位するのは当然だ。故に、ほとんどの問題解決については民主的介入を最小限にする方式が好きである。・・・・若い頃は100%こう考えておりました。最近、益々思いを強くしつつあります。
  • 正義というか、善悪と言うか、いわゆる価値判断については、普通の国民の常識が政府や専門家の結論より優越するべきだ。
  • その意味でも、裁判に英米的な陪審員制度を採用するのは最低限の望みだ。検察の起訴、弁護人の論述の双方を聞いたうえで、そもそも刑を課するべきか否かを専門家抜きで庶民の感覚で判断する権限を、国民は手放すべきではない。陪審員で有罪の決定をなすには全員一致、もしくはそれに準ずる多数を必要とするべきだ。
  • 地裁による一審では、例えば都道府県の選挙で選ばれた法曹資格者が検事の職務を担当し、地検は検察事務だけを行うべきだ。そもそも捜査は道警(いわゆる自治体警察)が行う。刑罰を求めるのも「地方検事」が担当する方がバランスがよい。
  • というより、検察庁は法務省と共に事務官のみとし、検察官は法曹資格者から任期制の下で広く選出するべきだ。職業検察官が検察庁内部で昇進していくという制度は廃止する。判事も(法の統一性を担保するため)職業裁判官は地裁にのみ配置する。上級裁判官は法曹界全体から任期を付けて選出する。こうなると英国的な司法制度に近くなる。

行政は道理と専門的知見に基づいてロジカルかつスピーディに進め、価値や正義に関することは司法において、ということか?

であれば、余計のこと《司法の民主化》を小生は願望している、ということか?

まあ、こんな風にリストアップすると、自分がどんな事をポイントだと考えているか、どんな国、どんな社会に住みたいと思っているのか、我ながら自分でも分かるような気がしてくる。

2026年5月27日水曜日

ホンの一言: これは悲劇か喜劇か?・・・阿部監督の「暴力」?

いま暮らしている土地柄、小生はファイターズ一択である。とはいえ、父が熱烈な阪神ファンであったので、巨人阪神戦の中継放送の一コマ一コマでまだ目に焼き付いている所もある、視ていた父の表情や声音とともに。

そんな次第で、巨人が好きであったことはないのだが、阿部慎之助監督が家庭内で暴力をふるい警察に逮捕連行されたという報道には吃驚した。

時間がたって話を整理してみると、

娘二人が口喧嘩をしていたのを酒を飲んでいた父が「静かにしろ」と怒鳴った(?)ところ、上の娘が多分「△△!」と言い返したのであろう。父はそれを聞いて「何を~~!」(?)と激怒し娘の胸倉をつかんで突き倒した(と伝えられている)。頭に血が上った娘は部屋に駆け戻り(?)、ChatGPTに「父から〇〇なことをされたンだけど、どうしたらいい?」と相談した。するとChatGPTは児童相談所に通報しなさいと回答した。児相に電話をした娘は「〇〇なことをされました」と訴える。児相は直ちに警察に110番する。警察は阿部宅に急行して、その場で父を現行犯逮捕、警察署に連行した。父は逮捕されたことに最初は驚いたが、巨人軍監督の地位にとどまることはできないと思料し、辞意を伝えた・・・

概略そんなことらしい。事後になって娘は事の成り行きに驚いたが、正に

覆水盆に返らず

父は仕事と社会的地位を失うに至り、現時点で無収入(?)となってしまったのである。

マア、報道されている所によると、こんな顛末であったようだ。

今朝あたりのワイドショーではコメンテーターは、

これは関係者のそれぞれが善意で適切に対応しているにもかかわらず、結果として起きた家庭内悲劇だと思います。

こんな感想を述べていた。が、小生は少し違う。外国という立場から日本で起きた今回の「事件」を聞いたとすると、どんな風に思うだろうか?仮に、同じ「事件」が韓国のプロ野球球団の監督宅で起きたとき、日本人はどう感じるだろうか?

おそらく

こんなドタバタ喜劇、ホントに起きるんだネエ・・・

と呆れ果てるに違いない。もし往年の《ザ・ドリフターズ》が健在なら、必ずネタに使ったに違いない。

小生、今回の顛末は「悲劇」というより、「喜劇」と呼ぶにふさわしいと思う。

現代日本社会は《喜劇的》になりつつあることを先ず自覚するべきだと思う。日本社会は「喜劇」を意図なくして演じて世界に見せているのである。

喜劇の本質は、全役者が一生懸命なのだが、どの人も目の前を見て機械的なルーティンに従い、考えることを一切しないので、ドミノ倒しのように意図せざる最悪の結果に向かって猛スピードで進む所にある。

全体を見ているスーパーバイザーがいないのが唯一の原因だ。要するに、司令官なしで現場が突撃するようなものですね。必ず喜劇、いや悲劇になるわけであります。

スーパーバイザーとは「司令官」、「上役」というにとどまらず、当事者の理性や良心の声をも含めると言えば、極めてカント的な社会哲学に近づくだろう。

正に今回のケースが該当すると思う。

別のコメンテーターは

体罰はもう犯罪なンです!

と声を大にして言っていた。

その低レベルには絶句しました。そもそも今回の阿部監督の行為、「体罰」ではなく(軽度の?)「暴行」であろう。別の話しである。

娘は怪我はしなかったそうだが、もう成人である。「体罰」を課する局面でもあるまい。

願わくば

父: 静かにしろ!

娘: お父さんは黙ってて!

父: 何を!それが親に向かって言う言葉か!

娘: 何よ、お酒に酔っぱらって。家族に八つ当たりしないで!

父: いつからそんな偉そうな口を利くようになった!

娘: もう子供じゃないのよ!怒鳴って押さえつけないでよ!

・・・とまあ、先ずは言葉で言い争うべきでありました。そうすれば、雨降って地固まるであったろう。口より先に手が出てしまうのは、体育会系人物の悪癖であるかもしれないが、修羅場で力になるのは往々にしてこういう人物なのである。

残念であります。

小生は、ずっと前から投稿しているように、

体罰賛成、死刑反対

の立場に立っている。

以前の投稿でこんな事を書いている:

家庭内で体罰は禁止。他人が自分の子をたたけば暴行。それはいい。しかし、長じて法を犯して禁固刑や懲役刑を受けてしまえば、それは社会による体罰となる。そして、最悪の場合、日本には死刑がある。死刑は究極の体罰と言えるだろう。

体罰を禁止することは理念としては尊い。しかし、社会から一切の体罰を禁止することは非現実的である。加えて、日本人の多くは今なお究極の体罰と言える死刑を維持しようと考えていることは世論調査から明らかだ。

「家庭内体罰一掃」と「死刑容認」は根本的に矛盾した精神だ、と小生の目には見える。死刑容認が多数派だとすれば家庭内体罰容認が多数であるのが合理的である。家庭内体罰一掃を支持するなら刑罰として死刑を認めないのが理に適っている。両親による体罰は不可だが、公権力による処罰なら懲役も死刑も仕方がない、と。もしそう考えるなら、日本人はもはや自分の子供の養育に責任は持たないと宣言するのと同じだと、そんな風に見えてしまうのだ、な。言ってもきかないなら、もう子どもの躾は自分の手に余る、ダメなら社会がきちんと罰してくださいと。そういうことになるのではないか、理屈は。

個人的な感覚だが、

どうせ処罰されるなら、国の刑罰をくらって前科者になるより、オヤジから叩かれる方が、よっぽどマシだなあ⋯⋯

そう感じますが、あくまで小生の主観である。

上にも書いたが、死刑とは国が国民に課する究極の体罰である。つまり

場合によっては、国は国民を殺しても可である。

これが今の現実である。現実の基礎にあるこの論理から、

場合によっては、国は国民を「杖刑」、「鞭打ち刑」に処しても可である。

こんな法改正が行われるとしても十分に論理的である(と理解している)。なるほど憲法は拷問や残虐刑を禁止しているが、「絞首刑」は残虐ではないが、杖で叩く「杖刑」は残虐だというロジックがあるのかどうか、定かではあるまい。

国民には一切の暴力を禁じておきながら、国には命を奪うという暴力までを認めている。

エッ、国の刑罰は暴力ではない、と?

暴力でしょう、明らかに。英語でいえば人を殺す以上"Brute Force"、「力づく」の行為であります。

エッ、それは"Justice"、正義だと?

逆に聞くが、正義は国には分かるが、一般国民には分からないのだ、と?国だけが、正義が何であるかが分かる。国民は正義については無知なのだと?だから死刑、懲役はイイが、一切の体罰はダメだと?


「それは逆でしょう」というのが小生の立場である。


そもそも国や政府に《正義》や"Justice"という倫理感覚は備わっていない。正義の感覚は(誰であれ)平凡な生きている人間の心に備わっているものだ。国家、政府は人工である。モノではなく、そう決めたのだ。ただ機能と権限があるだけなのである。つまりルーティンで動く。国がいう「正義」とは国のルーティンの別称に過ぎない。正義の実質ではない。中には国家とは崇高なる目的に沿って合理的に動作すると考える御仁もいる。であれば、財政危機など起きるはずがないではないか。立派な担当者がいるからと言って、彼らの倫理と組織・機構の働きとはつながってはいないのだ(と観ている)。

ずっと昔、豊臣秀吉は、「刀狩」を断行して庶民(=武士以外の町人・農民)から武器を没収した。次に、武装集団同士の一切の私闘を禁じた。確かに武器の所持、武器の使用は減って、世は太平になったが、庶民は自衛の手段を失い「弱者」になった。それでも人は基本的に自由であった。それぞれの家庭は家庭なりの習慣で暮らせた。お上が家庭内の紛争にズカズカと立ち入ることは忌避された。

いま忌避されたと書いたが、室町時代の足利将軍家は守護大名のお家騒動に次々に介入し、遂には徒党が相戦う応仁の乱となった。

夫婦喧嘩は犬も食わないというのは古人の智慧なのである。

昔、江戸の町では「火事と喧嘩は江戸の花」と言われていた。そもそも

人は喧嘩をする自由がある。但し喧嘩をするのも節度がある。

これが小生のイデオロギーの一端だ。現代日本では喧嘩をしたら「暴行傷害」で警察に連行される。これは公権力による拉致である。留置場に監禁される。公権力なら国民を拉致監禁することが容認される。

一体、今の《コンプライアンス社会》の行く果てにどんな社会が待っているのだろう?

日本人は「思考能力は邪魔だ」として自ら放棄し、「法」に従って予測可能な行動を繰り返し、社会は《喜劇化》するでありましょう。

法治主義が徹底されるノーマルな状態を続けたいなら、自由な発想を排し、人間の代わりにヒューマノイド・ロボットを設置すればよい。完全なコンプライアンスが実現されるはずだ。が、このとき社会は《人間不在》となる定めだ。喜劇は転じて悲劇となる。

そんな発展段階に至れば、「コンプライアンス」ではなく、「造反有理」という言葉が輝きをとり戻すであろう。テーゼに対するにアンチ・テーゼ。

正に、歴史の弁証法的発展、ヘーゲル的社会哲学そのものであります。

いや、いや、書きすぎてしまった。止めておこう。


もちろん「体罰」と「暴行」とは厳しく区別するべきである。この一点だけは強調する必要がある。

叱責された子供がなぜ叱責されたか理解できることが大前提である。

親は誰でも、マスコミのMCやコメンテーターのように言葉上手であるとは限らない。なぜそれが悪いのか、すべての親が言葉で上手に説明できるわけではない。

言葉を覚えつつある子供は、言葉なしの真理を直観できるものである。体罰による躾は、歴史の全過程を通して是とされてきた。

非暴力のイデオロギーは確かに立派だが、特定の価値観に執着して、経験知を否定すれば失うものも大きい(と勝手に思っている)  ―   その非暴力のイデオロギーもいま世界から音をたてて崩れつつあると観ているのだが。

2026年5月26日火曜日

断想: 富裕層、起業者、投資家の消費や投資は見るのが嫌ですか?

 こんな記事があった。

ニセコの活況を支えているのは世界的な「カネ余り」によって行われる富裕層の投資や消費だ。平日の東京都心を歩いていると、百貨店など商業施設や飲食店も含め、小奇麗でブランド物で着飾ったミドル・シニアだけでなくむしろ20代から40代の若い男女で溢れている。

(中略)

以前から一定数は存在しているものの、退職者や年金受給者のシニア層に加え、会社員然とした働き方ではない、起業や不動産収入、金融資産運用などで悠々自適に生活できる層が増えているのだ。

Source: PRESIDNT Online

Date: 2026-05-23

読んでいて自ずから伝わってきた現代社会観、というか勤労観、いやいや少し考えてから思い出したのは、ずっと前に愛読していたアイザック・アシモフの短編ミステリー集『黒後家蜘蛛の会』。レギュラー・メンバーである"The Black Widowers"がその月に招待したゲストに先ず発する質問を連想したのだ。

どんな台詞であったか忘れたので、ChatGPTに質問してみたが、回答はどうも違う感じがする。それでGoogleのGeminiに聞いてみると、「そうそう!確かそうだったヨ」という答えが返ってきた  ―   分からないことがあれば、複数の友人に聞いてみるとよい。それと同じだ。

How do you justify your existence?

あなたは何をもってご自身の存在を正当となさいますか?

要するに、「あなたがこの社会で生きている存在意義は何だと思うか?」という質問である。いや、実にアメリカ人的で率直な質問だ。この質問をされて、流石にアメリカ人の成功組の人たちも困惑していたものだ。


それにしても《存在意義》ですか・・・・

小生は、学生に統計学を教えることでメシを食ってきた。 授業を受けた学生たちが人生を歩んでいくのに何か役に立つことを話しただろうかと言えば、多分、ほとんど役には立たなかったに違いない。現在、統計データの探索もデータ解析もAI(人工知能)に質問すれば、ほぼ100%正確な解答が得られるはずである。してみると、苦手な数学を思い出しながら、文系の学生が統計的推測や統計的仮設検定を苦心して理解する必要があったのか、今ではその必須性には疑問を感じている。

今は、暮らしているマンションの役員をやっている。が、それはボランティアである。社会的には価値を生んでいないということだ。というより、市場価値を持っている労働は管理会社から派遣されている有給のライフ・サポーターが担っており、無償の居住者役員は働いているわけではなく、掃除、洗濯に類似した消費生活の一部とみる。こう言えば正確だ。

統計学を教える前は、当てにならない経済分析や経済予測をやっていたから、そこでも社会のお役に立てていたのかというと疑問である。

つまり、小生は現代日本社会の最前線で現場の仕事をした経験は一度もない。黒後家蜘蛛の会に招かれて

あなたは何を以て自己の正当性を証明しますか?

と聞かれれば、多分、

具体的には思い当たりませんが、現に結果として生きているのは何かの正当性があるのでしょう。

と。そう答えるだろう。


最初に引用したような《勤労観》をもっている御仁からみれば、小生のような人間は「働かずして食っている連中」の一人であるに違いない。社会は、実際に汗をかき、体を動かし、疲労をもって一日を終えるような現場の人たちによって支えられている。

それは分かっている。とはいえ、小生には小生なりの《現場観》というのもある。それはついこの間も投稿した。


毎日3時間程度をPC画面の前に座って、マネーを左から右に動かし、それで何千億円の資産を築けるような「天才的投資家」が日本に次々に現れれば、いま平均的日本人が負担している税率や社会保険料率を仮に引き下げるとしても、それでも日本の財政は改善されるであろう。

ずっと以前にも投稿で述べた事でもあるのだが、

いま解決困難だとされている問題の9割は、実は世界に通用する起業者、投資家を日本が輩出できないでいる点に原因がある。つまりは《お金の問題》である。お金を増やすには、短く働いて、多く稼ぐ。それが出来る事を創める。それが出来るだけの知識を勉強して身につける。得た知識を応用する。これが出来る人が社会をリードする、というか結果としてリードする。 

悠々自適できる日本人が増えれば増えるほど、日本は余裕ある国になっていく。小学生でも分かるロジックである。 

そんな社会は問題だと指摘する思考回路は小生は再現できない。

幕末から明治維新にかけて、日本は富国強兵を目指した。日本を守るには先ずは《富国》が必要であることを、みな知っていたわけだ。このロジックは今も同じである。


何が「働く」ということか?そんな《勤労観》うんぬんというテーマは、現代日本の本筋の問題ではない。

仮に「社会主義」を採用しても現代日本の問題は解決できない   ―   というか、社会主義は旧・ソ連が失敗し、中国の北京政府もとっくの昔に放棄したモデルだ。憲法改正を一度たりとも行えず、刑事訴訟法の一部改正にすら苦労するような日本国が社会主義経済を運営できる可能性はゼロである。

行政能力のない政府は出来るだけ縮小して、税と法律を簡素化し、善意の実践を広く自由化し、ごく少数の高等教育を除き教育はすべて地方・民間の自由に任せることが、余裕ある日本の再生には近道だろう。まずは人から、である  ―   「小さな政府」を嫌がる人が多いだろうが、何故それほど「東京政府」が好きなのか、よく分からない。

こんな社会観はいまも変わらない。

2026年5月23日土曜日

断想: 皇位継承は非・民主的に決定するべき?天皇と政治の独立性とは?

今や「女性天皇」、「女系天皇」に賛成するか、反対するかで、日本国民が分断されかかっているとすら感じる世相(?)である。

「女性天皇賛成」が世論調査では大勢を占めている、旧宮家養子は世論に反する等々、「愛子天皇推し」がネット界隈で盛り上がっている。TVではまだ話題になることは少ないが、新聞メディアなど、そろそろどちらの側につくか、思案していることだろう。

思うのだが、世論と皇室を関連づけて皇位継承を語るのは、結果として《天皇の政治利用》につながるのではないか、と。

天皇の政治利用は、戦後日本においては最も忌避してきた情況である(はずだ)。

戦前日本では、陸海軍が天皇を政治利用して我意をとおした。

戦後日本でも、民意が天皇に敬意を払う、その敬意を(特に自民党は)政治に利用した。

というか、ときの天皇を支える側と天皇に歯向かう側を《官軍 vs 賊軍》で対立させるフレームは、日本史全体を通して常に《内乱》の基本構造となってきた。天皇を手中にした勢力が常に勝者になってきた  ―   「壬申の乱」(672年)と「承久の乱(変?)」(1221年)は大きな例外だが。だから、天皇制は継続できたのだ(と勝手に理解している)。ここが日本と外国とを大きく分ける歴史的因子の違いである(とこれまた勝手に理解している)。


戦前日本では、天皇は内閣(=大臣)の輔弼によりこの国を統治するとされた。「輔弼」とは助言以上で強制未満である。つまり「天皇制」とは言うものの、大臣の《輔弼》がなければ統治できない。乱暴にいえば「お上はロボットたれ」という原則があったわけだ。これでは「君主制」とは言えないと小生は(勝手に)思っている。

戦後は、天皇に統治権はない。「ない」とは言っても、戦前も天皇が臣下の反対に抗って「君意」を押し通す権限は与えられていなかったのだから、達観して言えば、天皇の発言力は戦前も戦後も「五十歩百歩」というところだ。

日本の現実政治に、天皇の意志が反映されることはないし、昔もなかったと思っている。

特に戦後日本では、天皇の意志や希望と政治の意志や決定とは何の関係もない、互いに独立している。それが建前だ。

しかし、本当にそうだろうか?これからも、そうだろうか?

本当に、民主主義的な戦後日本で、天皇と政治は互いに独立していられるのか?

戦後日本では民意が政治を決める。政治は民意に左右される。その民意がいま皇位継承を論議している。政治が民意を尊重すれば、結果として、政治と天皇が独立性を保つのは無理である。

民意が媒介となって、政治と天皇が共振するなら、それもまた民主主義だと自惚れるのは、それだけ日本人が劣化している証拠だと思う。

(こんなことは下の下であるが)仮に民意を基盤とする天皇が出現するとして、そんな天皇の意志ほど、民主主義的な日本の総理大臣が怖れなければならないものはない。

そんな天皇を憲法が予定しているとは思えない。

故に、政治が民意によって左右されるなら、天皇は民意からは超然としているべきだ。それが《天皇制》の主旨である(と思う)。


右翼と左翼、保守とリベラル等々、様々な政治勢力が覇権を争う現実政治から独立するには、天皇はどの勢力からも独立していなければならない。結果として、天皇は民意からは無関係である必要がある。天皇制を維持しようとする意識は極めて非・民主主義的にならざるを得ない。

日本の天皇は、その時々の国内政情とは縁を持たない、文化と伝統の象徴としてのみ存在する。これが理想だと思っているので、皇位継承にも政治的要素が混在してはならない。民意や特定の政党による支持、宗教団体の支持等々、これらに左右されてはならない。

故に、皇位継承は、皇統の定義、歴史的妥当性を熟知した有識者のみに基づいて、非・民主的に決定するべきだ、というのが小生の皇室観である。

以上、覚え書きまで。

2026年5月21日木曜日

断想: 独り早朝に読経することに意味があるか?

計量経済学を仕事にしている間、まさか齢をとってから仏道を歩みたいと自分が思うだろうなどと、若い時分に予想したはずはなかった。

そもそも宗教や信仰と言われる人間の行為にはデータに基づく実証性や客観性がないからだ。

この世の一寸先は闇というが、自分の将来像は決まっていると思う人は、まず間違うものである。

"Planning"とか"Strategy"、"Game Theory"という言葉は、一定時点に立ったロジカルな構築物ではあるが、過去・現在・未来にわたる人生全体において結果として何か意義があるかと言えば、ほとんどは予想不可能な偶然的なファクターで人生行路は決まるものである。

感覚的な言い方だが

結果として歩む人生の6割は自らの希望や志向が反映される。残り4割は偶然的ファクターで具体的な暮らしや生業が決まる。

そんな風に達観している。

小生が毎朝読経をする習慣になって一年余りが経ったところだ。怠惰だから(基本的には)毎日せいぜいが五百遍か六百遍の称名念仏で時間的には15分程度に過ぎない。浄土系宗派の開祖である法然は在家の人は一万遍くらいから称名念仏を始めたらよいと書いているので概ね一念十念の範囲内にある。

カミさんには話しているが起きてくることはない。小生独りでやっている。

これがいわゆる《他力の念仏》になっているのか、《自力の念仏》になってしまっているのか、専門的な教理は分からない。

ただ岩波文庫『法然上人絵伝』上巻の第20巻から引用すると、

虚仮とてかざる心にて申念仏が往生はせぬなり。決定往生せんとおもはば、かざる心なくして、まことの心にて申べし。

(現代文訳:浄土宗出版『法然上人行状絵図』より)

虚仮と言うのですが、うわべをよく見せようという心で称える念仏では往生できません。必ず往生しようと思うなら、うわべを飾る心ではなく、真実の心で称えなければなりません。

念仏というのは「南無阿弥陀仏」であり、これはサンスクリット語の"Namo Amitābha"(ナモ・アミターバ)の音をそのまま漢字に置き換えたものである(とされている)。ナモというのは、同じサンスクリットのナーマスの類語で、現代ヒンディー語で「こんにちは」に相当する「ナマステ」の古語と推測される。従って

「南無阿弥陀仏」とは「今日は阿弥陀さま」とでも解釈できる敬礼言葉である。

 いわば「極楽浄土」を主宰する阿弥陀如来へのリスペクトであるとも言えるわけだ。

いずれにしても、観察される物質的宇宙空間ではなく、知的に理解される非物質的な知識世界での存在だ(と理解している)。知識世界における《ミーム》(=自己複製子)が物質的宇宙における物質循環と相応している議論は以前にもドイッチュ『無限の始まり』に関連して投稿しているところだ。

上に引用した文章の少しあとで

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

全体のポイントは《自分自身の心のあり方》であって、他人とは関係ない、他人の評価、思惑、世評とは関係ない、こういう事である。


心のあり方を問題にしているなどと言うと、現代文明を支える「内心の自由」に染まった向きは

何をどう思うか、どう考えるか、思想・表現はそもそも自由である

と。 こんなコメントが予想できる。

つまり宗教、信仰とは、内心を問うものであり、従って内心の自由の否定から話が始まるものである。何が善であるかは、個人個人が自由に考えてもよいという「相対主義」ではなく、あるべき善、あるべき真理等々、絶対普遍の心の状態があると考える。仏理の「菩提心」(=悟りの心境)も相対主義ではなく普遍主義による観念である。名々が自由勝手に悟ってもそれは「野狐禅」に過ぎない。

普遍主義の観点から要求する心のあり方を「マインド・コントロール」と呼ぶのは現代文明の明らかな(困った?)特徴である。


「自由」と「社会」という二つの観念は現代という時代で密接に結びついている。この二つの結合は現代文明の核心であろう。「交換」と「専門化」、「貨幣経済」はこの二つの結合の論理的な帰結である。自分の自由と自分が所属する社会とを表裏一体のものとして意識する、これが当たり前の生き方だと意識する正にその意識が現代文明を支えている。

しかし、「社会」にせよ、「自我」にせよ、そもそも実在はしない。空である。なぜ空なのかを考える。仏理はここから出発する。本来は実在しないものが実在するかのように思い込んで生きるのは「迷い」である。

自由な自分が他人の集団である市場でどのように評価されているかを行動原理として自分の人生を決めていく。そのような意識に支配されている間は、夜更けての読経には価値が認められず、故にそんなことはしないはずだ。

その意味では、早朝の読経はそれ自体としていま小生が追い求める目的に適っている。そんな風に考えている所だ。


何年か前に思想的転向をした。それについては何回か投稿をしてきたが、本日はその後の進展を「ログ(=航海日誌)」として記録しておくものである。





2026年5月18日月曜日

ホンの一言: 「ダメだダメだ」と批判する人が一番ダメかもしれない?

船橋にある両親の墓参りを兼ねて東京まで往復した。清澄白河に泊して(元祖?)深川飯を食べたが、カミさんは「もうイイかな」と。大盛りの白飯に驚くほどのアサリをトッピングして、ネギを一かけ、後は沢庵と味噌汁だけで腹を満たすというのは、確かに江戸の食文化であるに違いない。今回は上の愚息が夏場所を観たいというので同行した。小生は、今場所の大相撲には飛行機代を払ってまで行くほどの観戦価値はないと思ったので、愚息一人で国技館に往く。

北海道に戻ると疲れが出た。若い時分は午前に1件、午後は午後イチ、2時から4時まで大きな仕事を1件、夕方から退庁時間まで1件。夜になってからまた別件と仕事漬けになるのが能力の証くらいに思っていた。最近は、午前1件、午後1件どころか、一日一件。その日の予定をこなすと、ホテルのラウンジで詰碁でもして休憩するか、小さめの喫茶店に入って往来の人々を眺めながら時を過ごすか、とにかく無為に過ごすのを愛するようになってきた。

(海外メジャー紙に比べて割高なので今は有料購読を中止しているが)久しぶりに日経新聞にアクセスした。すると

「日本の恥」はレジより財政 米財務長官の長期金利への警鐘忘れるな

こんなヘッドラインが目に入る。何やら高市首相がまた言わなくともイイことを言ったのか、と。

本文の一部は「無料」で公開している。こんな風だ:

いくらなんでもレジシステムのメーカーに失礼ではないだろうか。11日の参院決算委員会での高市早苗首相による消費税減税に関する答弁のことである。

「システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね。例えば感染症が起こる。何か大きな災害が起きたときに税率すら柔軟に変えられないレジシステムだということは情けない」

日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

以下、続きあり・・・


どうも首相の 『システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね』にカチンときたのだろうかネエ・・・恥ずかしいという感覚は、小生はどちらかと言えば、首相の感覚に近いものがあるが。

税率は頻繁に上げ下げするものであるし、実際、ヨーロッパなどは社会状況を考えながら付加価値税率を結構頻繁に上げ下げしている。

食料品に対する軽減税率、イギリスのゼロ税率などは、(ドタバタ皆無とは言えないが)それほど大騒ぎすることもなく、淡々と、というか粛々と実行できているのが、ヨーロッパの財政である。日本のマスコミもそんなヨーロッパ諸国の財政政策を淡々と報じてきている(はずだ)。もちろんこんな財政政策には、官僚組織の行政技術があるわけであるし、欧州衰えたりといえども製造業の基礎技術があるわけで、だからこそ実施可能なのである。

日本は古来ヨーロッパを師匠としてきたが、師匠老いたりと見るや、もはや学ぶものなしと、態度を一変させる悪癖がある。この辺り、日本国民は実に機会主義的であると思うのだが、先進国・後進国を問わず、海外にはいつでも学ぶところがあるものだと思う。


マア、この辺はAIにでも聞けば、いつでも詳細に教えてくれる。

というか、上の引用文の中の

 日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

これには、思わず笑って、いやいや苦笑、というか失笑というか、ニンマリとしてしまいました。

確かに、日本国のIT技術水準、分かる人の少なさ、研究意欲の低迷は、以前から《わかっていたこと》であります。ダメダメな人に、いまさら「ダメだ」と言ったところで、

ダメなことは前から分かっていたでしょ?

と言われるだけである  ―   カエルの面に水、とはこういう情景を言うのであろう。

もちろん、これ自体が情けないあり様なのだが、もっと情けないのは、

余りにも長い期間、ダメだダメだと指摘されながら、今もなおやっぱりダメだ

と。つまり、改善へのアップターンが観察されない。これこそ最もダメな所である。


若い芽が育って来ないのか、若い芽を潰しているのか?

おそらくこの両方なのだろうが、日経新聞というメジャーな経済紙で、こんな文章が堂々と載るところに現代日本社会のダメな所が象徴的に表れているのだと小生は思う。

とはいえ、大谷選手、山本投手、村上選手などの野球界、八村選手などのバスケット界等々、スポーツ分野では世界で評価される人物を日本は続々と輩出できている。音楽界や美術界も評価は高い。文学界も多様な若手人材が生まれてきている(と感じている)。

一方、数学、物理学、化学などの自然科学、経済学、心理学、社会学など人文・社会科学分野で、グローバルに活動する日本人はどれほど生まれているのだろうか?小生の勉強不足もあるかもしれないが、学問分野で注目すべき若手(中堅も)人材が注目される例は、最近あまり目や耳に入らない。

学問上のレベルはプロ・スポーツ界とは異なり、言論や世論、生産技術の創出などに、そのまま直結するものだ。ここが実は停滞しているという感覚がある。

学術だけを立て直しても全てうまくいくわけではない、と。ま〜〜アレです、この種の反論に満ち満ちている。この点こそ平成・令和日本の問題の核心であります。

法学は明治以来の国内文系教育の柱である。いま改憲の声が高まる中で、日本国内の憲法学者はどんな見解を持っているのか?《改憲私案》なるものは持ち合わせていないのか?今こそ学問的知見を公表するべき絶好の機会ではないのか?個人的にはそう思いますが、あまり、というかほとんど《法学界》からの見解をきかない  ―   というより、報道されない。

(今は忘れられた?)歴史家・トインビーも語っているが、文明が直面する難題を突破できるかどうかは、少数の人物に宿る才能こそが鍵となる。その他の凡夫は天才的人物が拓いた道を歩く。この段階で平均的国民の勤勉さが主たるファクターになるのである。


以前にも懸念(?)を投稿したことがあるが、もはや学術分野でも五輪選手養成に邁進するスポーツ界と同じ様に《〇〇ナショナル・アカデミー》を開設して、いわゆる”Gifted”と呼ばれる天才少年少女を分野を問わずバックアップするべき時代ではないか?経済支援するべきではないか?特別待遇するべきではないか?

史上最高(?)の数学者・ガウスの例をみるまでもなく、天才的才能の出現は貧富や出自、身分、民族を問わない。貧しいレンガ職人の子であったガウスは領主の支援もあって大成した。

伸びる才能を社会として支援するのは富裕層の善意だけではなく、政治でも出来ることだ。

ダメだダメだと指摘しながら、今日もまたやっぱりダメだという 

こんな政治風景は実に奇妙だ。選手が駄目、駄目と毎日けなす監督やGMがいるなら、一番ダメなのは駄目だと言っている当人である。



2026年5月11日月曜日

断想: 「自我を愛せよ」とは言えないネエ・・・

 昨日のこと、ネットのどこで見かけたか分からなくなったのだが、

自我を大事にしよう

という一文があった。自我は鍵かっこの中に入っていたかもしれない。

何度も投稿してきているが、この考え方には反対の立場に(今は)いる。友人と雑談するときの話題になることもありうるから、要点をメモしておきたい。

例えば横山紘一『唯識の思想』で書かれているが、せんじ詰めれば人の心の中はマチマチ、バラバラであって『一人一宇宙』、同じことだが『人人唯識』が世の実相である。

こんな世界で一人一人が自我を大事にするとどうなるか?

何が正しいか?

何が美しいか?

何が善いことであるのか?

一人一人、自分の自我で判断するしかないという理屈になる。これは究極の《相対主義》である。アメリカはトランプ大統領の自我で為すべきことを決めればよい。その権限があるからだ。イスラエルのネタニヤフ首相も自分の自我で正しいと思うことを為せばよい。そんな理屈になる。世界がどうなるか誰でも分かるはずだ。多くの自我が衝突する結果は弱肉強食の原理以外にはない。


古代ギリシア世界の「世界大戦」でもあったペロポネソス戦争に敗北したアテネの民主主義社会は、敗戦後に大いなる混乱に陥った。知力、財力、体力に勝る強者の意志が善であるという思想が流行したのは、《敗戦の必然》でもあったわけだ。せめて論争や法廷の場の弁論だけは熟達しておこうと「ソフィスト」と称される専門家が「有識者」として尊敬されたのは世界史の教科書でも記述されているところだ。

人間は万物の尺度である

大事なことを決めるのは人間であり世論(?)である。こんな哲学(?)が当時のアテネで一世を風靡した。

ソクラテスの主張の核心は『それではダメだ』という一点にまとめられる。何が真であり、美であり、善であるかには、人を超越した絶対永遠の答えがある。唯一の真理を知ろうとする努力を人は放棄するべきではない。プラトンが師・ソクラテスを描くことで伝えたかった事は実に単純明快な一点であった(と勝手に理解している)。

ただ知るべき真理は「自我」によってはとらえられない。感覚はあてにはならない。感情も人それぞれである。まして世の評判や名誉などは無常そのものだ。自我の中の「理性」によってのみ真理はとらえられる。何故なら理性は、万人に共有される同一の心の働きであり、正しい答えがただ一つ存在するなら、真理を真理だと認識できるのは人間に与えられた理性の働きによるしかない。これがロジックであるからだ。社会的な意思決定においても同じこと・・・

理性は万人に共有されるが故に「自我」の中の「超自我」である。行動する時、理性に従うことは、カントなら実践理性の声を聞くと言うだろう。

西洋の哲学に沿って考えるとこんな議論になる  ―   哲学辞典的に言葉にこだわるなら、「理性」と「知性」は違うと言うところだが、いまはどちらでもよい。

戦争は自我によって起こり、平和は理性によって達成されると誰かが言うなら、かなり西洋の薫りがするものの、小生も大賛成である。


最近の小生は仏道に沿って考えることが増えてきた。少し昔とは正反対である。

仏道では《無我》を原理とするので、《自我》は実在しないと言うところから議論を始める。

というより、実在しない自我が実在するかのように誤認して、自我に執着する心を《我執》という。この根本的間違いは、真理を何一つ知らない《無明》が根本原因なのであるが、それ故に生じる自我意識からは《我癡》、《我見》、《我慢》、《我愛》という煩悩が生まれ、自らの心を汚すことになる。即ち

  • 我癡がち:自分とは何かを知らない
  • 我見がけん:自分がここにあると思う
  • 我慢がまん:「他人」と比較して「自分」は優れていると思う
  • 我愛があい:自分に愛着を感じ、(物質的身体として)もっと生きたいと願う
自我意識からこういう風に、自己利益を求める心理(煩悩)が生まれて、しかもそれは正しいと意識する。

達観してしまうと、現代資本主義社会は、人の心の中の「無明」とそれ故に生まれる自我を愛する「煩悩」を丸ごと肯定して構築された社会である、と。ずっと以前の非・近代の社会に生まれた知識人であれば、現代世界をこう理解するであろう。


確かにこの世間は煩悩の支配する濁世であるのが現実だった。いまもそうである。自己利益を追求するためには合理的戦略があるのも仕方がない。それはやむを得ないことだ。しかし、だからと言って
自我を愛せよ
開き直って、こんな風に自己肯定するのは、とてもじゃないが言う気にはなれない。『大事にしよう』とは『愛せよ』と言うのと同じであリンしょう?『俺の心は邪念だらけで汚れてるしサ、ずっと悪人だから、いまさら偉そうなことを言う資格はないがナ・・・』という位のデリカシーは持つべきだろうと思う。

2026年5月8日金曜日

断想: 理論家・ヒックスの経済史と歴史への関心の高まり?

小生は、経済学から勉強を始めて統計学を飯のタネに選んだ。だから、縦に生きるというより、横に生きている人の気持ちは、比較的分かるつもりでいる。

経済学の勉強を始めた当初、ヒックスとサムエルソンは(特に純粋理論畑の人にとっては?)正に「神様」のような存在で、アダム・スミスやデビッド・リカード、更にはケインズの『一般理論』を真面目に読まない人でもヒックスの『価値と資本』だけはきちんと理解しようと、一生懸命精読したはずである。小生は計量畑であったが『価値と資本』、特に巻末の数学付録は、大学院入試の前に丁寧に読んでおいた。

大学院に入る頃はヒックスの『資本と成長』が評判になっていた。しばらくしてから『資本と時間』が日本語訳で出た。理論系の大立者であったM.F.教授は

ヒックスも耄碌したのかネエ

と語っていたのが何だか面白かった。

神様も老いることがあるのか

まあ、そんな感懐であります。『資本と時間』に老いを感じたのであれば、ちょうどその頃に執筆していたはずの『経済史の理論』はどう評しただろう?

こんな(下らない?)本を出すなんて、やることがなくなったのかネエ・・・

理論系の経済学者ならこんな評価になったかもしれない。聞いてみたかったものだ。

小生の「ヒックス経験」はそんな風であったので、最近、substack.comでDeLong先生がヒックスの経済史をテーマとしているのには、少々驚いた。

読むとこんな下りがある。

From his stage theory Hicks drew a bottom-line conclusion: When we consider the process that has generated our economic growth and current prosperity, we should note first that we have been very lucky. This process has gotten farther than it had any right to. The market system spread, expanded the potential for the specialized division of labor, created the opportunity for high-scale investment and accumulation. But it was always a tendency. It was never an inevitability. It had a halting nature. It had a limited geographic spread. They needed necessary supports were only found in patches.

ヒックスは自身の段階理論から、次のような結論を導き出した。我々の経済成長と現在の繁栄を生み出した過程を考えるとき、まず我々は非常に幸運であったことを指摘すべきである。この過程は、本来あるべき範囲を超えて進展した。市場システムは拡大し、専門分業の可能性を広げ、大規模投資と蓄積の機会を生み出した。しかし、それは常に傾向に過ぎず、決して必然ではなかった。その性質は停滞しがちで、地理的な広がりも限られていた。必要な支援は、断片的にしか見つからなかったのである。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-05-01

URL: https://braddelong.substack.com/p/theories-of-economic-history-v-commerce 

経済成長には何も必然性はない。歴史的結果として(多少なりとも)持続的に観察された「傾向」というものだという認識は、「成長」に劣らず現代世界の人で信じる人が多い「民主主義」にも当てはまるというのが、昔からの個人的感想であったので、同じような事を言う人はどこかにいるのだネエ、と。そう思った次第。

続けよう。

Plus there were the occasional reversals. We know more than Hicks did now about the post year -1200 late Bronze Age collapse, during which the Greeks forget how to write. We know more about the post-Song retreat of China’s iron production. We know more of what caused the D—I understand we are not supposed to call it that: call it the post-200 Late-Antiquity Pause, the thing that led to a world in which, somehow, by the year 750, in both Europe and in China, people were looking around and marveling at the accomplishments of the earlier Hellenistic and Roman and Han civilizations at their height, and mourning their situation as unworthy descendants of mightier men.

さらに、時には逆転現象も起こりました。紀元前1200年以降の青銅器時代後期の崩壊、つまりギリシャ人が文字の書き方を忘れてしまった時期については、ヒックスが当時知っていたよりも多くのことが分かっています。宋代以降の中国の鉄生産の衰退についても、より多くのことが分かっています。D期(そう呼ぶべきではないことは承知していますが、紀元前200年以降の古代末期の停滞期と呼ぶべきでしょう)の原因についても、より多くのことが分かっています。この停滞期によって、どういうわけか、750年までにヨーロッパと中国の両方で、人々は周囲を見回して、最盛期のヘレニズム文明、ローマ文明、漢文明の業績に驚嘆し、より偉大な人々の後継者としてふさわしくない自分たちの境遇を嘆くようになったのです。 

過去を賛美する所が儒学にはある。これも、しかし、事実に基づいた学問的知見であるというわけだ。

現代では「科学主義」が浸透している。現代人は、前の時代に生きた人より「進んでいる」と確信している。しかし、その確信には(実は)根拠がないわけである。進んだ科学は、先人たちが達成した成果であり、現世代が進んでいることを意味しない。

いま進行しているのは、人の大脳内部で起きている「思考現象」を半導体でそのまま模倣しようとするAI(人工知能)の研究開発である。思考(のような動作)を再現できるとしても、AI(人工知能)が「自我を意識した精神」であると思う人は一人もいない。そもそもよく言えば「人工」、悪く言えば「もどき」なのであり、それを実現可能にした基礎理論は何十年も前からあったわけである。


古代社会で華やかな文明が栄えたにもかかわらず、次第に創造性を失い、「民族の大規模な移動」をきっかけにして自壊するかのように、文明社会としては瓦解し、百年単位の「暗黒時代」を送ったことは、最近になって小生が関心を集中させている領域である。トインビーは、西洋については375年から675年までの300年間を混沌の時代と評しているし、この事情は中国についても後漢の滅亡から三国時代、南北朝を経て隋唐時代までの長い期間に当てはまっている。

文明の歴史の長い時間においては、「進歩の時代」と「後退の時代」が交互に現れると考えておいてもよいかもしれない。

理論家・ヒックスがこの辺の問題に知的興味を抱いていたのは、単なる経済学者ではなく、もっと水準の高い文人であった証拠だろう。

Hicks also concluded that fixed-capital industrialization—the key source of prosperity—required both science coming in from left field, and also the development of unusual institutions of financial deepening to make people willing to invest in things that coud not be liquidated for cash whenever events went rapidly south and the panic spread. Hicks also concluded that the system was very unlikely to deliver general wage increases, at least not until it had spread enough to a large enough scale to get you exhaustion of the W. Arthur Lewis labor surplus in the countryside; or until you got unions strong enough to enforce rent-sharing for a labor aristocracy. Hicks also concluded that the beginning, the development, and the future of the future of this process always was and is a dicey political-sociological question.

ヒックスはまた、繁栄の源泉である固定資本工業化には、異分野からの科学の流入と、事態が急激に悪化しパニックが広がるたびに現金化できないものに人々が投資する意欲を持たせるための、金融深化のための異例の制度の発展の両方が必要だと結論付けた。ヒックスはまた、このシステムが一般賃金の上昇をもたらす可能性は非常に低いと結論付けた。少なくとも、農村部におけるW・アーサー・ルイスの労働余剰が枯渇するほど大規模に普及するか、労働貴族のために地代分配を強制できるほど強力な労働組合が形成されるまでは、そうだろうと結論付けた。ヒックスはまた、このプロセスの始まり、発展、そして未来の見通しは、常に厄介な政治社会学的問題であったし、今もそうであると結論付けた。

《科学と工業》との決して切り離せない密接な関係性は言うまでもない。この関係性に加えて《信用と金融》が寄り添うことで、産業革命が進行し、現代の資本主義文明の大輪の花が開いたわけである。その過程で実質賃金が着実に上昇し、生活水準も向上したのであったが、これはこれで余剰労働力とのバランスから起きた現象であったというのは、経済理論に忠実な理解だ。しかし、過去において起きたから今後も同じことが起きるだろうとは言えない。それは人口と生産性との関係が決めることで、未来を予測することは出来ないとも言っている。

やはりヒックスは『賃金の理論』から研究をスタートさせた経済学者である。

いま急速に発展しつつある《AI(人工知能)》と先進国に共通する《少子化》という変化を観察するとき、ヒックスならどう思考するだろうか?

人口と経済発展は、マルサスの『人口論』を待つまでもなく、最初に経済学者の注意を引いた最重要な研究テーマである。

人口は幾何級数的に増加する一方で食料は算術級数的にしか増えないので必ず過剰人口が発生し賃金は最低生存レベルにまで低下する。

マルクスが『資本論』を執筆していた頃、広く流布されていた「賃金鉄則」だが、その後の経済成長によって「予言」は見事に外れたというのは、少し前の経済成長論テキストでお得意のエピソードであった。

しかし、まさか、どの国も高度文明化するに伴って《少子化》が進むと誰が予測しただろう?

所得分配の不平等化については、日本の経済学界でもこの50年程で多くの経済学者の問題意識を刺激し、研究成果が蓄積されてきた。 

若いころはそれ程の差がつかなくとも、高齢になれば大きな差になるものだ

運動会の徒競走やマラソン競技をみずとも、この単純な理屈は誰でも理解できる。これに少子化が合わされば、

高齢化社会では資産分配の不平等度は上昇し、所得分配も不平等になる。

当然、こんな帰結が出て来るわけだ。 

しかし、分配に関連する要因は「年齢」だけではない。

他方、分配問題に投入されてきたほど少子化は研究されてきただろうか?

西洋の古代社会はローマ帝国が世界帝国となって完成形に至ったのだが、その衰退期に顕著であったのは来世志向(≒現世への絶望)の宗教、即ちキリスト教の浸透、非婚率の上昇、移民の増加とローマ社会の変質であった(と推測されているようだ)。

古代社会の瓦解を歴史的に更に詳細に研究する必要性は、今後にかけて一層高まるかもしれない。


2026年5月6日水曜日

ホンの一言: ト政権、一体何をやりたいのか分かりませんという状況

経済理論では文字通りのマイスターであるものの、政治的立場はかなり違うなアと感じてきたクルーグマン博士だが、最近は遠慮会釈のない自国の大統領批判に愉快さを感じるようになった。これも日本人ならではの気楽さか・・・アメリカ国民の苦衷を体感できないのが残念だ。

今回は、「再エネ」が大嫌いなトランプ大統領が、意図することなくしてグリーン・エネルギー重視の流れを決定づけてしまった状況を(面白おかしく?)紹介している。

The global energy transition — the shift from fossil fuels to electrotech, which uses solar, wind and batteries to power an electrified economy — is accelerating. It’s now clear that the closure of the Strait of Hormuz marks an inflection point: the global green energy curve, which was already on a rapidly rising trajectory, has suddenly become even steeper. “Investors,” reports the Financial Times, “are piling into clean energy funds.”

化石燃料から電気技術への移行、すなわち太陽光、風力、蓄電池を用いて電化経済を支える電気エネルギーへの移行は、世界的なエネルギー転換を加速させている。ホルムズ海峡の閉鎖は、まさに転換点となることは明らかだ。すでに急速に上昇していた世界のグリーンエネルギー曲線は、突如としてさらに急勾配になった。「投資家たちはクリーンエネルギーファンドに資金を集中させている」とフィナンシャル・タイムズは報じている。

This acceleration isn’t just a consequence of soaring fossil fuel prices. It is also the result of the worldwide realization that, with the end of Pax Americana, depending on imported hydrocarbons is a risk not worth taking. The United States cannot be relied on to keep sea lanes open when cheap drones can take out an oil tanker or a major pipeline. Even relying on oil and gas from America itself is dangerous, since one never knows when an erratic U.S. government – now under the control of a twice-elected malignant narcissist — will try to use energy as a tool of coercion.

この加速は、化石燃料価格の高騰だけがもたらしたものではない。それはまた、パックス・アメリカーナの終焉に伴って、「輸入炭化水素に依存するのは、敢えて取るほどの価値がないリスクだ」、そんな認識が世界中に広まってしまった結果でもある。安価なドローンが石油タンカーや主要パイプラインを破壊できる状況では、米国が海上航路の安全を確保してくれるとは期待できない。米国産の石油やガスに頼ることだって危ない。なぜなら、二度も選出された悪質な「自己肥大症患者(ナルシスト)」が君臨する不安定なアメリカ政府が、いつエネルギーを我意を押し付けるための強制(脅迫?)手段にするか分からないからだ。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: May 05, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/trump-is-losing-a-second-war

オバマ、バイデン両氏の民主党政権下で進められた《再エネ重視路線》、

坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い

ということか?『掘って、掘って、掘りまくれ』と石油業界に活を入れていたのがト大統領だ。

しかるに、自分自身が最も嫌っている再エネ・ビジネスに、意図することなくして、わざわざ絶好のチャンスをいま与えている。ク博士も

何をやりたいのか、サッパリ分かりません

と言いたい感覚が伝わってくる。


100年前のハーディング政権は「オハイオ・ギャング」と言われていたそうで、その後「史上最低の大統領・ワーストワン・ランキング」の常連  ―  いや「アメリカ史上最も腐敗した政権ランキング」であったか?  ―  であったが、今のトランプ政権、何と呼ばれるようになるのだろうか?

そういえばハーディング大統領も共和党選出の大統領であった。


2026年5月3日日曜日

断想: 君子、豹変する。というより、豹変できる、と言うべきか?

朝、目が覚める前に、変な事を考えていた・・・

君子は豹変する

という古来の名句である。日本では「豹変」を悪い意味に使うことが多いが、

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

『間違った』と気づいた時点で直ちに止めることの大切さは、日本でもよく引き合いに出される。


今秋に予定されるアメリカ中間選挙で与党・共和党が苦境に立たされている由。某世論調査では、現・連邦議会は信頼できないと回答した者の割合が9割を超えたというから、大統領自身より先に与党が先に崖っぷちに追い込まれている模様だ。

マア、分かります。そりゃ、当然こうなるワナとしか思えません。

とはいえ、必敗の状況の中、手詰まりになったト大統領になお選択可能な道がある(かもしれない)。

それは、ネタニヤフ・イスラエル首相を生贄(Scapegoat)に差し出すことである。

私はイスラエルに騙された。ネタニヤフが私に嘘をついたのだ。

と。イスラエル抜きで停戦し、イスラエルへの軍事支援を止め、パレスチナ難民への支援を強化する。


文字通り

君子、豹変する。

ユダヤ層とは亀裂が入るだろう。その一方で、アラブ系住民はト大統領を見直すだろう。

《史上最低の愚かな大統領》との評価は確定的になるだろうが、傷は最小限にとどめられるかもしれない。

うまく行くかどうかは分からない。そもそもト大統領、「君子」ではないはずだ。しかし、今歩いている道は「行き止まり」であろう。


起きる前の夢の中の話しである。面白いと思ったので覚書きまで。


2026年5月2日土曜日

前稿の補足: 社会は人生ゲームの競技場ではない

前の投稿でこんな下りを書いた:

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

このブログで何度も書いているが、小生は折り紙付きの偏屈者だ。智慧もない凡夫だ。一口に言うと、だから、扱いにくい唯のヒトである。なので、小生にとって現代日本の世間は決して「生きやすい空間」ではなかったし、今もそうではない。書きたいことを書いて、それでも治安当局の任意聴取の対象にならないのは、「違法行為」、「要注意人物」としてマークされていないからだろう。

今更だが

アメリカでは原則自由、例外禁止。日本では原則禁止、例外自由。

こう言われることが多い。昨年の夏に亡くなった旧友・O君なら

世界の常識は日本では非常識。日本の常識は世界では非常識。

これまた今でも耳にすることが多い。日本は島国であるせいか、自分たちの美的感覚、社会的常識を頑なに守っても、それで困ることはなかったし、外国と軋轢を生じさせることも少なかった。

小生はというと、自由に行動する時も、常に周囲の目、合法か違法か、規則に違反していないか、こんな事ばかりを意識してきた。いやあ、よくもまあ懲戒処分もされず、無事にやって来れたことよと、改めて我が身の幸運に感謝している。友人の一人は、「学内不正経理」とやらで六カ月停職の憂き目にあった。尊敬する我が先輩は「セクハラ」を理由に譴責を蒙ってしまった。

近年の日本は誠に剣呑な世になっている。

リアルな体感はないが、活発だった田沼時代の後の寛政期、華やかな文化文政時代の後の天保の改革期も、同じような雰囲気だったのだろうと想像する。というか、大正から昭和にかけての急激な世の空気の変化も、今と同じようだったのだろう。

しかし意外なことに、今では単なる"Japanese"が"Japanesque"と評価されることもあるから、小生の田舎でいう「キョロマ」とは正反対の「頑固」なお国柄が功を奏することもある。

ただごく最近感じるのは、いわゆる「日本風」が世界的観光の有力地として台頭するのに刺激されたか、日本人が過剰に保守的になって、外面は優しくて寛容だが、内面は(その実)器が小さくて神経質。こんな世相を痛感することママあり。

他人は自分の鏡ではない。他人の心に自分を見るのではなく、自分の姿は自己自身のみが知る。これを徹底したいものであります。


ネットによれば、暴力団組長の葬儀に出席して取材をした新聞記者が世間で非難されている由。何も会社から指示されたのではなく、香典も自費で払ったとのこと。

どうやら「反社」とは一切の接触を断てという「お上のご条例」があるそうで。

これなどは《棲み分け》を容認しない現代日本の世相、価値観を象徴している。

棲み分け否定、同化絶対、異分子排除を貫く《イスラエル主義》を日本人は批判できんナア

そう感じる次第。


現代人は世の中を何か人生ゲームの《競技場》とでも思っているのではないかしらン・・・ゲームや競技なら統一ルールが要るのは確かだ。ルールに違反するとファウルになり、繰り返せば《退場》となる。度を越せば《永久追放》と相なる。

しかし、日本は競技場ではないし、人生はゲームでもない。勝敗を争っているわけでもない。全ての日本人は意志によってこの国に生まれたのではない。人生ゲームに参加しようと考えたわけじゃあない。居場所があればいい。価値観が合わない人とは棲み分けして、感性が一致する人と楽しくやれれば満足なのだ。人に迷惑をかけなければ好きな事をやって生きたいと願うのは凡夫の性だろう。あれはダメ、これは禁止というのも程合いがある。


全ての人には生まれた国で居場所を得る生得の権利がある。法を犯せば刑罰が伴うが、接触、会話までを絶てという権限など、最初からお上にあるはずはない。犯罪を手伝えば共犯だが、「食事をともにしたから処罰しろ」という社会は、小生の目には《暗黒社会》にみえる。どちらが暴力団か分からなくなる。

事実を虚心に観察すれば、いまのアメリカは暴力団的である。同じように我々の社会が組織暴力団的になる可能性は常にある。そう思われますがネエ…

【加筆修正:2026-5-3】

2026年4月30日木曜日

断想: 「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる?

いかにも現代日本(特有?)の世相を映していると感じる記事は毎日見かけるもので、たとえば

 現在の大学のキャンパスでは、セクハラなどのハラスメント防止の啓発は学生同士の関係においても進んでいる。

 同じ学部、同じコミュニティ、同じ界隈といった範囲での炎上騒動を身近で見聞きしている若者も少なくなく、特に問題になりやすいのはやはり異性との関係だ。 

 そういう自分にとってリスクになるタブー要素を若者は意識的にも無意識的にも避け、コンプライアンス(コンプラ)を遵守するようになっている。 

Source: YAHOO! JAPAN ニュース

Original: PRESIDENT Online

Date: 2026-04-29

コンプライアンス(Compliance)については前にも投稿したことがある。

確かに、アメリカ社会などでは《自由》の価値、《個人の実存》が日本よりは遥かに徹底されて意識されているようだから、《法》の尊重が強調されるのは、社会のバランスをとる上で必要だと思う  ―   特にトランプ現政権の関係者にはコンプライアンスの感覚を徹底して持ってもらいたいと思う。現状はただ「無法」に近いのじゃあないかとも、真面目な日本人は感じる。

他方、日本人は視野の中に車が1台も見えない時でも、歩行者は信号が赤から青に変わるまで大人しく、というか真面目に待つというお国柄である。そんな国で《コンプライアンス》を強調したらどうなるか?

上に引用した下りは、社会的な帰結を示す一例でもあろう。

上の記事は以下のように続く:

 そんな調子だから、一緒に連れだって出かける時の「一番居心地のいい組み合わせ」も大幅に同性寄りにシフトしている(図表2)。恋愛至上主義真っ只中の1994年調査では約4割が「異性との二人」を挙げており、また、「男女二人ずつ」というダブルデート的な組み合わせを選ぶ人も約3割いた。

 異性を含めた組み合わせを選んだ人は合計で約75%に及ぶ。それが2024年調査では異性を含む組み合わせを全て合計しても35%程度にまで減少しているのだ。

 一方で大幅に増加したのが「同性同士の二人」。3人中2人はこの組み合わせを一番居心地がいいと回答している。同性との居心地が良くなった、という側面もあるだろうが、それ以上に異性との居心地が悪くなった、気の置けない関係が作りにくくなったことを痛感させられるデータだ。

一度《性的変質者》として烙印を押されてしまうと、その人は《男女共同参画》を基本理念とする現代日本では、ほとんど《社会的死》とほぼ同等の宣告を受けてしまうのが現実だろう。(特に男性が?)異性との交際、というか必要以上の親密さを避けるのも、リスク・マネジメントとしては賢明な戦略であり、いわば人生を生きていく上での《支配戦略》になっているのだと思う。

実際に「性的トラブル」を起こした人物は、支配戦略に沿って意思決定できなかった頭の悪い「落ちこぼれ」である、と。社会的には「無用」である、と。そういう事なのでありましょうか?

これは男女を問わないと思われるが、異性との一時的交友を楽しみたいと願うなら、有料ビジネスの場においてサービス消費として時間を過ごすのが最も安全である  ―   それでも不同意であったか同意であったかで、しばしばトラブルが発生しているようだが。

ま、いずれにしても、男女の交際にまでリスク・マネジメントの感覚が必要だと感じさせる現代日本社会において《少子化》が進むのは、当たり前だと思う次第。

夏目漱石は、『三四郎』に登場する「偉大なる暗闇」こと広田先生に、発展する日本を評して「滅びるね」と言わせているが、社会や国というのは、一生懸命に「そうなろう」と統一行動すればするほど、逆にそうはなれないものである。今のコンプライアンス運動、こんな調子であと10年やって行けるイメージがわきません。

自由と法の重みには必ずバランスがある。一方ばかり強調すると、いつか、どこかが破れる。

むしろ

男女七歳にして席を同じうせず

教育の場で男女分離を徹底し、公共・職場においても必要以上の男女の接触を断ち、その代わりに異性の友人関係については「血縁」、「地縁」に代わって、ずっと昔は町のどこにでもいた《お節介な世話好き叔母さん》が無報酬で、ただ親切心だけで果たしていた役割と同じような、何らかの、社会的に容認されるような、新たな《社会的慣行》が日本社会に定着するまでは、いまの息詰まるような学内環境、職場環境は続くのではないか。少子化も傾向として続くのではないか。そう思われます。

そうでなければ「男女共同参画社会」ではなく「男女共同参画特区」でも創ればよろしかろう、と。

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

昔の「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる。

日本社会は実はなにも変わってはいないが、いま目指している社会システムとそれに必要な倫理感覚が、日本人をハッピーにするのではなく、むしろアンハッピーにしている。そんな風に思われたりするのだ、な・・・ 


 




 

2026年4月27日月曜日

断想: トインビー的学問の再生が間近いかも

 小生がまだ十代の頃、盛んに名前を聞いていながら、今では話題になることすらなくなった人として、歴史家・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)がいる。

ジャーナリスト的歴史家としてE.H.カー(Edward Hallett Carr)はまだ何かの記事で目にすることはあるが、トインビーの方はもう忘却の彼方に去ったようでもある。

まあ、戦前期に一世を風靡(?)しながら、戦後には全く忘れ去られた感がある徳富蘇峰などは、姿の唐突な消え方においてトインビーに似ているかもしれない。新聞記者兼歴史家兼評論家としては日本社会で極めて高名で影響力のあった人物である。

確か、トインビーには日本に「トインビー狂(?)」とでも言えるような人がいて、その人物の影響で日本でも著名であったことだけ覚えている。誰だったかな?・・・ちょっと思い出せない。ChatGPTに「トインビーを日本に紹介した人は誰でしたか?」と聞いてみると、清水幾太郎辺りの名前が出てきた。ちょっと違っていたような気もするが、確かに清水幾太郎の著作を読んだこともある。・・・忘れた。

最近は廃れてしまったが、トインビーをWikipediaではどうまとめているのかちょっと覗いてみた。


要領よく総括されているが、ウクライナの事も言及されていたので、原文にある脚注へのリンクボタンを削除したうえで引用しておこう:

トインビーは、ウクライナ(小ロシア)については、内政自治も連邦制も否定した。 

トインビーが連邦制に反対したのは、連邦制になったロシアは分裂しすぎて統一された重心を持つことができず、かつてアメリカ合衆国が一時的に分裂(南北戦争)したように、断片化して分裂する危険性があるという懸念からであった。 

トインビーは自治権の代わりに、ロシア帝国の大ロシア地域でウクライナ語を公用語にして、ウクライナ人(小ロシア人)が大ロシア人の劣等生としてではなく、大ロシア人の仲間としてロシアの政治家の一員になることを目指すことを提案した。トインビーはまた、ウクライナ語がロシアで公用語化されてもロシア語に対抗できないのであれば、ロシア語の優れた生命力をきっぱりと証明することになると主張した(トインビーによれば、ウクライナ語は農民のバラッドを書くのにしか使われていないのに対し、ロシア語は偉大な文学を書くのに使われている)。

20世紀初め、第一次世界大戦後の世界情勢をみながら、上のように述べている。

そして21世紀初め、ウクライナはソ連崩壊後に独立を目指し、ロシアへの敵意を露にし、いまは西側陣営(NATO)を後見役として、戦争を継続している真っ最中である。そのロシア=ウクライナ戦争の煽り役として記憶されるであろうイギリスで、ずっと昔、実はイギリス人・トインビーが「ロシア同化論」とでも言うようなウクライナ観をもっていたのは、面白いではないか。

ウクライナ人が愛するウクライナ語がロシア文明の中で自然淘汰されていくなら、それはそれで自然のプロセスである、と。いかにもイギリス人らしい物の考え方であると感じました。

実際、第二次大戦後のソ連で首相となったフルシチョフはロシア人ではあったがウクライナで育ったような人であった。ソ連最後の書記長・ゴルバチョフもまたウクライナ人の血を濃厚に受け継いでいる。 

ロシアがウクライナを遇する姿勢にも問題はあったろうが、ウクライナ人の感情も狭量であったと小生は感じる   ―    マ、所詮は他人事ではあるでしょうが、最近の投稿では「二級国民」の語を使っていたのでそのつながりもあって、です。


トインビーといえば(小生は未読であるが)『歴史の研究』が主著である。その中でトインビーは、国家や政体ではなく、文明そのものの興亡を考えている。Wikipediaの<トインビー>には以下の下りを引用しているが、小生が十代であった当時も、非常に有名な歴史観であった:

人類の歴史の中で26の文明の盛衰を検証し、それらの文明は、エリート・リーダーからなる創造的な少数派のリーダーシップのもと、課題にうまく対応することで発展したと結論づけている。

『トインビーが『歴史の研究』で考察した26の文明とは何であったか?要約できますか?』という質問に対するChatGPTの回答はここに残しておこう。《発展した文明》のカテゴリーの中に「極東文明(中国系:儒教文明)」とは独立して「日本文明」が挙げられている点にトインビーのアジア観、というか文明観が見て取れて、非常に興味深いところだ。 


最近50~60年程か、トインビーに注目する人がほとんどいなくなった理由の一つとして

トインビーが事実に基づくデータよりも神話や寓話、宗教を好むことを指摘している。

こんな点が挙げられているようで、ここにも現代文明を支配する《科学主義》、《実証主義》の影響があるように思う。

しかし、科学では「自己意識の発生」を説明できない。そもそも物質からどのようにして「生命」が発生するのか、これまた未解明である。物質が物理的身体となって、物理化学的プロセスから遂に自由意志を獲得して、自らの意志によって運動するなどと自然を解釈するのは「神話」以上に荒唐無稽であろう。人が認識する「世界」は、物質循環システムという「それ自体」よりは、そもそも精神的存在である(という立場に最近になって転向した)。

「社会科学」では、そもそもデータ収集過程そのものから「サンプル・セレクション」が発生し、データが真相を教えてくれるというより、真相を洞察する純粋理論の反証としてデータを使用する姿勢が求められる。何が「事実」であるか「真相」であるか、データ自らが語ってくれると考えること自体、既に「神話」と言うべきだ。

まず考えなければ真理には近づけない。必要なのはデータの前にまずは思考であって、智慧である。データはその後だ。無思想にデータを集めても何も分からないままである。まず考えることが不可欠なのである。自分が考えてもよいし、過去に生きた人物がどう考えたかを知ることも、大切である。

生き残る理論はそれが良い説明になっているかどうか、良いモデルであるかどうかで決まってくる。真理をついた理論はエビデンスが集まる前から既に真なのである。

《文明》を精神活動ではなく、観察可能なデータ、物証で基礎づけようとする科学的歴史はそろそろ研究メソッドとして主役の座を降りるのではないだろうか?

そんな意味で、トインビー的学問の復権も間近いと思う、昨今であります。

【加筆修正:2026-04-28】



2026年4月25日土曜日

ホンの一言: これも業縁というものでござろう

 イスラエル首相のネタニヤフさんが前立腺がんの手術を受けた由。


A君: あれだけ多くの人を殺しておきながら、自分が死ぬのは嫌なんだネエ…

B君: そりゃ言い過ぎだろ、人の命は平等だよ

A君: マア、そうだろうけど、死んでよろこぶ人は多いだろうナア

B君: ・・・・


以って瞑すべし。病気の回復を切に祈る。

この世は舞台。どんな役回りを生きるかは、前世、過去生から受け継いだ業と、生まれてから出会った縁によって決まるものである。

この理は太平洋戦争のA級戦犯とて皆同じ。

殺すも殺されるも「これも業縁というものでござろう」と、唯円の『歎異鈔』を読んだ日本人なら言うであろう。



《戦犯》・・・現世で演じた役回りに対して下された審判はいまに至るまで有効である。というか、そんな判決があった事実を実はなかった事にすることはできない。これも業縁。しかし、今生を終えた非物質の精神的働きの根底、即ち阿頼耶識は最期の念仏で浄化され極楽浄土へ往生できたのか、それとも業があまりに強勢で別の生に転生し別の生を生きているのか、それは定かではない。いま生きている人間には不可知である。が、仮に別の人の阿頼耶識に転生しているなら、今度こそ平穏な一生を全うして、解脱への道を幾ばくかでも歩んでほしいものである。以上、近頃もつに至った宇宙観を補足した。

【加筆修正:2026-04-25】

2026年4月24日金曜日

ホンの一言: 国防費と社会保障費のトレードオフ?

ネットを見ているとこんな記事が目に入った:

Edgewingは英伊日の次世代戦闘機=GCAP本格開発に向けて「初の国際共同契約が締結された」と発表したが、これは英国の資金不足を反映した6月末までのつなぎ契約に過ぎず、スターマー政権は社会保障費の大幅削減に手がつけられず国防費増額の財源確保がますます困難になってきた。

URL:https://grandfleet.info/european-region/lack-of-funding-hinders-full-scale-development-of-next-generation-fighter-jets-making-significant-cuts-to-social-security-spending-difficult-in-the-uk/ 

要するに、社会保障のためにカネがいるので国防に支払うカネがない、と読める。

ウ〜ム、これは逆じゃあないか。そう感じました。

大きく極端なケース(an extreme case)で考えよう。モデルの頑健性、というか使用耐性は極端なケースでどんな帰結になるかで分かるものだ。

敵国の侵略から国を守る軍事行動には巨額の国防費が要る。税はいますぐ年度内に必要だから徴収するものだ。国防は「戦費」とは違う。戦費は戦費でケインズも『戦費調達論』を書いているところだ。私人は防犯設備に投資してセキュリティを買う。国は国防予算で国の安全を買うわけだ。税でなければ、国民に借金をする、つまり国防費の財源に国債を発行するのも理屈は通る。仮にも敗戦となると国債は多分紙くずだ。(運よく?)勝てば負けた敵国を収奪すれば国債を償還できる。これもロジカルである。

一方、国民が格差拡大に困窮しないようにするにはカネをバラまく必要がある。やはり金が要る。しかし、金持ちから金を借りて、貧しい人に金を支給するのは無理だ。借りた金を返せる目途がない。故にバラまく金は税で徴収しなければならない。特に金持ちを標的にした累進所得税や相続税、資産課税、更に(可能なら)累進消費税が有効だ。これがいわゆる福祉国家の理念で、ほとんど社会主義の国家運営となる。

国防と社会保障。財務省の視点からは巨大な歳出項目である点で同じだが、目的も特性も全く違う。

~ ~ ~

無しにしてもヨイのではないか?

優勢な敵が侵略してくれば、政府はさっさと降伏する。それで幕引きだ。犠牲も最小限ですむはずだ。国民の為だ。その代わり、国民は占領国から「二級国民」として侮蔑されるであろう。

貧困な国民がいても政府は無視しておけばいい。富裕層からカネを徴収(=増税)して、貧困層にカネを支給(=社会保障)しても、それでもって政府が助かるわけじゃあない。大体、社会保障給付を政府から受け取っても、貧しい人は政府に感謝はしないものである。政府に恩返ししようなどとは、これっぽっちもおもわないであろう。当然の権利だと思うだけだ。他方、税で取られる側は政府を恨む。割に合わないのだ。

社会保障を不可侵の権利だなどと思う国民なら、上段のように敵国にサッサと降伏して、以後蔑まれようと、その通りなのだからイイだろうと。

達観してしまうと、こんな議論になるだろうとは、若いころは思っていた。森嶋通夫の「無抵抗降伏論」はこの発想に近い。そして、今もって社会観は大きく変わらない。


補足すると、森嶋氏の無抵抗降伏論では勝者側から「二級国民」として侮蔑されるという可能性があまり採り上げられていない。寧ろ、「勤勉」で「我慢強い」日本人の国民性を発揮すれば、降伏後に日本人の才能によって勝者からリスペクトされるはずであるという議論がされている。1970年代の日本人であれば有効性があったろうが、パワハラ被害、モラハラ被害が多数訴えられ、退職代行業者が成長するご時世の現代日本人には、森嶋の議論は当てはまるまい。ただ単に「二級国民」と見られるだけであろうと予想する。


議論を戻すと、故にイギリス政府は安心して軍事費をカットして社会保障費を確保すれば良いのだ。それで英国民がイイと考えるなら、という結論になる。

しかし、本当に強大な敵国に降伏するとして、占領下で手厚い社会保障を継続するのは無理であろう。占領国が法外な賠償を課し社会保障給付を削減することを余儀なくされるのは確実だからだ。賠償とは名称であって要は無力化を目的とした収奪であり必ず実行される(はずだ)。

現時点で「国際法」はほぼ死文化していることを認識しなければならない。

要は、国民の気概と覚悟が論点なのである。

ソクラテスはただ立派なことを喋っていたから若者を惹きつけたわけではない。戦争には剣と盾を手に従軍し最前線で戦っていた勇者でもあったのだ。現代に置き換えれば、(いい例かどうか分からないが)第二次大戦末期のノルマンディー上陸作戦を「連合国遠征軍最高司令官」として指揮したアイゼンハワー将軍が戦後に米大統領になった例を思い出す。戦場を潜り抜けた人物はそれを知った国民から信用されるものだ。口からだす言葉は、普段の行動に裏付けられた気概と覚悟と一体でなければ、表裏ある人物と変わらず、たんなるお喋りになることは誰もが知っている事である  ―   「たんなるお喋り」に満ちた現代、日本もアメリカも同じ世相だろうが、今のト大統領がそうでないことは切に望んでいる。

ソクラテスやアイゼンハワーといった個人の話しになったが、国民も同じだ。気概と覚悟無き国民は必ずなめられる。話は実はシンプルなのだと思う。

国防と社会保障は「あれか、これか」でなく、《辞書的順序付け》。つまり国防関係費をA項目とすれば、社会保障関係費は次のB項目になる。

あるべき形はこうで、国民、というか市民と言うべきか、有権者とよぶべきか、価値の順序付けを当たり前のこととして、順応するしか道はないのではないか?

単純比較ではない。国家的価値の順序の問題ではないか?

こんな風に思うわけであります。

経済理論に則して考えると、政府は《政府サービス》を供給するために設置される組織である。

「政府サービス」というのは、『国民経済計算(=SNA:System Of National Accounts)』の用語であるが、要するに「公共サービス」である。

その公共サービスとは、公務員が直接に担う立法・行政・司法サービスのことを指すし、あるいは市場では十分に供給されない「公共財/社会資本」の整備を通して供給されるサービスをいうこともある。無料の公園などは市場では十分に「公園」が供給されないから、税を財源にして整備し無料で開放しているわけである。

国防が市場を通して有料で提供される情景は想像しがたいし、裁判所の司法サービスが有料の市場サービスである事態も想像困難である。

確かに「コアな公共サービス」はある。特に、治安・警察・国防は、古来、統治行為の核心であって、これを担う組織として警察、軍隊とは別に、紛争解決や刑罰を科すための裁判所が設けられたのは、誰もが想像できるはずだ。

割り切れば、その他のサービスは全てグレー・ゾーンである。教育、研究開発は民間では不足するのか?なぜ不足するのか?産業政策は国が行うべきなのか?そもそも何が成長分野か、民間には分からないが、政府には分かっていると言えるのか?リスクマネーというが、そもそも政府が国民からカネを集めて、ハイリスクの研究開発に投じるべきなのか?

社会保障もこの疑問の対象につらなっている(と思う立場に小生はいる)。


平等な医療を安価に提供することが何故政府の仕事になるのか?それでもって寿命が平等になるわけではないのである。

生活水準をなぜ(可能な限り)平等にしなければならないのか?決して政府が担うべき公共サービスとは思われないのだ、な。

間違ってはいけないのは、恵まれた人々が恵まれない人たちに善意を提供するという行為は疑いなく《善》であることだ。論点は、善を行うことができる人々からその機会を奪い、「政府」が政府の行為として、社会保障を行うという形のことである。

自発的な善行の余裕を社会から吸い上げて、政府が善を独占するという社会のありようは、小生は好きでない。

善なる行為は政府が主役で、それ以外の国民はただ自己利益を追求すればよい。例外的に公益法人などの存在を政府が認めてよい、と。

経済学の大前提はこれに近いものがあるが、これでは健全な社会にはならないという理屈は、中学生でも理解できるはずだ。普通の日本人は決してこうは考えていない(はずである)のは、日本社会が救われる点だと思っている。

しかし、戦後日本では社会保障の美名のもとに逆に国民を抑圧する機会を政府に与えている。そう思うのだが、共感してくれる人は多分ほとんどいないだろうネエ…

だから、今日のイギリスのように、社会保障の為に国防予算を削るというのは、正に本末転倒としか思えないのである。


・・・今回は物騒な投稿になった。剣呑、剣呑、ご容赦願いたい。

2026年4月23日木曜日

断想: 文明崩壊の論理、反政府的経済学者の愛国心について

 「歴史に学べ」という人の多くは産業革命後の近代世界の発展史を指していることがほとんだ。せいぜいのところ、16世紀の《コペルニクス革命》以降、ヨーロッパで進行した自然科学の発展と産業技術への応用をイメージしている見方が大半だろう。

西洋の成功物語としては適切な選択だ。

ヨーロッパ発の科学革命とそれがもたらした産業経済の巨大な成功は、いわば「科学主義」と「唯物論」を現代社会に浸透させてきたというのが小生の歴史観だが、中国やインドといった伝統的大国の経済的復権に伴って、西洋的世界観にもそろそろ限界が見えてきたのかなあというのが、足元の状況だと思っている。

もっと注目してもよいと思うのは、あの華やかなギリシア=ローマの古代社会が、なぜ、どのような過程を経て崩壊するに至ったかという問題意識だと思っている。というのは、文明の中心であったローマ帝国の盛時、いわゆる《ローマの平和(Pax Romana)》は賢君マルクス=アウレリウス帝の後を暗君コモドゥス帝が継承して以後、突然に、というか急速に不安定化し、100年の混乱と後退のプロセスに入ったのは、あまりに唐突な変動で、一人の暗君の出現で何故かくも突然に巨大な文明が変調になるのかという問題があると思うのだ。

確かに、ゲルマンなど異民族の侵入など国際環境の悪化や農業生産技術の停滞など、数多くの原因が挙げられている。政治的不安定性の高まりが為すべき政治的決定を為すのを不可能にしたという点もあるだろう。それでも帝国が健全な時代であれば、帝国から外国に文化的同化力を放射できていたのが、一人の暗君の出現以後は反対に外国の脅威が帝国の平和を直接的に脅かす負の連鎖の時代へと入っていったことが不思議であるわけだ。

ローマ帝国の衰退についてはフランスの啓蒙思想家・モンテスキューが共和制の廃止と帝政への移行を根本的原因に挙げている。しかし、帝政に移行してから200年弱も経ってから負の影響が出て来るか、という疑問がある。ギボンも大著『ローマ帝国衰亡史』を著している。ギボンが指摘する衰退の原因は

  1. ローマ帝国の市民の精神的退廃とモラルの低下。
  2. ローマ軍自体の異民族依存、つまり多民族化は、国境防衛を脆弱にして、国防軍としての軍律弛緩を招いた。
  3. キリスト教の浸透が、来世志向、現世否定の心理を蔓延させた。一神教なるが故に皇帝の権威への忠誠心が揺らいだ。国を守ることを自分のこととは考えない市民が増えた事が示唆される。
まあ、ChatGPTに聞くと、こんな点に要約される(とされている)。

ローマ帝国は西洋においては唯一無二のグローバル帝国として君臨していた。であるから、衰退するとすれば、外的要因ではなく主として内的要因からであるというのは、よく理解できるところだ。

キリスト教の普及は、帝国の経済成長が頭打ちになり、政治的不安定性が高まる中で、一人一人の市民が日常的なストレスを感じた3世紀に加速した。

キリスト教の浸透とモラルの崩壊は、ある意味で矛盾するかもしれないが、自らの義務として帝国を守ろうとする気概が衰退したことを以て、モラルの崩壊と解釈すれば、分かる話しではあろう。

現代にまで伝わる古文書には残っていないだろうが、その当時も同時代的知識人が盛んに文明批評を著し、危機感を訴える文章を公表していたのに違いない。多くの人が文明の危機、帝国の危機を議論していたに違いない。

それでもローマ帝国は衰退し、滅亡し、古代社会は完全に瓦解し、ヨーロッパ社会はカール大帝のフランク王国がひとまず乱世を収めるまで概ね300年の暗黒時代を経た。キリスト教以外の文明資産は全く失われ、貨幣経済から物々交換への逆戻りを経験したのである。

こんな事が起こったのは何故だろうか?

自然科学の発展が始まってから、産業革命が始まってから、そんな成功物語を観ているだけでは分からない《文明崩壊の論理》、《衰退の論理》というものがあるのではないか?



クルーグマンが足元の電気技術の発展についてこんな見方をしている。Google翻訳で訳された和文で引用しておこう:

また、トランプ大統領がイランによるホルムズ海峡封鎖に対抗するため、自らもホルムズ海峡を封鎖するという決定を下したことは、各国が太陽光発電や風力発電に転換しない場合に頼らざるを得なくなるであろう、米国産石油とLNGへの依存が安全ではないという認識を確実に強めることになるだろう。気まぐれな米国が、他国のエネルギー依存を武器化しようとしないと誰が保証できるだろうか?

トランプ氏のイランにおける冒険主義的な行動は、太陽光発電、風力発電、そして再生可能エネルギーを24時間365日稼働させるためのバッテリーへの投資を世界的に加速させるきっかけとなった。

では、世界が求める再生可能エネルギー機器の大部分はどこから調達されるのだろうか?それは中国だ。中国は世界の工場であり、その製造業規模は米国、日本、ドイツ、韓国を合わせた規模よりも大きい。

   (中略)

バイデン大統領政権下で、米国はバッテリーや電気自動車をはじめとする電気技術分野の発展に向けて、必要不可欠な措置を講じた。また、再生可能エネルギー全般の成長加速も目指した。しかし、トランプ政権はバイデン政権の再生可能エネルギー関連プログラムをすべて中止しただけでなく、再生可能エネルギー分野への民間投資を積極的に阻止しようとしている。

アメリカがトランプ氏の化石燃料への執着から解放される頃には(もしそれが実現するとしても)、再生可能エネルギー製造における中国のリードは恐らく克服不可能なものになっているだろう。

太陽光パネルやバッテリーを中国に依存する世界は、必ずしも悪いことではない。政治的にも経済的にも、ほとんどの国にとって、カタールや、現時点では米国からの液化天然ガス(LNG)輸入に依存するよりも、はるかにリスクが低いのは確かだ。

Source: substack.com

Author: Paul Krugman

Date: 2026-4-14

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/chinese-electrotech-is-the-big-winner

小生は、親英米であるが、だからといって反中でも嫌中でもない。

「一つの中国」は歴史的事実というばかりではなく、そもそも日本には未だ和平には至っていない「国共内戦」という中国国内の紛争に介入する権限も、外交上の正当性もないという立場に立っている。

何より日本文化の表層を覆っている西洋由来の衣をはぎ取れば、古代から江戸時代まで続く伝統文化が表れ、そこには純国風の大和心と中国・インド発祥の文物が裏地のように織りなされてあり、日本人の感性を包んでいることが分かる。

なので、上のようなクルーグマン氏の論調には全面的に賛成する。経済的にそのとおりであり政治的にも、共和党的な政治観に好感をもっていた小生にも、上の左翼的見解は道理であると思われる。

最後にこう結ばれている。

しかし、この国が自らを破滅させ、未来を担う最も重要な産業を中国に譲り渡してしまうのを見るのは悲しいことだ。そうすることで、私たちはより貧しくなり、技術的に後れを取り、エネルギー革命へと突き進む世界において影響力を失ってしまう。結局のところ、私たちは化石燃料を燃やしているだけでなく、自らの未来をも燃やしているのだ。

愛国者としてのクルーグマンの思想が表れていると感じるのは、民主党支持者だけではなく、普通の人たちにも多いような気がする。 

 

 

 

2026年4月19日日曜日

断想: 『アメリカン・デモクラシー』が(改めて?)世界から注目される時代?

人口学者兼歴史家というべきかフランスのエマニュエル・トッド氏は、政府関係者が好んで使う《日米同盟》について、本当に「同盟」なのか?実態は「占領国&被占領国」の関係性が続いているだけではないか?こんな根本的な(?)疑問を投げかけているのが最近の言論界であります。

ただ厳しい問いかけをしても日本社会の空気を変える実効性はないのだろうナアとは思っている。

日本の若手現役世代には、

一身独立して一国独立す

こんな『文明論の概略』で主張された福沢諭吉的な独立精神はもう刺さらないような気がする。

これには時代背景があるわけで、そもそも高齢層とプレ高齢層を含めて、独立精神などは皆無ではないかと指摘する人も多かろう。実際は

独立どころか国家依存性がますます強まっている。

これが事実じゃあないか、と。社会保障という人工呼吸器で老後の生活を送っているのが、現代日本の高齢層の現実だ、と。我が道を行くどころか、巨大組織の歯車になる方を選ぶ性向はますます強まっているような社会観を小生はもつようになった。

国家、社会と言っても所詮は他人の集団である。その他人に《弱者に寄り添う優しさ》を自ら求めて恥じないエートス(=気風)が最初から肯定されるようになった。独立精神を求める要請はいつの頃からか冷酷であると退けて、《独立の尊厳性》を語る気風も否定されるようになった。高齢者が何の恥らいもなく他者依存精神を発揮しているのに、若い人たちにのみ独立精神を求めても説得力はないわけである。

日本社会が他者依存精神でまとまるに伴い、外交もまたアメリカ依存、アメリカ追従の一択で恥じないわけであります。

日本国が国際化すれば、「先祖代々の絆」には共感しようもない外国人在住者や二世たちが増える。すると個々人の独立志向が再評価されるであろう。だからこそ、これ以上の外国人増加は困る。他者によりかかる日本人集団が移民政策を本能的に嫌う根っこはここにある。そんな風にも思うわけであります。

依存すること自体に恥を感じなければ、対米従属は心地よい安心感を醸し出す仕掛けとなる。たとえ実態が「同盟」ではなく「占領」に近いものであっても

背に腹はかえられぬ

と合理化が出来る。経済学でいう《習慣形成効果》が国民行動にも作用するわけだ。

ところが、ロシア=ウクライナ戦争を煽っておきながらウ国のゼレンスキー大統領を公衆の面前で『あなたの国にカードはないンだ』と侮辱する、イラン攻撃に否定的なヨーロッパを口汚く罵るといったトランプ大統領の登場を契機にして

本当に「日米同盟」なる関係性が日本とアメリカにあると日本人は思っているのか?

こんな事までが話題になってきたというのが、正に今日的な状況であるわけだ。

現在の混乱はトランプ氏の個人的属性に由来すると観るのも可能であるし、日本やヨーロッパのNATO加盟国はそんな「次に期待する」待ちの姿勢かもしれない。

もともとト大統領を"The Worst"(=最悪)と判断していたクルーグマン博士は

Trump Can't Even Surrender Right

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/trump-cant-even-surrender-right?

こんなタイトルをつけてネットで語り、

But, my God, like I said, we are led by people who not only can’t plan a war right, they can’t even successfully execute a surrender. And that’s a really bad omen, not just for the Iran conflict, but for everything else.

しかし、まったく、先ほども言ったように、我々を率いているのは、戦争の計画すらまともに立てられないだけでなく、降伏すらまともに実行できない連中だ。これはイラン紛争だけでなく、あらゆることにとって、実に悪い兆候だ。

と結んでいる。

経済学史に詳しく比較的冷静な論評を書くJames Bradford DeLong博士は、同じくsubstack.comで

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://braddelong.substack.com/p/how-will-future-historians-describe

こんな風に、トランプ政権を《猿山レベル》、というより《猿たちの遥か下》と述べ、はっきり「問題外」としている。戦前のコメディアン・グループ「マルクス兄弟」に似た存在を日本で求めるとすれば1970年代の日本で笑いを提供した「ドリフターズ」辺りが有力候補かもしれない。

アメリカの一流有識者もこう言っているのだから、客観的にものが言えるはずの日本人ならもっと無遠慮に「猿!」と罵倒してもよい理屈だ。ト政権を指してDeLongは「猿」と言っているし、Krugmanはト大統領を「嘘つき」と言っている。

同じことを言う人が日本にいてもよいはずだ。ところが、政府関係者はもちろんとして、有識者、専門家を探しても、そんな人は日本に一人もいない。我慢しているのかもしれない。遠慮しているのかもしれない。まるで「裸の王様」の前で声を上げない大人たちのようである。それとも日本もまた同じ種類の《猿》を推しカツしているので、「猿」が「猿」であることが、ほとんどの人には認識できないのかもしれない。だとすれば怖いナアと思うのであります。

小生の高校、大学時代は学生運動華やかなりし時代で、先輩たちは《アメリカ帝国主義反対》、《打倒米帝》などというプラカードをもって大規模デモを繰り広げ、キャンパス内の学内設備を破壊して回ったものである。幼稚ではあったが、独立精神の表れだと自惚れた団塊の世代も、いまは他者依存の気風に染まってしまったのだから、変われば変わるものである。

背に腹は代えられない

日本社会はひたすら《合理性》を追求している(つもり?)かもしれない。しかし、合理性という点だけでいえば、猿も合理的に行動するし、アリやハチは十分に集団合理的である。他者依存から発していても行動が合理的であるのは可能だ。


いずれにせよ、現代日本人が共有する国民心理は、この30~40年で一変してしまった。実に歳月怱々の感あり。

対米従属は日本人が主体的に選んだ合理的な解なのであると、故に世界から批判されるアメリカの猿の悪行も日本は非難はしない、そもそも善悪の基準は相対的であり、名々が自由に決めれば良いのだと、忠義や友情も当事者の猿の選択だ、と。それならそれで、日本は日本の運命を受け入れればすむわけである。

ただ、明治維新前後に40歳以上であった人物は世の役には立たず、明治を支えたのは討幕・維新の時点で10代の少年たちであった世代だと言われる。

激しく変化するいま、世代交代の加速が日本再生への早道かもしれない。

率直に言って、いま現在、トランプ大統領がアメリカ合衆国の大統領として現に仕事をしているという事実そのものが、アメリカン・デモクラシーの本質的危うさを証拠立てるものである。

こう考える人は世界に多いはずである。かつて『アメリカの民主主義』を書いたトクヴィルもこんな問題意識をもっていた。

中国が仮に普通選挙を基盤とする民主主義国になるとして、多くの日本人はそれを歓迎するのだろうか?

小生は不安だ。

本当に14億の中国人が民主主義の手続きによって外交、国防政策まで決めていくのか?大丈夫なのか?共産主義だろうが何だろうが、むしろ有能なエリートが指導する現在の中国的統治の方が世界にとって安心できるのではないか?

小生は、こんな風に思うし、案外多くの日本人も民主主義国・中国に不安の念を共有するのではないかと想像している。

バカが偶々権力の座に就くことは専制君主制の下では世界史に無数の前例がある。が、普通選挙で指導者を選ぶ民主主義国でもバカが権力を得る事態は十分にありうるわけだ。バカが決して権力の座に就くことはないというシステムが必要な理由がここにある。いくら限界があっても(万国共通の尺度である)頭脳優秀なものを選抜する制度の方が、知識や知性をバカにする本当のバカが権力を握るよりは余程安全であろう  ―   それも相対的に、ではあるが。