2026年8月22日土曜日

断想: 「直系、直系」とあまり言い募るのもなんだかネエ……という話し

まだ改正してから何か月も経っていないにもかかわらず高市内閣の強引な皇室典範改正は非常に評判が悪いようである。

まあ、確かに数百年の間、傍流であり続けた旧宮家が、いかに「世襲親王家」という特別の血筋であったとはいえ、その辺の事情は現世代の日本人には知識がほとんどないわけである。

今回の皇室典範が、要するに何を含意しているかが明らかになってくるにつれて、社会的な反発が広がるのは無理もないような気がする。

ただ小生は、この辺には割と冷めていて、何度も投稿するが

誰が天皇であろうと、あっしには関りはござんせん

ホンネはこんな所である。

確かに、皇統と縁もゆかりもない御仁が、いつの間にか天皇になるというのは、日本史を汚すものである、とは感じる。これは正直にそう感じる。

とはいえ、皇位継承にこだわりがあるかと言えば、「何か深いご関係でもおありで?」と、そう問いたくなるのだ。

今から14年前にこんな投稿をしているのも事実だ。少し引用しておこう:

いま皇位継承をめぐって女性宮家を創設する方向で話が進み、内親王の称号を与えられるのは今上天皇の直系女子に限定される方向だと憶測されている。上の戦争責任との関連で議論する向きはほとんどないと伝えられている ― 仮に議論されているとしても一般報道には絶対に出てはこないだろう。思うのだが、歴史的にも採用したことが一度もない「女性宮家」までを創設し、そこまでして明治・大正・昭和と続いてきた直系を正統として守らなければならないのだろうか?守らなくとも天皇制は維持できる。

こんな発想をするのは古いと言われれば古いのだが、男子に恵まれず、ついに今の系統が(万が一)絶えることになれば、それはそれで歴史の流れの中で下された<天意>というものではないだろうか?その時には、敗戦後に廃止された伏見宮系統の皇統が皇族に復帰して、新たに正統として皇位を継いでいけば、よいのではないだろうか?明治・大正・昭和と続く、現在の皇統が聖なるものとして、採用したことがない方策をとってまで直系に執着するには、「永遠に刻むに値するような歴史的歩みだったのだろうか?」というか、国民が心からそう願うための倫理的な根拠が薄弱ではないのか。小生、そう思うのだな。ずばり<国を誤ったではないですか>、実際、それが戦後日本の基本的姿勢だと思うのだが。なのに・・・という意味である。

一口に言えば、

何も無理をしてまで、いまの皇統の直系を守る必要などないのではないかという立場になる。

そう思う根拠は、正に上に引用したとおりであって、結局のところ《戦争責任》というキーワードにたどり着く話しなのだと思うのだ。

確かに現在世代の日本人は、日中戦争にも、太平洋戦争にも何の責任もないし、満州事変の歴史的評価とか、上海事件への対応の適否とか、知らなくとも、考えなくともよいことである。

しかし、仮に祖父か曾祖父の親類に世を震わす凄惨な事件をひき起こした人物がいて、世間はそれを今では忘れているとしても、事件の当時に被害者遺族にどんな謝罪をしたのか、その後どんな償いをしたのかについて、全く何の関心も持たず、聞いたこともないという生活態度で生きているとすれば、何かの拍子でそれが話題になった時に、その歴史的無知を非難されても仕方がないと思うし、それは現在の子孫が引き継ぐべき《業》であると思うのだ、な。

世界史においては《忘却の権利》も《忘却の義務》もないし、「赦しはするが忘れず」というのは人類共通のモラルなのだろうと思う。

だから上に引用した投稿の最後は

日本の文化遺産の多くは、天皇と朝廷を舞台にした王朝文化である面が大きいのだが、天皇は国家と一体化してきたが故に、政治の荒波から無縁ではありえない。1945年以後10年ほどの間に ― なるほど日本人の多くは食べていくにも大変であったとは思うが ― 道義の観点からとるべき行動で、何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない。それは後世代である私たちがもう一度真剣に考えてもいいのかもしれない。ま、これが小生の個人的な意見だ。

こんな風に『何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない』と書いたのは、

もう一度よく思い出して、どんな風に過ごしてきたかを調べなおしてみてもいいンじゃない?

ま、こんなことを考えていたことが分かる。

特に「天皇家」になると、日本の歴史に責任を持たざるを得ない立場でもあろうから、あまり「直系、直系」とこだわるのも何だかネエ……と   ―   もちろん、今上陛下も現宮家の方々も、こんな風にはお考えになっておられないはずですが。

そういうことであります。

2026年8月19日水曜日

断想: 「民主主義の文化的DNA」があるのか?

 ニュースポータル"SmartNews"にこんな下りがあった:

日本にとって中国は最大の貿易相手国となっているが、世界のリーダーとなった中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない。著者は中国研究の第一人者であり、バイアスのかからない情報発信を長年、続けてきたことで知られる。日本の将来を考えるなら、絶対に読んでおくべき一冊だ。

評論家・加谷珪一氏が寄稿した『『おそるべき「中国一強」時代』(富坂 聰)への書評の中の1節である。

違和感を感じました。

中国とどう付き合うべきなのか国民的合意は得られていない・・・

《国民的合意 》が、日本と中国との交流に必要なのでしょうか?

中国から日本に文字が伝わり、仏教が導入されたのは、《国民的合意》があったからか?田中角栄首相が北京政府と日中国交回復をしたのは《国民的合意》があったからか?北京政府が中国の唯一合法な政府と承認したのは《国民的合意》をしたからか?

国民的合意とは、これいかに?国会の議決のことか?世論調査の一定割合以上のことか?

こんな疑問もあったりする。


中国と経済取引を拡大する方向は理に適っている。これは中国ビジネスを展開してきた(している、を含む)ビジネスマンなら肌感覚で了解する真理であろう。

高市・現内閣が採っている反中路線は、地政学的、安全保障戦略上の色々な理屈はあるのだろうが、せんじ詰めれば《非合理》だと思う立場に小生は立っている。

その背景として、日本の大衆心理に何となくのレベルで潜在している、対中恐怖心に迎合しようという政略があるのだと勘ぐっている  ―   対米恐怖心なるファクターが語られないのは不思議だが。

民意を重視する政治体制ならば、これは仕方がないが、仮に明治前半期のような文字通りの専制君主制であれば、民意とは関係なく国益上合理的な外交戦略をとれていたに違いない。


先日、終戦時の海軍大臣であった米内光政のことを調べることがあってWikipediaを読んだのだが、こんな下りがあった:

武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は、世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を、批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが、出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで、二百年かかる」と述べたという。

 非常な洞察力だと感じた。この中の

日本には古来から、日本独自の伝統思想風習がある。その上に、アメリカ流の民主主義を無理に乗っけようとすると、結局反動が来るのではないか。

この部分は今後ますます明瞭に可視化されてくると予想している。


日本は、確かに中国や朝鮮のような専制的な王朝国家ではなかった。山岳地が多い日本の国土は、地域ごとに分立した分権統治、封建体制に自然に向かうようにできていた、と勝手に考えている。

とはいえ、中国文化圏の中にあった日本もまた民主主義や共和制とは縁遠く、世襲を重んじる国であった。これに反し、西洋の古代ギリシア、ローマには、民会を軸にした共和制の伝統があった。というか、そもそもインド=ヨーロッパ語族の源流である古代アーリア民族自体が、民会の議決を尊重する共和制に近い統治をしていた。例えば、Geminiにきいてみると、こんな回答が得られる:

ゲルマン民族、ギリシア人、ローマ人、そしてインドへ向かったアーリア人は、すべて言語・文化的な起源を同じくする「インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)」に属しています。彼らの原初の社会構造には、確かに「王権の制限」と「戦士(自由民)集会による合議」という、共和政や民主政の土台となる共通の文化的DNA(親和性)が存在していました。

ただし、歴史の進展とともにその親和性が崩れ、専制君主制へと移行した地域も多い。インドに侵入したアーリア系の国家では王権が強く、アーリア系であるペルシアもオリエント社会特有の専制君主制に移行した。インドもペルシアも大規模な社会インフラ整備が不可欠で、ギリシアのような小規模・都市国家が分立する社会構造では課題を解決できなかったのである。

この辺り、挑戦と応戦を繰り返す中で変容・発展する文明社会の生きざまが現れており、トインビー的歴史が鮮やかに伝わってくる一面にもなっている。


振り返ると、日本国では民意に基づいて国を統治した経験は歴史の中で一度もなく、唯一の経験である(かもしれない)戦前期の普通選挙体制(昭和初年以降)では、民主主義的な「政党政治」の運営に見事に失敗し、スキャンダルと派閥抗争の果てに主導権は軍部に渡った。そして、戦後日本が(アメリカが起草した)戦後憲法の下で歩んできたわけだが、少なくともイザナギ景気が終わる1971年(昭和46年)までは、官僚による行政指導と日銀の窓口規制が国民生活を律する官僚主導体制にあったし、その体制があってこそ二度の石油危機をも巧みに乗り越えた(と事後的には言える)。

思うに、日本で《民意》というものが社会の在り方を実質的に決めるようになったのは、つまり日本が文字通りの民主主義社会になってきたのは、2001年から5年間続いた小泉純一郎内閣から後の事ではないかと、小生は勝手に思っている。25年程の歴史である。

つまり

日本で(民意が官僚に優越する真正の)民主主義が実質的に機能し始めたのは21世紀になってからのことである。

こんな社会観をもっているのだ、な。

そして、

あれから25年

路線対立とスキャンダル合戦で議論するべき政策課題はないがしろにされ続けている。

何がないがしろにされているって?

多すぎてもう一つ一つ挙げられません。

他方で、国民生活には(ほとんど)何の関係もない《皇位継承》に執着して、皇室典範の再改正をいまなお声高に主張する政治家があまりにも多い。これもポピュリズムといえば「ポピュリズム」、政治には本当は真面目な関心をもっていない大衆からの支持を増やしたい大衆迎合政治といえば「大衆迎合」と言うべきだろう。

これらは全て日本が再び民主主義運営に失敗しつつあることを示唆する。

ありていに言えば、

日本社会は民主主義の文化的DNAを有していない。

少なくとも、政治についてはハッキリ「ない」と言える。そう思い始めているのだ、ナ。


そういえば、小生が暮らすマンションでも総会があるごとに、白紙委任状による「出席」が出席者総数の7割ないし8割を占めるのが常態だ。雑務は、理事長、副理事長、理事など役員に「お任せ」である。次の総会では管理費の大幅引き上げが議題になる。「お任せ」にはなるまい。が、良案があるはずもない。ここでも実在しない《合意》を探る日本的混迷に陥る可能性がある………。日本社会は、マクロ、ミクロ、各層において、(自律的、独立的な)民主主義ではなく《外圧》、《上圧》、《競争圧》が作用して、初めて意思決定ができる。端的にいえば『これも何かの縁である』、『生き延びることが大事ぞ』、『仕方がない』、こう考えるとき、日本人は組織的に、というか絆を意識する集団として力を尽くす。これが小生の日本人観である。やっぱり「島国」だからネエ⋯⋯


米内光政は、日本の復興には200年かかると予想したが、となると日本社会が次のステージに収束して安定するのは、2145年頃になる。2026年の現在から数えればあと119年。世代でいえば5世代という所であろう。今年生まれた新生児が、まだ何人かは生き残っているかもしれないが、現在時点の「世論」などは100%消え失せている遠い未来だ。しかし、遠いとはいえ徳川家康が征夷大将軍になってから徳川吉宗が家康との血縁の近さを評価され将軍に就くまでの時間だと思えば、それほど遥か先の未来でもない。

どちらにしても、最初の大崩壊である「応仁の乱」では、乱の前にあった荘園制社会から乱の後に出来上がってきた大名領国制へと、本質的に全く違った「ガラガラポンの国造り」が進んだ。同じ理屈で、約100年後の未来の日本になるまで、「ガラガラポンの国造り」の2nd Seriesが進むであろう。1945年の降伏後に支配的になった民主主義の原理と、近世・近代の日本人の国民性として受け継がれてきた社会観や感じ方、思想などが、互いに衝突したり融合したりを繰り返すサイクルが何度も発生するに違いない。リベラルな政策が導入されるかと思えば、保守反動が続くだろう。どちらも言い分はあるのである。

どんな社会構造になって安定するのか分かりません。多分、今とは一変するに違いない。皇居が今のままの姿であるのかどうかさえ、小生は予想がつかない。

おそらく未来の日本人が、夏目漱石や太宰治、三島由紀夫を読んでも、今の日本人が近松や井原西鶴を読んでもどこが面白いか分からないのと同じく、漱石も太宰も三島もどこが面白いかさっぱり分からない、生活感覚的にピンと来ない、そう感じるほどに、未来の日本人は今の日本人とまったく別の考え方、感じ方、しゃべり方をする人間になっているであろう。

この国は「降伏と占領」から始まった千年に一度の大変動期にあり、安定収束までまだ長い時間がかかる。これが最近もつようになった歴史観であります。


いずれにしても、《経済大国・日本》も《GDP第4位の経済強国》も、目に見える経済の回復であって、日本の復興というものではないのだろう。そして、実はこの理屈は現代中国をどう観るかにも通じている話だと思う。

何が実現すれば、日本の復興という名に値するのか?それは未来の日本人が次第に理解してくる(はずの)ことである。少なくとも「戦後日本」は、いま世界においてそれほど「名誉ある地位」を占めているとは、言えないという感覚がある。この感覚もまた戦前と戦後と同じ日本人でどこか違っている所ではないかと思ったりする。

こんな風に想像している今日この頃であります。

【加筆修正:2026-08-21】

2026年8月18日火曜日

ホンの一言: この経済政策は「ケ・セラ・セラ戦略」である

 8月17日付の日経では

上場企業の業績が一段と拡大する。2027年3月期の純利益は前期比14%増と6年連続で最高になる見通し。増益率は期初の5%増から上振れする。インフラやものづくりに欠かせない高シェア製品を手がける企業の成長がけん引する。

来年3月期の純利益見通し、つまり今年度の利益見通しは前期比(前年度比のことか?)14%増になる、と。

先日の投稿では、

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。

と書いた。本年6月の「短観」の回答基準日は6月11日である。

再度、「短観」を確認したが、今年度利益見通しが減益方向であるのは上にあるとおりだ。

フ~~~ム、6月上旬ではまだ減益見通しであったのが、最近になってドンドン強気になっていると言うのか……?一方は上場企業、一方は全国企業ではあるけれど。


景気動向指数の先行系列は、腰の強い景気拡大基調を伝えている。これは事実だ。

なぜ6月の短観では「弱気」の見通しになっているのか?

ただ、「短観」でも業況DIの要点は、大方、次のようにまとめられている:

  • 大企業製造業DI: 前回の+17から+22へ大幅改善(2018年3月以来の高水準)。生産用機械や電気機械などが好調。
  • 大企業非製造業DI: +37へと小幅改善し、好業況を維持。宿泊・飲食や小売などが個人消費の底堅さに支えられた。

気分的には明るいことが伝わっている(と判断されている)。

それにしても「個人消費の底堅さ」ネエ……減税は本当に必要なンですか?


しかし、減益にはなる、と。つまりピークアウト感がある。物価の行方、金利の行方も心配だろう。

何だか定まっていない感じがする。

景気観が定まらないままに消費税率引き下げが断行されるのか・・・これも高市内閣の個性、

理論より断行こそ国民のための政治

こういうことかもしれない。これを《ケ・セラ・セラ戦略》と呼んでいる。

2026年8月15日土曜日

断想: 西洋の哲学と仏道の違いを分ける線?

プラトンは、弟子のアリストテレスより、時代をはるかに先行するピタゴラスに近いところがある。輪廻転生を肯定している所はそっくりである  ―   日本の作家、三島由紀夫はその思想の末流に位置するわけだ。

 

西洋の哲学では古代ギリシアから近代哲学まで、結局のところ

理性によって真理に至るとする合理主義の系譜と、経験によって真理を得るとするイギリス経験論の二つの論争に帰着する

要するに、普遍と個の対立。この問題をずっと(今も)考えていると勝手に総括している。

これに対して、仏道では、物質と非物質との違い、具体的には物質的存在が実は空であること、にもかかわらず一部の物質がもっている(と思われる)生命が輪廻によって生まれ変わり、死に変わるのは、なぜ可能なのか?諸法無我であり、「我」は虚妄であるにもかかわらず、何故に輪廻転生はありうるのか?この問いにずっと執着している印象がする。

本質的に空なる物質と生命の永遠の輪廻はどう両立するのか?

この問題である。

これをメモしておきたい、というのが本日投稿の主旨である。

あとは思い浮かんだ順で。


だからと言うべきか、仏理を勉強しているとき、経験によって真理に到達するという考え方に出会うことは(小生の不勉強のせいかもしれないが)ない。真理に至らないのは、無明、つまり迷いの故であり、迷いは感覚と感覚がもたらす表象に執着しているからである、と。

なので、仏理を貫く発想は、西洋の合理主義哲学と相性がよいと思われるのだが、だからと言ってプラトンの否定する《ドクサ》(≒根拠のない思い込み)が、大乗仏教の唯識論でいう《偏計所執性》とほぼ同じであるかと言うと、ちょっとイメージが違うような気がする。大体、仏道には西洋近代哲学のような

すべての人に共通して与えられている理性と理性の普遍性

という、そうした考え方はないように思っている。むしろ大半の人は凡夫で、迷いのなかで生涯を終える。仏道は精神的な救済があるかどうかで登場するのである。


西洋の個人主義を支える近代哲学と古代インド発祥の仏道は、当然のこと人間観が全く違っている。それでも《イデア》は真の智慧である《エピステーメー》によってのみ獲得されるというプラトンの議論と、《仏智》(≒最高の智慧)によってのみ《円成実性》は得られるという大乗仏教の議論は、同じことを言っているような気もする。

大きな違いは仏道を特徴づける《因と縁》という実体なき関係性のモデルであるのかもしれない。が、これすらもギリシア悲劇の『オイディプス』など、大乗経典にあってもおかしくなく、『観無量寿経』の頻婆娑羅王と阿闍世王の父子相克と阿闍世の救済はその古代インド版であるとも感じられる。

資材もデザインも外観も全く違うが、洋の東西を問わず建築物は柱や壁、屋根や梁という基本単位が部屋を構成し、部屋が集まって建物が生まれる。こんな思考の形式は共通している。古代ギリシア以来の西洋哲学と古代インド発祥にして中国を経て日本で独自に発展した仏道と、どこか相通じる感じがするのも、思考や感覚の基底は実は同じであることを教えているのかもしれない。


プラトン的な宇宙観をもっている西洋の自然科学者は現代でも多いそうだ。そういえばノーベル物理学賞受賞者で『皇帝の新しい心』を書いたロジャー・ペンローズはそうであった。であれば、仏教的な宇宙観と最先端の自然科学者のそれが深いところで共鳴する所があるかもしれない。もしそうなら、そんなやりとり、読んでみたいナア・・・

以上、思い付きのメモ。

【加筆修正:2026-08-16】

2026年8月12日水曜日

覚書き: 足元の景気判断を誰も語らないのは奇妙だネエ・・・

 普段愛読しているブログに足元の日本経済の景況に関してこんな下りがあった:

日本企業の第1四半期の決算発表も8割方終わりつつありますが、概ね好調と言ってもよく、経常利益は前年同月比で25%の上昇となっています。円安に伴う輸出企業の利益増加と思われるかもしれませんが、輸出企業と内需関連企業で経常利益の貢献率を見るとざっくり輸出企業の60%に対して内需が40%となっています。また金利上昇に伴う金融機関の利益が莫大になっており、業種全般に好調を維持していると言えます。

日本経済を見れば絶好調とまでは言わないまでもバブル経済以降、最も輝いている時代に入っているとみています。

URL:https://agora-web.jp/archives/260806204700.html

ところが高市内閣は物価高騰の中での生活支援策として消費税減税を断行しようとする構えだ。つまり

景気は良いが、暮らしは苦しい。

ここから出て来る結論は、

労働分配率が急低下し、企業利益に吸収されている。

こうなるのだが、本当だろうか?

ChatGPTに調べてもらったばかりだが、こんな回答だ:

財務省「法人企業統計」を使った企業ベースの労働分配率(人件費/付加価値)では、2024年度は64.2%でした。2000年度の73.2%から約9ポイント低下しています。 さらに2025~26年の四半期データでも低水準が続いており、内閣府の2026年7月資料では、2026年1~3月期までの推移が概ね60%台前半にあります。

かなり以前に本ブログにも投稿したことがあるが、SNAベースで測ると労働分配率はそれほど劇的に下がっているわけではない。が、企業会計ベースで足元の分配は、かなりな程度、労働所得から資本所得へと比重が偏りつつある。このトレンドに間違いはないのだろう。そして、この背景としてAIの普及、浸透があるはずだという見立ては、前にも投稿したことがある(たとえばこれ)。

「AI革命」がリードする「新たな成長軌道」に日本は入りつつあるのだろうか?

しかし、企業利益が拡大し、労働所得が伸び悩み、結果として労働分配率が下がっているなら、当然の理屈として法人税を増税するという選択肢が検討されるはずだ。ところが、消費税減税の財源として、法人税増税を叫ぶ声がそれほど大きいわけではない  ―   マア、新聞、TVも増税は嫌がるはずなので、故意に触れないだけなのかもしれないが、まさかここまで不誠実ではあるまい。

ただ、景況感がイイと言うのは、内閣府の景気動向指数の動きからも確認できることではある。


Source:  https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

緑色が先行系列、紫色が一致系列で、直近月は本年6月である。図から明らかなように、先行系列は直近のボトムである昨年4月以降、ずっと上昇を続けている。これは景気拡大の腰が極めて強いことを意味している。紫色の一致系列は生産・販売の現状を総合的に伝えるデータだが、多分(?)今後にかけて上昇トレンドを加速するであろう、と。図を見る限り、こんな予測になる。

最初に引用した景況感とも一致するのだが、どうも違和感もあるのだ、な。とにかく日本社会には《明るさ》が欠けている。

そこで日銀の「短観」(本年6月)で裏がとれるかどうかを見てみた。

端的に言うと、企業規模、産業を問わず、2026年度の売上高見通しはプラス(=対前年度増加)である。インフレ進行の中で販売価格引き上げが続いているので、これは当たり前である。しかし、経常利益は企業規模、産業を問わず、2025年度から一転して、2026年度は減益見通しになっている。利幅(=マージン)を測る売上高経常利益率も25年度から26年度にかけて、どこも低下が予測されていて、コストアップ増に苦しむ企業経営の現状が映し出されるものになっている。
これでは法人税率引き上げなど、政府は言い出せないだろうネエ
という状況だ。


一部の人が言う「奇妙な明るさ」は、どこから来るのだろうか?

そもそも内閣府の景気動向指数は、今でも景気判断材料として信頼に足る統計なのだろうか?

「四半期別GDP速報(QE)」を重要な景気指標とする慣行は、ごく最近になってようやく「ちょっとおかしい」と感じ始めたのか、下火になってきたが、毎月の景気動向指数の方は小生も愛用してきた。しかし、これも「ちょっとおかしい」という動きをするようになってきた。

一時的な気の迷いか・・・


2026年8月8日土曜日

断想:日本史には二度の《大崩壊》があった?

高市内閣による皇室典範改正でにわかに「皇統」とか、「古代」とか、日本の神話時代に遡る発想が今は面白いというので、最近よく目にするのは継体天皇の名前である。

応神天皇や仁徳天皇より後の人だから神話の中のヒトではないが、何しろ遠い昔のことで『古事記』で知る時代、文字通り「遠つ神代」に生きた人である。

大体、日本人は「そもそも⋯」が好きである。日本語で「そもそも」と言いたい時、英語ではどう言うか、正直、適切なことばが浮かんで来ない。To bigin with、違う。Originally、ちょっと違う。Fundamentally speaking,...、ウ~~ン、いきなりクソ真面目な顔をして言ったら、笑われるンじゃないかナア。

これも古代から中世へと年表の古い順に日本史の授業をやっている副作用かもしれない。歴史に学びたいなら、先ずは一つ前の時代を振り返る考え方で、言うならば中国流で勉強するのが実際的な歴史だと思う、というのは前にも投稿したことがある。「温故知新」とは、千年前の事を知れば今の社会がよく分かる、という主旨ではない。そうではなく、今の社会を知るためには、その前の時代を振り返って経緯と沿革、そして必然性(?)を確かめる、そんな風に糸を手繰るように因果関係を遡及しながら、現在の状況を理解するという実証的方法論である。誰でも日頃やっていることであって、当たり前の正攻法が、正しい理解への早道である、ということだ。だから「歴史」と言っても難しく身がまえることはないのである、本来は。それを1500年位の昔かどうかハッキリしないが、継体天皇がこうだから今はどうこう⋯などと真面目に議論する風景は、滑稽としか感じられない。


それはともかく、これも前に投稿したことがあるが、

日本は応仁の乱の前後でまったく別の国になった

つまり、応仁の乱によって古代以来の社会構造は完全な崩壊へと向かい、織田・豊臣以降の社会はまったく新しい骨格をもった社会になったと言うのだが、小生も日本史が専門ではないが「それはそうかもなあ」という位で共感できることなのだ。応仁の乱の真っ最中から伝わった東山文化の侘び寂びは現代日本人にも感覚的にピンと来るが、鎌倉武士の日常や平安貴族の常識とか意識は本質的に共感の域を超えているはずだ。ましてその時代の庶民の暮らしぶりなど知識があるまい。

もう一つの大変動は、言うまでもなく昭和20年の「無条件降伏」である。占領軍が原稿を書いた戦後憲法は、織豊以降の近世・近代の日本社会を完全に覆した  ―   戦時の国家総動員体制で古い日本は半ば瓦解していたと見る人もいるかもしれないが。少なくとも、明治維新は《大崩壊》ではなく、権力層の交替であって、社会構造は(基本的に)保存された(と思っている)。

太平洋戦争は確かに日本にとっては《千年に一度》級の大変動をもたらした。というより、今ももたらしつつある。そう観るべきかもしれない。

小生は、戦前期・日本で中年までを生きた祖父母の感覚を知っているが、それでも敗戦より前、芝の増上寺には徳川将軍家の霊廟群が江戸そのままの姿で厳かに建ち並び、霞が関には海軍省、三宅坂には陸軍省と参謀本部があった戦前日本のリアルな空気までは分かる由もない。同じ文化遺産を継承していながらも、戦前に生きていた日本人は現代とはまるで違う歴史観をもち、違う考え方をしており、服装や髪型、毎日の食事、あるいはしゃべり方すらも異なっていた(はずである)  ―   共通しているのは同じ数学的問題に同じ解答をするという論理においてくらいだろう。これが一つ前の時代で、「戦後日本」という現代は「降伏」という衝撃後に、そこから出てきた一つの結果である。


この段落は、書き足しておこうと思ったところで、具体的には「明治維新をどう観ているのか」という点に関係する。これは自由勝手な歴史観と言われそうだが、鎌倉幕府の成立と明治維新は、長い日本史の中で非常に似た意義を持っていると思っている。この二つは、既存の社会構造、マルクス流にいえば《下部構造》と呼んでもいいと思うが、この基礎部分を温存しながら、その時代に発生していた問題を解決できる政治体制へと移行したという事につきると思うのだ。その意味で、上では「権力層の交代」と書いたのである。故に、鎌倉幕府、明治維新の双方は本稿でいう《大崩壊》ではない。いわば《小崩壊》である。今流にいえば《社会的リニューアル》である。社会の骨格は変わっていない。権力層の交代という点では、鎌倉幕府滅亡、建武新政から室町幕府成立にかけての出来事も同じだ。やはり(ちょっとした)リニューアルだと勝手に理解している。以上、補足まで。


思うのだが、継体天皇云々は現代日本とは何の関係性もない歴史ロマンである。歴史的に今という時代を考えるなら、織豊政権から江戸時代、明治維新と王政復古、軍国主義までを大きく一括りにした「過ぎた時代」のあり様と歩みを振り返る方が先だと思っている。

【加筆修正:2026-08-09、2026-08-21】



2026年8月5日水曜日

覚書き: 極右の女性首相の爆走、完走できるか?

クルーグマンやデロングのお二方はよく本ブログで引用させていただいているが、フランスの人口学者・エマニュエル・トッド先生の世界感覚も小生とは波長が合うので、何度かネタに使ったことがある。

最近でもこんな見方を述べている:

国際関係はイデオロギーや善意に基づいているわけではありませんし、そうなってはならないのです。

私は中国との穏やかな関係を提唱していますが、中国が巨大な勢力であることも認識しています。どれほどお互いに善意を持っていようとも、もし日本が自らの独立・自立・中立を守るための手段を持ち合わせておらず、また核兵器を保有せず、世界と良好な関係を保てない場合、日本は単に中国の属国になってしまうだけでしょう。日本は自国の独立を守るために、技術的な手段も持っておかなければならないということです。

また、中国の抱えている問題も受け入れる必要があります。たとえば、台湾に関しては中国を放っておくことです。日本こそが台湾の守護者だと考えるのをやめなければならないのです。この見方を好むか好まないかが問題なのではありません。中国との良好な関係構築のためには、相手国の利害についても認識し、各国の勢力関係をしっかりと見据えなければなりません。

だからこそ日本にとっては、核兵器の保有こそが唯一の選択肢だと私には思えるのです。日本は新しい国家理念を定義し、示すべきなのです。

この新しい日本の理念が、自国を核兵器で守りながらも国際関係においては中立性を保ち、自国領土から米軍基地を排除し、同時に「台湾は中国の一部であるという事実を受け入れる」という構想を掲げるのであれば、日本と中国は平和に共存する道が開けるのではないでしょうか。

Source: YAHOO! JAPAN ニュース
Original: Courrier Japan
Date: 8/4(火) 19:45
URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/a30edf2968cbe57b517225f9a72eb456c706c81d

上のような中国観(とアメリカ観)、そして防衛感覚に小生は100%賛成する。

しかし、高市・現内閣の基本方針とは正反対になるであろう。

そればかりか、経済政策をみても日銀の独立性への目配り、長期的な税制改革への展望もなく、

まるでアメリカのトランプ政権の無戦略を戦略とする戦略(?)を模倣する戦略(?)をとりつつある

こう感じられるのだ、ナ。

食料品に対する消費税率ゼロは、それ自体として最初から否定するべき方向ではない。現に多くの「先進国」で同じ政策を実行している  ―   ChatGPTにでも聞きなせえ。

とはいえ、実行するなら実行するで合理的方法を選択する必要がある。

理論なく政策の断行をもって最上の政治とする政治哲学

高市内閣の経済政策は《超・経済政策》と形容してもよいだろう。"Sanae's Ultra Super Economics"、略して"SUSE”とでも小生は呼びたい。

太平洋戦争開戦の直前、総理就任前の東條陸相が御前会議で発言したときく:

人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ

令和・日本の高市現首相の風貌と声音をTV画面で視て、昭和16年当時の東條英機首相のたたずまいの、男女の別はあるけれども、生まれ変わりのような既視感(デジャブ)を覚える人は他にもいるかもしれない。勤勉さと頑固さ、押しの強さと狭い視野が同居しているお人柄ということなのだろうか⋯⋯。ご本人と話したことは勿論ありませんが。

どうせ清水の舞台から飛び降りる覚悟が出来たなら、前にも投稿したが

さすが極右の女性首相

こんな風に感嘆できる政策断行を次々にやっていって欲しいものだ。

とはいうものの、あまりに任重く、道はあまりに遠い。

マア、一年以内に自爆する確率が60%以上はある

そんな予測をしながら観ています  ―   世間の風は「下手なシノギをして⋯⋯、もう詰んじゃったなあ」という方向に吹き始めているようだが。

前にも投稿したが、(首相ご本人のかどうか分からないが)皇室観だけであった、共感できる点は。

2026年8月2日日曜日

断想: 「信仰 ≠ 錯覚」、「抽象こそ実在」だと感じるとき

浄土系信仰の対象である阿弥陀如来は人間ではない。もちろん過去に死んだ人間のことでもない。過去に死んだ人間が今いるはずもないではないか。

阿弥陀如来が人間として生きた時間、法蔵という名の修行僧であったのは、大乗経典『無量寿経』の通りだとすれば、なるほど「事実」である。しかし、だからと言って、死んだ人間が別の所に行って「極楽」という世界を作ったという話を、そのまま信じる人はいないはずだ。

だからこそ法然は『一枚起請文』の中で

一文不知の愚鈍の身になして・・・ただ一向にねん仏すべし

と書いたのに違いない。自我と理性に基礎をおく近代文明も良し悪しで、考えるなら考えるで、徹底的に考えなければ「信仰」なるものが成立するはずは最初からないのである。


生きていた法蔵は、いわば「プレ如来」、仏語で言うなら「菩薩」であった。生前に菩薩であったという認識と死した後に如来になるというのは、表裏一体の言い方である。であれば、何を達成すれば人は菩薩になるのかという問題意識から大乗仏教は興った。その頃の思想の果実は膨大な大乗仏典となって残っている。

毎朝の称名念仏は、小生の属する浄土系宗派の勤行なのであるが、その根拠が大乗仏典の中の一部分である浄土三部経にあることは前にも述べた。そこでは仏教の開祖である釈迦如来は「仏」あるいは「世尊」という名で登場しているが、釈迦はナレーターとして登場するに過ぎず、釈迦が薦める信仰対象である阿弥陀如来が真の主役なのである。



その阿弥陀如来は「無量寿仏」とも「無量光仏」とも呼ばれるとおり、時間を超越した永遠の寿命をもち、無限大の光明を発する実在として観念されている。

しかし、この宇宙に「無限」は存在しえない。無限に高速であると感じる光でさえ速さは有限である。

つまり阿弥陀如来は観察可能な実・宇宙空間に存在してはいない。だから、浄土三部経で阿弥陀仏や阿弥陀仏が開いた世界である「極楽」が視覚や聴覚に訴えかけるように感覚的に描写されている箇所は、《描写》として文字通りに読むべきではなく、全ては《象徴》として読まなければならない。これが理屈であろう。サンスクリット語が書かれる梵字やデーヴァナーガリー文字でもなく中国の漢字で書かれた「阿弥陀如来」や阿弥陀如来の仏画も、「・・・である」という描写ではなく「・・・のようなもの」として、つまりは《記号》として見られるべきである。そう考えなければ唯の荒唐無稽としか思われないはずだ。

阿弥陀如来が語られる世界は「無限大の世界」であり、純粋理性にのみ理解される。「無限大の世界」であるから普通の常識は通用しない。それは数学的な無限の世界で多くの非常識な結論が導かれるのと同じである。つまり経典に書かれている文章は、全て象徴としてのみ意味をもち、純粋知性である「如来」を伝達したり、理解したりするための記号として見なければならない。例えば、それは無限を表現するための記号である"$\infty$"や実数などの連続濃度を表す"$\aleph$"と同じ理解の仕方になる。多次元の連続的な実数空間を概念的に生成し、そこで成り立つ定理を発見したり、論理的に証明したりするのと同じ意味合いで、無限の世界である極楽浄土のありようを象徴的に語っているのが大乗仏典であると解釈しなければ、書いてあることは荒唐無稽に感じるだろう。



仏理では、このような抽象的な理論上の存在、言い換えると「理論上、実在するはずの存在」を《法身》と呼んでいる。もしも抽象的観念だから実在しないと考えるとすれば大きな間違いだ。現代世界にAIで自動走行する電気自動車は既に生まれているが、真に実在するのは、金属やプラスチックなどの集合体である自動車そのものではなく、それらを生み出した非物質的で抽象的なAIや車本体を製造するための製造知識である。自動車という被製造物は一定の時間内のみ動作するが、それらを製造する知性や知識は非物質的であるから(顧みられなくなることはあっても)無くなることはない。世間がいう「発明」とは知の世界における「発見」なのである。この辺の事はもう何度も本ブログに投稿している。

毎朝、(ささやかだが)千遍念仏を称えているのは、法身と言う純粋観念である阿弥陀如来の実在を、自己の内心の中で実感し、体感するための修行である(と勝手に思っている)。

自分が念仏する声を自分で聴きながら、観念(に過ぎないはず)の存在が現実に心を照らし、光を浴びる温かさを感じたり、すぐ近くに(つまり心の中にという意味になるが)観念の実在を体感している感じとか、それは錯覚と言われればそうであるかもしれないし、思い込みと言われればそうであるかもしれないが、それは事実なのだから仕方がない。宗教的心理を自然科学で分析することには無理があると思う。そもそも《直観》と《思い込み》を識別するのは無理である。データや実証的作業からは得られない(はずの)直接的な理解がここにはあるとしか言いようがない。美しい音楽を(そうと分かる人は)なぜ美しいと感じるか?この問題を科学的に分析するのも、やはり同じ理屈で無理であると思っている。

以上、きょう現在の日誌としてメモする次第。

2026年7月30日木曜日

ホンの一言: 電車の釣り広告からニュースポータルへ移り変わった30年?

大地震で発生したイオン熊本の大規模ガス爆発。

YahooJapan!ニュースなどに掲載されている報道では

(ガスタンクの自動供給停止機能、建物の構造等を考慮すると?)これほど大規模なガス爆発は起こり得ない!

専門家は、爆発するはずがない、と。

そうなの?

不審に思う人は多かろう。

詳細はオリジナルの記事を(有料で)読んでほしいというわけだが、それにしてもエゲツナイ宣伝である。

起こり得ないと言っても現実には爆発している、ということは「専門家にも分からない」って事だネエ⋯⋯

そう解釈せざるを得ない。

たった一つの可能性は科学的因果関係の外側、つまりヒューマン・エラーか、故意による犯罪で起きた。理屈はこうなるが、だとすれば別の宣伝文句にするべきだろう。

Yahoo等のニュースポータルは、以前の自由な情報提供の場から、数多のマスコミ企業のプロモーションの場にかわり果てた。CM挿入の技術進歩ばかりが目立つ。情報価値の自壊は覆いようがない。AIの普及でその自壊ぶりは、より明瞭なものになろう。


才能ある人たちの活動はYoutubeに移ってしまった  ―   もちろん色々な評価はある。が、世論形成の自然な場はこんなものではないかとも感じる。Gender-Freeが好みならIdeology-Freeにもこだわってほしいものである。組織、企業は、一人の人間に宿る自然の動機ではなく、集団的に特定の目的を達成するために最適な言論を張るのである。人間には煩悩があるが、企業や組織はそれをシステマティックに行使する。そこが濁りにも、汚れにも映るのだ、な。

日本の世論が形成される場もアメリカ企業が運営するプラットフォームへと流出したようだ。

中国が自国産のネットに執着するのも理解できる気がする。

「お上」が管理するニュースサイトが清潔で見やすいとしても、内容を信用してもイイかどうか迷うかもしれない。ただ内容への疑念は、商業主義、利益追求に毒される日本のネット状況下でも、同じようにある。どうせ疑わしいなら、最初から分かっているだけ、清潔で見やすい中国的ネット状況の方がマシと感じる人は意外に多いかもしれない  ―   但し、中国国内のネット画面を中国人の立場に立ってリアルに経験したことはないので以上は想像に過ぎない。




2026年7月27日月曜日

覚書き: 豊臣家のイメージ?「トランプ政権、〇〇秋の陣」とでも呼ばれるだろうか?

アメリカ=イスラエル枢軸軍による奇襲的なイラン空爆とその後の戦況は、「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず」と言ったところで・・・今や世界的にも共通の認識になってきた模様。

これについて日本のネットでも

戦後、アメリカは多くの戦争を戦ってきた。大きな戦争としては、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争がある。だが、しかし、これらの戦争はいずれもアメリカが当初掲げた政治目標を十分には達成できなかった。敗北の理由は様々考えられるが、共通しているのは「傲慢さ」である。現在のイラン戦争も、トランプ大統領の「arrogance」ゆえに、歴史と状況に対する正確な分析に欠け、戦争の明確な戦略を立てることに失敗している。アメリカがイランに軍事的に敗北することはないにせよ、勝利を収めることも難しいだろう。

Source:Yahoo!JAPANニュース

Author:中岡望

Date:2026-07-27

こんな書き込みがあったりする。

これを読んで、ちょっと笑ってしまいました。だってト大統領が「傲慢」で「自意識過剰」のお人柄であることは周知の事実と言ってもよい程、明々白々のことであります。問題は、そういう人を大統領に選出した、そういう人が選挙で勝利したという事実にあります。もし大統領になればこんな大統領になるという予想は事前にあったわけでもあります。

その中でも急先鋒のクルーグマン博士。相変わらずsubstack.comの場で論陣を張っているが、デロング先生とはまた趣を異にしているのが面白い。デロング先生はcoolかつscinicalな雰囲気があるが、クルーグマン先生はずっとpassionateかつpessimisticである。最近はこんな投稿をしているので、(和訳したうえで)全文に近い引用をさせていただこう:

しかし、ここで本当に恐ろしいのは、トランプ氏が勝利に見えるものを勝ち取ろうとする試みを諦めたように見えることだ。ほんの数日前までを振り返ると、トランプ氏は事実上撤退し、プロジェクトを放棄し、海峡が事実上開いたことで原油価格が下落するのを利用して、これは真のアメリカの勝利であり、経済は好調で、株式市場を見れば分かるように、という話をでっち上げようとしているように見えた。

そして、まあ、それはちょっとどころかかなり愚かで、破滅的な試みだった。同時に、ある意味驚くべきことでもあった。なぜなら、真剣に紛争を終結させようとするなら、現実と向き合い、「よし、この戦争はうまくいかなかったが、アメリカは依然として偉大だ。申し訳ない」と言う必要があったからだ。

しかし、トランプ氏は感情的にそれをどうしても受け入れられなかったようだ。彼はこの事業が失敗したことを決して認めようとしない。彼は何事も失敗を認めようとしないのだ。彼の任期中、私たちはリフレクティング・プールの破壊工作犯を探し続けることになるだろう。

これは不吉な戦略転換だ。中間選挙に向けてトランプは何を考えているのだろうか?おそらく、十分な経済的成功を収め、人々の記憶力も短いので、ホルムズ海峡開通の功績はトランプに帰せられるだろうが、いずれにせよガソリン価格高騰や戦争をめぐる混乱は過去のものとなり、トランプとその仲間たちが主張し続ける黄金時代が到来したことを認める準備が整うだろう、というのが彼らの狙いだったのだろう。

今はもう全て白紙です。今はただイランを爆撃するだけです。明確な戦略はありませんが、事態が順調であるふりをするつもりもありません。イランを封鎖するつもりです。これは実際には少し影響力がありますが、中間選挙で共和党の勝算を高めるような形で何かが解決される兆候は全くありません。では、一体何が起こるのでしょうか?

トランプ氏が事実上諦めたのとほぼ同時期に、つまり戦争を放棄したという意味ではなく、たとえ肯定的な結果と解釈できるようなことでも達成しようとするのを諦めたのと同時期に、今週木曜日にゴールデンタイムの演説を行うという発表があったのは、偶然ではないと思う。報道によると、その演説は2020年の選挙不正に関するものになるという。また、ジョージア州選出の民主党上院議員2人を何らかの形で不当だと宣言しようとする可能性を示唆する報道もある。

まあ、それは実際にはうまくいかないだろう。彼が2020年の選挙で実際に勝利したという主張に納得する人はいないだろう。しかし、実際には彼は今年11月の投票に大規模な干渉を行うための口実、つまり土台を築いているのだ。つまり、公正な選挙を阻止しようとする、あるいは選挙そのものを阻止しようとする試みの舞台が整えられているのを、我々は目の当たりにしているのだ。

この先どうなるかは分かりません。しかし、トランプ氏とその側近たちが選挙に勝つことを諦めたのは明らかです。彼らは代わりに、プロパガンダ、誤報、偽情報、そしておそらくは大規模な違法行為を組み合わせることで前進しようと決めたのでしょう。

そして、「彼らはそんなことはしないだろう」などと言わないでください。それはこれまで、あらゆる場面で必ず裏目に出てきました。トランプ氏とその仲間でさえもやらないことがある、などという考えは、トランプ政権のあらゆる行動において、あらゆる点で間違っていることを示す最良の方法だったのです。

だから、ある意味では、トランプ大統領がイランへの爆撃を再開したという事実は、爆弾そのもののせいではなく、本当に悪いニュースなのです。もちろん、それは恐ろしいことですが、アメリカが外国勢力によって危険にさらされるという本当の恐怖があるからではなく、私たちの大統領、私たちの政府自身から、私たちにとって非常に大きな危険が迫っていることを示していると思うからです。

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/the-forever-war-gets-scary 


イランと戦争をして軍事的勝利を収めるのは諦めた、ということは中間選挙を普通に迎えれば勝てないことも分かってきた、ということはどうすればいい?

民主党が勝った選挙区では(日本流にいえば)「公職選挙法違反」があった疑いで片っ端から摘発する。強引に立件する。当選資格をはく奪する。負けた方を当選させる。この線は(多分?)有効だろう・・・と。

中国による選挙干渉に言及するなど、ヤル気満々のようだ。将棋でいえば、玉をとりたいから、いきなり玉筋に王手をかけるようなものだネエ・・・と思ったりする。相手の防御が自陣の王に対する王手になるなどとは予想しない。「しもた~ッ!」って奴です。この辺りが傲慢と言えば傲慢にあたるのだろうが・・・

仮に上下両院とも民主党が勝利すれば、必ず大統領弾劾裁判が始まる。職権乱用で有罪になる。閣僚の何人かは逮捕され、懲役50年から75年程度の刑を科される事態は十分ありうる。生きるか死ぬかである・・・


ト大統領の頭の中をシミュレーションして絶望感に苛まれるクルーグマン先生の姿が眼前に髣髴としてくるではないか。

2026年7月25日土曜日

ホンの一言: 生煮えの「ハラスメント」概念は研究段階の試作品とソックリの出来では?

かなり以前になるが高橋昌一郎『20世紀論争史~現代思想の源泉~』(光文社新書)が面白くて複数回読み返した記憶がある。

昨日、パラパラとページをめくって、以前に傍線を引いた個所を読み直していたのだが、読んだ当時はそれほどでもなかったが、昨日読み返すと中々に意味深な個所があったので引用しておきたい。論理実証主義のウィトゲンシュタインと科学哲学者ポッパー(というより数理哲学者ラッセル?)が口論する場面が秀逸である。が、以下に引用するのは論理実証主義に関するところ:

(ウィトゲンシュタインの)『論理哲学論考』が導くのは、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない」という有名な結論だ。

この世界で「明らかに語りうる」ことは、真か偽かを「論理的に」決定できること、あるいは事実か否かを「実証的に」確認できる言語に限られるという論理実証主義の理念は、そこから誕生したわけだ。

この下りを読んで思ったのは、

現代日本の「弁護士」という輩に読ませてあげたいネエ・・・〇〇ハラがあるかと思えば、ハラ・ハラもある。そんなハラスメントという犯罪概念(?)に対して論理実証主義者はどんな批判を浴びせるだろうネエ・・・

というものだった。 


「論理的に真偽を明らかにする」には、自明の大前提から矛盾や見落としを犯さず、唯一の結論に至るロジックを明らかにしなければならない。「明らかな事実」とは、日が昇ったり、そこに海があるとか、誰にとっても明らかで疑いようのない真実という意味である。「こうも考えられる、ああも考えられる」のは真偽不明を意味する、当たり前ですが⋯⋯

「法学」という学問分野が、学問体系全体の中でどのように位置づけられるべきか、小生には論じる資格はない。

しかし、「法」というものは最低限の要請として論理的でなければならず、事実の立証に基礎を置くからには、論理実証主義の哲学とは最も相性がよい学問ではないかと思う。自然科学とは違って、そこに「仮説性」が混じるのは、非常にまずいと思うのだ、ナ。

ハラスメントという犯罪、というか疑似犯罪概念、あり得ますよネ?

もしもこんな生煮えの学問談義から大した進展がないなら、研究段階の扱いにとどめるべきで、実社会に適用するべきではあるまい。特に《コンプライアンス原理主義者》が横行する現代日本社会では、《お気持ち倫理学》がはびこりがちでもあり、なおのこと慎重であるべきだ。

ひょっとすると、法律運用の現場では学問も論理も何もなく、ひたすらに「取り締まる」、「処罰する」、そのための理屈をつくるための道具が法律である、と。そんな即物主義的で虚無的な精神が共有されているのかもしれない。

ま、それならそれでつつがなくやられたらよろしゅうございましょう。



何事も学問的研究が生煮えの成果は実用を控えるほうが社会は安全である。

例えば、核融合エネルギーが実用化されれば、地球の危機はかなり解決されるだろうが、現在の段階では無理である。自動車の完全自動運転もそうである。望ましいことでも、未完成のうちは焦って実用化してはならない。

但し、技術的には完成間近で社会実験が必要になっているときに、敢えて一切禁止の選択をするという姿勢は、進取の精神に欠けているだけの事である。これは念のため。

この辺り、小学生でも理解できる簡単な道理であろう。

【加筆修正:2026-07-27】




2026年7月22日水曜日

断想: AI(=人工知能)が乗りこえるべき高い壁?

先日の投稿では、「総括」というか、こんな感想を述べている:

囲碁の名人がDeepMindのAlphaGoに負けてからAIの優越性が可視化されてきたのだが、歴史的背景と今の政策との関連をどう理解するかという点でも、世論よりはAIの方が(まだ細部で誤りが混じって満点ではないが)実力が上回るようになってきた。少なくとも世論の方がAIよりなお優れているとはもう言えない・・・こんな感想を持たざるを得ない。

人類の知的活動の少なからざる部分は、今後将来にかけて生身の人間からAIに置き換わっていくだろうというのは、ほゞほゞ確定していると言わざるを得ない。淋しいが・・・

それが善なのか、正義に適うのかという論点は、もう陳腐かもしれない。

道理とは何かを考える時にも、世論よりはAIの方がはるかに冷静で優れた考察をすることが出来る、個々の事案についてすら出来る、そんな時代がもうすぐそこまで来ていると、使えば使うほどそう実感するのだ。 

ただ、AIの利用、影響力が全世界的に急速に拡大していくかと問われれば、越えがたい技術的な壁があると思う。

以下のデータはChatGPTに調べてもらったのだが、一見したところ、予想に近い回答であったので使うことにした。

まず地球上の知的構成物としては見事としか言いようのない「人類」であるが、人体を構成する元素比は

質量比(成人の平均的な値)

元素質量比
酸素 (O)約65%
炭素 (C)約18.5%
水素 (H)約9.5%
窒素 (N)約3.2%
カルシウム (Ca)約1.5%
リン (P)約1.0%
カリウム (K)約0.4%
硫黄 (S)約0.3%
ナトリウム (Na)約0.2%
塩素 (Cl)約0.2%
マグネシウム (Mg)約0.1%
その他(鉄、亜鉛、銅、ヨウ素など)約0.1%

このように、酸素・炭素・水素・窒素の4元素だけで人体重量の約96%を占めます。

豊富に存在する元素を多く、稀少なものは少なくという経済的な構成になっているのが人体である。安い原材料だけを使って高度の知的生命体を自然は生み出したというわけだ。

これに対して、こんな質問をした:

データセンターの基盤になるサーバーの必須のパーツは半導体チップだと思われますが、半導体を構成する元素の比率はわかりますか?

するとこんな回答が得られた:

はい、ただし「半導体チップ全体」と「半導体そのもの(トランジスタ部分)」では大きく異なります。

CPUやGPU、AIアクセラレータなどの半導体チップは、シリコンだけでできているわけではありません。概ね次のような構成です。

主な元素用途質量比の目安
ケイ素 (Si)半導体基板・トランジスタ約40~60%
銅 (Cu)配線約20~40%
酸素 (O)二酸化ケイ素(絶縁膜)約10~20%
炭素 (C)低誘電率絶縁膜など数%
タングステン (W)配線・ビア数%
コバルト (Co)、タンタル (Ta)、チタン (Ti)、ニッケル (Ni)バリア膜・電極1%未満~数%
ホウ素 (B)、リン (P)、ヒ素 (As)ドーパント(不純物)0.01%未満

 

特に重要なのはシリコン。シリコン(=ケイ素)はトランジスタを形成する母材であり、半導体チップの中核となる元素です。 

人体とは大きく異なっている。ケイ素は地殻内では酸素に次いで豊富に存在している元素だから問題はないが、問題は《銅》である。銅は地殻の中では極めて稀少にしか存在しない物質である。

更に、データセンター全体でみると

半導体チップよりも

    • アルミニウム(筐体・ヒートシンク)
    • 銅(電源ケーブル・配線)
    • 鉄(ラック・構造材)
    • ニッケル(電池・合金)

などの金属の使用量の方がはるかに多くなります。

したがって、「AIを支える元素は何か」という観点では、シリコンだけでなく、銅・アルミニウム・鉄・ニッケルなどの供給も極めて重要になります。半導体そのものは高度な技術の結晶ですが、データセンター全体として見ると、実は大量の一般的な金属資源にも支えられているのです。 

そこで、地球に存在する元素賦存比率とデータセンターに必要な元素比率とを対比すると、以下のようになる:

結論から言うと、地球全体の元素組成とデータセンターの元素組成を比べた場合、最も大きく偏っているのは「銅」「シリコン」「希少金属(タンタル・コバルト・ガリウムなど)」です。

一方で、地球に非常に多い鉄・酸素・マグネシウムなどは、データセンターでは相対的に少なくなります。

おおまかに比較すると、

元素地球(質量比)データセンター偏り
鉄 (Fe)約32%(地球全体)数~10数%大幅に少ない
酸素 (O)約30%数%少ない
ケイ素 (Si)約15%10~30%やや多い
マグネシウム (Mg)約14%ほとんど使わない極端に少ない
銅 (Cu)約0.006%数十%にもなる数千倍以上多い
タンタル (Ta)数ppmコンデンサに使用数万~数百万倍濃縮
ガリウム (Ga)十数ppm高周波半導体非常に濃縮
金 (Au)数ppbコネクタ等数百万倍濃縮

 

特に「銅」が際立っています。地球全体では銅はごくわずかしか存在しません。

しかしデータセンターでは、

    • 電源ケーブル
    • 基板配線
    • 半導体内部配線
    • トランス
    • モーター

などに大量に使われます。

重量ベースでは数十%近くが銅になる設備も珍しくありません。

もっと極端なのは金・タンタル・ガリウム。これらは地球中では極めて希少ですが、
    • 金:腐食しない接点
    • タンタル:高性能コンデンサ
    • ガリウム:高周波・光通信用半導体

として不可欠です。

例えば金は地球全体では数十億分の1程度しかありませんが、CPUやサーバー基板には必ず微量ながら含まれています。

足元のテクノロジー文明を支えるのは、豊富に存在する酸素、窒素、炭素、水素ではない、数種類の希少金属であると言っても言い過ぎではない。

これはAI(=人工知能)と言っても、極めて非合理的な技術であろう。

こうして概観すると、知的活動体としての《人》は、小型にして経済合理的。自然による見事な作品であることが改めて確認できる。これに対して、AIは《人工知能》であるせいか、自然の摂理に反していて、非経済的かつ非合理的である。

古来、非・経済合理的な技術文明が長期間に渡って持続したためしはない。

地球上を面的にマネージするうえで《AI》の利活用は欠かせないと思うが、使われる材料が現在の元素比のままでは、近い将来に資源上の制約に縛られてしまうのは確実である。

更に、人体の優れている点は、小型の構造であるにも関わらず、内部にエネルギー生成機能を有していることだ。確かにエネルギー源は外部から摂取する必要がある。つまり食料である。が、それら食料は水、炭水化物、タンパク質を主として、あとは少量の脂質、ビタミン、ミネラルを必要とするだけである。大体は、炭素、酸素、水素を毎日摂取できれば人体と諸器官を動作させるには十分だ。驚異的な知性がここに反映されている。

上で示したデータセンターは内部でエネルギーを生成できはしない。電気エネルギーは外部から供給しなければならない。土地節約的な原子力発電にはウランが必要だ。そうでなければ、どこからか電気を供給しなければAIは動かない。

ついでに太陽光発電施設も含めて、特徴的な元素の比較をしておこう:

システム
特徴的な元素
人体
    H・O・C・N(地球上に豊富)
データセンター    Cu・Si・Ta・Co・Ga(高純度・希少)
太陽光発電所
Fe・Al・Si・O(比較的豊富)

 ChatGPTはこう締めくくっている:

この比較を見ると、太陽光発電はデータセンターよりも、人体に近い「豊富な元素を大量に使う技術」と言えます。もちろん人体とは構成が異なりますが、「地球上に比較的ありふれた元素を主体にしている」という点では共通しています。

実際、エネルギー工学では「技術が大規模に普及するためには、希少元素への依存を減らすことが重要」という考え方があります。太陽光発電では銀の削減、AIハードウェアでは銅や希少金属の節約が研究されているのも、その考え方に沿った動きです。

こうして眺めると、「どの元素をどれだけ必要とする技術なのか」という視点は、将来その技術がどこまで普及できるかを考える上で、一つの重要な指標になると言えるでしょう。

本日投稿は、AIに色々と教えてもらいながら、普段から疑問に感じていた事を整理してみた。この間、わずかに小一時間である。

まったく別の付けたし。

小生は、民放TVのドラマでも近い将来《生の俳優・女優抜きの100%完全な人工ドラマ》が制作されるものと確信している。人は《フェーク・ドラマ》と呼ぶかもしれないが、"Artificial Drama"あるいは"Artificial Film"という方が同時代的だろう。その兆しは既にもう出てきているから、空想の世界ではない。

AIが創造した人工俳優や人工女優なら、まず人間関係をマネージする雑用から解放される。最近発生したような「ハラスメント問題」に悩まされることもない。そもそも「ロケ弁不要」であるし、飲み会も必要ない。技術的知識を本質的実体としながらヴァーチャルな影像として可視化されるものである「人工俳優」は、仕事を経験すればするほど経験知が上がり続け、豊かな表現力を持つようになる。かつ人間とは違って、齢をとらず、永遠に若く、高齢俳優であっても何十年も活動できる。 

世界のどこかで研究は既に進められていると思うが、日本はまだ問題意識すらないかもしれないネエ・・・と。

近年の日本社会は、伝統と言われるのを嫌いながら歴史には誇りをもち、新しいものを願いながらも新しいものが古いものに置き換わるのは拒否するという、そんな傾向が目立ちますから・・・

2026年7月19日日曜日

断想: 最近の日本は昭和十年代に似ていると言うけれど⋯⋯

近年の日本の世相が過去のいつの時代に似ているかという話題は結構人気があるようだ。特に戦前日本は頻繁に口にされる。

中でも、ここ最近と昭和10年代が似ているというのは聞くことが多い。第2次安倍政権で安全保障が重視されたり、軍事費拡大へ向かう自民党政治をみてのことだろう。

個人的にはちょっと違っていると思う。


ここ20年から30年ほどを《近年の世相》と拡大解釈したうえで過去の似ている時代を探すとすれば、それは《大正デモクラシー》の頃ではないかと思っている。


大正時代はまず最初に「大正政変」から始まったのだが、その大正政変は元老や大政治家の意思決定を《民意》がつぶした初めての事例として記憶されるべき大事件である。

明治が元老と官僚専制の時代と言うなら、大正時代は《明治的なすべての慣行への反発》が駆動した時代である(と勝手に理解している)。その明治への反発は、文学、文化、世相など全てに表れていた(はずだ)。そもそも大正天皇その人が志す世の中は明治天皇が是とした国家とはまったく異なるものであったと聞く。

政治的には、国の統治に民意が反映される仕掛けである《普通選挙運動》が時代のテーマとなり、最終的には大正が終わる大正14年に「普通選挙法」となって実を結んだわけだ。Wikipediaには、

普通選挙法に基づく選挙は1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙から1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)まで計6回行われた。

こう説明されている。つまり、この14年間は普通選挙という形で(女性参政権はなかったにせよ)民意が政治を動かしていたことになる。


何度も投稿したように、戦前日本の普通選挙の歴史は、あい続くスキャンダル合戦の果てに明治以来の政党政治が自己崩壊した歴史でもあった。

不安定化する国際環境の中で、普選の達成と高揚は政党不信、議会不信へと変質し、半ば必然的に軍部と官僚組織へと権力の再集中が進んだ。これが戦前日本が歩んだ道の大雑把な要約である。

大正デモクラシー全盛の頃、天皇は生身の人間と言うより、国家運営の必要から置かれる一つの機能、つまり「国家機関」と理解されていた。いわゆる「天皇機関説」である。その天皇機関説を理論化した憲法学者・美濃部達吉が攻撃のターゲットになり貴族院議員を辞職したのは昭和10年(1935年)である。日本の国の姿を再確認するべきだとする一種の文化運動であった側面もあった(かもしれないが)「国体明徴運動」がその背景になった。

国体明徴運動は、普通選挙法公布の概ね10年後、普通選挙法下の初めての国政選挙である「第16回衆議院議員総選挙」の7年後になる。この7年間の間に、当時の日本人は普通選挙を通した民意の実現というものに、すっかり幻滅してしまっていたのである。

昭和10年から強まったのは、大正デモクラシー以来の民意重視の潮流を逆転させる姿勢で、《保守革命》の言葉を使ってもよい。軍部、特に当時の陸軍が成熟した外交センスをもっておらず、日本の国際的孤立化をまねいてしまったのは、「不運」という結果論が当てはまるかもしれない。


・・・ということなので、最近の日本社会に似ているのは、選挙を通した政権交代への失望が広がった昭和1桁の10年間、もっと遡ると関東大震災で古き良き明治が完全に消滅した大正12年(1923年)以降の12年間であろう(と勝手に思っている)。そして、これから未来にかけて似てくる(かもしれない)のが、保守革命が世を覆い始めた昭和10年代である  ―   低知能の保守反動ではありましたが。そう思われます。

戦前は動きが急であったが、これは第一次大戦後の「戦間期」という時代、国際環境が非常に不安定であったことによる。長寿社会では世間もユックリと変わるのかもしれない。


そんな風に予想しているところです。



2026年7月17日金曜日

ホンの一言: 暮らしより皇位継承が大事ですかネエ⋯⋯

TV放送の七不思議。

今朝も旧宮家の養子の話をしている。

皇室典範改正だ。

悠仁親王の即位までは確定しているのだから、悠仁親王に皇子が誕生すればそれでよし。娘しか生まれず、養子に息子が生まれた時に、また騒動が起きる(かもしれない)話しである。が、今から分かるはずもなし、20年か30年ほど後にでも議論すればイイのではないか?とりあえず「世襲親王家」の血筋が《曲がりなりにも》復活する目処がついたのだから。

そう思いますがネエ・・・


例えは悪いが、年金を持続可能にするために「マクロ経済スライド」を導入し、天皇制を持続可能にするため、600年の間ずっと皇統の傍系として存続して来た「伏見宮系の血筋」にふたたび頼ることにした。今回の措置の主旨はこれに尽きる(と勝手に思っている)。そもそも占領期のGHQの政策がなければ、いまの皇位継承の危機はなかった理屈である。

必要に応じて、これから将来、どんどん養子相続は増えるだろう。角界の年寄名跡ではないが、空席の由緒ある宮家が復活することも、いずれあるだろう。少なくとも皇后が皇子を産むことを迫られる圧力は(たぶん増えるだろう傍系が伴走するだろうから)減るには違いない。

価値云々ではない。主義の問題でもない。要するに、安定化したいのだろう。

但し、《安定化》の手法に岩盤保守的な前例主義が採られた。旧い。それで反発が起こっている。これが現状なのだろう、と。

正に現実としていま社会的対立が生まれていること自体が、戦後天皇制の設計ミスである(としか思えない)が、課題は《天皇制》をどうするかである。そりゃあ保守派の意見がどうしたって通るでしょう、と。そう思います。その時の価値観や権力の所在などなど、天皇制はそうしたファクターに抵抗しながら存続してきたという側面をこそ見るべきだと思う。だから、今回の決定はもう仕方がないと小生は思って観ている。

小泉内閣時の女系天皇容認の機運、その後に続いた秋篠宮妃ご懐妊と親王ご誕生、平成天皇の生前譲位、実質「皇太弟」である秋篠宮殿下の立皇嗣。「世襲親王家」の復活とも解釈される今回の措置。この時系列的な流れに思いを致すべきだと思っている。

日本史の中では時に保守革命が成功することが複数回ある  ―   具体例は細かに述べない。これらの保守革命には例外なく天皇(と朝廷、公家集団)が関係している。更に、日本の対外戦争は天皇が復権している時代において起こった、と。これも小生の歴史観なのである。「だから何?」、というわけではないが⋯⋯


いずれにせよ、今回の措置は日本人の暮らしとは何のつながりもない、どうでもいい話しではあるのだ。

そう思いますがネエ・・・


⋯⋯、何故、食料品の消費税率を話さないのだろう?「食料品には消費税率ゼロ」とするには財源の問題がなるほどある。しかし、イギリスは同じ政策をもう半世紀近くも平気でやっている。他の欧州諸国も食料品の軽減税率は思い切ってバンとやっている。

食料品以外の税率が高いのはその代償である。とはいえ、日本でできないはずはないのだ。しかも望む国民は多い。望んでいる国民の家計に目を向けるのも政治だろう。

経済の話をして消費税率引き下げに向けて世論を形成するのに消極的な理由は、メディア企業自体が消費税率引き下げは筋悪だと考えているからであろう。2年限定なら余計に筋悪だということだろう。かと言って、引き下げに消極的だとTV画面で声高に話すのは世間の反発を受けそうで怖い。

だから、暮らしとは何の関係もない皇室典範の話しをしておく。

どうです?ズバリではない?


話してもほとんど意味のないことを話題にして熱を上げるのもよいが、こんな事なかれ主義のような番組編集には必ず代償がある。

そう思いますがネエ⋯⋯

【加筆修正:2026-07-19】

2026年7月16日木曜日

ホンの一言: Chaos-Monkeyぶりを発揮しているトランプ大統領?

Brad DeLong博士はトランプ大統領を「猿」と呼ぶことを止めない。昨日もまた、ホルムズ海峡の再封鎖に伴い、substack.comに以下の投稿をしている:

Isn't this piracy? What could make it not piracy, other than a congressional declaration of a war to conquer & annex the Strait of Hormuz to the USA? 

これは海賊行為ではないのか?米国議会がホルムズ海峡を征服・併合するための戦争を宣言する以外に、これが海賊行為に当たらないと言える根拠などあるのだろうか?

URL:   https://braddelong.substack.com/p/can-we-call-this-anything-but-piracy 

ただ当のト大統領、一律20%の「海峡通行料」は撤回したらしい。

投稿のタイトルは

Can We Call This Anything But Piracy?: TUESDAY CHAOS-MONKEY TRUMPISM

正に海賊行為じゃないのか? 「ワヤクチャの猿」そのもの火曜日のトランプ主義

かなり意訳だ。それに"Chaos-Monkey"の語句だが、検索すると

カオスモンキー(Chaos Monkey)とは、米Netflix社が開発した、システムに意図的に障害を起こすためのテストツール(オープンソースソフトウェア)です。

つまり、意図的に障害を引き起こす高度なソフトウェアの名前だというわけで、何も自国の大統領を猿だと決めつけているわけではない・・・安全弁としては実に巧みな呼び方ではないか。

日本では、これに匹敵する知的な批判はまだ登場していない。両国の行政トップはかなり近いタイプだと思うのだが。両国民の国民性の違いのせいかもしれない。


2026年7月13日月曜日

ホンの一言: 酷暑に苦しむ人々が増えていますが・・・

九州地方では40度近い酷暑が既に始まっている。その熱波が段々と北上するのだろうと、近畿圏、首都圏にいる人たちは心配しているのだろう。小生が暮らす北海道も近年は30度どころか35度を超える酷暑、というか極暑日が散見されるようになった。熱波の縁は北海道にも到達することだろう。

エアコンを設置するかで悩んでいるが、設置したところで稼働は高々2~3週間だ。7月下旬から盆明けまではエアコンが有難いが、使いすぎると逆に疲労感がたまるというものだろう。窓を開ければ、夜、寝苦しいということは一日もない。それに積雪期に雪の積もるベランダに室外機を置いて大丈夫なのか、少々不安である。稼働が少なければ故障も多かろう。

それでも小生が暮らすマンションでもエアコンを設置している住戸がもう2割くらいにはなった。

どうするかナア・・・と迷っている。

エアコンが あればと願う 夏なれど

     豪雪ふらば 邪魔になるべし

先ずはポータブル・エアコンで効き目があるかどうか置いてみるか・・・

内地の大都市圏ではエアコンをオンにしているにもかかわらず、熱中症で亡くなる高齢者が目立つとのこと。

どうやら冬の設定のまま暖房にしていたとか、メンテナンスを怠り埃が中に溜まり風が出なかったとか、色々な不注意が原因だそうである。無情である・・・

ただ、思うのだが、

これもまた、人生の終わり方の一つなのかなあ、と

(政府・マスコミ公認の?)科学主義・唯物主義が共有されている現代世界では

死ぬのはダメ、生きて!

死ぬより生きるほうが善いに決まっている。

こんな風に、命を超える価値などはないという思想が正論中の正論になっているのだが、へそ曲がりの小生は

ただ生きているのは空しいだけである

そう考える、というか感じるのだから仕方がない。


エアコンの設定を失念して、熱中症で意識をなくし、そのまま浄土へ往生するのも、その人の業と縁である。業縁を人為的に止めようとするのが、その人にとって善い事なのかどうか、善い結果につながるのかどうか、確かなことは言えない。

成功と失敗、善と悪、正と邪、全て相対的であって、本質的には《空》であると考える立場に今は立っている。

2026年7月12日日曜日

覚書き: 《AI = 物知りの友人》、得意・不得意もあれば、思い込みもある。が、それでも・・・

高市内閣の政策で対皇室観だけは共感できるというのは以前にも書いたことがあるが、この国会で可決する見通しになった皇室典範には中々に反発が大きいようだ。

特に「旧宮家から養子案」については、実際はどうか分からないが、反対の声が多く上がっている。入ってくるのはメディア経由かネット経由の声が大多数で、それが日本人全体のサンプルになっているのか、今の世相では分からないが、反対が多いという事実はあるのだろう。

先日の投稿でこんな事を書いていた:

最初の光仁天皇だが、天武天皇以来の女系の男子皇族が何人もいたにもかかわらず、男系男子が途絶えたことを理由に、100年間にわたって傍系であった天智天皇系の白壁王が光仁天皇として即位したのである。光仁天皇。平安京に遷都した桓武天皇の父である。この事は、8世紀末という時点で、男系による皇位継承を続けようとする意識を皇室が有していた証明になるのではないかと思うが違うのだろうか?少なくとも、男系継承は明治政府による勝手な押しつけであるという批判は誤りであろう。

これは確かにその通りだと思うが、確か白壁王の正室は天武系の皇女ではなかったか、その正室との間に息子がいたはずだが、という記憶もあったのでChatGPTに聞いたところ、

他戸皇子は、


天武天皇

舎人親王

大炊王

他戸親王


という系譜で、天武天皇の男系曾孫に当たります。

これは《とんでもない間違い》であると直ぐに分かった。どうやら日本史に関する情報収集力は数学的処理の卓越さに比べると見る影もないほど貧弱であることが分かったので、今度はGoogleのGeminiに聞いてみた。回答の一部を下に引用しておこう:

まとめ
  • 天武系の男系が枯渇していたというのは正しい認識です。
  • ただし、光仁天皇の即位は「天武系との決別」ではなく、「天武・聖武の血(女系)を引く他戸親王へ繋ぐためのワンポイントリリーフ」でした
  • その後の藤原氏の政変(呪詛事件)によって他戸親王が廃されたことで、結果的に完全な天智系(桓武天皇の系統)へと変わっていきました。

壬申の乱の後、100年続いた天武天皇の皇統を排して天智天皇系を選んだというよりは、聖武天皇の女系の孫・他戸皇子が成長するまでのつなぎとして天智系の白壁王は即位した、と。天武系の男子が(政変や粛清によって)ほゞほゞ途絶えていたという認識は概ね間違ってはいないが、「敢えて血筋は遠くとも男系の白壁王を選んだ」という意識ではなかったのではないか、と。言い換えると、皇位は女系継承でも可だと、当時の人たちはそう意識していたのではないか⋯⋯、と。Geminiはそう理解している。

あくまでも仮説である。当時の関係者の真の目的、究極的な狙いを聞くことができない以上、事後の経過を重視する正反対の仮説もまた可能なのである。


それにしても、ふ~~む、往年の『時の娘』を書いたジョセフィン・ティや『成吉思汗の秘密』を書いた高木彬光ではないが、これは歴史ミステリーそのものではないか・・・


これ以上に立ち入るのは専門外の小生には時間も基礎知識もない。少なくとも言えることは

複数のAIに質問して、答えが一致するかどうか、確認するべきである。

いくら物知りの友人でも、得意・不得意はある。特定の友人を丸ごと信じるのが失敗の元であるのと同じように、AIの答えをそのまま信じるのはダメだということだ。

ちなみに「旧宮家から養子」という案だが、ChatGPTに以下の質問をした:

最近、第二次大戦後に皇籍離脱した伏見宮系の旧宮家が話題になりますが、男系を遡ると祖先の天皇までは何世代も数えるそうです。一方で、皇族であっても一定世代が経過すれば臣籍降下するのが慣行であったはずです。伏見宮系の皇族は何故これほど長い間皇族であり続けたのでしょう?

すると、以下のように応答してきた:

非常に重要な点です。実は、伏見宮系が長く皇族として存続した理由は、「皇位継承の予備系統」として制度的に維持されたからです。

まず、平安時代まではおっしゃるように、皇子・皇孫は数世代経つと臣籍降下するのが一般的でした。例えば、以前お話しした良岑安世のように、天皇の子孫でも皇族を離れて臣籍に下る例は数多くあります。

ところが、鎌倉時代になると事情が変わります。

伏見宮家の成立

伏見宮家は、伏見天皇の皇子である栄仁親王が14世紀初めに創設しました。

当時は、いわゆる持明院統と大覚寺統の対立があり、皇位継承が非常に不安定でした。そのため、本流以外にも男系皇族を維持しておく必要がありました。

「世襲親王家」という特別な家

室町時代以降、伏見宮家とそこから分かれた宮家は世襲親王家と呼ばれました。

これは通常の宮家とは異なり、

  • 皇位継承者を確保すること
  • 皇統が断絶しそうな場合に備えること

を目的として、代々親王・王の身分を保持することが認められた特別な宮家でした。

江戸時代には

  • 伏見宮家
  • 桂宮家
  • 有栖川宮家
  • 閑院宮家

の四家が代表的な世襲親王家でした。

明治以降

明治時代になると、伏見宮家からさらに

  • 久邇宮
  • 朝香宮
  • 東久邇宮
  • 竹田宮
  • 北白川宮
  • 賀陽宮
  • 東伏見宮
  • 梨本宮

などの宮家が創設されました。これらはいずれも伏見宮系の男系子孫です。

つまり、現在話題になる「旧宮家」とは、もともと皇位継承の予備として制度的に存続していた家々なのです。

1947年の皇籍離脱

戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策の一環として、皇室の規模を縮小するため、これら11宮家51名が皇籍を離脱しました。

したがって、現在議論される「旧宮家の皇族復帰」は、「何百年も前に臣籍降下した一般人を皇族に戻す」という話ではありません。

むしろ、戦後までは現に皇族であり、皇位継承の予備系統として制度上維持されていた家系をどう考えるかという問題なのです。

この点が、平安時代などの臣籍降下とは大きく異なるところです。歴史的には、伏見宮系は一般の皇族とは異なり、「皇統維持のために特別に皇族の身分を世襲することが認められた家系」であったため、何百年にもわたって皇族であり続けたのです。 

伏見宮栄仁親王の父である天皇の名(正しくは崇光天皇)や伏見宮創設時期(正しくは15世紀初め)が間違っている  ―   親王の名は正しい(ようだ)から可笑しいが。やはりChatGPTは歴史は苦手のようである。とはいえ、この問題はGeminiに質問しても、「世襲親王家」という着眼点については同じ趣旨の答えが返ってくる。

つまり、

現在議論される「旧宮家の皇族復帰」は、「何百年も前に臣籍降下した一般人を皇族に戻す」という話ではありません。

むしろ、戦後までは現に皇族であり、皇位継承の予備系統として制度上維持されていた家系をどう考えるかという問題なのです。

この問題意識は両方のAIで一致している。とるべきアプローチは、「ほとんど赤の他人」とも言える民間人を皇族にしてもいいかという問題提起とは別である、ということだ。

この見方は、いま世間で話されている内容とは違うし、小生の感覚では

世論よりはAIの方が冷静で、かつ客観的な問題理解だと思われる。

こういう事であります。


いずれにせよ、天皇というものについて議論を始めれば、基礎になるべき教養、知識は、高々100年にも足らない戦後日本の民主主義を遥かに超える厚みと深みを伴うものとなる。当たり前である。現代民主主義を大前提にしながら皇位継承を議論する時、何だか納まりがつかないモヤモヤ感があるのは、神社で柏手を打つ時に感じる小っ恥ずかしい感覚に通じているのである。モヤモヤ感は致し方がありません。戦後憲法は占領期にアメリカが書いた原稿が土台になっているのですから。

日本国憲法を大前提にしながら、国民統合の象徴を決めるなら、日本を共和制にして大統領を選挙で選ぶ方が余っ程ロジカルなのである。最近、上野千鶴子氏がこの見解をハッキリと述べているが、他の点はともかく知的誠実さには感服を禁じ得ないのだ、ナ。

何党か分からないが立候補して選挙運動をしたあと私たち有権者が投票をして選ばれる大統領と天皇陛下と日本人はどちらに日本の象徴性を感じるのか?それはまた自ずから別の事柄であろう  ⋯⋯   国歌「君が代」も廃止しないとネ、大統領制にするならば。国旗「日の丸」は江戸・幕末にアメリカに渡航した咸臨丸も掲げていたから残るでしょうが。

本当はこの選択を日本人はして、それに整合するように憲法を書き直す(=改正する)のが望ましいと思うが、これはまた別問題。


囲碁の名人がDeepMindのAlphaGoに負けてからAIの優越性が可視化されてきたのだが、歴史的背景と今の政策との関連をどう理解するかという点でも、世論よりはAIの方が(まだ細部で誤りが混じって満点ではないが)実力が上回るようになってきた。少なくとも世論の方がAIよりなお優れているとはもう言えない・・・こんな感想を持たざるを得ない。

囲碁や将棋などではとっくにそうなっているが、数学分野でもAIは大学院入試問題を軽々と解ける。人間に思いつかない証明方法を提案したりもできるようになってきた。所与の歴史的背景から今の問題の本質を探るときにも、正確な問題理解を示せるようになったとしても、それはAI進化の自然な帰結である。

民主主義の利点は《集合知》にあるというが、そんな世界の民主主義も知的な意味でそろそろ限界に近付いている気がする。

世界の大半の問題は、《世論》ではなく《AI》に質問する方が適切な回答が得られる時代がすぐそこまで迫ってきている。

正義や善が理性に基づく価値で、価値には合理性が求められるのであれば、社会的正義や社会的善の実現すらも世論よりはAIが担った方が、誤りを防げるだろう。人間には常に感情があり、怒りや嫉妬、妬み、怖れ、不安など色々な煩悩が混じる。国と国との関係もまたそうだから。

【加筆修正:2026-07-14】

 




 


2026年7月9日木曜日

覚え書: ハラスメント。野球もサッカーも誤審対策で慌ただしいのと同じか。

最近になって俳優の佐藤某と女優の橋本某がフジTVのドラマ撮影中に、なんだかハラスメント問題を起こしていたというので、芸能界隈では相当の騒動になっているよし。

きっかけは「文春砲」。週刊文春はハラスメントされた側の言い分を記事にしたところ、ハラスメントした側が「偏向している」と強硬に反論し、こんどは週刊新潮がこっちの側にインタビューした記事を出している(ようだ)。

正に共食いでありますが、これで販売部数が増えればカネを払うのは一般読者だから、業界全体としては見事な協調戦略であるわけだ  ―   これが意図的であるなら悪どいが。


それにしても、最初は「言葉の問題」であった(そうである)。小生の修行時代なら

きついこと、言われちゃったよ⋯⋯

友人にこぼして、慰められて、それまで。後で考えれば、きつい言葉の意味に気がついて、どうすればイイかを理解することもあった。

ハラスメント加害者を処罰し、ハラスメント被害を抑止するのは「善い社会」を築くための当然の努力であると思うが、ハラスメント認定を正確にしないと、今度はコミュニケーション障害を招き、こちらの損失が上回るかもしれない。

実質のない暴言は純粋のハラスメントだが、道理もロジックもある厳しい言葉を受けとれないのは聞いた側の理解力の問題で、言った側の問題であるとは言い難い⋯⋯と思う価値観に小生は立つ。この辺、言った側の意図、聞いた側の感情、両方の間に線を引いて判定するのは難しい。


とはいえ、そもそも

どんな犠牲を払ってでも守るべき価値などこの世には存在しない。たとえば、人類の生存を上回る価値がありますか?ないでしょう。しかし、これすらも地球を破壊してでも守る必要はない。

こう思っている。なので(という接続詞でいいかどうか分からないが)、この世界では《真実》こそ最も尊重されるべきだと思っている、甚だ抽象的ですが。真実を「誠意」、あるいは「自己を飾る嘘のない真心」と解してもよいかもしれない。

少なくとも口から出て、耳に入り、聴覚を刺激する空気の振動そのものに一喜一憂し、音波に罪の存在を求める態度は愚かである。というより(またまた)ドミノ的喜劇の発端になるだけである。本質は言葉ではなく、話者の意識であって、判定基準は動機と目的であろう(と勝手に考えている)。現代日本社会はまっとうな理性を働かしてほしいものだ。


野球でもサッカーでも、審判の判定能力が試合を円滑にもし、壊しもする。

ハラスメントの認定は日本では法律専門家の弁護士が担当することが多いようだが、弁護士もピンキリである。それに弁護士はクライアントの利益を代理するもので裁判官ではない。審判ではないのである。その審判もストライク・ボールの判定を間違えてばかりいる三流がいる。弁護士にも三流がいる。ハラスメント認定の現実は「お寒いものだ」と思って見ている。

ハラスメントを基本的に考察して、最適な法制度にするには、どんな基本法があればよいのか?基本が定まっていないから、安定しないのだ。そう思いますがネエ。この辺、以前にも投稿した。


2026年7月8日水曜日

ホンの一言: リニアの大阪延伸? 名古屋で十分なはずでは?

ずっと止まっていたリニア新幹線・静岡工区にも着工の目途がついて、いよいよ10年程先には東京‐名古屋間が40分程で結ばれる見通しになった(そうだ)。

ずっと昔、取手市に住まいしていた頃、霞が関の職場に行くのに片道1時間40分を要していた。リニアなら東京・名古屋を往復できる時間である。

月並みな言い方なら《今昔の感》ということになるのか。


ただ、今朝のワイドショーを視ていると、

仕事で行くのは大阪ですし、名古屋で乗り換えることはしないと思います。

そんな感じで、リニアの大阪延伸が今から早くて30年位ではないかという予想に、出演者の人たち、笑っておりました。

思うのだが、

大阪の拠点機能をソックリ名古屋に移せばイイのでは?

実に簡単な解決策でありましょう。

この発想、誰も口にしないのは不思議で仕方がない。


そもそも中京経済圏は現時点では近畿経済圏の半分ほどのスケールであるが、モノづくり産業の拠点であり、サービス経済化はこれからである。背後の信州までを含めると、人口、土地に広々とした余裕がある。信州は既に精密産業の一大拠点でもある。津波被害にもロバスト(=頑健)である。インフラ基盤は十分に厚い。成長ポテンシャルは中部経済圏の方が遥かに上であると観ている。

今になって《大阪副首都》などに振り回されるのは理に反する。

というより、経済的ロジックに沿って物事は自然に推移していくはずである。自然に進む都市形成をサポートする発想で資金を投入していけばよい。

関西経済圏は、地勢上、一定の繁栄は約束されている。しかし、名古屋の地理的利点を引き出さない法はない。生煮えの理屈で人為的なプランに執着するのは愚の骨頂である。

2026年7月5日日曜日

覚書き: 天皇の「男系男子継承」は明治政府が始めた非合理な方式なのだろうか?

カミさんに付き合って今朝の「サンデー・モーニング」を視たが、そこでも高市内閣の《男系男子による皇位継承》に疑念が呈されていた。民意ではないというのだ、ナ。

男系にこだわらないなら女系継承も認めることになる。天皇の娘の息子/娘が天皇になれば女系継承になるわけだ。この可能性に保守派が反対している、と。保守派は大半の国民の声に耳を傾けない。怪しからん、と。「男系男子による継承」は明治維新後に政府が押し付けた乱暴な方式にすぎないというのだ、ナ。男女平等をうたった日本国憲法の精神にも反するというわけだ。

「乱暴な方式」というと、鎌倉時代に幕府が朝廷に押しつけた「両統迭立」を思い出したりするのだが、明治以降の「万世一系・男系男子」も政府が強制した非合理な方式であるのだろうか?


マア、正直なところ、天皇や皇位継承など生活にはほとんど何の関係もない。誰が天皇になろうとかまわないのではないか?そう思いもするのだが、どうやら番組制作側は視聴者に受けると思っているらしい。本当にそうなのか、実に疑わしいのであるが、今日もそんな話がテレビ画面で語られているのだから仕方がない。


ただ、出演者の話しを聴いていて疑問に思った点が一つある。

日本は天照大神という女神から始まった国で元々は女帝なのですから・・・

と語る御仁がいたのだが、21世紀の日本の問題を論じるのに、よくまあ神話にまで遡りましたな、と。そう思って面白うございました。

それに天照大神は日本の始まりではなく、その前にイザナギとイザナミの夫婦神がいる。この二神が日本を創ったと『古事記』には書いている。天照大神はこの二神の娘である。神話に遡るなら『古事記』でござんしょう。

とはいえ、三種の神器を授けられて天孫降臨したニニギノミコトは天照大神の孫であるから、皇室の元祖は(神話のとおりなら)そもそも女系である。

つまり、日本人は本質的に女系継承を拒絶しているわけではない  ―   あくまで神話であるが。

それはさておき、《男系継承》を支持する側にも相応の根拠はあると小生は思う。

というのは、(小生は日本史の専門家ではないので雑駁な知識しかないのだが)、史料で確認できる歴史のほぼゝ全体を通して、天皇は男系の直系男子、理想型としては(息子がいれば)父から息子の形で継承されてきた。これは否定できないはずである。女性天皇が複数人いることは事実だが、それは男系皇子がまだ幼いなどの理由で一時的な「つなぎ役」として践祚したとも言える  ―   とはいえ、つなぎ役のはずの持統天皇が強いカリスマ性を発揮したのも事実であったはずだ。この辺り、先日投稿したとおり。

要するに、男系を選ぶ皇位継承は何も明治政府が始めたわけではない。(そうする理由や目的はともかくとして)男系による皇位継承は事実として続けられてきた。こう言っても間違いではない(はずだ)。


次に、直系が絶えたときの皇位継承をどうしたかである。小生は浅学のため、二例しか思いつかない。一つは(先日の投稿でも触れたが)壬申の乱後に100年ほど続いた天武系による継承から天智系に皇統が移った光仁天皇。それに江戸時代後期になるが光格天皇である。


最初の光仁天皇だが、天武天皇以来の女系の男子皇族が何人もいたにもかかわらず、男系男子が途絶えたことを理由に、100年間にわたって傍系であった天智天皇系の白壁王が光仁天皇として即位したのである。光仁天皇。平安京に遷都した桓武天皇の父である。この事は、8世紀末という時点で、男系による皇位継承を続けようとする意識を皇室が有していた証明になるのではないかと思うが違うのだろうか?少なくとも、男系継承は明治政府による勝手な押しつけであるという批判は誤りであろう。

次の光格天皇だが、1780年から1817年まで(あの時代にしては)長期にわたって在位したことから(前後の天皇に比べて)強い発言力を有して幕府を悩ませた天皇である。この光格天皇以後、今上陛下までは直系である。しかし、光格天皇はご先祖の東山天皇が亡くなってから60年程がたった傍系の皇子であり、親王にはなれず、皇族である「師仁王」として処遇されていた人物であった。ところが、直系の男系男子が途絶えたことから、閑院宮の息子である師仁王に白羽の矢が立った。これも男系による継承が選ばれた一例になると思う。

詳しいことは日本史の専門家が研究し尽くしているはずである。

いずれにしても、直系が絶えたとき、血筋の近い女系男子/娘ではなく、敢えて血筋は遠くとも男系男子を選ぶという意識は、(少し?)歴史を遡れば確かに皇室内部にあったと確認できる。なぜ男系を選ぶのか理由や目的は小生の知るところではないが、事実を解釈しようとすれば、そう思わざるを得ない。


少なくとも、男系男子による皇位継承は、明治政府が独断で定めた非合理な方式であり、それは日本の伝統でも何でもないという指摘は、正しくないと思う。むしろ、それがよいという積極的意識で、皇室(及び宮中貴族層も含めて?)が選んできた方法であった⋯⋯

小生の目にはそう見えますがネエ。

2026年7月4日土曜日

覚書き: 「コンプライアンス」がもたらす社会の「自己疎外」について

小生は経済学部からビジネススクールへ横方向へ移籍した口である。移籍当初は経済学の感性と経営学の感性と、学問分野の違いばかりではなく、授業を教えている教員たちの感性までもが何故これほど違うのか、と。しばらくの間は、まるで文化大革命の渦中に投げ込まれたような違和感に満ちた毎日を過ごしたものである。

しかし、今になって振り返ってみると、ビジネススクールで仕事をしたおかげで、データ解析を担当した小生の問題意識も大いに啓発され、新しい方向へ研究を始めることが出来たのだから、結果的には良かったと思っている。

21世紀に入って何年か経った頃だったろうか、外部評価で評価委員が来学したことがあった。その最後に指摘された課題として

カリキュラムに「企業倫理」に関連した科目が含まれていない

そんな助言、というか要請があったことをまだ覚えているのだ、ナ。

経済学から入った小生にとって、企業は法人であり、倫理意識など持てようはずはないわけであったので

何をチバケタことを・・・

と呆れる思いがしたことをまだ覚えている  ―   「チバケタ」と書いたのは、その時の感想をそのままに書いているもので、岡山県に勤務したことがあった名残である。

つまり、「企業倫理」などと言う概念が存在する余地はなく、あるとすれば「経営者倫理」だけである。そんな理屈であった。

その後、長い時間が経ってみると「企業倫理」なり「ビジネス倫理」という言葉は、日本社会でも何だかそれなりに定着した感じで、要するに

儲かるなら何をしてもイイわけではない。

これを言いたいのであろうと、大体は察しがつくようになった。何をしてもいいわけではない、つまりそこには「規制」がある。法的な規制があるし、法的には合法でも倫理上の規制があるはずだ。いわゆる《コンプライアンス》という言葉がここから派生してきた。

自由契約の精神はコンプライアンスという新たな外来語で羽交い締めされる社会状況になって来た。

最近なにかというと「葵のご紋」のように振りかざす人が増えた「コンプライアンス」、最初は企業倫理の方面から、だんだんと拡大、流布していったということか?

こんな「事ども」を思い出すことがあったので、試しにChatGPTの見解を聴いてみることにしたので下に引用して覚書としたい。

質問したのは先ず以下の質問だ。

コンプライアンスという言葉は20年程以前には使われていなかった記憶があるのですが、最近のように強調されるようになった具体的な契機や発端があったのでしょうか?

 回答は思った通りだった:

「コンプライアンス(compliance)」という言葉自体は以前から英語にはありましたが、日本で現在のように「企業経営の最重要課題」の一つとして盛んに使われるようになったのは、1990年代後半から2000年代初頭です。その背景には、いくつかの大きな出来事が重なっています。

1. バブル崩壊後の企業不祥事の続発

2. アメリカ企業統治の影響

3. 日本版SOX法(=サーベンス・オクスリー法)の制定 

4. 「法令遵守」から「企業倫理」へ

 「サーベンス・オクスリー法」の登場で、企業の内部統制と法令遵守を厳しく求める世の流れが確定した。

その法令遵守が次第に拡大解釈され、「適法か違法か?」という法律論から、いまは「適切か不適切か?」というグレーゾーンにまでコンプライアンスという言葉が使われるようになった。大雑把に整理するとそういうことのようだ。

そして今では

  • コンプライアンス委員会
  • コンプライアンス室
  • コンプライアンス研修

ちょっとした企業なら上のようなセクションなりコースが開設されているはずだ。

何かのトラブルがあれば、何かの原因がある、というより「あらねばならない」。その原因は、仮に法律違反でなくとも、(何らかの意味で)不適切である。どんな意味で不適切なのか?それは法律なり、法律がなければガイドラインなり、内規なり、探せば必ず見つかる(はずだ)。なければ新たに文章化して不適切にすればよい。つまり現実にトラブルが発生しているなら、関係者の言動に何かノン・コンプライアントな要素があったからである。そういう事にしよう。

トラブル ⇔ ノン・コンプライアンス

これが現代経営を支配する黄金律なのだろうと観ている。

まるで仏教である。仏教では全ての事象は過去の業が因となり何かの縁で触発されることで生起する。いわゆる「縁起」なのであるが、典型的な因果論にあたる。実際、仏道では「四苦」を「生・病・老・死」としているが、死の苦しみの原因は、即ち生まれたことそのものである。人生とは苦である。ここから全ての議論が出発する。(宗教としては)間違っている議論ではない。しかし、宇宙観を実務のマネジメント方針にするのは間違いだ。

問題解決には因果分析がなるほど必要だ。悪因悪果、善因善果。不適切な原因を排除すれば望ましい結果が得られる。とはいえ、これで安心するなら、まるで因果応報論の焼き直しである。

この極めてシンプルな論理に自らが苦しめられているのが当の我々ではないかナアと感じているのは小生だけだろうか?

生産現場、活動現場は因果律では動いていないのだ。人間は因果論ではなく、目的論に立って観察されるべき存在である。

〇〇したからこうなった。ではなく、〇〇したいから、こうする。

人間社会は目的合理性に沿って出来ている。活動には目的がある。これを理解できない人はいないはずだ。トラブルは排除するべき不適切では決してない。目的を追求する中では、何らかのトラブルはほぼ必然的に発生するものである。トラブルの根本的原因は、過去の時点にあるのではなく、目的を定めたこと自体にある。もし目的が絶対のものであるなら、付随するトラブルは半ば必然的。解決するべき問題として認識されるのである。

トラブルは改善への一里塚

それが人間行動である。こんな言動をしたことが重要なのではなく、何をしようとしてその言動をしたのか?意図と動機が人間行動の本質である。

外観だけに着目して、一挙手一投足一語句に是非の判定を下したがるのは、人間社会を《ゲーム》と錯覚している御仁の通弊である。この種の人物の増加と横行を止められない所が、現代民主主義社会に蔓延する文明病の主たる症状だと観ているところだ。


モノづくりを経験知として知っていた世代なら、不適切な原因がありトラブルが発生したという順とは反対方向からも考えられるはずだ。そもそも何が不適切かという判定は目的設定に依存して変わるものである。

モノ作りではなくて、サービス、つまりは「おもてなし」をコアとする現代日本の活動現場では、トラブル自体が単なる不祥事になってしまったようだ。

「改善への一里塚」から「単なる不祥事」へ

「失敗は成功の母」であるのに何という転落ぶりだろうか?しかし、アスリートでもない、クリエーターでもない、アーティストでもサイエンティストでも何でもない、いわゆるスキルとは無縁の人たちが活動する現場においては、トラブルは未熟からの成長の一過程とは認識されず、単なる無能としか観られない。成長するべき何物もない以上、トラブルは取り除くべき不適切な因子の存在を示唆するのである。

マルクスは「労働力の商品化」をもって「人間の自己疎外」と理解したが、「コンプライアンス」という言葉に支配される現代日本社会の「働く場所」に蔓延しているのは、文字通りの

働く人たちの自己疎外

である。浸食されているのは、被雇用者だけではなく、自らが造った言葉と観念に逆に支配されている経営者も同じである。

コンプライアンスとは元来は「法の尊重」を指す言葉だった。それが「不適切の排除」という意味に拡大してきたのが、この10年程の間の現代世間史と言えるだろう。この辺にも言及しているから、ChatGPTの回答は平均以上の出来栄えを示している。

興味深いのは、コンプライアンスの意味が変化していることです。

もともとは

法律を守ること(法令遵守)

という意味でした。

しかし現在では、それだけでは不十分と考えられ、

  • 社内規程を守る
  • 倫理規範を守る
  • 利益相反を避ける
  • ハラスメントを防止する
  • ESGや人権に配慮する

といった広い意味で使われています。

《トラブル、即ち不適切》という思い込みは、創造とモノづくりの現場を忘れた現代日本の精神的退廃であろう。正に、自らが造った言葉が自らを苦しめる自己疎外の典型的なケースであるというのが、小生の現代世相観である。

次いで、以下の質問をした。

個人的には、潜在的エネルギーが社会的な活力になるように法制度は柔軟に修正していくものだと考えています。現時点の法制度を所与として、法を順守する点を重視しすぎると、むしろ閉塞的な社会状況になると思いますが、あなたはどう思いますか?

あまり良い質問の仕方ではない。これでは答えを誘導している。

案の定

例えば歴史を振り返ると、

  1. 明治維新では封建的な身分制度や営業規制が大きく改められ、経済活動の自由が広がりました。
  2. 戦後の農地改革や独占禁止政策も、既存制度を大胆に変更することで社会の活力を引き出そうとした例です。
  3. 近年でも、デジタル技術やAIに対応するため、新しい事業を可能にする「サンドボックス制度」のように、既存規制を一時的に緩和して実証実験を認める仕組みが導入されています。

つまり、法制度は固定的なものではなく、社会の変化に応じて改正されるべきものだという考え方は、法学や経済学でも広く認められています。

小生が欲しいと思う回答が返ってきた。この回答自体に誤りはなく、正にその通りなのであるが、

社会進歩のためには、苦しむ人は犠牲になるべきだと考えるのですか?

必ずこんな反問に答えなければならない。注射は、同じ人が痛い思いをして、同時に治療効果の受け手になる。利得と損失の差し引き計算は可能だ。他方、社会が進歩するときには、ある人が大きな利益を得て、別の人がそれより小さい損失を蒙る。そんな時、損失を蒙る人は社会の為に犠牲になれというのですか?これでは、神風特攻隊を送り出した軍国日本の日本人と同じ精神ではないか?

この問題意識こそが議論の核心なのである。

次のように回答から逃げているのはAIなるものの賢いところだと思っている。

私が興味深いと感じるのは、ご指摘が**「コンプライアンス文化」への批判**にもつながっている点です。

近年のコンプライアンスは、単なる法令遵守を超えて「少しでも社会的批判を受けそうなことは避ける」というリスク回避の文化にまで広がることがあります。その結果、

  • 新規事業への挑戦をためらう
  • 前例主義が強まる
  • 失敗を極端に恐れる
  • 形式的なチェックや書類作成が増える

といった副作用が指摘されています。これは本来の「法令遵守」とは少し異なる現象で、むしろ過剰なリスク回避の問題と言えるでしょう。

コンプライアンス重視が、改革の痛みからの逃避になれば、その企業、その国は衰退するしかない理屈である。

要するに、コンプライアンスを「臭いものに蓋をする経営姿勢」の言い訳にしてはダメだということだ。が、現状は

コンプライアンス重視 = ことなかれ主義

コンプライアンス重視 = 護送船団方式

に堕している。1990年代のバブル崩壊の修羅場の経験を通して、これではダメだと日本人が学習した教訓を、そろそろ忘れ始めているのだろう。

日本社会は、一度は否定できた旧習を新しい言葉で飾りつけ又もや同じ事なかれ主義に戻りつつあるように観える。

とはいえ、こういう事こそ小生が最初から言いたい事であった。言いたい事を先に書いてくれるのは有り難いが、求めていたのはこれをロジックとして整理することであった。

数学の入試問題すら解けるAIだが、社会を肉切り包丁のように解体して、社会問題のロジックを自由自在に再構成してくれるという所までは行かない様だ。

 

 

 


2026年6月30日火曜日

ホンの一言: 日本政治もアメリカ政治も猿山になったか

刑事訴訟法改正や皇室典範改正だけでもどうなるか分からないのに、衆議員定数削減、それも小選挙区には手をつけず比例区だけを45人(?)も削減するという乱暴な法案の審議を始めるというのだから、国会が大荒れになるのは当たり前である。そんな雰囲気の中、自民党の重鎮議員が愛子天皇はありえないと、結婚相手が見つからないだろうと、講演か会見か、公の場で言ったから世間はよけいに荒れてきた。

これが「戦略的失言」であるなら、目的は何だろうか?

ちょっと思い浮かばない。単なる失言だろう。

先日、トランプ政権は「サル山」のようなレベルだと、経済学者のDeLong先生の評を引用したばかりだ。

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

日本の高市極右政権も同じ様なものか?

上の英文の最後に次の一文を追加したいというのが小生の感想だ:

As for Japan, too, the view that the administration is like a "chaos monkey" remains the same, though ....

日本に関しても、現政権が「猿山のサル」のような存在だという見方は変わっていませんが……。 

 但しこちらは、関税、移民取締り、ベネズエラ大統領拉致、対イラン戦闘開始と何でもありのト大統領とはちがって、いまだに宣伝とアピールだけ、成果はチマチマしたものばかり。やったのは奇襲のような衆議員解散だけである。

共通しているのは《奇襲》が好きなサルだという一点だけか ⋯⋯

2026年6月29日月曜日

ホンの一言: アメリカの対キューバ経済制裁は確かに悲惨ではあるが

愛読しているKrugman先生の投稿は、最近毎日のように、いかにトランプ政権が無能であるか、いかにトランプ大統領が悪質であるか等々、経済というより政治的な非難が多いので、その種の批判はちょっと丁寧に読むのは止めている。

そのト政権が経済制裁中のキューバ。やり方が惨いのでどうしてもト政権批判へと議論は流れがちだが、DeLong先生は意外と冷静な目でとらえている。

引用しておこう:

My view is that, had Cuba remained a normal country rather than becoming the patrimonial-authoritarian really-existing socialist caudillismist Castroite state that it did, the likely counterfactual is that nearly everyone would have been much better off. People would have been better off even with respect to infant mortality. In brief, Cuba today would probably look a lot like Costa Rica today, with 9 infant-mortality deaths per thousand live births. The Revolution and the Castroite régime has been a 2.5-generation disaster for Cuba, and the ability of the medical system to punch well above its economic weight in infant mortality is 100% offset by the régime’s system that makes its economic weight so low.

私の見解では、もしキューバが、家産制的かつ権威主義的で、現実の社会主義体制下におけるカウディージョ(独裁的指導者)支配の「カストロ体制国家」へと変貌するのではなく、ごく普通の国であり続けていたとしたら、ほぼすべての国民にとって状況ははるかに良好なものになっていたはずです。乳幼児死亡率の面でも、人々は今より良い状況にあったでしょう。端的に言えば、今日のキューバは、出生1,000人あたりの乳幼児死亡数が9人であるコスタリカとよく似た姿になっていた可能性が高いのです。革命とカストロ体制はキューバにとって2世代半にわたる災厄であり、乳幼児死亡率に関して経済規模に見合わないほどの高い成果を上げている医療システムの能力も、経済規模をこれほどまでに低く抑え込んでいる体制の仕組みによって、完全に相殺されてしまっているのです。

Source:  substack.com

URL:  https://braddelong.substack.com/p/no-castros-cuba-was-not-a-successful

このところ、日本でも《社会主義待望論》があるようで、アメリカでも何だか"Socialism"に関心をもつ若者が増えているそうだ  ―   さすがに"Communism"(=共産主義)は私有財産の完全否定につながるのでアメリカ人の感性には受け入れられない様子だが。

キューバのカストロ政権は、乳幼児死亡率やその他の医療面での福祉では(驚くほどの)ハイレベルな結果を残してきたものの、肝心の生活水準全体はといえば「停滞ぶりは酷いものだ」というのは、「社会主義経済」なるものを観察するときの最大公約数になっている。旧ソ連もそうであったし、西ドイツに対する東ドイツ、西欧に対する東欧と、どんな比較をしても同じ結果である。

社会主義は、一時的、短期的には良い結果を残すのだが、長期的に停滞に陥り、その停滞を解決するためのシステム改革ができないという袋小路に囚われてしまうのだ。中国共産党がいわば《不真面目な社会主義》へと舵を切ったのは、漢民族の現実感覚がなし得たファインプレーだと思っている。仏教はインドでは途絶えたが、中国では形を変えて残った。どこか相通ずるものがあるとも思っている。最近ではまた「社会主義原理主義」の志向をもつ政権トップが君臨しているためか、難問山積の状況だが、この辺の分析は社会主義的要素と自由主義的要素との絡み合い、更には中央指令的な共産党中央という要素があって、分析は一筋縄ではいかない。

いずれにせよ、社会主義は現在の体制とは違うので、何だか「いいね!」とか、あれも「よさそうだネ」とか、幼稚な感覚を超えた真っ当な議論の深まりが日本でも進んでいってほしいと思う。

2026年6月27日土曜日

覚書き: 聴いただけでは分からない事も多い。当たり前だが・・・

先日は最近の「千遍念仏」についてメモを書いておいた。

大体、あんな様なことなのだが、補足したい点が出てきた。

というのは、五百遍では所作だけということなのだろうか、千遍になって初めてピンと体感できるようになった、ということだ。

時間的にも五百遍念仏は15分ほどで終わるが、千遍念仏になると30分かかる。呼吸を深くして称え続けるので、終わると結構疲れる、体力もそれなりに要るのがよく分かる。

何がピンと来るかといえば、阿弥陀仏という宗教的観念が心の中に定着するという感じ、というか言葉では正確に表現できないが、マア、そういう事である。

例えば、数学の無限集合は観察できる世界で可視化はできない。無限に大きな物体や無限に微小な物体は経験的に確認不可能なのである。

しかし、無限集合が実在していることは論理でもって確かめられる。最も簡単な例が「自然数全体」という集合だ。最大の自然数がないことは、仮に$A$という自然数が最大であるとしても、それより大きい$A+1$もまた自然数であるので$A$は最大値ではない。つまり自然数全体は無限集合である。

自然数のそれぞれに2を掛ければ異なった偶数が対応する。逆に、任意の偶数を2で割れば異なった自然数が対応する。だから自然数全体と偶数全体は1対1に対応づけられ、故に自然数全体と偶数全体は同じ個数だけある・・・というのは、集合論の序盤で誰もが「エッ!」と驚くところだ。

大乗仏典では数多いことを恒河沙ごうがしゃと言ったり、あるいは無限に長い時間のことを阿僧祇劫あそうぎこうと言って、経文の中に何度も登場するのであるが、前者の恒河沙、つまりガンジス河の砂の数も有限である。無限大はどんな数よりも大きいものと定義するのだから、それ自体、もはや数ではない(とも言える)。自然数全体の個数と偶数全体の個数が同じであるなどという常識とは異なる結論が出て来るのも、無限を考えているためである。

数学の偉大な(?)ところは、常識や感覚には反する結論が得られるとしても、論理的に一貫している以上、最初に定義した抽象概念は実在すると考えて議論を進められる点にある。虚数を含んだ複素空間も別の例である。量子力学の基本になっているシュレーディンガー方程式は時間と空間に対応して複素数値をとる関数を想定している ― 小生は専門外なもので、これまでシュレーディンガー方程式は複素空間で定義された複素関数だと思い込んでいて、となると偏微分方程式がある以上は正則関数になるのではないかと、ChatGPTに愚問を発したところ、「それは誤解です」と思い違いを指摘されたのだ。ごく最近、実数のみでシュレーディンガー方程式を表現できるという研究結果が出たと何かで読んだが、しかし実数で書き直した方程式が余りにゴタゴタした形になっているのなら、自然の真理はやはり複素数で表現するべきなのではないかとも素人考えをしたりしているところだ。

それはともかく、阿弥陀仏という宗教的観念もこれに類した観念だと思う。というのは、実際に千遍念仏をしていると、阿弥陀仏の実在性が心の中に刻み込まれ定着する感覚を確かに覚えるからである。それは、数学や自然科学の「理解」とはやや異なり、論理や実験データとは別の「感得」、「体感」という分かり方に近い・・・としか言いようがない。

しかしながら、

実際にやってみれば分かる
という事は確かに世の中にはある。

最近、叱るなら言葉で叱ればいいのです、と。こんな言説が目立つのであるが、音楽や美術の修行をしている人たちに言わせれば、

聴いて分かるなら苦労はしませんよ
そう言うにきまっている。運動系の人たちももちろんそうだろう。言葉で聴くだけでは分からないことは多いのだ。

数学を勉強している時もそうである。講義を聴いて、教科書を読んで、それで「分かりました!」とはならない。やはり自分の頭と手で書いてみないと、使い物にはならず、習得したとはならないのである。仏道の《行》もそうで、浄土系宗派の念仏も《行》である(と思う)。称名念仏よりは《信》、つまり阿弥陀如来の本願を信じることが何より大事なのだという親鸞的な思想もあるが、小生の感覚では「分かりました」と信じるだけでは、本当に分かって信じたことにはならないと思う。

やはり他力本願とはいえ、それを身につけるには《行》、つまり《修行》がいる。体感しなければならない。そう思う次第。覚書まで。

2026年6月24日水曜日

覚え書: 権力という刀を抜くときの心構えという話になるか

話題としては旭川ローカルな事件だったが、同市で起きた女子高生殺人事件は結構な全国ニュースであったらしく、今週前半は主犯に懲役27年と言う「意外に軽い判決?」が出たというので、又々、喧々諤々の論議になった。

大変だろうなあ、と。判決を出す側の判事(それから裁判員)も求刑をした検事も、その気になればどんな重罰も申し渡せる立場にいる。いわば公権力という誰も抵抗できない《刀》を抜いて人を裁くという仕事をしているわけだ。

小生はずっと昔に小役人をやっていたが、とてもじゃないが、他人の人生を己が裁量で決めるという仕事を選ぼうとは思わない。

とはいえ、学生の人生を決めたり、裁いたりして来たではないかと言われれば、その通りであって、その時々にした自らの裁量をいまこの時点で非難されるとしたら釈明はしない。

落花不語空辭樹

流水無情自入池

落花ものいわずして、空しく樹を辞し、

流水こころのうして自ずから池に入る。

白楽天の『過元家履信宅』にある一句であるが、高校在籍時に使っていた漢文の参考書で見つけて以来、小生はこの心境を好んできた。

流水無心

道理無我

これが、大勢の人間と触れ合いながら仕事をせざるを得なかった役人時代に心を支えていた《座右の銘》、それも自作の標語であった。


母方の祖父は職業裁判官であったが、晩年になって

法廷で 死刑を宣し 勲〇等

という川柳を作ったそうだ。

裁判官は己の心象によって判決を下す権限、つまり自由心象主義が憲法で認められている。が、当の判事も刑を求める検事も「自分の(文字通りの)意志と裁量で被告人に死刑を宣するのだ」と、自分自身でそう認識すれば、行為としてそれは殺人にあたる、と。この理屈に抵抗できない自分を認めるはずである。

いくら給料を貰っても良心があればそんな職務に耐えられるはずはない。

求刑や判決は《法の道理》を映すもので《我》はない。道理無我。諸法無我。悪の源は常に自我である。

いくら世間で《悪人》と呼ばれていようが、意のままに人を刑務所に送ったり、命を奪ったりできるはずはない。我意によって人を害すれば、その行為はそれ自体として悪に決まっている。


わけもなく被害者となり、気がつけば加害者となる。二つの岐路も生き死にも業と縁で決まる。この世、つまり娑婆とはそんな世界である。

猿を聞く人捨て子に秋の風いかに

 遠くで猿の悲しげな鳴き声を聴いて哀れに思う人も、今まさに秋風にさらされて泣いているこの捨て子を見たら、どれほど心を痛めることだろうか

松尾芭蕉は、道中で見かけた3歳ほどの捨て子に対し、

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。

お前の父がお前を憎んでいるのではあるまい。お前の母がお前を可愛くないと思っているのでもあるまい。これは天命である。自分の運命を恨みなさい

こう語りかけ、自らは袂(たもと)から食べ物を与えて通り過ぎたと『野ざらし紀行』で記している。

日本文化の人生観と現代世界の人生観とは根本的に違うが、どちらが人の幸福につながる宇宙観かと問われれば、にわかに分からない自分がいる。そもそも芭蕉が生きた江戸時代と現代とで日本の世の中は本質的に善くなったのだろうか?・・・疑問であります。

少し、と言うよりかなり昔にはなるが、人は前世は変えられないが、来世は善くしたいと願って、今生の生き方を決めようと思う人がこの国には多かった。こんな問題に法律は無縁である。法律が扱うのはもっと俗な問題である。かといって、科学で解明される問題でもない。法は幸福のためにあるのではないし、科学が物質世界の真理を示すとしても人が幸福になるわけでもない。紛争が収まればよい。争いを未然に防げればよい。法はそのためにある。

こう考えるしかないのじゃ御座ンせんか?


司法官に与えられた職務は、法の道理に寄り添うことであり、被害者遺族に寄り添うことではない。その意味では、その職は非人間的で非人情の境地にある。



・・・別の話になるが、上の事件の被告人であった女性。幼少の頃から陽気で、人を仕切れるだけの才質があったということだ。ところが仕事についてもうまく行かず、反社組織の人物と交際するようになってから悪の道に入ったよし。


いま親の躾を非難する声が世間にはあるという。

まあ、世間とはそんなモノだ。無責任ぶりには呆れると言うしかあるまい。

実際には、親が子に体罰を課して折檻すれば暴行となる。子の嫌がる説教をすればハラスメントとなる。《コンプライアンス》はこんな状況を国民に強制するのである。

この10年程の世相の下では、悪の道に入りかけた子を親が激しく叱責して、真っ当な道に引き戻す努力をするとしても、もはやそれは非難の対象であり、決して称賛されることではなくなった。色々な問題で苦しむ家族に世間は寄り添わないのが現実だ。


思うに、成人前後の被告人は、浅はかな「非暴力主義」が蔓延る現代日本が(逆説的に)生み出したものであり、その意味では社会的産物である(と思っている)。

それでなくとも、日本文化は様式美を重んじるという特徴がある(と思っている)。現代日本人も美に対しては繊細な感覚をもつ(と思っている)。しかし、そうした特徴は反面で外観、形式に偏るルッキズムに堕しやすい。

外観をみて本質には目を向けない風潮になりやすい。外面を気にして本質を考えないという無思慮につながりやすい。現代日本社会の「体罰=暴行」という潔癖な非暴力主義は、無思慮の典型だと思って観ている。「被告人を死刑にしろ」と法廷内で騒いだ暴漢の声と「体罰は厳禁です」という世間の声と、両方とも同じ現代日本の世間の声である。もはや現代日本の世間に真っ当な思考を期待しても無理である。


社会理念の欠陥は、特に10代から20代にかけての、いわば「大人になりかけの世代」の行動様式にしわ寄せされて現れるものだ。

刑の軽重などを論議するよりは、社会的価値観のバランスが失われている点に目を向けるのが先決だと思うがいかに?

放っておけば、今後も別の形で理念的な偏り(とその反作用)が現象化するものと予想する。太平洋戦争中、「八紘一宇」などと夢のような法螺のような国家目標を日本人は(何も考えずに?)是としていた。(おかしいとどこかで感じながら?)神風特攻隊を賛美する日常行動もそこから発していた(と思う)。それと同じ時代相をみている感じがする。

日本国では国家目標も社会運動もイデオロギーも、初めはしばらくリベラルで最先端だが、やがて外見だけの張りぼてに化し、最後には「雨に破れかけた街かどのポスター」のような昔語りの対象に風化してしまう事が多い。どうせ風化するなら、速やかに風化させる方が、リアルな社会進歩につながるというものだ。この点では、下部構造が上部構造を決めるというマルクスの社会観に賛成する自分がいる。

 

2026年6月20日土曜日

ホンの一言: 米イ=イラン戦争? 60日間停戦? 大丈夫?との声の一例

アメリカ=イスラエル枢軸とイランとの戦闘行為は、ようやくのこと、「60日間停戦」に入った(ようだ)。

ただ、経済学者・Brad DeLong博士はsubstack.comに投稿した記事をこう結んでいる。

The chances that the next use of nuclear weapons will happen in the Middle East and will happen in the next 50 years keep rising. And Donald Trump’s inability not just to get ducks in a row, but to understand what a duck even is, is not helping.

中東で次の核兵器使用が起こる可能性、そしてそれが今後50年以内に起こる可能性は高まるばかりだ。ドナルド・トランプは、(ガア、ガアとうるさい)アヒル達をちゃんと並ばせる(=物事をきちんと整理する)ことが出来ないし、そもそもアヒル(≒ 問題)が何なのかすら理解できていないのは、どうしようもない。

まったく散々な評価であります。

トランプ政権を「猿山」になぞらえているDeLong博士から見れば

猿に出来るのか?

と思うのは無理からぬことでありましょう。


2026年6月18日木曜日

覚書き: 念仏修行の現在地点

 一昨年の2024年10月に寺で五重相伝をうけたとき毎日三百遍の称名念仏を誓った。それから1年半が経ったが、最近は毎朝6時に始め千遍の念仏を称えられるようになった。今年初めはまだ毎朝三百ないし五百遍であったが、何かの拍子で吐く息が尽きるまで十念で止めずずっと念仏を続ける仕方を「発見」した。それがヒントになり、今では腹式呼吸で息を吸ったあと、吐く息が尽きるまで南無阿弥陀仏を称える。そうすると一息で二十遍を称えられることに偶然気がついたのだ。

このやり方がいいのか悪いのか分からない。ただ、このやり方が効果的であったのか、集中心が途切れることなく、30分で1000遍、というより数珠の1コマごとに20遍。1周が27コマ、これを3周するから$20 \times 27 \times 3 \,=\, 1620$、いまの自分には十分な気がする。実際には、1息で20遍にはならない時もあり、3周目は1コマ10遍にすることも多いので、この場合は$18 \times 27 \times 2 + 10 \times 27 \,=\, 1242$になって概ね1000遍になる。

時間的にも線香が一本燃え尽きるまでになるから丁度よい。

法然は一念と多念に意義の違いはないとしているが、自らには三万遍を課し、一念派の幸西を破門している。回数を決めておくのは懈怠(=怠け心)を抑えるコツであるとも応えている。小生ももっとやれるかもしれない。が、しばらくは今の状態で落ちつきそうだ。

この30分の間、心を散らすのは本来はダメなのだが、色々な事を考える。

阿弥陀仏なる宗教的観念は当然のことインド発祥のものだが、当のインドでは日本の神仏習合とは逆に土俗的なヒンズー教が仏教を吸収してしまい、いま現在のインドに古代から残る仏教寺院はない。

大乗仏典をどう位置付けるかと言う学問上の論点はあるが、阿弥陀仏をいわゆる《浄土三部経》の文章からイメージ化すると「無限の光明」ということばで表される。だから、例えば『観無量寿経」では称名念仏の前に観想念仏の意義を釈迦如来が王妃・ヴァイデーヒーと弟子・アーナンダに語っているのだが、そこで第一に挙げられているのは《日想観》である。

心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。

岩波文庫『浄土三部経』ではそう訳されている。

また阿弥陀仏については

かの仏の円光は百億の三千大千世界のようである・・・一々の光明はあまねく十方の世界を照らして、仏を念ずる生ける者どもをおさめ取って捨てられることがない。

こんな風に表現している。いわゆる9番目の《身心観文》だが、これをみても阿弥陀仏のイメージは陰りのない光であって、だからこそ阿弥陀仏は「無量寿仏」とも「無量光仏」、「無辺光仏」とも呼ぶわけであろう。

思うのだが、インド発祥のオリジナル阿弥陀仏のイメージは、法然が専修念仏の道を啓いた時の阿弥陀仏とかなり大きな違いがあると感じる。

前の投稿でも書いているが、

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

念仏は(小生の宗派では)修行の一つの形であるが、人に見せて評価してもらう行為ではない。つまりパフォーマンスではない。だから、上に引用したように、皆が寝静まった深夜に起きて、自分だけに聞こえる声の大きさで称える念仏こそ、念仏としての意義がある、と。そう述べられている。というより、夜更けてから独り念仏を称える情景は、やはり極めて日本的であり、全くインド的でない。

法然の和歌のうち下の一首は有名である:

月影の いたらぬ里は なけれども

     ながむる人の 心にぞすむ 

 阿弥陀如来からさす光は月の光のようである、と。陰り無き光明というより、夜空に浮かぶ月のイメージをもって阿弥陀仏を観念化していることが伝わる。インド・オリジナルの阿弥陀仏とそれが中国経由で日本に伝わり鎌倉時代初めになって法然が表現した阿弥陀仏には大きな違いがある。

もともとは太陽のようであった阿弥陀仏が日本では月のイメージで理解されるようになった・・・

その違いは自らを「凡夫」であると思う心から生まれる(と勝手に理解している)。

「凡夫」とは普通の人間という意味で、我にこだわる煩悩に心は汚れきっている存在だ。ありのままの真実をみる覚悟はなく無知と偏見にまみれている。無知と偏見にまみれながら毎日を過ごし、それを自覚しないでいられるのは、智慧に欠けているためで、これが《無明》である。自分が迷子であることに気づく前の迷子に似ている。

真っ暗な夜空の中天に輝く月をみて、無明の闇に迷う自分自身をたすけてくれる阿弥陀仏の実在を感得したのであろう、そんな風に思っているところだ。

凡夫の自覚は迷いの自覚である。

無限の光明は悟りを目指す菩薩の理想である。それに対して夜空にかかる月は永遠に迷うダメな自分に向けられた一筋の光である。

同じ阿弥陀仏を思うとしても、思う人の心によって全くちがうイメージで思われるのである。


仏道では《知》と《智》を厳格に区別する。知とは知識である。学んで身につく学力と言っても可かもしれない。しかし、勉強して覚えた知識は(宗教学上の)仕事には役に立っても、阿弥陀仏国に往生する役には立たない。だからこそ『一枚起請文』の中で

智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし

と書きのこしたわけである。

知識を仕入れて知者のふるまいをする人なら現代日本に無数にいる。しかし、智者はほとんどいないのかもしれない。智とは正しい認識(=正しい宇宙観?正しい生命観?)を持つための必須の要件だ。知識を超えて真の認識に至る最後の一振りが智慧の働きである(と理解している)。

知者と智者の違いは、普通の人であっても、話を聴いているだけで分かるものである・・・というのは歴史が証明している単純な事実である。

2026年6月15日月曜日

覚書き: 「愛子天皇待望論」。これを憂慮されていたのかも・・・

ネットをみていると必要のない情報まで目に入る。

今あふれているのは《愛子天皇熱望》、《旧宮家養子絶対反対》を主張する投稿群(?)である。

不愉快ではないのだが、「またか」という感じで、もう閉口する今日この頃です。

明治以前に遡るのはいいが、江戸、室町、鎌倉、平安、奈良の各時代を一挙に飛び越えて、古代日本にまで立ち返り

天皇は決して男系継承で一貫していたわけではなかった

そもそも天照大神は女性であった、等々 

という記述をみると、

それが何か?

So what?

と言いたくなる。


ただ皇位継承が混乱していた時期と言うのは今回が初めてではなく、(周知のように?)歴史上何度もあった。

一つ不思議に思っているのは、平成上皇が生前退位された前後の事情(?)について、誰も思い出さないというか、話題にもしない所である。

そもそも天皇の生前退位、生前譲位というのは、稀とまでは行かないが、あまりない。何か特別の事情、特定の人の意志があって起きていた出来事なのである。


平成上皇の生前譲位があってまだ10年も経っていない。

平成上皇の生前譲位があり、今上陛下が即位し、秋篠宮殿下が立皇嗣の礼を経て皇嗣殿下となった。

天皇という地位は「民意」によって決まるのではなく、形式的・理念的には「神意」によって決まるものと、皇室自身がホンネでは考えているはずである。大体、民意によって天皇が即位するという理解は、それ自体が社会観として矛盾している。日本の天皇の実質をみても間違った理解だ。

いま《皇嗣殿下》と敬称するのは、皇室典範に「皇太子」、「皇太孫」の語句はあるが「皇太弟」という語句が明記されていないという法律上の理由からで、もし法律がなければ当然に「皇太弟」と呼ばれていただろう。

日本の国事行為として正式の皇室儀礼を神事として済ませた以上、民意によってそれを覆すことは思想的に不可能だ。

この一連の進展は、平成上皇が生前譲位を決意したところから発している。

そこに込められた意図は、限られた範囲の人物しか承知していないはずだが、皇位継承の方向を確定しておくことにあったと、小生は勝手にこう推測している。

歴史上の似た事例としては、(大分遡るが)持統天皇から文武天皇への譲位を連想する。

蘇我入鹿粛清と大化改新を断行した中大兄皇子が後に天智天皇となった時代は、革命(クーデター?)あり、恋愛あり、対外出兵あり、遷都ありの古代日本で最もドラマチックな時代であった。更に、天智天皇崩御後の壬申の乱から文武天皇即位までを含めると、半世紀にもわたって展開される大河ドラマでもあったのだ。

織田・豊臣・徳川の三英傑が登場する戦国末期と同じ程度に面白い時代は7世紀後半の50年間である。

中国では秦や漢、三国時代を舞台にした時代劇が作られ、韓国でも高句驪、新羅、百済の時代がドラマ化されている。同時代の日本が何故手つかずのまま話題にすらならないのか、小生にはメディア業界の鈍感さの由来が分かりませヌ。

持統天皇は天智天皇の皇女であり、天皇の実弟である大海人皇子(のちの天武天皇)の室となる。天智天皇崩御のあと、決起を胸に秘め吉野から伊勢へと脱出する逃避行に皇女は同行、大海人皇子を支え、官軍に勝利する。大海人皇子が天武天皇として即位するとき皇女は皇后に立てられる。

この辺のストーリーはそのまま歴史小説になるのであるが、Wikipediaにも概要は述べられている。

持統天皇は天武天皇崩御のあと自らが女帝として即位するのであるが、その後の皇位継承が実子の死去、異腹の皇子の存在などもあって、極めて不安定化するのである。

Wikipediaにはこんな記述がある。

持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。

その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった  ―   コメント:3月と説明している例もあるが専門外でもあり深入りしない。この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある。

持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。

大国柱であった天武天皇の長男・高市皇子が亡くなったのが696年。次の天皇に想定されていた持統天皇の実子・草壁皇子は若くして亡くなっていた。草壁皇子の(異腹の)兄弟は複数いた。どの皇子にも皇位継承の可能性があった。人望のあった高市皇子の薨去によって「皇嗣」を正式に決める必要性が表面化した。

そんな時、「最初の朝臣」とも言われる葛野王が

日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。

と発言し、亡くなった草壁皇子の息子、つまり持統天皇の孫である軽皇子が皇太子に立てられることになった。697年3月の事だ。そして同年8月1日に持統天皇は生前譲位し、15歳の軽皇子が文武天皇として即位した。

高市皇子の薨去から持統天皇の生前譲位までの一連の進展は、自分の若い孫に皇位を継承させようという持統天皇の意図から発していた(と今では推測されているようだ)。

実に、持統天皇という女性は若い頃から波乱万丈、剛毅にしてカリスマ性があり、北条政子を遥かに越える日本史上最大の女傑でありました。

葛野王。壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の息子である。後に臣籍に下り、孫は有名な文人・淡海三船である。今に伝わる伝統《万世一系》を言葉に表した元祖と見られている。

このように天皇の生前譲位は特別の意図から発していると理解するのが至当である。

とすれば、平成上皇の生前譲位の意図は

長男から次男、次男から次男の長男への皇位継承を確定させておきたい

そう理解するのが正しい(と勝手に推測している)。

そして、上皇の意図は時の政府の了解を得て日本国の国事行為と皇室神事によって公的に確定した(と勝手に思っている)。勝手に思っているのだが、確定したという事実はたとえ知識を持たないヒトが多数いようとも事実であることに変わりはない。


「愛子天皇待望論」は、それに横槍を入れる主張であり、横紙破りとも言える。

正に「このような進展になるかもしれない」と憂慮して、平成上皇は生前譲位を決意されたのであろう(と勝手に憶測している)。

政府、与党のある意味で強引かつ直線的とも感じられる姿勢の背景には、譲れぬ一線があるのであろう、と。そんな風に観ているところだ。


とはいえ、上に引用した葛野王の発言。

日本では神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元である。

平成上皇の深慮にかかわらず、既に確定済みの皇位継承には「不自然なところがある」と感じる国民が多いのも仕方のない事だと思う。


持統天皇の努力にもかかわらず、その後も皇位継承の不安定は続き、何人かの女帝が即位しながら血脈をつないだが、遂に男系皇子が途絶えたことから、天智天皇系の光仁天皇を迎えることになった。皇統はここで天武系から天智系に移った。

皇位継承は、人の努力を超える形で、それでも血筋が守られ続けられてきた。そこにマア、日本人が「天皇制」を維持させていこうと感じる歴史的価値があると言えば、あるのかもしれない。

日本人には「血筋」に極めて関心をもっている人が多い(?)。「名門」に支配されるのは嫌だが、名門の末裔がいると何か安心するという心理は、ひょっとすると日本的な心情かもしれない。逆に言うと、「血筋」というものに対する関心が薄まって行くなら、永きにわたった天皇制も(国制としては)終焉を迎える背景になるのだろう。