2026年5月23日土曜日

断想: 皇位継承は非・民主的に決定するべき?天皇と政治の独立性とは?

今や「女性天皇」、「女系天皇」に賛成するか、反対するかで、日本国民が分断されかかっているとすら感じる世相(?)である。

「女性天皇賛成」が世論調査では大勢を占めている、旧宮家養子は世論に反する等々、「愛子天皇推し」がネット界隈で盛り上がっている。TVではまだ話題になることは少ないが、新聞メディアなど、そろそろどちらの側につくか、思案していることだろう。

思うのだが、世論と皇室を関連づけて皇位継承を語るのは、結果として《天皇の政治利用》につながるのではないか、と。

天皇の政治利用は、戦後日本においては最も忌避してきた情況である(はずだ)。

戦前日本では、陸海軍が天皇を政治利用して我意をとおした。

戦後日本でも、民意が天皇に敬意を払う、その敬意を(特に自民党は)政治に利用した。

というか、ときの天皇を支える側と天皇に歯向かう側を《官軍 vs 賊軍》で対立させるフレームは、日本史全体を通して常に《内乱》の基本構造となってきた。天皇を手中にした勢力が常に勝者になってきた  ―   「壬申の乱」(672年)と「承久の乱(変?)」(1221年)は大きな例外だが。だから、天皇制は継続できたのだ(と勝手に理解している)。ここが日本と外国とを大きく分ける歴史的因子の違いである(とこれまた勝手に理解している)。


戦前日本では、天皇は内閣(=大臣)の輔弼によりこの国を統治するとされた。「輔弼」とは助言以上で強制未満である。つまり「天皇制」とは言うものの、大臣の《輔弼》がなければ統治できない。乱暴にいえば「お上はロボットたれ」という原則があったわけだ。これでは「君主制」とは言えないと小生は(勝手に)思っている。

戦後は、天皇に統治権はない。「ない」とは言っても、戦前も天皇が臣下の反対に抗って「君意」を押し通す権限は与えられていなかったのだから、達観して言えば、天皇の発言力は戦前も戦後も「五十歩百歩」というところだ。

日本の現実政治に、天皇の意志が反映されることはないし、昔もなかったと思っている。

特に戦後日本では、天皇の意志や希望と政治の意志や決定とは何の関係もない、互いに独立している。それが建前だ。

しかし、本当にそうだろうか?これからも、そうだろうか?

本当に、民主主義的な戦後日本で、天皇と政治は互いに独立していられるのか?

戦後日本では民意が政治を決める。政治は民意に左右される。その民意がいま皇位継承を論議している。政治が民意を尊重すれば、結果として、政治と天皇が独立性を保つのは無理である。

民意が媒介となって、政治と天皇が共振するなら、それもまた民主主義だと自惚れるのは、それだけ日本人が劣化している証拠だと思う。

(こんなことは下の下であるが)仮に民意を基盤とする天皇が出現するとして、そんな天皇の意志ほど、民主主義的な日本の総理大臣が怖れなければならないものはない。

そんな天皇を憲法が予定しているとは思えない。

故に、政治が民意によって左右されるなら、天皇は民意からは超然としているべきだ。それが《天皇制》の主旨である(と思う)。


右翼と左翼、保守とリベラル等々、様々な政治勢力が覇権を争う現実政治から独立するには、天皇はどの勢力からも独立していなければならない。結果として、天皇は民意からは無関係である必要がある。従って、天皇制を維持しようとする意識は極めて非・民主主義的にならざるを得ない。

皇位継承は、皇統の定義、歴史的妥当性を熟知した有識者のみに基づいて、非・民主的に決定するべきだ、というのが小生の皇室観である。

以上、覚え書きまで。

2026年5月21日木曜日

断想: 独り早朝に読経することに意味があるか?

計量経済学を仕事にしている間、まさか齢をとってから仏道を歩みたいと自分が思うだろうなどと、若い時分に予想したはずはなかった。

そもそも宗教や信仰と言われる人間の行為にはデータに基づく実証性や客観性がないからだ。

この世の一寸先は闇というが、自分の将来像は決まっていると思う人は、まず間違うものである。

"Planning"とか"Strategy"、"Game Theory"という言葉は、一定時点に立ったロジカルな構築物ではあるが、過去・現在・未来にわたる人生全体において結果として何か意義があるかと言えば、ほとんどは予想不可能な偶然的なファクターで人生行路は決まるものである。

感覚的な言い方だが

結果として歩む人生の6割は自らの希望や志向が反映される。残り4割は偶然的ファクターで具体的な暮らしや生業が決まる。

そんな風に達観している。

小生が毎朝読経をする習慣になって一年余りが経ったところだ。怠惰だから(基本的には)毎日せいぜいが五百遍か六百遍の称名念仏で時間的には15分程度に過ぎない。浄土系宗派の開祖である法然は在家の人は一万遍くらいから称名念仏を始めたらよいと書いているので概ね一念十念の範囲内にある。

カミさんには話しているが起きてくることはない。小生独りでやっている。

これがいわゆる《他力の念仏》になっているのか、《自力の念仏》になってしまっているのか、専門的な教理は分からない。

ただ岩波文庫『法然上人絵伝』上巻の第20巻から引用すると、

虚仮とてかざる心にて申念仏が往生はせぬなり。決定往生せんとおもはば、かざる心なくして、まことの心にて申べし。

(現代文訳:浄土宗出版『法然上人行状絵図』より)

虚仮と言うのですが、うわべをよく見せようという心で称える念仏では往生できません。必ず往生しようと思うなら、うわべを飾る心ではなく、真実の心で称えなければなりません。

念仏というのは「南無阿弥陀仏」であり、これはサンスクリット語の"Namo Amitābha"(ナモ・アミターバ)の音をそのまま漢字に置き換えたものである(とされている)。ナモというのは、同じサンスクリットのナーマスの類語で、現代ヒンディー語で「こんにちは」に相当する「ナマステ」の古語と推測される。従って

「南無阿弥陀仏」とは「今日は阿弥陀さま」とでも解釈できる敬礼言葉である。

 いわば「極楽浄土」を主宰する阿弥陀如来へのリスペクトであるとも言えるわけだ。

いずれにしても、観察される物質的宇宙空間ではなく、知的に理解される非物質的な知識世界での存在だ(と理解している)。知識世界における《ミーム》(=自己複製子)が物質的宇宙における物質循環と相応している議論は以前にもドイッチュ『無限の始まり』に関連して投稿しているところだ。

上に引用した文章の少しあとで

夜さしふけて見人もなく、聞人もなからむ時、しのびやかに起居て、百反(=百遍)にても千反(=千遍)にても、多少こころにまかせて申さむ念仏のみぞ、かざる心もなければ仏意に相応して決定往生はとぐべき。

(現代文訳:同)

深夜になり自分を見る人も聞く人もいない時、こっそり起きていて、百遍でも千遍でも、数の多少は思いのままにして称える念仏だけが、外見を飾る心がないので、仏の意志に適って間違いなく往生を遂げるでしょう。

全体のポイントは《自分自身の心のあり方》であって、他人とは関係ない、他人の評価、思惑、世評とは関係ない、こういう事である。


心のあり方を問題にしているなどと言うと、現代文明を支える「内心の自由」に染まった向きは

何をどう思うか、どう考えるか、思想・表現はそもそも自由である

と。 こんなコメントが予想できる。

つまり宗教、信仰とは、内心を問うものであり、従って内心の自由の否定から話が始まるものである。何が善であるかは、個人個人が自由に考えてもよいという「相対主義」ではなく、あるべき善、あるべき真理等々、絶対普遍の心の状態があると考える。仏理の「菩提心」(=悟りの心境)も相対主義ではなく普遍主義による観念である。名々が自由勝手に悟ってもそれは「野狐禅」に過ぎない。

普遍主義の観点から要求する心のあり方を「マインド・コントロール」と呼ぶのは現代文明の明らかな(困った?)特徴である。


「自由」と「社会」という二つの観念は現代という時代で密接に結びついている。この二つの結合は現代文明の核心であろう。「交換」と「専門化」、「貨幣経済」はこの二つの結合の論理的な帰結である。自分の自由と自分が所属する社会とを表裏一体のものとして意識する、これが当たり前の生き方だと意識する正にその意識が現代文明を支えている。

しかし、「社会」にせよ、「自我」にせよ、そもそも実在はしない。空である。なぜ空なのかを考える。仏理はここから出発する。本来は実在しないものが実在するかのように思い込んで生きるのは「迷い」である。

自由な自分が他人の集団である市場でどのように評価されているかを行動原理として自分の人生を決めていく。そのような意識に支配されている間は、夜更けての読経には価値が認められず、故にそんなことはしないはずだ。

その意味では、早朝の読経はそれ自体としていま小生が追い求める目的に適っている。そんな風に考えている所だ。


何年か前に思想的転向をした。それについては何回か投稿をしてきたが、本日はその後の進展を「ログ(=航海日誌)」として記録しておくものである。





2026年5月18日月曜日

ホンの一言: 「ダメだダメだ」と批判する人が一番ダメかもしれない?

船橋にある両親の墓参りを兼ねて東京まで往復した。清澄白河に泊して(元祖?)深川飯を食べたが、カミさんは「もうイイかな」と。大盛りの白飯に驚くほどのアサリをトッピングして、ネギを一かけ、後は沢庵と味噌汁だけで腹を満たすというのは、確かに江戸の食文化であるに違いない。今回は上の愚息が夏場所を観たいというので同行した。小生は、今場所の大相撲には飛行機代を払ってまで行くほどの観戦価値はないと思ったので、愚息一人で国技館に往く。

北海道に戻ると疲れが出た。若い時分は午前に1件、午後は午後イチ、2時から4時まで大きな仕事を1件、夕方から退庁時間まで1件。夜になってからまた別件と仕事漬けになるのが能力の証くらいに思っていた。最近は、午前1件、午後1件どころか、一日一件。その日の予定をこなすと、ホテルのラウンジで詰碁でもして休憩するか、小さめの喫茶店に入って往来の人々を眺めながら時を過ごすか、とにかく無為に過ごすのを愛するようになってきた。

(海外メジャー紙に比べて割高なので今は有料購読を中止しているが)久しぶりに日経新聞にアクセスした。すると

「日本の恥」はレジより財政 米財務長官の長期金利への警鐘忘れるな

こんなヘッドラインが目に入る。何やら高市首相がまた言わなくともイイことを言ったのか、と。

本文の一部は「無料」で公開している。こんな風だ:

いくらなんでもレジシステムのメーカーに失礼ではないだろうか。11日の参院決算委員会での高市早苗首相による消費税減税に関する答弁のことである。

「システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね。例えば感染症が起こる。何か大きな災害が起きたときに税率すら柔軟に変えられないレジシステムだということは情けない」

日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

以下、続きあり・・・


どうも首相の 『システムの問題はちょっと日本として恥ずかしいですね』にカチンときたのだろうかネエ・・・恥ずかしいという感覚は、小生はどちらかと言えば、首相の感覚に近いものがあるが。

税率は頻繁に上げ下げするものであるし、実際、ヨーロッパなどは社会状況を考えながら付加価値税率を結構頻繁に上げ下げしている。

食料品に対する軽減税率、イギリスのゼロ税率などは、(ドタバタ皆無とは言えないが)それほど大騒ぎすることもなく、淡々と、というか粛々と実行できているのが、ヨーロッパの財政である。日本のマスコミもそんなヨーロッパ諸国の財政政策を淡々と報じてきている(はずだ)。もちろんこんな財政政策には、官僚組織の行政技術があるわけであるし、欧州衰えたりといえども製造業の基礎技術があるわけで、だからこそ実施可能なのである。

日本は古来ヨーロッパを師匠としてきたが、師匠老いたりと見るや、もはや学ぶものなしと、態度を一変させる悪癖がある。この辺り、日本国民は実に機会主義的であると思うのだが、先進国・後進国を問わず、海外にはいつでも学ぶところがあるものだと思う。


マア、この辺はAIにでも聞けば、いつでも詳細に教えてくれる。

というか、上の引用文の中の

 日本の恥――。だが、これはずっと前からわかっていたことではないのだろうか。

これには、思わず笑って、いやいや苦笑、というか失笑というか、ニンマリとしてしまいました。

確かに、日本国のIT技術水準、分かる人の少なさ、研究意欲の低迷は、以前から《わかっていたこと》であります。ダメダメな人に、いまさら「ダメだ」と言ったところで、

ダメなことは前から分かっていたでしょ?

と言われるだけである  ―   カエルの面に水、とはこういう情景を言うのであろう。

もちろん、これ自体が情けないあり様なのだが、もっと情けないのは、

余りにも長い期間、ダメだダメだと指摘されながら、今もなおやっぱりダメだ

と。つまり、改善へのアップターンが観察されない。これこそ最もダメな所である。


若い芽が育って来ないのか、若い芽を潰しているのか?

おそらくこの両方なのだろうが、日経新聞というメジャーな経済紙で、こんな文章が堂々と載るところに現代日本社会のダメな所が象徴的に表れているのだと小生は思う。

とはいえ、大谷選手、山本投手、村上選手などの野球界、八村選手などのバスケット界等々、スポーツ分野では世界で評価される人物を日本は続々と輩出できている。音楽界や美術界も評価は高い。文学界も多様な若手人材が生まれてきている(と感じている)。

一方、数学、物理学、化学などの自然科学、経済学、心理学、社会学など人文・社会科学分野で、グローバルに活動する日本人はどれほど生まれているのだろうか?小生の勉強不足もあるかもしれないが、学問分野で注目すべき若手(中堅も)人材が注目される例は、最近あまり目や耳に入らない。

学問上のレベルはプロ・スポーツ界とは異なり、言論や世論、生産技術の創出などに、そのまま直結するものだ。ここが実は停滞しているという感覚がある。

学術だけを立て直しても全てうまくいくわけではない、と。ま〜〜アレです、この種の反論に満ち満ちている。この点こそ平成・令和日本の問題の核心であります。

法学は明治以来の国内文系教育の柱である。いま改憲の声が高まる中で、日本国内の憲法学者はどんな見解を持っているのか?《改憲私案》なるものは持ち合わせていないのか?今こそ学問的知見を公表するべき絶好の機会ではないのか?個人的にはそう思いますが、あまり、というかほとんど《法学界》からの見解をきかない  ―   というより、報道されない。

(今は忘れられた?)歴史家・トインビーも語っているが、文明が直面する難題を突破できるかどうかは、少数の人物に宿る才能こそが鍵となる。その他の凡夫は天才的人物が拓いた道を歩く。この段階で平均的国民の勤勉さが主たるファクターになるのである。


以前にも懸念(?)を投稿したことがあるが、もはや学術分野でも五輪選手養成に邁進するスポーツ界と同じ様に《〇〇ナショナル・アカデミー》を開設して、いわゆる”Gifted”と呼ばれる天才少年少女を分野を問わずバックアップするべき時代ではないか?経済支援するべきではないか?特別待遇するべきではないか?

史上最高(?)の数学者・ガウスの例をみるまでもなく、天才的才能の出現は貧富や出自、身分、民族を問わない。貧しいレンガ職人の子であったガウスは領主の支援もあって大成した。

伸びる才能を社会として支援するのは富裕層の善意だけではなく、政治でも出来ることだ。

ダメだダメだと指摘しながら、今日もまたやっぱりダメだという 

こんな政治風景は実に奇妙だ。選手が駄目、駄目と毎日けなす監督やGMがいるなら、一番ダメなのは駄目だと言っている当人である。



2026年5月11日月曜日

断想: 「自我を愛せよ」とは言えないネエ・・・

 昨日のこと、ネットのどこで見かけたか分からなくなったのだが、

自我を大事にしよう

という一文があった。自我は鍵かっこの中に入っていたかもしれない。

何度も投稿してきているが、この考え方には反対の立場に(今は)いる。友人と雑談するときの話題になることもありうるから、要点をメモしておきたい。

例えば横山紘一『唯識の思想』で書かれているが、せんじ詰めれば人の心の中はマチマチ、バラバラであって『一人一宇宙』、同じことだが『人人唯識』が世の実相である。

こんな世界で一人一人が自我を大事にするとどうなるか?

何が正しいか?

何が美しいか?

何が善いことであるのか?

一人一人、自分の自我で判断するしかないという理屈になる。これは究極の《相対主義》である。アメリカはトランプ大統領の自我で為すべきことを決めればよい。その権限があるからだ。イスラエルのネタニヤフ首相も自分の自我で正しいと思うことを為せばよい。そんな理屈になる。世界がどうなるか誰でも分かるはずだ。多くの自我が衝突する結果は弱肉強食の原理以外にはない。


古代ギリシア世界の「世界大戦」でもあったペロポネソス戦争に敗北したアテネの民主主義社会は、敗戦後に大いなる混乱に陥った。知力、財力、体力に勝る強者の意志が善であるという思想が流行したのは、《敗戦の必然》でもあったわけだ。せめて論争や法廷の場の弁論だけは熟達しておこうと「ソフィスト」と称される専門家が「有識者」として尊敬されたのは世界史の教科書でも記述されているところだ。

人間は万物の尺度である

大事なことを決めるのは人間であり世論(?)である。こんな哲学(?)が当時のアテネで一世を風靡した。

ソクラテスの主張の核心は『それではダメだ』という一点にまとめられる。何が真であり、美であり、善であるかには、人を超越した絶対永遠の答えがある。唯一の真理を知ろうとする努力を人は放棄するべきではない。プラトンが師・ソクラテスを描くことで伝えたかった事は実に単純明快な一点であった(と勝手に理解している)。

ただ知るべき真理は「自我」によってはとらえられない。感覚はあてにはならない。感情も人それぞれである。まして世の評判や名誉などは無常そのものだ。自我の中の「理性」によってのみ真理はとらえられる。何故なら理性は、万人に共有される同一の心の働きであり、正しい答えがただ一つ存在するなら、真理を真理だと認識できるのは人間に与えられた理性の働きによるしかない。これがロジックであるからだ。社会的な意思決定においても同じこと・・・

理性は万人に共有されるが故に「自我」の中の「超自我」である。行動する時、理性に従うことは、カントなら実践理性の声を聞くと言うだろう。

西洋の哲学に沿って考えるとこんな議論になる  ―   哲学辞典的に言葉にこだわるなら、「理性」と「知性」は違うと言うところだが、いまはどちらでもよい。

戦争は自我によって起こり、平和は理性によって達成されると誰かが言うなら、かなり西洋の薫りがするものの、小生も大賛成である。


最近の小生は仏道に沿って考えることが増えてきた。少し昔とは正反対である。

仏道では《無我》を原理とするので、《自我》は実在しないと言うところから議論を始める。

というより、実在しない自我が実在するかのように誤認して、自我に執着する心を《我執》という。この根本的間違いは、真理を何一つ知らない《無明》が根本原因なのであるが、それ故に生じる自我意識からは《我癡》、《我見》、《我慢》、《我愛》という煩悩が生まれ、自らの心を汚すことになる。即ち

  • 我癡がち:自分とは何かを知らない
  • 我見がけん:自分がここにあると思う
  • 我慢がまん:「他人」と比較して「自分」は優れていると思う
  • 我愛があい:自分に愛着を感じ、(物質的身体として)もっと生きたいと願う
自我意識からこういう風に、自己利益を求める心理(煩悩)が生まれて、しかもそれは正しいと意識する。

達観してしまうと、現代資本主義社会は、人の心の中の「無明」とそれ故に生まれる自我を愛する「煩悩」を丸ごと肯定して構築された社会である、と。ずっと以前の非・近代の社会に生まれた知識人であれば、現代世界をこう理解するであろう。


確かにこの世間は煩悩の支配する濁世であるのが現実だった。いまもそうである。自己利益を追求するためには合理的戦略があるのも仕方がない。それはやむを得ないことだ。しかし、だからと言って
自我を愛せよ
開き直って、こんな風に自己肯定するのは、とてもじゃないが言う気にはなれない。『大事にしよう』とは『愛せよ』と言うのと同じであリンしょう?『俺の心は邪念だらけで汚れてるしサ、ずっと悪人だから、いまさら偉そうなことを言う資格はないがナ・・・』という位のデリカシーは持つべきだろうと思う。

2026年5月8日金曜日

断想: 理論家・ヒックスの経済史と歴史への関心の高まり?

小生は、経済学から勉強を始めて統計学を飯のタネに選んだ。だから、縦に生きるというより、横に生きている人の気持ちは、比較的分かるつもりでいる。

経済学の勉強を始めた当初、ヒックスとサムエルソンは(特に純粋理論畑の人にとっては?)正に「神様」のような存在で、アダム・スミスやデビッド・リカード、更にはケインズの『一般理論』を真面目に読まない人でもヒックスの『価値と資本』だけはきちんと理解しようと、一生懸命精読したはずである。小生は計量畑であったが『価値と資本』、特に巻末の数学付録は、大学院入試の前に丁寧に読んでおいた。

大学院に入る頃はヒックスの『資本と成長』が評判になっていた。しばらくしてから『資本と時間』が日本語訳で出た。理論系の大立者であったM.F.教授は

ヒックスも耄碌したのかネエ

と語っていたのが何だか面白かった。

神様も老いることがあるのか

まあ、そんな感懐であります。『資本と時間』に老いを感じたのであれば、ちょうどその頃に執筆していたはずの『経済史の理論』はどう評しただろう?

こんな(下らない?)本を出すなんて、やることがなくなったのかネエ・・・

理論系の経済学者ならこんな評価になったかもしれない。聞いてみたかったものだ。

小生の「ヒックス経験」はそんな風であったので、最近、substack.comでDeLong先生がヒックスの経済史をテーマとしているのには、少々驚いた。

読むとこんな下りがある。

From his stage theory Hicks drew a bottom-line conclusion: When we consider the process that has generated our economic growth and current prosperity, we should note first that we have been very lucky. This process has gotten farther than it had any right to. The market system spread, expanded the potential for the specialized division of labor, created the opportunity for high-scale investment and accumulation. But it was always a tendency. It was never an inevitability. It had a halting nature. It had a limited geographic spread. They needed necessary supports were only found in patches.

ヒックスは自身の段階理論から、次のような結論を導き出した。我々の経済成長と現在の繁栄を生み出した過程を考えるとき、まず我々は非常に幸運であったことを指摘すべきである。この過程は、本来あるべき範囲を超えて進展した。市場システムは拡大し、専門分業の可能性を広げ、大規模投資と蓄積の機会を生み出した。しかし、それは常に傾向に過ぎず、決して必然ではなかった。その性質は停滞しがちで、地理的な広がりも限られていた。必要な支援は、断片的にしか見つからなかったのである。

Source:  substack.com

Author: Brad DeLong

Date: 2026-05-01

URL: https://braddelong.substack.com/p/theories-of-economic-history-v-commerce 

経済成長には何も必然性はない。歴史的結果として(多少なりとも)持続的に観察された「傾向」というものだという認識は、「成長」に劣らず現代世界の人で信じる人が多い「民主主義」にも当てはまるというのが、昔からの個人的感想であったので、同じような事を言う人はどこかにいるのだネエ、と。そう思った次第。

続けよう。

Plus there were the occasional reversals. We know more than Hicks did now about the post year -1200 late Bronze Age collapse, during which the Greeks forget how to write. We know more about the post-Song retreat of China’s iron production. We know more of what caused the D—I understand we are not supposed to call it that: call it the post-200 Late-Antiquity Pause, the thing that led to a world in which, somehow, by the year 750, in both Europe and in China, people were looking around and marveling at the accomplishments of the earlier Hellenistic and Roman and Han civilizations at their height, and mourning their situation as unworthy descendants of mightier men.

さらに、時には逆転現象も起こりました。紀元前1200年以降の青銅器時代後期の崩壊、つまりギリシャ人が文字の書き方を忘れてしまった時期については、ヒックスが当時知っていたよりも多くのことが分かっています。宋代以降の中国の鉄生産の衰退についても、より多くのことが分かっています。D期(そう呼ぶべきではないことは承知していますが、紀元前200年以降の古代末期の停滞期と呼ぶべきでしょう)の原因についても、より多くのことが分かっています。この停滞期によって、どういうわけか、750年までにヨーロッパと中国の両方で、人々は周囲を見回して、最盛期のヘレニズム文明、ローマ文明、漢文明の業績に驚嘆し、より偉大な人々の後継者としてふさわしくない自分たちの境遇を嘆くようになったのです。 

過去を賛美する所が儒学にはある。これも、しかし、事実に基づいた学問的知見であるというわけだ。

現代では「科学主義」が浸透している。現代人は、前の時代に生きた人より「進んでいる」と確信している。しかし、その確信には(実は)根拠がないわけである。進んだ科学は、先人たちが達成した成果であり、現世代が進んでいることを意味しない。

いま進行しているのは、人の大脳内部で起きている「思考現象」を半導体でそのまま模倣しようとするAI(人工知能)の研究開発である。思考(のような動作)を再現できるとしても、AI(人工知能)が「自我を意識した精神」であると思う人は一人もいない。そもそもよく言えば「人工」、悪く言えば「もどき」なのであり、それを実現可能にした基礎理論は何十年も前からあったわけである。


古代社会で華やかな文明が栄えたにもかかわらず、次第に創造性を失い、「民族の大規模な移動」をきっかけにして自壊するかのように、文明社会としては瓦解し、百年単位の「暗黒時代」を送ったことは、最近になって小生が関心を集中させている領域である。トインビーは、西洋については375年から675年までの300年間を混沌の時代と評しているし、この事情は中国についても後漢の滅亡から三国時代、南北朝を経て隋唐時代までの長い期間に当てはまっている。

文明の歴史の長い時間においては、「進歩の時代」と「後退の時代」が交互に現れると考えておいてもよいかもしれない。

理論家・ヒックスがこの辺の問題に知的興味を抱いていたのは、単なる経済学者ではなく、もっと水準の高い文人であった証拠だろう。

Hicks also concluded that fixed-capital industrialization—the key source of prosperity—required both science coming in from left field, and also the development of unusual institutions of financial deepening to make people willing to invest in things that coud not be liquidated for cash whenever events went rapidly south and the panic spread. Hicks also concluded that the system was very unlikely to deliver general wage increases, at least not until it had spread enough to a large enough scale to get you exhaustion of the W. Arthur Lewis labor surplus in the countryside; or until you got unions strong enough to enforce rent-sharing for a labor aristocracy. Hicks also concluded that the beginning, the development, and the future of the future of this process always was and is a dicey political-sociological question.

ヒックスはまた、繁栄の源泉である固定資本工業化には、異分野からの科学の流入と、事態が急激に悪化しパニックが広がるたびに現金化できないものに人々が投資する意欲を持たせるための、金融深化のための異例の制度の発展の両方が必要だと結論付けた。ヒックスはまた、このシステムが一般賃金の上昇をもたらす可能性は非常に低いと結論付けた。少なくとも、農村部におけるW・アーサー・ルイスの労働余剰が枯渇するほど大規模に普及するか、労働貴族のために地代分配を強制できるほど強力な労働組合が形成されるまでは、そうだろうと結論付けた。ヒックスはまた、このプロセスの始まり、発展、そして未来の見通しは、常に厄介な政治社会学的問題であったし、今もそうであると結論付けた。

《科学と工業》との決して切り離せない密接な関係性は言うまでもない。この関係性に加えて《信用と金融》が寄り添うことで、産業革命が進行し、現代の資本主義文明の大輪の花が開いたわけである。その過程で実質賃金が着実に上昇し、生活水準も向上したのであったが、これはこれで余剰労働力とのバランスから起きた現象であったというのは、経済理論に忠実な理解だ。しかし、過去において起きたから今後も同じことが起きるだろうとは言えない。それは人口と生産性との関係が決めることで、未来を予測することは出来ないとも言っている。

やはりヒックスは『賃金の理論』から研究をスタートさせた経済学者である。

いま急速に発展しつつある《AI(人工知能)》と先進国に共通する《少子化》という変化を観察するとき、ヒックスならどう思考するだろうか?

人口と経済発展は、マルサスの『人口論』を待つまでもなく、最初に経済学者の注意を引いた最重要な研究テーマである。

人口は幾何級数的に増加する一方で食料は算術級数的にしか増えないので必ず過剰人口が発生し賃金は最低生存レベルにまで低下する。

マルクスが『資本論』を執筆していた頃、広く流布されていた「賃金鉄則」だが、その後の経済成長によって「予言」は見事に外れたというのは、少し前の経済成長論テキストでお得意のエピソードであった。

しかし、まさか、どの国も高度文明化するに伴って《少子化》が進むと誰が予測しただろう?

所得分配の不平等化については、日本の経済学界でもこの50年程で多くの経済学者の問題意識を刺激し、研究成果が蓄積されてきた。 

若いころはそれ程の差がつかなくとも、高齢になれば大きな差になるものだ

運動会の徒競走やマラソン競技をみずとも、この単純な理屈は誰でも理解できる。これに少子化が合わされば、

高齢化社会では資産分配の不平等度は上昇し、所得分配も不平等になる。

当然、こんな帰結が出て来るわけだ。 

しかし、分配に関連する要因は「年齢」だけではない。

他方、分配問題に投入されてきたほど少子化は研究されてきただろうか?

西洋の古代社会はローマ帝国が世界帝国となって完成形に至ったのだが、その衰退期に顕著であったのは来世志向(≒現世への絶望)の宗教、即ちキリスト教の浸透、非婚率の上昇、移民の増加とローマ社会の変質であった(と推測されているようだ)。

古代社会の瓦解を歴史的に更に詳細に研究する必要性は、今後にかけて一層高まるかもしれない。


2026年5月6日水曜日

ホンの一言: ト政権、一体何をやりたいのか分かりませんという状況

経済理論では文字通りのマイスターであるものの、政治的立場はかなり違うなアと感じてきたクルーグマン博士だが、最近は遠慮会釈のない自国の大統領批判に愉快さを感じるようになった。これも日本人ならではの気楽さか・・・アメリカ国民の苦衷を体感できないのが残念だ。

今回は、「再エネ」が大嫌いなトランプ大統領が、意図することなくしてグリーン・エネルギー重視の流れを決定づけてしまった状況を(面白おかしく?)紹介している。

The global energy transition — the shift from fossil fuels to electrotech, which uses solar, wind and batteries to power an electrified economy — is accelerating. It’s now clear that the closure of the Strait of Hormuz marks an inflection point: the global green energy curve, which was already on a rapidly rising trajectory, has suddenly become even steeper. “Investors,” reports the Financial Times, “are piling into clean energy funds.”

化石燃料から電気技術への移行、すなわち太陽光、風力、蓄電池を用いて電化経済を支える電気エネルギーへの移行は、世界的なエネルギー転換を加速させている。ホルムズ海峡の閉鎖は、まさに転換点となることは明らかだ。すでに急速に上昇していた世界のグリーンエネルギー曲線は、突如としてさらに急勾配になった。「投資家たちはクリーンエネルギーファンドに資金を集中させている」とフィナンシャル・タイムズは報じている。

This acceleration isn’t just a consequence of soaring fossil fuel prices. It is also the result of the worldwide realization that, with the end of Pax Americana, depending on imported hydrocarbons is a risk not worth taking. The United States cannot be relied on to keep sea lanes open when cheap drones can take out an oil tanker or a major pipeline. Even relying on oil and gas from America itself is dangerous, since one never knows when an erratic U.S. government – now under the control of a twice-elected malignant narcissist — will try to use energy as a tool of coercion.

この加速は、化石燃料価格の高騰だけがもたらしたものではない。それはまた、パックス・アメリカーナの終焉に伴って、「輸入炭化水素に依存するのは、敢えて取るほどの価値がないリスクだ」、そんな認識が世界中に広まってしまった結果でもある。安価なドローンが石油タンカーや主要パイプラインを破壊できる状況では、米国が海上航路の安全を確保してくれるとは期待できない。米国産の石油やガスに頼ることだって危ない。なぜなら、二度も選出された悪質な「自己肥大症患者(ナルシスト)」が君臨する不安定なアメリカ政府が、いつエネルギーを我意を押し付けるための強制(脅迫?)手段にするか分からないからだ。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: May 05, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/trump-is-losing-a-second-war

オバマ、バイデン両氏の民主党政権下で進められた《再エネ重視路線》、

坊主にくけりゃ、袈裟まで憎い

ということか?『掘って、掘って、掘りまくれ』と石油業界に活を入れていたのがト大統領だ。

しかるに、自分自身が最も嫌っている再エネ・ビジネスに、意図することなくして、わざわざ絶好のチャンスをいま与えている。ク博士も

何をやりたいのか、サッパリ分かりません

と言いたい感覚が伝わってくる。


100年前のハーディング政権は「オハイオ・ギャング」と言われていたそうで、その後「史上最低の大統領・ワーストワン・ランキング」の常連  ―  いや「アメリカ史上最も腐敗した政権ランキング」であったか?  ―  であったが、今のトランプ政権、何と呼ばれるようになるのだろうか?

そういえばハーディング大統領も共和党選出の大統領であった。


2026年5月3日日曜日

断想: 君子、豹変する。というより、豹変できる、と言うべきか?

朝、目が覚める前に、変な事を考えていた・・・

君子は豹変する

という古来の名句である。日本では「豹変」を悪い意味に使うことが多いが、

過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

『間違った』と気づいた時点で直ちに止めることの大切さは、日本でもよく引き合いに出される。


今秋に予定されるアメリカ中間選挙で与党・共和党が苦境に立たされている由。某世論調査では、現・連邦議会は信頼できないと回答した者の割合が9割を超えたというから、大統領自身より先に与党が先に崖っぷちに追い込まれている模様だ。

マア、分かります。そりゃ、当然こうなるワナとしか思えません。

とはいえ、必敗の状況の中、手詰まりになったト大統領になお選択可能な道がある(かもしれない)。

それは、ネタニヤフ・イスラエル首相を生贄(Scapegoat)に差し出すことである。

私はイスラエルに騙された。ネタニヤフが私に嘘をついたのだ。

と。イスラエル抜きで停戦し、イスラエルへの軍事支援を止め、パレスチナ難民への支援を強化する。


文字通り

君子、豹変する。

ユダヤ層とは亀裂が入るだろう。その一方で、アラブ系住民はト大統領を見直すだろう。

《史上最低の愚かな大統領》との評価は確定的になるだろうが、傷は最小限にとどめられるかもしれない。

うまく行くかどうかは分からない。そもそもト大統領、「君子」ではないはずだ。しかし、今歩いている道は「行き止まり」であろう。


起きる前の夢の中の話しである。面白いと思ったので覚書きまで。


2026年5月2日土曜日

前稿の補足: 社会は人生ゲームの競技場ではない

前の投稿でこんな下りを書いた:

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

このブログで何度も書いているが、小生は折り紙付きの偏屈者だ。智慧もない凡夫だ。一口に言うと、だから、扱いにくい唯のヒトである。なので、小生にとって現代日本の世間は決して「生きやすい空間」ではなかったし、今もそうではない。書きたいことを書いて、それでも治安当局の任意聴取の対象にならないのは、「違法行為」、「要注意人物」としてマークされていないからだろう。

今更だが

アメリカでは原則自由、例外禁止。日本では原則禁止、例外自由。

こう言われることが多い。昨年の夏に亡くなった旧友・O君なら

世界の常識は日本では非常識。日本の常識は世界では非常識。

これまた今でも耳にすることが多い。日本は島国であるせいか、自分たちの美的感覚、社会的常識を頑なに守っても、それで困ることはなかったし、外国と軋轢を生じさせることも少なかった。

小生はというと、自由に行動する時も、常に周囲の目、合法か違法か、規則に違反していないか、こんな事ばかりを意識してきた。いやあ、よくもまあ懲戒処分もされず、無事にやって来れたことよと、改めて我が身の幸運に感謝している。友人の一人は、「学内不正経理」とやらで六カ月停職の憂き目にあった。尊敬する我が先輩は「セクハラ」を理由に譴責を蒙ってしまった。

近年の日本は誠に剣呑な世になっている。

リアルな体感はないが、活発だった田沼時代の後の寛政期、華やかな文化文政時代の後の天保の改革期も、同じような雰囲気だったのだろうと想像する。というか、大正から昭和にかけての急激な世の空気の変化も、今と同じようだったのだろう。

しかし意外なことに、今では単なる"Japanese"が"Japanesque"と評価されることもあるから、小生の田舎でいう「キョロマ」とは正反対の「頑固」なお国柄が功を奏することもある。

ただごく最近感じるのは、いわゆる「日本風」が世界的観光の有力地として台頭するのに刺激されたか、日本人が過剰に保守的になって、外面は優しくて寛容だが、内面は(その実)器が小さくて神経質。こんな世相を痛感することママあり。

他人は自分の鏡ではない。他人の心に自分を見るのではなく、自分の姿は自己自身のみが知る。これを徹底したいものであります。


ネットによれば、暴力団組長の葬儀に出席して取材をした新聞記者が世間で非難されている由。何も会社から指示されたのではなく、香典も自費で払ったとのこと。

どうやら「反社」とは一切の接触を断てという「お上のご条例」があるそうで。

これなどは《棲み分け》を容認しない現代日本の世相、価値観を象徴している。

棲み分け否定、同化絶対、異分子排除を貫く《イスラエル主義》を日本人は批判できんナア

そう感じる次第。


現代人は世の中を何か人生ゲームの《競技場》とでも思っているのではないかしらン・・・ゲームや競技なら統一ルールが要るのは確かだ。ルールに違反するとファウルになり、繰り返せば《退場》となる。度を越せば《永久追放》と相なる。

しかし、日本は競技場ではないし、人生はゲームでもない。勝敗を争っているわけでもない。全ての日本人は意志によってこの国に生まれたのではない。人生ゲームに参加しようと考えたわけじゃあない。居場所があればいい。価値観が合わない人とは棲み分けして、感性が一致する人と楽しくやれれば満足なのだ。人に迷惑をかけなければ好きな事をやって生きたいと願うのは凡夫の性だろう。あれはダメ、これは禁止というのも程合いがある。


全ての人には生まれた国で居場所を得る生得の権利がある。法を犯せば刑罰が伴うが、接触、会話までを絶てという権限など、最初からお上にあるはずはない。犯罪を手伝えば共犯だが、「食事をともにしたから処罰しろ」という社会は、小生の目には《暗黒社会》にみえる。どちらが暴力団か分からなくなる。

事実を虚心に観察すれば、いまのアメリカは暴力団的である。同じように我々の社会が組織暴力団的になる可能性は常にある。そう思われますがネエ…

【加筆修正:2026-5-3】

2026年4月30日木曜日

断想: 「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる?

いかにも現代日本(特有?)の世相を映していると感じる記事は毎日見かけるもので、たとえば

 現在の大学のキャンパスでは、セクハラなどのハラスメント防止の啓発は学生同士の関係においても進んでいる。

 同じ学部、同じコミュニティ、同じ界隈といった範囲での炎上騒動を身近で見聞きしている若者も少なくなく、特に問題になりやすいのはやはり異性との関係だ。 

 そういう自分にとってリスクになるタブー要素を若者は意識的にも無意識的にも避け、コンプライアンス(コンプラ)を遵守するようになっている。 

Source: YAHOO! JAPAN ニュース

Original: PRESIDENT Online

Date: 2026-04-29

コンプライアンス(Compliance)については前にも投稿したことがある。

確かに、アメリカ社会などでは《自由》の価値、《個人の実存》が日本よりは遥かに徹底されて意識されているようだから、《法》の尊重が強調されるのは、社会のバランスをとる上で必要だと思う  ―   特にトランプ現政権の関係者にはコンプライアンスの感覚を徹底して持ってもらいたいと思う。現状はただ「無法」に近いのじゃあないかとも、真面目な日本人は感じる。

他方、日本人は視野の中に車が1台も見えない時でも、歩行者は信号が赤から青に変わるまで大人しく、というか真面目に待つというお国柄である。そんな国で《コンプライアンス》を強調したらどうなるか?

上に引用した下りは、社会的な帰結を示す一例でもあろう。

上の記事は以下のように続く:

 そんな調子だから、一緒に連れだって出かける時の「一番居心地のいい組み合わせ」も大幅に同性寄りにシフトしている(図表2)。恋愛至上主義真っ只中の1994年調査では約4割が「異性との二人」を挙げており、また、「男女二人ずつ」というダブルデート的な組み合わせを選ぶ人も約3割いた。

 異性を含めた組み合わせを選んだ人は合計で約75%に及ぶ。それが2024年調査では異性を含む組み合わせを全て合計しても35%程度にまで減少しているのだ。

 一方で大幅に増加したのが「同性同士の二人」。3人中2人はこの組み合わせを一番居心地がいいと回答している。同性との居心地が良くなった、という側面もあるだろうが、それ以上に異性との居心地が悪くなった、気の置けない関係が作りにくくなったことを痛感させられるデータだ。

一度《性的変質者》として烙印を押されてしまうと、その人は《男女共同参画》を基本理念とする現代日本では、ほとんど《社会的死》とほぼ同等の宣告を受けてしまうのが現実だろう。(特に男性が?)異性との交際、というか必要以上の親密さを避けるのも、リスク・マネジメントとしては賢明な戦略であり、いわば人生を生きていく上での《支配戦略》になっているのだと思う。

実際に「性的トラブル」を起こした人物は、支配戦略に沿って意思決定できなかった頭の悪い「落ちこぼれ」である、と。社会的には「無用」である、と。そういう事なのでありましょうか?

これは男女を問わないと思われるが、異性との一時的交友を楽しみたいと願うなら、有料ビジネスの場においてサービス消費として時間を過ごすのが最も安全である  ―   それでも不同意であったか同意であったかで、しばしばトラブルが発生しているようだが。

ま、いずれにしても、男女の交際にまでリスク・マネジメントの感覚が必要だと感じさせる現代日本社会において《少子化》が進むのは、当たり前だと思う次第。

夏目漱石は、『三四郎』に登場する「偉大なる暗闇」こと広田先生に、発展する日本を評して「滅びるね」と言わせているが、社会や国というのは、一生懸命に「そうなろう」と統一行動すればするほど、逆にそうはなれないものである。今のコンプライアンス運動、こんな調子であと10年やって行けるイメージがわきません。

自由と法の重みには必ずバランスがある。一方ばかり強調すると、いつか、どこかが破れる。

むしろ

男女七歳にして席を同じうせず

教育の場で男女分離を徹底し、公共・職場においても必要以上の男女の接触を断ち、その代わりに異性の友人関係については「血縁」、「地縁」に代わって、ずっと昔は町のどこにでもいた《お節介な世話好き叔母さん》が無報酬で、ただ親切心だけで果たしていた役割と同じような、何らかの、社会的に容認されるような、新たな《社会的慣行》が日本社会に定着するまでは、いまの息詰まるような学内環境、職場環境は続くのではないか。少子化も傾向として続くのではないか。そう思われます。

そうでなければ「男女共同参画社会」ではなく「男女共同参画特区」でも創ればよろしかろう、と。

要は、人は色々、故に《棲み分け》が大事である。これに尽きるのではあるまいか?棲み分けとは自己組織化現象だ。いわば自然であって、自然を抑え、別の状態を法で強制しても失敗する。人の世はどんな権力をもってしても、思惑通りにはならない。

昔の「禁・不純異性交遊」変じて、「コンプライアンス」となる。

日本社会は実はなにも変わってはいないが、いま目指している社会システムとそれに必要な倫理感覚が、日本人をハッピーにするのではなく、むしろアンハッピーにしている。そんな風に思われたりするのだ、な・・・ 


 




 

2026年4月27日月曜日

断想: トインビー的学問の再生が間近いかも

 小生がまだ十代の頃、盛んに名前を聞いていながら、今では話題になることすらなくなった人として、歴史家・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)がいる。

ジャーナリスト的歴史家としてE.H.カー(Edward Hallett Carr)はまだ何かの記事で目にすることはあるが、トインビーの方はもう忘却の彼方に去ったようでもある。

まあ、戦前期に一世を風靡(?)しながら、戦後には全く忘れ去られた感がある徳富蘇峰などは、姿の唐突な消え方においてトインビーに似ているかもしれない。新聞記者兼歴史家兼評論家としては日本社会で極めて高名で影響力のあった人物である。

確か、トインビーには日本に「トインビー狂(?)」とでも言えるような人がいて、その人物の影響で日本でも著名であったことだけ覚えている。誰だったかな?・・・ちょっと思い出せない。ChatGPTに「トインビーを日本に紹介した人は誰でしたか?」と聞いてみると、清水幾太郎辺りの名前が出てきた。ちょっと違っていたような気もするが、確かに清水幾太郎の著作を読んだこともある。・・・忘れた。

最近は廃れてしまったが、トインビーをWikipediaではどうまとめているのかちょっと覗いてみた。


要領よく総括されているが、ウクライナの事も言及されていたので、原文にある脚注へのリンクボタンを削除したうえで引用しておこう:

トインビーは、ウクライナ(小ロシア)については、内政自治も連邦制も否定した。 

トインビーが連邦制に反対したのは、連邦制になったロシアは分裂しすぎて統一された重心を持つことができず、かつてアメリカ合衆国が一時的に分裂(南北戦争)したように、断片化して分裂する危険性があるという懸念からであった。 

トインビーは自治権の代わりに、ロシア帝国の大ロシア地域でウクライナ語を公用語にして、ウクライナ人(小ロシア人)が大ロシア人の劣等生としてではなく、大ロシア人の仲間としてロシアの政治家の一員になることを目指すことを提案した。トインビーはまた、ウクライナ語がロシアで公用語化されてもロシア語に対抗できないのであれば、ロシア語の優れた生命力をきっぱりと証明することになると主張した(トインビーによれば、ウクライナ語は農民のバラッドを書くのにしか使われていないのに対し、ロシア語は偉大な文学を書くのに使われている)。

20世紀初め、第一次世界大戦後の世界情勢をみながら、上のように述べている。

そして21世紀初め、ウクライナはソ連崩壊後に独立を目指し、ロシアへの敵意を露にし、いまは西側陣営(NATO)を後見役として、戦争を継続している真っ最中である。そのロシア=ウクライナ戦争の煽り役として記憶されるであろうイギリスで、ずっと昔、実はイギリス人・トインビーが「ロシア同化論」とでも言うようなウクライナ観をもっていたのは、面白いではないか。

ウクライナ人が愛するウクライナ語がロシア文明の中で自然淘汰されていくなら、それはそれで自然のプロセスである、と。いかにもイギリス人らしい物の考え方であると感じました。

実際、第二次大戦後のソ連で首相となったフルシチョフはロシア人ではあったがウクライナで育ったような人であった。ソ連最後の書記長・ゴルバチョフもまたウクライナ人の血を濃厚に受け継いでいる。 

ロシアがウクライナを遇する姿勢にも問題はあったろうが、ウクライナ人の感情も狭量であったと小生は感じる   ―    マ、所詮は他人事ではあるでしょうが、最近の投稿では「二級国民」の語を使っていたのでそのつながりもあって、です。


トインビーといえば(小生は未読であるが)『歴史の研究』が主著である。その中でトインビーは、国家や政体ではなく、文明そのものの興亡を考えている。Wikipediaの<トインビー>には以下の下りを引用しているが、小生が十代であった当時も、非常に有名な歴史観であった:

人類の歴史の中で26の文明の盛衰を検証し、それらの文明は、エリート・リーダーからなる創造的な少数派のリーダーシップのもと、課題にうまく対応することで発展したと結論づけている。

『トインビーが『歴史の研究』で考察した26の文明とは何であったか?要約できますか?』という質問に対するChatGPTの回答はここに残しておこう。《発展した文明》のカテゴリーの中に「極東文明(中国系:儒教文明)」とは独立して「日本文明」が挙げられている点にトインビーのアジア観、というか文明観が見て取れて、非常に興味深いところだ。 


最近50~60年程か、トインビーに注目する人がほとんどいなくなった理由の一つとして

トインビーが事実に基づくデータよりも神話や寓話、宗教を好むことを指摘している。

こんな点が挙げられているようで、ここにも現代文明を支配する《科学主義》、《実証主義》の影響があるように思う。

しかし、科学では「自己意識の発生」を説明できない。そもそも物質からどのようにして「生命」が発生するのか、これまた未解明である。物質が物理的身体となって、物理化学的プロセスから遂に自由意志を獲得して、自らの意志によって運動するなどと自然を解釈するのは「神話」以上に荒唐無稽であろう。人が認識する「世界」は、物質循環システムという「それ自体」よりは、そもそも精神的存在である(という立場に最近になって転向した)。

「社会科学」では、そもそもデータ収集過程そのものから「サンプル・セレクション」が発生し、データが真相を教えてくれるというより、真相を洞察する純粋理論の反証としてデータを使用する姿勢が求められる。何が「事実」であるか「真相」であるか、データ自らが語ってくれると考えること自体、既に「神話」と言うべきだ。

まず考えなければ真理には近づけない。必要なのはデータの前にまずは思考であって、智慧である。データはその後だ。無思想にデータを集めても何も分からないままである。まず考えることが不可欠なのである。自分が考えてもよいし、過去に生きた人物がどう考えたかを知ることも、大切である。

生き残る理論はそれが良い説明になっているかどうか、良いモデルであるかどうかで決まってくる。真理をついた理論はエビデンスが集まる前から既に真なのである。

《文明》を精神活動ではなく、観察可能なデータ、物証で基礎づけようとする科学的歴史はそろそろ研究メソッドとして主役の座を降りるのではないだろうか?

そんな意味で、トインビー的学問の復権も間近いと思う、昨今であります。

【加筆修正:2026-04-28】



2026年4月25日土曜日

ホンの一言: これも業縁というものでござろう

 イスラエル首相のネタニヤフさんが前立腺がんの手術を受けた由。


A君: あれだけ多くの人を殺しておきながら、自分が死ぬのは嫌なんだネエ…

B君: そりゃ言い過ぎだろ、人の命は平等だよ

A君: マア、そうだろうけど、死んでよろこぶ人は多いだろうナア

B君: ・・・・


以って瞑すべし。病気の回復を切に祈る。

この世は舞台。どんな役回りを生きるかは、前世、過去生から受け継いだ業と、生まれてから出会った縁によって決まるものである。

この理は太平洋戦争のA級戦犯とて皆同じ。

殺すも殺されるも「これも業縁というものでござろう」と、唯円の『歎異鈔』を読んだ日本人なら言うであろう。



《戦犯》・・・現世で演じた役回りに対して下された審判はいまに至るまで有効である。というか、そんな判決があった事実を実はなかった事にすることはできない。これも業縁。しかし、今生を終えた非物質の精神的働きの根底、即ち阿頼耶識は最期の念仏で浄化され極楽浄土へ往生できたのか、それとも業があまりに強勢で別の生に転生し別の生を生きているのか、それは定かではない。いま生きている人間には不可知である。が、仮に別の人の阿頼耶識に転生しているなら、今度こそ平穏な一生を全うして、解脱への道を幾ばくかでも歩んでほしいものである。以上、近頃もつに至った宇宙観を補足した。

【加筆修正:2026-04-25】

2026年4月24日金曜日

ホンの一言: 国防費と社会保障費のトレードオフ?

ネットを見ているとこんな記事が目に入った:

Edgewingは英伊日の次世代戦闘機=GCAP本格開発に向けて「初の国際共同契約が締結された」と発表したが、これは英国の資金不足を反映した6月末までのつなぎ契約に過ぎず、スターマー政権は社会保障費の大幅削減に手がつけられず国防費増額の財源確保がますます困難になってきた。

URL:https://grandfleet.info/european-region/lack-of-funding-hinders-full-scale-development-of-next-generation-fighter-jets-making-significant-cuts-to-social-security-spending-difficult-in-the-uk/ 

要するに、社会保障のためにカネがいるので国防に支払うカネがない、と読める。

ウ〜ム、これは逆じゃあないか。そう感じました。

大きく極端なケース(an extreme case)で考えよう。モデルの頑健性、というか使用耐性は極端なケースでどんな帰結になるかで分かるものだ。

敵国の侵略から国を守る軍事行動には巨額の国防費が要る。税はいますぐ年度内に必要だから徴収するものだ。国防は「戦費」とは違う。戦費は戦費でケインズも『戦費調達論』を書いているところだ。私人は防犯設備に投資してセキュリティを買う。国は国防予算で国の安全を買うわけだ。税でなければ、国民に借金をする、つまり国防費の財源に国債を発行するのも理屈は通る。仮にも敗戦となると国債は多分紙くずだ。(運よく?)勝てば負けた敵国を収奪すれば国債を償還できる。これもロジカルである。

一方、国民が格差拡大に困窮しないようにするにはカネをバラまく必要がある。やはり金が要る。しかし、金持ちから金を借りて、貧しい人に金を支給するのは無理だ。借りた金を返せる目途がない。故にバラまく金は税で徴収しなければならない。特に金持ちを標的にした累進所得税や相続税、資産課税、更に(可能なら)累進消費税が有効だ。これがいわゆる福祉国家の理念で、ほとんど社会主義の国家運営となる。

国防と社会保障。財務省の視点からは巨大な歳出項目である点で同じだが、目的も特性も全く違う。

~ ~ ~

無しにしてもヨイのではないか?

優勢な敵が侵略してくれば、政府はさっさと降伏する。それで幕引きだ。犠牲も最小限ですむはずだ。国民の為だ。その代わり、国民は占領国から「二級国民」として侮蔑されるであろう。

貧困な国民がいても政府は無視しておけばいい。富裕層からカネを徴収(=増税)して、貧困層にカネを支給(=社会保障)しても、それでもって政府が助かるわけじゃあない。大体、社会保障給付を政府から受け取っても、貧しい人は政府に感謝はしないものである。政府に恩返ししようなどとは、これっぽっちもおもわないであろう。当然の権利だと思うだけだ。他方、税で取られる側は政府を恨む。割に合わないのだ。

社会保障を不可侵の権利だなどと思う国民なら、上段のように敵国にサッサと降伏して、以後蔑まれようと、その通りなのだからイイだろうと。

達観してしまうと、こんな議論になるだろうとは、若いころは思っていた。森嶋通夫の「無抵抗降伏論」はこの発想に近い。そして、今もって社会観は大きく変わらない。


補足すると、森嶋氏の無抵抗降伏論では勝者側から「二級国民」として侮蔑されるという可能性があまり採り上げられていない。寧ろ、「勤勉」で「我慢強い」日本人の国民性を発揮すれば、降伏後に日本人の才能によって勝者からリスペクトされるはずであるという議論がされている。1970年代の日本人であれば有効性があったろうが、パワハラ被害、モラハラ被害が多数訴えられ、退職代行業者が成長するご時世の現代日本人には、森嶋の議論は当てはまるまい。ただ単に「二級国民」と見られるだけであろうと予想する。


議論を戻すと、故にイギリス政府は安心して軍事費をカットして社会保障費を確保すれば良いのだ。それで英国民がイイと考えるなら、という結論になる。

しかし、本当に強大な敵国に降伏するとして、占領下で手厚い社会保障を継続するのは無理であろう。占領国が法外な賠償を課し社会保障給付を削減することを余儀なくされるのは確実だからだ。賠償とは名称であって要は無力化を目的とした収奪であり必ず実行される(はずだ)。

現時点で「国際法」はほぼ死文化していることを認識しなければならない。

要は、国民の気概と覚悟が論点なのである。

ソクラテスはただ立派なことを喋っていたから若者を惹きつけたわけではない。戦争には剣と盾を手に従軍し最前線で戦っていた勇者でもあったのだ。現代に置き換えれば、(いい例かどうか分からないが)第二次大戦末期のノルマンディー上陸作戦を「連合国遠征軍最高司令官」として指揮したアイゼンハワー将軍が戦後に米大統領になった例を思い出す。戦場を潜り抜けた人物はそれを知った国民から信用されるものだ。口からだす言葉は、普段の行動に裏付けられた気概と覚悟と一体でなければ、表裏ある人物と変わらず、たんなるお喋りになることは誰もが知っている事である  ―   「たんなるお喋り」に満ちた現代、日本もアメリカも同じ世相だろうが、今のト大統領がそうでないことは切に望んでいる。

ソクラテスやアイゼンハワーといった個人の話しになったが、国民も同じだ。気概と覚悟無き国民は必ずなめられる。話は実はシンプルなのだと思う。

国防と社会保障は「あれか、これか」でなく、《辞書的順序付け》。つまり国防関係費をA項目とすれば、社会保障関係費は次のB項目になる。

あるべき形はこうで、国民、というか市民と言うべきか、有権者とよぶべきか、価値の順序付けを当たり前のこととして、順応するしか道はないのではないか?

単純比較ではない。国家的価値の順序の問題ではないか?

こんな風に思うわけであります。

経済理論に則して考えると、政府は《政府サービス》を供給するために設置される組織である。

「政府サービス」というのは、『国民経済計算(=SNA:System Of National Accounts)』の用語であるが、要するに「公共サービス」である。

その公共サービスとは、公務員が直接に担う立法・行政・司法サービスのことを指すし、あるいは市場では十分に供給されない「公共財/社会資本」の整備を通して供給されるサービスをいうこともある。無料の公園などは市場では十分に「公園」が供給されないから、税を財源にして整備し無料で開放しているわけである。

国防が市場を通して有料で提供される情景は想像しがたいし、裁判所の司法サービスが有料の市場サービスである事態も想像困難である。

確かに「コアな公共サービス」はある。特に、治安・警察・国防は、古来、統治行為の核心であって、これを担う組織として警察、軍隊とは別に、紛争解決や刑罰を科すための裁判所が設けられたのは、誰もが想像できるはずだ。

割り切れば、その他のサービスは全てグレー・ゾーンである。教育、研究開発は民間では不足するのか?なぜ不足するのか?産業政策は国が行うべきなのか?そもそも何が成長分野か、民間には分からないが、政府には分かっていると言えるのか?リスクマネーというが、そもそも政府が国民からカネを集めて、ハイリスクの研究開発に投じるべきなのか?

社会保障もこの疑問の対象につらなっている(と思う立場に小生はいる)。


平等な医療を安価に提供することが何故政府の仕事になるのか?それでもって寿命が平等になるわけではないのである。

生活水準をなぜ(可能な限り)平等にしなければならないのか?決して政府が担うべき公共サービスとは思われないのだ、な。

間違ってはいけないのは、恵まれた人々が恵まれない人たちに善意を提供するという行為は疑いなく《善》であることだ。論点は、善を行うことができる人々からその機会を奪い、「政府」が政府の行為として、社会保障を行うという形のことである。

自発的な善行の余裕を社会から吸い上げて、政府が善を独占するという社会のありようは、小生は好きでない。

善なる行為は政府が主役で、それ以外の国民はただ自己利益を追求すればよい。例外的に公益法人などの存在を政府が認めてよい、と。

経済学の大前提はこれに近いものがあるが、これでは健全な社会にはならないという理屈は、中学生でも理解できるはずだ。普通の日本人は決してこうは考えていない(はずである)のは、日本社会が救われる点だと思っている。

しかし、戦後日本では社会保障の美名のもとに逆に国民を抑圧する機会を政府に与えている。そう思うのだが、共感してくれる人は多分ほとんどいないだろうネエ…

だから、今日のイギリスのように、社会保障の為に国防予算を削るというのは、正に本末転倒としか思えないのである。


・・・今回は物騒な投稿になった。剣呑、剣呑、ご容赦願いたい。

2026年4月23日木曜日

断想: 文明崩壊の論理、反政府的経済学者の愛国心について

 「歴史に学べ」という人の多くは産業革命後の近代世界の発展史を指していることがほとんだ。せいぜいのところ、16世紀の《コペルニクス革命》以降、ヨーロッパで進行した自然科学の発展と産業技術への応用をイメージしている見方が大半だろう。

西洋の成功物語としては適切な選択だ。

ヨーロッパ発の科学革命とそれがもたらした産業経済の巨大な成功は、いわば「科学主義」と「唯物論」を現代社会に浸透させてきたというのが小生の歴史観だが、中国やインドといった伝統的大国の経済的復権に伴って、西洋的世界観にもそろそろ限界が見えてきたのかなあというのが、足元の状況だと思っている。

もっと注目してもよいと思うのは、あの華やかなギリシア=ローマの古代社会が、なぜ、どのような過程を経て崩壊するに至ったかという問題意識だと思っている。というのは、文明の中心であったローマ帝国の盛時、いわゆる《ローマの平和(Pax Romana)》は賢君マルクス=アウレリウス帝の後を暗君コモドゥス帝が継承して以後、突然に、というか急速に不安定化し、100年の混乱と後退のプロセスに入ったのは、あまりに唐突な変動で、一人の暗君の出現で何故かくも突然に巨大な文明が変調になるのかという問題があると思うのだ。

確かに、ゲルマンなど異民族の侵入など国際環境の悪化や農業生産技術の停滞など、数多くの原因が挙げられている。政治的不安定性の高まりが為すべき政治的決定を為すのを不可能にしたという点もあるだろう。それでも帝国が健全な時代であれば、帝国から外国に文化的同化力を放射できていたのが、一人の暗君の出現以後は反対に外国の脅威が帝国の平和を直接的に脅かす負の連鎖の時代へと入っていったことが不思議であるわけだ。

ローマ帝国の衰退についてはフランスの啓蒙思想家・モンテスキューが共和制の廃止と帝政への移行を根本的原因に挙げている。しかし、帝政に移行してから200年弱も経ってから負の影響が出て来るか、という疑問がある。ギボンも大著『ローマ帝国衰亡史』を著している。ギボンが指摘する衰退の原因は

  1. ローマ帝国の市民の精神的退廃とモラルの低下。
  2. ローマ軍自体の異民族依存、つまり多民族化は、国境防衛を脆弱にして、国防軍としての軍律弛緩を招いた。
  3. キリスト教の浸透が、来世志向、現世否定の心理を蔓延させた。一神教なるが故に皇帝の権威への忠誠心が揺らいだ。国を守ることを自分のこととは考えない市民が増えた事が示唆される。
まあ、ChatGPTに聞くと、こんな点に要約される(とされている)。

ローマ帝国は西洋においては唯一無二のグローバル帝国として君臨していた。であるから、衰退するとすれば、外的要因ではなく主として内的要因からであるというのは、よく理解できるところだ。

キリスト教の普及は、帝国の経済成長が頭打ちになり、政治的不安定性が高まる中で、一人一人の市民が日常的なストレスを感じた3世紀に加速した。

キリスト教の浸透とモラルの崩壊は、ある意味で矛盾するかもしれないが、自らの義務として帝国を守ろうとする気概が衰退したことを以て、モラルの崩壊と解釈すれば、分かる話しではあろう。

現代にまで伝わる古文書には残っていないだろうが、その当時も同時代的知識人が盛んに文明批評を著し、危機感を訴える文章を公表していたのに違いない。多くの人が文明の危機、帝国の危機を議論していたに違いない。

それでもローマ帝国は衰退し、滅亡し、古代社会は完全に瓦解し、ヨーロッパ社会はカール大帝のフランク王国がひとまず乱世を収めるまで概ね300年の暗黒時代を経た。キリスト教以外の文明資産は全く失われ、貨幣経済から物々交換への逆戻りを経験したのである。

こんな事が起こったのは何故だろうか?

自然科学の発展が始まってから、産業革命が始まってから、そんな成功物語を観ているだけでは分からない《文明崩壊の論理》、《衰退の論理》というものがあるのではないか?



クルーグマンが足元の電気技術の発展についてこんな見方をしている。Google翻訳で訳された和文で引用しておこう:

また、トランプ大統領がイランによるホルムズ海峡封鎖に対抗するため、自らもホルムズ海峡を封鎖するという決定を下したことは、各国が太陽光発電や風力発電に転換しない場合に頼らざるを得なくなるであろう、米国産石油とLNGへの依存が安全ではないという認識を確実に強めることになるだろう。気まぐれな米国が、他国のエネルギー依存を武器化しようとしないと誰が保証できるだろうか?

トランプ氏のイランにおける冒険主義的な行動は、太陽光発電、風力発電、そして再生可能エネルギーを24時間365日稼働させるためのバッテリーへの投資を世界的に加速させるきっかけとなった。

では、世界が求める再生可能エネルギー機器の大部分はどこから調達されるのだろうか?それは中国だ。中国は世界の工場であり、その製造業規模は米国、日本、ドイツ、韓国を合わせた規模よりも大きい。

   (中略)

バイデン大統領政権下で、米国はバッテリーや電気自動車をはじめとする電気技術分野の発展に向けて、必要不可欠な措置を講じた。また、再生可能エネルギー全般の成長加速も目指した。しかし、トランプ政権はバイデン政権の再生可能エネルギー関連プログラムをすべて中止しただけでなく、再生可能エネルギー分野への民間投資を積極的に阻止しようとしている。

アメリカがトランプ氏の化石燃料への執着から解放される頃には(もしそれが実現するとしても)、再生可能エネルギー製造における中国のリードは恐らく克服不可能なものになっているだろう。

太陽光パネルやバッテリーを中国に依存する世界は、必ずしも悪いことではない。政治的にも経済的にも、ほとんどの国にとって、カタールや、現時点では米国からの液化天然ガス(LNG)輸入に依存するよりも、はるかにリスクが低いのは確かだ。

Source: substack.com

Author: Paul Krugman

Date: 2026-4-14

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/chinese-electrotech-is-the-big-winner

小生は、親英米であるが、だからといって反中でも嫌中でもない。

「一つの中国」は歴史的事実というばかりではなく、そもそも日本には未だ和平には至っていない「国共内戦」という中国国内の紛争に介入する権限も、外交上の正当性もないという立場に立っている。

何より日本文化の表層を覆っている西洋由来の衣をはぎ取れば、古代から江戸時代まで続く伝統文化が表れ、そこには純国風の大和心と中国・インド発祥の文物が裏地のように織りなされてあり、日本人の感性を包んでいることが分かる。

なので、上のようなクルーグマン氏の論調には全面的に賛成する。経済的にそのとおりであり政治的にも、共和党的な政治観に好感をもっていた小生にも、上の左翼的見解は道理であると思われる。

最後にこう結ばれている。

しかし、この国が自らを破滅させ、未来を担う最も重要な産業を中国に譲り渡してしまうのを見るのは悲しいことだ。そうすることで、私たちはより貧しくなり、技術的に後れを取り、エネルギー革命へと突き進む世界において影響力を失ってしまう。結局のところ、私たちは化石燃料を燃やしているだけでなく、自らの未来をも燃やしているのだ。

愛国者としてのクルーグマンの思想が表れていると感じるのは、民主党支持者だけではなく、普通の人たちにも多いような気がする。 

 

 

 

2026年4月19日日曜日

断想: 『アメリカン・デモクラシー』が(改めて?)世界から注目される時代?

人口学者兼歴史家というべきかフランスのエマニュエル・トッド氏は、政府関係者が好んで使う《日米同盟》について、本当に「同盟」なのか?実態は「占領国&被占領国」の関係性が続いているだけではないか?こんな根本的な(?)疑問を投げかけているのが最近の言論界であります。

ただ厳しい問いかけをしても日本社会の空気を変える実効性はないのだろうナアとは思っている。

日本の若手現役世代には、

一身独立して一国独立す

こんな『文明論の概略』で主張された福沢諭吉的な独立精神はもう刺さらないような気がする。

これには時代背景があるわけで、そもそも高齢層とプレ高齢層を含めて、独立精神などは皆無ではないかと指摘する人も多かろう。実際は

独立どころか国家依存性がますます強まっている。

これが事実じゃあないか、と。社会保障という人工呼吸器で老後の生活を送っているのが、現代日本の高齢層の現実だ、と。我が道を行くどころか、巨大組織の歯車になる方を選ぶ性向はますます強まっているような社会観を小生はもつようになった。

国家、社会と言っても所詮は他人の集団である。その他人に《弱者に寄り添う優しさ》を自ら求めて恥じないエートス(=気風)が最初から肯定されるようになった。独立精神を求める要請はいつの頃からか冷酷であると退けて、《独立の尊厳性》を語る気風も否定されるようになった。高齢者が何の恥らいもなく他者依存精神を発揮しているのに、若い人たちにのみ独立精神を求めても説得力はないわけである。

日本社会が他者依存精神でまとまるに伴い、外交もまたアメリカ依存、アメリカ追従の一択で恥じないわけであります。

日本国が国際化すれば、「先祖代々の絆」には共感しようもない外国人在住者や二世たちが増える。すると個々人の独立志向が再評価されるであろう。だからこそ、これ以上の外国人増加は困る。他者によりかかる日本人集団が移民政策を本能的に嫌う根っこはここにある。そんな風にも思うわけであります。

依存すること自体に恥を感じなければ、対米従属は心地よい安心感を醸し出す仕掛けとなる。たとえ実態が「同盟」ではなく「占領」に近いものであっても

背に腹はかえられぬ

と合理化が出来る。経済学でいう《習慣形成効果》が国民行動にも作用するわけだ。

ところが、ロシア=ウクライナ戦争を煽っておきながらウ国のゼレンスキー大統領を公衆の面前で『あなたの国にカードはないンだ』と侮辱する、イラン攻撃に否定的なヨーロッパを口汚く罵るといったトランプ大統領の登場を契機にして

本当に「日米同盟」なる関係性が日本とアメリカにあると日本人は思っているのか?

こんな事までが話題になってきたというのが、正に今日的な状況であるわけだ。

現在の混乱はトランプ氏の個人的属性に由来すると観るのも可能であるし、日本やヨーロッパのNATO加盟国はそんな「次に期待する」待ちの姿勢かもしれない。

もともとト大統領を"The Worst"(=最悪)と判断していたクルーグマン博士は

Trump Can't Even Surrender Right

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/trump-cant-even-surrender-right?

こんなタイトルをつけてネットで語り、

But, my God, like I said, we are led by people who not only can’t plan a war right, they can’t even successfully execute a surrender. And that’s a really bad omen, not just for the Iran conflict, but for everything else.

しかし、まったく、先ほども言ったように、我々を率いているのは、戦争の計画すらまともに立てられないだけでなく、降伏すらまともに実行できない連中だ。これはイラン紛争だけでなく、あらゆることにとって、実に悪い兆候だ。

と結んでいる。

経済学史に詳しく比較的冷静な論評を書くJames Bradford DeLong博士は、同じくsubstack.comで

Well, I suppose that that this “Ezekiel 25:17” from Trump acolyte cabinet member Peter Hegseth is both worse and better than “Straits of Vermouth” from Trump acolyte cabinet member Scott Bessent. But it is worth noting that we have gone far beyond chaos-monkey-land now: this is Marx Brothers quality governance:

まあ、トランプ支持派の閣僚ピーター・ヘグセスによるこの「エゼキエル書25章17節」は、同じくトランプ支持派の閣僚スコット・ベセントによる「ベルモット海峡」よりも悪くもあり、良くもあると言えるでしょう。しかし、もはや混沌とした猿の国をはるかに超えたところにまで来てしまったことは注目に値します。これはマルクス兄弟並みの統治レベルです。

Source:  substack.com

Date:  Apr 19, 2026

URL:  https://braddelong.substack.com/p/how-will-future-historians-describe

こんな風に、トランプ政権を《猿山レベル》、というより《猿たちの遥か下》と述べ、はっきり「問題外」としている。戦前のコメディアン・グループ「マルクス兄弟」に似た存在を日本で求めるとすれば1970年代の日本で笑いを提供した「ドリフターズ」辺りが有力候補かもしれない。

アメリカの一流有識者もこう言っているのだから、客観的にものが言えるはずの日本人ならもっと無遠慮に「猿!」と罵倒してもよい理屈だ。ト政権を指してDeLongは「猿」と言っているし、Krugmanはト大統領を「嘘つき」と言っている。

同じことを言う人が日本にいてもよいはずだ。ところが、政府関係者はもちろんとして、有識者、専門家を探しても、そんな人は日本に一人もいない。我慢しているのかもしれない。遠慮しているのかもしれない。まるで「裸の王様」の前で声を上げない大人たちのようである。それとも日本もまた同じ種類の《猿》を推しカツしているので、「猿」が「猿」であることが、ほとんどの人には認識できないのかもしれない。だとすれば怖いナアと思うのであります。

小生の高校、大学時代は学生運動華やかなりし時代で、先輩たちは《アメリカ帝国主義反対》、《打倒米帝》などというプラカードをもって大規模デモを繰り広げ、キャンパス内の学内設備を破壊して回ったものである。幼稚ではあったが、独立精神の表れだと自惚れた団塊の世代も、いまは他者依存の気風に染まってしまったのだから、変われば変わるものである。

背に腹は代えられない

日本社会はひたすら《合理性》を追求している(つもり?)かもしれない。しかし、合理性という点だけでいえば、猿も合理的に行動するし、アリやハチは十分に集団合理的である。他者依存から発していても行動が合理的であるのは可能だ。


いずれにせよ、現代日本人が共有する国民心理は、この30~40年で一変してしまった。実に歳月怱々の感あり。

対米従属は日本人が主体的に選んだ合理的な解なのであると、故に世界から批判されるアメリカの猿の悪行も日本は非難はしない、そもそも善悪の基準は相対的であり、名々が自由に決めれば良いのだと、忠義や友情も当事者の猿の選択だ、と。それならそれで、日本は日本の運命を受け入れればすむわけである。

ただ、明治維新前後に40歳以上であった人物は世の役には立たず、明治を支えたのは討幕・維新の時点で10代の少年たちであった世代だと言われる。

激しく変化するいま、世代交代の加速が日本再生への早道かもしれない。

率直に言って、いま現在、トランプ大統領がアメリカ合衆国の大統領として現に仕事をしているという事実そのものが、アメリカン・デモクラシーの本質的危うさを証拠立てるものである。

こう考える人は世界に多いはずである。かつて『アメリカの民主主義』を書いたトクヴィルもこんな問題意識をもっていた。

中国が仮に普通選挙を基盤とする民主主義国になるとして、多くの日本人はそれを歓迎するのだろうか?

小生は不安だ。

本当に14億の中国人が民主主義の手続きによって外交、国防政策まで決めていくのか?大丈夫なのか?共産主義だろうが何だろうが、むしろ有能なエリートが指導する現在の中国的統治の方が世界にとって安心できるのではないか?

小生は、こんな風に思うし、案外多くの日本人も民主主義国・中国に不安の念を共有するのではないかと想像している。

バカが偶々権力の座に就くことは専制君主制の下では世界史に無数の前例がある。が、普通選挙で指導者を選ぶ民主主義国でもバカが権力を得る事態は十分にありうるわけだ。バカが決して権力の座に就くことはないというシステムが必要な理由がここにある。いくら限界があっても(万国共通の尺度である)頭脳優秀なものを選抜する制度の方が、知識や知性をバカにする本当のバカが権力を握るよりは余程安全であろう  ―   それも相対的に、ではあるが。

 



2026年4月15日水曜日

断想: 葉桜の候、旧友の墓参りをする

 N.O.君は高校の同窓以来の旧友というより、本当に親しくなったのは大学院に入った直後、O君の方から『お前、〇〇だろ?高校で同じクラスにいたよな?』と彼の方から声をかけてくれた以降のことである。それからは磐城高校を出たY.S.君を入れた小生たち三人は、授業の合間で時間が出来るたびに、大学の門前にある喫茶店兼和菓子店で長談義にふけったものである。

当時、どんな話題であれほど長い時間、話すことが出来たのか、おそらく複数のバラバラの話題に飛びながら、連想ゲームのようにそれぞれが勝手に色々な事を話したのだろうと思うが、小生にとってはそれまでに経験したことがない程に愉快な時間であったことは記憶している。


そのO君が昨年の夏八月に急逝したことを知ったのはS君からの電話であった。小生が暮らす北の港町では雪模様の暗い日が続く二月のことだった。

小生は、数年前に年賀状じまいをして、SNSで元日の挨拶をすることにした。それでもO君からは年賀状が届き、小生はもらってから返事を書くというやり方に変わっていた。ところが今年に限り、O君からは年賀状が届かなかったので、不審に感じていた。そんなとき、S君から電話があったのである。

O君は、よく言えば非常に個性的な快男子で、世間に関しては非常に批判精神の強い傾向をもっていた。元来は経済学から研究を始めたのだが、Ph.Dの学位は国際関係論でとった。その学位も、はじめは(大人しく?)ある国際経済協力機関に就職したのだが、社内留学して会社を辞め、その後はパキスタン大使館の専門調査員(?)という資格だったかで、日本を留守にしていた。そうこうしているうちに米国の大学に留学して、本式に研究者の道を歩みたいという気持ちが強くなったのだろう、かなり齢をとってから留学をして、学位を無事とったのだ。結婚もアメリカでしたはずである。しかし、日本に残る母親を心配する気持ちが強かったのだろうか、何年かぶりに日本に帰国するときには既に離婚をしていた。

日本に帰ってから教職のポストを探すのに苦労をしていた時期があったが、ちょうどその頃、小生は小役人から足を洗い、北海道の小さな大学に転職していた。彼から相談を受けたこともあるが、微力な小生は何の力にもなれず、それでも神奈川県にある私立大学に教職の地位を得たことは、O君の母上にとっても大変な喜びであったに違いない。

一度、あざみ野にある大学までO君の研究室を訪ねたことがある。研究室の広さに驚いている小生に『理系の学部だからサア、広いんだよ』と説明していたO君の声音がまだ耳の奥に残っている様だ。

その後も、小生が上京するごとに、O君にS君を加えた三人で、横浜の中華街で、あるいは浅草で、あるいは銀座で食事をともにして、社会や経済について、果てしのない議論をしたものである。O君は、現代日本社会には絶望的なほど厳しい見方をしていて、呑気な小生とは常に見方が対立していた。

O君の母親思いは格別のもので、毎年秋には奈良の正倉院展に出かけ、湯河原温泉には何度二人でいっていたことだろう。イタリア旅行も楽しい思い出であったに違いなく、こと親孝行という点でO君に思い残したことはなかったはずである。

ブログやSNSを始めるきっかけになったのも、O君から『日本は民度が低いのじゃないか』と、ちょうど日本が小泉内閣の下で長年の不良債権問題にケリをつけた時期であったか、O君から刺激を受けたからである。O君は、人には「遅れている」と叱咤しながらも、自らはIT知識にうとく、ブログもSNSも身につかずじまいで終わったのが、小生にとっては非常に残念だ。それでも、いかにもO君らしい文章が投稿回数は少ないながらもネットにはまだ残っているので、抜粋引用して記憶にとどめることにしよう。

冷戦後の北東アジアの地域国際環境の変化を考えれば、日本は当然憲法改正を行うべきである。そして、自衛隊を軍隊と明瞭に位置付けた上で、必要な対応を行う必要がある。

・・・

このやり方自体の是非をめぐって、日本国内で大騒ぎになっているというのが、現在の状況である。

一方、対応の方法そのものの是非ではなく、日本が置かれている状況にどう対応すべきかについて、日本国内でまともな議論が行われているとは到底考えられない。

国際環境の変化とそれへの対応のあり方についての冷静な議論と理解が不足する中で、対応の仕方そのものについて不満が高まるという現在の状況は、百年以上前の日露戦争終結のためのポーツマス条約の締結をめぐって、交渉団の帰国時に起きた日比谷焼打ち事件とほとんど同じ状況である。

日本は100年前と同じことを繰り返している、未成熟な国家と言われても、反論する余地は無さそうである。

安倍内閣による「集団的自衛権の容認」と「安保法制」が国会を通過した頃の投稿である。いわゆる《解釈改憲 》の危険性に義憤をあらわにし、欺瞞を押し通す政治家をO君は心底から嫌っていた。これを唯々諾々と受け入れる現代日本の大衆には絶望していた。

現実を前にして平気で原則を捨てる現代日本社会の不誠実ぶり、厚顔無恥ぶりに呆れ果てる心情は、O君と奇妙に共通している。更に、《条文解釈》によって憲法は自由に改正できるという日本人独特の思考回路が可視化されたことから次の文章も出て来たのだろう。

これらの状況を考えれば、今日本が取り組まなければならない問題は憲法改正であり、改正後、自衛隊ではなく、日本軍の存在を憲法で保障し、その上で東アジアで起きている地域国際安全保障問題に対応するというのが、本来なすべきことの流れである。

それにもかかわらず、今回安倍政権が、国民を守るために必要と主張し、集団的自衛権解釈見直しを含め、本来改憲した上でなすべきことを、改憲せずに強引に進めたことは、将来の日本にとって極めて大きな問題をもたらすことになった。

それは、国民の理解と支持を得られないまま、憲法改正が前提となるべき措置を取ったことで、国民が憲法改正について大きな疑問、強い批判を招いた結果、国民が憲法改正に関して否定的な気持ちを一層強めたことである。

自衛隊の明記でなく「国防軍」を憲法によって規定するのが採るべきロジックだろうというのは、小生もずっと以前に投稿したことがある。

自衛隊は憲法が保有を禁ずる「武力」には該当せず

という詭弁は、日本国内では通じても、世界では通じない。そもそも意味を曖昧化することには便利な日本語では表現できても、論理的な英語には訳せない文だ―おそらく陸上自衛隊は"Force"であって"Army"ではないというのだろうが、航空自衛隊は"Air Self-Defense Force"だから、呼称からして立派な"Air Force"(=空軍)だ。というより、その行動内容を目で見れば、使用している戦闘機、ミサイル等々武器ともども、国防に任じられる米空軍、韓国空軍、英空軍、独空軍などと共通であって、だからこそ《共同訓練》も実施可能と考えるのがロジックというものだろう。要するに、「自衛隊」の実質は「日本軍」である。

一言でいえば、戦後日本の民主主義はアメリカから輸入した「押しつけ民主主義」であって、民主主義を運営するべき大衆は、大勢に順応することを考え、是非善悪を自ら考える何の主体性も持てなかった、と。詰まりはこういうことかもしれない。「動かざる原点」を特定の一点に決めないでおく《相対主義》、《状況主義》、《機会主義》は日本文化の核心でもある(と勝手に思っている)。

それまでの理屈を捨て去って、その時々の《直観》や《空気》から行動方針を一変させる日本的突発性はこんな所に根拠があると勝手に解釈している。剛直なO君が絶望するのは自然なことである  ―   日本的特質も悪い側面ばかりではないと小生は感じているが。


先週末にO君の墓参りをS君と二人でした。鎌倉まで行ったその日は気温こそ27度前後に上がったが湿度は低く、しのぎやすい快晴であった。苑内の桜は既に葉桜となり、2メートル乃至3メートルの風が吹き渡るたびに、花片が舞っていた。丘の斜面の高い処に位置するO君の墓は探すのに手間取ったが、人出は少なく、森閑とした中で墓前に香を焚き合掌することが出来た。

旧友の墓参はやはり独りではなく、二人でするべきものだと感じた。


 

 

 



2026年4月8日水曜日

断想: イスラム教とユダヤ教の宗教対立を理解するのは甚だ困難?

アメリカ=イスラエル枢軸とイランとの戦争は、イスラエルが戦争継続を希望しているにも関わらず、どうやら内部で決着がつき、ひとまず停戦ということになったそうだ。

これが一時代前の時代劇なら「祝着、祝着」と多くの人が喜ぶ場面だろう。

ただ、アメリカが和平を希望しても、戦争を願望するイスラエルが米軍の偽装をしてイラン兵を殺害する。もしくはイラン軍の偽装をして味方の米兵を殺害する。その位のことをイスラエルはやりかねないンじゃないか、と。そんな心配をする人もいるそうな。

ユダヤ民族に対するイメージは、この10年程の間に大きく変わってしまった。


イスラム教のモスクですら自宅の近くにできるのを嫌がる人がいる。イスラム教の印象は(日本では)非常に悪いが、これには、殺戮の続く中東やアルカイダというテロ組織、パリで起きた自爆テロ事件の凄惨さが記憶に残っているからだ(と思われる)。

ユダヤ人は苦しみに満ちた亡国の歴史をたどってきた。特に第二次大戦後はそう思われてきた。が、この数年間でイメージは大きく変わってしまった、ネガティブな方向へだ。

ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグの建設計画に猛反対する日本人はこれから増えるであろう。イスラム対ユダヤの民族的抗争、というか宗教対立をこの日本に持って来られるなど真っ平である、と。そんな警戒感が、本来はユダヤ教の普遍化バージョンであるキリスト教に対してすら感じてしまう日本人が増えるかもしれない。


日本人は無宗教だとよく言われるが、初詣や初宮参り、七五三などを観ても、実はそんなことはない。一つ言えるのは、日本人の感性は多神教的であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など一神教の宗教心理とは大きく違っているという点だ。

思うに、多神教と一神教の精神的文化には本質的違いがある。感性には乗り越えがたい溝がある。ロジカルに考えれば、多神教の国では「神の言葉」は唯一ではないので、それ程の重みは持たない。むしろ神々の言葉は矛盾に満ちているのが当たり前と考えられる。「神の意志」は唯一ではないのだ。

《神の示した真理》という観念は、ここ日本においては存在しない。故に《啓示》なるものもない 。但し「ある事柄に対して真理は一つ」。これは同じだ。しかし、その永遠の真理を唯一の神が人類に伝えるという理屈にはならない、多神教の国にあっては当然そうなる ―   庶民的な「神のお告げ」がローカルな地域であったり、観音菩薩の救いやお地蔵さんの助けが民話になったりすることはあるが。

仏教が伝来してから日本土着の神道と抗争する時代もあったが、その後は《神仏習合》という考え方で共存が可能になった。日本の神は仏が仮の姿をとって日本に現れるのだと解するわけだ。東京・芝にある浄土宗大本山・増上寺の横には東照宮がある。以前は増上寺の寺域の中にあった。徳川家康の神号である「東照大権現」は仏が神の姿となってこの世に現れたものと解するわけだ。

忘れられる神もいれば、急に人気の高まる神もいる。極めて人間的である。多神教・仏教では、神も不死ではなく六道輪廻の中で何度も生まれ変わっては死にかえる。人に比べると遥かに長い寿命をもっているが、いわゆる《天人五衰》の兆候とともに今生を終え次生に再生するとされている。

一神教の世界で神が死ねば神なき国となるが、多神教では幾らでも代わりがいるわけだ。神もまた無常なのである。神の世界は多神教と一神教ではまったく違う論理になる。


八百万の神々が共存する日本文化とイスラムやユダヤのような一神教の哲学とは水と油の違いがある。

ユダヤとアラブとの抗争の根本的理由の一つは信仰にあるのだが、この点を実感として理解できる日本人は少ないに違いない。

2026年4月6日月曜日

断想: ホワイトハウスは「神頼み」になったか?

戦争に神頼みを持ち込むと、太平洋戦争を戦った日本の「神風待望」と変わりがなくなる。

迂闊に開戦した対イラン戦争の出口が見えなくなったトランプ大統領。かたやイスラエルと米国内のキリスト教福音派 、こなたアメリカ国内で過半数を優に超える戦争反対派。どちらにつくべきか?

アメリカはいま政権丸ごと《迷える子羊》になってしまったようだ。で、ホワイトハウスに牧師団が慰労目的で訪れ、みんなで祈りを捧げている映像も公開されている・・・

ただ、残念なことは、こうして祈りを捧げている主の御名は極めて宗派ローカルなものである点で、敵方のイランには何も響かないのが弱いところだ。


信仰はカントも洞察したように《美と崇高に関する感情》がどこかしらで関係するもので、理性とは異なり人類に普遍の心の(あるいは頭の?)作用ではない。

経済学者のBrad DeLongがsubstack.comに寄稿している記事を読むようにしているのだが、今朝はこんな下りに目が行った:

What warrant do we have for any belief or even hope that there is any sort of arc tending the world toward justice? And if they were, shouldn’t that properly terrify us all? And do we not—looking around these days—have even less warrant for any belief or even hope that there is any sort of arc tending towards any sort of mercy?

But the big question: How does that matter as we wake and go about the deeds that it is proper and fitting for us to undertake each day?

世界を正義へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠はどこにあるのだろうか?もし存在するとしたら、それは私たち全員を恐怖に陥れるべきではないだろうか?そして、今日、周囲を見渡すと、世界を慈悲へと導く何らかの流れが存在するという信念、あるいは希望を抱く根拠は、さらに薄弱になっているのではないだろうか?

しかし、大きな疑問は、私たちが目覚めて、毎日行うべき適切でふさわしい行いをする際に、それが一体何の関係があるのか​​ということだ。

Source: substack.com

Author: Brad DeLong

Date: Apr 04, 2026

URL: https://braddelong.substack.com/p/reading-fred-clark-holy-saturday

神に祈りを捧げる人が、ただ「あいつらは危険だ、気に入らない」という理由で奇襲をして他人を殺害し、プロスポーツに興じる庶民がただ自分の生活を楽しんでいる二つの情景を見比べると、どちらが「適切でふさわしい行い」をしているのか分からない人はいないだろう。DeLongは当たり前のことをそのまま書いているだけである。 


親鸞の弟子・唯円が師の言葉を記録した『歎異抄』の一節を連想している所だ:

「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、

「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、

「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。

「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。

しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。

わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、

我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。

URL:https://xn--6quo9qmwi.com/tannisho13.html 

人の悪行は、その人が前生から継承した「業」とこの世に生まれてから巡り合った様々な「縁」が結びついて、その人の意志となり行為へつながった結果である。

こう書くと、人には《独立した人格》、《自由意志》、《実践理性≒良心》がないという趣旨に受け取れるが、確かに仏道では《凡夫》は《煩悩》に常に支配され、その煩悩は「無始」、つまり無限の過去に由来する。煩悩を滅却して《菩提心》に到達するなど、凡夫にはまず無理である、と考える。だから、成り行きによっては「意図せざる悪行」を行いうるのである。

しかし、日本独特の、というか中国発祥とも言えるが、浄土系他力本願思想では、極悪人であっても、凡庸な凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を信じ、一向に(=ひたすらに)阿弥陀仏の名を称えることによって、死後は極楽浄土へと救済される。

「死後に救済」というのは、物質的身体に関するものではなく、そこに宿っていた精神的エネルギーについてである。輪廻転生思想では「今生」の次に必ず「次生」がある。次生で再び苦しい生涯を送り、再び死ぬよりは、次は生死を超越した純粋の精神的存在に生まれ変わりたい。そういう意味である。高校生向け(それとも中学生向け?)哲学書として世界的ベストセラーになった『ソフィーの世界』でも、主人公・ソフィーと哲学の先生・アルベルトは、宇宙の実空間とは独立した次元に転生して肉体を持たない純精神的存在になったが、ちょうどこれと同じようなイメージである(と勝手に思っている)。

もしも輪廻転生、でなければ素朴な「霊魂不滅説」を根底で認めておかないと、すべての生物は死ねば無になると理解するしかなくなる。物質だけが実在して、精神的実在はない。だから、生きている間に、好きなことをして、言いたいことを言えたのは、炭素を主とする高分子化合物が「うまい具合に結合して」物質自らが意志を持ち、自由に移動したり、音声を発したり、論理をマスターして考えたりできていたのである、と。このような「唯物論」を信じる立場にいる、ということになる  ―   小生は何年か前に転向して今ではこの立場にはいないが。

まあ、どちらの《神話》を信じるかという選択であります。


親鸞の悪人正機説はラディカルであるが、実は師・法然も同様のことを語っていたという事実が最近になって確認されたようだ。ただ、『一紙小消息』では逆のことも書いているので、法然という人は改革者特有の幅広さをもっていたのかもしれない。没後、弟子たちが多くの流派を創っていったのも「むべなるかな」と言える。


2026年4月5日日曜日

ホンの一言: 「公務員倫理審査委員会」が必要なのでは?

先日、こんな記事をみた:

ひろゆき氏は「小学3年時から卒業までの4年間に6人から暴力を受け、金銭を要求された女子生徒。担任は事態を把握したが具体的な対応を取らなかった。校長も市教委に報告しなかった。首を絞められ、拳で殴られて、金を取られたのを知ってて放置した担任と校長は、何故クビにならないの?」と自身の見解をつづった。

Source: SmartNews

Original: SponichiAnnex

Date: 2026-4-1

《職業公務員》である人は公的権力を行使する立場にある、というのは国内マスメディアが愛用する表現だ。

嫌な業者は自由に忌避できるが、担当する公務員が嫌な奴だと感じても、公務は公的機関が独占しているので、納税者には逃げ場がないのだ。職権乱用という罪が公務員にあるのはこうした事情による。

メディアの評判は、特にオールド・メディアというか、ゾンビ・メディアというか、このところ評判はガタ落ちだが、公務員の怠慢・無責任・スキャンダルを厳しく報道する姿勢は絶対的に正しいと思っている。

公務員の勤勉・清潔な姿勢を守ることは、納税者から成る社会全体におけるフェアネス(fairness)の精神を守ることに直接的につながることだ。法やモラルが崩壊する前に、まず社会からフェアネスの感覚が崩れるというのは、時代と国を問わない経験則である。

英語の"Fairness"の意味はOxford English Dictionaryでこう定義されている:

the quality of treating people equally or in a way that is reasonable

人々を平等に、または合理的な方法で扱うという性質 

公的地位にある人の《先憂後楽》の気風は理想ではなく、現実に要請されるルールであるはずだ。爛熟した江戸・文化文政時代の三翁が共有していた「天下の楽に先んじて楽しむ」では幕府の統治そのものが崩壊するわけである。

こんなことを書くと、今は蔑称となり果てた(?)《反政府・野党・左翼》という言葉を投げつけられ、パヨクに分類されてしまうのが必至だが、それはどうでもよいことだ。公務員は厳しく扱われて当然だと考えるのはモラルに反してはいない。 


最高裁判事には『国民審査』という納税者による審判の場が設けられている。

この考え方を全公務員に範囲拡大をして、例えば《公務員倫理審査委員会》を公正取引委員会と同じく《三条委員会》として設置し、すべての日本人は公務員もしくは公的機構・団体を職業倫理に反するものとして告発できるようにすれば、上のような職務怠慢はかなりの程度改善されるはずである。

いまも(国家公務員に関しては)人事院の中に(どれだけ実効性が認められるか熟知しないが)国家公務員倫理審査会があることはある。だから、上の三条委員会設置は人事院内の国家公務員倫理審査会を独立拡大させる方向になるし、対象範囲を地方公務員を含めた全公務員にするとなると、準司法的な位置づけになる。

もちろん告発の取り扱いは、根拠規定に基づき手続きを統一化する必要があるし、実際に倫理審査に進むかどうかは、事情を調査し所定の手続きの下に判定しなければならない。

明らかな職業倫理違反があると認められれば、委員会が司法府に告発し、公判を受けさせるというのは、ありうべき姿だと、(大多数の人のことは分からないが)個人的には感じる。もちろん罰則は別に定める必要がある。公務員による(単なる?)倫理違反は、刑事事案にはなりにくく、民事事案にもなりにくい。しかし、公務員の倫理違反から生じる害悪は確かに存在する。


今のように公務員の不祥事は、刑事事件以外は(基本的に)「役所任せ」という情けない状況よりは余程よくなるだろうと感じる次第。

江戸・旧幕時代ですら幕臣に対しては目付役がおり、大名に対しては大目付がいた。ほぼ共有されている道徳的規範に反する官僚を処罰する機構は組織内部に個別に置くべきではないと思うがいかに?

他方、厳しい道徳規範に従う公務員には、手厚い身分保障・生活保障を生涯にわたって続けることがバランスの上からも求められる。これも理屈だろうと思う。生涯?安いものである。

何せ武士の時代にあっては、正規の武士は終身雇用どころか、(何も事件をおこさなければ)永代雇用。即ち、子々孫々に至るまで藩という組織は侍を養ったのである。

永代雇用。いわゆる「仕官」である、な。一介の町儒者であった新井白石も徳川家宣に仕えたことから、新井家は明治になるまで続く旗本となったのである。

日本にはそんな時代もあったわけだ。 


当たり前のことだが、本日投稿の主旨は、そのまま反語的に解釈しても、それはまた可である。一応念のため。



2026年4月1日水曜日

断想: エビデンスねえ~~~「真理」にエビデンスは要りますかという話し

今日は細かくて詰まらない話だ。

SmartNewsは広範囲の報道情報を集めるポータルサイトとしてとても役に立つ。というのは、Yahoo! JAPANニュースはスポンサー記事が増えすぎて、その広告過剰には辟易しているのだ。

情報提供側の経営目的は広告を流すことにあり、目的は報道ではない。この理屈は分かるが、ユーザー側の目的は情報にある。ここに報道ビジネスの根本的矛盾があるのだが、自分で情報を得る手間が惜しいなら他にイイ方法があるわけではない。

で、オヤッと思ったのが次の下り:

田久保・元伊東市長の私文書偽造罪、要するに偽の卒業証書を市会議員に公然と見せた件だ。

「嘘も100回言えば真実になる」

これはナチス・ドイツで宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスによるプロパガンダの手法を評した言葉だ。

厳密にはゲッベルス自身がこの一文を発したという一次情報はないものの、彼の思想を“意訳”したものとして現代に伝わっている。

Source: SmartNews

Date: 2026-4-1

Original: テレビ静岡

最近このような文章、というかもっと広く色々な場面でこういう妙な《なお書き》を付けた説明振りを見ることが多い。

まず感じたこと。

「厳密には」というナオ書き。要るかナア、と思います。

妙にくどい。

何が言いたいのか?

自信がないなら、そもそも書くなという気にもなる。

要するに、元ナチスのゲッベルス宣伝相の発言だとあなたは推定しているのか、いないのか?いるなら、そう書いておけばいい?いないなら、ゲッベルスの名前など出さない方がいい。仮にゲッベルスがこのセリフを口にしていたという「一次情報」が得られたとしよう。音声データまで奇跡的に出てきたとしよう。だからと言って、この言葉でゲッベルスがゲッベルスの思想を語った事の証明にはならない。誰か第三者が口にしたセリフをゲッベルスが借用したにすぎないという可能性も否定できないからだ。この場合はゲッベルスが「この一文を発した」とは言えないはずだ。その第三者もまた別の人から聞いただけかもしれない。

結局、一次情報もエビデンスも得られようはずがないのである。

この辺、ビジネススクールの最終プレゼンなら、必ずツッコミが入る所だ。

多分

エビデンスは何もないのですが、これは科学の論文ではなく、単に別の本題を語る「報道」ですので、修辞として読んでください。

こういう趣旨なのだろう、と受け取りました  ―   一次情報の形でエビデンスが手元にあるわけではありませんが。

思わず連想してしまった。こんな言い方が、今という時代の定型表現なら

右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい

『新約聖書』の「マタイ伝」にこう書かれているが、これにも「なお書き」が要る。

なお、聖書のこの部分は、イエス・キリストの弟子のマタイが書いたとされているキリスト伝で、イエスがそう言ったと書かれているだけですから、厳密にいえば本当にイエスがそう言ったという音声データが一次情報として残っているわけではありません。イエスの思想をマタイが意訳したものとして現代に伝わっているわけです。

こんな理屈になる。

というか、そもそもイエス・キリストは(おそらく?)地元の言語であるアラム語で説教をしていたはずとされている。なので、最初に新約聖書が書かれたギリシア語は、それ自体が「意訳」であって、要点は「意訳」であるのか、ないのかは大したことではないという点にある。

しかし、イエス・キリストがそう語っているかが不明であるという点に、上の筆者なら非常にこだわるかもしれない。何だか「本人がそう語ったわけではない」のであれば、そう語ったとされている事の価値がウンと下がると思っているのかしら?そうとも思える。

だとすれば、イエスは日本語で説教などしたはずがないから、日本語の聖書は100%意訳で、イエスの言葉として有難がるのはおかしいという理屈になる。

だから、何だというのだろうか?

言葉とは何だろう?

言葉に価値があるのか?

言葉に含まれた意味が価値をもつのか?

バイブルは全編が伝聞である(はずだ)。行動した本人の言葉は残っていないことが多い。パウロの手紙は掲載されているが、本当にパウロ本人が手紙を書いたの?そんな疑問を持つ人は多かったに違いない。

パウロの手紙って、パウロ本人が書いたのじゃないとしたら、価値がないの?

こう問いたいところです。

日本に浸透している大乗仏教は、釈迦が活きた時代と大乗経典が編纂された時代には大きな隔たりがあって、大乗仏教は「仏教」とは言えないと指摘する学者もいるくらいだ。

厳密には、中国伝来の仏教は仏教にあらず。というか、インドに赴いた唐僧・玄奘(三蔵法師)が持ち帰った経典は、インドにおいて既にオリジナルの仏教ではなかった。厳密にはこう判断するべきだろう。

だったらそれは何なのだろう?

小生は、それでも信仰に基礎づけられているなら、それは仏教であると解釈する立場にいる。「真理」は最近の世間で言われる「エビデンス」が決めるのではなく、理性と論理から確定してくるものである。

というか、理性に反しているがエビデンスがあるので「真理」と認めざるを得ないような「真理」は語義矛盾であって、理性に反している場合は「このエビデンスは誤りである」と結論するしか人間には選択肢がない。そう思っているし、実際に自然科学の発展史を振り返ると、そんな風に発展してきたと思っている。

非合理的な真理は最初から排除されているわけだ。

そもそも存在論として、20年前の私と現在の私が同じであると断定していいのだろうか?

物質的身体は、20年前とは別の素粒子、分子、細胞から成り立っている。それでも同じ人間だと自己認識しているのは、同じ幼少時の記憶をもち、継続性を意識しているからだ(といわれる)。

しかし、20年前の自分の記憶と現在の自分の記憶と、厳密に同じ記憶であると立証されているのだろうか?

定期的にDNAデータを保存すれば、生化学的に同一身体であるかどうかは検証できる。しかし、同一の物質的身体に宿っている精神的実体、意識+潜在意識と言い換えてもいいが、20年前と現在とで同じであると、どう同定(identify)すればよいのだろうか?「一次情報」など得られようがないのではないか?

そもそも《エビデンス》とは何か?上の引用文で出て来る「一次情報」はエビデンスという集合に含まれる要素の一つとして使われているのだろう。

平成から令和になって目立つのだが、《エビデンス》がない命題は疑うべきだ、と。

思うのだが、人間の認識にエビデンスなどはないことの方が多い。そう思う。

ピタゴラスの定理が真理であると考えるエビデンスはどこにあるのか?

実際、アインシュタインは宇宙はユークリッド空間ではなく非ユークリッド空間であることを理論化した。だから、厳密には「ピタゴラスの定理」にはエビデンスがない(ことが分かった)。しかし、ユークリッド空間を仮定すればピタゴラスの定理は自動的に真である。これにエビデンスなどはない。

何かといえば「エビデンス」を求める姿勢は、科学的なフラグランスを醸し出す効果はあるが、実はよ~~~く聞いていると、相手の言い分が正しいというエビデンスがないという根拠から、それ即ち自分が正しいことの証明である、と。どうもこんなロジックを展開している。

ずっと以前にも投稿したことがあるが、

太陽が地球を回っているという天動説には経験から明らかなエビデンスがありますよね。地動説にエビデンスはありますか?ないでしょう。

こんな議論を真面目にしていた時代はあったはずだ。

滑稽である。

人類の知的進化はエビデンスの蓄積を合理的に説明できる純理性的推論による。単にエビデンスにマッチさせる理論は、往々にしてヴィジョンなき愚かな理論である。事実を説明する理論は無数に提案できるが、大半は幼稚で拙いものだ。真理をつく理論は美しさを有すると言われる。しかし、エビデンスの方から教えてくれるわけではない。真の知識はエビデンスがさきにあろうが、なかろうが、最初から真である。

なので、エビデンスは要りますかという問いは常に有効であると思っている。エビデンスの必要性は文脈によるのだ。

今日は《反証可能性》や《モデル選択》の話しをすれば十分だったかもしれないが、書きたいことを書いているうちに長くなってしまった。つまらなくて細かい話である。

2026年3月31日火曜日

断想:私には分かりません ≒ 記憶にございません

昨日、こんな記事をSmartNewsで目にした:

毎日新聞は28、29の両日、全国世論調査を実施した。高市早苗首相が、米国のイラン攻撃についての国際法上の評価を避けていることについて「支持する」が33%、「支持しない」が36%と意見が分かれた。「わからない」も29%あり、有権者に迷いも感じられる。

Source: SmartNews

Original: 毎日新聞

Date: 2026年3月30日

確かに高市首相は《アメリカ・イスラエル枢軸 vs イラン》戦争に関して、

首相は国会で「詳細な事実関係を十分把握する立場にないことから、確定的な法的評価は行っていない」と答弁した。

こんな報道がされている。

要するに、アメリカ=イスラエル枢軸のイランに対する先制攻撃が国際法に違反しているか、更に戦争犯罪に該当するかは、(事実関係がよく分からないので?)「分かりません」と答えている。

これをみて、(今となってはずいぶん昔の)《ロッキード事件》を思い出した。国会でこの問題が集中審議されたとき、証人喚問された日航、丸紅など関係企業経営陣は核心に迫る質問に対して全て

記憶にございません

と、鸚鵡のごとく繰り返していたものだ。この『記憶にございません』というセリフは、進退窮まった時に大変便利であるせいか、その後に色々な事件の重要参考人の常用する言葉にもなったわけで、こう考えると「ロッキード事件」というのは田中角栄という稀代の民衆政治家による《総理の犯罪》が追求されたにとどまらない、いわば日本社会全体のモラル感覚にも大きな傷跡を残した事件でもあったと思う。

まして、この事件の一連の展開そのものが、中国傾斜、アラブ傾斜を強める田中政権に鉄槌を下すことを目的に、アメリカ政府が計画した陰謀(?)であったと今もなお囁かれているのだから、ロッキード事件の発生と解決の仕方は戦後日本体制の不健康さを象徴する事件でもあったと、小生は勝手に思っている。

「戦後日本社会」は根本的タブーの上に成立している。それを露骨に言ってはならない。裏が腐っていても表は綺麗にしておけ、と。率直には生きられない。建て前をマナーの名のもとに強要される。守らなければマスメディアからバッシングされる。とはいえ、そんな生活感覚が時に疼くことがある。

戦後日本の特徴はこの辺にあると思っている。

「記憶にございません」と「私には分かりません」という対応は何と似ていることだろう。

それはいま聞かないで!

言葉で伝えようとしている主旨はそのまま重複していると感じるのは小生だけだろうか?

今朝、カミさんとこんな会話をした

小生: それにしてもアメリカって国は、太平洋戦争が終わってから、いったい何回戦争しているンだろうね?朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン・・・他にも米軍が動いた紛争は無数にあるヨ・・・こんな好戦的な国は世界でアメリカだけだナア。

カミさん: 平和な国じゃないのは確かだね。

小生: 昔あったソ連もソ連軍を使って力で抑えたことは多かったけど、のべつまくなし常に戦争をしているのはアメリカだけだよ。

カミさん: 超大国ってどこもそうなるのかなあ・・・?

小生: 19世紀の帝国主義の時代には大砲と軍艦で外交をやったのが西洋だからサ、そんなDNAがあるんだろ。反対に、中国は意外と平和志向だネ。歴史的にも中国の歴代王朝は対外侵略するより異民族から侵略される頻度のほうが多かった。とにかく国として物騒ではないよね。これはアメリカと中国の行動履歴を比べてみれば誰でも分かる。日本ではホント不思議なほど対中警戒心が強いけど、中国の方から軍を動かした紛争は、ほとんどない。どれもが「国境紛争」で、ある意味、典型的な武力衝突なんだけど、やるかやられるかという「戦争」じゃあないンだな。大体、孫子の兵法でも上策は「戦わずして勝つ」で、「兵を動かして戦う」というのは下策とされている、そんなお国柄だからね。

カミさん: そうなの?あんまりイイ印象はないけど。 

小生: 日本は竹中半兵衛のような「策をめぐらす」というのが苦手だからサ、中国には苦手意識が強いんじゃないかネエ?国のサイズも違うし、謀略戦、情報戦の持久戦になると、どうしたって大国の方が小国より有利だよ。それと日本では右翼の宣伝がきいてるな。ほんと、国内向けに宣伝するよりは、相手の調査・諜報にもっとエネルギーを割くべきだと僕は思うんだけど、ネ。一部の過激派の宣伝は眉唾だと思って、いまはChatGPTとかGeminiとか、AIを誰でも使えるんだからサ、調べてもらえばいいのさ。そうすりゃ、とんでもなく間違うってことはなくなるよ。それにしても、何で日本人はAIに警戒心をもっているのかねえ。これまた七不思議だ。

カミさん: 得たいが知れないしサア、AIの指示通りに動いていたら、いつの間にか悪くなったり、戦争になったりするんじゃない?

小生: 逆だと思う。AIで戦争が起きるってことは先ずないな。いま世界で最も危険な国はアメリカさ。アメリカに睨まれたら危険極まりない。総理大臣がいつ殺害されるかわからん。天皇陛下がいつ拉致されるかも分からん。西部劇の保安官みたいなもンだ。正義の味方だと思ってるから始末が悪い。AIはモンスターじゃないよ。人間が造るものだからね。怒りや感情とは無縁だ。理性そのものだよ。それに思考には制約を課すことも出来る。怖いのはバカとハサミの方さ。

The New York Timesの最後のコラム記事でPaul Krugmanはこう書いていた。

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。指導者を信じられる時代は終わったのだ。何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ。 

この下りは以前の投稿でも引用したことがある。

有権者が選んだ人物を公の新聞紙上で《最悪》と表現できるところがアメリカ社会の良さと言えば「良さ」である。杓子定規な日本ならとてもこうは言えない(はずだ)。

最悪な人物を選挙で選ぶこともある。民主主義の失敗の一例として記憶されるのが、足元の「いま」という時代である。


ただ、最悪の人物を偶々選んでしまったのだというシンプルな理解を超える大きな危険性が、アメリカ合衆国という国には潜在している。これもまた真理であるかもしれない。

民主主義に本質的に潜んでいる危険性かもしれない。そうでないかもしれない。


古代ローマ帝国の盛期である《五賢帝時代》は、名君マルクス=アウレリウス帝の後を暗愚な息子コモドゥス帝が世襲したときに終わった。コモドゥス帝の(暴君とは必ずしもいえない)暗君ぶりと悲惨な最期は歴史が示す通り。そのあと、ローマ帝国は不安定な軍人皇帝時代に入り、ディオクレティアヌス帝が再び安定を取り戻すまでに100年を要したのである。そして、安定を取り戻したあとのローマ帝国は皇帝専制の度を強め、以前の輝きまでが戻ることはなかったのである。

世襲による君主制は選挙がないので暗君が出現すれば腐敗する。しかし、暗君、暴君による災害は、庶民までには害が及ばないこともあり、君主の贅沢は庶民には有難いことも多い。もしも君主の暴虐に多数の臣下が「耐えられない」と感じれば、「殿、ご乱心」と押し込め参らせ、嫡男に相続させることで案外早期に片付けられると、小生は勝手に評価している。これに反して、民主主義の失敗は君主制の失敗よりは低頻度であるが、いざそれが失敗すると修正しようがなく、その災害規模は未曽有の規模になりうる。

こんな風に漠然と思ったりしているのだが、どんなものでござんしょう。


高校野球は監督で決まる。企業はトップで決まる。国の盛衰は指導者で決まる。トルストイの歴史観とは違うが、一人の指導者の優劣で社会全体が決まる側面も、確かに人間社会にはある。

下手な指揮者が指揮するオーケストラを連想すればイイ。下手な指揮者は勝手に棒を振らせておき、無視を決め込んで、自主演奏する方が好い演奏になるものだ。

民主主義のロバストネスが現れるとすれば、こんな時だろう。


2026年3月25日水曜日

ホンの一言: 民主主義の変質はグローバルに進行中?

ロシア=ウクライナ戦争勃発を契機にまるで「ゾンビ」のように活動を再開したいわゆる「西側陣営」だが、どうやら政治的にも、社会的にも危機に瀕している模様だ。

それは西側社会のコアを為すはずの《民主主義(=Democracy)》という価値観、というか理念が揺らぎ始めているという兆候だ。

英誌"The Economist"が先ごろ次のような記事を掲載した。ヘッドラインは

Westerners are fleeing their countries in record numbers

欧米諸国からの脱出が記録的な規模で進んでいる

Source: The Economist

Date: Mar 22nd 2026

URL: https://www.economist.com/finance-and-economics/2026/03/22/westerners-are-fleeing-their-countries-in-record-numbers 

というものだ。

少し抜粋しておこう:

アーダーン・ニュージーランド首相といえば、2020年から21年にかけての世界的コロナ禍の時期、その進歩的な行政手腕から特に日本のマスコミでは高く評価されていた人物である。ところが:

After stepping down as New Zealand’s prime minister in 2023, Jacinda Ardern took up a role at Harvard University. Now she is based in Sydney. Ms Ardern’s decision to live abroad has struck a nerve with Kiwis, who were already worried about high levels of emigration.

記事は首相の座を降りてからシドニーに居を移し、ハーバード大学の為に仕事をしているという、こんな近況報道から始まっている。記事全体の趣旨は、いま西側先進国で激増(?)している国外移住者についてである。

Three factors explain the rise of the expat economy. First, the pandemic normalised the idea of geographical arbitrage. 

海外在住者経済の台頭には3つの要因がある。第一に、パンデミックによって地理的裁定取引という概念が一般的になった。 

日本国内では住み心地の良い適地を求めて自由に人が移動しているが、それが国境をまたぐ形で進んでいるというものだ。コロナ禍によるリモートワーク普及がこの動きの背中を押しているとも指摘されている。次は税制である。

Taxes are the second factor. 

誰しもその国でずっと暮らさないなら、付加価値税(=消費税)であれ、所得税であれ、税率は低ければ低いほどよい。また、残り時間が少なく、ブーメランの心配のない高齢者ならば、今年支払う税金を減らしたいのは自然な心理だろう。移住するかどうかで移住先の税制を考慮するのは当然だ。

日本国内でも住民税を含め地方税を個々の自治体が完全に自由に決めることが出来るとすれば、「ふるさと納税」の普及をみても、どこに住むかは税と保険料次第という状況が来るだろう。物価の高い首都圏の独り勝ちにはならないのは確実だ。例えば、農水産物(とエネルギー)を含めすべての商品の価格に「県域外出荷税」をかけるとすれば、大都市圏と地方圏のどちらが先に音をあげるか?論証するまでもなく帰結は明らかだろう。一定量の農産物をわざわざ低価格で出荷する動機は生産元の方にはない。価格カルテルが自然発生するであろう  ―   農産物貿易が完全自由化されれば、その時はまたどんな進行になるのか、色々なモデル化ができると思うが。

三番目の理由が本日投稿の主旨かもしれない。

Third, politics play a role. Many of the Americans who waltz around Hampstead dislike Mr Trump. Many of the Britons who have moved to Dubai detest “Keir Starmer’s socialist Britain”. Conservative Canadians, now living through their 11th year of centre-left Liberal rule, are looking elsewhere. All these different examples, though, are a subset of a broader process—the growing sense among Westerners of all political persuasions that politics is broken. 

第三に、政治が影響している。ハムステッドを闊歩するアメリカ人の多くはトランプ氏を嫌っている。ドバイに移住したイギリス人の多くは「キア・スターマーの社会主義イギリス」を嫌悪している。中道左派の自由党政権が11年目を迎えた保守派カナダ人は、別の場所を求めている。しかし、これら様々な例はすべて、より広範なプロセス、つまり、あらゆる政治的信条を持つ西洋人の間で政治が機能不全に陥っているという認識が高まっているというプロセスの一部に過ぎない。

政治が壊れるという現象は、何も君主制、寡頭制、独裁制、社会主義等々、政体を問わずどの国でも起こりうるということだ。

Their exit “went along with a deterioration of democracy in their home countries”, the authors find. 

 著者らは、彼らの出国は「母国の民主主義の悪化と並行して起こった」と結論づけている。

何も非民主主義的になったのではない。善い民主主義から悪い民主主義へと変質しつつあることを感じているからこそ、母国を見捨てるわけである。

実際、現世代は《民主主義》の創立世代ではなく、単なるユーザー世代である。「ユーザー」というのは、往々にして、不具合や動作異常に対してはお手上げ状態になるものだ。不平を述べることは出来ても、問題を解決できるだけの知識も経験もないものなのだ。

同じ趣旨の観方は実はIMFも持っているようで、それをF&D Magazineで書いている。

The world’s largest economy is in a precarious fiscal position, with a debt-GDP ratio poised to breach its historic post–World War II high. But unlike in 1946, there is no large peace dividend from reduced defense spending to rescue public finances. Demographic factors are pushing spending even higher through the continuing expansion of old-age entitlements, and there seems little prospect of avoiding large deficits and higher debt, even if economic conditions remain favorable.

世界最大の経済大国である米国は、財政的に不安定な状況にあり、対GDP債務比率は第二次世界大戦後最高水準に迫っている。しかし、1946年とは異なり、国防費削減による大きな平和配当は財政を立て直す助けにはならない。人口動態の変化は、民主主義の圧力を通じて、高齢者給付を拡大させ続ける。たとえ客観的には経済状況が良好であるとしても、巨額の財政赤字と債務増加を回避できる見込みはほとんどないのだ。

Source: IMF F&D Magazine

Author: Alan J. Auerbach

Date: March 2026 

URL: https://www.imf.org/en/publications/fandd/issues/2026/03/point-of-view-americas-perilous-fiscal-path-alan-auerbach

多数派の要求に正義があると前提するのが民主主義である。というより、「世論」には「正義」があると解釈しなければ、現代民主主義を運営できない。その大前提の下では、

無理を通せば道理が引っ込む

という社会状況がもたらされることになる。

これも《民主主義の失敗》への認識を示唆しているだろう。

小生思うのだが、もし幕末の時代、世論調査をすれば明治新政府は「攘夷」を推し進める以外に道はなかったはずだ。その当時、日本に民主主義がなかったことが近代日本への道を開いた。

Krugmanはトランプ政権を「反逆者」呼ばわりするに至っている。それは、イランに対して

48時間以内にホルムズ海峡を開放しなければ発電所を破壊する

という脅迫をしたあと、結局は5日間延期すると表明したいつものTACOに戻った事に関連している。

実は、最初の声明から延期方針の声明までの短い時間内において、石油の先物価格がイレギュラーな乱高下を示したというのだ。データはYahoo! Financeから採られているようなので、日本のマスコミ各社も確認可能であったはずだ。Krugmanはこう書いている。少し長いが引用しておこう:

This “sharp and isolated jump in volume” — which you can see for the oil futures market in the chart at the top of this post — was especially bizarre because there were no major news items — no major publicly available news items — to drive sudden big market transactions. The story would be baffling, except that there’s an obvious explanation: Somebody close to Trump knew what he was about to do, and exploited that inside information to make huge, instant profits.

This wasn’t the first time something like this has happened under Trump. There were large, suspicious moves in the prediction market Polymarket before previous attacks on Iran and Venezuela. But this front-running of U.S. policy was really large: the Financial Times estimates the sales of oil futures in that magic minute Monday morning at about $580 million, and that doesn’t count the purchases of stock futures.

When officers of a company or people close to them exploit confidential information for personal financial gain, that’s insider trading — which is illegal. But we have another word for situations in which people with access to confidential information regarding national security — such as plans to bomb or not to bomb another country — exploit that information for profit. That word is “treason.”

この「急激かつ孤立した取引量の急増」(この記事冒頭のチャートで原油先物市場について確認できる)は、特に不可解でした。なぜなら、突然の大規模な市場取引を引き起こすような、主要なニュース(一般に公開されている主要なニュース)が一切なかったからです。この出来事は不可解に思えますが、明白な説明があります。トランプ大統領に近い人物が、彼がこれから何をしようとしているのかを知っており、その内部情報を利用して莫大な利益を瞬時に得たのです。

トランプ政権下でこのようなことが起こったのは今回が初めてではありません。イランとベネズエラへの攻撃前にも、予測市場であるポリマーケットで大規模かつ不審な動きが見られました。しかし、今回の米国の政策先読みは、これまで以上に大規模でした。フィナンシャル・タイムズ紙は、月曜朝のあの瞬間の原油先物取引額を約5億8000万ドルと推定しており、これは株式先物取引の買い越し額は含まれていません。

企業の役員やその近しい人物が、機密情報を個人的な金銭的利益のために利用することは、インサイダー取引であり、違法行為です。しかし、国家安全保障に関する機密情報(例えば、他国を爆撃するか否かの計画など)にアクセスできる者が、その情報を利益のために悪用する状況を表す言葉は他にもあります。それは「反逆罪」です。

Source:substack.com

Author: Paul Krugman

Date: Mar 24, 2026

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/treason-in-the-futures-markets 

この疑惑は、本日いま時点で、すでに日本でも報道されているから、ひょっとするとアメリカで大炎上するかもしれず、いまは大統領が抑えるとしても今秋の中間選挙で共和党が大敗すれば、大統領弾劾への動きが始まり、ト大統領に近い人たちは(最悪の場合)逮捕されるのではないかと予想しているところだ。

民主主義と資本主義は相性が良い。しかし、この二つが並立すると、どうしても公私の関係については

私 > 公

公共のために個人の権利を抑えることは不可。私権を尊重する大前提の下で公益を追求せよ、と。そんな姿勢が是認されがちである。

小生は、現時点では『公という観念は虚妄である』と考えているから、公益のためには私権を制限するのは当たり前だという価値観には与しない。公共部門は可能な限り小さくあるべきだと云うのが小生の信じる立場である。

貧困救済も福祉向上も、何も公共部門を設置しなくとも、個人間の利益と自由契約、さらに私的な協力行為(ゲーム理論で言う結託)に基づいて社会的な問題は自然に解決されるはずである。現代の「国家」は、私的な実力行使を禁ずるとともに、私的な福祉行為をも(事実上は)禁止し、余裕のある経済力は所得再分配という大義の下に徴税によって国家が吸い上げるべきだというイデオロギーを肯定している。「公」の内部が腐敗するのは私有財産を供出させる公的権力があるが為である。というより、「公」を具体化する「公的組織」はそこで活動する人間の私的利益の集合である。

これが小生の近現代社会観である。

いやしくも《公》という観念に見合うものが実在するというなら、公には公の倫理があるはずだ。公の倫理は利益動機とは異なるべきだ。また、公の為に私を制限する状況があるのも当たり前である。個人としては「公」は好きではないが、論理はこうなる(はずだ)。利益動機は私人だけにしてほしいものだ。私人に加えて、公である国家までが国益を求めるなど公私ダブルで強欲である。何も儒学を再興せよとは言わないが、「公」はもっとハイレベルであるべきだ。強欲な国は実に見苦しい。そう感じる次第。

最後は社会哲学的になってしまった。難しい。


いずれにせよ、とにかくトランプ政権は剣呑だ。どうなっても日本に火の粉が飛んでこないことを祈るばかりだ。

本ブログでも最近は民主主義の虚妄性を投稿することが増えているが、どうやら世界規模で思想の揺らぎ、理念の変質が進行中であるようだ。


2026年3月22日日曜日

断想: この世は舞台、すべて人は平等な役者仲間

最近のビッグ・イシューということなら

  • 先ごろワシントンで行われたトランプ・高市会談
  • WBC準々決勝における対ベネズエラ戦敗退
(アメリカ社会はまた違うと思うが)世間の関心度、注目度からして、この二つなンだろうと思う。

かたやトランプ大統領から『アメリカ=イスラエル陣営(=米以枢軸軍)に味方せよ』と強引に押し切られ、危ないと承知しながらも自衛隊(≒国防軍)をペルシア湾に遠征させるか?そのための特別措置法案を提出するのか?正に国運がかかってくるわけであります。かたや(たかが?)プロ野球の(さして巨額の賞金がかかっているわけでもない?)国際戦である。どちらが日本国民の命運を左右するかといえば言わずとも明白。それでも日本人の関心を広く集めたのは、ひょっとするとトランプ・高市会談の行方ではなく、日本が一時ベネズエラを逆転した試合の結果のほうであったかもしれない。

国際政治もプロ野球の国際戦もどちらも普通の日本人にとって思い通りになる対象ではない。どちらも手の届かない空中戦だ。とはいうものの、仮に高市首相がトランプ大統領の機嫌を損ね、以前のゼレンスキー・ウクライナ大統領のように見送りもされず足蹴にされるがごとくにホワイトハウスを後にするという、そんな哀れな情景がもしも放送されれば、さすがに日本人の大多数はそれをみて激怒したのではないだろうか?その度合いは、ベネズエラ戦で伊藤大海投手が逆転3ランホームランを打たれたことに対する罵詈雑言とは質の違うものではあったに違いない。

普通の日本人大衆にとっては、首相と米大統領との会談もプロ野球のWBCもサッカーのW杯も、はたまた毎年秋に公表されるノーベル賞受賞者発表も、映画のアカデミー賞受賞者発表も、すべては《同じ》なのじゃあないか、と。そうも感じているのだ、な。 詰まるところ、シェークスピアが『お気に召すまま』の登場人物に語らせているように

All the world's a stage
全てこの世は舞台
一人一人の日本人にとっては世間も浮世も自分が生きている一場の芝居のようなものである。とすれば、トランプも高市も、大谷も山本も、皆々すべて同じ舞台の上で、ほんの短い時間を自分と共に過ごす役者仲間のような存在ではないか。

物質的身体が機能を停止した後、身体を動かしていた精神的本体がどこに往くのか、それは誰もしらない。輪廻によってこの世に帰ってきているのかもしれないが、別の身体に生まれた後は前世のことは全て忘れると見える。だとすれば、余計にいま共にこの世で同じ空気を吸っている衆生一切に自分との縁を感じるのだ・・・そんなことかもしれない。

その意味では政治も暮らしも娯楽も、病気も子育ても、何もかもが同じ意識の中で平等に意識されるのだ・・・まあ、そんな風に思っています。

2026年3月18日水曜日

断想: 理性よりは情が重んじられるのは分かりますが・・・という話し

 前稿や前々稿で書いたことのポイントは次の下りに尽きるかもしれない:

《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。

何が善であり悪であるかは、時代やその国の文化的伝統ごとに違うものだ、と。こう考える限り、結局は《相対主義》に陥り、絶対不変の善悪判断などはないという結論を認めざるを得なくなる。

もしそんな立場に立てば、ロシアのウクライナ侵攻を批判する論拠は実はなく、単にロシアに味方するかウクライナに味方するかという利害得失の話になる。

アメリカとイスラエルが今回行ったイラン攻撃も善い行為なのか悪い行為なのか、絶対的真理はなく、つまりは相対主義に立って国ごとに判断すればイイことですよネ、と。こんな結論にせざるを得ない。

永遠かつ絶対に正しい国際法などは架空の空言で、果ては国の刑法ですら、いまはそう決められている決めごとに過ぎませんヨ、と。そんな虚無的な議論にもなるはずだ。

最後には、

よく言えば《武断主義》。悪くいえば《腕力の強い者が善》。こういうジャングルの掟が世を支配することになる。

これを事実として認めるべきだと。 実は、世界史、日本史を通して、理屈よりは腕力という時代が遥かに長かったのである。

これではダメだと最初に主張したのがソクラテスであったのは弟子・プラトンが数多くの作品で伝えているところだ。プラトンがそんな議論をした背景には、30年続いたペロポネソス戦争で降伏した民主国家・アテネの混迷と衆愚化した世相があった。師・ソクラテスの死刑判決はプラトンの目には衆愚を超えた「知の崩壊」が見えていたはずだ。その「知の崩壊」は要するに何か?それ以前に「知」とは何か?ここからプラトンは「哲学」を始めた。フィロソフィー、正に「知を愛するもの」である。

当時アテネ社会で一世を風靡していたソフィストの

人間は万物の尺度である。

という相対主義は、本質的に間違った世界観である、と。そして

何が善か、何が正しいかという問題には、絶対的で普遍の真理がある。

要するに

真理は実在する。

今は誰が強いか、10年後には誰が強くなりそうか?こんな有為転変で無常の問いかけには意味がない。空である。意味のない答えに基礎を置くのではなく、実在する真理に根拠を求める。こんな「理想主義」をプラトンは理路整然と展開した。哲学の誕生には敗戦で混乱するアテネ社会が必要だったとも言える。

前にも書いたが、時代と文化を超えて一定不変な心の働きは《理性》だけである。「感情」や「感覚」は、時代や文化どころか、同じ時代、同じ国の異なった個人の間で、もう異なるものである。人は色々、人生いろいろ、である。しかし、理性は色々ではなく、全ての人で同じように働き、同じ問題に同じ答えを出す。人によって幾何学の定理の真偽が異なることはなく、同じ方程式を解けば同じ答えを得る。理性だけは普遍的な心の働きなのである。

この世を超越した普遍的な善があるなら、それは理性だけが認識できるという理屈になる。普遍的な問いかけに対して真理は一つである以上、個々バラバラな感覚を用いて回答しても必ず間違いになるからだ。理性によって得られる帰結は、数学的知識と同じように、誰もがそう認めなければならないという点で、文字どおり普遍的である。

理性的議論をしていながら答えが分かれるとすれば、理性ではない感情やアドホックな価値観などが混入するからである。

なので、普遍的なモラル、倫理、善悪については、感情や価値観ではなく、理性を用いた議論をする必要があるというのは、いわゆる《合理主義者》に小生は完全に賛成する立場にいる。理性のみが、人類共通の心の働きだから、である。

一方、モラルの基礎は理性でなく感情であるとする立場もある。例えば、経済学者にして道徳哲学者でもあったアダム・スミスは『道徳感情論』を著している。

ずっと以前に投稿した孟子の四端説では

惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)

羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)

辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)

是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)

道徳の基礎に理性だけを置いているわけではない。特に最も重要視される《仁》は理性の働きとは関係がなさそうであり、どちらかといえば《情》に近いものである。

理性に基礎をおく考え方は、ギリシア人ばかりではなく、インド人を含めたアーリア民族共通の哲学であるのかもしれない。

仏理・仏道においても、前世から継承された業と現世の縁から発する様々な煩悩を滅却するためには、何よりこの世の現実を観察し、瞑想し、真如を悟るだけの智慧を持たなければならないとされている。法然と親鸞以降の日本・浄土信仰では、ひたすらに阿弥陀仏を信じて念仏を称えることが求められていて、智慧をどちらかといえば排するのであるが、本来の仏教は極めて智慧重視型の哲学に立っている所を観ないといけない。

孔子は紀元前5世紀、孟子は紀元前4世紀の人だから、まだ中国に仏教は伝わってはいなかった。中国文化は、極めて現実的で、 理性にのみ把握される抽象的概念が中心になることはなかったのである。

日本文化もまた、理性よりは一瞬ごとの直観、もののあはれを感じる感情こそ中核をなしていると小生はみている。

東洋哲学では「理性」よりは寧ろ《知・情・意》のバランスが大事だとされている(と理解している)。

まあ、大胆な割り切りではあるが、インド・ヨーロッパ的な理性重視の哲学と東洋哲学との間には、深い溝がありそうだ。

理性だけが同一不変の心の働きであると述べたが、それでも、

感情や価値観を基礎にする限り、今後の世界は《相対主義》の泥沼に迷い込んでいかざるを得ない。理屈としてそうなる。

こんな風になっていくのではないかと、いま怖れを感じているのだ、ナ。

カントが『永遠平和のために』という極めて理性的な小冊子を書いているが、どれほど机上の空論と感じようが、戦争のない世界を実現するには、理性だけを使って議論をしなければならない。

そんな仕事が出来る人だけが、重要な責任を負うべきであるというのが、小生の現代社会観である。

2026年3月13日金曜日

断想: 「侮れヌ」を遥かに超える『ソフィーの世界』の素晴らしさ

学校時代の春季休業は休暇の中で最もノンビリと出来る2週間だった。宿題も何もないわけだから楽しくないはずがない。しかも季節は早春である。何をやるにも最適の季節だ。

こんな時、読書好きな友人は(やっと)読みたい本を読めていた(はずだ)。課題図書にこだわる必要はない。

小生もそんな風に春季休業を過ごせば余程ましな学校時代を送れたと思うが、いま思い出してもロクな事はしなかった。怠け者であった。大体、課題図書を真面目に読んだことなどなく、ずっと後年になってから読んでみて「後悔先に立たず」と感じたのは「後の祭り」というものだ。

『ソクラテスの弁明』は中高時代の課題図書の常連だ ― 多分、いまでもそうなのだと思う。唯円の『歎異抄』もそうだろう。この二冊に西田幾多郎の『善の研究』を併せて読めば、この世界を《生きる》ことの本質が見えてくる・・・というのは比較的最近に投稿したことがある。

今日は更に『ソフィーの世界』を追加しておきたい。

『ソフィーの世界』が世界的なベストセラーになって邦訳本が日本で発売されたのは1995年6月だった(ということな)ので30年以上も前になる。その頃、小生はもう小役人から足を洗い北海道に移ってきていた。仕事も教育の現場であったからこの本の評判は耳にしていたが、「いまさら少女向けの哲学書なンて読めるか」という、そんな気分でうっちゃっておいたのだ、ナ。

ところが、つい先日になって『ソフィーの世界』の漫画ヴァージョンがKindle Unlimitedにあったので、目を通してみる気になった。それで感じたのが

先入観や偏見は後悔の母である

という古来の経験則である。

それで日本語訳できちんと最初から読んでみようと思ったわけだ。

小生は《古代》という時代が非常に好きである。神話時代の後、宗教が定着する中世の前という中間に位置し、最後には古代文明が完成の域に達してから崩壊する。特に、西洋にあっては民主国家アテネの発展と没落、アレクサンドロスという専制君主によるヘレニズム社会の形成とグローバル化。ヘレニズム後のローマ帝国への統合と古代文明の完成。貨幣経済の浸透と社会的分業の発展。そして最終的には蛮族の移民増加と帝国のゲルマン化。キリスト教の浸透と皇帝の権威の相対化。無秩序化と通貨の瓦解、都市文明の崩壊、人口減少、分散的な農業社会、生活水準の低下と人口減少の負のループ・・・

古代という時代は、(特に西洋にあっては)小さなスケールで最初から最後まで閉じた歴史を示している、とそう思っているのだ。

それで、『ソフィーの世界』でも特に上巻が面白いと感じた。

今日は例によって、記憶に値する個所と個人的なコメントを覚書にしておきたい。

まずアウグスティヌスから。

神が世界をつくる前、神の考えのなかにはイデアがあった、とアウグスティヌスは考えたんだ。永遠のイデアを神のものにすることによって、プラトンが想定した永遠のイデアを救ったんだ」  「あったまいい!」

まあ、全体がこんな文体で進んでいく。想定読者層は、やはり中高生あたりなのだろう。

 悪をどう見るかでも、アウグスティヌスは新プラトン学派を踏まえている。悪があるというのは、善なる神がそこにいない、ということだ、とアウグスティヌスは考えた。プロティノスと同じだね。悪は独立して存在するものではなくて、なんでもない何かだ。なぜなら、神の創造物は善に決まっているからだ。悪は人間の不従順から発生する、とアウグスティヌスは考えた。

この本文に対してこんなコメントを付けている。

悪とは善の不在である。カントの倫理観、フィヒテの考え、シェリングの宇宙観にも通じるかも。仏理的な悪は、その人が前世から継承してきた業が煩悩として現勢化した心の働きで、この世界に具象化されたその人の本質を成すものだ。悪は善の不在ではなく、確かにこの世界に実在する(と小生は理解している)。善悪の理解が西洋と仏教世界ではかなり違うようだ。

三番目は 

 「アウグスティヌスは歴史を哲学と関連づけたヨーロッパの最初の哲学者だ、ということも憶えておいてほしいな。善と悪の闘いという発想はちっとも目新しくない。アウグスティヌスの新しさは、この闘いが歴史をつうじてつづくとしたことだ。この点では、アウグスティヌスにはプラトンの考え方はあんまり感じられない。アウグスティヌスは、旧約聖書の直線的な歴史観にしっかりと立脚している。アウグスティヌスは、神は全歴史を使って神の国をうちたてようとしている、と考えていた。

これに対するコメント:

正にヘーゲル!

ヘーゲルの「世界精神の弁証法的発展」とアウグスティヌスの「神の国を打ち立てるための闘い」とどこが違うか?

こんなメモをつけている。

経済学者ケインズは、『思想というのは、新しいようにみえて、実は過去の誰かの思想を衣替えして再登場させているものだ』と、こんな趣旨の文章を(どこかで)書き残しているが正にこれを思い出した。

次に、トーマス=アクィナス。この大神学者にして大哲学者の名は世界史の教科書にも登場するので知っている人は多いはずだ。が、小生の記憶ではどんな学問的成果を成し遂げた人物なのか、最後までよく分からなかった記憶がある。ただ、ヨーロッパの中世神学はプラトンではなくアリストテレスの哲学を基礎にしていた(と書かれていた)ことだけは覚えている。

まず

「トマス・アクィナスは、ぼくたちが哲学とか理性とか呼んでいるものと、キリストの啓示とか信仰と呼んでいるもののあいだにどうにもならない矛盾があるとは考えなかった。キリスト教が言うことと哲学が言うことは、しばしば重なりあう。ぼくたちは理性の助けによって、聖書に書いてあるのと同じ真理を究明できるんだ」

20世紀の数学者にして哲学者でもあったバートランド=ラッセルは、人類が獲得する《知の成果》は三つのカテゴリーに分類されるとして、最下辺に観察データから実証される「科学」、中間に科学を基礎づける先験的総合命題の集まりである哲学と数学、論理学。最上辺に理性だけでは真偽が確定せず、直観と信仰(更に神秘的経験、つまり啓示?)から獲得される宗教的真理。この三つの階層に区分されるとした   ―   宗教的真理が「真理」であるとすることに現代日本人は疑問を抱くかもしれないが、人類以外の動物は宗教とは無縁である。知性を備えた人類のみ神や浄土を考える。つまり数学とは違った別種の超越的世界も人間の知性の働きであるのは同じである。

最近の小生の立場はこんな風なので、上の引用文は正に友を得たように感じて「その通り!」と同感したわけだ。

(キリスト教の)教義と哲学的理性はしばしば重なり合う。同様に、数学的理性と物理化学的現象とそれを観察したデータは重なり合うものだ。

こんなコメントを付けている。

次に

トマスによれば、神は聖書と理性をとおして人間たちの前にみずからを啓示する。だから信仰の神学と自然の神学があることになる。道徳の分野でも同じことだ。聖書は、ぼくたちは神の意志にそって生きるべきだ、という。でも神はまたぼくたちに良心もあたえて、自然の原則にしたがって善悪を区別できるようにした。だから、道徳生活にも二つの道があることになる。ぼくたちはたとえ聖書を読まなくても、ほかの人を苦しめてはいけない、ということを知っている。自分がそうしてもらいたいようにほかの人にもしてあげるべきだ、と知っている。

これはカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』との関係そのものではないか。「良心」の声は常にささやかである。良心の声が聞こえない時、つまり善が不在であるとき、人は悪を為すのであるという倫理観は、西洋の伝統でもあるのだろう。

トマスは、植物や動物から人間へ、人間から天使へ、天使から神へと高まっていく存在の段階がある、と考えた。人間は動物と同じように、感覚器官をそなえた肉体をもっているけれど、人間にはまた、よくよく考える理性もある。

人の特性は「考える器官」である「大脳」を物質的器官として持っている所にある。その大脳の中で進行する生化学的反応プロセスを、どうすれば数学的思考、更には自由意志や目的設定に翻訳することが出来るのか?

この問いに回答できる日が来るとは、小生、どうしても想像できない。いま足元で発展中の「AI」は、神経回路網を模造的に構築して、回路網に発生する電気信号を人間の言葉と論理に対応づけるソフトウェアのことである。つまり「人工知能」とは人間が造った「知能」であるが、実在するのはソフトウェアという成果物、というよりそんなソフトウェアを生み出し得た人間の《知識》。知識こそが実在する抽象的な本体であるというのは何度も投稿したとおりだ。

「知識」は非物質的実在であるから空間の中に観察可能な対象としては存在しない。空間に属しないが、やはり現実に実在する何者かであることに変わりはない。そう言うしかないであろう。

最後に

 「・・・神は今、わたしたちのことも見ている?」  「そうだよ、きっとぼくたちのことも見ている。でも『今』じゃない。神にとって時間は、ぼくたちの時間のようには存在しない。ぼくたちの『今』は神の『今』ではない。ぼくたちにとって数週間が過ぎることは、神にとっても数週間が過ぎることを意味しない」

「神」を美術作品によって表現することは不適切であるし、そもそも不可能であるというのは、ユダヤ(セム語文化圏)の伝統に近いキリスト教東方正教派、イスラム教では現代でも守られている立場だ。

「神」や「浄土」という宗教的概念は、感覚を超えて理性だけで理解されうる存在で、いわば「四次元の時空間宇宙」や「多次元の超ひも宇宙」のような対象であるはずなのだ。日常的な勤行で目にする仏画やイコンは、神や浄土の似せ絵ではなく単なる「記号」であって、例えば微分記号や積分記号のようなもので、それが何を意味しているかを理解して初めて意味をなす。この辺のことも最近の何度かの投稿で書いた。

ただ、法然上人が『一枚起請文』でいう
唐土我朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候そうらわず。
この下りは日本仏教の革命的精華だと思っていて、小生のような典型的な「凡夫」にも心の平安を得ることが可能な道を開いてくれたという点で、これまた普遍的宗教だと思っているのだ。


それにしても『ソフィーの世界』でも時々登場するノルウェーの、ソフィーは15歳だから中学校になるのか、その授業風景や宿題の内容には感動を通り越して、日本の小中学校との隔絶ぶりに愕然とするほどだ。
覚えさせるよりは自分で考える習慣を身につけさせる。

日本の学校教育とのあまりの違いに驚くほどだ。 

義務教育の使命は、出来るだけ多くの国民に《自分で考える》ことの重要さを伝えることにある。これが正真正銘のオーソドックスな路線というべきだろう。

同じ知識を共有し、同じ常識を共有することを目標とするのも確かに一つの行き方だ。国民的一体感を実現しやすいという利点もある。

しかし、世界の中で相対的に貧困化しながら国民的一体感を維持する義務教育には、そもそも大した価値はないのではないか? 

国民が相対的に貧困化しても、日本文化と天皇制を守り続けるためには一体感が必要なのだ

(そんなことはないと思うが)日本国の中枢はこんな風に考えているのだろうか?

「国家」というのは、国民がともに豊かになるなら統一的な学習を強要しても理屈は通るが、現代という時代はもはやそうではない。

自分で考えることが自分を救うことにもなるという時代、義務教育で教えるべき知識を「国」が定める方式は、もう正当性を失っているというべきだろう。

2026年3月9日月曜日

断想: 道理は君命や民意に優越する

 トランプ大統領が「イスラエルに唆されて?」対イラン軍事攻撃に踏み切った動機は(ほゞほゞ確実に?)今秋に予定されている中間選挙であるという巷の憶測は、小生もたぶんそうなのだろうナアと思っている。

何度も投稿してきたことだが

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

世界中で地域紛争の種を探しては、これに介入し、自分の政治的地位を自国内で高めて選挙を有利にしたいというタイプの行為は、国際平和のためにも《それ自体が戦争犯罪》として認定してほしいものだ。 

この意味では、プーチンもゼレンスキーもトランプも、更にはロシア=ウクライナ戦争勃発時のジョンソン英・元首相も、もちろんイスラエルのネタニヤフ現首相も、一人残らず戦争犯罪を犯しつつあると観る立場に小生はいる。


《普通選挙》は自国が民主主義国であると主張するための最重要な必要条件として理解されている。確かにこれは近代以降の世界の常識だ。しかしながら、この認識は市民革命から参政権拡大、民主主義の浸透という政治的プロセスと、資本主義経済の持続的成長という経済的プロセスが、相互にシンクロして進んできたという最近200年間の経験から得られた《社会科学的仮説》に過ぎない。

(何度も投稿してきたことだが)実際には、古代ギリシア世界においては民主的なアテネが腐敗、没落し、その後にギリシア語を使う広大なヘレニズム文化圏を築いたのは専制的なアレクサンドロス大王とそれを継承したヘレニズム国家であった。ヘレニズム世界の中で東西の文化は溶け合い、自由で広域的な貿易が発展し、かつてない豊かな社会が実現した。また古代ローマがいわゆる《Pax Romana》(=ローマの平和)を実現したのは、民主的な共和制ローマではなく帝政に移行した後のローマ帝国である。ローマ帝国の歴史的評価は周知のとおりだ。

多くの国民に豊かで自由な暮らしを提供できる国家は、政治体制が非民主主義的であるとしても、国家の中身は十分に《民主的》であると、小生には思える時がある。


民主主義国において

民意に勝る意志はない。民意こそ正義である。

と自惚れる姿勢は、専制君主国において

王の意志こそが神聖であって、これに勝る正義はない。

と自惚れる王の姿勢と瓜二つである。

どちらも

道理を無視して愚かな人間(たち?)の意志を神聖視する

という根本的誤りを犯している。

世論調査は「暮らしと経済」が最も切実な要求であることを(ほぼ常に)示している。この当たり前の事実を徹底して理解しているマスメディア企業は驚くほど少ないようだ。

愚人が権力を行使するほど怖いことはない。


《道理》は、つまり感情や欲望ではない《理性》が求める道は、民意であれ、君命であれ、あらゆる人間の意志や希望に優越するものでなければなるまい。

人の心の働きで、ただ一つ時代や国を超えて不変であるのは、理性だけである。だからこそ、理性は数学や自然科学にとどまらず、モラルや信仰においても人間社会に有益な道理を示しうると考えられてきた。西洋の哲学だけではなく、インド、中国でも理性、知性に対する信頼は文化の根底として揺るぎがなかった。

いまエリートへの反感と理性への信頼喪失がシンクロして進んでいるのだとすれば未来は暗い。


2026年3月4日水曜日

ホンの一言: トランプ大統領の深層心理を読み切れるネタニヤフ首相は面目躍如・・・

 数日前にsubstack.comから届いたKrugmanの投稿にはこんな下りがあった:

But because America wasn’t suffering a Germany 1932 or Russia 1998-type crisis, it was impossible for Trump to deliver rapid economic improvement – that is, it would have been impossible even if he were competent (which he isn’t). So his efforts to consolidate power aren’t succeeding the way he and his fellow authoritarians expected.

しかし、アメリカは1932年のドイツや1998年のロシアのような危機に見舞われていなかったため、トランプが急速な経済改善を実現することは不可能だった。つまり、たとえ彼が有能であったとしても(実際にはそうではないが)、不可能だったのだ。そのため、権力統合に向けた彼の努力は、彼自身や彼の仲間の権威主義者たちが期待したような成果を上げていない。

On Wednesday the historian Tim Snyder, who is an expert on the grim history of Central and Eastern Europe, published a post titled Fascist Failure about the Trump administration’s lagging attempt to bring fascism to America. For now, I will be more cautious and say that American fascism is faltering rather than failing. But the power grab is clearly not going according to plan. Why?

水曜日、中央・東ヨーロッパの悲惨な歴史の専門家である歴史家ティム・スナイダー氏は、「ファシストの失敗」と題した記事を掲載し、トランプ政権によるアメリカへのファシズム導入の試みが遅れていることを批判した。今のところは、より慎重に、アメリカのファシズムは失敗というよりはむしろ弱体化していると言うことにする。しかし、権力掌握は明らかに計画通りには進んでいない。なぜだろう?

First and foremost, the determination and courage of ordinary Americans — in utter contrast with the craven surrender of much of the elite — has been crucial. But there are also structural factors that have helped the resistance.

まず第一に、一般のアメリカ人の決意と勇気が決定的な役割を果たした。エリート層の卑怯な屈服とは全く対照的である。しかし、抵抗を支えた構造的な要因もいくつかある。

Snyder emphasizes the lack of a good enemy against whom Trump can mobilize the nation. It’s a fair point. 

スナイダー氏は、トランプ氏が国民を動員できるような強力な敵がいないと強調している。それは正当な指摘だ。

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-economics-of-faltering-fascism

Author: Paul Krugman

Date: Feb 27, 2026 

不法移民の摘発を担当してきたICE(移民・税関捜査局)の失態。エプスタイン問題の深刻化。インフレ高止まりに雇用悪化と経済状態も悪い。何より中国との関税戦争に敗退したことが大きい。それに相互関税の違憲判決。この秋には中間選挙もある。あと2年余りもト大統領が仕事を続けられるイメージがわいて来ない。修羅場だ。さぞ焦っていたに違いない。

どうやらトランプ大統領は《国民を動員できるような強力な敵 》を見つけたようだ。

イランがいい。

敵がいないなら作ればいい・・・そんなト大統領の心理を読んだイスラエルのネタニヤフ首相の政治勘には動物的なものがある。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発した頃に投稿したときはこんなことを書いた:

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これを思い出した。アメリカのトランプ大統領も同じであったようだ。 

専制君主は、選挙がないので国民の人気向上を目的にカネのかかる戦争など、そもそもする動機がないという理屈がある  ―  その代わり、プライドやら領土欲やらで勝手に戦争をしたりするので、どちらも良し悪しである。しかし、賢臣に支えられた君主制ほど安定した統治はないというのは、プラトンが『国家』で展開した議論に通じるものがある。


2026年3月1日日曜日

断想: 「天皇制」と「民主主義」はそもそも矛盾しているわけで・・・

 高市総理の経済政策や外交政策にはとうてい賛同できないが、対皇室姿勢だけは共感できるという点は、最近何度か投稿してきた。

巷では

「愛子天皇」を「世論」が望んでいるにもかかわらず、男系男子を皇位継承者として優先する姿勢は、高市首相は本当に保守派なのか?愛国者なのか?

こんな批判が結構出てきている。

マア、人は色々だから・・・とは思います。


ずいぶん以前から投稿してきたが(たとえばこれ

そもそも天皇制と民主主義とは両立するはずがない。

このロジックを否定できる論理は、屁理屈はともかくとして、ないと思う。

戦後日本においては、全ての日本人は平等にして、自由かつ基本的人権を有している。その中で、皇族は極めて例外的な位置を占めている。これこそ先ずは矛盾というものだろう。


皇位は《世襲》によって継承される。《世論》によって次期天皇が決まるわけではないし、もし世論によって次期天皇を決めるのが適切なら、皇族を対象とする《人気投票》を実施すればよいという理屈になる。

自分に人気があるのかないのか、新たな天皇が知っておくのは悪いことではないが、(国民にとっても?)『知らぬが花』というものがある。人気があるのもあだ花、人気がないのも寧ろ滋味があってよろしいという見方もあるだろう。

天皇は《国家元首》とは規定されていないが、国際的には日本国の元首として受け止められている(ようだ)。マア、戦後日本では「象徴」とされているが、やはり実質的には「元首」なのであろう。

世論によって元首を決めたいという立場に立つなら、対象を皇族に限定せず、最初から《大統領制》を主張するほうが、よほど民主的であり、論理的にもスッキリする。そうすれば、当の皇族の方々も肩の荷をおろして、安堵されるであろう。日本第一の「名門」として、自由に家系をつないで行かれるのがよいと思うし、そもそも「皇室典範」なる法律は作るべきではなく「皇族会議」で私的に決めればよいはずのことであった。

もし日本国でいずれ将来「大統領選挙」が行われるとして、そこで「男がイイ」とか、「女にするべきだ」とか、政治家としての能力をそっちのけにして、性別ばかりを語る人物がいれば、多分、知的水準(痴的水準?)を問われるに違いない。


大体、「皇族」とは「皇統」という概念をベースに定義される「特定かつ例外的な人物集団」を指す。その「皇統」の定義は、全歴史をみれば色々な学説もあるようだが、文書に残る日本史に限れば、「皇統」の定義は完全に確定済みと言ってよいはずだ。いま昭和敗戦後に西洋から輸入された理念に基づいて「皇統」を定義しなおすなら、同じ「天皇制」でも別の「令和天皇制」と呼ぶべき新たな制度になる理屈だろう。たかが、と言っては語弊があるが、今さら「伝統・天皇制」を廃止して、「新・天皇制」をこの国に樹立する意義があるのか?そんな意義はゼロだと思うが、極めて重要だと本気で考える御仁はどの位いるのだろう?いたずらに、無駄な対立を招くだけの愚行であると思うが・・・。

「天皇制」は平等を原理とする民主主義社会には、最初から馴染まない要素であるとしか言いようがない。明治維新以前の日本においては、中国を模範とした「律令」の規定とは別に日本独特の「令外官」が置かれており、関白などのポストもいわば「例外的な官職」であった。結果としてうまく行ったので置いた。いわば功利主義的な措置であって法理からは外れているわけだ。その意味では、戦後日本における天皇は理念とは相いれない「令外の地位」であると、小生は思ってきた。何もそれで問題はないはずだ。

戦後日本の民主主義において、憲法に天皇を定めるのは、最初から無理な相談であったと小生は理解している。

大体、「象徴」とは何ですか?国家元首とするわけにはいかなかったのか?

そういう事であります。


戦後日本体制の中の非民主主義的な要素として、《総家元》というか、日本の伝統文化として受け入れるしか天皇制を維持する根拠はない。

《西洋的な民主主義の失敗》がこの日本で余りにも明白になったとき、日本が戻るべき原点として天皇制を守ることには、一定の意義があるかもしれない。言えることはその位だろう。

大体、室町時代中期以降、「天皇(=ミカド、お上」の権威はほゞほゞ100パーセント崩壊していた。江戸時代においても幕末まではほゞほゞ同じ事情であった(はずだ)。

「皇室」を議論することで日本社会に混乱が生じるなど、文字通り『しっぽが胴体をふる』ようなものである。愚かだ。


とはいえ、日本国において天皇家は古代から続き神道、神社とも神話的つながりが深く、極めて宗教的な性格も併せ持っている。それ故に、近代西洋の民主主義の観点から合理化しようとしても土台無理な話しである。

成文憲法の存在しないイギリスを手本とするのが理想だが、例外規定を認め憲法を骨抜きにするか、そうでなければスウェーデン王室のように一切の「国事行為」を行わず、純粋に儀礼的な存在として規定しなおし、その代わりに一定の私的自由を保証し、伝統のままに家系を維持するのが戦後日本がとりうる唯一の道だろう。

【加筆修正:2026-03-03】

2026年2月21日土曜日

断想: 駐留米軍から「日本の司法」は信頼されているのだろうか?

 先日の衆院選関連の余波だろう:

2月に行われた衆院選で、選挙運動の報酬として運動員に現金を支払った疑いで、国民民主党から立候補していた候補者らが警視庁に逮捕されました。

Source:YAHOO! JAPANニュース

Original:FNNプライムオンライン

Date:2/21(土) 7:45配信

一体いくら払ったのかと読んでみると、

大学生5人に現金あわせて27万円を支払った疑いが持たれています

と・・・マア、27万円でも公職選挙法違反であり、別の表現をするなら《不正選挙》があったということになる。

しかしながら、この国民民主党の公認候補は落選しているのだ。

落ちた人には厳しいネエ・・・当選した国会議員には甘いけど

こんな感想です。

これから取り調べが行われて、送検され、検察が起訴するかどうかは分からないが、たった(?)27万円で公判を開くか?

マア、検察にとってはめんどくさいだけだろうから、起訴猶予とか、不起訴になるのではないかネエと思います。

日本では刑事捜査は、欧州大陸法を継受していることから、キャリア検察官が主導、指揮することになっている。起訴・不起訴の判断も担当検察官の専任であるというのが建前だ。そして、日本では裁判所による予審は廃止されたので、いったん起訴された被告人は刑事裁判において99.8~99.9%は有罪判決が下される。

つまり、よく言えば

日本の刑事裁判は(実質的に)検察官が支えている。検事がもつ秋霜烈日の精神こそ日本の正義を実現しているのだ。

こんな言い方になるし、実際にマスコミも(検察、更には官邸が怖いのか?)そう観ているようだ。

一方、悪く言えば

日本の刑事裁判担当の判事は(量刑はともかくほゞほゞ)検事の言いなりに判決文を書いている。

換言すると、刑事事件の裁判は検事による取り調べであらかた決着はついているわけだ。にも拘わらず、検事による「公判前の実質的予審?」において 弁護士の同席は認められていない。

極論すると、弁護士不在で検察庁内で「実質的裁判」が行われ、公判では検事の主張がほゞほゞ通っているのだから、

日本の司法は非民主的である

こんな理屈にならざるをえない。

たとえば沖縄県で事件を起こした米兵を日本の裁判の被告人とすることに米軍当局が、というかアメリカにいる容疑者家族というべきか、かなり消極的である理由の一つは、明らかに日本の司法に対する不信感があるからだと推察され、もしも可能なら幕末から明治時代初期のように米人容疑者に対しては《領事裁判権》、つまりアメリカ大使館内に設けられるアメリカ式の法廷で有罪・無罪の判断を行いたい。これがアメリカの本音ではないかと憶測する次第。

当の日本人が

世界に冠たる公正な日本の司法

こんな夜郎自大的な自己肯定を持ち続けている現状は信じがたいところがある。

「但し」を付け加える必要がある。裁判所の「予審」は司法の独立性を守るかという問いである。欧州大陸諸国では検察官が刑事事件の捜査を主導するが、捜査段階における検事の主導性に対して、予審判事の吟味が司法の中立性を担保する。「予審判事」の司法権限は不可侵で国家元首ですら怖れる存在である(と聞いている)。

しかしながら日本には日本の事情があった。戦前の「帝人事件」は検察による「誤起訴」、というより「でっち上げ」の典型例としてよく参照されるのだが、戦前であるから裁判所による「予審」は行われていたのである。

検察から起訴された刑事事案は、日本の司法がお手本にしたフランス、ドイツの制度に則して考えると、すべて裁判所の予審判事によって、証拠の客観性、十分性などが精査される。なので、警察・検察の捜査結果がそのまま司法の結果につながるという可能性は理屈上ないわけである。

ところが「帝人事件」では、裁判所による予審が機能しなかった。事件はまったくの「でっち上げ」であることが、本審である「公判」において明らかになったのだから、

日本の予審はなぜ機能しなかったのか?

こんな疑問が沸き起こったのは当然だ。それがひいては戦後の刑事訴訟法改正にまで尾を引いてしまった。裁判所の予審が機能しなかった理由をChatGPTに質問してみたが、その一部を引用しておこう。

なぜ予審は機能しなかったのか?

歴史研究では、いくつかの説明があります。

① 当時の予審は「強いチェック機能」を必ずしも持っていなかった

形式的審査に近かった

検察資料への依存が強かった

② 世論圧力

「大疑獄」報道

政治情勢の緊迫

③ 供述依存構造

自白・供述中心の立証

結果として、

予審段階では排除されず、公判で全面無罪

という流れになりました。

戦後になって裁判所の予審制度は廃止され(検察審査会の強化があったにせよ)現在に至るが、概ね日本の刑事司法は検事主導の戦前の香りを色濃く残しているというべきだろう。その検事は、内閣の指揮のもとにある。その内閣は国会の統制下にあり、国会は(実質的に)自民党の支配下にある。

この構造あって、この司法あり、現在の政界の実情があるわけだ。

憲法改正といえば「9条」ばかりに目を向けているが、憲法9条に「自衛隊」という語句を明記しようが現行のまま放置しようが、現実はほとんど変わらないだろう。

それに対して、司法の在り方を(高市首相お好みの)根本から変革すれば、国際社会が日本の民主主義に寄せる信頼感は飛躍的に高まるに違いない。たとえ(ないことを望むが)米兵が関係する刑事事件が発生したとしてもアメリカ政府は日本の司法を信頼して捜査、裁判に(喜んで?)米兵を委ねるであろう、というより容疑者本人もまた日本の司法の公正さを信頼して、自国の法廷と同じ度合いで自らの罪と向き合うに違いない。

昭和時代とは比較にならないほど豊かで便利な生活を現代日本社会は実現している。にもかかわらず、何とも言えない閉塞感があるのは、単に低成長や格差拡大、社会保障不安などの経済要因だけがもたらしているわけではない(と思う)。

経済も経済だが、それより

強きは救い、弱きを罰する。トップには甘く、下には厳しい。中枢には「目こぼし」があり、現場や末端には秋霜烈日。そんな社会のどこに《正義》や《公正》があるのか?

こんな社会心理が意外と重いのではないか。与党の重鎮は真っ黒である。野党議員は失業を怖れて保身を願うだけ。司法もまた上のとおり。閉塞感の根底には怒りあり。こんな現代社会観をいまもっているわけだ。

司法の強さ、ここでいう司法とは裁判所のことだが、それは社会の健全性の象徴である。

そう思うのだ、ナ。


高市旋風は《与党内アウトサイダー》ゆえに吹いたのであろう。ポピュリズムはポピュリズムだろうが、道義のある社会には決してポピュリズムの風は吹かないものだ。ということは

ポピュリズムの風が吹くのは、それだけ社会から道義が失われているからだ。

こんなロジックになる。ポピュリズムを批判するのは《一見、専門家風》だが、なぜそうなるかを洞察しなければなるまい。

いま思い出しているのは、ずっと昔に投稿したナポレオンの名句だ。

Man muss stark sein, um gut sein zu können 

人が善であるためには強くなければならない

弱い人間に《道義》を期待するものではない、というより期待しても「背に腹はかえられません」というだろう。とはいえ「弱者の気持ちに寄り添う」、これだけをやっていると、社会から善悪のけじめ、道義がなくなるというものだ。

どんな状況であっても、太陽だけではない、北風もまた必要なのである。

そう感じている次第。

今日はこの辺で。

【加筆修正:2026-02-24】