2026年9月2日水曜日

断想: 古代インド思想で《仏》の本性が議論された源は?

 先日の投稿では

高市内閣の経済政策は《ケ・セラ・セラ戦略》に該当する

と述べた。要するに、『明日は明日の風が吹く』("Tomorrow is another day.")という感性で、名画『風と共に去りぬ』の終幕、南北戦争に敗北したあと、全てを失って故郷の農園・タラに戻る主人公・スカーレット=オハラが、この言葉を口にして前向きに生きていこうと決意する場面は大変有名だ。

高市早苗首相と焼け野原の故郷に佇むスカーレットと、どことなく似ているか?

ま、こんなイメージもあってよいかもしれませぬ。


今日あたり、食料品に対する消費税減税の財源を法人税増税に求める話しがTVでされていて、

何も考えていないわけではありません

と、どうやら企業に逆風が吹き始めたという状況だ。でも、マア、これからの話しである。ベッセント・米財務長官は、明らかに財政拡張には反対している考えのようであるし、日本の財政政策の先行きは、まったくの五里霧中といった所である。

知識なき闇の世界、即ち「無明」を照らすために、色々な学問分野があり、経済については経済学が(曲がりなりにも)使える状態であるにもかかわらず、「知識」なるものを軽蔑するのであれば、そりゃあ「五里霧中」にもなるし、ケ・セラ・セラにもなりましょうて・・・という感覚で観ているところである。

俗世間のことはさておき、こんな事を思った。

というのは、小生が属する宗派で日常的に読む『三宝礼』のことである。具体的には

一心敬礼 十方法界 常住仏

一心敬礼 十方法界 常住法

一心敬礼 十方法界 常住僧

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうぶ

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうほう

いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうそう

これが日常勤行式の二番目に読まれる。趣旨はいわゆる「ブッポウソウ」、つまり仏と法と僧の三つは「三つの宝」(=三宝)なのだから、大切にせよ、と。公式の解説も大体同じ内容だ。

実は、ずっと月参りで聴いてきたときも、自分でも読経するようになった最近においても、小生はこの「三宝礼」というのは実に退屈に感じていたのだ。


それが変わったのは、読経の習慣ができて経典の文言を自分なりに解釈するようになってからだ。三宝来もその一つだ。今日はそれをメモしておきたい。

最後の《僧》だが、これは「知識」を表すのだろうと思うようになった。これを「僧」と言うのは、仏道の経典であるからだ。僧は仏道の知識が人の形をとったものだ。

二番目の《法》だが、これは「道理」、「法則」、「真理」といった意味であろうと理解するようになった。もちろん仏道において、ここで「法」というのは「仏の教え」という意味に決まっている(はずだ)。小生はもっと広く理解したい。上の「知識」とは「法」に関して獲得されるもので、無尽蔵の法の中のごく一部分を人間は知識として得るのである。

「法」は「知識」を超え、「仏」は「法」を超える。いまではそう考えるようになった。逆に言うと、知識は法の一部であり、法は仏の一部である。つまり、一番上の《仏》は法を超えるもの、法の以前に実在するものである。

仏教では永遠の最終的実在として「仏」という漢字を当てているが、要するに「純粋知性」というべきものだろうと今は理解している。知性は法の源である、と。そんな宇宙観なのだろうと思う。ヘーゲルなら「世界精神」と言うだろうし、仏道では「法身」と呼ぶこともある。プラトンならイデア(=理想世界)をイメージできる「理性」と考えるであろう。人間が感覚的に観察する科学法則は、宇宙の法が可視化された結果である。観察される現象に形式と秩序を与え、法則として宇宙を理解するのは、理性の働きそのものである。

このブログでも何度か書いているが、人間の持っている能力というか、働きの中で、たった一つ「理性」だけは、全ての人に共通の形式で働く。感情や価値観、信念は個々人ごとに違うが、理性だけは共通、同一の仕方で考え、論証し、結論を出せるのである  ―   でなければ、人類共通の数学や論理学が成立するはずはない。

ただ、こう書くと、「法」を超える窮極的実在に関して、非常に西洋的に考えていることになる。仏道の世界は理論物理学の宇宙観とはまったく違っている。仏がいる世界には、因果律とともに、因と果を見通した目的もある。つまり善と悪の行為がある。

古代インド思想の何よりの特徴は、仏・法・僧の二番にある法の中に《輪廻転生》を真理として置いてあるところにある(と勝手に思っている)。当然だが、輪廻転生は仮説であるし、現代科学に染まり切った現代人なら「空想」であるとも言うだろう  ―   現代科学主義の根底にある唯物論もまた一つの荒唐無稽な空想であるというのは既に投稿した。

仏道に限らずインド思想では、「輪廻」を仮説でなく当然の真理として最初から前提している。生命あるもの(=衆生)は、この世界で何度も生まれ変わり、死に変わりしながら、ずっと一つながりの命として存在し続ける。生と死は物質的身体を与えられた個々の生物体の一時的状態に過ぎない。命は恒常的にあり続け、生は物質的身体をもっている状態、死は物質的身体をもっていない状態、というわけだ。

この「輪廻」を認めるのであれば、輪廻現象を含んだ諸法則の源である窮極的存在とは、一体どのような属性をもつはずのものであるか?

確かにこの問題は基本的であったに違いない。

同じ問題を問題としてとりあげた西洋の哲学者は(不勉強のせいもあって)知らない。

輪廻の仮説性は否定できない。とはいえ、一度それを認めると、宇宙は「生命」と「非生命」に二分される。物質に生命を生む潜在的可能性が含まれているかもしれないが、そんな素粒子の存在は聞いたことがない。生命は非物質であるとすると、宇宙には非物質と物質の二つが存在することになる。

では、そもそも非物質の命とはなぜ宇宙にあるのか?

そんな疑問が出て来る。生命は、物理化学的には自己組織化であり、エントロピー増大法則に反する現象である。なぜ宇宙には例外的な現象があるのか?なぜ生命はあるのか?

命(=衆生)には目的がある。とすれば、目的を設定する存在を認めなければならない。

窮極的実在は、命(=衆生)を愛し、憐れむという本性をもっているに違いない。

最終的実在を《仏》と呼んで、仏とはどのような本性のものなのかについて、哲学的な思弁を展開した古代インド哲学者(と宗教家)のモチベーションが、何となくにせよ、分かる気がするようになった。


その意味で、日常勤行式の「三宝礼」は、案外深い意味を持っている、と。今ではそう思っている  ―   ごくごく最近からだが。

以上、覚書まで。