小生は経済学部からビジネススクールへ横方向へ移籍した口である。移籍当初は経済学の感性と経営学の感性と、学問分野の違いばかりではなく、授業を教えている教員たちの感性までもが何故これほど違うのか、と。しばらくの間は、まるで文化大革命の渦中に投げ込まれたような違和感に満ちた毎日を過ごしたものである。
しかし、今になって振り返ってみると、ビジネススクールで仕事をしたおかげで、データ解析を担当した小生の問題意識も大いに啓発され、新しい方向へ研究を始めることが出来たのだから、結果的には良かったと思っている。
21世紀に入って何年か経った頃だったろうか、外部評価で評価委員が来学したことがあった。その最後に指摘された課題として
カリキュラムに「企業倫理」に関連した科目が含まれていない
そんな助言、というか要請があったことをまだ覚えているのだ、ナ。
経済学から入った小生にとって、企業は法人であり、倫理意識など持てようはずはないわけであったので
何をチバケタことを・・・
と呆れる思いがしたことをまだ覚えている ― 「チバケタ」と書いたのは、その時の感想をそのままに書いているもので、岡山県に勤務したことがあった名残である。
つまり、「企業倫理」などと言う概念が存在する余地はなく、あるとすれば「経営者倫理」だけである。そんな理屈であった。
その後、長い時間が経ってみると「企業倫理」なり「ビジネス倫理」という言葉は、日本社会でも何だかそれなりに定着した感じで、要するに
儲かるなら何をしてもイイわけではない。
これを言いたいのであろうと、大体は察しがつくようになった。何をしてもいいわけではない、つまりそこには「規制」がある。法的な規制があるし、法的には合法でも倫理上の規制があるはずだ。いわゆる《コンプライアンス》という言葉がここから派生してきた。
最近なにかというと「葵のご紋」のように振りかざす人が増えた「コンプライアンス」、最初は企業倫理の方面から、だんだんと拡大、流布していったということか?
こんな「事ども」を思い出すことがあったので、試しにChatGPTの見解を聴いてみることにしたので下に引用して覚書としたい。
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質問したのは先ず以下の質問だ。
コンプライアンスという言葉は20年程以前には使われていなかった記憶があるのですが、最近のように強調されるようになった具体的な契機や発端があったのでしょうか?
回答は思った通りだった:
「コンプライアンス(compliance)」という言葉自体は以前から英語にはありましたが、日本で現在のように「企業経営の最重要課題」の一つとして盛んに使われるようになったのは、1990年代後半から2000年代初頭です。その背景には、いくつかの大きな出来事が重なっています。
1. バブル崩壊後の企業不祥事の続発
2. アメリカ企業統治の影響
3. 日本版SOX法(=サーベンス・オクスリー法)の制定
4. 「法令遵守」から「企業倫理」へ
「サーベンス・オクスリー法」の登場で、企業の内部統制と法令遵守を厳しく求める世の流れが確定した。
その法令遵守が次第に拡大解釈され、「適法か違法か?」という法律論から、いまは「適切か不適切か?」というグレーゾーンにまでコンプライアンスという言葉が使われるようになった。大雑把に整理するとそういうことのようだ。
そして今では
- コンプライアンス委員会
- コンプライアンス室
- コンプライアンス研修
ちょっとした企業なら上のようなセクションなりコースが開設されているはずだ。
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何かのトラブルがあれば、何かの原因がある、というより「あらねばならない」。その原因は、仮に法律違反でなくとも、(何らかの意味で)不適切である。どんな意味で不適切なのか?それは法律なり、法律がなければガイドラインなり、内規なり、探せば必ず見つかる(はずだ)。なければ新たに文章化して不適切にすればよい。つまり現実にトラブルが発生しているなら、関係者の言動に何かノン・コンプライアントな要素があったからである。そういう事にしよう。
トラブル ⇔ ノン・コンプライアンス
これが現代経営を支配する黄金律なのだろうと観ている。
まるで仏教である。仏道では「四苦」を「生・病・老・死」としているが、死の苦しみの原因は、即ち生まれたことそのものである。そこから全ての議論が出発する。(宗教としては)間違っている議論ではない。
問題解決には因果分析がなるほど必要だ。悪因悪果、善因善果。不適切な原因を排除すれば望ましい結果が得られる。とはいえ、これで安心するなら、まるで因果応報論の焼き直しである。
この極めてシンプルな論理に自らが苦しめられているのが当の我々ではないかナアと感じているのは小生だけだろうか?
生産現場、活動現場は因果律では動いていないのだ。人間は因果論ではなく、目的論に立って観察されるべき存在である。
〇〇したからこうなった。ではなく、〇〇したいから、こうした。
活動には目的がある。トラブルは排除するべき不適切では決してない。目的を追求する中では、何らかのトラブルはほぼ必然的に発生するものである。トラブルの根本的原因は、過去の時点にあるのではなく、目的を定めたこと自体にある。もし目的が絶対のものであるなら、付随するトラブルは半ば必然的。解決するべき問題として認識されるのである。
トラブルは改善への一里塚
それが人間行動である。こんな言動をしたことが重要なのではなく、何をしようとしてその言動をしたのか?意図と動機が人間行動の本質である。
外観だけに着眼して、一挙手一投足に是非の判定を下したがるのは、人間社会を《ゲーム》と錯覚している御仁の通弊である。
モノづくりを経験知として知っていた世代なら、不適切な原因がありトラブルが発生したという順とは反対方向からも考えられるはずだ。そもそも何が不適切かという判定は目的設定に依存して変わるものである。
モノ作りではなくて、サービス、つまりは「おもてなし」をコアとする現代日本の活動現場では、トラブル自体が単なる不祥事になってしまったようだ。
「改善への一里塚」から「単なる不祥事」へ
「失敗は成功の母」であるのに何という転落ぶりだろうか?しかし、アスリートでもない、クリエーターでもない、アーティストでもサイエンティストでも何でもない、いわゆるスキルとは無縁の人たちが活動する現場においては、トラブルは未熟からの成長の一過程とは認識されず、単なる無能としか観られない。成長するべき何物もない以上、トラブルは取り除くべき不適切な因子の存在を示唆するのである。
マルクスは「労働力の商品化」をもって「人間の自己疎外」と理解したが、「コンプライアンス」という言葉に支配される現代日本社会の「働く場所」に蔓延しているのは、文字通りの
働く人たちの自己疎外
である。浸食されているのは、被雇用者だけではなく、自らが造った言葉と観念に逆に支配されている経営者も同じである。
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コンプライアンスとは元来は「法の尊重」を指す言葉だった。それが「不適切の排除」という意味に拡大してきたのが、この10年程の間の現代世間史と言えるだろう。この辺にも言及しているから、ChatGPTの回答は平均以上の出来栄えを示している。
興味深いのは、コンプライアンスの意味が変化していることです。
もともとは
法律を守ること(法令遵守)
という意味でした。
しかし現在では、それだけでは不十分と考えられ、
- 社内規程を守る
- 倫理規範を守る
- 利益相反を避ける
- ハラスメントを防止する
- ESGや人権に配慮する
といった広い意味で使われています。
《トラブル、即ち不適切》という思い込みは、創造とモノづくりの現場を忘れた現代日本の精神的退廃であろう。正に、自らが造った言葉が自らを苦しめる自己疎外の典型的なケースであるというのが、小生の現代世相観である。
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次いで、以下の質問をした。
個人的には、潜在的エネルギーが社会的な活力になるように法制度は柔軟に修正していくものだと考えています。現時点の法制度を所与として、法を順守する点を重視しすぎると、むしろ閉塞的な社会状況になると思いますが、あなたはどう思いますか?
あまり良い質問の仕方ではない。これでは答えを誘導している。
案の定
例えば歴史を振り返ると、
- 明治維新では封建的な身分制度や営業規制が大きく改められ、経済活動の自由が広がりました。
- 戦後の農地改革や独占禁止政策も、既存制度を大胆に変更することで社会の活力を引き出そうとした例です。
- 近年でも、デジタル技術やAIに対応するため、新しい事業を可能にする「サンドボックス制度」のように、既存規制を一時的に緩和して実証実験を認める仕組みが導入されています。
つまり、法制度は固定的なものではなく、社会の変化に応じて改正されるべきものだという考え方は、法学や経済学でも広く認められています。
小生が欲しいと思う回答が返ってきた。この回答自体に誤りはなく、正にその通りなのであるが、
社会進歩のためには、苦しむ人は犠牲になるべきだと考えるのですか?
必ずこんな反問に答えなければならない。注射は、同じ人が痛い思いをして、同時に治療効果の受け手になる。利得と損失の差し引き計算は可能だ。他方、社会が進歩するときには、ある人が大きな利益を得て、別の人がそれより小さい損失を蒙る。そんな時、損失を蒙る人は社会の為に犠牲になれというのですか?これでは、神風特攻隊を送り出した軍国日本の日本人と同じ精神ではないか?
この問題意識こそが議論の核心なのである。
次のように回答から逃げているのはAIなるものの賢いところだと思っている。
私が興味深いと感じるのは、ご指摘が**「コンプライアンス文化」への批判**にもつながっている点です。
近年のコンプライアンスは、単なる法令遵守を超えて「少しでも社会的批判を受けそうなことは避ける」というリスク回避の文化にまで広がることがあります。その結果、
- 新規事業への挑戦をためらう
- 前例主義が強まる
- 失敗を極端に恐れる
- 形式的なチェックや書類作成が増える
といった副作用が指摘されています。これは本来の「法令遵守」とは少し異なる現象で、むしろ過剰なリスク回避の問題と言えるでしょう。
コンプライアンス重視が、改革の痛みからの逃避になれば、その企業、その国は衰退するしかない理屈である。
要するに、コンプライアンスを「臭いものに蓋をする経営姿勢」の言い訳にしてはダメだということだ。が、現状は
コンプライアンス重視 = ことなかれ主義
コンプライアンス重視 = 護送船団方式
に堕している。1990年代のバブル崩壊の修羅場の経験を通して、これではダメだと日本人が学習した教訓を、そろそろ忘れ始めているのだろう。
日本社会は、一度は否定できた旧習を新しい言葉で飾りつけ又もや同じ事なかれ主義に戻りつつあるように観える。
とはいえ、こういう事こそ小生が最初から言いたい事であった。言いたい事を先に書いてくれるのは有り難いが、求めていたのはこれをロジックとして整理することであった。
数学の入試問題すら解けるAIだが、社会を肉切り包丁のように解体して、社会問題のロジックを自由自在に再構成してくれるという所までは行かない様だ。